天才スリと児童虐待お姉ちゃん |
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※残酷描写あり 『ねぇ径ちゃん。あんたプロの手品師になりなよ』 小さい頃のあたしにそんな風に言ってくれたのは、当時あたしを『携帯灰皿』呼ばわりして、実際手やら腕やらに煙草の火を頻繁に押し付けてくれやがっていたお姉ちゃんだった。 あたしは手先が器用だった。他のことはもう本当に、どうしてここまで酷いんだって言われるくらいダメだったけど、でも手先だけはおそらく天才と言って良いくらいに器用だった。だから、テレビの中の魔術師が披露して見せた色んな手品も、あたしは一目見ただけで自分のものにすることが出来た。 あたしはお姉ちゃんが選んだトランプを、お姉ちゃんのポケットに滑り込ませることが出来た。お姉ちゃんのポケットにある煙草の箱の中にカードを入れることさえ、お姉ちゃんを目の前にしながら行えた。タネも仕掛けも必要ない。ただ上手く注意を他に引き付けて、一瞬の隙を突くだけのことだ。 七つ年上のお姉ちゃんは、高校に上がる頃にはもう煙草を吸っていた。吸い始めて一週間も経つ頃には、ショートホープの中でニコチンの濃度が一番濃い奴を、毎日二箱ずつ吸うようになっていたらしい。 その大量の煙草代を、お姉ちゃんは色んな人からお金を借りたり巻き上げたりして賄っているらしかった。何せ小学生のあたしからお金を取り上げるくらいだったから性質が悪い。 そんなんだから回りから嫌われ、親との折り合いも悪くなり、高校在学中に家を飛び出して、今はどうしているのか分からない。 あたしはそんなお姉ちゃんからいじめられていて、特に煙草を吸い始めてからは、煙草の火を身体のあちこちに押し付けられていた。あたし達は子供部屋で寝起きしていたので、ちょっとしたことでしょっちゅう根性焼きの目にあっていた。あたしはそんなことをするお姉ちゃんのことが、怖くて憎くてたまらなかったのだ。 なのに。 『あんたはあたしの携帯灰皿だね。どこに行くにも付いて来るから、便利だよ』 なんて言われるくらい、あたしはお姉ちゃんと行動を共にしていた。連れ回されてた訳じゃない。付いて行っていたのだ。だってお姉ちゃん以外に友達がいなかったから。殴られると痛かったし、怒鳴られるのは怖かったし、殺したいくらい憎かったけれど、それでもあたしはお姉ちゃんに付いて行った。一緒にいたがった。疎ましがられると泣きじゃくり、構ってもらえると嬉しかった。 お姉ちゃんがいなくなってから、あたしは本格的に手品にのめり込んだ。部屋を一人で使えるようになったから集中できるようになったっていうのもあるし、友達がいないもんだからそうやって一人で遊んでいるしかないっていうのもあった。 あたしの手技はどんどん上達し、誰のどんなポケットの中にでも、鞄や財布の中にでも、カードを滑り込ませることが出来るようになった。テレビで見たどんな手品師よりも上手な自信が付いた。 多分あたしは滅多にない程の手品の才能を持っていて、煙草の火の痕に塗れた手のひらで何時間でも何日でも何年でも、その才覚を磨き続けていることが出来た。きっと自分は世界一の手品師になるのだと、あたしは常に確信していた。 そして……。 〇 1 〇 「一人だと寂しい♪ でも。人と話すのは嫌♪」 なんて歌いながら、あたしはスーツを着たお姉さんとすれ違う。 「生きてるのはつらい♪ でも。死ぬのは怖い♪」 なんて歌いながら、今度はあたしは髪の毛の薄いおじさんとすれ違う。 「こんなことしたくない♪ でも。絶対働きたくはない♪」 なんて歌いながら、最後にあたしは杖を突いたお婆ちゃんとすれ違う。 満足したあたしはそのままふらふらと自宅へ帰り付き、ポケットから三つの財布を取り出して、ちゃぶ台の上に放り投げた。 「さぁて……本日の成果はぁ……」 あたしは独り言を言いながら、ぶちまけられた財布を一つ一つ改めて行く。 まずは一つ目は中型自動二輪免許を所持する時川冬子さんの財布だ。免許証の写真を見るに結構綺麗な女の人で、ライダースーツを着てバイクに跨るとなかなか絵になると思われる。肝心の現金額は……三万二千円。まあまあの部類。 お次はキャバクラ『キャットハンズ』のプラチナ会員証をお持ちの西村義弘さんの財布だ。良い財布だったので期待しながら札入れを覗くと、金額はたったの四千円しかない。これでどうやってキャバクラに行っているんだ? しかしカード類を改めてみると、高級そうな黒いカードを発見。 「キャッシュレス決済してんじゃねぇ」 あたしは時川冬子と西村義之の免許証を、部屋の隅にある段ボールの中に放り込む。 高校卒業と共に家を飛び出し、掏りで生活し始めてから八か月。大量に集めた戦利品の免許証は、ミネラルウォーターの箱のかなりの割合を埋め尽くす量に達している。決して倹約家でもやりくり上手でもないあたしを八か月生きながらえさせる為に、それは必要な犠牲者数だった。 あたしは最後の財布を改める。免許証に記載の名前は『山田花子』。本当にいるんだこういう名前。そして生年月日がまさかの大正。ご長寿だ。肝心の財布の中身は……ギガント、三十三万六千円。 「やったぁっ」 お年寄りはボケてるから何度もお金降ろしたりするけれど、差し引いてもこれは大当たりの部類だ。 あたしは頬に笑みが浮かぶのを堪えきれない。これでもうしばらく仕事しなくて良い。仕事って言っても掏りだけど。犯罪だけど。まあどうせなんか変なもの買っちゃってすぐなくなるんだろうけど。お金がたくさん手に入るのはやっぱり嬉しい。 万札の枚数を改めて数えていると、隙間からお金じゃない紙が一枚、滑り落ちる。 茶ばんでよれよれになったその紙を拾い上げると、そこに描いてある文字を見て、あたしは表情を引き攣らせる。 かたたたき券。 お母さんいつもありがとう 「あーもう」 あたしは山田花子さんの免許証(返納しろ!)を段ボールの中に放り込む。そして万年床に寝転がって天井を眺めた。 碌に整理もされない漫画本がグチャグチャに詰め込まれた本棚や、食器が積み上げられてハエが集る寸前のシンクが、仰向けになったあたしを見下ろしている。より近くにはパンパンになったゴミ袋や、買いあさるばかりで碌に身に付けもしないブランド品が、小山を形成しながら万年床を取り囲んでいた。 お金も時間もたくさんあるけど、それでも最低としか言えない暮らし。人のお金を奪って行われる暮らし。人の思い出や幸福を奪って成り立つ暮らし。何も成し遂げない暮らし。 「……したくないんだけどなあ。掏りなんてこと」 あたしは誰に聞かせるでもなくそんなことを言って見せる。 「でも働きたくない。人と話したくない。かと言って死にたくもない」 言い訳にもなっていないクズの自己紹介を呟いて、あたしは明かりも消さないまま目を閉じる。 膿んだ気持ちと時間を持て余さないようにする為には、まあだいたい、眠ってしまえばことが済む。 〇 高校を出て働き出してすぐ、訳もなく、意味もなく、なんとなく憧れていただけの一人暮らしを始めて、一か月しか続かないまま仕事を辞めた。 あたしが就職したのはデパートの中の化粧品店だった。高校でそれは酷い成績だったあたしが就職できた理由はこの外見にある。あたしは肌が白くて綺麗で、薄めの唇は鮮やかな桜色で、目も大きくてまつ毛も長くたくさん伸びていたから、お化粧品を売るのには有利だと思われたんだろう。 あら奥さん、このお化粧品、あたくしも使っていましてよ。お陰でほら、こんなにお肌がすべすべに。これを付ければ、きっとあなたも綺麗になれます。本当です。 なんてトークを期待されて販売員に雇われたんだろう。しかしあたしはお化粧品を見ている客に声を掛けるところからしてままならなかった。声を掛けようと近付けば言葉が出て来ず凍り付き、向こうから話しかけられても肩を震わすばかりで会話になることですら稀。一つ七千八百円のお化粧水や四千八百円のチークはもちろん、三百九十八円のコットン一つ売りつけることもままならず、あたしは毎日店長に怒鳴りつけられ、先輩方から嫌味を言われた。 『何か一つまともな物を販売できるまで、家に帰るな!』 っていうことで、早番で出勤した日でも終業時刻まで残業させられ、終礼の後も小一時間くらい説教をされたり接客の練習をさせられたりした。一刻も早く仕事を覚えてもらえるようにということで、休みの日に出勤させられることも稀ではなかった。 心身ともに疲れ切っていたと言って良い。 そんなある日の帰宅途中、向かいから走って来るトラックを目にしたあたしは、ふらりふらりと道路の中へと歩いて行った。そして跳ね飛ばしてもらおうとトラックの前に出た。 しかし無事だった。トラックが寸前でハンドルを切った為、あたしは跳ねてもらうことが出来なかった。トラックを停車させた中年の運転手は、座席から降りるなり顔を真っ赤にしてあたしを怒鳴りつけた。 『どこ見てやがんだガキんちょ! ちゃんと前見て歩きやがれ!』 そう言われ、あたしは目からあふれ出す涙を堪え切れないまま喚き返した。 『あたしガキじゃないもん!』 多分異様な表情をしていたんだろう。怯んだ表情でオヤジはあたしを見詰める。 『大人だもん。働いてるもん。頑張ってるもおおん! ふぁあああん! ふぁああああ。ああああああっ!』 ってな具合に泣きじゃくり始めたあたしに対し、オヤジは何か普通じゃないものを感じ取ったようで、逃げるようにトラックに乗り込んで去って行った。 次の日、あたしは出勤することが出来なかった。鳴り響く電話を無視して部屋でじっとしていた。頭を抱え、布団に潜り込み、出勤するくらいなら他のことはもうどうなっても良いくらいの気持ちで、ひたすら耐え忍んで過ごした。 その次の日。あたしは部屋で漫画を読んで過ごした。電話を無視するのは、昨日よりも少し簡単になっていた。 その次の日。テレビを見て過ごした。電話の音はあんまり気にならなくなっていた。 さらに次の日。あたしはスマホで動画を見て過ごした。不細工な配信者が下手糞な手品を披露する動画をハシゴして、コメント欄でタネを見抜いてこき下ろすのが面白かった。電話はもう鳴らなくなっていた。 一週間経って、自宅に店長が尋ねて来た。君はもう来なくて良いけど、制服返してもらったりちゃんとした辞表を作ってもらったり色々あるから、一度事務所に来てほしいと言われた。大人しく従った。 半時間ほどで手続きが済んで、ようやく解放してもらえることになった。事務所から出て、職場と言うことになっていた店内を歩き去る際に、お金を持っていそうな丸々としたマダムとすれ違う。 この店で働いていたあたしは知っている。このマダムがいるのは、監視カメラの死角になる場所だ。 あたしはマダムの懐に手を伸ばした。 〇 チャイムの音がしてあたしは目を覚ました。 そういやAmazonで漫画頼んでたなあ、なんて思いながら起き上がって対応すると、背の高い女の人が腰に手を当てて立っていた。 「よう」 髪の長い、すらりとした、ものすごい美人だった。切れ長で大きな瞳は少し赤茶けていて、高く尖がった鼻筋からはどこか東洋人離れした気配が漂う。薄い唇に咥え込まれているのはショートホープの煙草で、その香りはあたしを懐かしい気分にさせた。 その美人はあたしの方をまじまじと見つめながら、訝し気な顔をしてあたしの手を取った。そして未だに残る大量の火傷痕の残る手の平を見詰めると、退廃的な笑みを浮かべながら一言。 「やっぱり、径だよな」 あたしは目の前にいる女の正体に気付いて、肩を震わせる。 まさか。もう会うことはないと思っていた。何年も心を整理して、それで良いと思うようになっていた。そんな人が今、あたしの目の前にいる。 「ねえ、ママ」 足元で声がした。 三歳から五歳くらいに見える、小さな男の子だった。この女の人の子供と言われればまずまず納得できる、綺麗な顔をした綺麗な子だ。 「この人が、ママのー、いもーと? なのお?」 そう言うと、女の人は何の愛情もないような手つきでその子供を抱き上げて、あたしの顔に近づけると。 