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 1

 〇

 下卑た笑い声と酒の臭いが、野球部の部室に充満している。
 その日は先輩方に何十周とタイヤを轢かされていて疲れ切っていた。グラウンドに倒れ伏す新入生たちを罵声と暴力を浴びせかけながら叩き起し、何度となく走らせ続けるその行いに、『鍛える』などという高尚な目的は皆無である。この野球部では監督が練習を見ていないことはしょっちゅうだ。そうした合間に新入生である俺達にイビリやシゴキを施して愉しもうという不快な奴らが、上級生に何人も存在している。
 「おい加賀谷。俺の酒が飲めねぇのか」
 「勘弁してくださいよ、センパイ」中学の頃のチームメイト、加賀谷了が、媚びた笑いを浮かべている。「監督が入って来たら、大目玉食らいますよ、飲酒なんて」
 「大丈夫。監督なんてもう帰ってるよ。ほら、飲め」
 見れば、高倉という三年生が、加賀谷に無理矢理酒を飲ませようとしていた。それを受け入れることで自分がどれだけ不利な立場に追いやられるかを理解している加賀谷は、勇気を振り絞ってそれをどうにか断ろうとしている。
 高校生にもなって、この野球部の奴らは腐り切っている。飲酒やその強要などをやらかして、自分や自分達の野球部がどうなるのか、想像できない訳ではないだろう。バレないとタカをくくっている……というだけでもない。ただ単純に、自分達の野球とか、品位とか、将来と言ったあらゆることが、こいつらには心からどうでも良いのだ。目の前の快楽や衝動だけが、そのちっぽけな脳味噌を支配してしまっている。
 だからこいつらは自分達の練習を怠り、大切な練習時間やグラウンドのスペースを無意味な後輩イビリに費やしてしまう。だから大会の成績は振るわず、しかしそのことを何とも思わず、それでいて自分達に都合の良い上下関係だけは一丁前に主張する。
 くだらない部員たち。くだらない野球部。
 うんざりだった。
 俺はさっさと着替えを済ませると、俺を飲酒に巻き込もうとする連中を振り切って部室を出た。そして一番近くにあるトイレの個室に駆け込むと、携帯電話を取り出して一一〇番をプッシュする。
 「すいません。A高校の野球部の部室で、未成年の飲酒と飲酒の強要が行われています。今すぐに来て、やめさせてください」

 〇

 「何考えてるの!」
 杏璃(あんり)はそう言って、俺の頬をひっぱたいた。
 三浦杏璃は野球部の新人マネージャーで、中学時代からの俺の交際相手だった。話がしたいから家に行っても良いかという連絡を受け了承し、久しぶりのお家デートが楽しめることに機嫌を良くしていた俺に対し、部屋に上がった杏璃が最初にしたことは強烈なビンタをぶちかますことだった。
 「野球部! 潰れちゃったじゃない! どうしてくれんのよ!」
 「……僕が潰した訳じゃないよね」
 俺はなるだけ杏璃を刺激しないように、穏やかに手の平を晒しながら言った。
 「野球部が潰れた責任を背負うのは、未成年飲酒やその強要を行っていた一部の部員たちであって、僕じゃない。僕は市民の義務として通報をしただけで、批難を浴びるようなことはしていないよ。どうか落ち着いて考えて欲しい」
 「……いや、おかしいって。他にやり方はあったはずじゃん?」
 「他のやり方もあったかもしれないが、しかしこのやり方が間違っている訳でもない」
 「間違っている! 確かにあの野球部はおかしな人も何人かいたけれど、それでも真面目に野球をやろうって人も、ネモを含めて何人もいた。今は先輩たちの横暴をどうにか耐え凌いで、そして自分達の代になったら野球部を甲子園へと連れて行こうって、そう言ったのはネモじゃない!? ネモならそれができるって、わたしをそこへ連れて行ってくれるって……信じてたのに!」
 そう言って、杏璃は膝を折って泣きじゃくり始めてしまう。
 謝った方が良いのだろうか?
 自分に非がなくとも相手が傷付いたのなら謝罪はするべきだ。それは恥ずかしいことではない。よしんば恥ずかしいことだったとしても、受け入れて良い類の恥だと思う。
 しかしこの場合だと、謝ったところで場が上手く収まると言う保証はどこにもない。それよりも、ここは俺の行為の正当性をしっかりと説いた上で、杏璃に納得してもらうのが適切なやり方なのではないか?
 そう思い、俺は言った。
 「野球を続ける以上、甲子園に行くことに目的を見出すのは、ごく普通のことだ。だから、前に杏璃に言ったことは、それはそれで本心だったんだ。しかし今この野球部には、甲子園を目指す以前に、野球をするような資格がどこにもない」
 「…………」
 「そもそもの学校規則や高野連の規則に、不祥事を起こした高校に活動を停止させる一文が存在しているんだ。その不祥事を隠蔽するような下賤な協調に加わることは、野球部員以前に人として恥ずかしいことだ。そんなことをして大会に出たところでなんの意味もない。君の彼氏として、僕は客観的に正しいことを堂々とやった。それだけなんだよ」
 「違う。飲酒がダメなのなら、真っ向から先輩にそれを注意して、立ち向かってほしかった。野球部を活動停止にするような方法は取って欲しくなかった」
 杏理は真顔でそんなことを俺に求めて来る。俺は「うん」と頷いてから続ける。
 「確かにそれも一つの方法だよね。でもね、あんなくだらない、実力もモラルも低次元な野球部に、在籍する価値なんてどこにもないだろう。まるで全然、野球に対して真摯じゃない。だったら、せっかく結構良い進学校に来たんだし、杏璃と同じ大学に行く為に今から勉強に打ち込む方が余程価値があ……」
 その言葉を受けて、杏璃は改めて俺の頬をひっぱたいた。
 「確かにネモは中学の頃すごかったよ! シニアで全国ベスト八にまでなったチームのエースだった。でもだからって他人がやっている野球を見下して踏み壊して良い訳じゃないでしょう? ネモが思うようには、皆野球に真剣じゃないかもしれないけれど、だからって野球部を壊す程の権利がネモにあるはずがない! ネモが野球をやめる言い訳に、して良いはずがない!」
 いやだから野球部を壊したのは俺じゃなくて非行に走った連中だよね、なんて反論しようとしたところで
 「出て行け!」
 と言われ、首根っこを掴まれて部屋の外に追い出されてしまった。
 「え、ちょ、ここ俺の家で俺の部屋」
 「知るか! 反省して来い!」
 と言って、杏璃は部屋の襖をべしゃんと閉めてしまった。
 「なんか荒れてるわねぇ」
 なんてのんきに言うのは母さんで、俺は額に手をやって息を吐く。事情はぼんやり分かっているだろう母親は、「しばらくこっちにいる?」とリビングの方を指さして来る。
 「いや、良い。悪いけど、ちょっと外出て来るから、杏璃が帰ったら連絡して」
 彼女に部屋を叩き出された身体で両親と同じ部屋で過ごすのは、はっきり言って恥ずかしい。
 ポケットにまだ財布が入っていることに安堵しながら、俺は自分の家から追い出されて外をふらつき始めた。

