終わった世界で救世主を待ちながらゾンビやってみました |
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1、早押しクイズに慣れた人はボタンを見ると押してしまう うずくまった僕の頭の中で、けたたましく何かが鳴り響いている。 これが、姿かたちどころか、頭の中までも人間でなくなった証拠なのだろう。 鏡がないからよく分からないが、血染めの制服をまとってボロボロになったこの身体が、人としての原形をとどめていないことくらいは見当がつく。 それは僕に、まだ人間の意識が残っているということだ。 到底受け入れがたい状況だった。 でも、すぐ目の前にいる女の子が説明してくれる以上は、アニメでもマンガでもなく、本当のコトだと考えざるを得ない。 「私たち、ゾンビなのよね、やっぱり」 やっぱり、の一言が僕たちをつないでいる。彼女も、僕と同じことを考えていたらしいのだ。 長いざんばら髪が、乱れに乱れて頭から散らばり落ちている。 もともとはブレザーのジャケットだったと思しき紺色のボロ布が、剥き出しになった肩に引っかかっていた。 その下のブラウスもスカートも、血みどろだ。引き裂かれたところからは、白い下着が覗いている。 痛々しい姿を見ていられなくて目をそらすと、彼女は機嫌を損ねたようだった。 「聞いてるの? 三浦君」 ようやく聞こえるくらいのかすれた声だったが、僕の名前を呼んだんだろうということは、何となく分かった。 記憶がぼんやりしたまま、割れ鐘のような音だけが鳴る頭の中では、フルネームを思い出すのがやっとだったのだ。 三浦竜司(みうら りゅうじ)。頭の中にある言葉の断片を継ぎ合わせてみると、高校生とかいうものだったらしい。 どうやら、目の前の女の子も、女子高生とかいうものだったようだ。 名前も、どうにか思い出せる。 「聞いてるよ、蘭堂さん」 蘭堂不来得(らんどう こずえ)。他のことは、何だか頭の中でぼんやりと霞んだままだ。 例えば、今までに何が起こったのかということ。 不来得さんが足を揃えて座っているのは、剥き出しの地面だ。 なんにも、ない。 僕たちがいるのは、見渡す限り、草一本生えていない岩場だった。 といっても、はっきり見えるわけではない。遠くにぼんやりとした山の稜線らしきものがあることが分かる程度だ。 そんな薄暗さの中で、不来得さんはぽつりとつぶやいた。 「やっぱり、終わっちゃったみたいだね」 僕もそう思う。 ゾンビが終わりと始まりの狭間に存在するものだということは、なってしまってから初めて分かった。 とにかく、今は何にもないのだ。 空を見上げれば星一つない闇、この世界の中にあるのは僕たち2人の身体だけだ。 つまり、三浦竜司と蘭堂不来得は、終わってしまった世界に残されたゾンビだということだ。 でも。 だからどうしたっていう気がする。 「三浦君?」 僕にまじまじと見つめられて、不来得さんは怪訝そうに首を傾げた。 たぶん、本当なら、僕の心臓は鼓動を速めていることだろう。たった2人の世界で、不来得さんは僕のただ1人のパートナーなのだから。 それなのに、彼女とどうしたい、こうしたいという気持ちがどうしても起こらない。 僕が記憶しているのは、前はこんなんではなかったということだ。 「いや、その前はどんなんだったかなと」 ゾンビになってから余計に働きの鈍った頭から、ようやくこれだけの言葉を捻り出した。 もちろん、伝わるわけがない。 「何が?」 不来得さんがにじり寄ってくる。 ゾンビになる前の癖で、僕はおずおずと後じさった。 とりあえず、答えておく。 「世界が」 ああ、と納得した不来得さんは即答した。 「覚えてない」 僕も、世界が終わるまでの彼女がどんな姿だったか、はっきりとは覚えていない。 分かっているのは、好きだったということだ。 でも、今はこう答えるしかない。 「じゃあ、終わった世界で生き抜かないと」 なんて素っ気ない返事をするんだろう、と自分でも思う。 本当なら、今がチャンスなのだ。 告白して、この変わり果てた世界を共に生き抜かなくてはならない。 だが、そんな気持ちを知るはずもない不来得さんは一言だけツッコんだ。 「ゾンビって、死んでるんじゃない?」 確かにそうだ。 ゾンビなんだから「生きる」というのも変だ。 だから、言い直した。 「じゃあ、共に暮らす」 それが具体的にどうすることなのかは、よく分からない。 次の言葉を待って僕をじっと見ていた不来得さんは、やがて退屈そうに眼を伏せた。 完全に、話がそれた。 再び、無限とも言っていい時間が流れ始める。 何かなくしたものがあって、それが何だか思い出せないような。 このままでは、文字通り、死んでも死にきれない……まあ、だからゾンビなんだが。 もう一度チャンスを作るために、とりあえず、前向きな話から始めることにした。 「知ってる? 早押しクイズに慣れた人って、ボタンを見ると押してしまうって」 「バターン?」 フィリピンにある半島の名前だ。 第2次世界大戦中、旧日本軍が米軍や現地兵を死ぬまで行進させた、デスマーチの発祥地でもある。 そんなことはどうでもいい。 急に話しかけたから、聞き間違えたのかもしれなかった。 もう一度、言い直してみる。 「ボタン」 「ヴィトン?」 カバンやなんかのファッションブランドだ。 まあ、女の子はその辺に詳しくても不思議じゃない。 聞き間違えないように、ゆっくり言い直してみた。 「ボ・タ・ン」 「ブー・タン?」 ヒマラヤのへんにある王国だ。 王様は全盛期のアントニオ猪木に似ているけど、世界が終わった今、それはもうどうでもいいことだ。 というより、早押しボタンの話がしたいだけなのに、これが全然進まない。 もしかして、からかわれているのではないかという気もした。 「蘭堂……さん?」 「何?」 薄暗いので、顔色がよく分からない。 もうゾンビになってるから、目の輝きが見えないのも当然だ。 だが、かすれたその声の響きは柔らかかった。 悪意は、ない。たぶん。 「いや……何でもない」 本当に聞こえていないのかもしれない、と思い直した。 僕たちは、ゾンビなのだ。 身体のあちこちが故障していたって、不思議はない。 それならそれで構わなかった。 無言のまま2人でじっとしている限り、不都合なことはない。 2、いるか分からないけど救世主を待とう その貴重な沈黙の時間を破った者がいた。 「あ、いたいた」 薄暗がりの中を、のろのろと歩いてくる者がある。 重心の定まらない身体が、右へ左へと揺すぶられている。 ゾンビだ。 この終わった世界に残されたのは、僕たちだけではなかったということだ。 蘭堂さんの顔が、ふわりと緩んだ。 「あ、会長?」 「探したよ、不来得さん」 僕が蘭堂さんとしか呼べない相手をが、名前で呼ぶ。 それが誰だか、どうしても思い出せなかった。 不来得さんに聞いてみる。 「誰?」 「会長の、宝蔵(ほうぞう)さん」 かすれた声で返ってきたのは、聞いたことがあるようなないような名前だった。 やがて、闇の中にぼんやりと、長袖のカッターシャツが浮かび上がった。 片袖が引きちぎられた左腕には、腕章が直に安全ピンで止められている。 ゾンビなら、痛くはないだろう。 何か、字が書いてあるのを読んでみた。 「生……徒……会」 ぼんやりとではあるが、見当がついた。 僕が高校生で不来得さんが女子高生なのだから、生徒会の会長というやつなのだろう、たぶん。 ふらりふらりと近づいてくると、上半身を前後左右にぐるぐるやりながら挨拶した。 「どうも、宝蔵月良(つきら)です」 「三浦……竜司です」 記憶に残っている自分の名前らしきものを答えると、宝蔵は大げさに手を叩いた。 初対面で小馬鹿にされたのかと思ったが、これも考え直した。 ゾンビは反動をつけないと、腕が上がらないのだろう。 それよりも問題だったことがある。 「ああ、クイズ研の」 僕はそんな集団にいたらしい。 そこまで知っているのなら、終わる前の世界のことも教えてくれるだろう。 そう、問題は、どうしてこの世界が終わったのかということだ。 それが分かるれば、僕がなくしたものが何か分かるかもしれないという気はしていた。 だが、僕が何か言う前に、もう不来得さんが口を開いていた。 「私たち、このままゾンビ?」 親しげな口調が、ちょっと気になった。 宝蔵も、何ということもなく答える。 「世界がもう一回始まれば」 口を挟みたかったが、どうも割って入るタイミングがつかめない。 僕が黙って見ているうちに、不来得さんは不来得さんで、知りたいことを尋ねていた。 「どうやったら始まるの?」 「救世主(メシア)を見つけるんだ」 メシアとは、世界の終わりに人類を救う者のことだ。キリスト教やユダヤ教、イスラム教で信仰されている。 でも、僕が知りたいのはそんなことではない。終わる前の世界がどうだったかということだ。 いや、世界なんかどうでもいい。 ゾンビになる前の不来得さんがどんな人だったかということだ。 でも、本人はそんなことなど気にもしていない。 「どこにいるの?」 「知らない」 宝蔵は救世主の居場所を知らないらしい。だが、僕にとってはどうでもいいことだ。 不来得さんは、更に尋ねる。 「どんな人なの?」 「知らない」 宝蔵は、救世主をよく知らないらしい。それも、僕にとってはどうでもいいことだ。 問題は、僕が知らない不来得さんの健康な姿を、宝蔵が知っているかもしれないということだ。 僕自身が覚えていない、世界が終わる前の僕のことを知っているくらいだから。 不来得さんは、僕にとってどうでもいいことを重ねて尋ねる。 「本当にいるの?」 「分からない」 宝蔵は、根拠もないことをもっともらしく答えていたらしい。 そこを暴くことができれば、逆転のチャンスが生まれる。 だが、僕が何か言う前に、不来得さんが尋ねた。 「じゃあ、なんで見つかるってわかるの?」 「昨日はここにいたらしいから」 宝蔵によれば、この世界にも過去があったらしい。 それがどんなものだったかは、僕も知りたいところだった。 不来得さんが、そのど真ん中に突っ込んだ。 「世界って、いつ終わったっけ?」 「……さあ?」 肝心なところで、宝蔵は話をぼかしてしまった。 言っていることが何かおかしいのだが、それが何だか、ゾンビの頭ではうまく説明できない。 だが、そこで不来得さんが声を上げた。 「あ……」 指さす先には、何か紙の筒らしきものが転がっていた。 宝蔵が来るまで、気が付かなかった。 僕はうまくバランスのとれない身体を無理やりに起こして、それを拾ってきた。 