まこくのおう |
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● 魔国外務卿モレク・ターウースは女だてらに重職を務める才女である。 そんな彼女には、命を捧げても惜しくないと思える相手がいた。 魔人が住まうこの国の王。即ち、魔王だ。 「それでは、これより魔国王宮第115回定例会議を執り行う」 魔国王都中心、魔王宮と呼ばれる漆黒の城の一室で、魔王が厳かに宣言をする。 その声を聴くだけで、モレクは身が引き締まる思いがした。 大きな円卓には、自分を含めて魔国の重鎮達がズラリと勢揃いしている。 そしてモレクの丁度向かい側、円卓を囲う椅子の中で最も大きなものに座っているのが、彼女が忠誠を捧げる相手、この国を取り仕切る魔王エレル・アイオーンだ。 その名が示す通り、エレルは女性である。 年齢も、二十四のモレクよりもさらに若く、二十になったばかりのはず。 玉座に座るその姿は確かに若い。しかしそれ以上に、エレルは眩しく輝いていた。 金糸の如き長い髪に、月並みな表現ながらも透き通るような白い肌。 身に纏うのは派手にならない程度に金色があしらわれた純白のドレスと真っ赤なマント。 頭に乗せたティアラ型の王冠と、さらには玉座も併せて、それら全てが使用者の品格を問う品ばかり。なのに、エレルは見事に全てを己の飾りをしている。 細い眉に、知的な紺碧の瞳、スッと通った鼻筋に小ぶりな唇。 美しさに可愛らしさ、さらには凛々しさまでも内包した、まさに真たる『美』。 そこから溢れるカリスマ性は、まさに王たる者の風格であろう。 魔人最高の封印術の使い手にして、五年前、わずか十五歳にして少人数で小国を攻め落とし、魔国の建国を宣言した、時代が生んだ風雲児。 まさに文字通りの魔王。それがエレル・アイオーンだ。 「では、報告を頼むわね、みんな」 「あー、ぼくの方からは特にありませーん!」 エレルが言うが早いか、彼女の左隣に座っている銀髪の女が、軽く手を打った。 長い銀色の髪をポニーテールにまとめている彼女は、エレルの双子の妹だ。 名は、ナハナ・アイオーン。 〈金陽の王姫〉と称されるエレルと共に、彼女は〈銀嶺の戦姫〉と呼ばれている。 この魔国を守る魔王軍の元帥であり、最強の魔人であるのが彼女だ。 生真面目なエレルと比べて、ナハナはお茶らけている印象が強い。 しかし、それは単に彼女が陽気なだけで、フザけているワケではないとモレクは知っていた。事実、これまでにナハナには何度も外交的危機を助けられていたりもする。 「モレク。あなたからは何か、あるかしら?」 エレルに呼ばれた。それだけで、全身に痺れに似た快感が走り抜ける。 「はっ、では聖国との軍事同盟の調印式の日程につきまして報告いたします!」 モレクは椅子をガタリと鳴らして立ち上がり、背筋を伸ばした。 「よろしくお願いするわ、モレク」 「はい!」 エレルに微笑みかけられて、モレクは全身に喜びの熱が巡るのを感じる。 フワフワした心地まま、彼女は領土を隣接させる列強国の一つ聖国との同盟締結について、強い声で熱弁を振るった。この一件は、モレクが提案して進めてきたものだ。 「――で、ありまして、聖国との同盟は我が国の安全保障に大きく寄与するものであると、他ならぬ魔王陛下より外務卿の地位を賜りました私は、確信するところであります!」 「今日もパワー入ってンねぇ~」 ナハナが茶化すように手を叩く。 エレルは、ジッと黙したままモレクの話に耳を傾けていた。 そして、 「そうね、私もそう思うわ、モレク」 告げられたのは、魔王の同意。モレクの心の中は今、百花繚乱の花畑と化していた。 だが――、 「でも、コトは国全体に関わること。他の皆の意見も聞いてみたいわね」 そのエレルの言葉が、モレクの心に咲く花の色どりを褪せさせた。 魔王が口にしたその言葉は、会議の場ではある種のお決まり。皆と言いつつ、エレルは大体この言葉のあとで決まった相手に意見を求める。 「あなたはどう思うかしら、ディム」 そう、今だって。 エレルは自分の横、玉座のすぐ左隣にいる人物に意見を求めた。 席順で言えば左の席にいるのはナハナだが、しかし、顔を傾けたエレルが見ているのは彼女ではない。エレルとナハナの間のスペースに立っている、黒い男だった。 魔王エレルの側近中の側近として、常に彼女の隣に侍っている黒いローブの男。 顔もフードで覆い隠し、モレクですらその素顔を見たことはない。 それどころか、自分よりもさらに前からこの国に仕えている重臣達でもディムの顔を見た者はいないという。まさに素性不明。そして役職も不明。 それなのに、この男は魔王から最も近い位置にいる。即ち、魔国のナンバー2だ。 噂では、エレル、ナハナと共に魔国を建国した面子の一人だとも言われているが、正直、モレクはそれを信じていない。どころか、ディムに対して強い危機感を持っていた。 「――魔王陛下の御心のままに」 ディムが、押し殺した声で一言エレルに告げる。 魔王は満足そうにうなずいて、今度は他の面子の意見を聞き始めた。 モレクが危機感を高めているのは、明らかにエレルがディムに好意を向けている点だ。 正直、他の重臣達の間でもディムの存在は噂に上がることが多い。 魔王の寵愛を得た、素性も怪しい得体のしれない存在。 そんな者が、国のナンバー2という、ナハナよりもさらに魔王に近い場所に立っている。魔国の臣なればこそ、この状況には危惧を抱かざるを得ない。 と、モレクはディムを睨みつつ思うのだが、そこに根差しているものがただの嫉妬であることは、火を見るよりも明らかであろう。無論、本人は気づいていないが。 「モレク、同盟締結の調印式の準備、滞りなく進めて頂戴」 「はい、私にお任せください!」 再び椅子から立ってお辞儀しつつ、上げたその顔でまたディムを睨むモレク。 あんなヤツは呪い爪に引っかかれてしまえばいい。 古くから魔人に伝わる呪詛の言葉を心に強く念じながら、モレクはそこに着席した。 ▼ △ ▼ △ ▼ △ ▼ 「今日もバチバチに睨んできてたね~、モレクのおねーさん」 夜、魔王宮の最奥、魔王の私室で寝間着姿のナハナがケラケラ笑いながら言った。 「いつものことね。まぁ、睨まれた本人がどう感じたか、までは知らないけれど」 簡素な木の椅子に腰かけた、同じく寝間着姿のエレルが、グラスにワインを注いで呟く。その視線の先には音もなく立っている黒いローブの男――ディムがいた。 視線を受けて、ディムは自分の顔を覆うフードを外した。 「ぷはぁ~……」 現れたのは、どうということのないどこにでもいる黒い髪の若者の顔。 さして特徴のない顔は、言い換えれば整った顔立ちと言えなくもないが、しかしどこか精彩を欠いているように見えるのは、瞳の光に力がないからか。 「あ……」 その唇がムズリと動いて、何か言葉を紡ごうとする。 「あ、あの人、苦手だ……。何でいつも、こっち睨むんだよ。怖いなぁ……」 瞳を揺らし、少し泣きそうな顔になって言うディムを、ナハナが笑った。 「そりゃあ仕方がないよ。だってディムは、あの子の恋敵だからね~」 「な、何だよそれ……。意味わかんない……」 笑うナハナに、ディムは顔を俯かせて近くにあるベッドに腰を下ろした。 「ううう、もう会議出たくないよ、エレル」 「それはダメよ、ディム。あなたには会議に出る義務があるわ。わかってるでしょ?」 エレルがワイングラスを卓に置き、ディムに問いかけ、言葉を続けた。 「あなたはこの国を統べる者――魔王なのだから」 告げられたディムは、何か言い返そうと言葉を探し、そして諦める。 エレルの言葉に、突くべき隙はない。ただの事実だからだ。 「……何で国なんて作っちゃったんだろ」 「魔人のためだろ~。何言っちゃってんのさ、魔王様ったら」 魔国ナンバー3、魔王軍のナハナ元帥がからかうようにして言いつつ、また笑う。 それもまた、確かに彼女の言う通り。 魔国とはその名の通り、魔人の集まる国だ。 魔人は人間と比べて強大な魔力と強靭で優れた肉体を持つ種族である。 しかし、遥か昔に当時の魔王がきっかけとなって勃発した人類との戦争で、魔人は数の差から敗れ、魔王は討たれ国も失われて、魔人は大陸中に離散してしまった。 それ以来、魔人は常に迫害の対象として人々から弾圧されてきた。 拠り所を持たない魔人に新たな拠り所を。 その想いを胸に立ち上がったのが、ディムと、そして金銀の姉妹だったのだ。 「本音を言えば、私は明日にでもディムに玉座を譲りたいんですけどね」 ワインを一口飲んで、エレルが言う。 「無理無理無理無理! 絶~~~~~~~~ッ対、無理!」 「知ってるわ」 首を左右にブンブン振るディムに、エレルが苦笑する。 「人前に出たら、頭が真っ白になるのよね?」 「そう。そう。もう、何言えばいいかわからなくなる。……だからその、無理」 気まずさを感じつつも、ディムは目をそらしてうなずいた。 「相変わらず、王様にあるまじきコミュ障っぷり……。代役ができる姉さんがいて、本当によかったよね~。ね。魔王のディムちゃんへ~いか?」 また、からかわれている。しかし、単なる事実なので否定することもできない。 そうなのだった。 民から魔王として崇められているエレルは、実は影武者。 真の魔王であるディムは、コミュ力が著しく欠如しており、エレルに魔王の代役をしてもらっていたのだ。現状、ディムが普通に会話できる相手は、幼馴染であるエレルとナハナだけ。いくらコミュ障といっても、ここまで極まっているのもなかなか珍しい。 「でもね、今後はそうも言ってられなくなるわよ、ディム」 「……え、何で?」 「聖国との同盟締結の調印式があるでしょ? これをきっかけにして今後、魔国は国の外と本格的に向き合うことになるわ。いざ人間の国と接するときに、象徴となる王様が代役だった、っていうのは、あまりいいことではないと思うの」 「だよね~。国王の影武者なんて普通だけどさ、本当の王様がコミュ障だったので代役立ててました、なんていう理由を他国に知られると確実にナメられるかな~って」 「あうう……」 エレルとナハナ、姉妹二人に言われてディムはうつむいた。 わかってはいる。 わかってはいるのだ。 魔国はまだ生まれたばかりの小国。重要なのは、まさにこれからなのだ。 「うん、わかってる。よ? でも、でもさ、僕は……」 うつむいたまま、ディムはその身を小さく震わせた。 彼は自分の両手を見る。黒い上着の長袖と、黒い手袋に覆われた両手を。 「僕は……」 「私達がいるのに、一人で悩まないで、親友」 「姉さんの言う通りだっての。いつだって、ぼく達は一緒だったろ?」 開いた手を、エレルとナハナが握ってくれた。 右手をエレルに、左手をナハナに握られて、ディムは体の震えを止める。 「ありがとう、二人とも」 「どうってことないわ、ディム。でもね――」 エレルがニッコリと優しいながらも『圧』のある笑みを浮かべた。 「聖国との調印式、あなたに魔王として出てもらうつもりだから」 「えええええええええええええ!?」 ディム、寝耳に水。 「魔国の未来に関わる事態だって、今言ったでしょう?」 「そ、それは、まぁ……」 ディム、ぐうの音も出ない。 「だからそろそろ直しましょう、そのコミュ障」 「あああああああああ……」 そしてディム、窮鼠と化す。 しかもこの場合、眼前の猫に噛みつく気すら起きないという完全敗北っぷり。 「わ~、姉さん本気だ。おっかね~」 後ろ頭に手を組みつつ、ナハナがスススとその場を離れた。逃げやがったのである。 「……エ、エレル?」 「大丈夫よ。ちゃんと調印式に間に合うよう、私も考えるから」 優しい笑顔はそのままに、告げられたのは約束されたスパルタ教育。 これは絶対逃げられない。 確信したディムが、手を握られたままガックリと肩を落とす。 かくして、『ディム・ウルゴー、魔王への道』が問答無用に決まった。 ● 魔国外務卿モレク・ターウースの趣味は、市井を散歩して回ることだ。 民に悟られないように服装を一般人に合わせ、何食わぬ顔で王都を歩き回る。 一日に一時間ほどのことだが、彼女はこの国に来て以来、ずっとそれを日課としてきた。 魔王宮に見下ろされる王都には、今日も多くの魔人達の姿があった。 賑わう市場。 客を呼び込む果物屋の店主。 