打擲のカデンツァ

Rev.04 枚数: 47 枚( 18,672 文字)

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「気持ちを楽にしてください」
 器具に指を固定しつつ、私は言う。
 頷きはするものの彼の表情は硬く、覚悟よりも怯えの方が勝っているようだった。しかし顔に出してくれるだけ、まだやりやすい。無駄な虚勢で恐怖心を隠そうとする手合いに限って、土壇場で妙に力んだり逃げ腰になったりする。
 爪の形状を見るに人差し指は二回目のようだが、前回の処置が良かったのか、比較的綺麗に再生している。ただ血色や表面の艶を見るに強度はそれほど良好でなく、大人しそうな顔に似合わず荒れた生活を送っているようだった。そのため、先端は心持ち深めに指へ差し込んでおく。金属部分が肉に触れた瞬間、所望者は小さく身震いをした。
 ハンマーの遊びは四ミリに。
 アームベルトは強めに締める。
「この仕事は長いんですか?」
 私が淡々と準備を進める傍ら、不安を紛らわせたいのだろう、彼は不意に訊ねてくる。初めての処置でなくともこのような反応を示す所望者は少なくない。「十年ほど」と努めてにこやかに応えつつ、私は彼の心境を考慮に加え、思い描いていた力加減を修正する。
「はは――なら心配は要らないですね。上手く剥がしてくれそうだ」
「プロですから。できるだけ痛みは少なくしますよ」
「それは心強い」
 本当に安堵したらしく、彼の体から緊張が少なくなる。再び修正。
 しかし正直なところ私には、所望者の痛みなど知ったことではなかった。
 問題は、如何に爪を剥ぐかということだ。所望者の身体的特徴と機器の相性、覚悟の程や欲望の強度も斟酌しなければ美しく爪を飛ばすことはできない――言わば爪剥ぎとは、機器と人体が織り成す総合芸術なのである。
 全てが噛み合い完璧に叩けた結果として、副産物的に最小限の痛みで済むという事実があるに過ぎない。その意味で私は理想的なティーラーなのかも知れないが、仮に完璧に飛ばすことで痛みが増すようであろうと、私はそうしているに違いなかった。
「さて、よろしいですか?」
 全ての準備を終えて訊ねると、彼は静かに目を閉じる。
 ……その瞬間、彼の体の震えや心臓の鼓動、自律神経の乱れから体温の変化まで全てが手に取るように感ぜられ、まるで所望者と一体化したかのような奇妙な感覚に私は打ち震える。
 一方、冷静そのものの自分が腕を振り上げているのも感じている。経験則と計算によって力加減を確定した自分が、一センチのずれもなくハンマーを叩くであろうことをどこか他人事のように眺めている。……今や私は、剥ぐ側でもあり剥がれる側でもあった。お馴染みとなった奇妙な同一化。
 やがて固定された腕と振り上げられた腕、それらが一つに重なった瞬間。
「では」
 ――単純な梃子の原理によって、一枚の爪が宙に放物線を描く。


 1

 打擲数――1。
 偽爪の可能性――なし。
 所望者の精神状態――正常。

 所望者が医務室へと運び込まれて行った後、私は清掃係に後処理を任せ、一連の経緯をお決まりの書類に纏めていた。
 意味のない作業だ、と思う。何一つ、普段と記入内容に変わりはない。実務上、私の作業などよりこちらの書類が重要であることは理解しているが、だとしてもこの退屈が紛れてくれるわけではなかった。
 爪は所定の手続きに従って回収され、然るべき鑑定作業の後に所望品と引き換えられるのだろう。だがそれが何であるか、業務にはさして関係のないことだ。無関係な所望人が無関係な何物かを手にするだけの話で、これといった興味も湧きはしない。
「……はぁ」
 ただ、退屈だけが胸の内に重くのしかかる。
 と。
「溜息とは景気が悪いじゃないか」
 同僚のハヤセがやって来て、対面のデスクに腰を下ろした。今日、ここの担当は私だけだったはずだがと目線を向けると「なに、近くに寄っただけだ」と返される。
「当代一のティーラー、クシナダともあろう者が悩み事か。一体どんな高尚なことを考えているやら……はは、俺じゃあ知り及ぶことも叶わん」
「冷やかしに来たのか」
「まぁ、そんなところだ。お仕事を取られて暇だったからな」
 目を細めて睨み付けると、飄々とした声音で流される。
 背もたれに上体を寄りかからせ、だらしのないことこの上ない。
「情報交換といこうじゃないか。世間話とも言うがな。その書類の所望者は何をお望みだったんだ?」
「それは秘匿事項だろう。それに、知らないものは答えようもない」
「知らない?」
 ハヤセは椅子の上で身を起こした。「そこが一番楽しいところだろうに。貴重な爪と引き換えに彼、彼女は一体何を望むのか! ……聞いてないのか、あんた?」
「聞いてないな」
 私の仕事は爪を剥がすことであって、剥がした爪の行方などに関心はない。
 それを知ることでスムーズな業務に繋がると言うのならやぶさかではないが、十年近く続けてその必要に迫られた経験はただの一度もなかった。言動から読み取れる感情の機微と、身体的特徴の観察だけで事足りている。
 聞いたハヤセは「おいおい」とオーバーに両手を広げ、天井を仰ぐようにする。
「物品制限法が制定されてはや半世紀! 年に二十の贅沢品も手に入れられないこの世界で、爪を剥がれる痛みに耐えてでも人々が欲しい物――それが気にならないって? まさか、無関心が爪剥ぎの秘訣だって言うわけじゃないよな?」
「さぁ。余計なことに関心を向けないのは確かにコツかも知れないが」
 しかしこうも芝居がかった語り方をされると、同様にそれが退屈の理由である可能性も否定できない。或いは所望者に関心を持つことが停滞から逃れる方法でもあるのだろうか……いや、仮にそうなのだとしても、無理に興味を抱こうとする時点で私の性分には合っていないだろう。
「ところで、今日のお勤めはそれで最後か?」
「あぁ、もう予約は入っていない」
「それじゃあ今から飯でもどうだい。まだ今月は残ってるだろ」
「……そうだな」
 少し思案を巡らせてから私は答える。どうせ退屈なのだ、この鬱屈とした気分を解消できるなら、たまには外食に向かっても良い。普段は配給される食物で満足しているため、回数券は山のように余っていた。
 書き終えた書類を揃え、私は立ち上がる。


