ジナイーダの初恋 |
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あなたが何をなさろうと、僕は死ぬその時まで、あなたを愛します。 命のかぎり、あなたを想います ウラジミールのように言ったあいつに、あたしは抱きしめられる。 脚本と違う。 そんなことを思いながら、あたしはあいつの腕をのけることが出来ない。 喜びか、怒りか、情けなさか。 自分の脳裏に浮かぶ、甘く、苦いこの想いが果たしてなんなのか、自問しながら、あたしはただ、あいつに抱きしめられる。 そのまま、あいつの温かさを感じていたあたしは、おもむろに、口を開く。 あいつの問いに答えるために。 自分の想いを、伝えるために。 * あたしが通っていた高校には、必ず何かしらの部活に入らなければならない、という変なルールがあった。 まあ、そんな妙な校則がある学校、珍しくもないんだろうけど。 運動部で汗にまみれることにも、文化部でしずしずと文化活動にいそしむことよりも、友達と街歩いてカラオケ行って恋バナすることに青春を捧げたいと思っていたあたしが、入部することにしたのは演劇部だった。 幽霊部員でも問題なさそうな部活候補の中で、文芸部、天文部を押さえて、見事くじ引きで選ばれたのだ。 ……もっとも、それが間違いだったことは、さほど時間を経ずに明らかになったけど。 想像通り、と言っちゃったら失礼かもだが、演劇部は吹けば飛んでしまいそうな部だった。 各部の部室が収まったプレハブ小屋、通称、部室長屋に入部届を出しに行ったところ、そこにいた部員は二人だけだった。 部長だという三年の女の子と、副部長の二年生の男子。 人の良さそうな部長さんによると、部員は今、部屋にいる二人だけらしい。 ほんわかした雰囲気の、女のあたしですら可愛らしい、とつい思ってしまうその部長さんは、あたしの入部をえらく喜んでくれた。 去年、三年生だった先輩が引退して、部の要件の三人以上の部員が確保出来なくて困ってた。あたしが入ってきてくれて、本当に良かった……。 優しそうな部長さんの言葉にものすごーく罪悪感を覚えていたものの、表情には、なんとか出さなかったと思う。 これからよろしくお願いします、とあたしは挨拶して、用事があるんで、と言ってさっさと演劇部室をあとにする。 あたしが部長さんと話している間、もう一人の部員であるメガネをかけた副部長は全く、話に混じってこなかった。ただ、もじゃもじゃした髪をしたそいつは、あたしが部室を去り際にじろり、と睨めつけてきて、結構嫌な感じがしたのをよく覚えている。 ちょっと不快な思いはしたものの、演劇部とのお付き合いはそれでお終い。あとは悠々と女子高生ライフを満喫するつもりだった。 ただ、そんなあたしの目論見は四月の終わりにあっさり崩れることになる。 入部届を出しっぱなしにして、何週間か経った頃。昼休みにGWの予定を友達とわーきゃー話してたあたしのもとに、一人の男子がやって来た。 色白で、高過ぎも低すぎもしないくらいの身長。筋肉が付いてる感じではないけど、均整のとれた、背筋が嫌に真っ直ぐな体格。鳥の巣みたいなもじゃもじゃした髪と、黒縁メガネ。 オタク系と運動系の中間、ちょいオタク寄り、という感じの男子のことをあたしはすぐには思い出せなかった。 別のクラスにも関わらず、遠慮無くあたし達の教室のドアを開けたそいつは、教室を見回し、あたしを見つけると、躊躇無く教室に足を踏み入れ、近寄ってきた。 堂々、というか、向こう見ず、というか。 真っ直ぐあたしの席のすぐ傍に寄ってきた割に、そいつは、あたしと、周りの友達が怪訝な視線を向けると、ちょっと怯んだようだった。 顔を赤くし、視線をちょっとだけ教室の隅の方へ向けてから、すぐにそいつは視線を私に向け直す。 明確な非難を浮かべたその目に、あたしは戸惑うしかなかった。 その時のあたしには、本当に心当たりがなかったのだ。 何で部活に来ない、とその男子が言っても、最初は何のことか分からなかった。 その時のあたしにとって、演劇部という存在はそれくらい、意識の彼方にあるものだったのだ。 はい? とナチュラルに私が答えると、男子は驚き、あきれ、そして怒ったようだった。 一ヶ月前に入部届を出したこと。出したにも関わらずちっとも来ないのは無責任であること。今、部は夏の文化祭で行われる劇に向けて準備をしていること。 そんなことを早口で言われてから、あたしは目の前の男子が演劇部の暗そうな副部長だということをようやく思い出す。 もじゃもじゃ頭の副部長は、最後に、とにかく、今日は来い、と告げて、入ってきたときと同じような断固とした歩きっぷりで、教室を出て行った。 急な出来事に、あたしと友達がぽかん、としていたのはほんの数秒のことで、あとは不可解なあの男子……ちょっとズレた副部長への、悪口タイムが始まった。 教室に入ってきた時の歩き方を真似たり、部活行くか行かないかなんて個人の勝手じゃーん、どんだけ真面目くんだよーとか言ったり。 あの男子に早口で非難されたことはびっくりしたけれど、それについて友達ときゃーきゃーはしゃぐのは、まあ楽しかった。 しかしその放課後、あたしは友達とつるむのではなく、部室長屋へ行った。 あの生真面目そうな男子なら、行かなかったら また面倒くさそうだ、と思ったのが半分。もう半分は、私なりに罪悪感を覚えていたせいだった。 入部届を出すときに、部長の女の子が見せていた嬉しそうな様子。 それを確信犯として裏切ったことに、あたしはまあ、それなりに罪の意識を抱いていた。 そんな訳で、演劇部のドアをノックする時にはちょっと緊張もしていた。ノックしてからさほど経たない内に、中から、どうぞー、とほんわかした女の子の声が聞こえてきた時には、肩を包んでいた緊張が、そっとほぐれるような気がした。 建て付けのあんまり良くないドアを苦労して開ける。 中では部長さんと、あの男子が何かの作業をしていた。 演劇で使う小道具を作ってたのだろうか、あのもじゃもじゃ頭の男子は私が入ってくると、ちらり、と目だけ上げると、すぐに手に持ったハサミとボンドに視線を戻した。 思わずむっとしてしまう態度の副部長とは対照的に、部長さんは見るだけで胸が暖かくなるような笑顔を向けてくれた。 幽霊部員をかまそうとしていたことを全く責めず、部長さんは私を部室に迎え入れると、まず自分達がやっていたことを説明してくれた。 昼休みに、もじゃ毛男が言っていた通り、二人は夏の文化祭で出す劇の準備を始めていたそうだ。 配役や台本の声合わせも大切なことだが、せっかく入ってくれた新入部員が来てない状態でそれを進めたくなかった、と部長さんは言う。 忙しいのに、来てくれてありがとうね。 そんな言葉をとろけるような笑顔と一緒に言われ、あたしの罪悪感は最高潮を迎える。 あたしは来なかったことを詫び、何か手伝えることはあるか、部長さんに聞いた。 部長さんは嬉しそうに笑ったまま、コピー用紙に印刷された劇の台本を渡してくれた。 文化祭でやるという劇の題目は既に決まっていた。 〝銀河鉄道の夜〟 文学? 何それ美味しいの? なあたしでも、名前くらいは知ってる、宮沢賢治の代表的な童話だ。 なんでも、部長さんは童話が好きで、中でも〝銀河鉄道の夜〟は一番なのだそうだ。 アマチュア、プロを問わず、〝銀河鉄道の夜〟は多く演劇化されていて、やり尽くされた感もあるけど、部長さんのたっての希望で、文化祭での公演が決まったのだそうだ。 演劇部の公演は、年に二回だけある。 三月に市内の公民館でやる文化まつりで一回、そして、六月中旬の高校の文化祭の一回だ。文化祭の後、三年生は受験勉強に入るというのがお決まりのパターンらしい。 推薦入試とかで受験が早めに終われば、三月の文化まつりに参加出来ないことはないけれど、その頃になると新生活の準備でばたばたすることになるので、三年生にとっては夏の公演が実質的なラストになる。 「こっちで勝手に決めちゃって、本当に申し訳ないんだけどね」 そう、部長さん……春日 花(かすが はな)先輩は申し訳なさそうに言う。 「全然。あたしなんて演劇のこととか全く分からないですし。そもそも来なかったあたしが悪いんですし」 「全くだ」 そうぶっきらぼうに言ったもじゃ毛頭の方を、あたしは見る。 もじゃ毛……杉野 遥希(すぎの はるき)はあたしの方を見ることもせず、ボンドとハサミを使った工作を続けていた。 こいつ……と、あたしはその、悔しいことにそこそこ整った横顔を睨む。でもあいつの言う通りなので、それくらいしか出来ない。 「ハルキくん」 たしなめるように春日先輩が言っても、杉野はどこ吹く風、といった感じだった。 春日先輩はそんな杉野に、少しだけため息をついてから、あたしに笑いかけてきた。 可愛い。としか言いようのない顔に、ほっこりした笑顔を浮かべる春日先輩を見て、この人、かなりモテるだろーな、とあたしは思う。 「根は、とっても良い子だから」 「はあ……」 「とりあえず今日は、これからどんな流れで準備をするのか、説明して……ちょっとだけ道具作り手伝ってもらおうかな。配役とか、台本の読み合わせとかは、また今度にしよ」 ずぼらなあたしには、そいつはなかなかハードなことだった。 それでも、全てを包みこんでしまうような春日先輩のほんわかオーラにほだされたあたしは、彼女に言われるがまま、段ボールを切り、のりを塗り、色画用紙を貼り付ける作業をその日は日が暮れるまでしたのだった。 こうして、あたしの三年に及ぶ演劇部生活が始まっちゃったのだ。 * 幽霊部員をしつつ、リサやアッコやフユと楽しくやろうと言うあたしの高校入学当初のプランは、四月の終わりにあっさり瓦解した。 時たま顔だけ出して、お茶を濁す、なんてことも出来たのかもしれないが、あたしにはどうしても、春日先輩を裏切ることは出来なかったのだ。 あたしと同じく、この殺伐とした世界の空気を吸っておきながら、陽のエネルギーに満ちあふれた春日先輩を、むげに裏切ることを出来るやつがいるなら見てみたい。それくらい、春日先輩はいい人だった。 基本、毎日部室に通って準備と、劇に向けた練習をする、というのが、あの日以降のあたしの習慣になる。 GW中も、既に決まっていた友達との旅行に出かける以外は毎日あの部室に通い、道具を作ったり、演技の練習をしたり、春日先輩に演劇のことを教わったりした。 忙しい時期にも関わらず、春日先輩はあたしにほとんどつきっきりだった。 中学を帰宅部で過ごしてきたあたしにとって、春日先輩は初めての先輩だった。先輩、ってのはこんなに面倒見が良いものなんだ、と感動しちゃうくらい、春日先輩はあたしに色んなことを教えてくれる。 高校の演劇部、っていったら、それほどガチではないと思っていたけど、春日先輩は(そして杉野も)、演劇の造詣がびっくりするほど深かった。 「今と違って、昔は演劇が主流のエンタメだったんだ。今だと、以前よりも演劇を観る人は少なくなったけど、演劇には他のエンタメとは違った魅力があるんだよ……演じる人の吐息や、汗を感じられる距離で繰り広げられる物語には、ドラマとかアニメとか、他のエンタメでは表現出来ないものがある。だから、今でも演劇をやる人は意外と、たくさんいるの」 ハナ先輩の優しい瞳に見つめられながら、そんな言葉を聞く。長い台詞なのに、不思議と言葉の一つ一つが頭にしみていくのが不思議だった。 