腕を組んで歩くカップルに、子供をその腕に担ぎ上げる父親らしき男性。 道端では大道芸人がお手玉を披露し、観客達が拍手を送る。 それは、どこにでもある平和な風景。 そしてモレクにとっては、絶対に守らねばならないと思う民達の姿であった。 魔人などと呼ばれながらも、その姿は人と変わるところはない。 ただ、耳の先が少し尖っているだけだ。 だが数百年前の戦いをきっかけに、魔人は『角耳』などと呼ばれるようになり、無条件の差別に晒されるようになった。過去の魔人の罪業を理不尽に押し付けられて。 モレク自身、この国にやってくるまではおよそ人とは呼べない日々を送ってきた。 だからこそ目の前にある当たり前の日常の尊さを実感できる。 自分が護るべき宝物を再認識する。 そのための、毎日の散歩でもあるのだ。 しかし、今日の散歩はいつもと違っていた。 「……ん?」 毎日、ほぼ同じコースを歩くモレクは、魔王宮へと通じる道の途中、曲がり角に差し掛かる。すると、何やら角の向こうが随分と騒がしい。多くの人の声がしている。 何事かと思いながら曲がると、凄まじい数の民がそこに集まっていた。 「ナハナ様ァ~!」 「私とも握手してください、応援しています!」 「はぁ~い、はいはい、押し合わないの! ちゃんと順番で握手するから、ね!」 何と、人だかりの中心にいたのは魔王軍元帥ナハナだった。 「……げ、元帥閣下。これは一体」 モレクが驚き呻くが、さすがにこの人だかりの中ではその声も届かない。 ただ、何となくだが状況は掴めた。 ナハナの存在を知った民が、彼女と触れ合おうとして集まってきたのだろう。 モレクも敬愛してやまないエレルは当然のことながら、ナハナもまた民達に強く愛されていた。彼女自身のあけっぴろげな性格もさることながら、魔人を救うために立ち上がり、魔国を建国したという事実を、ほとんどの民が恩と感じているからだ。 たまにはこうした触れ合いもあり、か。傍から見ればほほえましくもある。 モレクが壁によっかかり、そう思っていたとき、 「ぁ、ぁの……」 死角から、彼女に声をかける者がいた。 「ん……?」 振り向くと、そこにいるのはさしたる特徴もない黒髪の魔人の青年。 こっちに話しかけてきたにもかかわらず、顔を深く俯かせて目を合わせようとしない。 「……ぅげ」 しかも何か、呻かれた。 「おい、人に話しかけておいて何故そんなイヤそうな声を出す?」 「ぁ、ぃ、ぃゃ、す、すみません……」 声、ちっちゃ。 俯いたままの青年が出す声は、あまりにもか細く、まず聞き取るのに苦労する。 しかも、視線は落ち着かずに右往左往してるわ、体はユラユラ揺れてるわ、唇は地上に釣り上げられた魚みたいに開閉を繰り返してるわで、挙動不審も甚だしい。 「何なんだ、君は。私に何か用事があるんじゃないのか?」 「ぁぅ……、すみません……」 「謝らないでいい。それよりも用件を話してほしい」 何故だか緊張でガチガチになっているらしい青年に若干イラ立ちつつ、モレクははっきりとした声でそれを告げた。すると、青年は余計モジモジし始めた。 「ぁ、……み、みち」 「何だって?」 よく聞き取れなかったので、聞き返した。 「み、みち……、ぉ、ぉしぇ……、ぁ……」 黒い手袋で覆った両手を擦り合わせて、青年は何かを言おうとしている。 しかし、どうにも声が小さすぎる。モレクも何とか聞き取ろうとするのだが、それでも聞き取れず、どうにも要領を得ない。おかげで、イラ立ちが増した。 「まずは少し落ち着かないか? 君が何かを尋ねたいのはわかった。だから落ち着け」 「ぅ、は、はぃ……」 言うと、青年はますます恐縮した様子で俯いてしまう。 その極端な背の丸め方に、モレクが連想したのはダンゴムシだった。 「それで、何をききたいんだ。私に」 「み……、みち……」 みち。 道、だろうか。 物言いが平坦すぎて、イントネーションから意味を掴むこともできない。 「道。道路。通路。大通り、ということか?」 「…………」 意訳を試みると、青年は無言のままかすかに頭を動かす。 「――今、うなずいたのか!?」 一拍遅れて気づいた。それほどに、青年の首肯は小さすぎた。 「ぁ……、す、すみま……」 「謝るのはもういい。そう簡単に人が人に頭を下げるものじゃないぞ」 「……すみません」 って、言ったそばから謝られた。 一瞬だけ怒鳴りそうになってしまったが、モレクは深呼吸をして自らを落ち着かせる。 人付き合いが苦手で口下手な人間というものはどこにだっている。 この青年だって、そのたぐいなのだろう。と、彼女は自分に言い聞かせた。 そうして辛抱強く待ち続けると、青年が震えた声でまた言ってくる。 「み、みち……、ぁの、ぉ、ぉしぇて……」 「ああ、ああ! そうか、君は私に、道を教えてほしいのだな!」 それに気づけたとき、モレクはつい声を大きくしてしまった。青年がビクンと震える。 「あ、ああ、すまない。つい、ね。……それで、どこに行きたいのかな?」 「ぇ、ぇと……」 青年がしどろもどろしながら口にしたのは、すぐそばにある区画だった。 「ああ、そこだったら――」 モレクは青年に道を教えようと、少しだけ彼の方に身を寄せる。 「ひぃ……」 何か、低い悲鳴をあげられた。 「……何だい、今の悲鳴のような声は?」 「す、すみません……」 「ああ、いい。いちいち謝る必要はない。とにかくその区画へは――」 と、また彼に分かるよう案内するため近づくと、 「ぴぃ……」 「だから、何故、悲鳴をあげるッ!?」 「すみませぇぇ~ん……」 青年はブルブル震えながら、泣きそうな声でまた謝ってきた。 これでは自分が悪者ではないか、と、思いながら、モレクはため息をつく。 「――と、行き方はこうだ。わかったかな?」 「ぅ、は、ぃ、ゎかりました……」 「本当に聞き取るのが大変だな、君の声は」 「ぅ、すみま――」 「それはもういい。ほら、早く行きなさい」 モレクが案内した方へ指さすと、青年は幾度も頭を下げながらそちらに歩いていった。 「……何だったんだ?」 やけに卑屈な男だったな、と思いながら、モレクは彼を見送る。 直後に、魔王宮の方から鐘の音が聞こえてきた。いけない、執務室に戻らなければ。 「やれやれ、何とも疲れる散歩だったな……」 独りごちながら、魔国外務卿は魔王宮へと戻っていった。 ▼ △ ▼ △ ▼ △ ▼ ディム・ウルゴー、魔王への道。完! 「いや、全然完じゃないよ。不合格。絶対的な不合格」 「何でぇ!?」 夜、魔王宮の一室、そこで本日のコミュ障克服トレーニングの結果について、ディムとナハナが話し合っていた。しかし、どうやら意見は平行線。 ディムが訴える。 「道、聞けたよ! ちゃんと話せたじゃないか。しかも、モレクさんと!」 「いや、それビックリだよね。たまたま話しかけたら、相手がモレクさんとかさ」 「ビックリした……。ビックリしすぎて心臓止まりかけた」 「モレクさん、魔王を倒しかけちゃったかぁ……」 ナハナがしみじみ言う。 彼女が姉エレルから申し渡されたディムの訓練内容は次の通りだ。 1.自分が街に出て人を集める。 2.そこに一般人を装ったディムが集まった人々の誰かに話しかける。 3.ディムがそこでちゃんと人と接して、無事に会話を終える。 ――以上。 たったそれだけの、コミュ障にとっては地獄の業火で焼かれるに等しい特訓だった。 「会話できたじゃん……、話せたじゃん……、何でダメなんだよ……」 「あれは話せたうちには入らないかなー、って」 ディム本人からすればまさに会心とも呼べる出来の会話だった。 しかし、審査員のナハナから無情の宣告。魔王は早速、心が折れそう。 「……よし、わかったよ。まずは問題点を洗い出そう」 「全部。かな」 「ごふっ」 「そもそも話し相手の目も見れないんじゃ、会話以前の問題だよ。あとは、落ち着きがないのもマイナス。目も、手も、体も、派手に揺らしすぎ。全身で貧乏ゆすりしてどうするの? あと声も小さかったよね。あれじゃ話し相手は聞こえにくくてイライラするだけだと思うよ。無駄に謝ってばかりなのも気になったなぁ。相手が怒ってるワケでもないのに、謝り倒すのは逆に神経を逆撫でするよ? ディム、聞いてる?」 微に入り細を穿つ怒涛の如きダメ出しに、魔王はついにその場に崩れ落ちた。 「……ナハナ、よく、見てるね」 「そりゃ、我らが魔王陛下のことだもん。よ~く見てたよ、君のダメっぷり」 ナハナは軽く肩をすくめるばかりで、慰めてくれる気配は一切ない。 彼女は、いつもこうだ。 常に誰とでも対等に接しようとするナハナは、それだけに相手の甘えを見過ごさない。 それは、誰しも己と対等と認めている彼女の優しさの表われでもあるのだろうが、今は少しだけ見えにくい優しさよりもわかりやすい甘さが欲しいディムだった。 ちなみに、姉エレルはここでさらに「あなたならできる」と、応援して送り出してくれる。絶対に休ませてはくれない。姉妹揃って、優しくスパルタなのだった。 「うぅぅ……」 「――ンもぅ、しょうがないなぁ」 四つん這いのままうなだれるディムの隣に、すとんとナハナが腰を下ろす。 「……じゃあ、やめる?」 「え……?」 ナハナの言葉が、彼女をよく知るディムからしても意外なものだった。 「ぼくも姉さんもさ、別にディムのことをいじめたいワケじゃないんだよ? ――ただ、ディムに前を向いて歩いてほしいだけなんだ。君って、いっつも俯いてるじゃんか」 「ナハナ……」 「でも、ぼくと姉さんの願いは、ぼくと姉さんの願いでしかない。それを押し付けるのは、やっぱり何か違う気がするんだ。だから、本当にイヤなら、やめてもいいよ?」 こちらをのぞき込んでくるナハナの顔には、申し訳なさげな苦い笑みが浮かんでいた。彼女は本気で自分のことを案じてくれている。それが強く伝わってきた。 「……あの」 声を少し震わせたまま、ディムがナハナを見返した。 昼間とは違い、今度はしっかりと相手である彼女の瞳を見つめている。 「ん? なぁに?」 「も、もう少しだけ、頑張ってみるよ……」 勇気を出して、小声ではあるが、彼はそれをナハナにはっきり伝えた。 ディム自身もこのままでいいとは思っていない。これからの魔国のためにも、大事な幼馴染達の未来のためにも、ここは踏ん張らなければならない。 彼の言葉に、ナハナの目が一瞬だけ見開かれて、浮かぶ笑みの質が変わる。 「――本当?」 「う、うん」 そしてディムがうなずくのを見て、 「そっかぁ、やっぱ姉さんはすごいね! ドンピシャ!」 何か、いきなりワケのわからないことを言い出した。 「え、何でそこでエレル?」 「いや、実はさぁ、姉さんと打ち合わせしたんだよね。ディムの心が折れたとき対策。そこで、姉さんから『一回逃げ道を与えてやればいい』って言われてさ、実際やってみたら今の通り、効果覿面。……ディム、姉さんに読み切られちゃってるよ、全部」 「そんなぁ……」 絶望に、ディムはヘニョヘニョと脱力する。見た目、しなびたワカメのようだ。 「あ、言っておくけど吐いた唾は飲ませないよ? 明日も特訓だー!」 「……………………おー」 天に腕をつき上げるナハナに、ディムは死んだ声で応えるのだった。 そして、翌日―― 「ぁ、ぁの、ちょっと……」 「ん?」 その日のコミュ障克服特訓中、近くにいた女性に声をかけてみたら、 「……また君か」 またしてもモレク・ターウースだった。 ディムは思った。 そのセリフを、僕も言いたい。 ● その日の散歩帰り、目の当たりにした光景にモレクは頭痛すら覚えた。 「……また、なのか。あの方は何をしているのだ」 魔王宮城門前にある王都中央大広場に、大きな人だかりができている。しかも、その輪の向こうから確かにナハナの声が聞こえたのだ。 昨日と言い、今日と言い、魔王軍元帥閣下は一体何がしたいのか。 と、思ったところに耳を掠める市民の声。 「魔王陛下――――ッ!」 「何ぃ!?」 思わず、声を荒げてしまった。 モレクが慌ててそそり立つ分厚い人の壁に近づき、つま先立ちになって輪の中心を覗くと、そこにはナハナと、そして彼女の隣に立って民に笑いかけるエレルの姿。 「何してるんですか、陛下~~~~!」 飛び上がらんばかりの、というか実際に飛び上がってしまい、奇声を発するモレク。 さすがにこれは看過できない。モレクは魔王を守るべく、立ちふさがる人々の壁に突っ込んでいく決意を固めるが、しかし、背後から誰かが声をかけてきた。 