鯨を狩る |
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※拙作は作者の限られた知識を基に書いています。そのため、太平洋戦争中に繰り広げられた事実と異なる箇所がままある可能性がありますので、それを踏まえてお読み下さい。 ※また、性的表現、暴力表現が、多少、含まれています。ご了承の上、お読み下さい。 ※文中に差別的表現、ととらえられる箇所もございますが、あくまでその時代に使われていたであろう表現と考え、使用しました。差別を助長する意図はありませんので、ご了承下さい。 死んだクソ親父は最高にクズだったが、あいつが人間らしく見える時がときたまあった。 あいつが、仕事の鯨狩りのことを話す時だ。 大体は飲んだくれて、俺やお袋や兄弟を殴るくらいしか能のない野郎だったが、あいつが鯨のことを語る時だけは、いつものクソな態度がどこかへ消えていた。 あいつは、鯨の漁のことを他の漁師連中が言うように、鯨捕り、と言うのでもなく、あえて鯨狩り、と言っていた。単に格好つけたかっただけで、特に意味のないことだろうが、その気取った感じも俺は気に入らなかった。 鯨の潮吹きや、ちょっとした波の様子を見て、位置を探ること。他の船に指示を飛ばし、鯨を追い込むこと。間近に見る鯨がどれだけデケえのか、そいつを前にした時どれだけわくわくするのか。銛を片手に突っ込む時の緊張と興奮と歓喜。 それを一息にまくし立てる時だけ、あの野郎は真っ当な人間に見えた。 だからと言って、俺があのクソ親父のことを誇りに思ってるとか、慕ってるとか、そういう風に考えねえことだ。 あいつはしらふのときより酔っ払ってる時の方が多い野郎で、むしろ、鯨のことを語ってる時の奴の顔を、俺は憎いとすら感じていた。 あんな顔をするくらいなら、もっとお袋をいたわりやがれ、ガキ共に菓子でも買いやがれクソ野郎。 だから、あいつが漁の最中に船から落ち、鯨に食われたと聞いた時は嬉しかった。 食い扶持が稼げなくなって一家が路頭に迷うことになる、なんてことは、バカなクソガキだった俺は考えもしなかった。 ただその時は、気にくわねえクソ親父がいなくなったことを、ただ喜んでいた。 俺があのクソ親父のことと、あいつの語っていた鯨狩りのことを思い出したのは、二式単戦・鍾馗で初めてB29を目にしたときだった。 それはデカかった。 銀色の胴体は長く、太陽光を反射してぎらぎらと光り、胴体と同じようにでけえ翼には四つも馬鹿でかいエンジンが備えられている。エンジン一つで俺の鍾馗よりもデカいようにも見える。 その、とにかくデカいアメ公の爆撃機を見た時、俺が感じたのは射精に似た猛烈な興奮だった。 いいぜこの野郎、ぶっ殺してやる。 俺が予想外に近くにいたことで、慌てて機銃をぶっ放してくるそのクソデカ爆撃機を見ながら、俺は笑った。 銀色でクソのように長く、のっぺりとしたその面構えは、あの海にいる鯨……巨大で重々しく美しく、悠然とした鯨とは似ても似つかない。 ただ、その巨大な目標と相まみえた俺は、そいつが鯨なんだと思った。 そして、どうしてか、あのクソ親父も同じような感慨を覚えたんだろう、と奇妙に確信していた。 俺はそれから、無数の鯨……B29を狩った。 俺はこれからまた、別の鯨を狩りに行く。 俺最後の鯨狩りだ。 * 二式単座戦闘機鍾馗は天下無双の最強戦闘機。 異論は認めねえ。空中勤務者の中には全然曲がらねえだの、すぐ故障するだの、離着陸が難しいだの、殺人機だの、旧式機だの、四式戦の代用だの、ぬかす奴がいるが、俺の前でそんな台詞は許さねえ。一人の例外なくぶっとばす。 ヤンキー共はP51やらグラマンやらの新鋭機をばんばん持ってきやがるし、我らが大日本帝国軍でも疾風だの五式戦だの新しい戦闘機がぽんぽん作られてる。 それでも、鍾馗が最強なのに変わりはない。 何故か? 乗ってる俺が最強だからだ 俺は大日本帝国陸軍航空隊が誇る撃墜王だ。 ノモンハンにも参加したとかいう苔の生えた古参下士官に比べりゃ飛行時間は短いが、マレーに中国、本土防空と大東亜戦争のあらかたの戦場は転戦したし、何より生まれながらの才能が、俺は他の連中と比べものにならねえ。 それまで中国でアメ公や中国の連中とやりあってた俺が本土に引き戻されたのは昭和二〇年の初めのことだった。 去年の末から始まってた特攻部隊に配属されても無理はなかったが、俺が配属されたのは本土防空を担う第十航空師団隷下の戦隊だった。 上官共にしてみれば、気性が荒くて扱いづらいことこの上ない俺が、一応は真っ当な部隊に配属されたのは、俺が二式単戦、鍾馗の扱いじゃあ並ぶ者がいないことがあるだろう。 もっとも、この時期じゃあ、開戦時こそ敵の一線機とも互角以上に渡り合うことが出来た二式単戦も旧式化が進んじまっていたんで、そんな旧式機の部隊にぶち込んじまえば俺がさほど時間を経ずにおっ死ぬだろうと上が考えてたのかも知れねえ。 ところがどっこい、俺はこうして終戦の日を越えたこの日に至るまでぴんぴんしてる。ざまあみろ。 ミサキという女を知ったのは、配属されて一週間も経たねえ頃だった。 B29の邀撃が終わった翌日の朝のことで、俺は基地の外を散歩していた。 体も脳みそも疲れ切っていやがるくせに、頭は妙に冴えちまっていて、寝ようにも寝られなかった。夜に軍医から打たれた戦力増強剤のせいもあったのかもしれねえ。 