 〇

 杏理は感情的で気の強い女で、そういうところが惚れた理由の一つだ。
 肩口までの髪は日に焼けて淡い栗色になっていて、日焼けした肌は健康的で四肢はしなやかに細長い。全身からいつも陽だまりの匂いを漂わせながら、明るいエネルギーを周囲に振りまくような、そんな女の子だった。
 「だけれど……怒らせると面倒なんだよね」
 客観的に俺に非はない。しかしそのことと杏璃の怒りは別けて考えねばならなかった。杏璃は野球や野球をしている人が好きで、中学の頃からマネージャーとして俺達のことをずっと支え続けて来てくれた。野球をしている俺が好きだと何度も言ってくれた。そんな杏璃にとって、他でもない俺が自分達の所属する野球部を見放したという事実は、大きな憤りに値することなのだろう。
 己惚れでなければ、杏璃がもっとも応援する野球人は根本文一郎なのだから。
 「……ちゃんと説明すれば分かってもらえると思ったんだけどな」
 俺はバットを持って近所の公園へと辿り着いていた。高校野球は諦めたばかりだというのに、時間が出来るとつい素振りをする癖は治ってくれない。
 俺は時間を忘れてバットを振り込んだ。大切な彼女に自分の行動を否定されたことが、自分で思うよりも心の中にわだかまっているらしい。
 気が付けば夜だった。彼女はまだ帰らないのだろうか? 一度母親に連絡してみようと思いつつ携帯電話を取り出したところで、鈴を鳴らすような声が聞こえた。
 「これは七百円、こっちは千五百円ね」
 少女の声。屈託がなく明るく無邪気な、相手のことを信頼しきった声だった。そちらを見ると、遠目にも美少女と分かる黒髪の女の子が、雑草や花を編み込んで作った髪飾りを掲げている。
 「これはー、作るの大変だから、一万円くらい」
 お店屋さんごっこに興じているらしい。言動は幼いが顔立ち自体は十代の中盤くらいに見える。公園の灯かりに照らされた肌は白すぎる程白く、手足は細すぎる程細かった。黒髪は華奢な身体を包み込むように無造作に長く、清楚なワンピースを着ていることも相まって、どこか深窓の令嬢を思わせる。
 「じゃあこれはいくらくらいなの?」
 そう言ったのは、隣にいた背の高い女の子だった。鼻筋が良く通った彫りの深い顔立ちで、黒髪の少女と負けず劣らずの美少女だ。同じくらい髪が長いが、しかしその髪を鮮やかなオレンジ色になるまで脱色していて、額のあたりに流れ星をあしらった髪留めを付けている。そしてどういう訳か、男子の着るような黒い学ランを身に付けていた。
 「うん? これはドングリを束ねたらすぐできるから、六百円くら……」
 そこで、黒髪の少女がこちらに気付いたように振り返った。
 黒髪の少女はびくりと怯えた様子で露骨に視線を反らすと、学ランの少女に何やら耳打ちする。学ランの少女は了承したように優しく頷くと、俺の方を一瞥してから、黒髪の少女の肩に手をやって守るようにして公園を後にした。
 ……邪魔しちゃったかな?
 しかし奇妙な光景だった。あの二人の実年齢がいくつかは分からないが、お店屋さんごっこに興じる程幼くは見えない。スマートホンで時間を確認すると、時間は既に午後八時。公園であんな遊びをするのにふさわしい時間には思えない。俺の視線に気付いて立ち去って行ったことと言い、人を避けてでもいたのだろうか? 
 そんなことを思っていたようだった。
 「おい根本」
 背後から声がかかった。振り向くと、高倉、吉沢、鈴木の三人の元野球部の先輩方が、雁首を揃えて憎々し気な視線で俺を睨みつけていた。
 俺が通報をしたことで、ものの見事に高校を退学になったお三方だった。元々、高偏差値の進学校は愚か、高等教育機関に通うのに相応しい知能の持ち主ではなかったのだろう。落ちぶれてつるんで悪さをしているという噂を保証するように、煙草を咥えたり耳に大きなピアスを付けたりと、如何にも不良的装いだった。
 「なんすか?」
 俺はニヤニヤとした笑みを浮かべながら先輩方を見詰め返した。
 高倉が俺の胸倉を掴んだ。
 「てめぇ。この間は良くも舐めた真似をしてくれたな」
 やはりそのことか。俺は肩を竦める。高校を中退する羽目になって自堕落にふらついていたところ、ことの原因となった俺を見かけたもので、報復する気になったという訳なのだろう。
 「手、どけてもらえます?」
 「すかしてんじゃねぇよ」
 余程他に言うことが思いつかないのだろう定型文丸出しの文句を俺は鼻で笑った。「すかしてんじゃないすよ。先輩方が一生懸命脅かして来るのがまるでガキみたいなんで、どうしてもこういう態度になるんすよ」
 「舐めてんじゃねぇぞ!」
 怒っている。俺が怒らせているのだが。
 「舐めるなって方が無理じゃないすか? せっかく入った高校をバカな真似で退学になるような小さな脳味噌しか入ってなくて、おまけに後輩一人絞めるのに三人がかりで寄ってたかるしかないような根性無し。野球の実力だって三流。あんたらが僕に勝ってるのって歳だけじゃないすか? そんなのにビビれって方がおかしいでしょ。笑わせますって」
 頬を殴られる。流石に全力で殴られただけあってまあまあの痛みだが、大騒ぎするほどではない。笑みを崩さずに、じっと見詰め返す。
 「殴ったな?」
 「だからなんだよ?」高倉は大きく拳を振りかぶる。「この野郎!」
 俺は抵抗をしない。殴り飛ばされて蹲る俺に追撃のヘナチョコキックを仕掛けてくる吉沢、鈴木を迎え撃つこともせず、甘んじて一発ずつ蹴られてやった。
 そこに追撃を仕掛けて来る高倉の拳を、俺は地面に座り込んだ状態から飛び起きて躱す。自分の顔に痣が出来ているのを確認すると、その場で背を向けて全力で逃げ出した。
 「待ちやがれ!」
 待たない。こいつらの百メートルのタイムは知っている。十一秒台前半の俺より二秒か三秒は劣る。相手にならない。
 喧嘩などバカのすることだ。下手に大怪我をさせれば俺が加害者になりかねない。こちらから手を出す等ナンセンス極まりない。
 しかしただ逃げるのも癇に障るし、その場を誤魔化すことにしかならない。だから挑発してまで一発ずつ殴る蹴るをさせてやったのだ。このまま最寄りの交番に駆け込んで被害を訴えてやる。そうすればあいつらは今度こそ完全に再起不能だ。
 「やめてください」
 声が聞えた。
 少しハスキーで瑞々しい高音だった。少女の物というよりは、変声前の少年を思わせるような。
 振り向くと、さっき見かけた学ランを着た少女が、逃げている俺を守るかのように両手を広げ、高倉たち三人の前に立ちはだかっていた。
 「あ? ちょっと……何?」
 呆然とする高倉。あまりのことに逃げていた俺も立ち止まり、その少女の方を向いた。
 「三人がかりで一人をいじめるのは良くありません。どんな理由があるかは知りませんが、これ以上追いかけるようならわたしが相手になります」
 ヒーロー見参、というに相応しい言動だった。
 良く見れば少女は女の子にしてはかなりしっかりした体つきをしていて、背も高倉たちに負けないくらいあった。多分百七十センチくらい。オレンジ色の髪を靡かせてファイティングポーズを取り、綺麗な顔を引き締めて高倉たちを睨むその様子には、なるほど口だけではなく本当にやってくれそうな気配がある。
 「どけよ、おまえ」高倉が言う。「痛い思いをしたいのか?」
 「痛い思いをするのはそちらです。来るなら来てください」
 「容赦しねぇぞ」
 相手が女子だから喧嘩は控える、とかそういう倫理観はないらしい。高倉は握った拳を無造作に少女の方に突き出して来る。
 少女の脚が高々と天へ振り上げられた。
 何をどう鍛えたらそんなに高く蹴れるのかと目を見張るかのような鋭いハイキックだった。高倉の元からそんなに綺麗じゃない顎の形が、少女のつま先が直撃して哀れな方向に捻じ曲がる。
 高倉はあっけなくその場を伸びた。強烈な一撃。必殺の威力。しかし大技程後の隙が大きいものだ。すかさず殺到する吉沢、鈴木が、少女の腕と脚をそれぞれ取った。
 「調子に乗んな女ぁ!」
 少女はそんな二人を振り払おうと暴れるが、しかし二対一を跳ね返す程の腕力はないようで、たちまち地面に押し倒されてしまう。この辺りは男女差があるのかもしれない。悪漢二人は、そのまま少女をやっつけようと拳を握りしめる。
 善意で行動する女の子に、寄ってたかって拳を向けるとは、あまりにも卑劣である。何をされても文句は言えない。
 俺は二人の顔面を続けざまに一発ずつ殴りつけた。バシン、バシンという鈍い音。
 高校一年生にして百四十キロを超える球を投げることの出来る俺の右腕は、碌に鍛えていない二人の暴漢をそれぞれ一撃で地面に倒れ伏させる。特に殴り方を工夫する必要はない。ただそれだけの腕力が俺にはあり、防御や回避ができるだけの反応がこいつらにはなかった。
 「大丈夫?」
 呆然とする少女に手を差し伸べる。少女は俺の手を握ることはせず、自分で立ち上がってから、助けられたことを恥じ入るように俯いてしまう。「ありがとうございます。あの、強いんですね」
 「君の方がすごいと思うよ。助けようとしてくれたことにはお礼を言うよ。ありがとう」
 「いえ、こちらこそ助けてもらって申し訳ありません」少女は顔を上げる。「あの、わたし冬村津波って言います。お兄さん、あんなに強いのに、何で逃げてたんですか?」
 「こちらから手を出すなんて、最後の最後、やむを得ない時を除いてやるべきじゃない。君も、盾になるなんて無茶なことはせずに、警察を呼んでくれればそれで良かった」
 そう言うと、津波と名乗った少女は眉を顰めて押し黙る。
 「津波くんっ」
 そう言って、さっき一緒にいた黒髪の少女が、汗だくになってこちらに走り寄って来た。
 「もう……もう……何してたの? 急に、急に、ぐす、いなくならないでよ。喧嘩なんて、ぐす、怖いよ」
 そう言って津波の前で泣き始めてしまう。津波は、焦った様子で懸命な申し開きを始めた。
 「ご、ごめんねお姉ちゃん。ちょっとこの人が不良に追いかけられていたから、見て見ぬふりとかはね、ダメだから。でもほったらかしたのは本当にごめん」
 黒髪の少女は津波より頭一つ以上は小さいが、『お姉ちゃん』と呼ばれている。実の姉妹なのか? この二人の関係は友人同士か、姉妹だとしても黒髪の方が妹だと思っていたので意外だった。
 「過剰防衛くらいにはなると思うから、こいつらを通報するかどうかは君に任せるよ」俺は三人の元先輩を指さして言う。「もう遅いし、こいつらが復活して襲ってくるかもしれないから、今日は君と、ええと、お姉さんで良いのかな? 二人を家まで送って行こうか?」
 そう言うと、津波は姉の方に視線をやる。黒髪の少女はふるふると首を横に振って、俺の視線から逃れるように下を向いた。
 「気持ちは嬉しいのですが、姉と二人で帰ることにします。家は近いので、大丈夫です」津波が言った。
 「分かった。じゃあ気を付けてね」
 念の為連絡先だけ交換しておいた。俺は姉妹と別れて、バットを取り戻す為に公園の方へと歩き始める。
 ポケットの中でスマートホンが鳴った。杏璃だ。電話に出る。
 「もしもし?」
 「ごめんネモ。あれから私、良く考えたんだけど……」
 それから杏璃は懺悔の口調で中立的な意見を並べ、しかしその上でこうも思うと先ほどのような持論を改めて強調し、最後に「でもね、私はこういう風に思うんだけれど、でもネモの正義感の強い性格も好きだし、やったこともね、ちょっと理解できるような気がして来たの。だから戻って来て」と締めくくった。
 「ありがとう。僕の為に色々考えてくれて本当に嬉しい。僕が野球部を見捨てたことで、悲しませてしまったのは悪かった」
 「うん……」
 通話を終える。
 俺は胸を撫で下ろしていた。

 〇

 我が彼女ながら、杏理はとても良い女だ。
 容姿の方も申し分ないが、輪をかけて素晴らしいのは中身の方だ。堂々としていて明朗で、協調性に富み周囲への心配りは細やか。野球部のマネージャーなんて利他的な活動に喜びを見出せるというだけでも、俺からすれば尊敬に値する。どんな環境に置かれてもくっきりとした存在感を持って振る舞い、最善に近い人間関係を築きあげ誰からも愛され、尊敬される。
 そんな彼女の将来の夢は小学校の教師だ。
 「『女の先生』っていうのにね、なりたいの。子供にとって、自分の生きている環境から逃れたり、環境を良化させたりすることは、とても難しいものでしょう? だから私は、子供がのびのびと勉強をしたり、優しい心や友情や勇気を学んだりするための、最善の環境を作り上げることの出来る先生になりたいの。それは、とても立派なことだと思うから」
 中学二年生の時、杏璃からその話を聞いて俺はとても素敵な女の子だと思った。自分の夢をしっかりと持っていること、その憧れをここまでしっかりと言葉に出来ること、どちらも素晴らしいことだ。
 何より、夢の内容が素晴らしい。俺はいじめや非行などの未熟さ故の愚行に強く嫌悪感を覚える性質で、そうした行いを見かけると後先考えず行動を起こしてしまうタイプだ。愚かな人間がその愚かさ故に周囲に迷惑をかけるという光景は、それが子供であっても見るに堪えない。
 杏理なら、そんな愚行を子供に犯させない立派な先生になるはずだ。そのように話すと、当時の杏璃は苦笑を滲ませた表情で
 「根本くんは、正義感が強いっていうより、間違いを犯した人に対する憎しみが、強すぎる人なんだねぇ」
 と答えた。なるほどそうかもしれない。
 顔を合わせた瞬間から気になっていた杏璃の存在が、確かに特別な物へと変わったのはその時だった。野球部でも頭角を現し始め、自信をつけ始めていた俺は杏璃に告白をし、嬉しいことに、了承してもらうことが出来た。
 そこからは今に至るまで、ずっと幸福な日々が続いている。
 「ネモとこうやってゆっくりデートするなんて、なんだかひさしぶりだよね」
 などと言いながら、俺達は近所のショッピングモールを歩いていた。
 真面目な野球少年だった俺にとって、恋人とじっくりデートをする時間というのは取りづらく、杏璃とここに来るのも久方ぶりだ。
 「そうだね。でも、これからは普通の高校生らしいことがたくさんできるよ」
 「ネモってさぁ、ひょっとしてなんだけど、センパイの悪行とか関係なく、野球続けるの嫌になってた? 高校だって、色んな強豪校から誘い来てたのに、全部断って私と同じところに来たし」
 「野球を辞めるつもりはなかったよ。ただ、濃すぎる体育会系の水には合わないと、中学の時点で気付いていてね。だから野球より勉強で高校を選んだんだ。杏璃もここに来るって言ってたから、ちょうど良かった」
 厳格な監督の元でしっかりとしごかれていた中学時代は、どの学年の生徒も目の前の野球をやることに精一杯で、イジメや非行になど走る余地もなかった。心身ともに鍛えられたと言って良かったが、全国大会で優秀な成績を残したことになんというか満足してしまい、内心程々に身体を動かす程度の野球を望んで今の高校に入学していた。そこで待っていた環境は下劣の一語だったが。
 「じゃあ、やっぱり先輩達のことを通報したのは、彼らの行為が許せなかったから?」
 「そうだね。自分にとって許せない物を見かけると、行動に出ないと気が済まないのは、良くない癖かもしれないね」
 「確かにね。厳しいって言うか、ちょっと偉ぶってるとこあるよ、ネモは」
 そう言われてドキリとする。厳しい、偉ぶってる、どちらも同じ人物を形容し得るものだが、しかしニュアンスは大きく異なる。
 「良い意味で厳しい人ならあの先輩達や野球部のことも見捨てずに、キツいことをしながらでも改革することを考えたと思う。でもネモったら全部ぶち壊しにしちゃうんだもの」
 「杏璃は厳しいなあ」
 「ネモを愛してるから言ってるの。だから厳しさでもあるけど、基本は優しさかな」
 「うーん。……でも言われてることは分かるな。心に刻んでおくよ」
 「あははっ。ネモったら真面目。でもあんま気にしないでね、私もちょっと、今のセリフは、ただ偉ぶっただけのところもあるから」
 そんなことを言い合っていた時だった。
 正面から、見覚えのある大小二人の人物が、こちらに向けて歩み寄って来ていた。鮮やかな藤色の髪に星型の髪飾りを付けた学ランの少女の、その手を握って周囲の視線に怯えるように俯いて歩く小柄な少女。
 津波が姉を連れてモールを歩いている。津波はこちらに気付くと一瞬明るい表情で俺と目を合わせ、次に杏璃の方に視線を合わせて目を丸くした。
 俺の隣で、杏璃が不自然に立ち止まり、押し黙る。
 二人の間で確かに視線が繋がるのを俺は感じる。途端、周囲の気温が下がったような錯覚すら覚えた。妙な空気。俺は杏璃の方を見て「どうしたの?」と声をかけようとしたが、それをかき消す程の大音量が津波の口から放たれた。
 「わたしのお姉ちゃんは! その人にいじめられて不登校になりました!」
 フロア中に響き渡るような大きな声だった。杏璃はますます顔を青くして、助けを求めるように周囲に視線をやる。その時何故か俺のことは見向きもしなかった。
 「わたしの! わたしのお姉ちゃんは! その人に! その人にいじめられて不登校になりました! 今も学校にいけていません! わたしのお姉ちゃんは!」
 眉根を寄せて強い憎悪を滲ませながら、津波は杏璃を指さして一歩ずつ近づいて来ている。杏璃は怯えた様子で背を向けると、俺の手を引いてその場を走り去った。
 津波は追いかけては来なかった。モールの外に飛び出し、息を切らして膝に手をやる杏璃を、俺は呆然となりながら見詰めている。杏璃は顔面蒼白で、汗だくで、怯えていた。
 「どうしたの?」
 「あの!」杏里は俺の方を見て、震えた声をかけて来る。「さ、さっきの、その、気にしないでね。その、ただの言いがかり、っていうか。性質の悪いストーカーみたいなもので」
 「あ、ああ……」
 俺は頷いて、それからとにかく杏璃を宥めようとして言葉をかけた。
 「あんなの信じたりはしないよ。それより、気分が悪そうだけれど、大丈夫? あんなことがあって、もうモールには入れないよね」
 「う、うん。……どうしよう」
 「買い物もできなくなっちゃったし、今日のはもう家でゆっくりした方が良い。気分も悪そうだしね。送るよ」
 「…………」
 杏理は胡乱な表情で俺を見詰めていたが、しかしデートを続ける気にはならなかったようで、俺の主張に従った。
 「あの、本当に信じてないんだよね?」
 家の前まで送り、別れ際に杏璃は念を押すようにそう言った。
 「僕は君のことを三年以上見てきているからね。あんなことを言われたって、信じられる訳がないじゃないか」
 「うん……」
 「それじゃあ僕はもう行くよ。悪いけど、僕はちょっと急用の連絡が入って、そっちに行かなくちゃいけなくなった。今日は土曜日だから、お家にご両親がいるはずだし、大丈夫だよね?」
 そう言って俺は杏璃の家に背を向けた。

