炎属性と冷気属性の蛇を操る癒し系のお婆ちゃんは好きですか?

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「究極無二の癒しを求め、冒険心の炎を滾(たぎ)らす、私は稀代の挑戦者(チャレンジャー)!!」
 静謐(せいひつ)な居間に突如として妄言が響き渡る。それを受けて、藤堂湊(とうどう みなと)はソファに寝転んだまま大儀そうに声の方に顔を向けた。
 妄言の発言者たる妹の茜(あかね)が、自室の扉を開け放った姿勢で仁王立っていた。満面に得意げな表情を浮かべ、希望に満ちた目はきらきらと輝いている。
「あー、もう昼前か。そろそろエアコン入れるか」
「大丈夫! 暑さで頭がおかしくなったわけではないから!」
 適当に応ずる湊に、茜は間髪入れず元気よく返してきた。湊はこの歳の離れた妹にしばしば強い温度差を感じ、圧倒されてしまう。働き疲れの二十歳過ぎの湊と、小学生真っただ中の茜との温度差は、砂漠の昼夜のそれに近い。
 茜は手入れの行き届いたフローリング床の上をスーパーボールのように飛び跳ねながら移動し、テーブルをはさんで湊の目の前に陣取った。茜を暑苦しく感じたのでエアコンはつけることにした。両親は働きに出ていて不在だが、茜が三人分の熱量を発しているので室温は高めだ。
「ふふふ、私は世紀の大発見をしてしまったのだよ。仕事のないときは一日の八割を寝て過ごすお兄ちゃんには考えられないことだろうけど」
「人をナマケモノみたいに言うな。お盆休みは社会人にとって貴重なエネルギー充電期間なんだよ。この貴重な休みがあるからこそ、頑張って働けるんだ」
 自分で言ってて悲しくなる。湊の悲しい発言に対し、茜は無邪気に返答する。
「せっかくのお休みをそんなことのために使っていいの?」
 茜の何気ない一言が、湊の胸に痛烈に刺さった。
 茜の言う通りである。お盆とは、先祖の霊――祖霊に感謝し、もてなしをするための期間である。怠けていい期間などでは断じて無い。
 しかし忙しい会社勤めの身である、どうしても億劫になってしまっている。ちゃんとしようと思いつつも毎年なあなあになってしまい、これまでまともにお盆を執り行ったことなどない。
 だが、今年ばかりはそうもいっていられない。今年だけは厳密にお盆を執り行わなければいけないのである。それは湊もしっかりと認識していた。ただ、どうしても気分が乗らず、やらなければと思いつつも体は動こうとせず、結局例年通り家でごろごろしているだけなのであった。
「そ、そういうお前はどうなんだよ。お前だって日がな自分の部屋に閉じこもってるじゃないか」
 湊は話題をそらすことにした。苦し紛れである。
「私はお兄ちゃんの何倍も有意義に過ごしてたよ」
 妹は得意げに胸をそらす。上手く話題がそれたので、これに乗らない手はない。湊は先を促す。
「ほう? 何をしてたんだ」
「この小さな板をサーフボードに、ネットの大海原にこぎ出し、荒れ狂う波の上を大航海していたのさ」
 茜は手に持っていたスマホを印籠のように突き出しながら宣う。
「すごそうなこと言ってるが、スマホを使ってネットサーフィンじゃないか……」
 湊の呆れ声をスルーして、茜は続ける。
「そして、波乱万丈の大航海の末に、私はついに桃源郷に辿り着いた! この発見で私は歴史に確かな足跡を残すだろう!」
 茜の自信に満ちた発言に、湊は少し興味をそそられる。湊はソファの上に転がしたままだった我が身を起こし、座り直した。
「ほう、なんだそれは」
「見つけ出した桃源郷、その名も――」
 茜は手に持っていたスマホの画面をこちらに向けて示す。
「――『お婆ちゃん妖怪召喚サイト』」
 ……とんでもない魔境に辿り着いたな。
 茜の提示するスマホの画面には、きわめて胡散臭いサイトが表示されている。文字フォントも背景もごてごてしていて、一昔前の個人ホームページを思わせるちゃちなつくりである。
「数多のお婆ちゃん妖怪を呼び出すことが出来る至高のサイトなのだ! しかも、なんと呼び出すのに魂とか寿命の半分とか代償は不要! こんなサイトが知れ渡ったら、みんなこぞってお婆ちゃん妖怪を召喚しちゃうよ」
「お婆ちゃんを呼び出すのに魂や寿命の半分をなげうつ奴は一人もいないだろうな。そして、そんな代償がないとしても、お婆ちゃん妖怪を呼び出そうとする奴は一人もいないだろうな」
 湊の呆れたツッコミを聞いても、茜の自身に満ちた表情は崩れない。
「ふふふ、この充実のラインナップを見ても、そう言い切れるかな?」
 茜はスマホをタップして、呼び出せるお婆ちゃん妖怪のリストを表示させた。湊はそのリストに目を奪われる。
「ほう、有名どころの山姥や砂かけ婆だけでなく、安達ケ原の鬼婆や鍛冶が婆も並んでる。それに――ほうほう古庫裏婆(こくりばば)に白粉婆(おしろいばば)まで!」
 湊が大興奮してリストに注目する。が、その様子を茜がにやにやしながら見ているのに気づき、湊は慌てて取り繕う。
「ゴホン。……いやいやオレのような妖怪オタクにしか響かないだろこれ。ほとんどの人はちんぷんかんぷんだぞ」
「任意抽出した二つのサンプル両方ともがこのサイトに興味を示した。つまり、その母集団において興味を示す人の割合は、驚愕の百パーセントとなる! 日本人全員、いや世界人類すべてがこのサイトに興味を持つと言っても過言ではない」
「過言だよ。サンプルが少なすぎる上に特異すぎる」
 こんな怪しいサイト、信じる方がどうかしている。
 とはいえ。
 お盆休みなのにどこにも出かけられず、茜も暇を持て余しているに違いない。楽しそうな妹に水を差すのも気が引けた。
 単なるジョークサイトの類だろうし、そこまで危険はないだろう。茜のお遊びに付き合ってやることにした。
 湊は大げさにため息をついたあと、茜にたずねる。
「……で、どの妖怪を呼び出すつもりなんだ?」
 自分もほんの少しだけ乗り気になっているのを湊は無視する。茜は嬉しそうに答える。
「よく聞いてくれた! スーパーウーマンの私は、既に完全無欠の回答を得ているのだ! 完璧にして至高の回答、それは――」
 茜はリストの中の一つをタップして詳細画面を表示させる。
「――『蛇骨婆(じゃこつば)』」
 また一段とマイナーでよくわからないやつを選んだものだ。湊は頭を抱える。
「もっといいやつ幾らでもあっただろう! 砂かけ婆とか!」
 湊の発言に、小ばかにしたように鼻を鳴らす茜。明らかに呆れられている。
「砂かけ婆って、ただ砂をかけるだけじゃない。砂をかけられて喜ぶ人なんてお兄ちゃんくらいだよ。猫のフンじゃあるまいし」
「兄を猫のフン呼ばわりするんじゃない。……じゃあなぜ蛇骨婆がベストアンサーなのか、教えてもらってもいいか?」
 茜は水を得た魚、と言った得意げな顔をする。
「この蛇骨婆という妖怪は、炎を吐く蛇と冷気を吐く蛇、この2匹を手に持っているんだ」
 茜は得意げに解説しだす。妖怪オタクの湊としては指摘したいところだったが、上機嫌に話す茜に口をはさむのはやめておいた。
「――つまり、熱と冷気を自在に操れるということだよ。蛇骨婆は部屋の温度をコントロールし、快適な温度空間を創り出せる最強のお婆ちゃん妖怪なのだよ!」
 妖怪をエアコン代わりにするなよ。
 とはいえ、じゃあどんな妖怪を呼び出すのがベストかと問われたら、答えるのに非常に窮するわけである。大体、人の役に立つような妖怪がいない。妖怪は人の役に立たないのである。ただ居るだけだったり、いたずらしたり驚かせたりするだけの妖怪が大半なのである。そんな無益な妖怪たちの中から、わずかでも益のありそうな蛇骨婆を選び出した茜には、素直に感嘆する次第である。
 湊は異論を挟まず、次へ進めるように促す。
「なるほど。じゃあ蛇骨婆を呼ぶことにしようか。で、次はどうするんだ?」
「次はこの入力フォーマットに、住所氏名年齢家族構成および銀行の口座番号を入力し――」
「待て、こんな怪しげなサイトに個人情報を入力するな!」
「大丈夫大丈夫。私は未成年だから、代わりにお兄ちゃんの個人情報を入れたから」
「全然大丈夫じゃない! 勝手にオレの個人情報を怪しいサイトに入れるな!」
「えーでもSSL通信で情報やり取りしてるから第三者に情報を盗まれる心配はないし、個人情報保護規約も全文目を通したから目的外の利用をされることはないよ?」
「それだけプライバシー意識が高いのに、なんでそもそもの個人情報利用目的が怪しいことを疑わないんだ……」
 まあ個人情報保護規約に目を通したのなら、よほどのことがない限り情報漏洩の心配はないだろう。情報入力を許すことにした。
「入力が終わったら送信ボタンを押して、あとは待つだけ! サイトが召喚の儀式を自動で行ってくれるんだ!」
 茜はスマホをタップした後、湊にも見えるように目の前のテーブルの上に置いた。画面には『受付完了。しばらくお待ちください』の文字だけが表示されている。情緒もへったくれもない。
「なんかこう、召喚してますよ的な演出もないんか」
 湊は拍子抜けしてつぶやくが、茜はワクワクしているらしく聞こえていないようだった。湊も茜にならって礼儀正しく待つことにする。
 しかし、待てども待てども何も起きない。茜と二人して、ちゃちで面白みのないスマホ画面を見つめ続ける。
「……これ、いつまで待てばいいんだ?」
 湊はじれったくなって茜に問う。
「サイトの説明によると――ざっと一週間」
「は?」
 茜の回答に湊は耳を疑う。
「だから、妖怪が召喚されるのは一週間後だよ。え? そんなすぐ妖怪が召喚されてくれると思ったの? 今すぐ来いって呼び出して妖怪が応じてくれるわけないじゃん」