薄暗がりの中で、宝蔵は紙の表面に目を近づける。 「カレンダーだ」 僕はそれを広げてみたが、あちこち破れていて、とても読めたものではなかった。 不来得さんも残念そうにつぶやいた。 「世界が終わったときだね、こうなったのは……きっと」 宝蔵がもっともらしく頷く。 「やっぱり、救世主が来るのを待つしかないんだよ」 3、ドジョウとボールを見つけよう 不来得さんが、宝蔵の見つめる闇の先へと目を遣る。 でも、僕は同調する気になれなかった。 宝蔵には。 だから、不来得さんにはこっちを向いてほしかった。 「そんなの、いないよ」 不来得さんは、振り向いてくれた。 「何で分かるの?」 声は小さいが、その口調には純粋な好奇心が感じられた。 それだけに、僕はどう答えていいか分からなかった。 もともと、たいした根拠はない。 おかげで、不来得さんと僕には、妙な間ができてしまった。 「それは……」 そこへ宝蔵が何か言ってくるかと思ったが、彼は闇の彼方を見つめているばかりだった。 だが、その顔を見ているうちに思いついたことがあった。 生徒会長だったらしい宝蔵によれば、僕はクイズ研の高校生だったようだ。 そう思うと、何をすればいいか、ぼんやりとではあるが分かってくる。 「問題! 柳の下にいるドジョウは何匹?」 何だか、調子が出ない。何かが足りない気がする。 それでも、不来得さんは答えてくれた。 「1匹!」 声はかすれているのに、元気はいい。好奇心旺盛なだけでなく、自分の出番となると急に調子よくなる。 そんな不来得さんとの話が弾んで嬉しくなった僕は、さらにツッコんだ。 「何で? 「二度はいないから」 自信たっぷりに答える不来得さんに向かって、僕は本題を繰り出した。 「じゃあ、救世主は?」 「あ……」 不来得さんは言葉に詰まる。 少々意地が悪かったかとも思うが、宝蔵なんかの口から出まかせに乗せられてほしくはなかった。 僕は更に追い討ちをかける。 「昨日いたからって、今日いるとは限らないよ?」 だが、相手は意外に手強かった。 「でも、最初はいなくて、今度はいるかもしれないじゃない」 「じゃあ、探す?」 やってもムダな努力になると知りながら、聞いてみた。理屈ではなく、事実で分かってもらうしかない。 だが、天然というのか何というのか、不来得さんの切り返しはあまりに能天気すぎた。 「どこを?」 一瞬、返事に困った。 どっちかというと、それがこっちのセリフだという気がした。 「……僕が知るわけないじゃないか」 救世主がいると主張するなら、論証の責任は不来得さんにある。 だが、なぜか追及されているのは僕のほうだった。 「知らないんなら探すなんて言わないでよ」 確かにその通りだが、何だか理屈がおかしい。 それがどうしてなのかは、ゾンビの鈍った思考では分からなかった。 とりあえず、返事だけはしておく。 「探さないんならどうやって見つけるの」 不来得さんとの会話に妙な間ができたら、また宝蔵が口を挟んでくるかもしれないからだ。 そっちをちらっと見ると、いつのまにか、あぐらをかいて僕たちを見つめている。 表情が硬いのは、ゾンビになったせいだろうか。どういうつもりなのかよく分からない。 不来得さんはというと、ちょっとの間、黙り込んでいた。 答えに窮したのかもしれないと思って、ちょっと後悔した。 ゾンビになっても、1人になるのは嫌だった。 やがて、かすれた声が聞こえた。 「……何を?」 よかった。何の話だったか、不来得さんには分からなくなっている。 これも、ゾンビになったせいだろう。思考力が低下しているのだ。 僕はすかさず、話をそらした。 「何が欲しい?」 不来得さんは、星一つない暗い空をゆっくりと見上げた。 首が、後ろへガクンと倒れた。頭を支える力がないらしい。 ちょっと経ってから、不来得さんは言った。 「ボール」 今までの話と、どこでどうつながるのか分からない。 僕もしばし考えてから聞いた。 「なんで?」 不来得さんが身体を前に倒すと、頭もガクンと前に振れた。 顔が伏せられたまま、返事だけが聞こえた。 「わかんない」 終わってしまった世界にボールなんてものがあるのかどうか。 そこで僕は、まだ手に持ったままのカレンダーに気が付いた。 破れてしまっているとはいえ、これはそこらへんに転がっていた。 探せば、ボールだってあるのかもしれない。 僕がなくしたものも。 そんなことを考えていると、宝蔵が口を挟んできた。 「何の?」 ゾンビだから気の抜けた返事をするのも無理はない。 でも、探すつもりがあるということだけは分かった。 先を越された。 不得来さんに「一緒に探そう」というべきだったのだ。 だが、運のいいことに、彼女の注意は別のものにそれた。 「これ何?」 ゆっくりと指差す先は、宝蔵の尻の下だった。 薄暗くてよく見えないが、何か紙切れの端っこのようなものが見える。 宝蔵が手を伸ばす前に、僕は力の抜けた身体に任せて、その股間辺りに倒れ込んだ。 掴んだ紙切れをズリズリと引き寄せて、目の前に持ってくる。 字が書かれていた。何かのメモらしい。 頭はなかなか働かなかったが、何とか読み上げることはできた。 「またきます 救世主」 4、ゾンビにバスケットボールは可能か 宝蔵の反応は、ゾンビにしては迅速だった。 「あ、じゃあ、僕行こうか」 不自然なくらいにゆっくりとした、いや、ゾンビなら当然すぎるほど遅い口調だった。 もったりした動きで、不来得さんはわざわざ身体を起こす。 「どこへ?」 「救世主のいるところ」 いちばん問題になっていることについて、宝蔵はあっさりと答えた。 不来得さんも、身を乗り出した。 「知ってるの?」 「知らない」 こっちでも、あっさりと答えが返ってきた。人間やってたときだったら間違いなくズッコケていただろう。 ゾンビだから、抜けるような力もない。不来得さんが淡々と尋ねたのも、そのせいだ。 「知らないのにどうして行けるの?」 もっともな質問だった。どこにいるかわからない相手のところに行けるわけがない。 だが、宝蔵はすぐさま……といっても相変わらずゆっくりとした喋り方で答えた。 「知らないから探しに行くんだろう?」 言っていることはやはりどこかおかしいが、それがどこなのか指摘できない辺りがゾンビの悲しさだ。 もっとも、悲しいという気持ちさえ、もう起こりはしないのだが。 不来得さんはどの辺りをどう思っているのか知らないが、しつこく尋ね続けた。 「知ってたら?」 探しに行くのは知らないからだ。ということは、知っていれば探しに行かないことになる。 その理屈自体もどこかおかしいのだが、どこがおかしいのかゾンビの鈍い頭で考え始める前に、宝蔵はさらっと答えた。 「迎えに行くんだ」 探しに行くのとどこがどのくらい違うのか、そこのところもよく分からない。 だが、不来得さんは妙に納得した。 「ボールのほうがいいな」 これもまた、唐突な話だった。 さっきから、ボールへの執着が凄まじい。何の脈絡があるのか、よく分からない。 いや、確か宝蔵は、さっきそんなことを気にしていた。 「何の?」 同じことを聞く。 答えが返ってきた。 救世主からのメモを見つけた不来得さん自身にうやむやにされてしまった答えだ。 「バスケの」 バスケ部かなんかだったらしい。 ようやく話が整理されラところで、宝蔵が話を前向きに進めた。 「救世主とボールとどっちがいい?」 「ボール」 ゆっくりと即答した不来得さんをたしなめるように、宝蔵はぽつりと言った。 「ゾンビにバスケできないと思う」 「じゃあ、救世主」 ゾンビにしては、切り替えが速かった。 もうちょっとボールへのこだわりがあってもよさそうなものだ。 宝蔵も、同じことを考えたらしい。 「どうして?」 ただし、そこに不審や非難の響きはない。ゾンビだから仕方がないといえばないが。 だが、不来得さんには不来得さんなりのこだわりがあるようだった。 「世界がもう一回始まればゾンビじゃなくなるから」 蘇ってもう一度バスケがしたい。 それが不来得さんの望みなのだろう。だが、それが叶うことはたぶん、ない。 どうしてそうなったのかは分からないが、一旦終わってしまった世界が、そう簡単に元に戻るわけがない。 だが、やっぱり宝蔵はあっさりと言って、ゆっくりと立ち上がった。 「じゃあ、行ってくる」 両腕をだらりと下げて、ふらり、ふらりと左右に触れる影が、薄闇の中へと消えていく。 不来得さんは身体を大きく捻って振り返り、それを見送る。その姿には、来るべき新しい世界への期待が感じられた。 だが、どうしたわけか、僕はそれがたまらなく嫌だった。 5、イルカと救世主はどちらの存在可能性が高いか そこで、僕は聞いてみた。 「いると思う?」 言葉を省いたのは、はっきり言いたくなかったからだ。 それでも不来得さんには十分通じると思ったのだが、やはりゾンビでは無理だった。 「何が?」 聞かれたら、答えないわけにはいかない。仕方なく、僕は存在すら認めたくないものの名前を口にした。 「救世主」 微かな声で、しかしはっきりと不来得さんは答えた。 「いるから待つんじゃない」 それは、宝蔵の言葉を信じているということだ。 この3人しか残されていない世界で、僕ひとりだけが弾き出されているような気がした。 だからといって、僕が救世主の存在を信じると口にしても、何も変わらない。 不来得さんは、宝蔵がいれば僕に見向きもしないだろう。 僕が真っ向から向き合ってしゃべることができるのは、今しかないのだった。 だが、そんなことを気取られるわけにはいかない。 不来得さんがそれを少しでも察してしまったら、今度は宝蔵が戻ってくるまで無限の沈黙が続くだろう。 そうなる前に、何か言わないと間がもたない。 「いなかったら?」 ちょっとつっけんどんな言い方になったけど、ありがたいことに、今の僕たちはゾンビだ。 本当の気持ちを言わない限り、それを読み取ることなどできはしない。 もちろん、不来得さんは食い下がってくる。身体がふらつかないよう、ゾンビなりに背筋を伸ばして。 「いないと思うの?」 ここで反論したら、沈黙は避けられるが口論になる。それはそれで、元も子もない。 だから、僕はあの手を使うしかなかった。 「問題! いてもいないようにみえる動物は?」 何だか、調子が出ない。やはり、何かが足りないのだ。 不来得さんもちょっと面食らったようだったが、答えてはくれた。 「……イルカ」 「何で?」 そこで間髪入れず、というより、ゾンビなりに間を考えてツッコミを入れた。 