怪火 |
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私は――走っているようだ。 自分事であるのに不確かに言い表しているのは、長時間走り続けている弊害からか、体の感覚がすっかり失われてしまっているためである。 ただ、全身にくまなく沁み込んだ強い倦怠感と、喘ぐような息苦しき呼吸が、自分がひたすらに走り続けていることを教えている。体の疲弊具合と、呼吸の苦しさから鑑(かんが)みて、もう何時間も前からずっと走り続けているのだろう。いやそれ以上、もっとずっと前から走り続けているのかもしれない。いつから走り始めたのすら、酸欠で鈍った頭では思い出せなかった。 私は、荒い呼吸を繰り返しながらも、懸命に手足を動かし、走り続けている――ようだった。 蹴り進んでいる筈の地面の感触も、全身に受けている筈の風圧も、脳に届く前に霧消してしまっているのだろう。今の私には全く認知できなかった。 両の眼もすっかり霞んでしまっており、どこをどう走っているものか皆目見当がつかなかった。耳も正常に機能していないのだろう、音が脳にまで届いてこない。 周囲の状況も、自分の身体の状況も、全く把握できていなかった。 ただひとつ、小さな炎が、目の前で揺れていることだけは、掠れた視界のなかで妙に明瞭(はっきり)と見い出せていた。 か細い燐寸(マッチ)の先に灯るような、微かで儚げな印象を受ける、ちっぽけな青白い灯火だった。 その炎は、走っている私の前を、常に一定の距離を開けて中空に漂っていた。炎はときおり跳ねるかのように弾み、その様子はあたかも私を誘惑しているように見えた。弱弱しい印象を受ける炎も、弾んでいる瞬間ばかりは生き生きとしていて、不思議な生命力を感じさせる。 私は、あの怪火(あやしび)を追い掛け続けなければいけない。 私はそんな思いを胸に、必死で荒い息をつきながら、走り続けている。 何故私はあの炎を追い掛け続けなければならないのか。追いかけたところで何になるのか。そもそも、あの炎は何なのか。 こんなに懸命になって追い続けているのだ、追い掛ける理由や目的はきっと間違いなくあったに違いない。 しかし、走っている内にどこぞに落っことしでもしてしまったのだろうか、記憶をどんなに漁っても理由を思い出すことが出来なかった。 中空を漂う摩訶不思議な灯明を追い続けるなど、自分でも正気の沙汰とは思えない。 しかし。 追い掛けるのをやめてしまったら――走るのをやめてしまったら、私は間違いなく酷く後悔する。理由や目的は欠落してしまっているが、このことだけは疑う余地のないこととして確信していた。 だから私は、疲弊しきった我が身に鞭打ちながら、目の前で跳ねる灯明を追って――走り続けているのだろう。 こんなに長時間走ったのは、きっと学生時代以来だろう。 私は学生の時分、陸上部に所属する長距離走選手であった。青春時代のほぼすべてを陸上に捧げて来たと言っも過言ではないだろう。 とはいえ、才能やフィジカルに恵まれず、選手としては素人に毛が生えた程度で、大会成績も芳しくなかった。 しかし、走るのだけは人一倍好きだった。気力の最後の一滴まで振り絞って走り切った瞬間は、何とも言えない満足感があった。長距離レースを走り切った直後、倒れ伏した地面から見上げる蒼穹は、得も言われぬほどの絶景であった。 私は他の血気盛んな選手たちとは異なり、順位やタイムというものに拘泥しない性質(たち)であった。順位もタイムも、結局は自分の外部の物差しに過ぎないのである。私はそう考える。 順位など、レースに参加する選手の質やコンディションに依存する、ひどく不確かなものだ。そのような基準をもとに一喜一憂するなど馬鹿らしいと私は考える。タイムも似たようなものである。天候や路面状態などの環境によって左右されるのだ。自分の与り知らぬ外的要因に少なからず結果を委ねることになるような不完全な指標など、参考にするだけ徒労であろう。 自己ベストと比較するのだって無意味だと思う。自分のその時の体調や肉体レベルに依存する。過去の自分のタイムと比べて優れていたとしても、それは体調や肉体レベルが過去より優れていただけに過ぎない。 自分の挑戦者となり得るのは、いつだって今の自分自身だけである。