エレベーターと俺 |
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夢破れ 後に残るは 無力感 ゆらゆらと揺れる火を見ていたら、ふとそんな句が思い浮かんだ。 古びたマンションの裏手にあるコインパーキング。わずか三台ぶんの広さしかない駐車場の片隅に、俺は一人で座り込んでいた。目の前には錆びついた一斗缶がある。ホームレスが冬場に暖を取るため持ち込んだものだろう。一斗缶の中では、薪の代わりに一冊のノートが焼けていくところだった。 作家志望者だった頃に書き溜めていたアイディアノートだ。最後の一冊があと少しで燃え滓(かす)となり、無価値なものとして散っていく。まるで俺が思い描いていた夢のように。 最後の望みを託していた新人賞の結果が、先週発表された。結果は言うまでもないだろう。「あと三年以内に作家デビューしてみせる」そう大見得きって実家を飛び出した俺は、今日、故郷(ふるさと)へ帰らなければならない。 ノートが燃え尽きるのを見届けてから、俺は立ち上がった。 さて、そろそろ行こうか。荷物はあらかた引越し業者が運んでいった。あとは手荷物をまとめるだけ。それが終われば、住み慣れたボロマンションからもおさらばだ。 マンションは築五十年という年代もので、外壁はくすんだ灰色となっている。至るところにヒビが入り、蔦が生い茂っているところからすると、もはや廃墟同然だ。 そんなところに住む物好きがそうそういるはずもなく、今や居住者は俺一人。家主が言うことには、俺が退去したらこのマンションは取り壊すのだそうだ。 一つの階に部屋が二つしかない五階建て。満室だとしても利用者はほとんどいないだろうに、このマンションにはエレベーターが設置されている。この高さなら設置義務はないはずだけど、敢えて設けられているのは家主の親切からなのかもしれない。 俺の部屋は二階なので、階段を使えば事足りる。けれど、今日が最後だと思うと乗らずに去るのは名残り惜しい。気付いた時には上階行きのボタンを押していた。 『扉が開きます』 若い女性の音声が告げる。生真面目で、誠実で、どこか温かみを感じさせる声だ。録音されたこの声の主は、どんな人だったのだろうか。声からするに、きっと清楚で、美人で、ひだまりのような笑顔の―― 『ボタンを押して下さい』 ……おいおい、急かすなよ。妄想する時間ぐらいくれたっていいじゃないか。 『ボタンを、押して下さい』 さっきよりも声に威圧感が増したような。余計なことは考えるなということか。 根負けしたように俺は中へ入り、階数のボタンを適当に押す。他に利用者はいないので、どんな順番で押しても文句は出ないだろう。 『扉が閉まります』 金属製の扉が左右から外の景色を遮断していく。俺もしばし目を閉じて、今までを振り返ることにした。 俺の人生。もう四分の一を過ぎて、何を成せただろう。思えば中途半端な結果ばかりだった。 勉強もスポーツも平均並みかそれ以下。大学卒業といっても所詮はFランだ。ルックスは下のランクから数えたほうが早い。そんな俺に彼女なんてできるはずもなく。輝かしい青春時代を謳歌できる人間は、ほんの一握りなのだと痛感させられた。 『いっかいでございます』 ……そうさ、俺なんて一介の男子学生でしかなかった。同級生より秀でたものがあるとすれば、幼い頃からそれなりに本を読んでいたことぐらいか。 最初は絵本。読むというよりは絵を見て楽しんでいたわけだけど、大体の子供はそんなものだと思う。 字が読めるようになったら、片言ながらも音読して。親から上手に読めたねと褒めて貰えるのが嬉しかった。 小学生になると物語を理解できるようになってきて、絵は段々必要なくなっていった。 やがて文字ばかりのページを読んでいても、情景が思い浮かぶようになってきた。空想の世界の楽しさを覚えたなら、あとは好きなように読めばいい。あの頃の俺は、物語の主人公に自分を重ね合わせることで、特別な自分を疑似体験しようとしていた。 読書の習慣があったおかげで、文章力は身に付いていたらしい。読書感想文のコンクールで、賞を取ったこともある。確か―― 『にかいでございます』 そう、ニ回だ。小学六年生の時と、中学一年生の時に受賞した。