不来得さんも、反応も言葉も遅いなりに、絶妙の間で切り返す。 「いるか? って」 そこでようやく、僕は本題に入ることができる。 「いないと思ってたら最初から聞かないよね」 長かった。実に長かった。 まともに話していたら、こんな会話、すぐに終わっていたことだろう。 こんなまどろっこしい前振りにもかかわらず、不来得さんが機嫌を損ねることはなかった。 「じゃあ、いると思うのね?」 声は小さかったが、僕をまっすぐ見据えて問いかけるその様子には、やはり期待があふれていた。 僕はとぼけて話をそらす。 「何が?」 ゾンビ脳は忘れっぽい。話題が変わると、それ以前の話題を忘れてしまうものらしいのだ。 もしかしたら、と思ったが、僕の読みは外れた。 不来得さんは一言ごとに首を振っては、念を押す。 「救・世・主」 そう来られると、もうごまかしようがなかった。 いるといえば、戻ってきた宝蔵と話を合わせなければならない。 すると、向こうが甲で僕が乙になる。 つまり、宝蔵に主導権が握られてしまうのだ。 この終わった世界でたった1人の、かけがえのない相手との会話は。 そう思うと、僕はつい、言ってはいけない言葉を口にしていた。 「そんなのいなくたっていい」 沈黙よりも、議論のほうがマシだった。 思った通り、期待に盾つかれた不来得さんは真っ向から問い返してきた。 「何で」 「それは……」 ヤケクソで開き直ってはみたが、結局、言葉に詰まってしまった。 理由は、言えない。言えるわけがない。 ゾンビになった今、本当の気持ちなんて。 6、来ない救世主はいつ来ることになっているか 口ごもっているところで、宝蔵が薄闇の中からのそりのそりと帰ってきた。 「ただいま」 他のときはともかく、今の今ではまさに救いの神だった。 不来得さんの関心は、一気にそっちへ向かった。 「いた?」 ぼんやりとしか見えない宝蔵の身体が、斜めに傾いだ。 肩からぶら下がった2本の腕が、いっぺんに横へと振れる。 「何が?」 口をやたらパクパクさせて答える様子は、いかにもゾンビだ。 しかも、自分が何をしに行ったのかさえも覚えていないらしい。 不来得さんはさっきと同じように、一言ごとに首を振った。 「救・世・主」 ああ、という感じで叩こうとした手を途中でだらりと垂らし、宝蔵はだらだらと答えた。 「これから、行くって」 やはり、いたらしい。 僕の負けだ。 ゾンビにはこれ以上抜ける力はないからよかったものの、そうでなかったら僕は、その場に倒れ伏していただろう。 これで、世界の始まりで蘇った不来得さんは、バスケに復帰することになる。 僕なんかが関われることは、もうないだろう。 不来得さんも、ぼろぼろのブラウスの向こうにある胸を、期待でいっぱいにしているはずだ。 だが、帰ってきたのは声もかすかな短い問いだった。 「いつから?」 ゾンビの鈍い頭で考えても、これはもっともだという気がした。 直に会った宝蔵にしてみれば、救世主の返事で充分だろう。「これから行く」は、会ってから近い未来に出発することを意味している。 だが、ここで待っていた不来得さんにしてみれば、救世主が宝蔵と会ったのがいつなのか分からない。従って、いつ頃ここに着くのかも分からない。 宝蔵は、真っ暗な空をぽかんと見上げてつぶやいた。 「いつだろう?」 不来得さんの傾げた首が、かくんと横に倒れた。 宝蔵をじっと見つめて尋ねる。 「いつって言わなかったの?」 救世主が何者かは知らないが、すぐ出る時に何時何分からとは言わないものだ。 宝蔵が困る様子は見ものだったが、これはちょっと無理な質問だ。 ところが、宝蔵は平然としたものだった。 「誰が?」 何の話か分からなくなっているらしいが、これもゾンビだから仕方がない。 口をぽかんと開けて見つめる宝蔵に、首をまっすぐ起こしながら不来得さんが声を伸ばして繰り返した。 「きゅーうーせーいーしゅ」 余計に何のことだか分からなくなる。 だが、宝蔵は大げさに頷くと、一言で答えた。 「これからって」 話が出発点に戻ってきてしまった。 こんな埒の明かない話を延々と聞いていられるのも、僕がゾンビだからだ。 不来得さんもまた、堂々巡りの話に辛抱強くつきあっていた。 「これっていつ?」 宝蔵はまた、虚ろな視線を泳がせながらしばし考える。 やがて、ぼそりと一言だけ答える。 「あのとき」 ゾンビの頭の働きはどの辺が限界か、同じ身の上になった僕はよくわかっているつもりだった。 だが、これはちょっと限界というより限度を超えている。 不来得さんは、さらにしつこく問い詰めた。 「いつ?」 少しでも早く人間に戻ってバスケがしたいのだろう。 ゾンビになっても、その執念だけは凄まじいものがあった。 それでも、同じゾンビにまともな答えを要求するのは無理というものがある。 宝蔵に答えられるのは、せいぜいこのくらいだった。 「行くって言ったとき」 ゾンビに疲れはないはずだが、不来得さんはの身体は、座ったまま、前にのめった。 平たくて固い地面に、力なくぺたりと手をつく。 「だって、来ないから」 それをしばらく見下ろしていた宝蔵は、再び、背中を向けた。 「見てくるよ」 薄暗がりの中に消えていく背中を見ながら、僕は願った。 このまま、僕たちと宝蔵の間の地面が裂けてしまえばいい……。 7、大地が裂けるときに領巾(ひれ)振る松浦佐用姫(まつらさよひめ) そのときだった。 音もなく、しゃがんだすぐ足元の地面がなくなるのが見えた。 「不来得さん!」 思わず名前で呼んでしまったのも気づかず、僕は動かないゾンビの身体で、どうにかこうにか彼女を地面に押し転がす。 不来得さんは仰向けになって、しばし呆然としていた。 だが、何が起こったのかはすぐに察したようだった。 「……三浦君?」 破れた服から肌を露わにした不来得さんが、長い髪を乱して僕を見上げている。 人間の身体だったら、慌てて跳び退るところだろう。 だが、そこはゾンビの悲しさで、身体を除けるのにも、手やひざをもたつかせて這うしかなかった。 難儀しながらぐらぐらと起き上がった不来得さんは、人間だった時の習慣なのか、髪を撫でて整える。 無事だったのを確かめた僕は改めて、さっきまで座っていた辺りを眺めた。 「裂けてるんだ、地面が」 薄暗くてよく分からなかったが、岩場は大きく割れているようだった。 宝蔵は、その向こうにいる。知らずに足を踏み入れれば、ゾンビの脆い身体は粉々になるだろう。 試しに石ころを拾ってアンダースローで投げ込んでみた。 あちこちで音を立てながら、どこまでも落ちていく。 不来得さんが、かすかな声でつぶやいた。 「会長、大丈夫かな……」 「大丈夫だよ、こっちへ来ない限り」 正直なところ、二度と戻ってくるなと思っていた。 それなのに、薄闇の向こうから声がする。 「蘭堂さん? 三浦君?」 不来得さんが、かすれ声で宝蔵に呼びかけた。 「来ちゃダメ……」 とても聞こえはしないだろうと思われた。 その証拠に、宝蔵が呑気なことを言っている。 「よく見えないんだけど、どこ行ったの?」 そのくらい、地割れは大きいのだった。 事態の深刻さに気付いた不来得さんは、僕のほうを見た。 見つめたというのではない。強い意志を持って、見据えたのだ。 「何とかして」 僕は目をそらしながら答えた。 「無理だよ」 地割れが修復できるわけでもないし、宝蔵をこっちに連れてくる方法もない。 あっても、やる気はなかった。不来得さんのそばには、僕がいれば充分だからだ。 地割れの向こうで呼ぶ宝蔵は、放っておけばいい。 「どこ?」 それでも、地割れの崖下に落ちるのは放っておけなかった。 ゾンビの頭では、すぐにはいい知恵が浮かばないが。 ところが、不来得さんの反応は妙に速かった。 「ここ!」 かすれ声で、真剣に呼びかける。 それが聞こえたのか聞こえなかったのかは分からないが、宝蔵が呼んだ。 「そっち行くよ」 僕たちがいる場所の見当がついたらしい。 不来得さんは、身体を真っ二つに折って叫んだ。 「来ちゃダメ!」 心の奥から絞り出すような声だった。 確かに、止まっていてもらわないと危険だ。 僕も声を張り上げようと、身体を大きくのけぞらせた。 その時だった。 ぷしゅう……。 おかしな音がして、吸い込んだ息がどこからか抜けていった。 何だか、胸の辺りがスースーする。 身体にまとわりついたシャツを剥がしてみると、肋骨に沿って皮膚が裂けていた。 たぶん、肺にも穴が開いていて、そこから空気が漏れているのだろう。 これでは、喋るのがやっとだ。 不来得さんはというと、まだ諦めていない。 「会長!」 かすれ声を振り絞って叫んでいるのに目をやると、白い下着が闇の中にぼんやりと浮かんで見えた。 ボロボロになった服を脱いで、崖の端の目印にしようと振り回しているのだ。 それをどう誤解したのか、宝蔵が答えた。 「ああ、邪魔しないから」 何か勘違いしているらしい。 僕と不来得さんが何かしている的な……。 誤解してくれたのは大いに結構なのだが、ゾンビ同士で何ができるというのだろうか。 薄暗がりの中に映る不来得さんの身体の線は、きれいだった。 でも、ゾンビの身体では、そこで終わりだ。 僕はだらんと垂れ下がった両腕を何とか持ち上げて、不来得さんへと歩み寄った。 このときばかりは、ゾンビの世界から目を覚ましたいと思ったのだ。 人間に戻って、強く抱きしめたいと。 抱きしめたら、人間に戻れるような気がした。 そこで、不来得さんが僕のほうを見た。 宝蔵を呼ぶのを諦めたのか、服を振る手を下ろしている。 「どうしたの?」 僕は再び手をだらりと下げて、もたもたと答えた。ゾンビだから仕方がない。 「何でもない」 背中を向けて、そう答えた。 不来得さんを抱きしめたら、何もかもおしまいになる気がした。 もし人間に戻れたとしたら、なおのことだ。 ゾンビのまま、2人きりでいたほうがいい。 そう思って動かないでいたのに、不来得さんはいつの間にか、僕の目の前へと回り込んでいた。 「ねえ?」 手に下げた服の残骸を、身に付けようともしない。 その身体は僕と同じように傷ついているのだろうが、薄闇のせいでよく見えない。 ゾンビだからかもしれないが、僕の腕は再び、勝手に持ち上げられていた。 不来得さんが、怪訝そうに小首をかしげる。 「三浦君?」 いけない、と思った。 僕はゾンビの鈍い頭をフル回転させる。 でも、不来得さんがそれに気づくはずもない。 「どうしたの?」 生身の人間のように彼女を抱きしめてしまったら、何もかもおしまいだ。 きっと彼女は怖い思いをするだろう。僕はきっと嫌われる。 