「一つの劇を作るのは、とても大変。時間も労力もかかる。途中で、やめたいって思うことも、しょっちゅうある。それでも、お客さんに楽しんでもらえた時の感動は、言い表せないくらい、素晴らしいものだよ」 こんな感じに、春日先輩は演劇の素晴らしさについてあたしに教えてくれた。 何故か睨むような視線であたし達を見てくる杉野を少々うっとうしく感じつつ、あたしは先輩に凄く勉強してるんですね、と感嘆混じりに呟いた。 「教えてくれた、人がいるの。幻滅させちゃうかもだけど、今言ったことは全部その人からの受け売りなんだ」 そう、恥じらいつつ言う春日先輩は、滅茶苦茶綺麗で、女のあたしでも、恋に落ちちゃいそうな気がした。 そんな春日先輩の呼び名が、ハナ先輩になるのにそれほど時間はかからなかったと思う。 もちろん、ハナ先輩はそんなことばかりだけでなく、演劇をするのに必要な、実際的なことも教えてくれた。 体力作りの体操や、ストレッチ、そして発声練習。 演劇は結構体力勝負なところがあるので、体作りは結構大事だ。実際、あたし達は今言ったメニューに加えて、ちょっとランニングをしてから劇の準備に入る。 ウチの高校の演劇部は、この体力作りをそれなりにストイックにやってるらしく、あたしは二人の先輩の走りについてくことが全く出来なかった。 後ろで、はーはーぜーぜー、あたしがやってることに気付くと、ハナ先輩は歩調を緩めてあたしの横に並んでくれるけど、杉野は全く、お構いなしだった。 三〇分のランニングタイムの内、最初の一〇分は軽く流し(それでもあたしの三倍は早かった)、ラスト二〇分で早いペースと、緩やかなペースを繰り返すというそこそこハードな走り方をするにも関わらず、それを終えたあいつの顔は、嫌味なくらいに涼しげだった。 それだけならまだ良い。 杉野の意地が悪いのはその涼しい顔で、汗だくなあたしを見て、ふん、と毎回鼻で笑うのだ。 杉野の呼び名が杉野先輩でなく、ただの杉野、時々バカ杉野になるのは、当然の帰結だっただろう。 話が色々逸れたけど、あたしは今回の劇でカンパネルラ、をやることになった。 主役のジョバンニの友達であり、物語の鍵を握る、結構、重要な役である。 そんな役をやることになったのは、あたしが案外、演技がそれほど下手でなかったせいでもある……と思いたいんだけど、もしかしたら、演技の質がどうあれ、やらされることになってたかもしれない。 最初の脚本の読み合わせでは、当然のように、もの凄く緊張した。 三人で車座になって、杉野が書いた脚本を、それぞれ読み上げていくのだが、登場人物の台詞を、人前で読むというのは予想以上に恥ずかしいものだった。 その時には配役はまだ決まっていなくて、担当する役を交互に入れ替え、何度か読み上げる、と言われていた。……もっとも、二人の中では、大体の配役は既に決まってたみたいだけど。 ジョバンニをバカ杉野、カンパネルラをあたし、その他のキャラをハナ先輩がやることになった。 第一幕は、学校でジョバンニやカンパネルラが授業を受けるところから始まる。 最初の第一声はハナ先輩演じる、学校の先生。 ハナ先輩の小ぶりな唇から、中年の親父教師が出てきた。 ……誤解をまねきかねない言い方だとは思うけど、その時のあたしは、確かにそう感じたのだ。 姿形はハナ先輩のまま、ただそこにいたのは、銀河の成り立ちについて生徒に尋ねる、年季の入ったベテラン教師だったのだ。 次の台詞は、教師に指名されたジョバンニ、杉野だ。 何考えてるのかイマイチ分からないけど、ただ間違いなくプライドが高くて性格悪い杉野は、どこかへ消えていた。 パイプ椅子に腰掛けた杉野が口を開くと、教師の指摘に右往左往する、ジョバンニという気弱な少年が、そこにいた。 答えが分かっていながら、気恥ずかしさが先に立って右往左往するしかないジョバンニの次に、教師が指名するのは、クラスの中心人物の、カンパネルラだ。 ただ、そこにいたのはカンパネルラじゃない。 二人の先輩の台詞の迫力に飲まれ、顔を真っ赤にする、あたしだった。 上ずった声で、台本の台詞を、ほとんど棒読みする。 家でも何度か読んでいたのに、コピー用紙に書かれた文字は、初めて見るもののように感じた。 短い台詞を読み終えたあたしの頭は、ただ恥ずかしさしかなかった。 やっぱ幽霊部員戻ろう。 そうとすら考えたあたしだったが、あたしの前には教師とジョバンニが相変わらずいた。 あたしがしょうもない演技をしたことを、全く気にした様子もなく、ハナ先輩は教師を演じ続けた。 教師の次にはカンパネルラの台詞があるのだが、あたしがそれを言えずにいると、ハナ先輩は励ますようにあたしを見てきた。 普段の杉野なら、バカにしてきそうなものだったけれど、彼も台本を真剣に見つめたままだった。二人とも、あたしの台詞を待ってる、そのことに気付き、あたしはカンパネルラの台詞を読んだ。 相変わらず、声は上ずり、抑揚には悲しいくらいに情感というものが欠けていた。 それでもあたしはその台詞に、ちょっとだけカンパネルラを感じた。 最後には親友と悲しい別れを遂げる、溺れた友人を命を顧みずに助けるほどの優しい心を持った少年。うぬぼれかもしれないけど、その時、私が紡いだ言葉には、カンパネルラがちょっとだけ、顔を出していた気がした。 一番最初の読み合わせを終えた時、あたしは汗びっしょりだった。 恥ずかしさと疲労で、虫の息のあたしに、ハナ先輩はぱちぱち、と拍手をしてくれる。 「一途(いちず)ちゃん、上手」 ほっこり笑顔で、ハナ先輩はあたしの名前を呼んだ。 ただ呼ばれるだけでも恥ずかしい自分の名前が、このときはいつも以上に恥ずかしく感じた。 ちょっと泣きそうになったあたしは、ハナ先輩の、なかなかボリューミーな胸に顔をうずめる。甘えるあたしの頭をやさしく撫でながら、ハナ先輩はあたしの初演技をやたらと褒めてくれた。 「初めて読むとは思えなかったよ。声もしっかり出てたし、カンパネルラっぽさがしっかり出てた。凄いよ一途ちゃん。このまま演劇続ければ大女優だよ」 「ハナぱいせーん」 おんおんとわざとらしく泣きながら、あたしはしばし、ハナ先輩の胸の感触と、良い匂いを堪能することにする。 照れた顔を隠したかった、というのももちろんある。 そんなあたしを、ヨシヨシしつつ、ハナ先輩は杉野の方をちょっと見た。 「ハルキくん、どう? 良いかな?」 「まあ、今の感じなら練習積めば大丈夫そうですね」 そう偉そうに言った杉野は「刈田」と、あたしを呼んだ。 「お前、カンパネルラな」 「はい?」 最初、杉野の言ってることが分からず、あたしはハナ先輩に抱きついたまま、そう尋ねた。 そんなあたしにちょっとイラッとしたのか、杉野は少し、不機嫌そうな顔になる。 「だから、文化祭の公演。お前がカンパネルラやるんだよ」 バカ杉野の言葉の意味を理解したあたしの頭は、当然のごとく、真っ白になった。 〝銀河鉄道の夜〟は、場面の展開がそれなりにあり、そのたびに小道具、大道具の入れ替えが必要になる。 演劇部三人で劇をやるのは当然出来ないので、足りない人手は友達や、他校の演劇部に応援を頼むことになる。 主要キャストは演劇部で務めるが、場面展開の際のそれなりに複雑な道具入れ替えを応援の人達に頼む訳にはいかないので、それにも演劇部員を割く必要がある。 主役は、今回で最後のハナ先輩がやるとして、道具の入れ替えはそれなりに経験している杉野が務める。 ならば、残った主要キャストのカンパネルラはどうする? 答えは一つだ。 「無理無理無理無理無理、マジで無理。ムカチャッパファイヤー」 最初の読み合わせが終わったあとのこと。家の用事があるということで、ハナ先輩が先に帰ったあと、あたしは杉野にそう訴えた。 あたしはあの時、思わず、カンパネルラをやります、と流れで言っちゃっていた。そして、それを聞いてほくほく顔になったハナ先輩に、やっぱり無理ですと言うことも出来なかった。 あたしの必死な訴えにも、杉野は面倒くさそうな表情を浮かべるだけだった。 「意味分からんこと言わずに大人しく受け入れろ」 「やだよ。あたしじゃ無理だって。杉野やってよ」 「先輩つけろアホ。何度も言ってるけど、道具の入れ替えやりながらカンパネルラは無理だ。そこはお前にやってもらうしかない」 「だから、あたしなんかに無理だって」 「じゃあ道具の入れ替えお前がやるか? 何十もある道具の中から、場面ごとに使うものを全て覚えて、必要なものをちゃんとミスなく用意すること出来るか?」 「ぐえー」 「ほらな。だったらお前がカンパネルラだ」 つい頭抱えちゃいそうになるあたしに、杉野はざまあ見ろ、と言わんばかりの笑顔を向けてくる。 「それに、あのカンパネルラは悪くなかった」 ん? と思ってあたしがバカ杉野を見ると、あいつ自身も、自分がうかつにもあたしを褒めたことに気付いたらしい。 「あくまで初めてにしては、だからな」 そう付け加えるあいつの言葉を聞いて、あたしはちょっとこそばゆい感じを覚えた。 これがツンデレというやつか。 そんなこんなで大役を任されたあたしは、必死になるしかなかった。 平日は基本七時まで部室で準備と演技の練習をして、曜日によってはそのあと九時くらいまで塾がある。 家に帰っても時間があれば台本を読み、授業中でも気がつけば頭の中で、カンパネルラの台詞を思い返す。 一五年の人生の中で、ここまで必死こいたことはなかった。 ハナ先輩、最後の公演を成功させたい、っていう気持ちもあった。 同時にあたしは、カンパネルラを演じる、ということにどうしようもなく魅力を感じていた。 昔の岩手県で、風変わりな生き方を貫いたおじさんが創造し、それをもとに杉野が書いた幻想的な物語に生きる、優しい少年を理解し、演じる。 カンパネルラを表現することは、どうしようもなく楽しいことだった。 * そんな感じのあたしらしからぬ努力を経て、公演初日を迎えた。 公演は体育館で行われる。演劇はステージで行い、観客はステージの下に並べられた椅子に腰掛けて観るスタイルだ。 カンパネルラの衣裳となる、時代がかったチョッキを身に付け、舞台袖で待機したあたしは、観客席の方を恐る恐る見てみる。 観客は主に出演者の友達や家族、それに演劇部のOB・OGがメインで、その数、せいぜい五〇人ほど。 それは、冷静になって後で思い返してみて、そう思っただけで、その時のあたしには、観客が五〇〇人くらい並んでるように見えた。 自分の顔から血の気が失せるのを感じながら、ステージ脇で待機するハナ先輩のもとへ戻る。 ジョバンニの衣裳に身を包み、いつもよりかわいさが三倍増しくらいになったハナ先輩に抱きつく元気も、あたしにはなかった。 「だいじょぶだよ、一途ちゃん」 そんなあたしに、ハナ先輩の太陽のごとき笑顔が向けられる。 「観客なんて、お芋さんだ、って思えば良いんだよ」 そう言うハナ先輩に、あたしはなんとか、ぎこちない笑みを返した。 そして、会場の時間が、容赦なくやってきた。 そして、あたしは劇が始まって二〇秒で、やらかした。 第一幕の教師役を務めたのは、他の高校の演劇部の男子だった。 そいつに、銀河の成り立ちを説明するよう言われたジョバンニは答えられない。 教師が次に指すのは、カンパネルラだ。 「ではカンパネルラさん」 小太りで、伊達メガネをかけたその教師役の男子の目が、あたしに、カンパネルラに向けられる。 