信ずるに足りる光 |
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※本作には残酷な表現があります。 それは凄惨な光景だった。 自宅の奥にある十畳の和室。そこでは、病床に伏している父が一人娘の帰りを待っているはずだった。 末期の膵臓癌に侵され、五〇歳の若さで骸骨同然に痩せ衰えた父だったが、娘が帰宅を告げに来た時には必ず身を起こし、温かい声で迎えてくれていた。 そんな父が、今は布団の上で俯せに倒れている。体の下には真新しい血溜まりが出来ていた。 背が僅かに上下している。まだ生きていると知るなり、叶絵(かのえ)は駆け寄った。 「お父さん!」 「……か、のえ……か」 絞り出すような声だ。見れば背中側の傷口から出血している。おそらく、胸を刃物で貫かれたのだろう。肺を潰されたことで、呼吸もままならない。父は想像を絶する苦痛を味わっているはずだ。 誰がこんなことを。そう考えた矢先、父が叶絵の手首を掴んだ。 「刀を……」 助けを求めるでもなく、犯人の名を告げるでもなく、刀を寄越せとはどうしたことか。確かに叶絵は今、刀を手にしている。居合の稽古で使う為に借りた父の愛刀だ。しかし死が迫っているこの状況で、何よりも刀を優先する理由が解らない。 硬直している叶絵には構わず、父は血塗れの手で刀を探す。ようやく探し当てた刀を引き寄せると、父は何かを呟いた。 傍目には何かのまじないにしか見えない。この行動にどのような意味があるのか。 思考が追いつかない。そこへ突然、父が刀を叶絵の前に突き出した。 「……に、げろ」 この刀を持って逃げろということか。だが何故? 逃げなければならない理由とは―― 「行け! 早く!!」 生死の境にある人間とは思えないほど鋭い声だった。 びくり、と体が震える。まるで落雷を受けたようだ。反射的に刀を受け取る。その時に父と目が合った。 目の焦点が定まっていない。もう視力は失われているのだろう。表情は険しく、苦悶と焦りの色が濃い。このままでは手遅れになるだろうに、父は自分を顧みることなく、娘を逃がそうとしている。 最期の願い、そんな単語が脳裏をよぎった。 叶絵は断腸の思いで立ち上がる。父に背を向けると、廊下で佇む人物の姿に気付いた。開いた障子戸の隙間から見えるのは黒いスーツ姿の男。今しがた叶絵を車で送ってくれた二宮昇栄(にのみやしょうえい)だ。父の配下にある彼は、この家によく出入りしている。先に車から降りた叶絵の姿が見えないので、様子を見に来たのだろう。 二宮の顔は強張っていた。いくら気負いの世界に生きる身とはいえ、この惨状を目の当たりにしては無理もない。 「……お嬢、あんた何やってんだ⁉」 刀を持ち、高校の制服とダッフルコートには血が付いている。それを見て二宮は、叶絵が父に手を下したと解釈したようだ。 まずい。そう思うや否や、叶絵は脱兎の如く駆け出す。二宮の脇をすり抜け、向かうは玄関だ。 背後から手が伸びてくる気配、しかし寸でのところで免れる。苦労して伸ばした黒髪が仇にならなくてよかった。 飛び降りるようにして玄関の土間へ。綺麗に揃えていたローファーを突っ掛け、踵を整えるのももどかしく。叶絵は引き戸を開け放ち、屋外へ踊り出た。 日没間もない頃だ。叶絵は夕闇の中を走る。逃げる当てなどない。ひとまずこの場から離れなければ。 息を切らせつつ、思った。遠ざかっていくのは自宅だけでなく、自分が過ごしていた日常もまた。そしてもう、二度と戻れない気がする。 何故こんなことになったのか。叶絵は涙を拭いながら、今日の出来事を思い返した。 ■ 抜刀、白刃一閃。 試斬用に巻いて立てられた畳表が、半ばで両断された。支えを失った上半分が、ドサリと床に落ちる。館内に居合わせた門下生から、感嘆の声が漏れた。 叶絵は確かな手応えを感じながらも、決められた動作を続ける。 立膝の体勢から立ち上がり、血振り、そして納刀。五歩後退し、最後に両足を揃える。これで完了だ。 「よろしい」 老齢の師匠――初芝森繁(はつしばもりしげ)宗家から惜しみのない拍手が送られた。それにつられて、館内は称賛の拍手と声で満たされる。 途端に達成感が込み上げてきて、叶絵は思わず胸の前で拳を握り締めた。普段ならこんなことは絶対しないのに、今日は格別の気分だったから仕方ない。 上座で一部始終を見守っていた初芝が、切断された畳表に近づく。切り口を撫でると目を細め、こう言うのだった。 「うねりがない。綺麗に斬れとる。刃筋正しく振れとるわ」 真剣での試し斬りは、畳表一本程度なら素人でも切断することができる。しかし綺麗に斬るとなると話は別だ。刃筋正しく刀を振るにはかなりの修練を必要とし、これができないと斬る瞬間に刃がたわんでしまう。結果、刀の寿命を縮めることになるのだ。加えて、筋肉や骨が複雑に絡み合う人体を斬るのは至難の業。実戦で使えなければ意味は無いと豪語する初芝にとって、今日の叶絵の太刀筋は満足のいくものだったようだ。 「どれ、鞘の中を見せてみい」 叶絵は刀を抜き、鞘の中を初芝に見せる。 「どこも削れておらん。ちゃんと〈軸〉で抜いたようじゃの」 抜刀の際、少しでも刃にブレがあると鞘の内側を削ってしまう。これは素早く抜刀しようと焦るあまり、手だけで刀を抜いた時に生じる失敗だ。刀は手で抜くのではなく、体軸の操作によって抜くもの。初芝は常々そう言っていた。 「抜刀、刃筋、所作、いずれも申し分ない。真面目に稽古してきた成果じゃの」 師匠にここまで言われると恐縮してしまう。けれど嬉しさのあまり顔が火照ってしまうのも事実だ。紅潮した顔を見られるのが恥ずかしくて、叶絵は深々と頭を下げた。 「先生のお陰です。ありがとうございました」 七歳の頃、この道場の門下生だった父に連れてこられて以来、ずっと稽古に打ち込んできた。思うような動作ができずに嫌気が差したこともあったが、初芝の温かい指導があったから今日を迎えることができた。 初芝は今年で九一歳になる。令和の時代にあって戦争経験者という貴重な生き証人だが、老いて益々意気軒昂といった様子である。若い頃は修行の為といって用心棒稼業に勤しんでいたそうだが、四〇を超えてからは後進の指導に精を出すようになったという。一八〇センチという高身長ながら威圧感はなく、むしろ好々爺という雰囲気だ。そんな初芝に幼い頃から師事してきた叶絵にとって、この老剣士は祖父のような存在だった。 「ところでお主、歳は幾つになった?」 初芝に聞かれ、叶絵は答える。 「一七です」 「ふむ。十年で〈前一刀〉の初太刀をものにしたか」 〈前一刀〉とは、初芝が創始した流派〈初芝流居合術兵法〉において基本中の基本とされる業(わざ)だ。畳一枚分の距離で向かい合って正座する相手の殺気を感じた瞬間、刀を抜き、それと同時に相手の顔面を水平方向に斬りつけ、更には真向上段から斬り下ろすという状況を想定している。 他流派でも同様の型は存在するが、とりわけ実戦派を謳う初芝流では、最初の右薙を重要視している。それ故、この型の初太刀で試斬を行うことにより、業の習熟度を測るのだ。 「この調子では、儂と立合える日も近いのぉ」 からからと笑う初芝に、門下生の一人から物言いが入った。 「先生、冗談が過ぎます!」 割り込んだのは内弟子の小浦久信(こうらひさのぶ)だ。門下生としての在籍期間が最も長く、年齢も二九歳という年長者。初芝に意見できるのは彼ぐらいなものだろう。 「黒澤はまだ高校生です。立合など、もってのほか!」 黒澤とは、叶絵の名字である。叶絵と命を賭けた真剣勝負がしたいと宣う初芝を、小浦は諫めているのだ。 「そうか? 儂は一五の時にはもう出兵しておったのだが」 「時代が違います!」 小浦は元々張り詰めたような顔を更に険しくする。短く刈り込んだ髪に無駄な肉のない体つきといった外見からも、生真面目な性格が窺える。 「そう怒るでない。頭の硬い奴じゃのう」 初芝は肩をすくめた。小浦はまだ何かを言い足りないようだったが、大人しく引き下がることにしたようだ。 「それはともかく叶絵よ。武彦の刀をよう使いこなしたの。あやつも嬉しかろうて」 叶絵は腰に差した刀を見た。鞘や鍔にはこれといった装飾のない簡素な拵(こしらえ)だが、日頃から地味でいようとする叶絵にとっては丁度いい。これは元々、父が使っていた刀なのだが、当の本人は二度と帯刀することはない。稽古で真剣が必要な時にはこうして父から借りるようにしているのだが、使っているうちに段々と手に馴染んできた。最近では、自分の体の一部と錯覚するほど自在に操れる時もある。その為、近いうちに父から譲って貰おうかと思案していたところである。 「あやつも筋は良かった。今となっては残念だがな……」 初芝の表情が曇った。父の病状が思わしくないことに胸を痛めているのだろう。父が道場に来なくなってから久しいが、今も気にかけてくれているのは有難いことだ。 「だがその分、お主がここまで成長してくれて。儂はそれが嬉しいよ」 「勿体ないお言葉です」 叶絵は頭を下げる。そんな愛弟子を、師匠は穏やかな目で見つめるのだった。 道場からの帰り道。 「いやー、さっきのはホント凄かったねぇー」 隣を歩く友人は、叶絵の試斬にいたく感心したようだ。 「何てーの? 現代に生きるサムライガールってやつ? すっごいカッコよかった」 友人――田井凪沙(たいなぎさ)は芸能人でも見かけたような顔をする。学校が終わってからバイトへ行くまでの暇つぶしにと叶絵についてきただけなのだが、居合の稽古がよほど刺激的だったらしい。 「うん、あれこそクールジャパンってやつだね。最高にロックだったわ」 金髪に化粧バッチリ、ブレザーの制服をラフに着こなした彼女は、やけに興奮した様子で言う。 「叶絵って、見た目そんなんじゃん」 聞きようによっては失礼な物言いだが、女子高生としてのお洒落を最大限に楽しんでいる凪沙にとって、叶絵の風貌には物足りなさを感じるのだろう。 背まで伸ばした黒髪には自負があるものの、それ以外は極力目立たないようにしてきた。化粧はしていないし、制服も規定通りの着方をしている。上着は安っぽいダッフルコート。何なら野暮ったい伊達眼鏡も掛けた方がいいかもしれないとさえ思っている。 「けどさ、道場じゃ全然そんな雰囲気なくってさ。カッコいい。とにかくカッコいい」 大事なことを二度もありがとう、そう思うが口には出さない。 「刀を持ったら人が変わるってことかなぁ。いつもと違う顔が見れて得した気分だわ」 ここまで言われると何だかむず痒い。顔が緩みそうになりながら、叶絵は尋ねた。 「そんなに違ってた?」 「うん。動画あるよ、見る?」 撮ってたのか。初めての見学で勝手に撮影するとは豪胆にもほどがある。 「ほら、これ」 凪沙がスマホの画面を見せてくる。動画が再生されていた。 画面の中では、髪をポニーテールに束ね、濃紺の道着と袴を着た叶絵が正座している。正座から立膝の体勢になると同時に抜刀、一瞬で畳表が両断された。こうして動画で見てみると、自分の動きがよく分かる。技術向上という観点からすれば、稽古の様子を動画撮影するのもアリかなと思った。 しかしその次の瞬間―― 「うわ……顔がニヤけてる」 畳表を斬った直後だ。画面の中の叶絵は、僅かに口角が上がっていた。さすがに稽古中なので自制したようだが、それでも抑えきれなかったらしく、表情に喜びが滲み出てしまっている。更にその後、勝ち誇ったように拳を握りしめて会心の笑みを浮かべる自分がそこにいた。これは何とまあ……はしたない。 自分の醜態に焦りつつ凪沙の顔を見ると、彼女は愛らしい小動物を見つけたような表情になっていた。 「そうそう、これ! カッコいいの次は可愛いかよ。嬉しそうにしちゃってさぁ、こんなの見せられたらガチ恋待ったなしですわ」 言われた瞬間、ぶわぁぁぁっと顔が赤くなり、恥ずかしさが込み上げてくる。 「これさ、ネットに上げていい? 十万再生は堅いと思うんだけど」 「ちょ、駄目駄目! 絶対に駄目っ‼」 全力で拒否する。そんな叶絵を凪沙は悪戯っぽく笑うのだった。 「あーもう、あんたのそういうトコたまんないわぁ。