ハイドラの書 |
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これは、はるか昔の物語でございます。大陸が今とは異なる形をなし、天の星々も今とは異なる位置にあり、今ではその名すら忘れ去られた古き神々が人の世に力を顕わすことのあった、失われた過去の物語でございます。 ここで語られる事柄には、古い物語によくあるように、今では受け入れがたい考え方や風習に基づいて、粗暴な力がためらうことなく振るわれる場面が描かれております。また、力ある者によって弱き者が虐げられて苦しむさまや、多くの者たちが逃れようもなく苦悶のうちに命を落とす状況が描写されております。 そのような物語を聞くことを望まれない方は、ここを離れ、ほかの語り部の方々が紡ぐもっと平穏な物語の輪に加わることをお勧めいたします。 『昏き水の国』の空には、どんよりとした雲が重苦しくたちこめておりました。王都の上空に、一体の翼竜が現われました。翼竜は、王宮前の大広場に音もなく舞い降りました。その背中から、正装した一人の若者が広場に降り立ちました。古びた分厚い石畳の上に立つ若者は、『暗い谷間の国』から訪れた使者でした。使者は、駆け寄ってきた城門の衛兵に用向きを伝えました。 使者の到来を受けて、巨大な岩造りの城門の分厚い鋼の扉が荘厳な音を響かせながら開かれました。使者は、出迎えた騎士たちに守られて、城内に入りました。城内には広大な運河があり、石造りの長い橋が掛けられていました。王宮は、古代の技術によって巨大な岩を積み上げて造られており、丘と見まごうほどの大きさがありました。使者は、騎士たちに導かれて、王宮の中へと入ってゆきました。 使者は、『昏き水の国』の大王に謁見し、親書を手渡しました。そこには、『暗い谷間の国』の姫君が十五歳になられたため他国にお披露目をする、という知らせが書かれておりました。さらに、麗しい姫君の肖像画が添えられておりました。 『昏き水の国』の大王は、使者を控えの間にさがらせると、若君を呼んで届けられた親書を示しました。 「『暗い谷間の国』の姫はソフィア・フローレンス王女と申すそうじゃ。噂では、天上から降りた地上の花と謳われる美貌の主と言う。じゃがな、ウインクしながら親指を立ててほほ笑む王族の肖像画など、余は初めて見たわ。さしずめこやつは山々を駆けまわって育った山猿娘であろうよ」 若君は、顔にかかった長い黒髪をかき上げながら、皮肉めいた笑みを浮かべました。 「野性味あふれる美少女ですか。興味がありますね」 大王は、若君の言葉を遮りました。 「じゃがな、こんなに眼がつぶらで顔の整った娘が実際におるとは、とても思えぬ。おそらく、チラリとしか姿を見ることのできなかった絵師が想い描いた妄想であろうよ」 若君は思いました。 (たとえ本当の美しさがこの肖像画の半分としても、ボクのコレクションに加える価値は、十分にありそうですね) そこで、若君は大王に進言しました。 「『暗い谷間の国』には、まだ男子の世継ぎがいないとのことですね。王家が養子をとる前に、共同統治を持ちかけてはいかがでしょうか。『ハイドラの書』の謁見をご許可いだだければ、ボクがハイドラの力を得て、この娘を隷属させますが?」 大王は驚きました。 「呪われた『ハイドラの書』を読み解くと申すか。ハイドラは『深き水の底で微睡むもの』の眷属じゃ。その力は強大じゃぞ。その力を宿すためには、人の身体は脆弱すぎる。ハイドラの力を得るならば、人であることをやめなければならぬのじゃぞ!」 若君は、ためらわずに答えました。 「すべて承知の上です。ハイドラの力を得たら、『深い谷間の国』を支配することをお約束いたします」 しばらくの間、大王は言葉を発しませんでした。 そして…… 「よかろう。ハイドラの力を得て『深い谷間の国』の支配を手にするがよい」 若君は、ほっそりとした長身の体を折って、優雅に大王に一礼しました。 「『お披露目の儀』を『水の聖堂』で行わせれば、共同統治の証しとして王家同士が結ばれる婚儀を執り行うことができますね」 大王は深くうなずきました。 「そのように取り計らおう」 若君は、大王の元を去りながら考えました。 (不死身のハイドラの力を得ることができれば、ボクがあの姫の心と肉体を支配してやる。そうなれば、あの姫が美しい顔をゆがめ、どんな声をあげて泣き叫ぶか、不死身のハイドラの力にさらされ続けながら、王族のプライドをどれほど長く保つことができるか、確かめさせてもらえるな。 心が壊れて、ボクの命令に従うだけの人形になってしまったなら、山々を駆けまわって鍛えられた乙女の体がどんなものか、その後にたっぷりと味わせてもらおう。 クッ、クッ、クッ、会うのが今からとても楽しみだよ) 『昏き水の国』が強国であるのとは対照的に、『暗い谷間の国』は、王国を名乗ってから日が浅く、他国からは最弱とみなされがちでした。険しい山々を領地とし、幾重にも連なった岩山が自然の要塞となって他国の侵入を阻んでおりました。厳しい自然は、貧しい生活を送りながらも誇り高い人々をはぐくんでおりました。わずかな土地は作物の栽培にあてられ、人々は岩を穿って住居としていました。 翼竜騎士見習いのケイン・デモンバスターは、沈みゆく太陽に遅れまいと、岩を蹴って深い谷底の渓流を飛び越えてゆきます。目の前に立ちふさがる切り立った崖へと向かって、岩を削って造られた道が、暗がりの中へと続いていました。ケインは樹々のつくる闇を抜けると、王宮への険しい坂道を一気に駆けのぼりました。深い音色の角笛が夕闇のせまる山々に木霊して鳴り響いています。同時に早鐘の奏でる鋭く甲高い音が、ケインの不安を激しくかき立てておりました。 突然にケインの前に視界が開けました。『暗い谷間の国』の王都をかこむ切り立った崖が、黄昏の光をうけて黄金の色に染まっておりました。王宮は巨大な岩を掘り抜いて造られています。王宮のある岩山から、非常時を知らせる狼煙が、爛(ただ)れたような夕焼けの空に立ちのぼっておりました。 走り続けるケインの口から、思わず言葉がこぼれました。 「姫様のめでたいお披露目の儀を控えているこの時に、いったい何があったのだ」 王宮の分厚い木の扉は、大きく開け放たれていました。入り口には衛兵の姿が見えませんでした。ケインは王宮の扉をくぐりぬけると、歩きながら息を整えました。廊下の奥に、岩の大広間へと走りこんでゆく数人の人影が見えました。廊下には列をなして円柱が立っていました。岩を削りだして造られた円柱には、燃える松明が差されていました。松明の光を受けて、円柱に刻まれた風の紋様がゆらめいています。ケインは廊下を抜けて岩の大広間に向かいました。 王宮の大広間には、すでに人が満ちていました。かがり火のゆらめく光に照らされて、人々は闇に呑まれまいと必死になって蠢(うごめ)いているように見えました。王都の住民のほとんどが集まっているようでした。 大広間の中心にいるのは、『昏き水の国』へと遣わされた使者でした。四王国では王族が十五歳になると、他国にお披露目するという慣例があります。使者は、お披露目の知らせのために遣わされた者でした。ケインの同僚で、ともに翼竜の騎士を目指して研鑽しあう仲にありました。各国の王室の儀礼に通じ、思いやりがあり、人当たりがよく、状況判断にすぐれた、弁の立つ人物でした。 しかし、ケインは思いました。 (様子が違うぞ。まるで別人じゃないか) 使者の目は虚ろで、周りが見えていないかのようでした。体はふらふらとして定まらず、唐突に向きをかえ、何かを口走り続けています。 「『暗い谷間の国』の姫が紹介される場として、不便な山奥はふさわしくあるまい」 使者の言葉に、ケインは強烈な違和感を覚えました。 (今、こいつは姫君様のことを『姫』と呼び捨てにしたな) 「また、王族が長く国を離れることは避けるべきであろう。皆が集まりやすい『昏き水の国』と『灼熱の炎の国』の境にある中立地帯の丘こそが、集まるにふさわしい場所であろう。さらに、儀式を執り行う場としては『水の聖堂』が提供されることになろう。『暗い谷間の国』から参列する王族は、姫のみとする。儀式の場で互いが武力を持って争うことのないように、参列する人数は各国ともに九人までとし、その中に騎士や戦士を加えてはならない。使役獣は、移動に必要な最低限の頭数とする。そのように伝えるがよい」 (そのように伝えるがよい、だと? こいつは言われたことをそのまま繰りかえしているのか?) つづく使者の言葉は、集まった人々にとって、あまりにも意外なものでした。 「『昏き水の国』と『暗い谷間の国』が互いに対等の関係で両国を統治することを検討するがよい。すなわち、『昏き水の国』は儀式の場において、両国の共同統治を提案するであろう」 岩の大広間は騒然となりました。 突然に、使者の体が強張りました。弓のように反り返ってブルブルと震えだします。さらに、使者の襟に止められた『風の徽章』が蒼白い光を放ちだしました。光は強まってゆき、突然に消えました。そして『風の徽章』は砕け散りました。 誰かが叫びました。 「『風の加護』が失われたぞ!」 王家に仕える侍女たちが『風の紋章』が刻まれた呪物を掲げて、四方から使者を取り囲みます。使者は苦悶に身もだえしました。すると、使者の口から黒いぬるぬるとした塊が吐きだされ、べちゃりと床に落ちました。蛇とも触手とも見える塊は、しばらく床でのたうつと、少しづつ黒い塵となって宙を舞い、溶けるように消えていきました。あとには、腐った魚のような臭いと、強い潮の香りが残されました。 宮廷の侍女たちは、すばやく他所に通じる扉を閉じ、手際よく清めの灰を撒き、送風路の扉を開け放って、王宮から悪臭を追い出しにかかりました。 王座の前に大臣たちが集まります。王都の住民の全てが王様と女王様に注目しておりました。王様は、ゆっくりとあたりに集まった者たちに目を向けてから、おもむろに口を開きました。 「思うところを述べてみよ」 第一位階の大臣が発言します。 「恐れながら申し上げます。こたびの『昏き水の国』からの返答は、われら『暗い谷間の国』の民に対して属国になれと命ずるものでございます。公式な使者に使い魔を取りつかせるなどの暴挙は、対等な関係をめざすならば有り得ない所業でございます」 第二位階の大臣が続けました。 「『昏き水の国』の王族は『水の聖堂』で婚儀を執り行うと聞いております。かの大国の王は、恐れ多くも姫君様を娶ったのちにその御命を奪うか、あるいは使い魔を憑依させて意のままに操るかして、『暗い谷間の国』を支配下に置かんと企てているものと愚考いたします」 めったに発言をしない翼竜騎士団の団長が重い口を開きました。 