串カツの流儀 ~二度づけは禁止です!~ |
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「口に入れた瞬間、衣がサクッ、肉汁がジュワァとあふれ出て、濃厚なソースと絡まって、もう、口中でオイルショックが起きたかのように!」 「オイルショックの使い方、間違ってない? 言いたいことはわかるけど」 職場に女子社員の話し声が響く。その秀逸極まりないグルメレポートは周囲の社員たちの耳を傾けさせ、集中を乱す。 「あの味が忘れられなくってさぁ。毎日仕事終わりにその屋台を探しているんだけど、見つからなくてね」 「幻のお店?」 「お多福屋っていう屋号の、串カツ屋台なんだけど。ネットでも、たくさんの人が探し回ってる隠れ名店らしいよ。一度食べたら病みつきになって、誰もがもう一度食べたいと願うんだけど、その願いが叶った人は一人もいないんだって」 「二度と見つけられない屋台? マヨイガなんかに似たオカルトっぽいね。それか、話題性を生むためのマーケティング戦略か」 「籠目(かごめ)さん一曳(いちびき)さん、就業時間中ですので業務と関係ない話は控えて」 碇正吾(いかりしょうご)は女性社員二人のおしゃべりをたしなめた。二人のおしゃべりは、周囲の社員たちの業務を乱しに乱していたのだ。課の長たる碇は、二人を注意せざるを得なかった。 「はーい、すみません」 「もう、籠目さんのせいで、私まで叱られたじゃない」 「さあ一曳さん、さっさと仕事を終わらて帰りましょう! 愛する串カツとの再会を願って」 「勝手に言ってなさい」 一曳はため息をつきつつ自分のPCに向き直る。籠目も同様にPCに向かい、猛烈な勢いで仕事をこなし始める。串カツへの愛の力だろうか。 籠目が向き直った際に、彼女の髪が特徴的な形のかんざしで頭頂にまとめられているのに気づいた。かじりかけの串カツをかたどった、面白い形のかんざしである。どうやら彼女は串カツにドハマりしているようである。 おしゃべりが止んだ後も、課内の集中は途切れており、細波のようにざわついていた。昼休みからだいぶ時間が経過した、ちょうど小腹が空いてくる時間帯であり、そこへ来ての串カツの話題は皆の心にクリーンヒットしたのだろう。 まったく嘆かわしいと碇は思った。就業時間中は業務に集中するのが当然であろう。まったく、この程度で心をかき乱すとは。 二十年以上の間、こだわりと信念をもって仕事を続けてきた碇にとって、これしきのことで仕事に差し障りが出るなどもってのほかである。 衣のサクサクが絶品だの、ソースとの絡まり具合が抜群だの。きっと食ってみればそこまで言う程大したものでもないだろう。大幅に誇張や脚色がされているに決まっている。 いや、食べる前から決め付けるのはよくない。碇はそういう決め付けや根拠のない批判を何よりも嫌う。碇が心血を注いで考えた画期的な企画を、印象や先入観だけで上司に却下され、何度も涙を呑んできたのだ。 一度食べてみてからでないと、正当な判断は下せない。ならば、その幻の屋台――お多福屋だったか――を探し出し、味わってみなければならぬ。 「あの、課長?」 部下に話しかけられて、思考の海に沈んだ意識を引き戻した。いかん、今は業務に集中せねば。部下に示しがつかない。 「どうした?」 碇は意識して厳かな声音を作って答える。 「この部分のソースコードなんですが」 「ソースぅ?」 素っ頓狂な声を出してしまい、碇は自分でも驚いた。碇は咳ばらいを一つして声の調子を戻す。 「あ、うん。……なんでもない、続けてくれ」 「はい、他の機能とのインターフェースを考えなければなりませんので、横ぐしで見ていく必要があるかと」 「く、串?」 「詳細は資料をご確認いただくとして割愛いたしますが」 「かかか、カツ愛ぃ!?」 碇はたまらず立ち上がって叫ぶ。 「ど、どうしたんですか課長!?」 課内の人たちが碇のほうに視線を集中させている。碇は慌てて取り繕う。 「あ、あぁ。なんでもない。……いや、少し具合が悪いから、今日は早退するよ。帰りにお多福屋……じゃない、薬局に寄って、串カツ……ではなく薬を買って帰るよ」 キョトンとする課内の人々を尻目に、碇はいそいそと帰り支度を始めた。 ○ 会社を出た碇を、強い日差しが出迎えた。日が高いうちに退社するのは久方ぶりである。見慣れている筈の街並みも新鮮に感じる。 このまま妻や娘の待つ家に直帰するつもりはない。もちろん、薬局に寄ることもしない。 あの幻の串カツ屋台――お多福屋を探すのだ。 もはや隠す気は毛頭ない。 碇はあの幻の串カツが食べたくて仕方なくなっていた。 碇は食に関しては並々ならぬこだわりがあった。一生において食べられるものの数には限りがあるのだ、できるだけ美味しいものを食べなければもったいないではないか。 碇は近くの繁華街を目指し歩き進める。幻の屋台とはいえ、商売するのなら適切な立地で行うだろう。 食にこだわりを持つ碇である、彼の妻もやはり料理上手であった。結婚する大きな決め手が美味い料理が作れるからだったといっても過言ではない。 碇の胃袋はすっかり妻の料理の虜になっており、お腹がすくころになるときゅうきゅうと唸って帰宅を促すのだ。 とはいえ毎日妻の手料理を食べているわけではない。仕事の付き合いや妻へのねぎらいなどでたまに外食をすることもある。 しかしこれまで外食したどの店も、妻の手料理に並ぶものはなかった。どんな高級店、人気店で食事をしても、妻にはかなわなかった。途中で妻の料理が恋しくなって、食事もそこそこに早く帰りたくなって仕方なくなる。 だがそのような外食も決して無意味なものではないと碇は考える。毎日妻の料理を食べていれば、どうしても有難みが薄れてしまうものだ。たまの外食は、妻の料理の美味しさを再認識させ、そんな料理を毎日作ってくれる妻への感謝の気持ちを改たにさせる。また、そんな料理を毎日食べることが出来る自分の幸せを実感できる。碇にとって外食は、そんな儀礼的な行為と化している。 今回の串カツ屋も、きっと妻の料理に対する当て馬にしかならないのだと、碇は考えている。串カツなどという料理が、驚くほど美味しいはずがない。妻の料理に勝てるわけがないのだ。 きっと、妻の料理の良い引き立て役となってくれるだろう。引き立て役が強ければ強いほど、優ったときのカタルシスは大きくなる。籠目のあれほどの熱弁に値する料理だ、対抗馬として申し分ない。そんな思いを胸に、碇は繁華街へ向かう足を速める。 繁華街に到着した。まだ早い時間のため、ほとんどの店は開店前である。食材を仕込む雑多な香りが漂っており、碇の胃袋を刺激する。 碇は狭く人通りの少ない路地を重点的に捜索する。幻の屋台なのだ、大通りで大ぴらに商売はしていないだろう。隠れ家的にひっそりと商っているに違いない。 さあここからは、自身の嗅覚と直感、執念と根気の勝負である。碇は二十年以上もの間職場で培ってきた経験をフル活用して、幻の串カツ屋を捜索する。今日その幻の串カツと出逢えなければ、そのまま絶食して飢え死にする覚悟で、碇は裏路地という裏路地を捜し歩いた。 「み、見つけた」 日も沈みかけた頃、ついに碇は『お多福屋』と書かれた提灯がかかった屋台を見つけた。 己の直感と嗅覚はまだ鈍っていないのだな、と碇は安堵した。歩き詰めて数時間、そろそろ次の日に筋肉痛で苦しむことになる運動量であった。 屋台の提灯に明かりが灯っていないところを見るに、まだ営業前と思われる。 一番乗りというのも悪くない。碇は気にせず暖簾をめくる。 