普段は物静かなくせに、いざとなったらカッコよくなったり、かと思えば抱きしめたくなるぐらい可愛くなったり」 動画を見せられた後では否定することもできなかった。 「あのさー、もっと自分を出したらいいんじゃないの? ホントの自分を隠してるんじゃないかと心配になるわ。大体さ、あんた美人なんだし、こんだけ可愛い顔できるんなら男なんか選び放題っしょ」 「いや、そういうのはちょっと」 「なんでー?」 「なんでも」 熱くなった顔を手で扇ぐ。自分が目立たないよう振る舞っているのには、ちゃんとした理由があるのだ。 「中学の時はどうだったの?」 「いや別に……」 「ほらまた出た。叶絵の秘密主義」 そう言われると返す言葉もない。友人に隠し事をしているのは心苦しいが、全てを打ち明けるには勇気がいる。今はまだその段階ではない。 「ま、仕方ないか。話せるようになったら教えてよ。私は隠し事してないつもりだから」 叶絵が自分の素性について詳しく話せないのはいつものことだ。凪沙もそれは心得ているらしい。 「うん」 申し訳ない気持ちのまま返事をする。こんな自分に付き合ってくれる友人に感謝しつつ。 そこから先は他愛もない会話だ。注目しているドラマの話、主演男優のゴシップ、女優のファッションから派生して、ドラマ主題歌の話。喋っているのは専ら凪沙だったが、それでも叶絵にとっては掛け替えのない時間だった。 故あって自宅から遠く離れた高校に進学した。それで中学より前の知り合いが学校にはいない。また自ら人を遠ざけているのもある。というのは、過去に付き合ってきた友人は、自分の素性を知るなり離れていったからだ。そんな苦い経験があったから、高校生となった今では決して誰にも自分の素性を知られてはならないと考えている。 とはいえ、心通わす友人がいないのも寂しい話だ。そんな中で凪沙だけが叶絵の友人でいてくれる。二人して一六八センチという女子にしては高身長なところや、他を寄せ付けない雰囲気(対照的ではあるが)が互いを引き寄せたのだろう。 凪沙の話は音楽から進路へシフトしていた。 「こないだデモ音源送ったらさ、悪くないって」 凪沙がミュージシャンを目指しているという話は以前に聞いた。彼女は軽音楽部に所属し、ギターとヴォーカルを担当している。昨年の文化祭では一年生ながらライブのフロントマンを務め、好評を博したのだった。 「そうなんだ。プロデビューも近いってこと?」 凪沙は首を横に振る。 「んにゃ、まだまだ。ライブの経験をもっと積んでからって言われた」 「ふーん」 そこは居合と同じか。鍛錬を積んで技術を磨かなければ、更なる高みへ行くことはできない。 「やっぱ私、専門学校行こうかなぁ。そのほうが音楽のこともっと勉強できるし、同じ考え方の友達ができるかもしれないし」 凪沙いわく、軽音楽部のメンバーでは意識に差があって上達を望めないのだそうだ。部活ではあくまで楽しさを優先しており、音楽で食っていく気概のある部員はいないという。 「その為にはバイト増やさなきゃ。うち母子家庭だから余裕ないし。もしかしたら学校辞めるかも」 それは困る、と言いそうになるのを堪える。凪沙は凪沙で自分の夢を叶えようと真剣に考えているのだ。唯一の友達を無くしたくないというエゴで縛るわけにもいかない。 「そっかぁ……」 結局、相槌を打つに留まるのだった。 「叶絵はどうすんの?」 問われて叶絵は戸惑った。高校二年生の冬ともなれば、そろそろ自分の進路について考えておかなければならない。しかし自分は何も決めていないのだ。 いや、決められないというのが正しい。そもそも自分が普通の生活をできるのだろうかという考えが根底にあるので、人並みの進路というものが想像できない。 「んー、まだ決めてない」 としか答えられずにいると、凪沙は思わぬ提案をしてきた。 「いっそのこと、居合の先生になっちゃえば? さっきのおじいちゃんも褒めてたし、才能あるんだと思うよ」 「いやいや! 私には無理だよ」 「そう? 美少女剣士が教える居合道場……入門希望者が凄そうだけど。やっぱ動画をネット配信したほうがいいんじゃ」 「だから、それは駄目って言ってるじゃん」 まったくこの友人は。油断も隙もあったものじゃない。 「居合はね、自分を見つめ直す為にやってるの」 「お、セイシンシュウヨーってやつですな」 「……う、うん。まあそんなところ」 実を言うと、叶絵が居合の稽古を続けているのは現実逃避に近いものがある。自分が置かれた境遇を思うと、日常生活を送るにも憂鬱な気分になってしまう。しかし居合の稽古では、同じ動作の反復が基本となるので、黙々と打ち込んでいるうちに嫌な事を忘れられる。稽古をやっている間だけは、一切のしがらみから解放されるのだ。 「それにね、居合はお金儲けの道具じゃないんだよ」 「なんかさー、武道の人ってやたら金儲けには後ろ向きだよね。格闘技なんかは一試合のファイトマネーが凄かったりするのに」 「うーん、大衆向け路線で行くか行かないかの違いじゃないのかな」 少なくとも〈初芝流居合術兵法〉は大衆向けでないと断言できる。今どき、刀を使った実戦を想定している流派なんて、それこそ無用の長物だ。門下生である叶絵でさえ、人を斬ろうとまでは思わない。 話におおよその結論が出たところで、分かれ道に差し掛かった。 「じゃ、そろそろ。私、こっちだから」 凪沙は繁華街へと続く道を示した。彼女はこれからバイトがあるそうだ。 「うん。また明日ね」 「うん、また明日ー」 派手な後ろ姿が街の中に消えていった。 ――やれやれ、今日もか。 凪沙を見送った後で、叶絵は先ほどから自分たちを尾行していた車を振り返った。古い型のクラウンだ。立ち止まった叶絵の近くで、車が停車する。運転席の窓から顔を覗かせたのは二宮だった。 「お嬢、お迎えに上がりました。乗って下さい」 「いい加減、後を尾けるのはやめてくれませんか」 叶絵は不満を口にした。しかし二宮は悪びれずに言う。 「そういうわけにもいきませんのでね。いいから早く乗って」 二宮は父の言いつけを守っているに過ぎない。これ以上は文句を言っても仕方ない、そう考えることにした。叶絵が後部座席に座ると、車は走り出した。 「お嬢にはお嬢の事情があるんでしょうが、こっちは体張ってるんです。あんまり我儘言わないで下さいよ」 元々二宮は、叶絵の存在を好ましく思っていない。彼の野望の前に、自分のような小娘は邪魔でしかないのだろう。 「ただでさえ抗争中なんだ。お嬢が〈義世会〉の手下連中に攫われでもしたら目も当てられない。あんたを人質に取られたら、うちの組は何もかもぶん取られちまうんですよ」 「またその話ですか……」 いい加減うんざりする。叶絵は自分の境遇を心底恨んだ。 日本最大の指定暴力団〈六代目羽山組〉。ここは多くの暴力団の集合体である。組長をトップとして、直参の組を一次団体、以下は二次団体、三次団体と枝分かれしていくツリー構造となっている。その三次団体に〈黒澤組〉というのがあり、ここの組長が黒澤武彦――つまり叶絵の父親だ。叶絵は組長の一人娘なのである。 〈六代目羽山組〉は目下のところ、分裂の危機にある。羽山組を構成する暴力団のうち最大規模の直参である〈義世会〉と、次いでの規模を持つ〈砂川組〉との間で対立が起き、沈静化するどころか激化の一途を辿っていた。 原因は〈義世会〉による要職の独占だ。「上に逆らえない」ことを絶対とする暴力団の世界において、要職の独占は組織経済の掌握を意味する。〈義世会〉に属する幹部――〈六代目羽山組〉の組長が〈義世会〉の出身である為、若頭や本部長といった要職に古巣の組員を就けて組織運営を容易にしているわけだが――が〈義世会〉傘下の組に有利な決定をしてしまうので、それ以外の組は経済的に不利になってしまう。経済的に不利とはつまり、組としての収入が得にくくなるという意味であり、金がなければ上位組織である羽山組に上納金を吸い上げられるだけで、自分の組は存続が危うくなる。例えるなら、売上が伸びないのに上納金を強いられるコンビニエンスストアのようなものである。 これに意義を唱えたのが〈砂川組〉だった。先代の羽山組組長は〈砂川組〉の出身であり、この頃は要職が均等に割り振られていた。よって羽山組を構成する各暴力団に経済的不平等はなかったのだが、六代目体制となり、〈義世会〉はかつての運営方針を覆した。故に従来の運営方針に戻そうとする〈砂川組〉と、現状維持を良しとする〈義世会〉との間で対立が起こり、これらの暴力団によって構成される〈六代目羽山組〉が分裂の危機に瀕しているというわけだ。 叶絵の父である黒澤武彦は、〈砂川組〉傘下の暴力団である〈黒澤組〉の組長だ。当然ながら〈義世会〉とは対立する立場であり、〈義世会〉に仇なす存在だと見なされた場合は襲撃の対象となる。これは組長の家族も例外ではない。 要するに叶絵は、〈義世会〉に命を狙われる可能性がある人物なのだ。それでなくとも人質に取られ、無事解放を条件に〈黒澤組〉の収入源を根こそぎ奪われてしまいかねない。〈黒澤組〉の若頭を務める二宮は、そのことを懸念しているのだ。 「昔は羽振りが良かったのに、今やうちは組員四人の弱小暴力団。アガりの回収に人を行かせたら、あとは組長(オヤジ)と俺しかいない。若頭が車を運転するなんざ、他の組じゃ考えられないことなんですがね」 若頭とは、組長に次ぐ役職である。今は組長の武彦が病床にあるので、実質的には二宮が〈黒澤組〉のトップだ。そんな彼が叶絵の送迎をせざるを得ないこと自体、いかに〈黒澤組〉が危機的状況なのかを物語る。 叶絵とて、目下抗争中であることや組の存続が危ぶまれていることを知らないわけではない。自分が父や二宮の重荷になっているのではないかとさえ考えてしまう。となると、どうしても「普通の日常を送らせてほしい」とは言えないのだった。 「組長さえ、ああじゃなかったらなぁ」 二宮が不満そうに言った。かつて武彦は武闘派で名を馳せ、五代目体制下の羽山組においては〈黒澤組〉を二次団体に昇格させたこともある。しかし内妻――叶絵の母親だ――が病没してからは穏健派に転向した。以来は衰退の一途を辿るばかりで、最盛期に返り咲こうという野望を持つ二宮にとっては好ましくない状況であるようだ。 「俺が立て直してやる。今に見てろ」 これは独り言のようだ。上昇志向の強い二宮らしい決意表明だった。 一方で叶絵は思う。 この男は、自分がのし上がることしか考えていない。組に属する人々や、組員の安否を気遣ってきた父、そして組長の娘のことなど実はどうでもいいのだ。 任侠とは程遠い、ただの虚栄心。そんなものに囚われた男を信用するわけにはいかない。 叶絵は外の景色を見る。 車は閑静な住宅街に入っていた。間もなく自宅に着く頃だ。 帰宅したら、刀を返すついでに父に相談してみようか。 二宮に組のことは任せられない、それならいっそ組を解散してはどうか――と。 膝の上に置いた刀袋が、やけに重く感じられた。 借りた刀を託されるとは、この時はまだ知る由もなかった。 ■ 目覚めた。 一瞬、自分が置かれた状況が分からなくなり、周囲を見回す。 そうだ、ここは公園に建てられた公衆トイレの個室。自宅から逃走した自分は、駅五つぶん離れたところにある都市型の市民公園まで来たのだった。 隠れる場所を探した挙げ句、この個室に落ち着いた。個室に入ったところまでは覚えている。腕時計を見ると、時刻は午後七時を回ったところだった。自宅を出てから一時間あまりが経っている。個室に入ったことで緊張の糸がぷつりと切れ、今まで意識を失っていたのだろう。 夢ではなかった。 そう実感した途端、胸が酷く締め付けられた。 脳裏に浮かぶ父の姿。不治の病に侵され静かに死を待つ身であったのに、よりによってあの仕打ち。一体、誰があんなことをしたのだろうか。 組長の一人娘として生まれ、父を恨んだことが無かったとは言えない。父が組長であるから、自分は普通の生活を送れないのだと思ったことは数え切れないほどある。そして今、父のせいで自分は追われる身となった。 ――なのに哀しい。 父としては償いのつもりだったのだろう、父は常に優しかった。娘から心無い言葉を掛けられても決して激昂せず、己の過ちを侘び続けた。