とにかく体を動かせばそのうち眠気も来るだろうと思ってた俺は、基地の近くをぶらぶら歩いてた。 基地から少し離れれば家がいくつか並んでいた。サイパン陥落後、本土への空襲も激しくなる一方だ、という話を聞いてたが、見る家々はそこまで酷く損傷しているようには見えなかった。 立派な土壁に囲まれた家の回りを歩く。敷地はかなりデカく、小作農をたっぷり抱えた豪農の家、って感じだ。 家の中から人の気配はなく、どうやら、昨晩の空襲警報で、まだ出払ったままらしい。 その立派な構えの門のところに差し掛かったところで、がたん、という物音を聞いた。 それからしばらく立たない間に、大根をかじったその女が玄関から出てきた。 身なりは酷く汚れていて、その上恐ろしく痩せた女だった。 年頃は多分、二〇歳、もしかしたらそれより下かもしれねえ。ぼさぼさになった長い髪をうなじの辺りで結わえたそいつは、おそらく金目のものでたんまりと膨らんだ風呂敷包みを背負って、その家から出てきた。 空襲警報が解除されてから、そんなに時間も経ってねえし、人はいねえだろう、とたかをくくってたらしい女は、俺を見ると、ぽかん、とした顔になった。 んで、その次の瞬間には明後日の方向へ走り出す。 普段ならひっつかんで女だろうがボコボコにするところだが、その日の俺はまあ疲労困憊で、そんな気力はどこにもなかった。 おーおーやっとるやっとる、なんて心持ちで火事場泥棒をかました女を見送ろうとした俺の目の前で、女が転ぶ。 見事な転びっぷりだった。着陸に失敗した鍾馗みてえに、頭を地面につんのめらせた女の風呂敷から、菓子やら野菜やら、米やらが地面に転がる。 それを慌ててかき集める女に、俺はやれやれと近付く。 女の横に立つと、俺は土のついたまんじゅうを拾った。 女が俺を、じっと見てくるのを感じる。 「いいから。急げ」 内地の状況をよく知ってる訳じゃねえが、ただでさえ貧乏な大日本帝国が世界中に喧嘩をふっかけりゃ、余計に貧乏になることは俺にだって分かる。 んで、俺のいた中国や、遠く離れた南方じゃあ、毎日毎日、兵隊がぽんぽん死んでいく。稼ぎ手をなくした家がどうなるか。分からねえ奴はいねえだろう。 まあ、この女が実際どうかは分からねえ。 戦争あるないに関わらず、仕事もしねえバカだったのかもしれねえ。 ただ、その日の俺は……本当に、俺にしては珍しく、このきたねえ女に手を差し伸べようっていう気になっていた。 ちょいと戸惑った様子の女に、おら、憲兵来てもしらねえぞ、と言う。 適当に地面に落ちたもんを女に渡すと、女は戸惑い顔のまま、そいつを風呂敷にまとめなおした。 そいつをさっきと同じように背負い直したが、女は地面に這いつくばったまま、立ち上がろうとしやがらねえ。 おらさっさと行け、と俺が言うと、女はむすっとした顔で自分の足を指さした。 女の右足首が、赤くなり始めていやがった。 「礼はする」 そんな、軍人様への敬意だとか、恥じらいとか、後ろめたさなんざあちっとも感じられねえ口調で女は言う。 だが俺は……昨日の戦力増強剤のせいでちっとばかしイカれてたんだろうか、女を殴ることもせず、そいつの軽い体に手を伸ばした。 女が住んでたのは、そこから三〇分ほど歩いたあばら屋だった。 とにかくきたねえ家だった。屋根から壁に至るまでぼろぼろで、冬だってのに門前から庭には雑草が生い茂って家の壁が見えねえくらいだ。 女に手を貸してやって、ようやっと家にたどり着いた俺を待ってたのは、痩せた上に、女とどっこいの愛想のねえガキだった。 歳は、三歳か、四歳くらいか。格好は女と同じ。ぼろぼろの服をまとったそいつは、俺をじっと、睨み付けてきやがった。 「松太郎、手伝いな」 そう女が言うと、ガキは俺を睨んだまま、近付いてくる。俺がおら、と言いながら風呂敷を渡すと、ガキはそれを黙ったまま受け取って、家の中へ歩いて行った。 その家の中は外に比べりゃまだ人の住む余地はありそうだったが、汚え綺麗で言えば、間違いなく汚え部類に入る。 色々と物が転がった玄関で、女は俺の手をのける。 框に腰掛け、女はふう、とため息をつく。 「おうおう、天下の大日本帝国陸軍の軍曹様をこき使っときながらその態度はなんだこの野郎」 そう俺が言うと、女は俺を睨む。その目つきはさっきのガキとそっくりだった。 「うるさいね。大の男がそれくらいでぎゃーぎゃー言うんじゃないよ。礼はちゃんとするから黙っときな」 女は履いていたわらじを脱ぐと、四つ這いになって家の中に進んでいく。 「あんたもさっさと上がりな」 俺は履いていた軍靴を脱いで、女に続いた。 家の中は玄関や外から比べればまあしっかり片付いていやがり、俺は女に言われるまま囲炉裏のある居間で待たされる。 女は台所に行って、松太郎、と呼んだクソガキを使って湯を沸かしていた。 湯が沸くと、女は松太郎に湯をたらいに入れさせた。残った湯をヤカンに入れ、松太郎が俺の方に持ってくる。 ガキの割に、松太郎は慣れた手つきで俺に茶を淹れる。 台所で、女は着ていた着物を脱ぎやがった。 みすぼらしい格好からは想像が出来ないほど、その体は白かった。痩せていたものの、その肌は白く、血色がよく、自然と瞳が惹き付けられる。 女は俺が見ていることに気付いていやがっただろうが、何も気にしない風に、水を混ぜて少し冷ました湯に布巾を浸し、そいつで体を拭き始めた。 男に肌を見せることに、慣れている感じだった。あの、小ぎたねえ格好をした女の、遊女みてえな仕草に、俺は、無性に腹が立った。 