青赤えんぴつ |
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――終わりがくれば、それは始まりに変わる。 当たり前のことだと思うんだけど、こんなにも意識したのは初めてだ。 それもこれも、あいつが紹介したバイトのせい。幼馴染のあいつのせいだ。 「おーい、ニョリ!」 こんな風に私のことを呼びながら、背の高いあいつは飄々と学校の廊下を歩いて来る。 だ・か・ら、この名前で私のことを呼ぶなって。 順風満帆だった高校デビューが台無しになっちゃうっての。 「ちょ、ちょっと、ワリト。学校でそんな風に呼ばないでって何度も言ってるじゃない」 「えっ? 教室じゃないからいいかと思った」 私が投げつけた苦言にキョトンとした表情を浮かべる幼馴染は、糸冬和理人(いとふゆ わりと)。 ――和を理解する人。 たしかそんな由来だった。子供の頃からおばさんが何度も何度も自慢げに語ってくれたのは。 ねえ、自分の名前の由来をちゃんと理解してる? 特に『和』だよ、『和』。私の心の平和を乱すようなあいつの行動は許せない。 「ダメダメ、絶対ダメ。教室じゃなくても学校じゃダメ!」 「えー、ニョリって名前、いいと思うけどな。女台真理(にょだい まり)で略してニョリって、みんな一発で覚えてくれるよ」 なるほどと相槌を打つ周囲の生徒の表情。 しまった、こんな公の場であいつに語らせるんじゃないかった。せっかく知り合いの少ない高校に入学したというのに、あだ名がまたニョリになっちゃうじゃない。 しかし後悔先に立たず。ニヤニヤと表情を崩す生徒たちに絶望感を抱いた私は、くるりと踵を返す。 「もう、知らないっ!」 「ちょ、ちょっとニョリ。呼び止めたのは話があるからなんだけど」 がしっと腕を掴まれて私は動けなくなった。 あいつ、こんなに力が強かったっけ? 今もひょろひょろしてるのに。 「放課後。話は放課後にしてよ、わかった? だったら手を離して」 「なんだよ、冷たいなぁ。じゃあ、桜のベンチで待ってるから」 「ええ。そこでお願い」 高校に入学してから二週間目。 この日を境に、私の高校生活が一変するとは知らずに―― ◎ ◎ ◎ まだ履きなれない新しいローファーに足を突っ込み、前のめりになりながら昇降口を出ると、高度を下げた春の太陽の光が目に飛び込んでくる。目の前は校庭、左を向くと校門。そこへ続く桜並木では、ピンクの花びらを夕陽がさらに赤く染めていた。 桜の下のベンチ。 並木道から少し引っ込んだ桜の木の裏側に並ぶその場所は、生徒の憩いの場になっていた。 その中の一つ。ゆったりとした木製のベンチ。一人で本を読むワリトの頭の上に、ひらひらと花びらが舞っている。 『おーい、ワリト』と声を掛けそうになって私は慌てて口を閉じた。『遅いよ、ニョリ』なんて返された暁には、さらに私のあだ名が広まってしまうから。帰宅する生徒のピークは過ぎているが、パラパラと通り過ぎる生徒たちに聞かれたくはない。 だから私は、ベンチの後ろからそっと近づいた。 「何、読んでるの?」 「!?」 突然背後から声を掛けられたワリトは、驚いて立ち上がろうとした。 急に目の前に迫る後頭部。私は避けきれずに、額に強い痛みが。 「痛ぁ!」 「うげっ!?」 爆発しそうな痛みに額を手でおさえながら、私は振り向くワリトを睨みつける。舌を噛まなくて本当に良かった。 「何やってんのよ!」 「何やってんのじゃないよ。驚かしてきたのはそっちじゃんか」 ワリトも、しかめっ面で後頭部を抑えている。 確かにそうなんだけど……。 素直にゴメンと言えずに、私はつい憎まれ口を叩く。 「いや、でもね、そうよ、ワリトが話があるって言うからこんなことになったんじゃない」 「いやいや、ニョリが先に謝れ。全面的にニョリが悪い」 だから、ニョリニョリ言うなって! 周囲を見渡すと、帰宅する生徒からクスクスと失笑が漏れ聞こえてくる。 これはヤバい。 「謝るからさ、ほら行くよ」 私はワリトの手を取り、無理やり彼を引っ張ると、校門に向かって一緒に走り出した。 「それで何? 話って?」 校門から駅に向かう道を進み、誰もいない路地へ曲がると、私はワリトに切り出した。 手はもう握っていない。あれはあの場から逃げ出したくて、しょうがなく握っただけ。だって、私たちは別に付き合っているわけじゃないもん。 狭い路地を歩くワリトは、立ち止まって神妙な顔をする。 明らかに様子がいつもと違う。ゴクリを唾を飲む、そんな決意が伝わってくる。 えっ、何? まさかの告白!? こんなところで?? ダメだよワリト、さっき手を握ったのは幼馴染だからで、それに私は失恋したばかりなんだから……。 すると身長一八◯センチの彼から、意外な言葉が飛び出した。 「実は、ニョリにぴったりのバイトを見つけたんだ。ガリ勉にぴったりの」 へっ? バイト? 告白じゃないの? ただのバイトの話? 何でそんなに改まって言うのかわからないけど、そういえばワリトにそんなこと話してたような気もする。高校生になったらバイトしてみたいって。うちの高校は基本的にバイトは禁止だから、見つかるとヤバいんだけどさ。 いやいやびっくりさせないでよ。それにガリ勉って余計じゃね? 百歩譲ってガリ勉にぴったりを認めたとして、それってどんなバイトなのよ? 塾講師? 家庭教師? 高校一年生にそんなバイトやらせてもらえるの? 「そんなバイトあるの?」 「それがあるんだよ」 興味を持った声で私が返事をすると、ワリトはほっとしたような表情を浮かべる。こいつ、学校にいる時から私に話したくてしょうがなかったんだ。 まあ私だって、そんなバイトがあるものならどんな内容なのか興味があるけど。 「ただ、文字を書くだけのバイトなんだって」 ただ文字を? 書くだけ? そんな楽ちんなバイトが、この世の中に存在するとは思えない。 「ワリト、私をからかってるでしょ?」 「そんなことないよ、決してそんなことない」 「じゃあ、見せてみなさいよ。そのバイトの募集要項とやらを」 私は、ワリトのスマホが入っているであろうスボンのポケットに視線を向ける。 すると彼は慌てて、私の視線を遮るようにポケットを手を抑えた。 「こ、これは、信頼できる人から口づてに頼まれたバイトなんだ。だからネ、ネットには載ってない。さ、さらに、このバイトの話は、信頼できる人にしかしちゃいけないって言われてるんだ」 なんだか怪しい。とっても怪しい。 私はワリトの顔を覗き込んだ。覗き込んだと言っても私は身長一六五センチだから、ちょっと見上げる格好になっちゃうんだけど。 路地が暗くて瞳の様子がわからない。 でも彼は、私から視線を逸らそうとはしなかった。真実を伝えようとする態度だけは本物――と考えても良さそうだ。幼馴染としての経験が脳にそう伝えていた。 「仕方ないわね。信じてあげるわよ」 私は前を向く。幼馴染とはいえ、ずっとワリトを見つめるのはちょっと恥ずかしい。さっきは変な勘違いもあったし。 「それで? 履歴書とかは必要なの?」 「やってくれるの、ニョリ? そのバイト」 「やるかどうかはまず話を聞いてみてからだよ。でもそのためには、なにか書類が必要なんでしょ?」 「必要ない。これから連れて行ってやるよ。駅の近くだから」 ええっ、これから? いやいやいや、心の準備が全くできてないよ。そういうのって、書類を書きながら整えるもんじゃない? 「せめて明日にしない? ほら、私、バイトの話を今日聞いたばかりだし」 少し歩みを速めたワリト。私の言葉なんて全く耳に届いていないみたい。 「前任者が辞めたばかりらしいんだ。今日ニョリを紹介すると、とっても喜ばれる」 さらにワリトは歩みを速める。 ちょっと待てぇ。私の話も聞け! 格好だって制服姿だし、北高生だってバレバレじゃない。でも普段から清潔にしてるし、スカートだって短くしてないし、髪も染めてないから問題ない? 上半身はまだ発育途中だからインパクトは薄いと思うけど、顔はちょっと残念な松島菜々緒って言われているから一般ウケするかも。えっ、コウタロウ? ワンチームかっ!? ハッと気づくと、ワリトはかなり先を歩いている。 全くしょうがないなぁ。今日は話を聞くだけだからね。バイトをやるとは言ってないからね。 ドキドキと不安が入り混じってすっかり道がわからなくなった私は、必死にワリトの背中を追いかけた。 「このビルの地下なんだ」 ワリトがようやく歩みを止めたのは、駅の表通りから少し離れた三階くらいの小規模なビルが立ち並ぶ静かな路地だった。 商店街でも住宅街でもなく、オフィス街と呼べるほど小綺麗でもない。◯◯工業とか◯◯事務所と銘打つ看板がそれぞれのビルに掲げられているが、一階のシャッターはほぼすべてが閉まっている。現在午後六時。まだ仕事をしている方が多数いるようで、二階や三階の窓からは光が漏れている。 ワリトが指差すビルもその中の一つ。地下へ続く階段に付けられた蛍光灯は、切れかけているのかチカチカと点滅している。 「申し訳ないんだけど、俺はここから先へは行けないんだ」 って、どういうこと? 私一人で、この薄暗い階段を行かせるつもり? 「ゴメン、私帰る」 そりゃそうでしょ。わけのわからないビルの薄暗い地下の部屋に、一人で平気で入れる女子高生なんているわけがない。電気がついてる二階や三階だって不安だというのに。 そもそも紹介者が同席しないってどういうこと? そんなのありえないじゃない。