「もう一つの大国、『灼熱の炎の国』の王都は、我が国の高い山々から流れる水が砂漠につくるオアシスのほとりに造られております。我が国を経由すれば、たやすく王都まで兵力を送り込むことができ、容易に『灼熱の炎の国』を撃つことが可能となりましょう」 王は深くうなずかれ、嘆息してつぶやきました。 「第一の大国である『昏き水の国』がこの地の統一支配を望むのであれば、なんとしても我が国を支配下に置こうとするであろうな……」 王のつぶやきは岩の大広間の隅々にまで伝わっていました。 そののちに口を開く者はいませんでした。重い沈黙が広間を満たしていました。 涼やかな声が岩の大広間に響きました。 「『昏き水の国』が我が国を支配しようとしているのなら、たとえ今回の要求を跳ね除けることができても、さらに強い締めつけがあるでしょうね」 声の主は『暗い谷間の国』の姫君でした。その名をソフィア・フローレンスといい、『地上に降りた天上の花』と謳われる芳紀十五歳になられた麗しい王女様でした。 岩の大広間はざわめきました。 「姫君様……」 絶望の想いのこもった声が放たれました。 かまわずソフィア王女は続けます。 「お披露目の儀は、私の王族としての在りようを他国に示すために開かれます。だから、『昏き水の国』が要求する通りに振舞ったうえで、私と八人の供とで役目を果たしてみせましょう。私の力量を他国の王族に示すことが目的だから、父王様や女王様が直接に手をくだすことは御無用でございます」 王女の言葉に、岩の大広間に集まった者たちは息を呑みました。ソフィア・フローレンス王女は、構わずに続けます。 「王族の役割は、民の安寧を守ことです。『昏き水の国』の要求によって『暗い谷間の国』の民が苦しめられることがないように取り計らうことが出来れば、それでよいのです。こたびの試練を乗り切り、民を守るために、この身も心も捧げましょう」 誰かがつぶやきました。 「なんと健気な……」 誰かのもらしたその言葉は、そこに集まった全ての者たちが抱いた思いでした。 「今回は、私の考え、私の判断で事を運びます。ですから、供の者たちは私に選ばせていただきます。まずは、王女付の七人の侍女たち……」 メイド服姿の七人の美少女が進み出て、そろってソフィア王女に一礼しました。 「侍女長と副侍女長は『星を渡る風の書』を読み解き、それぞれ飛竜と夜魔たちを束ねてもらいます」 王座の方向から豪華な服がたてる衣擦れの音が聞こえました。王様が立ち上がっていました。多数の宝玉をちりばめた王笏が、かがり火の明かりをうけて煌めきながら、王の膝からすべり落ちました。王笏が厚い絨毯のうえに倒れる鈍い音が岩の広間に響きました。 「『星を渡る風』の力に頼ると申すか。大いなる災いを呼び込むことになるやも知れぬぞ。思い切ったことをする」 しばしの時が流れたのちに、王様の言葉が続きました。 「じゃが、今は『暗い谷間の国』が滅びるかも知れぬ危難の時じゃ。『無貌の神』に頼るよりは、はるかにましじゃろう。乗り越えるためなら、やむを得ぬ手立てかもしれぬな。よい。思うとおりに成すがよい」 ソフィア王女は王様に一礼しました。 「ありがとうございます、父王様」 王様は、玉座に倒れ込むように腰をおろすと、深く、深く、何度もうなずきました。 ソフィア王女は、花がほころぶような笑みを浮かべました。 ケインは背筋がゾクリとし、思わず逃げ出したくなりました。 (あ、やばい。何かとんでもないことを企んでいらっしゃるぞ) ケインの懸念は的中しました。王女は、さも当然の事のように言い放ったのです。 「王女付の護衛には、翼竜騎士見習いのケイン・デモンバスターを任命します」 岩の大広間がどよめきました。 翼竜騎士団の団長が発言しました。 「なぜ、このような半端者を……」 王女の答えは明快でした。 「供の者に騎士や戦士を加えてはならないのでしょう? でも、騎士見習いなら構わないはずよ。それに、ケインはクソ真面目で、問題など起こしそうにない朴念仁だから適任と思うの」 騎士団長、思わず吹きだしました。 ケインはひどく当惑しました。 (ボ、ボクネンジンて、いったいどういう意味なんだ? 絶対に悪口だろう) 騎士たちが、代わる代わる言い立てます。 「なるほど、確かに言葉が少なく無愛想なやつだから、余計な事を口にして他国と問題を起こしたりはするまい」 「良く言えば、自分の信念を貫く強さを持っているから、大国『昏き水の国』の大王を前にしても、おびえて選択を誤るようなことはあるまい」 「ある意味、大物だからな」 「確かに、意外と適任かも知れぬぞ」 翼竜の騎士たちは顔を見合わせると、ケインの当惑を吹き飛ばすように大笑いしました。 さきほどまでの重苦しい雰囲気は消え失せていました。 こうしてケイン・デモンバスターは、騎士見習いながら王女付きの護衛に大抜擢され、いまだ悪臭の抜けきらない王宮を後にしたのでした。 やがて『暗い谷間の国』に大国『昏き水の国』から詳しい段取りについての知らせが届きました。お披露目の式典は一か月後の満月の夜に『水の聖堂』で行われること。各国の参加者は、その二週間前に中立地帯の丘に集まり、他者との交流を断って、疫病が持ち込まれ蔓延するのを防ぐこと。その際に、食料や水は用意されるが、寝所や衣類などは各国で用意すべきこと等でした。 式典の十五日前の新月の夜に、ソフィア王女と七人の侍女、そして翼竜騎士見習いのケイン・デモンバスターは、王宮内にある『風の間』に集まりました。部屋の中には濃い闇がたゆたっておりました。四隅には小さな蝋燭が立てられて、弱々しく光を放っておりました。ゆらめく蝋燭の光がつくるソフィア王女の影は、天井にまで届くほど高く見えました。 部屋の中央に置かれた分厚い木の机の上に、古びた大きな本が運ばれてきました。禁断の秘技が記された『星を渡る風の書』でした。王とソフィア王女の手によって、本の中央にある古びた金属の錠が開けられ、本を縛る太い鎖が外されて、封印が解かれました。 しばらく時がたち、『風の間』の小さな窓に定められた星の一つ、プレアデスがかかりました。プレアデスの放つ光を受けると、本の表紙に描かれた風の紋が幽かに光を放ち、ゆっくりと渦を巻き始めました。『星を渡る風の書』が目覚めるのを待って、ソフィア王女みずからが導師を務めて、禁断の書が開かれました。 「くれぐれも、心を砕かれ呑まれて消失することのないように、自分を強く保つのですよ!」 開かれた頁に刻まれた文字がプレアデスの光を受け、蒼白い光を放つにつれて、各章が次々と侍女たちによって読み解かれてゆきました。侍女長が『飛竜の章』を、副侍女長が『夜魔の章』を会得し、二名の侍女が『風の知らせの章』を分担して読み解き、一名が『風の加護の章』、二名が『風の守りの章』を読み解いたのでございます。翼竜騎士見習いのケイン・デモンバスターが割り当てられたのは『魔風の章』でございました。 ケインが『魔風の章』を読み進むにつれて、蒼白い炎をあげて燃える文字がケインの心に刻みつけられてゆきます。やがてケインは、強い風が周囲に吹き荒れるのを感じ始めました。強い風は、ついには人の体から皮を?ぎ、肉を削ぎ取り、骨を砕くほどの強さになってゆきます。ケインは周囲に吹き荒れる風を感じ取っているのですが、『風の間』の蝋燭はただ静かに燃え続けております。 『魔風の章』を読み終えたとき、ケインは風が自分の中で吹き荒れていることに気が付きました。 このようにして、お披露目の儀を執り行う準備はとどこおりなく整えられてまいりました。 いよいよ出発の日を迎えたときに、王国の皆が見送りに集まりました。王様は襟と袖口が白貂の毛皮でできた豪華な正装に、数多くの宝石がちりばめられた王笏を携えていらっしゃいました。 女王様は、マーメイド・ドレスをまとっていらっしゃいました。ドレスは、上半身は白くてボディラインにぴったりと添い、膝のあたりからふわっと広がるドレスの裾にかけて、淡い空色から徐々に濃い碧空の色へと変化しておりました。移り変わる色合いは、ゆらめく松明の光に照らされて、大空を吹き渡る爽やかな風を強く思い起こさせました。 女王様はソフィア王女に小さな壺と布の袋を渡しました。壺には濃い蜂蜜が、袋には木の実や乾燥した果実が入っておりました。 「お茶会が開かれた時にでも召し上がってくださいね」 女王様は優しくおっしゃられました。 多くの国民が、ソフィア王女を送るために集まりました。集まった国民は、めでたいはずの姫君様のお披露目の儀が、『暗い谷間の国』の滅びの日となることを覚悟しておりました。 「どうか御無事で!」 皆が一斉に発したその言葉には、万感の想いがこもっておりました。 『暗い谷間の国』の入り口にあたる扇状地には、各国の王族を招くために、白木の仮宮殿がすでに半ば造られていました。侍女長は、強大な飛竜の群れを召喚して、すでに準備の済んでいた仮宮殿の骨組みと壁や屋根、内装の飾りや家具を、中立地帯の丘の上に運ばせました。そして、副侍女長が召喚した疲れを知らぬ夜魔たちが、その夜のうちに白木の仮宮殿を完成させたのでございます。 夜が明けて、真っ赤な太陽が空にのぼると、『灼熱の炎の国』の方角から甲高い角笛と太鼓の音を響かせて、騎馬の一団が駆けてまいりました。先頭を務める二頭の馬には、『大地を溶かす炎』の紋章を描いた旗が掲げられておりました。騎手たちは、頭に白いターバンを巻き、体全体を覆うゆったりとした白い衣服をひるがえし、細長い白い布をなびかせておりました。 それらの騎手たちに守られるようにして、その中央に白馬にまたがる人影が見えました。王族の一人と思われました。その人影は、真紅のマントを羽織り、マントには金色の刺繍糸で燃えさかる炎が描かれていました。 丘の下に到着した一行は、すぐさま運んできた棒をつなげて支柱とし、たちまち円形の大きなテントを張りました。テントは極才色に彩られ、黄金の炎の模様で縁どられていました。騎馬の一団は、そのうちの九名を後に残して、太鼓の音を響かせながら『灼熱の炎の国』の方角に走り去ってゆきました。こうして中立の丘に、『暗い谷間の国』と『灼熱の炎の国』の王族が集まったのでございます。 疫病が持ち込まれ蔓延するのを防ぐために、しばらくの間、各国は交流を断っていました。 ある日、『風の知らせ』を会得した侍女が頼み事を致しました。 「ケイン様、しばらくの間、物見の役を替わっていただけませんでしょうか?」 翼竜騎士見習いのケイン・デモンバスターは、快くこの頼みを引き受けました。ケインは、侍女たちの控えの間を抜けて、白木の仮宮殿の高殿に昇りました。 高殿は、中立地帯の丘の上に造られています。周囲がとても良く見えました。ケインは、険しい山々の連なる『暗い谷間の国』の方角を見つめました。