激辛ブレイクスルー!

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   1

 辛口はお好きですか?
 刺激的な文章がドンッと表示されている。
 その文章の下には『辛口ラーメン 炎の世界』の文字。
 そんな飲食店の看板を目にして、俺は足を止めた。
「ほほう。辛口ラーメンの専門店か」 
 大学二年生の俺は、一念発起して一人暮らしを始めることにしたのだ。夏休み期間中に賃貸契約をし、借りたアパートに荷物を運び入れてたのが昨日だった。
 新居は大学に近い場所だが、まだ土地勘はない。そこで夏休み最終日の今日、近所を散歩をしてみることにした。
 すると、アパートを出てから十分ほど歩いたところの大通り沿いで、そのラーメン屋を発見したのだった。
 現在の時刻は午前十時五十分。おそらくは十一時開店なのだろう、まだ開店前だというのに、店の前には行列ができていた。十数人も並んでいる。
 看板には、いかにも辛そうな、赤いスープのラーメンの写真も載っている。
 それを見て食欲が湧いてきた。俺は辛い料理が好きで、中でも激辛ラーメンには目がないのだ。
 それに、これだけの行列ができているということは評判がいい店なのだろう。
「よし、ここで昼飯を食うことにするか」
 俺は行列の最後尾に並んだ。スマホをいじりながら店が開くのを待っていると、俺の後ろにも数人が並んだ。
 十一時。店の中から店員が出てきて、暖簾をかけた。ぞろぞろと店内に入っていく客たち。俺も店の入り口へと近づいていく。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか?」
「一名だ」
 入口に立っていた店員に答えると、店内に通された。後ろの客に店員が、しばらくお待ちいただいてもよろしいでしょうか、と言っているのが聞こえた。第一陣で店に入れたのは俺が最後だったらしい。ラッキーだ。
 内装は、木を基調とした、いかにもラーメン屋という雰囲気だった。壁やテーブルがきれいで清潔感があり、好感が持てる。
 四人掛けのテーブル席が六セットあり、厨房前のカウンター席には十人ほどが座れる構造になっている。俺はカウンターの、端の席に案内された。
 厨房では、数名のスタッフがきびきびと動いている。皆、白いタオルを頭に巻き、黒地に赤い炎の絵がプリントされたTシャツを着用していた。ユニフォームなのだろう。
 俺はメニュー表を手に取った。メニューは数種類あり、掲載されているラーメンの写真は赤いスープのものばかりだ。
 中でも、「激辛!」と表記された『炎のラーメン』が看板商品のようだ。一杯九百円。辛さの度合を選べるようになっており、レベル1からレベル10まで記載されている。
「兄ちゃん、決まったかい?」
 店長とおぼしき、四十歳くらいのおっちゃんが、お冷を俺の前に出しながら聞いてきた。
「炎のラーメン、辛さのレベル10で」
 ピクッと、店長の太い眉が動く。
「兄ちゃん、この店は初めてだろう?」
「ああ」
「レベル10は恐ろしいほど辛いよ」
 そうなんだろうな。最高レベルなんだから。
 だが、せっかく激辛を売りにしているラーメン屋に来たのだから、最高レベルに挑戦しないとな。
 コンビニでは近ごろ、有名店の味を再現したカップ麺が売られている。そういった商品で激辛のものを、俺は片っ端から食べてきた。辛みの強い商品が増えてきているが、そのすべてをクリアできた。
 実際の店舗で激辛ラーメンを食べるのは初めてだが、問題ないだろう。
「辛さに強い人にも、まずはレベル5あたりを勧めてるんだけどね」
 そう言う店長に、俺は自信をもって答えた。
「いや、大丈夫だ。レベル10をくれ」
「本当にいいのかい?」
「ああ」
「了解した。だが兄ちゃん、後悔するなよ」
 五分ほど待つと、『炎のラーメン』の辛さレベル10が出てきた。
「おお、これはなかなか」
 真っ赤なスープ、そこから漂ってくる香りにも辛みがあり、目や肌にピリピリと染みるようだ。
 レンゲでスープをすくい、一口。
「うっ!」
 辛い! これまでに食べてきた、どのコンビニカップ麺よりも確実に辛い! 一口飲んだだけで、口や喉の中がヒリヒリする。
 だが、美味い。
 俺は箸を動かし、食べ進めた。味噌味のスープは決して辛いだけではなく、確かな旨味がある。ちじれた太麺とも、チャーシューや炒めたキャベツといった具材とも、抜群の相性だ。
 辛みは相当に強く、口の中が痛い。それでも美味しさのほうが勝り、どんどん食べたくなってしまう。
 時折水を飲んで、痛む口内を癒しつつ、俺は『炎のラーメン』の辛さレベル10を食べつづける。
 これだけおいしいラーメン屋なら、行きつけの店にしよう。他の味も食べてみたいしな。
 そう思っていたのだが、その余裕は長くはつづかなかった。
 食べ進めるほどに、口内の痛みがどんどん強くなっていくく。最初はそれほどでもないと思っていた痛みだが、ボディブローのようにじわじわと効いてきた。
 水を飲んで痛みを癒す。しかしその効果も徐々に薄れていき、いくら水を口にしてもほとんど痛みが取れなくなった。ラーメンの量は一向に減らず、飲む水の量ばかりが増える。
 半分ほどを食べたところで、俺は箸を止めた。
 痛い。とにかく痛すぎる。口の中、食道、それに胃のあたりも。
 額に汗がにじむ。それに鼻水が止まらない。辛いものを食べると、刺激で鼻水が出るのだ。
 カウンターの上に用意されているティッシュを手に取り、それらを拭う。
「兄ちゃん、大丈夫かい?」
 店長が聞いてきた。
「あ、ああ。大丈夫だ。ちょっと休憩してるだけだよ」
「あんまり無理しないほうがいいぜ。ひと月前、無理して食べたお客が、倒れて救急車で運ばれたことがあってな。兄ちゃんも気をつけな」
「そ、そうですか」
 血の気が引いた。それとともに、食欲も失せていく。
 確かに、もう痛みが尋常じゃないレベルなのだ。これ以上食べたら、俺も失神してしまうかもしれない。
 とはいえ、半分しか食えずにあきらめてしまうのは歯がゆい。なんとか、休憩しながらでも食べつづけられないものか。
 そう考えていると、店内がざわついた。どうやら、新たに入ってきた客が注文をしたようだ。
「レベル20? 本当に大丈夫かい?」
 うろたえる店長の声が聞こえた。レベル20?
「レベル20ってなんだ? レベル10までしかないんじゃないのか?」
「レベル10を完食した者だけが頼める裏メニューがあるんだよ。俺も何度か、裏メニューを頼んでる客を見たことがあるけど、レベル20は初めて見るな。裏メニューの中でも最高レベルのはずだ」
 テーブル席に着いている客がそんな会話をしていた。 
 店長はまだ客とやり取りをしている。本当にレベル20を注文するのか、念入りに確認しているようだ。
 その客は、カウンターの、俺とは逆側の端に座っているようだ。ここからは他の客に遮られて、顔は確認できない。
 店長は納得したらしく、ラーメンを作り始めた。
 辛さレベル20。今俺が食べているラーメンの二倍辛いということだろうか。その客はレベル10を完食したことがあるようだが、レベル20はさすがに無理なんじゃないだろうか。レベル10でさえ、こんなに辛いのに。
 まあ、他人のことより、今は自分のことだ。
 目の前のラーメンに視線を向ける。なんとか、これを食べ終えられるように頑張らなくては。
 それから十数分。
 俺は、まったく箸を動かすことができていなかった。
 口の中はもはや痛みで感覚がなく、胃の痛みもどんどん強まっている。とてもじゃないが、食べられる状態じゃない。
「兄ちゃん、箸が進んでないようが?」
 店長が話しかけてきた。くそ、年貢の納め時か。
「すまない。ここでギブアップだ」
 俺は腰を上げた。
 くやしいが、完敗だ。
「おう、無理はよくねえよ。次は、もう少し辛みの弱いラーメンから再挑戦してくれや。待ってるぜ」
「ああ。必ずまた、この店に来るよ」
 くやしい気持ちで一杯なのに、笑顔になっている自分に気がついた。ラーメンの味が美味しかったからだろう。おかげで、再挑戦の意欲も湧いた。
 会計するために、レジのほうに足を向ける。そのとき、再び店内がざわついた。
「す、すげえ! レベル20をあっさり完食、いや、完飲しちまったぜ!」
 驚嘆する客の声。
「いやあ、これはまいった! あっぱれだぜ、お客さん!」
 賞賛する店長の声。
 レベル20を完食したらしい客が腰を上げ、レジのほうに向かう。その姿が、俺の視界に入った。
「ありがとう。美味しかったわ」
 女だった。若い女だ。
 先にレジの前に来ていた俺と、その女の視線がぶつかった。
 今しがた激辛ラーメンを食べ終えたとは思えないような、涼しい表情をしている。
 長いまつ毛が伸びる、凛とした瞳。筋の通った小鼻と、引き締まったくちびる。腰のあたりまで伸びた、艶やかな黒髪。前髪は真っすぐに揃っている。黒いワンピースを着用した身体は、スレンダーながらも肉感的。
 とびきりの美人。それも、知っている人物だった。
 火焔山鳳凰華(かえんざん ほうおうか)。
 ド派手な名前とその美貌で有名な、俺と同じ大学、同じ学年の女子だった。

