人魚の涙 |
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1:不二子の話 〇 目を覚ますと庭にいて、しかも裸で、しかも自分と同じ顔をした女が隣で寝転がっていた。 「きゃぁあっ!」 不二子(ふじこ)が悲鳴をあげるのも無理はない。ただ問題は、その悲鳴が隣で眠っているもう一人の自分を覚醒させたことだった。 目を覚ましたもう一人の『自分』は己が裸で床に転がっており、さらには目の前にもう一人の自分がいることを確認すると、酷く混乱した様子で 「きゃぁあっ!」 と不二子が上げたのとまったく同様の悲鳴をあげた。 いくらでも混乱していたい不二子だったが、しかし今はもう一人の自分を警戒せねばならなかった。不二子はもう一人の自分……白い肌と大きな目と長い黒髪を持つ、裸の女子高校生……を睨み付け、自分相手に意味があるのかはともかく己の恥部を両手で隠しながら吠えた。 「誰だよ、あんた!?」 「こっちの台詞だよ!」 もう一人の自分は吠え返した。 「わたしは下村不二子だよ!」 「わたしも下村不二子だよ!」 「不二子が二人いる訳ないでしょう?」 「じゃああんたが偽物なのね?」 「そんな訳ないでしょう! あんたが偽物だよ」 「黙れ偽物! わたしが本物だ!」 「こっちの台詞だよ偽物!」 「ねぇ偽物、こんな建設性のない水掛け論、いつまで続けているつもり?」 「うっさいなあ! 偽物の癖にわたしより先に冷静にならないでよ」 息を切らし合った二人はそのまま鏡合わせに肩を落とし、今一番やるべきことに勘付いてあたりを見回した。庭の池の傍にどういう訳か綺麗に折りたたまれている自分の衣類(ピンクのパジャマと同じ色の下着)に目を付けると、おもむろに手を伸ばす。 二人はそれぞれ、下着の上と下を一枚ずつ掴んだ。 「まさか取り合いになったりしないよね?」そう言って不二子は下着で胸を覆い隠した。 「じゃあそれは譲るから、パジャマの上はわたしにちょうだい」『不二子』は下着で自分の股間を覆い隠した。 「良いよ。でもさぁ偽物、どうしてこんなことになったんだと思う?」 「そりゃあ偽物。わたし達が目を覚ましたここが、池の前であることから考えても……」 『不二子』は上半身をパジャマで覆い隠してから、不二子が服を着るのを待って庭の池を指さした。 「こいつの仕業ってことにならない? 今わたし達の身近にあるもので、一番不思議なことを引き起こしそうなのって、こいつだもんね」 庭の池の中には人魚が泳いでいた。そして自分が指をさされていることに気付くと、池の水から顔を出して、池の縁に指をかけてこちらを見詰めた。 珊瑚のような鮮やかな緑色の尾びれと空のように鮮やかな水色の髪、それが人類ではないことを一目で感じさせる程愛らしく整った顔立ちを持つ人魚は、二人の不二子達をつぶらな瞳でじっと見つめる。 そして、きょとんとした様子で首を傾げたのだった。 〇 不二子の両親は共働きの医者であり、暮らしは非情に豊かだった。庭に人魚がいることも、その一環とは言えた。 もっとも一部の資産家にしか手に入らないと言うほど貴重な訳ではない。多くは七桁からなる人魚本体の金額を支払えれば、後の維持費は然程でもなかった。餌は有機物なら何でも良いと言われる程の雑食で、餌代については犬や猫とそう大差なく済ませられた。 庭の池を維持するのが大変だと思う者もいるかもしれない。しかし実を言えば、泳げる程の水場を作ってやる必要もなかった。たまにシャワーの水でも吹っかけてやれば嬉しそうにするが、室内でテキトウに放り出しておいても死にはせず、アタマは良いので躾けるのも簡単だった。 「人魚って、不死身の生き物なんだよね」 不二子(ノーパンで上は下着だけ)は、のんきそうにこちらを見詰めている人魚を指さして言った。 「そうだね。五百年ある寿命以外で死なないってパパが言ってた。ダンプカーで轢かれても死なないし、身体の真ん中から真っ二つに切られても、復活したんだってね」 『不二子』(ノーブラで下は下着だけ)は体育座りで膝に肘を付いて言った。 「しかも面白いのが、肉体を真っ二つにされたら、分割された肉体がそれぞれ別々に元通りになるっていうことだよね。まるでプラナリアみたいに、分裂して再生する性質があるって」 「しかも人魚は自分以外の生き物も同じように、あらゆる状態から完璧に再生させる力を持っている……んだとか」 「有名な人魚姫の伝説がそれでしょう? 死にかけの王子様に自分の涙を飲ませると、たちどころに生き返って元気になったって言う」 実際、『人魚の涙』は高性能な医薬品として病院でも使用されるようになっている。たいていの外傷なら飲ませるだけでたちどころに治ってしまう代わり、人間のDNAそのものを大きく作り替えてしまうので、医療現場においてもハイリスクハイリターンな存在とされていた。 「じゃあやっぱり、うちら人魚の所為でこうなったんだ」と不二子。 「そうとしか言えないんじゃない? 今起きていることが現実である以上、何か原因とか意味があるんだし、こんなとんでもないことを引き起こせるとしたらそら人魚だよ」と『不二子』。 「つまり、わたし達は何らかの理由で寝ている間に真っ二つになった。そして、人魚の手によって別々に再生させられた。合ってると思う?」 「何らかの理由で真っ二つって……随分と荒唐無稽なこと言い出すね」 「実際にそうとしか言えないじゃない」 「ああそうですねぇ。わたしも本当はそう思ってたよ。他人の口から出ると、随分と馬鹿げて聞こえたってだけ」 そう言って小ばかにしたように肩を竦める『不二子』に、不二子はむっとした。こっちは真剣な話をしているのに、随分と投げやりな態度を取りやがるものだ。 「つかそんなこと話すよりさ、もっと先にやらなきゃいけないことあるんじゃない?」 続けて冷笑的にそう口にする『不二子』に、釣られるようにして喧嘩腰になった不二子が言った。 「何よ、他にしなきゃいけないことって」 「だからぁ」 『不二子』は不二子に向けて溜息を吐いた。 「家ん中入ろ。……で、服着よ」 〇 時計は午前十時二十二分をさしていたが、学校の心配はしなくて良かった。 いや実際には大いに心配をするべき状況ではあったのだが、そのことと不二子達が二人に分裂してしまったことは無関係だった。何せ不二子は高校に入学してから一か月、最初の一週間を除いてびた一日登校していなかったからである。 良くある話というべきか、不二子は高校に進学してからというもの、中学校時代の友人のいずれともクラスが別れてしまった。まあ友達なんてその内出来るだろうとタカをくくっている内に、瞬く間に形成されていく仲良しグループに乗り遅れ『ぼっち』が確定した。 最初の一週間をしくじった如きことで、絶望して引きこもるのは大袈裟かもしれない。しかしその劣勢を挽回する程の気力を持つことが不二子にはできなかった。 「学校通ってたらもっと困ってたのかな、うちら」 不二子は母親の作り置きの朝食を『不二子』と分け合いながら言った。 「知らない。双子の姉妹だってことにして、普通に通ったかも。でも実際不登校なんだから別にどうでも良いでしょ」 「なんでのんきに朝ごはんなんて食べてんのうちら」 「焦ってなんか解決する? しないよね。でも朝ごはんは食べなきゃいけないよね? じゃあこうするのが正解に決まってんじゃん」 『不二子』は投げやりに言う。のんきと言うか大きく構えているというか。自分の癖になんで微妙に態度が違うのか……と考えて、焦ったり悩んだりする役割を押し付けられていることに不二子は気付いた。自分の代わりに深刻になってくれる相手が目の前にいるのなら、苦悩して辛い思いをするのはそいつに任せて、自分は何も考えず冷笑的に振舞っていれば良いという腹なのだ。 それに気付くと途端に悩むのがバカらしくなり、不二子は何となく互いに遠慮したままになっていた最後のウィンナーをパク付いてから言った。 「ねぇ偽物」 「その偽物って呼び方やめない?」 「じゃあ何て呼ぶの? 不二子? わたしも不二子だよ?」 「わたし不二子A、あんた不二子B。はい解決」 「それなんであんたがAだよってならん?」 「小さいこと拘るね」 「小さいと思うならあんたBで良いじゃん」 「うっざいなぁ。じゃあちゃんと公平に決めりゃぁ良いでしょ?」 「よしじゃあ……じゃーんけーん」 「待った」 そう言って『不二子』は片手を差し出し、チョキを出すつもりだった不二子を制した。 「何?」 「じゃんけんじゃつまらん」 「は? じゃあどうする訳?」 「だからぁ……」 そう言って『不二子』は大変面白いことを閃いたという表情で、言った。 「あんたってわたしでしょ。だったら、大事なことをじゃんけんで争うなんてもったいない。決戦の方法は一つ、はっきりしてんじゃね?」 そう言われ、不二子はなるほどと頷いた。 〇 「うおおお十連鎖!」 「何の! 十一連鎖!」 不二子と『不二子』は、四つ繋げると消える性質を持つぷよぷよとした丸い生物が登場するパズルゲームをやり始めた。 「これ何先?」 「大事なことだから百先(百回勝った方の勝ち)で良くね?」 「っしゃ。死んでも負けん!」 不登校の期間中持て余す時間を不二子はこのゲームソフトに明け暮れていた。二十年以上前から続いている由緒正しき王道パズルゲームで、今ではかなりの腕前に達していた。 「おらぁ食らえ二ダブ!」 「ちょっ。あんた最初っからそれしか狙ってなかったでしょ? 軽犯罪だよそれ? ちゃんと連鎖数で勝負しなさいよ!」 「そうやって言い訳ばっかりして、自分に都合の良い勝負しか望まないのが、あんたっていうどうしようもない腐れなんだよ」 「黙れ偽不二子! あんたもだろ!」 などとギャーギャーいがみ合ってはいるが、状況を忘れて楽しくなって来た。元来孤独な性質である不二子にとって、生身で触れ合える遊び相手というのは新鮮な存在だ。自分が何か騒げば同じ声で騒ぎ返して来る『不二子』とのゲームは、不二子にとってとても楽しいものだった。 「いえーぃ。はい勝ちぃーっ」 41対42と勝ち越して満面の笑顔を浮かべる『不二子』の、自分で思っていたよりも随分と長いまつ毛を眺めながら、不二子は気が付けばこんなことを言っていた。 「あんたって、意外と可愛い顔してんのね」 そう言うと、『不二子』はぽかんとした顔をしてこちらを振り向いた。 そしておかしそうにせせら笑う。「なぁにそれ。自慢?」 「違うって。自分の顔、鏡で見てるとさ。むっつりしてて、暗そうだしトロそうで好きじゃないけど、喋ったり笑ったりしてんの見ると、意外と悪くないのかなって」 「整った方じゃあると思うよ? まあ、でも、そうね。好きな方向性じゃないっていうか、ホラー映画の幽霊役みたいっていうか……」 「それまだ気にしてんの?」 「気にしてるよー。知ってる癖にー」 高校に入って友達ができず沈んでいる時、クラスの派手なグループの女子から、『下村さんってぇ、女優みたいな顔してるよねぇ』と声をかけられた。褒められたのかと思って喜んでいると、そいつは『ホラー映画の幽霊役みたいな』と続けた。周囲から嘲弄的な笑い声が弾け、不二子は下を向くしかなかった。 以降『貞子』という古い映画のお化けの名前をニックネームとして付けられて、しばらくの間笑いものにされたものだ。貞子とは髪が長いくらいしか共通点がないのにも関わらず、どこか共通した雰囲気があるように自分でも思ってしまうのは、幽霊を彷彿とさせる程暗い自分自身の性格にコンプレックスを感じてしまっていたからなのか。 「幽霊みたいに暗くて静かな下村不二子、目を合わせたら呪われる、だっけ?」と不二子。 「好きで暗いんじゃないっつーの。貞子ってあだ名と一緒に、そういうキャラクターを周りがわたしに押し付けて来てたんだ」と『不二子』。 「家だとこんくらいぎゃーぎゃー喋るのにね」 「ママやパパは優しいし、増して自分自身に遠慮することないっしょ」 「まあね」 しんみりした共感ムードの中で、二人の不二子は百本先取勝負を終えた。