無敵の初心者アバターの正体はフィギュアスケーター!? |
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呆れと憐憫を含んだ彼の視線が、何よりも怖かった。 ―――― 氷上の三回転アクセルジャンプはパンクし、コンビネーションは抜けて、ステップはガタガタで……。何もかもしくじった全日本フィギュアスケート選手権。 なんとか最後のポーズを決めるも、満員の観客のため息が虚しくリンクに響き渡る。労うようなまばらな拍手が耳に痛い。 僕はおぼつかない足取りでリンクを降り、採点結果を待つ場所であるキスアンドクライに向かう。死刑を待つ受刑者の気持ちだった。よろよろとベンチに腰を下ろすと、隣に座るコーチが肩に手を回してくる。 大丈夫。よく頑張ったね。と小さく声をかけられる。 僕は力なく笑みを返した。知っている。結果の出る前から慰められるようじゃ、全く見込みはないってことは。 パッと目の前の電光掲示板に点数が表示される。 僕は顔を歪めた。――井浦 俊樹(いうら としき)。暫定十三位。 マイナー競技である故に、けして層が厚くない男子フィギュアスケート選手の中でこの順位は後ろの方だ。しかも、この後にもまだ演技をする選手がいる。僕の順位はどんどん下がるだろう。奥歯がぎりりと鳴った。 僕の表情を撮っているTVカメラマンが、居たたまれなさそうに眉を下げる。 これがかつて『日本のナンバー2』と呼ばれた選手なのかと、きっと彼もそう思っている。 僕はなけなしの矜持をかき集めてカメラに向かって頭を下げた。こんな僕の演技でも最後まで見てくれてありがとう、と。 握りしめた手は冷え切っていた。 ―――― うなだれたまま控室に向かう途中、廊下でばったりと一位の選手に出会った。白瀬君。黒髪に冷涼な眼差し。そして白く美しい肌。外国人の血が混じってるらしい。 僕の後輩だ。昔はしょっちゅう僕の後を付いてきた彼も、今では世界と戦うトップ選手の一人だ。僕は彼の後塵を拝すばかりになっている。 上目遣いで見上げる僕に、彼は軽くため息を吐いた。呆れと憐憫を含んだ視線が、僕を貫く。びくりと肩が跳ねた。 彼は目を細めて口を開いた。 「お疲れさまでした、先輩」 「き、君もお疲れさま」 白瀬君は軽く首を振ると、無表情でこう言った。 「次のシーズンは頑張ってくださいね」 ガンと、衝撃を受ける。 今はまだ十二月下旬のシーズンも半ばで、後半には四大陸選手権も世界選手権も控えている。なのに、次のシーズンの話をされるってことは……。 ショックで固まる僕をちらりと見て、彼は悠々と歩き去っていく。 うなだれる僕の足元にぽたりと水滴が滴った。涙だ。 慌てて、側にあったトイレに駆け込んだ。 個室に入り、トイレットペーパーで次々と流れてくる涙を拭う。 (言われちゃったなぁ……) この全日本選手権は四大陸と世界選手権の出場選手の選考も兼ねている。確かに今回の僕の成績ではどちらの大会にも出られないだろう。僕の今シーズンはここで終了というわけだ。 わかってはいた。だけど、かつてしのぎを削ったライバルに言われたくなかった。それも上から目線で労うような、呆れるような口調で……。 昔はそんなことを言わせないだけの実力を持っていたはずなのに、どうして僕はここまで落ちぶれたのか。 原因はわかっている。 (疲れたんだ。白瀬君に何度も食らいついても勝てないことに) こういうとメンタルが弱すぎって言われるんだろう。 何度も挑み、叩き潰されてまた挑んで、更に引き離されて……。ジュニア時代の終わりから、あの子は僕の上に君臨し続けた。教えてくれよ、後何回挑めば、僕は彼に勝てるんだ? 僕は今年で二十三歳になる。大学卒業と同時に引退する選手が多いフィギュアスケートの世界では、もうタイムリミットだ。SNSでは僕の引退について根も葉もない噂がぽつぽつと出始めている。 (このまま引退するか? あの子に勝てないまま?) 自分に何度も問いかけた質問に、ズキンと胸の内に痛みが走る。呆れと憐憫がないまぜになった彼の視線が脳裏をよぎる。 僕はぶんぶんと頭を振った。 (嫌だ。あの子に見放されたまま終わりたくない。せめて、せめて爪痕を残したい!) たとえそれが引退する最後のシーズンになったとしても! 僕は両手でぱちっと頬を叩いた。 コーチに来シーズンのことを相談しなきゃ。スポンサーにも支援を続けてくださいってお願いして。それから、曲探しも振付師に次のプログラムの依頼も! やることは山積みで、それこそトイレで泣いている場合ではない。 僕はジャージの裾でグイッと涙を拭うと、トイレの個室から飛び出した。 ―――― 全日本選手権が終わって三日後の夜だった。自宅でYouTubeを使い曲探しをしているとき、その電話は掛かってきた。スポンサーの××製紙からだ。 「す、すみません。今、何と?」 あまりにも衝撃的なことを言われたたので、僕は自分の耳を信じられず聞き返した。 電話相手の女性は、申し訳なさそうにこう言った。 「うん、もう一度言うね俊樹君。来月末で弊社は俊樹君のスポンサーから撤退することにしました。これは決定事項で、もうプレスリリースの準備もできているの」 「そ、そんな……」 ざっと血の気が引いた。わざわざ決定事項と明言するからには、もうひっくり返る見込みはないってことだ。 震える声で理由を問う。 「ぼ、僕の成績が不振だからですか?」 女性は少し沈黙して、肯定した。 「表向きの理由はそう。俊樹君、B級大会から調子が悪そうだったし」 「表向き……?」 うん……と彼女は少し言いよどんだ。 「会長はもっとはっきり言ってた。『井浦君からどんなに追い詰められていても、ナンバーワンに食らいつくという覇気が消えている』」 ひゅっと、喉が鳴った。スマホを握りしめる手が震えて、ギリリと軋む。女性は悔しそうに続けた。 「『惰性で戦うなら、スポンサーを続ける意味がない』って……」 その言葉に鼻の奥がツンと痛んだ。 (見抜かれていた) 自分のふがいなさを見通された羞恥と自分に対する怒りで、涙が出そうだ。女性は辛そうに声を落とした。 「ごめんね、俊樹君。会長を説得できなくて……」 「いいえ、僕の力不足です。貴女にはたくさんお世話になりました」 お互い謝罪を交わす。僕は恩知らずにも、今すぐに電話を切りたくなった。整理する時間が欲しい。 「その、今度今までの御礼を言いに会社にお伺いしてもいいですか?」 「ええ、スケジュール合わせはメールのやり取りでいいかしら」 「わかりました。メールをお送りします。……今までありがとうございました」 ずっ、と電話向こうから鼻をすする音がした。そして涙声。 「こちらこそ、俊樹君の力になれて光栄でした」 だめだ、僕まで声が震える。せめてもの意地で、泣きたくはなかった。 「ええ、それでは失礼します」 電話を切ろうとしたとき、彼女の縋るような声が響いた。 「俊樹君。スケート、やめないでね」 それきりスマホは沈黙した。僕は脱力して、天井を仰ぐ。重々しいため息が止まらない。 「続けようにも、お金と心が限界なんですよ……」 僕は震える手で机の引き出しを開けて、通帳を取り出した。ペラリとめくると残高は百万円。 普通なら二十三歳で百万円も溜められれば上出来だろう。アイスショーの出演料が僕を助けてくれた。 しかし、フィギュアスケート選手のワンシーズンを支えるには、文字通りはした金にしかならない。 四千万円。シーズンを不足なく戦い抜くにはそれぐらい必要だ。 これまではスポンサーに頼り切りだったが、その唯一のスポンサーにたった今切られた。 奥歯を砕けそうなほど噛みしめる。 (まだだ。ここで諦めるわけにはいかない!) 僕は鞄から手帳を取り出すと、猛然と会社のピックアップを始めた。 ―――― 一週間後、結果は惨敗だった。自室の机に突っ伏して、ふがいなさに唸る。 フィギュアスケートに理解ある会社は、当然僕の昨今の成績を知っていて、やんわりと断られた。毎年四千万円も投入するなら勝てる選手を選びたいというわけだ。さもありなん。 自棄になって手あたり次第の大企業にも営業を掛けてみたが、『フィギュアスケートってどんなスポーツですか?』と首を傾げらて撃沈した。仮にうまく説明し、興味を引けても、『必要な支援金は四千万円です』と言うと絶句される。そう、想像以上にお金のかかるスポーツなのだ。 それにしてもいい加減八方塞がりだった。今は一月上旬。五月のシーズンオフが終わるまでにどうにかしないと。 僕はふぅとため息を吐いた。焦っても仕方ないとわかっている。でも心のもやもやが晴れないのだ。 (こういう時は練習しよ……) すでに夜十時を回った。リンクも閉まっている時間だが、できる練習があるのだ。着るのは練習着じゃなくて、パジャマだけど。 寝る準備をした後、ベッドヘッドの棚で充電していた『イメージギア』を頭に被る。そしてパジャマの上から、足首から太ももまで覆う、筒状でメカニカルな『センサーグリーヴ』を足に装着した。これで準備完了。 ベッドに横たわり目を閉じると、眠りに落ちるように仮想世界にダイブする。 再び目を開けた時には、僕は銀色のリンクに立っていた。 フィギュアスケートの国際規格に合致する六十メートル×三十メートルの静寂な世界。 煌々とリンクに反射する蛍光灯の光。 頬を撫でる冷気。 ここは僕だけのリンクだ。 ――ただしVRゲームの中の、だけど。 ―――― 足はすでにスケート靴に覆われている。 僕は氷を蹴って、ゆっくりと滑り出した。スケート靴のエッジ(刃)を使い、氷上に描くのは8の字だ。フィギュア(図形)スケートの語源となっているコンパルソリーと呼ばれるそれは、スケートの基礎中の基礎。僕にとっては準備運動のようなものだ。心を落ち着けるのにも有効。 無心で滑っていると、焦る気持ちがゆっくりほどけていく。そうそう、リンクのステータスも確認しなきゃ。 「うん、ちょっと体が軽いかな。重力魔法が劣化しているのかも」 空中に手をかざして、マイメニューを開く。リンクのステータスを確認すると、バッドステータスのマークが普段の五つから四つに減っていた。思った通りだ。 「エリア魔法、グラビティLv.5」 そう呟くと、ズンと体が重くなった。心なしかビリビリと空気が痺れている。でもこれでいつも通り。ついでにリンクの摩擦係数も弄ると、僕はまた氷上に図形を描く練習に戻った。 それにしてもこのVRゲームはとてもいい! 現実でリンクを一人で貸切ったら月に三十万円、年間では三百六十万円もかかる。 (でもこのゲームなら月額千五百円!) 滅茶苦茶お得! このゲームをスケートの練習に使おうと思いついた自分に拍手を送りたいくらいだ。 このゲームはその名もVRAB(バーチャルリアリティエアバトル)という。名前の通り対人戦がメインのゲーム。フライトギアと呼ばれる靴で空を飛びながら、弾幕と呼ばれる複数の弾のパターンで相手を撃ち落とす弾幕戦が有名だ。 弾幕バトルで相手の陣地を奪うエリア戦ときたら、観戦者は万人単位でいるらしい。生の観戦チケット収入やらYouTubeに投稿されたエリア戦の広告収入やらで、VRABで一財産築いたプロプレイヤーはそこかしこに存在するとか。 (まぁ、僕はスケートの練習に使ってるだけで、エアバトルなんかしたこともないんですけどね) このゲームのもう一つの特徴が僕にとっては大事だった。 なんと、リアルの脚力を忠実にゲームに再現できるのである。リアルで足に装着するグリーヴの無数のセンサーのおかげだ。つまりこのゲームでは現実と遜色ないトレーニングができるのだ。ここで幾度となく苦手なジャンプを練習したおかげで、現実ではするりと跳ぶことができたのは記憶に新しい。 ふと、意地悪い考えが頭に浮かんだ。 (いっそVRABだけでスケートの練習をしてみようか) ふふふと笑いが漏れて思わず足が止まった。もしそうなったら、リンク代の年額三百六十万円が丸々浮く計算だ。スケート靴も摩耗しないからスケート靴の代金の二十六万円も得をする。振り付けもVRゲーム上で確認して、指導を受ける。海外遠征でかかる五百万円もゼロに! むずむずと愉快な思いが胸に湧き上がってきて、ついには腹を抱えて笑いだす。