 とんだ肩透かしを食った気分だ。
「え……。じゃあオレたちは今まで何を待ってたの? 一週間スマホの前で待機し続けるつもりだったの?」
「あー、待ちきれなくなっちゃった感じ? うんうん、気持ちはよーくわかる」
 そうじゃないと言い切れないのが悔しい。
「――そういうと思って、一週間経過したものを別ブラウザで用意しておきました!」
 料理番組か。
「ほらカウントも後一分って表示されてます。もうすぐ召喚されますよ!」
 ほどなくして、スマホから チーンと軽い鐘の音が鳴った。
「あ、終わったみたい」
 電子レンジか。
 突っ込みたかったが、期待に胸膨らませている妹に言うのは野暮だと思ったのでやめておいた。それに、何が起こるのか自分も少し楽しみだった。
 もちろん、本当に妖怪が召喚されるとは露ほども思っていない。ただのジョークサイトなのは間違いないだろう。きっと、何かしらの演出が出てきて、ユーザをからかうのか楽しませてくれるのだろう。こんなユーモアとマニアックさに溢れるサイトを作る執念があるのだ、演出も期待できる。
 しかし。
 予想に反して、カウントが終わった後も何も変化が起きなかった。妖怪が本当に出てこないのは当たり前にしても、サイト上にも何ら動きが無いのが妙だと思った。とはいえ、単純にそこまで作りこんではいないのかもしれない。こんなサイトを真に受けて、律義に一週間待つ人などいない――サイトの運営者もそう考えて、一週間後の演出を作らなかったのかもしれない。
 なんとなく消化不良な気持ちになったが、どうしようもない。
「何も起きないな」
「うーん、妖怪は時間にルーズだから、きっと遅れてるんだよ! もうちょっと待ってみようよ」
「……まあ、茜がそういうなら」
 待ったところで状況は好転しないと思うが、茜に従ってしばし待つ。茜は食い入るようにスマホ画面を注視している。
 さらに数分が経過したが、画面には何も変化がない。
「やっぱり来ないな。きっとでたらめだったんだよ。もう諦めて――」
「やだ!」
 茜はテーブル上のスマホに目を落としたまま叫んだ。湊は茜の殊更に頑なな様子を訝しむ。
「おい、何意地張ってるんだ? 世紀の発見にならなかったのは残念に思うが、いい加減諦め――っ」
 そこまで言って、湊は口を噤んだ。茜が大粒の涙を零していることに気づいたからだ。
 茜は声をこらえて泣きながら、スマホ画面を必死に見つめ続けていた。
「きっと来てくれるんだもん。またおばあちゃんに会えるんだもん……」
 茜の震え声が湊の心を打った。そして茜の気持ちを察してやれなかったことを悔いた。
 茜は生粋のお祖母ちゃんっ子だった。学校が長期休暇に入る度、田舎に住む祖母の家に遊びに行き、休み中ずっとお世話になるのが恒例であった。湊は仕事の都合上一緒に行けないので、茜が小学校に上がった後は茜一人で電車を乗り継いで祖母の元に向かうのだった。長期休暇前の茜は一段と騒々しくなり、祖母と再会して一緒に過ごせるのを心待ちにしていることが伝わってきた。
 その祖母が、去年の冬に急逝した。高齢で持病持ちだったため、いつそうなってもおかしくなかったのではあるが、やはりいざそうなってみると湊も狼狽えた。が、茜の動揺ぶりは心に来るものがあった。葬儀場で大泣きする茜は見ていられなかった。
 それから半年以上経過し、茜も死を受け入れたと思ったが、見通しが甘かったようだ。夏休みに入って、いつもなら祖母の家にお邪魔している時期になって、茜の中で燻っていた炎が再燃したのだろう。どうしようもない気持ちを紛らすために虚勢を張って元気な振りをして、お婆ちゃん妖怪召喚サイトなる怪しげなサイトに縋ったのだろう。
 茜は学校の成績も悪くなく、頭は冴えている方である。そんな聡明な茜だ、まともな精神状態だったなら、こんな怪しいサイトを真に受けるはずがないのはわかり切っていたではないか。湊は自分の思慮の浅さを呪った。
「おばあちゃんに会いたいよう」
 泣きじゃくる茜をなだめようと手を差し伸べたが、思わず引っ込めてしまった。この涙は熱すぎて触れられない。そう感じたからだった。
 祖母の逝去は、湊の心にも少なからず影響を与えていた。とはいえ、もう何年も顔も合わせていないような不孝行な孫であった湊には、悲しむ資格などないと思った。だが、後悔だけが心に引っかかっていつまでも残っていた。もっと孝行できたんじゃないか。何かしてあげられたんじゃないか。今更そう思ったところで仕方なかった。もう死んでしまっているのだ、何もしてやることは出来ない。そんなこと頭ではわかり切っているのだが、心はそう簡単に割り切れなかった。よくわからない、どうしようもない思いが胸の内を渦巻いていた。
 だから。
 湊は、よくわからない、どうしようもない思いを冷凍して、心の隅に置いておいたのだ。湊は気持ちを冷やし固めて蓋をして、何とか葬儀をやり過ごし、日常に戻ったのだった。
 茜の流す熱い涙に触れてしまったら。今の自分の何かが溶け崩れてしまいそうで。湊はどうしても茜に触れることは出来なかった。


 湊が慰めあぐねていると、インターホンが鳴った。どうやら来客らしい。タイミングが悪いと思ったが、打つ手なしの手詰まり状態をリセット出来るかもしれず、かえってタイミングが良いのかもしれない。
 なきじゃくる茜を一旦置いて、湊は立ち上がって玄関に向かった。
 ドアを開けると、そこには見知らぬ老婆が立っていた。七十代ぐらいだろうか。薄紫の着物を着た、背筋の伸びた品のある老婆である。
「こちら、藤堂様のお宅でしょうか?」
 老婆は、礼儀正しそうな落ち着いた口調で問いかけて来る。湊は訳もわからないまま一応返答する。
「はあ、そうですけど」
「ああ、よかった。ここに来る途中で道に迷ってしまって。こう日差しが強いもので具合も悪くなってきてしまって大変でした」
 確かにひどく汗をかいている。この暑い中、歩いてここまで来たようだった。
「あの、何の用でしょうか?」
 湊は不審がる。本日は来客の予定もない、宗教か何かの勧誘だろうか。
「あなた、湊さんですよね。……私(わたくし)を呼びましたよね?」
 ……スピリチュアル系の宗教だろうか。もちろん誰かを呼んだ覚えはない。もし自分が実はテレパシーを使えたのだとしても、こんな老婆は呼ばない。
「いえ、間違いなく呼んでないです……。失礼ですが、どちら様でしょうか?」
「私は――蛇骨婆です」
「は?」
 湊はキョトンとする。あの胡散臭い『お婆ちゃん妖怪召喚サイト』の召喚によってやって来た蛇骨婆だというのだろうか。
 湊はあらためて目の前の老婆を観察するが、どこからどう見ても蛇骨婆ではなかった。ただのどこにでもいそうな老婆である。もちろん、蛇骨婆の最大の特徴たる蛇を手に持っているわけでもない。
「スマホ画面から出て来るんじゃないの? なんで普通に玄関から来るんですか」
 当然の質問に、老婆――蛇骨婆?は呆れた口調で答える。
「湊さんはスマホ画面から妖怪が現れるのを見たことがありますか? お化けじゃあるまいし」
「そもそも妖怪を見たことがないな……。それに、妖怪とお化けの違いがよくわからないぞ」
 妖怪とお化けは似たようなものだろうと思う。しかし、ハイテク機器と妖怪の組み合わせが良くなさそうなのはなんとなく理解できる。
「申し訳ありませんが、家に上げさせていただいても構いませんでしょうか? 炎天下の中をひたすら歩いて来たので、もう立っているのもやっとで」
 図々しい依頼だが、確かに顔色が悪そうである。ここで立ち話していて、もし倒れられでもしたら面倒である。仕方なく家に上げることにした。
「お邪魔いたします」
 茜に何と言って説明しようか思案しながら、蛇骨婆?をリビングに通す。
「すまん茜、お客さんだからちょっと――」
 泣きじゃくっていた茜は、来訪者を見るやいなや、たちまち顔をくしゃくしゃにした。
「じゃ、蛇骨婆だー! 本当に来た! 本当に来たよ! ほんとにほんとにほんとにほんとに蛇骨婆だー!」
 一瞬で泣き止んだ上に、お祭りでも始まったかのようなはしゃぎようである。茜を慰めることに苦慮していた自分が馬鹿みたいだと湊は思った。
「いや、この人は妖怪とか蛇骨婆とかじゃなくて……」
「はいはい、蛇骨婆ですよ。あなたが茜ちゃんだねぇ」
「はい、茜です! ここまで疲れたでしょう、ジャコ婆はソファに座って休んでね。 あ、ジャコ婆(ばあ)って呼んでいいですか? 蛇骨婆だと堅苦しいので」
「ええ、もちろんいいですとも。私はここに座らせていただきますね」
「ジャコ婆、外は暑かったでしょう。麦茶飲んでね、たくさんあるから」
「茜ちゃんは優しいねぇ。それじゃあお言葉に甘えて、たーんといただきましょうか」
 さっきまで泣きじゃくっていたのが嘘みたいに、張り切ってお世話している。兄としては複雑な気分だったが、まあ、茜が元気に戻って何よりだと湊は思った。


 とりあえず三人はリビングに落ち着いた。正体不明の来訪者に事情聴取するのである。
「さて。蛇骨婆……さん、でいいかな?」
「なんか他人行儀だし、ジャコ婆って呼ぼうよ」
「ふむ、この人を蛇骨婆と呼ぶことに抵抗があるから、その提案は受け入れることにするが……そこは迷惑になるからどきなさい」
 茜はジャコ婆の膝の上に陣取っていた。親しい間柄ならまだしも、会ったばかりの人の膝の上に座るなど失礼極まりない。
「構いませんよ、子供は大好きですので、これっぽっちも迷惑じゃありません」
「特等席だよ。ファーストクラスなんか目じゃないよ。ファーストクラスに座ったことないけど」
 茜がはうきうきした調子で言う。迷惑を受けている当人が構わないと言っているのだから、無理にどけとも言いにくい。気にせずに尋問を始めることにした。