 今は昔、人々は飽食していた。
 昔話のように始めるのであれば、制限法の成り立ちはそのように語られるだろう。しかし「であれば」などと仮定はしたが、実際に昔の話なのだから「だろう」では結ばれまい……少なくとも私が物心つく以前から、その制度は幅を利かせていた。
「う……」
 自宅に戻ると、平衡感覚の異常から壁に手を突いた。
 どうせ使わないのだから――という事情から回数券を奮発したわけではない。単にハヤセのペースに呑まれた結果、慣れないアルコールを胃に入れ過ぎてしまっただけの、要するに自業自得の顛末だった。
 勿論そこには、私が抱いている倦怠も理由に含まれるには違いない。だが自分のことながら、殆ど破壊的な飲み方をしてしまったという事実は、少なからず私を驚かせていた。……私はそこまで退屈していたのだろうか?
 立ったままに部屋の内装を見渡す。
 物の少ない室内が酔いによって焦点を狂わせている。
 そのまま私の人生のようだった。
 人々は飽食している。
 手の届く贅沢を貪り喰らった結果として堕落した人々のために、そうした人々の手によってそれでも社会が続いて行くために、制限法は制定されたのだった。無限から有限へ。快楽には代償を。手爪を剥がれる痛みに耐えて初めて、人々が快楽を手に入れられるように。だとすればティーラーという職業は制度の精神そのものに他ならないはずである。
 にも拘わらず。
「自分が退屈してれば世話はない……」
 私は知っている。……贅沢が人を堕落させるのと同様に、退屈も人を貶めることを。
 コップに注いだ水道水を一息に煽り、途中で激しく咽せる。ステンレス製のシンクに落ちる自分の影が、まるで幽鬼のような様相で私を追い込んでいるようだった。どこへ? このままでは良くないだろうと頭で理解はしていたが、だからと言って生憎私は、従うべき規範など持ち合わせていなかった。
 寝間着に着替えるのも億劫で、そのまま寝台へと向かう。
 その上に倒れこむと、不意にハヤセの言葉が脳裏を過ぎった。
(爪を剥がれる痛みに耐えてでも人々が欲しい物――それが気にならないって?)
「……どうでもいいな」
 泥濘の中、私は誰にともなく呟いた。そんなものが、気になるわけもない。
 私は自分が何を望んでいるのかすら、分かっていないのだから。


 2

 仮にも人体を破壊するという性質上、ティーラーには様々な適性が要求される。たとえば他の人々の痛みを感じず職務を遂行するだけの精神。孤独に自らと向かい合い、黙々と技量を磨き上げて行く気質。そして制度の要であることから来る、あらゆる誘惑への強い耐性。
 ある意味で打擲とは快楽への罰(punishment)なのだから、痛みを回避するために駆使される手練手管に対しては断固たる態度が要求される。たとえば付け爪や局所麻酔、その他諸々の不正は立ちどころに見抜かなければならない。無論、賄賂といった形で便宜を図るのもご法度だ。何よりティーラーは自らの姿勢を示すため、自身に対する打擲は一切許されない。
 もし打擲による痕跡が発見されたなら、その時点で執行人としてのキャリアは水泡に帰す。故意に不正を見逃した場合も同様だ。『規範であれ、禁欲せよ』――詰まるところティーラーの精神とはその二言に尽き、欲望を支配下に置ける人間のみがその資格を得る。
「ただし、それはあくまで前提です」
 手元の端末からモニターに人体図を表示させつつ、続ける。「手足だけでなく人体構造全般への医学的理解、臨床心理学的とも言える人心把握術、加えて本人の精神的・技量的な素養が揃っていなければティーラーへの門は潜ることもできません」
 痛いほど清潔なホールに自分の声が反響しているのを苦々しい思いで耳にしながら、勤勉そのものといった態度でメモを取り続ける者たちに目を向ける。誰も彼も一言一句聞き漏らすまいとする勢いだったが、正直なところ、私は紋切り型の理念を繰り返しているに過ぎなかった。
 研修とは名ばかりの、形骸化したオリエンテーション。
 こんな言葉に意味がないことは自分が一番承知している。欲望云々は度重なる心理検査で露わになるものであるし、技量に関しては反復訓練で養って行く他にはない。ティーラーとしての素質など、結局は先天的な人格に由来する。
「共感性の高さは必要ですが、高過ぎても業務に支障を来します。一定程度の慎重さも求められますが、躊躇していては正確な打擲はできません。つまり、ティーラーとしての資格を得た後も心身共に鍛錬を欠かすことはあり得ないのです。常に自らをコントロールすること」
 言いながら苦笑を漏らしそうになる。……先日、自分の許容量を超えてしとどに酔った馬鹿はどこのどいつだっただろうか。
 人間であるからには欲望は常について回る。それらを完全に支配できないことは身をもって体験済みだ。そのような無理難題を資質として要求されるのだから、ティーラーなど全く、理外の職業に違いなかった。好き好んで就くものではない。
 最前列では十八になるかならないかの青年が熱心に耳を傾けていた。今となっては数少ない国家資格の一つである。この職業に余程の憧れでも抱いているのだろう。だが、
「——そして、ティーラーを志望するならば、一つだけ心に留めておいてください」
 ホール全体を見渡し、ひと呼吸置く。
 先程の青年含め、注がれる視線の一部から金言を期待するような熱が感じられたが、残念ながら私は誰かの未来を祈りはしないし、自分の業に対して過度な修飾を施すつもりもない。故にこれは綺麗ごとや社交辞令ではなく、単純に現実の様相から生じる警句だった。
 私は特に声のトーンを変えることもなく、淡々と口を開く。
「それだけの苦行をこなし続けて尚、私たちが身に受けるのは尊敬などではなく、ある種の偏見と嫌悪です。憎悪と呼んでもいい。何かしらの経験もしくはそれらに対する耐性がないならば、今ここで辞退することをお勧めします」
 俄かにざわめきの広がりを感じる。
 それでいい。ティーラーなど結局、欠落者が就くものでしかない。