リンクに笑い声が響いた。 はぁ、と涙を拭ってため息。 (まぁ、イメージトレーニングだけで勝てるほど、フィギュアスケートは甘くないんですけどね) しょせんは皮算用だ。いつだって資金の悩みは尽きない。急激に虚しくなって、どっと疲れが湧いてきた。 (今日はもう上がろうかな) マイメニューを開いて、ログアウトしようとしたとき……ポォンと着信音が響いた。ぱちりと瞬きすると、視界の隅に緑のメールマークが点滅する。運営からだ。 疑問符を浮かべながら、メールを開く。文面は以下の通りだった。 『来たる二月二十九日並びに三月一日に、VRAB日本選抜大会を開催致します。選抜大会で優秀な成績を収めた選手は世界選手権に出場することができます。奮ってご応募ください。参加条件は以下の通りです。 一、エリア防衛率が八十%以上 二、……』 ぐっと胃が痛んだ。競技が違うとはいえ、リアルの日本選抜でボコボコにされた身としては、『日本選抜』の文字を見るだけでキツイ。 (そういえば、去年もこの時期に大会やってたな……) 興味がなかったので忘れてた。 惰性でメールをスクロールしていくと、とある項目に目が吸い寄せられた。 『賞金 優勝 一千万円 二位 五百万円 三位 三百万円』 驚きのあまり「はぁっ!?」 と間抜けにも大声が出た。 (今のゲームってこんなに賞金がもらえるの!?) もしも、もしもだ。優勝できれば、来シーズンに必要な資金の四分の一が賄える。残りの資金はスポンサーに融通してもらわなければいけないからスポンサー探しは必須だが、それでも提示金額が下がればスポンサー要請に頷いてくれる企業もいるかもしれない。 僕は目の色を変えて、参加条件を熟読した。心はすっかり日本選抜大会に奪われていた。 (エリア防衛率ってなんだ!?) どうやらエアバトルの専門用語らしいけど、ちんぷんかんぷんだ。こちとら、このゲームはスケートの練習にしか使ってないんだぞ。 理不尽な怒りを感じながらマイメニューのヘルプページを読み漁る。様々なアチーブメントが並ぶ中、下の方にエリア防衛率の説明を見つけた。 『エリア防衛率とは、敵プレイヤー侵攻時に防衛できたあなたのエリアの割合です。敵にエリアが奪取されると防衛率は低下します』 そして、僕のエリアの防衛率も表示されていた。 『あなたのエリアの防衛率は百%です』 (……うん、まぁそうだろうね) 僕は狐につままれた気分だった。 エリア防衛率百%もさもありなん。だって、このリンクに侵攻してきたプレイヤーは一人もいないのだから。だって侵攻する理由がない。 エリア戦を行うには広大なエリアが必要だといわれている。複数人での弾幕の撃ち合いともなれば弾幕が空を埋め尽くすため、生半可な大きさのエリアでは弾幕を避けることができなくなってしまう。 翻って僕のエリアは、リンクまでの道中(長ーい洞窟)を除けば六十メートル×三十メートルのリンクがポツンと一つだけ。観客席もないし、エリア戦を行うには狭すぎる。 それにエリア戦はお互いのエリアを賭けて戦うが、猫の額のような僕のエリアのために自分のエリアを賭けるにはリターンが少ない。 まぁ、これでもエリア戦を仕掛けられるのが怖くて、このリンクまでの道中の洞窟にしこたまトラップを仕掛けたのだ。ひやかしで何百人かは挑戦してきたみたいだが、このリンクにたどり着けた人は一人もいない。 初心者の僕が自力でクリアできる程度のトラップだから、そんなに難しくないと思うんだけど……。 僕のエリアは初心者フィールドにあるから挑戦者も初心者なのかもしれない。 (おかげで、日本選抜大会の出場条件は満たせるみたいだから、いいんだけどね!) いつの間にかすっかり参加する気になっている僕だった。それだけ一千万円は魅力的に過ぎた。ま、まぁ挑戦するだけならデメリットはないし。 メールを最後まで読んだが、他の参加条件もクリアできそうだ。 (よし、や、やるぞ!) 震える手でエントリーボタンを押す。混乱のあまりおめめはぐるぐるだ。 カチッと軽い手ごたえの後、なぜかファンファーレが鳴った。 驚いて目を丸くしていると、新たなメールウィンドウが開く。 『おめでとうございます。あなたは全選手中、唯一のエリア防衛率百%です。この功績により予選が免除され、本選からの出場が認められました』 僕は目を瞬かせた。 (ら、ラッキー。……なのか?) 喜びより困惑することしきりだった。 僕は本当に追い詰められていた。やったことのない弾幕バトルの大会に初見で参加しようとするくらいには。 VRAB日本選抜大会。一体、どんな試合になるんだろう……。 ―――― 三月一日、午前九時半。 とうとう本選の日だ。ゲームに早めにダイブして、リンクの中央でその時を待つ。時間になったら自動的に試合会場に転送される仕組みだ。 でも僕ときたら日が経つにつれ正気に戻り、今じゃ羞恥に震えていた。 しゃがみこんで頭を抱えたくなるのを必死にこらえる。 (い、一ヶ月練習したのに、飛ぶことすらできないなんて) エアバトルは文字通り、空を飛んで戦う。飛べないんじゃ恥を晒しに行くようなものだ。 (初心者用wikiでは『フライトギアで地上を滑走し、飛行力をチャージして、地を強く蹴れば飛べます』としか書いてなくって。僕は何度もその通りにしたのに!) どんなに飛行力をチャージしても、どんなに力強くリンクを蹴っても、数秒浮いて地に降りてしまう。これじゃとても試合にはならないだろう。最悪地上で逃げ回るしかない。 他の選手は本当に飛べるのかと、YouTubeで試合の動画を見たが飛べるどころじゃなかった。空中で四方八方から飛んでくる弾幕を見もしないで、すらりと避けてみせる。あまつさえわざと弾幕に近づき、カリカリと弾幕が身を掠めた時には度肝を抜かれた。これは主にスコア稼ぎに使われる神業らしい。 ちなみにこの神プレイヤーの名前は『ガレオン』。現日本チャンピオンだ。 翻って我が身のふがいなさよ……。 (だ、大丈夫だ僕。リアルの全日本フィギュアスケート選手権で晒した恥を思えば、これくらいなんでもない) 自分を慰めてみるも、その実何の慰めにもなっていなかった。 時間は無常に過ぎていき、光の粒子が僕を取り巻く。転送時間になったようだ。時刻は午前十時。 僕は菩薩のような笑みを浮かべた。もう、どうにでもなぁれ。 ―――― 太陽の眩しさに目を眇める。 草原の緑が、青空に映えてとてもすがすがしいフィールドだった。ここが試合会場らしい。草の青々しい匂いが鼻をくすぐった。 右手側の奥には巨大なスクリーンを備えたスタンド席があり、何万人ものざわめきが響いている。空には無数の撮影用ドローンが飛び交っており、巨大スクリーンに映像を送っていた。 そして正面では……とても見覚えのある人物が僕をじっと見ていた。彼が僕の対戦相手らしい。 黒い短髪の、精悍な面立ちの青年だ。 着ているのは蒼いスポーツウェアにショートパンツ、黒のレギンス。足に纏う黒いフライトギアには稲妻のような紋様。 僕は呆然と目を見開いた。参考にした動画で山ほど見た凛とした姿。 VRAB現日本チャンピオン。――ガレオンだ。 ひゅっと息が止まった。 (『ガレオン』!? よりによって、僕の初戦の相手が日本チャンピオンなの!?) 途端にパニックになる僕を見て、ガレオンは訝し気に目を眇めた。 「もしかして初心者か、お前。それともその恰好は縛りプレイなのか?」 僕は狼狽した。ちなみに縛りプレイとは、プレイヤーが自らに制限を課してゲームの難易度を上げることだ。当たり前だけど僕は全くそのつもりはない! 「な、なんで僕が初心者だってわかったの!?」 彼は呆れたように口角を上げて笑った。 「当たりか。そのノーマルウェア、初心者用のだろ? 防御力の欠片もないやつ」 はっとして、自分の恰好を見下ろす。着ているのは白いパーカーと黒いズボン。そしてスケート靴。ザ・地味! 言われてみれば、動画で見たそれぞれの選手はみんなスタイリッシュなスポーツウェアだったり、ファンタジーじみた鎧姿だったりと様々だった。きっと防御力も高いんだろう。僕の恰好はいかにも場違いだった。 僕は顔を羞恥に熱くして、叫んだ。 「しょ、しょうがないだろ。課金は全部エリア(リンク)とフライトギア(スケート靴)につぎ込んだんだから!」 ガレオンは笑った。 「そんなんみんなそうだよ。それにしてもマジで初心者か。どうして本選トーナメントに来れたんだか。一応聞いてやるけど、お前のエリアってどこだ?」 僕はひるんだ。僕のエリアってどこだろう。 すぐには答えられずに口ごもる。慌ててマイメニューを開いた。 彼は「自分のエリアの場所も知らないのかよ」と、ちょっと呆れ顔だった。 ステータスの中にあった僕のエリアの場所を恐る恐る読み上げる。 「僕のエリア、G-7区画にあります……」 尋ねられたから答えたけど、どうせあの狭いエリアのことなんか知らないだろうと声が小さくなる。何故か無性に恥ずかしい。 けれどもガレオンは目を見開いて驚愕の表情を浮かべていた。 「なっ、G-7区画って、あのエリアG7か!? クリアした者が一人もいないという絶対不可侵洞穴の!?」 食いつく声に僕はひるんだ。 「う、うん。ステータスだとそうなってるけど……」 彼は獰猛に笑う。 「はっ、そうかよ。とうとうG7のエリア主が現れたわけだ。何が初心者だよ。弱いふりして俺を油断させようとしても無駄だ。――粉々にしてやる」 そう言い捨てると、ガレオンは僕に背を向けて歩いていく。ある程度の距離を取ると彼は構えた。もう言葉は交わす気はないようだが、彼から放たれる殺気でビリビリと肌が泡立った。 (きゅ、急に敵意が満々に――!) 唖然とする僕を置き去りに、ポォンと空にアナウンスが響く。 『本選は選手同士の一騎打ちです。試合開始まで、あと五分――』 はっと、我に返ると慌てて実況ラジオを付けた。自分にしか聞こえないそれは、バトルで今何が起きているのかを知るのに一番だと思ったので。 ザザザッとノイズの後、深みのある男性の声が聞こえてきた。 『今、ガレオン選手とアルイ選手の会話が流れてきましたが……。解説のジンさん、エリアG7とは一体なんでしょうか』 それに答える声は快活で、楽し気だった。 『あー、エリアG7は今や現存する伝説と化しているトラップエリアのことですね。難しすぎると初心者は敬遠しがちだが、その実、上級者ほど手こずるトラップで今までクリアできた者はゼロ。あまりの過酷さから《運営の修正待ちのバグエリア》とまで呼ばれてまして』 観客たちがどよめいている。ごくりと、実況の喉が鳴った。 『しかし、今回エリアG7のエリア主が現れた……』 我が意を得たりとばかりに、解説がはしゃいだ声を上げる。 『そう! バグじゃなかったんだよなぁ。あの難攻不落なトラップの山の奥で一人黙々とバトルの技術を磨いていた奴がいた。彼こそ全プレイヤー中唯一のエリア防衛率百%を誇る、この大会一のダークホースです!』 ジンさんの口上に、わぁああああと観客たちも歓声を上げる。 一方の僕ときたら、内心声にならない悲鳴を上げていた。 (なんか知らないところで有名になってるーーーー!) ごめんなさい、あそこには自分がクリアできるレベルのトラップしか置いてないんです! そしてバトルの技術も磨いてないんですーー! べそべそと言い訳を頭の中に並べるも、誰にも聞こえるわけがない。そしてそんな時でも無常に試合開始のカウントダウンは進んでいくのだった。 『五秒前。四、三、二、……試合開始!』 試合開始の合図と同時にガレオンのフライトギアが唸りを上げた。まっすぐに突っ込んでくる。ザザザと草が薙ぎ倒されて、烈風が巻きあがる。 鬼気迫るガレオンの勢いに僕は頭を庇ってしゃがみこんだ。 あわやぶつかるか!? と思ったが、彼は僕の横を走り抜け、力強く踏み込みそのまま空に飛びあがった。 僕は慌てて空を見上げようとした。しかし、首の後ろにぞわりと殺気を感じて転び出るように前方に滑り出す。結論から言ってそれは正解だった。 すぐに空から間断なく弾幕が降り注いだからだ! 走る先から閃光と共に草原に大穴が開く。爆風に背中を押されてたたらを踏んだ。 ラジオの実況が感嘆の声を上げた。 