中学時代人を殺したことがある小夜子さん |
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1 〇 眩い朝の日差しが降り注ぐある駅のホーム。ベンチに腰掛けて飲食にふけっている一人の女子高生の姿があった。 異常である。 電車を待ちながら遠巻きに彼女観察している者達なら、彼女の常軌を逸した食事量が分かるだろう。彼女はベンチに着くや否や売店で買ったらしき肉まん三つを一分足らずで平らげ、巨大なリュックサックから出したおにぎり五つを瞬く間に咀嚼嚥下。さらにはスナック菓子大袋一つと徳用富士林檎六つ入り一パックを胃袋に収めている。その間、僅か十数分であった。 これが相撲部員らしき大柄な男子なら、多少の注目を浴びたとしても、違和感を人に与えることはなかったかもしれない。しかし信じられない量を嚥下したのは、小柄で華奢で童顔のたいへんな美少女なのである。丸っこい頭を滑らかなショートボブが覆い、零れ落ちそうな程の瞳は大きいのみならず潤みを帯びていて、肌はそれ自体が太陽光を帯びているかの如き白い明るさを放っている。その桜色の唇と小さな口が、いったいどのようにして肉まんを二口で飲み込んでしまうのか。これ程の食料をこの引き締まったウェストのどこに収容しているのか。見れば見る程謎は深まるばかりだった。 その少女……名を桃木野春風(ももきのはるかぜ)という……は、仕上げとばかりに麦茶二リットルのペットボトルを一息で飲み干して見せる。そして食べ物の四次元ポケットの如き大きなリュックサックを漁ると、春風はその大きな瞳に困惑と不安の色を浮かべた。 定期券が無くなっているのである。 出発前に定期が入っていることは確認したから、どこかで落としたと見て間違いなさそうだ。食べ物を出す時に落としたと見て、春風はベンチの周囲を探し始めた。 しかし探し方が悪いのかそもそもこの周囲にないのか、どれだけあたりをうろうろとしても定期券は一向に見付からない。春風の目に溜まった涙が今にもあふれ出しそうになっているところで、彼女の背後から鈴を鳴らすような声がかかった。 「あの。何か失くされたのでしたら、探すのを手伝わせていただけないでしょうか?」 春風は振り向く。そこにいたのは如何にも優しそうで親切そうな、見目麗しき黒髪の女子高生だった。身長は百六十五センチほどで、長い黒髪は腰近くまで伸びている。白磁の肌に上品な鼻立ち。太い眉の宿した深く澄んだ瞳は親切そうなだけでなく賢そうである。春風が死ぬほど勉強してぎりぎり受かった高校の制服を着ているから、少なくとも勉強はできるはずだろう。 この親切な申し出に、春風は遠慮や警戒と言ったことは微塵も頭に浮かべることなく、ほぼ条件反射的に 「はいっ! お願いします!」 と元気の良い声で返事をした。 やみくもにベンチの周囲を歩き回っていた春風と異なり、黒髪の女子高生は冷静であった。女子高生は春風から今日ここまでの行動を落ち着いた優しい声音で伺い、春風がリュックサックの右のポケットに定期を入れていたこと、そのポケットに封をするマジックテープが随分と弱っていたことなどを瞬く間に聞き出した。 「ここに来る途中で落としたのかもしれないわ。一緒にお家までの道を歩いてみましょう」 女子高生は親切にもそのようなことを春風に申し出た。 「え? ……でも、良いんですか? もう電車、来ちゃいますよ」 「次の電車に乗ったのでも間に合うわ。二人いた方が発見できる確率はあがるし、それに、一人でする探し物で、孤独だし不安だし、とてもつらいでしょう?」 春風は涙目になりながらこくこくと頷いた。実際春風は、この突如現れた冷静かつ心優しい女子高生に既に全幅の信頼を注いでしまっていた。一人にされることにはおそらく耐えられなかったであろう。 果たして定期券はすぐに見付かった。普通に駅の入口のあたりに落っこちていたのである。 春風は驚喜した。そして初対面の黒髪の女子高生に最大の感謝と親愛を込めてしがみ付いた。 「ありがとうございます! あなたはあたしの命の恩人です!」 「……命は……救っていないわ」女子高生は少々戸惑った様子だった。 「あたし、春風って言います。桃木野春風。中央高校の一年生です。あなたは?」 「久保寺小夜子(くぼでらさよこ)。あなたと同じ中央高校の、一年生よ」 「そうなんですね! だったら……っ!」 春風は久保寺小夜子と名乗った少女の両肩を掴み、頭一つ分高いその少女に林檎のタネが張り付いた顔をうんと近づけ、腹から声を出すように 「あたしと、お友達になってください!」 そう言って春風は満面の笑みと共に小夜子に向けて好意を放射した。された方の小夜子はというと、春風のほっぺたに付いた林檎のタネと同じくらいの大きさの泣きボクロをパチクリ見比べてから 「もちろん良いわよ。嬉しいわ」 そう言って林檎のタネの方を躊躇いなく指で取り除いてやった。 ホームに向かうとちょうど電車が来たところだった。すぐに乗り込む。二人掛けの席がちょうど空いていた。二人はそこに並んで腰かける。素晴らしい友を得たと確信する春風は、終始うきうきとした笑顔を浮かべていた。 「あの。春風さん」 太陽光を跳ね返し黄金色に輝く田園風景を春風と共に眺めながら、小夜子はどこか物憂げな顔で言った。 「もしもこれから、わたしについて人から何か聞いたとしたら、その時は何も遠慮しないでね。あなたのような人と、こうやって一緒に電車に乗っている時間を楽しめただけでも、わたしは感謝しているから」 どういう意味ですか? と春風が小首を傾げた時には、電車が大きく揺れて目的の駅へと到着していた。 〇 幸いなことに小夜子とは同じクラスだった。 「嬉しいです! これからよろしくお願いします!」 春風は満面の笑みを浮かべた。この少女は基本的に良く満面の笑みと言うものを浮かべる。感情とその表現力が豊かなのだ。対して感情表現が柔らかで落ち着いている小夜子の方は、たおやかで控えめな笑みを春風に注ぎながら、優しい姉のような声で 「そうね。わたしも嬉しいわ。これは本当よ」 と言って春風を喜ばせた。 聞けば小夜子は少し遠くの地域から通っているらしく、先ほど駅で出会った時も小夜子としては乗り換えの途中ということだったらしい。 「そうなんですかぁ」 話を聞きながら、春風はリュックサックから取り出した菓子パンを続けざまに三つ平らげ、さらには徳用富士林檎六つ入り一パックを袋から出して齧り始めた。口内の面積にほぼ匹敵する量の林檎を一口に齧りとっても、その健康極まりない桃色の歯茎から出血は一滴たりともない。 小夜子は出来たばかりの友人の化け物染みた健啖ぶりに僅かに身を退きつつも尋ねる。 「さっきたくさん食べていたけれど、またそんなに食べるの?」 「はい。あたしの筋肉はすごくたくさんの栄養を必要とするので、こまめにたくさん食べなくちゃいけないんです! 産まれ付きそういう体質なんです!」 「そ、そうなのね」 喋りながらも春風は次々と林檎を胃袋に収めて行った。夢中になって林檎を咀嚼する春風の口の周りをハンカチで拭いてやる小夜子の瞳には、確かに春風に対する愛着のような物が湧き始めていた。新たな友情が育まれ、二人の高校生活は順調な滑り出しを見せる予感がする。 だがその時、小夜子の背後から棘のある声が鳴り響いた。 「おい。人殺し」 小夜子の顔から血の気が退いた。 なんだか眼つきの悪い、髪を脱色した女子生徒が小夜子を睨みつけていた。登校初日から制服を着崩し、厚めの化粧をして背後に取り巻きらしき女子を従えるその姿は、如何にもな少女漫画的の悪役の趣であった。胸に付けられた名札には『門野』とある。 その門野は怯える小夜子の目の前にずいと一歩踏み込むと、威圧的に顔を近づけ、眉間に皺を寄せてこう言った。 「アタシがいると知らなかったのか? でも良くこんな近くの高校に来られたな。おまえなんか地球の裏側にでも行けば良いだろうに」 「やめてください!」 ただならぬ敵意を感じた春風はその場で立ち上がった。 「何があったのかは知りませんがそんな態度はいけません。それに、小夜子さんが人殺しなんてことがある訳ないじゃないですか」 「おまえは黙ってろ!」 空気を引き裂くかのような大音声が教室中にこだました。室内に沈黙が走り、生徒達の視線が門野達の前に向けられる。 ビビってしまった春風は思わず鼻白んだ顔をしてしまう。門野は溜息を吐くと 「こいつと話がある。おまえは手を離せ」 そう言って小夜子の胸倉を強引に掴み、引きずるようにして教室を出ようとする。小夜子は眉を伏せてされるがままだ。 二人の間に何か確執があることは間違いなさそうだ。だが門野は見たところ上品な人物ではない。しかも小夜子に悪意がある。これを見過ごす訳にはいかない。 「待ってください」 そう言って春風は門野に手を伸ばした。門野がすかさず春風の方に皺の寄った顔を向け、悪意を放射しながら春風を睨み付ける。 「しゃしゃり出んな! 何も知らない癖に……うおおっ!」 春風が強引に門野の両肩を掴むと、たちまち門野の両足が宙に浮く。春風はぬいぐるみでも扱うかのように軽々と門野を持ち上げると、そこに何の重さもないかのようにひょいと小夜子から遠ざけた。そしてゆっくりと床に尻餅を付かせる。 門野は身長百六十センチ、体重五十キロという程度の体格である。言うまでもないが、小柄な女子生徒がこんなに軽々と扱って良い質量では本来ならない。 にも拘らずあっけなく床に尻餅を付かされた門野は、驚きを隠せない表情でしかし機敏に立ち上がった。そして怪力を発揮した春風に対する怯えを振り払うように怒鳴り声をあげる。 「おまえ……何しやがった!」 さてこのまま門野を迎え撃つことは容易だが春風は争いが好きではなかった。世の中に存在するあらゆる概念の中で特に嫌悪するものの一つと言って良いだろう。分数の割り算より不得手かもしれない。だがここで退いてしまっては友人を守れない。 上手く脅かして戦わずして勝利を掴むのが良いのではないか? そう思い、春風は食べる予定だった林檎を持ち上げると、門野に突きつけながらぐしゃりと握りつぶして見せた。 「小夜子さんに手を出すのなら、次はあなたがこうなる番です! 降参してください!」 決まった! 春風は得意げな顔をした。 林檎一つを握りつぶすには握力が八十キログラム以上必要だと言われている。春風たちの年齢における男子の握力の平均はこの半分だ。恐るべき怪力を示す春風に、若干身を退いた様子の門野はしかし、何か思い出したかのように 「おまえ、ひょっとして噂のチビゴリラ?」 そう言って春風に指先を向けた。 途端、春風の両目が見開かれた。そしてその小さな白い顔をみるみる内に紅潮させる。ただでさえ丸っこい形の顔が、見事に赤面する様は林檎のようだ。 「ち……違います! あたしそんなんじゃありません!」 「いやだって……。おまえどこ中?」 「西中ですけど……」春風は素直に答える。 「じゃあ絶対そうじゃん! 他に誰が出来るんだよそんなこと! 産まれ付きミオスタチンの分泌量がどうとかで、力が強いんだろ? そんで四六時中死ぬほど飯を食う! 痩せて見えるのに正体はゴリラだな。やーいやーいゴリラ。チビゴリラ。やーいやーい」 煽られた春風はたちまち涙目になった。挑発としては小学生レベルだが、煽られる方のメンタルが小学生レベルなのだから効果は抜群だ。過去に春風はそのあだ名を中学校中に広められて泣きながら先生に相談した悲しい過去を持っているのだ。赤く染まり切った顔は今にも火を吹きそうであり、これには不戦主義を自称する春風も瞳に煌かせた涙を振りまきながら 「こ、こんのぉおおっ!」 闇雲に手を振り回して門野に襲い掛かった。 「うおおおっ!」 門野は恐怖した様子でその場を飛び退き、春風の攻撃を躱した。武術的洗練など微塵も感じさせないガキンチョレベルのポコポコパンチだが、その威力だけは殺人的だ。春風の拳がぶち当たった周辺の壁に亀裂が走っているのも、元々と言う訳ではないだろう。 「やっべーな。マジバカ力!」門野は冷や汗を浮かべながら春風から身を翻した。「しゃあねえ。今のところは勘弁してやるよ!」 「覚えてろー!」 