「そうだよ。径っていうの。おまえの叔母さん」 あたしは冷や汗を流しながらついつい媚びるような笑みを浮かべつつ、若干身を退きながら尋ねた。 「お姉ちゃんなの?」 「そ。こいつは息子な」 そう言って、お姉ちゃんはあたしの鼻先に突きつけた男児をゆさゆさと揺る。 「なんで径次郎っていうんだ。なんでそんな名前にしたのかおまえ分かる?」 「は? 分かんないけど……なんで?」 「携帯灰皿二号機」 そう言って、お姉ちゃんはきゃはきゃはと知性も理性もないような笑い方をする。 あたしは男児の手の平を見る。そこには、あたしと同じような煙草の火の痕が刻まれていた。 〇 「金寄越せ。できるだけ多く」 玄関に座り込んだお姉ちゃんはショートホープの煙を吐き出しながら、凄んで見せるでもなくあたしにそう告げた。それは正当な命令であり従うことも当然、と言わんばかりの態度だった。 多分この人は、あたしがお金を出すまであたしが何を言おうとどう喚こうと、ここに居座り続けるつもりだろう。この人がそうするつもりなのをあたしは知っているし、そうされたあたしが折れてお金を持ってくることをこの人は知っている。最後に会ってから十年経つっていうのに、そんなところばかり姉妹の心は通じ合っていた。 「分かったよぅ。持って来るから、ちょっと待っててね」 「お? マジ? お利口じゃん。案外金に余裕あんの?」 「別にそういうんじゃないけど」 あたしは枕元に置きっぱなしだった山田花子さんの財布から十万円を取って来て、お姉ちゃんに渡した。 お姉ちゃんは若干訝し気な表情を浮かべつつも、出されたお金は受け取って笑った。 「サンキュ。ってかさぁ、わたしら姉妹じゃん? 積もる話とかあるくね?」 「え? まあ、うん。あたしも色々気になることとかあるけど……」 「だよね。つー訳で今夜泊めてくんね?」 「えーっ? ダメだよー。家ん中入れられないしー」 「はあ? なんで? 良いじゃん別に」 「ダメだよー。散らかってるもおん」 「つってもさぁ。このまま金だけ貰ってバイバイってのも寂しいじゃん実際」 「そんな言うんだったらお外出れば良いじゃん。ジョイフルとかガストとかあるよこの辺。奢れってんなら奢るし。晩御飯って食べた?」 「まだだしじゃあ奢ってもらうけど、でもさあぶっちゃけ今わたし住むとこねぇんだよ。一晩だけ泊めて。お願い」 「ええ~。そんなんお姉ちゃん絶対ここ居座るつもりじゃん。やだよ~」 「そんな言わないでさぁ。径次郎だって、もうそろそろちゃんとしたところで寝かせてやりたいんだよ。頼むよ」 「今渡した十万でホテル行けば良いじゃん」 「十万でいったい何泊出来るっていうんだよ」 「そんな言うんならもう十万あげるから。とにかく家入れるのはダメ。ダメなのー」 そう言うと、お姉ちゃんは眉間に僅かに皺を寄せ、切れ長の瞳であたしを見竦めながら鋭く言う。 「……おまえさ。なんか怪しくね?」 相手の態度が剣呑なものに変わったので、あたしは身を竦ませて上ずった声を出す。 「え? 何が」 「いやだっておかしくね? だってさ、おまえまだ高校卒業したばっかだろ? なんでそんな十万も二十万もぽんぽん渡せるの? おまえみたいな能無しがそんな大した収入見込めるような仕事就ける? 無理じゃね? それか身体でも売ってる?」 「……そんなことしないもん」 「じゃあ何? なんかヤバいことしてる? そんな度胸あるおまえ? つかどうして家入れたがらないの? なんかあんでしょ」 「……何もないし」 「そんな言うんだったら中見せてもらうよ」 そう言ってお姉ちゃんはその場を立ち上がり、ずんずんと室内に上がり込んでくる。 「ちょっと。やめてよ」 そう言って追い縋ろうとしたあたしの手の甲に、お姉ちゃんは持っていたショートホープの先端をじゅっと押し付けた。 「きゃ、きゃああっ!」 弾けるような熱さに思わず手を引っ込める。煩わしい痛みが手の平にくすぶり、あたしから抵抗する気力をしつこく奪う。ずっと昔に覚え込まされた通りの痛みと無力感があたしを襲った。 涙目になるあたしを放置し、お姉ちゃんはずかずかと部屋の中に上が込む。そして、「本当に散らかってんなー」と感想を述べた。 言われなくても散らかっているのは知っている。壁には積み上がったカラーボックスの中に、無秩序に縦にも横にも積まれた漫画本。床はゴミ袋とゴミと、闇雲に買いあさった高級ブランドの服と鞄。お姉ちゃんの子供であるらしい径次郎が、うろちょろしながら物珍しそうにあちこち触って荒らして回っている。それを止めようともせず、お姉ちゃんは探るような視線をあたしに向けた。 「おまえさあ、なんで一人暮らししてんの?」 「え? いや、ママがウザかったし。まともな会話とかほとんどなかったし、その癖部屋片付けろとか小言ばっかり言われて……」 「言い方変えるわ。おまえさ、なんで高校出てすぐ一人暮らしとか始められたの? どうやってこの暮らし成り立たせてんの? なんでこんなブランド物の服とか鞄とか散らかってんの? 収入源、いったい何?」 「……関係ないでしょお姉ちゃんには」 そう言うと、お姉ちゃんの目の色が変わる。ヤバいと思う間もなく、あたしは煙草の火を押し付けられた。きゃあきゃあ言って喚くあたしの腕を掴み上げ、お姉ちゃんはあたしが泣くまで根性焼きをつづけた。 「何その生意気な態度?」 「……ふぁああ。ぅううう。ごめんなさいぃ」 「なんかヤバいことやってんだろおまえ? つか分かるよ。だいたい分かる。お姉ちゃんはおまえのことよーく分かってる。ぶっちゃけさぁ」 お姉ちゃんはそう言って、確信を持った口調で告げた。 「おまえ、掏りだろ?」 あたしは下を向いて沈黙する。 あたしの手先の器用さをこの人は良く知っている。昔は機嫌が良い時たまに手品に付き合ってくれもした。あたしは何度もこの人のポケットや財布や煙草の箱にトランプを滑り込ませた。というより、あたしが手品師を夢見ていたことを知っているのは、多分この世界にこの人だけなんじゃないだろうか? 「地元の新聞で『スリ多発』って乗ってるもんなぁ。分かってるだけでも五十人以上被害者がいるんだって、漫喫で読んだよ。最初っからおまえかもって思ってた訳じゃないけど、今なんかピンと来たわ。おまえならできそうだし、おまえ以外できそうにない」 足元で径次郎があたりにあるものを気の向くままに持ち上げたり放り投げたりしている。径次郎はそのままいくつかのガラクタをかき分けて、大量の免許証が入っている段ボールに到達する。 「ママ。これ何? これなにーっ」 言いながら、径次郎は段ボールを持ち上げてお姉ちゃんのところに歩いて来る。 横倒しにされた段ボールの中から、数百枚ある免許証がお姉ちゃんの足元に散らばった。 あたしは顔を青くする。お姉ちゃんはあたしの方を引き攣った顔で見詰めた。 「おまえ。すごいよ」 〇 「高校中退して、付き合ってた彼氏の家に転がり込んでさぁ。しばらく一緒に暮らしたんだ。何年か結構楽しかったんだけど、浮気されちゃって」 デミグラスハンバーグを汚らしく突き回しながら、お姉ちゃんはあたしにそう語る。 「彼氏の家飛び出して、しゃあないから夜の仕事とかして凌いでたんだけど、腹が膨れだした時はビビったよ。は? このタイミング? ないわ。って思うじゃん」 「……うんまあ。そりゃあその……大変だっただろうね」 「大変だったよ。いやもちろん堕ろすつもりだったんだよ? でも面倒だったし忙しかったから、先延ばしにしちゃって。それで医者行ったら、もう二十二週過ぎてるから降ろせませんとか、糞みたいなこと言われたんだよね。参るよなあ」 糞はおまえだよ。って言いそうになったけど堪える。子連れでも迷わず喫煙席に座ったお姉ちゃんは食事中にも煙草を離さない。それを押し付けられるのは嫌だった。 「こらっ。おまえ、こぼすなよ径次郎!」 そう言って、お子様ランチのオムライスをこぼした径次郎の頭をびたんと叩く。径次郎はあえなく涙を流し、大きな声で叫び喚く。 「うるさい! 黙れ! 黙れっつってんだろ! ウザいんだよ!」 言えば言う程泣きまくる径次郎。叩いても怒鳴っても、もちろん泣き止んだりはしない。それに痺れを切らしたお姉ちゃんが煙草の火を押し付けようとしたところで、径次郎はぴたりと泣き止んで顔を伏せた。そして怯えたように震え始める。 「こうされないと黙らないんだよ、こいつ」 そう言ってお姉ちゃんは煙草を灰皿に戻す。 「殴られたり怒鳴られたりするのに馴れちゃったんだね。その内、煙草の火にも慣れるんじゃない?」とあたし。 「もう慣れて来てるよ。面倒くせぇ。次はどうやって黙らせようか」 「適応ってすごいよね。あたしもお姉ちゃんに良くそれされたけど。最初はびっくりしたし、熱くてつらかったけど、でもその苦しいのが自分の現実だって、受け入れちゃうんだよね。その内」 さっき根性焼きされた手の甲の痛みは未だに燻り続けている。本当にこの痛みはしつこくて忌々しいのだ。あたしが経験したのと同じ苦痛と恐怖に日々苛まれているだろう甥っ子に、あたしは同情と親近感を覚えた。 「お姉ちゃん今どうしてるの? 生活するお金とか」 「借金」 「あ、そう」 「でももう色々差し押さえられて首回んなくなっちゃって、夜逃げして来たとこ。オバハンに電話掛けたらあんたの住所聞けたから、寄ってみた訳」 「ママに電話掛けたんだったら、そっちに行けば良かったじゃない」 「最初は行くつもりだったけど。でもよく考えたら、行ってもどうせ説教とかされてウザい思いするだろ? 出来ることなら頼りたくないわ、あんなオバハン」 「まー。それはちょっと分かるけどさぁ」 お姉ちゃんはママのことを好きではなかった。それはあたしも同じだ。母親としててんで落体点という訳じゃないし、娘への愛情も確かにある。本当に困った時は助けてくれるという信頼も持てる。ただ、気分屋で教育態度が一貫しておらず、それでいてどうでも良いようなところで口うるさい点が、二人の娘から好感を得られていなかった。 「今借金どれくらい?」 「分からん」 「分からんって……」 「どこからいくら借りてるのか、もう分かんねぇよ」 そう言ってお姉ちゃんはふぅーっと妙に気持ち良さそうに煙草の煙を吐き出した。なんでそんな話をしながらこんな美味しそうに煙草吸えるんだろう。 「借金取りから毎日必死で逃げ回ってる。でもまあ良かったわ。しばらくなんとかなりそうで」 そう言って、お姉ちゃんはにっと退廃的な笑みをあたしに向ける。 「家、泊めてくれるよな? 住まわせてくれるよな?」 そう言ってお姉ちゃんは、証拠として撮影された大量の免許証をスマホに表示させる。 あたしは溜息を吐いて頷いた。 〇 2 〇 径次郎を風呂に入れて来い、という司令がお姉ちゃんから下った。 「え? いやあたし子供お風呂に入れたこととかないし」 「わたしもう風呂入っちゃったし。径次郎風呂に入れる為にもう一回入るの? 無駄だろ?」 この居候はあたしが張ったお湯にあたしより先に浸かって来てしまっていて、今は入浴後のビールを飲みながらテレビを見て寛いでいる。あたしは溜息を吐いて径次郎に声をかけた。 「ねぇ径次郎くん。お姉さんと一緒にお風呂に入ろう?」 子供向けにマックス優しい表情を作るあたし。しかし径次郎は早くも酔っぱらい始めているお姉ちゃんの方を見て、一言。 「ママが良い」 そりゃそうだわな。 「ママが良いっ。ママがいーいっ!」 「うるっさいわ! ママはもう一人で入っちゃったんだよ! 大人しくそいつと入って来い。それが嫌なら、もう風呂入るな!」 怒鳴られてギャンギャン喚き出す径次郎。お姉ちゃんはわざわざ懐から取り出した煙草に火を点けて、それを持って径次郎に歩み寄る。 「や、やめなよー」 あたしはそう言ってお姉ちゃんを制止して、径次郎と向き直る。 「ほら。ママが怒っちゃうよ。今日はあたしで我慢して。ね?」 そう言うと、径次郎は不貞腐れたような表情で頷いた。 径次郎はもうある程度自分のことをできる年齢のようで、一人で服を脱ぐことも出来た。