娘の安否を誰よりも気遣い、時には泣き崩れる娘に温かい声を掛け、母との思い出を語った。 父は真っ直ぐな人だった。愛する人の為、大切な友の為、たとえそれが法に触れることであっても自分の信念を貫いた。暴力団組長という社会的には悪の存在であっても、叶絵にとってはたった一人の身内であり、血を受け継いだ父だった。 その父はもういない。自分に寄り添ってくれる人が、また一人減ったのだ。 「お父さん……」 すすり泣く。父から受け取った刀を抱きしめて。 『父上のことはお悔やみ申し上げる』 簡素な弔辞だった。 「誰っ⁉」 怖気を覚えた。自分以外に誰もいないはずの個室で、男の声が聞こえたのだ。 『驚かせてすまない。君に危害を加えるつもりはないから安心してくれ』 「だから誰なのっ!」 姿が見えないだけに恐怖感が煽られる。 叶絵は天井を見上げた。誰かが上から覗き込んでいるわけではない。壁や扉の向こうにも人の気配は無い。だとすれば幽霊としか―― 『私は君の手の内にある。直接、心に話しかけているのだが伝わっているようだな』 「手の内にある、って……」 叶絵は握りしめた刀をまじまじと見る。 「『あなた』なの?」 『左様。私は君が持つ刀だ』 刀が話している。非現実的な出来事に、頭の処理が追いつかない。 『先程、父上から君を守れと頼まれた。これから先、私は――』 「待って! 意味が解らない。何が起きてるの」 叶絵はパニック寸前だった。父が何者かに襲撃され、自分は犯人だと疑われ、逃げてきたと思ったら今度は刀に話しかけられているというこの状況。間違いなく人生最大の混乱が訪れている。 『解った。ではまず私のことから話そう』 と言って刀は語り出した。 『私に名は無い。銘が刻まれていないので〈無銘〉とでも呼んでくれ』 〈名前が無い〉という意味の名前とは、何の冗談だろうか。 『自我が目覚めたのは君の父上、武彦に使われ始めてからだ。よって私が作られた時期は分からない』 以前に父が言っていた。この刀は素性不明で、一説によれば博徒が野武士から奪ったものだという。以来、黒澤家で代々保管されてきたとのことだった。 『武彦との付き合いは三十年ほどになる。私が話せるようになった主は、武彦が初めてだ』 「どうしてお父さんと?」 『分からない。ただ、私はこれまで多くの人の手に渡ってきた身だろうから、その都度、主の思念が複写され、蓄積されてきたのかもしれない。武彦の代になって自我が芽生えたのは、彼が最も手厚く扱ってくれた主だからだと考えている』 確かに、父は刀の扱いに関して丁寧だった。初芝の指導があったからだろうが、定期的に手入れはしていたようだ。 『その武彦から、君を守るよう頼まれた。だから今は君が主だ』 父が刀を引き寄せて何かを呟いていた場面が蘇る。あのとき父は、〈無銘〉に娘の運命を託したのだろう。 叶絵は根本的な疑いを口にした。 「本当にあなたはお父さんの刀なの?」 『疑われるのも無理はない。妖怪の類だと思われても仕方がないだろうな』 〈無銘〉は穏やかな声で言った。 『君の左手の平には、横一文字の古傷がないだろうか』 叶絵は頷く。 『その傷は、君が七歳の頃に私を触ったからできたものだ。違うか?』 実際、その通りだった。父に連れられて初芝の道場へ行った時、興味本位で〈無銘〉の抜き身を握ってしまった時にできた傷だ。 『それから、君は納刀の時に鞘を持つ左手の人差し指を立てる癖があったな。今では修正したが、それまでは度々指摘を受けていたはずだ』 言われた通りだ。納刀の時に人差し指を立ててはならない、これを繰り返し言われてきたから修正するよう心掛けたのだ。 〈無銘〉の語る内容はいずれも事実。これでは受け入れ難い現実を受け入れるしかなかった。 「あなたが刀ってことは解った。じゃあ聞くけど、お父さんに手を下した人に心当たりはない?」 〈無銘〉は普段、父が休んでいる和室の床の間に飾られている。日頃から父と共にいたのなら、何かしら手がかりを掴んではいないだろうか。 『申し訳ない。その点については武彦から何も聞かされていない。また襲撃された頃、私は君と共に居た。私は自分がいる範囲以外のことは感知できないし、そもそも私には視覚がない。たとえあの場に居たとしても、目撃者にはなれなかっただろう』 つまり耳は聞こえるし話せるが、目は見えないということか。まるで座頭市だ。 「もう一つ教えて。さっき、私を守るようお父さんから頼まれたと言ってたけど、これから何があるの?」 『分からない。だが、君の命が狙われる可能性があるから武彦は私を君に託したのだと考えられる』 父が「逃げろ」と言った意味。それは今でも引っかかる。逃げなければ自分の身に危険が迫っていたのだろうか。 「次の質問。あなたは何ができるの?」 『それは君次第だ』 即答だった。それは〈無銘〉が自力で行動できないことを意味する。結局、叶絵が刀を使えなければ自分の身は守れないということだ。 『その点、君は刀の扱いに長けているようだ。実際に使われている私が保証するのだから間違いない』 そんなことでお墨付きを貰っても。刀の使い方を知っているのと、実際に人を斬る度胸があるのとは違う。叶絵は我が身を守る為に人を斬ろうとまでは思わない。そんな状況になるぐらいなら、逃げたほうがマシだ。 『しかし君が私を重荷と感じるのであれば、今この場に捨て置いてくれて構わない。所詮私は道具だ。人の意志を制限することまではできない』 心地よいまでの潔さだ。生命を持たざる者だから、このような割り切った考え方ができるのかもしれない。 「……解った。どうにもならなくなったら、そうする」 父から継承した刀を手放すのは惜しいが、今は身の安全の確保が重要だ。こんな時、自分が小説に出てくる気丈なヒロインだったら、我が身を顧みない選択をしていただろうに。 『結構、好きなようにしてくれ。武彦は君の安全を最優先に考えていたようだ。元の主として、その遺志は尊重したい』 「ありがとう」 自然に礼を口にしていた。〈無銘〉は誠実な性格の持ち主であるらしい。父の相棒として相性が良かったであろうことは想像に難くなかった。 『ところで、急かして申し訳ないのだが』 きまりが悪そうに〈無銘〉が切り出した。 『追っ手が迫っている。人間が一人、犬が一匹だ』 「何で分かるの?」 『どうやら私は、君よりも広い範囲を感知できるようだ』 人間が一人、犬が一匹……これはもしや。 叶絵は脳裏に浮かんだ考えの裏付けをとる為、コートのポケットからスマホを取り出し、ニュースサイトを検索する。 あった。ネットニュースには「暴力団組長殺害 抗争の激化必至」との見出しが出ている。記事に目を通すと、〈黒澤組〉組長が何者かに殺害され、現場からは若い女が逃走したと書かれていた。 殺害、の文字に気を失いそうになる。結局、父は助からなかったのだ。そうなるであろうことは予想できたが、こうしてニュースに出てしまうと、現実であることが嫌というほど思い知らされる。 現場から逃走した若い女とは、自分のことだろう。ニュースになっているぐらいだから、当然、警察も介入している。きっと自分は、容疑者として手配されているはずだ。 『何をしている。追っ手が近づいているぞ』 〈無銘〉が叶絵の思考に割り込んだ。確かに、人の声と犬の吐息、そして無線機のものと思しき音声が近づいてきている。〈無銘〉が言うところの追っ手とは、警察官と警察犬のペアだと考えて間違いなさそうだ。 どうする。警察に出頭するか? いや待て。自分の話すことが信用して貰えるとは思えない。父の傷からして、凶器は刃物で間違いない。となると刀を所持している自分が疑われるのは当然だ。 迷っている暇はない。この個室に居続けていたら、発見されるのは時間の問題だ。 「ん、どうした? 見つけたか」 公衆トイレの外から男の声が聞こえた。犬の鼻息が荒くなっている。段々と足音が近づいてくる気配。女子用であるだけに中へ立ち入るのは躊躇したようだが、やがて足音がこちらへ近づいてくるのが分かった。 もう駄目だ。たまらず、叶絵は個室から飛び出した。 その瞬間、紺色の作業服を着た男と鉢合わせた。男が連れていたのは、やはり警察犬だった。 「おい、何だ君は!」 声を掛けられるなり、叶絵は駆け出した。 背後では、作業服姿の警察官が無線機に向かい、不審者を発見したと叫んでいた。 どこへ逃げたらいいのか。叶絵は必死に考えた。 振り返ると、さっきの警察官と犬が追ってくるのが見える。詳しくは聞き取れないが、無線を使って応援要請しているようだった。 視線を前に戻す。右前方に人影一つ、左前方には二つ。情報の共有が早い。こんなとき警察の組織力は厄介だ。 行く手にパトカーの赤色灯が見える。これで当初想定していた進路は塞がれた。 進路を並木道に変更。この道は繁華街へと続いている。人混みの中に逃げ込めば、警察の目から逃れられるかもしれない。 ここは都市型の市民公園だから、幸いにして繁華街は目と鼻の距離だ。並木道を通り抜ければ、飲食店が多く建ち並ぶ界隈に出ることができる。 あと少しだ。運良く、増援が間に合っていない。叶絵は車止めの間を通り抜け、公園から脱出した。 「こっちだ!」 どこからともなく、叫び声が聞こえる。脇道から、こちらへ向かってくる影が二つ。今度は私服の刑事らしい。叶絵が公園から出てくるのを見越して、待ち伏せしていたのだろうか。 そろそろ息が苦しい。公衆トイレを出てから走りっぱなしだ。立ち止まって息を整えることができたら、どんなに楽だったろうか。 自身に鞭打ちながら、路地裏へと逃げ込む。今日は金曜日だから、メインストリートの人手は多いはず。そこまで辿り着けば、人混みに紛れ込める。 背後に追っ手が接近していないのを確認してから、左手に持っていた〈無銘〉をコートの中に隠す。走るのをやめて歩いた。制服についた血は、コートの前を閉じれば何とかなりそうだ。コートは黒色の生地なので、付着した血はそれほど目立たない。 いま自分がいるのは、飲食店の密集地だ。夕食の時間帯とあって、様々な料理の匂いが漂ってくる。冬まっただ中の寒気に晒されている身としては、暖房のきいた部屋で温かいスープでも欲しいところである。 しかし自分には、ゆっくり食事をしている時間もない。こうしている間にも、警察の捜索は続いているのだ。 「どっち行った?」 「わからん。お前はあっちを捜してくれ」 進行方向から、さっきの刑事のものと思われる声が聞こえた。この近くまで来ているらしい。 叶絵はフードをかぶり、曲がり角を右に折れた。走ると目立つから、早足でその場を離れる。そのまま行くと、丁字路にさしかかった。ここを左へ行くとメインストリートへ出られそうだ。 と、その時。 左手から足音が聞こえた。ならば右へと思い顔を向けると、遠くに人影が見える。スーツ姿に険しい顔、雰囲気からして刑事だろう。彼はまだ、こちらの存在に気づいていない。 好ましくない状況だ。この丁字路は一本道で、左からも右からも追っ手が迫っている。来た道を引き返そうとも思ったが、そちらからも追っ手が来ている可能性を考えると、下手な賭けはできなかった。 最早これまでか。 『ここはどんな場所だ?』 〈無銘〉が周囲の環境を知りたがっている。 「こんな時に何で」 『逃げる方法を考える為だ。君が人の多い場所へ行こうとしているのは分かる。挟み撃ちに遭いそうなことも』 音や人の気配、そして叶絵の心を通じて大体の状況は把握しているらしい。 『逃げ込めそうな場所、身を隠せる場所。まだどこかにあるかもしれない。諦めるな』 諦めるな。その言葉が強い響きをもって胸の内を叩く。折れそうになっていた気持ちを奮い立たせ、叶絵は目につくものを〈無銘〉に伝えた。 そうしているうちに頭が冴えてきて、自分の取るべき行動が解ってきた。 『閃いたか』 「うん」 この刀は、自分と心を共有しているのだろうか。これからやろうとしている事を察してくれたようだ。 実行するには勇気が必要となる。しかし背に腹は代えられない。叶絵は決断した。 「いないか」 「こっちにはいない」 「くそっ、どこ行きやがった」 追っ手の声が聞こえる。身を隠した叶絵は、緊張感が最高潮を迎えるのを感じた。