キンシコウは語らない |
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窓から吹き込んだ風が、ふわりとページを持ち上げる。 俺は文庫本のページを右手の指で押さえ、めくれるのを防いだ。『殺戮にいたる病』というミステリ小説だ。 それを読み進めながら、昼食のやきそばパンを頬張る。グロテスクな場面が多い作品だが、俺は気にせず食事ができるたちだった。もっとも、食事をしながらの読書は行儀が悪いかもしれないが。 「それにしても暑いな」 額ににじんだ汗を、左手でぬぐった。 「暑いですね」 女性の声。 一歳年下の藤原だ。 俺の五メートルほど前方にあるパイプ椅子に腰かけている藤原は、読んでいた本から視線を上げていた。フレームレス眼鏡の奥にある凛とした瞳が、まっすぐに俺の顔を捉えている。 「今日は風があるぶん、ましですけど」 「それでも暑い。エアコンが欲しいよな」 「予算の関係でしょう。仕方ありません」 「とはいえ、最近の夏は暑いからな。文化部の部室にもエアコンがあっていいと思う。学校側に相談してみるか」 「でも、今は夏休み期間中です。本来なら、文芸部の活動はおこなわれていない時期です」 「まあ、そうなんだよな。それを考えると文句は言えないか」 ここは、県立基角高校の文芸部室だ。真夏の太陽に熱せられた室内は、灼熱地獄と化している。一応、窓を全開にして扇風機を回しているが、焼け石に水だ。 今、ここにいるのは俺たち二人だけだった。当然だろう。夏休み中にも関わらず部室で活動をする熱心な文芸部員なんて、俺と藤原くらいのものだ。 藤原は手にしている本に視線を落とし、読書を再開した。 俺もふたたび文庫本に目を向け、やきそばパンの残りを口に放り込む。その後はペットボトルのお茶を飲みつつ、パイプ椅子の背もたれに身体をあずけ、静かに読書をつづけた。三日前から読んでいる『殺戮にいたる病』は、もう終盤に差しかかっている。 ラストシーンまで読み終えると、俺は茫然とした。衝撃の結末に、脳がしびれる。有名なタイトルなのだが、評判にたがわない面白さだった。なぜこれまで読んでいなかったのかと後悔するくらいだ。 「増川先輩、面白かったんですか?」 藤原が尋ねてきた。 「あ、ああ。この本のことか? たしかに面白いと思ったが、どうしてわかった?」 「うれしそうな顔をしていたので」 「そうか。思わず顔に出てたんだな。俺好みの内容だったし、どんでん返しがすごかったからな。俺も」 思わず口にしそうになった言葉を、あわてて飲み込む。 「俺も?」 「いや、なんでもない。とにかく、面白い作品だったよ」 「そうでしょう。私も好きですよ、その作品」 「藤原も読んでたのか。こんなグロいのも大丈夫なのか?」 「はい。私、なんでもいけますから」 「そういえば、そうだったな」 彼女は学術書からライトノベルまでなんでもありの乱読派だ。今手にしているのは、『眼の誕生』というタイトルの、なにやら難しそうなハードカバーだった。 俺は、室内に設えられている時計を見る。十三時三十二分。せっかくだから『殺戮にいたる病』について語り合いたいところだったが、もう時間がない。また今度にしよう。 「よし。今日の文芸部の活動はここまでにするか」 「わかりました」 藤原は『眼の誕生』を鞄にしまい、立ち上がった。窓際に行き、開け放っていた窓を閉め始める。 俺も腰を上げると、昼食のゴミを手に取って室内のゴミ箱に放り込んだ。そのまま扇風機のところに行き、停止のスイッチを押す。 先ほど自分が口にするところだった言葉を思い返した。 俺もこんな作品を書いてみたい。そう言おうとしたのだ。 自分に言い聞かせるように、首を振る。 馬鹿なことを考えるな。できもしないことを、やろうとするものじゃない。 「先輩、相談というか、提案があるんです」 窓を閉め終えた藤原が言った。 「なんだ?」 「私この前、『西遊記』を再読したんですけど」 西遊記。三蔵法師とその従者である孫悟空たちの旅を描いた、言わずと知れた中国の古典作品だ。日本でもドラマや映画、絵本などによって広く知られている。 「西遊記? 原作をか?」 「はい。岩波文庫のやつです」 「ほう」 俺も以前、教養のためにと思って読んだことがあるが、内容はあまり覚えていなかった。 「なんでまた?」 「古典作品を深く知ることで、筆力を上げることができるのではないかと」 藤原は小説を執筆し、新人賞へ挑戦しているのだ。 「西遊記はだいぶ前に読んでいたんですけど、細かい部分は覚えていなかったので、もう一度読んでみることにしたんです」 「なるほど。熱心だな」 「それでですね、動物園に行ってみようと思ってるんです」 「動物園? なんで?」 「キンシコウがいるんですよ。地元の動物園」 「キンシコウ。サルだな。孫悟空のモデルになったっていう」 「はい。