シャンプーを手の平に乗せてあげれば、大分いい加減ながら髪の毛を自分でまさぐる真似事らしきこともやってのける。意外と躾けられているようだ。 「偉いねぇ径次郎くん」 なんて言いながら泡を流してやると、径次郎は嬉しそうに笑んで「うんっ」と頷いた。 「径次郎くん、今何歳?」 「四歳!」と言って指を四本立てる径次郎。 「お姉ちゃんが誰なのか、知ってる?」と言ってあたしは自分を指さして見せる。 「けー。ママのいもーと」 「わぁ賢い、教えられたことすぐ理解してる」 あたしは目の前の甥っ子に対し、愛着が沸き立ち始めるのを感じている。 「なんかシンパシー感じるなあ。さっきお姉ちゃんに叩かれて泣いてた時とかさあ、昔のあたしみたい。径次郎くんって言うくらいだもんねぇ。携帯灰皿二号機だっけ。どうも、あたしが一号でーす」 「お星さまー」 「え? 何、お星さまって何が?」 「ここ。お星さまー」 そう言って、径次郎はあたしの手の平を指さす。 手の平に無数に刻まれた根性焼きの痕を、径次郎はそう表現したらしかった。というかそれはある意味で正しい。右の手の平はただ無秩序に火傷痕が刻まれているだけだが、左の手の平にある七か所の火傷痕は北斗七星の位置に殉じている。『北斗の拳』を愛読書にしていたお姉ちゃんが、ふざけてあたしにそう施したのだ。 「お星さまー。お空みたいー」 そう言って径次郎はきゃっきゃと笑う。そして自分の手の平を差し出して、一言。 「一緒―っ」 あたしは笑えないなと思いながらも笑い返して見せて、径次郎のことを抱きしめる。 「あたしのことは『径ちゃん』って呼んでね。おばさん、って歳でもないと思うから。まだ十代だしね」 「けーちゃん? うん。けーちゃん。分かったー。けーちゃん、けーちゃんけーちゃんけーちゃん」 それから径次郎を抱いて一緒にお風呂に入る。全身に痣やら火傷やらが刻まれた甥っ子との時間は、ここ数年感じたことのない爽やかな気持ちをあたしに齎した。 〇 次の日。あたしは回らない寿司屋に連れて行かれて、思いつくままに寿司を頼みまくって食い散らかしまくったお姉ちゃんの分までお金を払った。 その後デパートに連れて行かれ、お姉ちゃんの欲望の示すままに服やら靴やらアクセサリやらを買わされ、しかもそれらの荷物持ちまでもあたしの仕事となった。 「いやお姉ちゃん。もうお金ないんだけどー」 あたしは涙ぐんだ。 「おまえだってこんくらいの贅沢はして暮らしてたんだろ?」 「でも自分のお金だもん」 「どこがおまえの金だ。掏りの癖に」 「でもちゃんとリスク払った! バレたら刑務所に行くかもしれないっていう危険を、毎回潜り抜けてるのーっ」 「アホか。リスクを抜けようがなんだろうがそれは人様が汗水垂らして稼いだ金だろ? バレたら刑務所に行くのは当然の罪と罰であって、おまえが偉いっていうことにはならんっつの」 その正論言える立場にないでしょあんた。なんて、口に出す度胸はもちろんない。 「ねー。ねーママー。ねえママ―」 「なんだよ径次郎」 「ガチャガチャしたいー」 径次郎が母親の足元にまとわりついてそう言った。デパートみたいなところにくれば子供がそれをねだるのはまあ普通だろう。 「頼むわ径」 そう言ってお姉ちゃんはあたしに顎をしゃくる。まあそれは別に良い。……というより。 「ガチャガチャも良いけど……せっかくだし、なんかオモチャ買ってあげよっか」 「ええーっ!」 径次郎は驚喜した様子でその場を飛び跳ねる。 「やったあっ! やった。やったぁああっ!」 もう本当気でも狂ったのかってくらいぴょんぴょん飛んで喜んでいる。 「あんま甘やかすなよなー。わたしの時に同じこと言い出されたらウザいだろ」 「良いじゃん良いじゃん。あ、でももうお金ないんだっけか」 財布の中身を確認し、まあ無くはないけどちょっと高めの奴欲しがられたら厄介かな、ってくらいの残額を見て、あたしは径次郎に向けて言った。 「後で必ず買ってあげるから、ちょっとの間、ママとここで待っててね」 そして、お姉ちゃんに荷物を預けて、あたしは「ちょっと稼いでくる」と告げる。 「やるの?」 「まあ」 「仕事するとこ見てて良い?」 「駄目だよ。バレる率絶対あがるもん。待ってて」 早くおもちゃを買って貰いたくて興奮して騒ぐ径次郎を、お姉ちゃんが叩いて黙らせている。あたしはちょっとかわいそうに思いつつも、その場を離れた。 化粧品とアクセサリのフロアには金を持ってそうなマダムが多数うろついている。あたしの前の職場も実はこの階にある。径次郎におもちゃを買ってあげると切り出したのも、出来るだけこの階から離れたかったというのが理由の一つだ。 掏りのコツはいくつかあり、それらは三つの工程に別けられる。一つ目は被害者選び、二つ目が実戦、三つ目はその場から自然と離れること。前に行く程技術が必要で、後に行く程精神力が必要になる。 第一のコツはもちろん財布を掏り安い人を狙うこと。尻ポケットに財布を突っ込んでいる男の子なんてのがいたら、もちろん分かりやすい狙い目だ。ただしそういうバカの財布の中身には期待が持てないので注意が必要である。 宝石店から出て来る背の高い痩せたおばさんに、あたしは目を付ける。若作りして、指とか首とかにじゃらじゃらと宝石を付けている。金を持っていそう。ポケットには膨らみが感じられないのでおそらくハンカチくらいしか入っていない。となると、ブツは鞄の中だ。 あたしはさりげなくそのおばさんの背後をつけて、二秒を目安に観察する。鞄は無造作に持っているだけで警戒は感じられない。鞄の口は大きくて、一対の小さな金具でくっ付けているだけ。あたしなら片手どころか指一本で開けられる。狙い目だ。 あたしはチャンスを伺う。おばさんはエレベーターの方に脚を向けている。あたしはさも自分もエレベーターを目指しているかのように並走し、おばさんがエレベーターのボタンを押したところで隣に立った。 ここですぐには仕事を始めない。おばさんの気が完全に消え、上の空になる瞬間が必ずあるので、そこを狙う。その辺は技術と経験である。あたしはリラックスした状態で、いくらでもその時を待つことが出来る。 その時はすぐに訪れた。エレベーターのランプに気を取られ、おばさんの気配が霧散しているのを見て取って、あたしは鞄に手を伸ばした。 後はもう、電光石火の早業だ。鞄の口を人差し指でぱちんと撫でたその一秒後には、残りの四本の指が中の財布を掴んでいる。そして『次の瞬間』と言って良いくらいの素早さで、おばさんの財布はあたしのポケットへと消えてしまった。 その後どうするか一瞬迷って、あたしは自然な足取りでその場を離れることにした。おばさんはあたしに気を止めていない。顔すら見ていない。一緒にエレベーターを待っていた小娘が不意に乗るのをやめたところで、そんな記憶は一分も持たずにおばさんの中から消えるに違いない。 ふと気が付くと、お姉ちゃんが径次郎の手を引きながらこちらをじっと見つめていた。 あたしはそちらに歩み寄ると、小声で口にする。 「見ないでって言ったじゃん」 「は? なんかしたの?」 「声おっきいって」 あたしは言いながらも、ほんの少し悪戯心を覚えてお姉ちゃんに微笑みかける。訝しみ、目線をあたしの顔に固定させたお姉ちゃんの腰へと、あたしは手を伸ばした。 「気が変わった。径次郎くんには、お姉ちゃんが自分でおもちゃ買ってあげてよ。そっちの方が、喜ぶよ絶対」 「は? 嫌だよそんなん。金ないし」 「お金ならあるでしょう? お姉ちゃんの左のポケットの中に」 お姉ちゃんは素っ頓狂な顔をする。あたしの背後では、エレベーターが到着した音がして、おばさんは何も気付かない様子でその中へと乗り込んでいく。 「まさかとは思うけど、おまえ」 そう言ってお姉ちゃんはポケットの中から財布を取り出す。 それは、あたしがおばさんから掏った財布だった。 凍り付いたようになるお姉ちゃん。あたしは腰を折り、径次郎と視線を合わせて、こう言った。 「あたしじゃなくて、ママが径次郎くんにおもちゃ買ってくれるって。良かったね」 〇 「本当、すげーんだよ! わたしの妹」 あたしが径次郎を一緒に風呂からあがると、お姉ちゃんはビールを飲みながら電話で誰かと話している。 「マジマジ! 今日だけで三人から財布を掏ったんだよ? 達人級だよ! なんかさぁ、一介の小悪党にしとくのはもったいないっていうかさぁ……」 え? 何この人知り合いにあたしのこと話してるの? と思ったあたしはお姉ちゃんのところに行って、電話をやめろのジェスチャーをする。 「あ? ……ちょっと待って妹がなんか言ってる」 そう言って、電話を保留状態にしたお姉ちゃんが、あたしの方を煩わしそうに睨む。 「何?」 「何? じゃないでしょーっ。人に話しちゃダメだって。いくら仕事が完璧でもさ、そういうところから埃が出たりするの。ダメなのーっ」 「全然ダメじゃないって。向こうもセミプロだから」 「セミプロ? 何それどういう意味?」 「セミプロっていうか、半グレ?」 「ごめん。どっちも分かんない」 「ちょっとしたヤクザもんってことだよ。向こうもワルだから、警察に告げ口したりなんか絶対しない。むしろ、あんたのその能力をどう金儲けに活かすかを相談するのにちょうど良い相手なんだ」 ……何にあたしを巻き込む気なんだ、この人は。だいたいにおいて、相手も犯罪者的な人間だからって安全な保障はどこにもない。悪は決して悪の味方ではない。その人自身が警察に言うことはなかったとしても、あたしの腕が噂になるようなことがあればどちらにせよおしまいなのだ。 という様な不安が表情に出たのか、お姉ちゃんは煩わしそうに腕を振る。 「大丈夫だって。向こう、口も堅いしさ。……もう良い?」 良い訳がない。が、あたしが止める間もなく、お姉ちゃんはその半グレの人との電話を再開してしまう。 「ごめん待たせたー? で、なんか良い儲け話とかない? うん。うん。はあー? それマジ? そんなこと現実にあるの? へぇー。まー、うん、分かった。出来るかどうか聞いてみる。じゃね」 そう言って、お姉ちゃんは電話を切って、湯上りのあたしに一言。 「サツから拳銃盗める?」 あたしは脱力しながら口にする。 「無理」 「なんで?」 「言ったじゃん相手選びが大事なんだって。警察が相手なんて……。そりゃあたしは多分、天才だから? やってできないことはないかもしれないけど、でも例え百万円で売れるんだとしても、リスクに見合わないと思うよ」 「リスクに見合わないのは元々だろ?」 お姉ちゃんはあたしの方を据わった瞳で見竦める。あたしに何か無茶な要求を通そうとする時の、有無を言わせぬ目だ。 「掏りなんてさ。たとえ成功率が99.9%なんだとしても、千回やったら捕まるんだよ。で、本当に千回やって、財布に平均三万円入っていたとして、儲かるのは三千万だろ? それでおまえ、一生生活していける? 無理だろ?」 「……そりゃ。そうだけど」 そう言われてあたしはがくんと気が沈むのを感じる。いつだってあたしは捕まるかもしれないという恐怖と戦っているし、その恐怖は時に『いつか必ず捕まる』という確信になってあたしを苦しめる。夜眠れなかったり、何をしても爽やかな気持ちを感じられなくなってしまったり、意味もなく泣きたくなってしまったりする。 犯罪者として生きる以上、それは必ず乗り越えなければならない業であり、罪に対する罰の一部だ。でもだからって脚を洗える程、あたしはまっとうに生きる力を持っていない。働く自信がない。ショップ店員として店長にしごかれた日々を思い出すだけで、あんなのはもうごめんだ、どうとでもなれという投げやりな気持ちになる。 「だったらさ。何千回と細かい危険を潜り抜けるより、たった一回、大きな仕事を成し遂げた方がリスクは小さいってもんだ。おまえみたいなのは結局、どっかで一発当てるしかないんだよ。違うか?」 「……そりゃあ。一千万入ってるって確証がある鞄があったら、多少難しい状況でも狙いに行くと思う。