98対100で『不二子』の勝利。 「……終わった」終わっちゃった、という気分で不二子は言った。「おめでとう。あんたが『不二子A』ね」 「いやぁ。別に譲るよ、AとかBとか。本当はどっちでも良いし」と『不二子』 「あっそう? わたしもどうでも良いんだけどな」 「なんでそんなことで張り合っちゃったんだろうね」 「しゃあないよ。そんな簡単に許せたり、好きになれたりしたら、苦労しないもん」 「……何を?」 「だから」不二子は照れ笑いをしながら自分の胸に手を当てた。「自分のことをだよ」 〇 ゲームを終わらせた不二子達だったが、それで問題が解決した訳ではもちろんなく、二人が途方にくれるのに違いはなかった。 自分達が分裂したことを知られれば騒ぎになるが、かと言ってずっと隠して置けるようなことではもちろんない。そこで不二子はまず父親に電話をかけてみることにした。 嘘やおふざけではないことを示す為、不二子達はスマートホンを用いて自分達二人ともを映した写真を父親に送った。そして自分達に起きたこと(朝起きたら人魚の池の前にいて、しかも分裂していた)をメッセージとして添える。 医者の両親はともに出張中だ。多忙な身の上である。よってすぐに娘のSOSに返信してくれるかどうかは怪しいところだったが、予想に反してすぐに電話がかかって来た。 「不二子か?」 「そうだよ」不二子A(結局譲ってもらった)は答える。「ねぇパパ。あのね、さっきの画像、加工したとかじゃなくてマジの奴で」 「疑ったりしないよ」父親の声は優しかったが、妙に物分かりが良いのが気がかりだった。「とても混乱しているだろう。すぐに帰って来てあげたいんだが、何せ地球の裏側にいてね。時間がかかりそうなんだ」 「それはしょうがないよ」 人の命を助ける大切な仕事だ。どうにもならないということはあるのだろう。 「でもどうすれば良い? 大人しく待ってるしかないかな?」 「良く聞きなさい。タクシーを使って良いから、今から言う住所に向かうんだ」 「そこに何があるの?」 「小さい頃に一度だけ、会ったことのある従兄がいるのを覚えているかい?」 不二子Aは不二子Bと顔を見合わせた。共に小首を傾げる。 沈黙から否定の気配を感じ取った父親が、不二子達の答えを待たずに言った。「兄貴の、つまり、下村病院の院長の息子だ。職業はもちろん医者。自宅で人魚を使った医療を研究している、人魚専門家だ。家にいる人魚も、元々はそいつが所有していた物なんだ」 「じゃあ、その専門家の従兄のところへ行って、わたし達の状況を相談すれば良いの?」 「そうだとも。ただ……」父親はそこで、声を渋らせる。「ちょっと変わった奴なんだ。特に、相手が子供の場合は、余計に話が噛み合わなくなる。それでも強引に話を進めればなんとなるんだが……大丈夫かい?」 大丈夫も何も、他に方法がない。不二子Aは不二子Bとアイコンタクトを取った後、答えた。 「分かったよパパ。行って来る。すぐ会えそうかな?」 「ああ。会えると思う。いつも家にいる奴だからな。何せ、奴は自分で建てた研究所に住んでいるんだから」 〇 人魚専門家の名前は下村合歓夫。ネムノキの男、と描いて『ねむお』だ。 白衣を着た長身痩躯の男で、歳は二十代後半のはずだが、切れ長なその瞳には柔和と言うより幼げな輝きを宿している。白皙の美少年がそのまま大人になったかのようなイケメンだったが、寝癖が酷いのと手足が長すぎるのと、極端な痩躯が彼を童話に出て来る偏屈な魔術師のように見せていた。 「ひさしぶりだね不二子ちゃん。さぁ、お菓子を出してあげよう」 四方を本に囲まれた研究室で不二子達を待ち受けた合歓夫(ねむお)は、開口一番そんなことを言った。 「君達が来ると聞いていて、甘ぁいクッキーを焼いたんだ。きっとおいしいって言ってもらえると思うよ? さあ、召し上がれ」 香ばしい匂いを放つ作り立てのクッキーは確かに美味そうだったが、しかしそんなもん食ってる場合じゃない。しかし会った記憶もない従兄の前で借りて来た猫ようになっている不二子達には、召し上がる以外の選択肢はなかった。 「……あっま」 不二子Bが顔をしかめている。同感だ。食感からして丁寧に作ってあることに間違いないのだが、口が曲がるほど強烈に甘い。 「遊びに来てくれてありがとうね。さぁ、お菓子を食べたら何をして遊ぼうか? 小さい頃、一緒にままごとをしたのを覚えてる? 僕は君の旦那さん役だったんだよ。あの続きをしようか? それとも……」 「あ、あの」不二子Aはたまりかねて言った。「わたし達、遊びに来たんじゃなくて……」 「そうだねぇ。でも、用事を済ませるのは、後でも良いんじゃないかな? 僕には今日はまだ時間があるし、君達だって、そう忙しくはないんだろう? まずは気が済むまで一緒に遊んで……」 「わたし達、本当に遊びとか大丈夫なんで!」不二子Bは強引な口調でそう言った。「あの、わたし達、今は二人なんですけど、別に双子の姉妹とかそういうんじゃなくって! 信じられないかもしれないですけど、元々は一人の人間で……」 「ああ。それは叔父さんから聞いて知ってるよ。人魚が食べ残しを二つ出したんだ」 訳知り顔で言う合歓夫に、不二子達は顔を見合わせた。 「あの、食べ残しを二つ出したって……」 「君達が目を覚ました時、人魚の目の前にいたんだろう?」 「そうですけど……」 「で、しかも裸だった」 頷きかけて、不二子Aは気付く。裸だったということは、確か父親に話していなかったはずだ。この事態を究明する為に大事な要素ではあるはずだったのだが、男親にそんなことわざわざ話すのはどこか心理的抵抗があり、言いそびれていたのだ。 それを何故、この男は知っているのだろうか? 「おっと。女の子に裸とか、わざわざ言うようなものじゃあなかったのかな?」 「いえ、いいんです。あの、どうして分かったんですか?」 「服を着せたままの食材を食べるような真似を、人魚はしないんだよ」 そう言う合歓夫の顔立ちは、不二子達を子ども扱いする親戚のお兄ちゃんのものでは既になかった。切れ長の瞳に鋭い知性を滾らせた、怜悧な学者としての表情が覗いていた。 「人魚は神秘的な生き物だ。どんな生物でも、自分の涙を与えるだけで瞬く間に再生させてしまう。どんなに致命的な損傷を負った状態からでも、それは可能なんだ。例えば、小さな肉片一つ残されたような状況からでもね」 「……それってつまり、わたし達の元々の身体が何らかの理由で両断されて、そこを人魚によって別々に再生させられた……ということなんですよね?」 「そこまで分かっているのかい? すごいね。褒めてあげるよ。偉い偉い。ご褒美に、頭を撫でてあげようか」 「撫でるとか良いですから……」 「そうかい? 残念だなぁ。でも、そこまで分かってるなら、話は早いよね。良いかい? 人魚も食事をする。そして、人魚は恐るべき雑食で知られ、有機物なら何でも消化できる。それこそ、人間だって食べるんだ。そして、人魚はどんな小さな肉片からでも、あらゆる生物を元の姿に再生させることができる。さあ、何が起こったか考えてみようか?」 想像力が正解にまで達してしまい、不二子Aはぞっとした。思わず、不二子Bの方を見る。不二子Bも不二子Aとまったく同じような青白い顔で全身を震わせていた。 「君達は多分、ご両親が出張中の間、人魚に餌をやるのを忘れていたんだろう。飼われている人魚はね、飢餓に陥ると、飼い主を食べてしまうことがある。そして自身の持つ治癒能力を用いて、齧った個所を元通りに再生させる。そのことに食べられる人間は気付かない。人魚の歌声は人を眠らせて、何があっても起きなくさせることができるからね」 「つまり、わたし達は、人魚に……」 「そう。食べられた。その時に、人魚は、食べ残した君の本体とは別に、もう一つ小さな断片を作ってしまった。そしてその断片と、本体とが、それぞれ別々に再生させられてしまったという訳なんだ」 おそらく人魚は、食事中に口から不二子の肉片を食べこぼすなりしたのだろう。人魚はその驚異的な治癒能力を用いて、齧られた本体とは別に、その小さな断片をも再生させてしまったのだ。これが不二子が二人になった原因だ。 「これをお友達ができたと前向きに判断することも、もちろんできる。ただ、『同じ人間はこの世に二人も存在できない』こともまた事実なんだ」 合歓夫は言って、予め用意していたかのように、懐から二つの錠剤を取り出して不二子達の前に置いた。 「これを君達にあげるよ」 「……なんですか、これは」 「偽物を消す薬」 不二子達二人は顔を見合わせた。 「人魚による再生はほとんど完全に近いものだけれど、まったく完全な訳じゃない。DNAを変質させてしまうんだ。より小さな断片から再生させられた肉体程、『人魚の涙』が与えた痕跡を大きく持っている。一定以上、そうした痕跡を持っている人物を消し去るのが、この薬なんだ」 不二子達はじっと目の前に差し出された錠剤を見詰めている。様々な考えが二人の脳内をめぐり、そして最初に耐えきれなくなった不二子Aが、口を開いた。 「あの、話は聞かせてもらったんですが、わたし達って、どっちかが本物だったり偽物だったりするんですか?」 「もちろんだよ。同じ人間が二人いるなんておかしいからね」合歓夫はけろりと言った。「この場合『本物』の定義は、人魚に身体を『齧られた部分のみを再生させられた方』のことだ。そして『偽物』は『小さな断片から他の部分を再生させられた方』だ。偽物を消せば、君達が抱えている問題は解決する」 わたしは違う。不二子Aはそう叫びたかった。わたしこそが本物だ。人魚によって作り出された、気持ち悪い偽物だったりはしない。 しかし本当にそう叫んでしまえば、隣に座っている、今自分が考えたのとまったく同じことを考えている不二子Bに、それを聞かせてしまうことになる。よって不二子Aは沈黙し、ただ下を向いた。おそらくは、不二子Bも同じようにしているはずだった。 二人をの様子を見ながら、しかし合歓夫はあくまでもマイペースにこう続けた。 「この薬は人魚と同じくらい不思議な代物でね。偽物が飲むと、なんと一瞬で、全身が跡形もなくこの世から消えてしまう。さあ、せーので一緒に錠剤を飲むんだ。それとも、お薬を飲むのは苦手かな?」 〇 錠剤をそれぞれのポケットに入れ、帰途に付く不二子達の足並みは重かった。 自分は不二子としての記憶を完璧に持っているし、不二子としての感情や感覚を間違いなく所有している。ならば自分こそが本物の不二子なのだと不二子Aは思った。しかし同時に、隣を歩いている生白い体温の持ち主が、同じ感想を抱いていることも間違いなかった。 同じ庭の同じ池の前で目を覚ました不二子Bは、まるで不二子のように混乱し、不二子のようにヘソを曲げ、不二子のように笑い不二子のように騒いでいた。そして今は不二子のように泣きそうな顔で己のつま先を見詰めながら歩いている。 わたしは絶対に不二子だ。けれど、隣を歩く自分と瓜二つの『こいつ』が不二子であることも、不二子Aには疑えない。そしてそのことが、不二子Aに『今から一緒に薬を飲もう』と提案させることを躊躇させていた。 「ねえB」 絞り出すような声で、不二子Aは言った。 「なぁにA?」 「この薬、捨てる?」 「……うーん」 不二子Bはその場で立ち尽くし、不二子Aの顔と、ポケットから出した錠剤とをじっと見比べた。 「二人で『不二子』を分け合って、生きてくのって現実的だと思う?」と不二子B。 「……難しいかもしれない。持ち物とか財産とか、社会的な立ち位置とか、そういうのって簡単には二つに別けられないからね。ママやパパだって戸惑うだろうし、色んな困難がいくらでも思い浮かぶよ」 「自分が偽物だったらどう思う?」 「……あんたはわたしより上手に『不二子』をやってくれる? ママやパパに心配や迷惑を掛けず、ちゃんと学校にも行って、わたしより立派に生きてくれる?」 質問に質問で返した不二子Aに、不二子Bはしばしその場で眉を顰めて、答えた。 