西遊記を読んでいたら、本物のキンシコウを見てみたくなって。それで調べたら、地元の動物園にいるみたいなんです」 「へえ、そうなのか」 「それで今度の日曜日に、動物園に行ってみようかと。一人で行くのもなんなので、増川先輩も一緒にどうかと思っているんです」 思いもよらない言葉に、心臓が跳ね上がる。 俺は藤原の顔を見た。 肩の上でまっすぐに揃えられた黒髪。眼鏡の奥にある大きな目からは、長いまつ毛が伸びている。アーモンド形で、太めの眉と相まって力強い印象を与える目だ。筋の通った小鼻と、やや厚めの唇。 彼女は間違いなく美人だ。感情をあまり表に出さないので、笑顔を見せる機会は少ないが、無表情でもその魅力が損なわれることはない。 そんな藤原を、俺はずっと意識している。 「どうですか?」 俺が黙っていたからだろう、藤原が返答をうながした。 「藤原、一つ確認していいかな?」 「はい」 「それは先輩後輩としての誘いか? それとも」 「先輩後輩としてです」 俺の言葉を遮るほどの即答だった。 藤原に気づかれないように、小さなため息をつく。 まあいい。それならそれで、余計な気づかいをせずにすむ。 「わかった。じゃあ、一緒に動物園に行こうか」 「ありがとうございます」 特に喜んでいるふうでもなく、淡々とした受け答えをする藤原だった。 「じゃあ日曜日、どこかで待ち合わせしようか」 二人の住居から近く、わかりやすい場所がいい。藤原は地元の中心駅の、入り口前を提案した。 「よし、そうしようか。時間はどうする?」 「朝からがいいです」 「じゃあ、九時でいいかな?」 「はい」 「決まりだな。早く部室から出ようぜ。暑くてたまらん」 俺は机の上に置いていた文庫本と文芸部室の鍵を持ち、ドアを開いて廊下に出る。藤原も部室から出たのを確認し、ドアを施錠した。 俺たちが出会ったのは、藤原が新入部員として文芸部に入ってきたときだ。 そのころの彼女は、肩甲骨のあたりまである髪を二本の三つ編みにすることが多く、黒縁の眼鏡をかけていた。入学早々にスカートを短くする女子生徒もいる中、藤原はひざ下までの長さがあるスカートを着用していた。 地味というか古風というか生真面目というか、まるで文系という概念を擬人化したような存在だと、俺は感じたものだ。 文芸部は男女混合で、新入部員五人の中で藤原を含めた三人が女子だった。 藤原は女子部員の中でも目立つほうではなく、だから俺は当初、藤原に後輩部員以上の感情を抱くことはなかった。 だが部活動を通じて交流するうちに、その気持ちに変化が生じる。 俺たちが、同じ夢を抱いていることを知ったからだ。 高校教師と小説家という、二つの夢を。 お互い二つの夢を持っていて、一つだけならいざ知らず、両方が共通しているというのは相当珍しい。運命という表現は大げさだろうが、俺は親近感を覚えたし、藤原もそうだったのだろう。 俺たちが親しくなるのに、時間は要さなかった。 好きな小説について語り合ったり、部誌に掲載する作品をお互いに読んで感想を伝え合ったりした。 親交を深める中で、彼女が俺にはないものを持っていると感じ、惹かれていった。容姿も、地味ながら魅力的であることに気がついた。 いつしか俺は、藤原に対し特別な感情を抱いていた。 彼女と会える文芸部の活動は、俺にとってなによりも楽しみな時間になった。 高校教師と小説家という、二つの夢。その共通点を持てたことは幸運だったと、俺は今でも感じている。それが、俺たちを引き合わせてくれたことは間違いないからだ。 もっとも、今となっては、かつて共通点だったと言うのが正しい。 俺は、小説家という夢を捨てたからだ。 日曜日の朝。 俺は地元中心駅の、入り口前に立っていた。周囲には多くの人が行きかっている。日本三大名城にも数えられる城などで知られるこの街は、観光客も多い。 柄にもなく、そわそわしていた。藤原は先輩後輩としての誘いだと言ったが、これはほとんどデートみたいなものだ。純粋に楽しみだったし、彼女がどんな服を着てくるのかも気になる。 ちなみに俺のほうは、Tシャツにジーンズという地味な服装だった。変に気合を入れていると思われるのもいやなので、あえてこうしたのだ。 空はよく晴れていて、絶好のお出かけ日和と言えた。だがその分気温も高く、午前中だというのに早くもつらさを感じるほどの暑さだ。日陰にいても汗がにじみ、背中を伝っていく。手をうちわ代わりにし、首元を扇いだ。 藤原がやってきたのは、午前九時ちょうどだった。 「早いですね、増川先輩」 「遅れちゃ悪いと思ってな」 待ちましたか、と聞いてこないところが藤原らしい。 彼女は白いノースリーブのブラウスに、七分丈のチノパンという出で立ちだった。頭には日差し対策か、水色のバケットハットを被っている。特別おしゃれだとは思えないが、清楚な印象で、藤原にはよく似合っている。 それを口にするべきかどうか迷って、結局やめた。