   2

 翌、九月十四日。
 夏休み明けの初日。大学全体が、心なしかだらけたムードだ。
 昼、俺は学食にやってくると、たぬきうどんを購入した。いつもならば定食を頼むところなのだが、今日はあまりガッツリしたものを食べる気にならなかったのだ。
 昨日は、ラーメン屋『炎の世界』を出たあと、一日中もだえ苦しむことになった。とにかく胃が痛くて仕方がなかったし、次第に下腹部の痛みにも襲われた。排便の際には、尻の穴まで焼けるような痛みに苛まれ、散々だった。
 それほどまでに、あのラーメンの刺激は強かったのだ。今日になってだいぶマシにはなったものの、まだ胃の調子があまりよろしくない。それで無理せず、うどんだけで済ませることにしたのだ。
 カウンターでうどんの乗ったトレーを受け取り、席を探す。いつもどおり、なるべく人の少ない場所を探した。最奥のテーブル席には誰も着いていなったので、そこに腰を下ろす。
 少しずつうどんをすすっていると、となりの椅子が音を立てた。見ると、誰かが座るところだ。
 黒髪ロングの女子。
 火焔山鳳凰華だった。
 彼女が持ってきたトレーには、親子丼が乗っている。
 なんで火焔山が、俺のとなりに?
 俺の視線に気づいたのか、火焔山がこちらに視線を寄越した。釣り気味で、力強さのあるその眼で。
「なにかしら?」
「いや、なんで俺のとなりに来るのかなと思いまして。席、他にも空いてるじゃん」
「別に。ただ、昨日見かけた顔がいるなと思って、近くに来てみただけ。迷惑だったかしら?」
「あー、昨日。昨日ね」
『炎の世界』で辛さレベル20のラーメンを完食、いや、スープまですべて飲み干す『完飲』をやってのけ、いたって涼しい顔をしていた女。
 あれは火焔山鳳凰華に間違いなかったのだ。いや、見間違えるはずなどないのだが。 
「すごかったっすね。裏メニューのレベル20なんて完食して」
 とりあえずそう言って、うどんをすする。
「まあね。あなたは、よくあの店に行くの? 涼原泉(すずはら いずみ)くん?」
 うどんを喉に詰まらせかけた。あわてて水を飲んだが、ゲホゲホとむせ返ってしまう。
「なにを動揺しているのよ?」
「い、いや、俺のこと知ってたのかよ?」
 俺と火焔山は同じ学年とはいえ、こうして言葉を交わすことも初めてなのだ。ましてや、俺は決して目立つタイプじゃなく、むしろ地味オブ地味な存在だ。
 火焔山には顔さえ知られていないと思っていたのに、名前まで覚えられているとは。
「同じ学年の学生を把握するくらい、普通のことじゃない。あなただって、私のこと知っているんでしょう?」
「そりゃあ、あなたは有名ですかね、火焔山鳳凰華さん」
 この大学の二年生で、火焔山のことを知らない者はいないだろう。いやもしかしたら、大学中の全員が彼女のことを知っているかもしれない。
 モデルにスカウトされたが断ったらしいとか、近々芸能界デビューするらしいとか、そんな噂が流れるほどの美貌に加え、一度聞いたら忘れられないほどのインパクトがある名前。
 彼女の知名度を支えているのはこの二つ、だけではない。
 校内で一番のイケメンが火焔山に告白したがメタメタにこき下ろされただとか、常に上から目線だから同性からも嫌われまくって孤立しているだとか、そんな話をちらほらと聞く。
 それは本当のことなのだろう。彼女を校内で見かけるときは、常に一人だ。
 とにかく性格がキツくて、うかつに関わろうものなら、その口から放たれる罵倒の業火で焼き尽くされてしまう。
 名前に違わぬ炎の女。近寄るなキケン。
 火焔山鳳凰華という女の評判は、そんな感じだ。
「有名? それは光栄ね。別にうれしくないけど」
 火焔山はさらりと言った。
 俺は再びうどんを口にする。早く食べ終わって、さっさと食堂をあとにしよう。『近寄るなキケン』のほうから近寄ってくるなんて、なんて災難なのか。
「まだ、さっきの問いの答えを聞いていないわよ?」
「あ?」
「あなたはよく『炎の世界』に行くの?」
「昨日が初めてだよ」
「そう。でも、辛いものは好きなんでしょう?」
「まあ、結構な」
「私は大好きなの。これまでに、いろいろな激辛料理店を回って、様々な激辛料理を食べてきたわ」
「ふーん」
「どれだけ辛い料理でも、私に食べられないものはなかった。カレーでもピザでも麻婆豆腐でも、すべてを完食してきたわ。中でも特に好きなのはラーメンで、スープまですべて飲み干す『完飲』をすることが信念なの」
「へー」
 なるべく関わりたくないので、適当な返事を返しておく。
 それにしても、よくしゃべるな。噂で聞く性格とはちょっと印象が違うが、こういう奴なのか?
 そう思って火焔山のほうに視線を向けると、彼女はポシェットからなにかを取り出していた。
 透明なビンだ。中には、黄土色の液体が入っている。
 火焔山はビンの蓋を開け、中のドロドロとした液体を、親子丼に投入した。それと同時に、辛みを帯びた香りが漂ってくる。
 あれは、唐辛子のソースなのか?
 火焔山はビンの蓋を閉めてポシェットにしまった。それから、こちらに視線を寄越す。ちょっとすまし顔だ。
「『スコッチ・ボネット』。ジャマイカで有名な唐辛子よ。それをソース状にしたもの」
「それを、いつも持ち歩いているのか?」
「ええ。だって、ある程度の辛さがないと、食べた気がしないんだもの。こうして味付けしないと」
「なんでもかんでも、唐辛子味にするのかよ?」
「当然じゃない。中でも、スコッチ・ボネットは強烈な辛さとともにフルーティな香りも感じられる、おすすめの唐辛子よ。これをかけるだけで、料理が何億倍にもおいしくなるわ」
 なるほど。
 こいつは『辛いものが好き』なのではない。『辛くないとダメ』なのだ。
 辛さへの耐性も、一般人のそれを遥かに凌駕するのだろう。でなければ、あの『炎のラーメン』レベル10よりもさらに辛いレベル20なんて、食べられるわけがない。
 唐辛子のソースがたっぷりかかった親子丼を、火焔山は食べ始めた。
 俺もまたうどんを口にする。もう少しで完食だ。胃の調子は相変わらずよくないが、なんとかこの一杯は食べ終えられそうだ。
「あなた、そんな量の食事で満足なの?」
 横目でこちらを見ながら、火焔山が言った。
「昨日のラーメンのせいで、胃の調子が悪いんだよ」
「あら、そうなの? ふふっ」
 小バカにしたような笑いかた。さすがにカチンときた。
「なんだよ、その言い草は」
「あの程度の辛さで胃がやられるなんて、あなたって、とんだへなちょこ野郎なのね」
「へなちょこ?」
 そうか、これが皆の言う、罵倒の業火なのだろう。こいつはこういう女なのだ。
 こういう奴には言わせておいて、相手にしないのが得策だ。
 頭ではそう理解したが、だからといって冷静に対処できるほど、俺は辛抱強い人間ではなかった。
「なんなんだよお前! いきなり近寄ってきたと思えば、失礼なこと言いやがって!」
 思わず立ち上がり、声を荒らげていた。周囲の視線が集まるのを感じ、慌てて座り直す。
「あら、ごめんなさいね。私、言葉も『辛口』だから」
 火焔山は余裕の笑みを浮べていた。
「でも、あなたがへなちょこなのは事実じゃない。『炎の世界』の店長に聞いたわよ。自信満々にレベル10を頼んで、半分しか食べられなかったって。しかも水をガバガバ飲んでいたらしいじゃない」
「み、水は仕方ないだろ。あれだけ辛けりゃ」
「ふふふ。素人もいいところね。激辛料理を食べながら水を飲む行為は、愚の骨頂なのよ」
「なに?」
「唐辛子の成分は水に溶けにくい。激辛料理を食べてから水を飲むと、辛み成分が口の中全体に広がって、余計にダメージが大きくなってしまうのよ」
 そうだったのか。どうりで、水を飲んでも飲んでも辛さが取れなかったわけだ。
 親子丼を口にしながら、火焔山はつづける。
「辛みを和らげるのに効果的な飲み物は、牛乳などの乳製品ね。カゼインという成分が、カプサイシンの働きをストップさせるのよ」
 カプサイシンとは、唐辛子に含まれている辛み成分だ。
「もっとも、飲み物で辛みを中和しようと考える時点で、甘ちゃんだわ。そんなことでは、真のスコビラーとは言えない」
「スコビラー?」
「スコビル値という言葉は知っているでしょう?」
「ああ。辛さの単位だったか?」
「そう。簡単に言えば、カプサイシンの量を示した値ね。より高いスコビル値を追い求める、激辛料理の愛好家を総称して『スコビラー』と呼ぶの」
 火焔山は、蔑むような視線を俺に向けた。
「あなたは、スコビラーとは到底言えない存在だったようね。大方、コンビニで売ってる有名店再現の激辛カップ麺を食べた程度で、辛さに強い気になっていたんでしょう?」
 図星なので、なにも言い返せない。
「コンビニのカップ麺は万人が食べられるように、実際の店舗で出されているものよりも辛みが抑えられているのよ。その程度のこともわからないなんて、偽のスコビラーにありがちなことね」
 親子丼を食べ終えた火焔山は、トレーを持って立ち上がる。横目で俺を見ると、捨て台詞のような言葉を放った。
「残念だわ。少しは骨のある人に会えたと思ったら、ただのへなちょこ野郎だったなんてね」
 俺に背を向け、歩きだす火焔山。俺は立ち上がり、遠ざかろうとする背中に声をかけた。
「待てよ!」
 足を止めて振り返る火焔山。
 散々馬鹿にされて、このまま引き下がるわけにはいかなかった。俺は確かに、火焔山に比べれば全然大したことはない。彼女の言う『スコビラー』でさえないのかもしれない。
 それでも、激辛料理が好きだという気持ちは本物なんだ。それを偽物扱いされる筋合いはない!
「一か月だ!」
 人差し指を立てた右手を突き出して、俺は宣言した。
「一か月後、『炎のラーメン』のレベル20を食べきってみせる。そうすれば、俺を『スコビラー』だと認めてくれるだろう?」
 ふふ、と薄く笑う火焔山。
「レベル20は裏メニューよ。裏メニューを頼むには、まずレベル10をクリアしないとね」
「わかってるさ」
「昨日はレベル10を半分しか食べられなかったへなちょこが、わずか一か月後にレベル20を完食する? そんなことができるのかしら?」
「やってやるって言ってんだよ! 一か月で、俺はお前に追いついてやるんだ!」
「ふふふ。その意気は認めてあげるわ。でも、勘違いしないことね。『炎の世界』で一番辛いメニューは、レベル20ではないのよ?」
「なんだって?」
「『レベルMAX』が存在するのよ。レベル20を完食した者だけが食すことを許される、裏裏メニューがね」
 裏裏メニュー? 昨日火焔山が食べたレベル20の、さらに上が存在するだと?
「私は来週、レベルMAXに挑戦する。当然、完飲してみせるわ。あなたが一か月後にレベル20を完食したとしても、そのとき私はさらに上に行っているのよ」
「だったら俺もレベルMAXだ! 一か月以内にレベル20をクリアして、ちょうど一か月後にはレベルMAXを完食、いや完飲してやる!」
 大きく出すぎているのは自分でもわかっていたが、言葉を止められなかった。ここで引き下がるわけにはいかないのだ。
 火焔山は手に持っていたトレーをテーブルに置き、俺のほうに向きなおった。腕を組み、見下すような視線を飛ばしてくる。
「へぇ、面白いじゃない。だったら私も、レベルMAXに挑戦するのは一か月後まで待つことにするわ」
「あ?」
「一か月後、私とあなたが同時に、レベルMAXに挑戦するのよ。私が圧倒的に早く完飲して、格の違いを見せつけてあげるわ」
「ふん。させねえよ。俺のほうが先に食べきってやる」
「ふふふ。それ以前に、あなたが一か月以内にレベル20をクリアするなんて不可能に決まってるけどね」
「うるせえ! 必ずクリアしてみせるから、首を洗って待ってろ!」
 俺たちは話し合い、レベルMAXに挑戦する正式な日取りを決めた。
 十月十七日の土曜日。
 三十三日後だ。それまでに俺は、レベル20をクリアしなければならない。