今の自分が出せる全力を振り絞って試合に臨む。それが出来たのであれば、たとえ順位が悪かろうが自己ベストを下回っていようが私は満足できた。 だから私は、成績が芳しくなくとも、ひたすら練習に打ち込み続け、くたくたに疲れ切っては達成感に浸っていた。 私は最早(もはや)――あの輝かしい日々に戻ることはできない。あの日々は、走り続けている私の遥か後方から私を照らしている。 私はまだ――走り続けていた。 正面には相も変わらず、螢のような光が揺れていた。私の前をつかず離れず、応援するかのように揺れる炎が、なんとなく長年来の相棒のように思えて来た。そんな思いを知ってか知らずか、炎は楽し気にぴょんと跳ねた。 長距離を走り続けるには、何よりも正しい拍の呼吸が肝要である。息が乱れれば即座に脳と筋肉への酸素が枯渇し、たちまち動けなくなってしまうのである。 息を吸って、吐く。普段は無意識に繰り返している作業を、意識的に行う。 走ることにどれだけ夢中になろうとも、”呼吸を忘れ”てはならない。 意識的に動かさねばならぬはずの手足が意識せずとも動くようになり。平素なら無意識に行っている呼吸が、意識せねば儘(まま)ならなくなる。普段と逆転するこの感覚は、妙に痛快に感じられる。 私はふと――妻のことを想った。 妻は、私のような無骨な朴念仁と一生を共にすることを受け入れてくれた、無二の人であった。 大学卒業後すぐに会社に就職し、愚直に勤め続けて来た私には、浮いた話の一つもなかった。見兼ねた周囲の人間が見合いを調整してくれたので、社交儀礼的に承諾した。結婚などわたしには縁遠いものだと感じていたのだのだが、かといって無下にするのも心苦しかったのである。 流されるままに見合い相手と対面し、何度か交際した。私には勿体無い程の佳い女性(ひと)であった。明らかに釣り合いが取れていない。とはいえこちらから断る謂れは無いし、そんなことをすれば先方に大変な失礼になる。 女性経験に乏しい私の社交術などたかが知れている、その内向こうから願い下げられるだろうと高をくくり、私は事務的に交際を続けていた。 ところが予想に反して相手方が承諾してしまい、あれよあれよという間に婚姻する流れと相成り――その女性(ひと)は私の妻となってしまった。 いざ一緒に生活する段になって私は当惑した。いたたまれないのである。同年代の女性と二人きりで寝食を共にするなど、私にとって未知の領域であった。何を話せばよいのか、どうすれば喜んでもらえるのか、何もわからない。女性と一緒に生活しているという事実が私の神経を尖らせ、疲弊させていた。妻との会話は常にぎこちなく、妻が会話を取り持たせようと苦慮するなか、私はぶっきらぼうな返答しかできなかった。 その結果として私は――前にも増して仕事に打ち込むことになった。出社時間は結婚前より早くなり、退社時間も遅れに遅れた。嫁を迎えれば落ち着くだろうという周囲の目論見は崩れ去ったことになる。 私は妻と家で二人で居たくない一心で、何かと理由をつけて会社に出勤し、何の理由も無いのに外出した。 子宝に恵まれなかったことも要因だったろう。妻との接点は殆どなかった。お世辞にも良好な夫婦生活とは言えないものだった筈である。私は我武者羅に仕事に打ち込み続け、給料を妻に納め続けた。妻に貧しく苦しい生活をさせることだけは出来ないと思ったのである。夫らしい行動など、私にはその程度しか出来なかった。それでも妻は、あまりにも不愛想な私に文句ひとつ言わず、内助によって懸命に支え続けてくれた。やはり私には過ぎた女性(ひと)であった。 そうしている内に定年退職の日を迎え――いやでも妻と二人で家に過ごす時間が増えた。初めのうちは緊張して、自宅であるのに借りて来た猫のようになっていた。妻の方は落ち着いたもので、私の見ている前でてきぱきと家事をこなしていた。 私はこっそりと妻の横顔を盗み見る。皺が増え、若い時の美しさは損なわれている。しかし、親しみやすさが感じられる柔和な顔つきである。 その表情を見ている内に、自分の中の緊張が緩解していくのを感じていた。 不器用ながらも必死で繋いできた夫婦生活によって培われてきたものが、今ここに結実したのだ。 