「あんたがもし偽物で、本物のわたしに心からそれを望むのであれば、出来る限り頑張ると思う。……少なくとも、これまでみたいに、無責任に自分を粗末には出来なくなると思う」 不二子Aは驚いた。このくらい返事ができるだけの誠意と根性は、もう一人の自分にはちゃんとあるのだ。 〇 家に帰り、何をするにも手を付かないまま、二人の不二子はぼんやりと上の空で過ごしていた。そしてある時 「ちょっと散歩して来る」 と言って、不二子Aは家の外に出た。 幼い頃、両親にたまに連れて行ってもらった公園に、不二子Aは向かった。後ろからブランコを押してもらったのが、どうしてあそこまで楽しかったのか今では思い出せない。けれども、それがとても強固な熱を帯びた、大切な記憶であることも、また疑えなかった。自分は確かに誰かに愛されたことも、必要とされたこともあるのだという事実が、大きな心の養分となって、不二子を後押ししてくれる。 この記憶があれば大丈夫だ。不二子Aは思った。 もう一人の自分は、きっとやっていける。 不二子Aは『不二子』にさしたる執着を持っていなかった。弱虫で怠慢でバカで、ちょっとした孤独に耐えられずに学校に通うことを諦めてしまった自分自身を好きではなく、自分が不二子でなければどれほど良かっただろうと思わない日はなかった。 そしてそれは今この瞬間、たった一つしかない『不二子』の座を、もう一人の自分と取り合っている時でさえそうなのだ。そんな自分が、不二子Bの脚を引っ張る訳にはいかなかった。 最後の言葉と思いながら、持って来たノートの切れ端にペンを走らせる。それをポケットに片付けると、不二子Aは錠剤を取り出して飲み下した。 訪れる死への恐怖は本物だった。今から自分の肉体と魂がこの世から消え去るのだと思うと、全身が総毛立つ。しかし後悔が訪れることはなく、そのことを不二子Aは少しだけ誇らしく感じ、目を閉じて最後の瞬間を待ち続けた。 どのくらいそうしていただろうか。 不二子Aは何も起きていない自分の全身を見下ろして、溜息を吐いた。 自分は本物だ。 間違いない。合歓夫はこの薬の効き目を『一瞬で』偽物の全身をこの世から消し去ると言っていた。もし自分が偽物なら、既に消えている。 全身を安堵が包んだのが少し情けなかった。とにかく本物なら本物なりに、これからのことを考えなければならない。問題は自分が本物だったことを不二子Bに話すかどうかだ。不二子Bがこの薬が効く方という意味での『偽物』であることは間違いないが、だからと言って彼女が血の通った人間であることもまた間違いない。薬を飲むように迫ることは出来ない。どうするべきか? もっとも、偽物などと言ったところで、向こうの考え方や行動は不二子そのものだ。どうにか相互理解しながら上手く協調して行けるかもしれない。……などと考えたところで、不二子Aはある可能性に感づいた。 不二子Bの考え方や行動は不二子そのものだ。ならば……。 いてもたってもいられずに、家に向かって駆け出す。 「不二子!」 不二子Aは玄関の扉を開けて叫んだ。 返事はない。 パニックに陥りそうになりながらリビングルームへ向かうと、ソファの上には不二子Bが着ていた衣類が残されている。ソファの前にある机の上に置かれたノートの切れ端には、間違いなく『不二子』の文字でこう書き記されていた。 『わたしの分も、ガンバレ、本物。 あんたなら大丈夫。学校だってちゃんと行ける。幸せになれ』 不二子Aはその場で膝を折り、泣き崩れた。 不二子Aと不二子Bはまったく同一の人間だ。同じように考え、同じように行動する。だったら、自分が薬を飲むことを決意したように、不二子Bもまた薬を飲もうとするはずだ。そのことに不二子Aは気付けなかった。思い至れなかったのだ。 何より厄介なのが、机の上にあるノートの切れ端だ。 それは不二子Bの遺書であり、彼女の最後の願いだ。 不二子Aは自分のポケットから、自分自身が不二子Bに残すつもりだったメモを取り出す。 『わたしの分も、ガンバレ、本物。 あんたなら大丈夫。学校だってちゃんと行ける。幸せになれ』 この内容が不二子Bと異なっていれば、不二子Aにもまだ逃げ場が産まれたかもしれない。しかし、自分が願ったのと一字一句違わず同じことを願われてしまえば、最早それに背く訳には行かない。粗末には出来ない。 「ごめんね、ごめんね不二子。ありがとね……。わたし、がんばるから。あんたの分も、がんばるから……」 不二子Aは不二子Bが死ぬ間際に座っていたソファに縋りついた。 自分自身のぬくもりが、そこには残されていた。 〇 2:峰高の話 〇 「おい」自分自身の声がする。「起きろ間抜け。起きろ」 それで峰高(みねたか)は目を覚ました。必要最低限度のものが几帳面に整頓されたいつもの自分の部屋。いつもと違うのは自分が裸であることと、目の二十代後半の男……峰高自身にしか見えない……がこちらを見下ろしていることだ。 酔っぱらって幻覚でも見ているのか? しかし酒を飲んだ覚えはない。夢を見ていると言う感じもしない。つまりこれは現実で、目の前には確かにもう一人の自分がいて、既に服を着て俺を見下ろしている。 「どうやら、この化け物がやりやがったらしい」 そう言って、『峰高』は人魚を蹴りつける。人魚は悲鳴もあげないままその場で顔を抑え、縮こまった。 黒髪と白い肌、金魚や鯉を思わせる赤と白の更紗模様を持った、珍しい個体の人魚だ。その珍しさに興味を持ち、人魚専門家の友人から買い上げたのだ。峰高は独身で一流の商社に勤めており、たっぷり高く査定されたボーナスが出たばかりで、それくらいの余裕はあった。 大して世話もしていないが化け物だけあってしぶとく、一年たった今も健康に生き続けている。人魚と言うのは決まって絶世の美女の姿もしているから、多少の情欲を満たすこともできた。下半身が魚である為、用途は限定的ではあったのだが……。 「つまり、なんだ」 峰高は立ち上がり、震えて縮こまる人魚の頭を蹴りつけた後、タンスからシャツとパンツを取り出して身に付けた。 「この畜生は腹を空かせて俺を食った挙句、食べ残しを二つ出して俺を分裂させちまったと」 「そういうことになる」『峰高』は肩を竦めた。 いくら再生すると言っても自分が食われるのは気分が悪いから、自分の食べ残しや生ゴミをやるようにはしていた。だが職場で昇進を果たしてからというもの峰高の生活は多忙を極め、外食が増え、人魚を気にすることもなくなり、ここ数日……いや数か月何も食べさせてはいない。それが良くなかったようだ。 人魚というものが人間の生活に現れてから十年も経っていないが、歌声で眠らせた人を食べるという事実や、身体を齧った後食べ残した肉体を再生させる能力については解明されていた。余程飢えさせなければ飼い主を食う心配はないし、もし食べられて再生させられたとしても特に害はない。だがごく稀に食べ残しを二つ出し、飼い主を分裂させてしまう事例も報告されていた。 「さあ、どうする?」 『峰高』はその独特の、陰険そうな形の眉を歪めながら、頭を抱えて震える人魚の身体を繰り返し蹴りつける。 「この畜生に気が済むまで報復するのも良いが、それで問題が解決する訳でもない」 『峰高』のつま先を浴びた生白い肌はあちこち内出血を起こして赤黒く炎症している。腹を強く蹴られると、人魚は愛らしい顔に苦痛を浮かべながら、内臓を潰された芋虫のように身体をくねらせる。 その様子を見ても、峰高は哀れだとも良い気味だとも思わなかった。ただ身体を丸める人魚の涙に濡れた顔を見ると、妙に煽情的な気分になって来る。峰高のサディズムが疼いた。 だがこいつをいじめている暇がないこともまた事実だった。 「確かにそうだな。しかも時間がないぞ。今は何時だ?」と峰高。 「午前六時四十二分。後三分で目覚まし時計が鳴る。もっとも、今日が土曜日だから、すぐに支度を始める必要はないがな」 「だが用事がない訳じゃないだろう。むしろ、仕事なんかより余程重要な用がある。断ることは許されない」 「そうだな。そして問題は……」 『峰高』は峰高を睨み付けた。 「どちらが涼子とデートをするか、か」 峰高は答え、『峰高』とにらみ合った。 〇 藤倉涼子。峰高の大学時代の同級生で、すらりとした高い背と、ほっそりした顎の輪郭と良く整った目鼻立ちを持つ、今現在の峰高の交際相手だった。 峰高は計三回、藤倉に告白した。一度は出会ってすぐの頃、二回目は今の会社に就職が決まった時、一番最近なのは平社員から主任への昇進が決まった時だ。君に認められる為に努力したんだ、と熱く訴える峰高に、ガードの硬い藤倉がついに交際を受けてくれた時は、天にも昇るような気分だったのを覚えている。 峰高自身は、当然、結婚を前提とした交際のつもりだった。今日は三度目のデート。プランも完璧な物を組んである。絶対に成功させねばならなかった。 「当たり前の話ではあるが」『峰高』は切り出す。「俺達二人ともが、『峰高司』をやる訳にはいかないぞ」 「もちろんだ。涼子は貞淑な女だ。きっと一人の男しか愛さない。つまり選ばれるのは、俺達二人の内のどちらかだということだ」 「デート開始が午前十時三十分。それまでの間に、どちらがデートをするかを決めなければならないな」 「これから俺達がどう生きて行くのかについてもな」 人魚による人間の分裂現象に対する社会的認知は、未だ十分とは言えないものがあった。分裂した片割れをどう扱うのか法整備が十分であるとは言えず、例えば職場の席であったり、戸籍であったりがどうなるかは、一流大学の法学部を卒業した峰高にも分かっていなかった。 「自分が分裂した旨を役所に訴え、どうすれば良いかを問うのはどうだ?」 「ありえない。腰を抜かされるだけだろう。下手をすれば、マスコミのオモチャにされてしまいかねない。この状況を世間に明るみにするのは今はまだ避けるべきだ」 「俺も同じ意見だ。さっきの質問自体、おまえの意思を確認したに過ぎない」 「自分達で解決できるのが一番良い。だが、俺達は人魚についても、この現象についても、専門家並の知識があるとは言えない」 「するとなんだ? やはり知識のある奴のところに行くのか?」 「それしかないだろうな。そして、人魚の専門家というと」 「ああ」峰高は溜息を吐いた。「アンダーソンだ」 『峰高』は自嘲げに笑った。「気は進まないな」 同感だ。峰高は思った。 〇 登校する小学生の群れに歩み寄る、長身痩躯の青年の姿がある。 「君達、おはよう。甘いお菓子は食べたくなぁい?」 そう言って、目を丸くするランドセルの小僧たちに、青年はクッキーの詰まったバスケットを差し出した。焼きたてらしく、香ばしい匂いがあたりに漂ってくる。 たいていの小学生達は利巧にも目を合わせずに通り過ぎて行ったが、数名の好奇心旺盛な者が青年に歩み寄り、クッキーを頬張った。 「……甘い」 子供にも甘すぎる、というニュアンスで口にした小学生に、青年は満足げに微笑んで見せる。 「どうだい? 僕のウチに来れば、こんな甘いお菓子がたくさん用意してあるよ? 食べていかないかい?」 「え、あの……わたし、お母さんに知らない人に付いて行っちゃダメって……」 「大丈夫。ただお菓子を食べて欲しいだけ。何も怖くないよ。さあ、こっちにおいで」 などと優しく微笑みかける青年から、小学生たちは蜘蛛の巣を散らすように逃げていく。 残念そうな顔で立ち尽くすその青年に、峰高が声をかけた。 「相変わらずの不審者ぶりだな、アンダーソン」 アンダーソン……峰高の大学時代の友人である下村合歓夫(しもむらねむお)は満面の笑みを浮かべて振り向いた。 「峰高じゃないか。ひさしぶりだね。仕事は上手く行ってる?」 「上手く行っているが、今はそんな話をしに来た訳じゃない」『峰高』は言う。「分からないか? 緊急事態なんだ」 「ああ。クッキーは二人分、用意しなくちゃいけないようだね」 二人になった峰高を見て、下村は悪戯っぽく微笑んだ。 〇 人魚専門家の研究所には、やはり大量の人魚が飼育されていた。 