ゾンビだからそう思わないかもしれないけど、だったら余計にそんなことはしたくない。 このまま、2人でいられたらそれでいい。 だから、僕は顔を上げてこう言った。 「三択問題! 伝説の松浦佐用姫(まつらさよひめ)が、新羅に出征する狭手彦(さでひこ)に振ったものは? 1、旗 2、ひれ 3、しっぽ」 三浦竜司。 どうやらクイズ研究会らしいが、ゾンビにしてはよくやった。 やっぱり、何か忘れているけれど。 何かが、足りない。あって当然のものが。 不来得さんも、真剣に考えてくれる。 「……しっぽ」 話をつなげるために、即座にツッコんだ。 「ケモノ過ぎだろ、しっぽって」 不来得さんは、むくれた様子でそっぽを向いた。 「そのネタわかんない」 「正解は2の領巾(ひれ)」 いかにも自慢げに胸を張ってみせると、不来得さんが口を尖らせて文句を言った。 「ケモノ過ぎとか言って、魚じゃない、それ」 「肩からこうかける布だよ」 ゾンビになったせいで上手く表現できない。 だが、どっちみち不来得さんが知らないものだから同じことだ。 「そんなの持ってない」 さらなる抗議に、僕は知らん顔をする。 「だからって服振ることないだろ」 実は、これが言いたかった。白くぼんやりと見える下着は、ゾンビにとってもいわゆる目の毒というヤツだ。 だが、不来得さんは素直に聞いてくれない。 「他に振るものない」 「着ろよ、とにかく」 理屈はいいから、とにかく身体を隠してほしかった。 服が血染めでもボロボロでも構わない。 しかし、不来得さんは服を振ることにこだわった。 「着ちゃったら、目印になんない」 まだ、宝蔵が帰ってくるのを待っているのだ。 この深い地面の裂け目をゾンビが越えるのは、誰が見ても不可能なのに。 だから、きっぱり言ってやった。 「来ないよ」 それを聞いていないのか聞く気がないのか、不来得さんは再び裂け目の向こうへと服を振りはじめた。 今度は、至近距離だ。 薄闇の中に描かれる複雑なカーブの線へと、手が伸びる。 「よせよ」 今度は、ちょっと強く言ってみた。 かすれ気味の声が、言い返してくる。 「何で?」 やはり不来得さんは、服を振り回すのをやめない。 やめないどころか、その片手を高く振り上げて、もう片方の手には脱いだスカートまでも掴んでいる。 「来ないからさ」 人間に戻りたいという気持ちが、再び頭をもたげてくる。 こうなるともう、目のやり場もない。 顔を背けて、勝手に動き出そうとする片腕をもう片方の手で掴む。 僕はもうゾンビなのだと自分に言い聞かせながら。 やがて、不来得さんも諦めたらしく、微かなつぶやきを漏らした。 「もう会えないんですか、会長……」 それが聞こえても、知らないふりをした。 僕は不来得さんと、終ったこの世界に2人でいられればそれでいい。 だが、それも長くは続かなかった。 とんでもない方角から、声が聞こえる。 「呼んだかい?」 真っ先に応じたのは、不来得さんだった。 「どこ……? 会長、どこですか?」 「ここだよ」 返事に振り向いてみると、ふらりふらりと歩いてくる姿がある。 それは、深い地面の裂け目の彼方に消えたはずの宝蔵月良だった。 8、ゾンビと世界の終わりは関係があるか 「お邪魔かとも思ったんだけど」 間延びした声と共に、宝蔵はふらふらとやってきた。 不来得さんが歩み寄ってきたのは、その声が近づいてくるのでわかる。 「全然! 無事でよかったよ」 「いや、それよりその……」 ゾンビのくせに妙にうろたえて、宝蔵はくるっと背中を向けた。 その勢いで、生徒会の腕章がポトリと落ちる 事情は見当がついた。僕もゾンビになる前は男だったからだ。 でも、不来得さんには分からないらしい。 「どうしてこっち向かないの?」 ゾンビになるということは、やはり心のどこかが壊れてしまうことなんだろう。 羞恥心とか、そういったものが。 でも、それは全部ではない。どこかに、人間の心の残骸が残っているのだ。 しかも、壊れ方はひとりひとり違うのだろう。 僕よりも分かりやすく、宝蔵がうろたえるのはたぶん、そういうわけだ。 「……ちょっとでもその、服着た方がいい、すぐ」 ゾンビにしてはいささか早口で促した、その点だけは僕も大賛成だった。 不来得さんも、怪訝そうではあったが納得してくれた。 「……そう?」 そのまま、無言の時間が流れた。 かつて男だった僕たちは、同じ向きで突っ立っているしかない。。 やがて、僕たちの前に、血に染まった制服が、その残骸を現した。 「お待たせ」 まるでデートの待ち合わせでもしていたかのように、宝蔵が答える。 「いや、こっちこそ」 もたもたと腰を下ろすのに合わせて、不来得さんも固い地面に座り込んだ。 それを見るのが嫌で、僕は立ったまま背中を向けた。 果てしなく続く薄闇の中で、語り合う声だけが聞こえた。 まず、不来得さんが知りたがったのは、宝蔵が見てきたものだ。 「どこまで行ってたの?」 「よくわからない」 宝蔵は一言で答えた。 不来得さんは更に尋ねる。 「どうして?」 「暗いんだもの。それに、どこまで行っても、こんな岩場なんだ。まっすぐ、まっすぐ歩くしかなかった。でも、救世主はいなくて、君たちがいた。裂けていた地面をぐるっと迂回してきたなんて、今気づいたんだよ」 長々とした事情の説明は、元のゾンビならではの間延びした口調に戻っていた。 聞いているのは結構つらかったが、これもゾンビの頭だからだ。あまり話が長いと、理解が追いつかない。 不来得さんも、それは同じだったらしい。 「そう、大変だったね」 突っ込んで然るべき矛盾は、スルーされていた。 まっすぐ歩いていたのに、なぜ地割れを迂回して戻ってきたのか? それは、両脚への体重のかかり方が左右均等ではないからだ。 目印になるものがない砂漠や雪原でも、同じことが起こるという。 ゾンビになってもこんなことを覚えているのは、やはり僕がクイズ研とかいうところにいたせいだろう。 ところで、不来得さんが問題にしているのは別のことだった。 「で、世界って何で終わっちゃったの?」 「さあ……」 地割れの迂回よりも遥かに本質的な問いに、宝蔵は言葉を濁した。 そんなことを聞かれても困るのは、僕だって同じだ。 蚊帳の外バンザイ、といったところか。 不来得さんの追及を受ける役目は、宝蔵が背負えばいい。 「世界が終わったから、私たち、ゾンビになっちゃったんでしょう?」 「そうかもしれないし、違うかもしれない」 答えているようで、何の答えにもなっていない。返事はイエスかノー、どちらかしかないのだから。 それでも、不来得さんは身を乗り出して食いついてきた。 宝蔵に噛みつかんばかりに。 「関係ないかもしれないの? 世界の終わりとゾンビ」 だが、迫られたほうは怖じる気配もない。 身体を引きもしないで平然と答えた。 「確かめる必要があるね」 ますます分からないことを言う。今さらそんなことを調べて、何になるというんだろうか。 だが、不来得さんは興味津々だった。 「どうして?」 「関係があるんなら、世界が始まったら、元に戻れるかもしれない」 宝蔵は自信たっぷりに言うが、これも答えになっていない。 この、終わった世界が再び始まるとは限らないからだ。 でも、不来得さんはすっかりその気になっている。 「どうやって?」 そう、問題はそこなのだ。 世界が始まったとしても、ゾンビが都合よく人間に戻れるとは限らない。 だが、宝蔵はここでも答えをはぐらかした。 「とりあえず、何で世界が終わったのか調べないと」 そこで、不来得さんはよろよろと身体を起こした。 「じゃあ、行こう」 それは、嫌だった。不来得さんが宝蔵と行ってしまうなんて。 だが、僕もついていくとはどうしても言えなかった。 2人の後についていくなんて。 宝蔵はというと、不来得さんよりも勢いよく立ち上がって言った。 「いや、僕ひとりで」 思わぬ申し出だった。 両足と上半身をふらつかせながら、不来得さんは文句を言う。 「連れてってくれないの?」 左右に振れる肩を、宝蔵はしっかりと掴んだ。 不来得さんをまっすぐに立たせて、真剣な眼でたしなめる。 「彼を1人にしちゃいけないよ」 そう言うなり、宝蔵は腕章を拾い上げると薄闇の彼方へと歩いていった。 9、秋葉原でゾンビは生まれるか どうも、僕を気遣ってのことらしかった。 結局、また不来得さんと2人きりになることはできたが、あまりいい雰囲気ではない。 「三浦君がしっかりしないから」 後ろから、かすれ声で非難された。 真っ向から責められるよりも、余計にこたえる。 こういうところだけは、都合よくゾンビ化されてくれないらしい。 「失敗したら、ゾンビ全滅だろ」 そう言いながら、よろよろ歩きだす。 もうとっくに、宝蔵の姿は見えなくなっていた。 不来得さんも、後についてくる。 「うーん……」 それっきり、会話は途切れた。 薄闇に包まれながら、どこまでも歩くことになる。 世界が終わっている上に、僕たちは疲れを知らないゾンビなので、この沈黙は放っておくと延々と続くことになる。 しかも、不来得さんの不興を買ってもいた。 何とか場を和ませようとすれば、僕にできることは1つしかない。 「三択問題! ゾンビはもともと、どこで生まれたでしょう? 1、アメリカ 2、アフリカ 3、アキハバラ」 まっすぐ、まっすぐ歩きながら出したクイズに、不来得さんは面白くもなさそうに答えた。 「アキハバラ」 「ハロウィンでコスプレやってるかもしれないけどさ」 自分でも上手いことを言ったと思ったが、何のツッコミもない。 再び、沈黙が戻ってきた。 その上、どこまで行っても宝蔵は見つからなかった。 不来得さんはともかく、僕はそれでも構わない。 とにかく、間をもたせることができれば、それでよかった。 「さっきのクイズの答えなんだけどね」 ゾンビがどのようにして生まれたか、長い解説を始める。 「もともとは、中南米辺りに奴隷として連れてこられたアフリカ人たちの宗教……ブードゥー教の呪いで蘇らされた死体のことだったみたいだね。アフリカの人たちはもともと、目に見えない霊みたいなものを信じてて……」 こんな話を、不来得さんが聞いているかどうかは分からない。彼女は無言で、ひたすら僕の後をついてくる。 そのうち、人類の始まりはこんなふうだったかもしれないという気がしてきた。 夜が明ける前のアフリカの大地で、背中を丸めて前かがみに歩く、ひとつがいの最初の人類。 でも、それは世界の始まりの話だ。 僕たちがいるのは、終わった後の世界にすぎない。 いつの間にか、長い話も終わっていた。 