「ぁ、ぁの、ちょっと……」 「ん?」 振り返ると、そこに昨日道案内した黒髪の青年がいた。 「……また君か」 「ぇ、ぁ、ぁ~……」 緊急事態を前にして、正直無視してもよかったのだが、そこで応じてしまったのはモレクの人のよさであろう。そして相手が見知った顔であるからには、彼女にはもう青年に構わず人の輪に突撃するという選択肢はなくなる。 どうやら、青年も驚いているようで昨日と同様に視線がせわしなく左右に行ったり来たりしている。その様子を見て小さく息をつき、モレクは言った。 「実を言えば私は今、非常に忙しい」 「ぁ、す、すみません……」 「謝ることじゃないだろう。応じたのは私だ。だから君が道を聞きたいというのであれば、火急速やかに案内をして、その上で私の用事を果たそうと思う。で、どこに行きたい?」 「ぁ~……、と、その、えっと……」 これもまた昨日と同様に、青年は自分から話しかけておきながらなかなか本題を切り出そうとしなかった。そしてモレクの背後では、沸きあがる観衆の声。喝采。 何だ、魔王陛下が何かをしたのか。気になる。ものすごい気になる。 「え、ぇ、えと……、その……」 しかし、目の前の話し相手がモレクにそれを許してくれなかった。 本音を言えば、勘弁してもらいたい。 最悪のタイミングで、最悪の相手に話しかけられてしまった。そんな風にすら思った。 この男を一発怒鳴りつけて追い払ったあとで、今度こそ人の壁をかき分けて魔王陛下のいるところへ向かいたい。こみ上げてくるその衝動に、モレクの体がピクピク動いた。 だが彼女はそれをしない。どれだけイライラさせられても、相手はこの国の民。守るべき同胞である。国の要職を担っているという自負が、彼女を堪えさせた。 「……こ、これ、何の騒ぎ、……ですか?」 そしてやっとのことで青年が口にした疑問に、モレクは思った。 ――それは私が聞きたい。 最大限の率直な感想であるが、モレクはそれをおくびにも出さず青年に答える。 「いや、それが私も今さっき来たところで、詳しいことはわからないんだ。どうやら、魔王陛下と魔王軍元帥閣下がこの向こうにいるらしいのだが……」 「ま、まぉぅへぃか……、ですか……」 相変わらずのすんごい小声。周りが騒がしい中で聞き取るのも一苦労だが、モレクは昨日のこともあって聞き逃すことはなかった。経験は偉大である。 「うむ、我らが魔国の建国者エレル・アイオーン陛下のことだ」 エレルの名を呼ぶとき、彼女は自然と胸を張っていた。誰かに敬愛する魔王の話をすると、それだけで誇らしい気分になれる。モレクが魔王に心酔している証だった。 「はぇぇ……、すごい」 青年は、口を半分ほど開けて人だかりを眺めていた。 すごいだろう、すごいだろう。モレクの中にある誇らしさがますます強くなる。 「――って、そうではないのだ!」 「……ふぇ?」 「本来であれば、魔王陛下が外出なされる時間ではないのだ、今は。……全く、聖国との同盟締結も間近だというのに、あの方は何をなされているのだ」 「聖国、ですか……?」 首をかしげる青年に、モレクは焦燥感を募らせながらも説明した。 「この魔国の隣にある大陸列強国の一つだ。数百年前の人と魔人の大戦のときも、魔人との融和を訴えて中立を保った唯一の国でもある。すでに国民にも触れは出したと思うが、二年の交渉の末に、やっと協力関係を結ぶことができそうでね。数日後、聖国の大神官をこの都に招いて同盟条約の調印式を執り行うのだよ」 もしかしたら青年がそれを知らない可能性もあると考え、それなりに詳しく説明する。すると、黒髪の青年は感心したように「へぇ~」とうなずいた。 「そう、まさに今、魔国は国としての大きな転換点を迎えているのだ。……にもかかわらず、魔王陛下はこんな時間にこんな場所で何をなされているのか!」 話しているうちにモレクの言葉は、青年への説明というか、自分の中に激しく渦巻くものの吐露へと変わっていった。当然、本人は気づいていないが。 「……し、心配、なんですね、魔王様のこと」 「当たり前だろう。もし万が一、この場に集まった民衆の中に暗殺者がいたらどうする? 魔王様の身にもしものことがあれば、私は――」 「で、でも……、魔王軍の、偉い人も一緒……、なんですよね?」 「む? ……まぁ、確かにその通りだが」 青年に指摘されて気づいた。彼の言う通りだ。エレルの隣にはナハナ。白兵戦でも魔法を使った遠距離戦でも、右に出る者はいない魔王軍最強の戦士である。 彼女がそばにいるならば、エレルの安全は保障されているも同然ではないか。 「――いや、いや! それでもやはり、こう、何かこう、危なっかしい!」 しばしの思案の結果、結局は心配が優るモレクであった。 「魔王様のこと、好き、なんですね……」 「何だね、いきなり?」 「ぁ、ぇと、すみません……」 モレクに返され、青年は途端にまた委縮しそうになる。 「しかしまぁ、それも君の言う通りだよ。ああ」 だが彼女は軽く苦笑して、腰に手をつき小さく嘆息。 「あの方が立たなければ、この国はなかった。いや、魔人は今なお、数百年前から続く頸木に繋がれたままだったろう。誇り一つ持てないまま、人間以下の存在として扱われ続けてただろうさ。それを解き放ってくれたのが、魔王陛下だ」 モレクが見る先には、笑顔で民と接するエレルの姿があった。 人の壁が邪魔でほんの少ししか見えないが、それでも、魔王陛下の快活とした雰囲気はここまで十分伝わってきていた。 「――人として、惚れるに決まっているさ。守りたいと思わされる」 「そぅ、ですよね。……エレルは、すごいから」 青年も、いつの間にかはっきりと聞こえる程度まで声を大きくして、同意する。 「おい、君。自国の国家元首を呼び捨てとはどういうことだ」 だが魔王のガチファンは耳ざとくそれを聞き咎め、キッと鋭い目線で彼を睨んだ。 「ひぃ……ッ。す、すみません……」 また完全に身を縮こまらせる青年だが、しかし、モレクとて何も本気で怒っているワケではない。裏返せば、呼び捨てにしてしまうほど彼が魔王エレルを身近に感じているということ。それが無礼なことだとは、モレクは思わなかった。 「呼び捨てにするにしても、身内の間だけにしておくといい。私は許せるが、そうでない者もいる。その辺りは気を付けておくべきことだぞ?」 「はい、ありがとうございます」 ほう。と、モレクは思った。 謝るばかりでない、きちんと感謝の言葉を口にできるのか。 それに気がつけば青年の言葉の中にどもりがかなり減ってきているではないか。 二人でこうして話しているうちに、彼もモレクと話すことに慣れ始めているようだ。 最初は何だこいつと思ったが、少し打ち解けられた気がして、モレクは悪い気がしなかった。自然とその口元に笑みを浮かべて、彼女は青年に手を差し出す。 「自己紹介が遅れたな、私はモレク・ターウース。……まぁ、役人だ」 「あ、はい……」 いきなりの自己紹介に、青年はやや面食らったようだったが、やがておずおずと手袋に包まれた手を出して、モレクの手を握り返してくる。 「君の名を聞いていいかい?」 尋ねると、青年もすこしぎこちない笑みを浮かべて答えた。 「あ、僕は――、ディム。……あ」 「……………………何?」 ▼ △ ▼ △ ▼ △ ▼ 「……あ」 名乗ったあとで、気づいた彼は一声出してしまった。 「……………………何?」 モレクの動きがピシリと固まる。 そして彼女は途端に顔つきを険しくして、ディムに問うた。 「おまえ、もしやディム・ウルゴーか?」 言い訳の間もなく、勘付かれた。 コミュ障の特徴は様々あるが、中でも特にヤバい特徴が一つある。 ――人との距離感の取り方がわからない。 というヤツだ。 そう、人との距離をどうやって詰めるか、どうやって保つかがわからないのだ。 最初こそ露骨に距離をとっていたにもかかわらず、ほんの少し話した程度で仲良くなれたと錯覚して、途端になれなれしくなるヤツ。それがコミュ障だ。 つまり、ディムがやらかしたのも、それだった。 もし、会話特訓の中で誰かに名前を尋ねられたら偽名を名乗れと、エレルにも、ナハナにもよく言い聞かせられていた。そのための偽名も、ちゃんと用意してあった。 だというのにやってしまったのだ。 目の前の彼女。魔国外務卿モレク・ターウースに、偽名ではなく本名を告げてしまった。 それはひとえに、モレクに親しみを感じてしまったからだ。 2日連続に渡る接触。そしてこの数分の、魔王に関する話題。共通項が見つかれば距離が縮まるのは人のさがだろうが、それでもディムは気を許しすぎた。 最も警戒するべき相手だということを半ば忘れた結果が、今のモレクの表情である。 「あ、ぁ……、あ……」 「答えろ。おまえ、ディム・ウルゴーだろう? 顔色があからさまに変わったぞ」 「え、ぁの。僕、は……」 モレクはますます表情を険しいものに変えて、ディムの手を強く握りしめた。 一度は近づきつつあった両者の間に、逆に大きな溝が掘られつつある。 おののくディムを、モレクはジッと見つめ、そして言う。 「そうか、陛下と元帥閣下を外に出したのはおまえだな……?」 「え、そ、そんな……、違……」 「何を企んでいる? 魔国のナンバー2に立つおまえが、今さら国民におもねる理由などないだろう? 答えろ。おまえは、魔王陛下に何をさせようとしている?」 ディムにとって、もはや今のモレクのまなざしはナイフでの刺突にも等しい。 突き刺さる視線に心が激しくザワつく。自分の小ささを、みじめさを、これでもかというほど思い知らせてくる。そんな気がしてならなかった。 特に、今のモレクは自分に対する敵意に満ちている。ただ睨まれるだけで、ディムの精神はガリガリと削られて、彼は瞬く間に追い詰められていった。 「ぼ、僕は、何も……」 「嘘をつくな。昨日は元帥閣下が、今日にいたってはエレル陛下直々に外に出て、そしてそのどちらにもおまえがいた。何かあるに決まっているだろう?」 正直にコミュ障の克服特訓だと話そうか。 詰問されるディムの中にその考えが生じる。が、それはすぐにやめた。 説明したところで、モレクが信じてくれる可能性は皆無だ。自分一人では、何を言ったところで彼女を納得させられないだろう。それは確信できた。 「ぅ、あ……」 ディムは、人だかりの向こうにいるエレルとナハナに視線を送った。 しかし集まった民衆に混じるディムの姿に、姉妹は気づいていないようだ。絶望的な気分になる。今すぐこの場から逃げたい。だが、モレクが手を放してくれなかった。 「ディム・ウルゴー。おまえは何者だ? この際だ、全て話してもらうぞ!」 「何もしてない。僕は、な、何もしてない……!」 ついにはディムの方が声を大きくした。 だがそれは恫喝ではない。悲鳴だ。今彼は、とにかく逃げたくて仕方がなかった。 「そう言うならば、私にそれを信じさせるだけの根拠を示せ。で、なければ、この手は放さないぞ。吐け。おまえは魔王陛下に何をさせようとしているのだ!」 「うう、あああああ!」 ディムが振り払おうとしても、モレクも必死になって手を握り続けた。 刻一刻、ディムの心は追い詰められて平静さが失われていく。嫌気がどんどん大きさを増して、この場から消えてなくなりたくなる。 周りの全ての声が自分を罵り責めているかのように聞こえてくる。 「や、やだ……、やめて。やめてくれ、ぼ、僕は……ッ!」 「ディム! そこ、何をしているの!?」 民衆の喧騒を切り裂いたのは、エレルの声。 やっとディムの現状に気づいた彼女が、一気に余裕をなくして叫んだ。 「――陛下?」 その声に、モレクの意識が一瞬逸れる。 ほんのかすかに、彼女の握力が弱まった。それをディムは、見逃さなかった。 「う、あああああああああ!」 ディムは半ば泣きながら、モレクの手を振り払う。 「しまっ……!」 気づいて舌を打った彼女の目の前を横切る、中身のない手袋。ディムが手を振り払った際に、外れてしまったようだった。 そして、モレクの視線は、露わになった彼の手へ。 そこに彼女が見たのは、根元から先端まで黒い筋が走っている、ディムの爪だった。 「ひ――ッ」 目にした途端、モレクは顔を青ざめさせ、のどを引きつらせる。 「の、呪い爪……!」 彼女のかすれた呟きに、ディムは己の痛恨を悟った。 