走って逃げ去る門野と特に台詞を発さなかった取り巻きに、どちらが勝ったのか分からない台詞を春風は浴びせかけた。 〇 入学式から担任の挨拶、各生徒の自己紹介から各種伝達事項へと繋がるその日一日中、門野はそれ以上小夜子に何も仕掛けて来なかった。春風が小さな番犬となって小夜子の周囲にいたからかもしれない。 やがて放課後を迎え、先ほどからずっと思い詰めたような顔をしている小夜子に、春風は努めて明るい表情で話しかけた。 「小夜子さん。一緒に帰りましょう!」 少し間があった。不安になる春風に、小夜子は無理したような笑顔を向けて、優し気な声で 「そうね。一緒に帰りましょう」 そう答えた。春風はたちまち喜色満面。「はいっ」と元気よく返事をして、出来たばかりの友人の手を引いて教室を出ようとした。 「おい。ちょっと待て」 そんな二人に声がかかった。 振り向くと門野がこちらを見詰めていた。つい構えそうになる春風だったが、どうやら向こうには敵意がないらしく、それを示すように門野は開いた両手を頭の上でぴらぴらと振った。 「なあチビゴリラ。この後ちょっと付き合ってくれよ」 「そのチビゴリラっていうのやめてください! あたしには桃木野春風という名前があるのです!」 「それモモキノって読むんだ。春風って、へえ。変わった名前だね」 「おかーさんが付けてくれたんです! 素敵な名前です!」 「ふうん……。じゃあ良いや春風。ちょっとこの後付き合ってくれない?」 春風は目をぱちくりとさせた。 「言っとくけど、絞めるとかじゃないからな。飲み物くらいなら奢ってやる」 春風は面食らった。如何にもいじめっ子的キャラクターを示して来た門野が、春風を屈辱的あだ名で呼ぶことをあっさりとやめてくれたのにも驚いたし、どうやら本当に敵意がないらしいことも意外だった。それにしても 「遊びに誘ってるんですか?」 という春風の解釈は少し能天気過ぎはするが。 「……うーん? まあ、うん。そう言うことで良いのかな?」 「だったら申し訳ありません。あたし、これから小夜子さんと一緒に帰る予定があるので。またの機会に……」 「良いわよ。春風さん。ううん。行って来て欲しいわ」 そう言って、小夜子は春風の肩に手を置いた。その表情は何かしらの寂寥と諦観に満ちていた。 その儚げな様子に、春風はなんだか不安な気持ちになる。この出来たばかりの親切で素敵な友人が、自分の目の前から消えて行くような予感がしたのだ。 「門野さん」 そう言って、小夜子は澄んだ瞳で門野の方を見る。 「全部、話すんでしょう? 構わないわ。伝えてあげて」 門野は敵意の滲んだ瞳で小夜子を見詰めた。元来精神力の強い少女なのだろう。ただ睨んでいるだけなのにただならぬ迫力がある。小夜子はそれに応じるでも受け止めるでもなく、ただ視線を春風の方に逃がして 「春風さん。この人から何を聞いたとしても、それは本当よ。そして、それを聞いて何を思ったとしても、あなたはわたしに遠慮しないで。覚悟は決めてるわ」 そう言って、背中を向けて春風から立ち去って行った。 〇 春風は自宅とは反対方向の電車に、門野と共に揺られていた。 「久保寺小夜子は人殺しなんだ」と門野。 「信じません」と春風。 「本当だって。久保寺も言ってたろ? アタシの言うこと信じろって」 「信じません。あたしが信じられないので、信じません」 むっつり黙り込む春風に、門野は諦めたかのように脚を組み、スマートホンをいじり始めた。 気まずさ等感じない春風はそのまま頭の中で様々に思索を巡らせて過ごした。思い出すのは今朝定期を失くした春風を助けてくれた小夜子の優しい表情だ。パニックを起こして要領を得ない言動を繰り返し、ぐずってばかりいて何も役に立たない春風から、彼女は根気良く話を聞いて冷静に事態を解決してくれた。 春風は長子だが、優しく理想的な姉を思い浮かべるとしたらそのような人物になるだろう。それほどまでに小夜子は親切だった。春風と友達になってもくれた。登校初日から素晴らしい友人に恵まれて春風は嬉しかった。それが人殺しなどと信じたくないし、だったら信じなくたって良いと春風は思う。 電車が停まる。 「着いたぞ」 門野に言われ、春風はリュックを担ぎ直して立ち上がった。 連れて行かれたのはこじゃれた喫茶店だった。建物の前には大きなパラソルの設置された白い丸テーブルが並んでいる。 「こっちだ」 春風は門野と共にテーブルに身を落ち着ける。門野の支払いで注文したトマトジュースをお代わりまで貰って飲んでいると、周辺の席に座る客たちがにわかにざわめき始めた。 否応なく目を引く風体の男が、春風たちのテーブルに歩み寄って来ていたのだ。 やけに肩幅の大きな、大柄な人物だった。つっかえつっかえにぎこちなく歩くその様子は身体に不自由を抱えてそうで、実際その人物は右手に杖を帯びている。 春風とその人物の目が合う。 その顔はケロイドに塗れて真っ黒で、盛り上がった皮膚が目や口を半ば覆い隠していた。ケロイドは本来頭髪があるべき場所をも蝕んでおり、髪があるのは後頭部の僅かな面積だけ。それが人間であるという実感を遠ざけるまでの、衝撃的な容貌だった。 その人物は門野と春風の二人を認めると、やはりケロイドの刻まれた腕を振り上げて、気さくな声で「やあ」と挨拶をした。 その声と百八十センチをゆうに超える大柄な肉体のお陰で、辛うじて男性と判断出来た。男は身体を左右に降りながら杖を突き、遅々とした歩みでテーブルに着いた。 「ぼくは乙坂幸太郎(おとさかこうたろう)というんだ」 それが自分に向けられていることに気付いて、春風は元気良く挨拶を返す。 「初めまして! あたしは桃木野春風です! 高一です! 門野さんとはクラスメイトです!」 「初めまして桃木野さん。聞いた通り、すごく元気が良さそうで、綺麗な子だね。ぼくはこの通りの容姿だから、羨ましいよ」 「ありがとうございます! 嬉しいです!」 乙坂は意外な程若く張りのある声をしていた。あどけないと言っても良いかもしれない。ケロイドで盛り上がった顔も、良く見れば春風と同年代のように思えた。 「ぼくは聡美の……そちらの門野さんの恋人なんだ。もうすぐ三年目なるんだよ」 「そうなんですか」 「このような顔をした、一人では歩くのにも苦労するような男に、どうして彼女がいるのか不思議に思うかもしれない。だが、そこが聡美の素晴らしいところでね。この見てくれや、障害と言った外側ではなく、中身を見てぼくを選んでくれたんだ」 門野は憮然とした顔をしつつも、どこか照れくさそうな、満更でもなさそうな表情を浮かべていた。恋人に褒められるのが嬉しいのだろう。 「具体的にいつから付き合いが始まったのかと言うと、今から二年前、つまりぼくと聡美が中学二年生の時、ぼくの家が火事になってからだ。失意のどん底にあった時に、聡美が支えになってくれた。毎日お見舞いに来て励ましてくれたし、ぼくの恋人になってもくれた。ぼくにとって聡美は、感謝しても足りない、最愛の人物なんだよ」 「それは本当に素敵ですね」 「ぼくの家が火事になったのは、久保寺小夜子が火を付けたからだ」 そう言った乙坂に、春風の心臓が強く跳ね上がる。 「子供部屋で弟や妹と一緒に眠っていた時だ。リビングの方から、母親の叫び声がした。その時はまさかあんなことが起きているとは思わずに、のんきにベッドを起き出してリビングに向かった。そしたら……玄関の方が燃えていたんだ」 春風は口の中が渇くのを感じていた。門野が何かに耐えるかのように自分の身体を抱きしめている。乙坂はただ一人フラットな様子で語り続けた。 「慌ててぼくは弟と妹を起こした。でもどうにもならなかったんだ。外に出るには玄関に行かなければならないが、そうする為には炎の中を突っ切らなければならない。ベランダから外に出られるかも試したけれど、庭はもう火の海で、ぼくはともかく幼い弟や妹はとても越えられそうもない。どうやら久保寺はこうなるように計画して、庭にガソリンを撒いて火を付けたようなんだ。担いで逃げられるのは弟か妹のどちらか一人だろう。ぼくは決断を迫られた」 その情景を想像して、春風は身震いした。自分達を覆いつくす炎と煙。守らなければならない二人の弟妹。 「結局、ぼくは弟の方を担いで逃げた。母親は妹を担いで逃げようとしたけれど、母親は元々腰を悪くしていて、ベランダの柵を超えられなかった。ぼくは全身に火傷を負いながらどうにか庭の外に出たが、途中で歩けなくなり、結局は消防隊に救助された。ぼくと弟は後遺症だけで済んだのだが、母親と妹は死んでしまった」 「それは本当に、小夜子さんがしたことなんですか?」 春風は尋ねた。乙坂は頷いて答える。 「本当だ。ぼくが嘘を吐く理由はない。久保寺小夜子は他に六件の放火事件を起こしていて、十人の死者を出している。当時繰り返しニュースで放送され今もしばしば話題に上がる、一連の連続放火事件さ。当時久保寺は十三歳の中学二年生だったから、彼女が実名報道されることこそなかったが、調べる方法はいくらでもあるよ。何なら、本人に聞いてみたらどうだい?」 確かにそのようなニュースはあった。しかしまさかその犯人があの親切な小夜子だなどと信じられるものか。 いや、本当は分かっているのだ。この乙坂が自分に嘘を吐くはずがない。彼がその身を炎に焼かれているのは見違えようのない事実で、それを齎した者が誰なのかを偽る動機が彼に存在するらくもない。 「なんでその話をあたしにしたんですか?」 春風は尋ねる。 「聡美に頼まれたから。ぼくは別に良いと思ったんだがね」 「良い訳ないだろ」 門野は憮然として答えた。 「そりゃあ、殺人鬼だろうが放火魔だろうが、シャバに出た以上は高校に通うこともあるだろうさ。少年法の是非については言いたいことが色々あるけど、国がアイツを解き放つ以上、アイツはアイツなりに生きてかなきゃならない。それは分かるよ。でもだったら……」 門野の握り拳は怒りに震えている。 「だったらなんでアイツはアタシの前に姿を現した? 確かに、今の高校はアイツが元々住んでた地域から少し離れてる。同級生達と遭遇しないように考えたんだろうさ。でもアイツは実際にアタシの前にその薄汚い面を晒したんだ。真っ当に勉強して、善人面して友達を作って、平和に生きて行こうとしている糞ったれた面を晒したんだ。タダで済ます訳がねぇだろうが! 違うか?」 机を叩かんがばかりの剣幕だった。春風は少し考えて、しかしきっぱりと意思を固めて門野にこう告げる。 「いくら放火魔でも人殺しでも、あなたが好き放題に痛めつけて良い理由はありません」 「分かってるよ!」 門野は吠えた。 「だけど、一度何か非道なことをしたら、それは一生付いて回るっていうのが道理じゃねぇのか? 事実を広められて後ろ指をさされて、迫害されて……そういうのに耐えながら生きるのも、背負うべき責任の一部分なんじゃあないか? どうなんだ? おまえはどう思う桃木野春風!」 「あたしに小夜子さんを裁く権利はありません。多分、あなたにも」 「この女!」 門野は春風の胸倉を掴む。眉間に皺を寄せたその瞳には、僅かに涙が浮かんでいた。 「聡美。今はそれはやめて欲しい」 乙坂が静かな声で言う。門野は手を離して項垂れた。 「なあ桃木野。おまえのその性格だったら、久保寺じゃなくても友達なんていくらでもできるだろう? 明るいし、純粋そうだし……キャラも面白いしさ。アイツはやめておこうぜ? 付き合ってやる理由なんてどこにもねぇよ」 「それはあたしが決めることです。……失礼します」 春風は乙坂に頭を下げて、その場を後にした。 〇 「お母さん。相談があるのです、お母さん」 自宅にて。母親に正座で向き合いながら、春風はそう告げた。 『なんでも仰いなさい春風。お母さんはいつでもあなたの味方です』 「ありがとうございます、お母さん。あたし、今日は高校の入学式でした。中学の頃の友達がほとんどいない高校だったので、不安な気持ちで一杯でした。その上、今朝は事件があったのです。お父さんがあたしの為に買ってくれた定期券を、失くしてしまったのです」 『それは大変だったでしょう』 「はい。ですが、そこで助けてくれた人がいました。久保寺小夜子という女の子です。