「クシナダさん」
 研修も終わり、職場へ戻ろうと無機質な会場を出たところで、背後から聞き覚えのある声に呼び止められた。地域一帯のティーラーが無作為に集められていることは知っていたため、これと言った驚きは感じない。振り返る。
 左目を覆い欠かすように白い包帯を巻きつけた、細身の女性が小走りにやってきた。職業柄本名は知らないが、隻眼のアマノと言えば界隈でも有名な人間の一人だ。
 ティーラーとして生計を立てる女性は少ない。
 男性に比べて感受性が高い傾向にあるため、打擲においては障害となることが少なくはなく、また、どうしたところで平均的な膂力の面で劣るからと言われている。……だが実際のところ、そもそも志望する人間が少数というのが最も大きいだろうが。
 そんなハンディキャップの数々に加え、隻眼。何より仕事上の不利に直結する要素だろうに、それでも彼女を名指しする所望者が多いのだから、腕が立つことは言うまでもない。
 立ち止まった私の隣に並び、アマノは屈託のない表情を向けてくる。何とはなしに揃って歩き始めると、彼女は口を開いた。
「流石の演説でした。やっぱりクシナダさんともなれば、言葉の重みが違います」
「やめてくれ。……あんなもの、お決まりの台詞に過ぎないと君も分かっているだろう」
「大半はそうだったかも知れません。でも、最後の言葉は違いますよね」
 思い返すように目を閉じると、先刻のフレーズを復唱する。
「『偏見と嫌悪』。本当にそうですよね。あたしたちはできるだけ痛みを少なくしようと日々研鑽を積み重ねているのに、向けられる視線と言ったらまるで鬼か悪魔でも見るかのよう。……いくら覚悟があると言ったって、たまには嫌になることもあります」
「そうなのか」
「そうですよ。と言うか、クシナダさんが言ったんじゃないですか」
「……私は気にならない質だからな。あくまで経験論を述べただけだ」
 今までに数人、様々な事情から職を辞する人間を見てきた。
 周囲の視線に耐えかねた者。打擲への罪悪感から逃げ出した者。中には自らが所望者となり、資格を剥奪された者もいた。どれもこれも納得に足るだけの事情ではあったが、いざ自分に当てはめて考えようとすると関係がないように思われる。
 アマノは「強いですね」と羨ましそうに零したが、そういうものでないことは彼女自身が最も分かっているだろう。単純に、欠落しているのだ。自分自身の欲望と他者への配慮が。
 そこではたと思い至る。……ともすれば私の退屈とは、そこに起因しているのではないか。
「君はどうしてティーラーになったんだ?」
 そんな考えから発した質問に、彼女は目を見開いて見せた。この数分で何度も閉じたり開いたり、忙しい瞳だ。
「意外です。クシナダさんって、人に興味がないものだと思ってました」
「今後の参考のためだ、他意はない。答えにくければ無理に言わなくとも」
「いえいえ、折角の機会なんですし」
 何故か若干の喜色を滲ませると、彼女は少し考えてから、顔に巻かれた包帯を指さす。
「ほら。あたしって顔を隠してるじゃないですか」
「そうだな」
「実は子供の頃ちょっとした不注意から、酷い火傷を負ってしまったんです。とても落ち込みましたし、絶望しました。……こんな顔で生きて行くくらいなら、いっそ死んでしまった方がいいんじゃないかとさえ思うくらいに」
「だが、生きている」
「そう、生きてます。こんな偶然のせいで死ぬことを考えると、無性に腹が立ちまして」
 珍しく、包帯の下で顔を顰める。
「何が何でも自立して、生きてやろうと思いました。ただやっぱり、女性が顔を損なうのって、どうしようもなく不利になるんです。採用してくれる職場もろくに見つからなくて」
「それでティーラーを目指したのか」
 アマノは小さく頷く。……確かにこの職業は、最終的には腕が物を言う。容姿に多少の瑕疵があったとしても、会話や打擲の技術さえ磨けばやっていけないことはないだろう。
 だが、彼女はこちらをちらと一瞥すると、
「——別にこの仕事じゃなくとも、って思いますか?」
 心を読まれたかのような一言に、言葉が詰まった。
 確かに容姿の問題は大きいに違いないが、だからと言って今の生業を選ぶ根拠にはならない。限られてはいれど、他の道を選択することも可能だったはずだ。わざわざ不利の生じる職を志す必要はない。
 彼女は言う。
「だから、腹が立ったんです。顔のことで哀れまれるのも施しを受けるのも嫌で、でも蔑まされるのはもっと嫌で、だったら恐れられた方がまだ良いかな、というのが切っ掛けです」
 そこまで言って「今は違いますけどね」と屈託のない笑みを浮かべる。私はなるほど、と心の中では頷きながらも、自分の参考になることはないだろうという勝手な失望も抱いていた。
 一度の失敗が進退に関わりかねないこの仕事において、片目の喪失は不利と言って余りある。にも拘わらず高い評判を得ているのだから、その裏にどれほどの研鑽があったかなど想像もできない――要するにアマノは、意地や意志と言った強い情動からこの仕事を続けているのだ。それはどうしたところで、私には持ちえない類の動機と言える。
「ご参考になればいいのですが、少し特殊なので……どうでしょう」
「いや、そういった動機もあるのだと覚えておく。それよりもし、話したことで気分を害したなら申し訳ない。謝ろう」
「あはは、やめてくださいよ、そんなこと。クシナダさんって顔がどうこうじゃなくて、仕事に影響があるかどうかで捉えているでしょう? そういうところ、あたし……割と好きなので」
「……君も変わっているな」
 俗に機械的と言われる特徴なのだが。
「それでクシナダさんは? どういった事情でティーラーになったんですか?」
 アマノは急ぎ、話を切り替えるように訊ねてくる。
 しばし考えるが、このような質問をしている時点で、特に考えるまでもなかった。
「さぁ。……覚えていないな」