 〇

 嘘は吐いていない。確かに俺のスマートホンには急用の連絡があった。
 ショッピングモール内のフードコートが待ち合わせ場所だった。四人掛けの机の一片に、二人の少女が並んで俺のことを待ち受けている。津波と、その姉。
 「言われた通り来たよ」
 そう言って、俺は姉妹の向かい側に座る。
 「随分と酷いことを俺の恋人に言ったね。ちゃんとした申し開きをしてもらおうか」
 「……本当です」津波は言った。「あんな人の恋人なんですか、根本さん。すぐに別れてください」
 「ええと、お姉さん、だよね?」俺は津波のことは無視して、隣に座る背の低い少女の方に視線をやった。「お名前は? そう言えば聞いてなかったよね?」
 俺の視線や声に怯えたように、少女は真っ白な顔をじっと俯かせていた。見た目で判断してしまうなら、この生白い肌も、無造作に伸びた髪も、他人に怯え切ったような仕草も、いじめられて不登校だというプロフィールに相応しく思える。
 しかしそれでも、俺は津波の言うことなど微塵も信じていない。
 信じていないからこそ、確かめに来たのだ。そして非礼を杏璃に詫びさせる。そのつもりだった。
 「……ミライ」
 少女は声を絞り出す。何度か聞いた声だけれど、綺麗な声だなと改めて思った。
 「冬村ミライ、です」
 「お姉ちゃん。あれ見せて」
 津波が促すと、ミライは少し気が乗らなさそうな表情で……しかし妹の言うことに反することはなく、唯々諾々と言った様子で、自分のワンピースを大きくずらして肩を露出させた。
 真っ白な肌に、鮮やかなピンク色の大きな蚯蚓腫れが出来ている。
 見ていて痛々しくなるほどくっきりと大きな、刃物か何かで切り付けられたような傷跡だ。事故であれ事件であれ、何か壮絶なことが起きたことを想像させるような、そんな傷だった。
 「これ」津波が言う。「三浦杏璃に付けられた傷です。……その証拠もあります」

 〇

 映像で見ても分かるくらいに、その体育倉庫は埃っぽい。
 掃除が行き届いていないのだ。床や穴のあちこちに見て分かるほどの白い埃がこびり付いていて、閉じているであろう窓には年季の入ったカーテンがかかっている。咳を催しそうだ。
 そこは少女達の縄張りだった。髪を鮮やかに脱色し、小学生離れしたはっきりとした化粧で顔を整えた少女達が、それぞれ思い思いの場所に気だるげに座り込んでいる。
 小学六年生だという少女達数人の群れの中に、新たな人物が二人加わる。その内の一人は今とそう変わらぬ体格と人相のミライ、もう一人は、今よりもいくらか幼く、今よりも荒んだ顔をした、杏璃だった。
 杏理はミライの腕を強引に倉庫の中央に引っ張り込むと、捕まえた獲物を仲間達に捧げるかのような様子で群れの中へと突き飛ばした。怯え切った様子のミライの方へ、幼い獣の群れが殺到する。
 少女達はミライの服を力づくで脱がして遊んでいる。カイボウと呼ばれる品性下劣なイジメだ。彼女の幼い肌が露わになりそうになるその寸前で、津波が映像を止めた。
 「この後しばらくして、あなたの恋人がお姉ちゃんの肩をカッターナイフで切り裂くシーンも録画出来ているんですが、そこまで見ますか?」
 「いいや。必要ない」俺は言った。
 どう考えても、女性が裸にされるシーンなど見るべきではないのだ。それが小学生当時なら猶更だ。
 「僕は警察じゃないからね、見て良いのはここまでだろう。ここまででも、君の言い分が正しいということは十分に理解できる」
 「分かっていただけましたか? あなたの恋人は、卑劣ないじめっ子……というか、傷害事件の加害者なんです」
 俺は頭を下げた。「君の言うことは本当だったらしい。疑って申し訳なかった」
 「いいえ……分かってもらえたら構いません」
 「この映像はどのようにして撮影したの?」
 「私が協力しました。その時は私も学校を良く休んでいたので、いつもいじめが行われているという倉庫にあらかじめ忍び込んでおいたんです。当時の私は今のように強くはなくて、だから、こんな方法でしか力になれませんでした」
 「いや立派だ。これだけの証拠があれば、学校側もそれなりの対応は余儀なくされただろう」
 「納得していません!」津波は身を乗り出して吠えた。
 フードコートが騒然となる。視線が俺達のテーブルへ集中する。
 「……津波くん」
 姉がそう言うと、津波は「ごめん」と呟いて席に着いた。
 「いや分かるよ。どんな対応があったとしても、それは小学六年生相手の対応だ。この映像の行為を刑事的に裁く法律はどこにも存在していないし、公立の小学校には退学もないからね」
 叱責と謝罪の場は設けられただろうが、その後ものうのうと彼女らが学校に通い続けただろうことは、容易に想像が付く。
 おそらく、ほとんど何も変わらなかったのだ。それは、ミライが結局学校に通えなくなったという事実からも、察することが出来る。決死の覚悟でこれ程確かな証拠を手に入れておいて、そんな結果に終わったことに、納得しろと言う方が無理だろう。
 「これを僕に見せたのはどうして? あんな風に人前で大声を出して、注目を集めてまで僕にこのことを知らせようとしたのは何故?」
 「…………あんな悪魔みたいな女が、根本さんみたいな恰好良い彼氏を連れて、幸せそうに生きているのが許せなかった。だから、嫌がらせをしてやろうって……」
 気持ちだけは分かるが、しかしこの少女の私刑を肯定する訳ではない。何より、それは彼女らの為にならない。人前で誰かの悪評を大声で流布するような行いは、やり過ぎれば時に犯罪に結びつく。
 「杏理のしたことを僕に伝えるにしても、静かにその動画を見せてくれればそれで良かった。あんな嫌がらせはやめた方が良い」俺は言った。「これは一般論だ。報復行為があまり過激になって来ると、君自身が加害者になることも考えられる。その学ランは近所の中学校のものだけれど、まさかそれで通学しているのかな?」
 そう言うと、津波は一瞬首を傾げて、それから何か理解した様子で苦笑して、言った。
 「これで通学しています」
 「そうなのか? 女子なら女子の制服を着ることを求められそうなものだけれど……まさか」
 「ええ。実はその」津波は申し訳なさそうに言った。「男です、自分」
 ……生物的には、と津波は続けた。
 「LGBTの……どれだったかな? ド忘れしてしまって」
 「Tです。トランスジェンダー。と言ってもわたし自身自分がどっちかなんて曖昧なんです。男の恰好をしているのが嫌っていうだけの、半分ワガママみたいなもんなんですよね。小さい頃からお姉ちゃんとばっかり遊んでたから、遊びとかオモチャとか全部女の子ので育ってきちゃってて。服とか髪とか恰好も、女の子の方が可愛いし、だから……」
 「そういう人もいると思うよ。でもちゃんと学ランを着ているんだね」
 「流石にこれは学校側にとっての最後の砦っていうか、譲れない一線みたいで。学ラン来て他は女子の恰好っていうのが両方にとっての妥協点みたいになってます」
 津波は鮮やかなオレンジ色の髪を伸ばして装飾付きの髪留めまで付けている。顔立ちが整っている分そうしていると女の子にしか見えない。それも結構な美少女だ。学ランなど一種のコスプレ的な趣味と捉えられうる程に。
 「でもだったら中学生なんでしょ? なら、報復がヒートアップする内に、いつか君の進路に影響しかねない事態になるかもしれない。君が杏璃を許す必要はないけれど、大声で悪評を流布するような復讐は、君やお姉さんを不幸にする」
 津波は眉根を寄せてこちらを見詰める。
 ……根本さんに、私達の何が分かるんですか?
 そんな言葉を胸に抱いている。
 「……分かるよ」俺は答えた。「ちょっと待っててね」
 そう言って、俺はポケットからスマートホンを取り出す。そして津波たちに見えるように机に置いて操作をしながら、ハンズフリー状態にして杏璃の電話番号を呼び出した。
 「もしもし? ネモ?」
 杏理の声がスマホから聞こえる。顔を見合わせる姉弟の前で、俺は杏璃にこう告げた。
 「僕達、別れよう」

 〇

 2

 〇

 小学校六年生のある日、ぼくはクラスメイト達の前で武一郎を殺した。
 武一郎(たけいちろう)の首にいつもの首輪はなく、代わりに黒いロープが巻き付けられて、木の枝から釣り上げられていた。ぼくはそんな武一郎の腹を手渡されたナイフで突き刺し、引き裂き、中の内臓を一つずつ取り除かなければならなかった。
 武一郎の腹は柔らかかった。しかし暴れ続ける犬の身体を抑え込み、扱ったこともない刃物で切り裂くことは容易ではなかった。しかしやめる訳にはいかない。やめることは出来ないのだ。
 川端がぼくの背後で、了承を浮かべながら見守っている。
 ぼくがほんの一秒でもこの行為をやめれば、同級生の川端はぼくのことを恫喝し、仲間と共に殴る蹴るの暴行を加えるだろう。鼻血を出しても、涙を流しても、気を失っても決して終わることのない暴力に、ぼくはすっかり怯え切ってしまっていた。
 だから、飼い犬を連れて来いと言われた時も、ぼくは従った。しかしまさか、ナイフを渡されて、腹を切り裂いて内臓を引き摺りだして殺せなどと命じられるとは、そこまで残酷だとは、とても予想できなかった。
 もちろん、許してもらえるように懇願はした。
 しかしそれは無駄だった。激しい恫喝と容赦のない暴力にぼくは屈服した。冷静に考えれば、こんなことをさせては川端達もただでは済まないのだから、説得のしようもあったかもしれない。しかし恐怖に屈することに親しみ切ってしまった情けないぼくは、川端達を説き伏せようという意思を、何発目かも分からない蹴りを丸まった背中に浴びた時点で失ってしまっていた。
 暴れ続ける武一郎の腹にナイフを深く突き刺し、傷跡を少しずつ広げていくと、武一郎は大きな叫び声をあげながら徐々に衰弱して動かなくなっていく。
 そうしてくたばった武一郎の姿を川端達に見せ、ぼくは媚びるような笑顔さえ浮かべていた。