『おおっと、ガレオン選手、初手から猛攻を仕掛ける!』 『油断ならない相手だと思ったんですかねー。それにしてもアルイ選手は地上で逃げの一手。バトルのセオリーにも反してるし、何か狙いでもあるのかな』 『セオリーですか?』 ジンさんはええ、と説明し始めた。 『弾幕バトルは地上を走って飛行力をチャージします。これを地上戦って言うんですが、弾幕を避けるには不利なんですよ。なにせ空中とは違って下に逃げられない。地面には潜れませんからね。なるべく地上戦は必要最低限にしたい』 『なるほど、だからガレオン選手は最小限の飛行力をチャージして空に飛んだわけですね』 ジンさんは頷くと、意地悪そうな声でこう言った。 『ええ。まぁ、鳩を捕まえるときと一緒ですよ。地上にいる鳩の群れに突撃すると一斉に空に逃げるんですが、一羽ぐらい状況がわからなくて間抜けにもぽかんと突っ立ってる奴がいます。そいつが真っ先にやられますね』 『な、なるほど』 (ちょっと待て、間抜けな鳩って僕のことか!) 降り注ぐ弾幕から逃げ回りながら実況ラジオに憤る。的を射てるかもしれないけど! だってバトル初心者だし! (それでも、タダでやられてやるわけにはいかない!) 視界の隅に瞬く光に合わせて、蛇行を繰り返す。 フィギュアスケートで培った、細かなステップやターンの技術がこんなところで役立つとは! 弾着と共に巻き起こる爆風で体が飛びそうになった。堪えて一心不乱に地上を疾駆する。 何故か異様に体が軽かった。今なら何でもできそう! 僕の走る速度に追いつけなくなったのか、弾幕の着弾位置がどんどんずれてきた。これなら逃げ切れる! 『アルイ選手、華麗に躱していきます! 速すぎる!』 『おお、アイツやるなあ! 不利な地上戦でまさかの全弾回避! 防衛率百%も伊達じゃないってことか』 ジンさんの感嘆の声に、ふふんと内心得意になってみる。 もしかしてそれがいけなかったのだろうか。 気付けば、左前方上空から三段に連なる弾幕が間近に迫ってきていた。 (あっ……) 直撃コースだ。 とっさに右足を振り上げ、左足のアウトサイドエッジで大地を強く踏み切る。後の動きは身体が覚えていた。肘を折りたたみ、両腕で上半身を締め上げて回転軸を作る。身体はぐるりと反時計回りに回り、空中で二回転半した。 (あう、ダブルアクセル、跳んじゃった) 実況が叫ぶ。 『あ、アルイ選手、見たこともない華麗なジャンプで、鮮やかに弾幕を躱したああ!』 直撃するはずだった弾幕は着弾し草原に大穴を開けたが、僕はすでに空中にいた。上手く躱せたようだった。 この後はいつもだったら数秒の滞空時間の後に、後ろ向きに右足で着地し、左足でバランスを取り滑走するはずだったが……。 気付くと、僕は鋭く回転を続けながら、空に吸い込まれるように急上昇を続けていた。 『ちょ、えええええええ!?』 『はぁああああああっ!?』 (な、なんでだよおおおおおおおおお!?) 三者三様の叫び声が青空に木霊した。 実況・解説のマイクは吹っ飛んだのか、ノイズがびりびりと耳を震わせる。 観客の驚嘆のざわめきが響いた。 誰か何が起きてるのか説明してくれ! ―――― 青空を透過する透明な天井にドン、と背中を打ち付けてられて、やっと上昇が止まった。 ここがバトルエリアの上限領域らしい。 遥か下界では点のようなガレオンがポカンと僕を見上げていた。何が起きたのか彼もわからないらしい。 ザザザとノイズが走って、ラジオが復旧した。 『解説のジンさん、一体何が起きたんでしょうか……』 ジンさんの困惑した声が聞こえる。 『何がって……。多分、地上戦でチャージし過ぎた飛行力が暴走したんですかね。後はジャンプが大幅にプラス判定されて、飛行力に強いボーナスが付いたか。恐らく両方でしょう』 興奮した実況がはしゃいだ声を上げた。 『ああ、あの美しいジャンプならば納得です。実況人生で初めて見ましたよ!』 『俺もですよ。しかしアルイ選手の脚力には惚れますねぇ。あの大ジャンプはリアルの身体をよほど鍛えないと成し遂げられない。一体何のスポーツをやってるんだろ』 わいわいと賑わう実況ラジオをよそに、僕はうんうんと頷いた。 (あー、そうかダブルアクセル跳んだからかー。……ってなんでやねん!) 思わずノリツッコミが飛び出した。リンクでいくらアクセルジャンプを跳んでもこんなことにはならなかったのに! 謎の超ジャンプの答えは、リンクとこの会場の違いにあるのかもしれない。そういえば地上戦でもやけに体が軽かった。 しばらくうんうん唸っていたが、ようやく閃いた。 (もしかして、リンクでは重力魔法を五つも掛けていたから?) きっとそれだ。今までは重力魔法が邪魔をして、空を飛べなかったらしい。 僕は頭を抱えた。リンクを現実に近づけようとした弊害がこんなところに現れるとは。 疑問が解決してほっとした僕は、パシンと頬を叩いて気合を入れた。 (よ、よし、切り替えよう。僕は空を飛べるようになった。後は……) 恐る恐る飛行具合を確かめてみる。 低速飛行、急加速、ジグザグ飛行、そしてぐるりと宙返り。 急激な方向転換でも目が回らず、身体は滑らかに動いた。 (いける! スケートで鍛えた三半規管はここでも使えるみたいだ!) どんな急旋回でもスケートのスピンと比べたら、全然回転は緩い。 動体視力も文句なし。ジャッジ(審判)アピールのためにリンク上で常に自分の位置を把握する癖がついていたので、上下左右もわからなくなるような青空でもきちんと正しいポジションを捉えることができた。 これなら、多少はガレオンにも食らいつける! (よ、よし、行くぞ!) 僕は急降下して、ガレオンの待つ戦場に飛び込んだ。 ―――― 『こ、これは……』 『まさか現日本チャンプをここまで追い詰めるとはなぁ。それだけアルイが地上戦で稼いだボーナスが強いってことか』 空がぐるぐると回転する。太陽の位置は上になったり、一瞬後には下になったり目が回りそうだ。 ガレオンと僕はお互いの後ろを取り合おうと競り合っていた。僕たちが空に描く軌道はもつれあった糸のようだ。ロール、宙返り、急加速に急降下。 今は僕がガレオンの後ろを取って、彼を必死に追いかけていた。 一瞬でも距離を取られたら負けだ。ガレオンに弾幕を撃たせる隙を与えてはいけない。彼の舌打ちが響いた。 僕の伸ばした右手からは間断なく白いニードル弾が撃たれているが、ガレオンに急旋回に付いていけず命中しない。虚しく蒼穹に吸い込まれていく。 ラジオからも実況の戸惑っている声が聞こえる。 『それにしてもアルイ選手、ガレオン選手の後ろを取っても頑なに弾幕を撃たない! ショットオンリーです』 『うーん、なんでだ。この距離なら、拡散性の弾幕を撃てばガレオンを落とせるだろうに。遊んでる……にしては余裕がねぇな。まさか弾幕を撃たないんじゃなくて、撃てないってか?』 僕は唇を噛みしめた。 (ジンさん正解!) 弾幕は事前に弾幕作成ソフトでプログラムを組まないと、実戦で使えるレベルにならないらしい。 (そして、僕は弾幕をプログラムしてない!) ましてや即興でプログラムを組めるわけもなく。 この一ヶ月はひたすら飛ぶ練習に費やしていて、弾幕の練習はからっきしだったのだ。初心者サイトでも《弾幕ソフトの使い方は教えるので、後は自分で頑張ってくださいね》と肝心なところは教えてくれなかった。 なんとか会得したのはショットと呼ばれるまっすぐに飛ぶ単純な弾のみ。 (でもそろそろガレオンの飛行力が尽きる頃だ。それまで粘ればチャンスがあるはず!) ひたすら追撃を続けていると、ふっとガレオンの身体が浮いた。そのまま太陽に吸い込まれるように急上昇していく。僕は追おうとしたが、燦然と輝く太陽に目が眩んだ。 あれほど恐れていたガレオンとの距離が、開く。 途端、ガレオンの周囲に魔法陣が展開する。彼がこちらを振り返り、掲げる腕ときたら、名指揮者のような力強さと威厳に満ちていた。 「いい加減堕ちろ! 《攻壁 黄長城!》」 ガレオンの叫びと共に、その腕が振り下ろされる。 光と共に横一直線の長大な壁に似た弾幕が展開された。慌てて距離を取るも壁は次から次へと何枚も迫ってくる。ある程度時間が経つと、壁は爆散し、小さな弾幕をまき散らした。泡を食って大きく避ける。避けきれなかった弾幕が身を掠めて、カリカリと音を立てた。 (くそっ。落ち着け、まだ壁のままの方が避けやすい。ここはあえて近づく!) 一瞬だけ息を整えると、僕は弾幕に突貫した。壁を構成する弾幕にはところどころ隙間があって、ここを通り抜ければこの弾幕も恐れるに足りないと思ったのだ。 しかし……。 『! なんと、アルイ選手弾幕に突っ込んでいく! まさかガレオン選手の鬼畜弾幕を知らないのか!?』 『あー、これはやっちまったなぁ。ガレオンのこの弾幕はボムでパスするのがセオリーだっていうのに』 ラジオの声に応えるようにガレオンがニヤリと笑った。嫌な予感に怯む。 彼が横薙ぎに腕を払うと、小さな弾幕がガレオンを中心に渦巻いて発射される。その数に圧倒された。 (ッ!? 動きが速いうえに、読みづらい! 壁の隙間が小さな弾幕で埋められていく) 僕は低速移動に切り替えて下がりながら、弾幕同士の蟻の這い出るような隙間を見つけてようやっと一つの弾幕をすり抜けた。しかし次から次へと弾幕が襲ってくる。 『アルイ選手、辛うじて躱していきます。しかし、この弾幕の真骨頂はここからです』 『そうそう、これから時間の経過と共に速度も回転方向も違うばら撒き弾が更に加わる。ちょい避けで避けられ続けるほど甘くはないってもんだ』 『元世界チャンピオンのジンさんもこの弾幕はボムでパスしてましたねえ』 しみじみとした実況の声に、ジンさんがちえっと舌打ちした。 『意地が悪いぜ実況さん。この弾幕は強すぎるんだよ。クリアした奴なんか見たことねぇや』 『はは、貴方にそこまで言わせるんだから、アルイ選手もボムで安定でしょうね』 笑って納得し合う二人をよそに、僕は混乱の極致だった。 (ボムって何!?) 弾幕の研究はからっきしなんだってば! と憤ってみるもこの状況では誰にも聞こえない。 ジンさんの言う通りに、ばら撒き弾は更に増え、弾幕を追いきれなくなってきた。隙間を見つけくぐり抜けるのもやっとだ。 (でも、まだ勝機はある! 弾幕はいつまでも続かない。こうなったらガレオンの飛行力が尽きるまで、粘ってみせる!) スケートで鍛えた僕の動体視力と持久力と俊敏性を舐めないでほしい! 弾幕の間隙に身を滑らせる。上も下もなく、低速移動になったかと思えば、高速移動に切り替えて大胆に弾幕を潜り抜ける。 時間と共にばら撒き弾は更に数を増していく。降ってくる雨を躱し続ける方がまだ易しいんじゃないだろうか。落ち着け。慌てれば撃ち落とされる。 額から汗が滴り落ちた。ひっきりなしに弾幕がカリカリと身を削っていき、その度に息が止まりそうになる。 一分、二分、……四分。 『……ありえない。アルイ選手、ガレオン選手の弾幕を未だノーミスで躱し続けています!』 『マジかよ……。普通なら耐久できる弾幕じゃねぇってのに』 ああ、くそ。俺もアルイと戦いてぇな。と悔しそうにジンさんが呻いた。 (はっ、元世界チャンピオンにそんなこと言ってもらえるなんて、光栄、だねッ!) 僕は弾幕を躱し続けながら、勝気に笑った。笑わないとやってられない。それぐらいキツい。集中力が針のように研ぎ澄まされていく。 ガレオンの表情が焦りを帯びる。信じられないと、目を丸くしていた。 彼はふらりと傾いだ。とうとう飛行力が尽きたらしい。弾幕が乱れる。道ができた。 その隙を見逃す僕じゃない! 自分の残りの飛行力を全てスケート靴につぎ込むと、一気に突撃した。迫る弾幕がカリカリと身を削るが、一顧だにしない。 数秒後、僕はガレオンに肉薄していた。 ガレオンの腹に右腕を差し向ける。ほとんど接射だ。 彼の表情は凍りついていた。「嘘だろ……?」とその目が語っている。僕は不格好に口の端を吊り上げた。 (嘘、――じゃないよ!) 一呼吸置いて、僕の右手からニードルショットが飛び出す。ガレオンは身をひねったが避けきれない! ガガガガガガ!! とショットをひたすら叩き込む。ガレオンは撃ち込まれるショットに不随意にガクガクと痙攣した。 