『この方が、バイトに推薦したい女台さんです』って紹介してもらって、初めて私はその場に居てもいい存在になれるような気もする。 くるりと踵を返す私に、ワリトは慌てふためいた。 「ちょ、ちょっと待ってくれ。じゃあ、こうしよう。俺が今から電話をして、支配人に出て来てもらうから」 出て来てもらうって、ビルの入口まで? まあ、それだったらちょっとは許せるかも。通りなら街灯もあってそんなに暗くはないし、なによりもワリトが一緒にいてくれる。 「大丈夫だよ。支配人って言っても気のいいおばあさんだから」 私の歩みが完全に止まったのを確認すると、ワリトはポケットからスマホを取り出し、どこかに電話を掛け始めた。 「ごめん。聞かれると恥ずかしいから、ちょっと失礼する」 そう言うと、ワリトはスマホを耳に当てながら通りの向こう側へ移動した。と言っても三メートルくらいしか離れてないんだけど。 ペコペコとお辞儀をしながら誰かと会話をするワリト。その内容は、私のこれからの行動がお金になるかどうかという一種の商談なのだ。 ――なんだか、私という存在が売買にかけられてるみたい。 それなのにまるで他人事のようだ、と変な感覚に体が包まれた時、ワリトはスマホを耳から離した。 「おーい、ニョリ。今から出てきてくれるってよ」 いよいよだ。 私の働きを買ってくれる人がここに現れる。 ドキドキしながら私は地下に続くビルの階段に注目した。切れかけた蛍光灯がチカチカしている薄暗い階段を。 するとギギギという金属音がして、ドアがゆっくりと開く。そこから顔を覗かせたのは、ワリトの言う通り優しそうなおばあさんだった。 手すりを使いながら一歩一歩階段を上がるおばあさん。私が頼んだからわざわざ出てきてもらった。なんだか申し訳なくなって、思わず階段を一段降りた。 「あの、すいません。糸冬君に電話で紹介してもらった女台ですけど……」 しかしおばあさんは、すっかり白くなった後頭部をこちらに向けたまま、黙って階段を上り続けている。私の声が聞こえたのか、聞こえなかったのか……。 やっとのことでビルの入口にたどり着いたおばあさんは、身長一六五センチの私を見上げた。 「あなたね、伊藤さんが紹介してくれた女子高生は」 えっ、伊藤さん? いやいや、伊藤じゃなくて糸冬だし――と思いながら振り返ると、そこにワリトの姿はなかった。 あいつ逃げたな。しかも偽名使いやがって……。 ワリトへの悪態は心の中だけにして、私は笑顔を繕っておばあさんを向く。背は一五◯センチくらいの、ほんのりお香の匂いがする本当に優しそうなおばあさんだった。 「あなた、色鉛筆で絵や文字を書くのはお好き?」 いきなりの質問で戸惑う。 まあ、ワリトから『ただ文字を書くだけのバイト』と聞いていたから、想定内と言えなくもない。私は絵心は全くないが文字を書くのは好きなので、満面の笑顔でうなづいた。 「ええ、好きです」 「じゃあ、あなたにお願いしようかな、この仕事」 人生初のバイトが決まった瞬間であった。 地下への階段を降り、ギギギとドアを開けるおばあさんに案内されると、そこには薄暗い廊下が伸びていた。ほんのわずかだが、うっすらとお香が漂っている。 廊下にはいくつかドアが面している。どうやら小部屋が並んでいるようだ。 おばあさんがいつも座っているであろう受付のカウンターを過ぎると、おばあさんは入口から二番目のドアに手をかける。内開きの木製のドアの向こうは、二畳くらいの広さのこじんまりとした個室になっていた。部屋の真ん中には一メートル四方くらいのテーブル、そしてダイニングで使うような簡素な椅子が一つ置いてある。部屋を照らすのはテーブルの上の裸電球のみ。まあ、電球色のLEDなんだと思うけど。 「ここでね、紙に絵や文字を書いてほしいの」 そう言っておばあさんはテーブルに近づく。テーブルには筆入れと紙、そして手回しの鉛筆削りが置いてあった。 「この中の鉛筆を使ってね」 おばあさんは筆入れを開けた。それはプラスチックや布製ではなく、かなり使い古した木製の筆入れだった。 えっ? 私は筆入れの中を覗き込んで驚いた。だって、中に入っているのは赤青鉛筆だけだったから。しかも短いのだったり、長いのだったり、太かったり、細かったり……。 おばあさんは筆入れの中から赤青鉛筆を一本手に取ると、積み上げられた白紙から一枚をとってテーブルの真ん中に置き、言葉の代わりに青色の文字を書き始めた。 『書くのは絵でも文字でも、どんな内容でもいいの』 『赤と青の長さが揃うように芯を使うお仕事。だから長い方の色を選んで頂戴』 『好きな時間だけ作業をして、最後に芯を尖らせたら終わり』 『時給は千円でよいかしら?』 習字の先生が書いたような、縦書きの美しい文字。軸も全くぶれていない。しかも立ったまま、毛筆のような筆さばきで。テーブルの上の紙にさらりと書いた文字にはとても思えなかった。 ――字は体を表す。 私はそんな言葉を思い出した。 こんな美しくまっすぐな文字を書ける人が、人を騙すはずがない。 私はおばあさんを向くと、「お願いします」と丁寧に頭を下げた。 詳しく話を聞くと、履歴書のような書類のやりとりは一切必要ないという。 そして、試しに一時間ほどやってみてはと勧められた。もちろん一時間分の時給は支払われるそうだ。 迷った挙句、やってみることにした。今から一時間なら、七時半までには家に帰ることができる。私はお母さんに遅くなるとラインで連絡する。 こうして個室に一人になった私。 まずスクールバッグを床に置いて、椅子に腰掛ける。木製で簡素ではあるが、なかなか座り心地の良い椅子だ。これなら何時間でも文字を書くことができそう。 そして鉛筆。 私は一つ深呼吸をすると、古風な木製の筆入れに手を添える。本体の箱を蓋がすっぽり覆うお弁当箱のようなタイプの筆入れだ。蓋を軽く掴んで持ち上げると、本体の箱がすうっと姿をあらわした。 そこには鉛筆と小さな定規が入っていた。筆記用具は本当に赤青鉛筆だけ。しかもいくつか種類がある……。 「これって、メーカーが違うからなのかな?」 短いのやら長いの。太かったり細かったり。太いのなんて、小指くらいの太ささだったりする。 とりあえず全部筆入れから出してテーブルに並べてみる。赤青鉛筆は合計四本だ。 筆入れから出すために手に取ってみて気付いたことだが、形も様々だった。円形だったり、六角形だったり。 「さて、どれを使ってみようかな?」 私は先ほどおばあさんが書いてくれた紙を横に置く。そこにはこう書かれている。 『赤と青の長さが揃うように芯を使うお仕事。だから長い方の色を選んで頂戴』 つまり、赤と青の長さが揃うようにするのが私の仕事ってこと? そのことにどんな意味があるのかはわからないが、とりあえず長さが揃っていない鉛筆を選んでみよう。 「だったら、まずはこの鉛筆ね」 私が手に取ったのは、赤の長さが青よりも四センチくらい長い鉛筆。赤と青の長さのバランスは、この鉛筆が最も悪かった。太さは普通の鉛筆とほぼ同じで、形も六角形。 鉛筆を選ぶと、他の鉛筆は筆入れに戻す。そして紙を一枚取ってテーブルの真ん中に置いた。大きさはB5サイズだ。 「さて、何を書こうかな?」 書くことなんて、何も考えていない。 人間って不思議なものだ。何を書いても良いと言われると、書きたいことは全く浮かんでこない。逆に「これを書いちゃダメ」と言われた方が書けるような気がする。 「じゃあ、書いちゃダメなこととか……」 アホ、バカ、◯◯、×××、△△△△△……。 いやいや、それは人間として失格じゃない? おばあさんに見られたら即首になっちゃうかもしれないし、それよりも人間性を疑われてしまう。 途方に暮れた私は、椅子に寄りかかって小さな部屋を見回した。 天井はコンクリートの打ちっ放し、壁は石膏ボードっぽいが貼られた壁紙はアイボリーの無地。壁時計が一つカチカチと音を立てているが、それ以外はハンガーとそのフックが一つだけ。カレンダーくらい貼ってあってもいいのに。床は掃除がしやすそうなベージュのリノリウム――とそこで、床に置いたスクールバッグが目に入る。 「そうだ、いいものがあるじゃない!」 私はバッグから取り出す。英語の教科書を。 「ここで授業の復習や予習をやればいいんだよ」 我ながらナイスアイディア。 早速、今日の授業でやったページを開き、習った単語を書き始める。 「うーん、ちょっと書きにくいかも……」 やっぱり普通の鉛筆のようにスラスラというわけにはいかない。色鉛筆は黒鉛ではなく、顔料や染料が用いられている。少し紙に引っかかる感触はなんともまどろっこしい。 「それになんだか、目がチカチカする……」 十回ずつ単語を書いたら、B5の紙はすぐに真っ赤になった。 でも書いていくうちにちょっとずつ慣れてくる。私は高校受験の時のことを思い出して、単語の発音に合わせて口も同時に動かし始める。声は出さないようにして。 続いて例文。それが終わったら明日の授業の予習。あっという間に時間と紙が消費されていく。 「これって夢のようなバイトじゃね?」 勉強もできてお金ももらえる。 確かに私にぴったりなバイトかも――そんなことを考えていると、ワリトの言葉が脳裏に蘇ってきた。 『ニョリにぴったりのバイトを見つけたんだ。ガリ勉にぴったりの』 自分はガリ勉だとは思ってはいないけど、確かにガリ勉向けのバイトではある。 なんだかワリトに見透かされているような気がして、高揚感がしゅるしゅるとしぼんでいった。 