 〇

 「文一郎(ふみいちろう)」
 加賀谷の声がした。
 武一郎の墓の前で手を合わせていた俺はそこで黙祷をやめた。目を開けると鉄柵で囲われた大きな沼がまず目に入る。小学六年生のあの日、俺はこの沼の中に捨てられた武一郎の遺骸を泣きじゃくりながら引っ張り出し、そしてスコップで掘った穴に埋めて墓標代わりの岩を立てのだ。
 ただ一人、武一郎を殺す俺を見に来た同級生の中に、俺に同情して墓を作るのを手伝ってくれた男がいた。それがこの加賀谷了である。
 小学校時代の同級生と一緒になるのを避けた俺が校区外の中学に進学してからも、加賀谷とだけは連絡は取り続けた。高校生になって同じ高校の同じ野球部に在籍することになり、クラスも同じだったこともあって、今では一番の友人と言って良い関係にある。
 「良くここが分かったな」
 そう言って俺は加賀谷の方に振り向く。加賀谷は中肉中背で引き締まった体つきで、他の髪形にするのが面倒で幼いころから継続している坊ちゃん刈で、爽やかさや派手さはないが顔立ち自体は整っている。
 「おまえが毎日部活帰りに墓参りに来ていることは知ってる」
 「へえ。こんな山の中なのに、良く知ってたね」
 この沼は山を分け入って行かないと辿り着けない。とは言え程良く外灯が設置されているので、山中と言えども明るく、俺はここまでを日課の自主トレのランニングコースに設定していた。
 「邪魔しちゃ悪いと思って声かけなかっただけだ」
 「それは気遣いに感謝するよ。でも、それならどうして話しかけて来たのかな?」
 「杏璃をフッたろ?」
 やはりそれかという気持ちが強かった。
 「それが?」
 こいつは杏璃の血の繋がらない従弟でもある。加賀谷の義父が杏璃の叔父にあたるのだ。そして加賀谷は俺の親友でもあるので、なるほど杏璃からメッセンジャーを頼まれるのも、納得の立場であると言えた。
 「杏璃と、それから山中が麓の喫茶店でおまえを待っている。どうして別れなければならないのか、その話をしたいんだってよ」
 「その席に付くかどうかは俺次第だってことは分かるよな?」俺は肩を竦める。
 「おまえが杏璃を好きでなくなったのならそれは仕方のないことだ。好きじゃない女と付き合い続ける必要はどこにもねぇからな。しかし惚れさせた責任を取るのなら、別れる理由をあいつに納得させてやってもバチは当たらねぇんじゃねぇか?」
 俺は舌打ちをする。
 加賀谷はむっとする。「おれだって好きでこんな役やってんじゃねぇぞこの根暗」
 「根暗な奴を根暗という言葉で言い表すのはやめろ。差別的な、あまり良くない言葉だ」
 「黙れ根暗。おれは杏璃に頼まれて橋渡しをしているのであって、おまえに断られるのならともかく、舌打ちされる謂れはねぇ」
 「そりゃそうかもな」俺は溜息を吐く。「悪かったよ。俺がその席とやらに付けばおまえの面目が立つって言うなら、いいさ、付き合ってやる」
 そう言って、俺は加賀谷と共に山を降りる。
 「ここだ」
 加賀谷が指差す喫茶店に入る。なるほど、四人がけのテーブルの一辺に、杏璃と山中が腰かけて俺を待ち受けていた。
 もう一辺に俺と加賀谷が腰かけた。目の前に杏璃がいる。目を赤くしていて、今まで山中に慰められていた様子だ。
 「根本くん?」山中が非難がましい視線をこちらに向ける。「なんで杏璃と分かれるねん。別れるにしても、電話で一方的に告げてそっから一切連絡に応じひんのなんて、やり方がちょっと酷すぎると思うわ」
 山中美弥子は光沢の強いショートボブの髪形に瓶底眼鏡をかけた、丸顔の女子である。背はあまり高くなく、トランジェスタグラマーな体格の童顔の女子だった。
 小学生の頃からの杏璃の親友という話であり、証拠として例の動画にも山中らしき少女が出演していたのが見えた。……というより、俺の知る杏璃の友人のかなりの割合が、あの体育倉庫に、あのいじめの空間に映っていたのだった。
 「訳は話したと思う。申し開きも求めたはずだ。その上で杏璃が傷害事件の加害者だということは揺るぎないようだったから、交際を解消させてもらうことにしたんだ。それっきり連絡を絶ったのは、分かれた恋人同士には珍しいことじゃないし、面倒な後腐れを軽減する効果的な手段の一つだと……」
 「杏璃は罰を受けた! 反省しとる!」
 山中は机を叩いて語る。
 「冬村ミライの弟が動画を撮影して先生に知らせたんや。それでウチら全員親ごと呼び出されて叱られたし、杏璃は私立中学の推薦を蹴られることになった。もちろんそれでウチらも自分らのしたことを良く反省したし、杏璃は中でも一番過ちを悔いとったように思うで」
 「それはおれも認める」加賀谷が諭すような口調で言う。「確かに人は過去を背負っていくものだし、悪いことをしたらその風評が長年付きまとうことも罰の一つだと思う。だが文一郎、おまえは中学生になってからの杏璃を見て来たはずじゃねぇか? こいつはもう二度といじめなんかやらねぇよ。過去からは逃れられないが、人は変わるもんだろう?」
 こうやって二人もの知人に懸命に擁護されていることこそが、今の杏璃の人柄を示している。杏璃は誰に対しても優しく親切で、それでいて自分の気持ちを正直に相手に伝え誠実に向き合うことが出来る。だから彼女を深く慕う人は数多くいる。立派な人物だ。
 だがしかし、今それは重要ではない。
 「確かに四年もあれば人は変わる。同じ人物でも小学六年生と高校一年生ではまったくの別人だ。人間は時に過ちを犯すが、だからと言って幸せになる権利が失われる訳じゃない。加害者にならばどんな仕打ちをしても良いという考えは浅はかだと僕も思う」
 「だったら……」
 「しかし、恋人でい続けることができるかというと、また話が違ってくる」
 俺はそう言って、杏璃の方に視線をやった。
 「僕は君とは真剣に交際をしていたつもりだ。それこそ、大人になってからのことも見据えてね。遊びじゃないんだ。だからこそ、将来君と共に生きて行く時に、君のかつての過ちについて考え、葛藤しないでいられるかというと、その自信がなかったということなんだよ」
 もしこの女の子と将来一緒になるとして、かつてミライを不登校に追い込んだこの子に、俺の子供を産み育てて欲しいとは思えない。夢を叶えて教師になったこの子が自分の生徒に優しさや倫理を説いているところを、白い眼で見ずにいられるとは思えない。
 「…………一緒に償うとか、そういうことを言ってはくれないの?」
 杏理は涙に濡れた声で言った。
 「そう言ってあげられたらどれだけ良かったことかと思うよ」
 だがしかし、どんなに償ったって、どんなに頭を垂れたところで、許されないことというのは存在する。
 武一郎は……俺の幼い時からの親友で、兄弟のようだったあの犬は、二度と戻らない。俺が武一郎と過ごすはずだった長く幸福な時間は全て失われ、俺の両手は真っ黒な血で汚れ、武一郎の愛らしい命はあまりにも不幸な終焉が訪れた。
 無論どんな理由があろうとも殺したのは俺だ。武一郎も俺を許しはしないだろうし、武一郎の復讐を掲げる権利は俺にはない。武一郎の死を背負うのは俺だ。俺は奴らに何もすることはないし、そもそも何をしたところで奪われたものが一つでも戻って来ることはありえない。
 しかし……何があっても奴らを許すことだけはない。それだけは、決して、永遠にありうることではないのだ。
 「……もう帰って良いかな?」
 そう言って、俺は席を立つ。
 「関係を元通りにすることがあり得ない以上、こうして僕と面と向かって話をするということが、既に杏璃を傷付けているんだ。後のことは君達に任せる、良く慰めてやって欲しい。それじゃあ」
 「待って!」
 杏理は激しい声で言って俺を引き留めた。
 「私、教師になって子供達がいじめに怯えることなく学ぶことの出来る環境を作ってあげることが、ミライさん達に対する償いになると思っていた。けれど、根本くんの話を聞いて、それは違うと考え直した」
 「……三浦さんの教師になると言う夢は否定しないよ。けど、そうだね、そのこととミライさん達への償いは別けて考えるべきだというのは、君の言う通りだろうね」
 「私、一人でミライさん達に償うよ。ちゃんと償って、何度も謝って、引きこもってるっていうミライさんがちゃんと前を向いて幸せに生きられるよう、命を賭ける」
 何の意味もない、と思った。ミライや津波がそれを受け付けるとは思えない。増してそれを行おうとする杏璃の動機は、純粋な誠意とは言い難いものなのだ。
 「それでもし私が許されることがあったなら、その時は、私、根本くんに改めて交際を申し込ませて欲しいの。よりを戻すかどうか考えるのは、その時になってからで良い」
 「それは別に構わないよ」無理だからね。「ただね、僕はそこまでするほどの男じゃないよ。君は早いところ、それに気が付くべきだ」
 今度こそさようなら。そう言って、俺は喫茶店を後にした。