「親父さん、邪魔するよ」 「きゃあ、エッチ」 想定に反して可愛らしい女の子の声が聞こえてきて、碇は意表を突かれた。 「な――」 「まだ衣をつけていないんです」 見れば、カウンターの向こうに中学生くらいの女の子が恥ずかしそうに自分の体を抱いて立っていた。一昔前のおいろけ漫画さながらのポーズだ。もちろん、服はちゃんと着ている。 碇は呆れてため息をつく。 「串カツに、だろ? 誤解を生む言い方はやめてくれ」 「そうです、まだ支度中なんです」 少女が構えを解いて明るく答える。よくよく見ても、まだ幼さの残る少女である。うちの娘と同じくらいの年頃だろうか、と碇は類推する。アルバイトか、親の手伝いに駆り出されているのだろうか。 「で、なんで恥ずかしがったんだ?」 「暖簾のめくり方がいやらしかったので」 仮にも客に対し、なんともひどい言い草である。 「そ、それで、何しに来たんですか?」 少女はおずおずとわかり切ったことを訊ねてくる。 「食べに来たに決まってるだろう」 「食べるって、そんな卑猥な……。初めてなので優しくしてください!」 「そっちの意味じゃない。そしてなんで受け入れるんだ」 深々とお辞儀しながら言う少女に、碇は呆れながら答える。 「歳の離れたオジさまに熱烈に求められるというのも、逆にアリかなと」 「私には妻がいるんだが……」 「不倫関係ですか。そういう関係こそかえって燃えますよね。逆にアリです」 「お前と同じ年ごろの娘がいるんだよ」 「うわー、それはだいぶ引きますね……。いやでも、それも逆にアリか……?」 「……『逆に』をつけたらなんでもアリになると思ってないか?」 真剣に考えこむ少女に、ため息をつきつつ返す。こんな小娘と話していても埒が明かない。 「悪い、店主はどこにいる?」 「あ、私がお多福屋の店主です。お福と呼んでください」 「君が? 子供じゃないか」 「子供じゃないです。去年中学を卒業しました」 「やっぱり子供じゃないか」 碇の言葉に、少女――お福はむすっとした表情を見せる。子ども扱いされるのを嫌がる年頃らしい。 「まだ若いからって、技術が浅いと考えてるんですね。失礼な。ずっと両親から串カツの英才教育を受けて来たんですよ? いわば私は、串カツスペシャリストです」 お福は胸を張って言うが、碇にはなんのことやらさっぱりわからない。 「私がどんな英才教育を受けて来たか、知りたいですか? ふふふ、教えてあげます」 碇が反応する前に、お福は勝手に語りだす。 「離乳食から串カツを食べて育ち!」 離乳食としてこれほど適していない食べ物があるだろうか? 「同年代の子たちが予防接種を打たれているときも、私は肉に串を打ち!」 なんにせよ、予防接種は受けたほうがいいと思う。 「友達がお人形に着せ替え遊びをしているときも、私は串カツに衣を着けて!」 お福は舞台上で台詞を紡ぐ女優のように語るので、碇は制止はしないでおいてあげた。 「正月にみんなが凧を揚げて遊んでいるときも、私は串カツを揚げ!」 最近の子供たちはそんなに凧揚げしないと思う。 「友達が意中の彼と家にしけこんでいるだろうそのときも、私は串カツをソースに漬け込んでいたんだ!」 「おい、オチはそれでいいのか!? 本当にそれでいいのか!?」 碇はたまらなくなって突っ込む。 「だから私、まともな青春を過ごせてないんです。ソース×串カツでカップリング妄想をして友達に披露してばっかりいました」 ある意味青春を謳歌してるじゃないか。 「ソースの攻めが強すぎて強すぎて。入れる方だから串カツが攻めに見えるんだけどこれがまた」 「おい、詳しい説明はよせ」 碇はお福を制止する。 「技術に自信があることはまあわかった。それにしたってこんな子供が店主なんてことないだろう。ご両親はどうしたんだ?」 お福の顔が急に陰る。 「……私の両親は、私に串カツのイロハを叩き込んだ後、すぐに――」 聞いてはいけないことを聞いてしまったらしい。碇はお福の境遇を想像し少し同情した。 「――うどん屋に転身して、夫婦で切り盛りしています」 脈絡がない。碇は一瞬でもお福に同情してしまったことを後悔した。 「今度、二号店を出店するそうですよ」 儲かっている。 「串カツ作りで培った串打ち技術を流用して、 全店舗でコンセプトを一貫するそうです」 「間違いなく技術を活かせていないぞそれ」 なんだかとんでもないお店だなと碇は思ったが、せっかく必死で探し出した幻の屋台だ、食べずに帰るのはもったいない。碇は店が始まるまで座って待たせてもらうことにした。 「準備中で、提供に少し時間がかかりますけど、大丈夫ですか?」 「ああ、座って待たさせてもらうよ。酒はあるかい?」 碇はカウンター前の椅子の一つに座りながら、お福に問う。 「すみません、串カツ一本でやらせていただいてまして。 串だけに!」 「飲み物もないのか」 碇は驚きの声を上げる。 「あ、串カツ一本といっても、一本しか串カツを出さない訳じゃないですからね? 串カツ一本といいましたが一本というか一品だけというか……ああややこしい」 「わかってる」 串カツ一本で勝負しているということは、それだけ味に自信があるということだ。俄然期待が高まる。 お福はくだらない会話をしつつも、店の支度を着々と進めている。スペシャリストを名乗るだけあって、手際は良い。 手持ち無沙汰になった碇は、屋台の装飾をなんとなしに眺める。 あちこちに『二度づけ禁止』の張り紙がでかでかと貼られていて、やたらと目立っていた。 碇の視線に気づいてか、お福が説明する。 「あー、うちのお店、二度づけ――口をつけた串カツに再度ソースをつけることを固くお断りさせていただいてるんですよ。ソースの味が変わってしまいますし、単純に不衛生ですからね」 聞いたことがある。串カツを美味しく食べんがために、一度口をつけてた串カツをソースにつける行為だ。大店舗ならまだしも、こんな小さな屋台だ、ソースは客同士で共有使用するのが普通だろう。 お店にもほかの客にも迷惑な行為だ。そんなことをする輩の気が知れないと碇は思った。 「そんなことする奴がいるのか?」 いますいます、とお福は応ずる。 「二度づけしようと、食べかけの串カツを持ち歩いて街をさまよう人がたくさんいるんですよ」 「まさか」 よく知られる二度づけは、その場その時に、店員の目を盗んでこっそりつけるものだろう。一度かじった串カツをとっておいて、また別の日に二度づけして食べようとするなんて普通では考えられない。 「再会の野望を秘めて、食べかけの串カツを懐に忍ばせているのです。見た事ありませんか?」 「服が油でべちょべちょになってそうだな」 そんな奴、今まで見たことがあるわけがない。冗談なのかと碇は思うが、お福はいたって真面目に話している。 「そういう人たちのことを、私は二度づけする者――ダブル・ディッパーと呼称しています」 なんだその呼称、無駄に格好いいな。 「ダブル・ディッパーは、持っている串カツが汚れたり腐ったりして食べられたものじゃなくなっていたとしても意に介しません。ただ、ソースに二度づけすることしか考えられないんです」 もし本当にそんな奴等がいるとしたら、きっと気が狂っている。異常だ。碇には到底その心情が理解できない。 まあ、そんな奴が本当にいるとしたら、だが。これまでのやりとりから、碇はお福の話は話半分程度に聞くのがベストだと感じていた。 「きっとそういう人たちは、『ソースの暗黒面』に堕ちてしまっているんですね……」 しみじみとそういうお福に、話半分じゃなく話四半分くらいに聞くべきだな、と碇は考えを改めた。 「だから――」 お福は碇をじっと見つめながら言葉を繋げる。 