深い緑に包まれた山々の上には、蒼い大空が広がり、真っ白な雲がかかっています。見慣れた景色のはずなのに、ケインにはとてつもなく美しく思えました。そこに住む人々は、自分たちの命運を姫君に託している。そう思い当たったため、ケインは姫君への忠誠を改めて心に誓いました。 次に、丘のふもとにある円形の大きなテントがケインの目に入りました。極才色に彩られたテントは、陽光をあびてますます鮮やかに輝いています。テントを縁どる黄金の模様は、まるで本物の炎のような煌めきを放っておりました。 (できれば、味方して欲しいが……) ケインは、不用意に頼れば、新たな支配を受ける恐れがあることに気が付いていました。 それから、ケインは海のある方角を向きました。微かに潮風を感じたような気がしました。『昏き水の国』は、とてつもなく広大でした。あちこちに、いくつも高い塔がそびえています。おびただしい数の建物が立ち並んでいるのが見渡せます。豊かな実りをもたらす広大な農地がその周囲に広がっています。すぐ近くに、巨大な岩で造られた『水の聖堂』が見えました。はるかかなたに、まるで丘のような大きさの宮殿が見えています。『昏き水の国』は、見渡す限りに広がっており、その果てがどこにあるのか、ケインには見定めることができませんでした。 (これほど強大な国を相手に独立を保つのは、容易な事ではないよな。国王様は、本当にがんばってきたのだなあ) ケインは、王家の人々に新たな尊敬の念をいだきました。 最後に、ケインは自分の内に目を向けました。凄まじい暴風が荒れ狂っています。少しでも気を緩めると、たちまち周囲に恐るべき破壊をもたらすだろうことが感じ取れます。 (破壊をもたらすだけの力だが、姫様ならうまく使いこなしてくださるだろう) ケインは、ソフィア王女を信じて、恐るべき風の力をその身に宿し続けるのでした。 階下から、声が聞こえます。「止めなさいよ」、「私は男の方と付き合ったことが無いから……」、「私もよ」、「うふふ」、「これならどう?」、「やり過ぎよ」、「し~っ!」、といった声が聞こえてきます。 ケインは思いました。 (姫君の前では大人しい侍女たちも、私室ではけっこうにぎやかなんだな) やがて、侍女の一人が高殿に上がってまいりました。 「ケイン様、有難うございました。助かりました」 (俺は、別に何もしてないけれどな) そう思いながら、ケインは手を振って、高殿から降りました。 ケインは、目を見張りました。侍女たちの控えの間の中は、先ほどまでの清楚な雰囲気から、すっかり様変わりしておりました。 侍女の一人が、ちょっとこちらを振り向きました。なにげに肩を上げ、指をくわえております。思わずドキリとするような色気を放っていました。 ケインは、背後に強い視線を感じました。振り向いてみると、『風の加護』を読み解いた侍女でした。腕を組み、少し目を細めて、意味ありげに微笑む表情には、いままで見たことのない妖しい雰囲気がありました。 その傍らには、『風の守り』を読み解いた侍女が、無邪気な顔で椅子に腰かけておりました。無防備な姿勢のせいで、たくり上がったスカートの奥が、もう少しで見えそうでした。 となりの椅子に、もう一人の侍女が腰をおろしました。さりげなく組まれた太ももの奥がちらりと見えました。 ケインは、ひどく困惑しました。 (いったい、何なのだよ!) あわててケインが目をそらすと、ソファーの上に副侍女長がうつぶせになって寝そべっています。形のよいお尻は、スカートの上からでもそれと分かる魅力的なシルエットを描きながら、やわらそうな太ももへと続いていました。スカートからのぞく太ももは、肉感的なふくらはぎから、細い足首へと続いています。 そのときケインは、高殿へと続く階段の上から、『風の知らせ』を会得した二人の侍女が興味津々といった様子で自分を見つめていることに気が付きました。 (そうか、俺が淫らな欲情を抱かないか、皆で試しているのだな) 侍女長が近寄ってきます。 「ケイン様、お訊ねしたいことがあるのですが」 「なんですか、侍女長殿」 ケインは、できるだけ真面目そうに応えました。 侍女長は、ケインに近づきながら腕を組み、さりげなく腕でブラウスを引き寄せます。ブラウスの合わせから、ボリューム感のある、形の良い…… 「これは、また、美しくて、素敵な、お……。い、いや、なんでもない。なんでもありません!」 思わず、ケインは思いを口にしておりました。あわてて、ケインは心の中で必死に唱えました。 (俺の忠誠は姫様のみ、俺の忠誠は姫様のみ、俺の忠誠は姫様のみ、俺の忠誠は……) こうしてケインは、かたくなに心を惹かれる様子を見せませんでした。背後で、誰かの声が聞こえました。 「うえ~ん、だめだったわ。あんなにがんばったのにィィィ!」 誰かが、つぶやきました。 「ケイン様は、男の方にしか興味が無いのではありませんか?」 その時、ソフィア王女が部屋に入っていらっしゃいました。一同は、あわてて立ち上がり、そろって礼をしました。 ソフィア王女は清楚なドレスをお召しになっていらっしゃいました。そして、ケインの傍らに歩み寄ると、爽やかな笑みを浮かべられました。その笑顔は、まるで花がほころぶかのようでした。さらに、すこし腰をかがめて、腕を後ろに伸ばしながら、ケインを見上げます。 (姫君様、その笑顔は反則ですよ!) ケインは、あわてて少しうつむきました。 胸元のあいたドレスは、美しいバストラインを際立たせ、幼さののこる笑顔とは不釣り合いなボリューム感を強調しておりました。 (お姫様、いくら我が国の名が『美しい谷間の国』だからといっても、いや違った。『深い谷間の国』だからと言っても、そのドレスから覗く谷間の美しさには、誰もが目を奪われて当然……、って、俺はいったい何を考えているんだ!) ケインは、あわてて下を向きました。 するとソフィア王女は、ケインに一歩だけ近づきました。王女様の歩みとともにドレスの合わせが少しひらき、ソフィア王女のすらりとした脚がケインの前に現れました。王女様の脚の白さがケインの眼を射抜きました。 (姫君様の脚をおおう山絹のレースの長靴下は、なんと美しいのだろう。やわらかそうな太腿にすこし食い込んだガーターはなんて艶めかしいんだろう。はっ、いけない。俺は姫君様のガーターに欲情している。これでは俺は、真正のヘンタイではないか!) 侍女たちがソフィア王女とケインの周りに集まります。 「お姫様、それくらいにしてやってください。堅物のケインがすっかり固まってますよ」 (俺はヘンタイではなくてカタブツか。たしかに体の一部がすごく堅くなってるけど……) 「し、失礼します!」 ケインは慌てて自分の部屋に駆け込みました。 「よっしゃあァ~!」 ケインの耳に、だれかの叫び声が届きました。 (いまのは、お姫様の声だったみたいだけど、お姫様があんな声をあげるはずないよな?) こうしてケインは、清楚なドレスをお召しになったソフィア王女に、見事に心を奪われたことを皆に目撃されてしまったのでございます。 (こっちは、吹き荒れる暴風を押さえるのに必死で、精神を削られ続けているというのに、なんで皆は、あんなにお気楽なんだよ) そんなケインのぼやきは、だれにも気づかれませんでした。ケインが侍女たちに誘惑されたり、からかわれているうちに、日は過ぎてゆきました。 十日目の午後の事でした。高殿にいた侍女から、『風の知らせ』が届きました。 「『灼熱の炎の国』の円形テントから三人の人影がこちらに向かってきます」 やがて、甲高い音色の角笛とゆったりとした太鼓の音が響いてきました。 先頭の男性は、白い頭巾を頭からかぶり、真紅のマントを羽織っていました。マントには金色の刺繍で燃えさかる炎が描かれています。体には、ゆったりと全身を覆う白い衣服をまとっていました。 付き従う二人は、頭に真っ白な頭巾を深くかぶり、足首まで届く純白のマントをはおっていました。 白木の仮宮殿の玄関で皆が出迎える前で、供をする二人は頭巾とマントを脱ぎ去りました。二人は、真紅の衣装に身を包んでおりました。これで、二人が炎の乙女であることが分かりました。 二人は、三日月の形をした黄金の刀を抜いて、情熱的な舞踏を披露しました。炎の乙女の顔は、前にたらした布で隠されています。布には、『大地を溶かす炎』をあらわす、炎に囲まれた一つ目の紋様が大きく描かれていました。 剣舞によって不運や悪疫を払う伝統の呪術が終わると、炎の乙女は刀を鞘に納め、幾重にも紐で縛って、戦意のない事を示しました。 とどこおりなく儀式が行われたのちに、男性は白い頭巾を脱ぎました。ソフィア王女よりも少し年上の若者のように見えました。日に焼けた顔は精悍で、速度重視の戦闘を得意としているように見受けられました。若者は白い頭巾を巻いてターバンにし、ふところから古い本を取り出して左手に持ちました。本の表紙は焦げ茶色の皮で造られ、『大地を溶かす炎』をあらわす炎に囲まれた一つ目の紋様が描かれていました。 若者は出迎えたソフィア王女に目を止めました。 「肖像画よりもずっと美しいとはな。恐れ入ったぜ」 「おほめにあずかり有難うございます」 このときソフィア王女は、空色の淡い色遣いのたっぷりとフリルのついたボリュームのあるスカートに、可愛い蒼空色のリボンを合わせておりました。『風の紋章』が描かれた前垂れをつけた姿は、どこかメイドを思わせ、実際の年齢よりもかなり幼く見えました。 それから三人の客人は、招かれて白木の仮宮殿へと入ってゆきました。 着席する前に、ソフィア王女は随従の一同を正式に紹介しました。『灼熱の炎の国』から訪れた若者は、 「国王の三男で、王子と呼ばれている。白馬に乗った王子様と呼んでもかまわないぜ」と、身分を名乗りました。 白木の仮宮殿の広間には、大きな机の真ん中に炉が切られていました。ソフィア王女が湯を沸かして発酵茶(紅茶)を入れました。 炎の乙女が、その場で新鮮な卵からホイップ・クリームを作ります。そして、革の袋に入れて持参した塩バターと共に、砂漠の民の固焼きパンに添えて、皆に供しました。 ソフィア王女は、濃厚な蜂蜜の入った壺を開け、新鮮な果物をみずからの手で剥いて、砕いた木の実や乾燥した刻み果実の盛られた皿とともに全員にくばり、優雅な午後のお茶会が始まりました。 しばらくすると、遠くから銅鑼の鳴る音が聞こえてきました。『昏き水の国』の神官たちの奏でる金管楽器の金切り声のような音が聞こえます。やがて、『昏き水の国』の女王と若君が、白木の仮宮殿に到着しました。二人は案内されて、白木の仮宮殿に入りました。付き従っていた武闘神官の一団は、外で待たされることになりました。彼らは、血なまぐさい戦闘に慣れている様子でした。 