他の女ならともかく、藤原はそんなことで喜ばない気がしたからだ。 ここからは路面電車で動物園に向かうことになる。すぐ近くにある停留所に並び、やってきた車両に乗り込んだ。多くの人が乗車したため、二人とも座ることは叶わず、吊皮を握って立つことになる。 路面電車はゆっくりと出発し、ビルの立ち並ぶ市街地を進んでいく。一律の値段で市内を移動できるこの電車は、市民と観光客の大切な足だ。 「知っていました?」 と藤原。 「日本でキンシコウがいるところって、今から行く動物園が唯一なんです」 「ああ。知っていたというか、昨日知った。キンシコウについて調べてみたからな」 キンシコウは、中国の西部にのみ生息するサルの一種だ。 漢字では金絲猴と書き、ゴールデンモンキーとも呼ばれる。その名のとおり、金色の毛並みが大変美しいサルということだ。 孫悟空のモデルになったという部分には諸説あるようだが、西遊記で華々しい活躍をする孫悟空のイメージにはぴったりだろう。 日本にいるキンシコウは、ジャイアントパンダと同様、中国から貸し出されているものだ。生息地が狭いうえに数が減少しているため、簡単には見られない貴重な動物というわけだ。 かつては国内数か所の動物園で飼育されたことがあるものの、そのほとんどが中国に返還され、今では俺たちがこれから行く動物園にしかいないとのことだ。 「ちょっと運命めいたものを感じているんです」 弾むような藤原の声。表情は相変わらず無表情に近いが。 「見たいと思ったキンシコウが、たまたま地元にいるなんて」 「そうだな。運がよかったな」 城の敷地と市役所のあいだを通る道を走り、市内で一番栄えているアーケード街の前を通過し、路面電車は郊外へと向かう。俺たちが乗り込んでから四十分ほどで、動物園の最寄停留所に着いた。料金を運賃箱に投入し、下車する。 そこからさらに十分ほど歩き、動物園の入り口前にたどり着いた。親子連れなど、多くの人で賑わっている。 カップルの姿も多い。傍から見れば、俺たちもそう見えるのだろうか。ちらりと藤原の様子を確認してみるが、いつもどおりの無表情だ。意識しているのは俺だけかと、少し寂しくなる。 入り口横にある券売機で入場券を購入する。市営なので、料金は三百円と安い。 藤原の分まで俺が払おうかと思ったが、彼女は当然のように一人分の料金を財布から出していたので、やめた。まあいい。そんなことをしても藤原はなびかないだろう。 正門から入場すると、まず目に入ったのはサルの姿だ。といってもキンシコウではなく、毛が黒い。周囲を池に囲まれた小島のようなエリアに、三本のヤシの木と、登り遊具のようなものが立っていて、数頭の黒いサルが戯れている。近づいて案内板を見ると、クモクロザルという種類だということがわかった。 「増川先輩、最近ここに来たことは?」 となりにいる藤原が言った。 「いや、ないよ。だいぶ久しぶりだ。たぶん小学生のころ以来じゃないかな」 「私も小学生以来です。そのころは、まだキンシコウはいなかったんですよね」 「そうらしいな」 そのあたりも、昨日調べたので知っていた。 「さて、そのキンシコウはどこにいるんでしょうか」 藤原は入場時に受け取ったパンフレットを広げた。 上空では太陽が強烈な光を放ち、俺たちを容赦なく照りつけている。額に浮かんだ汗を手の甲でぬぐいながら、俺は喉の渇きを覚えた。周囲を見ると、ちょうど右手に売店がある。 「藤原、先に飲み物を買わないか? 熱中症対策をしないと」 「そうですね」 二人で売店に入る。中は冷房が効いていて気持ちよかった。 おみやげ商品がメインの店だが、通常のドリンクも売っていた。俺はペットボトルのスポーツドリンクを、藤原はお茶を、それぞれの金で購入した。 そのまま店内に残り、パンフレットの園内マップでキンシコウがいる場所を確認する。 この売店を出て右へ行き、突き当たりをまた右に進むと、キンシコウのエリアに着くようだ。比較的、ここから近い場所だ。 「結構近いですね。では、まっ先に目当てのキンシコウを見に行くことにしますか」 「ああ、そうしよう」 売店から出た。スポーツドリンクのボトルを開封し、一口飲む。蓋を閉めると、藤原とともに歩き出した。 マップで見たとおりに進んでいくと、左手にシマウマのいる広いエリアが見えてきた。その向かいに、アーチ状の白い屋根がついた場所がある。屋根の前には、幅二十メートル、高さ五メートルほどの、黒い金属網で造られたケージが建っていた。どうやらあそこがキンシコウのいる場所らしい。屋根の下が鑑賞するエリアになっているのだ。 ケージの前には四人の親子連れがいたが、わいわい会話をしながら去って行く。その親子連れと入れ違うように、俺たちは屋根の下に入った。直射日光を避けられるため、体感温度がだいぶ下がり、ほっとする。 観賞エリアは柵によって三列に区切られていて、最後方の列は一段高くなっている。