てめえの母ちゃんが肌を男に見せる前で、松太郎は慣れた様子で俺に茶を淹れる。この二人がどんな生活を送ってるか、これで分からねえのはバカだけだ。 体を拭き、着物を、多分、商売用の、多少は綺麗なものに変えて、女は茶をすする俺に近付いてきた。 松太郎はいつの間にか、どっかへ行ってる。 「さてと」 そう言いながら、女は俺に寄りかかってきやがる。 「何のつもりだコラ」 俺がそう言うと、女は阿呆を見る目を俺に向ける。 「何って、礼だよ」 「礼だあ?」 そう言う俺に、女はため息をつきやがる。 俺のことを察しの悪いバカだと勘違いしやがったのか、女は俺にしなだれかかってくる。 そんな女を、俺は自分の体から引き剥がす。 目を丸くする女の姿勢を正してやり、正座をさせると、俺はその、案外肉付きの言い太ももに頭を乗せる。 そしてそのまま目をつむる。何か女が言ったが、んなこたあ関係ねえ。 「うるせえ、寝る」 俺が眠りに落ちるまで、一〇秒もかからなかった。 俺が目を覚ましたとき、既に日は暮れちまっていた。 俺の頭の下にあったはずの、あの女の太ももはどっかへ行っていて、代わりに丸めた座布団が敷かれていた。 寝起きの脳みそにはまだ疲れがこびり付いてやがり、眠り足りねえのは間違いがない。ただ、もう寝付けないのがなんとなく分かったので、俺は体を起こす。 「起きたんだ」 そう声をかけてきた女の方を見る。 右の足首に包帯をぐるぐる巻いた女は、湯飲みや菓子の乗った盆を手に、ひょこひょこ歩いてくる。菓子は、あの家からちょろまかしたもんだろう。 囲炉裏の前であぐらをかいた俺の前に盆を置くと、茶渋がこびりついた湯飲みに茶を入れる。 そいつを飲む俺に、女は伺うような視線を向けてきやがる。 「……不能なのかい」 おずおず、って感じでそう女が言う。ぶっ、と俺は思わず茶を吹いた。 「んな訳ねえだろこのタコ」 まだ調子が戻ってねえ俺は、女の頭にゲンコを食らわせるでなく、そう言うのがやっとだった。 「だったら普通抱くでしょ」 そう、不可解そうに言う女に、俺は特大のため息を吐いてやる。そして、ぎろり、と女を睨む。 上官、部下問わず、俺のメンチを食らってビビらねえ野郎はいねえ。だが女は、俺が睨んでも、平然と見つめ返してきやがった。内心ではビビってるかもしれねえが。ただ顔には出してねえ。大したもんだった。 「ガキの前で股おっぴろげんのが普通な訳ねえだろうが」 「仕方ないだろう。そうでなけりゃ、生きていけないんだからさ」 女は視線に怒りのようなものを満たして、俺を見返してくる。女をじっと睨むが、女はやっぱり、目を逸らそうとしやがらねえ。 視線を先に逸らしたのは、あろうことか俺の方だった。 俺はため息をまたついてから、湯飲みを取って、饅頭をつまむ。 メンチで俺が負けるなんざ、ガキの頃以来のことだった。久々に食う饅頭をひどく不味く感じながら、俺は疲れてるせいだ、と思うことにする。 「旦那は?」 「ニューギニアで死んだよ」 なんだかんだ言って、俺の本気のメンチを食らうのは、まあそりゃ堪えることだったらしく、洟をすすりながらそう言う女の声は震えてやがった。 「村八分なんだよ、あたしは」 女は饅頭を頬張りながら、そう言う。 「頼りになる親戚もいない。そんなあたし一人で、松太郎を食わせていくなら、こうするしか他ないじゃないか。後ろ指指されても、そうするしかないんだよ」 「……分かったよ、もう言うんじゃねえ」 茶と、饅頭をますます不味く感じる。 俺は懐から財布を取り出す。中に入ってる紙幣を適当に抜くと、そいつを女の前に置いた。 「だけど、もう体を売るのはやめろ」 「……これっぽっちで、どうしようがあるんだい」 「けっ、足りねえんなら、また持ってきてやる。いいから、約束しやがれこのタコ」 女の顔に、人差し指を向けながら、俺はそう言う。 あらためて見ると案外、器量良しなことに、ちょいとうろたえちまう。 さっさと立ち上がると、俺は玄関に向かい、脱ぎ捨ててあった軍靴を履く。 「あたしの名前はタコじゃないよ」 居間からひょこひょこ歩いてきた女が、俺にそう言ってくる。 「ミサキってんだ。覚えときな」 けっ、と舌打ちをしてから、俺はミサキの家を出た。 玄関脇で、地面を掘り返して遊んでやがった松太郎を睨んでから、俺は基地へ向かって歩き出す。 * 稼ぎ手の親父を亡くしたあと、俺を含めて四人のガキを食わせるために、お袋がどうしたか。 皆まで言う必要はねえだろう。 毎夜、おしろいの匂いをぷんぷんさせて、お袋は出かけていった。ただ、お袋が客を取るのは店ばかりじゃなかった。時々、噂を聞きつけた近所のクソ野郎共がやってきて、俺の家でもことに及ぶことがままあった。 背に腹は変えられず、お袋はそんな野郎共を拒まなかった。 そんな時俺は、下の二人の弟と妹を連れて、近所を歩き回った。 一時ばかり、弟と妹を遊ばせてから家に帰る。もっとも、夜の外で遊ぶことなんざ限られてるんで、弟達は、近所の河原をぼんやり眺めてる内に寝入るのがほとんどだった。 そうなってくれりゃあ楽なんだが、困るのは、眠ってくれずに、河原を見ながら考え事にふけっちまった時だった。 上の弟の次郎はそうなることが多く、その時は決まって、俺にこう聞きやがる。 母ちゃんは何してんだ、兄ちゃん。 そんな時、俺はうるせえ、と言って次郎を殴る。そうなると次郎も俺を殴り返してきて、そこからは下の弟の三郎と妹のミツが泣く前でしばらく大げんかだ。 