でも、そんな都合の良い話……」 「拳銃を欲しがってる奴がいるらしい」 お姉ちゃんはそう言って、ずるさと欲望だけがたっぷりとにじみ出るような笑い方をする。 「そいつに売る為の拳銃を掏るんだ。仲介業者にいくらか中抜きされるようだが、それでも五百万わたし達の懐に入る。二丁なら一千万、十丁で五千万だ。どうだ?」 「……それ本当の話?」 拳銃なんて規制のない国に行けば、お姉ちゃんが買ってたグッチのブレスレットより安く買える。そりゃ日本で入手するのは骨が折れるだろうけど、だからってそんな値が付くものなのか? 「分からん。が、とにかくそう言われた。やってみる価値はあるんじゃないか?」 そう言われ、あたしが何も言えないでいると、しばらくしてお姉ちゃんは肩を竦めて見せる。 「今のはほんの一例だよ。もっとでかくて、割の良い仕事の口をお姉ちゃんが絶対に探し出してやる。言い換えれば、わたしはおまえのマネージャーを買って出てやるっていうことなんだ。おまえに食わしてもらうんだから、まあ、それくらいはしてやっても良いかなってさ。多少は感謝の気持ちもさ、おまえに対してあるから。わたし」 「そんな思うんなら、二回に一回で良いからお皿洗いとかお風呂掃除、やって欲しいなって」 「するかボケ。おまえがやれや。糞野郎」 5,7,5のリズムでそう言って、お姉ちゃんはビールを煽った。 〇 お姉ちゃんとの共同生活はもちろん大変だったけれど、でも良いこともないではなくて、よりはっきり言うと径次郎が可愛らしかった。 これがオムツしてて夜泣きもして……なんていう手のかかる赤さんだったら、あたしもしんどかっただろう。でももう四歳児の径次郎くんは自分でごはんを食べられたし服を着れたし、十回に九回はトイレでうんちをすることができた。特に人見知りをせずあたしにも良く懐いてくれて、暇な一日中あたしは径次郎の相手をして過ごした。 「おまえら仲良いな」 なんて遊びから帰って来たお姉ちゃんは、家で遊んでいるあたしと径次郎を見て良くそう言った。 「そりゃ。あたしは殴らないし怒鳴らないし、煙草の火を押し付けたりもしませんから?」 「っつってもおまえ甘やかしすぎだよ。最近調子乗ってるもんそいつ。言うこと聞きすぎなんだよ。もっとさぁ、こう、メリハリを付けるようにしないとダメだよ。子育てって奴は」 「だからって殴る訳?」 「それが一番簡単だからな」 酷い親。児童虐待ど真ん中。誰かがこの人のことを一発ぶん殴らなくちゃいけないんだろうけど、それはあたしの役目じゃない。あたしはこの人の金づるで、チャイルドシッターで、家政婦で小間使いで、あとええと……奴隷みたいなもんなんだから。 「けーちゃん。けーちゃん遊んで。遊んで遊んでっ」 そう言って径次郎がじゃれて来る。あたしは笑顔で径次郎に応じる。 「良いよー。あ、そうだ。径次郎くん、ちょっと面白いの見せてあげる」 「面白いのー? なにそれ」 「えっとねぇ」 そう言って、あたしは床に散らばっていた袋色チョコレートを一つ取り出して、径次郎の手の平に乗せる。 「今、径次郎くんはチョコレートを一個持ってます。そうだよね」 「うん。一個」 「じゃあ、その一個をこうやって握ってもらうね」 そう言って、あたしは径次郎の手の平を握らせる。 「今からあたしが三つ数えたら、チョコレートは二つになっています」 径次郎はあたしの言うことが信じられないかのように、呆けたように口をぽかんと開ける。 「じゃ行くよー。はい、いち、にの、さん!」 そう言って、径次郎の手の平を開けさせると……そこにはチョコレートが二つになっている。 「ええーっ。なんで? なんでっ、なんでっ」 興奮して目を丸くする径次郎。あたしは嬉しくなって調子乗る。 「もっと増やせるよー。はい、いち、にの、さんっ!」 同じことをもう一度やってやると、そこにはさらに四つに増えたチョコレートが入っている。 「もっともっとたくさんあるよー。径次郎くん、ポケットの中を見てみようか」 径次郎が恐る恐るポケットの中に手を入れると、そこにはパンパンにチョコレートが詰まっている。 「おおーっ。すごい、すごい! なんでなんでなんで!」 この子反応良いなー。ついつい楽しくなってしまい、あたしは出来る限りの手品を披露して見せる。径次郎はその一つ一つに喜んで、あたしの方を尊敬の眼で見詰めてくれる。 「お姉さんはねー……魔法使いなんだよー」 なんて言っちゃったり。 それを見ていたお姉ちゃんが、「おまえさー」とあたしに話しかける。 「それ、youtubeとかにアップしてみたらどう?」 そう言われ、あたしは「へ?」と小首を傾げる。 「結構見てもらえるかもよ」 「いや無理でしょ。あたし『べしゃり』ダメだし。だいたいいくら手先が器用だって言っても、それだけじゃテレビでやってるような手品が全部出来る訳じゃないし」 「今ので十分すごいだろ。ほら、撮影してやるから。やってみ?」 何その思い付き? 別に良いけど。あたしはお姉ちゃんに撮影されながら、さっきの手品を径次郎相手に再び披露した。 あたしはチョコレートをあちこちに出現させ、さらにその数を倍々に増やして見せ、他にチョコレートを径次郎の好きなヒーローの人形に変えて見せたりもした。 径次郎の反応は二度目だというのに新鮮で、興奮した様子で次の手品をどんどんあたしにせがんだ。あたしの手品っていうよりも、この子のこの可愛らしい反応の方が受けるかもしれない。 撮影を終えるなり、お姉ちゃんは「編集ってどうしたら良いんだろうなあ」とか言いながらスマホを弄りはじめる。そして手持無沙汰なあたしに対して一言。 「風呂貯めて洗濯物取り込んでビール買って来い」 アッハイ。あたしは言われた通りに行動し始めた。 〇 「伸びたよ」とお姉ちゃん。 「伸びたって何? こないだ買ったシャツの話?」とあたし。 「違うよ。先週撮った動画の話だよ」 それを聞いて、あたしはやや興奮した気分になり、横になって肘を付いて右足で左太腿をバリバリ掻き毟っているお姉ちゃんににじり寄った。 「嘘っ! 伸びたって本当? どのくらい伸びたの?」 「youtubeで六千回再生された」 「え? ……まあ、うん。まあまあすごい……よね」 普段何十何百万っていう再生数の動画しか見ないから実感しづらくもあるが、しかし六千回というのはそこそこ今後に期待の持てる再生数のはずだ。何の準備もなしに雑に作った動画でそこまで行ったのだから、トークとか編集とか本気で勉強して、手品も修行し直してバリエーションを増やせば、広告収入までたどり着けるかもしれない。 あたしは夢想する。お姉ちゃんPとメインパーソナリティあたし、サブパーソナリティ径次郎で構成されるチャンネル『携帯灰皿』が、登録者数百万人を突破し巨万の富を得る光景を。そうなれば最早掏りなんてする必要はどこにもない。瞼の裏のその光景に、あたしは胸をときめかせた。 「まあでも、もう動画は撮らないだろうけど」 というお姉ちゃんのぼやきであたしは現実に引き戻され、そしてPに文句を言った。 「なんで?」 「軽く炎上してるんだよ。とっとと削除した方が良いまである」 「え? 炎上って? なんで?」 「径次郎とおまえの手。根性焼きの痕」 「ああ~」 そういやそれもばっちり映ってるんだったか。 「大丈夫なの?」 「いや今のとこそんな大したことにはなってないよ。下手に言い訳せず静かに消えりゃ大丈夫なはず。……ただまあ、一人キモいのがいるけど」 「キモいのって?」 「これ」 そう言って、お姉ちゃんはあたしにコメント欄についた一人の視聴者の書き込みを見せてくる。 渚先生/チャンネル『養護施設:白い屋根の家』 大変素晴らしい手品でした。あなたには大変な才能がありますね! ところであなたとこの小さな子供には煙草の火の痕がありますね。この小さな子供も、あなた自身も、児童虐待の立派な被害者です。 あなたの年齢はおそらく十八歳くらいでしょうか? 世間的には大人と見なされることもあるでしょうが、実際はまだまだ子供です。自分の抱える問題を、一人で解決する必要はないのです。 今すぐ、私にメールをください。当養護施設は二十歳までの子なら愛する我が子として受け入れます。お二人のその傷付いた心身を深い愛で癒し、素晴らしい人生を歩ませてあげましょう。 また、あなたとこの小さな子供に消えない傷をつけた悪の大人は、正義の鉄槌が浴びせられるべきです。私が責任を持ってそれをやります。さあ、今すぐに以下のアドレスにメールを! 「なんかアタマおかしいことで有名らしい、この人」 お姉ちゃんは言う。この人はどうやら本当に養護施設の職員らしく、施設の子供の動画を撮ってアップロードするチャンネルを主催している。養護施設の子供って、そうじゃない子もいるんだろうけど基本人様の子供をお預かりしているものだろうに、勝手に動画なんか撮って大丈夫なんだろうか? その人の上げている動画っていうのはもう本当に全然面白くなくて、施設の子供が鉄棒の逆上がりに成功したとかそんなんばっかだ。そしてその練習風景が超過酷! 動画時間十時間とかザラで子供が成功するまで延々と泣こうが喚こうが練習をやめさせてもらえず、泣いて喚いて表情がなくなってまた泣いて何度も泣いて涙が渇いて、幼児退行して気が狂ったように大声出し始めたのを小一時間くらい丁寧に怒鳴りつけて強引に落ち着かせてまた鉄棒の練習……ってして、どう考えても真夜中になってない? って時間に奇跡的に成功、師弟抱き合っておいおいと喜びの涙を流し洗脳も成功、みたいな動画ばっかりなのだ。 イカれてる。 「これって炎上しないの?」とあたし。 「何度も炎上してる」 「じゃあ施設の関係者が消させるはずなんじゃ」 「それが削除されてない。この渚先生っていうアカウントの主、業界内では結構な重鎮みたいで、親とか親類とかも政治家とか官僚とかばっかりみたい。それでyotuubeでも好き放題やってるんだと」 「うわぁ……」 本物のやっべぇ奴。ウチのお姉ちゃんだってたいがいだけれど、でもそんなチンケな児童虐待犯、この国には実際のところ掃いて捨てる程いる。でもこの渚先生は多分そういう次元じゃない。常人の範疇で未熟で愚かで最低なだけのお姉ちゃんとは違って、正真正銘、頭のネジが何本が抜け落ちてるタイプなのだ。 「こんなんに目ぇ付けられたら敵わん。だから、動画はもうこれっきりだ。良いな?」 「う……うん。納得しとくよ」 結構不幸めな子供時代を送った自覚あるあたしだけれど、それでもこの渚先生に育てられなくて良かったと、あたしは心からそう思った。 〇 小さな子供のいる暮らしにも馴れたと言えば馴れたのだけれど、大変なことはあってそれは子供を寝かしつける時だ。 径次郎が騒がしくしているとあたしも寝られない。でその径次郎は昼とか夕方とかに気が付いた時には勝手に寝てるので、逆に夜は興奮して寝付けないということが多々ある。 で、まあそういう時は、だいたいお姉ちゃんは径次郎に鉄拳制裁を加え布団の中で大人しくさせるのだが、その日は違った。 「『オオムカデは怯えて言いました。『僕はびっくりすると、そこにいる人に噛み付いてしまうんだ。君は痛いけれど、僕はもっと怖い思いをしている。怖い思いをしているから、噛み付いてしまうんだよ』』」 『本を読み聞かせてあげる』という餌で釣り、お姉ちゃんは巧みに径次郎を布団の中に横たえていた。しかしその絵本の内容は径次郎よりもう少し年が上の子に向けた話であり、四歳児の彼ははっきり言って退屈している。だがしかし母親に本を読んでもらう機会自体が少ないことから、径次郎は文句を言うこともなく律儀に読み聞かせを楽しもうと大人しくしていた。 「『しかし、熊さんはオオムカデを許しません。『だったら、君は僕らの前に現れなければ良い。一人で暗い石の裏ででも、じっとしていれば良いんだ。何故、そうしないんだ』』」 そのまま熊さんによってオオムカデが引きちぎられてしまう頃には、径次郎は目を閉じて動かなくなっている。 「くたばった?」とお姉ちゃん。 「寝ちゃっただけだよ」とあたし。「なんでその本チョイスしたの?」 「知らん。