受賞したといっても、地方でのコンクールだからそれほど大したものではなかったけど、誇れるものが無いと思い込んでいた自分にとっては大きな自信に繋がった。 特に中学の時は、国語の先生が俺の文章をベタ褒めしてくれたから、これがきっかけで作家を目指すようになった。この頃になると想像力が豊かになってきていたから、好きだった漫画や小説を題材にオリジナルストーリーを書き始めた。 次第に想像の翼を広げ始めた俺は、自分で創造した物語を書くようになった。いま思えば、設定は穴だらけで陳腐なものだったけど、あの頃の俺は割と楽しんで執筆していたように思う。 中二病最盛期には〈牙神狂矢(きばがみきょうや)〉なんてペンネームを考えていたっけ。ああ恐ろしや恐ろしや。 スマホが手に入り、小説投稿サイトの存在を知ると、俺の創作意欲は一気に加速した。あれは高校生の頃だったと思う。 「世界はこんなに広かったのか」それが初めて小説投稿サイトを閲覧した時の感想だ。リアルの世界では、自分の周りに小説を書いている人なんていなかったのに、ネットでは想像を遥かに超える人数が創作活動を行なっていた。作品の数に至っては星の数ほど。その中には恒星のように力強い光と熱量を持った作品が幾つもあった。 並み居る実力派の書き手さんに囲まれて、いつしか自分は遥かな高みを目指したいと考えるようになった。星屑ではなく、一等星になるために。そんな闘志の炎をいつも胸の中で燃やしていた。なのに―― 『さんかいでございます』 ……そうだ、散会だ。あのサイト、不正行為が常態化してたみたいで閉鎖に追い込まれたんだ。そのせいで、知り合った書き手さんたちは散り散りになってしまった。 あのサイトでは人気作品が書籍化されることになっていたから、自分で別アカウントを複数取得してポイント稼ぎする人がかなりいたらしい。ネットの世界では顔が見えないから、作品を公開しやすいし、気兼ねなく感想も言える。だけどそのぶん、別の人間になりすまして好き放題できてしまう恐ろしさもある。そんなネットの闇を、当時高校生だった俺は垣間見たんだ。 利用していたサイトが閉鎖したことだし、大学受験もあって、しばらく執筆からは距離を置いていた。 創作活動を再開したのは、大学生になってからだ。 Fランの大学だから世間的には誇れるものではなかったけれど、リアルで初めての創作仲間ができたのは大きな収穫だった。文学サークルに入った俺は、メンバーに恵まれて貴重な経験ができたように思う。 定期的に刊行されるサークル誌や文学フリマの出品作品。自分の書いた小説が製本される喜びを知った。それを買って貰えたときは感激の極みだった。それと同時に、自分の作品には対価を得るだけの価値があると確信できた。 執筆活動の再開に伴って、小説投稿サイトの利用も再開した。以前に使っていたところは閉鎖してしまったから、別のサイトで。ここは年に一回のコンテストで書籍化作品を決める方針を取っていた。人気作品というだけではなくて、プロの編集者が選考に携わっているのが良かった。不正行為で高いポイントを得たとしても、そんな作品は売れるはずがないと俺も考えていたから。 大学ニ年生の頃、きっとこの時期の成長は目覚しかったことだろう。執筆時間はいくらでもあったし、周りの仲間たちから刺激を受けまくっていた。小説投稿サイトでもそれなりに名前が知られるようになってきて―― 『よんかいでございます』 そう! 総合ランキングに四回もランクインしたんだ。高校生の頃には遥かなる高みだと思っていた地位が、ようやく手に入ったのだ。 ちょうどその頃、同じサークルの先輩が作家デビューした。身近な人の作品が書籍化されたことで、自分にも手が届きそうな気がしてきた。 現実味を帯びてきた夢。それまで何も手に入らなかった俺が、初めて希望を抱いた。自分にはこれしかない、そんな気さえしたんだ。 俺は作家になりたい。両親にそう告げた時、二人の表情は微妙だった。子の夢は尊重したい、しかし行く末が心配で仕方ない――そんな葛藤が滲み出ていた。 しばらくの沈黙を経て、両親から出された条件はこんなものだった。すなわち、執筆は続けて構わないが就職は必ずすること。 