再び、しばしの沈黙が戻ってくる。 そのうち、不来得さんがつぶやいた。 「会長、戻ってきてるんじゃないかな」 それは考えられることだった。 さっき宝蔵が地割れを迂回できた理由を、僕はまだ説明していない。 だが、同じことは僕たちにも言えることだった。 いつの間にか、さっきの地割れに戻らないとも限らない。 どちらにせよ、行き先は足に任せるしかなかった。 返事もしないで歩き続けようとすると、背後から呼び止める声があった。 「呼んだ?」 宝蔵だった。 振り返ってみると、暗がりの中にぼんやりとエプロンドレスだけが見える。 ゾンビの頭では、宝蔵の声と闇に浮かぶものがなかなか結び付かない。 僕も不来得さんも、できることは立ち止まってしばらく待つことだけだった。 やがて目の前に現れたものに、僕は言葉を失った。 うすうす想像はしていたが、もっと意外なものであってほしかったのだ。 それでも、不来得さんは声をかける。 「どしたのその格好?」 明らかに秋葉原辺りのメイドカフェ店員風の宝蔵は、恥じらいもなく答えた。 「そこで拾った」 世界が終わっても、その手のものだけはあるらしい。 だが、そんなことよりも気になったことがあった。 宝蔵は、ずっと先を歩いているはずではなかったか? 不来得さんも、同じことを考えたようだった。 「何で後ろから来たの?」 「また、戻ってきたみたい」 つまり、さっきと同じことが起こったということになる。 まっすぐ歩いているつもりでも、ゾンビは人間と同じく、右足側か左足側か、どちらか寄りに曲がってしまうのだ。 すると、おかしなことがある。 僕たちは宝蔵と同じ方向に曲がって後に続くはずだ。 あるいは、反対方向に曲がって出発点辺りでその背後についていてもいい。 なぜ、そのどちらでもないのか? 僕たちは、まっすぐ歩き続けていたことになる。 だが、不来得さんはそこまで追求しなかったので、話は別方向にそれてしまっていた。 10、エンタメのシナリオってパターンあるじゃない 「会長って、メイド服似合うね」 「演劇部だし」 人間だった頃の記憶が、宝蔵には僕たちより鮮明にあるらしい。 僕がクイズ研だったことを覚えているくらいだ。 一方、バスケ部だったらしい不来得さんは、宝蔵のことをよく知っている。 「可愛くなかったら似合わないし」 ゾンビが人をおだてられるものかどうか、そこのところはよく分からない。 ただし、メイド服を着たほうは、どっかりとあぐらをかいてみせたようだった。 「台本をそういうふうにしたときだけさ」 ゾンビが謙遜をするものかどうか、それもよく分からない。 ただ、その一言は不来得さんの関心をますますかきたてたようだった。 「自分で書くの?」 不来得さんは足を揃えて座る。 宝蔵は後ろに投げ出した身体を、両腕で支えながら答えた。 「文化祭のもね」 まるで、世界がまだ終わっていないかのような会話だった。 学校がまだあって、文化祭をやっているかのような……。 不来得さんも、斜めに姿勢を崩す。 肩にかかったブラウスの破れ目から下着が覗いた。 「随分かかったんじゃない?」 目をそらしながら、宝蔵はさらっと答える。 「1週間くらいで書いちゃったよ」 「そんなに簡単に……」 大げさに頷く不来得さんに向かって、宝蔵は身を乗り出した。 真面目な口調で語り始める。 「エンタメのシナリオってパターンあるじゃない」 「そう?」 小首を傾げる不来得さんに、宝蔵は噛んで含めるように解説する。 「たいてい最初の3分の1くらいで最初のヤマがあるじゃない」 「ああ、勇者が旅立つみたいな」 その辺りは、不来得さんにも分かるようだった。 そこで、宝蔵は一気に語る。 「で、いろんなバトルとかあって、真ん中へんでにっちもさっちもいかなくなるという」 そこで不来得さんは突然、本質を突くことを言った。 「今みたいな」 確かに、その通りだ。 僕たちは今、立ち往生している。 不来得さんは宝蔵と共に、新たな世界を始める救世主を探しあぐねている。 僕はといえば、そんな不来得さんと2人で、終わった世界に留まろうとしている。 宝蔵はといえば、得たりというように答えた。 「だから、情報を見直すんだよ」 「どの?」 不来得さんは居住まいを正す。 その顔を真っ向から見据えて、宝蔵は話を詰めはじめた。 「まず、世界は終わった」 不来得さんが応じる。 「私たちはゾンビ」 これまでに起こっていることは、この2つだ。 宝蔵は、情報の整理を続ける。 「救世主はこれから来る」 不来得さんもまた、微かな声で、しかしはっきりと言い切った。 「新しい世界は、そこから始まる」 まだ起こっていないことを、確実であるかのように。 そこで2人は無言で見つめ合うと、同時に口を開いた。 「何で世界は終わったか」 「なんで私、バスケできなくなったか」 言っていることは違ったが、そこには確かに、通じ合う何かがあった。 宝蔵が、ゆったりと立ち上がる。 「確かめてくるよ」 薄闇の中に消えていく後ろ姿を、不来得さんはじっと見送っていた。 11、ボタンを巡る問答にバカ殿は間に合うか 僕と2人きりになると、不来得さんは押し黙ってしまった。 それはそうだ。 宝蔵さえ待っていればいいのだから。 こんなとき、僕にできることは決まっている。 「問題! 野球の投球、キャッチャーミットに3回投げるとストライク、4回外すと」 「ボール」 不来得さんは目を伏せたまま、ぼそりと答える。 それでもやっと、話の糸口はできた。 「探してもらえばよかったね」 面白くもなさそうな答えが返ってくる。 「三浦君も行けばよかったじゃない」 「蘭堂さん置いていけないよ」 気遣ってみせたつもりだったが、返事は冷淡だった。 「私、平気だから」 それでも、ここで退くわけにはいかない。 少しでも、いいところを見せておく必要があった。 「じゃあ、一緒に行こうか」 これは、さっき不来得さんが言ったことだ。 だが、すでに時も場合も違っていた。 「誰もいなかったら、救世主が来たとき困るじゃない」 蘭堂とのやりとりで、それは可能性ではなくて、起こると決まったことになっている。 それだけは、認めるわけにはいかなかった。 「来ないかもしれないよ」 「会長、来るって言った」 不来得さんにとって、宝蔵の言葉は絶対的なものになっている。 まず、そこから崩さなくてはいけなかった。 「他に方法があるんじゃない?」 「どんな?」 不来得さんは顔を上げた。チャンスだった。 僕は口から出まかせを言う。 「何か、スイッチがあるとか」 そこで、不来得さんは億劫そうに、ゆっくりと手を叩いた。 「あ、そういえば、早押しクイズに慣れた人って、バタン見ると押しちゃうんだっけ」 ゾンビになると手足同様、口も上手く動かないらしい。 僕は正しく言い直してみせた。 「ボタン」 「ヴィトン」 肝心なことほど、上手く言えないものらしい。 それでも会話を弾ませようと、漫才のようにツッコミを入れた。 「カバンじゃなくて」 「ジバン」 言い間違いにしては無理があったが、それでも沈黙よりはマシだ。 だからすかさず、クイズでつなぐ。 「問題 政治家に必要な3バンとは、ジバンと何とカバン?」 「……三択で」 不来得さんは、かなり乗ってきたようだ。 あるべきものがなくても構わない。 僕もウケを狙いに行った。 「1、コンバン 2、カンバン 3、コバン」 「コバン」 本当に知らないのかボケているのか、そこは分からない。 だが、今は場が盛り上がればどっちでもよかった。 「おぬしもワルよのう、って違う!」 慣れないノリツッコミをやったところで、邪魔が入った。 「呼んだ?」 暗がりの中に、長いチョンマゲと金ぴかの着物が見える。 僕の努力の上を行くウケ狙いに、不来得さんがすかさずツッコんだ。 「何その格好」 バカ殿様の衣装を着たゾンビが、笑いを取りにきたにしては力なく答える。 「もらった」 「誰に?」 不来得さんは眉をひそめて、怪訝そうに追及する。 宝蔵は大げさに首を傾げると、ゾンビらしく視線を泳がせて答えた。 「救世主」 それはつまり、新たな世界をもたらす者に会えたということだ。 不来得さんはゆっくりと目を見開いた。 「来たの?」 宝蔵は頷いた。 それは、僕と不来得さんとの時間が終わることを意味する。 だが、その答えは、薄闇の向こうに目を遣りながら返された。 「どっか……行った」 「何で逃がしたの」 かすれた声に責められて、バカ殿様はうなだれた。 バカ殿の姿で暗がりの中へと消えた。 「捕まえてくるよ」 12、カラジッチは卒業式に制服の第2ボタンをねだるか ゾンビの記憶は途切れやすい。 余計な邪魔が入って、不来得さんはそれまでのやりとりをすっかり忘れていた。 「何の話だっけ?」 答えてしまうと、会話はそこでおしまいだ。 僕はクイズを出し続ける。 「問題! 何に唐獅子、竹に虎?」 もちろん、答えはボタン……牡丹だ。 不来得さんは知らないかもしれない。 それならそれで、僕が答えを教えるまで2人の時間は続く。 だが、不来得さんは器用に聞き間違えた。 「カラジッチって何?」 普通なら言い直すところだが、そこはクイズ研だ。 クールにツッコミを入れる。 「政治家やってたセルビアの言語学者じゃないんだから」 マイナーなネタだった。 だが、好奇心旺盛な不来得さんは食いついてくる。 「誰それ?」 「旧ユーゴスラビアで虐殺やった人」 すかさず答えてみせる。 これもバスケ部員には縁遠い話だったろう。 だが、知らないことほど興味を持つのも不来得さんだ。 そこは僕にも分かってきていたが、返ってきたリアクションは意外だった。 「あ、だから世界終わったとか」 そっちに結び付けるかと思ったが、そんな話はしたくない。 話の軌道修正が必要だった。 「いや、20年くらい前の話だから」 「あ、そんな昔から」 いったん何かにこだわりはじめた不来得さんは止められない。 こうなると、打ち消すのは大変だった。 「そうじゃないと思う」 「で、何の話?」 いきなりではあるが、話がそれてくれた。 助かりはしたが、さっきと同じ話をしなければならなくなった。 結構、面倒臭い。 「唐獅子と……」 「ヒント」 人の話を遮って、横着を言う。 なぞなぞの答えに困った子どものようだった。 それでも、もう少しこんなやりとりが続いてもいいと思いながら、ヒントを出す。 「卒業式で好きな先輩からもらうじゃない」 なぜか、胸の辺りが疼いた。 僕もゾンビのはずなのに、おかしい。 心臓はとっくに止まっているはずだ。 だが、そんなことを詮索している余裕はなかった。 