あっという間に一時間が経過し、私はカウンターに座るおばあさんに声をかける。するとおばあさんはよっこらしょと腰を上げて、のろのろと私が作業していた部屋へやってきた。 そして木製の筆入れを開けて、目を丸くする。 「ほぉ、この鉛筆、赤の方を三ミリも使ってくれたのね」 何ミリ使ったかなんて自分には全くわからなかったが、おばあさんは一目見ただけでわかるようだ。きっと長いことここの管理をやっているのだろう。ズルをしたとしても、一瞬で見抜かれてしまうような気がした。 そしておばあさんは、私が真っ赤にした紙の束に目を向ける。 「ありがとう。この鉛筆はね、バランスがうまく取れなくて困っていたところなの」 お礼を言いながら、おばあさんは私に千円札を手渡した。 ――生まれて初めてのバイト代。 私はお守りをもらったかのように、大事に大事に千円札を受け取った。そして訊いてみる。 「バランスが取れなくなると、どうなっちゃうんですか?」 するとおばあさんは、私を見つめる瞳に悲しみを浮かべる。きっと良くないことが起こるのだろう。 「この鉛筆はね、とある学校で使ってもらってるんだけど、著しくバランスが崩れると捨てられちゃうの。ポイッてね」 おいおい、それはどこのお嬢様学校じゃ! 鉛筆には貴重な森林資源が使われているんだぞ。環境問題という言葉を知らんのか。ポイなんてしたら北欧娘に怒られるんだから。 それに、私が今日必死に使ったこの鉛筆を捨てたりしたら決して許さん! 気がついたら私は千円札を握りしめていた。どうか、この千円分の作業が無駄になりませんように。 「でもなんで、絵や文字を書かなくちゃいけないんですか?」 英単語を書きながら一つだけ不思議に思ったことがある。 長さのバランスを取るためだけなら、削ればいいだけなんじゃないかと。まあ、それも森林資源の無駄遣いだけどね。 「この赤青鉛筆はね、普通の鉛筆とは違って芯の素材がデリケートなのよ。鉛筆削りで何度もガタガタやっちゃうと、その振動で中の芯が折れちゃう」 そういうことなのか。普通の鉛筆と比べて、ちいっと書きにくいのは。 顔料や染料が芯に混ぜられているから、折れやすくなっているのかもね。 「でもね、鉛筆を使いながら芯を短くすれば折れにくくなるの。押し付けられた力で、逆に強くなるくらい。しかしそれはとても大変な作業よね。だからバイトさんにお願いしているのよ」 それならば任せて下さい。 こんなに私にぴったりのバイトはありません。他にバイトをやったことはありませんが。 いつの間にか私は、千円札と一緒におばあさんの手を握りしめていた。 ◎ ◎ ◎ 次の日、教室に着くとワリトが不安そうな表情で近づいてきた。 私は慌てて口の前に人差し指を立てて、会話の拒否権を発動する。今、こいつに教室内でニョリ発言されれば、私の高校生活は終わったも同然。幸い、クラスで私のことをニョリと呼ぶ生徒は、今のところ誰もいない。ワリト以外には。 そして私は、ワリトに見えるよう口を動かして合図する。 ――ほ・う・か・ご。 するとワリトは小さくうなづいた。今すぐにでも話をしたそうな表情で。 これで教室での惨事を未然に防ぐことができた。もしあいつが放課後、本当に桜のベンチに座っていたら、よく言い聞かせてやらねばならぬ。教室で話しかけるな、と。 放課後。やっぱりあいつは桜のベンチにいた。手にした本には目もくれず、そわそわと昇降口の方を気にしていた。私を見つけるまでは。 「ちょっとワリト、教室では話しかけないでっていつも言ってるじゃない」 近づく私が声をかけると、彼は待ちわびた様子で腰を上げた。 「昨日のバイト、どうだった?」 やっぱりそのことか。ていうか、私の忠告は無視? そんなに気になるんだったら、逃げずに最後までその場にいればよかったのに……。 「逃げたやつには教えてやんない」 そうだよ、昨日は一人で心細かったんだから。 「頼むから、意地悪しないで教えてくれよ。おばあさん、どんな人だった? いい人だった?」 確かにいい人だったけどさ。 そんなに知りたきゃ、自分で見て来ればいいじゃない。昨日の怒りを思い出した私は、ふと思いつく。ちょっと意地悪してやろうと。 私は急に目を泳がせ、魂が抜けたような表情でこう言った。 「おばあさん、魔女みたいな人ダッタ。今日もバイトに行かナキャ。でないと魂を抜かレル……」 するとワリトは急に青ざめる。 「だ、大丈夫か。ニョリ」 私の肩をつかんで、顔を覗き込んできた。 目が真剣だ。 ちょっとやり過ぎたかな? 謝罪の意味を込めて私は表情を崩す。 「ごめんワリト。冗談よ」 すると彼は私の肩から手を放し、ヘナヘナとベンチに座り込んだ。 「脅かすなよ。紹介した手前、ちょっとは責任を感じてるんだからさ」 「それって何? ホントにそう思ってる? だったら今、熱く抱擁してくれたって良かったのに」 「そ、そ、そ、そそんなこと、できるわけないだろ? が、学校で」 「だったらワリトだってニョリって呼ばないでよ。学校で」 返事もせず、顔を真っ赤にするワリト。 私も結構恥ずかしい。『抱きしめて』とは言えずに『抱擁』なんて言葉を使ったことが。 でも私はさっき、肩をつかまれてドキッとした。昨日だって腕を握られて戸惑った。ずっと子供同士だと思っていたけど、ワリトだって男子高校生なんだ。失恋の寂しさを紛らわすため、というわけでもないけど、ワリトだったら強引に奪ってくれても構わないという気持ちはある。いや、ほんのちょっとだけだけどね。 いやいや、そんなことで気を許しちゃいけないんだ。私は腕を組んで彼の前に仁王立ちする。 「それに昨日の行動はひどいんじゃない? おばあさんに会わずに逃げちゃうし、しかも偽名を使うなんて……」 「偽名?」 不思議そうな顔をするワリト。 おいおい、自分でやっててその言い方はないでしょ? 「だっておばあさん、伊藤さんからの紹介って言ってた」 「伊藤……?」 顎に手を当てて考え込むワリトは、しばらくして手を打った。何かに思い当たったように。 「それは、苗字の最後の方をごにょごにょって言っちゃったから……かな」 ――糸冬。 確かに「冬」の部分が聞き取れなければ、「伊藤」になってしまう。 「ちゃんと発音しないあんたが悪い」 「確かにそうでした、すいません」 ワリトの割には珍しく素直に謝ってくれた。 まだ納得はいかないけど、ここらへんで許してやってもいいかな。おばあさんもいい人だったし、バイトの中身も彼の言う通りだった。 「今日も行こうと思う、あのバイト。あんたの言う通り私にぴったりだった。ありがと」 「あんまり無理するなよ」 「わかってるわよ。うちの高校、一応バイト禁止だしね」 そう言うと、ベンチで見送るワリトに手を振って私は駅に向って駆け出した。 「あら、女台さん、こんばんわ。今日もやってくれるの? 今、準備するから待っててね」 バイト先に着くと、カウンターに座っていたおばあさんがよいしょと腰を上げる。 振り返って背後の棚を覗き込むと、目の高さほどの棚から木製の筆入れを一つ取り出した。 「じゃあ、こちらへどうぞ」 昨日と同じ個室に私は通される。 電球の下のテーブル。柔らかな光に照らされる紙の束と鉛筆削り。そして木製の椅子。 必要なものが揃っていることをおばあさんは確認すると、筆入れをテーブルに置いた。コトリと小さな音がした。 「やっていただくのは昨日と同じよ。長い方の色を使ってね」 「わかりました」 私が返事をすると、おばあさんはニコリを微笑んで部屋を出て行った。 「さて、今日も英単語から始めますか」 私はスクールバッグの中から英語の教科書と参考書を取り出す。 英語の授業では、週に一回、小テストが実施されるのだ。だから良い成績を取るためには、日々の鍛錬が必要だったりする。それをこのバイトでこなしてしまうというのが私の魂胆だった。 ちなみに、私はまだ小テストで一番になったことはない。が、ワリトはすでに一番をとっているのだ。あいつは意外と勉強ができる。高校受験をきっかけにメキメキと学力を上げてきた。負けてなんていられない。 私はまず、古ぼけた木製の筆入れを開ける。 木製ならではの優しい手触り。蓋を持って少し持ち上げると、きつくもなく、ゆるくもない、すうっと下箱が分離していく。昨日も感じたその感触、とても心地よい。さぞかし腕のよい職人が作ったのだろう。長年の使用によって、さらに使い勝手が良くなっているのかもしれないが。 「やっぱ、昨日と同じ鉛筆かなぁ……」 私は一応、すべての赤青鉛筆を眺めてみた。本数は昨日と同じ四本。昨日使ったと思われる鉛筆は、赤色の方がまだかなり長かった。 ――赤と青の長さのバランスを整えるのが私の仕事。 ということで、私は昨日と同じ鉛筆を取り出す。そして筆入れに入っている定規で試しに長さを測ってみた。すると赤が七・四センチ、青が三・二センチだった。 「こりゃ、書きがいがあるわね」 赤と青のバランスを取るためには、赤の方を四センチ以上も使わなくてはならない。 私はテーブルの上に置いてあるB5の紙を一枚取り、今日習った英単語を十回ずつ書き始めた。芯が丸くなってきたら、鉛筆削りでなるべく振動を起こさないようにそっと削る。 単語が終わったら熟語、そして例文。明日の授業で習う単語も書いた。それでも時間が余ったので、昨日までに習った単語も書いてみた。 あっという間に一時間が経過する。表も裏も真っ赤になったB5の紙。その数は十枚以上に達した。 