ある日、同じように次郎と喧嘩してると、お袋がやってきちまったことがある。 いつもはそうならねえように、さっさと次郎をのして大人しくさせるが、その日の次郎は嫌にしつこく、いくら俺がぶん殴っても、俺に向かってきやがった。次郎と俺は歳が三つ離れてて、喧嘩でまず俺が負けることはねえ。ただ、その日の俺は次郎の気迫に、少しばかり気圧されたらしく、あいつが腹に頭突きをかましてくるのを許しちまった。 そのまま、倒れ込んだ俺の上に馬乗りになって、次郎は拳を次々と打ち下ろしてくる。 つっても、次郎のへなちょこな拳なんざ痛くもかゆくもなかった俺は、拳を受けながら、こいつをどうのそうか、考える。 不意に、次郎の拳が止む。 すかさずあいつの体をのけようとしたが、それは出来なかった。次郎も、拳を俺に向かって振り上げた姿勢で固まってる。 お袋が、次郎にしがみついていた。がっしりと、次郎の体を抱きしめたお袋は、そのまま、何を言うでもなく、泣いていた。 ごめんよう、とも言うことなく、ただじっと、次郎を抱きしめ、泣き続けるお袋に、俺も次郎も、ただ拳を仕舞うことしか出来なかった。 お袋は、俺達が喧嘩するのは、自分のせいだと思っていやがったんだろう。最期まで言葉にすることはなかったが、あのお袋のことだ。そう思ってたのは間違いがねえ。 だが、それは違う。悪いのは、あのクソ親父だ。四人のガキと嫁をおっぽって、自分の好きな鯨狩りに熱中したあげく、勝手に死んだあのクソバカのせいだ。 徴兵年齢になると、俺は陸軍に入った。 小柄だが、体力と腕っ節のあった俺は、あっさり召集され、クソ下士官どもにこき使われつつ、中国でチャンコロ共と戦った。 入った給金は、ほとんど全部、実家に送ってた。商売で貯めた金を元手に、お袋はちいせえが商店を始めていて、実入りは安定していたが、頭が悪くなかったらしいクソ次郎は中学に入っていやがり、三郎もミツも食い盛り。金はいくらあっても足りなかった。 クソ広い中国を歩き回り、ぶっ放し、ぶった切り、ぶっ殺す日々を送ってた俺だが、ふとある日、空中勤務者になれば手当がたんまりもらえる、って噂を聞いた。 ノモンハンで大量の空中勤務者を亡くした陸軍は、新しい飛行機乗りを養成するのに躍起で、下士官兵に至るまで、募集をしていた。 俺には素質があったらしく、選抜試験を通過することなんざワケがなかった。 とびきりの技量を持ってた俺に与えられたのが、二式単座戦闘機・鍾馗だった。 最高時速六〇〇キロ超。格闘戦に強い九七戦や一式戦・隼とは違い、高速戦闘を主眼に開発された重戦闘機。 二式戦・鍾馗は機体の扱いが九七戦や一式戦よりも難しいところがあり、短い飛行時間の奴は乗せねえ、とされていた。そんな鍾馗を、俺は乗りこなした。 大東亜戦争が始まってからは、ヤンキーや紅茶飲み共相手の大立ち回りを繰り広げた。階級は上がったし、手当も増えて仕送りも増えた。 空を飛ぶことは、俺の生にあっていた。まあ軍隊にいる限り、上のバカ共の言うことに従う、っていう宿命からは逃れられねえが、ただ、空で、俺は誰の指図も受けず飛ぶことが出来た。 腕と運に恵まれた奴が生き、そうじゃない奴が死ぬ。ひどく単純な、そんな空の世界が、俺は好きだった。 そうして好き勝手俺が鍾馗で空を飛んでる時に、お袋が死んだ。 たしか、中国でヤンキー共の相手をしている時だったと思う。 それを知らせる電報のあとに、次郎からの長い手紙を俺は受け取った。 お袋は、中風であっけなく死んだこと。お袋はずっと、俺に感謝し、身を案じていたこと。葬式は次郎が喪主になって滞りなく済ませたこと。次郎も、大学の卒業を繰り上げて南方に行くことになったこと……そんなことが、次郎のバカにしては見事な筆跡で書いてあった。 死ぬな、という言葉で、あいつは手紙を締めていた。余計なお世話だ馬鹿野郎。 てめえの命の心配だけしとけ、とだけ書いた返事を、俺はあいつに送った。 * グラマンF6F。 艦上機のくせにバカみてえに固い上に、速度も武装も鍾馗より上。なんとか対抗出来るのは上昇力くらいの難敵だ。 これがまあ、一対一ならなんとかなる。ただアメ公は物量に物を言わせ、鍾馗一機に対して二機も四機も、グラマンをけしかけてきやがった。 そいつらに対抗するためにはとにかく、唯一勝っている上昇力を活かして上を取って頭を押さえるしかねえ。ただ、敵はそれすらも許してくれなかった。 敵機動部隊襲来の報告を受けて発進してさほど経たない内……高度を取るための上昇中に、グラマンの群れは襲ってきた。 既に俺達よりも遙か上空を飛んでいたグラマンは、太陽を背に襲ってくる。急降下するグラマンに、バカな編隊長はあろうことか、正面から向かおうとしやがった。 阿呆。と俺は毒づく。 バカに固いグラマンに正面からぶつかるのは自殺行為でしかねえ。 仕方なく、編隊長にならって上方に機首を向けた俺は、グラマンが撃ちかけてくるのと同時に機首を振る。 敵の第一撃を躱したあとは、ただひたすら、死なないための機動を繰り返した。 その日、戦闘が終わったあと、基地へ帰りつけた鍾馗はほんの僅かだった。 鍾馗だけじゃなく、邀撃に上がった三式戦も大分数が減っていたし、他の基地から上がった一式戦や二式複戦も、戻ってきたのはほんの僅かだったらしい。 これまで俺達の部隊が相手にしてきたのは、爆撃機ばかりで、グラマンみてえな単座戦闘機とはほとんど戦ってこなかった。 俺は中国で、アメ公の戦闘機とやりあったことがあったが、今日上がった連中の中にはその経験がない奴も多く、そのせいもあってのこの大損害だ。 