白木の仮宮殿の中を、『昏き水の国』の女王は、第一の大国にふさわしい威厳をただよわせて、先頭を歩みます。波をイメージしたティアラにアクアマリンのチョーカーを合わせています。ドレスの上には深い海の色のした足元まで届く上着をはおっています。豪華な宝石の付いたベルトでウエストを絞り、重ね履きした下着(パニエ)で上品な水色のスカート部分を豊かに膨らませています。 後に続く若君は、長身で細身の御体にゆったりとした黒のロングコートをはおり、膝下まで届く黒革の靴を履いていました。若君の顔は半ば近くが長い黒髪に隠されており、皮肉めいた笑みを浮かべた表情には、どこかやつれているような様子がうかがえました。 ソフィア王女は、すこし首をかしげて花がほころぶような笑みを浮かべながら、『昏き水の国』の女王と若君を出迎えました。沈みゆく夕日の残照が白木の仮宮殿の壁にソフィア王女の黒い影を落としいました。 『昏き水の国』の若君が、出迎えたケインの前を通り過ぎます。 (こいつは、姫君様のそばに近づけては絶対にいけないヤツだ!) そう感じたケインの目の前で、若君の抱えた古い本が傾きました。本の表紙に描かれた弛(たる)んだ目蓋がすこし開いて、ケインを見つめます。すると、ケインの頭に光り輝く文字が描かれました。以前に『魔風の章』を読み解いた時に感じたの同じ、馴染のある感覚でした。 『魅了(チャーム)』は人を従わせる技ゆえ、これを施すならば充分な配慮が必須となろう。 その文字はケインの心に、青白い炎をあげて刻み込まれました。 本の表紙に描かれた弛んだ目蓋は、すぐに閉じてしまい、それ以上の文字は伝わってきませんでした。 若君がケインの前から去ってゆくときに、ケインには本の文字がゾロリと動いてその位置を変え、新たな配置になったことが、なぜかはっきりと分かりました。 『昏き水の国』の女王が加わり、三王国の王族がそろったため、慣例に従って『外交』が始まりました。 ソフィア王女が、口火を切りました。 「このたびは、私の『お披露目の儀』にお集まりいただき本当に有難うございます。『暗い谷間の国』は、武力に訴えることなく、これからも互いを尊重し合い、良い関係を続けたいと希望しております」 この言葉を、『灼熱の炎の国』の王子は、「国境を変更しないために、ご協力いただけないでしょうか?」と受け取りました。『希望』という言葉は、『自分だけでは手の届かない望み』を意味しているからです。「互いを尊重し合う良い関係」は、国境を現状のまま維持することだと解釈したのです。 『昏き水の国』の女王は、ソフィア王女の言葉を、「『昏き水の国』が要請した、『互いに対等の関係で両国を統治する』、という提案に従う」、と解釈しました。 ソフィア王女は言葉を続けました。 「皆様に私を王族と認めていただけた暁には、私はこれまでの各国との良い関係を維持しつつ、新たな関係を築いてまいりたいと考えております」 この言葉を、『灼熱の炎の国』の王子は、「現在の国境を維持しつつ、貿易や技術協力などを通じて互いに協調する機会を増やしたいと望んでいる」と、受け取りました。 さらに、『灼熱の炎の国』の王子は、ソフィア王女の言葉には別の解釈をする余地があること。そして『深き水の国』の女王が、ソフィア王女の思惑どおりの解釈をしていることに気が付きました。 (王族たちを前にして同じ言葉を紡ぎながら、相手によって正反対の解釈をさせてみせるとは! これほど鮮やかな外交をわずか十五歳やってのけるのならば、『暗い谷間の国』の姫の実力を決して侮ってはならぬな) そこで、『灼熱の炎の国』の王子は、ソフィア王女に告げました。 「『灼熱の炎の国』は、『暗い谷間の国』がくだした判断を尊重するぜ」 王子には、「今後とも相互不可侵の原則を守る。必要ならそのための援助も行う用意がある」という意図がソフィア王女に伝わったことが分かりました。そして、『昏き水の国』の女王には、「『暗い谷間の国』が『昏き水の国』の支配を受け入れると決めたなら、『灼熱の炎の国』は異議を申し立てない」と、誤解させることができたことが分かり、ソフィア王女もそのことに気づいていることが分かりました。 『昏き水の国』の女王は、『暗い谷間の国』と『灼熱の炎の国』の同意を得たと判断して、おおいに満足しました。 『昏き水の国』の若君は、『外交』が行われている間には一言も口を利かず、ときおり口元に歪んだ笑みを浮かべながら、藪に潜んだ蛇を思わせる目つきで、じっと粘りつくような視線をソフィア王女に這わせ続けておりました。 次に、『灼熱の炎の国』の王子が、ソフィア王女に語りかけました。 「お披露目の儀が終わった後で構わないのだが、ぜひとも白木の仮宮殿を貰い受けたいと思っている」 王子は、『昏き水の国』の女王と若君が鋭い視線を向けていることに気が付いていないかのように、気楽そうに続けました。 「砂漠を治める『灼熱の炎の国』では、水と木は富の象徴なのさ。木は長持ちするように厚く鮮やかな色を塗られるのが当たり前なんだ。陽射しと風にさらされて朽ちるままにされた白木の宮殿などは、想像を絶する贅沢の極みなのだよ」 「よろしいですわ。白木の仮宮殿は、お披露目の儀が執り行われる間だけ使う予定でしたから、その後に使っていただけるなら、とても嬉しく思います」 ソフィア王女は快諾して、さらに続けました。 「この建物には、『星を渡る風』の加護を宿した敷物が御座います。それから、屋根の東西に、宮殿のかなめとなる『風の紋章』が刻まれた破風がございます。それを外せば、宮殿をバラバラにできますから、持ち帰るときにはそうなさってください」 『昏き水の国』の若君は、二人のやり取りを聞きながら考えていました。 (ボクのソフィアに気安く話しかけるな。身の程を知らない愚か者には、かならず報いを与えてやるぞ! ソフィアもこんな若造を歓待したり笑顔を見せたりするのじゃない。これは躾が必要だな。二度とこんなことが出来ないように、あとでたっぷりとお仕置きをしてやるからな……) 『昏き水の国』の若君は、残忍な笑みを浮かべながら、殺気のこもった眼で『灼熱の炎の国』の王子を見つめ続けていました。 ソフィア王女は、そんな若君の様子にはまったく気が付いていない様子で続けます。 「このまま残してゆくことも考えておりました。よろしければ仮宮殿内のすべての物を御自由にお使いください」 そこで、『灼熱の炎の国』の王子は、ソフィア王女の許可を得て、白木の仮宮殿の柱に『炎の紋章』を刻み込んだのでございます。 「深く感謝する。『灼熱の炎の国』は、これからも『暗い谷間の国』と良い関係を続けることを強く望むぜ」 『灼熱の炎の国』は、恩には恩を、仇には仇で報いることが知られています。『灼熱の炎の国』の王子は、『良い関係を続ける』という言葉によって今後も不可侵の関係を続けることを表明し、『深く感謝する』という言葉によって、「『灼熱の炎の国』の強い望みをかなえてくれたから、かならずや『暗い谷間の国』の強い望みをかなえよう」という意図をソフィア王女に伝え、味方する意志を明かしたのです。 このやりとりを、『昏き水の国』の女王は、砂漠の国の王子が白木の建物が珍しいので手にいれたがり、ソフィア王女が自分の人気取りのために応じたと受け取りました。 (この若造には、『暗い谷間の国』の姫の価値がまだ分からないのだわ。白木の宮殿というオモチャの方に興味があるのね) 女王は、ここで行われたやり取りによって、双方の国が事実上の軍事同盟を結んだことには気が付きませんでした。 『昏き水の国』の女王は結局、紅茶や固焼きパンを味わうことなく、白木の仮宮殿を後にしました。『昏き水の国』の若君は歪んだ笑みを浮かべて、「『暗い谷間の国』の姫と次に会う日を楽しみにしておこう」、と言い置いて去ってゆきました。 『灼熱の炎の国』の王子は、帰り際にケインに尋ねました。 「君は王女様にずいぶんと気に入られてるようじゃないか」 ケインは答えました。 「私は姫様を守る盾にすぎません」 「では、問おう。王女様が誰かと結ばれることになったら、君はどうする気だ?」 「王女様の盾として、役目を果たすだけです」 「ずいぶんと生真面目な答えだな」 「姫様には朴念仁と言われております」 『灼熱の炎の国』の王子は、思わず笑い出しました。 「あの王女様に朴念仁と言われたのか。名誉な事だな。では、しっかりと守ってくれよ」 「姫様のためならいつでも、この身も心も捧げるつもりでおります」 「信じてるぜ」 王子はケインの肩を叩き、ケインの言葉に満足そうにうなづきました。そして、『炎の護符』を使ってケインがたずさえる儀仗に、『炎の加護』を与えました。ケインが儀杖を手に取ると、ケインの中で荒れ狂っていた風は、凄まじい威力はそのままに、すっかり安定していました。 『灼熱の炎の国』の王子は、今度はソフィア王女に尋ねました。 「あの若者は、あなたにとって特別な人なのですか? 本人は、朴念仁だから護衛に選ばれた、と言っておりましたが」 ソフィア王女は答えました。 「彼が、騎士でも戦士でもなかったから選んだのですわ」 「すると、俺にもまだチャンスがあるということかな」 王子は、そうつぶやくと、ケインを見つめておっしゃられました。 「俺の国に、こんな言い伝えがある。大いなる力を人の身に宿らせていれば、必ず厄災が訪れる。大いなる力は、できるだけ早くあるべき所に送り返せ、と」 『灼熱の炎の国』の王子は、そう言い置いて闇の中へと去ってゆきました。その手には、微かな音をたてながら獣脂が燃えるランプが掲げられておりました。ランプは、砂漠の砂嵐にも吹き消されることのないように、クリスタルの半球で覆われておりました。 お披露目の義が執り行われる満月の夜が来るまでの間、『風の知らせの章』を読み解いた二人の侍女は、『昏き水の国』の宮殿で語られる言葉を風に運ばせ、耳を澄ませ続けていました。 お披露目の儀が執り行われる前の夜に、二人の侍女は皆を集めて、風の知らせで得られた言葉を知らせました。 『昏き水の国』の大王は、『深い谷間の国』の姫を娶とって支配し、『灼熱の炎の国』の王都を攻めるつもりだった。そのための準備は、すでに整えられていた。しかし、『昏き水の国』の若君が、『ハイドラの書』を読み解いて『深い谷間の国』の姫を隷属させて支配することを提案したために、その段取りが変わった。 『昏き水の国』の宮殿で語られる家臣や侍女たちの言葉から、若君は死産で生まれ、『ハイドラの書』の力によって蘇ったので、お体がすぐれない。壮健な大王は、それを不満に思い、事あるごとに幼い若君に過剰に厳しく、辛くあたっていた。女王はそんな若君を溺愛し、すべての欲望を際限なく叶えていた。