 3

 局へ戻る頃には考えに整理もついていた。
 強い動機を持たないからこその、退屈。良い悪いの問題ではなく、如何に正確に打擲するかという事柄以外に、私には興味を惹かれる対象が存在していないのだ。
 欲望する対象の欠落。
 だからと言って、どうすればいいと言うのだろう?
 無理に関心を抱いたところで、そんなものは欺瞞に過ぎない。それでも現状が改善されるというのであればやぶさかではないが、自分を騙した末に何を選択することになるのか。消えて行った同僚たちの顛末を考えるに、ろくな未来にならないことは確実だと思われた。
 私は誰の未来も祈らない。
 自分に対しても同様だ。
 ろくな選択をしようともしない自分が、誰かの選択に関与しようとは思わない。それは当人たちが決めることだ――何より私が誰かに影響を与えようなど、烏滸がましいにも程がある。
 扉を開き、オフィスに入ると目に入ったのはハヤセの姿だった。
 何やら渡りに船といった表情でこちらに歩み寄ってくる。何か問題でも発生したのだろうか。……しかし、ハヤセもこれで経験を積んだティーラーである。彼一人で解決できない事態が起こるとは考え辛かった。
「おぉ、クシナダ。丁度いいところに帰ってきてくれた」
「何かあったのか? 書類の不備なら今からでも修正するが」
「そういうわけじゃない、新規の所望者が来たんだ。……だがどうも俺の手には余ると言うか、あんた以外に適任がいそうになくて困ってた。歩きながらでいいか?」
 いいも何も、仕事ならば選択の余地はない。
 言いながらオフィスを出、廊下を歩き始めたハヤセに追随する。落ち着いてはいるようだが、足取りは速い。普段から余裕を持ち過ぎるほどに持っている彼にしては珍しい。
「まぁ、何と言うか――俺個人の意見ではあるんだがな。ティーラーたるもの、所望人にはそいつに見合った技術を提供する必要があると考えてる。で、今回のはどう考えても俺には荷が重い。正直、技術的にはお前以外に頼めそうな奴はいないんだ」
「……何の話か分からない、順を追って話せ。どうしてお前だと荷が重いんだ」
「会ってみれば分かる」
 無内容に等しい説明だったが、要するに難易度の高い仕事らしかった。これまでも何度か、そういった所望者を担当したことがある。大きく分ければ物理的な問題――爪に何らかの問題がある場合――か、或いは局の威信に関わる問題――比較的地位の高い人物による所望――が大半だ。ただ、ハヤセの技量から考えるに、前者の可能性は薄いだろう。
 消去法では後者ということになる。打擲の痛みを最低限に抑えなければならない所望者。だとすれば確かに、私が適任であるという言にもある程度の納得はできる。しかし、それならば「会ってみろ」などとは言わずに説明すればいいはずだ。
「お前個人の意見、と言ったな」
「ん? あぁ、そうだ」
「なら私が指名されたわけではないんだな」
「特に希望はないそうだ。『痛みを抑えて欲しい』とも言われてない。……大体そんな要求、一般的な執行で通るもんでもない」
「要領を得ないが、……とにかく会えばいいのか」
「そう。因みに二回目の面談だ」
 少しと言わず、驚く。
 打擲の前には必ず一度面談を行うが、簡易的な状態確認と打ち合わせ程度で終わる儀式に近いものであるため、二回目を実施する必要は全く、ない。健康状態などの問題で例外的に複数回の面談を経ることもありはするが、その場合は事前に入念な情報共有がされるはずだった。ショックで死ぬようなことがあれば責任問題だ。
 ……要領を得ないどころか、不穏な気配さえ感じ始める。本心を言えば一から改めて説明が欲しいが、当の本人にその気がないならどうしようもない。
 リラックス効果が云々と申し訳程度に置かれている観葉植物の鉢を幾つか通り過ぎ、やがてハヤセは面談室の扉の前で立ち止まった。私に対して「どうぞ」とばかりに道を空け、中へ入るよう促してくる。
 入ればいいんだろう。
 半ば投げ遣りな思いでノブを捻ると、業務用の表情は忘れずに足を踏み入れる。……圧迫感がないよう設計されたらしい広い部屋には、中央の机に女性が一人。
 美しい見た目はしていたが、一見、とんでもないレベルの要人だとは思われない。第一そういった人間がここへくることはない。なら何が問題なのか――怪訝な胸中は顔に出さず、「クシナダと申します」と軽い会釈をして対面に腰掛ける。
 と、違和感を覚えた。
 何かが足りない。所望者と向き合った際には必ず感じているはずの、慣れ親しんだ何かが空間から欠落しているような。故に、落ち着かない。それも表情には出すまいと心掛けるが、違和感は膨らんで行く一方だった。
 何だ、これは?
「はじめまして、ミサキです。あなたのことは、ハヤセさんから」
 視線を追って振り向くと、いつの間にかハヤセも扉の前に待機していた。彼もまた業務用の表情を浮かべており、普段の軽薄さは微塵も覗かせていない。
 顔を戻し、ミサキと名乗った女性に訊ねる。
「そうなんですね。彼からは何と?」
「腕の立つ方なので、あなたにお任せするのが一番だろうと。わたしは特に希望したわけではないのですけれど……ご迷惑でしたら申し訳ありません」
「いえいえ、そんなことは全く」
 はにかむように謝る彼女を見、曖昧だった違和感が具体的な形を帯びて行く。欠落しているのは、彼女の何かだ。いや、これはそういった種類のものではない。
「他には何か? ……たとえば面白みのない堅物だとか、精神の老けた男だとか」
「え? い、いえ! 本当に頼りになる方だと……」
「はは、冗談ですよ。そう思っていただけているのなら嬉しいです――」
 最早、どちらの緊張を解そうとしているのか分からなかった。
 軽口を叩きながら視線では真剣に、所望者の観察を続ける。……年齢は二十そこそこだろう。容姿は整っているが、それ以外には別段変わったところはない。ならこの感覚は何だ? ハヤセもこれを感じたのだろうか。だから私に回したのか?
「ではすみません。早速ですが、手を拝見しても?」
 いくら考えても正体が分からず、雑談は早々に切り上げて診察に入る。爪の状態や強度、その他打擲に必要な諸要素を確認するためのプロセスではあるが、何がおかしいのか判断を下すためにはこれが最も手っ取り早い。
 表面上は書類と実際の状態を照らし合わせながら、内心では違和に対しての手掛かりを得るために。記載事項の通り、打擲の痕跡は一切見受けられない。これが初めての所望なのは間違いなかった。それ自体は大して珍しいことではないのだ、が。
 診断を続けている内に、戦慄にも似たものが背筋を走るのが分かった。
 爪甲強度――良好。
 生活習慣――良好。
 形状・色相――共に良し。
 白く透き通るような掌は陶器のような、しかし温かみのある滑らかな肌理を保っており、そのままほっそりとした控えめなカーブを描いて指頭へと続いている。その長さ。五指のバランス。関節の配置や爪自体の大きさに至るまで、全てに非の打ちどころがない。胼胝や傷の痕跡さえ見当たらず、癖から生じる骨の歪曲もない。
 冷汗が首筋を伝い落ちる。……普通、手からは何かしらの悪癖や問題が読み取れるものだ。大体の嗜好や性向、そう思えば現在生じている感情の機微さえ。
 彼女の手からは、欲が読み取れない。
 私のように、無関心から来る無欲ではなく。
 言わば一切の我欲が、ない。
 いつの間にか、彼女の手に惹き付けられている自分がいた。まるで芸術品そのものであるかのように、既に完成された器官。あまりの美しさに息さえ忘れ、そのことにも気付かず窒息してしまいかねないほどの、手。
 そんな至上の陶酔に気付いた瞬間。
 私は。
 今まさに。
 ――絶望の淵へ、自らが立たされていることを知る。
「あの、どうかされたんですか?」
 目の前から聞こえた彼女の言葉で、私はようやく我に返る。
 長時間診断を続けてしまったせいか、その顔には若干の不安が浮かんでいた。……ティーラーとしては悪手だ。背後のハヤセから「何やってるんだ」とでも言いたげな気配を感じ、辛うじて気を取り直す。
 ……しかし、私は。
「全く問題ありません」
 これから、自らの手で。
「失敗を思い描く方が難しいほどですよ」
 この手を。
「最善を尽くします。ご安心ください」
 この爪を。
 損なわなければ、ならないのか。