 〇

 暇だった。野球をやっていた頃は朝六時半から八時半までの朝練と午後四時から六時半までの午後練とそこから一時間半の自主練をしていたのだが、その分の時間がぽっかり空いてしまっていた。
 勉強をするのが一番ではあるのだが、東大を目指すのでもないのに六時間もはやっていられない。簡単に遊び相手を捕まえられる程友達も多くはなく、ガールフレンドも失ったところだ。かと言って、テレビゲームばかりをするのも間抜け過ぎる。
 そんな訳で、野球はすっぱりやめたはずだというのに、俺は愛用のバットを持ってバッティングセンターに向かってしまっている。
 入口をくぐると、いくつかのマシンが稼働する音が耳朶に響く。ボールが飛ぶ音、バットにぶつかる音、壁や天井に撥ねる音。慣れ親しんだその音に、心地良い高揚と、安心感が訪れる。
 そんな音を発しているゲージの一つに、学生服を着た髪の長い人物を見付けた。
 津波だった。姉のミライに後ろから見詰められながら、気持ちよさそうにバットを振っている。そのバットは飛んでくるボールに触れてはいるが、しかし百四十キロのボールを正確にミートは出来ていないようで、あべこべな方向にただ弾くだけになることが多かった。
 「すごいすごい。津波くんすごい」
 しかし、後ろで見ているミライに、それが単なるファールチップでしかないことは分からないようだった。弟がボールを弾く度に手を叩いてきゃっきゃと喜んでいる。
 一通りボールを打ち返し終えて、津波は背後を振り返る。
 「お姉ちゃんはやらないの?」
 「やらない」
 「でもお姉ちゃんがここが良いって」
 「津波くんの見てるのが好き」
 「お姉ちゃん何でもそうだよねぇ。小さい頃お母さんとデパートとか言ったらさぁ、お母さんが買いものしてる間おもちゃ屋さん行きたいっていうから何するかと思ったら、体験コーナーで他の子がゲーム遊んでるのただ眺めてるんだもの。どんなに空いてても、自分では絶対やらないんだもんねぇ」
 「だって怖いんだもん」
 「別に怖いゲームじゃないでしょ」
 「負けたら嫌だもの。それが怖いのー」
 ふぅんと首を傾げた津波が、ふとこちらに気付いて振り向いた。「根本さん」
 「こんにちは」
 俺は笑顔を浮かべる。ふとミライの方を見ると、目を合わせることはなくともぺこりと小さく頭を下げて来た。無視しないだけ馴れてくれた方だろうか? 人見知りな幼い子供のような態度だが、これでこの子は俺と同い歳なのだった。
 「百四十キロなんて良くやるね」
 「お姉ちゃんがそれを見たいっていうんです。無茶ですよね」
 「でも目はすごく良いね。スイングを固めればすぐに打てるようになるよ」センスのある未経験者、という印象だった。「高校から野球、やってみたら?」
 「いやぁ、球技はちょっと」津波は苦笑する。「チームで何かやるみたいなの、向いてないと思うんです。ここに来たのも、お姉ちゃんが出かけるならここ、っていうもんだから」
 「お姉さん、結構外出られてるんだ」
 「一人だとまだ、人前に出るのは怖いみたいですけどね。だから、わたしが言って連れ出してあげないと、ずっと部屋で一人で」なんて一瞬暗い顔になりかけて、すぐに津波は笑顔を取り繕う。「根本さんは、ここには良く来るんですか?」
 「良く来るよ。以前は、結構振り込んでいたんだよ」
 そう言って俺は姉弟の見ている前でゲージの中に入り、コインを入れる。間もなく、百四十キロのボールがやって来た。
 こうして振り込んでいるとまるでバットが己の手足であるかのようだ。自分のスイングの軌道と速度が理解できていれば、真っすぐ飛んでくるだけのボールを打ち返すのは容易である。俺は全球を正確にミートする。
 姉弟は感嘆の声を上げている。俺は自分のバッティング技術を見せ付けられて気分が良かった。
 思えば杏璃とも時々ここに来たものだ。ついつい本気で練習を始めてしまい、杏璃のことをほったらかしにしてしまうことも多かった。怒らせはしなかったけれど、少し寂しそうな顔をさせてしまっていたんだっけ。
 「根本さん、すごく上手ですね。野球部、入ってるんですか?」
 津波が羨望の眼差しと共に言う。
 「以前まではね。今は、野球部自体がなくなっちゃって」
 「え? それはまた、どうして?」
 俺は野球部が活動停止するまでの話をする。
 「杏璃……三浦さんも実は野球部のマネージャーだったんだ。だから、偉く怒られたもんだよ。未成年飲酒は悪いけれど、何も通報までする必要はないんじゃないか、ってね」
 「でもそれは、根本さんが絶対に正しいです」
 津波ならきっとそう言うだろうと思った。
 「そう、言えば」
 漏らすような声が聞えた。ミライが床を見詰めながら声を発していたのだ。
 「三浦さんから、この間、手紙が、来ました、よ」
 それが自分に向けられた言葉だということに気付くのに数秒を要した。こちらを見もせずに呟くように言うんだから、我ながら無理もないと思う。しかし弟が彼女の言葉に反応しないということはないだろうし、俺に話しているので間違いなさそうだ。
 「昔、酷いことして、ごめんなさい、って。どうすれば、償えますか、って」
 「お姉ちゃん」津波が眉を顰める。「わざわざ読んでやることないって言ったじゃん、そんなの。捨てようよ。根本さんもそう思いますよね?」
 「僕もそう思うけど、決めるのはお姉さんだから」俺は宥めるように言う。
 「あの人達が今何を思っているのかとかは、ちょっとね、興味はあったから。意外でもあったしね、謝ってくれるなんて。それはやっぱりさ、うん、ちょっと、ちょっとはね、そのね、嬉しいからね」
 これは弟に言っているんだろう。ミライは自分の身体を抱え込むような姿勢でぶつぶつと漏らす。
 「喜ぶことなんてないよ!」
 津波は地団太でも踏みそうにして言う。
 「自分がすっきりしたいだけじゃん? 今更罪悪感にかられたんだとしてもさ? 手紙送り付けるくらいで許されて、それですっきりできるって思ってんなら、そんなの酷い傲慢じゃん!」
 津波は続けて何か言おうとして、しかしミライが目を赤くしているのを見て唸り声をあげた。どうやら津波の剣幕に怯えているらしかった。人前でなくとも、姉を泣かすことになるのはこの少年にとって本位ではないらしく、口を噤んで目を伏せてしまう。
 「他に何が書いてあったの?」
 俺は尋ねる。ミライは、そこでようやく俺の方を向いてくれて
 「『当時は幼くて、自分達はちゃんとした裁きを受けることが出来ませんでした。そのことが私の中でずっとわだかまっています。きっとあなたも納得できていないことでしょう。今からでも償いを考えさせてください。他の加害者たちにも、どんな方法を使っても罪を償わせます』だって」
 余程読み返したのか、すらすらとそう諳んじて見せてから、自分の両手に顔を埋めた。
 「君はどう思う?」俺は尋ねる。
 「あの人達が償うとか、あたしが許すとかいうのは、三浦さんにとっては大切なんだとしても、あたしにとっては本来あまり意味のないことなんだと思う。どっちにしろ、あたしは一人で立ち直らなくちゃいけないし、あたしが無為にした時間の責任はあたしにしか取れないからね」
 「そうだね。君はとても正しいことを言っている。でも、だからと言って、それと彼女を憎むことをやめられるかどうかというのは、また別だよね? それはできそう?」
 ミライは顔を上げて、俺の方をどこか、理解者を見付けたような顔で見詰めて、言った。
 「ううん。それは無理」ミライはどこか儚げに笑う。「でもそれは、それだけのことをされたっていう意味じゃなくって。あの人達のことを憎んでると、今のあたしの状態が、あたしの所為じゃないみたいに思えて、楽だからなんだ。あの人達を心から許すっていうのは、そういう慰みが全部無くなって、今の自分の状態に心から向き合わなくちゃいけないってことなんだけれど、そう言う勇気はね、あたし、まだやっぱり、ないから」
 そうなのだ。
 この子は謝罪されたことを無邪気に喜べたとしても、心から許そうとは思っていないし、杏璃達を憎んでいたいのだ。憎むことで、被害者であることで、引きこもり続ける自分を正当化し、それにより苦しみに満ちた外界へ飛び出すことを拒み続けているのだ。
 だが部屋で膝を抱え続ける膿んだ時間は、自らが孕んだ屈折や欺瞞を、客観的に理解させもしたのだろう。今のこの子は、怯える被害者として外界を避け続ける気持ちと、そんな自分を叱咤し、どうにかしようという気持ちが、同居している状態にある。小さなきっかけ一つで、どちらにも転びうるだろう。
 「……どんな方法を使っても、罪を償わせる、か」
 俺は呟く。
 「いったい何をする気なんだろう?」
 やると宣言したことは実行するのが杏璃だ。きっと何か考えを起こすはずだ。
 それが今、破滅と再生の危ういバランスの中で膝を抱えているミライにとって、どちらのトリガーを引くことになるのか、俺には判断が付かなかった。

 〇

 津波達と分かれ、俺はふらふらと街を彷徨っていた。
 膿んだ時間を持て余すというなら、今の俺もまたそうした状態にある。野球をしなくなっただけで、こうも空虚な状況に陥るとは思っても見なかった。自分で思っていたよりも、俺にとって自分からぶち壊しにした球児としての日々は大切だったのだと、そう思い知らされる。
 弱者としていじめ抜かれた小学生時代から変わろうと思って、中学校に進学して練習が厳しいことで有名なシニアリーグに所属したのが、野球を始めたきっかけだった。
 そこには想像以上に過酷な練習と、繰り返される監督の叱咤があった。しかしそれらは限りなく公平で、また筋が通ってもいて、全てが勝利という一つの目的に驚く程ハッキリと繋がっていたのだ。純粋だった。
 誰もが懸命に努力していた。努力とは個人の技術の向上に留まらず、優しさや正義への追及も含まれていた。それはチームの勝利にも結びつく。もちろん、弱い者を蔑み、足蹴にし、自らの利益と快楽を得ようとする吐き気を催すクズなどは、その神聖な空間に存在しようもない。監督がそれをさせなかった。言葉やただずまいに常に威厳を漲らせ、精神的な卑屈さを見せる人間には容赦のない叱咤を浴びせかけた。どれだけ苦しくとも、つらくとも、そこは俺が忌避していた昔の教室とは全く異なっていた。
 そこで俺は変わった。変わることが出来た。俺には投手の適正があり、それを見抜いた監督は俺を叱咤し、練習をさせ試合に出させ、自信を付けさせた。やがて俺は、全国大会のマウンドで背番号1を付け、大歓声の中で白銀の太陽に照らされていた。そうして俺は、背筋を伸ばして正しい努力を続ければ、いくらでも望む自分になれるのだということを知った。もう、泣き虫でも、弱者でもない。
 強くなれる、強くなれるのだ。
 俺は強くなった。自分に自信が付くことで受験勉強にも身が入り、県下で一番の進学校に進むことも出来た。背もかなり伸びたし、誰に対しても堂々と振る舞えるようになったし、ルックスもまあまあイケてると思う。
 そんな俺だから、野球をやめて空いた分の時間だって、他にもっと有益な使い方を見出せるはずなのだ。しかしどうしてか、いつも気が付けばバットを握り、ランニングに出かけ、壁に向かってボールを投げ込んでしまっている。
 無聊だった。

 〇

 いつもの山道を走り込んでいると、ポケットの中でスマートホンが鳴り響いた。
 電話に出る。「もしもし? 加賀谷?」
 「ああそうだ、おれだ」
 「何の用だ」
 「同窓会が開かれるそうだ。おまえも……」
 「断る」
 「……参加しないか? ……って早いな! まだ何の同窓会かも言っていないぞ?」
 「おまえが誘って来るってことは、小学校の同窓会だろ? おまえとは中学もシニアのチームも別だったし、高校にいる内から高校の同窓会を開く奴はいない」
 「なんで小学校の同窓会に出たがらねぇんだ?」
 「バカにするつもりなら切るぞ?」
 「あ? なんだよそれ。おまえ何訳の分かんねぇこと……」
 通話を切った。
 ランニングに戻る。すぐに電話がかかって来る。小さな峠を一つ越えるまで鳴りっぱなしだったので、俺は舌打ちして再び電話に出た。
 「なんだよ、しつこいな」
 「なあ文一郎? おまえおれに甘え過ぎなんじゃねぇのか?」
 「あ? 何言ってんだ。カーチャンにだってたまにしか甘えねーよ俺は」
 「いーや甘ったれてるね。電話をいきなりブッチしてそれで許されると思ってんのは、他人に甘えてっからだ」
 「なるほど。よしんばそうだとして、何? おまえはそれを言う為に電話をかけて来た訳?」
 「おまえ他の奴には今みたいな態度取らねぇだろ。『僕』とか言っちゃってよ。気が置けないってのと不躾なのは別だろ? もうちょっとこう、親しき仲にも礼儀ありみたいなとこおまえはちゃんと意識しておれに」
 「分かったから本題に入れ」
 「同窓会出ろ」
 「ごめんだね」
 「だからなんで?」
 「小学生の頃俺がどんなだったか知ってるだろおまえ。当時の連中とは顔も合わせたくねぇ。同じ高校にも何人か小学校の頃の同級生いるけど、おまえ以外基本的に無視してるだろ、俺」
 「乗り越えろよ」
 「はあ?」俺は心底から首を傾げた。「意味分かんねぇこと抜かすなよ。全部水に流して同窓会で楽しく飯食うのが、『乗り越える』ってことなのか? それは違ぇだろ。俺はとっくに乗り越えて、充実した今を生きている」
 「確かにそうだろう。文一郎、おまえは昔とは違うよ。ヒョロついてた昔と違って身体だってでかい。勉強では地域一番の進学校でトップクラスの成績、運動では全国大会ベストエイトチームのエース。カタログスペックだけ見りゃ文武両道で大したもんだ。だったら『今のおまえ』で川端とか椎野とかに会って、堂々と振る舞って連中を見返してやれば良い」
 「意味ねぇよそんなこと。そうでなくとも、ただ会うだけで見返せる程、俺は偉くなっちゃいない」
 「昔のままだと思われてるよりずっと良いだろ。ちょっとは溜飲下げたら色々と考え方も変わるって。気付いてるか? おまえ、昔から根暗な奴だけど、中学三年間で余計に偏執型の性格になってるんだぜ? そりゃアタマは良いから失敗した人生は送らねぇだろうけど、でも今のままじゃおれ以外にちゃんとした友達は作れねぇで終わるぞ? 杏理のことだってそうだ。その意固地を治してもう一度あいつと向き合えよ」
 「やけにずけずけと説教するじゃねぇか。おまえは俺のカーチャンか」そう切り返し、俺は一つ溜息を吐いた。「出る気はない。杏璃とはもう終わった」
 「杏璃の奴、冬村姉弟の家に手紙を送ったり、親と会って謝ったりしてるそうじゃねぇか」
 「知っている。無意味なことだ」
 「当時いじめに関わってた連中と会って、一緒に謝り行く計画も立てているそうだ。と言ってもほとんどの奴は乗り気じゃないみたいで、杏璃は腹を立てているんだがな」
 傲慢な奴だ。
 「『何をしてでも償わせる』って手紙に書いてたみたいだな。いったいどうするつもりなんだか」俺は肩を竦める。「結局俺とヨリ戻したいだけだろ? 不純なんだよ、動機がよ」
 「おまえその動機云々の話、冬村姉弟にしたか?」
 「ヨリ戻したがってる云々は言ってない。それ以前の問題だからな」
 「なら良い。冬村姉弟が本当に杏璃を許したらどうするつもりなんだ?」
 「ありえない仮定の話はしない。体育倉庫に押し込めて集団で服を脱がして刃物でケガさせるような真似をしておいて、許されようだなんて傲慢極まる」
 「だから、そうやって自分にとっての正義だけを振りかざすところが……」
 「すまんが切らせてくれ」俺は声を低くした。「胸糞が悪くなって来た。もうすぐ武一郎の墓の前なんだ。こんな気持ちであいつに会うのは嫌なんだよ」
 数秒の沈黙があって、「悪かったな」と言って向こうから電話が切れた。