   3

 その日の夜から、俺の食生活は劇的に変化した。
 あらゆる食べ物に、一味唐辛子を大量にまぶして食べることにしたのだ。
 辛さへの耐性をつけるには、とにかく辛いものを食べまくるトレーニングをするしかないと思ったからだ。
 初日はまだ胃が本調子じゃなかったので、唐辛子の量も少なめにしたが、胃が回復するのに従って量を増やしていった。
 金曜日の昼。学食のAランチを購入した俺は、おかずであるチキンステーキに一味唐辛子をかけていた。
 徐々に赤くなっていくチキンステーキを見ながら、考える。
 本当にこれでいいのだろうか?
 少しずつ辛さに対する耐性はついてきている気はするが、問題なのは飽きることだった。どれもこれも似たような唐辛子味になってしまうので、さすがにうんざりしてきた。
 唐辛子まみれになったチキンを頬張っていると、となりの空席に、誰かが座る気配を感じた。
 他にも空席はあるのに、わざわざ俺のとなりに来るような奴は、一人しかいない。
 そいつの顔を確認すると、やはり火焔山鳳凰華だった。
「また来やがったのかよ、火焔山」
「あら、ぼっちの涼原くんを気づかって来てあげたんだけど、迷惑だったかしら?」
「ほっとけ。俺は一人が好きなんだよ。大体、お前だって似たようなもんだろうが」
「私も同じよ。一人でいるのが好きなの」
「だったらなんで、ここに来た?」
「へなちょこの成長を見るためよ」
 俺の定食に目を向ける火焔山。
「ふふ、へなちょこなりに頑張っているようね。まだまだ、へなちょこなのに変わりはないけど」
 相変わらずの辛口。明らかにバカにしている口調だった。
 無視して、俺は食事をつづける。うむ、昨日よりも唐辛子の量を増やしたのだが、辛さを感じにくくなっている気がする。
 火焔山は、この前と同じく親子丼を食べるようだ。やはりポシェットから唐辛子ソースの入ったビンを取り出し、親子丼の上にかけている。
「それ、どこで売ってるんだ?」
 俺は思わず、火焔山に聞いていた。
 一味唐辛子の味にも飽き飽きしているので、別の唐辛子も試してみたくなったのだ。
「これはネットで買ったのよ。スーパーでは売ってないものだから」
 と火焔山。俺の意図を察したのか、こうつづけた。
「でも、スーパーの唐辛子コーナーに行くと、多くの種類の唐辛子ソースが売っているわよ。それに、タバスコにもいろいろな種類があるわ。おすすめは『スコーピオンソース』ね。あなたのみたいなへなちょこがトレーニングをするのには、最適な辛さだと思うわ」
「そうか。探してみるよ、その『スコーピオンソース』ってやつを」
「よかったら、これあげるわ。スコッチ・ボネットのソース」
 ポシェットの中に入れていた、唐辛子ソースのビンを差し出してきた。まだ封を切っていない新品だ。複数本のビンをポシェットにいれていたらしい。
「いいのか? タダで?」
 俺はビンを受け取った。表面のラベルには『Scotch Bonnet Hot Sauce』とある。
「ええ。へなちょこを育てるためだと思えば、安い出費だわ。平々凡々なへなちょこを相手にしても、まるで張り合いがないからね」
「へなちょこへなちょこ、うるせえよ。でも、サンキューな。ありがたくもらっておくよ」
 俺はさっそくビンを開封し、中のソースをチキンステーキにかけてみた。
 それを一口。
「お、これは!」
 美味い。
 リンゴやサクランボに似た風味があり、ほのかな甘みを感じるほどだ。ピリッとした辛みは肉の味を引き立て、チキンとの相性もいい。
 そのように感じたのは、ほんの一瞬だった。
 強烈な辛さが襲いかかってくる。
「ああああああーっ!」
 思わず叫び声が出て、学食中の視線を集めてしまった。
 口の中に火の玉を入れられているかのようだ!
 痛い! それに熱い! 口から火を噴いてしまいそうだ!
 火焔山はそんな俺を見て、口に手を当てて必死に笑いをこらえていた。
「か、かけすぎよ。ぷぷぷ。あなたのようなへなちょこが、そんな量を食べられるわけがないでしょう。くくくく」
 そうか、しまった!
 火焔山がうどんや親子丼に、大量にソースを入れているところを見ていたので、俺もつい同じくらいの量をかけてしまった。あれは、火焔山だからこそ耐えられる量だったんだ。
 その後、俺は猛烈な腹痛に苛まれ、午後の講義を休むはめになった。