ショットを止めると、彼はふらりとよろめいた。空から落ちていく。 落下しながら光に包まれて、ガレオンは――消滅した。 しんと、世界は静まり返っていた。観客達もラジオも息を呑んで絶句している。ただ、空を飛び交うドローンの羽音だけが低く響いていた。 はっはっはっ……と肩で息をする。心臓がせわしなく鳴っていて、心地よい汗が頬を伝い落ちた。むずむずと達成感が湧いてくる。 我慢しきれず、僕はぐっと握りこぶしを作ると、空に向かって力強く突き上げた。 途端にラジオも観客も息を吹き返して、歓声が世界を埋め尽くした。 『や、やりましたあああ!! アルイ選手、現日本チャンピオンのガレオン選手を破って決勝進出!!!!!』 『ああくそ、すげえバトルだった! 弾幕も使わず、ポテンシャルだけでチャンピオンを落としやがった。くそ、なんで対戦相手が俺じゃないんだ!』 ジンさんが心底悔しそうに言うものだから、僕は思わず笑った。 観客席からも波のような歓声が響いて、耳に心地いい。僕は汗の滲む髪を掻き上げて、安堵のため息を吐いた。 (勝てた。あのチャンピオンに……!) 高揚感が次から次へと湧いてきて、身が震える。 焦がれるような達成感を味わっていると、ポォンとメールが表示された。 『準決勝での勝利おめでとうございます! 次は決勝戦です。試合が開始されるまで、マイエリアでの待機が必要となります。今すぐマイエリアに戻りますか?』 僕は震える指で『YES』を押した。歓喜が指先まで響いていた。 身体が光に包まれる。瞬きをすると、もうすでに自分のリンクの中央に立っていた。 急にどっと疲れが足に来て、リンクの上に大の字に寝ころんだ。 のぼせた身には背中からひんやりと伝わる冷気が心地よい。 リンクを照らす大きな蛍光灯に向けて手を伸ばす。光をぐっと握りしめた。 (ああ、強かったな、ガレオン……!) 地上戦で降り注いだ弾幕。驚異の大ジャンプ。空の上での追いかけっこ。そして最強最悪の鬼畜弾幕との耐久戦。 ぞくりとまたバトルの高揚感を思い出してきて、はぁと熱い息を漏らした。 弾幕バトル初心者にしてはハードすぎる試合だったけど、すごく、すごく楽しかった! スケートを始めたばかりの頃を思い出す。あの時はなんでもできそうで、どんな相手だろうと勝てると自信満々だった。 (そうだ、スケート……) はっと、冷や水をぶっかけられたように我に返る。バトルの楽しさに当てられて、この大会に出場した理由が頭から飛んでいた。 どくどくとこめかみが脈打つ。 (目的を忘れるな。これで二位以上は確定。最低でも賞金五百万円はゲットしたことになる。次のシーズンにわずかにでも望みを繋いだんだ) 握りこんだ手の甲をそのまま額に押し付けて、嘆息する。 叶うなら、このままお金のことを忘れてバトルの高揚感に浸っていたかった。 (でも僕の生きる世界は、フィギュアスケートの世界だから) 僕は立ち上がると、ぐっと両足でリンクを踏みしめた。 パシンと頬を叩いて気合を入れると、ゆっくりと滑り出す。 氷上に描くは8の字――コンパルソリーで心を落ち着けようと試みる。 僕の顔にはいつの間にか笑みが浮かんでいた。 諦めの微笑みだった。 ―――― 晴れ晴れとした人工の太陽の元、表彰式が行われた。 『VRAB日本選抜大会、優勝はアルイ選手です! 大会委員長から、一千万円の優勝賞金が授与されます。おめでとうございます!』 僕は優勝した。正直呆然としている。 でもあり得ないことじゃない。決勝の相手は確かに実力者ではあったけど、ガレオン程じゃなかった。……いや違う、ガレオンが強すぎたんだ。 そして世界選手権の出場枠に選ばれたのは、僕と二位の選手とガレオン。うん、なんか僕だけ場違いな気がする。 僕は戸惑った笑顔を浮かべながら、一千万円の金額が書かれた巨大なボードの片端を受け取った。もう片端は委員長さんが持っている。 そのまま委員長さんと記念撮影。ゲームの中なのでスクリーンショットが撮られているはずだ。 拍手と歓声が観客席から湧きおこる。同じく表彰台に上がっている選手たちも拍手で祝福してくれた。照れくさくて口角が上がった。 しばらくして司会者の女性がにこにことマイクを差し向けてくる。 『おめでとうございます。アルイ選手、優勝のご感想をどうぞ』 こ、困った。特に何も考えてなかった。フィギュアスケートの表彰式じゃ、コメントを求められることなんてなかったから。 なんとかコメントを捻り出す。 「ええと、久しぶりに台乗りできて嬉しいです。応援ありがとうございました」 そして、ぺこりと頭を下げる。ザ・地味! 捻りも何にもないコメントだった。なのに、空気がざわりとざわめいた。 『あら、それは久しぶりに表彰台に乗ったって意味ですよね。今までどこかの大会に出たことがあるんですか?』 記録を見る限り、公式大会は初出場のようですが? と女性は小首を傾げる。 僕は顔をひきつらせた。 (しまった、そこを突かれるとは) ついフィギュアスケートの大会で乗った表彰台のことを思い出して答えてしまった。 勿論僕には他のVRAB大会の出場経験はない。今回が初出場である。 「あー……、秘密です」 ぎこちなくにっこり笑う。女性もにっこりと微笑み返してくれた。 『秘密ですか。それはしょうがないですね。ありがとうございました』 め、滅茶苦茶焦った。心臓がバクバクと鳴っている。 『それでは会場の皆さま、選手たちに今一度大きな拍手をお願いします』 大きな歓声と拍手。盛大に花吹雪まで舞っていて、華やかな終幕だ。 『以上を持ちましてVRAB日本選抜大会は全ての日程を終了します。本大会で選抜された三人の選手が出場する世界選手権は五月一日から三日にかけて開催予定です。皆さま是非応援してくださいね』 僕はこっそりとため息を吐いた。 (世界選手権、勝てる気がしない。それよりスケートの練習とスポンサー探しを進めたいんだけど) 五月の世界選手権まで、あと二ヶ月。 ……どうしよう。 ―――― 大会翌日。 僕はまた撃沈していた。自室の机にごんごんと額を打ち付けて嘆息する。 大会優勝の勢いのままに、あちこちにスポンサー探しの電話を掛けてみたけど、やはり三千万円の壁は厚い。全部断られた。 これでも負担は四分の三に減ったのに。やはり、元々の金額が大きすぎた。 (ひ、ひとまずスポンサー探しは明日にしよう。スケートの曲探しを進めないと。振り付けの依頼も) ぐっと背伸びをして、パソコンの電源を入れ、インターネットブラウザを起動する。自動的にポータルサイトが開かれ、トップニュースが目に入ってきた。 (んと、芸能人の結婚とスポーツ選手の引退と。……ん?) 僕はNewのマークが点滅する、とある記事に吸い寄せられてクリックした。 『VRAB日本大会優勝者は謎の初心者!?』 記事の要約は以下の通り。 『VRAB日本選抜大会で優勝したアルイ選手は、有名なトラップエリアを所有するも初心者を明言しており、公式大会は本大会が初。しかし表彰式では過去、大会に出場したことを匂わせており、ネットではその正体を巡って考察が飛び交っている。彼は過去の有名選手なのだろうか』 僕は唖然とした。 (これ僕のことか!?) そりゃまぁ、ガレオンとの会話で初心者バレしたり、表彰式で昔VRABの大会に出場したと勘違いさせるような事を言ったりしたけど……。 (昨日の今日でこんな記事がでるなんて……) 慌てて僕のアバター名『アルイ』で検索を掛けてみると、出るわ出るわ眉唾物の記事が山ほど。 僕の正体をガレオンより前の元チャンピオンと断定しているものから、本当に初心者で表彰式の発言はブラフだと推測しているもの、果ては、解説のジンさんの秘蔵っ子だと吹聴しているものまで様々だった。 天井を仰いで、ふぅーとため息を吐く。 皆、よほど謎の初心者アバターの正体が気になるらしい。 関連記事をスクロールしながらぼんやりと考える。 (もし、僕のVRABの経歴やチャンピオンの称号に興味のある人が十万円ずつくれたのなら、三千万円なんて一瞬で集まりそう……) 一見突拍子もない考えに、僕ははっと目を見開いた。 それは、……それはもしかしてとてもいい考えなのでは? 僕は我に返ると、勢い込んでVRABの公式HPにアクセスした。 目指すはリアルマネートレードの規約ページだ。 僕の目は暗く輝いていた。 ―――― 城のようなマイエリアの一室。 ガレオンは黒い革張りのソファーで一人黙々と酒を飲んでいた。 ヴァーチャルの酒はいつもなら依存性のない心地よい酩酊感を運んでくれるが、今はちっとも酔えなかった。 正面の巨大スクリーンには一昨日の試合が延々と流れている。 (くそっ、どうすれば確実に勝てた?) 眉間に皺を寄せて、いくつものシミュレートをするも、確実な勝ち筋が見えない。それだけアルイの動きはセオリーに反していた。想定外の動きをしたかと思えば、安易なミスを犯したり。アルイの一挙一動に勿体ないともふざけるなとも思って、ガレオンはアルイに随分と振り回されている自分に苛立った。 その時、背後から誰かが転送してきた音がした。 「よう、元日本チャンプ。元世界チャンプが慰めに来てやったぜ!」 振り向かなくても、その陽気な声の主はすぐにわかった。一昨日の試合の解説を務めたジンだ。彼は己の師匠でもある。 「……なんすか師匠。からかいに来たのなら噛みつきますよ」 ぎろりと睨みつけるも、ジンはニッと笑い返してきた。鼻歌交じりに遠慮なく隣に腰掛けてくる。 「おっとマジで荒れてるな。そんなにアルイに負けたのが悔しかったか?」 からかうような口調に思わずみしりとグラスが軋んだ。肩を竦めるジン。 ガレオンはグラスをローテーブルに叩きつけた。 「くそっ、何なんすかアイツ」 「何なんだろうなー。初心者かと思えばエリアG7の主だったりわけわかんないよな。まぁあのポテンシャルは称賛に値するけどよ」 むすっと押し黙る。師匠と同じ意見なのが逆に腹立たしい。 「そんで? お前はいつまでも拗ねたまんまか?」 ん? と、促しながらこちらをのぞき込む顔は優しい。 お前はこんなことでは折れないよな? という信頼が透けて見えて、ガレオンは勝気に笑った。 「はっ、まさか。俺は日本チャンピオンのタイトルは明け渡したけど、世界のプレイヤーランキングではナンバー2。あいつには負けませんよ」 「ナンバー1は俺だけどなー」 「……ちっ」 「師匠に向かって舌打ちとな!」 大仰に驚いて見せるジンを、はいはいといなしながらも、ガレオンは内心ため息を吐いた。ナンバー1とナンバー2、同じランキングにいるのにもう二度と直接戦うことはできないと知っているからだ。 ガレオンは胸を塞ぐような痛みを振り切り、話題を変えた。 「それで? ほんとにからかいに来たわけじゃないんでしょう」 「おう、VRAB日本支部から伝言だ。アルイの面倒見てやれってさ。バトルから普段の素行までぜーんぶ」 ガレオンは見るからに不機嫌になった。 「なんで俺が。師匠がやればいいでしょう? お気に入りみたいだし」 「おっ? おっ? 嫉妬? 嫉妬しちゃいましたか?」 「うぜぇ」 一途両断にしたのに、ジンは嬉しそうに笑った。 「ははっ、残念ながら俺は無理だ。近々足の手術がある。しばらくこっちに来れないかもしれない」 ガレオンは目を見開いた。食いついて尋ねる。 「手術って……もしかして、またバトルできるようになるんですか!?」 ジンはなんでもなさそうに笑う。 「いや、俺の足は太ももからばっさりなくなったからなぁ。センサーグリーヴも装着できないし、バトルなんか到底……」 ガレオンは強く唇を噛みしめた。 ジンは太ももから先を事故で失った。そのせいでバトルができなくなり、世界チャンピオンを降りざるを得なくなった。まだ更新されていないので今の世界ランキングのナンバー1はジンだが、戦えない以上その名はいずれランキングから消えることだろう。 師匠に直接勝つことが、育ててもらった恩返しになると思っていたガレオンの胸には、間に合わなかったという悔しさがいつまでもこびりついていた。 「そんな顔すんなって、お前は充分急いでくれた。