「あなた――ジャコ婆は、蛇骨婆……なんですよね? 蛇骨婆ならば、赤蛇と青蛇を持っているはずですが、それらはどうしました?」
「蛇? ああ、えーと……そう、検閲で引っかかってしまったのです」
「あーやっぱ生き物を連れて来るのは難しいかー」
「あの蛇、特定外来生物に指定されてるの!? それに、ちゃんと通関通ってるんだ!?」
 湊は頭を抱えた。
「……じゃあ、妖怪であることを証明する何かを見せることってできますか?」
「……逆にお聞きしますが、いったい何を見せれば妖怪であることを証明できるのでしょうか」
 答えに詰まる。妖怪であることの証明など出来ないのである。特に蛇骨婆など、蛇を持っていることぐらいしか特徴がないのに、その蛇すら置いて来たと主張しているのである。こうなると蛇骨婆もただの老婆と変わりない。身分証明書の類も無意味だろう。健康保険証や運転免許証に『蛇骨婆』などと書いてあったらそれこそお笑いである。何ひとつとして妖怪であることを証明するものはないのだ。
「ジャコ婆は蛇骨婆だよ! 召喚に応じてうちに来てくれたんだ!」
「……ああ、わかった。わかったよ」
 そうは言ったが、もちろん信じていない。目の前の老婆――ジャコ婆は、もちろんただの老婆なのだ。妖怪蛇骨婆であるわけがない。そもそも妖怪など存在するわけがない。
 きっと家事代行サービスの一種だろう。いや、彼女代行サービスならぬお婆ちゃん代行サービスというべきだろうか。依頼主の家に出張訪問して、お婆ちゃんのふりをして対価を得る。『妖怪』を名乗っているのは、キャラ付けか独自性を出しているものと捉えるべきだろう。ニッチな商売もあったものである。似たような類として、秋田県には『なまはげ出張サービス』なるビジネスがあるらしい。依頼すればなまはげが家までやってきて、いたずらっ子を脅かして反省させてくれるらしい。
 蛇を連れていないのも理解出来る。通関で止められたなどというもっともらしい嘘をついて、蛇を連れていないことの説明をしているのだ。そもそも蛇を飼ってすらいないだろう。単なるキャラ付けのために蛇を飼育するなど無駄極まりないことだからだ。
 湊はこれからどうすべきかを思案する。我が家には家事代行サービスを頼むような経済的余裕はない。しかし、間違って頼んでしまったから帰ってくれとも言いにくい。この暑い中わざわざ老齢をおして来てくれたのである。追い返すのは非人道的行為に等しい。茜も喜んでくれているし、一日限りのこととして、奮発してサービスを受けてみるのも悪くないかもしれない。そう思った。

「でも、蛇を連れてこられなかったのは残念だよねー。蛇の炎と冷気による快適空間実現は出来ないのかー。今も十分すぎるほど快適だからいいけど」
 茜は、蛇骨婆の膝の上でくつろぎながら発言する。さすがに看過できなくなって、湊は告げる。
「あー。水を差すようで悪いが、蛇骨婆のもつ蛇は別に炎も冷気も吐かないぞ? 手に持っているのは、ただの赤い蛇と青い蛇だ」
「え? でも、赤い蛇が炎を吐いて、青い蛇が冷気を吐くって書いてあったよ?」
「確かに、妖怪図鑑とかでそう説明されることもある。だけど、それは後世に付け加えられた説明だ。そんな特徴は初出資料に一言も書かれていない」
「え? じゃあ蛇骨婆はただの蛇を持ってるお婆ちゃんってこと? どこが妖怪なの」
「茜ちゃんの言う通りですよ。それじゃただの肝っ玉お婆ちゃんじゃないですか。そんなていたらくで妖怪を名乗るなんて、おこがましいにもほどがありますね」
「蛇すら持ってないのに蛇骨婆を名乗る人には言われたくないと思いますが、実際そうなんだから仕方ないよ。まあ豆腐を持ってるだけの小僧も妖怪になるんだから、蛇を持ってるだけの老婆も妖怪になるんだろう」
 二人は納得のいかない顔をする。
「じゃあ、蛇骨婆って言うのはどういう妖怪なの?」
「それ、後学のため私も詳しく知っておきたいです」
「蛇骨婆を名乗るなら先学で知っておいておくべきなんだよなぁ……まあいいや」
 湊はゴホンと咳払いする。
「まず、蛇骨婆についてまともに調査研究した成果なんてものは寡聞にして知らない。きっとこんなマイナー妖怪のことなんて誰も研究してないはずだ。というかもし誰か研究してたら教えてほしい」
 教壇に立つ教師のような口ぶりで話し始める湊。茜とジャコ婆は黙って聞いている。
「誰も調査していないなら、独自に調べるしかない。調査方法はいくつもあるが、ここは比較神話学的な手法をとることとする。蛇骨婆の最大にして唯一の特徴は、両手に赤蛇青蛇を持っているお婆ちゃん、ということだな。この特徴を世界各地の神話伝説伝承と比較検討することで、その性質が見えて来る」
 はい先生、と授業中のように挙手する茜。湊は発言を許可する。
「蛇を手に持ってるなんて特徴、すっごく珍しい気がする。比較対象が見つからないんじゃない?」
「ところがどっこい。実は世界各地でありふれてるんだよ。蛇を手に持つという特徴は、全然珍しい特徴じゃないんだ。さすがに、赤蛇青蛇を持つ、と色や数まで指定する伝承はほとんどないが……」
 二人は驚きの表情を見せる。湊は有名どころを例示する。
「まず日本の例だと、宗教的儀礼(イニシエーション)に蛇を用いていたことが知られている。あの卑弥呼だって、祭祀の際に蛇を頭や腰に巻いたりしていたらしい。クレタ島のミノア文明の遺跡からも、両手に一匹ずつ蛇を持った像が出土している。旧約聖書にも、放り投げると蛇に変わる不思議な杖を持つアロンという聖人がいた。その不思議な杖はモーセの十戒とともに聖櫃に収められたという。アロンの杖は非常に重要な道具だったんだな。ちなみに杖が蛇に変わるという手品のタネはもう割れている。蛇の体にある特定のツボを押さえると、蛇はピンとまっすぐ伸びた状態でカチコチに固まって、まるで杖のようになるそうだ。それをパッと放り投げると、蛇の硬直が解けて元通り動き出す。周囲からはあたかも杖が蛇に変わったかのように見えるわけだな」
「つまり、アロンは蛇使いだったわけですね」
 ジャコ婆の発言に、湊はうなずく。
「蛇を自由に操る力を見せることで、常人を超越した宗教的威光を示したってことだな。蛇を操れるってことは、古代には超神秘的な能力だったのさ」
「どいういことです?」
「蛇は、幽冥界――つまり、『あの世』に属する生物として認識されていたのさ。手足がなく他の生き物とは大きく異なる形状であり、また毒により容易に人命を奪う蛇は、あの世の生き物に相応しい。そして、あの世の生き物を自在にコントロールしていることを示すことで、あの世すらも支配する強大な力を持つことを示す効果があったと考えられる」
「蛇を支配するものは――あの世すらも支配する?」
「ああ。だから蛇骨婆は、あの世と交信するシャーマンを描いたものかもしれない。そういったシャーマンは、大抵女性、それも老婆が多いから、十分考えられることだ」
「蛇骨婆は――古代のシャーマンだった、ということでしょうか?」
「まだまだ考察の余地はある。仏像の中には、体に蛇を巻き付けたものや、蛇を手に持っているものも多い。彼らは何故蛇を持っているのか」
「彼等もまたあの世とこの世を繋ぐシャーマンだったから?」
「いや、また別の理由だろう。仏の教えの中で、蛇を人の心中の激情に例える話がある。『どんな人の心にも、激情の蛇がいる。それをしっかり制御して、蛇を表に出さず、他人を傷つけないようにしなさい』と。蛇を手に持つということは、自分の中の激情の蛇をしっかり抑え込んでいることを意味するんだろうな。似たような例として、キリスト教の美徳の一つである『賢慮』がある」
「賢慮?」
「賢くて思慮深いという意味だ」
「て、照れるなー」
「茜、お前のことじゃない。断じて違う」
「あらあら、誉めても何も出ませんよ?」
「ジャコ婆のことでもないんだよなぁ……」
 道に迷った上によく知りもしない蛇骨婆を騙るなど、『賢慮』とは程遠い。お決まりのボケを適当にいなしてから、湊は話を続ける。
「この『賢慮』をキリスト教の絵画で描き表されるとき、もっぱら『片方の手に蛇を、もう片方の手に鏡を持った女性』の姿で描かれる」
「蛇を持つ女性?」
「蛇は悪魔の使いであり、鏡も虚飾の罪をもたらす悪魔の道具として見なされるキリスト教圏のなかにあって、蛇と鏡を持つ女性が美徳を表すのが極めて興味深いことだ」
蛇は激情を示すなら、蛇を手に持つ女性は激情を抑えた冷静で落ち着いた女性を表す。鏡を持っているのも、自身を省みて行いを正すことを示すのだろうな」
「つまりジャコ婆は――どんな時も怒ったりしない、すっごく優しい素敵なお婆ちゃんってことだ!」
「なるほど……。蛇骨婆にはそんな意味があったんですね。ただ蛇を持っているだけのお婆ちゃんではないのですね」
「自分で言うことじゃあないと思うがな。それにこれは、まだまだ序の口だぞ。まだまだ解かないといけない謎はたくさんある」
「え? まだこれ以上あるというんですか? この妖怪はどれだけ謎めいているというんです? 私の怒髪も天を突いてしますよ」
「いきなり激情に囚われてるじゃないか……」
 湊は呆れ声を出す。
「そう時間をとることでもないから、勘弁して聞いてくれな。次の謎は、『なぜ赤と青なのか?』だな。極めて難しいお題だが、単純に『対立する二項』というぐらいの意味だろうと思う。五行思想にあてはめるより、陰陽思想にあてはめたほうがすわりがいい」
 赤は五行にあてはめると火で、青は木だからといって、そこから何か納得のいく解釈ができるわけでもない。いや、こじつければどうとでもなるだろうが、無理やり五行にあてはめるのは苦しいものがある。