   4

 レベルMAXに挑戦するという宣言をしてから、およそ二週間が経過した。
 九月二十七日、日曜日。時刻は夜の十時半。俺は、ラーメン屋『炎の世界』に来ていた。
「へい、いらっしゃい!」
 ドアを開けて店内に入ると、店長の活きのいい声が響いた。俺の姿を認めると、にやりと口角を上げる。
「お。兄ちゃん、来たのかい」
「店長、俺のこと覚えてるのか?」
「おう。お客の顔を覚えるのは得意なんだよ」
 カウンター席に着くと、俺は注文をした。
「炎のラーメン、辛さのレベル10で」
 ピクッと、店長の太い眉が動く。
「なあ、兄ちゃん」
 その言葉を制して、俺は言う。
「大丈夫だ。この二週間、徹底的に自分を鍛え上げてきた。今なら食べられる自信があるんだ」
 一日三食、あらゆる食べ物に唐辛子をかけているのだ。火焔山からもらったスコット・ボネットのソースや、スコーピオンソースなど辛みの強いものも駆使している。
 その効果は、確実に表れていると感じていた。 
「わかった。今度こそ完食してみせてくれよ、兄ちゃん」
 ラーメンを作り始める店長。
『炎の世界』の営業は午後十一時までだ。つまり今は閉店の三十分前で、この時間となるとさすがに客も少ない。俺以外に三人の客がいたが、その三人も俺がラーメンを待っているあいだに店を出て、貸し切り状態になった。
 なるべく人が少ないほうがいいと思っていたのだが、この時刻に来て正解だったようだ。
「へい、炎のラーメン、レベル10お待ち!」
 目の前に、真っ赤なスープのラーメンが置かれる。
 さっそく、それを食べ始めた。
 麺を一口頬張っただけで、口内全体に広がる猛烈な刺激。やはり相当な辛さだ。
 だが、いける。今の俺ならいけるはずだ。
 そう信じて箸を進める。
 もちろん、今回は水に手をつけることはない。ただ愚直に、ラーメンを食べ進める。
 ちじれた太麺はスープをしっかりと絡ませ、つるつるもちもちとした食感も絶品だ。
 スープは味噌の味を前面に押し出しているが、出汁にもこだわっているのだろう、旨味が幾重にも折り重なっていることが感じられる。鶏ガラに豚骨、それに魚介の出汁も入っているだろうか。唐辛子の辛みは、そういった旨味を邪魔することなく、むしろ引き立てているように思える。
 チャーシューは柔らかく、スープの味がしみ込んで一層深い味わいになっている。
 キャベツはシャキシャキとした食感が楽しく、いい箸休めになるし、麺と一緒に食べるのもいい。
 あらためて感じた。
 このラーメンは本当に美味い。
 麺、スープ、具材、そのすべてが、激辛にすることで最大限の美味しさを感じられるような、絶妙な配合になっているのだろう。
 まさに激辛好きのためのラーメンだ。
 気がつくと俺の目の前には、空っぽになった丼があった。スープの最後の一滴にいたるまで、すべてが俺の胃の中に吸い込まれたのだ。
 完食。いや、完飲。
 口内や食道は多少ヒリヒリするが、まったく問題ない程度だ。辛みへの耐性は、間違いなく上がっている。
「ごちそうさまでした」
 俺は目をつぶり、手を合わせてお辞儀をした。自然と出た所作だった。
 店長の、激辛ラーメンに対するこだわりを感じ取り、それに対して感謝の念が生まれたのだ。
「おう、兄ちゃん、やるじゃねえか!」
「ああ、ありがとう。これで俺も、裏メニューに挑戦できるんだよな?」
「お、知ってたのか。裏メニューは、レベル11から20の十段階あるぜ。レベル10が可愛く感じるほどの辛さだから、挑戦するなら覚悟してな!」
「明日、また来る。ぜひ挑戦させてくれ」
 俺は席を立った。時刻は午後十一時。もう閉店の時間だ。
 会計をする。本日最後の客だったためか、店長が自らがレジに立った。
 消費税込みで九百九十円。千円札を出して、十円のおつりを受け取る。
「まいどあり! また来てくれよな!」
「店長、ひとつ聞いていいかな?」
「おう、なんだい?」
「店長は、どうして激辛ラーメンを作ろうと思ったんだ?」
 店長は腕を組んだ。
「もともとオレ自身が激辛好きで、若いころはいろんな店の激辛料理に挑戦してたんだ。そうするうちに、もっと多くの人に激辛料理の魅力を知ってもらいたいと考えるようになって、提供する側に回ったってわけさ」
「へぇ。なるほどなぁ」
「なあ兄ちゃん。どうして人は、激辛料理を食べるんだと思う?」
「え?」
「辛さってのは、『痛み』なんだよ。皆、わざわざ痛い思いをして激辛料理を食ってるんだ。それはなぜだ?」
「そう言われると、確かに不思議だな。なんでだろうな」
 あらためて問われると、適切な答が思いつかない。
 ニッと歯をむき出しにして笑ってから、店長はつづけた。
「オレはこう考える。激辛料理を食べきったら達成感が生まれる。それは爽快感や満足感にもつながる。激辛料理を食べきったら、超気持ちよくなれるわけだ。つまり一種のスポーツでありエンターテインメントなんだよ」
「ほほう」
 なかなか面白い考え方だ。
「激辛料理を食べるってのは楽しいことなんだ。それでいて美味しい思いまでできたら最高だろ? だからオレは、とびきり辛くてとびきり美味しい料理を提供することを目指しているのさ。それでお客さんを楽しませたいんだよ」
 眼球の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。
「店長。俺、この店を知って本当によかった。これからもよろしく頼むよ」
「おう。常連客になってくれたら、オレもうれしいぜ!」
 店を出た。夜風が涼しく、激辛で火照った身体に心地いい。
 明日から、裏メニューに挑戦する。レベル11からスタートして、一日にひとつずつレベルを上げていこう。そう決意した。

   5

 十月七日、午後十一時前。
 閉店間際の『炎の世界』は、静寂に支配されていた。
 音を失った店内に、ごとりという小さな音が響く。俺が、持ち上げていた丼をカウンターの上に置いたのだ。
 俺は閉じていたまぶたをゆっくりと開くと、手を合わせてお辞儀をした。
「ごちそうさまでした」
 直後、おおおおおっという大歓声が店内にこだました。
「すげえぜ兄ちゃん! 本当にレベル20を完飲しちまうなんてなあ!」
 興奮に満ちた店長の声。
 そう、俺は成し遂げたのだ。『炎のラーメン』の裏メニュー、レベル20のクリアを。
 これで、実績の上では火焔山鳳凰華に並んだことになる。
 店長とスタッフ、それに俺の挑戦を見物するために店内に残っていた数人の客から拍手を送られた。
 が、それに酔いしれる余裕はなかった。
 口、喉、胃が、まるで焼けただれてしまっているかのようだ。呼吸をするだけでも強烈な痛みが走り、気が遠くなりそうだった。
 レベル20の辛さは、さすがに尋常じゃなかったのだ。
「いやあ、本当にすげえよ兄ちゃんは。この店は十年以上やってるが、レベル20を完飲できた人は十数人だけなんだぜ」
 うれしそうに拍手をつづける店長。
「あ、ありがとう」
 痛みに耐えながら数度深呼吸をし、気力を回復させた。
「ところで、さらに上の裏裏メニューがあるって聞いたんだが」
 突如、店長の顔から表情が消えた。
「裏裏メニュー? そんなものはねえよ」
 冷たい無表情で、店長は言う。なんだこの反応?
「ネットかなんかで見たのか? そんなもん、ただの都市伝説さ」
 火焔山が勘違いしていたのか? いや、この店長の反応は明らかにおかしい。裏裏メニューは存在するのだ。
「そ、そんなはずはないんだ。レベル20をクリアした者だけが頼めるメニューがあるって」
「知らねえよ。兄ちゃん、バカなこと言ってねえで今日はもう帰んな。閉店時間なんだよ」
 怒気を帯びた店長の声。裏裏メニューのことを隠そうとしているのだ。なぜだ?
「そういえば、昔見たことがあるぞ」
 そう言ったのは、店内に残っていた客の一人だ。
「何年か前に、裏裏メニューを頼んでる客がいた。確か、レベルMAXとか言ってたような」
 店長が、太い眉を吊り上げて、その客をにらみつけた。
「そ、そうだよ、そのレベルMAXだ」
 俺が言うと、店長は鬼の形相を向ける。
「うるせえ! そんなものはねえ! さっさと会計をすまして帰れ!」
 剣幕に押され、思わず息が止まった。
 他の者も同様だったのだろう、一気に静まり返る店内。
 残っていた客たちは顔を見合わせると、次々と店から出ていった、
 俺としても、さすがに引き下がるしかなく、会計をして店をあとにした。