本屋にある本の中から径次郎に選ばせたら自分でそれ持って来た」 四歳児が自分に合った本をそう簡単に選べる訳がない。しかしそれでも眠りこけた径次郎はどこか満足げな顔をしている。内容はともかく、母親が自分の為に本を読んでくれている間中、本人はただ横たわっていれば良い、というのは確かに優しさと幸福に包まれる時間だろう。 「優しいとこもあるんだね、お姉ちゃん」 「そりゃ母親だからな。径次郎のことは、愛しいよ」言いながら、お姉ちゃんは煙草に火を点ける。「仕事が忙しい時とかさ。なんでこんな奴があたしの人生に存在してるんだろうって思う。でも、やっぱり、こいつを可愛く思う自分も間違いなくいるんだよな」 そう言って柔らかな手つきで径次郎の頬を撫でた。 「ならなんでもっと優しくしてあげないの?」 「そりゃ、完璧な母親であれるもんなら、ありたいよ。誰だってそうだろ」 お姉ちゃんは煙草の煙を吐き出す。 「そもそも子育てがどれだけ大変かってこと、おまえ大して分かってねぇだろ? 何かと金もいるし時間も取られる。朝早くから夜遅くまで働いて、託児所からこいつを連れて帰って、そんでまた朝までこいつの世話なんだぞ? ひっきりなしに騒いでトラブルを起こして、何でも壊すし、口で言っても何も言うこと聞きやしない。そりゃ手も出るよ。そうすれば大人しくなるんだから。ちょっとはマシになるんだから」 そりゃあたしもしょっちゅうお世話係やらされてるし、しんどいのは分かるけどさ。 「今はまあ良いよ? 面倒臭い仕事もないし。あたしが遊んでる間おまえに世話させてりゃ良いんだし。優しい母親を気取ってこういうことする心の余裕も、まあ、ないじゃない。ずっとこんなふうに暮らせたらって、心から思うよ」 憂いを帯びた表情でそう口にしたお姉ちゃんに、あたしはふとひっかかりを覚えて尋ねた。 「なんか、今の言い方だと、いつかそうじゃなくなるみたいだけれど」 「あ?」 お姉ちゃんは素っ頓狂な声を出してあたしの方を見る。 「おまえ、ずっと居座られたいのか?」 「え? あ、いや、それはその……えっと……」 「いや居座るよ。可能な限り無限に居座るよ? 少なくともおまえがなんて言おうがどうあがこうがあたしは何年でもここ居座るよ? でもな、世の中ってそんな簡単じゃないから」 そう言ってお姉ちゃんは煙草の火を消し、あたしの了解を得る素振りもなく勝手に灯かりを消した。 「わっ。ちょっと待ってまだ歯ぁ磨いてない!」 そう言ってどたどた洗面台に向かいながら、あたしは自分の胸に中に芽生えてしまっている感情に驚いている。 『居座るよ』と言われた時に、お姉ちゃんと径次郎がまだまだこの家にいるのだと分かった時に、確かにあたしは安堵していた。 〇 3 〇 その日はお姉ちゃんの命令で買い物に行かされていた。 ようするにまあパシりだ。買い物の内容はショートホープ一カートン。ついでに何度か仕事も済ませて、生活費も確保して来いとのこと。 あたしが出掛けている間、径次郎はお姉ちゃんが看ている。母親だから当たり前だが。パシりと掏りはテキトウに済ませてませて、密かに漫画喫茶とか行ってやろうとか思いながら階段を降りていると、スーツを着た男数人とすれ違う。 特に肩をいからせていたりする訳ではないし、身なりも割とちゃんとしている。けれどどうしてか、厳めしい雰囲気が肌に伝わって来るような人達だった。強面で体格良い人が多いし、歩くのが妙にキビキビとしている。 すれ違う時、スーツ達の一人のポケットが膨らんでいるのが見えて、思わず手を伸ばす。 四角い、小さな硬いケースが指に引っかかる。二本の指で軽くつまむと、特に手を動かさずとも、速足で歩く黒服のポケットからケースが抜ける。最低限度の動きで、あたしはそれを自分のポケットに収める。 アパートを出て、最寄りのコンビニのトイレに駆け込んで、あたしはそのケースを改める。 同じ名前の書かれた名刺がたくさん詰まっていて、そこには、『倉科金融株式会社、支店長七瀬俊之』と記されていた。 〇 胃の中がしくしくと痛むような不安に苛まれながら、あたしはアパートの駐車場からお姉ちゃんと径次郎がいるはずの自宅を眺めていた。 だが結局、そこに戻る勇気を振り絞ることは出来ないまま、夜が更ける。家から出て来た黒スーツ達とすれ違う形で、あたしは自宅に戻った。 お姉ちゃんはくたびれた様子で机に突っ伏している。あたしの帰宅を見て取ったお姉ちゃんは、帰るのが遅かったことを咎めるでもなしに、投げやりな様子でこう告げる。 「金貸しに見付かった」 隣では径次郎がギャンギャンと泣き喚いている。お姉ちゃんは「うるせぇよ!」と径次郎を怒鳴りつけた。それでちゃんと沈黙した径次郎に、お姉ちゃんは苛立ちをぶつけるように平手打ちをぶちかます。ひっくり返った径次郎は、それ以上声を出すこともなく丸まって震え始めた。 「……大丈夫なの?」 どっちに言ったのかも分からないあたしのその言葉に、お姉ちゃんは「大丈夫じゃねえ」と言って首を振った。 「このままだとあたし、相当キツい風俗に売り飛ばされる。最悪、外国とかかもな」 「いや……現代日本でそんなんある訳?」 「あるよ。普通にある。言っとくけど警察とかに駆け込んでも無駄だぞ? ちゃんと判子とか押さされて同意の上ってことにされて送り込まれるんだから。そこで毎日休みなく客を取る暮らしが何年も何年も続くんだ」 お姉ちゃんの指先が震えているのをあたしは見逃さなかった。泣いているのかもしれない。昼間からあたりが暗くなるまで、何時間も何時間も金融の人にいじめられたんだから、このお姉ちゃんでもそうなるかもしれない。 多分あの人達は、お姉ちゃんが同意するまで毎日でもここへやって来ては、何時間でもお姉ちゃんをいじめるに違いなかった。それはお姉ちゃんが疲れ果てて判子を押すまで続けられる。そして一度同意したが最後、お姉ちゃんの人間としての生涯は閉じる。 「嫌だよあたし。あんな奴らに良いようにされるの。どんな扱いを受けるのか、どこに行かされるのか、分かったもんじゃない。径次郎とも離れ離れだ。ちくしょう……なんでこんなことに」 腹の底がひりつくような時間が長く続いた。拗ねたように丸まって俯き続けている径次郎と、それとそう変わらない態度で机に伏しているお姉ちゃん。あたしはその様子を見ていたたまれないものを感じていた。 すべてをこの人の自業自得と言うことも出来る。立派な大人であるこの人は自分の裁量で子供を作り自分の裁量で暮らしをし、その中で自分の裁量でお金を借りることを決心した。そして自分の判断で夜逃げして来たのだ。その責任はすべてこの人が一人で背負わねばならない。そう考えることはもちろんできる。 だがだとしても、あたしがこの人を突き放すことが決まっている訳ではないのだ。 あたしは確かに、人に迷惑をかけて我が子を嬲るこの人のことを軽蔑している。未熟で愚かで最低で……でもそんなのは、この人に限った話じゃない。 ダメなのはあたしもそうだ。同じくらいダメなあたしだから、この人にどんなに横暴を働かれようと、この人を心底は嫌いにならずにいられた。理解も出来た。一度として健全な関係を築けたことはなかったけれど、それでもあたしはこのお姉ちゃんをありのままに愛してもいた。 誰もこの人に手を差し伸べたりはしないだろう。この人を救えるとしたらそれはあたしだけだろう。 あたしはお姉ちゃんの肩に手を置いた。 「大丈夫。あたしがなんとかする」 お姉ちゃんは顔を上げ、真っ赤になった目であたしを睨んだ。 「……どうやって?」 「拳銃を掏る」 あたしは額に汗が滲むのを感じた。 「前に話してたよね? 拳銃を一つ五百万で買ってくれるっていう、半グレの人がいるんでしょう? 良いよ。あたしが掏って来る。大丈夫。あたしは多分天才だから。きっと上手く行く。……お姉ちゃんを助ける」 〇 拳銃一つ五百万。 冗談交じりに聞かされたその話を、まさか実行することになろうとは思わなかった。 大きなリスクは取らないというのが、腕の良い犯罪者の条件だとあたしは信じていた。警官のような訓練された存在を相手に、拳銃などと言う物々しい物品を盗むなど、本来あってはならないことである。 でも他に手っ取り早くお金を稼ぐ手段がないなら、仕方がない。一刻も早くお金を用意しなければ、お姉ちゃんはどこかに売られてしまう。 あたしは近所のコンビニで雑誌を立ち読みしつつ、獲物がやって来るのを待っていた。そうしていると、一台のパトカーがコンビニの駐車場に現れる。 パトカーを降りたおまわりさんは、怪訝そうな様子で駐車場を見回している。あたしは、彼らに接触する為にコンビニを出た。 こいつらはお姉ちゃんの虚偽の通報でここに呼び出されている。このコンビニはしばしば暴走族のたまり場になる。いつもより一層酷く若者が騒いで迷惑だから懲らしめてくれ、みたいなことを言われて来たはずだ。毎度のことだから、駆けつける前に裏を取ったりはしないだろうという読みは当たったらしい。 おまわりさんの視線があたしの方を向く。あたしは自然な足取りで、おまわりさんが声を掛けたくなるような位置に移動する。 「あの。お嬢さん」 あたしは小首を傾げながら振り向いて、おまわりさんの方を見て小さく微笑む。 「なんですか?」 「いやあ。このあたりでね、若者が騒いでるって通報があって来たんだけど、なんかそういうのいた?」 「あたしが来た時には、いなかったです」 「お嬢さん、ここに来てからどのくらい?」 「さあ? ジャンプを頭から全部、立ち読みするくらいの時間、かな? です」 「じゃあ悪戯通報か?」おまわりさんは相棒らしきもう一人のおまわりさんの方を見る。 「店員さんにぃ、聞いてみたらどうですか? あたしより長くお店にいるですよ。でも」 あたしはそう言って、おもむろに道路の方に歩き出す。そして上手くコンビニのカメラの死角へと出た。 訝しみながらもおまわりさん達は付いて来た。あたしは身体を横へ向け、車道の先に向けて腕を伸ばし、人差し指をぴんと立てた。 「来る途中、あの辺で、バイクの音が何度か聞こえた、ような? たむろしてる人達がいる? のかも?」 あたしが指差した方向におまわりさんの意識が集中し、あたしの方に向いていた気配があっさりと消える。おまわりさんの内一人の視線は身体ごと、もう一人は首だけが道路の先をじっと見詰め、あたしに対して致命的な隙を晒す。 ホルスターに入った拳銃を、すれ違い様に掏るというのは難しいだろう。しかも相手は警官。普段よりもずっと手ごわい相手だ。だから少し手の込んだことをして隙を作った。あたしはおまわりさんの懐に手を伸ばしながら、なるだけこの状態を引き延ばそうと声をかけ続ける。 「メーワクですよねぇボーソーゾク。でも実はぁ、あたしの知り合いもやってるみたいでぇ。いや知り合いって言っても前のですよ? 高校の頃の。友達の友達ってだけで、そんな仲良くなかったですし」 スナップを外して拳銃に手を触れるところまではあっさりだった。しかしそのまま引き抜いてしまおうとして、転落や窃盗を盗むための紐が付いていることに気が付く。 「住んでるとこもあの辺なんですよーその子。ほらあのでっかいマンションですよー十階くらいのー。え? 名前? サニーハイツです。え? ああ、その子の名前? カイって呼ばれてたかなー」 あたしは紐の根元を探る。ホルスターにしっかり結びついていて、簡単には外れそうにない。切った方が速いと判断して、ポケットから取り出した剃刀を当てるが、金具が入っていてそれもままならない。 「苗字が確か野口です。野口カイ? カイってのはでも名前じゃなくてあだ名的なのだから、本名じゃなかったと思いますです」 切れないならどうにかして外すしかない。あたしは紐とホルスターの結び目に指先を這わせ始める。 心臓が早鐘のように打つ。この心音を聞かれてはいないか? 表情に出てはいないか? 「本名? 知らないです。覚えてない。それに野口って苗字はあたしが高二の頃変わってー、親が離婚したとかで前は大村かなんか。しょーじき、あんま知らないですよ。