一度に多くの人が集まっても、見やすくするための配慮だろう。 キンシコウが初めてこの動物園に来た当初は、多くの客が押し寄せたのかもしれない。しかし今、この場にいるのは俺と藤原の二人だけだった。キンシコウが貴重な動物だと知っている人は、それほど多くないのかもしれない。 ケージにはキンシコウの説明が掲示されていて、平均気温が氷点下になる寒地に生息することや、草食で、牛のように複数の胃袋を持つことなどが記されている。 ケージは中央で区切られており、左右にそれぞれ一頭ずつのキンシコウがいた。丸太が縦横に巡らされているのは、運動できるようにするためだろう。 ケージ左側にいる一頭は、丸太を上下左右に移動していた。右側の一頭は、高い位置にある丸太の上でうずくまったまま動かない。 調べたとおり、美しい毛並みのサルだった。明るい褐色の毛は、陽光が当たるとキラキラときらめく。どちらかというとオレンジ色に近い印象だが、金色と表現してもおかしくない色合いだ。 頭部や背中、脚は金色だが、腹部は白い毛だった。また、目鼻口の周囲には毛がなく、青白い肌が見えている。長い尻尾が生えており、そこも金色の毛でおおわれていた。 大きさは、ニホンザルよりも一回り大きいくらいか。 俺は食い入るようにキンシコウたちの様子を見つめた。中国の一部にしか生息しない貴重な動物を、この目で見られているという事実に、少なからず感動を覚える。ましてや、現在日本でキンシコウを目にできる場所は、この動物園だけなのだ。 藤原の様子をうかがってみる。彼女もまた、無言でキンシコウを見つめていた。 いや。 よく見ると口が動いている。それに、小さくて聞き取れはしないが、なにか言葉を発しているようだ。 キンシコウに話しかけているのだろうか? 俺が顔を見ていることに気がついたのか、藤原がこちらに視線を向けた。 「先輩、どうかしましたか?」 「いや藤原、今なにか話してなかったか?」 「はい」 藤原はふたたび、キンシコウのほうに視線を戻す。 「訊いていたんです、キンシコウに」 「訊いていた?」 「はい。どうすれば小説を上手に書けるようになるかを」 どう返していいのかわからず、俺は黙った。 藤原はまた俺のほうを見た。その顔には、おちゃらけたところなどない。いつもどおりの無表情で、真顔だった。 本気で言っているのだ。 「変でしょうか?」 「変だな」 率直に、俺は言った。 「正直言うと、困惑してるよ。藤原が、そんなおかしなことを言うなんて」 彼女は少々変わり者ではあるが、不思議ちゃんというわけではない。 「私だって、キンシコウが答えてくれると本気で思ったわけではありません。ただ、孫悟空のモデルになったと言われるこの子たちなら、私の現状を打破するヒントをくれるような、そんな気がしたんです」 俺はなにも言わなかった。藤原はつづける。 「孫悟空は石の卵から生まれました。生まれたときから他のサルとは違う、特別な存在だったんです。中国の一部にしか生息せず、美しい容姿を持ったキンシコウもまた、特別な存在だと思います。そんなキンシコウたちに、訊いてみたかったんです。どうすれば、私も特別な存在になれますかって」 「特別な存在。プロの小説家にってことか?」 「はい」 「それを訊くことが、キンシコウを見たいと思った理由なのか?」 「はい」 「それで、キンシコウたちは答えてくれたのか?」 「いえ。この子たちは、なにも語ってはくれません」 「そうか」 当然だ。キンシコウはサルなのだ。人間と言葉が通じるはずがないし、まして小説を上手に書く方法なんて、知っているわけがない。 俺たちはまた、キンシコウのいるケージに目を向ける。 ケージ左側のキンシコウは、相変わらず丸太左右にを歩いたり、ケージの網につかまったりと、せわしなく動いてる。右側にいるもう一頭も、やはり丸太の上でじっとしていた。なにかを探すように、首をきょろきょろと動かしている。 「なあキンシコウさん」 俺は言ってみた。藤原には聞こえないほどの、小さな声でだ。 「俺たち二人の姿は、きみたちにはどう見えているんだ?」 キンシコウはなにも語らない。鳴き声さえ聞こえてこない。彼らは彼らの世界で生きていて、人間のことなど気にも留めていないのだろう。 その姿を見つめていると、毛並みの美麗さに、あらためて惹きつけられた。明るい褐色は陽の当たり方によって、輝く黄金のようにも、燃え上がる炎のようにも見える。 これほど目を引く容姿を持った動物は、そうはいまい。 「キンシコウはなにも語ってはくれませんが」 藤原が言う。 「こうして見ているだけでも、心を奪われますね。まるで身体から神々しい光が放たれているかのようです」 「ああ。名前にキンやゴールデンがつく生き物はいくつかいるが、キンシコウほどふさわしい動物はいないんじゃないかな」 「そうですね。