成長するにつれて若君の性格は歪んでゆき、最初は小動物を残酷な方法で殺すことを好むようになり、やがて残虐な手段で気に入った侍女に絶え間なく凄まじい苦痛を与え続けることに喜びを見出すようになった。 さらに若君は、幼い容姿の女性をことに好んでいたぶる性癖を持っており、宮殿に届いた肖像画からソフィア王女に強い興味を抱いていること、実際に会ったところ、ぜひ手に入れて意のままにしたいと暗い情念を抱いていることも分かりました。 「『昏き水の国』の家臣たちは、若君は半分がハイドラでできている、と語っております」 それを聞いて、ソフィア王女はつぶやきました。 「う~ん、大王が熟女好みなのは見当が付いていたから、女王の前ではわざと幼く見える格好をしたけど、若君には逆効果だったか」 また、大王はその身に不死身のハイドラの力を宿しており、毎晩三十人以上の妾妃(コンキュバイン)を相手にして夜を過ごしていること、大王は熟女好みで、『暗い谷間の国』の姫君のような若い女性には、おそらく女としての興味を持たないことも分かりました。 「今宵の大王は、いつにも増して凄いです。何人もの妾妃が激しくあえぎ、甲高いよがり声をあげ続けるのを聞いているのは、私のような乙女には刺激が強すぎます。体のほてりをさますために、少しのあいだ外に出ることをお許しください」 風のたよりを受けた侍女は、許しを得て白木の仮宮殿を出ました。煌々と輝く満月の光に照らされた丘の斜面をゆっくりと下ってゆくと、ふいに闇の中から長身の人影が現れました。 「若君様、……でございますね」 侍女は一礼して、目の前の人影に語りかけました。 黒い人影は、言葉を発しました。 「中立地帯は、どの国の力もおよばぬ危険な場所だ。夜に女が一人で出歩くなんて非常識だよ。これは、お仕置きが必要だね」 そう言うと、黒い影は侍女の両肩を持って後ろを向かせ、片手で侍女の両目をふさぎ、もう一つの手で口を覆いました。 黒い影は、侍女の耳元でつぶやきました。 「声をたてないように」 ズザッ! 重い音を立てて黒い影のコートが開き、べちゃり、べちゃりと、何かが次々と地面に落ちる音がしました。そして蛇とも触手とも見える真っ黒なモノが、何本も何本も、のたうちながら侍女のスカートの中に入ってゆきます。 侍女は、切れ切れにささやきました。 「お許しを、…… お許しください、若君様。 ……。 このまま、…… このまま、このような快楽を味わっていては、…… おそばを離れられなくなってしまいます!」 黒い影は言いました。 「可愛い事を言う。こんな事は、まだ始まりですら無いのだよ」 そう言うなり、黒い影は侍女の口を強く押さえてコートの中に引き込みました。侍女の体は何度も反り返り、声にならない悲鳴が何度も何度もあがりました。やがて気を失った侍女をそこに放つと、黒い長身の影は闇の中へと歩み去ってゆきました。 心配して探しに来た一行が見つけたのは、投げ捨てられた操り人形のような姿で地面に横たわる侍女の姿でした。あたりには強い潮の香りが立ち込めておりました。 とうとう、お披露目の儀の当日になりました。 『暗い谷間の国』の一行が『水の聖堂』に到着すると、三人の神官が中へと案内しました。 『水の聖堂』の中は、排水のためか、床にはすべて不規則に傾斜がつけられています。斜めになった壁や、歪んだ天井との組み合わせによって、近くの物が小さく遠くの物が大きく見えたり、まっすぐに立っている者が不自然に斜めに立っているように見えたりします。それは、あたかも建物が人とは異なる感性をそなえた何者かによって緻密な計算に基づいて造られているかのように思われました。 建物の中には、幾重にも暗緑色の緞帳が張られ、暗い壁面には深い水の色で染められたタペストリーが飾られておりました。流紋岩で造られた暗い壁には、歪んだ枠に収められた絵が掲げられておりました。絵には、狂人の悪夢に現われそうな巨大な蛸とも竜とも思える奇怪な深海の生物の姿が描かれており、妖しい雰囲気を放っておりました。 深い青緑色の光を放つランプは、濁ったガラスで覆われていました。揺らめく光は距離感を狂わせ、遠くに見えていたものが、次の瞬間にはすぐ近くにあるように見えるのでした。 ケインは思いました。 (一歩ふみ出すたびにめまいを感じるぜ) 神官の一人が、ケインの思いに気が付いたようでした。 「初めての方たちには、この通路を通るのが無難と思いましたので……」 (一番ややこしく、奇怪に見える通路を選んだに決まっている!) 曲がりくねった長い通路をとおって、一行は『水の聖堂』の大広間に案内されました。巨大な銅鑼が鳴り、大広間の入り口にある青銅の分厚い扉が開かれました。大広間の正面の王座には『昏き水の国』の大王がすわっておりました。歪んだ建物の中にあって、大王の姿はとても大きく見えました。大王の右脇には女王が立ち、左脇に若君が立っていました。広間の右手には『灼熱の炎の国』の一行が立っており、入場する『暗い谷間の国』の一行を迎えました。 『暗い谷間の国』の一行が黒で統一された服を着ているのを見て、『昏き水の国』の大王は、嘲るように言いました。 「これは、これは。晴れがましいはずのお披露目の日に『暗い谷間の国』は喪に服すると決めたのか。それとも、いまから『無貌の神』に帰依することにでもしたのかな?」 ソフィア王女の髪を留める黒いヘッドドレスには両側に黒い薔薇の花があしらわれ、胸元を際立たせる漆黒のドレスにはたっぷりとしたフリルが幾重にも贅沢に飾られておりました。腰のベルトは大きなリボンになって背後で結ばれておりました。大広間を照らすうす暗いランプの光をうけて、『暗い谷間の国』の特産物である山絹の布地が上品な光沢を放っておりました。 付き従う侍女たちも、そろって漆黒のメイド服をまとっておりました。良く見ると、胸の部分は黒皮で造られた胸当てとなっており、肩はレースを思わせる装飾を施された皮細工で補強され、簡易ながら鎧の機能を付与されていることが見て取れました。 ケインは、黒い燕尾服に黒い外套をはおり、手には白い儀杖を持っておりました。 ソフィア王女は、毅然とした態度で『昏き水の国』の大王に目を向けております。 『昏き水の国』の大王は慣例を破って最初に発言をし、次のように宣言いたしました。 「『昏き水の国』はこの場において、『昏き水の国』と『暗い谷間の国』が互いに対等の関係で両国を統治すること、すなわち両国の共同統治を行うことを提案する」 すると、ソフィア王女は進み出て、はっきりとした声で別の宣言を行ったのでございます。 「『暗い谷間の国』は、三つ王国が互いの独立を尊重し、引き続き国境を越えた行動を控える事を提案いたします」 ソフィア王女の宣言は、『昏き水の国』の大王の提案を真っ向から否定するものでした。 「ふはははは!」 笑い声をあげたのは、『灼熱の炎の国』の王子でした。 「『暗い谷間の国』の姫君が束縛を嫌うなら、俺がその束縛を打ち破ってあげることもできるぜ」 それは、助力の申し出でした。 ソフィア王女は応えました。 「ありがとうございます。でも、それが新たな束縛をもたらすかも知れませんね」 「お見通しかよ」 『昏き水の国』の大王は、そんな『灼熱の炎の国』の王子をにらみつけました。 『灼熱の炎の国』の王子は、その視線を跳ね返して、朗々と宣言をいたしました。 「『灼熱の炎の国』は『暗い谷間の国』がくだした判断を尊重するぜ!」 『昏き水の国』の大王は一瞬たじろぎました。それから、ソフィア王女をにらんで言いました。 「力ある者が力なきものを支配するのは当然の摂理だ。『暗い谷間の国』は愚かな選択をした。その報いを受けるがよい!」 大王は『昏き水の国』の秘宝、多頭蛇の王笏を振りあげて叫びました。 「不死身のハイドラよ、古の契約にもとづいて我らの前にその力を示せ!」 『水の聖堂』の大広間に広大な闇が生まれました。闇の中から巨大な何かが這い出してくる気配が感じ取れました。そして、恐るべき大きさの真っ黒な蛇が、その姿を現わしました。巨大な口には何列もの鋭い歯が並び、獲物を引きちぎって喰らおうとする強い執念が感じ取れました。額の中央には切子細工を思わせる巨大な複眼が一つだけありました。腹に鱗はなく、二列の吸盤が並んでおります。 大王が叫びました。 「ここに顕現したのは、不死身のハイドラが持つ無数の触手のひとつ、獲物を見さだめて喰らう触腕じゃ!」 あまりに意外な出来事に、皆は凍りついたようになり、まったく動けずにおりました。 「這い出るハイドラか、やっかいね」 ソフィア王女の軽口を聞いて、皆は呪縛が解けたように動きだしました。ケインはソフィア王女の前に進み出て、儀杖を構えます。その後ろに風の加護を持つ侍女が立ち、ソフィア王女の左右を風の守りを持つ侍女たちが固め、残りの侍女たちがソフィア王女に寄り添ってその身を守ります。 大王は続けて言いました。 「『暗い谷間』の国の姫よ。呼び出されたハイドラは生贄を喰らわねば引き下がることはない。誰を喰らわせるか選ぶがよい」 その言葉に構わず、ソフィア王女はケインに語りかけました。 「頼んだわよ、ケイン。私を守って!」 その言葉に呼応して、ケインは襲い掛かるハイドラの触腕に向かって儀杖を振りあげました。ハイドラの触腕は、額の中央にある複眼をギラつかせ、崩れ落ちる山のような勢いで、ケインに向かって襲い掛かってきます。立ち向かうケインは、儀杖を全力で振りおろしました。 ケインには、儀杖を振り下ろすにつれて、時間のたつのがゆっくりになったように感じられました。そして、体内で吹き荒れていた魔風が解き放たれ、儀杖の周りにまとわりつくにつれて、自分が振るっているのが大剣であるかのように思えてきました。 ケインが儀杖を振り切ったとき、生じた太刀風に、『星を渡る風』の魔風が完全に重なりました。凄まじい勢いで突き進む魔風は、巨大な太刀のように空間すらも切り裂き歪めながら、ハイドラの触腕に襲い掛かりました。 魔風がハイドラの触腕に当たった瞬間に、魔風の中で真紅の光が弾けて輝きました。巨大なハイドラの触腕は真っ二つに裂け、その断面は焼けただれておりました。 触腕には再生する様子がなく、ゆっくりと互いに離れてゆきます。次の瞬間、裂けて煙をあげる触腕は闇の中に引きこまれて、その姿を消しました。そして、闇が晴れてゆきました。 『昏き水の国』の大王は驚愕しました。あわてて神官に命じます。 「こやつらは、強大な武器を聖堂に持ち込んだぞ。取り上げよ!」 神官は、ケインの持つ儀杖を受け取りました。そして、首を振りながら大王に申しました。 「これは、ただの木の杖でございます。本体はもとより、翼竜をかたどった柄にも、その眼にはめ込まれたエメラルドとサファイアにも、いかなる力も宿らせてはおりませぬ」 「ば、馬鹿な!」 『昏き水の国』の大王は、思わず声を上げました。 