打ちひしがれた猫のように座り込んだジョバンニの脇で、カンパネルラは立ち上がる。 あくまで、ゆっくりと、立ち上がるはずだった。 だが、緊張と不安でがちがちになったあたしの足は、教師の言葉にまるで蛙のように跳ね上がる。 立ち上がったあたしは、勢い余って机も一緒に倒した。 ただでさえ真っ白な頭が、さらに真っ白になった。 体育館にパイプ椅子を並べて作った観客席で、誰かが笑う。 観客席には、どこかから話を聞きつけてきたあたしの友達もいるはずだ。彼女達に今の惨状を見られて、もしかしたら笑われたかもしれないと思うと、意識が地平線の彼方に飛んでいきそうになる。 同じ舞台に立つ、生徒が、びっくりした顔であたしを見る。横にいる、ハナ先輩が心配そうな視線を向けるのを感じる。 思わず、泣いちゃいそうになる。 今まであれだけ頑張った劇が、あたしのヘマで台無しになったのが、悲しくて、悔しくて、自分が情けなかった。 視界がぼんやりと滲むのを感じていたあたしの目に、舞台袖で待機する、杉野の顔が見えた。 杉野はじっと、あたしを見ていた。 黒縁メガネに縁取られた目で、杉野はあたしをじっと見つめていた。 あいつらしからぬ真摯な視線には、頑張れ、なんて言葉が満ちている気がした。 その時、恥ずかしさに満ちていたあたしの胸に、猛烈な怒りが湧いた。 あんな嫌味な奴までハラハラさせている自分が、どうしようもなく腹立たしかったのだ。 あたしは、なんとか自分をつなぎ止める。 あれだけ練習頑張ったのだ。 ハナ先輩の最後の公演なのだ。 これでお終いにさせる訳にはいかないのだ。 倒れた机を掴み、もとの位置に戻す。 「すみません、先生」 そうアドリブで、カンパネルラらしい口調で言う。かなり無理矢理だけれど、もともとの筋書きでそうなってたように、見えないこともないだろう。 そして、あたしは何事もなかったようにカンパネルラを演じる。 ジョバンニをおもんばかって教師の質問に言いよどみ、子供達にからかわれるジョバンニを哀れみ、彼と銀河鉄道で、幻想的で美しく、そして悲しい、旅に出かける。 あたしはカンパネルラとなって、それほど広くないステージを駆け回った。 最後のカーテンコールで、聞こえてきた拍手が、どこか遠い世界で鳴っている音に、あたしには聞こえた。 その時も、あたしはまだカンパネルラのままだったのかもしれない。 ステージのカーテンが閉められ、闇に閉ざされる。 あたしは号泣した。 これまでの人生で一番号泣した。 女だけど、許されるなら腹を切ってハナ先輩に詫びたいと思った。 そんなあたしを、やっぱりハナ先輩は抱きしめてくれた。 演技を終え、びっしょり汗をかいたハナ先輩も、泣いていた。 「ありがとう。すごく良かったよ。頑張ったね、ありがとう一途ちゃん」 「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」 そんなことばかり言い合うあたしとハナ先輩を、劇に参加した皆……杉野やハナ先輩の友達、他の学校の演劇部員さん達は、遠巻きに眺めながら、笑ったり、良かったよ、と言ってくれたり、一緒に泣いたりしていた。 演劇を作り上げるということは、ハナ先輩が最初に言っていたとおり、とても面倒な作業だった。 劇自体はほんの一時間で終わるけど、それに至るまでに、何日、何十日と、地道な準備と練習を重ねなければならない。 それでも、演劇を作り上げることは、素晴らしいことだった。 汗と涙にまみれ、ハナ先輩を抱きしめながら、あたしはそんなことを、感じていた。 涙に滲んだあたしの目に、杉野の顔がふと映る。 神妙な顔をして、あたしとハナ先輩を見てた杉野の肩を、あたしは抱いてやる。 「汚ねえよバカ」 とか言いつつ、顔を赤くする杉野を、あたしは笑ってやる。 「照れるな照れるな」 「バカか、顔と汗拭け」 「ありがとうね」 「はあ?」 「あんたのムカつく顔見たおかげで、立ち直れた」 「……それ、お礼なのか?」 「そうだよ」 最後に、杉野の肩をばん、と叩く。 「頑張って」 そうあいつに小さく言ってから、あたしは劇に参加した他の人と戯れに行く。 教師役兼鍵守役の小太りくんにハイタッチをかましつつ、横目で杉野と、ハナ先輩の方を見る。 他の生徒と、話をしていたハナ先輩を、杉野は少し離れたところで見ていた。 しばらくそのまま佇んでいた杉野は、不意に、意を決したようにハナ先輩へ歩いて行く。 傍から見てて、情けないくらいのぎこちない表情で、杉野はハナ先輩に話しかける。 頑張れ。 そんな杉野に、あたしは心の中で、そう呟いた。 公演は二日間の文化祭期間中、午後に一回ずつ行われる。 二回目の時は初回ほどお客さんは集まらず、おかげであたしは一回目よりものびのびと、演じることが出来た。 一回目の失敗を、あたしは早くも忘れ、とっても良い気分で文化祭を終えた。 文化祭が終わったその夜、あたし達はちょっとしたお疲れ様会兼、これから受験勉強に入るハナ先輩の壮行会をすることになった。 歳の離れたマイ兄者がくれた発泡酒やらチューハイやらを持ってったのだが、真面目な杉野とハナ先輩にあっさり止められる。 そういうこともあろうかと、あたしが用意しておいた、ノンアルコールビール(ちなみに、杉野はこれでも顔をしかめた)で乾杯したあたし達は、しばし楽しい時間を過ごした。 ……一名を除いて。 あたしはほぼほぼハナ先輩につきっきりで、ハナ先輩の演技の素晴らしさを褒めまくった。 こそばゆい顔で笑うハナ先輩に抱きつくあたしの脇で、杉野はただ、ノンアルビールをすするだけだった。 決して話に乗ってこないという訳ではなく、あたしやハナ先輩が話を振れば、ちゃんと応じてくる。ただ、あいつの話は長続きせず、いつの間にか、話してるのはあたしとハナ先輩だけになる。 楽しいんだけど、どこか気まずい、そんな微妙な時間。 同じ部員として、ハナ先輩と一緒に過ごす最後の時間だということも、そんな時間をこんな空気で過ごすのはもったいないことも、杉野だって分かってたと思う。 それでも杉野は、固い表情でノンアルビールをすすり、あたしやハナ先輩の話に気の抜けた相づちを繰り返すばっかりだった。 トイレ、と言って、杉野が立ち上がる。 すかさず、あたしも、と言って立つ。 トイレは部室長屋の外にあって、行くためには部室から一度出なければならない。 建て付けの良くないドアを開けて外に出ると、早くも夏の湿気と熱を帯びた、夜の空気に包まれる。 ドアを閉めた杉野はうっとうしそうな顔で、あたしを見てきた。 「お前と連れションかよ」 「アホ、変態。あたしが何が言いたいか、分かってるでしょ?」 「何だよ?」 トイレに向かってさっさと歩いていく杉野を、あたしは結構腹立たしい思いを抱えて追う。 「とぼけないでよ。せっかく、先輩があたしらの先輩でいる最後なんだよ? それなのに、あんなにつまんなそうな顔して……ハナ先輩、良い気分で引退出来ないじゃん」 「体調が悪いんだよ」 「嘘。今日の公演、めっちゃ元気だったじゃん」 「今は、体調が悪いんだよ」 そう言って、杉野はつかつかと、トイレへ向かう足を速める。 あいつを問い詰めたくなる衝動に駆られたけど、あたしは結局、あいつの背中を見送った。 ハナ先輩を気持ちよく見送ろうとしないあいつに、腹は立ってたけど、一方で、あいつが大した理由もなく、あんな態度を取らないだろうとも、分かっていた。 あたしはトイレにはいかず、部室へ戻って、ハナ先輩とのおしゃべりに戻った。 おしっこ引っ込んじゃったんすよーあはははー とか、あたしのお下品な話にも、ハナ先輩はおなかを抱えて笑ってくれた。 杉野は五分もしない内に戻ってきた。 それからさほど時間も立たないうちに、あたし達の打ち上げはお開きになった。 * こうして、ハナ先輩は演劇部から卒業した。 これまで演劇部のナンバーワンはハナ先輩、ナンバーツーがバカ杉野、という序列だったが、今度はアホ杉野がワン、あたし、刈田一途がツーとなるわけだ。 たった二人中の二番目というのは、なんとも情けない感じがするけれど、ツーはツーだ。いえーい。 文化祭は土日に行われ、その後の月・火は振休になる。 休み明けのかったるい気分のまま授業をこなし、放課後を迎えたあたしは、友達からの遊びの誘いを断り、演劇部の部室へ向かった。 杉野は部室で、本を読んでいた。 クッションに身を沈め、小難しそうな本を読んでいた杉野は、ふと視線をあたしに向けてきた。 「なんだ、来たのか」 「演劇部員だよ、あたし」 「最初は幽霊部員かますつもり満々だったろ?」 「ナンノコトデスカー?」 「……ハナ先輩はもう来ないぞ。たまに顔は出してくれるだろうけど、志望校の偏差値がかなり高いから、あんまりそのヒマはないだろうし」 「別に、ハナ先輩に甘えるために来たんじゃないし」 「なら、何のために?」 「まあ、あれよ。公演が終わったあとに演劇部がどんな感じになるのか、聞きたかった」 「基本的に、十一月くらいまではヒマだ。三月の公演の準備はそれくらいから始めれば十分に間に合う。それまでは、他校の演劇部の手伝いがなければ、本読んだり、筋トレしたり、部員で遊びに行ったりしてる。今の期間だったら、友達と遊びに行っても全然問題はない」 「そっか」 「友達との約束あるんじゃないのか?」 「うーん。もう断っちゃったし」 ふむ、と明治時代の文豪っぽい呟きを漏らすと、杉野は壁際に置かれた本棚を指さした。 「ヒマだったら、本でも読めば良い。お前でも、少しは教養身に付けといた方が良いだろ」 「いちいち嫌味だなー杉野は」 「可愛くない後輩と話してやってるだけでも、ありがたいと思え」 へいへい、と言いつつ、あたしは部室に上がる。 演劇部に来るようになって二月弱経つけど、本棚をまともに見るのはこのときが初めてだった。 シェイクスピア、チェーホフ、ツルゲーネフにトルストイ、ドストエフスキー。そんな教科書で名前聞いたことくらいはある、堅苦しそうな古典もあれば、ワンピースとかの漫画本もあり、バラエティに富んでいた。 あたしの手はつい、鬼滅の刃に伸びそうになったけど、杉野が鼻で笑うのが頭に浮かんだので、あたしはシェイクスピアのマクベスを手に取った。 綺麗は汚い、汚いは綺麗。 そんな魔女の不吉な言葉から始まる物語は、多分面白いんだろうけど、集中力は五分もしない内に切れる。 むっつり黙り込んだ男子が目の前にいて、集中なんて出来る訳もなかった。 杉野もあたしと同じだったらしく、ふう、とため息をつくと、本を閉じた。 「ちゃんと読書に集中しろよ」 「陰キャな先輩が目の前にいて集中なんて出来ないよ」 「単に活字慣れしてないだけじゃないのか」 とか言いつつ、杉野は外の自販機で買ってきたらしい缶コーヒーを手に取る。それを一口飲んで顔をしかめてから、杉野は視線を壁へ向ける。 何にも貼ってない味気ない壁を見ながら、何事か、考えてるようだった。 「なあ」 そして、不意にあたしに声をかけてくる。 「俺がハナ先輩を好きだっての、バレてたか」 「むしろ、バレてないとでも思った?」 ハナ先輩を見るあいつの目。彼女に話しかける時にあいつの声が帯びる緊張。それに気付かないほど、あたしは鈍感じゃない。 あたしの答えに、だよなあ、と言いながら、杉野は頭をばりばりかく。 最初は、プライド高そうで、いちいち嫌味な奴だと思っていた杉野が、最近、ちょいちょい人間に見えてくるようになっていた。 