「例えば修験道の開祖として知られる役行者(えんのぎょうしゃ)は、お付きとして前鬼、後鬼という二人の鬼を従えていたという伝説がある。この二鬼は赤鬼、青鬼であるとされる。単純に前後、赤青で対立させているだけだと思う」
 あまり詳しくないので、もしかしたら深遠な意味があるかもしれないが、ここでは深追いしないこととする。続いてそれ以外の例を挙げる。
「赤と青の対立性を表す身近な例だと、男と女とかだな。また、赤が生命力の血の色を表すとして、青が死体の蒼白面の色と見なせば、生死という二項対立がある。感情面では、怒りの激情は赤、冷徹や冷酷は青、とかな。動脈と静脈は赤と青で表される。『赤い紙青い紙』の怪談もそれっぽい。話によって黄色い紙なんてのも出て来るが、明らかに後付けだしな。ただ、『赤い紙青い紙』の元ネタはどうやら『赤マント』らしいし、それだと青い紙も後付けってことになる」
「赤がチャンピオンで、青が挑戦者だ!」
 元気に発言する茜に、湊はうなずきながら答える。
「プロレスやボクシングの話な。対立を表す好例だな」
「赤信号と青信号!」
「厳密には信号の色は青色ではなくて緑色だけどな。昔の日本では緑色のことも青と呼んでいた。信号機の導入時に新聞の白黒写真で青信号と紹介されたことが要因らしいが、やはり感覚として赤の反対は青だろうとみんなが考えた、ということも大きいのだろうな」
「暖色と寒色も、それぞれ代表色は赤と青ですよね」
 ジャコ婆がゆっくりと発言する。
「そうだな。寒暖の色は普通、赤と青で表す。だからこそ、赤蛇は火を吹いて青蛇は冷気を吹くなんてでたらめが付与されたり、皆信じ込んだりしたんだろう」
 赤蛇は炎、青蛇は冷気という発想は、納得しやすいものだったのである。湊は話をまとめる。
「蛇骨婆は、強く対立するはずの二項――赤い蛇と青い蛇をその手に持って繋いでいる。これは、対立する二項を執り成し、結びつけてしまう特性を示しているように思う。赤と青――あの世とこの世――忿怒(ふんぬ)と冷酷――熱さと寒さ――敵と味方。あらゆる諍い、不和、対立を無効にし、中和してしまう特性だ」
「へぇ、ジャコ婆ってすごいんだ!」
 いや、ジャコ婆はすごくない。すごいのは蛇骨婆の方である。
「さて。お次は蛇骨婆という名前の謎を解明したいところだが、二人とも飽きてきてるので蛇骨婆の初出資料を考察して終わることとする。蛇骨婆の初出とされるのは、妖怪好きには有名な鳥山石燕(とりやま せきえん)の画図百鬼夜行(がずひゃっきやこう)。妖怪の絵、名前とともに簡単な解説文が付してある。妖怪オタク御用達の資料だな。オレのスマホで検索しておいたので、まず解説を読むぞ」
 湊はスマホに表示されている解説文を二人のために読み上げる。
「『もろこし巫咸国(ぶかんこく)は女丑(じょちゅう)の北にあり。右の手に青蛇をとり、左の手に赤蛇をとる人すめるとぞ。蛇骨婆は此の国の人か。或説(あるせつ)に云(いう)、蛇塚の蛇五右衛門(じゃごえもん)といへるものの妻なり。よりて蛇五婆(じゃごばあ)とよびしを、訛りて蛇骨婆といふと。未詳(みしょう)』」
 読み上げはしたが、古臭い言葉遣いであることもあって、二人ともちんぷんかんぷんのようである。
「もろこしぶかんこく?」
「中国のどっかの国ってことだな。そこに赤蛇青蛇を手に持つ一族がいるらしく、蛇骨婆はこの国の人ではないか?と書かれている」
「じゃあ、ジャコ婆は中国人だったんだ!」
「え? そ、そうアル。私中国人だたアルよ」
 急にエセ中国人になったな。
「蛇骨婆は此の国の人か』と推測の語尾だから、作者も蛇骨婆は巫咸(ぶかん)の人という可能性がある、と言っているだけだ。むしろ、次の蛇五右衛門(じゃごえもん)という人の妻だったという記述から、日本人という可能性もある」
「ねぇジャコ婆。蛇五右衛門ってどんな人なの?」
「え? そ、それはもう素敵でダンディな人で……」
 苦心してそれっぽい返しをしようとしているジャコ婆を見て、蛇骨婆のふりをするのも大変だなと湊は思った。
「まあこれも『或説に云』と書かれてる上に最後に『未詳』と付け加えられているのを考えるに、はなはだ怪しい説明なんだけどな」
「何もはっきりしたことがわからないじゃん!」
 茜が憤慨する。無理もない。解説文に書かれていることは、すべて推測に過ぎないのである。何ひとつとして明確なことが書かれていない。
「きっと、この資料の作者である石燕でさえ、なにもわからなかったんだ。でも、わからないものを決め付けで書かなかったところは高く評価できる。普通はそれっぽいことを適当にでっち上げて書いてしまう。『赤蛇は炎を吐いて、青蛇は冷気を吐く』なんてな。わからないものをわからないと正直に書くことは、とても勇気がいることなんだ。『わかりません』なんて書いたら、『わからないならちゃんと調べてから書け』とか『こんなあやふやな記述するんじゃない』とかみんなに怒られてしまうだろう。『未詳』と最後につけたところなんか、誠実過ぎるくらいだ」
 茜もジャコ婆も黙ってしまう。
 世間は、わからないことをわからないまま放置することを悪のように考えている。わからないことを恥と考えている。そういう風潮が、わからないのにわかったふりをしたり、わからないものに適当に決め付けてわかったことにしたりすることを助長している気がする。わからないものをわからないと胸を張って言えるような世の中になってほしいものである。
 湊は話を戻す。
「さて、石燕が書いた蛇骨婆の絵が――」
 湊はスマホを差出して二人に示す。
「――これだ」
 二人は差し出されたスマホをのぞき込む。
「――蛇、一匹しか持ってないじゃん!」
「――蛇、一匹しかいないですね」
 そう。石燕の絵では、蛇骨婆とされる老婆は、一匹しか蛇を持っていないのだ。湊はもう一度石燕の絵を見直す。
 野原のような場所で、黒い袈裟を着た老婆が一人直立して立っている。老婆はの顔は横を向いており、何かを睨みつけている様子である。老婆の体には三メートルはあろうかという一匹の大蛇が巻き付いており、その蛇は威嚇するかのようにちろちろと気焔を吹いて――
「それにこの蛇、炎を吐いてるじゃん! これ、舌じゃなくて炎だよね? 炎吐くんじゃん!」
 茜が鬼の首を取ったように騒ぐ。
「残念ながら、石燕の絵だと大概の妖怪が炎を吐いてるんだよ。炎を吐かないはずの妖怪も、炎を吐いている姿で描かれる。妖怪であることを示すために炎を吐いた姿で描いているんだろうな。それにたとえ炎を吐くとしても、青蛇が冷気を吐くとはどこにも書かれていない」
 茜が悔しそうにぐうと唸る。
「で、でも、蛇は一匹しかいないじゃん」
「そうだな」
「蛇を一匹しか持っていない蛇骨婆の絵を描くだなんて、石燕という人はどういう神経をしているのでしょう? 正気を疑いますよ」
「蛇を一匹も持ってないのに蛇骨婆を名乗ってる人にだけは、正気を疑われたくないだろうな……」
 湊はあまりにも自身を棚に上げた言葉に呆れた声を出す。ジャコ婆は蛇ではなく膝上の茜を抱いている。蛇骨婆にあるまじき姿である。
 茜がジャコ婆の膝の上に座ったまま、湊に質問する。
「なんで、一匹しか持ってないの?」
「わからん」
「は?」
「いや、ほんとになぜなのか全くわからない。解説文にちゃんと赤蛇青蛇を持つと書いてあるから、書き忘れるなんてありえないはずだけど。何か意味があるのか、何の意味もなくてただ構図上一匹が良かったとかなのか、いやはや全くわからない」
「ちょっと、しっかりしてよお兄ちゃん!」
「うるさい、わからないものはわからないんだ! 適当に誤魔化さず正直に言ったオレを誉めてくれ!」
 茜はギャーギャー騒いだが、わからないものはどうしようもないのであった。
「……つまりまとめると――蛇骨婆は、あの世とこの世を繋ぐシャーマンで、激しい感情を鎮め、対立する二項を執り成し仲直りさせる特徴を持つような気がするけど、結局はよくわからん! てこと?」
「その通りだ。よくまとめたな、さすがはオレの妹」
「よく、なーい!」
「そうですよ。説明責任を果たしてください」
「この世に蛇骨婆についてまともに説明できる奴なんざ一人もいねぇんだよ! 説明責任を果たすべきは蛇骨婆を名乗ってるお前だよ!」
「人間だって人間自身のことをほとんどわかっていないではないですか。だから、蛇骨婆が蛇骨婆自身のことをわかっていなくても何ら不自然ではないのですよ」
「ぐっ」
 悔しいが正論である。ジャコ婆に言いくるめられたようで、妙に癪だった。

「――ああ、もうこんな時間か。そろそろお昼にしようか」
 気づけばもう正午を回っている。今から料理の支度をしなければならない。そこへジャコ婆が名乗り出る。
「今こそ、禁じられている料理の腕を見せるときが来たようですね……。私が皆様の昼食をお作りしましょう」
 なぜ料理を禁じられてるんだ。不思議に思ったが、この機会を逃す手はない。家事代行サービスから派遣されてきたエージェントだ、もちろん料理は上手なのだろう。意図しない来訪であったにせよ、せっかく来てくれたのだから存分に活用させてもらおう。
「いつも持ち歩いている食材が、今日は持ってこれなかったため、本領が発揮できませんが善処しましょう」
「……念のため言っとくが、蛇骨婆が持ってる蛇は食用ではないからな?」
「私も手伝う! 若くしてお婆ちゃんの料理をマスターして、皆からロリババアって呼ばれるのが夢なんだ!」
「それ、意味が全く違うからな? 将来なりたいものに、間違ってもロリババアって書くなよ?」
「では湊さん、決して台所の中を覗かぬよう」
 鶴に戻って機(はた)でも織るんか……?