「呪い爪だあああぁぁぁぁぁぁぁ――――!」 多くの民が集う城門前大広場に、モレクの絶叫が迸った。 ● モレクが叫んだ直後、人々の反応は劇的だった。 「呪い爪だと!?」 「どこだ、どこにいる!」 「あそこだ! あの女の人が今、叫んだぞ!」 「黒い髪の男、奴がそうか!?」 「捕まえろ、逃がすな!」 「呪い爪を捕まえろ――――ッ!」 一瞬前まで魔王エレルとの邂逅に浮かれ切っていた人々は、たちまち血相を変えてディムを取り囲み、そのうちの何人かが彼を直接地べたに押さえつけた。 「う、ぁ……!」 上から三人ばかりに乗られ、ディムが息苦しさに喘ぐ。 その傍らで、モレクは息を乱したまま人々に注目される中、立ち上がった。 「突然のことで、申し訳ない。取り乱してしまった……」 「いいってことよ、おかげで呪い爪の野郎を逃がさずに済んだからな!」 近くにいた壮年の男性が、モレクにそう言ってくれた。 だが、叫んでしまったのは正直、少し恥ずかしい。それでも仕方がないだろう。 「見ろ! こいつの爪、本当に黒相だ! 間違いなく呪い爪だ!」 「ああ、なんてことなの! やっと平和になったっていうのに……!?」 騒然となる周囲を見ればわかる。相手は呪い爪。魔人にとっては許されざる存在だ。 黒相と呼ばれる黒い筋が表れているその爪に引っかかれた者は、生涯に渡って呪われて幸福から遠ざかり、無惨な最期を迎えるという。 その忌まわしき故事の来歴は、かつての魔王。 魔人が国を失うきっかけとなった魔王が黒相の爪の持ち主であったことから、呪い爪の話は生まれた。魔人にとっては時経とうとも色褪せない、禁忌の象徴である。 「ディム・ウルゴー、そうか、おまえは」 「うぐ、ぐぅぅ!」 「呪い爪だったのか。道理で、正体を隠していたはずだ」 もがく彼を見下ろして、モレクは呼吸を整え直した。 魔国ナンバー2の地位にある者が、呪い爪だった。これはとんでもない醜聞だ。 大陸に散っている多くの魔人が、今後この国にやってくるはずだ。しかし、もしもこの事実が外に知れ渡れば、魔国を避ける魔人が確実に増えるはずだ。 さらに言えば、大陸列強国とてこの事実を見逃すまい。人間も呪い爪の話は知っている。ディムのことがバレれば、それだけで魔国は数多の国から糾弾されるだろう。 今、この事実を知れてよかった。 それが、外務卿であるモレクの正直な感想であった。 万が一、聖国からの使者にこの事実を知られたら、最悪、同盟自体反故にされかねない。 「魔国にとっての爆弾だな、おまえは」 「ぼ、僕は……」 ディムが、小さな声で呻いた。 しかしモレクに、彼の話を聞くつもりなど毛頭なかった。 魔人にとって呪い爪は禁忌。存在自体があってはならないもの。対等に扱う理由はない。 「さぁて、こいつはどうするかねぇ?」 「処刑だろ、処刑! 呪い爪なんて冗談じゃねぇ!」 「そうよ、呪い爪なんて生きてちゃいけないのよ。殺すべきよ!」 民衆は口々にディムの死を訴えた。 ややヒステリックなようにも感じられるが、モレクにそれを責めることはできない。 魔国という、やっと手に入れた居場所。訪れた安寧。 呪い爪の存在は、それをいともたやすく壊しかねない。だから皆、不安なのだ。 「何を言ってるんだよ、君達は!」 しかし、そこに初めて異を唱える声。駆け寄ってきたナハナのものだった。 「元帥閣下、見てください。ディム・ウルゴーは、呪い爪の持ち主だったのです」 ナハナに軽く頭を下げてから、モレクは彼女にディムを示す。青年が地面を掻く爪には、隠しようのない黒相。魔王軍元帥といえど、これには驚きを――、 「そんなことはどうでもいいよ! それよりも、ディムを解放しなよ!」 だが、ナハナが見せたリアクションは、モレクが予想したものとは違っていた。 「元帥閣下?」 「君達は、誰を捕らえてるのかわかっているのか? 彼は、ディムは……!」 「ダメだよ、ナハナ……」 ナハナは何かを言いかけるが、しかし、それを弱々しい声でディムが制した。 「ぼ、僕はいいから。だから……」 「だけど、ディム……!」 二人のやり取りに、モレク含め場の全員が戸惑った。 「お、おい、何だよこれ……?」 「え、何で元帥閣下と呪い爪が……」 「知り合い、なのか? まさか」 人々が困惑する。ディムのことを知らないのだから当然だろう。 しかしモレクだけは違った。 「元帥閣下。あなたがこの男とどういう関わりがあるのかはわかりません。しかし、魔国の外交を預かる身としましては、呪い爪の男を見過ごすわけにはいかないのです」 「モレク。全ての事情を知っていることをこの場で告白した上で、僕は君に言うよ」 「……は、何を?」 ナハナの前に立ったモレクだったが、しかし、眼前に立つ魔王軍元帥に明らかな違和感を覚えた。この肌を刺すようなピリピリとしか感覚。これはもしや、殺気? 「ディムを今すぐ放すんだ。さもなくば――僕は君達を」 「それ以上はだめよ、ナハナ」 殺す。 その一言を彼女が口にする前に、ナハナを止める声。 ディムではない。その、広場全体にまで響く凛とした声の主は、 「ま、魔王陛下……!?」 モレクが驚き、畏まる。言ったのは誰でもない、魔王エレル・アイオーンであった。 彼女は威風堂々とした足取りでその場に歩み寄り、そして、叫んだ。 「――無礼者!」 ナハナを含め、皆がその一喝にビクリと身を震わせる。 「あなた達は、一体どなたを地べたに這いつくばらせていると思っているの」 「は、そ、それは当然、この忌むべき呪い爪の……」 「その方こそ、この国の父よ」 「……は?」 一喝におののきながらも説明しようとするモレクに、だが、エレルは厳かに告げた。 「姉さん……!」 「エ、エレル、ダメだ。そ、れは……」 ナハナが驚き、ディムが何かを止めようとしている。一体何なのかはわからない。しかし、モレクは今、とんでもない事態に直面している。それだけは理解できた。 「こうなった以上、もはや隠し通すことはできないわ」 魔王エレルは声を一段低くして言うと、右腕を振るって皆に告げた。 「全員、聞きなさい。この方こそは、偉大なる魔国の建国者にして、真なる魔王。我ら全員が忠誠を捧げるべき御方、ディム・ウルゴー陛下であらせられるのよ」 そして、とてつもない爆弾がその場に投下された。 ▼ △ ▼ △ ▼ △ ▼ 「陛下、何を……?」 「彼を解放しなさい。あなた達は今、とてつもない大罪を犯しているのよ」 目を剥くモレクには応えず、エレルはディムを捕らえている数人に告げた。 さすがに、魔王本人にそう言われては抗うことなどできないようで、男達は身を縮こまらせながらディムの上から退いて、彼はやっと自由を得た。 「エレル、ありがとう。でも――」 「元々、この特訓を提案したのは私よ、ディム。責任は取るわ」 起き上がり、ディムは言うものの、エレルはそう答えるだけで彼から視線を外した。 彼女が見るのは、未だ理解しかねる様子の民達。そしてモレクだ。 「陛下、特訓とは一体……」 「モレク。私は王ではないわ。あなたが陛下と呼ぶべき相手は、ディム陛下だけよ」 「しかし……」 「私は、王ではないわ」 「……わかりました、エレル様」 モレクは渋々引き下がる。だが、彼女だけではない。民達や、ディムですら感じていた。 今この場で、王と呼べるだけ圧を放てる者。それはエレルだけだ。 「この場は諦めるしかないよ、ディム。もう、隠しきれない」 隣に立ってため息をつくナハナに、ディムも不承不承うなずくしかなかった。 エレルが、民達へと語り始める。 本来の王はディムであること。そして、調印式の場でそれを公表するつもりだったこと。 ディムが極めつけのコミュ障で、それを克服するための特訓を行なっていたことまで、完全に、きっちりと、一つ残さず、余すところなくエレルは語り尽くした。 「…………死にたい」 もしこの場に穴があったら、ディムはその穴に頭から突っ込んでいたことだろう。 そしてエレルが話を終えてすぐ、モレクが声をあげた。 「承服できかねます」 はっきりとした拒否の言葉であった。 「本来、魔国の王であったのはそこにいるディム・ウルゴー。それはわかりました。しかし、この五年間、魔国を治めてきたのは他でもないあなたです、エレル様」 「見かけの上では、確かにそうね」 「見かけ……、とは?」 「定例会議の席で、私がまず最初に意見を確認する相手は、誰だったかしら?」 言われて、モレクの顔つきがハッと変わる。 彼女は気づいたのだろう、エレルの言葉の意図するところを。 「私は最初に必ずディムに意見を聞いた。それは他でもない、魔王陛下の意志を確認していたというだけのこと。私は魔王の影武者として役割を果たしていたに過ぎないわ」 「何という、ことだ……」 モレクがうなだれる。 つまりは、実質的にこの国を運営してきた王は、ディム本人。 「……この国に集まった魔人は、みんな、すごい人ばっかりだったよ」 そこで、やっとディムが口を開く。 「僕はただ、うなずくだけでよかった。この五年間、大した事件もなく魔国がやってこれたのはみんなのおかげだ。それは本当に、本当に、嬉しいことだと思う」 「黙れ、呪い爪風情が!」 だがモレクは、ディムに対して態度を改めようとはしなかった。 「何故おまえが最初から前に立たなかった。どうして、エレル様を影武者にしたのだ! おまえの如き心弱き者が、私達魔人の王だと? しかも、呪い爪が? そんな――」 「それだよ、それ」 モレクが言いかけている最中だが、ナハナが割って入ってきた。 「元帥閣下、何か?」 「何か、じゃなくてさ……。モレクさん含めて、気づいてないのかな?」 含みのあるその言い方に、民達は顔を見合わせ、首をかしげた。 「何だというのですか、一体」 「逆にこっちから尋ねるけど、ディムが君達にどんな被害を及ぼしたってのさ?」 問うモレクに、ナハナが反対に質問をぶつける。 それにモレクは一瞬鼻白んだ様子を見せるものの、すぐにディムに指を突きつけ、 「この男は、呪い爪なのですよ!?」 「それがどうしたのさ。ディム本人が君達に何かしたってワケじゃないだろ」 返すナハナの声は平たい。聞いているディムは、彼女が相当お冠なのだと察した。 「ナハナ、もういいよ。それ以上は……」 「いいや、言う。ごめんねディム。でも、ぼくはもう我慢できない」 「元帥閣下、あなたはディムの友人だから彼を守ろうとしているだけでは?」 「違うよ、モレクさん。ねぇ、みんなもさ」 ナハナの顔が歪む。それは、大層苦しげな表情だった。 「自分達が何してるか本当にわかんないの……?」 再び問う声もかすれきって、だが、彼女がそうなる理由を理解しているのはきっと、ディム本人と姉であるエレルだけだろう。他は、察せていないようだ。 「何だというのです、あなたは何が言いたいのだ!」 焦れた様子で声を荒げるモレクに、ナハナは顔を歪めたまま答えた。 「みんながそんなだから、ディムは人と話せなくなったんだよ?」 「え……」 「みんなさ、人間にいじめられるのがイヤで、この国に来たんじゃないの? ただ魔人ってだけでひどい扱い受けてきたんでしょ。そのみんながどうして人間と同じことをするんだよ。ディムが何をしたんだよ? 呪い爪ってだけで彼を疎むなら、それはみんなを『角耳』と呼んで蔑んできた人間と何が違うんだよ! ぼくに教えてよ!」 血を吐くような叫びであった。 「ふざけるなよ、中身のない理由で仲間外れにされる辛さを知ってるクセに、拒まれる悲しさを知ってるクセに、何で同じことをするの? ずっとだ、小さい頃からずっと、ディムはそうやって人間だけじゃなく、魔人からもいじめられてきたんだ!」 「それは……」 訴えるナハナに、モレクも、他の誰も何も言い返せなかった。 返せるはずがない。今まさに、彼女達は自分を弾圧してきた人間と同じように、自分達には直接関係のない無用の過失でディムを追い込もうとしていたのだから。 「もう、赦してよ。何百年も前の顔も知らない誰かの罪を、ディムに背負わせないで! みんなの居場所を作ってくれた恩人に、仇で返すような真似をしないでよ!」 大粒の涙を零す彼女を、傍らからエレルがそっと抱いた。 「もういいわ、ナハナ。それ以上は、ね?」 ナハナの叫びののち、訪れるのは沈黙。皆、気まずそうに顔を俯かせた。 呪い爪だからとディムを恐れ、一方的に排除しようとした。