 4

「な? 俺の言ったことが分かっただろ?」
 麺を啜る傍ら、ハヤセは箸でこちらを指す。「あれに中途半端な執行はできねぇよ。失敗でもしようもんなら夢で魘されそうだ」
 どちらが誘うでもなく、馴染みの飲食店へやってきていた。
 休日ということもあり人混みで溢れる小さな店内には、最近流行っているという女性歌手の歌声が喧騒に埋もれている。耳を澄ませば特徴的な旋律だが、歌詞にはあまり見るべきところがなく、他の曲を幾つか継ぎ接ぎしたかのような内容。
 聞いている内に嫌気が差し、ざわめきの方へ意識を向ける。生臭な愚痴や品のない会話、時折沸き起こる若者数人の笑い声。普段であれば気に留めることもない日常の数々が、今の私には耐え難い刺激となって眉を顰めさせた。
「見たかよ、あの楚々とした佇まい。ああいうのを育ちがいいって言うのか? あんな子が一体何を所望するのやら――気にはなるが、自分で打擲するのはまっぴら御免だぜ」
 自分で押し付けておいて、よく言う。
 そんな非難が伝わったのか、ハヤセは珍しく申し訳なさそうな色を浮かべる。
「悪いとは思ってるぜ。でも、分かるだろう? 本当に最小限の痛みで済ませてやろうと思ったら、俺じゃどうしたって力不足だ。あんたに任せる他にないんだよ」
「私を何だと思ってるんだ」
 投げ遣りに返すと、箸を止めて机に身を乗り出してくる。
「——俺が知る限り、一番腕の良いティーラーだ」
 都合の良い話だった。
 確かに私なら、彼より上手く爪を飛ばすことができるだろう。そのあたりの事情には全くと言える程困難はなく、何なら今までで最も完璧な打擲を行える自信さえある。
 だがハヤセには分かっていないのだ。これはそんな生易しい問題ではない。……思い出すだに、身震いする。触れた掌の絹を思わせる感触、これ以上となく均整の取れた五指。
 黄金比を思わせる縦長の爪甲は下に隠れる肉を映し出し、指頭で美しくも淡い桃色に色づいていた。動きを想像する。官能的なまでの曲線を描き、しなやかに反る指を想像する。そうしただけで心臓をなぞられているように、息苦しさにも似た感覚が去来する。
 また、自分が打擲している場面も想像する。乳白色と呼んで差し支えないあの腕を無粋な器具で固定し、華奢な指先に先端部分を差し込む。考えうる限り最高の力加減でハンマーを叩く――その先を思い描こうとする度、私は叫び出しそうになった。
 あの爪を、壊す。
 あの手を壊す。
 …………。
「説得することはできないのか」
 言った瞬間、ハヤセの顔が驚愕に染まる。……分かっている、所望者の事情に介入しようなど、ティーラーの領分を越えた愚行だ。無礼千万も甚だしい。私が「言ってみただけだ」と付け足すと安堵したようだったが、その後でしばし思案顔になる。
「しかし分からねぇな……クシナダ、あんたなら淡々と、とは言わずとも引き受けてくれるものと思ってたんだが。俺は単純に若い娘さんに苦痛を味わって欲しくないだけだ。それとも、他に何か障害でもあったのか?」
「いいや、理想的だ」
「それなら何を躊躇うことがある?」
 私は天井を仰いだ。……理想的に過ぎるのだ。それ以外には言うべき言葉もない程に。
 要するに魅了されてしまったのだろう。こんな職業でもなければ気付かなかった美しさには違いないが、こんな職業でもなければそれを破壊するという選択を迫られることもなかった。初めて自分がティーラーであることを、恨めしく思う。あれ程までに完成された爪を自らの手で損なうなど、どうしてそんなことができるだろう?
 ハヤセは怪訝そうにしながらも、口を開く。
「あんたが三回目の面談を提案した時にも驚いたが、何か担当できない事情があるのか? もしそうなら――」
「いや」
 言い切られる前に、遮る。仮にあの手を破壊するにしても、それを行うのは私自身をおいて他にはない。あり得ない。幸い執行までには若干の猶予が残されている。それまでに何か解決策を見出すことができれば、あの手を損なわないことも不可能ではないだろう。
 その時まで、まだ一週間はある。
「少し、考えさせてくれ」