あたしと同級生だという彼女は、戸惑っているあたしを宥めて勇気付けてくれ、定期を見付けるのを手伝ってくれ、そしてあたしと友達になってくれました」 『それは素晴らしいことですね』 「ですが……彼女はどうやら、かつての連続放火事件の犯人だったのです」 春風は暗い顔をして俯いた。 「小夜子さんが点けた火によって家族を失った恋人を持つ、ある女の子は言います。一度非道なことをしたら、それは一生付いて回ると。悪評を広められ、孤独に生き続けることが償いの一部分であるのだと。お母さんはそれをどう思いますか?」 しばしの沈黙の後、母親は答える。 『過去は必ず付いて回ります。しかし、人は変わることもできます。重要なのはその人が過去に何をしたかではなく、その過去を経たその人が今どんな人物なのかということです。今あなたの目の前にいるその人があなたにとって好ましい人物なのなら、自分の気持ちに従ってその人を愛することは、いけないことではありません』 「もちろんです。では、彼女を愛する上で、あたしは小夜子さんの罪とどう向き合えば良いのでしょうか?」 『その方と友達になるからには、全てを受け入れる覚悟がいります。それが出来るかどうかは、その人と接する中であなたが決めれば良いのです。あなたなら必ず見極められます』 母親は間抜け面で口を半開きにする娘に優し気な声音で語り掛ける。 『当たり前のことですが、どんな罪を犯した人にも幸せになる権利はありますし、友達を作る権利はあります。逆説的に、どんな罪を犯した人とでも仲良くなる権利はありますし、幸福を願う権利はあなたにあるのです』 春風は頷いた。お母さんの言うことは正しいと心から思った。 『あなたはその方の優しさに触れ、親愛を感じているのでしょう? であれば、あなたはその心の赴くままにその人と接し続ければ良いのです。もちろんあなた自身がその方に礼節を持って振る舞うことも忘れてはいけません。そしてその中で互いへの敬意と愛が深まり、親友となることが出来たのならば……』 母親がタメを作ったので、春風は痺れていた脚をどうにか組み直して正座で向き直った。 『あなたはその人の支えになってあげなければなりません。その人の一生涯は自らの罪と向き合うことにあります。それはあまりにも過酷な茨の道です。傷付いたその人は血や涙を流し、時に差し伸べられる手を希うでしょう。その時、あなたのその手がその人の心に届くよう、あなたは常に愛と礼節を持ってその人に接し、時に慎重に時に大胆にさらには敏捷にかつ正確に、厳格かつ優美、硬派かつ柔軟、速きこと風の如く静かなること林の如く侵略すること火の如く動かざること山の……』 「うるせぇええええっ!」 母親との濃密なやり取りに耽る春風を、目を赤くして怒鳴りつける声があった。弟の桜である。 「姉ちゃん今何時だと思ってんの? 俺明日も朝練あるんだけ……」 仏壇の前で、母親の遺影に向けて一人芝居していた姉を目の当たりにし、桜は溜息を吐いた。 「……まあ良いや。けどそれ、程々にしとけよ」 「わ、分かりました。あの、寝るの邪魔して、ごめんなさいね」 「良いって。気持ちは分かるから」 桜はそう言って、何か掛ける言葉を探すように複雑な顔で沈黙した。 どうやらこの弟は自分を心配してくれているようだ。しかし弟に気を使わせてしまうのはお姉ちゃんとして良くないことである。このまま心配な気持ちのままにさせておいては、きっと明日に差し支えるだろう。桜はサッカー部に所属していて、春風に似て小柄な彼は背番号が貰えていない数少ない三年生という立場から這い上がれるか否かの瀬戸際なのだ。 ここは一つ、いつものようにおどけてみせて心配ないことを示してあげよう。そう思い春風は「ねぇ、桜くん桜くん」と弟に呼びかけた。 「なんだよ」 「遺影の前で……」春風は母親の遺影の隣に顔を並べて横ピースした。「イエイ!」 ティッシュの箱が飛んで来て春風の顔面に命中した。サッカー部やめて野球部のエースになった方が良いんじゃないかというような球威とコントロールだった。糸引くような抜群のストレート。彼ならばきっと甲子園も射程圏内だ。 「寝ろ」 「はい……」 弟に睨まれて、春風はすごすごとティッシュ箱を定位置に片付けて、自室の布団に潜り込んで、そこから二分で眠りに着いた。 〇 翌日、駅のホームに着いた春風は真っ先に小夜子の姿を探した。 小夜子はどこにもいなかった。春風は始業時間内に登校できる最後の電車まで小夜子を待ったが、結局彼女は現れなかった。しょうがなく、一人で学校に行った。 小夜子は教室で一人で机に伏していた。 春風は小夜子に歩み寄ると、元気の良い声でこう言った。 「おはようございます! 小夜子さん!」 小夜子は一瞬身体をびくつかせると、恐る恐ると言った様子で顔を上げた。その表情には遠慮や怯えが見て取れる。 春風ははちきれんばかりの親愛を込めた笑顔を向けた。 「今日から授業が始まりますね! 休み時間は一緒にお話ししましょう。お昼休みは一緒にお昼ごはんを食べましょう! もし時間があったら、一緒にトランプをして遊びましょう。あたし、スピードが得意なんです! 弟にもたまに勝てる時があるんです、このゲームなら!」 「あの」 小夜子は口を開く。 「門野さんからわたしのこと聞いていないの?」 「聞きました! 連続放火事件の犯人だというのは本当なのですか?」 「……本当よ」 小夜子は口ごもる。 「あの」 小夜子はさらに口ごもって、絞り出すような声で告げる。 「……無理しないで良いから」 「無理してるように見えますか?」 春風は尋ねる。小夜子は信じがたいと言った表情で首を横に振った。 「あたしの方からお願いしてお友達になってもらったのです。過去に何があったとしても、関係がありません。先入観抜きにして今現在の小夜子さんにあたしは出会い、そしてお友達になりたいと願ったのです! 当然、友情を継続することを望みます! それが当たり前なのです」 「分かっているの?」小夜子は戸惑ってさえいた。「わたしと仲良くすることがどういうことか。出会ってたった一日しか経っていないのよ? そんなわたしの為に、どうしてそんなことまで言ってくれるの?」 「友情に時間は関係ありません。それに、出会って一日しか経っていないなら、小夜子さんにはあたしの知らない部分がたくさんあるということです。それを知らないまま小夜子さんと疎遠になるなんてもったいないことです」 放火をしてしまったのなら、どうしてそんなことをしてしまったのかをいつか話して欲しい。自分がしたことをどう考えているのかも知りたい。これからどう生きて行くつもりなのかも。その時自分に何を出来るのかも。そうしたことを何も知らずに、ただ放火魔であるというだけで小夜子を見限ってしまうことは、春風にはどうしても短慮に思えてならなかった。 春風の澄み切った瞳を見詰めている内に、小夜子もようやく春風の想いを理解できたようだ。小夜子は顔を赤くし、目頭を押さえ、零れ落ちる涙を手の甲で拭いながらこう言った。 「ありがとう」 〇 2 〇 「わたしね。他人には親切にしようと心に誓っていたの」 小夜子は春風にそう語った。 「例え誰にどんな風に言われようと、どんな扱いを受けようと、それでも他人には親切に優しく振る舞おうと決めていたの。わたしのような人間が生きて社会に存在していることを少しでも認められるには、そうあり続けなければいけないって、施設の先生もそう言っていたから」 春風は頷いた。実際、小夜子はどんな相手にでも親切だった。春風の定期券を探してくれたことに端を発し、教室でも人が嫌がることを率先して引き受け、困っている人には些細なことでも手を差し伸べる。それはとても勇気のいることだと春風は思う。 だがしかし、たいていは迷惑がられることが多かった。皆小夜子と関わることを避けているのだ。 小夜子の過去の犯罪は門野によって教室中に触れ回られていたし、真偽を確かめに来るクラスメイト達に小夜子は必ず真実を語った。最早小夜子を敬遠し孤立させておくことは教室中の決定事項にあるようで、善良な者で小夜子を腫れもの扱いし悪質な者達は聞こえよがしな悪口を囁き合った。 もちろん、門野自身はその筆頭だった。 門野はその気の強さと独自の対話力で門野軍団とも呼ぶべきコミュニティを築いていた。いわゆる教室内上位カーストだ。門野自身小夜子への悪意を除けば公平かつ面倒見の良い人物であったし、容姿や能力も悪い方ではなくコミュニケーション能力は人並以上にあった。クラスの中心人物であることを容認されるだけの器は客観的にも存在しており、春風自身小夜子のことがなければ好意を抱いていただろうという程だった。 門野は友人達を巻き込んで、小夜子に聞こえるような場所で頻繁に悪口を囁いた。 「良くまともに高校なんか通えるよね」 「被害者に申し訳ないとか思わないのかな?」 「あんな奴に幸せになる権利とかあるの?」 「ホントムカつく」 小夜子を責める権利が無関係の取り巻き達にあるとは春風には思えない。コミュニティ内の結束を高める為の仮想敵として扱われているという印象が感じられる。しばしば春風はそんな彼女達に噛み付き、いくつかの小競り合いを起こすこととなった。 春風もまた上位グループに煙たがられ、教室内で少しずつ孤立し悪口の対象にもなった。門野自身は春風に対しては何もしなかったが、しかし取り巻き達が春風を貶めることは見過ごしていた。 ただそれくらいなら大してつらい訳ではなかった。春風も完全に独りぼっちという訳ではない。小夜子という友人は春風が最初に感じ取ったとおりの親切な人物であり、春風に対しては特に献身的な優しさを見せた。勉強を教えてくれ悩み事を聞いてくれトランプでは気付かれないように接待までしてくれた。想像していた高校生活とは違ったが、春風は十分に楽しかった。 しかし悪意という物は時に増幅するものだ。特に集団で共有する悪意というものは、その集団に根付いて切り離せないものとなり、風化することを知らず際限なく深まっていく。小夜子を取り巻いた無視や悪口はやがて、明確で直接的ないじめという形を取るようになっていった。 〇 朝、小夜子と共に登校した春風が目の当たりにしたのは、床にぶちまけられた小夜子のロッカーの中身だった。 小夜子は適度に教材を自宅へ持ち帰る人間だが、それでも最低限度のものは教室に残す。教材のいくつかは踏みにじられたように上履きの跡が刻み込まれ、無残な有様を晒していた。 俯いて、しかし何も言わずに、囁くような嘲笑の中で教材を片付け始める小夜子を横目に、春風は怒りの眼で門野の方を見詰めた。 「門野さん! いつまでこんなこと続けるつもりですか?」 「アタシだっていう証拠はあんのかよ?」 門野は飄々として言った。 「これ、先生に言いつけますからね」 「好きにしろよ。センコーだって別にそいつの味方しねぇだろ? そりゃあはっきりアタシだと分かるような何かがあったら対応せざるを得ないかもしれないが、状況証拠で本気で調査したり聞き込みしたりすると思うか? 朝会とかでおざなりに注意喚起してそれで終わりだよ。その程度の扱いしか受けられないのが、ま、罪人たるそいつの運命って訳だ。良い気味だね」 門野の言葉に取り巻き達の嘲笑が続く。思わず春風の目の前が真っ赤になった。 思わず腕なり肩なり掴みそうになる春風を、横から小夜子が飛び付いて止めた。 「春風さん。良いから」 宥めるような口調でそう言われる。春風は忸怩たる思いだった。 春風は小夜子を手伝ってロッカーを片付ける。「ありがとう」と礼を言われたので、春風は首を横に振った。 「小夜子さん。あの、あたしをけしかけたって全然良いんですよ? お友達なんですから。頼られるのはとても嬉しいことです。争いは嫌いですが、あんなことをする人達のことはもっと嫌いです」 「気持ちは嬉しいけれど、でも、わたしは自分の身に降り注ぐ色んなことを、全部受け入れることを決めてるの」小夜子は儚げな笑みを浮かべた。「もちろん、こんなことをされるのが嬉しい訳じゃない。ただ、色んなことを正面から耐えながら、いつも笑顔を浮かべて他人に親切に振る舞っていれば、あの人達もいつかはあんなことをやめてくれるはず。そう信じているの」 春風は不思議だった。