それは、彼ら自身が人間から受けてきた『角耳』の差別と何も変わりはしない。 その事実を前に、ナハナに反論できる者はいなかった。 ――モレクを除いては。 「それでも、ディム・ウルゴーを王と認めるわけには、いかないのです」 「モレク!?」 驚くエレルに、今度はモレクが拳を握り声を張り上げた。 「呪い爪の男が魔国の王と知られれば、大陸の全国家が魔国にかつての魔王の再来を見るでしょう。そうなれば、所詮小国でしかない今の魔国はただ潰されるのみ。それは回避しなければならない、最悪の未来です。だからこそ認めるわけにはいかない。絶対に、認められない! この国は、我ら魔人がやっと得た安住の地なのです!」 「その安住の地を作ったのが、ディムなんだよ!」 「そうであったとしても、です! 魔国外務卿として、私は魔国の国益を損ねる選択を見過ごせません。ディム・ウルゴーには、魔王宮から退去していただく。呪い爪の持ち主が王の周りにいるというだけで、この国は滅びを迎えかねないのですから」 ピシャリと言い切るモレクに、ナハナは顔を真っ赤にして体を震わせた。 エレルですら、懊悩の表情で額に手を当てている。 だが――、 「わかったよ。僕は、都を出ていく」 ディムがやわらかい声で、皆に向かってそう告げた。 「ディム!?」 「何を言うの、ディム……」 「待て、ディム・ウルゴー、私は何もそこまでしろとは――」 その言葉は誰にとっても予想外だったようで、モレクでさえ驚愕に目を丸くしていた。 「モレクさんの言うことは、どう考えても正しいんだ。やっぱり呪い爪は、他の国に与える影響が大きすぎるよ。だから僕は、そうだな、都近くの集落にでも身を寄せようか」 「無茶よ、ディム。あなた一人じゃ、子供と話すことだってできないのに」 エレルに言われてしまった。数分前までのディムならば、まさに図星であろう。 しかし今は、それに笑って返すだけの余裕があった。 「今は、普通に話せてるだろ。モレクさんとも」 そう、これだけの人数を前にして、自分でも意外なほどに心はやわらかいままだった。 皆がこの国を愛してくれている。それを知ることができたから、かもしれない。 「何で、どうしてディムがそこで退くのさ、何も悪いことしてないのに!」 「ナハナ、これが僕個人の問題なら、僕だってこんな選択してない。だけど、魔国全体に関わるコトなら話は別だ。それは君だってわかるはずだ」 「この国を建てたのは誰でもないあなたなのよ?」 「だからこそ、国を守るために必要なことはしないとだよ、エレル」 エレルの言葉に、ディムはゆっくりかぶりを振った。 不思議な気持ちだった。 彼は今まさに排斥されようとしているのに、それにショックを感じていない。 いや、むしろ胸の奥底からこみ上げてくるこの気持ちは、 「……嬉しいな」 「嬉しい、だと……?」 「うん。今、僕は嬉しいって思ってる。だって、みんな真剣にこの国について考えてくれてるから。僕はちゃんとみんなの居場所を作ってあげれたんだって、今になってやっと実感できてさ。ああ、嬉しいな。こんな僕でも、何かを作ることはできたんだ」 こんな感情は場違いすぎる。だから自分はコミュ障だというのだろう。 しかし、溢れるものの止め方なんて彼は知らない。 ディムの顔には、喜びの笑みが浮かんだ。 「ディム・ウルゴー」 モレクが彼の前に立って、強く手を握ってくる。 「――感謝する」 「モレク、さん?」 「君のその英断に、私は、心からの感謝を贈る。それと、同じように心からの謝罪を。この国を作った恩人に、私は仇で返してしまった。申し訳ない。本当に、申し訳ない! だが勘違いしないでほしい。私は君を嫌ってはいても、決して憎んでいるわけでは……」 今さらそんなこと、と、ディムの笑みが深まった。 「大丈夫、そんな勘違い、しませんって。それに、モレクさんがこの国のことを案じてくれてるのは知ってました。聖国との同盟だって、魔国の行く末を憂いてのことだって」 「そう、その通りだ! 聖国との繋がりさえ得られれば、この国が滅ぶ可能性はほとんど消え失せるだろう。任せてほしい、魔国は必ずや私達が守ってみせる!」 熱を帯びるモレクの声に、ディムは苦笑した。常よりわかっていたことだが、この人は情熱的な人だ。その情熱の大部分が、国とエレルに向けられているけれど。 だからこそ信じられると感じた。 「嘘でしょ、ディムゥ……」 そして、ナハナが本格的にべそをかき始めていた。 「大丈夫、たまには顔を出しに来るから、ね」 「本当にあなたは不器用ね、ディム」 ナハナの頭をなでていると、エレルにため息をつかれた。 「一度くらいは、玉座につくあなたを見たかったわ」 「ごめんね、エレル。でも、僕に王様は無理だよ。君の方がずっと合ってる」 「――代理の指名を受けたと思っておくわ」 代理じゃないんだけどなぁ。と、言ってもエレルは納得しないだろう。 ナハナも、エレルも、本心では自分をこの場に留めたいのかもしれない。だがそうしないのは、彼女達もまた魔国のことを第一に考えているからに違いない。 やがて、ディムは都を去っていった。 その胸に一抹の寂しさを感じながら、だが、遥かに大きな誇らしさも抱えて。 聖国との調印式は、五日後に迫っていた。 ● 陰鬱な時間は、気がつけば三日も続いていた。 その日は、午後に聖国からの使節団を出迎えることになっている。なので、本来午後から行われる定例会議が午前中から行われていた。 その会議に、だが、魔国ナンバー2であった黒フードの男の姿はない。 会議に出席するモレクは、それを理解しながら幾度もエレルの左隣に目をやっていた。 そのたびに、都を去っていった彼の背中を思い出してしまう。 会議中、時折ナハナがこちらを見てきた。 しかし睨むというほどの圧力はなく、ただこっちを見つめるだけ。 それ以上のアクションを、彼女はモレクに対して行なってこない。そして、エレルも。 「使節団の到着時間は、何時だったかしら」 「は、今からちょうど三時間後を予定しております。魔王陛下」 「ありがとう。少し緊張するけれど、よろしく頼むわね、モレク」 おそらくは、ナハナ以上にディムを引き止めたかったであろう魔王の影武者エレル・アイオーンは、だというのに、いつもと変わらない態度でモレクに接していた。 ディム・ウルゴーの事情は、すでに他の魔国の重臣達にも伝わっているはずだ。 しかしエレルがこの調子なので、誰もディムに関する話題を挙げることができずにいた。 表面上、何も変わらない定例会議。 だがモレクは、ずっと針の筵の上に座っているかのような心持ちだった。 何もない時間が逆に彼女の身と心をチクリチクリと苛み続ける。自分の判断は正しかったのだろうかという疑問が、今日までに何度浮かんできたことか。 彼女には、自分がディムを追い出したという自覚がきっちりとあった。 間違いなくナハナの怒りを買ったはずだ。エレルからも嫌われたかもしれない。 が、二人は自分を微塵も責めず、エレルに至っては変わらない態度で自分に接してくれる。だからこそ、逆にモレクは多大なる呵責の念に襲われていた。 いっそ、二人から罵倒されれば、全ての罪はモレク・ターウースにあるのだと断じてもらえたのならば、多少なりとも楽になれただろうに。 「――背負えとおっしゃられるのか、あなた方は」 会議を終え、魔王宮の回廊を歩きながら、モレクはひとりごちる。 自分は正しいと思うことすら、今は浅ましく感じてしまう。それが錯覚であることは、重々承知していながら。だが、それでも――、 「あ」 下を向きながら歩いていたら、前から声。 顔を上げると、ナハナがいた。 「……元帥閣下」 「や、やぁ、モレクさん。これから、使節団の出迎え?」 ナハナは足を止め、顔にぎこちない笑みを浮かべて話しかけてきた。 「はい、そうです。もうすぐですね」 「あ、そうなんだね。うん……」 そして、会話は途切れた。 二人の間に、何とも気まずい空気が流れる。 それは二秒、三秒と続き、ついに耐え切れなくなったモレクが、声を出そうとした。 「――あんまり、気に病まないでね」 しかし、先に言葉を紡いだのは、ナハナだった。 「元帥閣下……?」 「正しいのは君だ。僕の方こそ、頭に血が上りすぎてたよ。だから、ごめんね」 「あ……」 頭を下げるナハナに、モレクは言葉を失う。 あの日以来、やっとナハナから聞けた言葉は、自分に対する糾弾どころか、謝罪。 「な、何故です」 信じがたい目の前の光景に、モレクは無意識のうちに呟いていた。 「何故、そこで謝れるのです。私がしたことは、あなたにとって――」 「そうだね。ぼく個人に限れば、あなたを許せない気持ちもある。でも、ディムが決断したことだよ。ぼくの魔王様が決めたことを、ぼくが無視するわけにはいかないんだ」 「何があっても、ですか?」 「うん。何があっても」 言い切るナハナの顔つきは、モレクが知る彼女より数段凛々しいものだった。 何となく、腑に落ちた。ナハナもまた、この三日間を耐えながら過ごしてきたのだ、と。 「元帥閣下も……」 「え?」 「あまり、ご自分を責めるようなことはしないでくださいね」 案じて言うと、ナハナの瞳が少しだけ見開かれた。 「……わかっちゃう?」 「ええ、割と一発で」 「嘘ォ……」 「散々悩まれたのでしょうね。よく見れば、目にくまができていますよ」 「えっ」 モレクの指摘を受けて、ナハナは近くの窓に自分を映して確かめようとする。 「化粧すれば隠せる程度のものだと思いますが」 ナハナの背中に声をかけると、彼女はギギギと肩越しに振り向いて、硬い声で言った。 「……お化粧なんて、したことない」 「…………御冗談を」 「いや、ホントに。……だってほら、ぼく、若いし」 その返答に、魔国外務卿の頬がヒクリと引きつる。 「わかりました。では今度、知り合いの化粧師を連れて元帥閣下のお部屋に行かせていただきます。そこでみっちりと、しっかりと、元帥閣下が音を上げても構うことなく、化粧に関するあれこれをお教えいたします。いいえ、遠慮はいりません。私、モレク・ターウースからのちょっとした善意、何ということはない回避不能の配慮ですので」 「モレクさん、目が全然笑ってないよー!?」 そんな感じでおよそ数分、モレクとナハナは他愛のない雑談に興じた。 やがてナハナと別れ、モレクは城門へと歩みを進める。 ナハナと交わしたのは、本当にただの雑談。しかしそれを終える頃には、モレクの胸に蟠っていたものは幾分軽くなっていた。 「ナハナと何を話していたのかしら?」 城門前に到着すると、そこにはすでに盛装姿のエレルがいた。 周囲には魔国外務省の職員達。さらにその向こうには、聖国からの使節団を一目見ようと都の民が詰めかけていた。兵士達が壁を作って、何とか押しとどめている。 「……陛下」 「モレク、私は王ではないわ」 「わかっております。しかしながら……」 「ええ。そうね。だから今だけは許してあげる。私を、陛下と呼ぶことをね」 今だけは。 その言葉に含まれる何かを感じ、モレクは隣に立つ〈金陽の王姫〉の横顔を見る。 「陛下、もしやあなたは……」 まさかと思って小声で尋ねると、エレルが唇の端を軽く上げた。 「ディムはね、優柔不断な性格なのよ」 「……は?」 「一度決断したことでも、それが正しかったかどうかわからなくて、大抵また悩み始めるの。それで何度も私やナハナに自分が正しいか確認してくるのよ」 「つ、つまり……?」 「都にはいないでしょうね。でも、きっと都のすぐ近くにいるわ。それで一人で延々悩み続けているはずよ。自分の決めたことが本当に正しかったのか、ってね」 いたずらっぽい笑みを浮かべて言うエレルのそれは、まさしく自分に自信がない人間が見せる定番のアクションだ。しかし、彼女がそれを言うということは、 「彼が戻ってくるとお思いなのですね?」 「何もなければ戻ってこないでしょうね。彼も国を第一に考えているから。でも――」 「ならば、やはり私はあなたを陛下とお呼びします。彼は戻らない」 今度はモレクが断言した。 「そのための、聖国との同盟です。魔国は私が護ります」 「――頼りにしているわ、我が愛しき外務卿」 決意を込めた宣誓に、エレルから返されるその答え。モレクの心臓がドキンと竦む。 正直、死ぬかと思った。 いや、一回死んだ。今確実に自分の魂は昇天しかけた。 