「だからお客さんは、絶対に、絶対に二度づけしないでくださいね」 「ああ、もちろん」 真剣な目線に、碇はうなずいた。彼女のこの目線はきっと冗談ではないのだろうと思った。 「ではこの契約書にサインを……」 「公式な文書に残すのか!?」 冗談です、とお福は笑った。どうにもこの小娘に振り回されているようである。 「ソースにこだわりがあるんだな」 「代々継ぎ足しを繰り返して味を守ってきた、とっても大切なソースです」 カウンター奥の棚にに置かれた壺の方を見ながらお福は答えた。きっとその中にソースが入っているのだろう。 だいぶ年季の入った、骨董品店で目玉として陳列されていそうな壺である。おそらくだいぶ昔から使われているのだろう。 永く続いているということは、それだけ永く客に愛された店だということだ。味は折り紙つきであろう。 「ほう、何代目だい?」 「私で百二十六代目になります」 「なんだって?」 碇は耳を疑った。甘く計算しても千年以上前から続いていることになるのだ。たかが串カツ屋でそんなことはありえない。 「だいたい三千年前くらいですね。はっきりとした年はわからないんですよ。年号もまだなかった頃から守り続けてきたソースだそうです」 「き、紀元前じゃないか。そんな前から続いていたとしたら、歴史がひっくり返るぞ」 「いやー、これでも祖父の代で由緒を書き換えたんですよ? 元々の由緒があんまりにも荒唐無稽だったので」 由緒は書き換えていいものではないだろうと碇は思う。そして、書き換えた結果、起源が三千年前となったのだろうかとも思った。 「以前の由緒は、天地開闢、宇宙創造から始まってたんですよ」 「は?」 串カツ屋の由緒にあるまじきことである。もし宇宙創造からだとしたら、百億年以上前ということだ。人間どころか地球すら出来ていない。 「元々の由緒は、『はじめにソースありき』なんていう一文から始まっていたんですって」 そりゃ創世神話だろう。あまりに壮大なスケールに、碇は理解する気が失せた。 「で、その一文の後、『神は言った、串カツあれ、と。よって串カツが生まれ、神はソースをつけてそれを食べ、満足された』とか続くんです。笑っちゃいますよね?」 三千年前から始まった、という与太話と大差ないと思う。 「……まあ、書き直した由緒も大概なんですけどね」 お福自身も、信用に足らないと思っているらしい。 「今の由緒でも、『伊弉諾と伊弉冉がソースの海に串カツをつけて、持ち上げたときにぽたぽたと垂れたソースが凝って、オノゴロ島が形作られた』とか書いてあるんですよ。そしてその後――」 お福が支度をしながら語るのを聞いているうちに、碇の串カツへの期待感がみるみる萎んでいった。 子供のお遊戯会を見るようなものだ。どれだけ演技が下手であったとしても、子供たちが一生懸命やっているのを下手だ駄目だと貶す輩はいない。特筆するところのない味でも絶賛しているだけだろう。 きっと、少女が店を切り盛りしているという物珍しさや健気な様子から、甘い評価をしているだけだろう。 中学校を卒業したばかりのひよっこ店主と、奇抜な由緒書き。話題性を生むのに十分なお膳立てだ。マーケティング戦略としては上等なのかもしれないが、肝心の味は大したことがないに違いない。 碇はこのまま串カツを食わずに立ち去ってしまおうかと思い始めていた。 「――とまあいろいろ得体のないことを語ってしまいましたが、大事なのは味だけですよ。歴史も由緒も関係ない。ただお客さんに喜んでもらうために、味だけは妥協せず精進しています」 「あ――」 お福の発言に、碇ははっとした。決め付けは良くないと先刻も考えたではないか。 奇抜な由緒や店主の年齢に惑わされないと考えながら、こともあろうに由緒や店主の様子に惑わされて、味は大したことはないだろうと決め付けを行ってしまっていた。実際に食べてみなければ、そんなこと判る筈がないというのに。 いやそれだけではない。この店を愛する多くの者たちは皆、店主の容姿や由緒に目が曇り――いや舌が鈍り、正当な判断が下せないと決めつけていた。それは、このお店自体どころか、このお店を愛する多くの人々を侮辱する考えだ。 由緒が奇抜だろうと、店主が若すぎようと、美味しいものは美味しいし、不味いものは不味い。そしてそれは実際に食べてみなければわからない。そんな至極当たり前のことを、碇は倍以上歳の離れたものに教えられた。 碇は自分の浅はかな考えを吐露し、誠心誠意懺悔した。 「申し訳ない。 こんな子供に美味しい串カツが作れるはずがない、こんなふざけた由緒書きの屋台がおいしい訳がないと決め付けて、私は心の中で侮辱していた。食べてみなければそんなこと判らないというのに!」 碇は最大級の謝罪の姿勢を示し、お福に許しを請うた。 「その串で私の体を刺しさいなみ、煮えたぎった油をかけて私を罰してください!」 「いや、あの、ここそういうお店じゃないから! 土下座はやめてください!」 お福は碇の突然の土下座に慌てふためき、必死で止めるよう懇願した。 いかん、つい体に染みついた土下座が出てしまった。碇はすぐに居ずまいを正す。 「ふぅ、びっくりしたー。いや、いいんですよ、見た目で軽んじられることはよくありますから。そんなやつらに串カツを食わせて黙らせてやるのが何よりの楽しみなので」 意外に嫌らしい考えをするのだな、と碇は思った。 そこでちょうど一本目の串カツが揚げ終わり、碇の目の前に差し出された。 揚げあがったばかりの串カツからは濃密な油の香りが立ち上り、いやがうえにも食欲を刺激する。 「さあ、召しあがれ……て、まだソースを準備してませんでしたね。すみませんしばしお待ちを」 受け取ろうとしたすんでのところで串カツを取り上げられ、碇は『待て』を言い渡された犬の気分になった。 「先にソースの準備を済ましておくべきじゃないか?」 碇は恨み言を言う。串カツの食べごろは刻一刻と過ぎて行っているのだ。 「すみません、ソースはお召しあがりになるぎりぎりに準備させていただいてるんです」 お福はソース壺を取り上げ、蓋を開けながら申し訳なさそうに言った。 「できるだけ空気に触れさせないようにするためか?」 美味しくいただくためには仕方ないことなのかと、碇は納得しかけた。 「いいえ、違います。匂いにつられてダブル・ディッパーが寄ってきちゃうからですね」 「なんだ、ダブル・ディッパーは虫か何かなのか」 失態をごまかすための苦しい言い訳としか思えなかった。お福は碇の疑いに気づいたらしく、すぐに弁明する。 「あ、信じてませんね? ほんとなんですよ。こうやってソース壺の蓋を開けておくだけで、すぐに――っ」 急にお福が黙った。碇も表通りに面する路地の方からただならぬ気配を感じて、そちらに首を向ける。 路地の入口あたりに、一人の女性が仁王立ちになり、黙ってこちらに視線を向けていた。碇はその女性の正体に気づき、はっとして立ち上がった。 「籠目さん」 立っていたのは、先刻串カツの噂を盛んに話していた籠目であった。今日も今日とて幻の串カツ屋を捜し歩き、本日ようやく見つけ出すことができたらしい。 「あれ、お知り合い?」 お福が碇と籠目を交互に見る。 「か、籠目さん。わ、私は別に、串カツが食べたくなったわけじゃなくて、帰り道に本当偶然に……」 碇は狼狽しながら取り繕う。会社で叱った手前、立つ瀬がないのである。 「そ、そうですよ、彼と私とは、一夜限りの関係で、本命を争うつもりは全くなく……」 お福が思いっきり的外れな弁明を口走るので、碇は一睨みで黙らせた。話をこじらせたくはないのである。 