そう言われて、当時は我が子の才能を信じられないのかと憤ったものだけど、今なら両親の考えが理解できる。息子が食うに困らない仕事に就いて欲しかっただけなのだ。 結局どうしたかというと、俺は両親の出した条件を呑んだ。学費を出して貰っている手前、無下にできなかったというのが正直なところだ。 こうして俺の挑戦が始まった。 必ず作家になってやる。俺の才能を世に認めさせてやる。寝食を忘れるほど、執筆に没頭した。 小説投稿サイトでは次々に新作を発表し、公募にも手当たり次第投稿した。大学三年生になって就職活動をしながらでも、執筆を辞めることはなかった。夢は必ず掴む、そう自分に言い聞かせて。 ――だってのに。 『下へ参ります』 俺が、遥かなる高みに到達することは無かった。 部屋の手荷物を回収して外に出ると、ドアの鍵を掛けた。これでもう、この部屋に戻ることはない。あとは家主に鍵を返すだけだ。 一階へ降りようと思ってエレベーターを見たら、扉が開いたままになっていた。 まだ、俺の回想に付き合ってくれるつもりらしい。それならこちらも甘えることにしよう。この際だから、誰もいない場所で胸の内を全部吐き出しておきたい。 要求される前に階数のボタンを押した。さっきと同様、思いつきの順番だ。 『扉が閉まります』 再び目を閉じて、自分の過去を思い出す。 作家になることを決意した俺は、とにかく書いては投稿し続けた。自分の才能を認めてくれる誰かを求めて。 初めの頃はまだ楽観的だった。「同じサークルの先輩が書籍化されたのだから自分だって」そういう考えがあった。でもそれは誤りだったと後で気付いた。 出せども出せども落選ばかり。せめて一次選考ぐらいはと思っていたけど、それすらも叶わなかった。 徹底的に打ちのめされた俺は焦り出した。このままではいつまで経っても作家にはなれないと不安に駆られた。かといって打開策を思いつくわけでもなく、ひたすらに書き続けることしかしなかった。 足踏みしている俺を尻目に、小説投稿サイトで知り合った実力者は次々にデビューしていく。いつしか俺は、かつての創作仲間に嫉妬を覚えるようになっていた。 「何であいつが」「何で俺じゃないんだ」「俺の作品のほうが面白いのに」――どれだけ思ったことだろう。悔しさから歯噛みしているうちに、俺は大学卒業を目前に控えていた。 就職活動を疎(おろそ)かにしていたので、まともな会社には就職できなかった。営業職を使い捨てにするようなブラック企業しか拾ってくれず、仕事の忙しさから執筆の時間なんて取れそうになかった。日が昇る前に出勤して、まとまった休憩時間を取ることもなく、サービス残業は深夜にまで及ぶ。上司からは実績が低迷していると尻を叩かれ、顧客からは無理難題をつきつけられ。この経験が小説のネタになると考えることができたら良かったのかもしれないけど、生憎あの時の俺はそうするだけの余裕がなかった。 会社には一年ちょっと勤めてから辞めた。体力的にも精神的にも限界だったからだ。それに、小説が書けない環境に置かれたことが耐え難い苦痛だった。俺は作家になりたいのに、仕事を続けていたら夢がだんだん遠ざかっていくような気がして。 実家に戻ると、両親からは小言を言われた。作家なんて不安定な職業を目指すのは辞めたらどうだ、今の生活がままならないのに夢ばかり追いかけていては生きていけないぞ――そんな内容だったと思う。 両親の言うことは正しい。当時の俺でも、それは解っていた。けれど自分にだって譲れないものはある。今やらなければ絶対に後悔する、自分にそう言い聞かせた。 俺は「あと三年以内に作家デビューする、親の手は借りない」と宣言して実家を飛び出した。はっきりと言葉にすることで、自ら退路を断ったんだ。 最後に見た両親の顔は今でも忘れられない。子を不憫に思う気持ちと、親として手を差し伸べてやれないもどかしさ、そして絆を断ち切ろうとする我が子の暴挙を悲しむ心……そういったものが複雑に混じり合っていたように思う。 『いっかいでございます』 両親と本気でぶつかったのは、後にも先にもこれ一回のみ。というより、実家を飛び出してからは一度も連絡を取っていなかったわけだけど。 背水の陣で臨んだ公募生活。生活費はブラック企業に勤めていた頃の貯金と僅かばかりの退職金で賄った。