俺が勝手に終わっただけだよ」 「そんな言い方しないでくださいよ……」 むずがるように咎めるガレオンの背中をぽんぽんと軽く叩くと、ジンはニッと笑った。 「悪い悪い。ま、そう言うわけだからアルイの面倒はお前に任せたいんだけど、いいか?」 ガレオンはため息を吐いた。ここまで言われて引き受けないんじゃ目覚めが悪い。 「わかりましたよ。でもそんなに危なっかしいんですか、あいつ」 なぜかジンは言いよどんだ。 「あー。危なっかしいどころか、もう炎上してるからな」 「炎上?」 「おや、もしかしてご存じでない?」 ガレオンは嫌そうに頷いた。 「王者の陥落だのなんだのってうるさい記事が多くなったので、しばらくネット見るの止めてたんですよ」 ますますジンは言いよどんだ。 「あー、言おうかな。どうしようかな」 「言ってください」 「怒るなよ。アルイがな、自分のVRABでの正体と日本チャンピオンの看板を賭けて、参加費十万円のマネーマッチを始めてよ。盛大に炎上してる」 しばらく時が止まった。衝撃的過ぎて、理解するのに時間がかかったからだ。じわじわと怒りが湧いてくる。 「は?」 ジンはその反応に腕を組んでうんうんと頷いた。 「まぁ十万円てのは安いよなー。初心者だから日本チャンプの価値を知らないのかもしれないけど。俺としては一億円くらい……っていねぇや」 転送音が聞こえたかと思えば、ガレオンの姿はもうそこにない。ジンはあちゃーと額に手をやった。 恐らくアルイのエリア、G-7に直談判に行ったのだろう。 (まぁ、いずれぶつかるだろうし、いっかー) ジンはスクリーンに未だ流れている一昨日の試合の映像に笑いかけると、ガレオンが残していった酒に手を付けた。 「さぁて、アルイはガレオンに任せてっと。俺は可愛い甥っ子のために一肌脱ぎますか」 ジンの顔には悪魔の笑みが浮かんでいた。 ―――― 「い、一日で三十万もゲット!」 あれからすぐにVRAB内の酒場の掲示板でマネーマッチの対戦相手の募集を始めたが、すぐに人が殺到した。嬉しい悲鳴を上げながらも、身元のしっかりして優しそうな人を選んで契約成立。 僕のリンクでは狭すぎるので、対戦相手のエリアに行ってバトルして余裕で勝った。一日で三人とバトルして三十万円。ボロい商売である。 (でも、このままだと三千万円集めるのに、三ヶ月以上かかるんだよな) リンクサイドでクールダウンのストレッチをしながら、うんうんと唸る。 僕の体力的に一日で出来るバトルは三回が限度だ。もっと効率のいい方法を考えなければいけないかもしれない。 よし、今日はもう上がろうかと、マイメニューを開いてログアウトしようとした時、ビービーと警報が鳴った。 目を見開いて飛んできた通知に目を凝らす。 『侵攻者です! 洞窟のトラップエリアが突破されました! もうすぐ最深部のリンクに到達します!』 (えっ、なにこれ! 僕どうしたらいいの!?) あわあわしていると、カツンと誰かの足音がリンクの出入り口に響いた。飛び上がってそちらに目をやる。 そこにはボロボロに疲れ切ったガレオンがいた。 「てめぇ、何考えてやがる!」 「なっ、ガレオン? どうやってここに?」 驚く僕に対してガレオンが吠える。 「トラップの山を越えてきたんだよ! なんだあの鬼畜トラップ! グラビティLv.5が掛かったまま、針の穴を通すような滑走をしないと一発アウトだと!? 飛べねぇし一瞬たりとも休めねぇし、殺す気か!?」 「生きてるじゃないですか」 「今ここにいるのは百回死んだ後の俺だ!」 その勢いに呑まれて、思わず一歩引いた。 「は、はぁ。そうですか。お疲れさまです……?」 (なんでこの人ここに来たんだろ? 暇なの?) 口には出さなかったが、きょとんとした僕の顔から内心を読み取ったのだろう。彼は猛り立った。 「ちっがう! 俺はお前に言いたいことがあって来たんだ!」 「はぁ?」 ガレオンはずかずかと歩み寄ると、僕のパーカーの胸元に掴みかかった。持ち上げられて、身体が浮く。 「っ――!?」 状況に付いていけず、ぱちぱちと瞬きをする僕に顔を近づけて、彼は怒りのこもった声で静かに問いかける。 「てめぇ、金取って日本チャンピオンの看板賭けてバトルをしてるんだってな?」 「な、なんですか? 規約には反してないですよ。僕熟読しましたもん」 言い訳じみた僕の言葉をガレオンは一喝した。 「ルールはこの際どうでもいい。俺が言いたいのは、俺たちの誇りを賭けるなってことだ!」 「誇り……?」 予想外の言葉に、ただ繰り返すことしかできない。 ガレオンはますます殺気立った。 「そうだ! 初代から俺たち歴代のチャンピオンは誇りを持って強さを証明し続けてきた! その証を、チャンプの称号を餌にして金を集めるなんざ……!」 そこから先は感情が溢れて言葉にならなかったのだろう。ただ強く噛みしめすぎた唇から血がぱたぱたと僕の顔に滴り落ちて、それがガレオンの怒りをはっきりと伝えていた。 「が、ガレオン……」 眉を八の字にする僕を見て、彼は吐息を震わせた。 急に手を離されて、どさりと床に尻もちをつく。 「くそっ、俺がチャンピオンの座を託したのがこんな奴だなんて。師匠に、歴代チャンプに申し訳が立たねぇよ……」 そう言ってガレオンは、唇の血をごしごしと拭った。 「何のスポーツをしてるのかは知らないが、お前、リアルでは名のある選手なんだろ? もしお前のスポーツのチャンピオンが、金でその名誉を取引してたらどう思う?」 その言葉に脳裏をよぎったのは白瀬君だった。僕は弾けるように言い返した。 「白瀬君はそんなことしない! 彼は高潔な日本王者で。……ッ」 見下ろすガレオンと目が合う。ガレオンは激昂していると思っていたが、彼の目ははっきりと悲しみをたたえていた。 痛みに胸が引き絞られる。口を突いたのは謝罪の言葉だった。 「ごめんなさい、ガレオン」 ガレオンはため息を吐いた。 「わかってくれたかよ。俺だって、お前を単なる金の亡者だなんて思いたくねぇ。なぁ、なんか理由があるんだろ?」 僕は言いよどんだ。 「あるって言ってくれよ。そうじゃないとホントのゲス野郎としてお前をぶん殴らないといけなくなる。自分の今の立場を投げうってもだ」 殴られても仕方ないことを僕はしたが、それじゃますますガレオンは悲しむだろう。僕は神妙に口を開いた。 「お金が必要なんです。僕がリアルの競技を続けるために」 思ったよりも優しい声で彼は応じる。 「そうかよ。賞金じゃ足りなかったんだな。いくら必要なんだ?」 「……あと三千万円です」 ぴしりと、ガレオンの動きが止まった。 「何のスポーツだよ!? F1か!?」 激しいツッコミに思わず怯む。 「ううう」 彼は慌てて謝ってきた。 「わりぃ、リアルの詮索はマナー違反だったな」 「い、いえ。気にしないでください」 僕ののっぴきならない理由がわかってもらえたのなら十分だ。ガレオンが悲しむから日本チャンプの称号を賭けるのはやめるけど、ただのマネーマッチなら大丈夫だろうか。 僕はなにやら考え込んでいる彼を上目遣いで見上げた。 ガレオンは覚悟を決めた目でこんなことを言い出した。 「わかった。俺がお前に一千万円寄付する。だから、もうマネーマッチはやめろよ」 「え、ええええええ!?」 僕の叫び声がリンクに木霊する。ガレオンは怯んだ。 「な、なんだよ。それでも足りないのは承知してる。でもお前のマネーマッチのレートの百倍だぞ」 違う、僕が驚いてるのはそっちじゃない! 「い、いや、こちらとしては願ってもないですけど。いいんですか!?」 食いつく僕に、ガレオンは呆れ顔だ。 「あのな、俺が大会で何度優勝したと思ってるんだよ。一千万円くらいなら、まだ許容範囲だ」 自分でもわかる。僕の目は輝いていた。 「遠慮なんかしませんからね。ありがとうございます! やったー!」 座り込んだまま僕はガッツポーズした両手を天井に向けて突き上げた。 彼は呆れていた。 「話は最後まで聴け。あと一つ条件がある」 「えっ。な、何でしょう」 高揚から一転、ビクビクと震える僕に、ガレオンは手を差し伸べた。 「俺がお前を鍛える。世界選手権は五月だ。時間がない」 「……いや、僕は」 その手を取るのをためらう。なんならウウウと唸り声まで上げた。 「なんでそんなに嫌そうな顔するんだよ。まさか大会出ないとか言わねぇよな。日本代表になっておいて」 僕は顔を逸らした。バトルの特訓より、スポンサー探しとスケートの練習をしたかったからだ。特にスポンサー探しは急務! シーズンそのものが危ぶまれるのは避けたい。 ガレオンは、はぁ~と特大のため息を吐いた後、厳かにこう言った。 「わかった。いいか、世界選手権の優勝賞金だが、大体一億円だ」 僕は彼の手を両手で握りしめて、ぶんぶんと振った。 「やります! バリバリ鍛えてください!」 一億円ときたら、二年分のシーズンの費用に充ててもまだお釣りがくる! スポンサー探しをしなくてもいいんだ! わーいわーいとあからさまに喜ぶ僕を見て、ガレオンは呆れて笑った。 「お前の扱い方がわかってきたよ。あと敬語は使わなくていい。むず痒いしな」 僕はびしっとサムズアップしてこう言った。 「わかったよ、ガッちゃん!」 「誰がガッちゃんだ!」 こうして、僕はガレオンと共にVRAB世界選手権に挑むことになったのである。 ―――― と思ったら、そうは問屋が卸さなかった。 翌日。 まず、マネーマッチの対戦相手に全額返金しに行き、その後ネット記事用に炎上事件の詳細(つまりは謝罪)インタビューを受けさせられた。 初めて入るガレオンのお城の応接間はあまりにも威容に満ちていて、ガチガチに緊張しながら一生懸命説明する。 「そういうわけで、お金は返しましたし、ガレオンにも謝罪しました。この度はお騒がせして誠に申し訳ありませんでした」 ガレオンも頷いて、言葉を添えた。 「この通り俺がこいつの後見役に納まりますので、もう問題は起こさせません。安心してください」 インタビュアーの女性はにっこり笑って頷いた。 「ありがとうございました。インタビューは以上です。記事を作ったらメールでお送りしますので、ご確認ください。その後ネットにアップします」 「ありがとうございます。よろしくお願いします」 インタビュー慣れしたガレオンがそつなくお礼を言う。僕も慌てて追従した。 「よ、よろしくお願いします」 女性は僕たちを微笑ましそうに見て、「ええ、こちらこそありがとうございました」と頭を下げた。 ―――― 二人で僕のリンクに戻ってきた。 「なんというか、マメだね……」 リンクサイドのフェンスに寄りかかり、ぐったりとため息を吐く。 「炎上は燃え始めの対応が肝心なんだ。覚えとけよ」 やけに含蓄のある言葉に、ガレオンも炎上したことがあるんだろうかと疑問に思う。だけど、聞かぬが華だろう。 彼はぐーっと背伸びして、肩を鳴らした。 「さて、バリバリしごくか。今日は弾の躱し方な。自機狙い弾と固定弾とばら撒き弾の違いを知ってるか?」 「もちろん知りません!」 元気よく答えると、ガレオンは「だと思った」としょうがなさそうに笑った。 「まず、自機狙い弾には二種類あって」 と、ガレオンは目の高さにぽんぽんぽんと点のような弾幕を置いた。そこから少し離れたところに、アルイと書かれた点。これが僕みたいだ。 わくわくと続きの説明を待っていたが、彼は急に眉をしかめた。 「わりぃ、師匠からメールだ。見ていいか?」 「あ、うん」 ガレオンは宙をなぞってウィンドウを出現させるとメールを読み始めた。師匠って誰だろう。 彼の眉間にはどんどん皺が寄ってきて、最後には深くため息を吐いた。 「俺の師匠、お前には解説のジンって言った方がわかるか、あの人がな、『明日の手術が不安だから一緒に呑もうぜー。ちょっと大事な話もしたいしよー』だとよ。不安感じるってタマかよ」 呆れた口調だけど、目には心配って文字が透けて見える。僕もつられて心配になってきた。 「ジンさんどこか悪いの?」 「太ももから先を事故で失くしたんだ。多分それ関係の手術だと思うけど、詳しくは教えてもらってない」 僕は慌てた。 「だ、大事故じゃないか! そりゃ不安にもなるよ。僕のことはいいから、すぐに行ってあげて!」 「いや、事故って言っても昨日今日の話じゃないから大丈夫なんだろうけど。