「どれだけ短くなったかな?」 私は鉛筆削りで最後の仕上げをする。そして期待を込めて長さを測ってみると――短くなったのはたったの五ミリだった。 「えー、たったこれだけ?」 この鉛筆のバランスを取るためには、一体何日かかるのだろう? まあ、こんな風に時間のかかる作業だからバイトとしてお金をもらえるわけなんだけどね……。 短くすることについての成果はあまり期待しないようにしよう。お金をもらって勉強していると思えば、バイトの成果なんて大したことはない。逆にすぐにバランスが整ってしまったら、もう来なくていいと言われてしまうかもしれないし。 私はそんな風に、気楽に考えることにした。 ◎ ◎ ◎ バイトを始めて三日が経過した。 今日は英語の小テストが実施される日だ。 「ふふふ、秘密のバイト学習の成果に、教室中がひれ伏す日となるのよ」 何? この悪役キャラ。でも私はそんな高揚を抑えきれない。 小テストの結果がクラスで一番になると、英語の先生は名前は呼んでくれる。それは勝利宣言にも等しい。入学してからずっと、いつかは呼ばれてみたいと思っていた。ワリトだって呼ばれたんだから、私が呼ばれないわけがない。 あれだけ英単語を書いたんだもん。成果が出なかったら泣いてやるわ。 ドキドキしながら教壇に立つ先生を見つめる。自信はある。単語は全部書けた。例文だってパーフェクト。すると先生の艶やかな唇が動き始める。 「今回のトップは、女台真理さん」 集まる教室の視線。 やった! 気持ちいい! 努力はやっぱり無駄ではなかった。 「と、木同貴理(もくどう きり)さん」 へっ!? 私一人だけじゃないの? すると、教室の前の方に座るショートカットの女子が小さくガッツボーズをする。 そうだ、あの人が木同さんだった。 確かあの人、バレー部に入ったんじゃなかったっけ? 自分とは違うグループに属しているので詳しくは分からないが、外見だけではガツガツ勉強をするようなタイプには見えない。むしろ体育会系だ。 彼女と同点だったなんて……。 来週の小テストでは見てなさい! 私の心の中では、メラメラと英単語熱が燃え上がっていた。 「おーい、ニョリ!」 帰り道。 桜のベンチの前で、と言ってももう花なんて咲いてないけど、私はワリトに呼び止められた。 「だから言ってるでしょ? 学校でその名前を――」 「すごいじゃん、今日の小テスト」 聞いちゃいないよ、いつもながらだけど。 まったく……。 私はため息をつきながら、ワリトが座るベンチに近づく。 「私もビックリしちゃった。名前を呼ばれるなんてね」 「またまた謙遜しちゃって。してやったりな顔してたぞ、あの時」 あら、私としたことがはしたない。 というか、こいつにはバレバレか。 「まあ、それなりに頑張ったからね。まさか同点の人がいるなんて思わなかったけど……」 ――木同貴理。 彼女の存在をうっとおしく感じたことも、幼馴染にはバレているのかもしれない。 「名前も似てるしな」 「名前って?」 「だって真理と貴理だろ? そっくりじゃないか」 確かに。 今まで気付かなかった。 「それ見つけた時、可笑しくて可笑しくてたまらなかったよ……」 下を向いて笑いをこらえるワリト。その姿にカチンと来た。 笑うな。このバカ者。 私の心は悔しさで煮えたぎっているんだから。 「でもさ、名前はそっくりでも、実生活はだいぶ違うんだな。なんたって木同さんは――って噂をすれば来たぞ、木同さんが」 そう言いながら、ワリトは読んでいた本を慌てて開く。私が確認しようと昇降口の方を振り向こうとすると 「振り向くな。俺と話してるフリをするんだ」 怒られた。ワリトに。 ワリトは本を広げたまま、チラチラと前を見て校門へと歩く人影を追っている。ベンチの前に立つ私を隠れ蓑にして。そして視線が校門の方を向いた時、彼は私に言った。 「もういいぞ、見ても」 私は校門の方を見る。 すると通りを歩く一組の男女の後ろ姿が見えた。 あのショートカット、見覚えがある。女子の方が木同さんだろう。しかも男子の方も見覚えがあった。 「リア充だしな」 確かに。って、おいおい、それが私と木同さんの違い? その言い方はあんまりじゃない。確かに私に彼氏はいないけど。 ていうか、木同さん、彼氏がいたんだ……って、あの男子、誰だっけ? 私は頭にハテナマークを浮かべながらワリトの顔を見る。すると彼はすかさず名前を告げた。 「相手はうちのクラスの言成だよ。言成真人(ことなり まこと)」 そうそう、そうだよ。言成くんだ。 あの二人、付き合ってたんだ。高校生になってまだ一か月経たないっていうのに。 「同じ東中出身だしな、あの二人。でも、くっついたのは高校に入ってからだって噂だよ。しかも木同さんの方から一方的って話」 へぇ、女子からなんてやるじゃん。 確かに、あの感じは木同さんの方が積極的だった。どう見ても彼女の方から言成くんの腕にしがみついているしね。 「ちょっと重いんだよね、って言ってた、言成」 その言葉にドキリとする。 不意に、脳裏に一ヶ月半前の記憶が蘇ってくる。 高校受験が終わったばかりの頃。 私は言われたのだ。好きだった男子に。別れの言葉と一緒に。 中学三年生の秋。 私は、ある男子に恋をした。 志望校が同じであることを偶然知り、一緒に合格しようと励ましてもらっているうちに好きになってしまった。スランプに悩んでいた私にとって、彼の助言は救いの声だった。 ――彼の優しさに応えたい。同じ高校に通いたい。 この想いがどれだけ励みになったことか。 しかし、勉強を頑張れば頑張るほど、彼への想いは深く、そして重く積み重なった。 もし合格することができたら、それは彼のおかげだ。彼は私の恩人だ。運命の人なのだ。 合格発表当日。 なんとか合格できた私。でも彼の番号は無かった。 「ゴメン、一緒の高校には通えなくなった」 「高校が違っていても私は構わない。だってあなたは運命の人だから」 「運命なんて重すぎるよ。僕が落ちたことも運命だなんて言わないよね」 「そういう意味じゃないの。あなたのおかげで私は合格できた。そのお礼が言いたいの」 「じゃあ、新しい高校生活、頑張ってよ。僕は影で応援してるから。君なら大丈夫。じゃあね……」 それ以来、彼とは会っていない。 重いと言う彼の言葉が、私の心の底に今でもどす黒く沈殿している。 「ニョリ? ちょっと聞いてる?」 「ええっ、何?」 ワリトの声で私は我に帰る。 「木同さん、可愛いい割には押しの強いところがあるんだって」 そうだ、木同さんのことを話していたんだった……。 「言成が言うんだよ、週末の予定は全部彼女が決めちゃうって」 そういえば私もずっと考えていた。高校に合格したら、彼とどこに行こうかなって。 映画、ショッピング、花見、遊園地、ちょっと冒険してキャンプ。 想像するだけで楽しかった。行きたい場所なんて無限に思いつくことができた。 木同さん、きっとそれを実践しているんだ……。 「ゴールデンウィークもほとんど予定を入れられちゃったらしい。男友達とも遊びたかったなんて俺たちに愚痴るんだけど、贅沢な話だよな。全くリア充爆発しろだよ!」 私がたどり着けなかった未来。 もし彼が合格していたら、私も木同さんみたいになれていたのだろうか。 そう思うと悔しさが込み上げてくる。 「ホント、爆発しちゃえばいいのに……」 私はあれほど英単語を頑張っているのに……。 なんでリア充の木同さんが私と同じ点を取れるのだろう? 今日だって、これから二人でショッピンクしたり、ゲームやったり、カラオケとかタピオカとかネコカフェとかしちゃったりするかもしれないのだ。 「だな、爆発しろ!」 「しちゃえ!」 しかしこの時の私はまだ、自分が木同さんの運命を握っているとは思ってもいなかった。 ◎ ◎ ◎ ゴールデンウィークが開けると、バイトでいつも使っていた赤青鉛筆のバランスが取れてきた。 赤の長さが四センチを切ったのだ。赤と青の長さの差は、ようやく一センチ以内になった。 しかし、英語の小テストの成績は以前と変わらなかった。トップは私と木同さんの二人。どうしても単独トップにはなれないでいた。 一方、ワリトの方は、言成くんからゴールデンウィークののろけ話ばかり聞かされているようだ。 「どうもあの二人、ゴールデンウィークはキャンプに行ったらしいよ。クラスメート六人でって嘘ついて」 ええっ、それって……。 やだ、二人きりのお泊まりじゃない。 「最悪なことに、俺もそのメンバーの一人になってるんだよ。それで口裏合わせのためにって、キャンプで何をしたかを毎日のように聞かされてて、もううんざりなんだよ……」 それはそれはご愁傷様。 いっそのこと本当に六人でキャンプに行けばいいんじゃない? 口裏合わせのテンプレートができるわよ。 「それでさ、あいつ言うんだよ。最近、木同さんの見方が変わってきたって」 見方が変わったって……? 「ほら、木同さん、最近ずっと英単語の小テストで名前を呼ばれるだろ?」 私と一緒に、だけどね。 「自分と遊んだ後もちゃんと勉強してるんだと思うと、こっちも頑張らなくちゃって思うんだって。以前はあれほど自分勝手とか重いとか愚痴ってたのにさ」 それって、二人の釣り合いが取れてきたってこと? 私はなんだかモヤモヤするものを感じる。釣り合いってバランス? それって、なにか既視感があるような……。 「俺さ、あの二人はすぐに別れちゃうって思ってたんだよ。いや、人の不幸を願ってたわけじゃないよ。