あたしを、人を人と扱わない冷血女だなんて、誤解するなかれ。実際、そう思われても仕方ないくらい、杉野はあたしに冷淡だったのだ。 そんな杉野が、最近はこんな感じに、人間くさいところを見せるようになった。 聞いてみても、大丈夫かな。 ちょっと躊躇ったものの、あたしは、気になってたことを、杉野に聞いてみた。 「ハナ先輩に、告白したの?」 そのあたしの台詞に、あいつが返してきたのは、ため息だった。 実際見たことはないけど、仕事で窓際族に追い込まれたおじさんが吐きそうな、深いため息だった。 「してない」 そう言った杉野に、今度はあたしがため息をつく。 「すれば、良いじゃん。あんた、ハナ先輩への恋愛感情、滅茶苦茶引きずってるじゃん。断られるにせよ、受け入れられるにせよ、一発やっちゃった方が良いよ。それに、あんたとハナ先輩なら、案外上手くいくかもよ」 「……出来ねえよ」 「何で」 「ハナ先輩はもう、付き合ってる人がいるんだ」 杉野は苦笑いを浮かべると、さらに話を続ける。 「相手は俺の兄貴。去年卒業した、演劇部の先代の部長だ。ハナ先輩は、兄貴と同じ大学に行くために、必死に受験勉強してるんだよ」 教えてくれた人がいるの。 いつぞや、演劇のことを教えてくれた時のハナ先輩の声が、ふと脳裏でリフレインする。あのときの先輩が、嫌に綺麗に見えたのは、好きな人の話だったせいなのだろうか。 だが、ハナ先輩の恋と杉野の話は、また別の話だ。 「でもさ、あんたはハナ先輩のこと、本気で好きなんだよね?」 自嘲気味に言った杉野に、あたしは無性に腹が立った。 「たとえ、相手があんたのお兄さんだとしても、好きだったら、言わなきゃダメだよ。あんたの気持ちが収まんないでしょ?」 「ハナ先輩が好きだよ。だからこそ、言えないんだ」 杉野は、あたしを睨みながら、そう言った。 怒りながら、悲しんで、苦しんでる。そんな、色々な感情が煮詰まった瞳が、あたしに向けられる。 「二人は滅茶苦茶似合いのカップルなんだ。兄貴は俺と違って性格も良いし、頭も良いし、ハナ先輩を心から大切にしてる。ハナ先輩も、時間が経つごとに兄貴が好きになってる。俺があの人と二人きりで部活やった一年間の中でも、どんどん綺麗になってるんだ。……そんなハナ先輩に、俺が告白して、どうなるよ? 恋人の弟から、自分を好きだって言われても、ハナ先輩は困るだけだろ?」 そう言う杉野に、あたしはいや違うだろ、そうなることが分かっても、お前の恋心は何の解決もしてないだろ……と言いそうになったけど、結局、何にも、言えなかった。 杉野は鼻息を荒くし、じっとあたしを睨んでくる。 そして不意に、すまん、と、聞き取りづらい声で呟くと、カバンを掴む。 用事あるから帰る、とか言って、バカ杉野は部室から出て行った。 あいつのあとを追う、なんてことはせず、あたしは部室のパイプ椅子に腰掛ける。 男の子に、キレられるなんて、小学校以来の経験だった。 天井を見て気分を落ち着けたあたしの目に、ふと、杉野が呼んでた本が目に入った。 ツルゲーネフとかいう人の書いた〝初恋〟という小説だった。 あたしは、それを手に取ってみた。 〝初恋〟なんてほっこりしたタイトルとは裏腹に、内容は昼ドラばりの酷い恋愛模様が描かれていた。 主人公のウラジミールは、自分の別荘の離れに間借りした公爵夫人の娘、ジナイーダに恋をする。 ジナイーダという人は、言っちゃえば、オタサーの姫だった。もちろん、一九世紀のロシアにオタクがいる訳はなく、周りにいるのは貴族だったり、青年将校だったり、医者だったり詩人だったり、小汚いおっさんだったりした訳だが、そんな人達をはべらせて、楽しく過ごしてるのは、オタサーのお姫様と同じようなものだろう。 そんな取り巻きの一人になり、ジナイーダへの想いを募らせるウラジミールだが、ジナイーダは彼の真剣な恋心に応じてくれない。 そんな時、彼はジナイーダが恋をしていることに気付く。 彼女のことを真剣に好きで、彼女を常に見つめている彼にとって、ジナイーダが初恋に思い悩んでいることに気付くのは当然のことだった。 ただ、相手が誰なのかは全く分からない。取り巻きに対する彼女の態度は変わりなかったし、悲しいことに、彼に対しても同じだった。 そして、彼は偶然にも、彼女の初恋の相手が自分の父親であり、父親と彼女が関係を結んでいるらしいことを知ってしまう。 本としては薄い部類に入る、その小説を、あたしは一週間ほどかけて読み終わった。 部室に通い、その本を読み続けている間、杉野は全く、顔を見せなかった。……まあ気まずい気持ちも、分からないではなかったけど。 ツルゲーネフ、という人は今では文豪と言われ、中でも〝初恋〟は傑作、と評価されている、と、本の最後に付けられた解説には書いてあった。 ただ読み終えたあたしが抱いた感想は、そうかなーというそっけないもの。 文章は綺麗だし、登場人物の気持ちもしっかり書かれてる。読んでいて主人公の初々しい恋心や、物語に心は揺さぶられた。でも、それが今まで書かれた、たくさんの恋物語の中で、傑出して素晴らしいものだとは、どうにも、思うことが出来なかった。 あたしはウラジミールの行動に、もどかしさ、のようなものを感じていた。 ジナイーダの〝初恋〟の相手となった、ウラジミールの父親はしょうもない奴で、ウラジミールの母親と結婚したのは財産目的だし、二〇くらい歳の離れたジナイーダに躊躇なく手を出すし、ジナーダに手を上げるし、最後には彼女からの手紙にショックを受けたことをきっかけに死ぬ。 そんなダメ親父を、ジナイーダは、辛い目に遭いつつも愛し続ける。その愛を目の当たりにしながらも、ウラジミールは彼女を想い続け、物語はジナイーダの死を彼が知ったところで終わる。 父親との関係が周囲に発覚し、白い目を向けられるジナイーダに、ウラジミールは愛を告げる……素晴らしいことなのかもしれないけど、あたしはそんなウラジミールが不満だった。 ジナイーダを、手に入れたい。そう一度でも思ったのだったら、ウラジミールは彼女を父親から本気で引きずり離そうとするべきだったのだ。 父親との関係を捨て、俺のもとへ来い、とジナイーダに言うべきだったのだ。ジナイーダを傷つけることになったとしても、父親との関係が崩れることになったとしても。お前の気持ちは、そう綺麗に片付くものなのか、と、あたしはウラジミールの襟を掴んで問い詰めたかった。 ……これは、果たしてウラジミールへ対して抱いた気持ちなのか、杉野遥希に対する気持ちなのかは、よく分からない。 ハナ先輩の恋人という、杉野の兄貴は、話を聞いてる感じ〝初恋〟の、ウラジミールの父親と違って、大変まともな人物らしい。ただ、想いを抱えながら、煮え切らない行動しか取らないのは杉野も、ウラジミールも同じだ。 この、あたしの考えは、もしかしたらもの凄く自分勝手で、無茶なものかもしれない。 それでもあたしは、ウラジミールと杉野の二人に、腹立たしい気持ちを抱いてしまった。 〝初恋〟を読み終わったあとも、あたしは演劇部室に通った。 〝初恋〟を読み終えたあたしが次に手を取ったのは、ドストエフスキーの〝罪と罰〟だった。 えらく分厚い本で、手に取るのはちょっと不安だったけど、まあ時間つぶしにはちょうど良いとも思ったので、読み始めてみたのだが、これがもの凄く、面白かった。 金貸しのばあさんを、貧乏学生が殺しちゃう、という話なのだが、最後まで飽きることなく、一気に読ませてしまう、ストーリーの勢いと心理描写に満ちた作品だった。 読み終えた後、あたしは、思わずため息をついてしまった。 〝初恋〟の時と同じく、主人公達の心の動きについて行けないところはあったものの、それを差し引いても、読めて良かったと思える作品だった。 誰かと作品の感想でも言い合いたいところだったけれど、部室には相変わらず、あたしを除けば、誰もいなかった。 本読んでる内に、やって来るだろう、と思っていたあたしは、もう黙って待ってることは出来なかった。 ハナ先輩から、杉野のラインを教えてもらう。 なに部活さぼってんじゃ。来いやおら。 そんなあたしのメッセージに、既読はつかなかったけど、それ送った翌日に、杉野は部室へやってきた。 ただでさえ暗い顔に、余計に負のオーラをまとわせて、杉野は部室へやってきた。 「来てたのか」 何様のつもりじゃ、と言いたくなったけど、あたしはなんとか堪えた。 「もちろん。あたしは演劇部の副部長だからね」 「……なんでそんなにやる気出てんだよ」 「ハナ先輩から引き継いだ部なんだから、頑張るしかないでしょ。それにあたし、なんだかんだで演劇好きになったし」 「うらやましいな」 「杉野は、演劇嫌いになったの?」 そうあたしが言うと、杉野はため息と苦笑いを半々に混ぜたような、妙な声を出した。 「そんな訳じゃない」 「だよね、あんた、ツルゲーネフとか好きなんだし」 そう言うと、杉野は目を丸くして、あたしを見てきた。頬にはちょっとだけ、赤みがさしている。 「あんたが、読みかけてた本、読んじゃった」 そう言うと、杉野は顔をさらに赤くして、顔を逸らす。 基本的に冷静な、こいつにしては、なかなか面白い反応だ。部室から出てったあの日は、あいつ自身、頭に血が上ってて自分が何をしたのかよく覚えてなかったらしい。 「でさ、これからどう部活やってくか、まずは色々話し合おうよ。二人だけだけど、新体制で部活が始まる訳だし。あたし、どういう風にすれば全く分かんないし」 「……バカにしてるだろ?」 「はあ?」 杉野は視線を床に向けたまま、あたしに、どこか怒りの混じった台詞を吐いてくる。 「勝手に先輩諦めて、大昔の小説読んで、気持ちを慰めようとしてる情けない奴なんだ、って、バカにしてるだろ」 堪忍袋の尾がブッチィイイ、とド派手な音を立てて切れるのをあたしは感じた。 部室の玄関口で立ったまま、うだうだと話してた杉野に近付くと、あたしはその胸ぐらを思い切り掴む。黒縁メガネの下の瞳が、怯えに引きつるのを見ながら、あたしはあいつに、我慢してた言葉をぶつける。 「あたしをバカにするんじゃないわよバカ杉野。あんたがハナ先輩好きで色々考えて、それで告白しない、ってのはよく分かったわよ。あたしは、あんたの決断に納得しきった訳じゃないけど、あんたなりに真剣に悩んだ結果なんだから、バカにする訳ないわよ。感情を片付けるために本読むのも当然のことだと思うわよ。それだけ、人に恋をするっていうのは苦しいことなんだと思うし……なのにあんたは、勝手に被害妄想募らせて部活には来ないわ、終いにはあたしにそんなこと言ってくるわ……いい加減にしなさいよ!」 あたしよりちょっと高い位置にある杉野の顔を睨みつつ、そう一息に言い切る。 息を荒くするあたしの前で、杉野は戸惑いと怯えが浮かんだ顔をしていた。 「……悪かった」 そう言って、杉野は自分を掴むあたしの手に、自分の手を乗せてくる。 多分、何の意図もなかったんだと思う。 反射的にした、何気ないボディタッチだったんだろうけど、急にそんなことされたあたしは、顔が怒りとは別の理由で赤くなる。 杉野も、すぐに自分の行動のうかつさに気付いたらしく、あたしからすぐに手を離す。 あたしも、杉野から手を離し、一歩引く。 バカ杉野の思いがけない行動に勢いを完全に削がれたあたしの前で、杉野は頭を下げてきた。 「本当に、悪かった。