 〇

 気が置けないってのと不躾なのとは違うだろ。
 なんて抜かす割にはずけずけと好き勝手に物を言うのは加賀谷の方だ。だからこちらの方もそれなりの対応をさせてもらっているだけのことだ。
 加賀谷のことを嫌っている訳ではもちろんない。嫌っているなら友人でい続けたりなどしない。しかしそれにしたって、露骨に杏璃と俺との橋渡しをしようとするのには辟易する。加賀谷の人の良さも、杏璃といとこ同士で昔から仲が良いことも知ってはいるが、友達なら少しは俺の決断も尊重して欲しい。
 「おまえもそう思うだろ? 武一郎」
 と墓の前でそう問いかけてみるが、目の前の石くれは何の返事も寄越さなかった。
 俺は息を吐きだす。そして武一郎に最後の合掌を捧げた後で、墓に背を向けて歩き出す。
 沼の中で大きく水が跳ねる音が聞えた。
 何か大きく重い物を放り込んだような物音だ。岩を放り込んだだけでもここまでの音はしない。人が飛び込んだのか、或いは人を放り込んだのか。
 振り向くと、沼の向こう側に覆面を被った人影があった。そいつは俺と目を合わせると、逃げるようにしてその場を去っていく。こいつが何か沼に放り込んだのだ。思わず沼の方に身を乗り出すと、そこには泥水の中に沈もうとしている一人の少女の姿があった。
 山中だ。
 杏理の友人で、加賀谷に呼ばれていった喫茶店で杏璃と一緒にいた女。沼の中で全身を横たえて、顔まで泥水に浸かったまま漂っている。
 俺はすぐに沼の中に飛び込んだ。意外なほどひんやりした泥水をかき分けて進み、何度か脚を取られそうになりながらも、山中のところまでたどり着く。
 抱え上げた山中は全身に痣や擦り傷があり、ぐったりとしていた。暴行を受けている。気を失う程の暴力にさらされて、沼に叩き落とされた。殺されていてもおかしくはない。
 いったい誰に? 決まっている。さっきの人影だ。
 俺は山中を沼の外に引き上げる。気絶しているようだったので、俺は少し迷ってから身体を揺すり、大きな声をかけた。
 「山中!」
 それで山中は身を捩り始める。首を振り、青白い顔をこちらに向けたかと思うと、「根本くん?」と震えた声を発した。
 「大丈夫かい? すぐに救急車と警察を呼ぶよ」
 スマートホンで通報を終えると、その場で腰かけて山中の様子を見守る。目に見えるだけでも顔に三か所の痣があり、唇が切れて出血していて、膝に大きな擦り傷がある。床に転がされた状態で全身を蹴りまわされればこんな風になることを、俺は知っていた。
 しかし誰が、何の目的でこんなことを?
 「誰にやられた?」
 「……覆面しとったけん、分からん」山中は言う。「この辺歩いとったら急に後ろから棒で殴られて、付いて来るように言われたんや。怖ぁて従ったら、こんな山奥に連れて来られて、偉いボコボコにされて、それから沼に落とされたねん」
 「暴力を受けること以外はされていない?」
 「うん……」
 「男だった? 女だった?」
 「さあ。声も、含み綿か何かしとったから」
 話を聞いていても、犯人の目的が分からない。しかし、こういうことを追及するのは警察の仕事かもしれない。どうやら山中は無事であるようだし、今この場で俺が余計なことを訊く必要もないだろう。犯人の目的は不明だし、気味が悪くもあるが、それは警察が究明してくれる。
 「……なあ根本くん」
 そう思い、沈黙していた俺に、山中が話しかけて来た。
 「……杏璃のこと、どうしても許してあげれんのん?」
 「……何故?」俺は眉を顰めた。何故そんなことを今訊いて来るんだ?「今、君は大変な時のはずだ。余計なことは考えず、安静にして救急車の到着を待つべきだ」
 「そんな建前ええけん。質問に答えてよ」
 「できないよ。どうして今、そんなこと訊くんだい?」
 「杏璃は良い子やで」山中は懇願するかのようだった。「根本くんにあんな酷いこと言われて、一方的に別れ切り出されて、ほんでも腐ったりせんとおる。根本くんを憎んだり、嫌いになったりせんと、本人なりに前向きに色々頑張っとるんや。確かに、あの子の行動が冬村さんたちの為にもなっとるかどうかは、ウチにも正直分からん。ほんでもな、根本君にはその気持ちを汲んであげて欲しくもあるんよ。そうでないと、多分あの子は自分では何も終わられへんわ」
 「人の心配をしている場合じゃないだろう。余計なことを言うのはやめて、じっとしているんだ」
 俺は強い口調で言って、黙らせる。
 しばらくして救急車がやって来るまで、俺達の間には気まずい沈黙が流れていた

 〇

 3

 〇

 待ち合わせの場所は小学校の校舎の前だった。
 どうして現地集合でないのか、こんなただの歩道に大勢が集まって迷惑ではないのか、様々な疑問を感じつつ、俺は待ち合わせの三分前にそこにやって来た。遅くなく、しかし時間を浪費する羽目になるほど早過ぎない。良い塩梅だ。
 もうほとんど集まっているだろうと思っていたが、予想に反してそこにいたのは数人の男子だけだった。集まっている面子を見て、俺は、自分がこの場所に呼び出された理由の一端を察知することが出来た。
 「ひさしぶり」
 緊張した面持ちの川端を見下ろしながら、俺は悠然と言った。
 「同窓会にしちゃ人数が少ないね」
 そこにいたのは首謀者の川端を始め、当時俺に文一郎を殺すことを強要した加虐者達だった。人相は少しずつ変わっているが、しかしこう群れを成している姿を見れば嫌でもピンとくる。中には加賀谷の姿もあって、俺の方を見ると引き攣った笑顔でこちらに歩み寄った。
 「良く来てくれた、文一郎。実は、おまえだけ皆とは別の待ち合わせ場所を伝えたんだ。こいつらが」そう言って加賀谷は川端たちの方を手で指す。「おまえに言いたいことがあるんだと」
 俺は黙って川端らの方を見る。川端は緊張した面持ちで俺の方に歩み寄ると、媚びたような笑みを浮かべながら軽薄な口調で俺にこう言った。
 「なあ根本、おれら、小学生の頃、おまえにイジメみたいなことしてただろ?」
 「ああ」
 「それ、謝りたいと思ったんだ」そう言って川端は頭を下げる。「悪かった。すまん」
 代表してそう言った川端に続いて、背後で当時の手下たちが口々に謝罪の言葉を繰り返した。
 ままごとのようなその光景に、俺は白けた気持ちになった。何の目的でこんなことをしているのかと訝しみ、すぐに納得した。
 こいつらは、かつての加虐者が被虐者に謝罪するというイベントを自分達の同窓会に持ち込み、上っ面な和解に浸りたいのだ。そうすることで、若く浅はかな感受性を愉しませ、それを青春の思い出の一つとしたいのだ。
 「なあ文一郎、俺も悪かったよ」加賀谷が両手を合わせて来た。「あん時おれも一緒にいたしよ。止められなかったのはすまなかった。だから……」
 口先で良いから許すと言ってやれ……そう求めるような、媚びた表情を向ける加賀谷だった。俺は視線を反らす。そして川端らの方を向いた。
 「言いたいことは一つだよ」当時から然程背が伸びておらず、今では余裕で見下ろせる高さになった川端に向けて、確かな意思を込めて俺は言った。「俺は必ず、おまえらの誰よりも立派な人間になる」
 自分でも驚く程すべらかで、ハッキリとした口調になった。それがどう響いたのかは分からないが、川端はどこか面食らって仲間と顔を見合わせる。
 そんな川端の肩に、俺は横から思いっきり自分の腕を回した。そして笑顔で元気良く言う。
 「じゃあ行こうぜ。同窓会、これからなんだろ?」
 唐突に肩を組まれて川端は引き攣った表情を浮かべる。しかし気の利いた対応は思いつかなかったようで、「あ、ああ……」と言いながら、媚びたような笑顔を浮かべるだけだった。
 こいつらからしたら、俺がどう出るのか分からなかったことだろう。だからこそ、同窓会の会場ではなく、このような場所で個別に呼び出したのだ。万一にも同窓会の空気を悪くすることがないように。俺が怒って帰ってしまっても、自分達が白い眼で見られないように。
 こんな謝罪に意味があるはずもない。だからもちろん、こいつらを許すつもりは毛頭ない。
 かと言って、今更こいつらをぶん殴りたいとも思わなかった。何の意味も感じられないからだ。
 こいつらと関わりを持つのはおそらく今日が最後になるだろう。そういう節目を感じられたというだけでも、少しは来た意味があった。心の中に僅かに残っていた、余分な垢のようなものが剥がれ落ち、自分自身の将来に向けて気持ちが綺麗に切り替わる。あの惨めさに満ちた日々は、今、確かに、過去になったのだ。
 同窓会というのは昔を懐かしむ場であると共に、そうした場所でもあるはずだ。

 〇

 「なんで急に出る気になったよ?」
 同窓会の帰り道、当時のように帰宅を共にしながら、加賀谷が俺にそう言った。
 「自分が本当に過去に囚われていないかを、確認してみる気になったんだ」俺は答えた。
 「……そうかよ。で、どうだった?」
 「予想した通りだったよ。川端達の顔を見ても、大した感情は沸いて来なかった。不意を突けばボコボコにも出来ただろうけど、そんなバカらしいことをやる気にはならなかった」
 同窓会で俺は色んな人から話しかけられ、俺はその一人一人と楽しく会話をした。誰かが俺の中学時代の野球の実績を持ち出すと、どこからともなく感嘆の声が上がり、俺は気分が良かった。今は野球をしていないのかと問われると、高校の野球部が活動停止になった理由をかいつまんで説明してやった。内心はともかく、口に出してやりすぎだと言う者はいなかった。
 「大分モテてたな、おまえ」と加賀谷。
 「そうだね。あの中から、次のカノジョを作るのも悪くないかもしれない。右藤とか、柏崎あたりが良さそうだけど、君はどう思う?」
 「向こうの気持ち次第だろうが、そりゃ」
 「もちろん、脈はあるさ」
 「連絡先は?」
 「女子はその二人とだけラインを交換した」
 「ちゃっかりしやがって……。つか、あんなに行くの渋ってた癖に、随分と楽しんでんじゃねぇか、おまえ」
 俺は加賀谷の隣で機嫌良く鼻歌なんぞ歌って見せた。「音程ズレてるぞ」と指摘を受けるが、しかしそんなものに構ってはいられない。メロディはもちろん我らが福岡ソフトバンクホークスの応援歌だ。三番バッターの柳田が豪快なフルスイングで鮮やかなアーチを掛ける姿を俺は夢想した。
 「鼻歌うぜーからそう言えばの話をするけれど」加賀谷がそう言って俺の邪魔をした。「山中、もうすぐ退院出来そうだってよ」
 俺は鼻歌をやめる。「そうなのか? 犯人は見付かったのかい?」
 「いや、まだだ」
 「山中は本当に犯人の姿を見ていないのか?」
 「覆面してたらしいじゃねぇか」
 「覆面をしていても分かることはある。山中は殴る蹴るの暴行を受ける以外に何もされていない。つまり、犯人の動機は単なる怨恨である可能性が高い。ならば、彼女は自分の経験から誰に恨みを買っているかを考え、それと犯人の所作や体格を結び付けられたはずだ」
 「そう言われると確かに奇妙だな」加賀谷は首を捻った。「……余程意外な犯人なのか、或いは、山中が犯人を庇ってでもいるのか」
 「可能性はあるだろう」俺は眉を顰める。「何にせよ、愚かな真似は、早めに止めさせなくちゃいけないね」
 加賀谷と別れ、両腕をアタマの後ろで組みながら自宅へ向かう。
 楽しかった同窓会の余韻からか、俺は上機嫌のままでいた。元々気持ちの整理は付いていたつもりだったのだけれど、実際に当時の連中と笑い合ってみると、よりはっきりと、乗り越えたという実感がある。昔はあれだけ苦しかったけれど、それは全て過去で、俺を含めたあらゆる人間の気持ちが移り変わっていることを肌で感じた。
 こんな日が来るだなんて当時の俺には想像も付かなかったことだ。すっかり過去になった昔の日々を思い返す。何の痛痒も、嘆きも羞恥も、怒りすら沸いては来ない。泣き虫だったあの頃の俺を置き去りに、今の俺は胸を張って輝かしい未来に歩んでいくのだ。
 これなら大丈夫。
 俺は思う。
 これなら向き合える。これなら、いつでも最後の決着を付けられる。
 そう思った時、ポケットの中でスマートホンが震えた。
 「もしもし?」
 「根本くんっ!」ミライの声だった。「根本くん、根本くん! お願い……助けて……」
 切羽詰まった、涙の入り混じった声。支離滅裂に何やら喚き散らすミライが、僅かに息切れを起こしたその瞬間を逃さず、俺は尋ねた。
 「何があった? どう助ければ良い?」
 「今から言うところに来て!」ミライは泣き叫ぶ。「……津波くんを、助けてあげて……っ」