少しも動いてはならない。音を立てればたちまち気付かれてしまうだろう。 やがて男二人は別の場所を捜すことにしたようだ。足音が遠ざかる。 『もう大丈夫だ』 〈無銘〉にそう言われて気が緩んだのだろう、叶絵は吐き気をもよおした。ガサガサと音を立て、ゴミの山から這い出す。ここは飲食店の密集地なので、丁字路に設けられた集積所にはビニール袋に詰められたゴミが大量に捨てられている。大半が生ゴミであるらしく、複雑に混じり合った臭気を放っていた。叶絵はその中に身を隠していたのだった。 まさかこんな所に人が隠れているとは思うまい、そう考えての行動だったが、代償は大きかった。耐えきれず、胃の内容物を吐き出してしまうのだった。 忍者は追っ手から逃れる為に肥溜めに隠れるという話を聞いたことがあるが、それに近いものを自分がやることになるとは。窮地から脱出する為にやった事とはいえ、惨めな気持ちになってきた。どうして自分がこんな目に遭わなければならないのだろう。 全ては、父を殺した者のせいだ。 自分たちを地獄に引きずり込んだのは誰なのだろう。 心当たりとして最初に思い浮かぶのは〈義世会〉の関係者だ。父が〈砂川組〉系暴力団の組長であるから狙われた。そう考えるのが最も解りやすい。 暴力団の世界でのし上がるには、二つの方法がある。一つは多額の上納金を納めること、もう一つは敵対勢力の戦力を削ぐこと。後者を達成するためには、敵対する組の幹部を殺害するのが効果的だ。中でも組長は特に狙われやすい。敵を潰すにはまず頭を叩け、のセオリー通りに。 だから父は殺された。そう考えると、怒りが込み上げてくる。もしこの考えが正しければ、犯人は自分の地位向上を目的として父の命を奪ったことになる。これでは父が、出世の道具にされたみたいではないか。 ――悔しい。 叶絵はビルの壁に拳を打ち付けた。 静かに、平穏で、普通の毎日を過ごしたい。そんな願いに反して、金と暴力にまみれた世界は抗えない渦となって自分を取り込もうとしている。 空を見上げた。星々が遠くに見える。決して自分の手が届かないものを象徴しているかのようだった。 ドアが開く音。振り返ると、ビルの裏口から人が出てくるところだった。印象的な赤いエプロンを腰に巻き、ワイシャツとスキニーパンツ、頭の三角巾は黒で統一。飲食店で働くホール係の女性であるようだ。両手に満杯のビニール袋を下げた彼女は、叶絵の顔を見るなり目を丸くした。 「こんなところで何してんの?」 首を傾げ、そう言ったのは凪沙だった。 凪沙のアルバイト先は焼肉店だという。小遣い稼ぎにと高校一年生の頃から始めたそうだが、賄いが美味いので働いてて良かったと彼女は言うのだった。年齢的に若いということもあり、雑用を任されることが多いそうで、先程もゴミの処理を頼まれたところだったという。 「ねぇ、本当にいいの?」 「大丈夫だって。早退扱いにして貰ったから」 歩きながら凪沙は白い歯を見せる。 「でも、悪いよ」 「何言ってんの。そんな姿見せられたら放っておけるわけないじゃん。店長には月イチのもんがキツくてって言ってあるから」 「う、うん……」 結局、押し切られてしまった。 精神的に追い詰められていたところへ、友人の顔が見られたのは幸運だった。またその友人は、これから自宅へ連れていってくれるという。正直、好意は有難いのだが、彼女を自分の事情に巻き込んでしまったと思うと罪悪感に苛まれる。 アルバイト先から歩いて二十分ほど。凪沙の自宅として案内されたのは、古びた市営住宅の一室だった。 「シャワー使うでしょ。ちょっと待ってて」 と言って凪沙が先に上がった。叶絵は玄関で待ちながら、部屋の中を見渡す。質素ではあるが、普通の家庭であるようだ。凪沙は母子家庭だと話していたが、母親はどこにいるのだろう。 「お母さん? ああ、うちの母親は看護師だからね。今日は夜勤でいないんだ」 質問したら、そんな答えが返ってきた。 「一人で寂しくないの?」 「小学生の時からこんな生活だからね。もう慣れたよ」 風呂場から凪沙の声が聞こえる。 「はい、シャワーならもう使えるよ。何ならお風呂に入ってく?」 玄関へ顔を見せに来た彼女に、首を横に振って答える。体に染み付いた汚れと臭いを流せるなら、シャワーだけで十分だ。甘えていたらきりがない。 「ありがとう」 「ほーい」 心からのお礼に、凪沙は軽めの雰囲気で返してきた。そうすることで無駄な気遣いは不要だと遠回しに伝えてくれたようだ。 脱衣所で服を脱ぐ。さすがに剥き出しだと友人に不安を与えるので、〈無銘〉と制服はコートにくるんでおいた。 浴室に入り、熱めのシャワーを浴びると、全身の穢れが流れていくような気がした。 「シャンプーとか、勝手に使っていいからね」 凪沙が脱衣所から磨りガラス越しに言う。見ると、意外にも普段から自分が使っているのと同じシャンプーとコンディショナーが置いてあった。 「着替え、置いとくよ。ブラのサイズはたぶん大丈夫だと思う」 下着まで用意してくれるとは、いたれりつくせりだ。叶絵は友人の心遣いに感謝するばかりだった。互いの体格がほぼ同じというのも、ただの偶然とは思えない。もしかしたら彼女とは運命的な繋がりがあるのかもしれない。 叶絵が友人の有難さを噛み締めていると、凪沙からこんな問いかけがあった。 「さっきも聞いたんだけどさ、あんなところで何してたの?」 気になるのも無理からぬ話だ。ゴミの山の前で汚れきった姿の友人を見つけたら、何かがあったと察するのが当然である。逆にこの質問は、凪沙が叶絵の陥っている状況を正確に把握していないことを示していた。 ここまでして貰っておきながら、叶絵は正直に打ち明けることを躊躇った。 洗いざらい話したところで、どこまで信じて貰えるだろうか。 事情を明らかにする為には、これまでひた隠しにしてきた自分の素性をも全て話さなければならない。果たして凪沙は、知らされた事実を受け入れてくれるだろうか。 話すのが怖い。話せば唯一の心の拠り所を失うような気がして。 無言でいるのを、凪沙は返答拒否と解釈したようだった。 「やっぱり話せないか。ワケアリってことかな」 心なしか残念そうな響きを持つ台詞を聞いて、叶絵は自責の念に駆られた。友人が支えになってくれようとしているのに、自分は保身のため真実を告げられないでいる。これでは凪沙が報われない。 「あのっ……」 何か話さなければ。そう思った時にはもう、凪沙の気配は無くなっていた。 借りた服は、黄色のニットにデニムのスカート、黒のタイツという、普段の叶絵なら絶対に着ないであろう組み合わせだった。バスタオルで髪を拭きながら居間へ行くと、凪沙がソファでスマホをいじっているところだった。 「シャワーありがとう。あと服も」 「うん……」 凪沙の様子がおかしい。こちらの言う事に対して上の空だ。さっきの自分の態度に腹を立てているのだろうか。 友達なのに。困っているところを助けてくれたのに。隠し事を続けているのは不誠実に思えた。だったら、まずは謝ろう。それから自分のことも話そう。彼女に誤解を与えないよう、言葉を選んで、慎重に。 「あの、さっきはごめんね。実は」 「あのさ」 遮られた。やっぱり怒っているのか。叶絵が叱られた子供のような気持ちでいると、凪沙は立ち上がり、スマホの画面を見せてきた。 「これ、あんたじゃないの」 表示されているのは動画だった。薄暗い住宅街を、画面奥から手前に向かって一人の女が走ってくる。僅か三秒程度の動画だったが、駆けてくる人物の姿が鮮明に映っていた。 長い黒髪にダッフルコート、開いた前合わせからはブレザー式の制服が見える。グレーのスカートには赤黒い染みがあり、人物の左手には棒状のものが握られている。俯瞰のアングルなので顔ははっきり見えないが、判る人には判る程度だ。 「今日の夕方、ヤクザの親分が殺されたんだって。この動画、事件があったところの近くの防犯カメラが撮ったやつだって」 動画はニュースサイトで配信されているものだった。見出しには「県警 容疑者の動画を公開 早期解決を目指す」とある。凪沙が言うことには、話題性の高い記事としてSNSで拡散されていたという。 繰り返し再生される動画を、食い入るように見た。カメラの設置場所に向かって走ってくる女は、どう見ても自分としか思えない。 ハッとして凪沙の顔を見た。彼女の顔は血の気が失せていた。人形のような顔の口から、聞きたくない言葉が滑り出す。 「もしかして――」 「違う!」 叶絵は全力で叫んだ。 「殺された親分、黒澤っていうんでしょ。それってあんたの」 「やめて!」 かぶりを振る。まだ乾いていない髪が顔に貼り付いた。 「私は、やってない」 こんな形で知られたくなかった。ましてや親殺しの容疑を掛けられたままで。 叶絵は床に座り込んだ。こんな状況で全てを話したとしても、信じて貰えるわけがない。世間は完全に自分が犯人だと決めつけている。こうした報道が出ている以上、凪沙も例外ではあるまい。 「叶絵」 名前を呼ばれて、体が震えた。彼女はどんな目で自分を見ているのだろう。知るのが怖くて、顔を上げることも出来なかった。 左隣に凪沙がしゃがみ込む気配。右肩に手を回され、こう囁かれた。 「一緒に警察行こう」 聞くなり、手を跳ね除けてしまった。 「違う! 私じゃない!!」 「違うなら尚のこと警察に」 「嫌っ!」 「何で。自分は犯人じゃないってハッキリ言わないと」 「駄目! 犯人にされるに決まってる」 「あんたね……!」 さすがの凪沙も頭にきたようだ。 「もういい。警察呼ぶから」 頭を金槌で殴られたような気がした。 「何でそんなことするの……」 唇が震える。友人が酷く恐ろしい存在に思えた。 彼女は疼痛に耐えるような表情で言う。 「何でって……友達だからだよ」 それはどういう意味か。叶絵が考える暇も与えず、凪沙はスマホを耳に当てた。 「えっと……事件っていうか。友達が警察に追われてて――」 逃げなければ。反射的にそう考えた。 友人は容赦なく今の状況を話し、自分の居場所を警察に告げる。 「場所は市営住宅の……うん、そう、そこ。二〇一号室で」 間もなく警察がここに来る。胸のざわめきが恐怖となって、自分をつき動かした。 「うん、今ここに――ちょっと、どこ行くのっ⁉」 玄関へ向かう背中に、声を掛けられた。しかし立ち止まるわけにはいかない。ローファーを履き、ドアノブを回すと反発があった。鍵が掛かっていたのだ。震える手でサムターンを回し解錠するが、今度はチェーンロックが行く手を阻む。外そうにも指が思うように動かない。 そうしている間にも―― 「待てったら!」 背後から肩を掴まれた。無理やり振り向かせられ、ドアに押し付けられた。 凪沙の顔が目の前にあった。彼女の両目が赤い。泣きそうなのを堪えているようだった。 「逃げるの?」 問いかけというよりは、詰問に近かった。答えられないでいると、もう一度ドアに押し付けられた。 「どうしても行くの?」 二度目の問い。 怯えながら、迷いながら、叶絵は小さく頷いた。 友人の大きな溜息。これは失望の意味か。 「……解った。十秒ちょうだい」 凪沙は叶絵から離れ、部屋の奥に引っ込んだ。かと思えば直ぐに戻ってきて、持っているものを投げ渡した。 受け取ったのは〈無銘〉と白いダウンジャケット、そしてソフトギターケース。友人は苦渋に満ちた顔で、こう言うのだった。 「忘れ物だよ。上着とギターケースはあげる。私ができるのはここまでだ」 凪沙は顎をしゃくる。行け、という意味らしい。これが最後通牒なのだろう。 「……ごめん。今まで、ありがとう」 きっとこれが今生の別れだ。そんな気がした。凪沙と過ごした日々は、思い出になってしまうことだろう。 叶絵はチェーンロックを外し、ドアを開ける。 外の空気は冷たかった。 暗い夜道を歩く。周りに人の姿はなく、一台の車が横を通り過ぎていくだけ。隣を歩いてくれる友人はもういない。きっとこれからも、自分は一人で歩き続けなければならないのだろう。 『泣いているのか?』 肩に掛けたギターケースの中から、〈無銘〉が話しかけてきた。 「うん……」 鼻をすする。