勝手に、暴走しといて、お前に迷惑かけてた」 「……分かりゃ良いのよ」 まだ、杉野への怒りは収まった訳ではなかったけど、それを再び燃え上がらせることも出来ず、あたしは、そう言うことくらいしか出来なかった。 こうして、新体制の演劇部は正式に始まることになった。 文化祭が終わったあとの演劇部は、本当にヒマだった。 公演に向けた準備をする、あの忙しさが嘘だったように、演劇部室には連日、穏やかな空気が流れた。 感情を長く引きずるタイプじゃないあたしは、杉野の顔を見ても怒ることはもうなかった。 むしろ、あのとき、あいつに感じてた諸々の不満、感情を吐き出し、それにあいつも素直に謝ってきたもんだから、以前よりあいつに親しみを感じるようにすらなってきた。 そんな二人で何にもすることがない部室に集まったら、もうぐだぐだと過ごすしかない。 体操、ストレッチ、筋トレ、ランニング、発声練習、のルーチンワークをこなした後は、ただだらだらと読書をするだけの日々が、夏休みに入るまで続いた。 「去年もこんな感じだったの?」 ドストエフスキーの、カラマーゾフの兄弟を読みながら、あたしはそう杉野に尋ねる。 「去年は何故か、アマチュア劇団から手伝いを頼まれてな、今の時期は結構忙しかった」 「そんなこともあるんだ」 「まあめったにあることじゃないけど」 「そうこうしてる内に、ハナ先輩好きになったの?」 いじり半分のあたしの質問に、杉野は不機嫌そうな顔をして、顔を背けた。 そうこうしている内に夏休みを迎えたが、むしろ、夏休みの方が忙しくなった。 あたし達の〝銀河鉄道の夜〟の公演を、他校の演劇部にも関わらずがっつり手伝い、台詞量も多い役をやってくれた小太りくん……田野くん、というのだが、彼の部の公演が、夏休み明けすぐに行われるらしく、今度はあたし達がそれを手伝うことになった。 題目は〝鶴の恩返し〟 皆知ってる日本むかしばなしなのだが、田野くんによってアレンジが加えられ、かなりパンチの利いた話に仕上がっていた。 鶴を農民が助けて、鶴が恩返しにくる。んで、鶴が化けた女性はえらく美人。そこまでは同じ。 違うのは、実は農民には幼なじみがいて、農民の家に舞い込んできた鶴に嫉妬して、そこからドタバタラブコメが始まるという、ラノベっぽい話になってるのだ。 農民がオタ趣味だったり、その幼なじみが腐女子だったり、二人の趣味を見て鶴がドン引きしたりと、時代背景? 何それ美味しいの? な感じだが、台本読んだだけで腹抱えて笑っちゃうほど面白かった。 その劇の主演、農民役は、何故か杉野だった。 高校の劇で、他校の生徒が主演をやるのはかなり異例のことだろう。まあ、基本今の時期のあたしらはヒマなので、杉野もそれに異存はないっぽいので、無問題なのだが、気になったあたしは田野くんに理由を聞いてみた。 田野くんは、自分達の部室にたむろした、何人かの男性部員を順繰りに指さした。皆、オタっぽくて、服装とか髪型にあんまり気を遣ってるようには見えない。 「リアリティの問題なんだよ、刈田さん」 「ほう」 「幼なじみに好かれ、さらには鶴が変化してまで慕う農民は、当然イケメンだよな。それを、俺とか、こいつらが演じたとき、観客はどうなると思う? しらけるだろ、そうだろ」 「……そんなことないと思うよ」 と、言ったあたしに、田野くんは寂しそうな笑みを浮かべた。 「農民は、杉野くんが似合いだ」 俺達は、主役にはなれないんだ。 そう言って、田野くんは、あたし達からちょっと離れたところで衣裳合わせをしてた杉野の方へ行った。彼の背中がやたらと寂しく見えたのは気のせいだろうか。 ちなみに、田野くんの部に女子が一人しかいないこともあって、あたしは、可愛い女の子設定の、農民の幼なじみ役をやらせてもらうことになった。 〝銀河鉄道の夜〟でやらかしたあたしは、その劇でもやらかさないか、ちょっとどころか、かなり不安があったけど、幸い、ミスをすることなく、公演を終えることが出来た。 場数を踏んで、度胸がついたこともあるだろうけど、杉野や、田野くんが、しっかり支えてくれる、そんな安心感があったことが大きかっただろう。 農民がいない時に、農民と、ガチムチの別の農民とのカップリングを妄想する様を、あけすけに言うと、観客からどっ、と笑いが上がった。 鶴の正体と、農民への想いを知ったあたしが、鶴を応援する様を、客席の皆が、黙って見守ってくれる気がした。 準備はしんどいし、舞台に上がる前も後も、不安と恐怖で胸が張り裂けそうになる。 それでも、演劇は素晴らしいものだと、あたしは思えた。 そんな田野くんの、創作劇に刺激を受け、あたしは人生初の脚本執筆に取りかかることにした。 三月の公民館の文化まつりでやる劇のもので、昔の文化祭でやった劇の再演、というつまんない提案をしてきた杉野に待ったをかけ、あたしは意気揚々と、脚本の執筆を始めた。 元ネタは、ドストエフスキーの〝罪と罰〟だ。 それをそのままやれば、空気を凍らせるサスペンス劇場になっちゃうので、あたしはそれをコメディにアレンジすることにした。 まず、色々な登場人物はばっさり切る。主人公の妹の婚約者といった嫌味な連中は軒並み登場させず、複雑で、深い人間ドラマは九割方カットだ。ごめんよ、ドストエフスキーさん。 んで、筋としては、金貸しのバアさんのところに強盗しに主人公が行ったところ、そこに、金貸しのバアさんの親戚という美少女がいて、一目惚れしちゃう、というものにした。 原作で、主人公のラスコーリニコフと添い遂げるのは不幸な境遇の娼婦、ソーニャなのだが、そのソーニャをこの劇では、金貸しの家にいた美少女として登場させた。 それで主人公は金貸しの印象を良くしようと金策に走ったり、友達と自分の妹を巻き込んで、美少女に気に入られようとしたりする、という流れにした。 我ながら、初めてにしては結構面白いものが書けたと思ったし、杉野のチェックでも、文章の細かい指摘は受けたものの、これで文化まつりに挑もう、ということになった。 世紀の名作、罪と罰、を大胆にアレンジ。 そう銘打ってかました劇は、嬉しいことに、もの凄くウケた。 文化まつりの観客は、じいちゃんばあちゃんから、子供まで、年代が幅広かったのだが、皆、あたしが脚本に入れ込んだネタでどっかん、どっかん、笑ってくれた。 主に、おバカなことを言うのは、主人公役の杉野だった。真面目、陰キャ、感情表現ベタの三拍子揃ったあいつだが、おバカなラスコーリニコフが、もの凄く板についていた。あたしの脚本の出来もそうかもだけど、あいつの演じ方が上手いことも、否定は出来なかった。 もの静かなソーニャを演じてたあたしだったが、あいつのオーバーリアクションや、おバカな台詞に、舞台の上で笑わないようにするのが、精一杯だった。 ソーニャとラスコーリニコフが無事、添い遂げ、ハッピーエンドを迎えると、客席からは割れんばかりの拍手が沸き起こった。 客席には、受験の結果待ちの、ハナ先輩も来てくれた。 その隣には、背の高い、メガネをかけた男の人がいる。天パの杉野と違って直毛の、優しそうな男の人だった。 劇が終わったあと、ハナ先輩とその人はあたし達をねぎらいに来てくれた。 「一途ちゃん久しぶり」 受験でちょっと疲れた感じのハナ先輩は、そう言ってあたしを抱きしめてくれる。あたしもハナ先輩ーと呼びながら彼女を抱きしめ返すが、同時に、どうにも落ち着かない気分を味わう。 あたしと抱き合うハナ先輩を、その直毛の男の人は優しそうに笑って見てくる。 あたしの視線を、初対面の人に対する緊張と取ったのか、ハナ先輩と離れたあたしに、その人は丁寧に自己紹介してくる。 「はじめまして、杉野 嘉希(よしき)って言います。演劇部のOBで、去年まで部長やってました」 そうにっこり笑って、白い歯を見せる杉野さんに、あたしはぎこちない挨拶しか返せなかった。 「あの劇、君が脚本書いたんだって?」 「ええっと、はい、一応」 「凄いなぁ。面白かった。部長やってたけど、俺は脚本とか全然ダメでさ、去年も遥希に大体やってもらってたんだ」 「へえ、そうなんですか」 と言いつつ、横に立った杉野の方を見る。お兄さんの言葉に、杉野はため息混じりに答えた。 「兄貴は本を読まなさすぎるんだよ。演劇やるんだったら、参考書だけじゃなくて小説もっと読めよ」 「……こんな感じでさ、俺が脚本書いても、ダメだしばっかりしてくるんだ。それじゃあお前が書けって言ったら、結構面白い物が出来てさ。それ以降、脚本係は遥希になってたんだ」 「あの頃も楽しかったなぁ」 そう、ハナ先輩が言うと、三人の間に、とても親密な時間が流れていたことを感じる。 その中で、ハナ先輩か、杉野のお兄さんか、どちらからか分からないけど、恋が生まれて、二人が付き合うことになった。 杉野も、ハナ先輩を好きになったにも関わらず。 多分だけど、そんな苦しい状況になっても、杉野は何事もなかったように過ごしたんじゃないだろうか。 自分の想いを押しこめて。 今も、ハナ先輩や、お兄さんと話す時も、杉野はちっとも、変わった様子はないんだから。 杉野の方を見る。 ハナ先輩と、お兄さんと話すあいつに、変わった様子は、やっぱり、不自然なくらいになかった。 * 打ち上げにまた発泡酒を持ち込んでみたのだが、やっぱりそれは杉野にNGを出された。 まあそうなるわ、と思いつつ、あたしはノンアルビールを杉野に渡した。 今度は黙ってそのプルタブを引いた杉野は、それを一口すすると、凄く苦い顔をした。 「やっぱり不味いなこれ」 「こーゆーのは雰囲気を楽しむもんですよ」 そう言いつつ、ノンアルビールを飲んでたのは、いつもの部室だった。 田野くんとか、劇を手伝ってくれた友達も含めて、さっきまで打ち上げをしていた訳だけど、彼らが帰ったあと、あたし達は二人であらためて打ち上げをすることにした。 杉野と、妙な友情が芽生えているのをあらためて感じる。 陰キャで、頭は良いものの、プライドが高くて、変に考えこじらせて暴走することもたまにある。けど、周りのことを思いやることが出来て、演劇に誠実なあいつを、あたしはまあ、悪い奴ではない、と思うようになっていた。 最初はあたしを嫌ってた感じの杉野も、最近では結構頼りにしてくれるし、遠慮なく話しかけてくれるようになった。 そんなあいつと二人でノンアルビールを飲んでると、海外ドラマの一場面を演じているような気分になる。 渋い、初老の男女が、渋くお酒を飲んで、渋い冗談を言い合って、渋く笑い合う。成熟した、性別を超えた友情関係。 多分、友情だ。 あたし自身、あんまり美味しいとは思えないノンアルビールを飲みながら、あたしはそう、内心で独りごちた。 杉野を見る。 どこか影のあるあいつの顔を見て、あたしはつい、こう尋ねた。 「まだ好きなんだ」 「んな訳ないだろ、うるせえ」 ノンアルビールをすすりながらそう言う杉野が、まだ、想いを引きずってるように、あたしには見えた。 一発告白して、ばっさりとハナ先輩に切り捨ててもらえば良いのに、と今でも思うのだが、こいつはそうしない。 ハナ先輩のことをおもんばかって、そうしないみたいだけど、ただ、こいつ自身にとって、あんまり良いことだとはやっぱり思えない。 それをあらためてあたしが言っても、こいつは決して、ハナ先輩に告白しないだろう。 こいつは、それだけ臆病で、優しい奴なのだ。 「杉野」 あたしがそう言うと、杉野はうるさそうな顔をして、見てくる。 あたしが、告白しろーとまた言ってくると思ったのだろうか。 