話じゃあ、こっちも敵の戦闘機を何十機も堕としたことになってたが、あれだけの数の差があって、そんな戦果をたたき出せたとは思えない。 実際、大戦果が上がったにも関わらず、空中勤務者の待機所はお通夜みたいな空気がたれ込んでやがった。 ミサキの家に行けたのは、戦闘が終わって二日経ってからだった。 こちとら死線をくぐり抜けてきたってのに、あのクソ女の態度はそっけねえ。 ただ茶だけはいつものように出してくれたミサキに、俺は金と、食いもんを渡してやる。 そいつを受け取るミサキの顔は怪訝なもの。 「ありがたいんだけどさ、なんでよ」 「うるせえ。いいからもらっとけバカ」 ふん、と言い捨て、ミサキは台所の方へ引っ込む。 前の、浮浪者みてえな格好よりは服装は大分マシになってる。 鍋の前で働くミサキの後ろ姿を見てると松太郎が俺の方をじっと見ていることに気がついた。 柱の影に隠れて、俺に近寄ろうとしないくせに、視線だけは逸らそうとしやがらなかった。 「なんだよこの野郎」 そう言うと、松太郎はすぐにどっかへ行っちまう。 次郎に三郎にミツ。弟達のガキの頃といえば、やかましいだけが取り柄みてえだった。それとは違う松太郎の様子に、俺は舌打ちする。まあ、見ず知らずの他人が近付いてきたら、誰でもああいう反応になるのかもしれねえが。 「あんまりあたしの子供いじめんじゃないよ」 ミサキはそう言いながら、湯気の立つ椀の乗った盆を持ってきた。 ちゃぶ台に置いた椀の中には、俺が持ってきた米や菜っ葉で作った雑炊が入っていた。 「いじめてねえよバカ」 「松太郎怖がってんじゃないか」 「ちょっと声かけただけでああなっちまったんだよ」 「あんた、顔おっかないからね」 「おうおう、それが命の恩人に対する台詞かこの野郎」 「別に、命は救われてないよ」 そう言って、ミサキは一度言葉を切った。 「まあ、助けられてんのは確かだけどさ」 俺はミサキの横顔をじっと見る。 「俺との約束、忘れてねえだろうな」 「忘れてないよ。あれから客は取ってない。取る必要も、なくなったしね」 「なら良い」 「……あんた、どうしてあたし達を助けてくれるんだい。下心はないのは、なんとなく分かったけどさ」 「うるせえ、ただてめえが気に入らなかっただけだ。何をしようが俺の勝手だ」 「……もう」 呆れた顔でそう言うと、ミサキは雑炊の入った椀を俺に近付ける。 「さっさと食いな」 俺は椀の中身を無言でかき込む。 ミサキの料理の腕は、まあ悪くなかった。 * この戦は負け戦になる。 末端の空中勤務者の俺ですら分かってんだから、上の連中が分かってねえはずがねえ。 それでも連中はいつまで経っても戦争を終わらせようとしねえ。連中の頭の中じゃ、戦は死ぬか勝つかの二択しかねえみてえだった。 硫黄島が落ち、本土の空をB29が我が物顔で飛んでいる状態で、まず勝ちはねえ。 なら、上は死ぬことを、本気で選んじまってるんだろう。 上等だこの野郎。俺は喜んで死んでやる。B29を堕としまくり、最後にゃ機体ごと敵に突っ込んでやる。 ただ、後方のガキ共まで巻き込むんだったら、ただじゃおかねえ。 俺を特攻させるのは、構わねえ。あのクソ親父の血を、兄弟の誰よりも濃く受け継いじまった俺の命を御国のために使うのは、むしろ本望だ。アメ公を一人でも多く道連れにして、喜んで死んでやる。 だが、三郎にミツ……それに、次郎。そして、ミサキや松太郎の命を使うつもりなら、その時は容赦しねえ。 あいつらは、俺なんかと違う。俺みたいに、命を無駄に散らして良い人間じゃねえ。 その時ぶっ殺すのはアメ公じゃねえ。んな馬鹿なこと考えやがる上の連中だ。 俺と鍾馗が、てめえらのどたまに突っ込んでやる。 この前の敵の機動部隊の攻撃で、俺達のいる第十航空師団は大損害を受けた。 それを補填するために戦力を補充するのが、普通の発想だ。 だが、頭のよろしい参謀本部だか大本営のアホ共は、あろうことか戦力を引き抜いていきやがった。 本土決戦にむけての戦力温存、きな臭さを増してる九州・沖縄方面へ向ける予備兵力を作るため、だとかはあるんだろうが、帝都東京や、戦力を抜かれた俺達が地獄を見ることに変わりはねえ。 代わりに海軍の航空隊を防空戦力に回すっていう話だが、果たしてどれだけ期待出来るかは分からねえ。 まあ、俺にとっては、別段、変わりねえ。 目の前に来た敵を、俺の腕と、鍾馗を使ってぶっ殺す。最高の効率、最高の速度、最強の火力で堕としまくる。 仲間が減ろうが増えようが、それは全く、変わってねえ。 最近の東京の夜は、田舎みてえな暗闇に包まれてる。 B29の空襲は最近は夜間に焼夷弾をばらまいてくることが多く、灯火管制が徹底されているせいだ。 だが、B29はんなことは関係ねえとばかりに、街に向かって、焼夷弾を落としまくってくる。そこにいる女子供、ジジイババアに至る人間を焼き殺しにかかってる。 そんなクソのヤンキー共を殺しに、俺は今日も鍾馗と空に上がった。 暗闇の中、夜空を切り裂く光が目に入る。 地上から上げられた探照灯だ。そいつに照らされた、あのバカでけえ鯨……B29の姿が俺の目に映る。 その光をもとに、地上から高射砲が上げられる。俺を含めた、数少ない鍾馗達も連中に殺到する。 最近のB29は爆撃の精度を上げるためか、低空で侵入してくることが多い。 なんで、我が帝国陸軍のションベン弾の高射砲でも、あいつらの周りで次々に炸裂してる。 