小夜子の言うことを支持する訳では決してないが、しかしそれがどれほど強固な意志に基づいた立派な考えであるのかは理解できる。これ程の信念を持ち続けられる小夜子という人間が、どうして過去に連続放火事件など起こしてしまったのか。 何か事情があったのだとは思う。けれど、それが何なのか。今は訊かないでいる春風だったが、教えてくれる日を望んでやまなかった。 〇 放課後。小夜子が用があるからと早退していた為、春風は少しぼんやりしてから一人で教室を出た。 靴を履き替えて校門を出ようとした時、春風は背後から足払いを掛けられて転んだ。 「ふぎゃふん」 春風の足腰の筋肉は強靭だが運動神経自体は人並よりは良いと言った程度だ。足払いを掛けられれば普通に転ぶ。顔面から地面に衝突し鼻血をぶちまけた春風は半泣きの状態で立ち上がり、背後で笑い合っている女生徒達に抗議した。 「何するんですかーっ!」 門野の取り巻き連中である。門野自身はどこにもいない。もしいたら小夜子にはともかく、春風に対してこのような暴力的なことはしないだろう。 「痛いじゃないですかっ。鼻から血が出たじゃないですかっ。どうするんですか鉄分が足りなくなっちゃいます貧血ですよ貧血! 落とし前にホウレン草買って下さい! ホウレン草!」 「あのさぁ桃木野。あんた、いつまであんな奴の味方すんの?」 取り巻きの一人……朝霧という女生徒が冷たい声で言った。 「あんたのそのバカが本物なのは知ってる。けどさ、このまま久保寺を庇ってたって何も良いことないよ。分かるでしょ?」 「小夜子さんは良い人です! 一緒にいるのは楽しいです」 「でも放火魔なんだろ?」 「何か理由があったに違いありません」 「だから、その理由っていうの、話してくれたことってある?」 「ありません。ですが、いつか時期が来たら話してくれます」 「話しててもラチが明かないみたいだね」取り巻きは溜息を吐いた。「じゃあ、もっと酷いことをして分からせてあげる」 そう言うと、朝霧他数名はわらわらと春風の周囲を取り囲んだ。春風の額を汗が伝う。これは気に入らない同級生をトイレとかそういうところに連行して酷いことをする時のフォーメーションだ。 いくら春風が怪力の持ち主でも、数的有利を背景にどうとでも出来ると考えているらしく、実際それは一面的に正しかった。自衛の結果相手にケガをさせることが予想される時、春風はしばしば降伏を選ぶ。 「やめないか」 春風が大人しく連れて行かれることを選択しようとした時、背後から凛とした声が響いた。 朝霧他数名が一斉にそちらに向けて振り向く。「ひっ」というくぐもった声が彼女達の中で沸きそうになったが、それはすんでのところで押し留められる。それが自分達のボスの恋人だったからだ。 真っ黒なケロイドに塗れ、杖を帯びて身体を左右に不利ながら歩き、頭髪のほとんどを失った大男……乙坂幸太郎は静かな声で取り巻き達に声をかけた。 「やめないか。その子をいじめることにそれほど筋の通った大義がある訳でもないんだろう。自分のしていることを、良く考えてみなければいけない。自分達の品位を落としてしまうよ」 穏やかに叱責するその態度には何らかの威厳が備わっている。二人の弟妹を持つ長子だったという経験がそこに影響しているのかもしれない。それに対する朝霧はまさしく叱られてバツの悪い子供のような表情で 「でも、こんなこと、皆やってるし」 等とぶつくさ言った。他の取り巻き連中は同調するように頷いて見せる。 「海を割ったモーゼは、逃げていたヘブライ人達を向こう岸に辿り着かせた後、海を閉ざして追手であるエジプト兵たち全員を沈めてしまった」乙坂は諭すような声で言った。「エジプト兵全員が死に値するほど邪悪だったとは、ぼくは思わない。中には、何も考えず付いて来ただけの者や、暮らしの為にやむを得ず従っていた者もいただろう。しかしだとしても、彼らは海の底へと沈められたんだ。……理由はどうあれ、邪悪に従っていたからね」 朝霧たちは面食らった顔を見合わせる。その語り口調や内容が高校生離れしていたからだ。浮世離れしているとも言えるかもしれない。 「このままだと、君達もやがてそうなる。皆がしているからと自らの意思を持たずに邪悪を成せば、どうあれ海に沈むのが宿命というものだ。そうなりたくなければ、さあ、彼女を離すんだ」 朝霧たちは顔を見合わせつつも、操られたように春風を開放した。彼の話に納得したのかは分からなかったが、とにかく従わねばならないと感じさせる不思議な力が乙坂の声には備わっていた。 「偉そうなことを言ってすまないね。ところで、聡美を探しているんだが、どこにいるか知らないか?」 「……いつもの喫茶店って行ってたよ。つかケータイ持ってないの?」 「指が震えて上手く操作できないんだ」乙坂は焼け焦げた手のひらを晒す。「教えてくれてありがとう。それじゃあね」 乙坂は杖を突きながら身体を振り、校門から離れて行く。春風はその背中に追い縋って 「介助しましょうか?」 と尋ねた。 「いや、構わない。余計なお世話と言う訳では決してないが、一人で歩くのに十分馴れてるからね。家族にだって頼むことは最近だとあまりないんだよ」 「そうなんですか」春風は頷いた。「あの、助けてくれてありがとうございました」 「気にすることはないよ」 「どうしてあたしを助けてくれたんですか?」 「どうしてとは? 当然のことをしたまでで、というのではいけないのかな?」 「それは……」 迷いつつも、しかし春風はこう尋ねることを自制できなかった。 「あたしは小夜子さんのお友達です。さっきの人達に言わせれば、小夜子さんを庇いたてています。そして、あなたにとって小夜子さんは、大切な家族の敵のはずです」 「彼女らは正義や信念からあんなことをしている訳ではない。彼女らは集団的浅慮に陥っていて、それが為に自らの品位を落とすような行動をして憚らないだけだ。それは彼女らの為にならない。忍びないというものだ」 そう言って乙坂は静かな瞳で春風の方を見詰める。ケロイドに塗れた皮膚の奥にあるその瞳は、酷く混濁して見える。良く見えていないのかもしれない。だがそれでも春風は何か見透かされるような視線を感じていた。 「邪悪に従う者は邪悪と共に海の底へと沈む。覚えておくことだ。それは当然の報いなんだよ」 ぞっとするような声が春風の全身に染み込んでいく。何も言えなくなっている春風に、乙坂は静かに背を向けた。 常人よりも遙かに遅いその歩みを、しかし春風は追いかけることが叶わなかった。 〇 高校生活も既に開幕を終え序盤戦と向き合うに頃に至り、手始めとばかりに中間試験と言う試練が春風の元に降りかかることとなった。 これが想像以上の難敵であり春風を強く苦心させた。元々父と弟からの『やめとけ! やめとけ!』という二重奏を振り切る形で受験を志し、半ば精神力だけで今の高校に合格したのが春風という人間であって、元々の知性や学習能力という点において他の同級生に劣るのは否めない。膨大なテスト範囲を前に春風はあっけなく戦意を喪失し、独力でのテスト突破を諦めるに至った。 「小夜子さん。勉強を教えてください!」 その誘いを小夜子が断る訳もない。放課後帰りの電車をずらしてまで小夜子は春風の勉強を見てくれた。そしてこれが非常に分かりやすいのである。小夜子はトップクラスの成績を持つのみならず何か教師の才能らしきものを持ち合わせており、同じ質問を繰り返しいつまでたっても理解を果たさぬ春風のペースにも笑顔で付き合って、彼女の習熟を促した。 すっかりそれに依存した春風はその日も小夜子に教えを乞い、傾いた太陽が沈む気配を漂わせた始めたあたりまで勉強会は続けられた。 「勉強教えてくれてありがとうございます。あなたは命の恩人です!」 感謝を述べる春風に、小夜子は「命は……救ってないわ」と苦笑してみせた。 そして二人はんで校舎を出る。そこで小夜子は、何かに気付いたように空を見上げた。 灰色の雲はオレンジの空の色を滲ませ、昼間と比べ遙かにくっきりと円形を直視できる太陽は今にもとろけだしそうだ。そのように綺麗な空模様に目を細めながら、小夜子はどこか憂鬱そうな声でこう呟いた。 「……夕日か」 「どうかしましたか?」 「いえ、何でもないの」 微笑む小夜子。何でもないと言われれば『そうか何でもないのか』と納得するのが春風であり、それ以上訝しむでもなく、教えてくれたばかりの数学の公式について質問しようと口を開きかける。 その時だった。 小さな道の交差点に差し掛かっていた二人の目の前に、一台の自動車が突っ込んで来た。 思わず目を閉じてすくみ上ってしまった小夜子に対し、春風の動物的反射は迅速だった。小夜子の肉体を持ち前の怪力で軽々と持ち上げて、その場を素早く跳躍する。抱え上げられた小夜子の長い髪が自動車をかすってしまう程の、それはまさに間一髪の回避劇だった。 「大丈夫ですか?」 春風は友人の安否を気遣う。小夜子は目を丸くして固まったまま春風に抱かれており、呆けたように目をパチクリとさせるその姿は、普段の成熟した同級生とは別人のような印象を受けた。日ごろ感じている大人びた美人的印象は影を潜め、同じ顔なのにどこかあどけなさが感じられる程だ。 「……小夜子さん? どうしましたか?」 そう言うと小夜子は小首を傾げて春風の腕から起き上がり、夕焼け空を眺めて尖らせた唇から小気味の良い息を吐いた。そして大きく伸びをして「ぷはあっ!」と普段小夜子が発さないような快活な声を上げると、頭をボリボリ掻きむしりながら春風の方を見てこう尋ねた。 「あんた誰?」 「……は?」 春風は面食らってそう言うしかなかった。 〇 春風は最初こそ混乱していた。しかし彼女のいくつかの長所の内の一つは、あらゆる奇怪な状況を丸ごと飲み込んでしまえる大らかさである。能天気さと紙一重の冷静さで、春風は現状について思索を巡らせた。 知人が唐突に自分を忘れたなどと言いだした場合、考えられる説は主に三通りである。一つは単にふざけている説、二つ目は記憶を喪失したという説、三つ目は『そこにいるのが自分の知っている知人ではない』という説だ。 ふざけているのは小夜子の性格からしてなさそうだし、記憶喪失だとすれば今の小夜子は冷静過ぎる。春風は三つ目の説を取った。今、目の前にいるのは小夜子であって小夜子ではない。そう考えると、小夜子の態度や喋り口調が突然変化したことにも納得がいく。 恐る恐る、春風は目の前の人物にこう尋ねた。 「あの。あなたはいったい何者なんですか?」 「そっちこそ」 どういう訳か財布の中の紙幣を数え始めていた小夜子は、無遠慮にこちらに指を突きつけて 「こっちが先にあんた誰って訊いてるんじゃん? その名札なんて読むの? モモキノ? ああ、ひょっとして涼子の連れの桃木野春風?」 小夜子ならまずしないような言葉遣いでそう尋ねた。 「そうです。あたしは桃木野春風です。そちらは?」 そう言うと、小夜子の姿をしたその人物は、あどけない笑みを浮かべながら、「夕子」と端的に答えた。 「あなたは小夜子さんではないのですか?」 「小夜子でもあるよ。涼子から聞いてない? 『僕達』のこと」 喋り方も表情も何なら声色ですら、春風の知っている小夜子とは異なっているように感じられる。これでふざけているだけなのだとすればとんでもない大役者だ。 春風は目の前にいるのが小夜子の別人格であることの確信を強めながら尋ねる。 「聞いていません。涼子というのは誰ですか?」 「あれぇ? それも知らないの?」夕子と名乗ったそいつは意外そうに両手を晒して見せる。「涼子だよ涼子。そいつがポスト人格だし、『僕』も『小夜子』もあんたには会っていないから、涼子に間違いはないんだけどなあ」 「あたしが会っていた小夜子さんのことを、あなたが涼子と呼んでいるということなんでしょうか?」 「涼子が涼子と名乗らなかったならそうなんだろう」 「あなたは、あなた達は多重人格者なのですか?」 「だから、そう言ってるじゃん」 驚くべきことだったが春風の適応は早かった。春風自身怪力と大食いという稀少な性質を持って生まれた変わり者だったし、『小夜子』が多重人格者であると考えれば、色々なことが腑に落ちたからだ。 春風はそれを尋ねて良いものなのか迷いつつも、しかし誘惑に抗えず夕子に問いかけた。 