下村合歓夫の所有する十数匹の人魚たちは、アクリルガラスの水槽の中に、一匹ずつ個別に飼育されていた。人魚を水中に入れてやりすらしない峰高には、考えられない手間と水道代がそこにはかけられている。 「わざわざ一匹ずつ飼うんだな」と峰高。 「二匹の人魚を同時に飼育するのは禁忌だよ」 「共食いでもするのか?」 「そういう訳じゃない。ただ、人魚は本来、人間の手に負える生き物じゃないからね。結託されると厄介なんだ」 どういう意味かと尋ねようとすると、峰高が口を開く前に、下村は 「餌の時間なんだ。ちょっと待っててくれ。それとも、人魚の食事を見ていくかい?」 と訊いて来た。どうせ他にやることもない。峰高は頷いた。 人魚に用意された餌はなんと牛だった。それも、一トン近くはありそうな、巨大な牛達が数台のトラックに詰められて水槽の前に運び込まれてくる。牛達はそのまま職員たちによって水槽の傍のベルトコンベアに乗せられると、水飛沫と共に水槽の中へと放り込まれていった。 水槽一台に一頭ずつ放り込まれた牛達の身体に人魚が絡みつく。十代の少女の姿をした華奢な人魚達のどこにそんな力があるのか、浮力によって水面に浮かび上がろうとする牛達を、水の底へと軽々引っ張り込んだ。そして暴れる牛のアタマを押さえつけると、人魚は可愛らしい八重歯を覗かせて牛の首根っこに食らい付いた。 牛の首根っこから、鮮血がぶわんと漂って、人魚の顔の周りに広がっていく。 人魚達は少女の一口でしかない肉を咀嚼しながら、一匹ずつ与えられた牛の首を素早く齧り取っていく。それは目にも留まらぬ食事の速度だ。たちまち牛の首から頭部が人魚の胃袋へ消える。透明な水中に漂う鮮血に包まれながら、人魚は残る肉体を齧り始めた。 「牛を一頭食べ尽くすのに、半時間とかからない」と下村。「そしてこれだけ食わせておけば、数か月は何も食わせなくて済む」 「食った肉はどこへ消えるんだ? 明らかに人魚の身体より大きいぞ」峰高が尋ねる。 「さあね。専門家の僕でもそれはまだ分からない。研究中だと言いたいことだけれど、こんな出鱈目な生き物のことだ。多分、百年後にも解明されないことの方が多いんじゃないかな?」 「これ、牛を人魚が再生させちまうってことはないのか?」 「そういう例がない訳じゃないが、基本的には、人魚が再生させるのは、人魚の他には人間だけだよ」 「なんで?」 「それも分かっていない。人間が殊の外美味なのかもしれないし、人間を敵に回すことを嫌っているのかもしれない」 敵に回すのを嫌ってわざわざ再生させるくらいならば、そもそも食べることを止めれば良いのだ。もっとも、峰高の場合は食事を与えるのを疎かにしていたので、人魚からすれば止むを得ないことだったのかもしれないが。 下村は餌やり業務を終えたらしい職員たちに、「ご苦労様。おやつは休憩室に置いてあるよ」と微笑みかける。愛想笑いを浮かべる職員たち。こんな奴が上司なら職員たちも大変だろう。 「お待たせしたね。それじゃあ、ちょっと僕の研究室に来てくれるかな?」 峰高と『峰高』は頷いて、下村に続いた。 〇 「ここに強力な猛毒がある」 下村はそう言って、峰高と『峰高』の前に二つの錠剤を置いた。 「君達二人の内、『偽物』の峰高司にのみ作用して、その全身を綺麗さっぱりこの世から消し去ってしまうという作用を持っている。せーのでこれを飲んで見て、消えずに残った方が本物という訳だ。それで、問題は全て解決する」 峰高と『峰高』は顔を合わせた。突っ込みどころはいくつかあるが、先んじて峰高がこう質問した。 「ちょっと待てアンダーソン。俺達はいわば、峰高司の肉片から再生させられた、クローンのような存在なんだろう? どちらかが本物だったり、偽物だったりするのか?」 「人魚によって再生させられた人間のDNAには、再生させられた痕跡が残るんだ。その痕跡の大きさは、再生させられた部位の大きさで決まる。一定以上強い痕跡が残っている人体にのみ、この毒薬は作用するんだよ」 「俺達二人に残った痕跡の大きさには、違いがあるというんだな」 「その通り。君達の内の片方は、ほんの小さな食べこぼしの断片から再生したに過ぎないんだ」 「食べこぼし……? そうか。分かって来たぞ。つまりこういうことか」『峰高』は理解を示すように下村に言う。「人魚がもともと一つだった俺達の肉体を齧り取る。その際に、人魚の口の中から小片が床に零れ落ちる。そして齧られた本体と、零れ落ちた小片がそれぞれ再生する。こういうことが起きた訳だ。前者は本物と言って良いが、後者はただの偽物なんだな」 「流石は峰高だ。本当に理解が速いなあ」 下村は感心したように両手を開いて見せる。こいつはなんだって大袈裟に褒める。他人を認める度量があるのではない。単に誰のことでも子供扱いして、『あんよが上手』と手を叩いているだけであることを、峰高は理解していた。 「この薬はいただいておく」峰高は言った。「だが、今すぐ飲むことは出来ない」 「そうだな」『峰高』は言う。「相談に乗ってもらってありがとうアンダーソン。解決したら、また来るよ」 「そうかい。それじゃ、お菓子をたぁくさん用意して、待ってるね」 下村はそう言って微笑みを浮かべる。その笑みは、どこかしら偽悪的だった。 〇 家に帰る頃には八時を回っていた。涼子とのデートまで、後二時間強。 それまでの間に、どうやってかもう一人の自分を打ち負かし、デート権を自分のものにせねばならない。涼子と結ばれうる男が一人だけなのなら、それは自分であるべきだ。峰高はそう考えていた。 「まあ、いがみ合っていてもしょうがないだろう」 おもむろに、『峰高』が腰を落ち着けていたテーブルから立ち上がると、台所に向かった。 「朝食を作るから待っていろ。どちらが涼子と会うのかは、食事をとりながらじっくり話し合おうじゃないか」 そう言って、『峰高』はフライパンに油を流し始める。自分自身の調理風景後ろから眺めるというのは初めての経験だったが、なかなかどうして手際が良いものだ。 ベーコンをカリカリに焼いて見せる手つきと言い、何をするにも分量や時間を正確に測る習慣と言い、その姿は峰高司以外の何物でもなかった。どんなに上手い偽物でもここまで真似をするのは不可能だろう。二人分の朝食が、手際良く拵えられていく。 そこでふと、峰高はある違和感を覚えた。 目の前で調理をしているのが峰高の分身だとして、片割れの分の食事を作ってやるような親切さがあるものなのだろうか? 峰高は冷蔵庫にあるもので自分の分だけをテキトウに用意するつもりでいたし、『峰高』もそうするだろうと思っていた。だいたい、こんな事件のあった日のたかが朝食で、いちいち火を使う程自分は料理好きではない。 何か企んではいないか? 「出来たぞ」 そう言って、『峰高』は二人分の朝食を盆に乗せて運んでくる。テーブルに料理が並ぶなり、峰高はコップを持ち上げようとして、わざと床に取り落として見せる。 「何をやっているんだ」 眉を顰め、『峰高』は砕け散ったコップに視線をやった。その一瞬の隙を見逃さず、峰高はテーブルに置かれた二つのコーンスープの位置を入れ替える。 「騒がせたな」 後始末を終えて、峰高は席に着き直す。 「俺らしくもないミスだな。動揺でもしているのか?」と『峰高』 「どうもそうらしい。少し上の空だった」 「まあ、こんな状況だから、ある程度しょうがないな。もっとも、人前で同じことをされて、俺の名誉に傷を付けられたら、困るが」 そう言って『峰高』はコーンスープに口を付けた。 ベーコンエッグにトースト、コーンスープにサラダという朝食の中で、下村からもらった毒の錠剤を溶かし込めるものがあるとすれば、コーンスープだ。 『峰高』が峰高の為に朝食を用意するのには違和感に理由があった。ひょっとすると『峰高』は、自分達のどちらが偽物かをはっきりさせる為、毒を盛ろうとしているのではないだろうか? 峰高はそう考え、毒が入っているであろうスープの位置を入れ替えたのだ。 だがしかし、スープを飲んだ『峰高』の身体が消えて行くことも、『峰高』が苦しみ始めることもなかった。そのことに峰高は落胆し、また頭を殴られたような衝撃も受けた。激しい動揺が全身を襲う。 「どうした? 食べないのか?」 「いや……」 『峰高』に水を向けられ、峰高はどうにか動揺を隠しながら料理に手を付ける。スープを交換した以上、自分の分の料理は安全なはずだ。不自然に思われない為、食べるしかない。 入れ替えたスープに毒が盛られていたとすれば、『峰高』はそれを飲んだはずだ。それでも『峰高』の身体に変化がないということは、『峰高』が本物で、対する峰高は偽物ということになる。 それは大きなショックを峰高に齎す事実だったが、だがそのことに相手より先に気付けたのは幸運だった。どころか、今頃『峰高』は峰高がスープを飲んでも生きているのを目の当たりにし、自身こそが偽物であるという誤解に陥っている可能性がある。その勘違いは峰高に有利だった。 「おい。食器はおまえが洗え」 『峰高』が峰高に言った。居丈高な口調が気に食わなかったが、今表立っていがみ合うメリットもなかった。大人しく洗い物をしながら、峰高は今後の作戦に付いて考えることにした。 相手が毒を盛らなかったという可能性はもちろん有り得るが、そこに縋りついて思考を鈍らせるべきではない。自分こそが偽物だという前提で考えた方が良いだろう。つまり、自分の持っている毒は最早、相手に効かない。 ならば別の手段で始末する必要がある。この世に二人の峰高司は必要ない。『峰高』が自分を毒で殺そうとしたように、自分も『峰高』を何らかの手段で殺害するのだ。問題はその方法だった。 そこで峰高は、ふとある可能性に勘付いた。 毒殺に失敗した『峰高』は『峰高』自身を偽物と勘違いしている。そして、自身を偽物と認識した『峰高司』が何を考えるのかは、今峰高が考えた通りだ。向こうもまた、毒殺以外の手段で峰高を消そうとしている。 『峰高』は峰高に食器の洗浄を命じた。だが果たして峰高司は食事の度に食器を洗うだろうか? 無暗に洗い物をため込んだりしない代わり、一日分程度の食器なら夜にまとめて洗うのが習慣ではなかったか? 食器洗いを命じられた自分は今、『峰高』無防備に背中を向けている。ここを襲われれば一たまりもない。 それに気付いた峰高が背後を振り向くと、包丁を手にした『峰高』がこちらに踏み込んで来るところだった。 「この野郎!」 峰高は『峰高』の刺突を紙一重で躱す。そして攻撃が空振りして隙を見せる『峰高』から、可能な限り距離を取った。 このまま殺し合うという判断も十分考えられた。向こうが包丁を持っている以上、戦うのは不利だ。しかし背中を向けて逃げ出そうにも、この距離なら玄関で捕まってしまうのは目に見えている。 「こんなことをして何になる?」峰高は相手の気勢を削ごうと冷静に話しかけた。「俺とおまえは同じ人間だ。おまえが包丁を持っていることを差し引いても、どちらが勝つかは分かったものじゃない。おまえの命はそんな無謀な賭けに乗せてしまって良いようなものじゃないだろう?」 「黙れ。分かっている癖に」『峰高』は忌々し気に表情を歪ませる。「財産や戸籍、職場での席、そして恋人。俺達には共有できっこないものが山ほどあるんだ。仲良く半分こしようってか? そんなのは無理だし、もし可能だとしても、自分が積み重ねたものを半分もくれてやるのは、俺はごめんだ」 「雌雄を決しようとするなら、他に方法があるじゃないか」 そう言って峰高は懐から錠剤を取り出し、探りを入れた。 「凶器を持って殺し合い等しては、例え生き残ったとしても外傷が残ることになる。生きていくのがたまらなく不便になるような、障害が残らないとも限らない。ここは一つ、さっき貰った錠剤を、二人で飲んでみないか?」 「それなんだがな。喜べ。どうやらおまえが本物らしいぞ」 『峰高』の言葉に、峰高は息を呑みこむ。やはり、こいつは己を偽物と勘違いしている。 「さっきおまえが飲んだスープと、食ったサラダのドレッシング。