足りない分は日雇いの仕事で補った。再就職しなかったのは、仕事のせいで執筆時間が取れなくなる事態を避けたかったからだ。 『扉が開きます』 すべては作家になる為の生活。それを始めてからは、それまで抱いていた閉塞感から脱却できたような気がしていた。俺は、閉ざされた扉を自分で開いたと思っていた。 『上へ参ります』 一切のしがらみから解放された気がして、高揚感すら覚えた。誰にも、何にも縛られない自由がそこにあった。しばらく忘れていた想像の翼は、再び羽ばたいた。 『さんかいでございます』 公募生活を始めて間もなく。立て続けに三回、一次選考を突破した。残念ながら最終選考までは行けなかったけど、自分なりに確かな成長を感じていた。 自分は間違っていなかった。そう確信すると意欲が増してきて、アイディアが後から後から湧いてきた。創作活動に関して、絶頂期を迎えたわけだ。このまま遥かなる高みへ急上昇、などと俺は輝かしい未来を思い描いていた。 『うっ、上へ、参りま、す』 突然の停止。 上昇し始めた矢先の出来事だ。 俺は暗闇の中に閉じ込められたのだった。 少し経ってから、非常灯が点灯した。といっても、ボタンの数字が辛うじて読める程度の心許ない光だ。 さっきは音声の調子がおかしかった。エレベーターが故障してしまったんだろうか。 非常用の呼出ボタンを押しても応答がない。取り壊しが決まっているマンションのエレベーターだから、非常時の対応はもう不要だと思われたんだろうか。だとしたら、これはまずい。もしこのまま復旧しなければ、ここが俺の棺桶になってしまう。 扉の合わせ目に指をかけて開こうとしても、俺の力では無理だった。次の階へ行く途中で止まったのだから、大声を出しても誰かに気づいて貰える可能性は低い。いや、そもそもこのマンションには俺しかいなかった。停止したエレベーターに人が閉じ込められているなんて、気付く人は皆無だ。 落ち着け。助けを呼ぶ方法は他にもある。 胸のポケットをまさぐった。スマホを取り出し、電波の状態を確認する。 ――圏外。無念、ここまでか。 俺は壁にもたれかかり、そのまま床に座り込んだ。 深い溜息を漏らす。 ……いつもこうだ。俺は運に見放されている。 公募にしてもそうだった。昇り調子だった時期は確かにある。投稿を繰り返すうちに一次選考や二次選考を通過できる回数が増えていったし、小説投稿サイトのコンテストでは上位の結果を収めることができた。けれど、「あと一歩」がどうしても足りない。指の間から水がこぼれるように、作家デビューの夢はするりと手の中から抜け落ちていく。 受賞できたのは運が良かったから。俺が落選した新人賞の受賞者が、インタビューでそう答えていた。本人は謙遜のつもりなのだろうが、自分には到底受け入れられない物言いだった。 だってそうだろう。いくら文章を磨いても、世間の流行りや需要を研究しても、魅力的な登場人物を生み出す為に腐心したとしても、運が無ければ有象無象でしかないなんて。運が決め手であるならば、どんなに努力しても無理なものは無理でしかない。 運がいいから作家になれるんじゃない。才能の差はあれど、結局最後は努力の末に勝ち取るものであるはず。そう信じて、歯を食いしばり、折れそうな心を奮い立たせてきた。 ――つい先週までは。 先週で、期限が切れたのだ。自分で決めた三年以内という期限の最終日。奇しくもこの日は、とある出版社の新人賞の結果が発表される日だった。 この新人賞に投稿したのは、過去最高の出来と言ってもいい作品。中学生の頃から始めた創作活動の集大成だった。 自信を持って送り出した一方で、不安もあった。これで受賞できなかったら、自分はどうすればいいのだろうかという思いがあった。 すっぱりと夢を諦めて、別の人生を歩むか。それとも自分で課した制約を無かったことにして公募を続けるか。 諦めるのは無理だと思った。自分の人生を賭けてやってきたことだから、そうやすやすと捨て去ることはできない。かといって、両親の恩義に背く形で宣言した手前、反故にするわけにもいかなかった。 結局、答えが出ないまま、俺は結果を知ることになった。 結果は落選。作家を諦めろと最後通牒をつきつけられた気分だった。 放心するしかなかった。 