孫悟空のモデルになったという説にも、うなずけます」 「おまけに、希少性の高い動物だときたもんだ。今こうして目にできているのは、本当に運がいいことなんだろうな」 「はい」 そう、キンシコウは間違いなく特別な存在なのだ。 そして、プロの小説家も。 「藤原、小説家になるのはあきらめようと、そう思ったことはないのか?」」 藤原のほうに目を向け、俺は言った。彼女は相変わらず、キンシコウを見つめたまま視線を動かさない。 「ありません」 「どうしてだ? どうしてそこまで、夢を追いつづけることができる?」 「どうして、とは?」 「さっき、自分でも言ってたじゃないか。小説家は特別な存在だって」 どの分野でもそうだが、人間には越えられない才能の壁というものがある。 才能を有したものの多くは、若いころからその能力をいかんなく発揮し、周囲から一目置かれる特別な存在なのだ。 孫悟空のように。 絶えまない努力の末に才能の壁を破り、成功を収めた人物は賞賛されるが、それを成し遂げられる者は、極めてまれだ。 多くの者は壁にぶつかり、破ることができずに挫折することになる。 一方で才能のあるものは、その壁をたやすく越えていく。 小説家の世界も例外ではない。 ある作家は、プロ野球を観戦しているときにふと小説を書くことを思いつき、初めて書いた作品で新人賞を受賞している。その後はまたたくまにベストセラー作家となり、今では世界的に有名な作家だ。 才能があるとは、そういうことなのだ。 もちろん、成功をつかんだ人だって努力はしたのだろうし、成功したあとも努力をつづけているのだろう。それはわかっている。 しかし、努力が結果に結びつく者もいれば、いくら努力をしても報われない者もいる。それが才能の違いなのだと思う。 残念ながら、俺は特別な存在ではない。努力だって自分なりにしたつもりだが、結果に結びつけることができなかった。これまで三作の小説を新人賞に投稿したが、いずれも一次選考で落選だったのだ。 「藤原、この前出したって言ってた新人賞、そろそろ一次選考の結果が出るころだろう。どうだったんだ?」 「落ちました」 藤原はキンシコウに目を向けたまま淡々と言って、手にしていたペットボトル入りのお茶を一口飲んだ。 「その前に出した作品も、一次落ちだったって言ってたよな?」 「はい」 そう、藤原も俺と同様、特別な存在ではないのだ。 「もう、プロは厳しいんじゃないか? いい加減、潮時なんじゃないのか?」 誤用を承知の上で、俺は口にした。潮時という言葉にはすでに、引き際という意味が定着しているように思える。 「私は、そう思いません」 藤原の声の調子に変化はない。今日もやがて陽が沈み夜が来る、そんなあたりまえのことを話すような、落ち着いた声だ。 彼女は小説家という夢を本気で追っていて、それゆえに、それ以外のことは頭にないのだ。 俺のことも。 しかし俺は藤原のことが好きで、彼女と恋人関係になりたいと思っていた。そしてその先のことも。 藤原には小説ではなく、俺のことを見てもらいたいのだ。 今ここで、彼女に想いを伝えよう。ほとんど衝動的にそう思った。休日に二人で遊びに来ていて、今は周囲に誰もいない。シチュエーションとしては絶好だ。 「藤原、夢を見ることは素晴らしいことだと思うよ。でも人間の営みには、他にも素晴らしいことがある。たとえば恋愛だ」 藤原はキンシコウを見つめたままだ。構わず、俺は告げた。 「俺は藤原のことが好きだ。俺と付き合ってくれないか?」 自分でも不思議に感じるほど、自然と言葉が出た。 藤原は俺のほうを向き、ゆっくりと首を振る。 「無理です」 半ば予期していたので、ショックはさほどなかった。ここからどう口説くかが重要なのだ。 「なぜだ?」 「恋愛をするということが、考えられないからです。私の頭は、小説のことで一杯ですから」 「恋愛をしながらでも、小説は書けるだろう。違うか?」 「それはそうでしょう。でも私は、小説以外のことに意識を奪われたくないんです」 「これまで、一度も恋愛経験がないのか?」 「はい」 特に恥じる様子もなく即答する藤原。まさかとは思っていたが、本当にそうだったのか。 だが、これが突破口になるかもしれない。 「たとえば恋愛小説を書くときに、自身の恋愛経験が役に立つことだってあるんじゃないか?」 「経験が必ずしもプラスになるわけではないと私は考えています。経験がないことを想像することで、想像力を鍛えることもできますから」 「だけど、経験があることのほうが書きやすいだろう?」 「経験がないことは書けない、というわけではありません。ミステリ作家は、人を殺したことがないでしょう」 ああ言えばこう言う、だな。 今度は正攻法で攻めてみることにした。 「藤原、きみは魅力的な女性だ。見た目も、性格も。そんなきみが、俺は純粋に好きなんだ」 藤原に表情に、わずかながら変化が生じた気がした。