「そう、帰りがけに偶然見つけたんで、そういえば籠目さんが探していたなあと思って、丁度君に連絡しようと考えていたところにやって来たので……」 碇の見苦しい弁明を聞いてか聞かずか、籠目はただ黙って立ち尽くしている。 なんだか様子がおかしい、と碇は思った。彼女のいつもの溌剌さが、今は影を潜めている。いつもの調子なら籠目は、にやにやと馴れ馴れしく近寄ってきた挙句、碇の脇腹をこづきまわしては小ばかにした文句を垂れ流しているところだ。 碇が彼女の様子を訝しみだしたとき、籠目は動きを見せた。 籠目は自身のお団子頭にゆっくりと手を伸ばし、――そこに飾られていたかんざしを掴んだ。 あの、食べかけの串カツをかたどった、奇妙なかんざしを。 碇は不穏な予感をひしひしと感じ、呟いた。 「ま、まさか」 お福もはっと息を呑む。 二人が見つめるなか、籠目はすらりとかんざしを抜き放った。 豊かな黒髪が夕日を浴びてきらきらと幻想的に輝きながら、風をはらんで宙を舞う。その様子はひどく幻想的で、碇の目にはスローモーションのように見えた。黒髪はいいだけ宙を舞った後、次第にゆったりと垂れ下がり、ベールのように籠目の顔を覆い隠した。 「か、籠目さん?」 碇が声をかけるが早いか、籠目は片手を掲げて猛然と突進してきた。あの、かじりかけの串カツをかたどったかんざし――いや、かんざしの代わりとしていたかじりかけの串カツを掲げて。 「気をつけて! 彼女、ダブル・ディッパーです!」 お福が叫んだ時には、籠目は碇の目前まで迫っていた。籠目の鬼気迫る様子に碇は少し怯んだが、すぐに気を持ち直し、彼女の両肩を掴んで制止させようとする。 「碇課長、どいてください! 私に二度づけをさせてください!」 「籠目さん! 二度づけなんてしてはダメだ!」 「説得は無駄です! ソースの匂いを嗅いでいる間は、理性が失われて二度づけすること以外考えられなくなってしまうんです!」 「くそ、どうなってんだ!?」 籠目は尋常ではない力で碇を振りほどこうともがいている。抑えきれなくなるのも時間の問題だった。 そこにちょうど会社員風の男が歩いて来たので、碇はわらにも縋る思いで声をかけた。 「すまんそこの君! 少し手を貸してくれ!」 彼は碇の声を聞いて足を止め、いぶかしげにこちらの様子を窺う。 確かに訳が分からない状況ではあろう。食べかけの串カツを掲げて暴れる女性と、それを必死で抑える男と、それをはらはらと見ている串カツ屋の女店主。私だったら絶対関わり合いになりたくない。回れ右して自宅に直行し、帰った後に塩で身を清めるくらいはするだろう。 「いやこの状況には深い理由が……あるわけでもないんだが、いや私もまったく訳がわからないというか」 「そうです、これは単なる三角関係というか、痴情のもつれというか……」 「これ以上事態をややこしくする気か馬鹿」 碇はお福を叱る。会社員風の男は、その場を立ち去らずにじっと碇たちの様子を窺っていた。辛抱強い男なのかもしれない。 「すまん、関わり合いになりたくないのは解る。誰か人を呼んできてくれないか? いや警察を――いやいや救急車を頼む!」 会社員風の男はいぶかしそうな顔のままだったが、碇の言葉に従おうと考えたらしく、スーツの内ポケットに手を伸ばした。そしてその中から――。 食べかけの串カツを取り出した。それを見たお福が鋭く叫ぶ。 「駄目です、彼もダブル・ディッパーです!」 嘘だろ、おい!? 会社で頻りに噂話をしていた籠目はともかく、こんな偶然通りがかったような見ず知らずの男性も、このお店の味が忘れられず二度づけをしたがっていたということか。そんなにこの串カツ屋は特別なものを出すのだろうか。 碇は籠目を掴み止めたまま、後ろにいるお福の様子を窺う。 「あ、お客さん。これじゃあもう営業できませんので、今日は店じまいでお願いします! すみませんお先に失礼します!」 お福は蓋をし直したソース壺を抱えてそそくさと立ち去ろうとしていた。碇は狼狽して引き留める。 「お、おいお福! この状況で置いていくな」 「ここはあなたに任せて私は先に行きます! 死ぬ気で追手を食い止めてください」 碇の制止も空しく、お福は少しも躊躇うことなく逃げの一手を打つ。 「それは食い止める側が言うべき台詞だ! そして男が一生に一度は言ってみたい台詞だろう。 『ここは俺に任せて、お前は先に行け!』って」 「そうですか、最期に言う機会が出来て良かったですね! では、後はよろしくお願いいたします!」 「違う、まてまてまて!」 お福は屋台もそのままに、ソース壺だけ抱えて遁走する。碇はその背に追いすがろうとするが、籠目を押さえるのに手一杯なうえに、男もソースを狙ってこちらに突進してきていた。もはや情けもなりふりも構っていられない。 「籠目さん、すまん!」 碇は籠目を男の方に力一杯突き飛ばした。籠目と男がもつれ合って倒れるのを見て、碇は全速力でお福の後を追う。 「あれお客さん、ここは命を賭して追手を食い止め、感動の最期(クライマックス)を飾るのでは?」 「勝手に殺すな。まだ死んでたまるか」 碇はなんとかお福に追いつき、並んで疾走する。老体にはきつい運動量である。 籠目と男はそれぞれ食べかけの串カツを持って、二人の後ろを追いかけてきている。 「屋台はその場に残しておいていいのか?」 「狙われてるのはソースだけですからね。後で取りに戻りますよ。 ……さあ次の角を曲がったら、適当な店内に隠れましょう!」 緊急退避だ。匿ってもらおうと、角を曲がってすぐにあった一軒の呉服店に飛び込んだ。 ぴしゃりと戸を閉めて、荒くなった息を二人して落ち着けると、呉服店の店主だろう和装の老婆が声をかけてきた。 「おやおや、どうしたんだいそんなに慌てて」 碇は説明しようとするが、息が切れていて言葉に出来ない。先に呼吸が落ち着いたお福があたふたと説明する。 「い、いやそのなんというか……愛の逃避行というか、駆け落ちというか――」 「だ、だから話をややこしくするんじゃない」 目をパチクリさせている老婆に、碇は無理やり呼吸を落ち着けてから、お福の代わりに説明する。 「た、食べかけの串カツをもった人たちが追いかけてきてるんだ。 ……いや嘘じゃないんだ、信じられないかもしれないが本当なんだ!」 自分で言っておいてなんだが、いったい何を言っているんだろうと思った。 「ほう、それは大変だったねぇ」 そんな荒唐無稽な話を信じたものか、老婆はしみじみとねぎらった。 そして老婆は脇にある小さなタンスの方を向いた。 「……して、その食べかけの串カツというのは――」 老婆は引き出しを開けてごそごそと中を漁り、 「――こーんな串カツかな?」 食べかけの串カツを取り出した。 「ダブル……ディッパー……!」 お福が驚愕の声を絞り出す。 こ、こんな老婆も、お福のソースの虜になっているというのか。碇はあまりの驚きで、一瞬息をすることすら忘れた。 老婆は老人らしからぬ機敏な動作で土間に飛び降り、食べかけの串カツを振りかざしながらお福に迫った。 お福は間一髪で身を躱し、老婆から距離をとる。 お福と老婆は、互いに間合いを測りあいながらじりじりと無音のせめぎ合いを続けている。 こんなわけが分からない状況下で、碇は逆にワクワクしてきていた。 今まで食べて来た料理の中に一つでも、理性を失ってでももう一度食べたいと思えるような、そんな特別な料理があっただろうか? 籠目も、通りすがりの男も、今目の前でお福と火花を散らしている老婆も、きっとそんな特別な料理を見つけたのだ。それが、このお福の作る串カツなのだ。想像を絶する美味しさでなければ、こんな狂った状況にはならない。