夢は、遥か彼方に消えていったのだ。 結果が出た翌日には、出した作品の選評がメールで届いた。今更という感はあったが、興味本位で内容に目を通した。 ……見なければ良かった、と今でも後悔している。忘れたくても、内容が頭にこびりついて離れない。「死体蹴り」とは、まさにこのことだと思った。 酷評に次ぐ酷評。これでもかというぐらい滅多打ちだった。その詳細を自分で口にするのも憚(はばか)られるが、とにかく俺の作品を読んだ担当者は、よほどお気に召さなかったらしい。悪意を文字にしてぶつけてきたとしか思えなかった。 そして最後の一文。これを読んだ俺は、怒りに我を失った。 「作者さんはまだ若い方のようですので、次回に期待しています」。 ――俺には「次回」なんて無いんだ! そう叫んで、力まかせに壁を殴りつけた。 先日の記憶が鮮明に蘇る。と同時に、俺はエレベーターの内壁を殴っていた。 けたたましい金属音が聞こえ、右手には痺れが残った。 再び訪れる静寂。狭い世界に閉じ込められた俺はむせび泣く。 悔しい。その一言に尽きる。けど、どうしようもないんだ。 狭い箱の中で、俺は体を震わせる。優しい声を掛けてくれる人なんて、どこにも居なかった。 さっきまで俺の回想に付き合ってくれていたエレベーターでさえ、今は沈黙を保っている。いい歳して無様な姿を晒している男に、愛想が尽きたんだろうか。 愛想を尽かされても仕方ない。俺は滑稽で、情けない奴だから。中学の頃に文章を褒められたぐらいで有頂天になって、作家になれると勘違いした身の程知らず。他人より少し文章が上手いだけで、特別な才能を持っているわけじゃなかった。 作品を褒めて貰えたら天狗になり、自分には高い実力があると思い込む。酷評されると不機嫌になるくせに、相手との関係が悪くなるのを恐れて、心にもない感謝の言葉を口にする。多くの人から支持を受けている作品には嫉妬するし、それなら自分の作品も評価して欲しいと切望する。俺はそんなつまらない男だ。俺みたいな奴に付き合っていたって、誰も幸せにならない。それならいっそ、ここで誰にも知られず朽ちていけばいい。 さっきから黙っている『君』も、実はそう思っているんじゃないのか? 『……ごっ、ごかいでございますっ!』 その時、エレベーターが上昇を始めた。間もなく停止して扉が開く。 着いたのは五階。このマンションの最上階だ。 五階……ごかい……誤解……もしかしてこのエレベーター、弁解したかったのか? 何だよ、「誤解でございます」って。あらかじめ録音された音声のくせに、タイミングが良すぎやしないか。しかも故障の為か音声が少し乱れて、やけに必死な雰囲気が出ていた。誤解を解こうと一生懸命になっている真面目な女性を想像して、ちょっとだけ可愛いと思ってしまった。 段々と込み上げてきて、耐えきれず吹き出した。そして笑った。こんなに大きな声を出して笑ったのは久しぶりだった。 まったく、今ので沈んでいたのが馬鹿馬鹿しくなってきた。いや、これは救われたと考えるべきか。人ではなくて、機械に救われるなんて思いもしなかった。 ……いいんだ、これで。執筆に関しては、ある程度折り合いが付いている。さっきは辛い記憶が蘇ってきて、自虐的になっていただけだ。このマンションを離れると決めたのも、今までとは違う道を歩むことにふんぎりが付いたからだ。 『扉が締まります』 そう。作家になるためだけの生活は今日で終わり。明日からは違う生き方をしていかなければならない。 実家に帰るのは、父が経営する印刷工場を継ぐ為。工場といっても、従業員が母を含めて五人しかいない小さな工場だ。 実は昨日、父から三年ぶりに連絡があった。電話の向こうで父は、俺にこう言った。「ここ最近は体力の衰えを感じている、まだ元気なうちにノウハウをお前に引き継いでおきたい」と。このタイミングで電話してきたということは、新人賞の結果が出るのを待っていたからだと察した。新人賞に一切触れなかったのは、父なりの気遣いだったのだと思う。 俺は、父の申し出を受け入れた。これまで散々わがままを聞いて貰ったので、今度はこちらが折れる番だと思ったからだ。帰郷したら、まず平社員からスタートすることで話はついている。 『上へ参ります』 ……ん? これはどういうことだ。