驚いたというか、きょとんとした顔になっている。 「藤原は、俺のこと嫌いか?」 数秒間の沈黙のあと、藤原は小さく首を振った。 「私は増川先輩のこと、すごくいい人だと思っています。先輩といると楽しいですし、なんだか心が落ちつくんです」 「だったら、俺と付き合ってくれ。俺が恋愛の楽しさを教えてやるよ。小説を書くことよりも、もっと楽しい思いをさせると約束する。その自信はあるんだ」 きざなセリフに、自分でも恥ずかしくなる。ただこれは、偽らざる本音だ。 祈るような気持ちで藤原の顔を見る。 しかし、彼女はまたも首を振った。 「ごめんなさい。先輩は本当にいい人だと思っていますけど、今は純粋に、恋愛に興味を持てないんです。小説家を目指すということしか考えられないので」 目に映る景色が色を失ったような錯覚に陥る。そのあとで、煮えたぎるマグマのようなものが腹の中に生まれ、体温が急上昇するのを感じた。 なぜ、藤原はここまで小説に執着するのか。 なぜ、実現不可能な夢を追いつづけるのか。 なぜ、俺の想いを受け取ってくれないのか。 「だったら、いつになったら恋愛をする? 小説家になったときか?」 藤原は答えない。いや、答えるまえに俺が矢継に言葉を放っていた。 「もし小説家になれなかったら、一生恋愛をしないつもりかよ」 冷静さを失っていることは自分でもわかっていたが、あふれる感情を抑えられない。 「いい加減、現実を見ろよ。もうプロなんて無理なんだよ」 思わずひどい言葉を投げかけてしまい、しまったと思った。すぐに取りつくろおうかと思ったが、その前に藤原が口を開いた。 「先輩、現実って、なんでしょうか?」 突然の問いに戸惑う。すぐには答えが浮かばない。 「『現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ』。ある小説の主人公は、そう言っていたな」 「その作品は私も読みましたけど、先輩自身はどう考えているんです?」 「夢の反対だろう」 結局出てきたのは、そんな、なんのひねりもない答だった。 「抗いようのない運命のことさ」 「そうですか。それも決して、間違いではないと思います」 「藤原は、どう考えているんだよ」 「現実とは、起こったことのすべてです。夢を叶えられなければそれは現実ですが、夢を叶えられたとすれば、それもまた現実です」 「じゃあ、夢とはなんだ? ちなみに俺はこう考える。夢とは、決して叶えられないこと。叶うことは、夢じゃなく計画と呼ぶ」 「夢は、未来に想いをはせることのすべてです。実現可能なことであろうと、不可能なことであろうと」 すると藤原は、儚げな笑みを浮べた。非常に薄い、わずかな表情の変化に過ぎなかったが、それは間違いなく笑顔だった。 「すべての人は、少しでもいい現実をつかむために、多かれ少なかれ夢を見ています。どれほど壮大な夢を見ようとも、それは人の自由です。私だって、まだ夢を見ていいと思うんです」 まぶしい。そう思った。 純粋に、無垢に、彼女は夢を追っているのだ。まるで幼い少女のように。 「先輩はどうなんです?」 「俺?」 「もう、小説家は目指さないんですか?」 「言ったはずだろう」 俺がすでに作家の夢をあきらめていることは、藤原にも話していた。 「俺には、作家になれる才能なんてないんだよ」 「本当に、そう思ってるんですか?」 藤原はそう言った。 「先輩、本当はまだ、小説家になりたいと思っているんじゃないですか?」 言葉が出なかった。 そんなことは思っていないと、瞬時に返せるはずなのに、それを口にすることができない。 俺はまだ、小説家の夢をあきらめきれていないのか? 自分に問う。 出てきた回答は、現実的に考えて無理という、常識的なものだった。 そうさ。無理なんだ。俺には小説家なんて。 そう自分に言い聞かせていると、藤原の声が耳に入る。 「夢をあきらめるには、まだ早いんじゃないですか?」 胸の奥が、急激に熱くなった。 のん気なことを言うなよ。俺の気持ちを受け取ってくれないうえ、そんなことまで言うのかよ。 「まだ早いだと? そんなわけがないだろう。もう遅いんだ。遅すぎるんだよ」 つい声が大きくなる。 「俺はもう、四十一歳なんだぞ」 俺は現在四十一歳、藤原はもうすぐ四十歳。 俺たちは、かつては高校の文芸部仲間で、今は高校教師としての同僚だ。 俺が高校を卒業して大学に進学したあとも、しばらくは藤原と連絡を取り合っていた。しかし少しずつその頻度も少なくなり、やがて疎遠になった。大学生活をつづけるうち、新たな出会などもあり、彼女に対する感情も薄れていったのだ。 藤原が俺とは別の大学に進学したことは、だいぶあとになって人づてに聞いた。 俺は教員免許を取得し、夢の一つであった高校教師になることができた。いくつかの高校を回り、昨年、現在勤務する基角高校に赴任した。 