 打擲。
 打擲。
 打擲。
 その日以降も機械的に仕事を続けながらも、あの手のことが頭を離れることは一度としてなかった。どんな所望者の手を見たところで、彼女の手には全く及ばなかった。
 その度にあれが一つの奇跡であることを思い知らされ、一月と経たない内に破壊しなければならないという恐怖に身を震わせる。書類仕事に関しては、全く気が入らなかったと言ってもいい。それら全てを総合してのティーラーなのだから、全く、プロとしては失格に違いない。
 自宅に戻れば思案に耽り、何か回避する手段はないものかと煩悶する。時に指先を思い出しては陶酔し、時に執行の情景を浮かべては頭を抱える。その繰り返しだった。
 現実的な対処にも頭を巡らせた。
 だが、そのどれもが机上の空論めいており、実際の行動に移すには障害が多過ぎた。たとえば健康上の理由から執行不可とすること。一定以上の危険が伴う場合、私たちにはその判断を下す権限がある。しかし彼女の手はあまりに健常であり――故に魅入られてしまったのであるが――不可能とする根拠はどこにも見つけることができなかった。
 たとえば、所望品の内容から執行を拒絶すること。ただ所望者は先に管轄の部署へ申請を済ませており、こちらに来ているということは既に承認された証左に他ならない。これも不可。或いは書類の改竄を行い、適当な理由を捏造するという手段も考えたが、下手な不正は立ちどころに露見し、私のキャリアは終わりを迎えるだろう。第一、それでは結局他の人間が打擲することになりかねない。……どれもこれも、現実的ではなかった。
 毎晩のように煩悶し、時には夢にまであの手を見ることがあった。あの日、診察をしていた一時の夢。永遠に損なわれないと知って安堵する夢。手首から先を切り落とし、得体の知れない薬液に保存する夢。そこまでならば、まだいい。無残な形で打擲に失敗し、完膚なきまでに手を破壊してしまった時などは、大声を上げて寝台に飛び起き、恐怖に震えながら両手で顔を覆った。
 私を絶望させたのは、それが現実に起こりうることだ。
 そんなことになったのなら、あの手を守れないばかりか、ティーラーを続けて行くこともできないだろう。人の痛みを感じない私が、執行に対して恐れを抱くのは初めてのことだった。『私は、あの手を破壊しうる』。
 最も容易な選択は、私が担当しないことだ。
 考えられる限りで最も信頼の置けるティーラーに打擲を委ね、私自身はこの件に関して今後一切関わらないこと。忘れてしまうこと。すると必然的に、同じ職場で働くハヤセは候補から除外される。だが、人に興味を抱かない私の交友関係には、他に数えるほどの候補もない。
 一部でも客観的に、私自身より腕の立つティーラー。
 心当たりのある人物は、一人しか思い至らなかった。


「——あたしに、所望者の打擲を任せたい?」
 私が話し終えると、アマノは信じられないといった様子で動きを止める。
 三回目の面談――即ち、執行直前の面談を前日に控えたその日、私は彼女に連絡を取って喫茶店で待ち合わせた。彼女にも他の仕事があるだろうに、呼びつけた上に仕事を丸投げするなど、我ながら不躾極まりない。
 呼び出し自体には二つ返事で承諾をもらうことができたが、仕事の依頼にはさしもの彼女も驚きの色を隠さなかった。当然だろう。手指の状態や執行者の急病など、やむを得ない事情で他に仕事が回されることはないではないが、今回のようなケースは私自身、耳にしたことがない。
 サーキュレーションが撹拌する空気の下、アマノは茫然と口にする。
「つまり……クシナダさんでさえ手に負えない所望者ということですか? そんな仕事を、あたしが? そんな……そんなことって」
「いや、打擲自体は容易だろう。だが私には――」
「待ってください」
 アマノは遮る。
「クシナダさんの力になれるなら、それほど嬉しいことはありません。でも! ……地域の管轄を越えて、しかも直前で担当者を変更するなんて」
 分かっている。
 そんなことは、おそらく前代未聞だ。
 所望者本人が特定のティーラーを希望すると言うのなら、まだ分かる。しかし今回ミサキからの要望は何一つとしてなく、度重なる担当変更は明らかにこちらの問題だ。それも執行予定は翌日と来ている――たとえアマノが了承しても、そんな話が通るかどうか。
 アマノはしばらく沈黙していたが、ややあって、静かに口を開く。
「……あたしは、クシナダさんを尊敬しています」
「私はそこまでの人間じゃない」
「そうであろうと、憧れているんです。同じ仕事をしているからこそ、クシナダさんの凄さが分かっています。あたしはこんな体ですから――」
 言って、包帯の上に手をやる。「あなたの領域には近づくことさえ叶いませんが」
 そんなことはない、はずだ。
 ハンディキャップを負いながらも一定の評判を勝ち得てきた彼女が、私のように動機なく働く輩に劣るということは、全くない。仮に彼女が視力を取り戻し、十全な準備の下でティーラーとしての任に就いたのならば、私の技術などは遥かに凌ぐだろう。
 アマノ自身、それを矜持としてやってきた節もあるはずだ。強い意志。不利を承知でこの仕事を続けてきたのは、片目の欠落さえものともしない技術を誇るという面があるのではないか。いくら他人に興味のない私にも、それくらいは分かった。
 机を挟み、正面から見据えられる。
「言いたいことは分かります。確かにあたしは、片目でも仕事がこなせるんだってことを支えにしてやってきました。足りない部分は他の技術で補って、恐縮ですが、部分的にはクシナダさんにも負けない自信があります」
 だけど、違うんです、と彼女は言う。
「総合的な技術では、どうしたってクシナダさんには及びません。それにこの仕事を始めた動機だって、本当はそれだけじゃないんです。復讐なんですよ」
「……復讐?」
 何の話か分からず、問い返す。
 つまり、顔のことで自分を蔑んだ連中への復讐? 一瞬、被虐願望があるのかとも思ったが、どう考えてもアマノはそういったタイプではない。大体、そのようなティーラーはほぼ例外なく評判が悪い。だとすれば。
 剥き出しの右目には、自嘲の色が浮かんでいた。
「見下してきた奴らを逆に見下すために、あなたたちの運命はあたしが握っているんだって優越感に浸るために。だからあたしが所望者の痛みを最小限に留めようとするのも、それで今までの溜飲を下げるためなんです」
 彼女の言葉を耳にしながら、自分で言ったことを思い出す。
 ティーラーなど結局、欠落者が就くものでしかない。
 肉体の欠落。
 精神の欠落。
 両者が結局同一のものならば、彼女の話は皮肉にも、今こそ参考に値するだけのものかも知れなかった。自らの損なわれた器官を補うために、満足させるためにあってこそ私たちはティーラー足りうるのだろう。……彼女の場合は、それが左目だったのだ。
 ならば私の退屈とは。
 私の欠落とは。