無様な顔になっているだろうが、見てくれる人などいないから気にする必要もない。 「何でこんなことになっちゃったんだろう」 事の元凶は父を殺した犯人に違いないが、凪沙に関しては自分にも原因があった。 今まで自分が素性を話せずにいたのは、それを知った凪沙が離れていくのではないかという不安があったからだ。その不安に縛られ、打ち明けられないでいるうちに、最悪な形で暴露されてしまった。彼女に不信感を抱かせたのも当然といえる。 物心ついた頃から、組長の娘だと周りに知られていた。当時は父が穏健派に転向していたから、近隣との諍いもなかったはず。しかし先入観とは厄介なもので、黒澤親子と親しくしようとする人は皆無だった。そうなると自然、暴力団関係者ばかりが集まり、普通(カタギ)の人々は益々遠ざかる。 叶絵が通う学校でも状況は同じだった。周りは自分を腫れ物のように扱い、できるだけ関わらないように避けていた。自分と向き合ってくれる教師もいなかった。皆、目を背け続けていたのだ。 叶絵に近付く者もいたが、彼らは大きく分けて二通り。組長の娘だから親しくなろうとする者と、組長の娘と知らずに親しくなった者だ。 前者は、組長の娘という肩書きだけが目当てだったようだ。底の浅い「自称ワル」の連中は、叶絵を取り込むことで暴力団の後ろ盾を得たかったのだろう。 そんな連中との交際を、叶絵は望まなかった。彼らと行動を共にすれば、自身の望む平穏な生活から遠ざかるように思えたからだ。こうした連中とは、自ら距離を置いていた。 一方、善良な人々である後者は、打ち解けた頃に素性を明かすと、例外なく離れていった。組長の娘であることを知っても尚、友達でい続けてくれると信じていたのに、そうはならなかった。こうした経験を何度も積み重ねてきたから、凪沙にもありのままの自分を晒すことが出来なかったのだ。 今にして思う。素性をひた隠しにする態度は、親友を信用していなかったことの表れではないだろうか。 信じたい、けれど信じて裏切られるのが怖い。それなら初めから信じなければいい。自分の根底には、そんな考えがあるのだろう。 「人を信じるって、難しいね」 自虐的に笑い、〈無銘〉にそう言った。こちらの考えている事は筒抜けだろうから、発言した理由を話すまでもない。 しばしの間があった。〈無銘〉が返答に困っている? こちらの考えが筒抜けなのに、相手の考えが解らないのは不公平な気がした。 『人間の心理とは複雑だな』 「どういうこと?」 『君たち人間は他人を信じる、信じないで悩んでいるようだが、私は違う』 「どう違うの」 『私は人に使われる道具だから、他人を信じるも信じないも関係がない』 それは確かにその通りだ。 『だが敢えて言うならば』 〈無銘〉の声色に変化があった。それはあたかも信念を語る男のように。 『我が主は信じる』 〈無銘〉の主とは、この刀を生み出した刀匠に始まり、いつかの時代で帯刀した侍、それから幾多の手を渡って野武士、博徒、黒澤家の縁者……そして父、武彦。 『私には、主を信じるという選択肢しかないのだ』 「え、でも。主が酷い人だったらどうするの? 滅茶苦茶な使い方をする人とか」 刀に対する価値観は人それぞれだ。美術品と考える人もいれば、殺傷の道具と捉える者もいる。それぞれの価値観に従って使用されるのだから、刀としての価値に無頓着な者が手にすれば、ぞんざいな扱いを受けることもある。 『それでも信じる』 〈無銘〉は断言した。 「たとえボロボロにされても?」 『そうだ』 「信じて酷い目に遭わされたら、哀しくないの?」 『構わない。自身が壊れるような使われ方であっても、使用されることで道具としては役目を果たしている』 「そもそも使われなかったら?」 『それが主の意思だと受け入れるまでだ』 まさかここまで達観しているとは。この刀、相当な年月を経て今ここにいるのかもしれない。 「そうなんだ……」 としか返せない。これ以上は話が続きそうになかった。 話が途切れたことで、意識が自分の中から外に向く。道端でオレンジ色の光が点滅しているのが見えた。 車のハザードランプだ。車内で通話でもしているのだろうか。叶絵が横を通り過ぎようとした時、突然、言い知れない悪寒が込み上げてきた。 『離れろ!』 〈無銘〉の警告は間に合わなかった。勢いよく後部座席のドアが開き、中から男の手が伸びてくる。瞬く間に中へ引きずり込まれた。 「騒ぐな」 男の声。聞き覚えがあると思った途端、体に硬いものが押し付けられる。青色のスパークが見えた。全身が痺れ、叶絵の意識は暗い闇の底へと落ちていったのだった。 目蓋の向こうに光を感じた。 目を開くと、どこかの倉庫内だと分かる。広さは学校の体育館ほど。大小様々なサイズの木箱が壁沿いに積み上げられていた。 その一角で椅子に座らされ、両手首にはダクトテープが巻かれている。当然ながら〈無銘〉は取り上げられていた。 「目、覚めましたか」 正面に見知った姿があった。黒いスーツにオールバックの髪。三〇過ぎの男が両脇に手下を従え、タバコを吸っている。〈黒澤組〉の若頭、二宮だった。 「散々捜しましたよ。おかげで色んなところに借りを作っちまった」 逃げた叶絵を捜す為に、組員以外の人手を割いたということか。二宮には広い人脈があったらしい。 「とはいえ、人から情報を集めるだけじゃ追いつかない。こいつがなけりゃ、お嬢には辿りつけませんでした」 二宮はジャケットの内ポケットから、叶絵のスマホを取り出して見せた。 「……位置情報ですか」 叶絵に問われ、二宮は鷹揚に頷く。 「そうです。組長からは、常にあんたの居場所を把握しておけと言われてましてね」 迂闊だった。位置情報が追跡できる隠しアプリを仕込まれていたのだろう。二宮の話しぶりでは、位置情報を辿れるようにしたのは父の指示があってのことらしい。娘の安否を気遣う思いが、こうした形で利用されることになるとは。 「しっかし、まぁ……」 二宮が感心したような視線を向けてくる。 「上手く化けたもんだ。注意して見なけりゃ判りませんでしたよ」 叶絵の服装が普段とは全然違うので、一目では判別出来なかったらしい。しかし日頃から顔を合わせている間柄、見逃しては貰えなかったようだ。 「どこでそんな服を調達したんだか。小賢しい」 今のは本音だろう。自分へ向けられた侮辱の言葉に、叶絵は反発心を隠さない。 「そろそろこれを解いてくれませんか」 剣呑な目をして、自由のきかない両手を掲げて見せる。身柄を確保する為にスタンガンやダクトテープはやりすぎではないか、そう抗議したかった。 「そいつには従えませんね」 二宮はタバコを足元に落として踏みつける。 「あんたはもう組長の娘じゃない。義理立てする必要も無くなった。もう敬語も要らねえな」 二宮が叶絵に従っていたのは組長の娘だったからだ。父が亡くなった今、叶絵はただの女子高生でしかない。 「次の組長は俺だ。これからは好きにやらせて貰う」 「継承盃を受けてもいないのに、ですか」 仕返しのつもりでそう言った。確かに組長が没すれば、若頭が昇格するのが通例である。だが正式に次代の組長と認められる為には、しかるべき場で立会人を置き、盃を受けるという儀式を行わなければならない。それを無しに組長を名乗っても、道化でしかないのだ。 「子供が大人の事情に口出しするんじゃない。『こっちの世界』のことを少しは知ってるようだが、まだまだだな。目の上の瘤が無くなりゃ、後はどうとでもなるんだよ」 目の上の瘤とは、つまり先代組長のことだろう。やはりこの男、腹に一物抱えていた。 「二宮さん、もしかして」 先程から一つの疑念が自分の中で浮上している。だからこそ目の前の相手には反感を抱かずにいられない。 「父を殺したのは、あなたでは」 瞬間、二宮の顔が歪な笑みに変化した。 「だとしたらどうなんだい?」 絶対的優位にある者の余裕を見せて、彼は聞き返す。叶絵の神経を逆なでする為にそうしたとしか思えなかった。 「……っ!」 立ち上がろうとしたら、椅子に押さえつけられた。叶絵の両脇に移動した二人の手下は、申し訳なさそうな顔をしている。彼らはまだ先代組長への仁義を保っているらしい。上の立場である二宮に嫌々従っているだけなのだろう。 「あんたの考えを聞こうか。幸いここには警察も来ない。ちょっとした暇つぶしだ」 ここは〈黒澤組〉が管理する倉庫の中なのだろう。なるほどそれなら法の外に違いない。 「私が容疑者として手配されたのは、あなたが警察に情報を流したからじゃないですか」 叶絵を除けば、父の殺害現場における第一発見者は二宮だ。あの状況を見て、娘が父に手を下した場面だと誤認したのかもしれないが、見方を変えるとこうなる。 「私が帰宅後に父の寝室へ行くのは分かりきったことでした。そこであなたは、わざわざ殺害現場に偶然居合わせたという状況を作ったのでは」 自分が第一発見者になることで、叶絵に濡れ衣を着せることができる。だからあの時、彼はあんなことを口走ったのだ。 「お嬢あんた何やってんだ、のくだりか。それから?」 二宮は否定も肯定もしない。 「その後で、現場に来た警察には私が犯人だと証言する。これであなたへの疑いは薄くなりますよね」 「ほう。じゃあ動機は何だい」 「組長の座」 叶絵が即答したのに対し、現・若頭は声を上げて笑う。 「組員たった三人の組に何の価値があるんだい?」 鶏口牛後という考え方もあるが、二宮が目指しているのは別の方向性だろう。 「組員は少なくても、半グレを使って収益を得る方法があります。あなたの人脈があればそれも可能なはずです」 今のご時世、暴力団員は金を稼ぎにくい状況にある。暴対法と暴力団排除条例の影響だ。指定暴力団の組員である以上、従来のように飲食店からみかじめ料を得ることはできないし、仕事も得られない。暴力団員という身分がある限り口座開設もできず、不動産の賃借も不可能だ。となると、暴力団員という肩書にはデメリットしかない。 その点、正式に暴力団員となっていない半グレなら、その制約を受けることなく自由に経済活動を行うことができる。半グレは暴力団の後ろ盾が欲しい、暴力団は半グレによる収益が欲しい、こうして互いの利害は一致する。組員の数は少なくとも確実に収益を上げられるカラクリがここにあるのだ。 「その収益をもってすれば、あなたの地位を向上させることも可能ですよね」 暴力団の世界でのし上がる為には、多額の上納金を納めればいい。他の組の幹部を殺害するよりもリスクは低く、警察に捕まる恐れも少ない。 「それで?」 「あなたは犯罪収益を良しとしない父を疎ましく考えていた。だから殺害し、自分なりのやり方でのし上がろうとした。違いますか」 叶絵の指摘に、二宮は苦虫を噛み潰したような顔をする。 「……まったく小賢しいガキだ。女にしとくのが惜しいぐらいだな」 タバコを咥え、火を点ける。 「その小賢しさは俺にとって害悪でしかない。そもそもあんたの存在が俺にとっては邪魔だ。親殺しの汚名を着て貰ったほうが後々やりやすい」 不穏な空気を感じた。 「先代組長を殺ったのは実の娘、今回の件は抗争と関係ない。真犯人を始末して抗争の激化を防いだのは俺。この功績を本部に持ち帰れば〈義世会〉に寝返った時に手厚い待遇を受けられるかもな」 二宮の独り言。彼の思惑がここまで明らかにされることに違和感を覚えた。 「というわけで、あんたとはここでお別れだ」 抑揚も無く彼は言う。不要な駒を捨てるかのような口ぶりだった。 二宮に顎をしゃくられ、反応したのは叶絵の右側にいる男だ。確か名前は木本といった。二〇代前半のいかにも粗暴者といった風体だが、実は気の弱い男だと知っている。彼が〈無銘〉を預かっていた。 「そんな……この子は組長の娘っすよ」 「先代組長の、な。今はただのガキだ」 木本の手が震えている。こう見えて彼は父への忠義心に厚い男だった。その娘に手を掛けること自体、耐えられないのだろう。 「早くしろ。丁度いいもん持ってるじゃねぇか」 暴力団の世界において上の言うことは絶対。逡巡の末、木本は手を震わせながら刀を抜いた。 「悪く思わないで下さいよ……」 刀が振り上げられる。明らかに素人の扱い方だった。 これでは人体を斬れまい、などと叶絵は思う。