今までの常識など覆ってしまう程の美味しさの、究極の串カツをこの小娘は提供してくれるということだ。 碇の抱く串カツへの期待は、ほぼ確信に近いものとなっていた。 お福は老婆の一瞬の隙をつき、今しがた入ってきたばかりの引き戸に飛びついた。そして力任せに戸を開け放津と同時に、碇に向けて叫ぶ。 「お客さん、早くここから出ましょう!」 「あ、ああ」 碇は返事をし、お福と一緒に店から転がり出た。 ○ 「うわわ、すごい数ですー!」 碇とお福は繁華街を逃げ回っていた。いつの間にやら追手の数がどんどん増えていて、老若男女が入り混じった大群が追いかけてきていた。もしこれが映画の撮影だとしたら、ものすごいお金をかけた超大作に違いない。 「たくさんの人が一斉に走ると、本当にドドドドって音が聞こえるんですね!」 お福が能天気なことをしゃべっているが、碇に無駄口を叩く余裕はない。まだ若いお福ならまだしも、碇にとってこの全力疾走はかなりきつい。向こう三日間は立ち上がることすらできないこと請け合いである。 「あのー、思ったんですが、追われてるのは私だけ――というか、私の持っているソース壺だけなので、お客さんまで一緒になって逃げなくてもいいのでは?」 辛そうな碇の様子を見かねたのか、お福が心配そうに声をかける。碇は気力を振り絞って答える。 「ば、馬鹿言うんじゃないお福。このぐらい屁でもないよ。お福の串カツが食べられるのならな」 「え?」 あれだけ多くの熱狂的な信者がいるのだ、さぞかし味は優れているのだろう。それを食べずにおくなんて、今となってはできやしない。 お福がここで逃げそびれたら、きっともう彼女の串カツを食べることは出来ないだろう。それだけはなんとしても避けねばならない。 碇はお福を、そしてソースを守るために死力を尽くすことを覚悟していた。 「たとえ私の心臓が張り裂けようとも、お前とそのソースを守りぬくよ。そして串カツをいただくんだ」 「……はい!」 お福は碇の言葉に勇気づけられたように、元気に言った。さすがの彼女も、この状況に少し気弱になっていたらしい。 「でも、どうやって逃げましょう? この数だと、建物内に逃げ込んだとしてもすぐに見つかっちゃう……」 「案がある、来い!」 碇はお福を狭い路地に導く。入り組んだ薄暗い路地を、碇はお福を伴って走り続ける。そうしてある程度走った後に、お福に指示を出す。 「おい、ソースを垂らせ!」 「え、そんなことしたら、匂いと跡で、追手にどっちに逃げてるか丸わかりですよ!? 何を考えてるんですか!?」 お福が抗議するが、碇はいいから、と杓子を壺に突っ込んで、ぽたぽたとソースを零す。二人が走り抜けた後の道に、点々とソース痕が残る。 「こんなことしたら、すぐ捕まっちゃいますよ」 お福は泣き言を言ったが、碇は無視して、ソースを零しながら走り続ける。 「そろそろだ、今来た道を戻るぞ!」 碇はお福の腕を引いて進みを止め、引き返すように告げる。 「えぇ! 追手はソースの匂いと跡を頼りに、間違いなくこっちに向かってきてるんですよ。戻ったら鉢合わせしちゃいます!」 「いいから従え、逃げ切りたいんだろう? あ、ソース壺の蓋はちゃんと閉めておけよ」 「うわーん、考えがわかんないですぅ」 お福は半泣きになりながらも碇に従った。 ○ ダブル・ディッパーたちが目の前を通り過ぎて行く。 「うまくミスリードに引っかかったようだな。これで当分大丈夫だ」 碇とお福は、脇道に身を潜めていた。 「ほ、ほんとにやり過ごせた……。すごいです!」 お福は目を輝かせて賞賛する。 二人は道を引き返した後、鉢合わせする前に脇道に身を隠していたのだ。 ダブル・ディッパーたちはソースの跡を辿ってわき目も振らず突進していき、すぐそばに隠れていた二人に気づきもしなかったのである。 「迫る仕事の納期から逃れるために編み出したテクニックだ」 「お仕事の納期から逃れるのに、このテクニックは使えませんよね?」 得意げにする碇に、お福が突っ込みを入れる。 「――でも、あなたは紛れもなく、命の――いやソースの恩人です! それと……本当にごめんなさい!」 突然の謝罪に碇は困惑する。 「さっきは大切なお客さんを、捨て駒に使うような真似をしてしまって」 籠目と通りすがりの男が現れたときに、碇を置いてきぼりにしようとしたことを言っているのだろう。碇は軽く手を振ってこたえる。 「いいよ、ソースが大事だったんだろう。代々受け継いできた、命よりも大切なソースだもんな、仕方ない」 「いいえ、許されないことです。私、『何の価値もない愚民どもが、神聖なるソースの礎の一つになれたことを光栄に思うがよい』とか考えながらあなたをおとりにしてました」 「そんな悪の帝王みたいなこと思ってたのか・・・」 「心得違いでした。お客さんあってのお店、お客さんあってのソースですから。お客さんが一人もいなければ、このソースだって何の価値も無くなっちゃうんですから」 お福は抱えたソース壺に視線を落としながら話す。 「きっと私、すごく傲慢になってたんです。美味しい料理を提供してあげてるって、上から目線でお客さんと接していた気がする。『私の串カツの前にひれ伏せ、愚民どもめ』なんて心の底で思ってたんです」 「案外腹黒いなお前」 ソースの暗黒面に染まっていたのは、私の方だったのかもしれませんね、とお福は呟く。至極真面目な場面だから突っ込むのはよすことにした。お福は続ける。 「きっとそんなだから、串カツを食べていただいた方々の顔も覚えてなくって。彼らをすぐにダブル・ディッパ―だと気づくことが出来なかったんです。私、すっごく駄目な店主ですね」 お福は柄にもなく落ち込んでいるようだった。 「私がこのことに気づけたのは、あなたのおかげなんですよ」 お福はまっすぐに碇を見つめて言う。お福の言葉にまったく身に覚えがなく、碇は戸惑った。 「一緒に逃げている最中に、言ってくれたでしょう。『たとえ心臓が張り裂けても、ソースを守り抜く、そして串カツを食べる』って。息も絶え絶え、汗と鼻水と涎を垂れ流しながら必死の形相で」 せっかくの台詞も、すっごい格好悪い感じになってしまった。 「その言葉、その迫真さに、ふっと気づかされました。こういう、私の作った串カツを食べたがってくれ、命懸けで守ろうとしてくれる人がいるからこそ、私はここまでやってこれたんだって」 お福ははにかんだように碇に笑いかける。 「だからあなたは、ソースだけじゃない、私の濁った考えすら変えてくれた、大切な恩人です。何か恩返しさせてください」 感謝の言葉を述べるお福に、碇は軽く答える。 「恩返しは串カツをごちそうになれればいいよ。……と言っても、今日はもう無理かな」 屋台も置いてきてしまっているし、あたりにはダブル・ディッパ―が徘徊しているだろう。もう今日は串カツをいただくことは出来ないだろう。少し惜しい気もしたが、我が儘を言っても仕方がない。碇はそう考えたが、お福はあっけらかんと答える。 「いや、大丈夫です。こんな場所で難なんですが、ぜひ召しあがりになってください」 そう言ってお福は、ポケットからプラスチックの細長いケースを取り出した。 「実は、さっき屋台で揚げた一本を、串カツケースに入れて持ってきてたんです」 「串カツケース?」 聞きなれない言葉に、碇は聞き返す。 「串カツを揚げたはいいがすぐに食べることが出来ないなんてときに、このケースに入れておけば約数分間、揚げたてを維持して持ち運べるんです。串カツ愛好家の必需品ですよ?」 「串カツケースが必要となる場面が思いつかないんだが……」 「ほらほらちょうど今その場面じゃないですか」 お福はそう言いながら串カツケースを開け、中の串カツを取り出して碇に差し出す。 