俺が持っている分の錠剤を、砕いてそこに溶かし込んでおいた。つまり本物はおまえで、俺は偽物ということになるんだ」 「……ちょっと待て」峰高は目を見開いた。「おまえ、サラダにも毒を盛ったのか?」 「それがどうした?」 「おかしいぞ? それなら、俺も食った」 「だから、それがおまえが本物だという証明に……」 「違うんだ。そういうことじゃない! 話を……」 「うるさい! くたばりやがれ!」 再度突進してくる『峰高』の表情から、冷静さや余裕が消えていることを、峰高は見てとった。普段の状態の峰高司なら、もっと峰高の話を良く聞いていただろう。 『峰高』の突進を躱しながら、峰高は思考する。 スープに入った錠剤を飲んだ『峰高』は生きている。そして、サラダに入っていた錠剤を飲んだ峰高もまた、生きているのだ。つまり、『峰高』の持つ錠剤は毒でも何でもないということにいなる。 どういうことだ? 最初に思い付くのは下村が毒薬と間違えて無害な錠剤に峰高達に渡して来たという可能性だ。しかし医師免許を持つ下村がそんなミスを犯すとも思えなかった。 ならば、奴はわざと毒薬と偽って無害な薬を渡して来たのだろうか? 何のためにそんなことを? 下村は自然体で他人をバカにする男だが、悪意を持って他人を担ぐような真似もまたしない。なら、どうして? 何か意図がある。 「くたばりやがれ!」 峰高を壁に追い込んだ『峰高』の一撃を、峰高は床を転がってぎりぎりで回避する。そこで、右手が何か細長い物体に触れる。上司に付き合う為に購入したゴルフクラブ。思わず手に取る。 追い打ちを掛けようとする『峰高』から距離を取り、立ち上がった峰高は、間合いを測りながらリーチを活かした一撃を『峰高』の顔面に振り下ろした。 鈍い音。 倒れ伏す『峰高』。 〇 下村の研究室を訪ねた峰高は、背中に担いでいた寝袋を床に叩き落とした。随分と苦労させられた、忌々しい重さから解放され、息を吐いた。 「アンダーソン」と峰高。 「なんだい、峰高」と下村。 「おまえ、本物のアンダーソンか?」 「もちろんさ。この世界に僕は僕一人しかいない。当たり前だろう?」 「だったら」峰高は眉間に皺を寄せ、下村の目の前に錠剤を突きつける。「おまえ、この錠剤、飲めるか?」 そう尋ねると、下村はおかしそうに唇を歪ませて笑った。 「嫌だよ。死ぬと分かって、毒を飲む奴はいない」 しゃあしゃあと口にする下村に、峰高は溜息を吐いた。顔を見れば怒りが湧いて来るかとも思ったが、しかしこうして自分が生き残り、厄介だったもう一人の自分を始末出来たとあっては、激するのも無暗なことであるように思えて来る。 「おまえ、俺にだけ毒薬を渡したな。それも、本物と偽物の区別なく、あらゆる人間を消し去れる毒薬を」 「正解。いやあ、良く気付いたね。流石峰高は聡明だ」 偽物だけを都合よく消し去る薬などなかったのだ。下村はただ、片方に無害な錠剤を、もう片方に存在をこの世から消し去る猛毒を渡したに過ぎなかった。 「どうしてそんなことをした?」 「それで君達の抱えていた問題は解決するだろう? つまり、無害な錠剤を飲んだ方を本物、毒を飲んだ方を偽物と扱えば済むはずなんだから」 「本物の方が毒を飲んじまったらどうするんだ?」 「君ともう一人の君との間に、一切の差異はない。そういう意味で、薬を渡した時点での君達はどちらが本物と言う訳でもなかったのさ」 「より大きな断片から再生した方が本物だという定義はどこに行ったんだ? 小さな断片から再生するほど、DNAにより大きく再生の痕跡が残るという話は?」 「それは全部嘘だよ」 下村は淡々と言ってのける。 「そもそも、君ともう一人の君の元となった断片の大きさに、たいした差はないんだよ。人魚が牛一頭食べ尽くす様子を、さっき見せただろう? それくらいの食欲は人魚にはあるんだ。人魚は人を食べる時、ほんの小さな断片を残して、人間の全身を食い尽くしてしまう。二つ断片が残る時も、それは同じことなんだ」 「おまえは……いや。それはもう良い」 峰高はうんざりした気持ちで、足元の寝袋を蹴りつける。 「頼みがあって来た。こいつを引き取ってくれ」 「もう一人の君の死骸かい? 他の理由で死んだ死骸に、後から毒を盛るのは無理だからね。始末が必要になる訳だ」 何が起きたのか察しているような様子でいう下村に、峰高は首を横に振る。 「そんなもの、人魚に食わせたさ。思い出したくもない程グロテスクな光景だった」 「断片を一つ残したんじゃないかな?」 「だから、ぶん殴って無理矢理口に押し込めてやったんだ」 「じゃあこれは何だい?」 「おまえから買った人魚だ。金を返せとは言わん。売り物に出来る状態じゃないからな」 首を傾げた下村が寝袋に歩み寄り、チャックを降ろす。 中には、全身が赤黒く腫れあがり見るも無残な姿となった人魚が、ぐったりと横たわっていた。目の片方は潰れ、爪はあちこち砕け、右脚はあらぬ方向にねじ曲がっている。 もう一人の自分を始末させた後、下村は人魚を改めて懲らしめたのだ。少々やりすぎてしまったが、こいつの所為でどれほどの受難を味わったかと思うと、心が痛むこともなかった。 それを見た下村は、しかし表情を少しも変えることなく、何ごともないかのような温和な口調で言った。 「いや。金は半分返すよ。だって、こいつらは例えミキサーにかけて全身をミンチ肉にしてやったとしても、次の日には元通り再生しているんだからね。だからこの程度のケガは、買い取り拒否の理由にならない」 まったく忌々しい生き物だ。峰高は舌打ちした。 〇 3:ぼくの話 〇 「人魚姫の物語を僕は愛している。もっとも印象的なシーンは、主人公のアラーナを助ける為に、五人の姉達が駆けつけるところだ。妹の為に自分達の持つ美しい髪を差し出す献身的な優しさには、感じ入らずにはいられない」 研究所の所長である下村合歓夫(しもむらねむお)は、大仰な口調でぼくにそう語る。二十八歳の若さで自分の研究所を持ち、学会からも大注目されている人魚専門家の彼は、ぼくのような研究所スタッフに繰り返しその話を聞かせて来る。 いや、ぼくのような下っ端のことを一丁前に『スタッフ』などと称するのは、おこがましいというべきだろう。何せぼくの本分は大学生であり、この研究所においてもアルバイトとして雑用係を務めているに過ぎなかった。 「姉さんたちは、そうまでしてアラーナに生きて欲しかった。しかしアラーナはそんな姉達の想いを受け入れず、振り向いてもくれない王子様の為に泡となって消えてしまう。幼い恋に目を眩ませ、本当に尊重すべき献身的な愛を蔑ろにしたんだ。本を読んだ感想は人それぞれだが、僕はアラーナを愚かな娘だと感じている」 「でも、所長は人魚姫を好きなんですよね」 「まあね。思春期の娘であるアラーナには、身内からの愛情や庇護から抜け出して、自分一人だけの冒険と恋愛に準ずることを躊躇わらない果敢さがある。若い力に溢れているんだ。そういうところが、童話を読んだ子供達の胸に響き、憧れを齎すんだろう。だが物語が指し示す現実は、彼女の盲目さに幸福な結末を与えない」 そう言って、下村所長は僕の方に優し気な視線を送る。年少者に大切なことを諭す大人の目だ。 「ぼくは、アラーナは幸せだったと思いますよ」 ぼくはそう答えた。 下村所長はふむと唇に指を当て、小さく首を傾げた上で、言った。 「泡となって消えたとしても?」 「はい」 「消えなければ、王子様以外の素晴らしい幸福を、たくさん知ることができたかもしれないのに?」 「王子様以上の幸せなど、人魚姫にはないでしょう」 「何が幸せかを決めるのは君だ」下村所長は頷いた。「良いよ。君に人魚を売ろう。一流大学で優秀な成績を誇る君が、たくさんの借金をして、利息を払う為に大学を辞めて働き始めることを選ぶほど、その人魚を手に入れたいのであれば、僕は君の手にする幸せを祝福する。後から君が後悔したとしても、それを笑うことはないだろう」 「ありがとうございます」 僕は所長に向けて頭を下げた。 〇 小学生の頃、ぼくは人魚に助けられたことがある。 いじめっ子に川に突き落とされた時のことだ。金槌のぼくは水の中で無暗に手をばたつかせて溺れ、仕舞いには脚が攣り、身動きが取れなくなった。水をたくさん飲んで、腹の中には冷たい石がたくさん放り込まれたような重たい苦痛を感じ、僕は静かに水の底へと沈んで行った。 そこに人魚が現れた。 黒い髪と、鯉や金魚を思わせる赤と白の更紗模様の尾びれを持った、とても美しい人魚だった。彼女はぼくを陸まで運び上げると、ぼくが水を吐くまでじっと見守ってくれた。そして強く咳き込んでからどうにか息をし始めた僕を見ると、先ほどまでおろおろとしていたのが途端に笑顔になって、ぼくの身体を優しく抱きしめてから、川の中へと戻って行った。 ぼくは優しいその人魚の虜になった。 当時はまだ人魚と言う生き物が世の中に認知されていなかったから、ぼくの言うことは単なる妄言、溺れた時に見た幻覚か何かで片付けられた。そのことが、ぼくを余計に人魚の想い出に執着させた。 やがて人魚という生き物が正式に発見され、人魚を研究する機関があちこちに作られた。若き第一人者である下村合歓夫の研究所にアルバイトを志願したのも、人魚に強い興味があったからだ。自分を助けてくれた人魚という生き物について深く知り、あわよくば、あの時ぼくを助けた人魚にもう一度会いたいと思った。 ある日、研究所に新たな一匹の人魚が加わった。過去に下村所長が友人に売った人魚が、返品されて来たのだと言う。 それが『彼女』だった。長い黒髪と赤と白の更紗模様の尾びれ。ぼくを助けてくれた、あの人魚だ。 ぼくは彼女を手に入れたいと思った。 〇 下村人魚研究所は人魚の販売を専門としている業者ではない。ローンを組むなんて制度はないし、人魚をキープしておいてもらうなんてことはできない。所長が所有する人魚を確実に手にしようと思うなら、向こうの言い値で一刻も早く一括払いするしかなかった。 「この子で合っているかい?」 下村所長が一匹の人魚を連れて来る。水槽から出され、全身の水を拭われたらしき彼女は、風呂上りの乙女のようにしっとりと濡れている。 信じられない程大きな瞳に真っ白い肌、桜色の唇。怯えたようにこちらを見やる上目遣いのその表情は、ぞっとする程煽情的だ。尾びれを除けば十五歳前後の少女にしか見えないその姿は、当時から何も変わっていない。だがそれは、死ぬまで若いままの肉体を持つ人魚のことだ。 「はい。間違いありません」 「お金はさっき振り込んでもらったし、この場でお譲りするよ。手を握って家まで引っ張って行っても逃げはしないだろうが、川なんかの水場の傍を通る時は注意して。飛び込まれると、人間では追いかけようがなくなる。不安なら、家までトラックで運んであげてもかまわないよ」 「いいえ。大丈夫です」 書面を取り交わして正式に所有権をぼくに移動させ、保険にも入る。念の為、首にぼくの電話番号の入ったチョーカーを取り付けた。即席のものだったが、彼女の髪の毛と同じ黒色のチョーカーは、彼女の愛らしさをより一層引き立てるようだった。 チョーカーを取り付ける時、人魚はあからさまに身を固くした。びくびくとした様子でぼくに上目遣いをし、取り付けが終わると、安堵したかのように息を吐きだす。まるで、首を絞められるとでも思っていたかのようだった。 「怯えていませんか、この子」 「前の飼い主が、殴る蹴るの暴行を加えていたから、その影響だろうね」 「……酷いことを」 「愛護法に照らせば有罪だけど、人魚の傷はすぐ治ってしまうから、証拠もない。でも人魚は復讐を望む生き物じゃない。これから君が愛してあげれば何の問題もないよ」 「この子、名前はなんていうんですか?」 「Fの11番」 「所長はどう呼んでいるんですか?」 「ちゃんと今言った番号で呼ばないと、スタッフが混乱しちゃうんだよね」 「前の飼い主はなんて名前を付けていたんですか?」 「そう言えば聞いていなかったな。