でもさ、勉強もできて恋人もいるなんて不公平すぎじゃね?」 まあ、そういう人もいるよね――以前の私ならそう返していただろう。 でも違う。やっぱり私、どこかで同じことを体験している。 そうだ、バイトで使ってる鉛筆。あれもすぐに捨てられちゃうんじゃないかと心配していたら、最近バランスが取れてきたじゃない。 ――ま、まさか、偶然だよね。 そんな心のモヤモヤは、英語の先生の言葉ではっきりとした形になるのであった。 英語の単語の小テストで、四回連続で二人がトップになった時。授業の終わりに先生が近づいて来て、私に訊いたのだ。 「ねえ、女台さん? 女台さんは木同さんと一緒に英単語の勉強してるの?」 「いいえ。一緒じゃありませんけど」 だって木同さんは、今でも言成くんと一緒に帰っているじゃない。一緒に勉強しているのなら言成くんだと思うけど。 でもなんで先生はそんなことを私に訊くのだろう? 不思議に思った私は、逆に質問する。 「どうして先生はそう思われるんですか?」 「だってね、二人の間違っているところがいつも同じだから」 ええっ!? 私は驚いた。 小テストの結果は戻ってこない。だからずっと自分は満点だと思っていた。二人が満点なら同時にトップであるのも納得がいく。 しかし先生は違うと言う。さらに二人とも同じ場所を間違っているなんて……。 まさか、カンニング!? なわけがない。木同さんは私よりもずっと前の席に座っている。 「すいません、今までの小テストの回答用紙、見せてもらえませんか?」 「女台さんのだけならいいけど」 「もちろん、自分のだけで構いません」 私は先生と一緒に職員室へ行き、間違った場所を確認する。 それはケアレスミスではなく、すべて私が間違って覚えていた箇所だった。 つまり私は、そういう風に間違って赤鉛筆で書いていたのだ。 ということは、もしかして……? いやいや、そんなことがあり得るだろうか? とにかく試して見なければ分からない。二人が同じ間違いをする理由は、もしかするとあの赤青鉛筆にあるのかもしれない。 「ありがとうございます。先生」 私はある実験を思いついた。 今日のバイトで試してみたい実験を―― 「mouseの複数形はmouses……」 バイトでいつもの赤青鉛筆を握った私は、赤の方を使って英単語を書き始めた。 ただし、学校で習った単語とは違う形にして。 私は『ネズミ』の複数形は何だか知っている。だって今年の干支だもん。でも、この鉛筆ではそれを書かない。ここで書くのは『mouses』という単語。 その結果は、すぐに小テストに出た。 トップは私一人だけだったのだ。 そして私は確信する。先生が木同さんに掛けた言葉を盗み聞きして。 「木同さん、今回はどうしちゃったの? ネズミの複数形はmiceよ。mousesって書いたら、パソコンのマウスになっちゃうんだから……」 いつも使っていた赤青鉛筆。 それは、木同さんと言成くんだったんだ……。 私が赤の鉛筆を使って英単語の勉強をしていたから、木同さんも良い成績を取ることができた。そして赤と青のバランスが取れたため、二人の関係が良くなった。そう考えれば辻褄が合う。 バランスが取れなくなった鉛筆は捨てられてしまう――おばあさんはそう言っていた。それはきっと、二人が別れてしまうから。重すぎる愛情に耐えられなくなって、消滅してしまうのではないだろうか。 だとすると……。 私の興味は、残りの三本の鉛筆に移りつつあった。 ◎ ◎ ◎ バイト先の古風な木製の筆入りに入っている赤青鉛筆は四本。 その一本は、木同さんと言成くん、というのが私の推理だ。 ということは、残りの三本も私が知ってる誰か、の可能性がある。 「一体、誰なんだろう……?」 手がかりは、男女のカップルということ。赤青鉛筆なんだから。 「このうち一本は、きっとあの人たちね」 心当たりがあった。 うちのクラスには、誰もが知る公認カップルが一組存在しているのだ。 ――馬丘翔流(うまおか かける)と魚占あゆ(うおしめ あゆ) イケメンとギャルという、典型的なイケイケカップルだ。 馬丘くんは本当に格好いい。身長はワリトよりもちょっと低いけど、ルックスはクラスナンバーワン。存在感のある真っ直ぐな鼻筋、優しそうな二重の瞳。ヂャーニーズにも入れるんじゃないかと私は評価している。 一方、魚占さんは、テレビによく登場するような女子高生って感じのギャル。スカートは校則よりも明らかに短いし、地毛だと言い張る亜麻色の長髪は絶対、染めてるよね? 二人はいつも一緒に帰っているし、教室でも人目を気にせずイチャイチャしている。 「そんな二人にお似合いの鉛筆といえば……」 この太くて短いやつだろう。 彼と彼女の学校生活そのものを象徴している。 「じゃあ、まずは恒例の英単語といきますか……」 英単語を書いてみれば分かる。その鉛筆が予想した二人なのかどうかが。 たとえ予想が外れたとしても、これは勉強なのだから自分に損は全くない。 私は太くて短い赤青鉛筆を筆入れから取り出した。 「うわっ、太っ!」 本当に小指と同じくらいの太さがある。断面は丸い。しかし長さがどちらも短い。 試しに測ってみたら、青が三・一センチ、赤が二・八センチだった。 「さて、どちらを使おうかな……」 バランスを取るなら青だ。 でもここで私はふと考える。 バランスを取って、私に何かいいことがあるのだろうか――と。 もし、この青が馬丘くんだとしたら、青を使って英単語を勉強すれば彼が小テストで良い成績を取れるようになるだろう。イケメンの馬丘くんが私と一緒に名前を発表されるなんて、ちょっと、どころかかなり嬉しいかも。 でもそれだけなのだ。 なぜなら、馬丘くんには魚占さんという彼女がいるから。 「だったら……」 私はB5の紙を手にして、赤の方で英単語を書き始めた。 赤の長さは二・八センチ。これをゼロにしてしまえばいい。私の考えが正しければ、長さがゼロになれば魚占さんは馬丘くんの彼女という立場を失うはず。 「それにしても書きにくいなぁ……」 一つだけ問題があった。 太いのは構わないが、短いのは致命的なのだ。鉛筆をしっかりと握れないから、ストレスなく文字を書くことができない。 たまりかねた私は、赤青鉛筆を持っておばあさんのところに行く。なんとかならないものかと。 「ありますよ」 ひとこと呟くと、おばあさんは棚の引き出しを開けた。そこには色々な種類の鉛筆ホルダーがずらりと並んでいた。ちなみに鉛筆ホルダーとは、短い鉛筆を使い切るための筒状のアダプターだ。 「この太さがちょうどなんじゃないかしら?」 ええっ、あるの? この小指くらいの太さに合う鉛筆ホルダーが? おばあさんは私から赤青鉛筆を受け取ると、引き出しから取り出した鉛筆ホルダーにセットする。驚くことに両者はピタリとフィットした。 「ほら、ちょうどでしょ?」 ニコリと笑うおばあさん。 でもこれで私の野望が現実に近づいた。 「すごいすごい! 鉛筆ホルダーを使うとものすごく書きやすい! 太い文字が書けて芯がどんどん減ってる気がする!」 部屋に戻った私は、ガンガン英単語を書く。 それにしても不思議なものだ。良い成績を取ろうと英単語を書くよりも、芯を減らしてやろうと企む方がこんなにもパワーが出るなんて。宇宙で戦争する映画でもそんなことを言ってたと聞いたことがある。結局あの映画の最終話、受験で観られなかったんだけどさ。 その暗黒面に、私の心が落ちた瞬間だった。 英単語の小テストの成績発表。 私の予想通り、トップは魚占さんだった。 私はわざと間違えてトップにならないよう調整した。馬丘くんを争うライバルとは、一緒に名前を呼ばれたくなんてない。 発表の瞬間、どっと教室が湧いた。 そりゃそうだ。好成績とは無縁だったギャルがいきなりクラスのトップに輝いたのだ。 しかし、授業の後で得意げに語る彼女の言葉が私の心を逆撫でする。 「いやね、なんかゾーンに入ったっていうか、天から単語が降ってきた感じなのよ」 まるで自分の実力でトップになれたかのように。 いやいや、それは私のおかげだから。 それにゾーンって、よくスポーツ選手が使う言葉じゃない? 普段からコツコツと努力しているアスリートだから使える言葉なんだと思うよ。まあニュアンスは分からなくもないけどね。私も高校受験の時はそうだったし。 そして魚占さんは馬丘くんを熱く見る。 「翔流、やったよ! 私すごいでしょ!」 ちょ、待ってよ? 教室だよ、ここ。 そういうのは放課後、誰も見ていないところでやってくれる? 「すげえよ、ますます好きになった」 馬丘くんも馬丘くんだ。お願いだから二人の仲を見せつけないで。 しかし私は知っている。もし本当に馬丘くんが魚占さんのことをさらに好きになったとしたら、それは私のせいなのだ。だって、赤青鉛筆の青の方を相対的にさらに長くしちゃったんだから。 「じゃあ、今日はご馳走してくれる?」 「いいぜ。どこに行こうか?」 はいはいはいはいはいはいはい、後は勝手にやってちょうだい。 ――こいつは許しちゃおけねぇ。 早く赤鉛筆の長さをゼロにしなくては。 私は早くバイトに行きたくてうずうずし始めた。 「もう単語なんて書いてやんないんだから」 バイトの個室で太い赤青鉛筆を手にした私は、何を書こうか迷っていた。 先週は英単語をまじめに書いて、魚占さんをつけ上がらせてしまった。今週はその轍を踏むわけにはいかない。 「じゃあ、何を書けばいいんだろう?」 