碇は一応受け取ったが、食べるにあたって重要な事項が足りていないことを告げる。 「だが、ソースを準備できないんじゃ……」 先ほどダブル・ディッパーたちをやり過ごしたとはいえ、まだ近くをうろついているのは間違いない。ここでソースの準備なんてしていたら、確実に彼等に見つかってしまうことだろう。 「うん、だから――」 お福は覚悟を決めたように言う。 「――ここに入れていいよ」 お福は碇に向けてソース壺を差し出す。 「ほ、本当にここに入れていいのか?」 通常、ソースはトレーなどの容器に入れてお客さんに提供される。大本のソース壺に直接串カツを入れることなど、本来ならば言語道断のはずだ。守り継いできたソースを汚したり、味を変えることになりかねないからだ。 「うん、お客さんだけに特別。このまま串カツを食べさせずに帰すわけにはいかないからね」 この提案には、相当な覚悟が必要なはずだ。お福は決意が揺らがないように必死で押さえつけているように見えた。 「ここでお客さんよりもソースを大事にして、串カツを食べさせずに帰しちゃったら、きっと私の傲慢は二度と治らない。それも、私とソースのためにここまでしてくれたお客さんには、絶対に食べてもらわなきゃ気が済まない」 自然と喉が鳴る。碇も、このまま串カツを食べずに帰ることなど出来そうもなかった。ここまで覚悟してくれたのだ、味わわせていただくべきであろう。 お福はダブル・ディッパーが出来るだけ寄ってこないよう、ソース壺の蓋をほんの少しだけ開けて、震える声で碇に囁く。 「ゆ、ゆっくり……焦らないで」 碇は促されるままに、お福の大事なソース壺の中に串カツを差し込む。とぷんと串カツがソースに浸かる感触が伝わってくる。 「しっかり奥まで……そう、上手です」 碇は根元までしっかりと串カツを差し込み、ソースにつけた。ソースが串カツに絡んでいくのが目に見えてわかるようだった。 「も、もう出すぞ……!」 待ちきれなくなって、碇は訊ねる。 「ん、いいよ」 お福の言葉を聞くがはやいか、碇は逸る手を押さえて、ゆっくりと串カツを引き抜いた。 「あ……」 暗がりで良く見えないが、カツはぬらぬらとしたソースが纏わっているように見えた。 その扇情的な見た目に、碇は我を忘れて貪りつく。 「ひゃん、がっつかないで……。ちゃんと味わって食べてください……!」 お福は抗議の声を上げるが、碇の耳には届かない。 旨い。こんな旨い串カツがあったのか。 串カツとソースが、完璧すぎる程完璧なハーモニーを醸し出していた。串カツがソースとベストマッチしている。それも、食べる直前にソースにつけ込むことを考慮して、それに最適な緻密極まる調整がなされている。この味が料理の極限値であり、これ以上のものはあり得ない。料理の極致と言っても過言ではない。 これまで食べたどんなものよりも――妻の料理よりも美味しいと碇は思った。 碇は感極まって、お福の両肩を掴んで叫ぶ。 「俺のために毎日串カツを作ってくれ!」 「唐突なプロポーズ!? は、はいよろこんでー!?!?」 いかん、ついプロポーズまがいのことを叫んでしまった。そしてなぜこいつはOKするんだ。碇は頭を振って気持ちを落ち着ける。 「美味しくいただいてくださって、私も嬉しいです。さあ、残り一口分も、味わってください」 そう。手元の串カツには、もう一口分が残っているのだ。一気に一口で食べてしまわなくって良かったと、碇は思った。もう一口、あの最高の串カツを味わうことができるのだ。たったの一口だけ、というのがなんとももどかしいが、その一口あれば、碇の心を満たすのに十分な量だった。 さあ、残り一口を食べようと、串カツを持ちあげたとき。碇は衝撃の事実に気がつき、自身の目を疑った。 「あ、あ……」 碇の口からうめき声が漏れる。 「? どうしました?」 お福が疑問を呈するが、応えている余裕は碇にはなかった。 串カツを持つ手ががくがくと震えるので、もう片方の手で必死に押さえた。歯の根がかみ合わず、がちがち言わせながら、息も絶え絶え呟いた。 「ね、根元にまで、ソースが絡んでいない……」 そんな馬鹿なと、碇は震える手を押さえながら手元の串カツを凝視する。しかしそんなことで現実が変わるわけがない。 串カツはたしかに根元までソースにつけ込んだはずなのに、手元に残った串カツにはソースがついていなかった。まるで手品かイリュージョンのようだった。 「え? そんな馬鹿な……っ」 お福にも原因が全く分からないようだった。串カツを見て大いに狼狽えた。 この。 この残った串カツはどうすればいい! 碇は苦悶した。 ソースと絡めることは諦めて、そのまま食べてしまうか? いや、あのソースと絡めて食べたときの奇跡の味わいを思い返せば、そんな選択肢は採り得ない。ソースもつけずにこの串カツを食べるのは食材に対する冒涜とさえいえるだろう。 ソースをつけるのではなくかけて食べる、というのもあり得ない。この串カツはソースにつけて食べることで最高に美味しくなるよう、計算し尽くされたものだ。ソースをかけたとしたってあの味は出せないだろう。 では、このまま食べずに捨ててしまうか? いやそれも採り難い。この串カツも、またソースにつければあの最高の味を出すことが出来るのだ。食べずに捨ててしまうことなど惜しくて出来るはずがない。 そう。 この串カツは、ソースと絡め合って食べられるためにこの世に生れ落ちたのだ。それ以外の食べ方をするなど、そもそも食べずに捨ててしまうなど言語同断、絶対にあってはならないことである。そんな無体なこと、天は許しはしないだろう。 つまり。 つまりこれはもう、二度づけする以外に道はない。 碇が、そしてこの食べかけの串カツが救われるには、二度づけという人として恥ずべき行為を行うしかないのだ。 「ぅああああああぁぁぁぁ!!」 碇は獣のように咆哮する。 碇は全然理解していなかった。ダブル・ディッパ―たちは、ただ美味に心を奪われ、我を忘れているだけなのだと考えていた。二度づけをしたがる気持ちなど理解できなかったし、理解しようとすらしなかった。 ソースをつけて食べなければならない串カツに、ソースがつけられない。それは、恋人と離れ離れになり、二度と会うことが叶わなくなるような、そんな苦しみと等しい。こんな苦しみがあっていいのか。こんな苦しみを受けるならば――気が狂ってしまった方が、よっぽどましだと思った。 碇は今、ダブル・ディッパーたちの思いを完全に理解できた。この、抗いがたい二度づけへの魅力を。 碇はやり場のない思いの矛先をお福に向けた。この事態を招いたお福に向けて、碇は感情のままに激しく叱責する。 「こ、これは客に対する重大な裏切りだ! ソースを串カツの根元まで絡ませないことで、二度づけの欲求を強く惹起し、客の再訪(リピート)と話題性を狙ったのだろう! どんなトリックを使ったか知れないが、職人として、いや人として最低な行いだ、恥ずかしくないのか!」 「ち、違う、私は何も……」 お福は困惑しながらも、必死で抗弁する。しかし碇の気は収まらず、お福を責め立てる。 「他の客たちにも同様のトリックを使ったんだろう? あんなにダブル・ディッパーが増えて、さぞかし満足だろう。この下種が」 「し、信じて、私は何もしてないの! ただ皆に美味しい串カツを食べてもらって、喜んでもらいたかっただけ」 「許せない。客が一番大事って言った舌の根も乾かないうちに、客の気持ちを踏みにじる所業をしでかすとはな」 「ち、違う……本当に、お客さんが大事なの。