二宮への敵対心が恐怖心を凌駕していた。 この男たちは自分を過小評価している。居合を習っていることは知っているだろうが、刀を持たせなければどうとでもなると考えているらしい。両手を縛めるだけで十分とは、とんでもない思い上がりだ。 叶絵は無造作に立ち上がる。戸惑う木本の腕を掴み、引いて体勢を崩すと、そのまま体を反転させた。掴んだ腕を振り抜くと、つられるようにして木本の体が背中から地面に叩きつけられる。合気道でいうところの四方投げだ。 叶絵が日々稽古しているのは、居合術だけではない。〈初芝流居合術兵法〉は剣術や体術も含む総合的な武術である。他者の腕を刀に見立て、然るべき体捌きにて振り抜けば強力な投げ技となる。 「取り押さえろ!」 叶絵が〈無銘〉を奪い返したところで、真っ先に反応したのは二宮だった。 彼の指示を受け、もう一人の手下が襲いかかってくる。 『構わん、私を使え』 手にしたことで〈無銘〉の声が聞こえるようになった。 人を斬ることには抵抗がある。しかし刀にはこういう使い方もある。 叶絵は身を沈ませ、飛びかかってくる男の鳩尾に向けて刀の柄(つか)を突き出した。 「ぐッ⁉」 腹部に柄を深々と突き立てられ、男はもんどりうって倒れる。苦しさのあまり、しばらく立つことはできないだろう。 〈無銘〉の刃でダクトテープを切り、抜身を引っ下げたまま、叶絵は二宮に歩み寄った。 ――この男が父を。絶対に許さない。 「調子に乗るなよ」 彼は拳銃を取り出していた。銃口がこちらに向けられ、引き金には指がかけられている。手に震えは無い。人を殺すことに良心の呵責を感じていないようだ。 〈無銘〉を正眼に構える。拳銃を持った相手との実戦は初めてだ。狙うとすれば、撃ち終わった瞬間か。ならば最初の銃撃を躱さなければならない。 しかし躱したとして、どのように攻めれば良いのか。人を斬ることにはまだ踏ん切りがつかない。だったら刀の棟で打とうか。それには力加減が必要だ。加減を間違えたら相手に反撃の隙を与えてしまう。そうなった時、どのように対処すれば。 頭の中を様々な思いが交錯する。考えがまとまらないうちに、二宮の殺気を感じた。引き金を引くつもりだ。 駄目だ、間に合わない。そう思った時―― 二宮の両腕が地面に落ちた。 あたかも落葉のごとく、当の本人ですら何が起こったのか分からないほどに自然な落ち方だった。 そうしている間に、もう一筋の銀光。人としての形を失った二宮は、その場に崩れ落ちた。 「久方ぶりの感触、悪くないのう」 そう言って刀を収めたのは、初芝だった。 なぜ師匠がここに、そう思う暇もあらばこそ。 叶絵の背後にいた二人の組員が、揃って断末魔の悲鳴を上げる。振り向くとそこには、納刀する小浦の姿があった。 あれから。 叶絵は小浦が運転する車で、初芝の自宅兼道場に連れて来られた。初芝の自宅には内弟子用の部屋が四つあり、今では小浦しか使う者がいないそうで、空いていた部屋を使わせて貰えることになった。 六畳の和室には布団が敷かれ、畳んだ浴衣が置かれていた。初芝の言いつけにより小浦が用意したものだろう。一番弟子はまだ他にやることがあるらしく、叶絵を部屋へ案内するなり、またどこかへ出かけて行ってしまった。住み込みで師匠の身の回りの世話をする立場である為、休む暇も無いようだ。しかし彼は嫌な顔一つしていない。居合の修練に人生を捧げている世捨人、小浦にはそんな雰囲気がある。 ――今日はもう疲れたじゃろう。ここでゆっくり休んでいきなさい―― 初芝がそう言うので甘えることにした。浴衣に着替えて布団に入ると、猛烈な眠気に襲われた。 そして目覚めたのが昼過ぎ。枕元には膳が用意されていた。玄米に味噌汁、野菜の小鉢二点という質素な内容だ。これを見て初めて、叶絵は胃が空だったことを思い出した。 用意したのは小浦だろう。兄弟子に感謝しつつ全て平らげ、空腹が解消されるや再び眠りに落ちた。体と心が負ったダメージは、思いのほか深刻であったらしい。 そうして父が殺害された翌日の夕方、叶絵は襖が開く音で目を覚ました。 「調子はどうかの」 部屋を訪ねてきたのは初芝だった。白の道着と袴を身に着け、今しがた稽古を終えてきたといった様子だ。 「先生、申し訳ありません」 叶絵は飛び起きた。浴衣の着崩れを直し、布団の上で正座する。 「よい、よい。気楽にな」 初芝が叶絵の緊張を解くように、手を振って見せた。 「ところでどうかの。少しは休まったか」 「はい、おかげさまで」 「無事で良かった。こうしてまた会えたのが何より」 「同感です」 父を失い、頼れる人が居なくなった今、初芝の存在は叶絵にとって心強かった。危なかったところを助けて貰い、かつこうして匿ってくれたことに改めて礼を言うと、師匠はその人柄が滲み出るような笑みを浮かべるのだった。 その笑みに心が癒やされれば良かったのだが、叶絵の心には引っかかる点があった。 「あの、二宮さんたちは……」 目の前で斬られた三人のことが気にかかっていた。今回の件の首謀者であろう二宮は仕方ないにしても、残りの二人まで殺す必要は無かったのではないだろうか。恐れながらそのことを口にすると、初芝はこう返してきた。 「武彦への恩を忘れていなくとも、二宮に従い、お主を亡き者にしようとした以上は始末せねばならん。でなければお主が殺られていた」 幾多の死線を越えてきた師匠にそう言われると、返す言葉もない。組員二人を屠った小浦も、初芝と同じ考えに基づいて斬ったのだろう。 「亡骸の処分は六代目に申し付けておいた。少なくともお主に嫌疑がかかることは無いじゃろうて」 六代目とは〈六代目羽山組〉組長のことだ。直接の指示ができるとは、初芝の地位は暴力団の世界でもかなり高位なものであるようだ。 「そうですか……」 叶絵はうなだれる。 金と暴力の世界から抜け出したいと願っておきながら、結局は暴力に頼らざるを得なかった。やはり自分には、平穏な生活を送ることは不可能なのかもしれない。 「顔色が優れぬようだが」 「ええ……」 自分を取り巻く世界は、決して自分を逃さない。健全な世界へと引き上げてくれそうなものはことごとく遠ざかり、自分は暗い闇の中に留まったまま。古井戸に落ちた者のごとく、いくらもがいても抜け出すことはできない。 今回の件を振り返る。事の発端からして、あまりにも理不尽だった。 「なぜ父は、殺されなければならなかったのでしょうか」 師匠に問う。答え辛い問いであることは承知の上だが、何かしら自分を納得させられるだけの理由が欲しかった。 すると初芝は、妙なことを言う。 「お主の父だからだ」 意味が解らない。それにどうして答えが断定的なのか。 「お主にとって武彦は、無用なしがらみでしかなかった。それを断たぬ限り、お主は足踏みを続けていたであろう」 父を「無用なしがらみ」と断じられたことへの怒りよりも、違和感の方が強かった。 初芝の顔を見る。あれほど心強いと感じていた存在が、今は異形の生物に思えてくる。 「先生、何をおっしゃっているのですか」 問われた初芝は笑みを浮かべる。好々爺のような雰囲気は消え失せ、別の顔が現れた。これまでに叶絵が見たことのない顔だった。 「武彦を殺したのは、儂だ」 それは魔神とでも言うべき笑みだった。 師匠の告白に思考が停止する。悪い冗談でも聞かされている気分だった。 「儂が小浦に命じての。お主が思ったより早く帰ってきたので肝が冷えたと申しておった」 あの時、小浦はまだ室内に潜んでいたのかもしれない。だから父は、叶絵も襲われると思い、逃げろと言ったのだ。 「私も斬らせるつもりだったのですか」 初芝は首を横に振った。 「否。儂の望みは、お主を無用なしがらみから解き放つことだ。斬ることではない」 「何の為に」 師匠は遠い目をして語る。 「儂はな、強敵との死合を欲しておる。死力を尽くした後に、この世を去りたいのだ」 真剣勝負の末に敗北したとしても、それで本望なのだろう。叶絵には全く理解できない境地だ。 「とはいえ、齢九〇を過ぎては悠長なことも言っておれん。そんな時に、儂の求める者を見つけたのだ」 師匠は叶絵の顔を見る。邪悪さは欠片も見られない、むしろ純粋な目だった。 「お主だよ」 叶絵は目を見開いた。自分が名指しされるとは思いもしなかった。 「お主は自覚しておらんだろうが、昨日の試斬を見れば明らかだ。お主には天賦の才がある。武彦よりも、小浦よりも、あるいは儂よりも」 そこまでの認識とは。叶絵にとってはまるで他人事だった。 「今はまだ成長途上だが、何かのきっかけで化ける可能性は大いにある。儂はそれに賭けることにした」 先行き短い身であるから、尚のこと僅かな望みに賭けてみたくなったのだろう。 「立合なんて、私にはできません」 わななく唇で拒否を告げると、初芝はさもありなんという具合に頷いた。 「そう言うと思っておった。今の時代、人を斬るには無用なしがらみが多すぎるからの」 人を斬れば法により罰せられる。でなくとも、それまで築いてきた社会的地位を失うかもしれないし、家族や友人、その他自分を取り巻く人々にも悪影響を及ぼすかもしれない。そうしたしがらみがあるから、普通の人々は他者への加害を躊躇するのだ。 「……先生、もしかして」 師匠の言おうとしていることが解ってしまった。 「左様。お主を無用なしがらみから解き放てば、心おきなく儂と立合えるだろうと思うてな」 血の気が引いた。この老人が抱えているのは狂気そのものだ。 「それで父を……」 そんなことのために。老剣士の、常人には理解できない望みを叶えるために父は殺されたのだ。 目を伏せる。その時に、まだ下げられていない膳が見えた。昼過ぎにはあったものが、夕方まで放置されているとは。生真面目な性格の小浦にしては珍しい。 「今回のことで、小浦にはよく働いて貰った。儂との立合を望んでおったから、それを条件にしての」 叶絵との立合を冗談めかして言う初芝に、小浦が過剰反応した理由がこれで解った。一番弟子としての自負と叶絵への対抗意識がそうさせたのだ。 「自慢の弟子だったよ。稽古熱心なだけでなく、身の回りの世話もよくしてくれた。今回の件では、二宮を尾行してお主を見つけたのが一番の功績だ」 おかしい。 なぜ師匠は小浦のことを過去形で話すのか。 浮かんだ疑問の答えは、初芝の袴にあった。 袴には赤い飛沫が付着している。よく見ると道着にも。 「気付いたか。そう、つい先ほど立合を終えたところよ。あやつは満足そうな顔で逝きよったわ」 息を呑んだ。この師にして、あの弟子ありか。師弟ともに、考え方が俗世から掛け離れている。 目眩がした。身体から力が抜けていく。初芝の姿が揺らめいて見えた。 「ふむ。その様子ではまだ立合う気になっておらんようじゃの。仕方ない、これでどうだ」 初芝は一枚の写真を取り出し、布団の上に置く。 「小浦の最後の仕事だ」 写真には、壁にもたれて座り込む女性が写っていた。左肩から右脇にかけて深い刀傷が走り、夥しい量の血が流れている。右手にスマホを持ち、どこかに電話している最中で事切れたのだろうか。 ――いやそれよりも。 被写体の金髪と服装に見覚えがあった。 「凪沙……っ⁉」 「この娘は見学に来ておったの。お主の学友であるなら、それもまた無用なしがらみよ」 だから始末したのか。 小浦にとって最後の仕事ということは、時間的に考えて、叶絵を初芝の家まで送り届けた直後だろう。 父だけでなく、凪沙まで。しかも彼女は、金と暴力の世界とは無縁の人だ。抵抗する術も気概もない者を斬り捨てるとは、これほどの不義は他に類を見ない。 荒れた感情が、瞬時に腹の底から脳天まで突き抜ける。腹わたが口から飛び出しそうなほどに、叫び声を上げていた。 自分の中で何かが吹き飛んだ。 枕元に置いていた〈無銘〉を掴み、抜刀の体勢に入る。 ――が、顎を掴まれた。同時に右手を抑えられ、動きを封じられる。 「そう、その目だ!」 初芝が狂気の瞳で叶絵の目を覗き込む。 「儂が憎いか? ならば斬るがよい」 叶絵は全身に力を込めて縛めを解こうとする。しかし体格差のせいで逆に抑え込まれてしまう。 布団に頭を押さつけられながら思った。 目の前に仇がいるのに、一矢報いることもできない自分が悔しい。