お約束の邪魔が、また入る。 「僕がどうかした?」 また宝蔵が戻ってきたのだ。 薄闇の中から現れたところを見てみると、もとのゾンビルックに戻っていた。 血で染まったボロボロの服について、不来得さんは何も言わない。 気にしたのは、別のことだ。 「あ、来年、制服の……」 その先は、聞きたくなかった。 いや、そもそも意味のない話だ。 終わった世界に、来年の卒業式などありはしない。 だが、もしかすると。 そこで宝蔵が、ありがたいことに不来得さんの話を遮ってくれた。 「はい、探しに行ったら、これあげるから待っててって」 誰が言ったのかは分かりきっていた。 救世主。 しかも、手渡されたものは、新たな世界の到来よりも確かだった。 「ボール!」 不来得さんが、暗い空に向かって、バスケットボールを高々と差し上げる。 13、終わった世界に魔法のポーションは肉体を再生するか 「はい! 提案! バスケやりましょう!」 かすれた声で、不来得さんが主張する。 俄然、やる気を出したわけだが、僕はやる気をなくしていた。 「やらない」 「やろうよ」 元バスケ部員は、完全にスイッチが入ってしまっている。 この誘いを突っぱねる方法は、1つしかない。 「ゾンビだから」 バスケとの組み合わせは、普通に考えたら絶対にあり得ない。 だが、理屈以前のそういうお約束など、不来得さんには通用しない。 「ゾンビだと何でバスケできないの」 「動きのろいじゃん」 立てば上半身は常に左右に揺れ動く。 走ることはおろか、歩くのがやっと。 それでバスケは無理だ。 「鈍くてもできるよ」 「ボールはねないじゃん」 ドリブルは、無理だ。 確かにボールは、地面に落とせば跳ね返ってくるだろう。 しかし、それを同じ速さで叩き落とし続けることなど、ゾンビにできはしない。 「持って歩くもん」 元バスケ部員とは思えない理屈だった。 不来得さんが自覚できていないのなら、ここはクイズの出番だ。 「問題! ボール持って3歩以上行くの何ていうんだっけ?」 「トラベリング」 ほとんど条件反射で、答えが返ってきた。 ゾンビになっても、身体の奥底に染みついたものは消えないものらしい。 僕は勝利を宣言した。 「そこで終わりじゃん」 だが、不来得さんは引き下がらなかった。 「パスしながら」 のろいゾンビの動きでは無理だ。 もっとも、不来得さんはそう言っても納得しないだろう。 事実をもって証明するしかない。 「やってみようか」 僕が差し出した手に、バスケットボールが乗せられる。 ゾンビの手では、掴むのも大変だった。 落としそうになったところで、宝蔵が「おっと」と茶々を入れた。 気にしないようにして、ボールを投げてみる。 不来得さんは両手を差し出したが、とても届きはしなかった。 「もっと前に来てよ」 負け惜しみを言う間にボールを拾えばいいのだが、それは宝蔵に「おっと」とか言いながら拾ってもらう。 それを受け取った不来得さんは、僕に向かって両手で放り出した。 「届かない」 僕の足下に落ちたボールを、転がして返してやる。 不来得さんはそれを拾うと、さらなる要求をしてきた。 「もっと前」 いわれるままに、足を進める。 だが、そこはもう、ボールを手渡した方が早いほどの位置だった。 やんわりと、実験の中止を告げてみた。 「投げても意味ない気が」 「そうかな」 諦めの悪い不来得さんは、今度は宝蔵に向かってボールを投げた。 傍観者を決め込んでいたところへの不意打ちだった。 だが、そのボールは「おっと」の一言と共に、宝蔵の手の中へと納まっていた。 不来得さんがつぶやく。 「凄い……ゾンビなのに」」 宝蔵は頭を掻いて、「いやその」とか何とか言っている。 その様子を見ていると、どうにも黙っていられなくなった。 「僕だって」 そう言ったところですぐ、宝蔵はボールを投げてきた。 ゾンビにしては、速い。 「あ……」 取り損ねた。 不来得さんの前で。 空しく転がるボールを見つめながら、僕は思った。 失せろ、ボール! その思いが通じたかのように、それは地面に落ちると、ぱっくりと口を開けた。 あまりのことに、僕は口を閉ざした。 ボールをもたらした宝蔵も、それを受け取った不来得さんも、ただ唖然として、割れたボールを見つめていた。 だが、そんなしばしの沈黙の後だった。 不来得さんが両手をばたばた動かして、その場を取り繕った。 「いいの、もういいの、バスケなんかもうできないんだから。どうせ私はゾンビ」 そう言われると、よけいに放っておけない。 何ともできないものを何とかしようとして、僕はボールを拾い上げた。 その裂け目を確かめてみたとき、気づいたことがあった。 「何か入ってる」 不来得さんも近づいてきた。 僕が取り出した壜のラベルをじっと見つめる。 「肉体再生ポーション?」 確かに、漢字とカタカナではっきり書いてあった。 カレンダーに救世主のメモ、そしてボール。 実に都合よく次から次へと出てくるものだが、これは極めつけだ。 そう思うと、つい、ため息が出た。 「何て設定も思いっきりなものが」 いくら何でも、これは想定外だった。 14、壜のラベルの注意書きは信ずるに値するか 宝蔵が、いかにも納得したというふうにつぶやいた。 「救世主は、これ持って待ってろと」 不来得さんは、僕が取り出した壜をしげしげと眺めている。 そのラベルには、口にするのもアホらしい名前が書いてあるはずだ。 「でも、1本しかない」 その口調は、割と深刻だった。 まさかとは思うが、これが本物だと信じているのだろうか。 宝蔵はどう思っているのか分からない。 だが、不来得さんに告げた言葉は模範回答だった。 「じゃあ、君が」 そう言い残して、生徒会長は闇の中へ消えていく。 いつの間にか、その腕章は安全ピンで、袖のない腕に直接縫い付けられていた。 その姿をじっと見送る不来得さんに、僕ははっきりと言った。 「ダメだよ、蘭堂さん」 「生き返っちゃダメ?」 真っすぐに見つめ返されても、僕は折れるわけにはいかなかった。 「先輩に譲ろう」 「私に生き返ってほしくないの?」 そんなふうに脅しのような言い方をするのは、不来得さんらしくなかった。 だが、それでも僕は彼女と一緒にいたかった。 「違うよ、譲ってくれた人が飲むべきだ」 これも、本音ではない。 もし本物だったら、僕たちを残して宝蔵が消えてくれるからだ。 もちろん、こんな腹黒い目論見に、純粋な不来得さんが気づくわけがなかった。 「意外に冷たいね」 そんなふうに言われたくはなかった。 でも、不来得さんと2人だけの世界にいられるなら、どんな手でも使うつもりだった。 「本物とは限らないし」 一方、不来得さんは不来得さんで、負けてはいなかった。 ゾンビの割には、筋道の通ったことを言う。 「飲んでみればわかるじゃない」 だが、その効能が分からなければ、薬の真偽は確かめようがない。 試しに、ラベルの裏側を読んでみた。 「なんか書いてある……無理しない限り、生き返れます」 不来得さんは、痩せたゾンビの腕を僕の前に突き出していた。 「飲んだら何もするなってことね」 僕は、目の前の腕を払いのける。 骨と皮ばかりになってはいたが、容赦はしない。 「……クイズで勝負しよう」 だが、不来得さんは今までのように単純ではなかった。 いや、女というのはそもそも、そういうものなのだろう。 「勝った方が飲むっていうのは不公平じゃない?」 その通りだった。 僕が圧倒的に有利なルールで勝負するつもりだったのだ。 もちろん、勝っても飲むつもりなんかない。壜は、その場で叩き割るつもりだった。 それを見抜かれてしまったのなら仕方がない。 次の手を考えるしかなかった。 「じゃあ、僕が答えられなかったら負け」 ゾンビになった僕に、クイズ研での記憶がどれだけ残っているかは分からない。 だが、今では一番確実な方法だった。 頼れるものは、頭の中の知識しかなかったのだ。 その僕に、不来得さんは真っ向から挑戦してきた。 「……私のこと、好き?」 それは、クイズではなかった。 ゾンビになった僕に、答えられるわけがない。 「え……」 そもそも人間だって、自分の気持ちを全て知っているわけではないだろう。 だが、そんなのは言い訳にすぎない。 僕は、ゲームに負けたのだ。 「じゃあ」 手の中にある壜を握りしめようにも、ゾンビでは力が足りない。 不来得さんは「肉体再生ポーション」の壜を奪い取るなり、中身を一気に飲み干した。 偽物であってほしい、と願う一方、僕はどこかでその効果を信じてもいた。 大地よ、裂けろ。 この足もとで裂けて、僕たちを全員、呑み込んでしまえばいい。 15、救世主は荒野の呼び声を聞き届けるか そのときだった。 「三浦君!」 不来得さんが、叫びも空しく姿を消した。 見れば、地面が再び、大きく割れている。 その下を眺めようと顔を突き出すと、すぐ目の前の崖に不来得さんがしがみついていた。 「つかまって!」 地面に腹這いになって、ゾンビの手で、同じゾンビの細い腕を掴む。 不来得さんが僕の手首を掴み返そうとしたが、とてもそんな力はないようだった。 だが、大丈夫だ 僕に任せておけばいい。 「無理すんなよ」 そう声をかけはした。 だが、そんな言葉だけで納得させられる不来得さんではない。 「でも、竜司君が」 実をいうと、僕の手の力にも限界があった。 自分でもタフなほうだとは思わないが、だからといって投げ出すことはできない。 「僕、ゾンビだし」 苦痛を感じることは、少なくともない。 これが原因で、不来得さんの腕を離すことはなさそうだ。 だが、それは最大の弱点でもあった。 不来得さんが、冷ややかにそれを告げる。 「だからよ」 それがどういう意味か分からないでいるうちに、僕の身体にピンチが訪れた。 肩と肘の関節がいっぺんに外れるたのだ。 無理して身体を起こそうとしたら、腕の付け根から身体の筋肉がばっくりと裂けていた。 痛くは、ない。 だが、このまま身体が裂けてしまえば、梢を支えきれないのだった。 頼れるものは、何一つとしてない。 いや……あるといえばあった。 「救世主!」 もう、頼る者はここしかなかった。 やってきたら、世界が始まってしまうかもしれない。 でも、このままでは不来得さんがいなくなってしまう。 僕は救世主の到来を待ちながら、ゾンビに残った僅かな力を振り絞った。 汗なんかもう出ないはずなのに、手が滑る。 僕は再び助けを求めた。 「救世主 メシア! メサイア!」 クイズ研の知識を全開にして、日本語とヘブライ語っぽい横文字と英語で呼んでみた。 世界が始まってしまってもいい。 