「お尋ねします。二年前の連続放火事件を起こしたのは、あたしの友達のその『涼子』さんなのですか?」 「違うよ」 そう言うと、夕子はどこか得意げな表情すら披露して見せた。 「放火事件を起こしたのはこの僕さ。十四歳の誕生日が来るまでに、何人殺せるか挑戦したんだ」 夕子はそう言って、夕焼けに染まった空に顔を向け、その鮮やかな夕闇色を全身に浴びるように両手を晒しながら 「炎が好きなんだ。どんな抵抗も意味をなさずに色んなものを飲み込んで大きくなり続ける、眩くて真っ赤な炎が大好きで……。だから色んな家に火を付けて回った。楽しかったよ。楽しくて楽しくて……」 頬が裂けるかのような満面の笑みを浮かべる。その笑顔は悪戯の成功を自慢する子供のように無邪気なものだった。自分の引き起こした悲劇に何の感慨も抱いていないことが分かるような、残忍でしかし純粋な笑みだった。 「六件の家を焼いて十人を殺したんだ。すごいだろ?」 得意がる夕子に、春風は思わずうなずいてしまいそうにすらなった。その様子が、高く積んだ積み木を誇る子供のように、あまりにも無垢なものだったから。 〇 夕子と並んで夕焼けの下を歩きながら、春風は何を言って良いのか、どうして良いのか分からなかった。 目の前にいるのが連続放火魔なのだとすれば、それを放置しておくのが危険なことは良く分かる。他の誰かに任せられない以上自分が『夕子』から『涼子』に戻るまで監視するしかない。途方に暮れる春風だったが、彼女が何かするのに先んじて夕子が 「ねえ、一緒にゲーセン行かない?」 と誘いをかけたので、一先ずはそれに従うことにした。 モールに併設されているゲームセンターに向かう。夕子は嬉しそうにスキップなどし始めた。普段の『小夜子』なら絶対にしないはしゃいだ行動である。ひょっとすると、この夕子という人物が、今のように肉体の操縦権を手にすることは稀なのかもしれない。それが上機嫌に結びついているのだ。 「ねぇ春風! これやろう、これ!」 ゲームセンターでゾンビを撃ちまくるタイプのガンアクションゲームを指さした。こういう殺伐とした世界観を春風はあまり得手ではない。もっとファンシーなのが良い。星のカービィとかが好きだ。春風にとってあの大食らいの桃玉にはなんだか他人とは思わせない何かがある。 しかしそんなことはお構いなく春風は夕子に手を引かれ、銃を握らされ、スコアを競わされることになった。 結果は惨敗だった。襲い来るゾンビを大虐殺した夕子は月間ランキングの三位に食い込むという快挙を成し遂げ、対する春風はステージの半分を終える前に寄ってたかるゾンビに食い殺された。 「下手くそだねぇ」 涙目を浮かべて呆然とする春風に、夕子は勝ち誇ったようにそうコメントした。 その後も夕子は目に着いたゲームに春風を引っ張り込み、圧倒的なスコアで春風を完封すると言うことを無邪気に続けた。いずれも脅威と言えるスコアを上げていることから、どうやらゲームの才能があるらしい。 しかしここまでやられっぱなしだと流石に悔しくなってくる。春風は設置されているいくつかの筐体に目をやると、自分でも人並以上に出来ると信じるゲームを発見して夕子に誘いをかけた。 「小夜子さん、じゃなくて夕子さん。あれをやりましょう、あれ!」 それはワニワニパニックの筐体だった。どういうゲームかはまあ説明しなくてもたいていの者には分かるだろう。飛び出して来るワニの模型を叩いてスコアを競い合う昔ながらのアレである。 「あれぇ? まった古臭いの好きなんだなぁ」 等と言いながら夕子は付き合ってくれた。そして八十二点というさしたることもないスコアで胸を張る春風の鼻を、夕子は上限である九十九点でものの見事に圧し折って春風を意気消沈させた。 しょげかえり、とうとうベンチに腰掛けて唇を尖らせるという態度に出た春風のアタマを、夕子が笑いながらハンマーパコパコ叩く。 「何? 何しょげてんの春風。下手くそ春風」 「うるさいですねぇ。お腹空いただけですよぅ」 「あっそ。じゃ、ちょっと待ってなよ」 等と言い、夕子は春風から離れて行ってしまった。そのまましょんぼりしていた春風が夕子の監視という使命を思い出してはっと立ち上がった頃、夕子は両手に大量のお菓子の箱を抱えて戻って来た。 「クレーンゲームで取って来たよ。ほら!」 「お……お……」春風は目を輝かせた。「おおおおっ! すごいですぅうう!」 驚喜した春風は受け取った菓子の箱をまじまじと見つめた。両手に抱えきれない程ジャンボなポッキーの箱や本物のバット程もあるチョコバット、抱き枕と見紛うようなうまい棒。こうしたクレーンゲームの景品特有の冗談のような菓子類に、春風は強い憧れを持っていたのだ。 「あたし! あたし、前からずっとこういうのが食べて見たくてっ! でもクレーンゲーム下手だからっ! 諦めてて! すごい! すごいのです!」 「アハハハっ。そりゃあ良かった。いーよいーよ全部あげる。持って帰って良いぜ。あ、でもちょっと荷物が多すぎるかな?」 「いえ、大丈夫です!」春風は宣言してチョコバットの袋を開けた。「この場で食べます!」 小首を傾げる夕子の前で、春風は猛然とチョコバットに齧り付いた。それが瞬く間に彼女の威袋に吸い込まれていったのは言うに及ばないことである。春風は続けざまに美味い棒を片付け、夢中の様子でポッキーを齧り始めた。 「うっわぁ。涼子から聞いてたけど……本当にすごい胃袋してるね」 身を退いたように夕子は言った。 「小夜子さ……涼子さんとはやり取りがあるんですか?」 春風はポッキーを大量に咥えながら興味を持って尋ねた。 「そうだよ。記憶の共有とかはないけど、会話は時々」 「あなたと涼子さんは別人なんですよね」 「そうとも言えるし、そうでないとも言える」夕子はどこか自嘲気に言った。「僕や涼子は、小夜子自身でもあるけれど、同時に、小夜子という人間に出来た癌や腫瘍のようなものでもあるからね」 「癌や腫瘍?」 「そ。それを素早く分析出来たからこそ、『小夜子』は予想より早く施設から家に帰れたんだな。危険なのは僕という『デキモノ』であって、『小夜子』自身には問題がないって訳さ。さらには僕を完璧に抑え込む力を持った涼子って人格が作られたから、『小夜子』は施設の外に開放されたって訳なんだよ」 なんだか小夜子という友人に纏わるクリティカルな話を聞かされている気がする。いや、春風が仲良くしていた人物は正しくは『涼子』なのだ。『小夜子』ではなく。 「あの。あたしが会っていた涼子さんというのは、いわゆる主人格とは異なるんですかね?」 「むしろ一番の新参とも言えるね。涼子ってのは、僕が起こした連続放火事件の罪の意識を肩代わりする為の人格さ。ついでに涼子には僕を抑え込み制御する役割と能力も与えられている。お陰でここ何年か僕はずっとスポットに出ることが出来なかった」 それを聞いて、春風は自分の考えが間違っていなかったことに気付いて安堵した。涼子は春風の信じていた通りの人物だった。悪の人格から『小夜子』を守り、その罪を肩代わりして社会と誠実に向き合う救済者的人格こそが、春風の知る涼子だったのだ。 「『小夜子』って奴はさ。何か耐えられないことがあると、別の人格を作って肩代わりさせる傾向があるんだよね。母親からの虐待に耐えられなかった時に、僕っていう人格を作って代わりに虐待を受けさせたのと同じようにね」 「小夜子さんって、お母さんから虐待されてたんですか?」 「そうさ。十歳の頃だったかなあ。いやあ、酷かった酷かった。殴る蹴る熱湯はかける、食事は抜かすし冬の夜にも平気で締め出す。流石に僕も耐えかねてさぁ。……母親が寝ている部屋に灯油ストーブを移動させて、そこに燃え移るようにカーテンに火を点けたんだ」 夕子はどこか誇るかのように、爛漫とした口調で話す。 「あの時見た炎は忘れられない。巻き込まれないように僕は真っ先に外に逃げたんだけど、もうすごかった! ちょうど今日みたいな鮮やかな夕焼けを背に、燃え上がる炎は大きくて、家が焼ける轟々とした音は鳥肌が立つ程で……。あんなに憎かった母親が悶え苦しんで焼け死んでいるんだと思うと興奮してたまらなかった。自分が特別な存在であるかのように思えたよ」 「そ、そんなことをして、捕まらなかったんですか?」 「うん。全然バレなかったよ。事故ってことになった。疑う奴もいたけど、僕は口を割らなかったからね。そんで離婚して出て行ってた父親の方に引き取られて、苗字が椋本から久保寺に変わったんだ」 春風が促すまでもなく、夕子の昔話は続けられる。 「母親の虐待が無くなったことで、僕はスポットにあまり立つことができなくなった。スポットっていうのは肉体の使用権を表す言葉ね。しかし表に出る機会が一時的に減少したからと言って、僕が完全に消えてなくなる訳じゃなかった」 夕子は退廃的な笑みを浮かべながら語り続ける。 「中学に上がる頃になるとさ。小夜子も自分が……僕というもう一人の『小夜子』が母親を殺したっていうことを悟り始めてさ。ショックで精神力が弱まるのに乗じて、僕は小夜子からスポットをぶんどった。さて何をしようとなる訳だけれど、普通に過ごすのはとても面白くないよね?」 春風の胃がシクシクと痛む。無数のゲーム筐体から流れ出る耳障りな大音声が遠く感じられた。 「僕は自分の運命に不満があった。小夜子に勝手に生み出されておいて、小夜子に寄生するような形でしか生きられないんだからね。だがそれは同時に自分のしたことに大して責任を持たなくて良いことも意味するんだ。何をやってもその罪は小夜子が引き受けてくれる。だったら好き勝手やってやる。僕のしたいように。それは僕を生み出して母親への生贄として差し出した小夜子への復讐でもあったんだ。僕は夜中に家を抜け出して、色んな家に火を点けるようになった」 夕子は自分のしたことに何の痛痒も感じていない表情で 「母親を焼き殺した時の興奮をもっと味わいたいと思ったんだ。もっとも、いくら責任を取るのが小夜子だと言っても、刑務所に入れられたり死刑になったりしたんじゃ僕にも不都合だ。放火を愉しむのは十四歳の誕生日まで。ただそれまでは思いっきりやってやる。僕は挑戦者となって何人を焼き殺せるかのタイムアタックに興じた。百人は行けると思ったんだけどね。十人焼いた頃に捕まっちゃった」 上手く行かないね。と締めくくり、夕子は肩を竦めた。 「その施設で僕らの多重人格が発覚して、治療が行われて、救済人格足り得る涼子という人格が作り出された。涼子は人格の統合までは成し遂げることは出来なかったが、僕を自在にスポットから追い出して抑え込むだけの力量は備えていた。お陰でここ数年ずっと封印されっぱなしさ。今日出て来られたのも奇跡に近い。今が夕焼けだからだろうね。精神科医や父親が知ったら腰を抜かすだろうな」 「あなたはこれからも、時々こうして人前に現れるのですか?」 「そうしたいところだけれど、無理じゃないかな? 涼子の精神の力は尋常じゃなく強いからね」 「あなたは自分が過去に引き起こした犯罪をどう思っているのですか?」 「楽しかったよ。反省なんかするもんか。……って言ったら軽蔑するかな?」 「あたしの方から尋ねておいて難ですが、軽蔑します。あなたは考えを改めなければいけません」 「ハハハっ。正直に言うね」夕子は愉快がるようですらあった。「でもさ、僕を軽蔑するってことは、それは涼子を……『小夜子』全体を軽蔑するっていうことでもあるんだぜ? それはどう思ってんの?」 そう言われ、春風は納得がいかずに眉を顰め、彼女にしては低い声で答えた。 「何故そうなるんですか? あなたと涼子さんは別人です」 「別人な訳あるか。同じ『小夜子』だよ。良いかな? 人間には様々な一面があるのが普通だ。僕らの場合は、それが複数の人格という形で顕現しているだけで、根っこにあるのは一人の『小夜子』なんだよ」 夕子はそこで初めて、春風に対して攻撃的な意思を示した。嘲り、見下し、道理の分からない者への侮蔑の視線、そう言ったものを夕子は春風に注いでいた。 「結局のところ、僕も小夜子も涼子も、『久保寺小夜子』という一人の個人が演じているキャラクターに過ぎない訳さ。