……まあ、君の物になるのだし、君が呼びたいように呼んでも良いと思うよ?」 そう言われ、ぼくは少し考えて、言った。 「アラーナ」 人魚の華奢な肩に手を触れる。 「君は、アラーナだ」 人魚はしばらくぼくの目を怯えたように見詰めていたが、沈黙の後、声を出さないまま薄い唇を『あらあな』と僅かに動かした。 「アンデルセンの人魚姫の名前だね」所長が言う。 「ええ。犬でいうところのポチみたいなもんですけど、でも、ぼくにとっては、これしかないんです」 溺れていたぼくを助けた優しい人魚に、これ以上相応しい名前は存在しない。 「所長。今までお世話になりました」 「就職が決まるまでは、全然ウチで面倒見るのに」 「実は、それはもう決まってるんです。親戚のコネなのが、情けないんですが」 「大事なのは入ってからだから、情けないなんてことはないさ。頑張ってね。人魚のことなら、いつでも相談しに来てくれて良いよ」 所長はスタッフに過剰な量の焼き菓子を振る舞う程度の奇行はあったが、全体としては親切な人物だった。客観的に言って、良い上司だったと言えるだろう。 「この子……アラーナのことは、大切にします。それでは」 「うん。お幸せにね」 〇 小さな手を引かれるアラーナは、下村所長の言ったとおり、逃げ出そうとすることもなく、尾びれを器用に動かしてぼくに付いて来た。水中で行われる鮮やかな高速遊泳とは打って変わり、這いずるような陸上での歩行速度は幼い子供と同じくらい。しかしぼくは焦れることなく、彼女の手を引いている幸福をただ噛みしめていた。 家に帰りつくと、彼女を風呂場に連れて行き、外の砂埃で汚れた身体を丹念に洗ってやる。シャワーの水を掛けられると、アラーナはくすぐったそうに、気持ち良さそうに身を捩った。やはり、水が好きなのだ。 水を張った浴槽に入れてやると、人魚はありがたそうにその中で身を横たえた。どこか、ぼくに……というか人間そのものに恐れをなしている態度に代わりはないものの、小さな浴槽の中で色々な体勢を試しているあどけない様子は、幾分落ち着いているようにぼくには思われた。 今日からは入浴を諦め、シャワーで済ませなければならない。その際に、浴槽の水を張り替えてやり、人魚の全身を清めてやるのだ。人魚は驚く程高い代謝能力を持っている為、どんなに粗末に扱っても体のどこからも悪臭を漂わせる心配はないらしかったが、それは気持ちの問題だ。 「ねぇ君。ぼくのことを覚えているかい?」 そう尋ねると、アラーナは大きな瞳をぱちくりとさせ、可愛らしく小首を傾げた。 「ほら、十年くらい前、川で溺れていた子供を助けたことがあるだろう。ぼくはその時の少年なんだ」 こうしてまじまじと見つめる程、アラーナがあの時の『彼女』であることは、間違いないと思えて来る。ただでさえ珍しい色の髪と尾びれを持った人魚だ。人魚を取り違えたと言う可能性は、ないに等しいと言って良かった。 何かを思い出そうと努力しているようにも見えるその様子は、ぼくの言葉が通じている証拠でもある。しかしアラーナがぼくの問いかけに首を縦に振ることはなかった。ただぼんやりとぼくの顔つきをじっと見つめるだけだった。 ぼくは小さく微笑んで言った。 「君がぼくのことを忘れても、ぼくは君のことを忘れなかったよ」 アラーナはもう一度小首を傾げたが、次の瞬間には、あどけない笑みをぼくにくれもした。 〇 アラーナとの生活は幸福だった。 虐待された動物にありがちな、些細なことで怯え縮こまる態度も、少しずつなりを潜めて行った。丁寧に世話をしてやっている内に、ぼくを危険な相手ではないと理解してくれたらしかった。もっとも、少々甘やかしすぎた弊害か、水浸しの身体であちこち這いまわるのをやめさせるのには、ちょっと苦労した。 とは言え、他人が家に来ると怯えた態度を取るのには変わらなかったし、家の外にもあまり出たがらないのを見るに、心の傷が癒えた訳ではなさそうだった。そうした仕草を目の当たりにする度、ぼくは彼女を虐待した前の飼い主に対する怒りを募らせた。 アラーナが特に好んだのはテレビを眺めていることだった。番組を問わず、ただ明滅する光を物珍しそうにいつまでもじっと見詰めているのだ。幼子のように両手を床に付き、尾びれを丸めているその様子は愛らしく、ぼくは彼女の隣に腰かけて一緒にテレビを見詰めていた。 やがて叔父に斡旋してもらった仕事に通うようになる。最初は苦労したが、やがて馴れることもできた。アラーナと暮らす為に必要な労働だと思うと、やりがいもあった。 借金を返す為にはしばらくの間バリバリ働く必要があり、激務だったが、家に帰ればアラーナがいた。仕事から帰ってまずは風呂場にアラーナを迎えに行く。アラーナは待ちかねたようにぼくにすり寄り、笑顔を向ける。そして一緒に身体を洗うと、全身を拭いてやって一緒にリビングに移動して食事を取り、身を寄せ合ってテレビを眺めた。 幸福な日々。 そんなある日、一緒にテレビを見ていた時、アラーナが驚いた様子で目を丸くする。と同時に、ぼくもまた隣で素っ頓狂な声をあげた。 テレビでは、大阪の天保山にある有名な水族館で、人魚が展示されることに決まったという報道がされている。日本の水族館で人魚を扱うのは四例目。黒髪と、赤と白の更紗模様を持つ、美しい人魚。名前は公募により、アクァータと決まった。童話『人魚姫』に登場する、主人公の姉達の長女の名だ。 間違いない。それはアラーナと、つまり、ぼくを助けた『彼女』とまったくうり二つの見た目をしていた。 アラーナは興奮した様子でテレビににじり寄り、自分と同じ姿をしたその人魚を見て尾びれをばたつかせていた。ぼくはただ茫然として、そんなアラーナと、画面の中のアクァータを見詰めていた。 〇 何故ぼくのアラーナと、大阪の水族館にいるアクァータは、こうも瓜二つの姿をしているのだろう? 双子の姉妹とも、単なる偶然とも言うことができたが、人魚について勉強をしていたことのあるぼくには、より蓋然性の高い説を導くことができる。 アクァータは、アラーナと元は同一の個体だった。 その個体は何らかの理由で二つに分断され、アクァータとアラーナの二匹の人魚として再生したのだ。 人魚の持つ最大の特徴はその再生能力だ。プラナリアのように、幾つに分断されたとしても、その断片の一つ一つが完全な姿に再生する。つまりその気になれば、一匹の人魚を複数に切り分けて増殖させることも可能ということだ。 高く売れる人魚をその方法で増殖させようとする業者は後を絶たない。しかし身体を切断されるとあっては人魚にとっても激痛だ。大人しい人魚もこの時ばかりは抵抗する。他人を昏倒させる絶叫や、剃刀の切れ味を発揮する鋭い八重歯、外見から受ける印象を遥かに上回る筋力等を用いて暴れ狂うのだ。分断は容易ではない。またそれらを解決できたとしても、そもそも人道的観点からその行いは法律上の禁忌なのだった。よって、アクァータとアラーナの分裂は、自然界で偶発的に引き起こされた可能性が高い。 アラーナはぼくのことを知らなかった。ならば、小学生のあの時、ぼくを助けてくれた『彼女』は、おそらく水族館にいるアクァータだ。アラーナとアクァータは、川で住んでいる時に何らかの理由で二つに分裂し、おそらくは共に暮らしていたのだろう。しかし共に人間に捕らえられ、片割れは水族館に、もう一つの片割れは今ぼくのところにいるということらしかった。 それっきり、アラーナはよりいっそうテレビ画面に齧り付くようになった。画面の明滅を愉しんでいるのではない。アクァータが写るのを待っているのだ。そしてごくまれに水族館の特集が組まれると、興奮した様子で尾びれをバタバタと動かしながら、自らの片割れの姿に見入った。 アラーナがアクァータに会いたがっていることは明らかだった。 〇 ある日、仕事から帰って来ると、部屋のガラスが割れていてアラーナがいなくなっていた。ぼくはパニックに陥った。しばらくして親切な誰かに保護され、首輪に書かれた番号からぼくに電話を掛けてくれるまで、ぼくは脚を棒にして町中を歩き回っていた。 「アクァータに会いに行くつもりだったのかい?」 連れ戻され、しゅんとした様子のアラーナは、ぼくの問いかけに控えめに頷いた。 「ぼくも君の片割れに会いたいよ。彼女こそが、ぼくを助けてくれた人魚なのだからね」ぼくは微笑んだ。「もちろん、今となっては君が最愛の人魚だが、しかし思い出を蔑ろにするつもりもない。今度、一緒に彼女に会いに行こう」 アラーナは目を輝かせた。 週末を待ち、ぼくは車を自動車をレンタルしてアラーナを隣に乗せた。最初は自動車のスピードに怯えていたアラーナだったが、それにも馴れ、移動する景色を楽しむまでになった。 大阪の天保山に辿り着く。その水族館は海のすぐ傍に建設されていて、港から出る船に乗り込んでクルージングを楽しむツアーなどもある。水族館のチケット売り場の広場から、階段を一つ下ればもう海だ。雄大な海の景色と、香しい潮の匂い。 ぼくは積み込んでいた車椅子を取り出すと、服を着せたアラーナをそこに乗せた。そして魚の尾びれに布を掛け、人間に見せかける。 「こうしていないと、人魚は来場を拒否されるから」 水族館はペット同伴禁止だ。賢いアラーナは理解してくれた。 一緒にチケット売り場に向かう。 「大人一枚。それと、あと、ええと。高校生一枚」 緊張の一瞬。しかしチケットの販売員は、疑問に思うことなく言った通りのチケットをくれた。 ぼくらは無事に来館を果たした。 〇 人魚の水槽の前に辿り着くと、アクァータはアラーナに、アラーナはアクァータにすぐに気付いた。 興奮して椅子から飛び上がろうとするアラーナを制する内に、アクァータは弾丸のような鋭い動きでアラーナの前まで泳いできた。そしてブレーキをかけると、アラーナの前にぴたりと制止する。素晴らしい遊泳能力。二匹は感激の表情で顔を突き合わせ、アクリルガラス越しに両手の平を合わせ、涙を流し始めた。 やはり二匹は、過去に共に暮らしていたことがあったらしい。 ぼくは自分があの時の子供であることをアクァータに伝えたかったが、少し待つことにした。二匹の間に入るのはあまりにも憚られたからだ。二匹は声も出さず、僅かな身じろぎしかせず、二匹はただただ頷き合ったり、見つめ合ったりしているだけだ。だがそれは酷く濃密な、尊い交信であるようにも思われた。 何時間でも二匹はずっとそうしていられた。気が済むまでそうさせてやるつもりでぼくは二匹のやり取りを見守り続けた。やがて閉館時間が過ぎ、係員から注意されるまで、二匹は動かなかった。 帰り道、車に乗せたアラーナは浮かない表情を浮かべていた。アクァータとのお別れがつらかったようだ。 「また連れて来てあげるよ」 そう言ってやると、アラーナは少しだけ嬉しそうに微笑んで頷いてくれるのだが、しかし満たされた様子はなかった。 そのはずだ。二匹はただガラス越しに再会を果たしただけなのだ。触れあったり、共に水中を気ままに泳いだり、そういうことを二匹はしたいはずだった。 その為には二通りの道がある。一つはアラーナを水槽に入れること。もう一つは、アクァータを水槽から出すことだ。 アクァータを買い上げる財力は今のぼくには当然ない。だがアラーナを水族館に提供しても、二匹が同じ水槽で暮らせる見込みはなかった。人魚を同時に二匹飼育するのは、禁忌とされる行為だからだ。 何故人魚を複数同時に飼育することが禁忌なのか。喧嘩の恐れがあるから……ではない。人魚は穏やかで、同族間での絆を重視する生き物だ。ならば何がいけないのかと言うと、一匹ずつなら臆病で大人しい人魚でも、群れを成すことで人間に対する危険性が増すからだ。 群れると恐ろしいのは、他の飼育動物では犬なんかにも当てはまることではある。群れを成して襲い来る野犬を前に、人間はまず一溜りもない。よって数多くの犬を同時に飼育するのは難しいのだが、専門的な技能の持ち主に制御を可能とする者がいるのもまた事実だ。しかし人魚は犬よりも遙かに頭が良く、高い遊泳力や見かけ以上の腕力、最強の生命力を持つ高等な生き物だ。