夢の世界に陥りかけたモレクを現実に引き戻したのは、けたたましい馬車の車輪の音。 見るからに壮麗な純白の馬車が、二頭の白馬に曳かれて往来を駆けてくる。 民達の驚きの声を声援を浴びながら、馬車は城門前で停車した。 「来た、か……」 馬車のドアが開かれるのを見て、モレクは居住まいを正す。 エレルはとっくにスイッチを切り替え済みのようで、その立ち姿はさすがの風格。 魔王代理として表に露出し続けた五年は伊達ではないということか。 やがて、馬車から車体よりもさらに真白い司祭服を纏った一人の男が降りてきた。 今回の同盟締結の調印式に出席する聖国の全権委任大使だ。かの国では若くして大司教の職を務め、将来的には国の中核である枢機卿への出世が確実視されているという。 だが、降りてきた司祭は彼一人。まずそこで、モレクは違和感を得た。 さらに馬車の中から四人ばかり、純白の全身甲冑で身を覆った騎士が続けて姿を見せる。 「……これは?」 護衛、だろうか。当然、連れてきて当たり前ではあろうが。 いやしかし、完全武装の騎士が護衛、というのもおかしい気がする。 見るからに戦争用の武装にしか見えないが、それは、自分が経験不足なだけだろうか。 「ふむ――」 四人の騎士を引き連れて、大司教がエレルとモレクの前に立った。 「聞きしに優る堂々たる御姿。そちらが魔王陛下で相違ありますまいか」 「ええ。初めまして、大司教猊下。お目にかかれて光栄ですわ」 「こちらこそ、お会いできて喜ばしい限りです」 どちらも頭を下げることなく礼儀の言葉を口にする二人。 そこに、モレクが口を挟む。 「大司教猊下、このたびはご多忙な中、魔国に赴いていただき、感謝の念に堪えません」 「おお、あなたは確か、外務卿のモレク女史ですね。お噂はかねがね」 「恐れ入ります。……ところで、使節団の方は、どこに?」 単刀直入、モレクが切り込んだ。 「予定では使節団は二十名程になると伺っておりましたが……。それに、そちらに控えておられる騎士らしき方々は? 護衛の方でしょうか?」 「ああ、いえ、それについてはそうですね――」 途中で言葉を切り、大司教が軽く笑った。 その笑みにモレクが感じたのは、悪寒。 「フフフ、魔王がここにいるならば、手間が省けるというものですな」 「猊下、まさかあなたは……!?」 予感はたちまち確信へと変わり、モレクがエレルを庇うように前に立つ。 「――これより、悪族浄化を開始する」 四人の純白の騎士が、腰に帯びていた長剣を抜き放った。 「全員、逃げろォ――――!」 何も理解できていない民達へ、モレクは絶叫したのだった。 ▼ △ ▼ △ ▼ △ ▼ 都の郊外、小さな山の上に数人も入れない程度の小さな小屋がある。 真なる魔王ディム・ウルゴーは、この三日間をそこで寝泊まりしていた。 「……ああぁ~、どうしよぉ」 山の頂上はちょっとした休憩所になっており、古びた木のベンチが設置されている。 そこに座ると、目の前には五年の間にかなり発展した魔国の都の景色。 都の中央にそそり立つ真っ黒な魔王宮までも、はっきりと見渡せる。 ベンチに座ったまま、ディムは今なお、悩み続けていた。 「ううう、何であんなこと言っちゃったんだろう。帰りたい……」 まさしくエレルの予想通り、彼は戻るか否かで苦悩し続けていたのだ。 「でもなぁ、あんなこと言った手前、戻るのもなぁ……。絶対、白い目で見られるよなぁ……。いや、でも、ナハナもエレルも許してくれるんじゃないかなぁ。……でもなぁ、モレクさんには呆れられるよなぁ。それに、国民のみんなからも何て言われるか。うん、やっぱ戻らない方がいいよな。自分で言ったことだし、魔国のこれからを考えれば、僕はいない方がいいに決まってる。そうだよ。そのはずだ。…………でもなぁ。本当にそうなのかなぁ。僕いない方がいいのかなぁ? ああ、どうしよう、戻っちゃダメかなぁ」 この調子である。 全く煮え切らないまま、ここで三日。 食料は、山にたまたま自生していた食べれる草を集めてモッシャモッシャしていた。 一人でどこかの店で食べ物を買うなど、ディムには難易度が高すぎた。 だが幸い、店で買えずとも山野で食べ物をさがすすべは心得ている。それが功を奏した。 幼少期、周りから追い立てられた過去があって得たすべではあるが。 「……どうしよう」 朽ちかけたベンチの上に膝を立て、ディムは小さく声を漏らす。 過去の自分に戻るのは、死んでも嫌だった。 貧しさや飢えは、当然苦しくはあったが、しかしまだ我慢することができる。 だが、拒まれるのだけは耐え切れない。 同じ言葉を使う、同じ種族から、おまえは消えろと罵られる。その辛さ。その痛み。 誰とも分かち合えない痛苦は、逃げることもできずただ受け入れるしかなく、誰かに疎まれるたび、その痛みにディムの心は悲鳴をあげ続けてきた。 エレルとナハナがいなければ、きっと、自分は――。 思いながら、膝の間にうずめてい顔をあげる。 すると、雲一つない晴れ空の下に栄える、魔国の都の景色があった。 「立派に……、なったなぁ」 自分とエレル達が魔国の独立を宣言したとき、都は戦いの爪跡もあって半ば廃虚と化していた。しかし、徐々に集まってきた魔人によって復興は進み、今や国の外から客を招いても恥じるところのない、いや、十分以上に誇れる一国の王都となった。 魔国を建てたのは自分だ。 そう思うと、三日前と同じく誇らしさが胸ににじむ。 もちろん、ディム一人の力ではない。エレルの協力があった。ナハナの奮迅があった。モレクの努力があった。国民一人一人の助け合いがあった。 魔人達が形作るその輪の中に、間違いなく自分も入っている。それが嬉しい。 「やっぱり、戻るのはやめよう」 やっとのことで、そう決断することができた。そう、今の自分ではまだ……、 ――魔王宮から、爆音が轟いた。 「……え?」 理解できず、ディムはベンチから立って魔王宮の方を凝視する。 そこに、派手に土煙が上がっているのが見えた。 何が起きているのかわからない。ただ、かすかに民達の騒ぐ声が聞こえた。 「――――ッ!」 考えるよりも早く、体が動きだす。 ディムは地面を蹴って、一路魔王宮へと駆けだした。 ● 何故、こうなった。 目の前に起きている事象を、だが、硬直したままのモレクは理解できなかった。 自分は魔国の安寧のために大陸列強の聖国にわざわざ頭を下げて同盟を請うたはずだ。 聖国は、かつての戦いにおいて唯一、魔人との融和を説いた国。 未だ小国でしかない魔国が頼れる唯一の国だからと、自分は幾度の足を運んだのに。 何故、何故―― 「うォあああああああああああ!」 何故、聖国からの使者が元帥閣下と戦っているのだ! 「無駄ですよ、無駄、無駄」 拳に魔力を収束させ躍りかかるナハナに、しかし大司教は薄ら笑みのまま呟く。 彼女が立ち向かうのは、四人の純白の騎士――だったもの。 最初は人の大きさしかなかったそれは、しかし、大司教の号令と共に五倍ほどにまで巨大化した。縮小の魔法で人間大の大きさに収めていたのだろう。 巨大化した騎士へ、ナハナが猛然と殴り掛かる。 魔王軍最強の名は伊達ではなく、ナハナはすさまじく強い。 手足に魔力を収束させて殴る。ただそれだけのシンプルな戦闘スタイルだが、その拳は千年を経た古竜の分厚い鱗すらブチ貫き、肉を爆ぜさせる。 だが、その拳をもってしても、騎士の甲冑を貫くことはできなかった。 「これ……、は!?」 逆にナハナの方が見えない力に跳ね飛ばされ、空中に投げ出される。 「元帥閣下!?」 「無駄だと言ったでしょう。我が聖国が創り上げた最新鋭のゴーレムナイトは、対魔人用に調整してあるのですよ。全身を覆う神魔鋼(オリハルコン)製の耐魔装甲は至近距離からの砲撃にも耐え、大魔法すら弾き返す堅牢さを誇るのです!」 傍らに巨大騎士を一体控えさせ、大司教は饒舌に己の国の新兵器を自慢した。 「さぁ、潰しなさい」 そして彼の命令を受けて、落下しつつあるナハナに、巨大騎士が掲げた腕を振り下ろす。 「ナハナ――――ッ!」 エレルが叫ぶも、神殿の柱よりも太い騎士の腕が魔王軍元帥に叩きつけられた。 肉の潰れる音と骨が折れる音が同時に響いて混じり合う。悲鳴は、聞こえなかった。 「ハハハハハハハハハ! 魔王軍最強といっても所詮は小娘。この程度ですか。いやはや一応警戒はしていましたが、それも無駄だったようで。クッフッフ」 足元まで散ってきたナハナの血を見て、大司教はまた笑う。 未だ硬直から脱せずにいるモレクの耳に、巨大騎士に追われる民達の悲鳴が聞こえた。 魔王軍の兵士達も巨大騎士を前に懸命に抗おうとしているが、しかし、全く歯が立たない。兵士たちの攻撃は巨大騎士に一切通じず、逆に、巨大騎士の攻撃を兵士達は微塵も防ぎきれない。力の差は、あまりにも歴然としていた。 悲鳴が続いた。悲鳴が重なった。 泣き声の上に狂乱の絶叫。老人の命乞いを塗り潰す、子供が親を探す声。 肉が潰れ、骨が砕かれ、ハラワタがまき散らされて次々に命が潰えていく。 「……何故だ」 地面に膝をついて、モレクが呻いた。 「何故、こんなことをする! どうして!? 聖国は魔人の味方ではなかったのか!」 「フフフハハハハハ、愚か。まことに愚かな魔国外務卿。何百年前の話を持ち出してくるのか。今の世の秩序こそが優先されるに決まっているでしょうに」 「だが、交渉の席であなたの国は我々の話を聞いてくれていたではないか!」 「それはそうでしょうとも。何せ我が国の新兵器の稼働実験を行なうまたとない機会。加えて、生意気にも国など建てて世を騒がせる悪族を粛正したという実績までついてくるのです。そのための機を設けるのに、力を尽くすのは当然ではありませんか」 「何が……、何が粛清だ! こんなものは、ただの殺戮ではないか!」 悲鳴に満たされた城門前で、モレクは叫ぶ。しかし大司教はそれを一笑に付すのみ。 「――それで?」 「な、何?」 「殺戮だから何だというのです? 別に人間ではないのですから、幾ら殺したところで屠殺と何も変わらないでしょう? いうなれば家畜に疫病が発生したのと同じです。感染源は根から絶たねば、世にどのような悪影響を与えるか知れたものではありません」 「我らを、畜生同然と呼ぶか……!」 「ああ、これは失礼を。人に飼えるだけ家畜の方がまだ上等でしたね。『角耳』の皆様方は、言葉を使い人の振る舞いを真似る悪辣さを備えた、野犬にも劣る害悪ですからな」 哄笑を響かせる大司教を、モレクはひらすらに睨みつけた。 怒りと悔しさに握った拳からは血が流れ、体はブルブルと震え出している。だがその怒りは大司教へのものではない。自分に対する怒りだった。 「私は、私は何と愚かな……」 食いしばった歯の隙間から、悔恨の呟きが漏れる。 「魔人だけでは生き残れまいと思って、人の中にも、共に歩める足る者がいることを願って、ともがらになれる者がいるのだと信じて――、その結果が、これなのか」 魂の底から絞り出すようなかすれ声。 魔国の今を想った。魔国の未来を想った。 仕える主が喜ぶ姿を見たいがために、文字通り身を粉にして働いてきた。 だがそれが、魔国の滅亡を呼び込むという最悪の形で結実しつつある。 「この国の真の王すら追い出して、私は……っ」 もう、前を向いていられない。 モレクは地面に手をつき、四つん這いになって泣いた。 魔人の未来を信じ、繁栄を願うその心は、人間の醜さによってあっさりと打ち砕かれた。 「ハハハハハハハ! 絶望の真似とは器用な『角耳』ですね!」 「黙りなさい、醜い豚が」 しかし、勝利を確信した大司教の高笑いを冷たい一言で断じる者がいた。 「――魔王エレル・アイオーン」 エレルが、絶望に打ちひしがれるモレクの前に立っていた。 「モレク」 「……陛下。申し訳ありません。私は」 「お願い。どうか、人間を嫌いにならないで」 詫びるモレクに、しかしエレルが告げたのは意外な一言。 「陛、下……?」 「人が人を貶める。それもまた、人の在り様。けれど、醜いのは人間という種族じゃない。ここに立っている、聖国の大司教という個人が畜生同然の醜さを備えているだけよ」 朗々と話すエレルの言葉に、モレクはなお疑問を深めた。 その言葉はまるで、人間という種族を擁護しているようにも聞こえるからだ。 しかし畜生と呼ばれた大司教はそこまで考える気はないようで、頬をヒクリと引きつらせて、顔に浮かべる笑みを一層歪めた。