あんただって時と場合や、気分なんかに合わせて色んな自分を使い分けるだろう? 僕達の場合はそれが他人より少しばかり顕著なんだ。顕著過ぎて、様々な自分の一面を別人格としか認識できないだけなのさ。魂は一つだよ。僕に言わせりゃ多重人格なんてその程度のもんさ」 そうなのだろうか? 春風は考えてみる。しかしどうしても、あの優しくて立派な涼子と、目の前の連続放火魔が同じ人間であることに納得できなかった。感情が受け付けない。 表情を曇らせる春風に、夕子は両手を晒して首を振る。そして「今日は楽しかったよ」とおそらくは本心を春風に告げて、ゲームセンターの外へと歩き出した。 満足したのか飽きたのか。夕子はゲームで遊ぶのをお開きにするらしい。その背中を追いかけながら、春風は友人と同じ姿をした別人にこう問いかける。 「最後に質問です。あなたは、今後また放火をするつもりはありますか?」 おそらく正直に答えて来ると思った。夕子はつまらなさそうに春風の方を向いて、そっけなく 「もうないよ。涼子や小夜子に悪いから」 とだけ口にした。 〇 ゲームセンターの外に出た途端、『小夜子』の肉体はアスファルトの上に崩れ落ちた。 慌てて春風が彼女に駆け寄ると、いずれかの『小夜子』の精神を宿したその少女は、自分の顔に手を当てて嘆くように 「……やっちゃった。ダメなのに。アイツを外に出したら、ダメなのに」 そう言って身を震わせ始める。 その声のトーンや瑞々しい意志力を宿した瞳、仕草や儚げな存在感に、春風は強い既視感を覚える。そして半ば確信を持って尋ねた。 「小夜子さんなのですか? あたしの……あたしの知っているいつもの小夜子さん……涼子さんなのですか?」 「そうよ。……夕子に会ったのね?」 春風は頷いた。すると小夜子……改め涼子は、どこか退廃的な形の泣き笑いを浮かべて、やけっぱちのような声で告げる。 「分かったでしょう? あれがわたしの……わたし達の本性よ。最悪の狂人。軽蔑するでしょう?」 「いいえ」春風は首を横に振る。「あなたと夕子さんは違います。涼子さんはわたしの大好きなお友達です」 「違わない!」 涼子はそう言ってその場を立ち上がった。溢れ出る感情を制御出来ていない様子だった。春風は驚く。この友人が冷静さを損なう姿はこれまで見たことがなかった。それほどまでに、夕子の出現を許したという事実は、彼女の中で大きな過誤であるようだった。 「わたしは涼子だけれど、『小夜子』でもある。『小夜子』の中には夕子も含まれているのよ。わたしは『小夜子』だし夕子で、……だから、アイツのしたことはわたしのしたことでもあるの」 「違います涼子さん。あたしはそうは思いません」 「違わないわっ! だってそうじゃなきゃ、どうしてわたしが彼女の罪を背負わなければならないの? そうでも思わなければ、後ろ指をさされて罵られ軽蔑され、怨嗟の声を聞き続ける人生にどう納得しろっていうの? わたしは 涼子であり『小夜子』であり夕子。そう考えて夕子の分の責任も背負わなければ、わたしが行う更生の努力に何の意味もない。教官だってわたしにその考えを強いたのよ!」 三つの人格が共通する一つの魂であることは、彼女達にとって共通の認識らしかった。それが為に涼子は苦しみ、罪を背負い、周囲からの侮辱や軽蔑を受け止めて来たのだ。それを否定されることは、彼女にとって耐えられないことらしい。 「いつかわたし達の人格は統合されるわ。わたしを中心にね。そのような治療が今も進められている。わたし達はちょっとしたことで別れたりまたくっ付いたり……そんなことが出来るのが、『別人』なんてはずがある?」 「あたしには別人にしか思えません。優しいあなたは、さっき話した夕子さんとはあまりにもかけ離れています」 「それはあなたが、『小夜子』の中の都合の良い一面しか見ていないだけ。人間っていうものは複雑で多面的。『小夜子』の中の自分の見ていたい涼子という一部分しか見ようとせず、夕子を受け入れず断罪して切り捨てるのが、あなたのわたしへの友情よ」 涼子の言葉が、抜き身のナイフのように春風の臓腑に突き刺さった。ずしんとした痛みが春風の中に染み入り、その全身を悲しみと戸惑いで染め上げる。 何故そんなことを言われなければいけないのか、何故涼子はそんなことを自分に言うのか。春風には納得できず、しかしその納得できないということこそが、自身の涼子への想いの限界を物語っているのを春風は悟る。 結局のところ、春風は大きな困難を抱える涼子を理解する前に、自分にとって都合の良い解釈に飛び付いてそれを涼子に押し付けてしまっていたのだ。彼女がどう考え、何を思っているのかを知り、そこに寄り添うことを考えられなかった。だからこんなことを言われてしまったのだ。 春風が今にも泣きそうな顔をしているのを見て、涼子も僅かに頭が冷えた様子で 「ごめんなさい。あまりにも言い過ぎたわ」 そう言って肩に手を置こうとして、しかしその勇気がないかのように引っ込めた。そしてその場で下を向くと、表情を隠すように頭に手をやって震える声で 「酷いことを言ってごめんね。今はもう、一人にして欲しい。それじゃあね」 そう言って、最後まで顔を上げずに春風から離れて行った。 〇 3 〇 涼子と別れて一人で家に帰った春風は、意気消沈したまま家族と食事を取って風呂に入ってそのまま寝た。 目を覚ました後も気分は憂鬱なままだった。土曜日の午前中、涼子に連絡を取ろうとスマートホンに手を伸ばしては引っ込めている内に午後になり、どんぶり飯五杯と焼き肉炒めと富士林檎十二個の昼食を取ったあたりでようやく電話をかける決心が着いた。しかし涼子の方の心の準備が出来ていないのか、二回かけた電話は二回とも無視されて春風を再び意気消沈させた。 「あたしは涼子さんのことを何も分かってあげられませんでした」 狂気と災いの夕子の存在を拒み、自分にとって都合の良い涼子だけに友情を注ごうとした春風の行動は、涼子にとって決して好ましいものではなかったのだろう。涼子が夕子をも自身の一部として受け入れ、背負っていく覚悟を決めているのなら、春風は涼子を夕子ごと受け入れて彼女を応援しなければならなかった。 『小夜子』の中にいる人格達は、いずれ統合され身も心も一つになる宿命を抱えている。多重人格者は最後そうならなければ治療が完了しないというのが、医学において定められた約束事だ。それを誰より理解している涼子は、いずれ同化することになる夕子の精神を受け入れるべく、彼女の罪をも背負う覚悟を決めざるを得なかった。それが故に涼子は周囲からの悪罵を受け入れ、嘲笑やいじめに耐えながら、少しでも『小夜子』を周囲に認めてもらう為に誰にでも親切に振る舞っていた。 そんな涼子を独りぼっちにさせておきたくはない。 もっと涼子と話したい。打ち解けたい。彼女のすべてを理解して、誰よりも彼女の頑張りを知り、彼女の支えとなり手を差し伸べる親友になりたい。 そう思い、三度目の電話を掛けるべく春風がスマートホンに手を伸ばした時、スマホの方から着信音を鳴り響かせ始めた。涼子と思い、嬉々として手に取る。 「はい! 春風です」 「桃木野さんかな?」 涼子の声ではなかった。相手を確認せずに電話に出てしまったらしい。聞き覚えのある、しかし聞き慣れるという程親しくはない温和な少年の声。 「……乙坂さんですか?」 「そうだよ。乙坂幸太郎。勝手に番号を調べて悪かったね。ただ、どうしても君と話したいことがあってさ」 「理由があるなら良いですけど……。何のお話でしょうか?」 「電話だと難しい話なんだ。すまないけれど、今日の夜九時に、学校まで来てくれないか? もちろん電車代は出すし、何ならタクシーで迎えに行ってもかまわない」 どうやら本当に大切な話らしい。乙坂という少年は前に春風を助けてくれたのもあって、好感度は決して低くない。悲劇に見舞われながらも高潔な精神を失わない、立派な少年という印象を抱いている。そうでなくとも、春風は誠実に頼まれた場合はたいていの頼み事は引き受ける性質だ。 「分かりました。九時に、学校ですね。迎えには来なくて結構です。電車で行きます」 「そうかい? すまないね。では、また夜に」 そう言って電話が切られる。 電話番号を確認し、090から始まるその番号を乙坂の番号として登録した。 何の話なのか、どうして学校なのか、九時などと言う遅い時間に呼び出すのにはどんな意味があるのか? それを尋ねることを春風はしなかった。尋ねたところで、少なくとも春風にとっては十分納得できる理由が帰って来ただろうし、行くと決めた以上それは向こうに着いてからいくらでも分かることだ。 手が震えてスマートホンを持てない乙坂が、どうやって電話を掛けて来たのかという疑問は、最後まで思いつくことができなかった。 〇 校舎は暗かった。夜なのだから当たり前とも言える。月のない暗闇の中に、白いコンクリートの巨大な塊が薄い靄のように滲んで見える。校門から校舎へ続く通路を挟む長身の木々は、大きく広げた無数の葉の隙間に闇を纏って魔物のような存在感を放っていた。 昼間にしかここに訪れたことのない春風に、その空間はどこか異世界めいてさえいた。思わず怖くなり肩が震えて来たが、十五歳にもなって暗いのが怖いなんて言ってられないと思うとことで、なけなしの克己心を辛うじて保っていた。 「桃木野さん」 「きゃあっ」 背後から声を掛けられて春風は思わずすくみ上る。思わず振り向くと、全身に火傷を負った杖を帯びた巨漢。乙坂幸太郎がそこにいた。 「驚かせたかな? 少し顔が青いけど、大丈夫? これでも飲むかい?」 そう言ってペットボトルを差し出される。新品のポカリスエット。だがリュックの中には三リットルの水筒が一本入っていたので、それは遠慮することにした。 やがて春風は校庭の方へと案内される。ベンチに腰掛けた春風が未だ暗闇に怯えているのを見て取った乙坂は、紳士的な手つきで 「来る途中で買ったんだ。一つずつ食べよう」 と言って、林檎二つ入りを一パック開封し、一つを春風に渡した。ちょっと高い奴。 春風は驚喜して林檎に齧り付いた。普段食べている徳用の富士林檎と比べ、遥かに肉厚で爽やかな甘みと酸味があった。乙坂が一口齧る頃には、丸々一つが春風の胃袋に消える。 「今日はこんな夜中に呼び出してごめんね」 「いえ、全然良いんです。何の御用ですか?」 「単刀直入に訊くけれど、君は久保寺小夜子のことをどう思っている?」 「どうというのは?」 春風は乙坂の顔を見詰めて、少し言葉を選んで告げた。 「彼女が過去に起こしたことは、とても悲惨で、多くの人を不幸にしたと思います。ですがあたしにとっては、大切なお友達というしかありません」 「そうなんだね」 乙坂は言うと、自分の林檎をもう一口齧って見せる。そして闇の中でも不思議と球形がくっきりと確認できる赤い果実を掲げて見せると、独特の浮世離れした語り口調で持って春風に問うた。 「白雪姫という話があるよね。嫉妬に駆られた継母が毒林檎を娘に与えた物語さ。善良な林檎売りに扮した継母の変装を白雪姫は見抜くことが出来ず、何の疑いも持たずに林檎を受け取って食べてしまう」 いったい何の話だろう? 春風は首を傾げたが、その話は適切な抑揚を保っており騙り口調も巧なので、つい聞き入ってしまう。 「さてここで疑問が生じる。白雪姫は何故それを毒林檎を見抜けなかったのか? 白雪姫自身追われる身であったはずだし、継母だって何も声を発さずに林檎を彼女に手渡した訳じゃないだろう。どこかで警戒したり、悪意に気付いたりするチャンスはあったはずだ。多くの翻案ではそれだけ白雪姫が清らかで純粋だったからだと解釈されるが……ぼくの意見はそれとは異なる」 そう言うと、乙坂はタメを作るかのように少し沈黙し、春風の方を向いた。 「白雪姫は心清らかで善良だったから悪意に気付かなかった訳じゃない。自分に向けられる殺意に気付けない程、単純で間抜けだったのさ」 彼の浮かべる微笑みに、どこか嘲りのような気配が感じられたので、春風は冷や汗を浮かべながら尋ねる。 「乙坂さん。あの、どうしてそんな話をするんですか?」 「ああ。それはね。大した理由はない。何故なら……」 その時、春風の意識が急に遠くなった。