……そうだな、行ってくる」 ありがとな。とガレオンは小さく笑って、すぐに転送していった。 そういえば手術なのにお酒呑んで大丈夫なのかと一瞬思ったが、ここはVRの世界だ。呑んだつもりでもアルコールは一滴たりとも体に入らない。 なら大丈夫か、と僕は無意識に緊張していた肩から力を抜いた。 もうガレオンは戻ってこないかもしれないから、自主練でもしようかと、リンクサイドでストレッチを始めかけた時――。 警報が響いた。 目を見開いて飛んできた通知に目を凝らす。 『侵攻者です! 洞窟のトラップエリアが突破されました! もうすぐ最深部のリンクに到達します!』 (やだ、ガレオンの時と同じだ!) でもガレオンには、リンクのパスを渡してある。わざわざトラップエリアを通過してくるわけがない。 だから今から来るのは全く知らない人だ。 はらはらとリンクの出入り口を見つめる。カツン、と誰かの足音が聞こえた。 現れたのは背の高く、彫りの深い顔立ちの男性だ。蒼い瞳に冬枯れの芝のような色の短髪。 『こんにちは、アルイさんですね?』 と、翻訳された抑揚のない男性の声が響く。チャットログで名前と翻訳前の言語を確認した。 (名前はセルゲイ。ロシア語だ) しかし僕が驚いたのはそこじゃない。以前トラップエリアを潜り抜けたガレオンはあんなにボロボロだったのに、彼は全くの無傷だった。 「と、トラップエリアは?」 セルゲイはゆっくりと首を振った。 『僕は素人じゃない。あんな子供だましが通用するとは思わないことです』 抑揚のない声で恐ろしいことを言われ、ぞわりと背筋が泡立つ。 「き、君は一体……」 『あなたのファンですよ。少し話したいことがあって来ました』 「僕に話?」 彼は淡々と話し始めた。 『あなたはなぜVRABの世界選手権に出場するんですか?』 「なぜって……なんで君に言わなきゃいけないんだ」 呑まれない様に強気に言い返す。セルゲイは揺らがなかった。 『じゃあ僕が代わりに言ってあげますよ。あなたはフィギュアスケートの大会に参加するためにお金がいる。そのお金をゲームの世界選手権の賞金で賄おうとしている。……そうでしょう?』 目を見開く。なんでそれを知っているんだ!? 彼は鼻で笑う。 『馬鹿な人だ』 カッと頭に血が上った。 「な、なんだと!?」 『来シーズンもまた全日本選手権のような無様を晒しに来るんですか? 白瀬に勝つ気もないくせに』 なじるような言葉に、スポンサーから言われた言葉がフラッシュバックした。 《井浦君からどんなに追い詰められていても、ナンバーワンに食らいつくという覇気が消えている》 僕は幻想を振り切り、大声で反論した。 「そ、そんなことない! ぼ、僕は白瀬君に勝つつもりで今まで頑張って……!」 彼は明確にため息を吐いた。 『はっきり言ってやりましょうか。あなたは心が折れている。それをどうにかしない限り、また無様を繰り返すだけだ』 ギリギリと心が痛む。それを悟られない様に僕は奥歯を噛みしめた。 「僕にどうしろって言うんだ」 セルゲイは僕の言葉に納得したように頷いた。 『なるほど。まだあなたの答えは出てないんですね』 ぎっと睨みつける。図星だと言ってるようなものだ。 『じゃあ僕自ら引導を渡してやりますよ。その方があなたも幸せでしょう』 そう言うと、彼はにっこり笑った。 「えっ?」 どういう意味か聞き返そうとしたとき、――転送音がした。ガレオンが帰ってきたのだ。 「おい、アル! 先手を打たれた!」 青ざめた顔でそう言ったかと思えば、ガレオンはセルゲイの存在に気付いて彼を睨みつけた。 「……、お前誰だ?」 セルゲイは微かに苦笑してみせた。 『アルイ選手のファンですよ。そして貴方が持ってきた凶報の関係者でもある』 「てめぇ、それは一体どういう……!」 まなじりを吊り上げ食って掛かるガレオン。セルゲイはそれを相手にせず、優雅に一礼した。 『それでは、さようなら。井浦先輩と元日本チャンピオン』 「待て!」 シュンと転送音を立てて、セルゲイが消える。 「くそっ」 ガレオンは歯噛みして、悪態をついた。 彼の常ならざる焦燥ぶりにとんでもないことが起きていると悟る。僕は慌てて問いかけた。 「な、何があったの? 凶報って?」 ガレオンはやっと僕に向き直った。 「あ、ああ。いいか落ち着いて聞けよ。……お前のリアルの正体がバレた」 絶句。思ってもみない言葉に開いた口がふさがらない。 「これだ」 彼はウィンドウでネット記事を開いて、僕に見せてくれた。 『無敵の初心者アバターの正体はフィギュアスケーター!?』 記事を要約すると、次のようになる。 『アルイ選手の地上戦の滑走はフィギュアスケートのスケーティングそのままである。現役トップスケーターの白瀬選手の実演と解説により、その滑走やジャンプ、ステップ等の癖からアルイ選手は現役フィギュアスケーターの井浦俊樹選手ではないかと推測される』 『もしそうなら、アルイ選手が行った、チャンピオンの称号を賭けたマネーマッチは、歴代の王者の誇りを踏みにじる行為である。金に汚く、スポーツマンシップに反する彼の性根が垣間見える行いだが、日本フィギュアスケート協会はアルイ選手の正体を知っていてそれを黙認しているのだろうか?』 推測の言葉を使っているが、九割がた断定口調である。 文責はジン。元世界チャンピオン、現・解説者。 ざっと顔から血の気が引いていく。ガレオンは険しい顔で口を開いた。 「師匠、これをわざわざ俺の目の前でネットにアップしやがった」 「ど、どうしようガレオン」 「その反応だと、この記事で推測されているお前の正体は当たってるんだな?」 「うん……」 彼は派手に舌打ちした。 「くっそ、師匠何考えてるんだ!? ゲームのいざこざでリアルを吊し上げるなんて禁忌にもほどがあるだろ!?」 僕だって衝撃で頭が真っ白だ。 「ぼ、僕も、白瀬君の考えてることがわかんないよ。軽蔑されてるのは知ってたけど、まさか糾弾されるまで憎まれてたなんて……」 うなだれる僕の手元の記事をガレオンはのぞき込んだ。 「ああ、もう相当拡散されて炎上してやがる。なまじ解説で実績積み上げてるから、あまりにも説得力がありすぎたか」 うつむく僕の両頬が熱いもので包まれた。ガレオンの手の平だ。グイッと顔が引き上げられる。間近に真剣な彼の顔があった。 「いいか、この記事は恐らく明日のテレビで報道されるはずだ。それ位センセーショナルな記事だから」 ぎくりと身体が強張る。 「だから、俺たちは今動かなきゃいけない。選べ、認めて謝罪をするか知らんぷりするか、だ」 「それで、炎上は止まる?」 ガレオンは首を振った。 「多分無理だ。特に後者はもっと燃えるかもしれない」 「……でも動かなきゃいけないんだね」 「ああ、後手後手に回ると取り返しがつかなくなる。最悪、お前の選手生命が断たれるかもしれない」 最悪の想像にびくっと肩が跳ねた。 「そうならないために、今、決めろ」 ガレオンは容赦なく決断を迫る。僕は泣きそうな顔で答えた。 「……認めて謝るよ。スポーツマンシップに反するなんて言われたまま、知らんぷりなんてできない」 彼は頷いて、僕の顔から手を離した。 「わかった。今日受けた謝罪インタビューを早急にアップしてもらおう。次に動画だ。まず謝罪文を考えて……」 ガレオンはこの後の対応を考え始めたようだった。その姿に僕はじわじわと胸にこみ上げてくるものを感じていた。 「僕を見放さないんだね」 彼は当然のことを聞かれたように、目を瞬かせた。 「当たり前だろ、一生懸命な奴を見放すなんて俺の主義に反する」 「そっか……、ありがとう」 僕の脳裏を白瀬君がよぎる。 (白瀬君は僕が一生懸命なだけじゃ、駄目だったんだ。勝とうとしなかったから、だから僕は見捨てられた) ぽたりと涙が流れる。ガレオンは目を見開いた。 「アル?」 「な、なんでもない!」 ぶんぶんと首を振る。 (集中しないと。ガレオンにまで見捨てられたら僕はもう立ち上がれない) 僕は気合を入れるように頬を叩いた。今後の対策を話し合おうと、口を開く。 それにしてもさっきのロシア人の正体、まさか……。 ―――― やはりリアルでもネットでも大炎上した。 ネット記事のコメント欄では擁護派と非難派が真っ向からぶつかり合って手が付けられない。 僕たちの火消しはネット上では強かったけど、テレビでは恣意的に捻じ曲げられた。ただの一般人ならまだしも、現役のスポーツ選手の不祥事は恰好の燃料だったらしい。 同じくワイドショーでも、僕のVRABの試合とスケートの試合を並べた検証映像や、白瀬君の解説がひっきりなしに流れていた。 コメンテーターが「自覚が足りない。マネーマッチっていわゆる賭け事でしょう? 野球賭博みたいなものじゃないの」とまるで見当違いのことを言っていたが、それに頷く人も多くて唖然とした。 ゲームの中でのいざこざをリアルに持ち込むのはどうかという意見はネットに根強く残っていたが、情報源がテレビだけの世代にそのマナーは通用しない。 ついには日本フィギュアスケート協会まで飛び火した。 告発記事から三日後、スケ協の公式文書が発表された。 『井浦俊樹選手のVRゲームにおけるマネーマッチ疑惑ついて』 『調査委員会を発足させ、詳細を調査中です。経過についてのご報告は追って致します』 要約するとそれだけである。事の対応に戸惑っていることがありありと感じられた。 僕はスケ協から内々に通達された、とりあえずの処分内容に目を剥いた。 その夜、僕は振り切るように、VRABにログインする。 ――ガレオンに別れを告げるために。 ―――― リンクで僕を待っていたガレオンは、僕の凍りついた顔を見て、最悪の事態が起きたことを悟ったようだった。 僕はスケ協の沙汰をそのまま伝えた。彼の顔がみるみる青ざめていく。 それがリンクの寒さのせいだったらどんなに良かっただろうと、僕は場違いなことを考えた。 「はっ? それはどういう意味だ」 僕は感情を押し殺した声でもう一度繰り返した。 「そのまんまだよ。王座を賭けた賭け事は品位がないって、謹慎処分。そして、VRABのIDを消しなさいって通告が来た」 震える声を誤魔化すように視線を落とすと、ガレオンは僕の両肩を強く握り揺さぶってきた。 「おい、まさか従うつもりか!? 世界選手権はどうなる!」 「出たいよ。でも、スケ協に逆らうのは……」 蚊の鳴くような声で抗う。僕だって板挟みだった。こんなところで終わりたくないのに。 ガレオンは絶望しきった顔で、ぎりりと奥歯を食いしばる。 しばしの静寂がリンクに染み渡った。この冷気を味わえる時間ももうすぐ終わる。そう思うと胸の奥がじわりと痛んだ。 彼は僕の肩からそっと手を外した。 「くそっ、なんだってお前がこんな目に合わなきゃいけないんだ」 そのやりきれないような力ない声に、なぜか怒りが噴き出す。 「僕が、僕が一番そう思ってるよ!」 やめろ、ただの八つ当たりだ。そう思っても止まらなかった。 世界選手権に出られないってことは、賞金が手に入らないということだ。 それどころかこんな不祥事を起こして、スポンサーの成り手なんているわけがない。来シーズンどころか将来の望みが断たれる。未来なんてもう、なかった。 制御もつかないような哀しみが噴き出して、僕は喚き散らした。 「確かに軽率だったさ! でも選手生命が危機に晒されるほどのことだったか!? 二十年近くスケートに人生を捧げてきて、こんな、こんな幕切れなんて……」 あんまりだよ。ぱたぱたと、涙が滴り落ちる。 「アル……」 ガレオンは辛そうに僕を見つめている。 「ごめん、ガレオン……」 僕は次々と溢れ出る涙を拭って、懸命に笑おうとした。 「きょ、今日はお別れを言いに来たんだ。ログアウトしたら、僕(アルイ)を消すよ。短い間だったけど、いっぱい助けてくれてありがとう。世界選手権、頑張ってね」 震える手でマイメニューを開く。彼は泡を食って止めようとしてくれた。 「待て、俺は諦めないぞ! まだお前に世界を見せてないし、リベンジも果たせてないのに!」 僕はガレオンに笑いかけると、ログアウトのボタンを押した。 「ばいばい、ガレオン」 シュンと、音がして意識がブラックアウトする。