そこに今年赴任してきたのが、同じく高校教師という一つの夢を実現していた藤原だったのだ。 俺たちは再会を驚き、喜び合った。二人とも未だに独身だったこともあり、自然と意気投合した。 藤原とふたたび親交を深めると、俺の中にあった彼女への恋心も再燃した。 まるで高校時代に戻ったような気分になっていた。藤原も同様だったのだろう。 夏休み期間に入ってから、俺たちはある遊びをしていた。 昼休みに文芸部室に入り、そこで昼食をとりながら本を読むのだ。 高校時代の俺たちは、夏休み期間中でも文芸部室で活動をする熱心な部員だった。そんな時代をなつかしみ、あの日にタイムスリップした気分になれる、文芸部ごっこだ。 校内では俺のことを「増川先生」と呼ぶ藤原だったが、このときだけは、高校時代と同じく「先輩」と呼ぶのだった。俺のほうも、「藤原」と呼び捨てにすることにしていた。 だが、いくら昔に想いをはせても、時間が戻ることはない。 今の俺たちは、もう若くはないのだ。 「年齢が、関係あるのでしょうか」 静かに、藤原は言った。 「あるさ」 俺は言う。 「プロになるような連中は二十代、遅くても三十代でデビューするもんだろ?」 「それは先輩の認識違いですよ。五十代、六十代でデビューした作家もいるんですよ」 「それはあくまで例外だろ。それにきっと、年を取ってから小説を書き始めた人たちだ。若いときから書いているのに結果は出せなかった俺は、才能がなかったってことだよ」 藤原は表情を変えず、俺を見つめつづけている。 「それに、高校教師という一つの夢を叶えられたんだから、それでいいんだ」 俺が新人賞で三度落選したのは、大学生のときだ。 だがその時点で心が折れたわけではない。実際に小説家の夢をあきらめたのは、高校教師として働き始めてからだ。 授業、担任するクラスのまとめ、保護者との関わり、校務分掌と呼ばれる校内の事務、さらに部活動の顧問。 高校教師の仕事は、想像以上の激務だった。 朝七時には出勤し、帰宅は夜の九時や十時になるのがあたりまえ。休日も、部活や翌週の準備でつぶれることがある。そんな生活では、小説を執筆する時間など、とてもじゃないが持てない。 だが、そんな教師の仕事に、俺はやりがいを感じていた。 高校教師という一つの夢を実現できたのだし、小説家の夢はもういいじゃないか、いつしかそう思うようになっていた。 大学時代に投稿した作品がいずれも一次落ちだったことで、才能に限界を感じていた部分も、当然あった。 「誰にでも、天職というものがある。俺にとっては、教師がそうだったんだ」 そう考えて、これまで仕事をつづけてきた。 恋愛もそれなりに経験したが、結婚に至ることはなかった。そんな俺も四十を過ぎ、結婚願望が強くなってきた。 今の俺にとっては、藤原と恋人関係になり、いずれ結婚するということが夢なのだ。 最後の抵抗とばかりに言った。 「藤原。もう一度考えてくれないか? 俺と付き合ってくれ。俺には、藤原が必要なんだ」 今の俺が持つ、ありったけの情熱を込めた。 「たしかに恋愛は、小説を書くのに障害になるかもしれない。でも藤原は、もう高校教師という一つの夢を叶えているじゃないか。それで満足はできないのか?」 「だめですよ」 彼女はまた、薄い笑みを浮べた。 「高校教師という夢は、私にとってあくまでも第二希望なんです。教師になって十数年が経った今でも、その気持ちは変わりません」 「もしもプロデビューしたら、教師は辞めるのか?」 「はい」 ためらいもなく藤原は言った。 公務員は副業が禁じられているから、公立高校の教師である俺たちは、教師と作家を両立することはできない。それは、俺が小説家の夢をあきらめた理由の一つでもあった。 「だから先輩、ごめんなさい」 頭を下げる藤原。 「私にとって、小説家という夢は人生のすべてなんです」 「そうか。わかったよ」 俺はごく自然に、そう返していた。 彼女は強い。夢という一本軸が、極太の大黒柱のように立っていて、揺らぐことはない。俺の想いは、決して届かないのだろう。 藤原は頭を上げた。そんな彼女に、俺は笑いかける。見事なまでの振られっぷりに、清々しい気分でさえあったのだ。 「夢は人生のすべて、か。藤原らしいな」 「はい。才能というものは、私にもないのかもしれません。それでも私はまだ、夢を見ることができます。夢を見られる限りは見つづけたいんです」 ほんのわずかな迷いも感じさせない、力強い言葉だった。 「現実を見るのは、夢を見尽くしてからでもいい。そう思うんです」 これが、藤原の心の強さだ。 俺が持っていない、彼女の最大の長所だ。 「先輩だって、まだ夢を見られるんじゃないですか? 見たいと思ってるんじゃないですか?」 「え?」 「『殺戮にいたる病』を読み終えたとき、先輩すごくいい表情をしていました。あのとき、自分もこんな作品を書きたいって、思ったんじゃないですか?」 