 翌、十月八日の昼。
 俺は学食でたぬきうどんを食べていた。唐辛子の類は一切かけていない。今日は辛いものを食べる気になれなかったのだ。昨日、レベル20を完飲した影響で、かなり胃にダメージがあった。
 ゆっくりとうどんをすすっていると、となりの席に誰かが座る。
 数日間に一度だけ俺のとなりにやってくる、黒髪美少女の同級生、火焔山鳳凰華だった。
「おやおや?」
 火焔山は俺の食事を覗き込み、わざとらしい声を出す。
「今日は唐辛子をかけてないじゃない。しかも、うどん一杯だけ。とうとう音を上げっちゃったのかしら?」
「うるせえ。昨日はレベル20を完飲したからな。さすがにダメージがあるんだよ」
「へぇ?」
 いつもどおり、ポシェットから取り出した唐辛子のソースを料理にかける火焔山。今日はかつ丼だった。
「へなちょこにしては頑張ったじゃない。しかも期限まで日数を残して。少しだけ、ほんの少しだけ見直したわ」
 かつ丼を頬張りながら火焔山はつづける。
「でも、それで翌日辛いものが食べられなくなっちゃうようじゃ、甘いわね。まだまだ『スコビラー』とは呼べないわ」
 くそ、レベル20を完飲しても認めてくれないのかよ。
 文句のひとつでも言ってやりたかったが、胃の不調のせいでそんな元気も出ない。
「なんにせよ、これであなたもレベルMAXに挑戦できるわけね。楽しみになってきたわ」
「ああ、それなんだけどな」
 俺は火焔山に話した。店長はレベルMAXなんて存在しないと言い張っていることを。
「そう」
 俺の話を聞いた火焔山は、静かに言う。
「噂は本当だったのね」
「噂?」
「レベルMAXは封印されたというのは、激辛界隈では数年前から流れていた話だったの。そのあたりを確かめるために店長に話を聞こうと思っていたんだけど、忘れていたわ」
「だったら今日にでも、二人で話を聞きにいかないか?」
 俺は提案した。
「俺は、なんとしてでもレベルMAXに挑戦したいんだ。あきらめきれないんだよ」
「いいわよ」
 火焔山はうなずいた。
「私も、思いは同じだから」

 その日の夕方。
 俺たちは大学から歩いて、『炎の世界』にやって来た。
 時刻は午後四時四十分。『炎の世界』の営業は、午後三時から午後五時のあいだ中断される。今はその中断時間のはずだ。
 俺が店のドアを開くと、厨房に立っていた店長と目が合った。
「お二人さん、夜の営業は五時からなんだ。ちょいと待っててくれるかい」
「わかってる。店長と話がしたいんだ」
 店長は、しばらく俺の顔をじっと見ていた。やがてスタッフに「頼む」と言い、店の外に出てきた。
 店の前に三人が立ち話をするかたちになる。
「兄ちゃん、昨日は悪かったな。つい興奮しちまった」
「いや、俺のほうこそ不躾なことを」
「だが、今日もそのことで来たんだろ? 裏裏メニューのことでよ」
「そうよ」
 火焔山が言う。
「裏裏メニューのレベルMAXは封印した。その話は本当なのかしら?」
「ああ。確かに、ウチには裏裏メニューのレベルMAXがあったが、もうやめた。二度とやるまいと決めているんだ」
「どうして?」
 俺が聞くと、店長は、ふーっと大きく息を吐いた。
「オレの理念に反していることに気がついたからさ」
 寂しげな視線を空に向ける店長。
「兄ちゃんには話したよな? オレが激辛料理を作る理由は、お客を楽しませるためだ」
「レベルMAXは、楽しませる料理にはならなかったと?」
「そのとおりだ。あまりにも辛さの度が過ぎたんだろうな。そりゃあ、今現在提供している料理だって、辛すぎるくらい辛いものばっかりだよ。ギブアップするお客だって、たくさんいる。それでも大抵のお客は、ギブアップしても笑顔になってくれるんだ」
 それは俺自身も経験したことだった。完食できなくても、ラーメンの美味しさと、次こそ完食してやるぞという気持ちのおかげで笑顔になれたのだ。
「だが、レベルMAXを食べたお客の顔に、笑顔はまったくなかった。一口食べた瞬間から、苦痛にゆがむんだよ」
 そう話す店長自身が顔をゆがめる。
「レベル20さえ完食できるお客が、さらなる高みを目指せるようにと思って作ったメニューだったんだが、完全に間違ってたよ。レベルMAXの辛さは殺人的だ。あれじゃあ、美味しさや楽しさが生まれるわけがねえ」
「ちなみに、完食した人は?」
 俺の問いに、店長は首を振った。
「ゼロだよ。半分食べたお客さえいない。それも、レベルMAXを封印することに決めた理由のひとつだ」
 店長は、俺たちに向かって頭を下げた。
「そんなわけでお二人さん、レベルMAXのことは忘れてくれや。あれは、オレがもう作りたくないんだよ」
「その辛ささえも楽しみ、完食できる人がいるとしても、かしら?」
 火焔山が言った。
「姉ちゃん、あんたは確か」
「私は、レベル20でさえもあっさりと完飲してみせた。そんな私にも、レベルMAXに挑戦する資格はないというのかしら?」
 店長は右手を口元に当てた。
「確かに姉ちゃんは、レベル20でさえ涼しい顔で完飲してたな。しかも、相当なスピードで」
 店長は腕を組み、考えるような表情を作った。
「店長、私はこれまで、いろいろな店の激辛ラーメンを食べてきたわ。『赤龍堂』、『KURENAI』、『漠山』、『なめ郎』。そういった店の最高に辛いラーメンを、すべて完飲してきた」
 火焔山は、自分の胸元に左手を当てる。
「激辛ラーメン界の最後の砦と称される、この『炎の世界』で最高に辛いレベルMAXにも、是が非でも挑戦したいと思っているの。そして私は、必ず完飲してみせる。それが私の信念だから」
 店長は下唇を噛んでうつむいている。その表情には、迷いが生じているようだ。
「店長だって本当は、またレベルMAXを作りたいと思ってるんじゃないのか? 完食してもらいたいと思ってるんじゃないのか?」
 俺の問いに店長は答えない。構わず俺はつづける。
「火焔山の、こいつの実力は店長もよく知っているだろう? こいつならきっとレベルMAXでも完食、いや完飲してみせるだろう。そして俺は、そんな火焔山に追いつくために、辛さに耐えるトレーニングをしてきたんだ。もちろん、これからも鍛えつづけるつもりだ。レベルMAXでも耐えられるように」
 情熱を込めて、俺は告げた。
「俺はこいつと約束したんだ。一緒にレベルMAXに挑戦すると。店長、一度だけでいいんだ。俺たちのためにレベルMAXを作ってくれ!」
 店長はしばらく下を向いたまま黙っていたが、意を決したように顔を上げた。
「よし、わかった。レベルMAXを作ってやろう」
「本当か!」
「ただし、いくつか条件がある」
 店長は毅然と言う。
「ひとつ。レベルMAXを作るのは一度だけだ。二度目の挑戦は認めねえ」
「ああ、それでいいよ」
「ふたつ。味の改良をしたい。少し時間をくれ」
「どれくらいだ?」
「十日、いや一週間でいい」
 今日が十月八日。レベルMAXに挑戦すると決めていた日は十月十七日、つまり九日後だから、問題ない。
「ああ、大丈夫だ」
「みっつ。制限時間を設けさせてもらう」
「制限時間?」
「何時間もかけて食べられちゃ、他のお客に迷惑がかかるからな。三十分以内に食べきれなかった場合はチャレンジ失敗ということにさせてもらおう」
 三十分。それだけの時間があれば、火焔山なら充分に食べきれるだろう。俺にとっては厳しいかもしれないが、ある程度厳しい条件のもとでクリアしなければ意味はない。
「オーケーだ。それでいこう。火焔山、問題ないよな?」
 俺が聞くと、火焔山はうなずいた。
 感慨深げな笑みを浮べ、再び空に目を向ける店長。
「兄ちゃんの言うとおりさ。オレはずっと、レベルMAXに未練があったんだ。あれは、オレの最高傑作だと思っているからな」
 店長はまた俺たちのほうに顔を向け、力強い視線を寄越す。
「きみたちふたりなら、確かにレベルMAXに挑戦するのにふさわしい。待ってるぜ!」
 俺たちは大きくうなずいた。
「ああ、よろしく頼むよ店長!」
「安心して。私は必ず、スープの一滴も残さずに完飲してみせるから」
 十月十七日の土曜日、開店時間に来店することを店長に告げ、俺たちはその場をあとにした。