瞼に光を感じて目を開けるとそこはもう自室のベッドの上だ。 誰もいない部屋はリンクより寒々しくて、僕はやっと声を上げて泣くことができた。 ―――― 『井浦選手を謹慎処分とし、ゲームのIDを削除するように通告しました。井浦選手はこの処分を受け入れました』 このスケ協の事後報告は激しく反発された。 まずVRAB日本支部が噛み付いた。 マネーマッチは規約で認められており、マネーマッチを理由にID削除は罰が過ぎる事。加えて、日本チャンピオンのアルイ選手は世界に通用する素晴らしい人材であり、世界選手権前の強制引退は日本の他のVRABプレイヤーの意気をもくじく行いだと言葉も強く糾弾した。 ガレオンもテレビに積極的に出演して、処分の撤回を求めている。僕のことを大切な弟子とまで言ってくれた。 しまいには、テレビで自分の師匠であるジンさんと激論を戦わせてまで庇ってくれた。僕はもうそれだけで十分だった。 世論も擁護に傾きかけていたが、それでもスケ協は処分をひっくり返さない。 というより、もうどうしていいのかわからないのだろう。スケ協から処分を取り消すかと意向確認が来たが、僕はスケ協の決定に従うと殊勝な態度を崩さなかった。すでにIDは消したのだ。今更どうしろと言うのだろう。 そのまま事態は膠着が続き、ニュースはもう別の不祥事に移り変わっていった。 そして季節は四月。残り一ヶ月に迫る世界選手権を前に、VRAB日本支部は一つの決断を下した。僕の復帰を諦め、代わりに日本選抜大会四位の選手を世界選手権に出場させることにしたのだ。 そのニュースを僕は現実のスケートリンクで知ることになる。 ―――― 「ははっ、これで本当に終わりか」 VRAB日本代表選手確定のニュースに、僕の目から涙が一筋零れ落ち、スマホの画面に吸い込まれていった。 これで来シーズンは完全になくなった。ともすると、引退だ。 僕はリンクサイドに上がり、スケート靴を脱ぎ捨てた。じわじわと湧き上がる怒りと絶望のままに、それを床に叩きつけようとして……できなかった。 僕は泣き崩れながら、スケート靴を抱きしめる。鋭いエッジが首筋に近づくが、もうどうでもよかった。 どうせ死ぬならリンクがいい。 (ガレオン、白瀬君、ごめんね……) 首筋に刃の冷たさを感じかけた時――、 「アル! よせ!」 と大声がリンクに響き渡った。思わず目を見開く。 スケート靴がころりと転がった。 (僕をアルって呼ぶのって、まさか……) ゆっくりとリンクの出入り口に振り向くと、一人の男性がいた。モッズコートを着て息を切らせている。 テレビで見た顔だった。僕を庇ってくれた、僕の師匠。 「……ガレオン?」 恐る恐る口に出すと、男性は頷いた。 「どうしてここが?」 呆然とガレオンを見上げると、彼はぐるりとリンクを見渡した。 「お前のエリアのリンク、ここのスケートリンクを模したものだろ? リアルにもあるかもと思って、Googleの画像検索で片っ端から調べた」 思った通りで良かったよ。と、ガレオンは安堵のため息を吐いた。 「な、何しに来たの? 世界選手権の特訓で忙しいはずじゃ……」 彼は僕の言葉をさえぎってこう言った。 「お前、世界選手権に出る気はないか?」 「え?」 僕はきょとんと目を瞬かせた。 「な、なに言ってるの? もう日本代表選手は僕以外で確定したってニュースが……」 ガレオンは頷いた。 「ああ、シングルはな。ペアならまだ枠がある」 「どういうこと?」 「VRABにはペアっていって、二人一組、敵も含めて四人でバトルする競技があるんだ。試合中に入れ替わりながら戦うんだが」 それに俺と組んで出る気はないか? とガレオンは言った。 「なぜか今年はペアの賞金が増額されていて、一億円近くある。それだけあれば、お前もスケートを続けられるはずだ」 その提案に心が動く。でも何故か口は反対のことを言った。 「ぼ、僕はID消してしまったし、なによりスケ協が許してくれるか……」 「IDは新規習得すればいいし、スケ協には処分を撤回してもらおう。お前にも処分撤回の話は来てたんだろ? なんで断ったんだ?」 「ぶ、ブラフかと思ったんだ。承諾したら反省が見られないって思われて、それを理由にまた処分されるのかなって」 彼はため息を吐いた。 「すっかり疑心暗鬼になってるな。一回師匠をボコボコにしないと気が済まねぇ」 まだへたり込んだままの僕を見て、すっと、ガレオンは真顔になった。 「お前、さっき死ぬ気だったな」 僕はびくっと身体をこわばらせた。責められるかと思ったが、彼は優しく言葉を繋いだ。 「なぁ、死ぬぐらいだったら復讐しないか? ペアに出場するロシア代表は、あの思わせぶりなことを言って消えたロシア人だ。師匠と繋がってるに違いない」 そいつを一緒にボコボコにして賞金ゲットだ。それでみんな片が付く。 と、ガレオンはニッと笑って言う。手が差し伸べられた。 (そうだ、さっき僕は死んだんだ。もう何もこわくない) もう自分に嘘を吐きたくない。僕は彼の手を取った。 「やる。あのロシア人――セルゲイは僕の知ってる人かもしれない。どうしてこんなことをしたのか知りたい。そして、どんな理由であれ……ぶっ殺してやりたい」 僕の目はきっとギラギラと不吉に輝いていることだろう。 かつてないくらい僕は憎しみでいっぱいだった。僕らは理不尽に踏みにじられるだけの蟻じゃないと、奴らに教えてやらないといけない。 握りしめる手の強さでガレオンは僕の本気を悟った。 「そうだ、二人で奴らを殺しに行こう」 面白そうに彼は笑う。僕も強く頷いて立ち上がった。 反撃が始まる。 ―――― 結局スケ協は処分を撤回した。 僕はすぐさまゲームIDを再び『アルイ』の名で取った。 世論はまた少し炎上しかけたが、VRAB日本支部とガレオンが睨みを効かせた上に、僕がスケートの資金繰りに苦しんでVRAB世界選手権に出場しようとしていることを暴露したら思った以上に同情を買って、鎮火に向かっていった。皆美談が好きなんだろう。 そして、一ヶ月後。血の滲む、なんて生ぬるい形容詞じゃ追いつかないほどの特訓を繰り返し、僕たちは世界選手権に出場した。 五月二日。VRAB世界選手権シングル部門ではガレオンが優勝し、世界チャンピオンのタイトルを手にした。残念ながらジンさんのランキング一位を奪うには至らなくて、ちょっと悔しそうだ。 優勝に涙ぐんでおめでとうと寿いだが、ガレオンに「明日はお前がそう言われる立場だぞ」と苦笑されて、ピリリと背筋が伸びる。ジンさんはお祝いに現れなかった。 そして五月三日。ペア部門。初戦。 VR上とはいえ、会場のボルテージは高まっており、歓声がビリビリと肌を焼くようだ。 「いけるな」 「もちろん」 試合会場出入り口で、僕とガレオンは笑い合ってコツンと拳を合わせた。お互いの目には殺意がきらめいている。そうだ、みんな殺してしまおう。 僕たちはアナウンスのコールに合わせてゆっくりと入場した。 ―――― 宵闇のフィールドに月が煌々と輝いている。 日本選抜と規模が桁違いの観客席から、怒涛のような歓声が響いていた。 実況の外国人が意気揚々と叫ぶ。 『さあ、選手入場です! 日本からはシングルで世界チャンピオンとなったガレオンと、現日本チャンピオンのアルイ! 世にも珍しいチャンピオン同士のペアです』 一方の解説は冷静だった。 『双方本領はシングルプレイヤーですからね。ペアは勝手が違うでしょうし、どこまで戦えるか見ものですね』 完全に舐めた口調だったが、僕達はそれどころじゃなかった。現れたロシア代表セルゲイ、その相方がすっぽりローブを被っていて正体がわからなかったからだ。こいつも舐めてやがる。 更に殺気立つ僕らをよそに、そいつはローブに手を掛けた。 『そしてロシア代表は初出場セルゲイと、おっと、正体が極秘にされていた相方がローブを脱いだ! ……はあっ!? まさか、彼が出場するのか!?』 観客がどよめく。ローブを勢いよく剥ぎ取って正体を現したのは、元世界チャンピオンのジンさんだったからだ。 呆気にとられる僕とガレオンに、ジンさんは、よう! と気楽に片手をあげた。その顔は心底楽し気だった。 実況が吠える。 『な、なんと! 元世界チャンプのジンです! 彼はリアルで事故に遭い現役を引退したはずでしたが、よもや復帰するとは!』 『なんとまあ。規約上、ペアのどちらかが該当国の国籍を持っていれば、相方が外国人でもOKなのでアリといえばアリなんですが……。これは驚きましたねぇ』 その解説の言葉に僕は動揺した。セルゲイは日本人じゃなくてロシア人? ガレオンもショックを受けている。但しジンさんと戦うことについて、だ。 レフリーの合図でお互い会話の出来る距離に近づく。握手のためだ。 口火を切ったのはガレオンだった。 「師匠、どうして……」 「アルイと戦いたかったからだよ。日本選抜でも言ったろ?」 嘯くような軽い調子。でもガレオンは誤魔化されなかった。きっ、と睨み据える。 「嘘つけ。そのためにアルのリアルを攻撃するなんて回りくどい手をあんたが打つわけがない」 ジンさんは肩を竦めた。 「当たり。戦いたいのは本音だけど、今回の主役は俺じゃない。アルイとセルゲイだ」 ジンさんは僕に笑いかけた。 「お前のリアルを暴いて追い詰めるような真似して悪かった。でもこれはお前のためでもあるんだぜ?」 なぁセルゲイと、ジンさんは相方の背中を叩いた。 セルゲイはコクリと頷いて、口を開く。 『あなたの答えを見せてください』 リンクで言われた言葉が頭をよぎる。自分でもびっくりするような低い声が出た。 「言われなくても」 未だ納得していなさそうなガレオンに、ジンさんは肩を竦めてこう言った。 「つまりだ、一位コンビが不甲斐ない万年二位コンビに鉄槌を下しに来たってこった」 僕とガレオンは一瞬で燃えあがった。 いうまでもなく、二位とはガレオンのランキングと、僕のスケートでの異名『日本のナンバー2』を指している。 僕らは声を揃えて言った。 「「絶対にぶっ殺す」」 ジンさんとセルゲイは鼻で笑った。 ―――― 僕とセルゲイ、二人だけが場に残された。 ペアは原則一対一で戦うけど、試合中に任意のタイミングで相方と入れ替わることができる。 僕らの作戦では地上戦は僕の担当で、空中戦はガレオンの担当だ。 恐らく向こうも担当を分けているはず。 試合開始のブザーが力強く夜空に木霊する。 それを待っていたように歓声が怒涛の様に押し寄せてきた。 僕は緊張をほぐすように唇を一舐めすると、口早に詠唱した。 「グラビティLv.5」 ズンと、慣れた重圧が圧し掛かる。 観客がざわめく。実況が不可解そうに声を上げた。 『ん? アルイ選手、自らに重力魔法を掛けました! これで彼は二分半空を飛べなくなりますが、一体何を考えてるのか』 解説は冷静に僕の意図を見抜いた。 『恐らく日本選抜で見せた大ジャンプを飛行力に変換したいのでしょう。ジャンプに大幅なプラス判定が付くのは、あの試合で周知されましたが、ジャンプの度にいちいち空に飛びあがってては飛行力をチャージできませんからね』 『なるほど、飛ぶのではなく跳ぶことで飛行力をチャージする狙いがあったようです。さあ、チャンスだセルゲイ! 今のうちに飛んで空からアルイを狙い撃ちに……ん? ま、まさか!?』 セルゲイは低く笑って、呟いた。 『グラビティLv.5』 『なんと、全く同じ重力魔法を自らに掛けた! 二人は二分半空を飛ばず、地上戦で飛行力を貯める作戦に出ました!』 実況は驚愕の声を上げているが、僕は全く驚かなかった。セルゲイの正体について、ある確信が深まっただけだ。 僕らは同時に地を蹴った。 お互いの手に光が集中し、周囲に魔法陣が展開される。弾幕戦だ。 《想起! 迷宮・エリアG7!》 《2019 Iura SP(ショートプログラム)!》 両者の叫びと共に同時に振り下ろした光は、まっすぐに飛び、お互いの目の前で弾けた。弾幕が形成される。 セルゲイは光の迷路に閉じ込められた。これは僕のエリアG‐7を再現した弾幕だ。最難関のトラップが絶え間なく彼に襲いかかる。 僕はそれを横目にセルゲイが放った弾幕を避け続けていた。それはとても身に覚えのある構成の弾幕で……。 (っ! 全く、ふざけてる!) 