視界がほどけてまともな像を結ばなくなり、意識はバラバラに砕けて思考の形を保てなくなる。首が座らず、背筋は伸びず、ベンチに腰掛けたまま乙坂の巨体の方へ思わず身体が傾いていく。 春風の小さな頭が肩に伸し掛かった乙坂は、小さく息を吐き出してから、嘲弄するように彼女の髪を指で梳いてから偽悪的に呟いた。 「ただの時間稼ぎなんだからね」 〇 目を覚ますと、見知った教室の景色がそこにあった。 違うのは窓から覗く景色が夜の暗闇であることと、自分の手脚がガムテープで縛られていて身動きが取れなくなっていることだ。天井から降り注ぐ蛍光の灯かりが昼間より青白く冷たく感じられ、頬に感じるタイル張りの床の温度は実際以上にひんやりしていた。 芋虫のように身体をよじり、あたりを確認する。三人の人物がそこにはいた。さっきまで春風と話していた乙坂と、その恋人である門野、そして自分と同じように床に転がされた久保寺小夜子だ。彼らを囲むように学習机が円形に並べられていて、春風自身もその中にいた。 「小夜子さん!」 いずれかの『小夜子』の人格を宿したその少女は、春風の呼びかけに顔を傾ける。そして泣き出しそうな声で答えた。 「……涼子よ。春風さん。ごめんね、わたしの所為で」 涼子は頬が真っ赤に腫れていて、服は砂埃で酷く汚れている。何者かの暴行を受けた後だというのは間違いがなく、その加害者が乙坂と門野の二人であることは容易に想像できた。 春風は鋭く乙坂を睨み付けると、今にも噛み付かんばかりの声で叫んだ。 「これはどういうつもりですか? あたしを眠らせたんですか?」 「そうだよ。さっきのは眠り薬入りの毒林檎だ」 乙坂はそう言って侮蔑を込めた視線で春風を見下ろす。 「どうして小夜子さんとあたしをこんなところに?」 「焼き殺す為」 あっさりと言った乙坂に、春風は思わず目を丸くするしかない。 「ぼくの母親と妹は、そこにいる君の友人に焼き殺された」 乙坂は淡々とした表情と声で話しているが、しかしその混濁した瞳には確かな狂気が据わっていた。自分の言葉に何の疑いも欺瞞も抱いていない人間特有のフラットな声音。 「復讐を考えない日は、なかったと言って良い。今日やっと、全ての準備が整ったんだ。久保寺小夜子、君は自分が焼き殺した人々と同じように、炎に包まれて焼け死ぬことになる」 涼子は身震いしていたが、取り乱して泣き叫ぶと言ったことはしなかった。自分が焼け死ぬことについては覚悟が出来ているのかもしれない。しかし春風のことは気にしているようで、先程からこららに向けて悲痛な罪悪感に満ちた視線を送っている。 「この学校、夜は無人警備でさ。助けは来ても間に合わないだろうね。ずっと前から計画してたんだよ。二人でたくさん話し合ったけど、やっぱりこうしない限り、家族を失った幸太郎の心が癒されることはないってさ」 恋人の隣に立つ門野が、やりきれなさそうな声で言う。 「桃木野、あんたを巻き込むことになったのは、幸太郎の思い付きでさ。自分一人死ぬだけじゃ、久保寺への裁きとしては不十分だっていうんだ。友達が自分の目の前で焼け死ぬのを目の当たりにすることで、大切な人を失う苦しみをも味わわせなければ意味はないっていうんだよね」 「君には申し訳ないと思っているよ。だがしかし、邪悪に従う者は、いつか邪悪と共に海に沈められることになるという警告は、前にしたはずだ。その女の罪を知りながらその女を愛したその軽薄さを、君は償うことになる。それだけだ」 乙坂はそう言って、春風に対しても憎悪の視線を向けた。 「……乙坂さん。あなたは間違っています」春風は言った。「いくら家族を焼き殺されたからと言って、涼子さん……久保寺小夜子さんを焼き殺して良い道理はどこにも存在していません。また、彼女は自分のやったことに深い誠意を持って向き合っています。今日まであなたが知ることの出来なかった事情がたくさんあるんです。まずはちゃんとこの小夜子さんと向き合ってお話を……」 「その女の事情なんて、殺された母や妹には、何の関係もない」乙坂は春風を突き放すように冷ややかな声を発した。「その女がどれだけ更生しようとも、ぼくの家族は返って来ない。母や妹の死せる魂と、ぼく自身の心が僅かでも癒される方法は、その女が苦しみ抜いて死ぬこと以外何もない」 「小夜子さんを殺しても、お母さんや妹さんが喜ぶとは限りません。また、そんなことをしてあなたの心が癒えるとしても、それはほんの一瞬のことです。あなたの家族は戻って来ません。あなたの為にも小夜子さんは生きて償うべきなんです。こんなことをしても何一つ意味なんて……」 「うるさい!」 空気を引き裂くような凄まじい怒声。乙坂が声を荒げるのを、春風は初めて聞いた。 「おまえに何が分かるんだ? 灼熱の炎の中に大切な二人の家族を置き去りにせざるを得なかったぼくの気持ちが! おまえが口にしているのは綺麗事ですらない。ただただ想像力の足りない愚者の戯言だ」 「……あたしのお母さんは強盗に殺されました」 春風は乙坂の目をしっかりと見つめながら、言い聞かせるように口にする。 「加害者は今も懲役囚として刑務所にいます。今でも彼を憎む気持ちで一杯ですが、だとしても、あなたのような真似をしたいと思ったことは一度もありません。命ある限り償い続けてくれればそれで良いのだと思っています。そしてそれは、天国も母も同じ想いだと、あたしは確信しているんです」 そう言うと、初めて乙坂の表情に戸惑いが滲んだ。春風の言葉が本心であることを理解したようだ。 彼は自らの行動が酷く屈折したものであることも理解している。理解した上で、憎しみに囚われた自らの魂を癒すべく、立ち止まることが出来ないでいる。だがこの少年にある種の高潔さが備わっていることも、春風は信じたい。 春風はさらなる言葉をかけて乙坂を揺さぶろうと考えたが、口を開く前に門野の言葉によって遮られた。 「あのさ桃木野。あんたは本当に、母親を死に追いやった奴のことを、許す勇気を持っているんだと思う。色々考え方はあると思うけど、アタシはそれを立派だと思うよ。けどさ、誰しもがあんたみたいに立派になれる訳じゃないし、誰しもにそんな風に立派になれって押し付けるのは無理があると思うんだよね。それって暴力と何も変わんないよ」 そう言って、門野は乙坂の肩に労わるような手をやった。 「幸太郎のやることが正しいのかどうかは分からない。つか多分間違ってると思ってる。でもさ、アタシはその間違ってる幸太郎をそれでも支えてあげたいと思ってんだよ。だからそこの放火魔をぶん殴って誘拐したり、色々協力をしたんだ。アタシ達はもう止まれないんだよ」 「……それであなたの気持ちが少しでも癒えるのなら、わたしはここで焼き殺されましょう」 そう言ったのは涼子だった。今にも死の恐怖によって気が狂いそうな、同時に、強い精神力でそれを抑え込んでいることを感じさせる清廉な表情で、涼子は乙坂を向いて懇願した。 「だから、春風さんのことは助けて欲しい。その子には何の罪もない。お願いよ」 「君がそれを願えば願う程、ぼくはそれを叶えたくなくなる」 そう言って首を振る乙坂に、首を横に振ったのは門野だった。 「幸太郎。それはアタシからもお願いしたい。こいつを殺すのは違うと思う。それをやったら……アタシの大好きな幸太郎でいてくれなくなるような、そんな気がして」 「ぼくの願いを一緒に叶えてくれるんじゃなかったのかい?」 「だから今までどんな言うことでも聞いて来た。一緒に少年院に行く覚悟だってある。だから一つだけアタシのわがままを通させて欲しい。お願いだ」 そう言って深く頭を下げる門野。 乙坂は、葛藤するようにしばし沈黙した。そして眉間に深く皺を刻んで、忌々しがるような声で 「好きにしろ」 と絞り出すような声で言った。 「幸太郎、愛してる」 そう言って、門野は縛られたままの春風の身体を抱き上げた。そして目を赤くして、何か失くした宝物を見付かると信じて必死で探している時のような表情のまま春風を抱いて、円形に並んだ学習机をかき分けるように教室の外に出た。 〇 校舎の外へ運ばれる間も、春風は門野に対して懸命に説得を続けていた。 無暗に暴れまわるつもりはなかった。ここで暴れまくれば確かに門野の腕の中からは逃れられるかもしれないが、その先に涼子を助けられる明確な方法がある訳ではないのだ。 しかし門野の意思もまた乙坂同様に硬かった。門野は春風を校舎の外に運び終え、校門の側のアスファルトの地面の上に転がすまで、春風の言葉を無視してのけた。 春風の心臓は早鐘のように鳴り続けていた。校舎には今も涼子がいて、涼子を焼き殺そうとする凶漢がいる。どうにかしなければいけないのに、手足が縛られてその手段がない。 爆発しそうな頭を持て余しながら、門野の背中に語りかけ続ける春風だったが、彼女は憂いを帯びた表情で校舎の方を見つめ続けるだけだった。 「……火が点いた」 門野が呟くように言う。春風の目が見開かれた。 見れば校舎の中で唯一灯かりを帯びた窓……涼子のいるはずの部屋……の内側に、白い煙が充満しているのが見えた。ゆらゆらと見え隠れする幻のような赤い影は炎であるに他ならず、春風は腹の中に冷たい岩を押し込まれたような絶望を感じていた。 やがて乙坂の杖を帯びた巨躯がこちらに近づいて来る。春風たちの姿を認めた乙坂は、狂気と言うほかない血走った光を宿した瞳をぎらつかせながら 「発火装置を仕掛けて来た。今頃、久保寺を取り囲むように並べた机に火が回っている頃だろう。焼き殺される恐怖を長い時間じっくり味わってから、あいつは苦しみ抜いて焼け死ぬんだ」 と告げた。 春風は自らの全身が打ち震えるのを感じている。 このままでは涼子は死んでしまう。あの優しい涼子。背負った罪に真正面から向き合いながら、茨の道を歩く覚悟をしている高潔な涼子。決して死ぬべきではない涼子。春風と友達になってくれた涼子。 彼女を助けたい。 助けなければならない。 春風は自身の持ちうる全能力を総動員して涼子を助ける方法を模索した。春風がもっとクレバーな判断のできるタイプなら、廊下を運ばれている最中にでも門野に頭突きなり何なりぶちかまし、気絶させた隙に砕いた窓ガラスで手足のテープを切り裂くことも出来ただろう。しかし残念ながらそれに気付けるだけの知性は春風には備わっていなかった。 しかしそれでも構わない。人の能力はそれぞれ異なっており、この状況を打破する春風により相応しい方法も確かに存在している。すなわち。 ……このテープ。あたしの力なら引き千切れるんじゃないのか? 説得が通じない以上残されたのはその道だった。春風はガムテープで縛られた両手に産まれ持った馬鹿力を全力で込める。引っ張るという力に限りなく強く設計されているガムテープが、縛られている本人の手で突破し得る等、乙坂たちもまさか考えはしなかっただろう。 「ふんぎぎぎぎぎぎぎ……っ! ふんっ! ふうんっ!」 しかし春風は成し遂げた。天から賜ったこの怪力は、ひょっとしたら今日この瞬間の為のものだったのかもしれない。異常に気付いた乙坂たちが振り向いた頃には、春風の両手は開放された後だった。 「この野郎!」 にじり寄る門野に、春風は縛られたままの脚で立ち上がって腕を振った。鼻っ面に春風の前腕が命中した門野はそのまま数メートル吹っ飛ばされて、アスファルトの上に転がった。 春風はただテキトウに両手を振り回しているだけで喧嘩には負けたことがない。春風はそのまま足首のテープを引きはがし、杖を突いたまま呆然とする乙坂の脇を抜け、校舎の方へと走って行った。 〇 廊下を走り抜け、煙が充満する教室の前へと辿り着く。炎の燃える轟々という音が春風の全身を包み込む。それは涼子に忍び寄る死の気配そのものだった。一刻も早く中の彼女を助け出さなければならなかった。 廊下にある水道の蛇口を全開にして可能な限り素早く全身を濡らす。既に乗り移った扉に手を掛けると、手の平が焼け焦げる激痛が全身を走り抜けた。 だが構ってはいられない。変形した扉を半ばひっぺかすように突破して教室に突入する。炎に包まれた教室はまさに地獄の様相だ。喉を焼く程乾燥した空気と刺すような高温、視界を染め上げる炎は本能的な死の恐怖を感じさせる。 春風は勇気を振り絞って炎の中に飛び込んだ。