『灼熱の炎の国』の王子が朗々と語り始めました。 「武器を使う必要など、ありはしない。『ハイドラ』は『深き水の底で微睡むもの』の眷属にすぎぬ。偉大なる『大地を溶かす炎』の加護を受けた『星を渡る風』の魔風に耐えることができようはずなど無いからな」 ソフィア王女は、後ろからケインに抱きついて、つぶやきました。 「あの野郎~、一番いいところを持っていきやがったわ」 ケインを支えにしながらも、ソフィア王女の腕はブルブルと震えていました。 (強がりを言っているけど、不安だったのですね。いまでは立っているのもやっとですか。実は、俺も、なんですけど……) 『灼熱の炎の国』の王子が宣言しました。 「『昏き水の国』の王は、『力ある者が力なきものを支配するのは当然の摂理だ』と申したな。ならば、『灼熱の炎の国』は、『昏き水の国』に対して、そのように振舞おう!」 「きゃあ~! 族長様、かっこいいわ~」 「素敵よ~!」 『灼熱の炎の国』の王子に従う炎の乙女たちが黄色い声をあげました。 王子がたしなめます。 「こら、ソフィア王女の前では『白馬に乗った王子様』と呼ぶように言ってるだろうが!」 「ええ~? ソフィア王女を好きなら、さらって行ってしまえばいいじゃないですかあ~」 「だめだ。母から、『正式に申し込んで、妃になってもらえるような男になりなさい!』と、いつも言われてるからな」 「そういえば、王様はお妃様をさらって結婚したのでしたね」 「ああ、だから今でもお妃様には頭が上がらないのか~」 「今回の『お披露目の儀』で、『昏き水の国』に連れて来たら、即座に亡命されるに違いない。だから、王様は王子様だけ参加させたのでしたね」 「そうなんだよなあ。王様が出席しないのはまずいだろう、と言ったら、オヤジのヤツは俺に王位を譲り渡しやがった。どんだけ奥さんが好きだって言うのだよ、って、大声で内幕をばらすな。これは重大な国家機密だぞ!」 炎の乙女たちが言い立てます。 「ばらしたのは族長ですよ~!」 そんなやり取りを無視して、『昏き水の国』の大王が不敵に言いました。 「思いあがるな、若造! 偉大なる水に対して炎ごときに何ができると言うのだ」 そのとき突然に、『水の聖堂』が突き上げられるように揺れました。巨大な岩組が、ギチ、ギチと不快な音をたてます。 「魔風は、ハイドラの本体をひどく傷つけたようだな。今の地震は、苦悶するハイドラが起こしたものだろう」 それから、王子は誰かに言い聞かせるようにつぶやきました。 「猛(たけ)るな、猛るな。今、その力を解放してやるぜ」 そして、王子は叫びました。 「『昏き水の国』の王よ、その眼で見て、その身で感じとるがいい。偉大なる『大地を溶かす炎』の力を!」 『灼熱の炎の国』の王子は懐から古びた本を取り出して、高く掲げました。 「滾(たぎ)れ滾れ、荒ぶる大地よ。『大地を溶かす炎』の名において『灼熱の炎の国』の王子が命ずる。地の底で燃える眷属たちよ、この地に炎の華を咲かせよ!」 「きゃあ~! 族長様、かっこいいわ~」 「素敵よ~!」 ふたたび、『灼熱の炎の国』の王子に従う炎の乙女たちが黄色い声をあげます。 また、王子がたしなめます。 「さっきから、ソフィア王女の前では『王子様』と呼ぶようにと言ってるだろうが!」 そのとき再び、『水の聖堂』が突き上げられるように大きく揺れました。巨大な岩組が、ギシリ、ギシリと不気味な音をたてました。 一同が倒れまいとしているうちに、武装神官の一人が大広間に駆けこんでまいりました。 「大変でございます。海がすっかり干上がっております。まもなく巨大な津波がこの地を襲う前触れかと思われます」 それを聞いて、ソフィア王女は皆に命じました。 「急いでこの地を離れた方がよさそうね。すぐ外に出て飛竜を召喚しなさい」 一行は、複雑な迷路のような『水の聖堂』の通路を全速力で抜けて、『水の聖堂』の前にある広場へと集まりました。 そのときケインは、丘の上で白木の仮宮殿が激しく燃え上がっているのを目にしました。ケインが見つめるうちに、高く立ち上った炎が縦に裂けてまいります。そして、その中から巨大な溶岩の塊が現われたのでございます。 皆が見守るうちに、溶岩の塊から太く短い脚が生えて、塊は高さを増しました。塊の上から溶岩が流れ落ち、地面に届くほどの長さの腕になりました。さらに、塊の頂上が盛りあがり、開いたキノコのような形の頭となりました。頭の中央には、白熱した目玉がひとつ輝いておりました。こうして、溶岩の塊は巨人の姿へと形を変えたのです。 溶岩の巨人の表面は、固まりかけた岩におおわれて、まるで分厚い鎧をまとっているように見えました。 溶岩の巨人は、脚を持ち上げ、地面を打ちました。すると、激しい地響きとともに大地が割れてゆきます。割れ目は広がり続け、中立地帯の端から端まで広がってゆきます。そして、割れ目から溶岩があふれ出て、高く、高く、吹き上がります。さらに、割れ目の端に手を掛けて、次々と溶岩の巨人が姿を現わしてきます。たちまち『昏き水の国』の国境に接する中立地帯の端から端まで見渡す限り、吹きだし立ち昇る噴煙を背にして、大地の底から現れた数知れない溶岩の巨人が立ち上がっていました。 暗闇の中を立ち昇る噴煙は、溶岩の色を照り返して、巨大な燃えさかる炎の壁のように見えました。そして、溶岩の巨人たちは、ゆらめく陽炎(かげろう)をまとって、ズシャリ、ズシャリ、と『昏き水の国』に向かって進み始めました。 「飛竜を召喚できたわよ」 ケインは、侍女長の声で我にかえりました。三頭の巨大な飛竜が広場におりました。先頭の飛竜には、すでにソフィア王女と風の加護を得た侍女が乗りこんでおり、その後ろに並んだ飛竜には、風の守りを得た侍女が一人づつ乗っていました。 (この先の成り行きを見ていたい) そう考えて、ケインは尋ねました。 「背中に乗るのが面倒だから、抱えて運ばせることはできるかい」 「出来なくはないけど、私が目を離したすきに、頭からガリガリと食べられても知らないわよ」 「……分かりました。背中に乗させていただきます」 一行は、飛竜に乗り込みました。 風の加護と風の守りによって結界が張られたのを確認してから、侍女長は飛竜に命じました。 「飛べ!」 飛竜が大地を蹴ると、大空の星が一斉に流れました。 ケインには、その星のいくつかに大いなる力が宿っていることが感じ取れました。プレアデスは、大いなる力を幽かに反射しているに過ぎませんでした。 (大いなる力の落とす微かな影のわずかな残滓に過ぎなかったのか。だから、人の身でも受け止めることができたのだな) なぜ、偉大な『星を渡る風』の力を人の身に宿すことができたのか、ケインはその理由に思い至ったのでした。 地上を見ると、溶岩の巨人が進んでいった後は、次々と地面がひび割れて溶岩が流れ出し広がってゆくのが見えました。 すぐ前に座ったソフィア王女のつぶやきが聞こえました。 「地上に咲いた紅蓮の花ね」 ケインが目を向けると、はるかかなたから巨大な津波が恐ろしい勢いで打ち寄せてくるのが見えました。そして、炎と水の演じる凄まじいせめぎ合いが始まりました。 ふたたび大空の星が一斉に流れると、一行は『暗い谷間の国』の入り口にある扇状地に着いていました。 一行は飛竜から降りたちました。召喚を終えた飛竜は跳び上がると、一瞬で星空に溶けてその姿を消しました。 はるかかなたで、時おり爆発音が聞こえ、地面が細かく震えます。火と水の激しいせめぎ合いが続いているようでした。 「姫様、申し訳ございません」 『風の知らせ』を得た侍女が、虚ろな眼をソフィア王女に向けると、ゆっくりと頭をさげて、ひざまづきました。侍女のスカートの中から、真っ黒な何かが、べちゃりと地面に落ちました。蛇とも、触手とも見える何かは、地をうねりながら次々と新しく体を生やしてゆき、大きく広がると、ぐるりと裏返えりました。するとそこには『昏き水の国』の若君と八人の妾妃が立っておりました。 妾妃たちは、異なった鮮やかな色彩のプリンセスラインのドレスをまとい、それぞれ際立った個性を持っているようでした。聡明な妃、活発な妃、可憐な妃、会話の巧みな妃、不言実行の妃、人を楽しませる妃、多才な妃、可愛い妃、いろいろな才能の持ち主がそろっていましたが、いずれも幼げな容姿が共通しておりました。妾妃たちは全身が濡れしょびれ、ドレスはあちこちが焦げていました。 「ずいぶんと派手にやってくれたね」 そう言うと若君は、ゆったりとした黒のロングコートをなびかせ、黒革の靴の音を響かせながら、ソフィア王女に向かって、ゆっくりと歩きだしました。 その顔の半分には、ひどい火傷の痕がありました。 「不死身のハイドラが持つ力の一つ、『出芽』だよ。こちらも手ひどくやられたが、『灼熱の炎の国』の王子が、回復するのにはずいぶんとかかるだろう。ボクにはハイドラの力があるから、再生を繰りかえして、すぐに復活できるけどね」 ケインは、若君の前に立ちふさがろうとしました。しかし、体が動きません。 「ハイドラの『麻痺』だよ。君は意外とやっかいなようだから、その場にとどまっていてもらうよ」 若君は、ケインのすぐそばを通り過ぎながら、『暗い谷間の国』の侍女たちに向かって言いました。 「大丈夫さ。ボクが君たちに命令することは、これからもないから。君たちはこれまで通り、王女の命令に従っていればいいのさ」 そして、若君はソフィア王女の前で立ち止まりました。髪を掻き上げ、残忍な笑みを浮かべてソフィア王女を見つめます。 ソフィア王女は身じろぎもせずに、虚ろな眼で若君を見つめています。 (逃げてください、姫君様! それとも、『麻痺』を受けたのですか?) ケインは声なき声で、必死に叫びました。 (頼む、誰か姫様を助けてくれ!) すると、パカラン、パカラン、パカラン、パカランと、蹄の音が響いてきます。 「待て、待て、待て~ェ!」 『灼熱の炎の国』の王子の声が聞こえます。 「天が呼ぶ、地が呼ぶ、人が呼ぶ。白馬の王子、呼び声に応えてここに見参! お姫様、お助けに参りましたぞ。極悪人め、いまこそ成敗してくれる!」 「これはまた、暑苦しい奴が現れたな」 『昏き水の国』の若君は心底うんざりした様子でした。 「暑苦しいのは、『灼熱の炎の国』の王子として当然のことだ。褒め言葉には、礼を言っておくぞ!」 「褒めてない、褒めてない!」 ソフィア王女は、絶体絶命の窮地にありながらも、すこしあきれた様子を見せて、手をブンブンと振りました。 「あれだけこっぴどくやっつけたのに、しつこい奴だ」 そう言って、『昏き水の国』の若君は、王子に向き直りました。 『灼熱の炎の国』の王子は、白熱して輝く炎の馬にまたがっておりました。そのたてがみと長く伸びた尾は炎でできておりました。