「えーと、『団子注文を通さず』だよ。お兄ちゃんは立ち入り禁止!」
「茶屋で無銭飲食するんか。正しくは『男子厨房に入らず』な」
 ジャコ婆と茜は連れ立ってキッチンに向かった。程なくして談笑する声と、包丁がまな板を叩く家庭的な音が響いてきた。どこか懐かしさを感じる、癒しの音色だった。
 ジャコ婆とはいえ腐っても家事代行のプロフェッショナルだ、料理の腕前には期待でき――
「あはは、ジャコ婆、それ漂白剤! 砂糖はこっちだよ」
 期待でき――
「もう、ジャコ婆。そんなことしたら台所が火の海になっちゃうよ」
 期待できねぇ! 何やってるんだあいつら!
 様子を窺おうにも、茜に立ち入りを禁じられているため、キッチンに入ることが出来ない。約束を破ったら何を言われるかわからない。
 湊は戦々恐々としながらリビングで待ち続けるしかなかった。死刑執行を待つ死刑囚のような気分だった。
 しばらくして料理が運ばれてきたが――予想通りというか、予想をはるかに上回ったというか――皿に乗っていたのは黒焦げの何かの塊であった。
「あはは、ジャコ婆が家庭の台所で出せる最高温度の限界に挑戦しようとしちゃったらしく……」
 料理してたんじゃないのか……?
「途中で鍋に穴が開いてしまい、上手く作れませんでした。 鍋が思ったより軟弱だったせいですみません」
 鍋に穴を開ける時点でまともな料理じゃねぇ。
「料理は火力が命というのをどこかで聞いたような気がしまして」
「火力さえあれば料理が美味しくなるわけじゃねぇからな……?」
「少しでも見た目を良くしようと漂白剤を混ぜることを提案したのですが、茜ちゃんに止められて……」
「見た目よりも味にこだわれよ……そして茜グッジョブ」
「さすがに命に関わるものをいれるのは全力で阻止したよ」
「代わりに歯磨き粉を入れたのですが、あまり白くならず……」
「おい茜ぇ! ちゃんと仕事しろ! 止められるのはお前しかいなかったんだぞ!」
「歯磨き粉は食べても問題ないので私基準ではセーフ」
「基準がゆるすぎる!」
「あの、これどういたしましょう……? やっぱり作り直しですよね……」
 ジャコ婆の申し訳なさそうな発言を受け、茜が何かを期待するかのように湊をじっと見つめた。
「ん、どうした茜」
「さあ、湊お兄ちゃん……実食!」
「いや食わねぇよ! 食わず嫌い以前の問題だ」
 湊の返答に、茜は信じられないといった表情をした。
「蒸し風呂のようになったキッチンで、こまめに水分補給をしながらもジャコ婆が必死で作ってくれた料理が食べられないというの!?」
「蒸し風呂のようになったのはジャコ婆が火力チャレンジしたからだろ! 自業自得じゃねぇか!」
「私、食べるよ。ジャコ婆がせっかく作ってくれたんだもん」
「無理はしない方がいいぞ」
 湊が忠告するが、茜の決心は固かった。スプーンを持ってきて、黒い塊をひとかけら掬う。
「スプーン一杯だけなら致死量未満だから摂取しても命に別状はない筈……行きます!」
 致死量うんぬん言っている時点でまともな料理ではない。ビビっている湊を尻目に、茜は覚悟を決めて口に運ぶ。
「お、おい、大丈夫か? 命の危険を感じたらすぐに吐き出すんだぞ」
 しかし茜は反応しない。スプーンを口に入れたまま固まっている。
「おい茜――っ!」
 こ、こいつ……座ったまま気絶してやがる……!
「茜、お前は真のチャレンジャーだぜ……おまえのことは生涯忘れねぇ」
 湊は茜の雄姿――白目を剥いて放心する姿を心に刻み込んだ。
「あの、茜ちゃん死んでませんよね……?」
 心配そうな声を出すジャコ婆に、湊はあっけらかんと答える。
「ああ、ほっといても数分後には元気に起きるだろうぜ。さすがの茜も健康を害するもんを敢えて口にするわけないからな」
 騒がしくなくなったので返って良かったともいえる。
「それにしても、お婆ちゃんなのにドン引きするほど料理が下手ってどういうことだ……料理が禁じられてた理由が今まさにわかったよ」
「歳を取ったからといって何でも上手にできるようになると考えるのは大間違いです。老齢になれば自動的に料理が上手になるわけではないのですよ」
 確かにそうなのかもしれない。歳をとったから、大人になったからといって万事上手くいくなんてことはあり得ない。何もしなければ何も変わらないのは当たり前である。
「……まあ蛇を操るシャーマンなら、料理が苦手でもおかしくない、か」
「? どういうことでしょうか?」
 湊の呟きに、ジャコ婆が反応する。
「ああ、『苦手』という言葉の語源に纏わる話だ。『苦手』というのは、今でこそ不得意なことや接しにくい人を表す言葉なんだけど。一説には、料理下手のことだけを指していた可能性があるのさ」
「料理下手を指していた『苦手』という単語が、様々な不得意なことを指す単語として対象が敷衍(ふえん)したということですね。でも、そもそもなんで料理下手のことを苦手と呼んだのでしょう?」
「言葉のまんまだよ。苦手の人は手が苦いからさ。苦手の人の手を舐めると苦い味がする。だから『苦手』だ。わはは」
「は?」
 自分の発言でおかしそうに笑う湊とは対照的に、ジャコ婆はぽかんとした表情をしている。湊は笑いを収めて、補足説明をしてやる。
「なんでも『苦手』の人は、手からある種の毒液――というか薬液が滲出しているらしい。だから舐めると手が苦いし、そんな手で料理したら料理に苦い味が移って不味くなってしまう、と考えられた」
「だから、料理下手のことを苦手と言うわけですか」
「苦手か苦手じゃないかは、蛇を捕まえられるか否かで分別できた。苦手の人は、手から染み出す毒液で蛇を弱らせて大人しくさせるから、蛇を簡単に捕まえることが出来たらしい。また、毒液で腹の中の悪い虫をやっつけるものと考えたのだろうな。腹痛で苦しんでいるときに、苦手の人にお腹をさすってもらうと不思議と痛みが和らいだらしい」
「なるほど。手から毒を出すという特殊な性質を持つ方がいらっしゃるのですね」
 ジャコ婆が話を上手にまとめるが、湊は簡単に否定した。
「んにゃ、そんなびっくり人間はいないって」
「え? じゃあ、今までの話は全てでたらめなんですか?」
 今まで聞いた話が全て無駄になってしまったと思ったらしく、ジャコ婆が抗議の声を上げた。湊はひらひらと手を振って弁解した。
「オレが今この場で考えたホラ話ってわけじゃない。大昔の人が考えたホラ話だな。そして結構な信憑性をもって語られた話のはずだ」
 ジャコ婆が首をかしげる。理解が難しいようである。湊はさらに説明を続ける。
「苦手という言葉をさらにさかのぼっていくと――蛇手(ニギテ)、つまり蛇の使い手のことを指していた、とオレは考えている。蛇手(ニギテ)が訛ってニガテになったんだ」
「ニギテ?」
「いわゆる卑弥呼に代表される蛇の使い手さ。蛇を自在に操る霊威を示し、宗教的威光を放った者たちさ。彼らは手でさするだけで病気を治す奇跡を起こしただろうし、またそんな超越者たちに料理なんていう些細な家事をさせなかった。大衆を導く使命を持つ彼等に、料理なんてやらせてる暇などなかったのさ。蛇手――ニガテと呼ばれる超越者たちは、その能力を振るって大衆を導いた。彼らは蛇を自在に操り、病気をたちどころに治し、料理などしなかった」
 古代の政治に関わる壮大な話になり、ジャコ婆は懸命に理解しようと努力しているようだった。
「しかし、時代は下り、蛇使いたちの権力が薄れて来る。また、ニガテという言葉の意味が解らなくなる。蛇を自在に操り、病気を治し、料理をしない、ニガテと呼ばれる人がいた。が、なぜニガテと呼ばれているかわからない。なぜ蛇を自在に操れるのかわからない。なぜさするだけで病気を治せるのか、なぜ料理をしないのかもわからない。昔の人たちは、全く何もわからなくなってしまったんだ。すべて忘れられてしまった」
「わ――忘れられてしまうものなのですか?」
「忘れられたんだろうな。似た例を挙げると、草薙剣(くさなぎのつるぎ)――別名天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と呼ぶ、八岐大蛇(やまたのおろち)の尻尾から出て来たとされる神剣のことは聞いたことがあるだろう。一説には、本来は臭蛇(クサナギ)の剣――つまり蛇の剣という意味だったが、長い歴史の中でその意味が忘れられてしまい、クサナギという音だけが残った。なぜ神剣をクサナギの剣と呼ぶのかわからなくなった。だから昔の人は何とか意味をこじつけて、草薙(くさなぎ)――草を薙いだ剣、と理解したんだ。ご丁寧に草を薙ぐエピソードまで添えて、な」
「草を薙ぐエピソードって……記紀神話に描かれてる話じゃないですか! そんな昔に、意味が失われていたんですか?」
「だろうな。ナギもニギもニガも、もともとは蛇を指す言葉だったはずだ。途中で忘れられてわかんなくなって、意味をこじつけたんだ」
「こじつけて――訳がわからないものを、わかったふりをした……わかったつもりになった、ということですか」
「ああ。昔の人は、とっても怖かったのさ。なぜかニガテと呼ばれている、蛇を操る異能を持つ者たちのことが。だって、どうやって蛇を操っているのかわからないんだから。自分たちにはない特殊な力を行使して蛇を操っているのだとしたら、その訳が分からない力がいつ自分たちに向けられるか、気が気じゃなかったのだろうさ」
 理解できないものは怖い。かつて蛇使いたちは政治を支配してきたのだ。権力を握ってきたのだ。いつまた復権するかわからない。理解不能な不思議な能力(ちから)で、今の政権を転覆させるかもしれない。
「だからこそ昔の人々は、一見合理的に思える答えを導きだしたのさ。ニガテは、手から毒液を出す。手が苦いからニガテと呼ばれる。毒液で蛇を弱らせ大人しくさせるから、蛇を自由に操れる。毒液で腹の中の悪い虫を弱らせるから腹痛も治す。毒で料理を不味くするから料理もできない。何も不思議はない、だから畏れることはない――ってな」
「自分たちに理解出来るレベルまでニガテたちを引き摺り下ろしたってことですか」
「そうだな。神秘のベールが剥奪されたニガテたちは、途端に厄介ものさ。料理すらすることが出来ない役立たずだ。蛇を操る異能を持った者たちは零落し――」
 ――蛇骨婆のような妖怪になった?