巨大騎士の顔がエレルを向く。 「ぅ……、逃げ、て、姉さん……」 巨大騎士に潰され、半死半生と化したナハナがエレルに手を伸ばそうとする。 しかしその様を見た大司教が、喜悦に染まった笑いを発した。 「見なさい、魔王軍最強の戦士といえど我が聖なる騎士の前にはなすすべもないのです! 魔王よ、これでも私を畜生と誹るか! これだけの確たる力の差を前にしても!」 「ごめんなさい、豚の鳴き声は聞き取れないの」 「おお、最たる邪悪、暗黒の魔王よ。それこそが貴様の最期の言葉となる。さぁ、ゴーレムナイトよ、そこに立つ魔王を叩き潰し、人の正しさを世に示すのです!」 巨大騎士二体が左右からエレルに迫る。 その威圧感に、後ろにいるモレクは動くこともままならず、エレルを見上げた。 「お逃げください、陛下。どうか、あなただけでも……」 声を震わせるモレクに、エレルは軽く振り返り、困ったように笑う。 「心配はいらないわ、モレク。それと」 「ゴーレムナイト、叩き潰せぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ――――!」 左右の巨大騎士が振り上げた両手をハンマーのように上から叩きつけた。 「――前に言ったでしょう」 だが、命が潰える音はせず。エレルの確信がこもった言葉が、直後に続く。 「私は王ではない、と」 モレクの前に立つエレルの、さらに前に立った、一人の青年。 振り下ろされた巨大騎士の剛腕を、掲げた右手だけで受け止めて、彼は振り返る。 「……これ、何事かな?」 その顔に表情はなく、その瞳には強く滾る怒りの光。 「ディム・ウルゴー……」 現れたのは、真の魔王。 その名を、モレクは呆然となりながらも呟いた。 ▼ △ ▼ △ ▼ △ ▼ まさに、間一髪のタイミングだった。 「お帰りなさい、ディム。間に合ってくれると信じていたわ」 巨大な鎧騎士に潰されそうになっていたエレルを助けると、まずそう言われた。 「間に合ってなんか、いないよ……」 しかし、彼が見る先には巨大騎士によって屠られた民達の姿。悔しさに歯を噛みしめる。 何があったのかは知らない。しかし許されざる事態が起きているのは確かだ。 「……私の、せいだ」 言ったのは、エレルの後ろで這いつくばっていたモレク。 「私が、聖国の連中の正体も見抜けずに、むざむざと陛下と引き合わせてしまった。民達を、危険に晒してしまった。元帥閣下とて、私の愚かさが傷つけたのだ! すまない。私の無知と浅慮が、この惨状を招いてしまった……っ、本当にすまない!」 「……わかったよ」 地面に額を擦りつけて土下座するモレクに、ディムが返したのはその短い一言のみ。 そして彼は掲げたままの右腕を無造作に払った。 たったそれだけの動作。しかし、巨大騎士二体が一気に数歩も後退する。 「ほぉ、これはこれは」 突然の乱入者に大司教は目を見開いて驚いた。 とはいえその驚きもたっぷりとした余裕を保ったままのもので、ポーズに過ぎない。 「『角耳』にも、まだ秘密兵器と呼ぶべき物がいたようで。なるほど」 腕を組み、大司教は軽くうなずく。 後退した巨大騎士が、その左右に立ち並んだ。 「しかしあなたも間が悪い。ここに来なければ、死なずに済んだかもしれないのに」 未だ揺るがぬ勝利を確信し、大司教はクツクツと押し殺した笑いを漏らす。 そこまで見て、ディムはおおよそ把握した。 「本当に、おまえらは変わらないな」 彼から放たれた声の冷たさは、同胞であるモレクをもビクリと震わせるほどだった。 「だから嫌いなんだ、人間ってヤツは」 それは、モレクが初めて見るディムの激しい怒り。 「何……?」 「穴があったら入りたい気分だ。……全く、心底から情けない」 彼の独り言は、自己嫌悪にも聞こえた。 淡々としたその調子は間違いなく彼の本音であることを告げている。 そしてディムの気配が変わった。 「――告げる」 紡がれた声はさらに固く、冷たく、一切の熱を排し冷めきった鉄塊の如く。 「我が双翼、金陽の天使エレル・アイオーンよ。汝、我が隣に跪くことを赦そう」 「はい、陛下」 エレルが神妙にうなずき、言葉通りにディムの右隣へ歩み、恭しく片膝をついた。 「我が双翼、銀嶺の天使ナハナ・アイオーンよ。汝、我が隣に跪くことを赦そう」 「ハハ、ずっと待ってたよ、それ。あたた……」 体中から血を流しながら、ナハナもディムの左隣に寄って、姉と同じく膝をついた。 いっとき、騒乱が止まる。 逃げる民も、モレクも、敵対する大司教と、それに操られる巨大騎士ですら、ディム達が醸し出す荘厳なる雰囲気に呑まれ、動きを止めていた。 「重ねて汝らに赦す。――我を縛る封をいっとき、解き放て」 「「陛下の仰せのままに」」 ものものしい空気に皆が圧倒される中、エレルが右手の甲に、ナハナが左手の甲に、それぞれ忠誠の証である口づけをする。すると途端に変化が生じた。 「……ディムの、手が」 呪い爪の証である爪の黒相がジワリとにじんで、彼の両手全体に広がっていく。 「何の魔法かは知りませんが、無駄、無駄なのですよ『角耳』如きが虚仮脅しも甚だしい! さっさと我が国の威光の前にひれ伏しなさい!」 我に返った大司教がディムを指差すと、巨大騎士の一体が彼に迫った。 城壁を一撃で叩き砕くであろうその拳がディムに向かって振り上げられる。 しかし、彼は退くどころか控える姉妹を守るべく、自ら前へと踏み出していった。 「僕と同じ呪い爪を持っていたかつての魔王。彼の不幸は――」 そしてディムは開いた右手を軽く突き出して、言う。 「ただ、弱かったことだ」 ゾリッ、と、ザラついた音がした。 そして現れた光景に、エレルとナハナは揃って笑みを浮かべ、大司教は目を疑った。 ディムを殴り潰そうとした巨大騎士。 その上半身が、丸ごと消滅していたからだ。 動きを止めた巨大騎士の下半身越しに大司教が見たのは、突き出した右手を握るディムの姿。彼の両手は、肘の辺りまで真っ黒に染まっていた。 「……え?」 呆ける大司教の前で、ディムは次に巨大騎士の下半身に左手で触れた。 魔力を弾く神魔鋼製の純白の装甲が一瞬で黒く染まって、そのまま崩れて砂と化す。 「魔黒の手」 握った両手に目を落とし、ディムが短く告げた。 「僕はそう呼んでる。触れたもの全てを例外なく滅ぼし尽くす、魔王の力さ」 「ま、魔王……!? バカな、魔王とはエレル・アイオーンでは……」 おののき震え出す大司教に、彼は軽い苦笑を返す。 「エレルも魔王だよ。魔国の王、という意味ではね。でも本来の原意はそうじゃない。魔王とは、魔国の王ではなく、魔人の王でもなく、王と呼ぶ以外に形容しようのないほどの魔を宿した者のこと。つまりは魔黒の王。僕のことさ」 言ったディムの口元に笑みが浮かぶ。だがその笑みは、単なる自嘲。 ディムがまた踏み出すと、大司教は顔色を蒼白にして怒鳴った。 「こ、殺せ! このガキを殺すのです! 天罰を! 神罰を! 聖罰を! 魔王を僭称する矮小なる愚物に、人が持つ知性と力の輝きを知らしめなさいっ!」 「人が持つ、か……」 残る三体の巨大騎士が、三方からディムに接近する。 殺戮による返り血で表面を真っ赤に染めた巨大騎士を視界に入れて、彼の髪が逆立つ。 「それこそ、タチの悪い冗談だ!」 そして、ディムが動き出した。 身を低く、動きは素早く。奥歯をきつく噛み締めて。 巨大騎士の攻撃が始まる前にその両手が、三体全てに触れていた。 「――滅びろ、人の知性の輝きとやら」 ディムがパチンと指を鳴らすと、巨大騎士全てが黒く染まって跡形もなく崩壊する。 「…………。…………は、ぁ?」 大司教は、顔色を青くしたまま口をあんぐり開けていた。 「何と、いう……」 後ろから、モレクの震えきった声が聞こえた。 その声からははっきりと彼女の抱く恐れが伝わってくる。ディムの表情に一瞬陰が差した。しかしすぐに顔つきを直し、彼は大司教へと向かっていった。 「な、何だ、おまえは何だ……! 一体、おまえは何なんだ!!?」 「魔王だよ。かつての魔王より、ずっとずっと、強い魔王だ」 「な、な、な、何という邪悪な……。これが、魔王! 魔人の王、『角耳』共の首魁! やはり我々は間違っていなかった。魔人は許されざるべき存在なのだ。お、おまえのような圧倒的な邪悪を生みだす種族など、この世界にあってはならない――」 「じゃあ自殺しなよ」 「……何、ぃ?」 ディムを指差して喚き散らす大司教だが、言い返されて言葉を止める。 そのとき、強い風が吹いて黒手の魔王の髪を揺らした。 「待て、ディム・ウルゴー……! おまえは、そ、その耳は!?」 モレクから驚きの声があがる。 彼女は見たのだろう、吹いた風によって露わになったディムの耳を。 そして、大司教もまたそれを知った。 「耳の先が、尖っていない? そんな、ではおまえはっ」 「人間だよ。あなたと同じ、ね」 普段は、エレルとナハナの封印によって耳の形を偽装している。 しかし魔黒の手の封印を解くことで、一緒に偽装も解除されてしまうのだ。 「まさか、かつての魔王も人間、なのか……?」 「多分ね」 ハッとするモレクに、ディムは律儀に答えた。 大司教は、もはや数分前までの余裕は消し飛び、鼻水を垂らしながら呼吸を荒げていた。 「何故だ、な、何故人間が『角耳』共に肩入れするのだ……!?」 「さぁね。邪悪だからだろ」 大司教の疑問を冷たく切り捨て、ディムはおもむろに右手を伸ばそうとする。 「ま、待ちなさい!」 巨大騎士のような崩壊を恐れた大司教が、大慌てで彼の右手を両手で掴もうとした。 「触れば、そこから崩れるよ」 しかしディムからの無情な宣告。大司教の両手はびくりと震え、その場に制止する。 大司教の後方には、エレルと、姉に肩を貸してもらっているナハナ。 「さぁ、覚悟してもらおうか」 退路を断たれた大司教の眼前に、ディムが純黒の右手を迫らせた。 ギリギリまで上体をのけ反らせて魔王の手から逃れようとする大司教だが、やがて来た限界に、ついには涙を流しながら大声で訴え始める。 「私を殺せばどうなるかわからないのですか! せ、聖国は総力を挙げてこの国に攻め込むでしょう! あ、あなたの行ないがこの国を滅ぼすことになるのですよ!」 「……厚顔無恥ここに極まれり、だね」 ナハナが肩をすくめた。 「いいのか、私を殺せばこの国は滅びる。嘘じゃない、絶対だ。絶対そうなるぞ!」 「そうはならないよ」 脅しまがいの命乞いをする大司教だが、しかし、ディムはそれを否定する。 「だって、聖国の方が先に滅びるからね」 「な、ぁ……?」 「おまえが気にすることじゃないよ」 「や、やめろ! やめ、やめてくれ。や、やめ……」 大司教の叫びが響く中、ディムの右手が彼の顔をしっかりと掴んだ。 「あああああああ、ぁぁぁぁ、ぁ、ぁ、ぁ、ぁ――――」 断末魔の声と呼ぶにはあまりにもか細く、聖国の次期枢機卿と期待された若き大司教は、魔王の黒き手によって亡骸を残すことも許されず、この世界から消え果てた。 そして訪れたのは、死にも等しい無音の静寂。 ディムが予想していた通りの風景だ。 彼が振り向くと、生き残った民達はその視線に揃ってビクリと身を震わせた。 助けてもらったにもかかわらず、民達の顔に現れているのは恐怖の色。モレクの声からも感じ取れたそれを、彼らもまた浮かべていた。 けれど、ディム・ウルゴーはぎこちなく笑って頭を下げた。 「……遅くなって、ごめんね」 ▼ △ ▼ △ ▼ △ ▼ 「僕は、何かを壊すことしかできないんだ」 モレク含め、場の全員が沈黙を重ねる中、魔王ディム・ウルゴーは短く語った。 「生まれたとき、まず母親をこの手で壊した。それが僕の始まりだ」 言ったのはそれだけ。 しかし、以降の彼の人生がどういうものかは想像に難くない。 きっとモレク達魔人よりもさらに悲惨で過酷な人生であったことだろう。 人と直に接するのが、苦痛になるくらいには。 「かつての魔王も、きっと僕と同じ魔黒の手を持ってたんだと思う。でも、僕と違って力が弱すぎたんだ。黒相が爪に現れる程度しかなかった。だから負けた」 でも、と、ディムは笑う。 「少し羨ましくもあるんだ。だって、ものを触っても壊さずにいられるんだから。勝手な推測だけど、きっと普通に人生を送れてたんじゃないかな」 その声にモレクは感じ取った。 何が少しなものか。