でもちょっと格好良かったなー、背ぇ高くて、でも顔ちっちゃくて。でも性格マジないしぃー。みたいなー」 「はい。ありがとうございました。もう結構です」 おまわりさんはやや強引に話を打ち切った。これ以上このアタマの悪そうな娘と話すのはうんざりだ、と言った表情を浮かべていた。 「あ? 良いですか? はい、じゃあ、ご苦労さまです」 「はい。ご協力ありがとうございました」 そう言って、おまわりさん二人はあたしの元から去っていく。コンビニの店舗の方へと入っていくのを見るに、店員にも話を聞いてみるつもりなのだろう。 あたしはふうと息を吐き出して、無事に掏ることが出来たおまわりさんの拳銃を少し見詰めた。 どうにかこうにかホルスターから紐を外すことが出来た。警察官というだけあってほとんど隙を晒してくれなかった為、かなり不自然に話を引き延ばし、大袈裟な身振り手振りで注意を引きつけなければならなかった。仕事は迅速にこなすか、さもなければ諦めることを信条としているあたしには、こんな無様な掏りは初めてだった。 「ま。成功には違いないよね」 あたしは鞄の中にホルスター付きの拳銃を収め、自宅の方へと脚を向ける。 右足と左足が同時に出て、転ぶ。 コンクリートに手を着いて起き上がる。手のひらには砂粒がべっとりとこびり付いていた。 らしくもない。冷や汗をかく程度には、随分と緊張していたようだった。 〇 「ただいま」 そう言って家に戻ると、お姉ちゃんは径次郎を強く抱きしめながら肩を震わせていた。 怯えた様子の母親を、径次郎は心配げに見上げておろおろとしている。あたしは溜息。普段散々嬲っていても、結局子供は可愛いし、子供と離れ離れになるのはつらい。だから親子の縁に縋り付きたくもなるのだ。 強く抱きしめてさえいれば、一緒にいたいと願ってさえいれば、全てが上手く行って子供と二人でいられるとそう信じている。 「上手く行ったよ」 あたしはそう言って、机の上に拳銃を置く。 「マジか」 お姉ちゃんは目を見開いて、感激した顔であたしを見上げる。 「おまえ、すごいよ。天才だよ。流石あたしの妹だ」 「お姉ちゃんの妹だから天才な訳じゃないけど、そうだね。あたしは天才だよ」 警官二人の視線を掻い潜って転落盗難防止紐を外して拳銃を奪う。そんな神業、テレビに出ているようなどんな有名マジシャンでも、同じことを出来る人は一人としていないはずだ。 「疲れた。緊張したぁ……」 消耗は凄まじい。気力を失ってその場に座り込むあたしと対照的に、お姉ちゃんは希望に溢れた表情で拳銃を見詰め、はしゃぐようにして言う。 「これを売っぱらえば、どんなに買いたたかれても利息分にはなる! なんとかなる……なんとかなるぞ、径!」 「うん……。じゃあ、売って来れば」 「言われなくても!」 お姉ちゃんはそう言って、自分の鞄に拳銃を詰める。 「遅くなるかもしれない。径次郎のことを見ていてくれ」 「分かった」 お姉ちゃんは待ちきれない様子で部屋を飛び出した。 「ママ、大丈夫なの?」 径次郎があたしに問いかける。あたしはふにゃふにゃしながら径次郎に手を回し、その柔らかいお腹に顔を埋めて言った。 「分かんない」 〇 『真っ赤な花を咲かせてやるぜ!』 はんにょんはんあにょはせよ! みたいな俳優の声に、テレビがそんな字幕を付ける。 『その綺麗な顔をふっ飛ばしてやるぜ。あばよ! 黄龍!』 この俳優は朝鮮人だろうか中国人だろうか。同じアジア人だから見分けがつかないのは普通だけれど、日本人じゃないのは何故か一目で分かる。 とにかくその俳優は拳銃を打って、打たれた俳優は倒れ伏す。ぶわりと広がった血しぶきの真ん中に、撃たれて無茶苦茶になった顔が虚ろな瞳を空に向けるその姿は、まさに『真っ赤な花』。 「外国の映画ってグロいの多いよねー」 頬杖を付いて、あたしはそんな感想を漏らした。 「ママ、まだー?」 径次郎が焦れたようにそう言う。あたしは時計を見る。出て行ってからまだ三時間くらい。 「遅いねー。じゃ、お姉ちゃんとテレビ見て待ってようねー」 「うん」 妙に不安げな顔をする径次郎。あたしはしばらく時計を見詰めてから、どうにか気を紛らわせようとテレビの方に視線をやった。 玄関がけたたましい音を立て、お姉ちゃんが室内に転がり込んでくる。 「今すぐに荷物をまとめろ! 逃げるぞ!」 そう言って、お姉ちゃんはがさがさと自分の荷物を鞄の中にねじ込み始める。 え? ちょっと何? あたしは困惑してお姉ちゃんを見詰める。通帳とか印鑑とか最低限度っぽい着替えとかを大きな鞄に詰め込んでいるお姉ちゃんの様子はただ事ではなく、あたしは思わず立ち上がって恐る恐る声をかける。 「ちょっと……何があって……」 「良いからおまえもさっさとしろ! 言っとくけどこの家にはもう戻らないからな!」 有無を言わさない。あたしは怒鳴りつけられると何も言えなくなる性癖があり、言われるがまま自分の荷物をまとめる。径次郎は意味も分からずきょとんとしている。 荷物をまとめ終わり、最後に径次郎を小脇に抱えたお姉ちゃんは、家を出ながらあたしに怒鳴る。 「車を持ってる奴を見付けて鍵を掏れ!」 「いきなり言われても、無理!」 「無理じゃない! やるんだよ!」 なんだよもういきなり~って思いながらも、少なくとも事態が良い方向に向かっていないことを察しつつ、あたりを見回す。アパートの駐車場に停められた車から、一人の男が出て来る。あたしのお隣さん。そういやこいつ車持ってたっけ。 「やれ」 お姉ちゃんが小声で囁く。あたしは頷いて、すれ違い際に男が手に持ってふらふらと振っている鍵束に目を向ける。 手に直接持っているものを盗む時は、同じ形のものと掏り替えてやる必要がある。一瞬の違和感を相手に覚えさせるのは避けられないが、それを出来るだけ小さくするのも腕前次第。 あたしはその人の手の平の鍵束と、自分の持っている鍵束を掏り替えた。 ぶら下がっている鍵の量も種類も違うが、男は気付くことなくその場を立ち去る。 お姉ちゃんは鍵を男の車に差し込んで、運転席に乗り込む。 「おまえも乗れ!」 「免許あるの?」 「ある! 良いから乗れ!」 「なんでこんなことになってるの? あたしが拳銃窃盗犯だとバレた? それとも……」 「違う! おまえは失敗なんかしない」お姉ちゃんはアクセルを踏み込んで車を発進させながら、つぶやく。「……殺しちまった」 「は?」 「殺しちまったんだよ! ちくしょう!」 自暴自棄になったかのように、お姉ちゃんは叫ぶ。 「あの半グレ野郎! わたしを警察に突き出すとか言い出しやがったんだ。……それで、カッとなって。……殺しちまった」 〇 ……マジでやるなんて思ってもいなかった。 ……本気で拳銃を買いたがる奴なんかいるはずがないだろう。掏って来られるとも思ってなかったに決まってる。ちょっと調子に乗ってる小悪党が、サツを相手に自滅するのを、笑ってやろうと思ってただけだよ。 ……しかし本当に成功させるとはな。奴さん、トサカに来ておまえと妹を逮捕しに来るぜ? 面子を丸つぶれにされたと思って本気でキレてる。おまえ達は絶対に助からない。 ……バカだな。その技術をもっと他のことに使えば、より安全な方法でいくらでも金を稼げたのに。せっかくだから、俺がおまえらを警察に突き出してやるよ。ざまあねぇぜ。 みたいなことを言われたお姉ちゃんは、恐怖と激怒とで目の前が真っ暗になった。そして元々不足している真っ当な思考能力を失って、気が付いた時には半グレの人に向けて拳銃をぶっ放してしまっていた。 つまりお姉ちゃんはからかわれていたのだ。そしてお姉ちゃんには、自身を手酷くからかった相手に対し、手を出すことを我慢するような能力はない。行使できる最大の暴力で報復をする。鉛の弾丸はその半グレの人の眉間にめり込んで鮮血を飛び散らせ、倒れ伏したその人の血まみれの頭が周囲を赤く染めるその光景はまさしく 「真っ赤な花を咲かせちまった」 という物であったらしい。 「やべぇよ。あたし殺人罪だよ。このまま行くと捕まって一生刑務所だよ。もちろん径、おまえも十分ヤバいからな。いくら未成年で、殺人に直接は関与してないとは言え、凶器の拳銃を盗んだのはおまえなんだから」 「……それで車を奪って逃避行って訳ですかい、あねご」 「もうそれしかねぇだろうが! ちくしょう!」 自首とかそういう選択肢はないの? って思うけれど、ぶっちゃけあたしも刑務所は嫌だ。犯罪者に周囲を囲まれた逃げ場のない空間で、看守の人に怒鳴られながら何年も過ごすとか考えられない。 でもじゃあ逃亡生活なんてものが本当に成り立つのかというとそれも微妙だ。今こうしてお姉ちゃんの運転する盗難車の助手席で径次郎を膝に乗っけているけれど、いつパトカーに囲まれるか分かったものではない。 「ねぇけいちゃん。だいじょーぶー? こわいのー?」 顔を悪して震えだしたあたしを径次郎が心配する。あたしは径次郎を抱きしめながら、「大丈夫だよ」と口にした。だがしかし、優しい笑顔を作ることはどうしてもできなかった。 〇 お姉ちゃんが主張する逃亡生活のプランは、とりあえず出来るだけ遠くに逃げた後、車をどこかに乗り捨てて偽名を使ってホテル暮らしを行うと言うものだった。先立つ者はどうするのだという質問はしない。どうせあたしが稼ぐことになるのだ。 盗難車を颯爽と走らせて高速道路を逃走するお姉ちゃん。径次郎は無邪気に車に乗るということを愉しんで、流れる景色を見詰めてはしゃいでいる。 「おまえのその腕があればきっと逃げ続けられる。逃亡資金の心配がいらないってのは、本当でかいよ。だから心配しなくて良い。大丈夫だ」 あたしを勇気付けるようでいて、自分に言い聞かせるように、お姉ちゃんはそのようなことを何度も口にした。 高速を降り、車をテキトウなところに乗り捨て、乗り捨てた車から出来るだけ離れる目的でバスに乗る。こんなことするくらいなら、車なんて盗まず最初から交通機関で逃げれば良かったんじゃないの? 逃亡に馴れていない所為で、本当に意味もなくバタバタとしてしまっている。 「でも変にちょこまか動く方が、手がかりを残すことになってまずいんじゃないの?」 電車やバスを乗り継ぎ続け、気が付けば真夜中。くたくたになったあたしはそんな提案をお姉ちゃんにぶつける。県境を少なくとも五つは乗り越え、同じ季節の同じ夜でも元々住んでいたところより随分と肌寒く感じ、行きかう人々はあたしの知らない訛り方をした声で喋る。 「あちこちに手がかりを残しておけば、いよいよ警察も、わたし達がどこにいるのか分からなくなるんじゃないか? 「時系列を整理されたら同じことじゃない?」 「一か所に留まる方がまずいだろうが」 「そうかもしれないけれど……。でもどっちにしろ今日はもう休もうよ。このまま夜中になって子供連れて歩いてたら、職務質問されるかもしれない」 あたし達は駅で掏っておいたいくつかの財布から宿代を得て、ホテルに泊まることにする。 くたくたになったあたしはシャワーを浴びるなり、すぐに布団に寝転んで意識を失う。『お泊り』に興奮していた径次郎も、やはり疲労が溜まっていたのだろう。すぐに寝付いてしまった。 〇 翌朝、目を覚ましたあたしが見たのは、径次郎の寝顔を見詰めながら頭を抱えているお姉ちゃんの姿だった。 「……どうしたの?」 一晩睡眠を取ったことで、あたしは僅かに冷静さを取り戻していた。ともあれ一日警察から逃げ切ったこと。元々住んでいた街からも距離を取ったこと。お金は掏りをすればいつでもどこででも稼げることなどを思い浮かべると、気持ちに余裕も生まれて来る。 だから、項垂れた様子のお姉ちゃんを見ても、弱り切ったお姉ちゃんに共感して一緒に不安になるということはなかった。冷淡かつ気楽に、あたしはお姉ちゃんに話しかけた。 「どうしたの?」 「なあ、径さぁ……」 お姉ちゃんは泣きそうな声で言う。 「わたし……もうこいつと一緒にいるの、無理なのかなあ?」 それを聞いて、あたしは小首を傾げる。 「もうすぐ捕まると思ってるの? 大丈夫だよ。しばらくはホテル暮らしって感じでさ。