炎を伝えあっている真っ赤な学習机をいくつも弾き飛ばし、春風は中央へと躍り出た。 そこには春風の友達が手足を縛られたまま身を横たえていた。 「助けに来ましたよ。もう大丈夫です」 落ち着かせるつもりでそう言って近づいた春風に、久保寺小夜子はすぐに気付いて振り向いた。そして春風の方をじっと見詰め、涙を浮かべた顔で一言。 「死なせて」 どこか舌ったらずな声だった。これまで聞いたことのない口調と喋り方。同じ人物のはずなのに、声そのものが異なっているかのようにさえ感じられる。 春風は首を振って手を差し伸べる。 「ダメです。絶対にあなたを助けます。来てください」 「嫌だ。あたし、もう疲れた。あたしは罪深くて無力。今すぐここで死にたいの」 そう言って、幼い子供のように顔に手を当てて泣きじゃくり始める。首を横に振った春風は、自分が持って来ていたリュックサックが近くに転がっているのを発見すると、中から水筒を取り出して中身を彼女の身体に浸し始めた。 「あたし、夕子ちゃんがこの身体で悪いことしてても、止めることができなかった。当たり前だよね。だってそれはあたしがしたいと思ってたことなんだもん。夕子ちゃんはそれを知っていたんだ。あたしの代わりにやってくれた。だけどそれは怖いことでいけないこと。たくさんの人が死んでしまうこと」 「喋らないで。煙を吸ってしまいます」 「もう良いの。あたしなんて死んじゃったほうが良いの。放っておいてよぅ……」 春風の胸が激しく傷んだ。悪意の炎に包まれて今にも焼かれようとしているのに、この少女は罪を嘆くばかりに自らの命を惜しむことを知ろうとしない。これまでに会ったどの小夜子より深い悲しみと絶望を抱えたその人格に、春風は優しく問いかけた。 「……あなたは最初の小夜子さんなのですね?」 「そう。あたしが主人格。もっとも罪深い、本物の小夜子」 「そうですか。時間がなくて一度しか言えませんので、良く聞いていてください。良いですか」 そう言って、その涙に濡れた儚い眼をじっと見詰めて、春風は小夜子に語り掛ける。 「あなたは大切な人です。誰よりも誰よりも大切な人です。あなたは今日まで頑張りました。つらい中で必死に戦いました。アタシはそれを知っています。だからあなたは生きていて良い……あたしの為に生きて欲しいんです!」 そう言って、春風は小夜子の身体を抱き上げる。たくさんのお茶をかけたその体はしっとりと濡れている。これならば炎の中をもう一度突破できる。 「行きます!」 小夜子を抱え上げたまま春風は炎の中に突っ込む。 もう夢中で突っ走るしかなかった。燃え上がる教室から脱出に成功し、煙に満ちた廊下を息を止めたまま春風は駆け抜けた。 「……どうして?」小夜子は春風の顔を見上げながら呟く。「あたし、人殺しなんだよ? 酷い酷い放火魔なんだよ? 悪い子なんだ。ここに放って置いたら良いじゃない。なんであなたはあたしを助けるの?」 「お友達だからですよ」 春風は思わず叫んだ。 やがて校舎の外へと飛び出した春風は、アスファルトの上に座り込んだ。炎も煙も最早ここまで届かないことを確認すると、春風は数回咳を発してから、今にも消え入りそうな顔をしている涼子に語り掛ける。 「どんなに酷いことをしてしまったとしても、見ていることしか出来なかったとしても、それでもあたしはあなたが大好きなあなたの友達です。涼子さんも夕子さんもあなたも、すべてが大切なたった一人のあなたなんです。全て受け入れます。みんな大好きです。絶対に絶対に……死んでほしくなんかないんです」 小夜子の身体はひたすらに儚くも柔らかい。抱きしめる程にそれが如何ほど大切なものなのか、胸の奥から熱い思いが湧いて来る。この友人を救い出すことが出来た、死なせずに済むことが出来た。その安堵と悦びが春風の全身を包み込む。 「いつまでも一緒です。つらいことは何でも話してください。無茶だって聞きます。支えになります。どんなに大きな罪を背負っていたとしても、あたしがいるからあなたは一人じゃない」 嗚咽し始めた小夜子の身体を抱きしめる力を強める。このまま彼女と同化して、その痛みと苦しみだけを全て肩代わりしてあげられれば、どれだけ良いだろうかと考えた。 しかしそれはできないから。本当のところ人は一人だから。悪罵を受け止めるのも、真っ黒な記憶にその身を焼かれるのも、世界でこの小夜子ただ一人だから。 だからせめて命ある限り彼女を抱きしめ続けよう。ずっと捕まえていて、離すことなく、出来る限りのことは全部してあげるのだ。その為に命を賭けることになったとしても構わない。炎の中にだって飛び込んで何度でも彼女を助け出す。春風は今そう決めたのだ。 確かな覚悟が自分の心の内に宿るのを感じていると、小夜子の持つ全ての重みが春風の方へと寄り添えられた。春風はふと深い安堵を覚え、目を閉じた。 消防車のサイレンの音が耳朶に響く。 胸の中のぬくもりだけを感じながら、春風はまどろみの中へと堕ちて行った。 〇 エピローグ 〇 朝十時。うららかな日差しが降り注ぐ駅のホーム。ベンチに腰掛けて飲食に耽っている一人の女子高生の姿があった。 異常である。 この少女、先ほどから尋常でない量の食料を摂取している。売店で購入したピザまん三つにおにぎり六つ、コンビニで買って来た菓子パン計三個に好物の富士林檎六個をたちまち胃に収め、それでは飽き足らぬとばかりにリュックサックの中をあさるその少女は、桃木野春風でしかありえない。 一度食欲に火のついた彼女の関心事は、最早その飢えを満たすことのみに存在すると思われた。しかしあることに気付いた春風は、ふとリュックから顔を出して笑みを浮かべる。そしてリュックを背負い直してベンチをひょいと立ち上がり、喜色満面に手を振り始めた。 涼子がやって来たのだ。 普段の制服姿よりいくらか華やかな印象を与える私服の彼女は、春風の存在を認めると、以前までと比べていくらか明るさを増した笑顔を向ける。そして春風の目の前までたどり着くと、おかしそうに笑って 「タネ、ついてるわよ」 そう言って春風の頬から林檎のタネを取り除いた。 それから二人で電車の到着を待つ。春風はふと涼子の方を向いて尋ねた。 「今日も涼子さんなんですね」 「ええ。一応ポスト人格だから。でも、少し話しただけで分かるのはあなたくらいよ」 「他の方は元気にしてますか?」 「ええ。特に小夜子は前より余程元気になった。また今度会ってやってちょうだい。あなたにとても懐いているの。夕子ともまあ、たまになら良いわ。もう家は焼かないって言ってるけれど、まだまだ彼女は性根が曲がっているから、あなたからも一度説教してあげて」 そうこうしている間に電車がやって来る。既に切符を買ってある二人は並んで中に乗り込んだ。 平日の昼間、車内は空いている。四人掛けの席に向かい合わせて座り、わくわくした気分を堪え切れずに、春風はにんまりとした顔を向かいの友人に向ける。 「身体の調子は?」春風は尋ねる。 「もうすっかり良くなった。火傷の跡もそこまで目立つような残り方はしないそうよ。あなたが守ってくれたお陰というべきかしら。春風さんこそどう?」と涼子。 「平気です」 「本当に?」 「熱いもの触った手の平が酷いことになっていますが、他はだいたい平気です」 「……そう。ごめんなさいね」 「涼子さんが悪いのではありません。それに、あたしはこの火傷を誇りに思っているのです。大切なお友達を救出した名誉の負傷です。恰好良いのです」 そう言って春風は自身の手の平を見詰める。乙坂の皮膚のあちこちに刻み込まれていたのと同じようなケロイドが、そこにはあった。 あの後消防車がやって来て、春風と小夜子の二人は救出された。二人ともいくらか衰弱しており体のあちこちに火傷を負っていたが、命に別状はなくて済んだ。 乙坂と門野の二人はあの後警察に連行された。学校を焼いたという罪咎は決して軽い物ではないのだろうが、しかし彼らが人殺しにならずに済んだのは良いことのはずだ。彼女らがどの程度の罰を受けることになるのかは分からないが、とにかくしばらくの間、春風達の前から姿を消すことにはなるだろう。 彼らは今何を考えているのだろうか? 復讐に囚われ続けているのだろうか? これからも涼子は彼らと向き合い続けなければならないだろう。乙坂たちだけでなく、別の被害者やその遺族たちにも。だがきっと涼子なら、『小夜子』達なら、きっと誠実に償いを尽くすはずだ。春風はそれを確信している。自慢の親友なのだから。 「春風さん。本当にありがとうね」 そう言って、涼子は春風に微笑みを向けた。 「あなたが現れるまで、わたしの世界は暗闇に包まれていた。産まれた時からわたしは罪人で、同じ体に他に二人の人がいて、絶望的な気分になった。自分を生み出した小夜子のことを憎んだことだって何度もあった。けどね、今は産まれて良かったと思ってるの。もちろんそれはあなたのお陰。あなたという親友に出会えたから」 「ありがとうございます」 春風はその名のように爽やかでぬくもりに笑みを浮かべて 「あたしも、あなたに出会えて幸せなのです」 心から純粋にそう告げた。 「これからわたしは他の子たちと統合される。そういう運命にある。そうして出来た新たなわたしは、きっとここにいる涼子とは少し違った性格をしていると思う。けれどもそれは、確かに涼子というわたしでもあるの。罪深い『夕子』と一つになった時、わたしの本当の償いは始まるわ。もちろん覚悟は出来ている。なのに不安で一杯なの。分かってくれる?」 「分かります。けど大丈夫です。そこにはあたしがいるんですから。何があってもあたしはあなたを大好きなあなたの味方です」 「ありがとう。頼もしいわ」 窓の外には黄金色の田畑が雄大に広がっている。空は透き通るようにあまりにも青く、見ていると思わず吸い込まれそうな程だ。 いつまでもそれを見ていられるような気がして、しかし電車がカーブすると同時に白銀の太陽が瞳に突き刺さる。悲鳴をあげた春風に、涼子は優しい笑い声をあげた。 これから涼子には少なくない試練が待っているだろう。そのすべてが恐るべき険しさに溢れ、多くの涙を流し何度も膝を着くだろう。しかし涼子はそれらを全てその身に受け止め、避けることなく向き合い続けるのだ。あまりにも過酷なその運命に。 だがしかし。だとしても今だけは。今日だけは。 友達との小旅行に胸を時めかせ、素敵な笑顔を浮かべていて欲しい。そんな春風の願いを乗せながら、電車は目的地へ向けて走り続けるのだった。 |
粘膜王女三世 2020年08月07日 02時10分48秒 公開 ■この作品の著作権は 粘膜王女三世 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2020年09月14日 23時55分35秒 | |||
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Re: | 2020年09月14日 23時35分03秒 | |||
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Re: | 2020年09月13日 17時00分51秒 | |||
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Re: | 2020年09月13日 16時53分28秒 | |||
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Re: | 2020年08月31日 18時35分53秒 | |||
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Re: | 2020年08月31日 18時16分02秒 | |||
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Re: | 2020年08月31日 15時54分42秒 | |||
合計 | 9人 | 180点 |
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