   6

「三千スコビルといったところね」
「それって、どれくらいの辛さなんだ?」
「ちょっと前に話題になった『ぺオールドやきそば・ヘルスパイス』が千五百スコビルと言われているわ」
「それよりも二倍辛かったわけか」
 なんの話かというと、『炎のラーメン』のレベル10の辛さについてである。
 十月十七日、午前十時。
 いよいよ、俺と火焔山が『炎の世界』の裏裏メニューであるレベルMAXに挑戦する日がやって来た。
 俺たちは大学で待ち合わせをし、歩いて『炎の世界』に向かっているところだ。まだ開店には時間があるが、席を確保するために並んでおくつもりだった。
 道中の話題といえば、当然激辛ラーメンについてのことである。
「ちなみに、レベル20のスコビル値は九千ほどと見たわ」
「レベル10の二倍どころか、三倍も辛かったのか」
「あくまでも予想だけどね」
 食べ物の辛さはスコビル値で表すことができる。火焔山は、あらゆる料理のスコビル値に詳しい。もっとも、飲食店の料理のスコビル値が公表されていることはほとんどないので、すべて火焔山の経験と勘による推測値だ。
 彼女は黒いワンピースを着用していた。そういえば、前に『炎の世界』で見かけたときにも同じ服を着ていた気がする。勝負服なんだろうか。
 ぺろりと舌なめずりをする火焔山。
「いよいよ、日本最高峰の激辛ラーメンを食べられる。楽しみだわ」
 もちろん俺も楽しみだった。しかし一抹の不安もある。
 レベル20を完飲したあとの胃にダメージは思いのほか長引き、しばらく辛いものを食べられなかったのだ。四日前からトレーニングは再開したものの、どこまでパワーアップできたか。休養期間のせいで、逆に衰えている可能性もある。
 とはいえ、気後れしては勝てる勝負も勝てなくなってしまう。
「よし! 必ずやレベルMAXを完食、いや完飲してみせるぞ!」
 決意表明のために、声に出してそう誓った。
「ふふふ。弱い犬ほどよく吠える、というやつね。へなちょこがよく言うわ」
 いつもどおりの辛口で、火焔山が俺をバカにする。
「うるせえ。もうへなちょこじゃねえぞ。レベル20はクリアしたし、今日レベルMAXを完飲して証明してやる!」
「せいぜい頑張りなさい。いずれにしても、先に完飲するのは私よ」
「ふん。俺は負けねえからな!」
 十時十五分ごろに『炎の世界』に到着した。店の前には、すでに三人の客が並んでいる。俺たちはその後ろに並び、開店を待った。
 開店時間が近づくにつれ、行列は長くなっていく。
 十一時。スタッフが入り口に暖簾をかけ、店が開いた。店内に入った俺たちは、テーブル席に案内される。
 火焔山と向かい合って席に着くと、店長がお冷を持ってやって来た。
「来たか、お二人さん」
 お冷をテーブルに置く店長。その顔は、心なしか緊張しているようだった。
「注文は『炎のラーメン』のレベルMAXをふたつ、それで間違いないな?」
「ええ、よろしく頼むわ」
 と火焔山。
 俺は店長にうなずきかけ、告げた。
「覚悟はできている。レベルMAXを出してくれ、店長」
「ああ、待ってな」
 踵を返し、厨房に向かう店長。その背中を見ながら、俺は生唾を飲み込んだ。
 レベル20の上をいくレベルMAX。その辛さとは、どれほどのものなのだろうか。
 それから、およそ五分。
「待たせたな、お二人さん」
 ふたつの丼が乗ったトレーを持った店長がやって来た。俺と火焔山の前に、丼が置かれる。
「こ、これは」
 丼に入ったラーメンの様子は、これまでに食べてきた『炎のラーメン』とは違っていた。
 スープが、もはやスープじゃない。ペースト状になっている。その色は、圧倒的に赤い。
 箸で麺を持ち上げてみると、ペースト状のスープがどろどろと絡んだ。
 そこから、猛烈な辛みを伴った香りが漂ってくる。それだけでわかる。この辛さはレベル20の比ではない。たらりと、背中に汗が流れるのを俺は感じた。
「ハバネロ、ブート・ジョロキア、キャロライナ・リーパー。世界中から取り寄せたこだわりの唐辛子を大量に投入したスープだ」
 店長が解説する。
「さらに麺にも唐辛子を練り込んであるから、その辛さは想像を絶するレベルになっている。その上で味を見直し、辛さはそのままに、より美味しく食べられるように改良したつもりだ」
 俺はまた、生唾を飲み込む。このラーメンを、果たして食べ切れるだろうか?
 火焔山は肩にかけているポシェットからシュシュを取り出し、長い髪を後ろでまとめた。戦闘態勢に入ったようだ。
 俺たちは、箸立てから箸を取る。俺は右手に、火焔山は左手に、箸を持って構えた。
「制限時間は三十分。チャレンジ開始だ!」
 店長がズボンのポケットからストップウォッチを取り出し、スイッチを押した。それから腕組みをし、その場に留まる。どうやら厨房は他のスタッフに任せ、俺たちの挑戦を見届けるらしい。
 レベルMAXを作るのは今回限りという約束だ。俺たちにとっては最初で最後になる挑戦が、今始まった。
 火焔山が躊躇なく、麺をすする。
 他の客たちの視線も、俺たちに集まっているようだ。それを感じながら、俺はおそるおそる、麺を口に入れてみる。
 直後、雷に撃たれて全身が焼け焦げた。
 ここは店の中だし、外も晴れている。雷が落ちてくるはずなどないが、そう錯覚するほどの衝撃を受けたのだ。
 麺を咀嚼すると、千本の針を頬張ったかのような痛みが、口の中全体に走る。飲み込んだ麺が食道を通過すると、鋭い爪で喉を抉られたかのような感覚に陥り、体温が急上昇した。たちまち額から汗が吹き出し、テーブルの上にポタポタと落ちる。
 辛いなんてもんじゃない。
 これは、暴力だ。
 気になって、火焔山の様子を伺ってみる。
 彼女は目を見開いて硬直していた。その顔に一筋の汗が流れたのを、俺は見逃さなかった。
 あの火焔山が、辛さに衝撃を受けている。
 それほどまでなのだ。レベルMAXの辛さは。
 やはり無謀な挑戦だったのか?
 そのとき。
「ふふふ。ははは。はっはっはっはっはっは!」
 甲高い笑い声が店内に響いた。
 火焔山だ。
「ははは! 素晴らしい、素晴らしいわ! このスコビル値、おそらく二万を超えている!」
 彼女は目を爛々と輝かせていた。
「これよ、私が求めていたものは! やっと『本物』に出会うことができた!」
 狂気さえ混じったような笑顔を浮かべながら、火焔山は再び麺をすする。
 俺もまた、丼に箸を伸ばした。自らも笑顔になっていることを感じながら。
 大丈夫だ。この挑戦は、決して無謀なものではない。俺は、このラーメンを食べることができる。
 もう一口。
 たちまち猛烈な辛みが口内を駆け巡り、身体中がさらに火照る。まるで轟々と燃え上がる業火の中に放り込まれ、全身を焼かれているかのようだ。
 まさに名前に違わぬ、『炎のラーメン』。
「あははは。あっはっはっは」
 俺も自然と、笑い声をあげていた。
 うれしかった。このレベルの激辛ラーメンに挑戦できることが。
 全身が汗まみれになり、鼻水も大量に流れ出し、痛みによって口内や舌、喉の感覚が次第に失われていく。そんな状態になっても、俺はひたすらにレベルMAXを食べ進めた。
 火焔山もまた、狂気の笑顔のままで食べつづけている。時折笑い声を上げながら。
 そんな俺たちをテーブルの横で見ている店長もまた、肩を震わして笑い始めた。
「くっくっくっく」
「はっはっはっは」
「あはははははは」
『炎の世界』の店内は、三人の笑い声がハーモニーして響き、異様な雰囲気となった。