 いや、それは飛躍しすぎだ。湊は自身の発言の途中で浮かんだ突飛な発想を打ち消した。
 ジャコ婆は必死で湊の発言を咀嚼し、ゆっくりと発言する。
「うーん、ニガテたちの特性を手から毒液が出ているから、と検証も検討もせずに無理やり決め付けていたんですか? もっと慎重に見定める必要があったのではないでしょうか」
「きっと、合ってるか間違ってるかなんてほとんどの人が気にしてないんだろうよ。ただわからないのが怖いだけさ。こじつけることが出来て、一見して正しそうだったら、ろくに検討せずに受け入れるのさ。例えば、こっくりさんが日本で流行った時も、世のインテリたちはみなエレキ――電気の力で動くのだ、と決めつけていたらしい。実際は違うんだけどな。まあこのケースは電気の概念とこっくりさんが同時期に日本に伝わって来たから、結びつくのも仕方ない気もするが。あとはカマイタチとかか。真空によって皮膚が裂けるなんて仮説が、なぜか真実と信じられて語られていたりする。みんな、理由がわからないまま放っておくことは出来ないんだよ。わからないものは怖いから。だから、一見正しそうな、正しくない答えにも飛びついて、必死で正しいと思い込もうとする。そう思い込んで安心するんだ」
「なるほど……。それより、湊さん」
「ん? どうした」
「茜ちゃんを起こさなくて大丈夫でしょうか? もうかれこれ五分は経っていますが」
「ああ、すっかり忘れてた」
「茜ちゃんのこと生涯忘れないと誓ったばかりだと思いますが……」
 ジャコ婆のツッコミを無視して、座ったまま白目を剥いている茜を揺り動かす。
「おい茜、そろそろ起きろ。白目剥いた妹の前で長講釈するのも飽きた」
「――はっ! あまりの味でトリップしてた!」
「お、目覚めたか茜」
 復活した茜は、ジャコ婆と料理と呼べない皿の上に乗った何かを交互に見比べながら、震え声を出す。
「じゃじゃジャコ婆! こ、こここれ――っ!」
 さすがに文句の一言も言いたくなるだろう。これは勇気をもって試食した者のみに与えられる特権である。
「――おおおオバアチャンだー!!」
「は?」
 湊はキョトンとする。そんな湊を放置して茜は興奮した様子で続ける。
「この命に関わるような強烈なえぐみ! 悪魔の食べ物のごとき舌ざわり! こんな料理を作れるのは、オバアチャンしかいない! オバアチャーン!!」
 料理で脳が麻痺しとるんか。訳がわからないことを叫ぶ茜に湊は困惑する。
「あらあら、こんなに感激してもらえて、私も作った甲斐がありましたよ。また別のお料理をおつくりしましょうか」
「んーん、これ以上はさすがに命の保証が出来なさそうだからやめとくー」
 そこは冷静なんだ……。湊は茜の頭の中が全く理解できなかった。


 激マズ料理を食したことで、茜のジャコ婆への信頼がなぜか爆上げされたらしい。ことあるごとに家事に対するアドバイスを求めた。
「ジャコ婆! 服に着いたシミが落ちないの!」
「あらあら、そういう時にはいい方法があります」
 ほう、お婆ちゃんの知恵袋的な、上手で手軽な方法が……。
「シミが落ちるまでひたすら手で洗い続けるのですよ」
「力業じゃねーか!」
「さっすがジャコ婆! 試してみるね」
 湊のツッコミを無視して、茜はジャコ婆の言葉を盲信する。
「もっとこう、道具をうまく使うとかさぁ……」
 湊が苦言を呈していると、茜が次のお題を持って来る。
「ジャコ婆! 瓶の蓋が開かないの!」
「あらあら、そういう時はダンベルを使うのですよ」
「……先が読めるが、一応使い方を聞こうか」
「ダンベルで日ごろから筋肉を鍛えていれば、瓶の蓋など軽々と開けられるようになりますから」
「案の定力業じゃねーか! ここに来る途中に知恵袋を川に放り投げてきたんか!?」
「この筋肉に対する異常なまでの信仰! 間違いなくオバアチャンだー!!」
「お前のお婆ちゃん概念、狂い切ってるぞ!」
 その後も度重なるジャコ婆のポンコツぶりに溜まらなくなり――ついに湊は戦力外通告を出した。
「ジャコ婆……もう帰ってくれないか」
「――えぇ!?」
 心底驚いた様子のジャコ婆と茜。
「いやいや全然驚くような提案じゃあないだろう。何ひとつとして役立ってないどころか、返って邪魔になってるじゃないか」
「ジャコ婆はそこにいてくれるだけでいいんだよ! 十分役に立ってるんだ! マスコットと同じだよ」
 こんな年を取ったマスコットがいるか。
「そうですよ、それにまだ一つだけやらねばならないことが残っているのです、それをするまでまだ帰るわけにはまいりません」
「もう勘弁してくれ……まだ一騒動起こすつもりかよ……」
 湊の決意は固かった。もうジャコ婆には何もさせずに、丁重にお帰り願うのだ。せっかくの貴重な休みが、ジャコ婆のせいで台無しになってしまっているのである。少しでも益があるならまだしも、害ばかりなのである、これ以上貴重な休息時間をつぶされたくはなかった。
「こんな、蛇骨婆ならぬポンコツ婆さんを家に置いておいたら、家中ボロボロになっちまうだろう。これ以上かき乱されちゃ叶わないよ」
 湊の辛辣な声に、さすがのジャコ婆も応えたようだった。しゅんとうなだれている。俯いたまま小刻みに震える様子は、何かを必死でこらえているかのようだった。
 しおらしい様子のジャコ婆とはうって変わって、茜は激しく反発した。
「お兄ちゃんの――お兄ちゃんの分からず屋! 人の心がわからない冷血人間! 令和の世が生み出した冷酷非道なモンスター!!」
 我が妹ながら悪口のセンスが際立ってるな。茜はそう言い捨てて、自室――ではなくなぜかトイレに駆け込んだ。湊は妹の行動原理が理解できず、案じ声をかける。
「おい、どうした? さっき食べた料理が今更になって効いて来たのか?」
「違うもん! 我が家で一つだけのトイレを封鎖してるんだ。 お兄ちゃんなんか、トイレがつかえなくなって困り果てればいいんだ。お兄ちゃんが泣いて縋っても、ここを開けてやらないから」 
 あまりにも幼稚なダダのこね方だった。あまりに情けなくって、怒る気力も出なかった。湊はほとほと疲れ切り、ため息をつきながらリビングに戻る。
「あの」
 辛そうな表情のジャコ婆が、戻ってきた湊に声をかける。湊は疲れた様子を隠さないまま答える。
「茜はトイレに立て籠もってるよ。分からず屋なオレに対する嫌がらせをしているようだ。数時間もすれば飽きて出て来るから気にするな」
 こんなに疲れを感じたのは久しぶりである。茜だけならまだしも、茜をさらに凌駕する厄介者が来訪したことにより、湊の心労はピークに達していた。さっさと片づけて平穏な日常に戻りたかった。
「ジャコ婆は今のうちにさっさと帰ってくれ。これ以上居座る気なら、警察沙汰にすることも考えるぞ」
 湊はジャコ婆に意識的に冷淡な言葉を選んで投げかけた。この老婆を一秒でも早く目の前から消してしまって、安寧を取り戻したかった。
「ですが、まだやるべきことが残っていて……」
 ジャコ婆はためらいがちにおずおずと述べる。こんなにきつい口調で退去を命じているのに、まだ諦めないらしい。湊はうんざりしながらもジャコ婆を促す。
「ああ、そう言ってたな。何だそのやるべきことって。さっさとやってしまってさっさと帰れ」
「それが……たった今封鎖されてしまって、実行できなくなりました」
「は?」
 予想外の返事に、湊の声は裏返った。
 ジャコ婆は、俯いて震えている。その様子は、何かを必死でこらえているようで……。
 ――やるべきことって、そういう意味かよ。
 そういえば、家に来てからたらふく水分を取ってたな。……こんなアホみたいな伏線回収があるか。
「おい、何でもっと早くトイレを借りとかなかったんだ」
「『家事も一人前に出来ないのに、トイレだけは一人前に借りるのか』と罵られそうで……」
 卑屈過ぎるだろ。
 だが、文句を言うのは後回しだ。現実に危機は間近に迫っている。ジャコ婆の様子を見るに、もう何分と持たないのは間違いない。またこいつは最後にとんでもない厄介ごとをもたらしやがったのだ。
 湊は慌ててトイレに引き返し、ドアを滅茶苦茶に叩きつつ中にいる茜に呼びかけた。
「おい茜! 早くここを開けろ! 緊急事態だ! 非常事態宣言発令だ!!」
「あはは、もう降参したの?」
 サディスティックな笑い声が扉の向こうから聞こえて来る。湊は扉の向こうへ向けて焦り声を投げかける。
「違う、ジャコ婆がやばい! オーバーシュート目前だ!!」
「ジャコ婆をダシに使うなんて、人として恥ずかしくないの? ジャコ婆がやばいって言うなら、ジャコ婆自身から聞かせてよ」
 茜は全く信じていないようだ。湊がピンチになっていると思い込んでいるようだ。このままではらちが明かない。
「おいジャコ婆、茜に言ってやれ!」
 湊はジャコ婆に振り返って頼むが、ジャコ婆は蚊の鳴くような声を絞り出すだけだった。
「すみません、大声出すと出ちゃいます……」
 ちくしょう!