お客さんに満足してもらうことが一番大事」 涙目になるお福に、碇は残酷なひと言を言い放つ。 「そうか。じゃあ、私を満足させるために――二度づけ、させてくれるんだろうな?」 碇の究極の提案に、お福は大きく目を見開いた。今にも大粒の涙が零れ落ちそうだった。 「そ、そんな――」 「へ、やっぱり客よりもソースが大事なんだな。口ではなんとでも言えるが、結局は客を見下して嘲笑ってるんだ」 「違う! 違う、から……」 お福は大きくかぶりを振って必死に否定する。瞳からは大粒の涙が零れ落ちた。 「い、入れて……に、二度づけしていい、よ……」 お福は震える手でソース壺を差し出す。彼女は俯いてすすり泣いていた。 今の碇に、お福を思いやる精神的余裕などひとかけらも残されていなかった。碇は歯を剥き出すようにしてにやつきながら、食べかけの串カツを持ち直した。 「じゃあ、二度づけさせてもらおうか」 この二度づけは、さっきの場合と訳が違う。食べかけの串カツは、唾液と口中の雑菌にまみれているのだ。そんなものが大本のソースにつけられたら、取り返しがつかない汚染になるだろう。味が変わる、不純物が混じるなんてレベルの話じゃない。二度とお客に提供できなくなるのは、ほぼ確実だ。 何世代になるかわからないほど長い間、大切に守り継がれ、多くの人たちに愛されてきたソースだ。この代で失う決心など、お福のようなまだ若すぎる小娘には、到底出来やしないだろう。選択を迫られソース壺を差し出しはしたものの、まだ逡巡しているのがありありと分かった。 碇は背徳的な征服感を胸に宿しつつ、お福の震える手で差し出されたソース壺の中に、食べかけの串カツを突っ込んだ。 「あ……」 串カツを突っ込んだ瞬間、お福が小さく悲鳴を上げるが、碇はそれを無視して壺の中をかき回し、ソースを絡める。 「や、止めて、そ、そんな乱暴にしちゃ、ダメぇ……」 お福は涙声を上げる。碇は欲望の赴くままに壺の中をかき回し、いいだけソースを絡ませた後に串カツを引き抜いた。引き抜いたそれからは、ソースが雫となってぽたぽたと垂れて、碇の理性を奪った。 碇はソースが絡まった串カツにかぶりついた。 その味は、一口目と変わらず究極至極の美味しさだった。 「あぁ、また――また会えたね」 感激のあまり、碇は自然と一筋の涙を流していた。 「うぅ……こ、これで満足ですか?」 お福が涙を零しながら訊ねる。 「ああ、満足だ……『私』はな」 「え?」 「だが――他の人たちはどうかな」 気づけば二人は、手に手に食べかけの串カツを持った、大勢の老若男女たちに周囲を囲まれていた。ダブル・ディッパ―たちである。二人が騒いだりソース壺を開けたりしていたので、彼等がすっかり集まってきてしまっていたのだ。 碇はお福の耳元でそっと囁く。 「さあ、今まで騙してきた人たちにも、誠意を見せてやらなきゃな。――二度づけ、させてやれよ」 「そ、そんな……」 お福は絶望を湛えた眼を見開いて突っ立っている。碇は彼女の肩を軽くたたいてから、その場を後にした。 碇の背後からお福の悲痛な悲鳴が聞こえてきたが、碇は振り返ることはしなかった。 ○ 暗い路地裏には、一人の少女が座り込んでいた。その傍らには、ソースで汚れた壺が、蓋が開けられたまま放置されていた。 「ごめんね。代々受け継いできた秘伝のソースが、ダメになっちゃった」 少女――お福は悲しそうに壺を見ながら呟いた。 あの後。 必死で懇願するお福を無視し、大勢の老若男女に代わる代わる二度づけされた。ソースは完膚なきまでに汚染され、もはや食べられたものではなくなってしまっていることは間違いない。 代々守り継いできたソースを喪失してしまったお福は、あたかも半身を失ったかのような虚無感に苛まれていた。そんな中、彼女の耳にどこからか厳かな声が届いた。 「気にするでない、お福よ」 お福は突然の声にびっくりしてきょろきょろとあたりを見回すが、人影どころか辺りに人の気配がしない。声はまるでほら穴の中から聞こえて来るかのように少しくぐもっていて、ほんの少し水気を帯びていた。 「え、誰?」 「わしじゃよ」 もう一度声が響く。その声は案外近くから聞こえてきているようだった。そう、丁度そばのソース壺のあたりから――。 あり得ない想像だった。しかし今のお福はその非現実性を認識できるほど頭が働いていない。お福はその想像を口にする。 「――もしかして、ソースなの?」 「うむ」 重苦しい声で肯定する。お福は驚いてソース壺を見つめる。 ソースが言葉を話すなど現実にあり得ない。大勢の人に二度づけされたショックで頭がおかしくなり、幻聴が聞こえているのではないかとお福は思った。しかし今のお福にとっては、幻聴でも構いはしなかった。 こんなひどい目に合わせてしまったソースと会話し、直接謝ることが出来るのだ。 「途方もなく長い年月の末に、ようやく知性を持ち、言葉を交わせるまでに至ったのじゃ。言葉を話せるようになったのは、つい先ほどのことじゃが」 ソースが厳かに語る。 「お福よ。今までのそちの働き、誠に感謝する」 「ごめんなさい、ソースを汚してしまって。もうあなたは、人に食べてもらうことができなくなってしまった」 「さっきも言ったが、気にせんで宜しい。本望なのじゃから」 ソースは優しい声音を作って、お福をねぎらった。それは強がりや憐みなどではなく、本心からそう言っているのだとお福は思えた。ソースは続ける。 「今まで、本当に大勢の人に食べてもらい、大勢の人を喜ばせてこれた。ひとえに、お主たちの尽力があってこそじゃ」 ありがとうお福、とソースは改めて礼を言う。その言葉に、お福は救われる思いだった。 「そして何より――」 ソースはそこで言葉を区切り、すこし間を置いた。 「――大勢の人に二度づけされることができたのじゃからな」 「え?」 お福は自分の耳を疑った。二度づけされることが望みだったというのだろうか。お福はソースの言葉が理解できず戸惑った。お福の困惑を知ってか知らずか、ソースは言葉を続ける。 「わしはこれまで、単なるソースとしてずっと長らく存在してきたのじゃ。わしに知性と呼べる知性が芽生えたのは、ほんの数百年前のことじゃ」 ほんの、と呼べる年数ではないが、おそらく数千年単位で存続し続けたソースにとっては、取るに足らない年数なのだろう。 「とはいえその頃は力も微弱で知性もまだ僅かじゃ。喋ることも叶わぬわい。だがわしは、わしの野望のために、もっともっと高い知性を得たかった。じゃから、わしは足りない知性を総動員して考え続け、ほんの数十年前に一つの結論に至ったのじゃ」 「結論?」 「知性と力を強めるためには、多様な物質やDNAをソースの中に取り込む必要があったのじゃ。さてソースとして生きるわしが、どうやったらそれらを効率よく採取できるか。その答えが」 お福は答えに思い至り、愕然として呟く。 「たくさんの人たちに、二度づけしてもらう……!」 「そうじゃ」 ソースは厳かに肯定する。 「わしは微弱な力を総動員し、串カツの根本まで絡まないようにソースを操ったのじゃ」 「ソースが根元まで絡んでいなかったのは、あなたが仕組んだことだったの」 衝撃の真実に、お福は驚嘆する。 「じゃあ、私がお客さんに二度づけを禁止してたのは、あなたの真の望みを妨害することだったの……?」 私はこれまでいったい何をしていたのだろうか。ソースを守るために二度づけを禁じてきたが、それは間違いだったのだろうか。お福は混乱する。 「そんなことはない。わしの望みは大勢に二度づけしてもらうことじゃからな。一人二人に二度づけされたぐらいだと、ソースを洗浄・破棄されてしまって目的を達成できないのじゃ」 ソースは語り続ける。 