しかし連中は、編隊を乱すこともなく、ただ愚直に進み、焼夷弾を落としていく。 見上げたクソ鯨だ、この野郎。 そう毒づきながら、俺は機体を上昇させる。 今回、上がった鍾馗は四機。 俺の戦隊じゃあ、飛べる鍾馗はまだあったが、そいつらは温存だ。空襲は今日だけで終わりじゃねえ。明日飛べる分の機体も残しとかなきゃならねえ。 んで、今回のこの少ねえ鍾馗編隊を指揮するのは俺だ。 俺に従い、鍾馗達は低空を飛ぶB29の上空に占位する。B29から見て前上方から、俺達はあのクソ爆撃機に急降下する。二機ごとに、燕のように。 互いに向かい合う形になり、B29の姿はぐんぐんと近付いてくる。B29の銃塔から、無数の機関銃弾が上がってくるが、相対速度がこれだけ速けりゃ、射撃時間は限られる。 照準眼鏡に、B29の姿が入る。だがまだ撃たねえ。眼鏡の中の機影はどんどんデカくなるが、まだ撃たねえ。 その姿が眼鏡一杯になったところで、俺は四〇粍の機関砲の引き金を引いた。 今日乗っていた二式戦・鍾馗の主翼には、四〇粍奮進砲が搭載されていた。 航空機に乗せる機関砲としては大口径のこいつは、威力はピカイチだが弾は片側で八発しかなく、ついでに射程が恐ろしく短い。命中させるためにはかなり接近……それこそ、B29と接吻かませるくらいの距離から撃たなきゃならねえ。 俺と、俺に続く列機がぶっ放した四〇粍は、B29に上手く命中してくれた。 翼がもがれ、錐もみしながら落ちていくB29を見て、俺は思わず叫ぶ。 別の二機が襲いかかったB29も、同じようにたたき落とされている。 いいぞ、この野郎。 思わず機内で大笑いする俺だったが、その笑いは長く続かない。 第二撃を敵に食らわすために、再度上空で編隊を集合させた時、俺の周りには二機しか集まらなかった。 一機足りねえ。俺は辺りを見回すが、暗闇の中で、姿を消したその鍾馗を探すことは出来なかった。 そいつが、B29に突っ込んで落ちた、ってのを聞いたのは地上に戻った時だった。 落ちた機の列機の搭乗員は、情けねえことに泣きながら俺に報告しやがる。 俺の指示通り四〇粍をぶっ放しながらB29に降下していったが、ちっとも当たらない内に弾切れを起こした。覚悟を決めたそいつは、B29へ真っ直ぐ突っ込んでいったそうだ。鍾馗はB29にぶち当たり、敵を胴体からへし折った。脱出する様子はなかった。 自分は、続いて行くことが出来ませんでした。そう泣きながら言ったそのボケに、俺はビンタを張る。 夜間に単座戦闘機で上がれる空中勤務者は限られてるんだ。早々に死ぬなんて考えるなボケ。四〇粍が弾切れでも一三粍はあるんだからそれで落とすこと考えろ。 そう言いながら、俺はそのボケに気合いを入れ続けた。 自他共に認めることだが、俺はいかれてる。 そんな俺より、周りの方がいかれてると感じることが、最近増えてきた。 敵をぶっ殺すため、敵が焼夷弾を落とさないために、俺達は戦ってるはずだった。その延長に、自分の死があるはずだった、 だが最近は、自分が死ぬために周りが戦ってるんじゃねえか、と感じることがある。 俺以上のいかれが、たくさん空に上がっていると思うと、吐き気すら感じる。 そのせいか、ミサキの家に行く頻度が、どんどん多くなっていった。 ミサキんちに行って、何するかって言えば、しょうもないことばっかりだ。 飯と茶を振る舞ってもらい、あとはあいつのふとももを枕にひたすら昼寝だ。 夜間防空戦を終えたその日も、俺はミサキに膝枕をさせて眠っていた。 目を覚ますと、いつものように外は既に夕方になっていた。そして、こいつもいつものように、ミサキのふとももはいつの間にかなくなり、代わりに丸めた座布団が俺の頭の下にあった。 相変わらず色気のねえ仕打ちに舌打ちしてると、俺の耳に、鼻歌が聞こえてきた。 女の声で歌われるそれは、酷く懐かしい響きを持っていた。 鼻歌のする方へ向かう。 台所で、菜っ葉を刻みながら、ミサキはその歌を口ずさんでいた。 ミサキは菜っ葉を刻むのに夢中で、俺がすぐ後ろにいることに気付かないようだった。 髪を後ろで結わえたおかげで、あいつの白いうなじがあらわになってる。斜め後ろから見るあいつの顔が、ひどく綺麗に見えてしょうがなかった。 ミサキが俺に気付いたのは、見始めて結構な時間が経ってからだった。 あいつが振り向く。ちょっと驚いた様子のあいつだったが、俺だと気付くとすぐにため息をついた。 「なんだ、あんたかい……心臓に悪いから、いるんだったら何か言っておくれよ」 「悪いな」 ミサキに近づきながら、俺は言葉を続ける。 「見とれちまってた、お前に」 「え?」 そう言ってミサキは、顔を赤らめながら俺の方を見てくる。 あんな商売しときながら、ミサキは案外照れ屋で、こんなこと言うと、まるで年頃の女学生みてえな反応をする。 それが分かってるから、俺もあえてあんなクサい台詞を言ってるんだが。 「……からかうのはいい加減にしとくれ」 そう言って、ぷい、と俺から顔をそらしたミサキの手を取る。 「からかってねえ」 そして、ミサキの体に、自分の体を近付ける。 ミサキは顔を真っ赤にして、俺を見てくる。 「本気で、そう思ったんだ」 そうして俺は、ミサキの顔に自分の顔を寄せていく。はわはわ、とかミサキは呟くばっかりで、俺の体をのけようともしなかった。 俺の唇がミサキの唇と重なろうとしたのを、ぶえくし、と色気の欠片もない音が阻んだ。 反射的に、ミサキから体を離す。