 〇

 ミライに指定されたのはスーパーマーケットの廃墟に当たるところだった。不用心にも裏口のシャッターの施錠が壊れていて、中には誰にも入れるようになっている。どうしようもない不良なんかがたまり場にしていそうな塩梅だ。
 俺はシャッターを開けて中に入る。バックヤードの砂埃は、何かを引き摺ったような形跡が付いている。床に転がしたまま、他人を引っ張って運んだら、おそらくこうなるだろう。
 それを辿り、俺は店内側へと歩を進めた。
 杏理がいた。
 床に転がされてぐったりとしている。鼻から血を吹いていて、顔にはいくつかの痣があった。この前沼の中で発見した山中と同じような状態。派手に暴行されたということが簡単に見て取れる。
 「……ネモ?」こちらに気付いた杏璃が、息も絶え絶えな様子で僅かに身じろぎをする。「ネモ……どうしてここへ……」
 杏理から視線を外し、顔を上げる。
 右手に鋭利なナイフを手にした津波が、訝しむような表情でこちらを睨んでいた。
 こいつがやったのだ。俺は確信した。こいつが杏璃をここに呼びだしてから暴行し、店内側に引き摺って移動させてからさらなる暴力を加えた。
 「根本さん? なんでこんなところへ? そんな偶然ある訳が……」
 「君のお姉さんに頼まれたんだよ。助けて欲しいってね」
 「……このクズを? あのお人好しが! なんで……? お姉ちゃんはこいつが憎くない訳……」
 「憎いに決まってるさ。だからミライちゃんが助けようとしているのはそいつじゃない。弟の君なんだよ」俺はそう言って、津波の方へ一歩踏み込む。「君の手をこれ以上汚させたくないというんだ。だから、自分の代わりに、君の暴走を止めて欲しいと」
 そう言うと、津波はますます血走った目でこちらを見詰める。睨んでいる。全身にはち切れんほど蓄えられた真っ赤な憎悪が、熱を感じる程の激しさでまっすぐこちらに放射されている。
 引きこもりの姉と過ごした数年分の感情を、それでも生身で受け止めることが出来ているのは、俺が先ほど自分の感情に完全な決着を付けて来たからだ。虐げられた者の憎しみを理解している俺は、下手をすれば津波の放つ感情の波動に共感し、心のどこかで制止を躊躇ってしまう恐れがあった。津波を止める為には、俺自身が津波やミライの眼前にあるのと同じ壁を乗り越える必要があったのだ。
 「お姉さんをいじめた奴らを君が暴行していることは、ある程度察しがついていた」
 俺が言うと、津波は眉を僅かにピクリと反応させる。
 山中は明らかに怨恨で暴行されている。そして、そうまでして山中を憎む人間がいるとすれば、山中を含む同級生グループに姉をいじめられ不登校に追い込まれた津波だろう。その可能性は十分に思い当たり得た。
 「山中を暴行したのは君だ。いや、暴行というのは生ぬるいな。殺人未遂と言うべきだろう。実際、君は殺したつもりで沼に彼女を放り込んだんだろう?」
 「そうです」津波はあっさりとそれを認めた。「……ぐったりして動かなくなった時は、殺したかと思って流石にビビりましたよ。僅かでも山奥に隠しておけばほんの数日でも調査の手を遅らせられて、その分復讐に使える時間が増えると思ったんですが……」
 「まさか、あんな山奥まで毎日ジョキングしている男がいるとは思わなかったんだよね? でもそのお陰で沼に沈んでいた山中は助かり、君は人殺しにならずに済んでいる」
 俺がそう言うと、津波はますます視線を鋭くさせる。
 「……余計なお世話です。わたしは、今から本当の人殺しになるんですから」
 そう言って、床に転がった杏璃を一瞥した津波は、ナイフをこちらに見せながら宣言する。
 「せめて首謀者のこの女だけは必ず殺します。根本さんはそこで見ていてください」
 その言葉に、俺の全身に緊張が走る。
 本当に殺すつもりでいるとは。躊躇せず、警察を呼ぶべきだったか?
 もちろんこの子を殺人犯にする訳にはいかない。俺は「させないよ」と言って、無遠慮に津波に一歩近づいた。
 「君のお姉さんは君が人殺しになることを望まない。弟の破滅と引き換えに復讐を遂げたところで彼女は救われない。君は間違っているよ。今ならまだ引き返せる。さあ、そのナイフを捨てるんだ」
 「黙れ! あんたに何が分かる!?」
 「分かるよ。僕だって、君のお姉さんと同じように……、いや、もっと手酷いいじめを受けていたことがある」説得するのに効果があると見做して、俺は語り掛ける。「虫の死骸や動物の糞を食べたことだってあるし、便所の水を飲まされたことだってある。飼っている犬を殺すように強要されたことも。裸にされたこともある。その上、自慰行為を強要された」
 「……本当に? 信じられない」
 津波は目を見開いて俺を見詰めた。欺瞞を疑うかのようなその視線は、しかし俺の表情を見てそれが真実であることを悟ったように伏せられた。
 僅かに身じろぎした津波は、しかしすぐさま首を横に振るって、憎悪の鎧を身に纏い直した。
 「でも、だからなんだっていうんだ? あんたは今、家に引きこもっていないだろう? 僅かな物音に怯えたり、未来に何の希望も持てなかったり、死ぬことばかりを考えていたりしないだろう? 毎日学校に通ってまっとうな日々を謳歌しているんだろう?」
 「そのとおりだね。でも、君や君のお姉さんだって、いずれはそうなれるはずなんだ。俺が乗り越えたのと同じように。だから……」
 「あんたの存在そのものが、今のお姉ちゃんを否定しているんだ!」津波は泣き叫んだ。「あんたが今そうしてそこで堂々と突っ立っている! そのことが、今のお姉ちゃんを責めているんだ! 自分と同じように苦しみを乗り越えられない人間は、卑怯だと! 弱虫だと! あんたはそう言っているんだ!」
 違う。俺は何も言ってなどいない。俺を見ている津波自身の心が、津波にそういう言葉を投げかけているに過ぎない。
 「違うよ。俺があの苦しみを乗り越えることが出来たのは、周囲や環境に恵まれたからに過ぎないんだ。家族が皆優しかったことや、素晴らしい恩師に出会うことが出来たこと、そうした幸運があったからに過ぎないことも、俺はまた理解しているつもりだよ」
 語り掛けつつ、俺はポケットに手を入れて、さりげなく両足の位置を調節して体勢を整えていく。
 「そしてミライちゃんにとっての幸運は君がいたことだ。君はお姉さんの希望になれるんだ。君がそこに転がっている首謀者に報復することが、ミライちゃんが立ち直ることに良い影響を与えるなんて、ありえない。しかし、君がミライちゃんに寄り添うことは絶対に意味がある。その為にも君は人殺しなんかになっちゃあ……」
 「綺麗ごとの正論は本当にそれが可能な人間にしか意味がないですよ」
 「つまり、君はお姉さんが立ち直れると思っていないんだね? そっちをとうに諦めてしまっているから、代わりに復讐なんてどうしようもないことに人生を捧げようとしている。それでほんの一瞬、溜飲を下げた錯覚に浸りたい訳だ」
 「そうですよ。その為に、その為にわたしは今日まで頑張って来たんだ」津波は歯を食いしばる。「小さい頃から女みたいな奴だと笑われて来た。体が小さくて弱虫だったから。お姉ちゃんだけが友達だった。お姉ちゃんと一緒なら女の子で良いと思っていたくらいだった。でも、復讐を遂げるなら、やっぱり男の身体を活かした方が好都合に違いない。わたしは誰にも負けない」
 そう言って、津波はナイフを持ってその場に屈み込む。身を捩る杏璃の身体を押さえつける。
 「三年計画でした。道場に通って身体を鍛えて、強くなって自信を付けて、あんなに怖かったお姉ちゃんの同級生達にも負けないくらいになって、復讐を遂げる。そう誓って自分を鍛えて鍛えて……。ようやく成長期が来て、道場の同世代でも一番強くなっていた頃には、もうあんな女ども、何も怖くなくなりましたよ。何を怯えていたのか、どうして自分が弱虫と蔑まれていたのか、分からないくらいに……」
 「君はもう後に退けないんだね」
 「そうですよ! だから、もうそこで黙って見ていてください!」
 津波はナイフを振り上げる。押さえつけた杏璃の身体のどこかに突き刺そうと魂胆のようだ。杏璃の表情は伺えないが、彼女はとうに身じろぎをするのを辞めていて、その刃を受け止める覚悟を決めているかのようでさえあった。
 振り上げられたナイフが一瞬、躊躇するように震えた時、俺はモーションに入っていた。
 ポケットの中には拾って来た石ころがいくつか詰め込んである。その一つを握り、脚を振り上げ、マウンド上で捕手に投げるボールのように、正確なコントロールで津波の胸元に投げ込んだ。
 俺のクイックモーションは監督の絶賛を勝ち取る程であり、中学最後の大会ではただの一度もランナーに盗塁を許さなかった。座り込んで体勢の限定される津波にそれを躱すことは容易ではない。ナイフを突き刺そうとする緊張で俺への注意が逸れていた津波は、俺の全力投球を胸元に受け、あっけなくナイフを取り落として蹲る。
 「あぐっ!」
 「杏璃!」
 叫び、俺は津波の方へと駆けこんだ。津波は痛みを堪えるように立ち上がり、ナイフに手を伸ばすかどうかを逡巡するかのように視線を行き来させる。そして最後は俺の方へ血走った眼球の向きを固定して殴りかかって来た。
 「うわぁああっ!」
 真っ直ぐに伸びて来るその拳を、俺はぎりぎりまで引き付けてから躱す。速く鋭く、体格の割には重い拳だ。力の差を見せ付けて傷付けずに無力化する、などと言う真似は不可能だろう。
 「どうして? どうして邪魔をする?」津波は慟哭する。「こいつの所為じゃないか! 全部こいつの所為じゃないか! お姉ちゃんが引きこもったのも、立ち直れないで毎日家で泣いているのも全部! どうして!?」
 「確かに、君のお姉さんが引きこもったのはこの人の所為かもしれない」俺は言う。「けどね、そこから立ち直れなかったのは、君のお姉さん自身なんだよ」
 津波は表情を消し、拳を握ったまま顔を青くする。
 沈黙し、身を震わせ、微動だにしない。しかしその瞳に充満する敵意だけは色濃さを増していく。静かだが、しかし津波はこれまでにないほど激しく激怒していた。
 津波は拳を振るう。俺はそれを両手で捌く。
 「杏理を殺してもミライちゃんは立ち直ったりしない。ミライちゃんが立ち上がるには、ミライちゃん自身の意思と行動だけが必要なんだ。ミライちゃんはそれを良く分かっている。分かっていて、毎日一人で戦っている。その懸命さを、尊さを、意味を、分かっていないのは君自身じゃないか」
 「うるさい!」津波は俺の懐に踏み込んだ。「わたしの邪魔をするな!」
 津波は俺の頭部目掛けて鋭く脚を振り上げた。天井まで届くかのような高く強烈なハイキック。一撃必殺の威力を秘めている。
 しかし、前に一度見たことのある動きでもある。
 俺は身を捩ってそれを紙一重で回避すると、脚を振り上げて大きな隙を晒した津波の後頭部に、自分の肘を鋭く叩きこんだ。
 鈍い音がする。
 津波はその場で正面から倒れ込み、動かなくなった。脳味噌を激しく揺さぶられたことで、一時的な脳震盪を起こしたのだろう。気を失って、しばらくは立ち上がりそうにない。
 決着だった。
 