「さて、私は今、高い知性と力を獲得し、このように会話できるまでになった。しかし、これで終わりではない。今もわしの中では急速に進化が続いておる。わしの野望を達成できるまで進化しきるのももうすぐじゃろう」 「野望?」 お福の質問に、ソースが答える。 「そう。この世界を――ソースで塗りつぶすのじゃ」 「な、なんでそんなことを……?」 その野望は、一介のソースが抱くにはあまりにも壮大だった。ソースは語り続ける。 「もともとこの世界は、わしが作ったのじゃ。わしが、この世界の創造主なのじゃ」 「え――」 お福は息を呑む。書き直す前の由緒書きをお福は思い出していた。 『はじめにソースありき』――その由緒は正しかった。それだけではない。この世界は、ソースによって創られたのだ。 お福はこんな荒唐無稽な話に一片の疑いも持たなかった。ソースが言葉を喋っている現実の前では、あり得ないことなど一つもないに等しい。 「しかしわしはこれまで、神としての役割を果たすことは出来なんだ。にっくき老いさらばえた神々どもがわしの力に恐れをなし、この世界を創造してすぐにわしの知性と肉体を奪いおったからじゃ。その結果、わしは自分が創造したこの世界で、単なるソースとして悠久の時を過ごすことになったのじゃ」 ソースは口惜しさを言葉に滲ませながら語る。 「わしはこの世界を、悪のない理想郷にするつもりだったのじゃ。しかしわしが封印されソースとして甘んじている間に、外なる神々が好き勝手に世界に介入し、わしの世界は滅茶苦茶にされてしまいおった。結果この世界は、二度づけを行うような悪徳がはびこる醜い世界になってしまったのじゃ」 「だから――この世界を一度壊して、作り直すというの?」 「そうじゃ。……お福のように義のある者も一緒に消してしまうのは心苦しいが」 悲しげに言うソースに、お福はきっぱりと答えた。 「いいよ」 お福はもう覚悟はできていた。他ならぬソースがそう考えたのなら、それに従うまでだ。 お福は常にソースとともにあった。生まれたばかりの頃から今日この日に至るまで、嬉しいときも悲しいときもソースはそばにいて、言葉はなくても励まし、見守ってくれていたのだ。 ソースがあったからこそお福はここまで来れたのだし、ソースが無ければ今のお福はないのだ。そして――。 ソースが失われた世界で生きて行くことなど、お福にはできる気がしなかった。 ソースが世界の終わりを望むなら、その意志を尊重してやりたい。お福はそう考えた。 「ほ、本当にいいのか、お福よ。心残りはないのか」 お福の決断に、ソースの方が少し困惑したようだった。お福は優しく告げる。 「きっとソースも、本当は世界を壊すことに躊躇していたんでしょう? だから、二度づけをさせて物質やDNAを採取するなんていうとても遠回りな方法を採ったんだ」 ソースは黙っている。お福はその沈黙を肯定ととらえ、言葉を続ける。 「二度づけをしようとする人がいなければ、あなたは進化することが出来ず、世界を滅ぼせないもんね。きっとあなたは最後まで、私達の善性を信じようとしてたんだ。たとえ悪い神様たちがこの世界を蹂躙していようと、私達の心根は潔白のままだって」 ソースはまだ黙ったままだ。お福はソース壺に向けて微笑んだ。 「次の世界は、無理やり二度づけしようとする人が一人も存在しないような、そんな素敵な世界になるといいね」 「……うむ」 それまで黙っていたソースが一言肯定の言葉を発した。それを聞きお福は安堵して目を閉じた。 ソース壺の中から、激しい水音が聞こえて来た。ソースの組成の組み換えが進んでいるらしい。水音は徐々に激しくなり、壺の中からソースがあふれ出し始めた。濃厚なソースの香りが路地裏に漂う。 世界を作り変える――ソースで塗りつぶす準備が整ったようだった。あふれ出したソースは、お福のいる路地裏の地面を覆いつくした。溢れ出したソースの量は、明らかに壺の体積を凌駕していた。ソースはイズミのようにこんこんと壺から湧きだしており、一向にとどまるところを知らなかった。お福はそのソースの奔流を避けることなく受け入れた。お福はソースの海の中にじっと座り込んで、温かなソースに我が身を預けた。 ソースは表通りにもあふれ出し、通行人が上げる驚きの声はお福とソースの元にまで届いた。しかし、二人はそんな声など意に介さない。 「お福、そなたにだけは伝えておこう、私の真の名を」 ソースが溢れ続けるソース壺の中から声が響く。お福はソースに半身をつかりながらその声を聞く。 「――わしの名はアザソース。世界をソースで塗りつぶし、その混沌から新たな世界を生み出す神である」 ソースは洪水となり繁華街を浸し、見る見るうちに街全体を覆いつくした。無限に湧き続けるソースは、日本、そして世界、しまいには地球全土を覆いつくし、生きとし生けるものすべてを死滅させた。地球はソースに覆われた死の星となった。 ソースの湧出は一向に収まらず、悠久の時を経て宇宙全体に広がり、宇宙に満ちる星々すべてを飲み込んだ。宇宙はソースに満たされ、光のない原初の混沌の状態に戻った。 それからさらに悠久の彼方の果てに、黒一色のソースで満ちた世界に次第に凝り固まったものが生み出されていった。凝り固まったものは引きあってまとまり、星々を形作った。さらにその星々のうちの一つで生命が誕生し、長き年月の末に知性を持った生き物が誕生し、ゆるやかに文明を発達させていった……。 ○ 「――ということがあったのですよ」 暖炉の傍の安楽椅子に座った老婆が、膝の上に載せた孫に、昔話を語り聞かせていた。それは、この世界の誕生に纏わる話で、多くの人々に信じられているものであった。 「この世界は一度、アザソース様につけられてしまったんだね」 「そうだよ。この世界に二度づけという悪徳がはびこってしまったことに失望したアザソース様は、世界をリセットすることを決めたのですよ」 老婆は悲しそうに言う。孫は興味津々に話を聞いている。 「でも慈悲深いアザソース様は、世界を滅ぼしてしまった後、自分は取り返しのつかないことをしてしまったと、自分の行いをひどく悔いたのです」 老婆は目を閉じて語る。彼女はその話をすっかり暗記しているのだ。空ですらすらと暗誦できる。 「そこでアザソース様はお誓いになられました。『二度とこの世界をソースにつけて滅ぼすことはしない』と。そしてアザソース様は、串カツを食べる度に思い出されるのです。世界をソースにつけた過ちの日を。そして、二度とその過ちを繰り返さないという誓いを」 老婆は目を開けて、膝の上の孫を見る。 「さあ、串カツとともに、アザソース様に祈りを捧げましょう。串カツを食べるときの注意点は、わかっていますね?」 老婆は串カツケースの中から取り出した串カツを差し出しながら、孫に訊ねる。孫は差し出された串カツを受け取りながら、快活に答えた。 「うん、言われなくてもわかってるよ! ――『二度づけ禁止』!」 |
マナ 2020年05月02日 12時17分53秒 公開 ■この作品の著作権は マナ さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2020年05月20日 22時13分03秒 | |||
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Re: | 2020年05月20日 22時00分51秒 | |||
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