自然と、自分の目が大きく見開かれるのを感じた。 あのとき俺は、たしかにそう思った。 いや、これまでに何度もあったのだ。いい小説を読み終えたときに、自分も書きたいと思うことが。そのたびに、もう無理なんだからと、その気持ちを打ち消してきた。 そうだ。 小説を書きたい、小説家になりたいという思いは、俺の中から完全には消えていない。それは認めざるを得ない事実だろう。 教師の仕事が忙しくて執筆ができない、そんなことは言い訳にすぎないと、本当はわかっているのだ。 俺と同じく忙しいはずの藤原は、ずっと執筆をつづけることができているのだから。 「たしかに、俺には小説を書きたいという思いが、まだあるみたいだ」 俺は言った。 「だけど、どうしても、今さら遅いと思ってしまうんだ。藤原は、そう思わないのか? なぜ小説を書きつづけることができるんだ?」 「ただ書きたいから。それだけですよ。先輩も書きたいなら、また書いてみてはいかがですか。そうしたほうが、気持ちいいですよ」 藤原の心は、どこまでもまっすぐだ。 そんな彼女に、俺はもしかしたら嫉妬してたのかもしれない。 俺がとっくの昔に捨てた夢を持ちつづけ、自分を信じて走るその姿に。 何度壁にぶつかろうとも、何度一次選考で落ちようとも、決してあきらめないその精神力に。 「藤原は昔から変わらないんだな。うらやましいよ」 「増川先輩だって、本質的な部分では高校生のころから変わってないですよ」 藤原は言う。 「だけど、教師としての職務をまっとうするために、無理に自分を変えているようにも見えます。私は先輩に、高校時代の情熱を取り戻してほしいと思ってるんです」 藤原が俺を動物園に誘ったのは、そのためなのだろうか。文芸部ごっこのときと同じように、「先輩」と呼んでいることも。 藤原は、キンシコウのほうに視線を戻す。 俺もキンシコウを見た。美しい毛並みを持つ特別なサルは、俺の気持ちなど知る由もなく、ケージの中を動き回っている。丸太の上でじっとしていた一頭も、いつの間にか地面に降りて四本の足で歩いていた。 「あっ」 藤原が大きな声を上げる。彼女に目を向けると、眼鏡の奥の目が細められていた。満面の笑み。こんな笑顔を見せるのは初めてだ。 「答えてくれました」 「答えて?」 「はい。キンシコウが。『自分を信じて、そのまま進めばいい』って」 キンシコウと、テレパシーで通じ合ったとでもいうのか。 到底信じられることではない。 だが、否定する気にもなれなかった。 彼女はこうして、わが道を行くのだろう。 それに対して俺は、俺の道はどうなんだ。 俺の夢はまだ、散っていないのだろうか。 もう一度、小説を書くべきなのだろうか。 絶対につかめない未来だと思っていても。 また、小説家を目指すべきなのだろうか。 「さあ先輩、そろそろ行きましょうか」 と、藤原の明るい声。 「せっかくだから、他の動物も見ていきましょう」 これまでになく、柔らかな表情だった。彼女はもしかしたら、一つの壁を越えたのかもしれない。 「そうだな、そろそろ行こうか。キンシコウも藤原の問いに答えてくれたことだしな」 「ふふ」 藤原は軽く笑うと、俺に背を向けて歩き出した。 その背中を追い、俺も足を踏み出そうとしたが、その前にケージの中に目を向けた。 「なあ、きみたちはどう思う?」 金色のサルに話しかけてみる。 「俺はまた、小説を書くべきだろうか?」 ケージ右側のキンシコウのがこちらに顔を向け、俺と視線を合わせた。 だが、やはりなにも語りはしない。 なんだよ。藤原には答えたのに、俺には意地悪するつもりか。 いや、そうではない。 キンシコウは気づいているのだろう。 俺がすでに、自分で答を出しているということに。 まぶたを閉じた。深呼吸をし、自分の心と向き合う。 高校教師という夢を叶えた俺が持つ、もう一つの夢。 もう一度その夢を、小説家を目指してみるか。 そう決意した。 だめならだめで、それでもいいのだ。未練を残したまま年を重ねれば、絶対に後悔することになる。 俺の人生も、折り返し地点まで来ている。この先は、後悔しないで生きていきたい。そう強く願う。 目を開き、藤原のほうに視線を移した。彼女は、もう数十メートル先まで進んでいる。 俺は一歩を踏み出した。 藤原の背中に追いつくため。 第二の夢を追いかけるため。 |
いりえミト 2020年05月02日 17時25分04秒 公開 ■この作品の著作権は いりえミト さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2020年05月21日 14時49分58秒 | |||
Re:Re: | 2020年05月22日 13時40分47秒 | |||
合計 | 14人 | 270点 |
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