   7

 十数分後。
「ふぅ」
 火焔山が一息つき、箸をテーブルに置く。
 彼女の丼の中には、既に麺と具材の姿はない。ペースト状のスープだけが残っている。
「姉ちゃん、完食、だな」
 店長が静かに言った。
「いえ、まだ」
 火焔山はレンゲを手に取る。そう、彼女はスープまですべて飲み干し『完飲』することを信念としているのだ。
 しかし、その体が動かない。
 レンゲを左手に握り、丼の中を見つめながら、微動だにしない火炎山。その顔には汗が何筋も流れており、もう笑みはない。
 言うまでもなく、スープは麺や具材よりもはるかに辛みを感じやすい。
 辛さに打ちひしがれ、スープを口にすることを躊躇しているのだ。
 あの、火焔山鳳凰華が。
 一方の俺は、火焔山よりも先に動きを止めていた。
 丼の中には、まだ麺と具材が三分の一ほど残っている。当然、スープも減っていない。
 口内と喉には既に感覚がなく、胃の中はマグマがたぎっているように熱い。汗と鼻水、それに涙のせいで、顔面はぐちゃぐちゃになっていた。
「兄ちゃん、ギブアップかい?」
「い、いや、まだだ」
 俺は自分の身体に鞭を打ち、丼に箸を伸ばした。麺を少しだけつまみ、口の中に入れる。
 とうに限界を超えている口内に、無慈悲な痛みが走る。傷口にアイスピックを突っ込まれて、かき混ぜられているかのようだった。感覚は失っているのに、痛みだけは相変わらず感じるのだ。
 涙と鼻水が大量に流れ出し、全身がガタガタと震える。
 くそ、まだ食べたいのに、身体が拒否してしまっている。
「涼原くん、もうやめたほうがいいわ」
 火焔山の声が耳に入り、俺は彼女のほうを見た。
「それ以上は危険よ。へなちょこなりに、よく頑張ったわ。もうギブアップしなさい」
 真剣な眼差しを俺に向ける火焔山。その顔は汗にまみれている。
「う、うるせえ」
 俺は丼に視線を戻し、具材のキャベツを少しだけ食べた。これだけでも、かなりつらい。
「お、俺はまだ諦めねえぞ。お前こそまだ、スープ飲んでねえじゃねえかよ」
「私はもうやめるわ。だから、あなたもやめてちょうだい」
 耳を疑った。
「お前、なに言ってんだ? 完飲することが信念なんだろ? 必ず完飲するって、店長にも宣言したじゃねえかよ!」
「あなたをやめさせるために、私もやめる。そう言ってるのよ」
「い、意味わかんねえこと言うな」
「兄ちゃんの身体を心配してるんだろ」
 そう言ったのは、俺たちの挑戦を横で見守っている店長だ。
「兄ちゃん、オレからも言うぜ。もうギブアップしたほうがいい。とっくに限界を超えてるんだろ? それ以上無理したら失神、最悪命を落とすことにだってなりかねないぜ」
 命。そこまで言われると、さすがに尻込みしてしまう。
 だが、俺はまだ食べたいのだ。どうしても、このラーメンを完食、完飲したいのだ。
「そうよ。もうやめなさい。私でさえ苦戦する辛さに対して、あなたは本当によく頑張ったわ。大健闘よ」
「う、うるせえ。お前、自分が完食は達成したからって、勝ち逃げするつもりだろ」
 箸で麺をつまむ。だが身体が硬直し、それを口まで持っていくことができない。
「そんなんじゃないわ。私自身がもう限界だから、あなたの苦しみもよくわかるのよ。だから、二人で一緒にやめましょう」
「やめるなら、勝手にやめろ。俺は死んでも、このラーメンを完飲してやるんだ」
「死ぬなんて言うなバカ!」
 火焔山の怒号が響く。
 店内の誰もが、彼女に目を向けた。もちろん俺も。
「お、お前、なに泣いてんだよ?」
 火焔山は涙を流していた。大きな瞳から、大粒の涙がひと粒、またひと粒とこぼれ落ちる。
「わ、わたしのせいで、涼原くんが倒れたり死んでしまったりしたら、一体どうしたらいいのよ」
「なに言ってやがるんだ? お前にとって、俺はただのへなちょこだろ? 俺が倒れたところで、へなちょこが分不相応な挑戦をしたせいだ、自業自得だ、そう思うだけじゃねえのかよ?」
「そ、そんなこと思わないわよ。わ、私は、本当は」
 うつむき、涙を流しつづける火焔山。
「涼原くんと仲よくなりたかった。ただ、それだけだったの」
 彼女は語り始めた。
 火焔山は幼少のころから、食べ物は辛くないと気が済まないたちだった。小学生のころからなににでも唐辛子をかけて食べ、中学、高校と進学するとともに、求める辛さのレベルは上がっていった。
 そんな火焔山に周りの人間はドン引きし、彼女を変人扱いする。不器用だった火焔山は周囲に迎合することなく、結果として孤立することになった。
 それでも、火焔山はそれでいいと思っていた。友人などいなくても、大好きな激辛料理を食べれば心を満たすことができる。
 いつしか、他人は全員敵なのだと考えるようになっていた。自分に近寄ってくる人間は、激辛趣味をバカにし、攻撃してくるような者ばかりなのだと。
 ならば、攻撃される前に攻撃することで自分の身を守るしかない。炎の女、近寄るなキケン、そう揶揄される性格は、そのようにして生まれたのだった。
 しかしながら、火焔山は心の奥底で、わかり合える友人の存在を欲していたのだ。大学に進学したころ、それを自覚するようになった。
 彼女は同じ大学、特に同じ学年の学生を観察し、顔を覚え、必要とあれば名前やプロフィールを調べた。そうして友人になれそうな者を探したが、表面的な部分をいくら知ったところで、その人間の中身まではわからない。会話をして他人と仲よくなろうとも、これまでの人生で形成されてしまった攻撃的な性格と、元来の不器用さが災いして、人間関係を上手に構築することができなかった。
 結局、一人の友人もできないまま大学二年生に進級した。
 やはり自分は、誰ともわかり合えないままなのか。
 そう考え始めていた矢先だった。
 涼原泉という大学の同級生を、つまり俺を、この『炎の世界』で見かけたのは。
「すごくうれしかったの。激辛料理店で同級生を見かけたことが。この人となら仲よくなれるんじゃないかと思って、学食で声をかけた。それなのに私、いつもの癖でつい攻撃的な態度をとっちゃって」
 すすり泣く火焔山。
「私のせいで涼原くんはレベルMAXに挑戦して、こんなに苦しんでる。こんなはずじゃなかった。本当にごめんなさい。お願いだから、もう無理しないで」
 あの、常に上から目線で俺をバカにしている火焔山がこんなことを言うなんて、よほどの覚悟があってのことだろう。
 だがな、俺にギブアップをさせたくて言ったのなら、完全に逆効果だよ。
 なんだよ、俺と仲よくなりたかったって。
 くじけかけてた心が、癒されちまったじゃねえか。
 それに、目の前で女が涙を流してたら、それを止めてやらねえわけにはいかない。そうだろ?
 その方法は、ギブアップすることじゃねえ!
「おいおい火焔山。急にしおらしくなって、らしくねえんじゃねえか? お前はいつもみたいに、辛口で俺を小バカにしてりゃいいんだよ」
「で、でも」
「そんなふうに言われたって、俺は絶対にギブアップしねえよ」
「ど、どうしてよ! どうしてそこまで、意地を張るのよ!」
「意地なんかじゃねえ」
 そう、決して意固地になっているわけじゃない。
「なあ火焔山。お前は、なんで激辛料理を食べるんだ?」
「え? な、なんでって」
 言葉に詰まる火焔山。そんな彼女に、俺は言った。
「難しく考えることじゃねえだろ?」
 実に単純なことなのだ。激辛好きが、少なくとも俺が、激辛料理を求める理由は。
「美味いから、だろ?」
 今、これほどまでに苦しんでいる俺が、絶対にギブアップしたくないと思っている理由も、それだった。
 美味い。このラーメンは、とにかく美味いのだ。
 店長が味を改良したとあって、これまでに食べてきた『炎のラーメン』よりも、さらにに味が向上している。
 一口食べるたびに強烈な辛みに襲われるが、それと同時に旨味も口一杯に広がるのだ。
 店長がこだわりにこだわり抜いて完成させたのであろうこの味を、俺はどうしても完食、完飲したい。そのすべてを、胃の中に収めたい。
 辛さに耐え抜いて食べきることに対する達成感を感じたいというのも、当然ある。辛さに挑戦することは苦しいが、楽しいことでもあるのだ。きっと、限界を超えて自己ベストを更新しようと頑張るマラソンランナーのような感覚だろう。
 店長はこう言った。激辛料理に挑戦することはスポーツでありエンターテインメントだと。その上で美味しさも感じられれば最高だと。
 今の俺は、まさにそのような心境なのだ。
「最高に辛くて、最高に美味い、そんな最高に楽しいこのラーメンを、最後まで食わねえなんて選択肢はないだろ!」
 俺は再び、丼の中に目を向ける。
 残り三分の一ほどの麺と具材、それにスープがほぼ全部。
 激辛料理の楽しさを教えてくれた店長と、自分がここまで成長するきっかけをくれた火焔山に、俺は恩返しがしたい。
 そのためにも、これを食べきってみせる!
「兄ちゃん、本当にギブアップしないのかい?」
 店長が言った。
「ああ、絶対に完飲してみせるから、見ててくれ店長!」
「そこまで言うなら、もう止めはしねえ。だが忘れるなよ? 制限時間まで、あと五分だぜ」
 そうだった。このチャレンジには、三十分間の時間制限があったのだ。もう、そんなに時間が経っていたのか。
 くそ、あと五分ではさすがに厳しいか? もう、残りを一気に口の中に掻き込むしかない。それに身体が耐えられるだろうか?
 俺は無意識のうちに視線をさまよわせた。すると、ある物が視界に入り、天啓が舞い降りる。
 思いついたのだ。起死回生の妙案を。