 5

 これまでの葛藤が嘘のように、面談は驚くほどスムーズに進んだ。
 それもそうだろう、ミサキ自身には何の問題もなく、猶予期間の全ては私個人のためにあったのだから。畢竟、私が担当として未熟だっただけの話である。
 簡易的に体調を確認し、最終調整に入る。引き換えにするのはどの爪か、処置を行う気分はどうであるか。軽い世間話も織り交ぜながら、処置に対して万全の状態まで精神を整えて行く。人によれば逆効果となる場合もあるが、ミサキは寧ろ無駄話を喜んでいるようだった。
「まぁ、ご安心ください。クシナダの腕は本物ですよ」
 一応、最初の担当者としてハヤセも同席する手はずになっている。と言うより、私がそのように言ったのだった。私を巻き込んだのはお前なのだから、見届けるのが筋だろう、と。それに会話術に関しては私よりハヤセの方が長けている。
「あんまり見事に仕事をするもんですから、研修会で演説を頼まれていたほどです。……自分はいい加減なものですので、全く声が掛かりませんでしたが」
「そんなことないですよ。初めにハヤセさんに担当していただいたおかげで、緊張していたのもすっかりなくなってしまいました」
「それは嬉しいな。堅苦しい雰囲気はどうにも苦手なので」
「わたしもです」
 爪を剥ぐ者と剥がれる者との会話には似つかわしくない、和やかな雰囲気が面談室に漂う。私も二人に合わせて笑みを浮かべていたが、内心ではどうするべきか未だに決めかねていた。
 違う、そうではない。最後の瞬間まで決めたくなかったのだ。これは私に残された最後の猶予であり、自らに対する容赦だった。この期に及んで決断一つ下せないなど、我ながら情けない。それでもその時が訪れるまで、まだ彼女の手に、爪に見入っていたかった。
 故に、ハヤセの質問が不意打ちのように襲い来る。
「——そう言えばミサキさんは、何をご所望されたんです?」
 私に向けられた問いではない。しかしその言葉を耳にして、自分の体がわずかに緊張し始めるのが分かった。最初は顔が強張る程度に、最終的には動悸を伴って。
 そんな私の様子には気付く素振りもなく、ミサキははにかみながら答える。
「わたし、今まで姉に頼りきりだったんです。両親がいなくて。ですからそれほど裕福な家庭ではなかったんですけれど、必要なものは何でも揃えてくれて、大学にも行かせてくれて。この歳になるまで、まだ恩返しの一つもすることができていないんです」
 だから、と彼女は目を細める。
「姉には少しでも楽をしてもらいたくて。……望んだのは、そういうものです」
 ハヤセは一瞬驚くような顔をした後、「喜んでくれると思いますよ」と表情を取り繕う。一方の私からすれば、予想の範疇を越えるものではなかった。我欲がないのなら、その所望が自分自身に向けられる可能性もないのだから。
 彼女に欠けているのは、そういった類のものだ。
 徐々に自分が落ち着きを取り戻すのが分かる。
「では、そろそろ」
 頃合いを見計らって、私は立ち上がった。