ゾンビがみんな人間に戻って、不来得さんが宝蔵と恋に落ちたってかまわない。 僕はそのときどうするだろう? どうなったっていい。 とにかく、不来得さんがこの危機を脱することができれば……。 でも、誰もやってこなかった。 「竜司君!」 不来得さんが、再び僕の名前を叫んだ。 今までは、「三浦君」と言っていたような気がする。 そんなことに注意がそれたのが、よくなかった。 「不来得さん……!」 もう、声が出なかった。 自分の身体の裂け目が、腹のへんまで広がったのだ。 腕が取れてしまったら、不来得さんが地面の裂け目に落ちてしまう。 だが、崖の上で腹這いになった姿勢は、微妙なバランスを保っている ちょっとでも変えたら、僕まで落ちてしまうかもしれない。 それを察したのか、不来得さんのかすれた声が告げた。 「もう、いいよ……ありがとう」 冗談じゃない。 不来得さんが落ちるなら、僕も落ちてやろう。 一か八か、僕は取れそうな腕を無事なほうの腕で掴んだ。 だが、僕の力だけでは無理だ。 「崖にしがみつけ、不来得さん!」 叫ぶなり、引き上げにかかる。 自分でも本当にゾンビかと思うような力が感じられた。 だが、それが余計によくなかったらしい。 「あ……」 僕と不来得さんのどちらがそう言ったのか、よく分からない。 間違いないのは、僕の身体が保っていた微妙なバランスが崩れたということだ。 僕は不来得さんもろとも、地割れの底に真っ逆さまに落ちていく。 そうなると覚悟したときだ。 「私の手を離さないで! 三浦君」 かすかな声がする方を見上げると、スカートのなかの白い下着が見える。 不来得さんは、落ちていなかった。 どうやら、崖の縁を掴むことはできたらしい。 僕の手を掴んだ方の腕は、さっきの岩に引っかかっている。 不来得さん1人なら、助かるだろう。 「ダメだよ……女の子の力じゃ」 僕は手を緩めた。 かすれ声が、呻きもしないで答える。 「関係ないでしょ、ゾンビなんだし、私たち」 力がないのは、お互いに同じだ。 ここでいい格好をすれば、かえって共倒れになる。 腕が本当に取れてしまわないように、動く方の腕で崖に取り付いた。 それで少しは楽になったのか、なんとか不来得さんは這い上がることができた。 これで僕も、冗談を言ことぐらいはできる。 「問題……ゾンビにもあったんだね」 これはもう、クイズでも何でもない。 何か足りないものも、見つからないままだ。 僕を引き上げながら、不来得さんが答える。 「火事場の……」 僕はその先を遮った。 「はい正解」 その先を言わせるわけにはいかない。 不来得さんに、「クソ力」なんて。 暗闇の中にぼんやりと浮かぶ白い肌と、そこに流れる黒髪には似合わない。 一息つくと、不来得さんは笑顔を見せた。 「意外に軽いね、ゾンビって」 でも、それは一瞬のことだった。 乱れた髪が、薄暗がりの中に消えていく。 不来得さんは、自分の掌を呆然と見つめていた。 嫌な沈黙が、また戻ってくる。 それはもう、クイズではごまかせないくらいに重い。 「これ、知ってたんだよ……救世主は」 そんな事しか言えなかった。 薄闇の向こうで、不来得さんがどんな顔をしているのかは分からない。 ただ、かすれ声でつぶやくのだけが聞こえた。 「無駄にしちゃったね」 16、万能の救世主は終わった世界に介入するか そこで、また宝蔵の声がした。 「ただいま」 暗がりの向こうから現れた姿は、いかにもキリストっぽかった。 ブラジルの首都にある、巨大なキリスト像がちょうど、こんな感じだ。 気持ちを切り替えようとしているのか、不来得さんがまたツッコんだ。 「何その格好」 「救世主」 聞かれたことだけ、単語で答える。 いかにも愛想がないのは、ゾンビだから仕方がない。 それでも、不来得さんは、間をもたせようとするかのように尋ね続けた。 「会長が?」 認めたくない。 実は宝蔵が、なんて冗談は絶対に。 その事情は、聞いてみれば単純なことだった。 「くれた。これ着ろって」 ゆったりした袖をひらひらさせながら答える。 すると、残った問題はただ1つだ。 その答えはさっき出たようなものだった。 あの場面でもう1人いれば、僕たちは簡単に助かったのだ。 それでも、不来得さんは敢えて聞いた。 「本人は?」 「そこまで来てたよ」 宝蔵は、さらっと答えた。 これが人間だったら激怒するところだろう。 だが、僕たちはゾンビだ。 「何で来なかったの」 かすかな声で不来得さんが尋ねると、宝蔵は改まった口調で言った。 「大丈夫だって言ってた……君たちなら、自分で何とかできるからって」 「……そう」 何やら、不来得さんは納得したようだった。 それがどうしてなのかは、何となく分かった。 ただし、ゾンビの頭では上手く説明できない。 それを、宝蔵は短くまとめてしまった。 「見捨てたんじゃない、見守っていたんだよ、救世主は」 そう言われると、僕も納得せざるを得なかった。 救世主がいて、不来得さんと共に世界が蘇るのなら、それでいい。 でも、そうなったら、僕は彼女にとって何でもなくなる。 せめてその時までは、不来得さんに僕を見ていてほしかった。 「問題! この世界を破滅させたのは、誰でしょう」 最後のクイズだった。 今まで誰もが忘れていて、誰ひとりとして解けない問題だ。 それでもやっぱり、何かが足りないような気がするが。 「何よいきなり」 不来得さんが文句を言う。 いい話でオチていたところを邪魔されたのだから、仕方がない。 でも、せめて。 世界の始まりのときまでは許してほしかった。 「ヒントは、今までの出来事の中に在ります」 すると、宝蔵が割りこんできた。 「ええと、さかのぼって考えてみよう」 そうなると、不来得さんも勢いづく。 「私が三浦君を引っ張り上げた」 宝蔵は、地割れをちらりと見やる。 事情は、それで分かったようだった。 「滑り落ちたんだね」 まるで僕がドジを踏んだような言い方だった。 その誤解は、不来得さんが解いてくれた。 「でも、それは私が先に落ちたから」 「それは、地割れのせいだね」 絶対に、不来得さんのせいにしようとはしない。 不来得さんも、全てをなかったことにしてくれた。 「誰のせいでもない」 だが、そこで宝蔵はとんでもないことを言い出した。 「でも、もし、地割れを起こすことができる者の仕業だとしたら?」 そんな者がいるわけがない。 僕はただ、そうなればいいと望んだだけだ。 だが、不来得さんは真面目に考え始めた。 「私がポーション飲んだから?」 全く関係ない。 そこは宝蔵もうまく流す。 「よく考えたら、都合のいい薬だね」 その通りだ。 何もかもが、ご都合主義で動いている。 カレンダーに救世主からのメモ、そこらに落ちている衣装、そしてバスケットボールに……。 怪しげなポーション。 それがどこにあったかは、不来得さんが口にしてくれた。 「ボールに入ってたのよね」 それは、僕が取り出したのだから間違いない。 そのときと同じように、宝蔵が口を挟んだ。 「救世主がくれたんだ」 その一言は、不来得さんの好奇心を刺激したらしい。 「じゃあ、救世主の仕業?」 そうだとしたら、手の込んだ仕掛けだ。 ポーションの壜を仕込んだボールが、落としたら割れるようにしておいたのだから。 そこで、宝蔵の口調が変わった。 「何のために?」 それはまるで、答えを引き出そうとしているかのようだった。 さっき、僕が不来得さんに対してそうしたように。 だから、僕の出番はなくとも、不来得さんは答えた。 「私と三浦君を争わせるため」 目を閉じて、何かを考えているようだった。 確かに、ポーションを飲む飲ませないで、僕たちは口論をした。 クイズで勝負までして。 その時も、あって然るべきものはなかった。 それが何だか、思い出せれば。 ゾンビの鈍い頭を必死で働かせているうちに、宝蔵は問いかけを続ける。 「救世主に何の得がある?」 だが、不来得さんも今度ばかりは答えなかった。 質問に質問で返す。 「そもそも、救世主って本当にいるの?」 「いるさ」 宝蔵は、はっきりと言い切った。 不来得さんは、さらに問いただす。 「本当に世界を再生できるの?」 ゆっくりと頷いた宝蔵は、「はい」とも「いいえ」とも言わない。 ただ、事実だけを告げた。 「君はわずかの間、蘇った」 それは、世界が再生できるという根拠とも取れる。 不来得さんも、事実で答える。 「あなたが薬を譲ってくれたから」 それは、宝蔵の言ったことをやんわり打ち消したようにも見える。 しかし、それは感謝の言葉でもあった。 どちらにせよ、僕と不来得さんだけの時間は、終わる。 だが、それほどまでにいい雰囲気を、宝蔵は自分で断ち切った。 じっと見つめる不来得さんではなく、僕のほうへと向き直る。 「ああ、そういえば三浦君、これ、拾った」 そう言って差し出したものがある。 確かに、見覚えがあった。 「ボタン……」 それは、何か足りないと思いながらも、言葉にできなかったものだった。 宝蔵は、それがどういうものかまで分かっていた。 「早押しボタンだろ? クイズで使うオモチャの」 ご都合主義にもほどがあるといえばそうだ。 だが、これは今、僕が最も必要としているものだった。 ゾンビの濁った頭に、混乱の極みともいえる言葉が浮かぶ。 「実は、世界を破滅させたの、僕なんだ」 「え……?」 不来得さんも宝蔵も、ぽかんとして僕を眺めた。 虚ろな眼は、魂のないゾンビそのものだ。 その前に、僕は早押しボタンをゆらりと突き出した。 「これ……僕だけが使える世界のスイッチなんだ」 17、誰がために始まりの鐘は鳴るか 不来得さんは、ゾンビらしく感情抜きに言った。 「そう」 ネタかなんかだと思っているらしい。 確かに、ギャグとしても完全にスベっている。 だが、僕は真剣だった。 「信じてないね」 そう言うと、不来得さんもまっすぐに僕を見た。 「使ってみせてよ」 そう来ると思っていた。 もちろん、返事は決まっている。 「使わない」 僕は言い切った。ここからが、正念場だ。 「どうして?」 大真面目に尋ねる言葉は、もう好奇心はない。 僕の言葉そのものを、不来得さんは待っている。 だから、僕ははっきりと答えた。 「使わなければ、僕は君と、ずっと2人きりでいられる」 何度目かの沈黙が訪れた。 僕たちはゾンビだけど、ここまではっきり言えば充分だ。 不来得さんはもう、何も言わなかった。 だが、ここで茶々を入れる3人目がいる。 「あの、僕を忘れてませんか?」 宝蔵だった。 こいつに付き合っている暇はない。 