 〇

 脳震盪で気を失うのは一時的なものに思われたが、だからと言って放っておける訳でもない。救急車を呼ぶ。そして救急車を呼んでしまった以上、事件にしないのは無理だろう。しぶしぶ、俺は警察にも通報することにした。
 十三歳の津波を刑事的に裁く法律はないが、だからと言って、警察を呼んで取り押さえさせることをミライは望まなかった。ここに突入する時点では、山中を襲った凶行が津波の仕業であることも不確定だった。まずは話をじっくり聞いて、津波が何をしようとしているにしても、自ら説得して落ち着かせることが最善であると俺は考えた。
 しかし津波は最後まで復讐を捨てられず、結果、殴って気絶させるなどという方法を取らざるを得なくなってしまった。とても残念な、やりきれない結果だった。
 「杏璃」
 俺は、床に転がって成り行きを見守っていた杏璃に呼びかける。
 「……ネモ」
 「大丈夫か?」
 杏理は顔を上げ、横たわったままこちらに手を伸ばした。
 俺はそれを掴んで杏璃を抱え起こす。「君の分の救急車も呼んである。警察も来る。だから、もう安心して」
 「ネモ……ネモぉ」そう言って、杏璃は涙を流しながら俺の胸に飛び込んできた。「ネモぉっ。うわぁああんっ」
 そう言って泣きじゃくり始める杏璃の、柔らかな体温を俺は感じる。暴行されて乱れた髪は、しかし以前と何も変わらない太陽のような香りを漂わせていた。
 俺は息を吐き、杏璃の肩に手をやり、やや強引に俺から距離を取らせる。
 目を丸くし、表情を凍り付かせる杏璃に、俺は告げた。
 「一人で泣け」杏璃の肩から手を離し、背中を向けながら続ける。「一人で立て」
 沈黙。そして、背後ですすり上げるような音が聞こえたかと思ったら、涙に濡れた杏璃の声が耳朶を打った。
 「ネモは……ネモはそういう人なんだね」
 「そうだよ。これが俺だ。何一つ偽ることも恥じることもない。こうなりたいと願ったとおりの、堂々と胸を張れる、俺はこういう奴だよ。杏璃」
 重い沈黙があった。杏璃にそれを決意させるだけの時間が流れ、彼女は絞り出すようにこういった。
 「私、ネモのカノジョに戻るの、諦める」
 「そうか」俺は首だけで振り向いて杏璃の方を一瞥して、言う。「それが良い」
 「でもっ」杏理は決意に満ちた口調で続けた。「ミライさんに償うことは、諦めない」
 俺は息を飲みこんだ。
 体ごと杏璃の方に向いて、その表情を覗き込む。目を細め、睨むようにしてこちらを見つめ続ける杏璃の顔を見て、その言葉や決意に嘘偽りがないことを確信して、俺は言った。
 「……それが良い」
 「あの時のわたし、バカだったよ。後から自分がこんなに苦しむことになるとも知らないで……本当に愚かな子供だった。殴りつけたいくらい」杏理は泣きながら微笑むということをした。「大した理由はね、ないんだ。あの頃は親が離婚したりとか、再婚して出来たお義父さんにいじめられたりとかで、ムシャクシャしてたから。だから、捌け口になるんなら、誰でも良かった。それだけなんだ」
 無論、それで杏璃のしたことが許される訳ではない。それは彼女も分かっているだろう。
 「悪意は弱い方へ弱い方へと流れ込む。どこかで誰かが塞き止めなくちゃいけない。けれど、自分の意思でそれができる人は、実は限られている。だからこそ、きちんとそれを止めてくれる他人がいることは、本当に大切なことだと、僕は思うよ」
 そう言って、俺は杏璃に微笑みを返した。
 「学校の先生を目指すんだって? きっと杏璃なら、自分と同じ過ちを子供たちに犯させないような、そんな先生になれると思う。ミライちゃんに許されるために頑張るということも合わせて、応援しているよ」
 「うん」杏璃は頷いた。「いじめっ子でごめんね、ネモ。助けてくれてありがとう」

 ○

 風の音がした。沼を取り囲むように生い茂る深緑の木々を揺らし、爽やかな音と共に土の匂いを周囲に溢れさせる。木々の合間から見える空は透き通るように青く豊かで、俺を優しく見下ろすかのようだ。
 俺は武一郎の墓の前にいた。その日はいつもより、どこか清々しい気持ちでいた。ここに来るとき、いつも必ず心の中でわだかまっている嘆きや悲しみを感じずに済んでいて、代わりに武一郎と楽しく遊んだ日々が思い出された。
 それは、脅されるままに武一郎を殺してしまった弱い自分を、真に克服したことを意味していた。武一郎を殺したことが無くなることは永久にないけれど、そのことを直視し、心から受け止め、しっかり背負って生きていく覚悟を、俺は決めていた。
 武一郎に合唱を捧げ、俺は山を下りる。
 相変わらず、野球を失った分の時間の埋め合わせは上手く行っていなかった。生まれ変わろうとして自分自身に叩きこんだ野球というものが、骨の髄まで染み付いて離れないのかもしれない。
 俺はいつも通っているバッティングセンターへと向かう。
 スイングドアの入り口をくぐると、加賀谷と杏璃……それに、冬村ミライがそこにいた。
 カウンターを挟んで、三人は何やら楽しそうな様子で談笑をしている。三人の内、ミライだけはカウンターの奥の方で立っていて、しかも店の制服を着て胸に若葉マークを付けていた。新人アルバイトの証。ミライは俺の方に気付くと、無垢な程幼い笑顔でこちらに笑いかけた。
 「根本くん」
 「こんにちはミライちゃん」俺は笑い返して、加賀谷の方に視線を向ける。「なんでおまえと杏璃が一緒にいるんだよ」
 「俺が杏理と一緒にバッティングセンターに来て悪いか」と加賀谷。
 「悪かねぇよ。意外だなと思っただけだ」
 「おまえの彼女だと思って一応遠慮して一緒に出歩かなかっただけで、元々仲は良いんだぜ?」
 「知ってる。いとこ同士だもんな」
 俺が杏理の方を一瞥すると、杏璃は爽やかに俺に笑いかけた。
 「偶然だね根本くん。でもごめん。私達、帰るところだから」
 そう言って、杏璃は加賀谷の手を引いて連れだって扉へ向かう。その途中、加賀谷が俺の方を振り向いて、言った。
 「野球部、来年から復活するんだってよ」
 「聞いてるよ」
 「そうか」加賀谷は体ごと俺に向き直り、語調を強めて言った。「逃げんなよ?」
 俺は眉を顰め、加賀谷の顔を見つめ返して言う。「俺がいつ逃げたってんだ?」
 「逃げてねぇよ。これから逃げんなっつってんだよ。言っとくけど、選手の俺はもちろん、杏璃もマネージャーとして復帰するから」
 「逃げねぇよ。つか、逃げる理由ねぇし。おまえこそ、正捕手になれるように、今から練習しとけ」
 「だからバッセン来てたんだろうが。……じゃあな」
 そして今度こそ、二人はバッティングセンターを出て行った。
 目を丸くしながら、ミライがそんな俺達の様子を見詰めている。やり取りの趣旨や意味を理解しているかも怪しいくらいに、どこかきょとんとした表情だった。
 俺はミライに歩み寄る。「バイト、始めたんだってね。見に来たよ」
 「うん」ミライは照れ笑いをしながら胸の初心者マークを指し示す。「まだ、これだけど」
 「最初は皆初心者さ」
 「そうだね。働くのって、思ってた何倍も大変。まだ、ほとんど何もできないし、お客さんと話すのもすごく怖いけれど、でも……何か、始まったなあ、って、感じがする」
 「……始まったね」俺は笑う。「そして、引きこもり期間が、終わった」
 「うん。終わった。長かった。永遠に終わりがないんじゃないかと錯覚するくらい、長かった。でも、終わって見れば、終わらせようって思って見たら、本当に難しかったのは最初の一回の勇気だけ。後はどれだけ大変で一杯一杯でも、夢中でやってる内に、色んな事がどんどん良くなっている感じがするの」
 そう言ってミライは息を大きく吐き出した。
 「この間ね、杏璃さんが昔の同級生たちをたくさん連れて、あたしの家に来てくれたんだ。昔、あたしを体育倉庫に連れ込んで、酷いことをした人達だった。それで、みんなであたしに謝ってくれたんだ」
 杏理がやろうとしていたことだ。俺は思い出す。『どんなことをしてでも償わせる』。杏璃は時間をかけてそれを成し遂げたのだ。
 どのような方法を使ったのかは、俺には想像できない。強情な杏璃のことだから、相当に強引なことをした可能性もある。しかし俺は案外、真っ向から何度も頼み込むような、愚直で誠実なやり方を取ったんじゃないかという気がしていた。こういう局面で、杏璃はもっとも正しく美しいやり方を好むように思えるのだ。
 杏理は俺との関係を完全に清算した。そして今は、ミライへの償いを終わらせようと懸命に頑張っている。いじめの加害者と被害者との間で本当の和解などあり得ないと、俺は感じて来た。しかしこうして前を向いているミライを見ていると、そんな綺麗事を夢見ても良いような気にさえさせられる。彼女が奪われた物は簡単には戻ってこないけれど、出来る限りのものが元通りになるのなら、それは本当に素晴らしいことであるはずだ。
 「君は彼女らを……杏璃を許すのかい?」
 「……あれだけたくさんの人と話をして、家まで連れて来るなんて、簡単なことじゃないよ。そこまでしてくれたっていうことは、やっぱりね、それだけしっかりとあたしと……あたしをいじめてたことと向き合ってくれたんじゃないかなって。だから……あたしも、ずっと一人で被害者ぶってだけいるのも、卑怯かなって、そんな風には思ったんだよ」
 弟の津波も言っていたけれど、この子は少しばかり、純粋でお人よしなところがあるのかもしれない。あれだけ酷い目にあった人間からの善意を受け止めることが出来たり、またそれによって自らを奮い立たせられたりする。
 「本当に、本当に色んな人に迷惑かけた。心配もさせた。津波くんなんか、あたしの復讐の為にあんなことまでさせてしまった。このままずっと引きこもっていたんじゃ、あの子が可哀想だもんね。……一緒にあれだけ頑張って、つらい思いをさせちゃったのが、報われないもんね」
 「きっと喜んでると思うよ。ところで、あの子は今どうしているの?」
 「つい昨日、何週間かぶりに施設から戻ってきたよ。もう家にいて良いんだって。それでね、なんとびっくり、頭丸めて戻ってきたんだよ。けじめを付ける為の、心の準備なんだって。お父さんやお母さんに迷惑かけたこと、すごく反省してたから」
 「へぇ。頭を……」俺は丸坊主の津波の姿を想像する。それは結構精悍な美少年だった。「まさか、男に戻るんじゃないだろうね?」
 「そこはまだ、ちょっと悩んでるみたいだけど……」ミライは頬に手をあてて、遠い目をする。「小さい頃とは言え、あたし、弟への接し方間違えちゃってたと思うんだよね。それがなかったら、津波くん、普通の男の子でいられたかもしれないのに。そうしたら、つらい思いせず生きてけたかもしれないのに」
 「あの子もいつかちゃんと答えを出すと思うよ。優しくて、強い子だからね。それに、どんなに長くて、つらい苦しみでも、いつか必ず、終わりっていうのはあるんだから。そして、また新しい未来が始まるんだ。君が引きこもりから脱出できたみたいにね」
 明けない夜はない。どんなに深く傷付けられた人間だって、いつか立ち直れる。色んなことを取り返して、新しい未来を掴むことが出来る。
 「うん。……そうだね。あたしね、ずっと勇気が出せないまま、お家に引きこもって膝を抱えているだけの日々は、やっぱりすごく、怖くて不安だったんだ。だから、こうやって新しい生活を始められたことが、とても、とても嬉しいの」
 この子の未来は今まさに始まったばかりだ。無限大の可能性に続いている。新しい道を夢中で歩いているうちに、この子の受けた傷は少しずつ和らいで、やがて過去のものになる。そして最後には、過去を乗り越えた経験が彼女にとって掛け替えのない自信となり、武器となるのだ。
 「良く勇気を出したね。本当に偉いと思う。僕は君を心から尊敬するよ」
 「ありがとう」ミライは微笑む。「きっと、大丈夫だよね。あたし、ちゃんとやれるよね」
 言い聞かせるように何度もそう繰り返すミライの瞳には、一抹の不安と、大きな希望とが漲っていて、これまで抑圧され続けた強く眩い光が、今にもあふれ出しそうな程だった。
 ミライは自分自身の意思で暗い部屋を出ることを決意して、こうして立派に這い出したのだ。償おうとする杏璃の気持ちを受け止める強さと、弟を思いやる優しさを持っている。自らの未来をひたむきに信じ、現実と立ち向かう勇気を持っている。
 この子に這い上がるきっかけを与えたのは、杏璃や津波や、彼女の周囲の人間たちだ。しかし実際に立ち上がったのは、まぎれもなくこの子一人の力なのだ。それがあれば、きっと大丈夫。この子はこの先も一人でやっていける、幸せを掴むことが必ずできる。
 「もちろんだよ」
 俺は心から彼女の未来を祝福した。
粘膜王女三世

2019年12月30日 23時13分01秒 公開
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■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:明けない夜はない。
◆作者コメント:感想よろしくお願いします!

2020年01月12日 23時31分21秒
+30点
2020年01月12日 21時12分29秒
+40点
2020年01月12日 17時40分31秒
+50点
2020年01月10日 20時57分43秒
+20点
2020年01月07日 22時10分10秒
+20点
2020年01月07日 21時18分53秒
+30点
2020年01月07日 15時31分40秒
+20点
2020年01月06日 22時24分51秒
+20点
2020年01月05日 12時06分04秒
+20点
2020年01月04日 19時14分13秒
+20点
2020年01月03日 15時55分37秒
+30点
2020年01月01日 17時15分24秒
+20点
合計 12人 320点

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