魚占さんにお淑やかになってもらえるよう、古文の教科書でも書き取りしようか? 「いとおかし」とか「あはれなり」なんて言ってる魚占さんも見てみたいし、その彼女をますます好きになってしまう馬丘くんはもっと素敵かも。 いやいや、そんな気分じゃない。今は勉強なんて全くする気にはなれない。 書くことはなんだっていい、とにかく芯を減らせばいいんだから。 だったらとりあえず…… 『リア充爆発しろ!』 私は正直な気持ちを書きなぐっていた。 赤の芯が早く消費されるように、文字に力を込めて。 全く全くどいつもこいつも! でもしょうがない。ここでは赤青鉛筆しか扱っていないんだから、私が相手をするのはすべてリア充なのだ。 私はすぐに、この言葉を書くことに虚しさを感じてしまった。 『教室でイチャイチャするんじゃねぇ』 この言葉は意外と効力があるかもしれない。 だって実現可能な命令形だから。 イチャイチャするなという命令が魚占さんの脳に届けば、教室では静かにしてくれるかも? しかし、この言葉を書けば書くほど教室での出来事が脳裏に蘇ってくる。 人の努力をあたかも自分の成果のように自慢する魚占さん。 その得意げな顔。思い出すだけでも本当に頭に来る。 『アホ、バカ、◯◯、×××、△△△△△……』 いつの間にか、B5の紙は決して人には見せられない単語で埋め尽くされていた。 そんなことをさらに三日繰り返していると、太い赤青鉛筆の赤の長さはほとんどゼロになった。 そして翌日。 学校で小さな喧嘩が勃発する。 魚占さんが所属するギャルのグループで小競り合いが起きたのだ。 「ちょっと、あゆ。あんた最近調子に乗ってない?」 「そうよ、小テストでトップを取ったからって私たちのことバカにしてるでしょ?」 どうやら先日の英語の小テスト以来、魚占さんの態度が横柄になっているらしい。それが元でグループ内でいざこざが起きている。 そりゃそうでしょ。私だってあの態度にはカチンと来たもの。近くにいる女子ならなおさらかも。 あの時、英単語なんて書かなきゃ良かったって思ったけど、こんなところに効果が出るとはね。人生、何が起きるか分からない。 「バカにバカって言って何が悪いの。文句があるならトップを取ってみなさいよ」 「それ言っちゃう? あゆはバカの気持ちが分かる娘だと思ってたのに」 「謝りなよ、あゆ。でなきゃ、もう遊んであげないよ」 すると魚占さんは謝るどころか馬丘くんに視線を向け、女子たちに宣戦布告したのだ。 「私は平気よ。だって私には翔流がいるもの。あんたたちこそアホでバカで◯◯で×××だし、△△△△△じゃない!」 あーあ、言っちゃった。 そんな単語、教室では絶対言っちゃダメなのに。 教室でイチャイチャなんてしてるから、モラルの敷居が低くなっちゃったんだよ……。 その時、ガタンと音がして誰かが教室を出て行った。 見ると魚占さんが血相を変えて追いかける。 「翔流! 待って、翔流。私は悪くない、悪くないの……」 終わったな。 教室の誰もが、そう感じていた。 その日のバイト。 太い赤青鉛筆は元に戻っていた。赤の長さが青と同じになっていたのだ。 「ええっ、どうして? 二人は無事、破局を迎えたはずなのに……」 昨日は確かに赤の芯の長さをゼロにした。最後に鉛筆を削った時に、青の芯が出てきたもん。 それに学校でも派手に昼ドラ演じてたじゃない。 「ん? でも、よく見るとちょっと違うかも?」 手に取ると、全然違っていた。 青の部分は以前と変わらないが、赤の方は平べったくなっていたのだ。 「まるで青の三次元が、赤で二次元に変換されたような……」 これってどういうこと? わけがわかんない。 とりあえず私は、いつものように英単語を書き始めた。頭にハテナマークを浮かべたままで。 そして私は、単語を書きながらいろいろと考える。 「もしかして馬丘くん、もう新しい彼女を作ったってこと?」 さすがにそれは早すぎる。だって今日、魚占さんとあんなことになったばかりなんだし。 でも書き味は魚占さんの時とは明らかに違う。 彼女の鉛筆はもっとさらりとした書き味だったけど、今回の平べったい赤鉛筆は違う。なんだか芯が粘っこいような印象なのだ。 「案外、私だったりして」 こんなにも平べったい人生は送っていないつもりだけどね。 でもこんな風に、一度は馬丘くんと付き合ってみたい。 私は鉛筆を動かしながら妄想する。 ――真理、一緒に帰るよ。 脳内で再生される馬丘くんの包容力溢れる甘い声。 きゃー、そんな風に言われてみたい。クラス一のイケメンに。 そしたら馬丘くんと並んで通学路を歩くの。そんでもって手も握ってくれちゃったりして。暖かいねって耳元で彼が囁いてくれたらもう最高! うわー、早くそんな日が来ないかな。 私だって太くて短い恋をしてみたい。 そんなことは今まで全くの夢物語だった。でもこのバイトに通っているうちは、実現可能かもしれないのだ。だって赤の芯を片っ端から消費しちゃえばいいんだから。そして時々、青の鉛筆で『女台真理が好き』って自分の名前を書いちゃうんだ。なんかすっごく恥ずかしいけど、それくらいの覚悟は必要だと思う。努力しないで馬丘くんと付き合おうなんて虫がいいからね。その苦労が報われれば、いつかは私に順番が回って来るはず。 そのためには、まずはこの赤の鉛筆を―― ◎ ◎ ◎ 馬丘くんの新しい彼女が判明した。 ――石見鈴里(いわみ すずり)。 クラス内でもトップクラスのアニメ好き、つまりアニオタだ。 見た目はおとなしく、もちろん髪は染めてないしスカートだって長い。肩くらいの長い黒髪は枝毛ばかりだし、顔の造りもごく普通の日本人って感じ。 「馬丘くん、今度は百八十度、趣向を転換してきたよ……」 二人のことはクラスではまだ誰も知らないようだ。どうやら見えないところでコソコソと付き合っているらしい。 でも、こんな地味な女子と付き合ってくれるんだから、私にだって芽があるかも。 私は希望に胸を膨らませながら、どうやって赤の芯を消費しようか作戦を考え始めた。 別に今まで通り、英単語を書き続けても構わない。 赤の芯は確実に消費されるし、私だって勉強になる。それに石見さんは、トップになっても自慢して回るようなことはしなかった。馬丘くんだって、おおっぴらに付き合っていない以上、沈黙を貫いていたし……。 でもそれでは面白くない。 悪女的な言い方をすれば、もうこのタイプの女子とは付き合いたくないという印象付きで別れを迎えさせてあげたい。ライバルは減らすに限る。いやぁ、私も成長したもんだ。悪い意味で。 その日から私は、アニオタグループの会話に耳を傾けるようになった。その内容から、石見さんの弱点が見つかるかもしれないからだ。 するとすぐに興味深い会話を耳にすることができた。 「明日発売される『瞬撃の凶刃』の最新巻ってすごいらしいよね」 「原作の漫画って今、修羅場なんだよね」 ふむふむ、『瞬撃の凶刃』か。 名前は聞いたことがある。なんでも今すごく話題の作品らしい。主題歌を担当する歌手も紅白に初出場してたような。曲名は確か『紅蓮の華矢』……だっけ? すると石見さんが突然、声を荒らげる。 「ちょ、ちょっとネタバレはなしよ。私、アニメを楽しみにしてるんだから」 えっ、アニメで? うーん、状況がよく分からないけど、石見さんがあんなにムキになるところを初めて見た。 もしかしたらこれは使えるかも。 ――必殺『瞬撃の凶刃』作戦。 作戦の実行のため、私は早速本屋とリサイクルショップを駆け巡り、バイトで貯めたお金を駆使して漫画を全巻揃えることに成功した。 「こりゃ、面白いわ。話題になるのも分かる……」 私は早速、家で『瞬撃の凶刃』の漫画を読み始める。 舞台は中世ヨーロッパのような国で、主人公は十七才くらいの女の子。ある日突然、巨大化したゾンビによって村が襲われ、家族が殺されてしまうのだ。そして、たった一人生き残った弟はゾンビの姿にされてしまう。主人公は弟を人間に戻すため、聖剣を手に入れてゾンビの首領を倒すことを決意する。 「そういえば石見さん、アニメで観るって言ってたっけ……」 ネットで調べると、アニメ化されているのは原作の途中までということがわかった。具体的には、現在二十四巻まで発売されている漫画のうち、アニメ化されているのは二十巻分まで。 「ということは……」 私の頭の中で悪魔が囁いた。 二十一巻から先の内容を書いてあげればいいと。 次の日から私は、バイト先で『瞬撃の凶刃』の二十一巻以降の内容を書き始める。 ただのあらすじではなく、状況描写を加えた臨場感溢れる文章で。 だって、ここで書いた内容は潜在的に石見さんの脳に訴えるものだから。 『岩陰からゾンビの首領が現れた』なんて淡白なあらすじを書いても、それが彼女の記憶に強く刻まれるとは思えない。 『誰? そこに隠れているのは!? あなた、も、もしかして……』と書いた方が、効果は大きいだろう。 「むふふふ、私、ノベライズ作家になれるかも……」 この作業はかなり楽しかった。だって、面白い内容をそのまま文章にできるんだもん。 そしてあっという間にB5の紙は真っ赤になる。 家に帰ると続きの原作を読んで、イメージを膨らませて明日に備える。すぐに就寝時間になってしまうので、原作を学校に持って行って休み時間も読むようにした。 必殺『瞬撃の凶刃』作戦の概要はこんな感じだ。 私はバイトで『瞬撃の凶刃』の未アニメ部分を文章に書いて、石見さんに潜在的既視感を植え付ける。これは、馬丘くんとのデートの時に威力を発揮するだろう。