「次の、六月の文化祭なんだけどさ、〝初恋〟やらない?」 「ツルゲーネフの?」 目を丸くする杉野に、あたしは頷く。 「あれ、あんた好きなんでしょ」 「でもな……あれ、演劇にするの結構大変だぞ。モノローグがやたら多いし、そこにあの作品の良さがあるし……」 「まあ、そこは天才脚本家のあたしに任せてよ」 「……しょうもないラブコメにしちゃいけないだろ、あれは」 「そんなことしないよ。今度は原作に忠実な劇にする」 「でもなぁ、あと三ヶ月弱しかないぞ」 「そうだけど……でも、あたしはあれが良いと思う」 杉野は、あたしの顔をじっと見てから、ノンアルビールを一口飲んだ。 「どうして?」 「初めての恋に苦しんだ人はたくさんいる。〝初恋〟で、心動かされる人はたくさんいると思う。やる価値はあると思うんだ」 それで、もしかしたらあんたも救われるかもしれない。 ハナ先輩への恋心に、片がつかないとしても、何か、救いのようなものが得られるかもしれない。 空になったノンアルビールの缶を床に置き、杉野は何事か考えるように、天井を見ていた。 「文化祭の劇は、三年に決定権があるんだけどな」 ふう、とため息をつき、あいつはあたしを見てくる。 「ちょうど、やりたい物も見つからなかったし」 「じゃあ」 ちょっと期待に顔が輝いちゃったあたしを見て、あいつは、ふん、と鼻で笑う。 ハナ先輩が、志望校に受かったという報告があったのは、それから数日後のことだった。 * 打ち上げの翌日から、あたし達は馬車馬のように働いた。 六月の文化祭までそれほど時間はなく、ついでに新入生の勧誘やらなんやらもやらねばならないのだ。 資料本を取り寄せて脚本の執筆や衣裳、小道具の用意を始めつつ、同時に労働力……もとい、新入生を引き込むための勧誘用のチラシや、部活紹介でやることも決めなければならない。 あたしのナイスな勧誘活動のおかげで、なんと二人もの新入生が演劇部に入部してくれることになった。 亀山くん、という男の子と、江川ちゃん、という女の子。 二人とも、部室長屋の周りをうろうろしていたところを捕まえてきた。 特にやりたいこともないけれど、ただ何かの部活には入らなければならない、と戸惑ってる新入生に、演劇部がお手頃で面白い、というのを吹き込むのは朝飯前のことだった。 二人分の入部届を預かるあたしを見て、目を丸くする杉野を横目に、あたしはノーパソで劇の脚本執筆も取り組む。 忙しさで目が回る、なんて感じをあたしは味わっていた。 杉野と議論を交え、時に田野くんとかの他の演劇部の人からも意見をもらいつつ書いた脚本は、四月の中旬にはなんとか書き終えることが出来た。 劇の本番までは一ヶ月半ほどあるけど、キャストの大部分をめったに集まれない他の学校の子や、演劇部外の人に頼むことになってる状況で、稽古の時間にあんまり余裕があるとは言えない。 なので、脚本作りという面倒な作業が終わっても、あたし達が火の車であることに変わりはない。 今回の劇の主要キャストは三人。 主人公のウラジミールと、彼の初恋の相手ジナイーダ、そしてウラジミールの父親、である。 ウラジミールは杉野、ジナイーダはあたし、そして父親役は、天文部にいる原田 路易(はらだ ろい)くんがやることになった。 原田くんは杉野の同級生で、一応友達らしい。たまに遊びにはいくし、気が合わない訳でもない、でもそこまで親しくない、そんな微妙な距離感の間柄だ。 一応天文部には所属してるけれど、ほぼほぼ幽霊部員で、放課後は大体、塾に行ったり、友達(女友達含む)と遊びに行ったりしているそうだ。 行動は結構チャラい系だが、性格はどちらかといえば物静かなな部類に入る人で、口数もそれほど多くない。ただ、言うことにいちいち説得力というか、重みのようなものがあって、ただ者でない感を自然と感じさせる。顔も整っているし、成績も結構良いので女の子からの人気も高いらしい。 端正な顔立ちをして、教養もあり、んで女たらしな、ウラジミールの父親役には、失礼だけど、まあぴったりな人材と言えた。 ただ、あたしは最初、父親役を例のごとく田野くんにお願いするつもりだった。 物語のキーを握るキャラクターで、表現力が要求されるのだから、そこは大変かもしれないが、経験豊富で実力もある田野くんにお願いしたかったのだ。 しかしそれを彼に打診したところ、一言、 「リアリティー」 とだけ言って断られた。 かといって、入ったばっかりで真面目そうな亀山くんにやってもらうのも申し訳ない違う気がして、杉野と相談した結果、原田くんに話をもちかけたところ、あっさりOKをもらえたのだ。 杉野と同級なので、原田くんも本来は先輩と呼ぶべきなのだろう。 ただ、あの杉野と同級生となると、どうにも先輩という呼び名がしっくり来なくて、んで原田くん自身、別に先輩と呼ばれなくても気にしないそうで、くん付けが固定になっている。 これまでにも、何度か原田くんには劇を手伝ってもらっている。 〝銀河鉄道の夜〟でも鉄道の乗客役をしてもらったし、あたしのコメディ版〝罪と罰〟でもちょい役で出演してもらっていた。 今回の役は、台詞量はそこまで多くないものの、結構重要な役どころ、と伝えていたけど、原田くんはあんまり気負ってないようだった。 女癖もあんまり良くない、という噂を聞いてたあたしは、適当に取り組むんじゃないだろうかと、ちょっと心配していたのだが、彼はGWにキャストを集めて初めて行った脚本の読み合わせにちゃんと来てくれた。 そして、彼の演じる父親は、見事なものだった。 場数を積んでる杉野や、田野くんほどではないけれど、話し方は堂々としたもので、脚本を渡してあまり時間が経っていなかったにも関わらず、高慢な、父親のキャラクターをしっかり掴んでいた。 思わずあたしが、上手、と言うと、彼は、優雅な微笑みを浮かべた。 押しつけがましい、という程ではないけど、たっぷりとした自信に裏打ちされた、多くの女の子が恋に落ちちゃいそうな、そんな微笑みだった。 「YouTubeで、高校生の演劇の動画を見て、脚本と、原作を読んだだけだよ。出来はまだまだでしょ」 「いやでも凄いよ原田くん」 「そう言ってくれると、嬉しいな」 なかなかのイケメンに、甘い笑みと一緒にそんなことを言われると、あたしですら思わずほっこりしてしまう。 「ジナイーダの方が危ういぞ、刈田」 そんなあたしに、杉野は容赦なく、そう言ってきた。 〝初恋〟の演技練習、準備をしつつ、当然新入生の指導もしなきゃならない。 まだ一年しかやってないあたしが担当するのは、おこがましいとは思いつつ、あたしは亀山くんと江川ちゃんに、基礎トレや演技の指導をさせてもらった。去年、ハナ先輩があたしがやってくれたように。 本来は部長の杉野に頑張ってもらうところだが、手先が器用でPCも使えるあいつには、劇で使う背景画の準備や、道具作りという仕事をメインでやってもらわなきゃならない。 まああたしの方も劇の準備はもの凄く切羽詰まってはいたけど、せっかく入ってくれた二人を放置するのはあんまりだし、それに、劇では二人の力も借りなきゃならないからだ。 去年、杉野がやった場面ごとの道具の入れ替えは、今回は亀山くんにしてもらうことになった。 機転が利いて頼りになりそうな男の子だったし、今回の劇は入り組んだ男女関係を扱っていて、去年のように、入って数ヶ月の新人さんにメインキャストをやってもらうのは申し訳ないこともあった。 江川ちゃんの方にはジナイーダの取り巻きの一人をやってもらうことになり、亀山くんにも、道具の入れ替えの合間にちょい役で出演してもらうことになった。 どっちも台詞の数は数える程だったけど、二人ともかなり真面目に練習に取り組んでくれる。 劇の背景画の色を塗りつつ、江川ちゃん、亀山くんの練習を見るのを、七時くらいまでやってからが、あたしと杉野の練習の時間だ。 ウラジミールとジナイーダが、なんと言っても劇の中心だ。 劇の準備や新人指導の片手間にやれるものではなく、練習は、部活の時間が終わった後や、休みの日にやるしかなかった。 見回りの先生の目を盗んで、あたし達は、一九世紀のロシア貴族を演じる。 〝銀河鉄道の夜〟に、〝鶴の恩返し〟そして〝罪と罰〟で杉野の演技が大したものだとは知っていたけど、あいつのウラジミールは今までの役と、またひと味違う。 ジナイーダに恋へ落ちたことを語る様、彼女へ愛を捧げる姿。表現が少しオーバーだと感じることもあったけど、あいつの言葉と表情、その一つ一つが胸に迫った。 ウラジミールを大切な存在だと思いつつ、それでもジナイーダは彼の父親を想うのだが、杉野のウラジミールを前にすると、あたしは思わず、そのままウラジミールを選びたくなってしまう。 顔の良い、少し危ない雰囲気をまとう父親に、惹かれてしまうのが、ジナイーダという人のさがだろう。それでもあたしは、自分を一途に愛するウラジミールに、感動と、深い慈しみを感じざるを得なかった。 ……この時ほど、自分の、一途、という名前をこそばゆく感じたことは、なかったと思う。 練習を繰り返す内に、演じるキャラクターへの理解というのは深まっていく。 ジナイーダという人が、どうして父親を選ばざるをえなかったのか、それに彼女がいかに苦しんだか、そして、ウラジミールのことを彼女がどう愛していたのか。 それを理解していくのと同時に、あたしはあたしはウラジミールの気持ちも分かっていった。 彼女を父親から引き離す度胸もない子供。 あたしはウラジミールをそんな風にすら考えていたけど、そもそも、彼みたいな子供に、彼女を養える訳がない。感情に任せるままに駆け落ちしても、それは彼女に対して、無責任なことでもあるだろう。 彼女が誰を愛したとしても、彼女を愛し続ける。 そんな決断をしたウラジミールは、思慮深くて、優しく、そして勇気があるやつだったのだ。 夜遅くまで連日根を詰めていれば当然のことだが、杉野が季節外れの風邪を引いた。 熱出たから学校休む、というラインに、大人しく死んでな、と返してやる。 公演まで既に二週間を切っていて、劇の準備と練習は佳境に入っていた。 文化祭に出る他の部もそうだったけど、あたし達も連日、夜遅くまで学校に居残らざるをえなかった。それに加えて、ここ数日、季節外れの寒風が吹いていて、体があんまり丈夫そうには見えない杉野が風邪を引くのは、まあしょうがないことだろう。 放課後、亀山くんと江川ちゃんと劇の練習、準備を七時までして、二人を帰らせた後に、いつものように居残りを始めようとしたところ、部室にお客さんが来た。原田くんだった。 そこらを歩いている男子と同じ、学校指定の紺のブレザーとズボン姿なのに、清潔感五割増し、な感じの原田くんは、脚本片手に入ってきた。 最近、部活終わりのあたし達の練習は、原田くんも交えてすることが多い。原田くんも主要キャストの一人なので、一緒にやってくれた方が色々都合が良いし、彼も快く付き合ってくれるからだ。 原田くんと杉野は同じクラスなので、あいつが休んだことも知っていた。ただ、脚本のことでどうしても気になることがあり、わざわざ来た、と彼は言う。 原田くんを部室に入れて、一緒に脚本へかがみ込む。 父親の心情についてのごもっともな原田くんの指摘に、あたしはなるだけ丁寧に答える。 ついでに、あたしと父親の掛け合いの部分……原作にはない、あたしの創作だが、駆け落ちを持ちかける父親を、ジナイーダが拒絶する場面を、座ったまま演じる。 