このマンションは五階建てのはず。先ほど着いたのが最上階だから、それより上の階に行くのはおかしい。やっぱりエレベーターが故障しているんだろうか。 俺の考えとは裏腹に、エレベーターは上昇を続ける。このまま異世界に連れて行かれるんじゃないだろうか、そんな馬鹿げたことを妄想した矢先に鉄の箱は停止した。 『屋上でございます』 このマンションに屋上なんてあったのか。三年も住んでいたのに、今まで気づかなかった。 『扉が開きます』 ぎこちない動きで金属製の扉が開く。外へ出て見上げると、すっかり日の暮れた空が広がっていた。 周りの建物が高いので、視界いっぱいが空というわけにはいかない。でもそのぶん、額縁の中に切り取られた空模様といった風情があった。 今晩は好天に恵まれ、空には雲一つない。排気ガスも比較的少なかったから、夜空の星がよく見えた。眩い星、控えめな星、赤いものもあれば白いものもある。それぞれが個性的な光を放っていた。 その時ふと、初めて小説投稿サイトを閲覧した時の感動を思い出した。無限の夜空に広がる星々の如く、無数に投稿された小説。これらの向こうには一人一人の作者がいる。彼らは己の作品に愛情を注ぎ、情熱を持って執筆している。他でもない、己の作品をより眩しく輝かせる為に。星屑ではなく、一等星たらしめる為に。 強く、美しい光を放つ作品は多くの人を魅了し、影響を与える。俺もまた、そんな作品に魅せられた読者の一人だった。 「面白かった」たったそれだけの感想が、自分を突き動かした。いつしか「自分もこんな作品を書いてみたい」という動機が生まれた。そして、思い描いた場面を形にすることの喜びを知った。 ――そうだ、今まで忘れていた。俺は、小説が好きだったんだ。 エレベーターで一階まで降りた。名残り惜しいが、別れの時が近づいている。 不思議なことに、気持ちは晴れやかだった。作家になる夢は叶わなかったが、小説を書き続けることはできると気づいたからだ。好きであれば続けられる、好きだからやめられない。 幸い、これからの勤務先は印刷工場だ。本を作ることだってできる。サークル誌や同人誌、果てはプロの作品に至るまで。 俺は、創作活動に取り組む人々の助けになりたい。彼らが作品に注いだ情熱を世に伝えたい。今ではそう考えている。 顔を上げ、歩き出した。もう振り返らないと心に決めた。 『ご利用、ありがとうございました』 後ろから声がかかった。どこから音声が流れているのかは考えるまでもない。 ……おいおい。普通はそんな音声、録音されてないぞ。ATMじゃないんだから。 背中越しに手を振り、俺は遠ざかる。 奇妙なエレベーターに、心の中で礼を言いながら。 [了] |
庵(いおり) 2020年08月08日 21時58分02秒 公開 ■この作品の著作権は 庵(いおり) さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2020年08月25日 07時27分27秒 | |||
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Re: | 2020年08月24日 17時08分21秒 | |||
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Re: | 2020年08月24日 09時44分35秒 | |||
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Re: | 2020年08月23日 22時57分15秒 | |||
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Re: | 2020年08月23日 22時32分35秒 | |||
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Re: | 2020年08月23日 22時14分48秒 | |||
合計 | 13人 | 320点 |
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