なぜなら、原作は読んでません宣言をしている石見さんの口から、未アニメ部分の話題が出るのだから。 ――疑惑。 恋愛にとって最大の敵。 相手のことを信じられなくなった時、その恋は終焉を迎える。 ちなみに英語で書くと『suspicion』。しばらく前の小テストで、スペルを間違えてしまったことは内緒だ。今でも木同さんは『suspition』と覚えているに違いない。 問題は、馬丘くんが『瞬撃の凶刃』に興味を持っているかどうかだ。この度合いによって、作戦が二人の仲に与えるダメージ値が変わってくる。最悪の場合、ノーダメージということもあり得るのだ。 「いや、馬丘くんならきっと……」 彼はわざわざクラストップのアニオタを選んだ。言い寄る女子は星の数ほどいるはずなのに。 それなら『瞬撃の凶刃』のファンである可能性は高い。その話題で意気投合したから石見さんを選んだ――ということは大いにあり得る。 まあ、私の真の目的は赤の芯をゼロにすることだから、この作戦自体は全くのおまけなんだけどね……。 放課後の桜のベンチ。 いつものようにワリトが座っている。 私は彼の隣に座り、やっとのことで手に入れた『瞬撃の凶刃』の最新巻、二十五巻を読み始める。いよいよクライマックスだ。赤の芯の長さも、今日か明日にはゼロになるだろう。 「ちょ、おま、それ俺の前で広げるなよ」 私が手にしたものを目にしたワリトが、慌てて距離を広げる。 「何? ワリトもアニメ派?」 どうやらワリトも、原作を読まずにアニメ化を楽しみにしている石見さんと同じタイプらしい。 「そうだよ。楽しみにしてるんだから、絶対ネタバレすんなよ」 「無理しないでワリトも読めばいいのに。クライマックス、すごいよ」 「だから俺の前にそれをかざすなって。表紙の絵すらネタバレって言われてるんだからさ」 何よ、ワリトのやつ。意固地になっちゃって。 まあ、でも、今はこんなやつに構ってる暇はない。 クライマックスの臨場感をどうやって文章で表現するのか、ちゃんと考えなくちゃ。 「ズバーン、お、お前はあの時の。そうよ、私は……」 「ストップ! 声に出したら同じだろ。全く、人のことも考えろよ」 怒ったワリトはスクールバッグを持って校門の方へ歩き出してしまった。 やべぇ、あいつマジでキレてた。 そんなにムキになることないのに……。 この時の私は、翌日に起きる出来事について、まだ楽観的に考えていた。 平べったい赤い鉛筆の芯の長さが、ついにゼロになった。 それと同時に、私は『瞬撃の凶刃』のクライマックスを書き上げる。 さて、明日のデートでは何が起きるのか? 「下校時に、こっそり二人の後をつけてみようか?」 いやいや、これは見つかった時のリスクが大きい。 最悪の場合、いくら赤の芯を消費しても私の番が回って来なくなる可能性も考えられる。 「まあ、バイトで鉛筆を確認すればいいんだし……」 しかし悲劇は教室内で起きてしまった。 昼休み。 五時間目の授業が始まる前のことだった。 アニオタグループ内で、『瞬撃の凶刃』について喋りが始まる。 「最新巻、すごいね。詳しくは言えないけど」 「あんなに激しい戦いになるとはね。内緒だけど」 すると石見さんが饒舌に語り出したのだ。教室中に聞こえる声で。 「まさかゾンビの首領は主人公の弟だったとはね。どうりで味方の作戦がだだ漏れに――」 「ダメっ! 石見さんっ!」 教室の空気が凍りついた。 私は立ち上がって制止する。が、一瞬遅かった。 カタっとシャーペンが床に落ちる音があちらこちらで聞こえてくる。 石見さんと話をしていたアニオタグループの顔は真っ青だ。それもそのはず、原作は読んでません宣言をしていた石見さんが自ら率先してネタバレしちゃったのだから。彼女らにとって、石見さんは全くのノーマークだった。 すると、ガタンと音がして誰かが教室を出て行った。 見ると石見さんが血相を変えて追いかける。 「翔流! 待って、翔流。私は悪くない、口が勝手に動いちゃったんだから……」 二人が出て行くと、教室がざわつき始める。 「えっ、あの二人って?」 「まさか、付き合っていたとか?」 私は立ち上がったまま、静まることのない教室をただ呆然と眺めるしかなかった。 「おい、ニョリ! お前、石見さんに最新巻見せただろ!?」 私がバイトに行こうと校門に向かっていると、桜のベンチから強い口調でワリトの声が飛んできた。 「うん、ゴメン……」 私はワリトに近づき、素直にうなだれる。 本当は見せてない。でも実質的には見せたようなものだ。 私はあの時、立ち上がって石見さんを制止しようとした。それは私がこの一件に関わっていることを、クラス中に知らしめたことと同然。 「あんなことになるとは思わなかったの……」 これは本当だ。 馬丘くんと石見さんの二人の仲だけが壊れればいいと思っていた。 しかしその結果、私は色々なものを壊してしまった。 「ったく。だからやめろってあれほど言ったのに……」 ワリトは背もたれに身を預けて、脱力したようにぼおっと雲を眺める。 「あーあ、結果を知っちゃったらつまんないよな、アニメ化されても」 ワリトも相当ショックだったようだ。これは本当に申し訳ない。 「馬丘くんも?」 「そうじゃねえの? あいつとはあんま話したことないからよく分からんけど、あのアニメのセリフをたまに喋ってたよ。『肺を呼吸に捧げよ』とか『全集中の駆逐!』とかな」 やっぱり馬丘くんもファンだったんだ……。 「あと言成な。あいつもかなりしょげてた」 ――覆水盆に返らず。 ネタバレだけは償う方法が本当に見当たらない。 時間を元に戻すことができればと切に願う。 私ができるせめてもの償いは、赤青鉛筆のバランスをちゃんと整えてあげること。言成くんなら木同さんと長く続きますようにと。 「じゃあ、バイトがあるから……」 私は呆然と空を眺め続けるワリトに小さく頭を下げると、校門に向かって歩き出した。 地下室に着くと、三本の鉛筆の青い芯が折れていた。 馬丘くんのと、言成くんの。そして細くて長い鉛筆の。 それが何を意味しているのか、私は直感する。 「こんなにもショックだったなんて……」 きっと心が折れちゃったのだ。 ワリトはマジで落胆していた。 馬丘くんだって教室を飛び出した。 ワリトの話だと、言成くんもかなり凹んでいたという。 「でも、この鉛筆って……」 青い芯が折れた細長い鉛筆を手に取る。この鉛筆は誰なのか、私はまだ調べていなかった。 一つの可能性が頭をよぎる。 私が知っている心が折れた男子は三人。 そして芯の折れた青鉛筆は三本。 それが意味することは 「ええっ、嘘。そんなことって……」 もしかしてワリト!? にわかには信じられなかった。 この細長い青鉛筆がワリトかも、ということではない。 信じられなかったのは、ワリトと思われる青鉛筆に赤鉛筆がくっついていること。 「ワリトに彼女がいる!?」 それは私の足元を完全に崩すくらいの衝撃だった。 いやいや、そんな素振りなんてワリトは私に見せたことはない。 でも、でも、馬丘くんと石見さんだって、結局クラスでは誰にも気づかれなかったじゃない。 逆に、もし私に彼氏ができたとしたらワリトに報告する? いや、わざわざそんなことするわけがない。ここでのバイトがきっかけで私が馬丘くんと付き合うことになっても、誰にも言わずに内緒にしようと思っていた。もちろんワリトにも内緒だ。 ワリトだってそうだろう。彼女ができても私に報告する義務なんてない。 そういえばあいつ、なんでいつも桜のベンチに座っているんだろう? まさか、待っているとか? 彼女と一緒に帰るために……。 そう考えると、なんだか辻褄が合う。 それなのに私は馴れ馴れしく近づいたり、一緒にベンチに座っちゃったりしてたんだ。なんて図々しい空気の読めない女だったんだろう。 本当のワリトを象徴するのが、この細い青鉛筆? そして私の知らないワリトの彼女が、この細い赤鉛筆? 青と赤の細長い鉛筆は、裏面同士でしっかりとくっついている。まるで肌と肌を合わせるように。 その様子を凝視していると、ゾワゾワと得体の知れない恐怖が背筋に這い上ってきた。 ここに居てはいけない。ここは私が住んでいた世界ではない。 私は細長い赤青鉛筆を筆入れに置くと、スクールバッグを掴んで何も片付けをしないまま部屋を飛び出してしまった。 ◎ ◎ ◎ それからしばらくの間、私はバイトに行くことができなかった。 芯の折れた、細長い青鉛筆のことがずっと心を占領している。 ――あの青鉛筆はもしかして……。 ワリトなのかもしれない。 そう思うだけで、どうしようもない感情が湧き出てしまう。 別にワリトに彼女ができても構わない。むしろ歓迎してあげてもいい。 でも、あの細長い赤青鉛筆は、私がバイトを始めた時から存在した。それは二ヶ月も前のことなのだ。 つまり、ずっと前からワリトには彼女がいた。 それに私は全然気づかなかったし、ワリトもそれを私に話してくれなかった。 それが悔しかった。私の知らない彼女の存在が怖かった。 私がバイトに行った後で、きっと二人は一緒に仲良く下校していたのだろう。 なんだか自分だけのけ者にされていたような気がした。 バイトに行けば、あの細長い赤青鉛筆が必ず目に入る。 でもあの鉛筆は握れない。 だって、ワリトだと確定してしまうのが恐いから。 彼女が誰なのか、知ってしまうのが嫌だから。 すべてが判明した時、自分が冷静でいられるのか自信がないから。