僕は、乾からびた指を突きつけて言った。 「お前はゾンビじゃない」 宝蔵は、大げさに口をパクパク動かす。 やがて、わざとらしくシラを切りはじめた。 「この世界はもう終わって……」 皆まで言わせる気はない。 僕は言い逃れのできない事実を突きつける。 「それとゾンビは関係ないって言ったのはお前だ」 「いや、僕はゾンビだよ」 宝蔵は、腕章を肌に固定した安全ピンをひけらかす。 ゾンビなら、痛みはないはずだというのだ。 だが、それをひっくり返す方法はある。 「それなら……」 「ああ! 噛みつくな!」 腕に食らいついた僕の頭を押さえて、宝蔵が絶叫する。 ゾンビに痛みはないはずなのに。 だが、僕の狙いはもうひとつあった。 「悪いけど……」 そう言うと、食いちぎった腕章が口から落ちる。 その跡といえるものは、かすり傷ひとつなかった。 しゃがみ込んで、宝蔵が呻く。 「よく、気づいたな……」 僕は、口の中に残った安全ピンを吐き出す。 針はついていない。 手品で使う、オモチャだった。 その出どころも、見当はついている。 「部活で使う、小道具か?」 宝蔵は、ゾンビにはできない苦笑いと共に肩をすくめる。 だが、そこで不来得さんが、かすれた声で止めに入った。 「やめて」 やめるも何も、闘いは終わったのだ。 僕は勝ちを宣言した。 「分かったろ? こいつの正体が。僕を置いて、君だけを蘇らせるつもりだったんだ」 宝蔵の卑劣さは、明らかになった。 だが、不来得さんの声には感動も、感謝もなかった。 「何のために?」 責められるいわれはない。 僕は、この闘いの意義を説明した。 「この終わった世界で、君を手に入れるためさ」 だが、不来得さんは納得しない。 さらに僕を問い詰めた。 「そんなことをして、何の得があるの?」 分かり切ったことだ。 僕たちの中で、1人だけ、違う者がいる。 「こいつが生身の男だからさ」 今はゾンビが2人で、人間が1人だ。 だが、不来得さんが人間に戻れば、僕はただ1人、ゾンビとして残る。 排除すべき、世界の邪魔者として。 それでも、不来得さんは僕を非難した。 「じゃあ、三浦君だって」 どんな非があるのか、見当もつかない。 だから、自分をどうかばっていいのか分からなかった。 「僕は……」 だが、不来得さんには不来得さんの言い分があった。 「卑怯よ。私、みんな人間に戻れたら、三浦君にちゃんと好きって言ってほしかったのに」 そう言われると、一言もなかった。 そこで、今まで黙っていた宝蔵が反撃に転じた。 「そのボタンは偽物だよ。世界を再生できるのは救世主だけだ」 不来得さんの目が、僕を見据える。 僕は宝蔵に向き直ると、即座に言い返した。 「救世主なんかいない。最初からいなかった。全部、お前の作り話だ、蘭堂さんを引き付けるための」 宝蔵は僕を睨み返す。 やはり、人間は声も表情も多彩だった。 不来得さんはというと、ゾンビのかすかな声で、しかしはっきりと言い切った。 「どっちでもいいわ。私を人間に戻してくれる方を信じる」 その時になって信じてくれたって、意味がなかった。 大切なのは、今だった。 「戻したって、君は僕を許してくれない」 僕だって、世界の始まりを待っている。 いや、不来得さんが人間に戻るのを。 それは、僕にとっては終わりの時となる。 だが、その覚悟のほうが、不来得さんには無意味だった。 「それは、終わった世界が始まる前の話。新しい世界が始まったら、何もかも仕切り直しよ」 宝蔵も、それに同調した。 僕を追い詰めようとしているようでも、また、励まそうとしているようでもあった。 「スイッチを入れてみせろ。君が正しいことを証明してみせろ」 それだけは、できなかった。 ボタンを押したら、僕にとっての全てが終わる。 「いやだ、僕はこのまま……」 不来得さんは、精一杯のはっきりした声で僕に告げた。 「もう一度、綺麗な姿で三浦君に会いたい」 だが、どれだけ真っすぐな思いがあっても、僕にはそれを受け止めることができない。 「僕は……」 宝蔵も、僕を叱りつけた。 まるで、ダウンしたままのボクシングの相手を立ち上がらせようとするかのように。 「冗談だったとは言わせないぞ」 そこへ、不来得さんの真剣な声が追い討ちをかける。 「そうよ、騙すなんてひどいわ」 それだけは違う。 僕は本当に、不来得さんのことを思っていた。 「そんなつもりは……」 ただ、傷つきたくなかっただけだ。 それは言い訳に過ぎなかった。 人間になろうとしている2人にとっては。 宝蔵が僕に迫る。 「覚悟を決めろ、君は終った世界の、悪い夢を見ているんだ」 不来得さんも、僕に語りかけてくる。 「そうよ、目を覚ましてよ、新しい世界を始めようよ」 僕は、答えに詰まった。 言いたいことは分かる。2人の気持ちも、痛いほど。 でも。 「僕は……その」 早押しクイズのボタンに、指がかかる。 そして。 非常ベルが、高らかに鳴った。 それと共に、新しい世界が始まる……。 といいなと、僕は思った。 消防車と救急車のサイレンが、遠くから聞こえる。 体育館の非常扉を開けてグラウンドを眺めてみた。 秋空の下、文化祭たけなわの校舎や体育館から、人の波があふれ出してくる。 その中には、宝蔵と不来得さんもいるはずだ。 演劇部の上演後に、偶然通りかかった生徒会長。 そして、それを待ち伏せて告白しようとしていた女子バスケ部員。 クイズ研の僕はといえば、余興での出番を待っていた。 そこで、いつか思いを告げようと思っていた相手に失恋。 ショックで、目の前にあったボタンを押してしまったというわけだ。 まあ、当面の危機は脱したことになる。 文化祭が終わってからでも、まだチャンスはあるだろう。 とりあえず、名乗り出て油を搾られる覚悟は決めることにした。 18、始まりの前と終わりの後に不条理劇は存在し得るか? 「……っていう台本なんだけど」 体育館のバルコニーで、宝蔵は言った。 不来得さんは思いっきり文句を垂れる。 女子バスケ部のロゴが入った、真っ赤なジャージ姿だ。 「体育会代表とか言って呼んどいて、直前に言う? だいたい何、このサプライズ上演って?」 文化祭プログラム片手に詰め寄られても、宝蔵に悪びれた様子はない。 それどころか、完全に開き直っていた。 「嫌なら最初から乗るなよな」 非常ベルは、まだ鳴り響いている。 グラウンドに集まった文化祭の客を見下ろしながら、僕もツッコんだ。 「無理がないか? 避難訓練がてらっていうのは」 そんなものは、プログラムにはない。 だが宝蔵は、生徒会の腕章をひけらかしながらふんぞり返った。 「職員会議は通ってる」 それでも、不来得さんは納得しなかった。 もともと、理屈っぽい性分なのだ。 「生徒会長にそんな権限ないでしょ」 「いや、もともと抜き打ち避難訓練やることになっててさ」 だいたい、事情は分かった。 僕は台本を開きながら、言ってやる。 「そこへサプライズ上演やりたいって、ねじ込んだんだな?」 最初のページには、こう書いてある。 僕=三浦竜司 クイズ研究会の高校1年生。早押しと雑学の他に能がない。引っ込み思案だが、窮地に陥ったときの爆発力はすさまじい。 彼女=蘭堂不来得 女子バスケ部の高校1年生。竜司の憧れの少女。好奇心旺盛でこだわりも強いが、それが叶わないと理屈っぽくなる。 通りすがり=宝蔵月良 2年生の生徒会長。演劇部。人をからかうのとコスプレが大好き。面倒見はいいが、傍観者のポーズを取る。 宝蔵は、この通りの性分だ。 本人が書いているからには、自覚はしているのだろう。 だが、不来得さんは大いに不満そうだった。 「何このキャラ! 私こんなんじゃないし! だいたい何でコイツとか会長と? メチャクチャ気持ち悪いし!」 体育会の割には、上級生への口の利き方がなっていない。 あながち、デタラメでもない気がする。 不来得さんに詰め寄られた宝蔵は、僕に意見を求めた。 「三浦君はどう?」 確かに、他の文化系に出演を押し付けられたのは引っ込み事案が原因かなとも思う。 だが、これだけは納得がいかない。 「他に能がないっていう言い方はどうかなと」 「じゃあ、君が正しいことを証明してみせろ」 すでに宝蔵は、サプライズ上演モードに入っている。 バルコニーを見渡してみれば、そこはもう舞台だった。 演劇部員たちがいつの間にか、マイクと音響機材を設営していた。 制服のブラウスを肩から掛けられた不来得さんは、なおも宝蔵に突っかかる。 「要するに会長がコスプレしたかっただけじゃないんですか?」 その声はマイクに拾われて、グラウンド中に響き渡る。 避難訓練に参加させられた面々が、どっと爆笑した。 宝蔵は、にやりと笑う。 「あ、下着は本当に見せなくていいから」 「当たり前でしょ! それセクハラじゃない?」 再び爆笑が沸き起こる。前説は充分だ。 僕は腹を決めた。 「じゃ、このまま始めても?」 台本を持ってしゃがみ込むと、不来得さんが顔をしかめた。 「やるの? 本気で?」 その顔は、まんざらでもなさそうだった。 好奇心旺盛で、こだわりも強い。 ちょいちょいと宝蔵を手招きして、囁いた。 「で、あのボタンは本物? それとも偽物?」 宝蔵はにやりと笑った。 「それは三浦竜司が知ってればいいことじゃないか?」 話は、そこで終わった。 「わかった」 やれと言われれば、やってみせるのが不来得さんだ。 今までは遠くから見ているだけだったけど、それはちゃんと知っている。 その証拠に、演劇部員が渡した制服のスカートを、ジャージの上からしっかり履いている。 だから僕も、いきなりカッターシャツがかぶさった肩をすくめてみせた。 「だって、台本にそういうキャラって書いてあるから」 引っ込み思案だが、窮地に陥ったときの爆発力はすさまじいのが僕らしい。 それなら、証明してみせるだけだ。 早押しと雑学の他に、演技力だって捨てたものではないと。 そして、もし、叶うことなら……。 僕が自分の気持ちを整理する前に、宝蔵がマイクを掴んでアナウンスした。 「それでは、演劇部サプライズ上演、『終わった世界で救世主を待ちながらゾンビやってみました』を始めます」 もうとっくに開演を告げていた非常ベルの音が、次第に鳴り止んでいった。 (完) |
兵藤晴佳 2019年12月30日 01時29分50秒 公開 ■この作品の著作権は 兵藤晴佳 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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