弾幕を避けようとステップを刻む僕の耳に、幻聴が聞こえる。僕の全日本選手権SPの曲だ。 その曲をなぞり僕は弾幕を躱し続ける。ステップやいくつかのターン、スピードを上げてジャンプの助走、グッと力を込めて四回転ループジャンプ! いや、弾幕を躱してるんじゃない。踊らされているんだ! 僕のあのSPを滑らなければ躱せない様に、弾幕が構成されている! (セルゲイ、君の正体は……!) 二つの弾幕の持続時間が同時に切れた。 僕は五回ほどミスをして弾幕に身を削られたが、なんとか潜り抜けることができた。満身創痍の僕とは逆に彼は無傷だ。 「……やっぱり、君は白瀬君なんだね」 実は僕のエリアG7のトラップは、フィギュアスケートの技を繰り出さないとクリアできない。コンパルソリー、ステップや規定のスピン、ジャンプや果ては繋ぎの技などスケートのイロハが詰まっている。これをノーミスでクリアできるなんて、現役トップ選手しかいない。 果たしてセルゲイは苦笑してこう言った。 「気付くのが遅いですよ、井浦先輩」 「君は日本人かと思ってたけど」 「僕は日本とロシア、両方の国籍を持ってるんです。いわゆる二重国籍状態ですね」 なるほど、日本人なのにロシア代表になれたのはそういう経緯らしい。 その他にも聞きたいことは山ほどあった。どうしてこんなことをしたのか、どうして僕を追い詰めるのか。 でも今問い詰めてもきっと何も答えてくれないだろう。 (僕が、彼の言う『答え』を見せていないから) だから僕は全てを呑みこんでこう言うしかない。 「安心したよ。君だとわかれば遠慮なくぶっ殺せる」 殺意の滲む僕の眼光に彼は不穏な笑いを漏らした。まるで、待ち望んだものがやってきたような、抑えきれない笑み。 彼と僕は同時に地を蹴り、助走の後、すれ違いざまジャンプで空に飛びあがった。お互いのパートナーに空中戦で使う飛行力を託すために。 奇しくも同じ三回転アクセルだった。 ―――― 空は二人の弾幕で埋め尽くされていた。 ガレオンとジンさん。二人が描く軌跡は、見たこともないほど複雑で激しい。 それだけで僕らの渡した飛行力が尋常でない強さだとわかる。実況も解説も絶句していた。 (やっぱり、白瀬君の稼いだ飛行力の方が強い) 空の二人の実力は伯仲している。決め手は地上戦で稼ぐ飛行力しかありえなかった。 白瀬君の飛行力を受け取ったジンさんの俊敏で精密な機動に、徐々にガレオンは追い詰められていった。 「どうして」 と、ボロボロのガレオンは呟く。 「どうして、足を失くしたはずなのに、こんなにバトルができるんですかね」 ジンさんは攻撃の手を緩めずに、笑って答える。 「VRABの本社が、センサーグリーヴの代わりに足と頭にチップを埋め込んでくれてな。足が失くても戦えるようにしてくれた」 「よくもまぁ、そんなことが認められましたね」 チートじゃねぇか! とガレオンは吐き捨てた。 まぁな、とジンさんは苦笑する。 「俺の足、センサーグリーヴの爆発事故で失くしたんだ。世間にバレたくない本社は俺の言うことをよく聞いてくれたよ」 ペアの賞金も増額してあっただろ? あれも俺が頼んだんだ。お前らをおびき寄せるために。 種明かしをするジンさんは心底楽しそうだ。ガレオンは苦み走った顔で舌打ちした。 「なんでそこまでするんです?」 「白瀬は俺の可愛い甥っ子でね。いいところみせたいんだ」 「はっ! 俺たちの知ったこっちゃないですね!」 ガレオンは急加速して距離を取ると、光を集めて腕を振った。 《攻壁 黄長城》 あの長大な光の壁の弾幕が形成される。 ジンさん自身、クリアできなかったと認めるあの弾幕だ。 (もしかして、これで有利に立てる?) 僕は手に汗を握った。恐らくボムで処理されるだろうが、相手の手数を削れることには変わりない。僕が喜びかけたその時――。 ジンさんはひゅっと風を切って、弾幕と戯れるように余裕で躱してみせた。 「ひゅう、気持ちいいな! うちの甥っ子の飛行力は最強だ」 ガレオンの目が見開かれる。 意地になってランダム弾をばら撒いても掠りもしない。完全に遊ばれていた。そしてジンさんの猛攻。 「くそ……!」 ガレオンがなんとか耐えきったまま五分が経って、両者の飛行力が尽きる。 「アル! お前が頼りだ!」 ガレオンの祈るような声が、僕の耳に響いた。 ごくりと喉が鳴る。 ……僕は、白瀬君を殺すことができるんだろうか? ―――― 地上戦。 弾幕のない、しかし流麗な演技が繰り広げられていた。例を見ない地上戦ながらも、観客は闘気溢れる戦いに息を呑む。 白瀬君と僕は暗黙の了解で、全日本選手権のそれぞれのSPを滑って飛行力に変えようとしていた。グラビティLv.5の持続時間に納まる演技といえばそれしかない。スケートの技の難度は飛行力の優劣に直結するようだ。 SPは僕の方が白瀬君よりわずかに難しい構成にしてある。だけどそれはノーミスで滑れれば、の話だ。 「っ――!」 最初の四回転ループジャンプを辛うじて堪える。回り切ってはいるが、GOE(技の出来栄え点)はお世辞にも良くないだろう。 ちらりと彼を見ると、華麗に四回転サルコウジャンプを決めたところだった。王者にふさわしい圧巻の演技。 どくんと全日本選手権の失敗が頭をよぎる。 三回転アクセルジャンプはパンクし、コンビネーションは抜けて、ステップはガタガタで……。 顔を強張らせていると、ふと演技中の白瀬君と目が合った。 『また無様を晒す気ですか?』 あの呆れと憐憫を含んだ視線が、僕を貫く。ひやりと心臓が止まった気がした。過去と現在の境が曖昧になる。 (怖い、次のコンビネーションが跳べる気がしない!) 次は四回転サルコウ+三回転トウループの連続ジャンプなのに。こんな思いを抱えたままクリーンに降りることなんてできない! 混乱する僕を嘲笑う様に、目の前で白瀬君は四回転トウループ+三回転トウループをしなやかに降りた。 ステップを刻む身体が強張りかけたその時、ガレオンの声が響いた。 「落ち着け!」 言い聞かせるような、励ますようなその声に意識が吸い寄せられる。 「俺と戦った時を思い出せ! お前が俺に勝てたのはマグレじゃないだろ。 集中していたからだ。俺に気を取られず一手一手丁寧に捌いたからだ。白瀬を見るな、意識するな、比べるな! まず、お前の中にいる白瀬を殺せ!」 その言葉にぱちりと意識が切り替わる。 (僕の中の白瀬君を、殺す) そうだ、僕は白瀬君を意識しすぎたんだ。ナンバー2と言われ続けて、比べられ続けて僕の中で彼の存在が大きくなりすぎたんだ。 僕の中の白瀬君が嗤う。僕は震える手で彼の心臓にまっすぐ剣を突き立てる。 ずぶずぶと沈む手ごたえに、想像の中の白瀬君はそれでいいとでも言いたげに、僕に向かって微笑んだ。 意識が、覚醒する。 左足のインエッジで後ろ向きに入り、右足を振り上げる。力強く踏み切ると、身体は反時計回りにぐるりと四回転した。そして着地してすぐに流れるように三回転トウループ。 (出来た!) 久しぶりにクリーンに降りられて、もう自分の体じゃないようだった。 ああ、音楽が聞こえる。あの懐かしい僕のSPの曲だ。 僕はその音楽を愛しむように滑り続ける。 満員の観客の喝采が心地よく耳に響いた。 もう、僕の中に白瀬君の影はどこにもなかった。 ―――― 気付けば僕は息を切らせて、地面に倒れ込んでいた。少し離れたところにいる白瀬君も同様に。 とっくにSPの二分半は終わっていて、空ではガレオンがジンさんを追い詰めていた。さっきとはまるで逆だ。 (僕の演技が白瀬君の演技を上回ったから、だ) 観客が驚愕の声を上げる。はっと見上げると、ガレオンがジンさんの身体に弾幕を派手にぶち込んでいた。ジンさんが光に包まれて消滅する。 静寂が束の間、場を支配したが、ガレオンが握った拳を力強く夜空に突き上げると、大歓声が津波のように夜を切り裂いた。 しばらくして息を切らせたまま、ガレオンは僕に言った。 「お前の番だ、アル」 「うん、ありがとうガレオン」 主導権が明け渡されて、僕はよろよろと立ち上がった。白瀬君に近づく。 白瀬君は仰向けに倒れていて、僕に見下ろされてもまだ動かない。ぼんやりと僕を見上げ、そして満足そうに笑った。 「いい答えでした。リンクでも僕を殺しに来てください」 僕は頷く。心が凪いでいた。 まっすぐに右手を伸ばすと、彼の心臓に差し向ける。 「さようなら、白瀬君。氷上で僕を待っていて」 右手から白いニードル弾が飛び出し、彼の心臓を打ち抜いた。幻想的な光の粒が彼を取り囲み、白瀬君は消滅した。 押し寄せる大歓声が、僕の心を満たす。それはまるで、あの全日本選手権の傷を癒すような喝采で……。 いつの間にか隣にいたガレオンが、僕を自分の肩に抱え上げる。 「手を振ってやれ。お前はあいつに勝ったんだ。よくやったな」 僕の目からはいつの間にか際限なく涙が流れていた。精いっぱいの感謝を込めて観客に手を振る。 涙に滲む世界は美しくて、僕は無性に氷上を滑りたくなった。この喜びを、みんなに伝えたい。 それは生まれ変わった僕しかできないことだ。 ―――― 僕らはペア部門の表彰台で一番高いところに上った。 賞金は日本円にして一億円近く。本当ならガレオンと半分こするはずだったけど、彼は「師匠と戦えたからそれで十分だ」と受け取ってくれなかった。 ガレオンは不満に頬を膨らませる僕に条件を付けた。 「その賞金で再来シーズンもスケートを続けろよ。お前ならできる」 僕は一番の笑顔で頷いた。 ガレオンはペア部門の優勝功績がプレイヤーポイントに加算されて、念願の世界ランキング一位になった。 ……のに、どこか釈然としていないのはまあ当然だろう。ニヤニヤしているジンさんに詰め寄り、一発ぶん殴っていた。溜飲を下げようとしてるみたいだけど、それでも呑みこめないようである。気持ちはわかる。 ジンさんは、あの試合だけで引退するようだ。元々そのつもりだったらしい。これからは身体障碍者でも参加できるVRABのデバイスづくりに協力すると言っていた。センサーグリーヴの爆発事故についても、本社は近々なんらかの発表をするみたい。 白瀬君はあれから何の音沙汰もない。本当に僕に発破をかけるためだけに一連の事件を起こしたみたい。言葉を交わすならスケートで。そう言われてるみたいだった。 わかった、僕らはフィギュアスケーターだ。その望みに応えよう。 ―――― そして再びの全日本フィギュアスケート選手権。 『頑張れよ。ちゃんと見てるからな』 ガレオンから送られてきたメールを思い出して、クスリと笑う。地方予選のブロック大会は願掛けらしく見に来てはくれなかったけど、この大会は試合会場まで見に来てくれたようだ。 リンクサイドからどうにか目を凝らして、満員の観客席に車椅子姿のジンさんとガレオンの姿を確認する。僕に気付いて、二人は大きく手を振ってくれた。僕も振り返す。心がぼわっと温かくなった。 いよいよ最終滑走グループの六分間練習だ。 ぶるっと武者震いする僕の横に、白瀬君が立つ。 横目で見るも、彼はまっすぐ前を向いていた。 「再誕、でしたっけ。貴方のSP曲」 僕もリンクをじっと見つめながら答えた。 「うん。生まれ変わった僕が見た世界を、皆にも見てほしくて」 貴方らしい、と白瀬君は笑った。そして呟く。 「……今度こそ、僕は死ねるのかな」 「僕はそのために来た」 それに、と僕は続ける。 「一度死ぬのも乙なものだよ。死んで生き返って、新しい世界を見るんだ」 そう言ってにっこり笑って彼を見ると、白瀬君はぱちくりと瞬きをした。一気に幼い印象になる。 彼は破顔した。 「ああ、いいなそれは。とてもいい」 「うん、楽しみにしてて」 六分間練習のアナウンスが鳴る。僕達は勢いよく銀盤に滑り出した。 戦いが始まる。 |
北斗 2020年05月03日 18時29分48秒 公開 ■この作品の著作権は 北斗 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2020年06月27日 15時10分25秒 | |||
合計 | 16人 | 340点 |
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