自分の役の情けなさに原田くんが苦笑いを漏らし、あたしも一緒に笑う。 二人のそんな笑い声を境に、部室に沈黙が急に下りてきた。 沈黙を生んだのは、原田くんだ。押し黙った原田くんは、あたしをじっと見つめてくる。 端正な顔立ちに、真摯な光を浮かべたまま、原田くんはあたしに尋ねてきた。 「杉野と付き合ってる?」 ため息交じりに、あたしはううん、と彼に答えた。その後に続けられた彼の台詞は、可能性としては認識していたけど、それでも驚いてしまうものだった。 「俺と、付き合ってくれない? 君が好きなんだ」 こう言うと嫌味かもしれないが、原田くんの所作に、そんな気配をなんとなく察してはいた。 それでも相手は原田くん。存在自体が清涼剤のようなイケメンで、女の子人気も高い原田くんなのだ。あたしなんかに想いを寄せるはずがない、それっぽく見えるのは忙しさに毒されたあたしの頭が生み出した妄想だ、と思うようにしていた。 そんな妄想が事実として持ち上がってきて、あたしは戸惑う。顔は赤くなったし、彼と見つめ合うことに耐えられなくて視線も逸らす。 それでもあたしは、こう答える。 「ごめんなさい」 「どうして?」 しかし原田くんは、なおも言葉を重ねてくる。 幼稚園の頃の北野くん、中学の吉川くんに横山くんと、お断りしてきた男の子は、それなりにいた。現金な話だと思うけど、その中でダントツ一位のイケメンを振るのは、大分緊張する。 「原田くんは、格好いいし、あたし達のことをすごく助けてくれて、いい人だと思うよ。すごく素敵だと思う。でもごめん、あたしはあなたの彼女にはなれない……今は、演劇部のことで、頭が一杯なんだ」 そう言ったあたしを、原田くんはじっと、見つめてくる。 「じゃあ、文化祭が終わった後でも、色々な始末がついた後でも良い」 「いや、それでも……」 「忙しいだけが、理由じゃないんだ」 「うん、原田くんと、彼氏彼女っていうのが、どうも、想像が付かないというか……」 「想像が付かないんだったら、実際にやっていけば良いよ」 「でも……」 「俺とは、やっぱりダメかな。それとも、好きな人がいるの?」 そう言われて、あたしは何も返すことが出来ない。 そんなあたしを、原田くんはじっと見つめてから、ゆっくりと、言葉を紡いだ。 「刈田さんは、杉野が好きなの?」 そう言う原田くんに、あたしは、すぐにかぶりを振る。 「違うよ、原田くん」 「なら……」 なおも言葉を重ねようとする原田くんに、あたしは、ごめんなさい、としか言えない。 しばらく、あたしをじっと見ていた原田くんは、ふう、と呟いた。 「結構、マジだったんだけどな」 「本当に、ごめんなさい」 気を悪くするんじゃないか、とあたしはちょっと怯えるが、原田くんは、苦笑いと微笑みが半々、という感じの笑みを浮かべてくる。 「フラれたからって、劇に出ないってことはないから、安心してよ。でも、刈田さん、君は……」 そう言いかけたけど、原田くんは結局何も言わず、じゃあ、と言って、部室から出て行った。 * あの日、原田くんにあたしの気持ちを尋ねられた日の翌日、杉野はマスク姿で部室に現れた。 あたしの顔を見たあいつは、どうした? と開口一番に尋ねてきた。 その台詞に、あたしは明るい笑顔を取り繕う。 それはあたしの台詞だよ、と言って、怪訝な顔をするあいつを、PCの前に座らせた。 そう、こいつは杉野だ。 気が利かなくて、プライドが高くて、口が悪くて、でも人のことを思いやる優しさを持った奴なのだ。 そんな杉野を、あたしが好きになるはずがないのだ。 いや、なってはいけないのだ。 そのあとの二週間は、あっという間に過ぎていった。 朝起きる、学校行く、授業受ける、劇の準備する、演技の練習する、帰る、寝る。そんなルーチンを繰り返した後、あたし達は文化祭の当日を迎える。 体育館の、闇に閉ざされたステージで、あたし達は開演を待っていた。 カーテン越しに、ざわざわ、と騒ぐ声が聞こえてくる。 例年、文化祭の演劇では、出演者の家族や友達くらいしか来ないのだけど、さっき、ちらりと客席を見た感じでは、それどころではない数のお客さんが来ていた。 田野くんが教えてくれたところによると、〝鶴の恩返し〟や〝罪と罰〟が、密かに評判になったらしく、意図しない固定客があたし達についてしまったらしかった。 もっとも、今回の劇は今までのコメディタッチの作品とはかけ離れたものなので、せっかく付いた固定客を根こそぎ失うことになるかもだが、まあ、しゃーないだろう。 ぎっしり埋まった客席を見ても、あたしはそんな風に考えるくらいの余裕があった。明らかにビビる、亀山くんや江川ちゃんに、冗談を言うことも出来た。 開演まで、あと一〇分。脚本片手に、ぶつぶつと台詞を呟く杉野に、あたしは近付く。 「緊張してる?」 そう尋ねると、杉野は少しだけ引きつった笑顔を浮かべた。 「今日は、兄貴に来るな、って言った」 あたしが尋ねてもいないのに、杉野はそう、言ってくる。 「ガチの恋愛劇をあいつに見せるのは恥ずかしいからな」 「どうすんの?」 「何を?」 「いや、だから」 勝手に慌てるあたしを、杉野はふん、と笑う。 「本当に、兄貴に見せるのが恥ずかしいだけだ」 そう言う杉野に、あたしは何も言えなかった。 〝初恋〟の第一幕は、ウラジミールとジナイーダの出会いから始まる。 別荘の庭で、カラスを追い払っていたウラジミールは、偶然、別棟に住むジナイーダの姿を見る。 登場から、ジナイーダは姫っぷりを見せつける。 医者のルーシン、伯爵のマレフスキー、詩人のマイダーノフ、騎兵将校ベロヴゾーロフ、そして、汚いおっさんニルマツキー。そんな取り巻きを侍らせ、彼らの顔を花束で順に叩く、なんて遊びをしている様を、ウラジミールは目撃するのだ。 貴族の家を書いた背景画を前に、杉野が鉄砲を手にカラスを追い払う。人の気配を察した杉野が生け垣に隠れる様を演じると、あたし達の出番だ。 あたしと、取り巻き達が袖から舞台へ移動する。 んで、例のごとく、トラブルが起きる。 舞台の真ん中へ移動する途中で、詩人のマイダーノフ役の江川ちゃんがずっこけた。 見事な転びっぷりに、それまで舞台の様子を固唾を呑んで見守ってた客席から、爆笑が沸き起こる。 そんな客席を睨みたくなる気持ちを押さえて、あたしは江川ちゃんを見る。 顔からもろにぶつかったらしく、額が赤くなった江川ちゃんは、泣きそうな顔であたしを見上げてくる。 そんなマイダーノフに、ジナイーダは悠然と、微笑む。 「マイダーノフさん、そんなにはしゃいでは怪我をしますよ」 アドリブを口にしつつ、あたしはそっと、手を江川ちゃんに差し伸べる。 田野くん演じる、医者のルーシンも、あたしに合わせて、マイダーノフをからかう。 江川ちゃんも、申し訳ございません、ジナイーダさん、と言いつつ、立ち上がる。 なんとか劇を元の筋に戻せたことに、内心でものすごーくホッとしながら、あたしは演技を続けた。 その後、ジナイーダの取り巻きの一人となったウラジミールは、奔放な彼女に振り回される。もともと、お堅い生活しか送ってこなかったウラジミールにとって、ジナイーダと過ごす時間は、初めての経験ばかりだった。 美しいジナイーダへの恋に落ちるのに、さほど時間はかからなかった。 気付けば、いつも彼女のことを考えている。彼女の姿を見なければ、心が塞ぐ。他の取り巻きとの彼女のちょっとしたやり取りを見て、嫉妬に胸が灼かれる。 そんなウラジミールの気持ちに、ジナイーダはすぐに気付いたようだった。ただ彼女は、そんな彼の恋心に、向き合おうとしない。 他の取り巻き達も皆、ジナイーダに首ったけだった。ただ、彼女は皆が自分に夢中であることが嬉しいのか、その中から、誰かを選ぼう、という気はないようだった。 それでも、ウラジミールが彼女を想う気持ちは、少しも揺るがなかった。 そんなある日、ウラジミールは、彼女が誰かに恋をしていることに気付く。 彼らとの生活を楽しんでいたはずのジナイーダが、ふとした時にふさいだ表情を見せるようになったのだ。 ただでさえ、初恋に苦しい想いをしていたウラジミールは、さらに苦しい想いを抱えることになる。 斜に構えたところはあるけれど、思慮深い医者のルーシンからは、あんまりジナイーダにご執心になるなよ、と言われる。しかし、ウラジミールは彼女のもとへ通うことをやめようとしない。 そしてある日、こすいところのある、伯爵のマレフスキーから、ジナイーダが夜、誰かと密会しているらしいことを告げられる。 彼らしからぬ興奮に包まれたウラジミールは、ナイフを手に、彼女の家の庭に潜み、彼女と密会している奴を待ち伏せることにする。 深夜、そこに現れたのは父親だった。 原作では、父親がジナイーダの家へ消え、そして彼女の部屋の窓のカーテンが引かれる、という形で描かれていたけど、あたしの脚本では、もっとあけすけに、ジナイーダが庭で父親を待ち、父親に肩を抱かれて舞台袖へ引く、という形にした。 生け垣を模した小道具の影に隠れた杉野が見る中、原田くんに肩を抱かれ、あたしは袖へ歩いて行く。 ウラジミールの、苦しい胸の内を、どうしようもなく感じながら。 伯爵のマレフスキーが出した手紙によって、父親とジナイーダの関係は、ウラジミールの母親にバレることになる。 父親と母親が大げんかをした末に、ウラジミール一家は、住んでいた別荘を引き払うことになる。 彼女との別れを察したウラジミールは、ジナイーダにお別れを言いに、一人、彼女の家へ赴く。 「お別れを言いに来たんです」 そう言うウラジミールから、あたしはそっと目をそらす。 「来て下さって、ありがとう……もう会えないんじゃないかと思っていたの」 そう、罪悪感を覚えながら、言う。 あたしは、妻子持ちと知りながら、それでも父親と関係を深めたのだ。自分を思う、年下のウラジミールの気持ちを知りながら。 そんなあたしを、彼は以前のようには、もう見てないだろう。 「あなたが私のことを酷い女だと思ってらっしゃるのは、わかっています……ただ、悪く思わないでくれると、嬉しいです。わたしも、どうにもしようがなかったの……お元気で」 「……どうか、信じて下さい」 そんなあたしの言葉に、ウラジミールは悲しそうな顔で答えた。 「あなたが何をなさろうと、僕は死ぬその時まで、あなたを愛します」 どんなことをしても、ジナイーダはジナイーダなのだ。ウラジミールは彼女の全てが、好きになったのだ。 「命のかぎり、あなたを想います」 そう言ったウラジミールを、ジナイーダは抱きしめる。 自分なんかを想う、と言ってくれた年下の青年を、抱きしめる。 彼の体温を感じる。唇が、彼の唇のほんのすぐ近くに、近付く。 少し、杉野が驚いた気配を、あたしは腕の中で感じる。ただ、あいつが動揺したのはちょっとだけのことで、すぐにあいつは、あたしにされるがままにする。そんなアホなことはしないと、あいつは、あたしを信じてる。 少しだけ、迷ってしまってから、あたしはあいつの後頭部を客席に向ける。 顔と顔は寄せたまま、そうすることで、客席からはまるで本当にキスをしたように見えるだろう。 危ういところまで顔を近付けたあたしに、杉野が苦い顔をする。そんなあいつに、あたしはいたずらっぽく、笑ってやった。 その後も、父親とジナイーダが密かに会っているところをウラジミールは見たけれど、それは父親と彼女の関係の終わりを暗示するものだった。 