二人がかりなら径次郎の面倒看ながらでも逃げれるよ」 「……それで?」お姉ちゃんは顔を上げ、鋭い視線をあたしにぶつけた。「そんな生活をしながら、どうやって径次郎を育てるんだ?」 「え? いや、生活費ならあたしが掏りでもやったら簡単に……」 「そうじゃない! どうやって径次郎をまともな大人にするのかって話なんだよ」 お姉ちゃんは髪の毛を掻きむしりながら喚くように言う。 「幼稚園や学校はどうするんだ? 通わせられる訳がないだろうが! どんどん大きくなっていくこいつはやがて、自分で物を考えるようになる! 自分の状況に疑問を持つようになる! いつかこいつは、わたし達が逃走中の犯罪者だってことに気付いちまうんだよ! そしてそれを誰かに漏らすんだ」 「……口止めするしかないんじゃ」 「無理だろ! 冷静に考えて、子供を連れたまま一生警察から逃げ続けるのなんて絶対に不可能なんだ。わたし達は径次郎とはもういられないんだよ!」 目を真っ赤にしてそう喚き、お姉ちゃんは汗だくになって肩を落とした。表情は青白く、顔からは疲労が溢れだしている。ひょっとしてこの人は、能天気に眠りこけるあたしの隣で、一晩中まんじりとも出来なかったんじゃないだろうか? 「…………じゃあどうするの?」 あたしは問いかける。あたしに主体性はない。径次郎についてのことだけでなく、人生の色んな事に対してあたしは自分で決定してこなかった。ただその場その場で一番楽な行動だけを選び、流されてここまでやって来た。 今この時この場所で、あたしを導く流れは間違いなくお姉ちゃんだった。最低で愚かで災いばかりを齎すこの人は、それでもあたしにとって、その後ろを付いて行くべき『お姉ちゃん』なのだ。付いて行った先にあるのが地獄だと分かっていても、それは同じことなのだ。 だから、お姉ちゃんの口からその言葉が出た時も、あたしは反発をしなかった。 「……径次郎を捨てる」 お姉ちゃんは径次郎の頭を撫でる。 「お別れだ。この子とはもう。それしかない」 〇 大きな柵に囲まれた敷地の玄関口の向こうには、いくつか遊具の並んだ運動場が見える。その背の低い滑り台の隣に、横に長い、二階建てくらいの建物が備わっていた。 『児童養護施設:白い屋根の家』 「なんか見覚えのある名前くない?」とあたし。 「そうなのか? わたしは知らないけど」とお姉ちゃん。 「うーん。あたしも何だったかは思い出せないけど……。まあ、良いや。何でも」 そう言ってあたしは母親に手を引かれている径次郎の顔を見た。径次郎はこれから自分の身に起こることなど想像もしていないだろう様子で、きょとんとしている。 「なあ径次郎。ちょっと良いか」 お姉ちゃんは腰を落とし、視線を径次郎と同じくらいの高さにしながら声をかけた。 「これからママ達はちょっと用事をして来るから、この柵の前で待っていてくれ。出来るよな?」 径次郎は訝し気な表情を浮かべながらも、言うことを聞かないと怒られることを認識して、不安そうにちょんとうなずいた。 「良い子だ」お姉ちゃんはそう口にして、顔を隠すようにそっぽを向いた。「じゃあな」 それから径次郎に背を向けて歩き出す。あたしは径次郎の方に一度だけ「ばいばい」と手を振って、お姉ちゃんの背中を追った。 「……ちゃんと引き取ってくれるのかな?」 あたしは不安に思ってお姉ちゃんに声をかけたが、お姉ちゃんは下を向き、肩を震わせるばかりで何も言わなかった。 養護施設の前に幼子を置いて立ち去る母親、なんて漫画やドラマの影響とかしか思えないステレオタイプな行動を、あたし達は取ることに決めた。その為に近くにある養護施設を調べ、電車とバスを乗り継いでここまで来たのだ。 お姉ちゃんもあたしもこれから逃亡生活を送らなければならないし、そこに径次郎は連れて行けない。そして、同じ子供を捨てるなら、まだしもその後の展開が穏やかなものになるようにしてやるのが、せめてもの親心だと考えたのだ。 だがしかし、どんな方法を取ろうとも、子を捨てる親が外道なのも確かなのだ。お姉ちゃんがなけなしの努力を積み重ね、四年間勤めあげて来た『母親』という仕事の結末こそが、この偽善にも程遠い鬼畜の所業なのだ。 誰もがこの人を軽蔑し、非難するだろう。しかしそんなことはこの人は良く分かっている。今この瞬間も、この人は自分の内側から自分を責める悪罵に押しつぶされそうになっている。 涙を流しているお姉ちゃんの肩に、あたしが優しく肩を回した、その時 「待ちなさい。この外道共」 そんな声が背後から聞こえて来た。 振り返る。そこにいたのは三十前くらいの眼鏡をかけた女性だった。面長の小さな顔に、神経質そうな釣り目がちの目を持っている。声に張りがあり、背筋が異様にぴしゃんと伸びていて、長い髪は行儀良く絞って背中に足らされている。ずんずんとこちらに歩むその足取りからは、偏執的なまでの自信を感じさせる。 ……『渚先生』? あたしは思い出した。そうだこの人だ。以前youtubeに動画を上げた際、径次郎の手の平の火傷について異常な内容の長文コメントを送って来ていた、自称・養護施設の職員。実際に養護施設の中から出てきているから、多分本当にそこで働いているんだろう。思い出して見れば、目の前の施設の名前『白い屋根の家』は、この女のyoutubeチャンネルと同じ名前だ。 あたし達が訝しんでいるほんの数秒の内に、『渚先生』は確固たる足取りでお姉ちゃんの目の前に到達した。そして何の気負いも感じさせない様子で、おもむろに右腕を振り上げる。 渚先生の手の平がお姉ちゃんの頬を打った。 その動作に一切の遠慮や躊躇は存在せず、どころか敵意や害意すら感じられなかった。帽子を取って壁にかける時のような気軽さで、渚先生はお姉ちゃんの顔面に痛烈なビンタをぶちかまして見せた。 「な……何? 何なの……?」 そのあまりの不気味さに、お姉ちゃんは青ざめた顔で固まるしかなかった。 お姉ちゃんの性格は短期で喧嘩っ速く、誰に対しても暴力でやり返すことに躊躇などしない。だから本来なら、すぐにでも頬を張り返して然るべきなのだ。 だけどそうしない。渚先生の放つ奇妙な迫力を前にそれができない。そしてそれが出来ないでいるお姉ちゃんの顔面に、渚先生のビンタが往復で襲来する。 腰をしっかりと回転させながら繰り出す素晴らしい往復ビンタだ。お姉ちゃんが鼻血を吹こうが腰を抜かそうが、渚先生は表情を一切変化させずにお姉ちゃんを打ちのめした。 「ちょっと! おまえ、なんだよ……。やめろよ!」 そう言ってお姉ちゃんが渚先生の胸を突く。しかし渚先生は即座にその腕を取って自分の傍に引き込み、お姉ちゃんの肩を掴んでコンクリートの地面に叩きつけてしまう。 「ぐああっ」 柔道三段(推定:根拠なし)って感じの投げを打たれたお姉ちゃんは、抵抗の術を失ってしまった。地面に転がされたまま動けなくなれば、後はもう渚先生の好き放題に殴る蹴るの暴行を受け続けるしかない。そんなお姉ちゃんに、渚先生はもちろん容赦などせずにその脚と拳を雨のように降り注がせる。 「やめてぇええっ」 そう言って、渚先生の背後から径次郎が走り寄って来る。 「ママ殴んないでぇえ。わああん。わぁあああっ!」 健気だ。あたしは感心した。あたしですら渚先生の恐怖に怯んで身動き一つ取れずにいたと言うのに、このいたいけな四歳児は母親を守る為に曲がりなりにも抗議の声を発している。 「こんなクズの為に、泣くことなんてないわ」 渚先生は感情の無い声で言って、径次郎の方に視線をやる。 「この人はね、可愛らしいあなたをここに捨てたの。この人はあなたの母親であることをやめたのよ。だから泣いてやることなんてないわ」 そう言って渚先生はお姉ちゃんのことをゲシゲシ足蹴にする。 「やめてぇ! ママいじめないでぇえ。わぁああっ。わぁああああっ!」 「うるさい! もうこの人はあなたのママじゃないの! これからあなたの母親になるのは私! この私なのよ! だから私に従いなさい。私に従って、このクズを懲らしめ終えるまで大人しくしてなさい!」 そう言って渚先生は径次郎のところまで歩み寄り、そして躊躇なく径次郎の頬をぴしゃりと打った。これには径次郎も驚いた表情で沈黙する。 「……ちょっと。やめてくださいよ」 これにはわたしも、声を絞り出して抗議をするしかなかった。 「その子は何も悪くないのに、どうして叩いたりするんですか?」 「私の『しつけ』に口を出さないで。あなたのような子供には分からないでしょうけど、これにはれっきとした意味があるのよ」 「……あたしには分かりません。あなたのやること全ての意味が」 あたしはそう言って渚先生を睨む。 「暴力はダメだとか、警察を呼んだらあなたは逮捕されるとか、そんなことは言いません。おその人は確かに外道です。子を捨てる酷い母親です。でもね、あなたは何も知らないでしょう? お姉ちゃんのことを、径次郎のことを……あたし達のことを、あなたは知ろうともしないままその人を殴っているんでしょう?」 お姉ちゃんはクズかもしれない。……クズに違いない。それでも望んでクズになった訳じゃないのだ。自分からクズになったのだとしても、クズになりたくてクズになった訳ではないし、クズであることを喜んでいる訳でも決してないのだ。 もちろん、だからと言ってこの人が許される訳では決してない。だけれど、この人はこの人の話も聞かないで、想像しようともしないで、ただ自分が満足する為だけの罰を一方的に与えている。そんなことが許される訳もないのだ。 「知らないわよ。知ろうとも思わないわ」渚先生はそう言って肩を竦めた。「だってね。子供に対して大人が大人の務めを果たさないことに、情状酌量の余地なんてありえないもの」 渚先生は最後にお姉ちゃんの顔面に一発蹴りを入れると、わたしの方を向き直って静かな声で告げた。 「この子は径次郎というのね。径次郎は私が責任を持って世界で一番立派な大人にするわ。私は径次郎の母親になる。私にはそれだけの能力と覚悟が備わっている。そして、私は径次郎の母親だから、径次郎に酷いことをしたこのクズを断罪する権利を持っているのよ」 自分の言うことに一切の疑問を抱いていない、狂人特融の澄んだ瞳で、渚先生はあたしの方をじっと見据える。そして僅かに表情を和らげると、あたしの方に近づいてその手を取った。 「あなたの動画を見たことがあるわ。この手を見た時、火傷だらけで可哀そうだと思った。でもとっても綺麗ね。あなたはもう大人? それとも、まだ子供? あなたがもし二十歳より小さいのなら、白い屋根の家に来ると良い。あたしがあなたを導いて立派な大人にしてあげる」 「お断りします」あたしは答えた。「径次郎を返して」 「それはできない。もうこの子はあたしのもの」 そう言って、渚先生は径次郎の手を取って、あたし達に背を向ける。 「行くわよ」 径次郎は泣きじゃくっている。「ママっ、ママぁっ!」と悲痛な慟哭を上げている。 「お姉ちゃん」 あたしはボコボコにされて地面に転がったお姉ちゃんに声をかける。 「良いの? 連れて行かれちゃうよ?」 あの女は異常だ。気が狂っているとしか言いようがない。しかも、あの女はどうやらあの児童養護施設で好き放題が出来る地位を持っているらしかった。施設の建物の窓からこちらを遠巻きに見詰める数人の大人が確認できるが、彼らもまた渚先生の暴挙を止めようともしていない。youtubeに上がっていた狂気染みた動画を誰にも消すことができなかったように、誰のあの人には逆らえないのだ。 「あんな人に径次郎が引き取られたらどうなるの? どんな目に合うの? 異常だよこの養護施設は。ねぇ良いの? 本当に良いの?」 お姉ちゃんは息を吐きながら身動きを取ろうともしない。全身砂塗れの痣塗れで、綺麗な顔は鼻血塗れで酷いことになっている。 「返事してよお姉ちゃん。ねえ助けてよ。……あたし達の径次郎を助けてよお姉ちゃん!」 「黙ってろ! うすのろ!」 お姉ちゃんは叫ぶ。 お姉ちゃんのボロボロの手がコンクリートの地面に触れた。そして全身を震わせながらよろよろと立ち上がる。