だって私は、あれだけの仕打ちを繰り返すことができる悪女なのだから。 きっとこれは、今まで繰り返してきた悪行に対する罰なんだ。人の心を弄んだ罰。 私はバイトに行くことができなくなった。 心が落ち着くまで、それから一ヶ月がかかった。 その間にもワリトは誰かと付き合っている素振りは一つも見せていない。 一方、馬丘くんも、新しい彼女の噂は聞こえてこなかった。 「あの鉛筆たちは、今どうなっているのだろう?」 そちらの興味がじわじわと湧いてくる。 折れた芯についての心配もあった。 そして私は、久しぶりにビルの地下に降りてみた。 赤青鉛筆は五本に増えていた。 普通の太さが三本、細長いのが一本、そして太いのが―― 「ええっ? これって……」 太いのは、反対側に青鉛筆がくっついていた。つまり、青青鉛筆。 「何? 男同士ってこと?」 まあ、そういうこともあるだろう。何が起こるか分からない世界だ。あれからずっと馬丘くんが大人しいのは、そういうことだったんだ。 「馬丘くんと付き合っている男子は誰?」 いや、やめておこう。知っても意味はないし、知りたくもない。 私はちょっぴり笑った後、改めて鉛筆を眺める。 芯はちゃんと鉛筆削りで尖らせてあった。 誰かが作業をしているのだろうか。それとも、実態に合わせて自然に変化しているのだろうか。 とにかく不思議な鉛筆たちだった。 そして静かに細長い赤青鉛筆を手に取る。 「さあ、これで最後にするわ」 一ヶ月前に青の芯が折れたせいか、赤の方が一センチくらい長くなっている。 私はB5の紙をテーブルの中央に置くと、青の方で英単語を書き始めた。 この青い鉛筆がワリトであることを確認したら、もうこのバイトを辞めるつもりだ。 彼女については誰だろうと構わない。 ここで英単語を書けば、私は小テストで名前を発表される。おそらくワリトと一緒に。 それで十分だった。だって、二人は幼馴染なんだもん。それ以上でもそれ以下でもない。これが私とワリトの距離なんだ、それで十分なんだよ。 やっとそういう気持ちになれた。 ◎ ◎ ◎ 「おめでとう、ワリト」 初夏の放課後。 桜のベンチに座る彼に私は声を掛ける。 「お前もな、ニョリ」 「ありがと。隣いい?」 「久しぶりだな。バイトはいいの?」 「うん」 私はキョロキョロしながらワリトの隣に座り、スカートを直す。 ワリトが待ってる彼女さん。今、この時間だけは許してね? だって、今日は二人でトップを取れたおめでたい日だから。こんなことは今日で最後にするから。 気兼ねしない二人の関係。それがどんなに尊いものか、私はこの時初めて実感した。 この時間がずっと続いて欲しい。 何で今まで、そう思わなかったのだろう。 何で今まで、この時間をもっと大切にしなかったんだろう。 「久しぶりにゾーンに入ったよ。英単語が天から降りて来るって、こういうことなんだな」 「あんたもそんなこと言うのね」 どこかで聞いたことのあるセリフ。 頭に来るどころか、可笑しくなってしまう。 今の私には、なにもかも懐かしい。 「また頼むよ、ニョリ」 「いいや、私はもうバイトを辞めたから」 と言っておきながら私は不思議に思う。 なんでワリトは「また頼むよ」なんて言うのだろう? すると彼は低い声でポツリと言う。待ちくたびれたかのように。 「やっと使ってくれたんだな、俺の鉛筆を」 ええっ? それって……。 ワリトはすべてを知ってたってこと? 「そんな顔するなよ。俺が紹介したバイトなんだから、俺が知らないわけないだろ?」 あの時逃げたのはそういうことだったの? 偽名を使ったのも。 「だって、カウンターのおばあさん、俺のばあちゃんだもの」 ええっ? あのおばあさんってワリトのおばあちゃん!? ハテナマークで頭を一杯にする私を横目に、ワリトはゆっくりと彼自身の物語を語りだした。 「あれは中三の秋のことだった。受験勉強をやらなくちゃいけないのに、俺は全く勉強が手につかなくなってしまった」 夕焼け空を見上げながらワリトは懐かしそうに話す。たった半年ちょっと前のことなのに。 半年前か……。 あの時、私もスランプだった。そしてアドバイスをくれた男子を好きになった。 そうすることによって、ようやく前に進む力が湧いてきた。 「それはね、大好きだった女の子が、別の人を好きになっちゃったから……」 私はハッとする。 それって……もしかして……? 「そしたらさ、俺を見かねたばあちゃんが言ったんだ。あの地下室に俺を連れて行って。一本の赤青鉛筆を俺の前に置いてさ」 ワリトは、おばあさんの口調を真似てこう言った。 『その女の子を応援したければ赤の方で、その子の恋を壊したければ青の方で勉強すればいい』 「その赤青鉛筆はね、赤の方がかなり長かった。長さをちゃんと測ったわけじゃないけど、三センチは長かったと思う」 今の私ならその意味がわかる。 あの頃、私は一方的に恋をしていた。 あの人の優しさに答えようとがむしゃらだった。 頑張れば頑張るほど、想いは強くなっていった。 「今思えば、ばあちゃんは俺に勉強させたかったんだ。究極の選択を突きつけて。だってどっちを選んでも結果は『勉強する』だもんな」 「おばあちゃんは策士ね」 「だよな」 二人で静かに笑う。 こんな穏やかな日が来るとは半年前には思えなかった。あの頃は、本当に毎日が戦争のようだった。 「それでワリトはどっちを選んだの?」 結局私の恋は壊れてしまった。 だから、結果からではどっちなのか私には分からない。 「それ、聞く?」 「聞いちゃダメ?」 「ダメに決まってるだろ? お前はホントに男心が分からんやつだな。そんなこと俺に言わせるなよ」 きっと赤でしょ? だって優しいもん、ワリトは。 ワリトなら、幼馴染の不幸を願うことはしないはず、たぶん。 そう考えて私はハッとする。 ――今まで私が赤青鉛筆を使って、何が起きたのか。 ――もしワリトが赤を使って受験勉強したら、何が起きるのか。 私はすべてを理解する。 今、この場所にいられるのは、ワリトのおかげだったんだと。 「ありがとう、ワリト……」 気がつくと私は泣いていた。 後から後から涙が溢れてくる。 私がこの学校に合格できたのは、ワリトの想いの積み重ねだったんだ。私だって頑張った。死ぬ気で受験勉強をやった。それをワリトが底上げしてくれていた……。 涙を拭いながら横を見ると、ワリトも泣いていた。 「俺、頑張ったんだ。赤と青のバランスを取ろうと必死に。でもさ、翌日には元に戻っちゃうんだよ、赤の長さが。どんなに頑張って単語を書いても、どんなにたくさん数式を書いても、どんなに紙を真っ赤にしてもダメだったんだ。だからゴメンな、ニョリ。俺を許してくれ……」 あんたが謝ることなんかない。 私が勝手に想いを膨らませていただけなんだから。 「ううん、もういいの。こちらこそ、ありがと」 するとワリトは涙を拭い始めた。 校門に向かう生徒の中には、こちらをチラチラ見る人もいる。でもそんなの気にしない。変な噂をするやつは、私が捕まえてとっちめてやる。 「四月になったらばあちゃんがバイト代をくれるようになった。そして入学式を終えて、ニョリと同じクラスになれたことを喜んでいたら……あの細長い鉛筆が現れたんだ」 私はワリトと付き合った記憶はない。 でも、知り合いの少ない高校に入学して、ワリトと同じクラスになれたことに安堵したのは間違いなかった。二人で帰ったことも、一度や二度ではない。 きっとそういうのを神様が見ていたのだろう。細くて長いのもなんとなくわかる。 「いろいろ試しているうちに、青い方が自分であることがわかった。その途端、恐くなったんだ。もう人の人生を左右することはしたくない。だけど、知らない人に任せるのは嫌だった」 「それで、私に声を掛けたと」 ワリトは私を向く。 涙はすでに乾いていた。 「ニョリだったら気づかないと思ってたんだけどなぁ……。ずっとガリ勉を続けてくれたら良かったのに」 それはあんたの都合でしょ? 私だって普通の女の子なんだから、恋バナにだって興味あるわよ。 「そんな都合よくなんていかないよ」 「でも、あれは酷かったぜ。『瞬撃の凶刃』のネタバレ。あれは一生許してやらないからな」 「うん、私も反省してる。石見さんを悪者にしちゃったし。それに馬丘くんもショックで男に走っちゃったから」 「えっ、それってマジ?」 「うん。だって彼、青青鉛筆になっちゃったんだもん」 ぷっとワリトが吹き出した。 私もてへっと笑ってみる。 初夏の放課後。夕暮れの桜のベンチ。 私、ここにいても良かったんだ。 誰かの邪魔なんかじゃなかったんだ……。 空を見上げると、宇宙に届くくらい高く成長した梅雨間の雲を夕陽が真っ赤に染めている。 神様、お願いですから、これからもずっとこんな日が続きますように―― 私はバイトを続けることにした。 ちゃんとバランスを取る使い方をして、罪滅ぼしをしなければいけないと思ったから。 それに私たちの鉛筆を他の人に任せるのは嫌だった。 細くて長いあの鉛筆は、ちょっと太くなっていた。 おわり |
つとむュー 2019年12月27日 04時25分20秒 公開 ■この作品の著作権は つとむュー さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2020年04月11日 17時26分44秒 | |||
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