「ほら、ジャコ婆も湊お兄ちゃんの情けない姿に呆れてものが言えないんだ。ああ、この目でその様子が見れないのが残念だなあ」
 情けない姿をしているのはジャコ婆だけどな!
 ジャコ婆は産まれたての小鹿よりおぼつかない足取りで、リビングの入り口までは懸命に歩いてきて、事の次第を伺っている。扉の解放直後に駆け込める位置に陣取っているらしい。
 さあ、どうする。唯一のトイレは封鎖されてしまっている。ジャコ婆は役に立たない。近所にトイレを借りに行くとしても、その途中でジャコ婆が限界を迎えてしまうことは間違いない。
 つまり。
 茜を説き伏せて封鎖を解いてもらうしかない、ということだ。
 湊は怒鳴りつけたい気持ちを必死で抑える。功を焦って茜の機嫌を損ねたらおしまいだ。湊は一度深呼吸した後、努めて丁寧に茜に話しかける。
「……茜。何をそんなにむきになっているんだ? ジャコ婆が役に立ってないのは、お前もわかってるだろ?」
 妹は別段頭が悪いわけではない。むしろ人並み以上に優れている方なのである。こんな幼稚な腹の立て方をするのはらしくない。
「お兄ちゃんは何にもわかってない。ジャコ婆は『おばあちゃん』なんだよ。ただ居てくれるだけでいいのに。お祖母ちゃんとまた一緒に過ごせて、私は大満足なのに。なんで帰すなんて考えるの? 」
 湊は察する。茜はジャコ婆を、去年亡くなったお祖母ちゃんと同一視してしまっている。茜は、亡くなったお祖母ちゃんと再会したい一心で、赤の他人であるジャコ婆をお祖母ちゃんと思い込んでしまっているのだ。
 湊は諭すようにゆっくりと話しかける。
「あのな、茜。お祖母ちゃんはもう死んでしまっているんだ。もういないんだよ。もう、二度と会えないんだ。ジャコ婆にお祖母ちゃんの代わりをさせてないで、事実をしっかり受け止めて――」
「そんなこと……そんなこと私だってわかってるよ! でも――そんな簡単に割り切れないよ! もっとお祖母ちゃんと遊びたかった! 一緒に過ごしたかった! もっとお手伝いしてあげたかったし、大人になった私を見せてあげたかった!!」
 茜の言葉に涙が混じりだす。とても熱くて、下手に触れると火傷してしまいそうだった。茜は感情のままに、熱い涙の言葉を振るった。
「そう思うことの何がいけないの! ジャコ婆を通じてお祖母ちゃんを感じることの何がいけないの!!」
「茜!」
 湊は大声を出して茜の言葉を止める。これ以上茜の言葉を聞いていたら、湊の心の中の何かが溶けだしてしまいそうだった。
「……茜。いつまで過去を引き摺ってるつもりなんだよ。そろそろちゃんと前を見ろよ」
 湊は茜を黙らせるため、ひときわ冷淡な言葉を選んで投げかける。
「お祖母ちゃんが死んでからもうずいぶん経つだろう。さっさと割り切ったらどうだ」
 茜はしゃくりあげながら、懸命に言葉を返す。
「……む、無理だよ。私には、割り切るなんてできない。心があるんだから」
「それでも――それでも、割り切るんだよ。そうしなきゃいけないんだ」
 湊は自分に言い聞かせるように言葉を絞り出す。茜は涙声で湊を責める。
「な、なんでお兄ちゃんはそう簡単に割り切れるの? お兄ちゃんには人の心がないの? だから、私の気持ちなんかわからないんだ!」
「……わかるさ」
 湊は観念したようにつぶやく。
「え……?」
 茜が湊の言葉に驚きの声を上げる。茜のまっすぐで熱い思いは、湊の冷え固めた心を見事に融解させてしまった。凍りつかせた思いが溶け出して――堰を切ったようにあふれ出す。
「オレだって……本当はお祖母ちゃんにもう一度会いたいよ。もっと何かしてあげたかったよ。でも、もうどうにもならなくて、でもどうにかしたくて、自分でもどうしていいかわからないんだ」
 一度あふれ出した思いは制御がきかなかった。気持ちの整理がつかないままに口から出るままに言葉を紡ぐ。
「でも、わからないままじゃ、大人は立ち行かないんだ。生活に戻らなくちゃいけない。会社に出社しなければいけない。家族を――妹を守らなくちゃならない。頭の中が整理できていなくっても、整理できてるふりをして、日常に戻らなくちゃいけないんだ。だから、オレはごちゃごちゃになってる気持ちを冷やして固めて、わかったようなふりをしたんだ。そうやって前に進んできたんだ」
 冷やし固めた思いに触れたら――日常が破綻する。だから、冷やしたままにしておいたんだ。そうしておきたかったんだ。
 だがもう――遅い。茜の熱に触れ、溶けだしてしまった。
「お祖母ちゃんがいなくなって寂しいのは、私だけじゃなかったんだ……。お兄ちゃんもそう思ってたんだ。お兄ちゃんも、苦しんでたんだ」
 茜の心が熱がゆっくりと冷めて行くのを感じた。熱を帯びた心と冷やし固めた心が触れ合って、互いに温度を交換し平常に向かっていく。

「……お兄ちゃん。きっと、無理して自分の気持ちをわかったふりしなくていいんだよ。わからないままでいいんだよ。今みたいに日常がお休みの期間に、そっと思い出して、溢れる思いを口にして。そうして少しずつ乗り越えて行ければいいんだ。きっと、このお休みはそのための期間なんだよ」
 そうだ。お盆は、祖霊――亡くなった祖先たちと向き合う期間なのだ。年に一度のこの期間のうちに、しっかりと故人を思い返して、気持ちの整理をつけてから、また日常に戻っていく。きっと日本人は、大昔からそのサイクルを進めてきたに違いない。そうやって近しい人の死をどうにか乗り越えて、気持ちの整理をつけて来たに違いない。
 だというのに湊は、祖母との思い出と向き合うことを恐れ。気持ちを整理することもなく放り捨てて見ないふりをして、せっかくのお盆をやり過ごそうとしていたのだ。
 茜はしっかりと祖母と向き合って、乗り越えようと努力していたというのに。湊は自分の弱さを恥じ、茜に苦痛を強いたことを悔いた。
「……茜。オレが悪かった。オレは、祖母と――自分の中の祖母に対する気持ちと向き合うことが怖くて、逃げてたんだ。そして、そんな恐怖と正面から向き合う茜が眩しくて――必死で邪魔しようとしてしまっていたんだ」
「私の方こそ、お兄ちゃんにひどいこと言っちゃった。お兄ちゃんも苦しんでたのに、それに気づいてあげられなかった。ごめんなさい」
 随分久しぶりに、妹と――そして自分の気持ちと、真正面から向き合った気がする。今まで張り詰めていた気が緩み、湊は壁にもたれかかりながら座り込んだ。ジャコ婆がさっきと変わらずリビングの入り口あたりに立っているのが見えた。
「……今ドア開けるね。困らせてごめんなさい」
 気持ちを落ち着かせた茜が、ゆっくりと言う。
「……ああ、別に急いで開ける必要はないよ。もう――間に合わなかったから」
 粗相をしたジャコ婆が、恥ずかしさと快感の入り混じった複雑な表情で、フローリング床に広がりゆく水たまりの中央に立ち尽くしていた。

「ジャコ婆、本っ当にごめんなさい!」
「いいんですよ、茜ちゃん。私は生まれてこの方、毎年数回は粗相をしていますので」
 粗相しすぎだろ。茜をかばう方便かと思ったが、ジャコ婆ならありえない話ではないと思えてしまう。
 三人は手に手に雑巾を持ち、協力して汚れた床を掃除していた。
 ジャコ婆には母の洋服を貸してあげて、着替えてもらっている。洋服を着るともう全く妖怪には見えない。いや、和装でも妖怪には見えなかったが。
「尿汚れはアルカリ性ですから、弱酸性の洗剤を使うと中和されて臭いも残らないんですよ」
 床掃除しながらジャコ婆がうんちくを垂れる。
「やっとジャコ婆からまともな知恵袋が出て来たな……」
「色落ちが気になる大事な衣類の場合は、速やかにクリーニング屋に持って行って相談しましょうね」
「……」
「クリーニング屋の人に相談しにくいときは、ペットの仕業としておけば向こうも察してくれますよ」
「このトピックに関しては知恵がとめどなく溢れて来るじゃねーか! 役に立つ機会がほぼ無いし、来てほしくもないわ! それに結局クリーニング屋に察されてんじゃねーか!」
「湯水――いえ、小水のごとくですね」
 なんで失禁したのにこんな心が強いの? メンタルがタングステン鋼で出来てるの?