そして口の中に溜まった血を、圧し折れた歯と共に吐き出した。 「言われなくても分かってる。わたしは径次郎の母親だ」 そう言ってからお姉ちゃんは走った。渚先生の背中に向けて猛然とタックルを決めた。 渚先生の手が径次郎から離れる。渚先生とお姉ちゃんはもつれあいながらコンクリートの地面に転がる。そして養護施設の柵へとぶつかった。 どうにか組み伏せようとお姉ちゃんは渚先生の肩やら腕やら掴もうとするが、しかし渚先生もそれをさせまいとお姉ちゃんの両手を払う。 施設の柵を背にして不利な体勢なのに、渚先生はお姉ちゃんに一歩も退けを取らない。おそらく何かを習っているんだろう。けどお姉ちゃんだって喧嘩は相当強いから、もうさっきみたいに負けてはいない。 お姉ちゃんのグーが渚先生の眼鏡をカチ割る。渚先生はそれにブチ切れた様子でお姉ちゃんに頭突きをかます。 渚先生からもうさっきまでの無感動な断罪マシーン的な不気味さは消えていた。単純にお姉ちゃんと対等な喧嘩をする気になっているようだ このままどっちかが倒れるまでキャットファイトさせてあげても良いかもしれないが、しかしいい加減警察を呼ばれる可能性も高い。そう思い、あたしはお姉ちゃんに加勢して渚先生に飛び付いた。 「邪魔よ!」 パンチ一発で振り払われ、あたしは鼻血を吹きながら地面を転がる。しかしこれで良い。あたしはよろよろと立ち上がってお姉ちゃんに叫んだ。 「お姉ちゃん! もう大丈夫そいつから離れて!」 そう言われ、お姉ちゃんは渚先生から飛びのいた。訝し気な顔をした渚先生がその場を立ち上がろうとして……柵に巻きつけられた自分に髪に引っ張られ、頭をぶつける。 さっきあたしが渚先生に突っ込んだ一瞬の間に、渚先生の長い髪を柵に結び付けてやったのだ。あたしなら指一本触れられれば一秒で固結びしてやれる。あたしの指先は宇宙一器用に動く。 「でかした!」 そう言ってお姉ちゃんは、泣きじゃくっている径次郎を小脇に抱えてその場を走り出す。大通りに出て、人ごみに紛れ、かと思えば路地裏を突っ切って渚先生から距離を取る。 その間中、抱え上げられた径次郎は、どこまでも力強くお姉ちゃんの身体にしがみ付いていた。 何があっても離れたくないと、そう言うように。 〇 渚先生から逃げ切ったあたし達は、薄暗い路地裏でどうにか息を整える。 そして汗水を拭い取りながら、先にお姉ちゃんが口を開いた。 「……それで。どうするよ」 「……あそこには径次郎やれないんだから、他を探すしかないんじゃないの?」 「養護施設なんて、どこも一緒じゃないのか?」 「そんな訳ないよ渚先生がおかしいんだよ。あんなのキチガイじゃんただの。勝手に自分を径次郎の母親とか言い出してさ。その上自分にとってそれに値する人間ならいくらでも殴る蹴るして良いって本気で思ってて、子供に対しても平気で手を挙げるって手合いでしょ? 異常だよ」 「そうだよ異常なんだよ。で、そんな異常な渚先生が、何をしても許されそうなあの渚先生が、自分の子供だと言い切った径次郎を他の養護施設に預けさせておくと思うか? 色んな手を使って捕まえようとするんじゃないのか?」 確かにそうだ。本当にあの女は異常だった。そしてその異常さが看過されている。youtubeのコメント欄では、何やら各方面の権力者と太く込み入ったコネクションがあるというような噂が囁かれていた。失言一つでトップクラスの政治家ですら地位を脅かされる現在日本で、いったいどれほどの権力を持てばあんな暴挙が許されるのかは本当に謎だ。 一つ分かっていることは、あの女は色んな意味で化け物で、その怪物性を子供と子供を蔑ろにする親に向けて発揮するということだ。そんな人間から可能な限り径次郎を遠ざけることが、今のあたし達に科せられた義務だった。 「……一つ方法があるよね」 あたしは言った。お姉ちゃんはあたしの表情を見て、何かしら察したように苦虫を噛んだような顔になる。 「なんだよそれ」 「分からない? 分かるでしょ」 「いや分かるけど……それわたし達捕まらねぇか?」 「その可能性は高い。でも、それしかない」 そう言って、あたしはお姉ちゃんの顔をじっと見つめた。 「どうするかはお姉ちゃんが決めれば良い。罪が重いのも、径次郎に対する責任が重いのも、お姉ちゃんなんだから」 〇 懐かしいその街に辿り着いた頃には、もう夕方だった。 母一人娘二人で住んでいたにしてはあまりにも手狭なそのアパートの一室の、チャイムを鳴らす。鍵はもう、持っていなかった。 あたし達はしばらく待った。弱々しい足音が数秒間響いたかと思ったら、強い力で玄関の扉が開かれた。 「あんた達……」 皺の増えた一人の老婆。いや老婆って言ったらギリ失礼にあたるくらいの年齢ではあるんだけれども。でもなんか前会った時より老け込んで見える銀髪のその人は、目に涙を溜めながら「入りなさい」と消え入るような声で言った。 あたし達が幼少期を過ごした1LDKの、ダイニング部分の床に直接置かれたテーブルに腰かける。テレビの向かいがお姉ちゃんの席、その左側があたしの席。径次郎はあたしの向かい、本来ならママが据わるはずの席に座った。 「……あんた達、何したの?」 娘二人孫一人を前にして、母親は力ない声で言った。 「警察の人が来て……あんた達が拳銃で人を撃ったって。それで実は、この家の周りにも多分警察が張り込んでいて……」 「ああやっぱそうなってる?」あたしは投げやりに溜息を吐いた。「じゃ。手短に言うけどさ。この子、径次郎って言って、お姉ちゃんの子供でつまりママの孫なんだけど……」 「……引き取って育ててください」 そう言って、お姉ちゃんは床に手を着いて頭を下げた。 あたしは驚いた。お姉ちゃんがママに土下座なんかやるなんて想像もできなかった。この人は子供時代の七割が反抗期でママに対しては暴言か喚き声しか発さない人で、下手に出るなんて考えられなかったから。 「……もうそれしかないんです。養護施設にもやりたくありません。血の繋がった身内が責任と愛情を持って育ててくれるなら、それが一番良いはずなんです。何度も迷惑かけますけど、どうか、どうかお願いいたします。そうでないと」 安心して刑務所に行けない……そうだよね。 あたしはお姉ちゃんの隣でお姉ちゃんと同じ体勢を作ろうと腰を浮かせかけて、ママに制される。 「そんなことしなくて良いから」 そう言って、ママはお姉ちゃんの身体を抱き起こす。 「この子は私に任せなさい。それは安心しなさい」 顔を上げたお姉ちゃんは、目に涙を溜めて「ありがとう」と絞り出すような声を上げた。 「悪いけど、もう行くから」 「……少しゆっくりして行ったら?」 「ううん。迷惑かけるから。いつ警察が来るかも分からないし。ほら、径も」 「う、うん」あたしは経ちあがる。「ありがとうママ。こんな娘でごめんね」 あたしとお姉ちゃんが玄関の方へ向かうと、何ごとか察したらしい径次郎が泣きじゃくりながら追いかけて来る。それを後ろからママに抱きしめられ、引き留められる。 「ごめんな」 お姉ちゃんは径次郎の方を振り返らずに行った。 「こんなママでごめんな。こんなクズみたいな四年間が、わたしのあんたへの精一杯で、本当にごめん」 径次郎は多分これから大きくなるにつれて、自分の母親がどんな人だったかを知るだろう。そしてお姉ちゃんのことを強く憎むだろう。両手に刻まれた火傷の跡を見詰めながら、ドロドロとした真っ黒な感情を渦巻かせ、それによって深く傷付いて苦しむだろう。 それでもあたしは、この子がいつか大人になった時、お姉ちゃんがお姉ちゃんなりに径次郎を愛していたことや、我が子と過ごす時間に幸せを感じていたことを、理解して欲しいと願わずにはいられなかった。 「拳銃で撃たれた人、命は助かったって」 背後でママの声がした。 「弾丸が頭蓋骨で止まっていたんだって。だから、あんたもいつかはきっと、この子のところに……」 「そうか」 お姉ちゃんは肩を震わせながらそう言った。 「それは、良かった」 〇 夕焼け空の下、あたしとお姉ちゃんは、共に子供時代を過ごした街を歩いていた。 悪い友達と並んで歩くお姉ちゃんの後ろを、くっ付き虫のように追って歩いた日々を想いだす。どんなに鬱陶しがられても、叩かれても怒鳴られても、この人と一緒にいずにはいられなかった幼い日々を思い出す。 「……ねぇお姉ちゃん。どこ逃げる?」 前を歩いていたお姉ちゃんの背中に、あたしは声を掛けた。 「あたしがいたらお金は大丈夫だよ。いつ捕まるか分かんないけどさ、でも二人で行けるとこまで行こうよ。ねえ」 お姉ちゃんは物言わぬ背中をあたしに見せながら、一定の歩調で歩き続ける。 遠くに見えていた公園が目の前に現れるまで、その沈黙は続いた。そして、あたしが顔を下向けて息を詰まらせそうになる頃に、お姉ちゃんは口を開いた。 「なあ径。おまえさ、刑務所出たら手品師になれよ」 懐かしさを覚えるその台詞に、あたしは目を丸くする。 「おまえなら必ず世界一の手品師になるよ。今おまえ十九だろ? きっと若い内に刑務所から出て来られるんじゃないか? そしたらさ、あたしが娑婆に出る前に、きっと一流の手品師に……」 「そ、そんなの今話すことじゃないよ」 あたしは顔を上げ、泣きそうな気持ちで半ば無理矢理に笑顔を作った。 「それよりさっ。どこに逃げるか、どうやって警察を撒くか、考えなきゃっ。このあたり、多分あたし達が戻って来ると思って警察がうろうろしてるし、逃げるルートとかもさ、工夫してさ……っ」 「ダメなんだよ径」 お姉ちゃんはあたしを振り向いた。覚悟を決めたような、澄んだ顔つきをしていた。 「もうダメなんだ。もう、おまえと一緒にいられないんだ。なあ径、わたしおまえのこと好きだよ。わたしと同じくらいバカな妹だけれど、可愛いと思ってたよ。本当さ。すごい迷惑をかけちまって、本当に……悪かった」 「何を言って……」 「最後におまえと過ごせて本当に楽しかった。子供の頃に戻ったみたいで。でもさ、わたしもおまえも、もうそろそろさ。大人に……そう、大人にならなきゃ、いけないみたいなんだよな」 お姉ちゃんは首を横に振る。その動きだけで、あたしはお姉ちゃんの言いたいことや、あたしが何を言ってももう無駄であることを悟った。 「もうちょっとだけ、一緒に歩こう」 お姉ちゃんはそう言った。そう言ってくれた。 夕焼け空の下を歩き出す。懐かしい街。懐かしい匂い。変わっていないように見えて、色んなものがあの頃よりも大きくなくなった、生まれ育ったこの街を、お姉ちゃんと二人で歩く。 あたしは自分の手の平をじっと見つめた。あちこちに煙草の火の痕が刻まれたこの手。魔法のようにどんな財布でも抜くことが出来たこの手。役に立つことは何もしなかった、けれどずっとあたしと共にあったこの手。 あたしは手品師になれるのだろうか? 小さい頃一度憧れて、けど、特にはっきりとした理由もなく、気が付いたら諦めてしまっていた、その夢。 もう一度、今度はもっときちんと、追いかければこの手に掴めるのだろうか? お姉ちゃんが言うように、期待するようにできるのだろうか? お姉ちゃんと一緒にyoutubeに動画をアップした時に、確かな胸のときめきを感じたことを、あたしは思い出す。やってみたいと思った。出来るかもしれないと思った。そしたら掏りからは脚を洗って、この手と共に生きていける。 お姉ちゃんの背中を見詰める。今でもあたしの方が小さいままの、でも決して大きくはない華奢なその背中を前に見ながら、今少しだけ付いて歩く。 どこかからパトカーのサイレンが聞こえて来る。 この時間ももう少しで終わりであることを、あたしは悟った。 |
粘膜王女三世 2020年12月26日 04時22分42秒 公開 ■この作品の著作権は 粘膜王女三世 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2021年01月13日 00時10分37秒 | |||
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