そして月日が流れたある日のこと、ウラジミールは彼女が見知らぬ男の元へ嫁いだことを、偶然街中で出会った詩人のマイダーノフから知らされる。 彼女に一目会おうと、宿泊先のホテルに向かった彼は、彼女が四日前にお産で死んだことを知り、舞台は幕を閉じる。 * 舞台に並んだあたし達に向けられたカーテンコールは、この前の〝罪と罰〟の時のように、賑やかなものとは言い難かった。 まあ、今回の劇は、お客さんを楽しませることより、こちらの趣味を優先しちゃったところがあったので、仕方ないといえば仕方がない。 それでも、暖かい拍手に、江川ちゃんや亀山くんは泣いてたし、あたしもじんわり来た。 照明のない客席だったけど、ハナ先輩の姿は、すぐに見つかった。 志望校に受かったという先輩は、落ち着いた色合いの服装に身を包んでいたけど、前よりも綺麗に、可愛くなっているように見えた。 ハナ先輩は、あたしに手を振ってくる。あたしも、彼女に向かって思いっきり笑い、手を振った。 舞台袖に引っ込んだあたしは、とりあえず杉野の前に立つ。 ウラジミールとして最初から最後まで駆け回ったあいつは、汗だらけだった。 「お疲れ」 「お前もな」 そう言うと、杉野は少し怒った顔になって、言葉を続けようとした。 あのキスシーンのことだろう。ただ、人前で言うのは恥ずかしいらしく、開きかけた口をつぐんで、ただ不満そうにあたしを見てくる。 そんなあいつを、からかうように笑ってやる。 ウラジミールをからかう、ジナイーダのように。 そんなあたしに、顔を涙と汗でぐしゃぐしゃにした江川ちゃんが抱きついてきた。 一途先輩、ごめんなさい、ごめんなさい……。 そんな、去年のあたしと同じことを言う江川ちゃんに、あたしは思わず笑ってしまう。 ハナ先輩みたいな優しさは、あたしにはない。一緒に泣く代わりにあたしが出来るのは、思いっきり彼女をいじり倒すことぐらいだ。 見事なこけっぷりだったよーと言いながら、江川ちゃんの頭を撫でるあたしを見て、田野くんが笑う。 見事に父親を演じた原田くんを褒め、冷や汗びっしょりな亀山くんをからかい半分に抱きしめ、田野くんとハイタッチをしたあたしは、杉野が一人、舞台袖を後にするのを見る。 客席に向かうあいつの背中に、決然とした意思のようなものを見たのは気のせいだろうか。 そんなあいつの背中を、あたしはただ、見送った。 劇の初日を終えた開放感を味わっていたあたしは、江川ちゃんをひきつれ、文化祭の屋台回りをすることにした。 色々と買い食いをした後で、自分の友達と約束がある、と言う江川ちゃんと離れたあたしは、なんとなく、部室へ向かった。 もし、あいつがハナ先輩に、自分の想いを告げたとして、その後に向かうのは、多分あそこだと思ったからだ。 仮に、ハナ先輩に告白したとして、多分、あいつはフラれる。 〝罪と罰〟の公演の後の、ハナ先輩と彼氏さんの様子や、今日のハナ先輩を見る限り、彼氏さんを捨てて、杉野と付き合うことは、まずない。 告白することは、もしかしたら、ハナ先輩と杉野の関係を、どうしようもなく変えることになるのかもしれない。 でも、あたしはそれをどこかで、望んでいた。 杉野の気持ちをすっきりさせたい、という気持ちももちろんあった。 それ以上に、あたしは杉野に、あたしを見て欲しいと望んでいた。 人混みを、部室に向かって歩きながら、あたしはため息をつく。 なんであんな奴に惚れたんだろう、と。 そして、あたしはなんて嫌な女になったんだろう、とも。 顔は悪くないし、優しいところもある。それでも、第一印象は最悪に近いし、陰湿で、妙なところでプライドが高い。それでも、気がつけばあたしは、あいつのことを想っていた。あいつに振り向いて欲しいと望んでいた。あいつとキスしたいと思ってしまった。 そして、あいつがハナ先輩を想う限り、あたしを見ることはない、とも思っていた。 あたしは、ハナ先輩が好きだ。それと同時に、あの人に、可愛くて、スタイルも良くて、優しいあの人に、絶対に敵わないとも、あたしは思っていた。 歩きながらあたしは、今まで押しこめてきた自分のそんな心の動きに気付く。 あたしの顔に、自然と苦笑いが浮かんでくるのを感じる。 ハナ先輩のことを思って、告白しなかったあいつをなじっておきながら、そのあたし自身が、こんなざまだ。 そして、これは自覚していなかったけど、もしかしたら〝初恋〟をやることで、あいつがハナ先輩への恋愛感情を片付けることを、望んでいたのかもしれない。 あたしを、見てもらうために。 ……本当に、ひどい女だと思う。 ジナイーダなんて、比べものにならない。 そんなことを考えている内に、あたしは演劇部室の前に立った。 中に人がいることは、気配で分かる。 仮に、あいつが中にいて、ハナ先輩にフラれたと告げてきたとき、あたしはどうするだろう。 しめしめ、とあいつに告白するのか。 それは、してはいけない、と思った。 それをしたら、自分がどうしようもない、嫌な女になってしまう。 それでも、あたしはあいつに告白するだろう、とも分かっていた。 あたしは、どうしようもなく、あいつを想っていた。何がなんでも、あたしはあいつを手に入れたかった。 あたしは、ウラジミールと違う。色々なしがらみにとらわれながらも、ジナイーダを一途に、誠実に愛し続けるなんてことはあたしはしない。 これはあたしの、初恋だった。 あたしは、あたしなりに、どうしようもなく真剣に恋をしていた。 あたしは、部室の建て付けの悪いドアを開ける。 中には、あいつがいて、本を読んでいた。 その、いつもと変わらない様子に、あたしは気の遠くなるような感じを覚える。 あたしが入ってきたことに気付くと、あいつは本を閉じて、よお、と言ってきた。 「顔色悪いな、どうした?」 「どうもしないよ」 「文化祭、回らなくて良いのか?」 「飽きちゃった」 「そうか」 「あんたは?」 「そういう気分じゃない」 そう言って、あいつはため息をついた。その顔はいつもと変わらないような気がするし、どこか憑きものが落ちたようにも見える。 ちょっとだけ、躊躇してから、あたしは尋ねた。 「ハナ先輩に、告白したの?」 そうあたしが尋ねると、あいつはあたしの顔を見てきた。 そして、こう言う。 「何で?」 思わず、ずっこけそうになる。 というか、部室の玄関で実際につまずいて、靴を履いたまま、部室の中に入ってしまう。 慌てて靴を脱いで靴箱に収めてから、あたしはあいつに言う。 「いや、何でって」 「普通に、来てくれたお礼と挨拶しに行っただけだ。他に何を言うことがある?」 お前こそ、何でハナ先輩のところに行かなかった、とすら言った杉野に、あたしは半ば呆れた口調で言う。 「あんたあの人のこと好きでしょ?」 「好きだった。でも何で、今日あの人に今更告白しなきゃならんのだ」 「いや、その好きっていう気持ちに始末がついてないじゃん。てっきりあたし、そのために客席に行ったと思ってた……」 ほっとしたような、残念なような、そんな気分のまま、あたしは言う。 そんなあたしを、呆れたような顔で見ていた杉野は、またため息をついた。 「〝初恋〟の企画の話聞いたときから、なんか誤解してると思ったら、そういうことかよ……しょうがない、しょうがないか……」 そう言って杉野は意を決したように、顔を上げる。 「刈田一途」 あたしの名前を呼んだ杉野の声に、どこかいつもと違う響きを感じた。 「もしかしたら、都合の良い考えをする奴だと思わせるかもしれない。もしかしたら、情けない奴、とも、ずるい奴とも、思われるかもしれない……そうお前に思われるのが、ぶっちゃけ怖い。それでも、聞いてほしい」 杉野のそんな、長い前置きを、あたしはじっと聞く。 「俺は、ハナ先輩が好きだった。その想いは、否定しようがない。ただ、いつからか、別の人を見ていた。そいつが演劇に没頭する姿、照明を浴びるそいつの顔が、綺麗に感じられて、しょうがなかった。バカなことばっかりするそいつが……その、愛おしくて、しょうがなかった」 すう、と杉野が息を吸ったのが分かる。 「俺は、お前が好きだ」 そう杉野が言い切ると、部室に、沈黙が満ちる。 あたしはあいつに、何も言うことが出来ない。 嬉しかった、思わず泣いちゃいそうだった、あいつの胸に飛び込みたい、そんなロシア風の感動に胸が一杯になってすらいた。 それと同時に、自分への嫌悪感も、胸を一杯にする。 思っていたものと細部は違えど、自分の望み通りにあいつが自分を見てくれたことにほくそ笑む自分が、あたしはどうしても、許せなかった。 恥ずかしそうに頬を染め、あたしを見ていた杉野の顔に、怪訝なものが広がっていく。 それはいつしか、沈痛なものに変わり、あいつはあたしから目をそらす。 違うんだよ、杉野……そう思うあたしの前で、あいつは絞り出すように、こう言った。 「すまん、やっぱり、情けないよな、俺」 勘違いしたあいつは、そのまま言葉を続ける。 あの時と違って、自分の想いを言えて、すっきりした。こんなこと言うのは勝手かもしれないけど、これからも友達でいてほしい。お前は俺にとって、大切な人に変わりはないから。 そんなクサい台詞を言ってるにも関わらず、少しも気取った感じがしないのは、こいつの才能の一つだろう。 そんな杉野の前で、あたしは泣く。 あいつが戸惑うのを感じながら、あたしは言う。 あたしが、杉野がハナ先輩に告白して、フラれることを望んでいたこと。そして、あたしを振り向いて欲しいと望んでいたこと。もしかしたら、そのために〝初恋〟を企画したかもしれないこと。そんな自分が許せないこと。 泣きながらそういうあたしの台詞は、我ながら不明瞭極まりないものだった。 気がつけば、あたしのすぐ近くに、あいつが近付いていた。 そして、ぎこちない動作で、あいつはあたしを抱きしめた。 情けないことに、あたしはそれをはねのけることもせず、ただ抱かれるままにした。 「あなたが何をなさろうと、僕は死ぬその時まで、あなたを愛します。命のかぎり、あなたを想います」 ウラジミールの台詞を繰り返したあいつを見る。 脚本と違う。脚本なら、抱きしめるのはジナイーダの方だ。 考えがまとまらないあたしは、そんなことを考えてしまう。 自分が、人を一途に愛するウラジミールなのか、不器用な恋しか出来ないジナイーダなのか、よく分からなくなってしまう。 「お前が、しょうもないところがある女だってことなんて、とっくの昔に知ってる」 凄く失礼なことを言ったあいつに、怒ることも出来ない。 「それでも俺は、お前が好きなんだ」 そうあいつが言ってくれたことを、しょうもないあたしは、嬉しく感じてしまう。 「俺は、お前と一緒にいたい」 お前は、どうなんだ、と杉野は尋ねてくる。 あいつの胸に抱かれながら、あたしは口を開く。 人を一途に愛するウラジミールのように、不器用な恋しか出来ないジナイーダのように。 あいつの問いに答えるために。 自分の想いを、伝えるために。 あたしもあんたが好きだと、あたしは答えた。 |
赤城 2020年05月03日 18時08分32秒 公開 ■この作品の著作権は 赤城 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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