私の妻への感謝の気持ちは、何十年もかけて妻に伝わったのだ。だから妻は私を支え続け、今こうして隣にいてくれている。そして妻が支えてくれたからこそ私は今ここにいる。妻の何十年分の想いは私にも伝わっている。 もはや二人の間には言葉は要らなかった。長い歳月を経なければ到達しえない、心を許しあえる間柄に、私達は達していた。 これが、何十年もの夫婦生活の末に築きあげた関係なのか。 不器用な私にはあまりにも勿体無い程の報酬であった。残りの人生をこのように過ごせるのかと思うと、脳が痺れた。 しかし今、私の隣に妻はいない。私が妻より先んじて終着点(ゴール)に向かってしまっているのだ。それでいい。まだ妻はここに来るべきではない。理由は解らないが、そう思った。 私は、もうずっと――走り続けている。 手足の感覚はもうずっと前から失われている。肺は破れんばかりである。既に体は限界を通り越している。もう私は老体であるのだ、これ以上走り続ければ命に関わってくるだろう。 私はなぜこんなにも必死になって、走り続けているのだろう。炎との距離は一向に縮まらない。 この先に何があるというのか。炎を追っていった果てに何を見ることが出来るのか。命と引き換えにしてまで欲するものがそこにはあるのか。 それに――あの炎は何なのだ。炎は私の面前を、あたかも挑発するかのように揺れ動いていた。 もし、あの炎が――人を死地に誘い込む人魂(ウィルオウィスプ)であったならば。私は愚かにも地獄へと続く道を直走(ひたはし)っていることになる。 私は矢庭に怖れをなし、走るのを止めようとした。しかしどれだけ念じても感覚の失われた手足は止まってくれないらしかった。息は依然として苦しいままだ。私は悪魔に操られているかのように、闇雲に走り続けるしか出来なくなっていた。 私は著しく狼狽した。自分の体の制御が利かないなど、これほど恐ろしいことはない。 誰か助けてくれ。 ここはどこなのだろうか。私はいつから、何のために走り続けているのだ。 あの炎はいったい何なのだ。私はどこに向かっているのか。 ああ、妻は――妻は、どこにいるのだろうか。 不意に妻の顔が目の前に現れ――それを認識したことで、私の鈍った脳は急覚醒する。 長い隧道(トンネル)を潜り抜けたかのように視界が一挙に開け、周囲の様子が判明する。 私は――走ってなどいなかった。 ここは――病室であろう。私の体は真っ白なベッドに横たえられ、何本ものチューブに繋がれていた。喉には人工呼吸器の管が挿入され、独特の痛痒と息苦しさがもたらされている。目前に置かれた心電図には、自分の弱弱しい拍動を反映しているのだろう、ちっぽけな電光が弾んでいた。 妻はベッド脇にしゃがみこんで、私に必死に声をかけているようだった。乱れた髪と息遣いから、取るものも取り敢えずここに駆けつけただろうことが伝わってくる。 妻は皺だらけの顔をゆがませ、同じく皺だらけの手で私の枯れ枝のような腕を握り、懸命に私に話しかけていた。その声は私の脳に届かない。いや、音は脳に届いているのだが、認識するだけの余力が私に残されていないのだ。 だが、妻の言いたい事は手に取るように分かった。 なぜならば。 二人の間には言葉など必要ないのである。 もう私には言葉を発することもできない。 だが、それも問題にならない。 言葉にしなくても、妻には伝わっているのだろうから。 この瞬間のために。 この瞬間のために私は、限界ぎりぎりまで走り続けてきたのだ。もう、痛みも疲れも、恐怖すらも霧消している。 私は満ち足りた思いで一つ息をついた。 炎は弾むのを止め――。 そして何も見えなくなった。 |
マナ 2020年08月08日 20時44分27秒 公開 ■この作品の著作権は マナ さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2020年08月25日 22時27分12秒 | |||
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Re: | 2020年08月25日 21時33分03秒 | |||
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