「湊さん、茜ちゃん。名残惜しいのですけども、私はもう帰らなければなりません。ここにいることは出来ないのです」
 掃除が済んだ後。ジャコ婆は二人にお別れを切り出した。案の定、茜は別れを惜しみ、必死で引き留めようとした。
「ジャコ婆、本当に帰っちゃうの? 私、もっとジャコ婆と一緒に居たいよ」
「……茜ちゃん。茜ちゃんには素敵なお兄ちゃんがいるんですから。ちょっと不器用で感情表現が下手ですけども、茜ちゃんのことをいつも一番に考えてくれていますよ。お兄ちゃんは、茜ちゃんを寂しがらせたりしませんよ」
 茜はなおも名残惜しい様子だったが、迷いを振り切るようにかぶりを振って言う。
「わかったよ、ジャコ婆。私、ジャコ婆のいない世界でも元気でやっていくよ! ジャコ婆は草葉の陰から見守ってて」
「勝手にジャコ婆を殺すなよ……」
 冷ややかなツッコミを入れる湊に、茜は食ってかかる。
「お兄ちゃんも何か言ってよ! これが最後なんだよ」
「えぇ、オレも言うのか?」
 茜の提案に、湊は当惑する。こういうあいさつは不得手なのである。しかし、茜もジャコ婆も湊の発言を期待して待っている。何も言わない訳にはいかなかった。湊はしどろもどろになりながら言葉を発する。
「え、えーと。え、宴もたけなわではございますが、ジャコ婆の今後益々のご活躍を願いまして、一本締めで締めさせていただき……」
「それ、送別会のあいさつだよ! しっかりしてよお兄ちゃん!」
「ふふふ、湊さん本当に不器用ですね。でも、思ってることはちゃんと伝わっていますよ」
 湊はきまりが悪そうな顔をしながら、茜と一緒にジャコ婆を玄関まで見送る。
「ジャコ婆!」
 まさに扉を開けようとするときに、湊がジャコ婆に声をかける。ちゃんと言わなければならないと思ったからだった。稚拙でも要領を得なくても、自分の言葉で伝えなければならないと。
 湊は照れ隠しに頬をかき、目をそらしながら言う。
「あの……一応、礼を言っておく。ジャコ婆が来てくれてなかったら、いつまでも妹と……そして自分の気持ちとちゃんと向き合えなかった。やっと胸のつかえがとれたというか、気分がすっきりしたというか」
「一番すっきりしたのは私ですけどね」
「……いや、あのオレ必死で感謝の言葉を述べてるわけで」
 ジャコ婆は愉快そうに笑う。
「湊さんが何か得るものがあったのなら幸いです。粗相をした甲斐がありましたよ」
「体張りすぎだろ……」
 このお婆ちゃんには敵わないな、と湊は感じた。
「ああ、もうここ出なくてはクリーニングに間に合わない。服は後日必ず返しますので、失礼させていただきます」
「ジャコ婆! また……また会えるよね?!」
「ええ、必ずまた会えますよ。ジャコ婆は嘘をつきませんからね」
 そう言い残して、ジャコ婆は去っていった。『いや、初っ端から蛇骨婆を騙ってたよね?』と内心思ったが、湊は口にしなかった。野暮なツッコミである。

「いや本当に、嵐のようだったな」
 湊はジャコ婆を見送った後、茜に話しかける。
「うん。でも――楽しかったよね? 来てくれて良かったよね?」
「は? ……いや、わからん」
「ふふふ、そう」
 茜は何かを察したように笑う。湊としてはきまりが悪い。
「でも、ジャコ婆は本当に『おばあちゃん』だったよね。ジャコ婆の料理を食べたときにびびっと来たんだ」
「は? どういう意味だそれ」
「わかってなかったの? 私、何度も言ったよね? 『本当にお祖母ちゃんだ』って」
 湊は茜の発言に混乱する。
「い、いやでもそんなわけは……見た目も違うし」
「わかってるよ。お祖母ちゃんはもういない。見た目も性格も、ジャコ婆とお祖母ちゃんじゃ全然違う。でも、ジャコ婆は本当にお祖母ちゃんだったんだよ」
 お盆には、祖霊――死んだ先祖の霊たちが、姿を変えて子孫の元に訪れるという。だからこそ、お盆に家に来るものたちは、たとえ虫であっても歓待しなければいけないとされている。お盆に家に来るものはみな、祖霊であるという信仰があるのだ。
 茜は、その信仰を直感的に理解しているのかもしれない。だから、お盆の来訪者たるジャコ婆に、祖母の魂のようなものを感じたのかもしれない。
 いや、もしかすると――ジャコ婆は、あの世の霊をこの世に呼び戻すイタコのようなシャーマンだったのかもしれない。ジャコ婆は、祖母の魂を身に宿して来訪し、湊達と接してくれたのかもしれない。
 シャーマンだの魂だの、非科学的な妄想に過ぎないと言ってしまえばそれまでではある。その通り、魂だの霊だのというものは科学の領分から外れている。逆に言うと、科学の領分ではないのだから科学的見地からどうこう言うことは出来ないということである。非科学的だから迷信である、信じるに値しない、そんな暴言は通用しないのである。科学ではわからないのだから、わからないと素直に言うしかないのだ。
 湊は、ジャコ婆のことを何もわかっていないのに、自分勝手にそうだと決め込んでしまっていた。ジャコ婆が、彼女代行サービスならぬお婆ちゃん妖怪代行サービスの派遣員であると信じて疑わず、普通の人間だと決めつけていた。確証はどこにもないにもかかわらず、だ。それがどんなに愚かなことなのか、知っていたというのに。
 湊は、ニガテ――蛇の使い手たちを、苦手――手が苦い者たちだと決めつけて見下した愚か者どもと同類であった。自分にとって理解出来る範囲でしか物事を受け入れず、理解できないものは排除するか見ないふりをする。そんなつまらない行為を自分自身で無意識にとってしまっていたのだ。
 わからないものは、わからないまま放っておけばいい。無理に理解しようとしなくていい。わかってないのにわかったふりをしなくてもいいのだ。蛇骨婆もジャコ婆も、その正体は『未詳』としておけばいい。
 ジャコ婆は、ただの家事代行サービスの派遣員だったかもしれない。はたまたお盆の時期に姿を変えて戻ってきたお祖母ちゃんだったのかもしれない。はたまた死霊を身に宿してこの世に呼び戻すイタコのようなシャーマンだったのかもしれない。はたまた――本当に、妖怪蛇骨婆だったのかもしれない。
 答えは出ない。一つに決めることは出来ないし、そんなことをしても何の意味も価値もない。それでいいのだ。あらゆる可能性を内包する。蛇骨婆という妖怪は――そういった存在なのだ。
「ああ――そうかもしれないな、茜」
 蛇骨婆――あの世とこの世を繋ぐシャーマン。仲違いする二項を執り成して融和させるもの。ジャコ婆はそういった存在かもしれない。そうではないのかもしれない。どっちだってかまわないのだ。現に、茜はジャコ婆に死んだ祖母を見出し――仲違いした兄妹を見事仲直りさせてしまった。事実はそれだけ――たったそれだけだ。その事実をどう受け取るかは、受け取り手次第なのだ。
「うん。きっとそうだよね」
 茜は元気よく答え、気丈な笑顔を見せた。
 後日、湊の銀行口座から家事代行サービスの一日分に相当する金額が差し引かれていることに気づいたが――妖怪のしわざ、ということにしておいた。


 そして、一週間後――
「ジャコ婆ぁ~」
 妹はすっかりお婆ちゃんロスになっていた。日がなソファに寝そべって、悲し気な声を出すのである。これはこれで邪魔くさいことこの上ない。
「おい茜、そろそろ夏休みも終わりだろ。準備しなくていいのか?」 
「何も手につかないー」
「そんなんじゃお祖母ちゃんにもジャコ婆にも笑われるぞ。ほら、シャキッとして――」
 そこで茜のスマホからチーンと軽い音がして、湊の発言が遮られる。直後、インターホンが鳴った。
 湊はアッと思ったが、もう遅かった。
 茜は消沈していたのが嘘のように、俊敏に飛び起きて玄関に向かい、勢いよく扉を開ける。
「ジャコ婆!」
 そこには、あのジャコ婆が立っていた。
「はいはい、ジャコ婆ですよ。今日はさすがに道に迷わずに時間通りに来れたよ。茜ちゃん、元気にしてたかい?」
「はい、とっても!」
「嘘つけぇ! そしてジャコ婆、いい感じに別れたんだからもう来るなよ! もうお盆は過ぎてんだよ!」
「とはいえ、呼ばれたのですから来ない訳にも……早めの旧暦のお盆ということでここはひとつ……」
「八月盆が旧暦のお盆なんだよバーカ!」
 エキサイトしている湊は差し置いて、茜とジャコ婆は再会を噛みしめ合っていた。
「ジャコ婆、またよろしくね!」
「はいはい、こちらこそよろしくお願いしますね、茜ちゃん」
 またあの騒々しい一日になるかと思うと、湊は辟易すると同時に、少し嬉しく思っている自分もいた。どちらが本音なのか――湊は答えを無理に出さないことにした。自分の気持ちも、『未詳』のままにしておけばいいのだ。
マナ

2020年08月08日 23時55分23秒 公開
■この作品の著作権は マナ さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:タイトル詐欺上等、出オチ上等。
◆作者コメント:
企画開催ありがとうございます。
比較的まともな作品が多いようなので、ここでひとつ狂気度が高めのやつを投下しますね。
皆さん、投稿をためらってはいけませんよ?

2020年08月23日 23時49分55秒
作者レス
2020年08月22日 22時20分07秒
0点
Re: 2020年08月25日 21時15分00秒
2020年08月20日 19時07分39秒
+30点
Re: 2020年08月25日 20時57分39秒
2020年08月19日 19時35分37秒
+10点
Re: 2020年08月25日 20時50分39秒
2020年08月16日 18時30分23秒
+20点
Re: 2020年08月25日 00時03分35秒
2020年08月15日 00時09分08秒
Re: 2020年08月24日 23時33分36秒
2020年08月12日 06時10分25秒
+20点
Re: 2020年08月24日 23時18分08秒
2020年08月11日 16時54分36秒
+10点
Re: 2020年08月24日 00時35分07秒
2020年08月11日 13時15分57秒
+10点
Re: 2020年08月24日 00時17分19秒
合計 8人 100点

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