ディムはそれを心底羨ましく思っているはずだ。 さもありなん。 触れたもの全てを滅ぼす力など、強すぎる。あまりに強すぎて、それは個人単位で戦略級の兵器にも劣らない。いや、もたらす滅びの範囲によっては凌駕しうる可能性も。 「何も壊したくないのに触ったら壊れて……。だから僕はもう何も触らず、最後に自分自分を壊して終わろうと思ったんだ。五歳のときだよ」 「五歳だと……」 どれだけの絶望があれば、五歳にしてそんな思考に辿り着くのか。 完全に想像を絶する。底の見えない深い闇にモレクの心身は芯から凍えきった。 だが一転、ディムは口元を綻ばせる。 「でも、僕は救われた。エレルとナハナに、助けてもらったんだ」 「違うわ。最初に私達を救ってくれたのはディムの方でしょ?」 「そうそう、ぼくだって覚えてるよ。ディムとの出会い。忘れるワケないじゃないか」 エレルが言って、ナハナも笑う。 三人の出会いにはきっと、この場では語り尽くせないほどの物語があったのだろう。 そしてディムにとっての救い。 それは、彼が天使と呼んだ二人が施した魔黒の手の封印に違いあるまい。 「エレルとナハナのおかげで、僕はやっと、好きな人を壊さずに済むようになった」 黒いままの両手を強く握るディムの顔には強い感慨が浮かんでいた。 手で触れたものを壊さずに済ます。 モレク達にとっては当然の、だが、ディムにとっては無二の奇跡。 「あの日、僕はようやく僕として生まれることができたんだ」 その言葉に虚飾は感じられなかった。ディムにとって、それだけ二人の存在が大きいのだ。だからか、と、モレクは何となくだが納得した。 「だから、魔国を建てたのか。お二人のために」 「そうでもあるし、そうでもないかな」 「……それは、どういう?」 「はじめは二人の居場所さえ用意できればいいと思ってた。でも――」 黒い手の王は、そこにいる皆を見渡す。 「ひどい扱いを受けるみんなに、僕は昔の自分を重ねたんだと思う。だから、もっと多くの人が安らげる場所を作ろうと思い直した。そしてそれは、自分への証明でもあった」 「証明? 何を?」 「こんな僕でも、壊すだけじゃなくて何かを作れるんだってコト」 モレクの問いにそう返し、ディムは満足げな表情を作る。 「もう、証明し終えたけどね」 そして彼は踵を返し、その場に背を向けた。 「待って、ディム。どこへ行くの?」 「聖国。ちょっと、落とし前つけてくるよ」 「何言ってるんだよ!?」 エレルの問いにディムはそう答え、ナハナが目を丸くして仰天する。 「だってあいつらは僕達が作った魔国を壊そうとしたんだよ? 許せるはずないじゃないか。それに、どうせ行かなくてもあっちから攻め込まれるだけだよ。だったらこっちから行って滅ぼしちゃった方が、手っ取り早いしみんなも安全だ」 「待ってよ、だったらぼく達だって一緒に……!」 「それはダメだよ、ナハナ。それだけはダメだ。君とエレルは、魔国を内から支えなきゃいけない柱だ。君達を欠いたら、それこそ魔国は立ち行かなくなる」 「それを言ったらディムだってそうだろ! 王はディムじゃないか!」 「僕は王じゃない。魔王だ」 もはや振り返ろうとしないディムからナハナに突き付けられた、断絶の言葉。 魔黒の手を封印しようとしないことから、モレクは心なし気づいていた。 ここまでの話は、彼からの別れの言葉なのだ、と。 歩き出す魔黒の王に、エレルも、ナハナも、誰も何も言えなかった。何故なら、ディムがしようとしていることが魔国にとっての最善手であると理解しているからだ。 彼の手によって、聖国は間違いなく滅びるかそれに近いダメージを負う。そして他の大陸列強は思い知るのだ。魔国に手を出せば、どうなるのか。 それでも列強国全てがまとまれば、魔国を潰すことなど容易かろう。 だがどの国も、聖国の二の舞になることを避けようとするのは自明の理。そこに生じる列強国同士の駆け引きが続く限り、魔国が攻め込まれることはあるまい。 魔国を生き永らえさせる唯一の手段がそれだと、全員が理解していた。 だから皆、思いは様々あれど、遠ざかるディムの背中に声をかけることはできなかった。 ――モレクを除いては。 「やはりおまえはバカな男だ、ディム・ウルゴー!」 「……え?」 突然の罵声に、ディムは思わず足を止めて振り返った。 その彼の間抜け面に、モレクは腹の底に溜まり切っていた怒りをブチまける。 「さっきから聞いていれば、何だそれは。どういうことだ! 延々と自分語りをして、挙句、俺に近づくと火傷するぜだと? その歪んだ自己陶酔は何なんだ!」 「待って、僕そんなこと言ってない!?」 「黙れ、言ったも同然だ! こちらの言い分も聞かないうちに話をさっさと切り上げて、もう終わったことだと判断して、周囲を気にせず行動する! そういうのはな、総じて空気を読めないと言うんだ! 何だおまえは、ちっともコミュ障が克服できていないではないか! エレル様や元帥閣下との特訓は何だったんだ、しまいにはキレるぞ!」 「もう十分キレてるじゃないか!」 「まだ四割だ。あと六割の余力が残っている!」 「ひぃ!?」 いきなり叱られて、向き直ったディムは反射的に姿勢を正し、背筋を伸ばす。 しかしモレクは急に眉をハの字にして、声の調子を弱めた。 「なぁ、ディム・ウルゴー。我々はそんなにお荷物か?」 「……モレクさん?」 「おまえの力は確かに恐ろしい。私だって震えを抑えきれない。だが、その力はおまえ自身じゃないだろう。誰よりもお前自身が疎んでいたじゃないか」 「でも、僕がこのまま行くことが魔国のためでもあって……」 「一人で何でもできるからって、一人で何でもできると思うんじゃない!」 矛盾しかないモレクの叱責。 しかしそれを言った彼女は顔を悲痛に歪ませて、さらにディムへと訴える。 「みんなでやれば、いいだけだろう」 半ばかすれ声のその言葉に、ディムの瞳が見開かれた。 「国を背負うのは王の務めだろう。だが、国を支えるのは全員の努めだ。何故一人で両方を一気にやろうとする。そんなにも私達は頼りないか? 信じるに足らないのか?」 「違う、そんなことは……!」 「だったら――」 す、と、モレクがディムに右手を差し出した。 「どうか私達をあなたの戦列にお加えください。ディム・ウルゴー魔王陛下」 彼女が乞うと、続けて民達が次々にその場に膝をつき、ディムへと平伏していった。 「え、あ……、え?」 恭順の意を示す民達に、ディムは戸惑いの声を漏らす。 その戸惑いを受け止めたのは、エレル。 「まだわからないの、ディム」 そしてナハナが、継いで告げる。 「これが、君がその手で築き上げたものなんだよ?」 「僕の、手で……」 うわごとのように呟き、彼は真っ黒な自分の両手を見る。 「でも、僕には壊すことしかできなくて――」 「それはもう、過去だ。たった今、過去となった」 食い下がろうとするディムだが、しかしモレクが優しく否定する。 「私達全員がそれを知っている。……そうでしょう?」 彼女の言葉にディムは身をうち震わせ、その瞳から一滴の涙を零した。 「うん」 そして彼は、深く、深くうなずいた。 「一緒に行こう。みんなで」 魔王ディム・ウルゴー、即位の瞬間であった。 ● 二日後。 「えー、ではこれより我らが誇る最強にして無敵、究極にして至高、絶対にして神聖不可侵である魔王ディム・ウルゴー陛下より、出陣前の激励のお言葉があるので、皆、一言一句聞き漏らさぬよう一切の私語を謹んで呼吸以外の行動を停止して背筋を伸ばして姿勢を正し、魔王陛下をまっすぐ一直線にガン見しつつ静聴するように」 「ねぇ、何でわざわざ僕が緊張するような言い方するの、ねぇ!?」 魔王宮、謁見の間。 国の重臣全員が揃う中、外務卿モレク・ターウースの号令に魔王本人が悲鳴をあげた。 結局、あれからすぐに聖国に攻め込むことはしなかった。 巨大騎士に殺された民達の埋葬もあったし、大司教の死という事実が聖国に伝わるまで多少時間がかかるだろうという判断もあって最低限の準備をすることになったのだ。 埋葬自体は、手伝ってくれた市民の多さもあって一日以内には完了したが、それでもさすがにやりきれないものは残っており、聖国に対する怒りは頂点に達していた。 かくして魔王軍出陣の準備は速やかに行われた。 この場での魔王の宣言をもって、いよいよ出征という段階である。 ――のだが、 「ぇー、ぁの、……今日は、その、ぃ、ぃぃぉ天気で、ぁー……、ぅー」 「魔王陛下、聞こえません。やり直し」 「そんなぁ!?」 バッサリ切り捨てるモレクに、ディムは二度目の悲鳴。 彼がついている玉座の左右で、エレルとナハナが揃ってクスクス笑っている。 ともすれば今すぐにでも逃げ出したいほどの羞恥に襲われて、ディムは頭を掻いた。 その手は、黒い手袋をしていない。 爪には黒相と呼ばれる黒い筋。エレル達の封印を再度施した結果である。 「ぁ、ぁの、ね? ね? みんな、ぇっと、ね? ゎ、ゎかるょ、ね……?」 「魔王陛下、我が国に忖度という言葉はありません。やり直し」 「ひぎぃ!?」 なお、さっきからキレッキレの調子でディムを追い込んでいくモレクだが、このたびエレルから直々に魔王コミュ障克服係を拝命したので、別にいじめではない。 「いいですか、魔王陛下。私もさっさとこんな仕事終わらせてエレル様からお褒めの言葉を戴いて一層エレル様のために働けるよう尽力したいのです。だから終わらせましょう。というか終わらせてください。このあとエレル様と元帥閣下とのお茶会なんです」 「そんな私欲で僕を追いつめないでよ!?」 「欲望あっての人生です。それの何がいけないというのですか」 「自分の欲望に正直すぎるのも、それはそれで問題じゃないかなって言ってるの!」 「ところでさっきから私含めて全員が魔王陛下をガン見してるワケですが」 「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」 重臣達の視線に晒されて、ディムはただ「ぁ」を言い続けるだけの石像と化した。 エレルとナハナも、さっきから爆笑こそしていないものの、揃って腹に手を当てて体をくの字に折り曲げている。腹筋がやられてしまったようである。 「では改めて、至高たる魔王様からの尊くもありがたき御言葉である!」 「飾らないでぇ! 畏まらないでぇ!」 露骨にプレッシャーをかけてくるモレクにまたしても悲鳴をあげつつ、ついにはディムもヤケッパチになったか、精一杯の大声で叫んだ。 「みんなで頑張って聖国やっつけよう!」 「「「おおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」」」 完全に重なる皆の雄叫び。 それにビックリしつつ、ディムはモレクの方を見る。 「だから、やればできるんだよ、おまえは」 腕を組んでうなずく彼女に、ディムは「エヘヘ」と笑って返す。 「その笑いは気持ち悪いがな」 「上げて落とすのやめようよ!?」 些か締まらない空気ではあるが、だがそれこそ魔国の在り方。 黒い手の王が築き上げた、やがては大陸の半分を併呑し大国を超える大国――『超大国』と称されるまでに至る国の黎明期の姿である。 「行こう。魔王軍、出陣だ!」 魔国の王の快進撃が、ここから始まる。 |
6496 2020年05月01日 00時02分51秒 公開 ■この作品の著作権は 6496 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2020年05月21日 00時27分29秒 | |||
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Re: | 2020年05月21日 00時25分29秒 | |||
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Re: | 2020年05月21日 00時23分58秒 | |||
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Re: | 2020年05月20日 23時54分38秒 | |||
合計 | 11人 | 260点 |
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