ミサキも慌てて顔を台所に向け、菜っ葉を刻む作業に戻る。 松太郎は、そんな俺達を柱の影からじっと見ていた。鼻水をすする松太郎に、俺はガンをつけてやるが、松太郎はどこ吹く風、って顔だった。 * 広島と長崎にアメ公の新型爆弾が落とされた。 上から下まで藪を突いたような騒ぎになる中、こんな噂が立つ。 ここまでやられちゃ黙ってられねえと、とうとう、国民総特攻の号令が下される、という噂だ。 残った戦闘機は全て特攻機となって敵艦に突っ込む。航続距離が短けえからと、B29への空対空特攻に細々と投入されてきた鍾馗も、爆弾をくくりつけて近海にまで侵攻してきた敵艦に特攻させる。本土決戦に温存してあった海軍の船……潜水艦から渡し船に至るまで全部特攻させる。 女子供、じじいにばばあも皆、地雷や竹槍持たせて特攻だ。 一億総火の玉、なんて生ぬるい。 一億総キチガイになって、大日本帝国は世界に徒花を咲かせる。 そんな噂を聞いたかと思えば、一方で、とうとう降伏だ、なんて話も聞こえてくる。 総特攻の噂を聞いたとき、ふざけんじゃねえと俺は思った。 死ぬのは俺達で十分。ミサキや松太郎、故郷に残した弟共を巻き込むんじゃねえ、と、以前の俺なら思ったのかも知れねえ。 ただ俺は、自分が、以前と違うことを考えていることに気付かざるをえなかった。 前なら、俺自身が特攻することになんの躊躇もなかった。むしろ、B29よりもデケえ鯨……敵の航空母艦を狩るのを、楽しみにしたのかもしれねえ。 鍾馗と一緒に最後に飛ぶ。それは俺にとってこれ以上ない、最期のはずだった。 だが、俺は噂話を聞いたとき、自分の命がおしい、と感じてやがった。 死にたくねえ。松太郎やミサキと離れたくねえ。 そう考えてる自分に気付いたとき、俺にしては本当に珍しく、うろたえちまった。 俺は、どうしたってんだ。天下無敵、最強のキチガイ航空兵はどこ行きやがった。 死にたがってるかと思えば、裏では死にたくねえと泣きやがる、周りの搭乗員共に毒されて、俺もちょいと、いかれてたんだろう。 だから、ミサキに結婚の申し込みなんてやっちまったんだ。 嫁になれ、と言った時、ミサキがその言葉の意味を理解するまで、結構な時間がかかった。 んで、その五文字を理解しきった時、あいつは顔を真っ赤にする。 普段は汚え言葉しか出ねえその口から、「あわあわあわ」なんて狼狽えまくった声を、あいつは出しやがる。 「阿波踊りじゃねえ、結婚だ結婚。結納だ、祝言だ」 そう俺が言うと、あいつは、尻餅つきやがった。顔は真っ赤にしたまんま、俺の顔を見上げてくる。 俺の顔に冗談なんて欠片も浮かんでないことを理解したあいつは、「あう……」って、猫か何かみてえに呻くと、視線を地面に落とした。 「あたし、村八分だよ。子供持ちだよ。未亡人だよ? そんな女、嫁にもらうっての」 「知ったことか。ごちゃごちゃ言う野郎がいたらぶっ飛ばす」 そう俺が言うと、ミサキが顔を上げる。涙に濡れたその瞳を見て、俺はふと、この場で抱いちまおうかと思う。松太郎は近くにいねえし、責任は持つって宣言したんだから、框だろうがどこだろうが、やっちまって構わねえだろうと思った。 だが、ミサキは俺に、こう言った。 「でも、あんたも、いなくなっちまうんだろう?」 あの人みたいに。そうミサキは言った。 ニューギニアで死んじまったという、あいつの旦那で、松太郎の親父。そいつみてえに、俺が死んじまう。そいつは嫌だと、ミサキは言っていた。 その言葉を聞いて、俺は嬉しかった。俺が想い、誰かが俺を想ってくれる。そのことが分かっただけで、このどうしようもない世界で正気を保てる気がした。生き残れる気がした。 「死なねえよバカ」 尻餅かましたミサキの体を持ち上げて、その尻を乱暴に揉む。あいつの唇に、俺の唇を強引に押しつけて、舌もついでにねじ込む。 「俺を誰だと思ってやがる。鍾馗があれば、俺は不死身だ」 そう言う俺に、ミサキは黙って、体を委ねた。 目を覚ました時に、ミサキはどっかへ言っちまった。 居間に敷いた布団から起き上がると、松太郎が俺を見ていることに気がついた。 「おう母ちゃんはどこ行った?」 返事は期待してなかったが、意外にも、松太郎はちゃんと答えやがる。 「セリをつみに行くって」 「そうか」 「あんた、オラのおっとうになるのか」 「そのつもりだこの野郎」 そう、いつもの調子で俺は言っちまう。また、松太郎がどっかへ行っちまうか、と心配になるが、松太郎は柱にしがみついたまま、俺をじっと見ていた。 「俺がお前の親父になるのは嫌か」 「わからねえ」 「だろうな。俺もお前の親父になるってのは、よく分からねえ」 だけどな、と、俺は俺らしくなく、三つか四つのガキに向かって、案外真面目に、話し続けた。 「てめえと母ちゃんは、何があっても守る。アメ公からも、この国のバカ共からも、何があってもだ」 んなことを、松太郎がどれくらい理解したのかはよく分からねえ。ただ、松太郎は俺の方に近付いてくると、俺の脇にちょこん、と座ってきやがった。 「なんだ、遊ぶのかこの野郎」 「疲れた」 「じゃあなんだこの野郎」 「おはなし」 「はあ?」 「おはなしして」 「何で俺がそんなことを……」 って言いつつ、俺は頭の中で、何か話せるものはないか探す。 俺は、ガキは嫌いじゃねえんだ。そして、この日の俺の気分は悪くなかった。 殺し殺される日々の中で、俺はどうしようもない安堵を感じてやがった。 最初、俺はB29のことを話してやろうと思った。 