 処置室は面談室とは様相が異なり、かなり簡素な構造をなしている。
 リノリウム張りの床は常に清潔に保たれており、壁からは一切の装飾が省かれている。白一色の部屋。入った対面に医務室へ続く扉があり、部屋の中央には表面が滑らかなテーブルと椅子、その上に磨き上げられた打擲器具が一組据えられている。
 慣れ親しんだはずのそれらが、私には初めて目にするもののように映った。それでいて使途や特徴は分かるのだから、何かがすり替わった心持ちになる。
 ハンマーの癖からベルトの伸縮具合、テーブルの高さや金具の放つ光まで、全てに覚えがあるのにどこか余所余所しい。ハヤセが所望者を椅子に案内する傍ら、再三に渡って器具の点検を行う。一切の問題は見受けられなかった。
 役目を終えたハヤセは擦れ違いざまに「後は任せた」と小声で囁き、入ってきた扉の傍らで手を組んで直立の体勢になる。そう、ここからはもう、私が全てを行わなければならない。
 不思議と緊張感はなかった。
 ただ、自分が現実から剥離した感覚がある。
「気持ちを楽にしてください」
 お決まりの定型句を口にする自分をどこか遠くに感じながら、差し出されたミサキの腕をアームベルトで固定する。打擲機器はまだ、動かさない。私は未だに決めかねている。指を固定する段になっても、今から自分が執行するのだという現実味はあまり、ない。
 おそらくはもう、二度と目にすることはないであろう指先。
 形の良い指頭は緊張からか小刻みに震えており、本能的な恐怖が拭い切れていないことを如実に感じさせた。しかしミサキ本人は何とか落ち着こうとしている様子で、理性と感情のずれが体全体から伝わってくるようだった。
 血色や艶は見るまでもなく良好。
 細い指先には、器具を深く差し込む必要はなさそうだった。
 アームベルトは普段より緩めに。
 と。
「クシナダさんは」
 水を張ったような静寂を、か細い声が遠慮がちに破る。
「どうしてこの仕事を始めたんでしょうか」
「……。そうですね」
 アマノからも聞かれた質問。生憎私は、その問いに対する答えを持ち合わせていない。
 現にティーラーとして働いているのだから、どこかの場面に決断を下した根拠があることは疑いようもない。しかしその場面は、既に記憶的遠近法の彼方に薄れ、知覚不能な無意識として私を規定しているようだった。
 探しても探しても、水をまさぐるような感触以外に根拠は見当たらない。彼女の手を破壊するだけの理由が、私には見当たらない。
 ――そう考えた瞬間、初めて強烈に、人の欲望を知りたいと思った。
 二者択一の場面に迫られた時、人は何をもって優先順位をつけるのか。飽くなき欲望の奥底にどのような力が働き、何によって意識の表層まで浮かび来るのか。そもそも欲望とは何だったろう? 望み、欲するエネルギー。それはどういった構造によって規定され、目に見える対象へ加工されると言うのだろう。自らの欲望をコントロールできるとするならば、そのために必要な意志とは、詰まるところ何物であるのだろう?
 無関心。今まで所望者に対して貫き続けていた意識の薄皮が、古いゴム膜が劣化するように引き千切られて行く。今まで私が担当してきた者たちは、何を思い、何によって、何を所望してきたのだろう? それを叶えたことによって、彼らにはどういった心境が訪れたのだろう? 何一つとして見ず、聞こうともせず、自分とは関係のない些事と考え続けてきた私には、分からない。分かろうともしなかった。……結局私は、自らの欠落を直視したくはなかったのだ。
 穏やかな気分で、彼女に微笑み掛ける。
「おそらく、この時のためかと」
「え?」
 これ以上の問答は必要ない。
 問題は、如何に爪を剥ぐかということだ。所望者の身体的特徴と機器の相性、覚悟の程や欲望の強度も斟酌しなければ美しく爪を飛ばすことはできない――言わば爪剥ぎとは、機器と人体が織り成す総合芸術なのである。
 そうした刹那的な快楽で、最も優先すべきだった欲望に蓋をしてきた。私にとって打擲など、所詮は都合の良い代替物に過ぎず、どこまで行っても二番目以下だったのだ。その報いがこれだと言うのなら、甘んじて受け入れよう。
「さて、よろしいですか?」
 訊ねると、彼女は静かに目を閉じる。
 ……その瞬間、彼の体の震えや心臓の鼓動、自律神経の乱れから体温の変化まで全てが手に取るように感ぜられ、まるで所望者と一体化したかのような奇妙な感覚に私は打ち震える。
 一方、冷静そのものの自分が腕を振り上げているのも感じている。経験則と計算によって力加減を確定した自分が、一センチのずれもなくハンマーを叩くであろうことをどこか他人事のように眺めている。……今や私は、剥ぐ側でもあり剥がれる側でもあった。お馴染みとなった奇妙な同一化。
 指先を器具で固定すると、金属部分を爪の間に深く差し込む。背後からは動揺する気配が感じられたが、何をしたところでもう間に合うことはない。
 打擲。
 それは一体、何という業だろうか。
「では」
 やがて固定された腕と振り上げられた腕、それらが一つに重なった瞬間。
 ――これ以上となく完璧な形で、傷一つない爪が宙に放物線を描いた。
 
瀬海(せうみ) G3b0eLLP4o

2020年05月03日 22時20分39秒 公開
■この作品の著作権は 瀬海(せうみ) G3b0eLLP4o さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:
「欲望とは、他者の欲望である」
◆作者コメント:
 ナンバー2企画、開催おめでとうございます。運営の方々には尊敬と感謝を。……何とか滑り込みセーフできまして、〆切の重要性をひしひしと実感しております(間に合うとは思っていませんでした)。
 難しいテーマでしたので、皆さまがどのように料理されたのかこの機会に勉強させていただければ幸いです。
 大変なご時世ですが、一緒に盛り上がりましょう!

2020年05月18日 00時20分47秒
2020年05月17日 17時36分04秒
作者レス
2020年05月16日 23時51分45秒
+40点
2020年05月16日 20時43分18秒
+40点
Re: 2020年08月03日 22時24分15秒
2020年05月16日 14時53分59秒
+40点
Re: 2020年07月28日 02時09分33秒
2020年05月16日 14時53分20秒
2020年05月16日 13時20分07秒
Re: 2020年07月27日 01時36分51秒
2020年05月16日 12時08分08秒
Re: 2020年07月27日 00時32分50秒
2020年05月14日 20時50分37秒
+20点
Re: 2020年06月22日 00時39分40秒
2020年05月12日 11時22分32秒
+20点
Re: 2020年06月21日 19時32分50秒
2020年05月11日 06時11分28秒
+40点
Re: 2020年06月21日 16時43分49秒
2020年05月09日 18時47分24秒
Re: 2020年06月21日 16時31分14秒
2020年05月09日 03時46分24秒
+40点
Re: 2020年06月11日 21時16分23秒
2020年05月08日 03時41分58秒
+30点
Re: 2020年06月05日 12時24分16秒
2020年05月06日 03時49分24秒
+40点
Re: 2020年06月05日 12時01分24秒
合計 13人 310点

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