結託して人間に逆らえば、まず制御は訊かないとされていた。 どうにかしてアクァータを水槽から出さなければならない。そしてもう一度、アラーナとアクァータを共に暮らさせてあげる。それは、過去にアクァータに命を救われた恩を返すことにもなる。方法を考えねばならない。 強盗をしてでもアクァータを買い上げる資金を得るか? いや、金を積んだら譲ってもらえると言うものでもないだろう。個人的な知り合いでもあった下村所長なら口説き落とすこともできたが、何の接点もない水族館の館長の相手はおそらく難航するだろう。 結局答えは出なかった。次の週末にも、ぼくはアラーナを水族館へと連れて来た。アラーナとアクァータは飽きもせずアクリルガラスを挟んで見つめ合っている。同じ顔を突き合わせる二匹に対し、周囲の客たちが奇異の目を向けていた。アラーナが人魚であることがバレるのも時間の問題かもしれない。 思い悩みながら、ぼくはアラーナの周囲をふらふらと歩き回っている。そして、アクァータの人魚水槽の向かいにある大水槽に目をやった。 二匹のジンベエザメの他、オニイトマキエイなどの大型の魚が大量に飼育されている目玉水槽だ。その水槽面積は、沖縄のある水族館の大水槽に次いで国内二番目とされている。その大きな水槽は順路のあちこちから覗けるように設計されていて、興行的な面でも位置的な面でも、この水族館の中心にあると言って良かった。 ぼくはその水槽をじっと眺めながら、水の量を計算する。 我ながら、荒唐無稽な考えだ。しかし、彼女達の知力と遊泳能力を持ってすれば、或いは可能性はある。 「アラーナ」 ぼくはそう呼びかけると、アラーナに今の思い付きを語り、それをアクァータに伝えるように頼んだ。 アラーナは心配そうにぼくを覗き込んでいたが、やがて頷いて、唇の動きだけでアクァータに何やら伝え始めた。 〇 その数か月後、ぼくはいくつかのトランクケースを目一杯抱えて、アラーナと共に水族館を訪れた。 チケットを買い、ケースの内二つを車椅子のアラーナに持ってもらって、館内を歩く。そして通路の途中で一つずつトランクケースを手放して行き、最後に、アクァータの水槽と、その向かいにある館内一の大水槽の前に一つずつトランクを置いた。 アラーナの車椅子を退かせ、二つのトランクから距離を取らせる。そして腕時計を見詰める。あと二十秒。十秒。三、二、一。 爆音が鳴り響いた。 トランクケースに入っていた爆弾が爆発したのだ。追加で借金をして数か月がかりで確保したプラスチック爆弾の威力は、アクリルガラスにヒビを入れるのに十分な威力を誇っていた。すぐに人魚水槽のガラスが割れ、とてつもない量の水流と共にアクァータが顔を出す。 大水槽のアクリルガラスにもヒビが入っていた。ギネスブックにも登録されている世界最厚のアクリルガラス。それに効果的なダメージを与える為の爆弾は、当然生半可な威力ではない。既に周囲にいた数人の客が全身をバラバラに吹き飛ばされ死亡している。これだけでも戦後最大級のテロ事件……加害者のぼくは最早極刑を免れない。 ガラスに刻まれたヒビが少しずつ広がっていく。そして滲みだした最初の一滴が通路に溢れたかと思ったら、耐えきれなくなったようにアクリルガラスは崩壊し、一万トンの海水が水族館の通路を一瞬にして飲み込んだ。 続いてさらなる爆発音が鳴り響き、水族館を支えているコンクリートの床や壁が次々と崩壊を始める。水族館の外に上手く海水を流れ出させる為、水の通り道が出来るよう計算して館内に爆弾を置いて回ったのだ。 ぼく達は荒廃した水族館の中を無茶苦茶に押し流されていく。人間だけでなく、魚や大小の器具、砕けたガラスやコンクリートなどもだ。 どうにか目を開けて、ぼくは二匹の人魚を探そうとした。二人が手を取り合って、水の中を首尾良く逃げ切ることを願った。 この水族館は海から百メートルも離れていない。この水流は水族館の外に溢れだし、彼女達が泳ぐ道を作ってくれるはずだ。上手く海まで直結しなくとも、近くまで運んでやりさえすれば、混乱に乗じて彼女達は海までたどり着いてくれる。何せこの爆破事件は戦後最大級のものだ。逃げていく人魚を気に止める者など、増して捕まえようとする者などいるはずもない。 流れされる途中で、何か大きな塊がぼくの腕に触れた。 鋭い痛みと共に、ぼくの左腕に違和感が訪れる。そして真っ赤な血液が腕からあふれ出す。 激流により運ばれるガラス片の大きなものがぼくの腕に接触し、切り裂いたのだ。そしてぼくの視界に、さっきまで肩に付いていたぼくの腕が現れる。腕が千切れた。仕方ない。彼女達の為には、さしたる犠牲ではない。 その時、鮮やかな黒い髪を靡かせた二匹の人魚が現れた。 彼女達は流されるぼくの左腕に気が付くと、水流に動じずにそれを見事にキャッチする。 一瞬の出来事だった。そこから先を見ることは叶わない。片腕を失ったまま、ぼくは意識を失った。 目が覚めると水族館の瓦礫の中にいた。体力を消耗して死にかけているのが自分でもわかった。だがそれも良い。ぼくはできるだけのことをやった。きっとアラーナはアクァータと一緒に海へと辿り着いたことだろう。そして二匹で仲良く、幸せに暮らすのだ。 そう思うとぼくは満足して、再び意識を失った。 〇 一命を取り止めたぼくは救急車で運ばれて、治療を受け、やって来た警察に洗いざらい本当のことを話した。 死者行方不明者多数の大規模テロ事件の犯人として、ぼくは裁判を受け、死刑囚となる。 死刑囚としての暮らしは想像していた以上に静かなものだった。独房は寂しかったが、他の囚人に気を使わなくて良いという利点もある。一人きりの時間の中で、ぼくは色々なことを考えた。 アラーナのことをぼくは深く愛していたし、命を救ってくれたアクァータには感謝していた。彼女達の為に死刑囚になったことに、後悔はない。ぼくは自分の中にある彼女達への愛に殉じ、彼女達の為に死ぬ。王子様の為に泡となった童話の人魚姫のように、ぼくにとってそれは幸福で、胸を張れる死なのだ。 犠牲となった多くの人々には申し訳ないことをした。他に方法はなかったから、反省や後悔をすることはないが、それでも彼らの死はぼくの全身に重くのしかかっている。冥福を祈り、囚人として出来る限りのことを彼らに尽くさなければならなかった。 囚人としての暮らしにも馴れ、死刑囚仲間や看守達と交流して、仲良くなる。被害者達に手紙を書いたり、写経をしたり祈りを捧げたりして、日々を過ごす。 面会に来てくれた身内から聞いた話によれば、アラーナとアクァータは捕獲されることなく、無事行方不明となったらしい。当たり前だ。あんな第三次の中逃げる人魚に気を使う者などいるものか。間違いなく彼女らは海へと帰り付き、そして共に自由な海の暮らしへと入ったのだ。 肘から先を失った左腕に手を触れる時、ぼくはあの時のことを思いだす。 おそらくアラーナ達はあの水流の中でぼくのことを探してくれていたのだろう。ぼく本体を見付けることは叶わなかった代わり、ガラスで切り裂かれたぼくの左腕を発見し、持ち去った。いつもしている腕時計で、それがぼくのものだという判別は付いたはずだ。 わざわざ捕まえたからには、彼女達はそれを海の中へと持って行ったはずだ。そして人魚には、肉体の小さな断片から人間を再生させる能力を持っている。ならばあの左腕は彼女達によって再生させられ、もう一人のぼくとして復活を遂げているかもしれない。 もちろん、そのぼくが水中で生きて行くことは不可能だ。もう一人のぼくが生きているとしたら、どこか他人の寄り付かない無人島とかだろう。彼女達の遊泳能力なら、海の果てまでも簡単に辿り着く。きっとちょうど良い無人島を見付けてくれるんじゃないだろうか? ぼくは考える。 どこかの無人島の海岸に、もう一人のぼくは住んでいる。二匹の人魚はその『ぼく』の為に、海で捕まえた魚や貝を持って来てくれるはずだ。お腹が一杯になると、ぼくは人魚と共に海へと入り、水を掛け合ったりして彼女らと戯れて遊ぶのだ。そんな自由気ままな暮らしが、その島では今もずっと続いている。 そういうことを想像するのは、たまらなく楽しい。 〇 4:合歓夫の話 〇 客観的に言っても、そこは決して居心地の悪い住処ではない。 大きさは十畳程で、天井も低くはなく家具の類もそれなりに立派だ。壁一面に及ぶ本棚には多様な書籍がぎっしりと並び、備え付けられた机の上には、文字がぎっしりと並んだノートが開かれている。冷蔵庫の中には甘味類を初めとした食べ物が充満されていて、それとは別に三度の食事も届けられた。 食べ物はだいたい、望んだものが手に入る。本もたくさんもらえるので、勉強するのに支障はない。もちろん娯楽のための書籍も届けてくれるし、他にテレビもある。おおよそ何不自由ない生活と言って良かった。 しかしその部屋で何をして過ごしたところで、下村合歓夫『2』の心に安寧が訪れることはなかった。あるのはただハラワタに冷たい岩を詰め込まれたかのような閉塞感と、頭頂部をちりちりと焼き尽くすような耐えがたい苛立ちだけ。 合歓夫『2』がいつものように悶々としていると、忌まわしい足音が部屋の外から聞こえて来た。 「やあやあ。今日も来たよ。元気にしていたかい?」 格子付きの窓から下村合歓夫『1』が顔を覗かせ、気さくな声で合歓夫『2』に呼びかけた。部屋の真ん中で寝ころんでいた合歓夫『2』は、顔を向けることもせずに合歓夫『1』に答えた。 「こんなところに閉じ込められて、元気な訳がないだろう」 「体調に変わりはないかと聞いたんだ。風邪を引いたっていうんなら薬を差し入れてやるし、気が狂いそうになったのなら安定剤を用意しなきゃならない。自分の体調くらい分かるだろう? 何せ……」 合歓夫『1』は偽悪的に薄く微笑んで、言った。 「君は僕なんだから。僕達は優秀な医者だ。『自分』が弱っていくのを見るのは忍びない。何でも言ってくれて良い。君は僕のことを憎んでいるだろうが、僕は君に対して同情的なつもりなんだよ」 それはそうだろう。合歓夫『2』は舌打ちをする。格子付きの窓から覗く優男面は、間違いなく合歓夫『2』と同一の人間の物だ。合歓夫『2』が向こうの立場なら、もう一人の自分に同じように同情的に接しただろう。 だがそれでも合歓夫2は合歓夫『1』のことを……外の広い世界で名声に包まれながら自由に生きているもう一人の自分のことを、憎まずにはいられなかった。そしてそのことを合歓夫『1』は知っていて、合歓夫『1』が知っていることを合歓夫『2』は知っているのだった。 「僕達は元々一人の人間だった。その時から僕は自分の研究所を持ち、人魚について研究していた。それがちょっとしたしくじりをやらかして、人魚によって二人の人間に分裂させられてしまったんだ」 合歓夫『1』は淀みなく読み上げるような口調で言う。二人の立場を明らかにする為、合歓夫『1』はここに来るたびその話をした。それは合歓夫『1』が合歓夫『2』を監禁していることについて言い訳を述べているようでもあったが、勝者が敗者に彼我の勝敗を繰り返し説いているかのようでもあった。 「既に世界的な研究者として名声を培っていた僕達は、この世に一つしかない『下村合歓夫』の座を共有することができず、考え得る限りの手を尽くし合い、争うことになった。勝敗を分けた要素は色々だが……大半はまあ運だろう。そして勝者である僕は敗者である君をこの地下室に閉じ込めた。殺すのは忍びないから、衣食を提供し、ある程度の待遇を保証して、密かに生かし続けているという訳だ」 ようするに合歓夫『1』は、自分が負かした合歓夫『2』を飼い殺しにしているのだ。命を取らない理由は色々あるだろうが、最たるものは『紙一重で逆の立場だった』という事実からだろう。そうした想像力は十分に備わっているのが合歓夫という人間だった。 「僕は別に、おまえのことを憎んじゃいない」合歓夫『2』は押し殺したような声で言った。「おまえの言うとおりだ。僕はおまえで、おまえは僕だ。立場が逆でも、僕はおまえと同じことをしただろう。