あのクソでかい重爆撃機のこと。それを俺が鍾馗でどうやったのか、ということ。 ただ、そいつは喉元までせり上がったところで、結局、口から出ることはなかった。 こんなに人を殺しておきながら、この時の俺は、それを松太郎に話すことが、どこかいけないことだと、思っちまった。 代わりに口をついて出たのは、鯨の話だ。 海を泳ぐ、巨大な生き物。狡猾で強大な、時に人すら飲み込む生き物のことを、俺は松太郎に話した。 クソ親父のことは、嫌いなはずだった。もし出来るんなら、この手でぶっ殺してやりたいと、思っていたはずだった。 しかし、俺は自分で見たこともない鯨のことを、松太郎に話した。 自分でも驚くほど、俺の口は鯨を如実に表現し、それを目の当たりにした時に感じる、緊張と興奮を松太郎に伝えることが出来た。 松太郎の目がみるみる輝いていくのが分かる。 それを見て、俺は嬉しくなっちまう。 クソ親父も、こんな気分だったのか。 そんなことを考えながら、俺は鯨の話を、日が暮れるまで話し続けた。 * 八月一五日。 この日は重大発表があるとかで、朝から基地は異様な空気に包まれていた。 とうとう、国家総特攻が下令されるんじゃねえか。 そんな不安は、正午にラジオから、陛下のお声が聞こえてきた途端に、霧散した。 耐え難きを耐え、忍び難きを忍び。 いい言葉じゃねえか、と俺は思った。 いくら大変だろうが、生きてりゃなんとかなる。 俺は、嬉しかった。これからしばらく大変なことになるだろうが、んなことはとりあえずおいといて、まずはミサキとやりまくろうと思っていた。 だが、そう考えてる奴ばかりじゃなかったらしい。 いかれた奴は、誰に何をいくら言われても、いかれたまんまだった。 逆臣を誅し、陛下をお迎えする。 飛行場で俺達搭乗員を前に、基地司令のじじいはそうのたまった。 じじい曰く、今回の陛下のお話は、米英に通じた逆臣が陛下を脅し、無理矢理に言わせたもんだと言う。 真の忠臣たる我らは、同調する他の陸海軍部隊と共に、陛下を逆臣から救い、東亜共栄圏防衛のための聖戦を継続せんとす……。 んなことをのたまうじじいを見る、周りの搭乗員の顔は様々だった。 明らかに狂人を見る目でじじいを見るやつもいれば、顔を真っ青にしてる奴、はたまた、なんか期待のこもった目で見てる奴もいる。 ただ、笑ってたのは、俺くらいだろう。 自分の顔が、獣のように歪むのを感じながら、俺はじじいの、でっぷり肥えた腹を見る。 その、肥え太った醜いじじいが、俺には鯨に見えてしょうがなかった。 てめえの家族を守るために、殺すべき鯨だ。 話が終わり、解散が命じられてすぐに、俺は鍾馗の機上へ向かう。 搭乗席には護身用の拳銃が収まってたからだ。 そいつを取って、ズボンに差し込む。 その時ふと、ミサキの顔が脳裏に浮かんだ。 あんたも、いなくなっちまうんだろう? 頭の中のミサキに、俺は笑う。俺は死なねえ。いくら武装した兵隊共が襲ってきても、いくら銃弾を叩き込まれても俺は死なねえ。あのじじいをぶっ殺し、俺はお前のもとに帰る。 搭乗席から降り、俺は鍾馗の、機首がいやに大きく見える、姿を見る。 今まで一緒に飛んできた、時代に取り残されたかつての名戦闘機。 こいつが気に入ってたのは、最初からずっと乗ってたせいだけじゃねえ。 デカいばかりの機首に収まった、やたらとグズる発動機、当たらねえ上に弾も少ない四〇粍。ピカイチな加速と上昇力に、無茶な急降下にもビクともしない頑丈な機体。しょうもねえところばかりかと思えば、マシなところもある。そんなこいつに、俺は自分を重ねていたのかもしれない。 生き残ろう、と俺は鍾馗に語りかけた。 お前は博物館かどこかで、俺はミサキと松太郎のもとで。 ぶっ殺しまくった俺達には、少々都合のいい話かもしれねえが、平和に余生を過ごそうじゃねえか。 最後に、空の操縦席に敬礼をかましてから、俺は鍾馗から降りる。 俺が次に向かったのは武器庫だ。 そこの番をしてた兵隊を殴り飛ばす。 中から、機関短銃と予備弾倉、手榴弾を持てるだけ持った俺が向かうのは、あのじじいがいる、司令室だ。中国で歩兵として戦ったことがある俺なら、じじいの周りにいる番兵どももなんとか出来るはずだ。 津軽三〇人殺しならぬ、陸軍三〇人殺しだ。 んな冗談を呟きながら、俺はじじいの元へ向かう。 俺の家族を守るために。 いかれた鯨を狩るために。 ……クソ親父が鯨漁を鯨狩り、って言った気持ちが、なんとなく、分かったような気がした。 自分の家族を食わせるため、守るための戦いに、鯨捕りなんて言葉じゃ大人しすぎる。 あのクソ親父なりに、もしかしたら、家族を大切に思ってたのかもしれねえ。 装備をがちゃがちゃ言わせて歩きながら、俺はそんなことを考えちまう。 しょうもねえ性根を持ち、酒に魂を奪われていながら、あいつはあいつなりに、俺達家族を守ろうとしてたのかもしれねえ。 ちっとも大切に思っていなけりゃ、あんな顔で、鯨狩りのことを話せるはずがねえ。 ……余計なことを考えた。ああだこうだ考えるのは、色々と済ませてからだ。 そして俺は、機関短銃に初弾を装填した。 |
赤城 2020年05月03日 18時27分44秒 公開 ■この作品の著作権は 赤城 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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