それに自分は、友人が殺されそうな時、呑気に寝ていたのだ。己の愚かしさが憎くて仕方ない。 足をばたつかせているうちに息が切れてきた。涙で視界がぼやけていく。やがて抵抗する気力を失った。 「これまでか……まあよい。明朝六時、道場へ参れ。それまで充分に練り上げよ」 初芝は一方的に言い放つと、部屋から出て行った。 天井を眺めながら、叶絵は打ちひしがれていた。 ――信じていたのに。 頼れると思っていた相手に、大切なものを二つも奪われた。自分にはもう、信じられるものが無い。 こんなことなら、居合の腕を上達させなければ良かった。昨日の夕方、試斬を成功させなければ、師匠はこの自分を強敵と認めなかっただろうに。いや、入門したのがそもそもの間違いだったか。それを言うなら、自分が生まれさえしなかったら―― 考えるのが億劫になってきた。いくら考えても、父や凪沙は帰ってこない。信じられるものも無い。だったらこのまま生きるよりは、終わらせてしまったほうがいい。 叶絵は〈無銘〉を鞘から抜いた。切っ先を喉に当て、目を閉じる。 『それが君の答えなのだな』 こんな時でも〈無銘〉は、決して主の考えを否定しない。その誠実さに反した行動を取ることに、少し良心が咎めた。 「うん、ごめんね」 謝罪の言葉を告げると、刀はこう返してきた。 『ではその前に、一つだけ私の言うことを聞いてくれ』 人の意志を制限することまでは出来ないと言っていた〈無銘〉にしては、珍しい反応だった。 『君の携帯電話に着信が入っている。伝言が録音されているようだ。その内容を確認して欲しい』 叶絵は畳んだ服の上に置いたスマホを見る。二宮から取り返したものだ。確かに、不在着信があることを示すランプが点滅していた。 『私は内容を聞いていない。だが重要なことに思えてならないのだ』 そこまで言うのなら。叶絵は刀を鞘に収め、畳に置いた。スマホを手に取り、留守電サービスに録音されていた音声を再生する。 『……叶絵? 私、もうダメかも』 凪沙だった。彼女の吐息は荒く、喋るのも辛そうだ。 『だから今のうちに謝っとく。ごめんね、さっきは』 彼女の家での出来事を言っているらしい。 『あんな態度されたら、見捨てられたって思うよね。私、本当に酷いことしちゃった』 違ったのか。絶交されたものとばかり思っていたのに。 凪沙は鼻をすする。 『……私ね、犯人はあんたじゃないって、信じてたよ。だって、やってないって言うんだから、そうに決まってるじゃん』 確たる根拠は無い。なのに信じる。その馬鹿正直さが、今は胸に響いた。 『でもさ、逃げてばっかりじゃ自分が犯人だって言ってるようなもんだと思ったからさ。だから警察に行こうって言ったんだよ。自分から本当のことを話さなきゃ、言われっぱなしになっちゃうじゃん』 今となっては悲しいすれ違いだ。あのとき自分に、凪沙の助言を受け入れられるだけの余裕があればよかったのに。 『なのに、こっちの言いたいことが解って貰えなくて……それがちょっと悲しかったかな』 彼女の両目が赤かったのはその為らしい。あの時に気付けなかったのが悔やまれる。 『けどさ、後でよく考えたら解ったんだ。そっちにしてみれば警察に突き出されるって思うよね。怖がらせてゴメン』 彼女は何も悪くないのにまた謝る。 『あとね、今まで言ってなかったけど――』 次に凪沙が話した内容は、叶絵を驚かせるものだった。 『あんたがヤクザの娘ってこと、とっくに気付いてた。帰るとき、いつも同じ車が後を尾けてたもんね。乗ってる人を見たら、大体察しはつくよ』 彼女は気付いていたのだ。そうでありながら、友人でい続けてくれた。あとは叶絵が勇気を出して話すのを、ずっと待っていた。 『あんたがヤクザの娘だろうがなかろうが、私には関係ない。組長の娘ってことまでは知らなかったけど、結局は同じこと。あんたはあんた。私の大切な友達だよ』 親友の声には、弱々しくも友を慈しむ優しさがあった。 『友達だから力になりたかった。これは本当の気持ち。さっきは伝わらなかったみたいだから、今はっきり言っとく。悩んでたなら打ち明けて欲しかった。私じゃ大した力になれないかもしれないけど、一人で悩むよりはマシだと思うんだ』 ここで凪沙が咳き込んだ。 『……っと、そろそろマジでヤバいな。めっちゃ寒い。私、できたら天国に連れてって欲しいなぁ……』 彼女は笑うが、力がこもっていない。今にも消え入りそうだった。 『別れは済んだか』 音声に男の声が混じる。これは小浦の声だ。 『もう少し待ってよ、おじさん』 気丈にも言い返す凪沙。 『本当の話は、この人が全部教えてくれた。やっぱり叶絵を信じてて良かったよ。安心したわ』 間もなく死を迎えようかという時に、彼女は晴れ晴れとした様子で言う。 『私は一足先にあの世でロックスターになっとく。ライブチケットは取っとくから、焦って来なくてもいいよ』 今のは精一杯の強がり、あるいは残された友人への思いやり。凪沙の健気さ、気高さが伝わってくる。 『それじゃあバイバイ。今までありがとう』 音声はそこで途切れていた。 この二日間でどれだけ泣いただろうか。なのに涙が枯れることはない。今もこうして、後から後から溢れ出してくる。 『彼女は、最後まで君を信じていたのだな』 〈無銘〉の言う通りだ。見捨てられたと思っていたのは勘違い。凪沙は最後まで、この自分を友達だと言ってくれた。 『聞いてくれ。武彦から学んだことだ』 刀は語る。無言でいた時間を取り戻すかのように。 『武彦は生前「信じることをやめてはならない」と言っていた』 それは叶絵も覚えている。信じてばかりで裏切られたらどうするのかと、子供心に不思議だった。 『武彦が信じた相手に裏切られたことは、一度や二度ではない』 裏切られる度、父は悩んだことだろう。他人を出し抜くことで成り上がろうという世界で生きてきたのだ、父の苦悩は計り知れない。なのに人を信じ続けたのは何故だろう。 『幾度となく裏切られ、心身ともに疲れ果てた頃、私は問うた。何故信じることをやめないのかと。すると武彦はこう答えた』 〈無銘〉は父の言葉を引用する。 『「信じることで裏切られ、傷つくこともある。信じることは真に難しいものだ」』 それは叶絵も痛いほどに理解できる。 『「しかし難しいからこそ、信じることには価値がある」』 ハッとさせられた。その発想は叶絵に無かったものだ。 刀は続ける。 『その考え方に立てば、互いに信じ合うことほど尊いものはない。武彦が命を賭けた理由も頷けるのだ』 信じて裏切られるのが怖い、それは相手も同じことだ。しかし相手がその恐れを乗り越え、自分を信じてくれたのなら。その想いに応えたいと思うのが、人情ではないだろうか。 相手から信じて貰うだけではいけない。自分が信じるだけでも足りない。互いに信じ合い、相手の信頼に応えたいという願いを抱いた時、それは何にも勝る力となる。 『叶絵』 名を呼ぶ〈無銘〉の声は、若き頃の父に似ていた。 『君の友は、命果てるまで君を信じた』 凪沙は死への恐怖に耐えながら、その事を伝えてくれた。 『武彦は君を信じたから、君に私を託した』 人生を共に歩んできた相棒とも言える刀を、父は己の命と引き換えに託した。 『二人の想いが偽りでないことは、君にも伝わっているはずだ』 凪沙と父はこの世を去った。だが彼女らが信じてくれたという事実は、自分の中で生き続けている。 『ならば我が主よ。君は君を信じた人々に、何を以て応える』 更に〈無銘〉は、こう付け加えた。 『私は主を信じる。たとえどんな結末であっても受け入れよう』 ――ああ、ここにも居たんだ。 叶絵の心に、一条の光が差し込んだ。 自分には、信じられる相手がまだ残っていた。 思い出す。窮地に陥った時、助言をくれたのは。自分を主として認め、信じてくれたのは。辛い時に寄り添い、大切なことを教えてくれたのは。果たして誰だったか。 叶絵は〈無銘〉を胸に抱いた。 天に星、地に花、人に愛が必要であるように、今の自分に必要なものはここにある。 「お願い、私に力を貸して」 夜明け前の道場は、まるで氷の世界だ。冷えきった床を裸足で歩くと、茨を踏むような痛みが走る。 高窓から月明かりが差し込んでいた。空には雲ひとつなく、澄んだ空気の中、辺りは静まり返っている。 叶絵は濃紺の道着と袴に着替えていた。長い髪は後ろで束ねている。いつもの稽古と同じ姿だ。 神棚に正対し、道場の中心で正座した。両目を閉じ、精神を集中させる。 相棒の刀は右側の床に置いた。手入れは済んでいる。互いの魂をすり合わせるかのように、入念に行なった。 ややあって、引き戸の開く音が聞こえた。目を開くと、正面左側の入口から初芝が入ってきたところだった。白い道着に袴。小浦との立合と同じ装束だ。 「腹を決めたようじゃの」 初芝が嬉しそうに言った。師匠は神棚を背にしている。腰には愛用の刀。既に真剣勝負は始まっている。 叶絵は〈無銘〉を自分の前に置き、正面の初芝に座礼をした。 「稽古ではない。礼など不要だ。かかって参れ」 刀を抜きもせず、初芝は叶絵を窘める。遥か間合の外だ、緊張感はそれほどでもない。 しかし構わず、叶絵は座礼をした体勢のまま動かない。これにはさすがの初芝も違和感を覚えたようだ。 「まさか命乞いではあるまいな」 二歩、三歩と歩み寄り、こちらの様子を窺いに来る。あと一歩で叶絵の間合に入りそうなところで、初芝は足を止めた。 「……奇襲か」 その声に、僅かな緊張の気配を感じた。周囲の空気が張り詰めていく。 「他流派には、帯刀せぬまま鞘を引いて抜刀する業がある。お主、それをやるつもりか」 ――読まれている。 叶絵の背に寒気が走った。やはり付け焼き刃の戦法では師匠を倒せない、そう思い知らされた。 「勝つ為には手段を選ばぬか」 初芝の目には、なりふり構わぬ姿として映ったようだ。師匠は益々嬉しそうに言う。 「それで良い。武とはそういうものだ」 初芝が臨戦態勢に入ったようだ。道場の気温が一度上がったような錯覚を覚える。 座礼の体勢から顔を上げた。師匠はこちらに対し半身になって、直ちに抜刀できそうな体勢を整えている。 叶絵は立ち上がり、〈無銘〉を腰に差した。この瞬間に斬りつけてくることは無いだろう。何せ初芝は強敵との死合を欲している。簡単に勝てるようでは面白くない、きっと勝敗の予想が困難な展開を求めてくるはずだ。 「仕切り直しじゃの」 笑みを浮かべて師匠が右に動く。それに合わせて叶絵は左へ。両者で円を描き、次第に円は大きなものから小さなものへ。こうして少しずつ間合を詰めていくだけでも、叶絵の精神に大きな負荷がかかっていた。 『焦らなくていい。自分の呼吸を保て』 〈無銘〉からの助言。相手への恐怖心から考えもなく斬りかかってしまう自分を、引き止めることができた。 事実、目の前の老剣士は恐ろしい存在だった。刀を帯びると体躯が二倍にも三倍にも見え、不用意に斬りかかれば確実に反撃を食らうことが想像できてしまう。かといって固まったままでは、瞬時に間合を詰められ両断されることは必然。こうして間合の外で対峙することでさえ、耐え難い苦痛だ。 駄目だ、このままでは絶対に敵わない。 『次の段階だ』 〈無銘〉と意志を通じ、別の体勢を取った。 再び正座。今度は帯刀したままだ。 「ふむ……」 初芝は叶絵の意図を解りかねているようだ。これでいい。こちらの真意を悟られるわけにはいかないのだから。 抜刀した状態での斬り合いでは、万に一つの勝ち目もない。体格差、体捌き、太刀筋、いずれも師匠が上回っている。であれば、自分が取り得る戦い方はこれしかない。 「居合か」 初芝が気づいたようだ。 「面白い、付き合おう」 と言って叶絵の正面に正座する。相手との距離は畳一枚分。抜刀すれば瞬時に斬りつけられる状況だ。 鼓動が跳ね上がる。まさかこれほどの威圧感だとは。初芝は猫背で座っているものの、放たれる気迫が常人とは比べ物にならない。まるで強風に晒されているようだ。これが本物の武人というものか。 ――いや、これでいい。 叶絵は息を細く吐き出す。やはり師匠はこちらの策に乗ってきた。弟子の手の内に敢えて入ることで、自分が敗北するかもしれないという危うさを受け入れる。