憎む道理はない。だから、例えこの部屋を出たとしても、おまえの邪魔をしたり、おまえに復讐する気は毛頭ないんだ」 「ここから出せと言う交渉かい? 無理な話だ」合歓夫『1』は憐れむような表情で合歓夫『2』を見詰めた。「同じ人間が二人存在することをすんなり飲み込める程、人間の社会は柔軟じゃない。地位も名誉も富も、他人から与えられる愛情の量も、一人の人間が二人に分裂したからと言って二倍になりはしないんだ」 「別に僕の存在を社会に発表しろと言っている訳じゃない。それをしてマスコミのオモチャにされた奴のことを、僕は良く知っている。散々見世物にされやがて世間から飽きられたそいつらは、妻と子供を取り合って争い、最後にはやはり殺し合った。二人の同じ人間が共存するのは無理のあることだ」 「なら分かるだろう? 君は隠者としてここで密やかに生きるべきなんだ。叶えられる願いは出来るだけ叶えてやるから、どうか運命を受け入れてくれ」 「新しい顔と名前をくれ。おまえなら造作もないことだろう」合歓夫『2』は懇願するように言った。「そして地球の裏側で良いから、僕を放り出してくれ。どんなにみじめな暮らしになっても、ここで閉じ込められているより百倍マシだ」 「無理だね」合歓夫『1』はぴしゃりと言った。「君が『下村合歓夫』を諦められる訳がない。僕は君だから良く分かる。君は必ず僕のところへやって来て、どうにかして僕と成り代わろうとするはずだ。君は僕だから、そのくらいのことはやりかねない」 「そんなつもりはない。本当だ。自分自身と争うことほど過酷なことはない。こんな目にあった後だから、もう十分に懲りた。頼むよ、ここから出してくれ」 「無理だといったら、無理だ」 合歓夫『1』はその声調にひんやりとした無慈悲さを滲ませて告げた。 「この間頼まれていたものは格子の前に置いておく。食事もだ。好きに取って食べるんだね。ゴミはいつものとおり、そこのダストシュートから捨てて置いてくれ」 そう言って、合歓夫『1』が立ち去ろうとした時だった。 「……どうやら、本当に僕を外に出す気はないようだな。残念だ」 合歓夫『2』は告げ、そして、隠し持っていたナイフで自分の腹を突きさした。 血の弾ける音。合歓夫『2』の苦し気なうめき声が、地下室内に木霊する。床は鮮血に塗れ、合歓夫『2』は体を横たえて悶え始めた。 合歓夫『1』は振り返り、そして冷静な表情で合歓夫『2』を見詰めた。そして、こうなる可能性はとうに考えていたと言わんばかりの、憎たらしい程落ち着いた声音で言った。 「そのナイフは本棚かなんかの木材を削ったものだね。隠れて良くそんなものを作ったものだが、しかし刺し所は少し間違えたようだ。それじゃあ、死ねるまでに何十分間か苦しまなくてはならなくなる」 「……く、苦しい。痛いっ」合歓夫『2』は血塗れのまま、苦悶の表情で身を捩る。 「僕がここで君にしてやれることは大まかに三つだ」合歓夫『1』は指を三本立てて合歓夫『2』の方に向けた。「一つ、このまま放っておいてやり、君に自分で死なせてやる。二つ、楽に死ねる毒薬を持ってきてやるとか、自殺に協力する。そして三つめは、死にかけている君を助けてやることだ」 「……助けてくれっ!」 合歓夫『2』は叫んだ。 「こんなに痛いのは嫌だ! 僕は……死にたくない。死にたくなかったんだ」 「自殺未遂で運ばれて来たくせに、助命を乞う患者は後を絶たない。君が……もう一人の自分がそんな類になるだなんて、少し複雑な気持ちだね」合歓夫『1』は溜息を吐いた。「まあ、こんな姿もまた、僕自身のある一面だと受け入れなければならないだろう。だから笑ったりはしないつもりさ」 「何をブツブツ言っている!」合歓夫『2』は脂汗をかきながら叫んだ。「人魚の涙を持って木てくれ! あれ以外では、もう助からない傷なんだ!」 「ああ。分かったよ。そこで待っていてくれ」 そう言って、合歓夫『1』は駆け足で地上への階段を駆け上がって行った。 ○ 合歓夫『1』が持ってきた人魚の涙によって、合歓夫『2』は一命を取り留めた。 『人魚の涙』は、史上最高の万能外傷薬だ。文字通り人魚が流す涙を加工して作った医薬品で、飲むと一時的に人魚を上回る再生能力を手にすることが出来るのだ。 人魚が食べた人間を再生させる際、残した断片に自身の涙を垂らすというのは、人魚研究者たちの間では知られた習性である。涙をかけられた断片は一時間ほどで元の姿へ再生する。それをさらに合歓夫が研究改良した医療用の人魚の涙は、経口摂取することでその数倍の速度であらゆる状態から人間を完全に治療することが出来るのだった。 「……落ち着いたかい?」 涙を投与した数時間後、地下室を離れていた合歓夫『1』が合歓夫『2』に告げた。 「……ああ。お陰でな」 合歓夫『2』は自分の腹を見せた。傷跡一つ残さず、刺し傷は完全に治癒していた。 「部屋が血塗れだね。これは自分で掃除するんだ。君がここで住んでいることは誰も知らないし、掃除する為に僕がこの部屋に入ったりしたら、殴り倒されてそのまま成り代わられるということもあり得るからね」 そう言って、合歓夫『1』は格子の隙間から合歓夫『2』に掃除道具を投げた。 合歓夫『2』はそれを受け取らず、合歓夫『1』の方を、正確にはその背後をじっと見つめるだけだった。 「……どうした? 早くしないと染みになるぞ。自分の住処が汚れるのは、君も嫌だろう」 「いいや、その必要はないんだ」 「……? どうして?」 「すぐに分かる。おまえはもう終わりだ」 怪訝そうな顔をする合歓夫『1』。そして、何かに気付いたようにはっとして後ろを振り返る。 そこには三人目の合歓夫がいて、合歓夫『1』に向けた銃を発砲した。 銃声。背中から血を流した合歓夫『1』はその場で崩れ落ち、全てを察したような表情で三人目の合歓夫を見た。それはどこか、意表を突かれつつも敗北を認めたような、しかし隠し切れない悔しさをにじませたような複雑な表情だった。 苦悶の表情を浮かべる合歓夫『1』だったが、三人目の合歓夫が二度目の発砲の為に腕尾伸ばすと、のたうちながら自ら急所を晒すように仰向けになった。 引き金が引かれる。心臓を的確に命中した弾丸は、速やかに合歓夫『1』の生命をこの世から奪って行った。 「これで良いんだろう。『二番』」 そう言って、合歓夫『3』は、合歓夫『2』が切り取った指の断片と一緒に放り込んでやった服の懐に、銃を片付けた。 「ああ。でかした『三番』」合歓夫『2』は合歓夫『3』に向けて、感激した口調で言った。「何もかも、完璧に上手く行った。『一番』の奴、一度勝ったからって、油断していたんだ!」 すべては合歓夫『2』の作戦通りだった。自殺を図り、後悔して助けを乞うように装いながら、『人魚の涙』を要求する。そして人魚並の再生能力を手に入れてしまえばこちらのもの。合歓夫『1』が目を話している隙に自分の指を切り飛ばし、衣類と共に、腕が通る程度の入り口からダストシュートに放り込んだ。 ダストシュートに放り込まれた指はただちに再生を初め、やがて三人目の合歓夫として復活する。ダストシュートから研究所の外に出ることは容易だ。この研究所の地下室は合歓夫が分裂する前から存在しているから、構造は良く理解している。そうして脱出した合歓夫『3』が、再び研究所に侵入して合歓夫『2』を救出するのだ。 不確定要素の多い作戦だったが、しかし1パーセントでも見込みがあるなら、命を賭けるのに何の躊躇もなかった。そしてそれらは、すべて上手く行った。掃除道具を持って来た合歓夫『1』の背後から、合歓夫『3』が忍び寄るのを、合歓夫『2』は歓喜と共に見守った。そして意味深なことを言ってみせることで合歓夫『1』の意識をこちらに集中させ、その隙を突いて合歓夫『3』が殺害に成功。後は合歓夫『3』が自分をこの部屋から出せば、合歓夫『2』は自由を手にすることが出来るのだ。 「あとは僕をここから出すだけだ。鍵の置き場所は分かっているな? 早くしてくれ。それとも、もう持ってきているのか?」 「それなんだがな、『二番』」 合歓夫『3』はそう言って、懐から銃を取り出して合歓夫『2』に向けた。 「ちょっと待て『三番』! 何故それを出す必要がある? 何故こちらに向ける必要があるんだ!」 「じっとしていてくれ。僕は君を打たなければならない」 「意味が分からない。おまえを切り離す時、僕は必ずおまえのことを助け出すと誓ったはずだ! そのことを忘れたのか?」 「忘れていないよ。でもね、本当は君も分かっているだろう? 『もう一人の自分』というのは最大級の脅威だ。能力は同等だから戦えばどちらが勝つか分からない。そして自分に害をなす理由はたっぷりと存在している。迂闊に外に出してやる訳にはいかないんだよ」 「どれだけ長い時間、この部屋の中で苦しみぬいたと思っている? おまえは僕だからそれを知っているはずだ! 頼む! 助けてくれ!」 「だからこそだよ。もう二度と同じ目に合うのは、僕はごめんだ。おとなしくしていてくれ。狙いが外れると、良くない」 合歓夫『3』が放った弾丸は合歓夫『2』の肩に命中する。 合歓夫『2』はたちまちその場を崩れ落ち、意識を失った。 ○ 数時間後、合歓夫『2』は地下室の中で意識を取り戻していた。 自分が殺されたものだと信じて疑わなかった合歓夫『2』は最初、戸惑った。確かに自分は、合歓夫『3』に体を撃ち抜かれたはずだ。人魚の涙の効力はとうに切れていたはずだから、銃で撃たれれば一たまりもないはずだ。 確かに撃たれた証拠に肩にはじわじわとした痛みがある。しかしそこで合歓夫『2』は違和感に気付く。肩を撃たれたくらいでは、普通は人は死なないし、また多くの場合意識を失いもしない。 ならばなぜ自分は今まで気を失っていたのか? 肩には確かに痛みはあったが、実弾で撃たれたものとは思えない程軽微だった。確かに負傷してはいるが、全く大した深さではなく、小さな弾はいとも簡単に取り出せそうだ。弾に相手を眠らせる薬品でも仕込んでいれば、急所を外して打つことで安全に相手を無力化できるだろう。 合歓夫には見覚えがある。これは、人魚が暴れた際、周囲の人間を流れ弾で重態にする危険なく無力化する為に、合歓夫が開発した眠り薬入りの銃だった。これを用いて、合歓夫『3』は合歓夫『2』を眠らせたのだ。 つまり相手に自分を殺す意図はなく、しばらく眠らせておければ十分だったということだ。そう気づいてみると、あたりを見回す余裕ができる。なんと地下室の扉は開いていて、いつでも外に出られるようになっていた。そして開かれた扉に、一枚の紙きれが張り付けられている。 合歓夫は思わず空きっぱなしの扉に近づいた。そして張り付けられた紙切れを手に取る。 『僕は地球の裏側に行く。 おまえは安全だ』 それを読んで、合歓夫『2』は目の前が眩く光り輝いたような心地がした。 地下室の階段を駆け上がり、地上階へと走る。そして息を切らしながら研究所の外に出て、もう何年も覗いていなかった太陽を拝んだ。 明るい太陽に照らされる快感が、瞬く間に全身に染み渡る。澄み渡る青空の深さは鳥肌が立つほどで、合歓夫『2』は涙が出るのを抑えられなかった。 合歓夫『3』は合歓夫『2』にすべてを譲り、自分は地球の裏側へ消えた。もう二度と自分と争うことはない。傷付け合うことも、殺し合うこともない。 自分はもう安全だ。安全なのだ。 合歓夫『2』は泣きながら歓喜の叫びをあげる。その声が鳴りやむことはなかった。 |
粘膜王女三世 2020年05月02日 04時39分10秒 公開 ■この作品の著作権は 粘膜王女三世 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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合計 | 18人 | 470点 |
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