   8   

 俺は、テーブルに置かれていたコップを手に取った。中には冷たい水が入っている。
「す、涼原くん、なにを?」
「水を飲む」
「え? そ、そんなことをしたら」
 驚愕の表情を浮かべる火焔山。
 激辛料理を食べているときに水を飲むのは愚の骨頂。水に溶けにくい唐辛子の成分が口内で拡散されることで、よりダメージが大きくなってしまうからだ。以前、火焔山が俺に教えてくれたことだ。
 それを聞いて以来、俺は激辛料理を食べている最中には、一切水を飲まないことにしていた。
 しかし。
「水を飲むことによる利点が、まったくないわけじゃないだろ?」
 冷たい水を飲むことで、激辛で火照った口内や食道を冷やし、痛みを癒すことができるのだ。
 もちろん、その癒し効果は一瞬のことだろう。
 だが今の俺にとっては、その一瞬で充分だ。
 俺はコップに入っていた水を、一気に飲み干した。
 テーブルの上にあった水差しからコップに水を注ぎ、もう一杯飲む。再び水を注ぎ、さらにもう一杯。
 三杯の水を飲んだことで、一時的ではあるだろうが、口内と食道の痛みが和らいだ。
「さあ、ここからだ!」
 頭から水を被り、人命を救うために炎の中に突入する消防士をイメージした。
 俺は、丼の中の麺と具材、さらにはスープを、猛スピードで口の中に掻き込んでいく。痛みを感じる前に、一気に食ってしまう作戦に出たのだ。
 実際には、そう上手くはいかない。麺やスープを口に入れると、その猛烈な辛さでやはり痛みを感じるし、水を飲んだことによる効果も徐々に薄れていく。
 それでも俺は、無心でラーメンを食べ進めた。
 ここまでくれば、完飲まであと一息だ。止まることなく、最後まで食べきってやる!
 そのとき、俺は新たな境地に達した。
 痛みを感じない。いや正確に言えば、辛みによる刺激あるのだが、それを痛いと思わなくなったのだ。むしろ、心地いい刺激に感じる。
 ランナーズ・ハイと呼ばれる現象がある。
 マラソンなどで長時間走っているランナーが、苦しさを我慢して走りつづけていると、逆に快感や恍惚感を感じことがある、という現象だ。
 今の俺も、もしかしたらそれに近い状態になっているのかもしれない。
 これならいける。間違いなく、完飲できる!
 レベルMAXという燃え盛る炎の中に身を投じた俺は、自らも炎になり、融合したのだ。
 辛さは友達。もう痛みはまったくない。唐辛子の刺激によって生まれるのは純粋な旨味で、それが口から胃、さらには手足の先、そして脳天へと突き抜けていく。
 とてつもない恍惚感が体中に溢れてくる。至福の時だった。
「ふふふ、ははははは!」
 火焔山の笑い声が響いた。
「へなちょこのあなたに、そこまで頑張られたら、私だって負けるわけにはいかないじゃない!」
 火焔山がコップの水を一気飲みするのを、俺は視界の端で捉えた。
「ありがとう涼原くん! おかげで私は、自分を取り戻すことができたわ!」
 レンゲでスープをすくい、猛スピードで飲み始める火焔山。そうだ、それでいいんだよ。それでこそ火焔山鳳凰華だ。
 俺だって負けねえぞ! 絶対に完飲してやる!
 一心不乱に、レベルMAXの『炎のラーメン』を貪り食らう俺たち二人。
 そのまま、時が過ぎる。
「十、九、八、七」
 店長がカウントダウンを始めた。制限時間まであと数秒。俺の丼の中には、まだわずかにスープが残っている。火焔山のスープもまだ残っているようだ。
「三、二、一」
 迫る時間。
 そして。
「終了だ!」
 店長がそう叫んだのと、俺がスープを飲み干し、テーブルに丼を置いたのは同時だった。さらには火焔山も、同時に丼を置いた。
「か、完飲。二人とも、完飲だ」
 店長がゆっくりと言った。
 数秒の静寂の後、大歓声に店内が揺れた。
「うおおおおー! すげえ! すげえよ!」
「幻のレベルMAXを完飲! それも二人も同時に!」
「時間一杯で完飲なんて、二人ともハラハラさせてくれるぜ!」
「おめでとう! 本当におめでとう! 感動したよ!」
 厨房のスタッフと、席に着いていた客たち、店の外に並んでいる客たちまでが、惜しみない賞賛と拍手を俺たちに贈る。
「や、やったのか? 俺」
 実感が湧かず、俺は誰にともなく問いかけた。
「ええ、やったのよ。完飲よ。あなたも、私も」
 答たのは、目の前にいる火焔山だ。その瞳から大量の涙が流れている。
「ちくしょう、まったく、やってくれたじゃねえか二人とも」
 そう言う店長の声は震えていた。見ると、店長の顔も涙で濡れている。
「ありがとう。二人とも、本当にありがとう。オレの最高傑作、レベルMAXを完飲してくれて。これほどの幸せは他にねえ。今日は人生で最高の日だ」
 その言葉を聞いて、ようやく喜びが湧いてきた。
 俺は立ち上がり、思わず吠える。
「おおおおおおっ! やったぞ! 俺はレベルMAXを完飲してみせたぞおおおおっ!」
 そのとき、身体から力が抜けた。
 次の瞬間、俺の視線の先には、なぜか店の天井があった。
 あれ? なんだこれ?
 もしかして俺、倒れたのか?
「す、涼原くん、大丈夫っ?」
 心配そうに俺の顔を覗き込む火焔山と、店長の顔が見えた。
 その光景が、ぐるぐると回る。脳味噌が揺れているみたいで、意識が遠のきそうだ。さらに、体中から汗が噴き出した。全身が小刻みに震え、身体の至るところが強烈な痛みを訴える。特に胃のあたりが酷い。まるで、胴体の真ん中にどでかい穴が空いたみたいだ。
 はは、さすがに頑張りすぎちまったかな? ラストの一気食いの反動が来たらしい。
 ただ、身体がそんな状態なのに、不思議と気分はよかった。
 あの激辛を食べきったという満足感と爽快感、それにレベルMAXが純粋に美味しかったおかげで、身体の不調なんていくらでも我慢できそうだ。
「涼原くん、今救急車を呼んでもらってるから、もう少し頑張って! 死なないで。絶対に死んじゃダメだからね!」
 火焔山の声が耳に入った。視界が回ってるせいで、どんな表情をしているのかはわからないが、相変わらず俺の顔を覗き込んでいるみたいだ。ていうか、顔近いな。ひょっとしてこれ、膝枕してくれてるのかな?
「なあ、火焔山。俺、ちょっとはかっこよかっただろ?」
 俺は言った。弱々しい声になっちまったのは情けないけどな。
「ちょっとどころじゃない、最高にかっこよかったわ! あなたはもう、へなちょこじゃない。立派な『スコビラー』よ!」
 へへ。やっと認めてくれたな。
 なんだよこれ、うれしいな。俺、これまで誰かに認められたことなんてほとんどなかったからさ。
 最高に気持ちがよかった。激辛料理に挑戦するって、本当に楽しいな。この感動を、多くの人と共有したい。身体がこんな状態じゃなければ、今すぐに世界中を巡って、あらゆる人にこう尋ねたい気分だった。
 辛口はお好きですか? ってな。
いりえミト

2020年08月09日 23時35分45秒 公開
■この作品の著作権は いりえミト さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:辛口はお好きですか?
◆作者コメント:ネタが思いつかなくて無事死亡しました。なんとか一作書けたので、お祝いにセブンイレブンの蒙古タンメン中本買いに行きます。

2020年08月23日 17時37分22秒
作者レス
2020年08月22日 22時24分29秒
+30点
Re: 2020年08月27日 23時50分08秒
2020年08月22日 16時18分34秒
+30点
Re: 2020年08月27日 23時48分03秒
2020年08月22日 05時11分07秒
+20点
Re: 2020年08月27日 23時43分41秒
2020年08月17日 20時01分12秒
+30点
Re: 2020年08月27日 23時40分09秒
2020年08月16日 19時11分53秒
+30点
Re: 2020年08月27日 23時37分31秒
2020年08月12日 23時36分30秒
+20点
Re: 2020年08月27日 23時34分51秒
2020年08月11日 16時42分38秒
+20点
Re: 2020年08月27日 23時33分23秒
2020年08月11日 05時50分23秒
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合計 8人 180点

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