全力で走るその後には、燃えて炎を上げる蹄の痕が、闇に沈んだふもとからずっと線を描いて地面に残され、走り抜けた跡を示しておりました。 王子は白いゆったりとした輝く衣をまとい、炎の模様の真紅のマントをひるがえしながら、馬上で弓を構えました。 放たれた矢は、炎の軌跡を残して、誤ることなく『昏き水の国』の若君の胸元へと伸びてゆきます。 若君が左手を上げると、分厚い水の盾が現れました。矢は水の盾にはばまれ、黒へと変じ、砕けて落ちました。続いて放たれた矢も、同じ運命をたどりました。 『灼熱の炎の国』の王子は、馬を操りながら右手を上げました。その手に炎の槍が現れました。王子の投じた炎の槍は、若君を護る水の盾に阻まれて、黒へと変じ、砕け散りました。 「姫に仇成す極悪人め、これが貴様の最後だ!」 『灼熱の炎の国』の王子は、そう言うと、『昏き水の国』の若君に向かって、炎の馬を操って大きく跳躍しました。 (頼む、『灼熱の炎の国』の王子よ。姫様を救ってくれ!) ケインの祈りを背に受けて、若君を押しつぶさんと、炎の馬が宙から降ってまいります。 若君は両手を上げました。すると巨大な水球が現れて、炎の馬と王子を呑みこみました。王子と炎の馬から、凄まじい量の気泡が吹きだします。気泡は急速に流されて、巨大な水球の奥にある闇の中へと消えてゆきます。 『昏き水の国』の若君は、顔を歪めてソフィア王女の方に向き直りました。 「この水球は、深い海の底とつながっている。この中を大量の海水が凄まじい速さで流れているのだよ。『大地を溶かす炎』といえども、すべての海を干上がらせるほどの熱を持ってはいないだろう。ようやく勝負がついたようだね」 巨大な水球の中で、炎の馬と王子の姿は多量の気泡を放ちながら黒く変じ、砕けてゆきます。 「無念だ……」 その言葉を最後に王子は動くことをやめ、気泡もまったく出なくなりました。 こうして、ケインの淡い希望は砕け散りました。 『昏き水の国』の若君は、蒼白い顔でつぶやきました。 「なるほど、熱で溶けた岩に自らの姿をうつしてこの地に送ったのか。だから本来の力を発揮できなかったのだな。でも、あれだけの手傷を負って、これだけの大技を使ったなら、しばらく気絶くらいはしてもらわないとね」 若君は、長い髪の毛を掻き上げて続けました。 「それにしても、この期に及んで恰好なんか付けてるから負けるのだよ。溶けた岩の塊をいきなりボクにぶつけていたら、まだ勝負がどうなっていたか、分からなかったぜ」 (姫様、俺がお助けします!) ケインは、必死に動こうとしました。しかし、ハイドラの麻痺毒は強烈でした。ケインはまったく動くことができません。 『昏き水の国』の若君は、ケインに目をやり、残虐な笑みを浮かべました。 「姫を手に入れる競争に勝ったのは、どうやらボクだったようだね。これからいろいろと躾けないといけないようだから、たっぷりとお仕置きをするところから始めるとしようか」 若君は、語りだしました。 「かつて、『暗い谷間の国』の王族がまだ山賊だったときに、山の民は『昏き水の国』から美少女をさらって犯しては子を産ませていた。だから、『暗い谷間の国』の美しい娘たちは、元をただせば『昏き水の国』の民なのだよ。つまり、王族であるボクなら、好き勝手に扱ってかまわないということになるのさ」 若君は、ソフィア王女の方に向き直りました。若君が手をかざすと、若君の足元とソフィア王女の足元に漆黒の円が現われました。二人を囲む円の間に、複雑な文様が描かれ、うねる触手を思わせるハイドラの紋章が二人を取り囲みました。 「ハイドラの『魅了(チャーム)』だよ。逆らうことは人間には不可能さ」 若君は、虚ろな眼で立ちすくむソフィア王女を見つめて嗜虐的な笑みを浮かべると、言葉を紡ぎました。 「お前は、これからずっと私の命ずることに全て従う!」 ソフィア王女は、か細い声で言葉を紡ぎます。王女の言葉が、切れ切れにケインの元に届きました。 「……これからずっと……命ずることに全て従う」 二人を取り囲むハイドラの紋章は、銀色の光を放って輝きました。 若君はつぶやきました。 「さすがは王族だな。屈服させるのに、けっこう力を使ったよ。これなら、精いっぱい抵抗しろ、と命じた時に、どれだけボクにあらがうことができるか、今から楽しみだね」 それから、若君は周囲に聞こえるように声をあげました。 「お前たちにとって、王女の命令は絶対のもの。どれほど理不尽な命令でも、命をかけて従うはずだね」 若君は、ケインを見ながらソフィア王女に告げます。 「さて、王女から命じてもらおうか。その目障りな男に、腰の短剣で自分の喉を突いて引き裂き……」 ソフィア王女が氷のように冷たい声で言葉を放ちました。 「黙れ!」 若君の顔に、驚愕の表情が浮かびました。若君は、あわててソフィア王女の元に歩み寄ろうとしました。 ソフィア王女は、凛とした声で命じました。 「動くな!」 若君の体は、凍てついたように、不自然な姿勢のまま動きを止めました。 意外ななりゆきに、だれもが驚きのあまり身動き出来ませんでした。 しばらくの後に、驚きの表情を浮かべていた若君の顔に、暗く残忍な表情が戻ってまいりました。若君の体が、少しづつ膨らんでまいります。膨らむ速度が速まり、体から次々と触手が生えてまいります。 ケインには、理由が分かりました。 (逆らうことは、人間には不可能。でも、人間でなければ……。 まずい。これは、まずい。逃げてください、姫君様!) ソフィア王女は、朗々と呪を唱えました。 「『深き水の底で微睡むもの』の名において命ずる。動きを止めよ!」 若君の体はまったく動かなくなりました。その表情は驚愕と絶望に染まっておりました。 なぜかケインには、若君が何を考え、感じているかが、手に取るように分かりました。 馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な! なぜ貴様ごときが『深き水の底で微睡むもの』の呪を唱えることができるのだ? もしや、まさか! 「その通りだよ、『昏き水の国』の若君殿……」 ソフィア王女の後ろには、漆黒のマントを羽織った背の高い人影がありました。その顔はフードでおおわれ隠されておりました。 「それにしても、『ハイドラの書』には、『魅了(チャーム)』は人を従わせる技ゆえ、これを施すならば充分な配慮が必須となろう、と書かれているだろう? しっかりと読まなければ、ダメだよ!」 (読むのを邪魔したのは、あんただろう! この底意地の悪さは、『無貌の神』に間違いない) ケインは古い伝承を思いだしていました。 「人の世に混乱と災いをもたらす『無貌の神』と呼ばれる者あり。その力に頼る者は、代償としてその身を滅ぼすと伝えられる」 背の高い黒衣の人影は、ケインの方を向きました。顔は闇に閉ざされて見えませんが、ケインにはその者がじっと自分を見つめているのが分かりました。 「そんな事を言うなら、イジワルをしちゃおうかな?」 (最初から、するつもりだろう!) 「おっと、そんなことは、ない、ない。だったら君に免じてボクは手を出さないことにしても良いのだよ。 ん? いやいやいやいや、偽足も触手も口吻も鉤爪も出さないって! ボクは言った事だけはちゃんと守るから! あれれ? 信用が無いなあ……」 黒衣の人影は、ちょっと傷ついたような素振りをして見せました。 「ここからの運命は自分で選び取ってもらおう。君たちを好きに操ることは出来る。でも、それじゃあ、つまらない。人間たちが勝手に大失敗するのを眺めてる方が、ずっと面白いに決まってるからね!」 (どうせ、俺たちを滅ぼすつもりなのだろう?) 「ははは。まあ、つまらない願いだったら、呼び出した者で楽しませてもらう。そのとおりだよ。だけど、今回はそんなことをしなくても十分に面白いし、ボクの苦手な『大地を溶かす炎』がこの地に勢力を広げだしている。 だから、もう退散してもいいかな、謀略の姫君よ」 ソフィア王女は、黒衣の人影に向き直りました。 「あなたの助力に深い感謝を捧げます。ありがとうございました」 すると黒い人影は笑い声をあげ、ソフィア王女に向かって一礼しました。 「ボクがした事に感謝すると言うのかい、残酷な姫君よ」 それから、黒い人影は嬉しそうに語り始めました。 「『昏き水の国』は溶けた大地の炎によって国土の大半を焼かれた。さらに、多くの民が津波にさらわれてハイドラの餌食になってしまった。 『灼熱の炎の国』は、新たにできた火山のせいで天の水路を閉じられた。これから厳しい日照りが続き、深刻な飢餓が国土を襲うだろう。だから、国は乱れ、民は耐え難い苦難にさらされる。 これで大国が破滅する用意は整った。おおいに楽しませてくれる礼として、君たちにつかの間の享楽を与えてあげよう」 ケインには、ソフィア王女が蒼ざめたことが分かりました。しかし、ソフィア王女は毅然とした態度を崩しませんでした。 「私には『暗い谷間の国』の民を守る使命があります。全ての宿業をこの身に背負い、この命をそのために使います」 ソフィア王女は、ためらいを見せることなく、このように言い切られました。漆黒のドレスを身にまとい、満月の光を浴びて輝くその横顔は、壮絶な美しさを放っておりました。 黒い人影は愉快そうに笑いました。 「すばらしい。それでこそ人間だね。では、新しき星辰の定まりしその時までしばしの別れ、と言いたいところだけれど、もう会うことは無いのだろうなあ。 さようなら、はかなき命の人の子たちよ。君たちは、あっという間に塵になって消えてしまう。もっと長く楽しめないのが、本当に残念だよ」 そう言うと、黒い影は闇に溶けて消えてゆきました。 完全に消え去る前に、ふたたび声が響きました。 「そうだ、言い忘れてた。侍女たちが『星を渡る風』の力に耐えられなくなっている。人の身に大いなる力を宿らせるのは、最初から無茶なふるまいだからね。この地が粉々に砕かれ、跡形もなく吹き散らされたら残念だから、忠告しておくね。 ハイドラを崇める民は、少しでも生き残っていれば、また以前と同じように繁栄する。だから、月日が流れ、溶岩で焼かれた大地の先に新たに広大な三角州が生まれて強大な帝国が興ったら、また訪れるから、その時にも楽しませてもらうよ。大きく育たないと、楽しい大崩壊やド派手な滅亡は起こらないからね。 それでは、さようなら、惑乱の姫君よ!」 ケインの全身には、滝のように冷や汗が流れておりました。 (間違いない。あれは『無貌の神』だった。姫君様は、『暗い谷間の国』の民が『昏き水の国』によって苦しめられることがないよう取り計らうため、本当に身も心も犠牲にする御覚悟だったのですね) ケインは、深い感動に突き動かされて、まだ痺れの残る体でソフィア王女の前にひざまずきました。 (俺は、まだ騎士ではない。しかし、この姫君様になら終生の忠誠を捧げてかまわないぞ!) ケインは、朗々と宣言しました。 「私は、つねにあなたと共にあり、身も心も全て、あなたのために捧げます」 すると、ケインの足元で『ハイドラの紋章』が銀色の光を放ち始めました。紋章は揺らめきながら広がり、侍女たちの足元に、妾妃たちの足元に、そこにいる全ての者の足元に、それぞれ円が描かれました。 ソフィア王女が、侍女たちが、妾妃たちが、ケインに向かって一斉に言葉を紡ぎました。 「私は、つねにあなたと共にあり、身も心も全て、あなたのために捧げます!」 『ハイドラの紋章』は眩しい光を放ちました。その光は、はるかかなたへと広がってゆきます。 『昏き水の国』の若君は、声にならない絶叫をあげ続けていました。その体から触手が千切れ落ちてゆき、少しづつ黒い塵となって宙を舞って、溶けるように消えてゆきます。やがて、その姿はすっかり消え失せて、あとには強い潮の香りが残りました。 ケインは、混乱していました。 (え? 何だって? 姫様や侍女たちが身も心も全て俺に捧げるだって? つねに俺と共にあるだって? いったい、どうなるのだよ!) ソフィア王女は、居並ぶ妾妃たちに尋ねました。 「あなたたちは、どうなさるの?」 会話の巧みな妃が進み出ました。 「わたくしたちは、主(あるじ)の若君を失い、仕える先を無くしました。お許しがいただければ、『暗い谷間の国』でお仕えしたいと存じます」 八人の妾妃は、そろって膝を折り、頭を下げました。 ケインは、聡明な妃が微かな動作で皆に合図をしていることに気が付きました。 ソフィア王女は、花がほころぶように微笑みました。 「分かりました。父王様のお許しが必要ですが、おそらく大丈夫でしょう。『暗い谷間の国』は、属国となる危機を乗り切ったのですから、それくらいは許してもらえると思いますよ」 ソフィア王女は、妾妃たちがケインの方をチラチラ見ていることに気が付きました。 「ケインは王女付の護衛です。私に仕えていれば、いつもケインのそばに居ることができますよ」 妾妃たちは、歓声をあげました。 ソフィア王女は妾妃たちを見渡しました。 「私に仕えるなら、身分は侍女(メイド)になります。妾妃(コンキュバイン)と比べると身分がだいぶ落ちることになりますが、かまいませんか?」 「かまいません!」 妾妃たちは、一斉に答えました。 他の妾妃たちが喜びの笑顔を見せる中で、活発な妃と不言実行の妃は、暗い表情のままでした。 ソフィア王女は、二人に告げました。 「あなたたちは、武芸に秀でているように見受けられます。私の護衛をお願いできませんか?」 二人は答えました。 「わたくしたちには、ハイドラの触腕を一刀両断できるほどの技量はございません。それから、あれほどの技を見せつけられたあとでも、ケイン殿が私たちよりも強いようには、まったく見えないのです……」 「あなたたちは人間だけを相手にしてれば十分です。ハイドラ相手に振るう剣技を人間相手に乱発したら大変ですから。ケインの補佐をよろしくね?」 ケインは思いました。 (あいかわらず姫様はいろいろと良く気が付くなあ。それにしても有難たい。この二人は、絶対に俺よりも腕がたつぞ!) 妾妃たちは、喜びに打ち震えながら、晴れ晴れとした笑顔で、一斉にしゃべり始めました。 「これで殴られる鈍い痛みからも、引き裂かれる鋭い痛みからも、突き刺される激痛からも開放されるのね」 可愛い妃が、はにかみながら言いました。 「嘲りや皮肉、嘲笑や肺腑をえぐる言葉からも、おさらばできるのね。夢みたい!」 多才な妃が、つらく苦しかった思い出を振り返りながら言いました。 「恥ずかしい姿で縛られ吊るされることは、もう無いのね」 可憐な妃が、はち切れんばかりの笑顔で言いました。 「これで耐え難い苦しみに彩られた地獄の快楽から逃れられる……」 人を楽しませる妃が、解放感からか、放心状態になってつぶやきました。 それを聞いて、ソフィア王女が怒鳴りました。 「あのタコ野郎は、いったい何をしでかしていたのよ!」 ケインは思いました。 (強大な力をもつ不死身のハイドラを「タコ野郎」と罵倒できるのは、我が国の姫君様くらいのものだ。ハイドラの『魅了』は、姫様には影響しなかったようだな。 よかった、よかった。少し残念だけど、……) ケインの思いに気づくことなく、ソフィア王女は晴れやかな声で言いました。 「さあ、みなさん、もうしばらくの辛抱ですよ。いそいで王宮に帰りましょう!」 一行の急な帰還は、『風の知らせ』によって、すぐに王都に伝わりました。王都に至る路の途中まで迎えの兵たちがやって来ておりました。帰還の道すがら、ソフィア王女は、これまでのいきさつを語りました。 「『暗い谷間の国』は『昏き水の国』の支配から逃れることができました。『灼熱の炎の国』は『昏き水の国』に攻め込み、両国は交戦状態にあります。『昏き水の国』では各地で大地が裂けて溶岩があふれだし、巨大な津波に襲われています。」 この知らせを、急使が王都に伝えました。 ソフィア王女は続けて急使を立てました。 「『星を渡る風』の力を押さえておくことが難しくなっています。すぐに解放しなければ、この地が滅びます。急いで『星の間』を開けて、儀式の準備をしてください」 王都への路を急ぐ間にも、ケインには侍女たちの体から『星を渡る風』の魔風が吹きだしかけていることが感じ取れるようになっていました。王都に着くころには、魔風の幻影が見えるほどに、破滅の危機が迫っておりました。 夜の王宮には王都の住民のほとんどが集まっておりました。ソフィア王女の外交手腕によって、『暗い谷間の国』が無事に滅亡の危機を乗り越えたことが伝えられると、感激して泣きだす者もおりました。父王様への報告が済むと、『星を渡る風』の力を安全に解き放つために、すぐに儀式が始められました。 ソフィア王女が宣言します。 「『星を渡る風』の力をあるべきところに安全に返すためには、一昼夜以上が必要になると思います。これから、『星の間』の扉を内側から封印いたします」 一同は身軽な服に着替えると、『星の間』に向かいました。ただちに『星の間』に、『星を渡る風の書』が運ばれてきました。すでに燭台にはいくつもの蝋燭が灯され、部屋の中を明るく照らしておりました。『星の間』の中央には、巨大な切株が置かれておりました。一度に何人もがその上に乗って寝そべることができるほどの大きさがありました。切株は、椅子くらいの高さに切られており、真ん中が少しくぼんでおりました。良く磨かれた滑らかな表面は、蝋燭の光をうけて艶やかに輝いておりました。 部屋の隅には柔らかな厚い敷物が数多く積み重ねられ、部屋の奥にある祭壇の前には、果物や菓子、酒や蜂蜜、燻製の肉、柔らかなパンや固焼きパンがうず高く積まれており、左右に置かれた大きな瓶には新鮮な水がたっぷりと入っておりました。 ケインは巨大な切株の中央に座り、『星を渡る風の書』を開きました。定められた星の光を受けて禁断の書が目覚めるとともに、ケインは『饗宴の章』を読み解いてゆきました。 ケインが見守るうちに、蒼白く燃え上がり光を放つ文字が、ゆっくりと渦を巻き始めました。ふと気が付くと、ケインの目の前に果てしなく広がる暗闇が広がっておりました。そこで輝いているのは、無数の星だと、ケインには分かりました。星のいくつかには、強い力が宿っておりました。そして、そのはるか奥の向こうに、人の知らない恐るべき力が蠢いていることが感じ取れました。 ケインの心はケインの体を離れ、はるかかなたからもたらされる、人の知りえない深遠な真実に魅了され続けておりました。 この間に、ケインの張った『饗宴』によって、侍女たちが得た『星を渡る風』の力が、一つ、また一つと開放されて、あるべき所へと帰ってゆきました。こうして試練は無事に乗り越えられたのでございます。 すべての儀式が終わって、ケインは我に返りました。 ケインは、巨大な切株の真ん中に立っておりました。周りには厚い敷物が乱雑に散らばっております。祭壇に祭られた食べ物は、ほとんど無くなっておりました。 目の前には、髪の毛がほつれ、激しく着衣の乱れたソフィア王女が横たわっておりました。その周りには、侍女や妾妃たちが折り重なるように倒れ、ひどく粗い息をしておりました。みな、心から満たされて、とても幸せそうな表情でした。 ソフィア王女は、よろけながら体を起こしました。恥じらいを秘めた頬はほんのりと桃色に染まり、ケインを見つめるゆれる瞳は微かにうるんでおりました。 (姫君様、いったい何があったのですか?) 「ああ、ケイン、ケイン、ケイン!」 ソフィア王女は、倒れ掛かるようにケインに抱きつき、ケインのたくましい胸に顔をうずめました。ソフィア王女の小さな肩はこまかく震えており、切なげに繰り返される吐息は粗く、ひどく熱いように思われました。ケインは、思わず王女を抱きしめていました。 (まずい。これは、いけない) ケインは、ソフィア王女から離れようとしました。しかし、王女は弾力のある胸を押し付け、腰をくねらせ脚をしっかりと絡ませて、決して離れようとしませんでした。 ソフィア王女は顔をあげ、ケインを見つめました。伏し目がちな瞳は妖しく輝き、誘うようにわずかに開かれた唇は濡れて紅く艶めいておりました。 「凄かったわ、本当に凄かったわよ、ケイン!」 それからソフィア王女は、花がほころぶような可憐な笑みを浮かべると、甘えるように言いました。 「あなたが望むなら、これからも私はどんな事だってするわ。私は、つねにあなたと共にあり、身も心も全てあなたのために捧げる、そう誓ったのだから……、もう決して離れないわよ!」 ソフィア王女は顔を赤らめ、ケインの胸に顔をうずめると、両腕でしっかりとケインに抱きついたのでした。 「そうですわ~」 七人の侍女たちも、八人の妾妃たちも、妖艶な笑みを浮かべ、甘い声をあげながら、水蜜桃のような肉体を艶めかしくくねらせて、一斉にケインに抱きついてきました。 天には、大いなる力の宿りし星々。 地には、大地から流れ出る溶岩の描く紅蓮の花。 人には、歪み爛れた愛。 これが、『ハイドラの書』と『無貌の神』にまつわる物語の全てでございます。 語り部は、そう言い終わると、漆黒のマントを整えて、フードで覆われた頭(こうべ)を深々と垂れたのでした。 |
朱鷺(とき) 2020年12月26日 18時13分53秒 公開 ■この作品の著作権は 朱鷺(とき) さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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