相手はそれすらも楽しんでいるようだ。 ここから先は読み合いだ。 居合とは本来、迎撃用の術である。相手の攻撃が前提となるわけだが、反撃の方法は三つに分類される。 一つ目は〈先の先〉。相手の攻撃の意志をいち早く見抜き、相手が動く前に斬りつけることをいう。 二つ目は〈先〉。相手の攻撃が功を奏さないうちに斬りつけることをいう。相手が先に抜刀したら、こちらも刀を抜き、相手の刃が届くよりも早く斬りつける場合などがこれに当たる。 最後は〈後の先〉だ。相手の攻撃を躱す、受け流す等して無効にし、反撃することをいう。 これらのうち、叶絵が狙っているのは〈先の先〉だった。残り二つはどう考えても分が悪い。 とすれば、使う業は自ずと限定されてくる。 「〈前一刀〉か」 やはり読まれていた。伝授した側にしてみれば、弟子の思惑など手に取るように解るのだろう。 「結構。ならば儂の〈意〉を感じ取ってみよ」 師匠は受けて立つつもりだ。 叶絵は五感を研ぎ澄ます。周囲の景色は彼方に消え、目の前の初芝だけが暗闇に浮かび上がる。相手の視線、手の動き、息遣いに至るまで、抜刀の兆しを見逃さぬよう意識を集中させた。 ――息苦しい。 おそらく初芝は、同じ業で応戦してくるはず。であれば、読み違いは命取りだ。師匠が抜刀すると勘違いして、こちらが先に攻撃を仕掛ければ、こちらが迎撃される立場になる。そうなれば最後、気付いた時にはこちらの頭が吹き飛んでいるに違いない。 死への恐怖が無いと言えば嘘になる。だがそれに囚われれば身がすくむ。今はただ、学んだ通りに業を使うことだけを考えた。 「少し、昔話をしようかの」 不意に、初芝が口を開いた。己の〈意〉を悟らせない為だろうが、ぎりぎりまで張り詰めたこの状態でいきなり声を出されると心臓に悪い。 「儂が志願兵だったことは前にも話したな」 先の世界大戦では一五歳ながら帝国海軍に志願し、戦闘機乗りとして戦地へ派遣されたという内容だった。 「あの頃は敵艦と刺し違えるつもりでおったから、大義の為に命を捨てることなど惜しくはなかった」 そう思うことが異常ではなかった時代の話だ。初芝少年も熟慮の末に決心したことなのだろう。 「だがの。いよいよ明日は最後の出撃という時にな、戦争が終わった」 師匠の声が曇る。当時を思い出したのだろう。 「胸にぽっかりと穴が空いた気分じゃった。田舎に帰れば家族はみんな死んでおる。しばらくの間は何もする気になれんかった」 気の毒に。初芝少年は叶絵よりも若くして、多くのものを失ったのだ。 「儂に残されたのは剣術の心得と一振りの刀のみ。無我夢中で不良外国人を成敗したよ。一切のしがらみは無く、死ぬことも怖くなかった。お陰で儂は開眼することができた」 この経験が、後の考えに影響を及ぼしたことは想像に難くない。 「あとはもう、手当たり次第よ。愚連隊の一員として、時には用心棒として。とにかく斬りまくった。だが段々と欲が出てきてのう」 初芝の狂気はそれ以来なのだろう。 「生半可な相手では満足できなくなった。じゃから自分の流派を立ち上げ、弟子を募った。儂を脅かす者を育て上げる為に」 強敵がいないなら育てればいい。並の人間なら思いつかない発想だ。 ここで初芝は、何を思ったか天井を仰いだ。表情は穏やかで、心から満足しているようだった。 「長かった……。しかしようやく見つかった。これで思い残すことは何も」 その瞬間は唐突にやって来た。 総毛立つ。感じ取った時には既に、叶絵の右手は刀に伸びていた。 焦るな、 鞘引くな、 〈軸〉で抜け。 さすれば自ずと最速なり。 師匠の教えが脳裏をよぎる。幼い頃から学んだことを、全て解放した。 柄を握る右手は動かさない、腰を前方に浮かせながら、体軸と刃が連動するイメージ。鞘の向きは自然に水平へ。力強く右足を踏み出し――抜刀、即、初太刀。 初芝はまだ抜いていない。 相手の顔面に〈無銘〉の刃が吸い込まれていく。 が。 切っ先は相手の鼻梁を掠めただけ。 躱された。 まずい。〈後の先〉が来る。 師匠が動いた。やはりここで抜刀。 こちらの右薙は振り抜いた。受けは間に合わない。 怖い。斬られる。自分は、ここで―― 『続けろ!』 〈無銘〉の声が響いた。 消えそうになっていた心の灯火が再び燃え上がる。 視界が開けた。初芝の動きがよく見える。右薙の刃がこちらの胴に迫っていた。 間に合うか。 いや、余計なことは考えるな。 こうなることは――狙い通りなのだから。 「破ッ!」 〈前一刀〉ニの太刀。試斬では省略していた、真向上段からの斬り下ろしだ。 全身全霊をかけて、叶絵は刀を振り抜いた。 叶絵の右脇腹から血が滴る。初芝の刃は道着を切り裂き、胴体に食い込んでいた。おそらく肋骨に到達しているだろう。 体が震える。汗が吹き出した。左手を床につき、喘ぐ。このまま内臓が零れ落ちてしまいそうな気がした。 「……これが、お主の答えか」 師匠は声を絞り出す。 ――ばらばらに砕け散った愛刀を見つめながら。 「……はい」 今にも気を失いそうだったが、叶絵は問いに答える。この結末は偶然ではなく必然、初芝にはそのことを伝えておきたかった。 叶絵がやってのけたのは武器破壊。相手を絶命させることなく無力化する為に選択した手段だった。 折れず曲がらずと言われる日本刀だが、その実、横からの力には驚くほど弱い。一定以上の力が横からかかると、いとも簡単に折れてしまうのだ。 この結果をもたらす為には、三つの課題があった。 第一に初芝が居合での勝負に応じること。これはそれほど難しくはなかった。力の差は相手も理解しているところであるから、勝利を困難にする為には敢えて弟子に合わせてくるだろうと予想していた。 第二に、互いが〈前一刀〉を使用すること。初芝に同じ業を使うよう仕向ける為、こちらの業を読ませやすい状況を作った。 第三が、初芝に〈後の先〉を使わせること。これが最も重要な課題だった。 「〈後の先〉よりも更に先を読んでいたとはな」 「……はい。先生なら……これぐらいのことは……必ずやってくださると……信じていました」 つまりこうだ。 初芝はわざと攻撃の意志を叶絵に感じ取らせ、抜刀させた。その上で初太刀を躱し、反撃に移ったのである。 だがそれすらも、叶絵と〈無銘〉にとっては予想の範疇だった。 最初の座礼で刀を前に置いたのは、得物の尺を相手に把握させる為。師匠のことだ、こちらの体格と刀の長さが分かっていれば、初太刀をぎりぎりで躱すことなど造作もないだろうと踏んでいた。 こちらの初太刀を躱せば、即座に反撃の右薙が来る。この瞬間を狙い、真向上段からの斬り下ろしによって初芝の武器を破壊する。〈無銘〉と事前に練った作戦は、想定通りの結果をもたらしたのだった。 一つだけ読み誤ったのは、初芝の刃が想像以上に速かったこと。お陰でこちらも無傷では済まなかった。 叶絵は右脇腹を押さえて床に倒れ込んだ。これ以上は姿勢を保つのも難しい。意識が遠ざかっていく。 「お主は儂に、生きて償えと申すのだな」 狭まっていく視界の端に、憑き物が落ちたような顔の師匠が見えた。僅かに残った力で頷くと、こんな答えが返ってきた。 「……相分かった」 それきり、初芝は何も言わなかった。気配は遠ざかり、やがて道場には人気(ひとけ)が無くなる。異様な寒さだけが後に残った。 「……〈無銘〉、終わったよ」 叶絵は右手の相棒に話しかける。〈彼〉もまた無傷では済まず、大きな刃こぼれが出来ていた。 『そうだな。疲れたろう、しばし休むといい』 「うん……」 『私も眠るとする。縁があれば、また話そう』 「生きてたら、ね」 『ああ』 遠くからサイレンの音が聞こえてきた。 高窓から朝日が差し込んでくる。 仄かな暖かさを感じつつ、叶絵は目を閉じた。 ■ 事件から一年、今年も寒い冬がやってきた。 「時間です。そろそろ行きましょうか」 二〇代後半の女性が声を掛けてくる。ベージュのスーツに縁なし眼鏡といった姿の彼女は、こちらが年下であるにも関わらず丁寧な態度を崩さない。まだ若手の弁護士だと聞いているが、仕事ぶりは有能だし、親しみやすい雰囲気の持ち主でもある。この人なら、これからのことも安心して任せられそうだ。 「はい」 待合室のソファから立ち上がる。長かった髪をばっさり切ったので、今までのようにいちいち整える必要もなくなった。今日は就活生のような黒いパンツスーツを着てきたのだが、似合っているだろうか。 「いいですか、検事との打ち合わせ通りに証言するんですよ。弁護人の口車に乗せられちゃいけませんからね」 証人尋問を前に、付添人からこんなことを言われるとは思いもしなかった。 「あれ、笑ってます?」 「ごめんなさい。だって大平さん、あなたも弁護士なんでしょう? 同業者のことをそんな風に言うなんて」 大平弁護士は、眼鏡の向こうの瞳をぱちくりさせる。その仕草がやけに可愛く感じられた。 「そりゃそうですけど、今は立場が違いますからね。何せ私は、あなたの代理人ですから」 彼女とはアドボカシーセンターからの紹介で知り合った。天涯孤独の身となった自分が未成年であった為、今後の法的手続には専門家が必要だということで担当になって貰ったのだ。 「はいはい。わかりました」 ふくれっ面の彼女に、叶絵は笑顔で答える。こうして話していると、歳の離れた姉ができたようで楽しい。 この人と一年前に知り合っていたら、色々と変わっていただろうなと昔を振り返った。 ――初芝との立合を終えた後、叶絵は救急車で救命救急センターに運ばれ、一命をとりとめた。誰が通報したのかまでは分からないが、おそらく師匠だろう。 初芝はというと、道場を出たその足で警察に出頭したらしい。叶絵の父と凪沙を殺害したことについて、自分が弟子に命じてやらせたことだと正直に話したのだそうだ。こうして逮捕される身となり、公判において沙汰を論じられることとなった。 今日は検察の要請により、叶絵が被害者遺族として証言することになっている。話題性がある事件の裁判なだけに、裁判所には報道陣が詰めかけていた。それでなくても裁判員裁判なので、人前で上手く話せるか心配で仕方なかった。 「そういえば、解散届はどうなってます?」 法廷に向かう途中で、大平弁護士に尋ねた。 「それなら必要ないみたいです。組員がいなくなったので消滅扱いだそうで」 暴力団は警察に解散届を出すことで、警察からの監視対象ではなくなるのだが、〈黒澤組〉は組員が全員死亡したので、この限りではないのだそうだ。 「そうですか」 初芝が警察に出頭して以来、叶絵に対する暴力団からの接触は一切なくなった。これは初芝が、出頭直前に〈六代目羽山組〉組長への厳命を行なったからだと聞いている。後で知ったことだが、かの老剣士は戦後間もない頃から羽山組と縁があり、用心棒稼業を通して数々の貸しを作っていたのだという。道理で六代目が逆らえないわけだ。 「そんなことより公判です。さ、集中してください」 大平弁護士が言う。叶絵の証言により、初芝の量刑が左右されるとのことだった。 あのとき自分は、初芝に生きて償うことを求めた。師匠はそれを受け入れ、囚われの身となった。この潔さがせめてもの救いだった。 しかし父と親友は二度と帰ってこない。この事実は変えようがなく、引きずり続けるであろう過去となる。これを抱えながら一人で未来へ歩むのは、あまりにも過酷だ。 叶絵は、隣を歩く若き弁護士の横顔を見た。少なくともこの人は、これからも支えになってくれると信じたい。 信じることは難しい。だけどそれだけに価値がある。信じ合うことは何にも勝る力だ。 大切なことは、父と親友――そして〈あの刀〉が教えてくれた。 叶絵は法廷の入口で立ち止まり、今も自宅で眠る愛刀に想いを馳せた。 いつかまた、話せる日が来ることを信じて。 [了] |
庵(いおり) 2020年12月27日 03時24分59秒 公開 ■この作品の著作権は 庵(いおり) さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2021年01月11日 19時44分01秒 | |||
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