彼女が泳ぐ影 |
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僕の彼女が影から出て来なくなってから、一年が経とうとしていた。 この悩みを友達に伝えても「お前何言ってんだ?」としか返ってこないが、本当に影から出て来なくなったのだから仕方がない。 もちろん誰にでも入る事が出来るわけではない。僕の彼女、チトセだけが影の中に入る事が出来るのだ。 チトセはまるで影が黒いプールで出来ているかの様に、気ままにぱちゃぱちゃとその中を泳いでいる。 「いつも気持ちよさそうだな……」 「トモヤも入ればいいのに~」 「ダメも何も、僕が入れないの知ってるくせに」 僕が影へと飛び込もうものなら、影を映しているアスファルトに顔面を強打することになる。試しに影を触った事は何度もあるが、チトセが泳いでいるような液体を感じる事など一度もなかった。 まったく、どうしてこんな事になってしまったのか。 悩む僕とは裏腹に、のんきにぷかぷかと影の上を浮いているチトセ。こういう能天気な彼女を見ていると、大学時代に戻ったかのように感じる。 チトセと出会ったのは大学一年の最初の授業だった。たまたま席が隣だった上に、だらしない僕は教科書を買いそびれていて、それに気づいたチトセが見せてくれたのが始まりだ。僕は中学と高校が男子校だったので、女の子と一緒に一つの教科書を見ながら授業を受けるなんて小学生以来の事だった。その日は授業どころではなかった事を覚えている。 そしてそれからしばらく、僕は教科書を買い忘れる事にしたのだ。 幸いにも彼女はサークルに入るのを迷っていたらしく、周りの大学生が爆発的に交友関係を広げる波に取り残されていた。彼女は寂しそうにしていて、僕も同情をしつつ相槌していたが、心の中ではガッツポーズをしていた。狡い男である。 ほとんど一目惚れに近かったが、そこから随分と長い間僕は教科書を買い忘れていたと思う。いざ教科書を買った時に、購買のおばちゃんに「今更?」と聞き返された記憶があるので相当な遅かったと思う。 とにかく僕は踏ん切りが悪く、それでもチトセは待っていてくれた。 「お、今日か~」と、彼女が笑ったのは僕がようやく告白までこぎ付けた夜の事だ。もうすぐ学年が上がる頃だった。聞けば彼女は、僕が告白するのはもう少し先の事になると予想していたらしく、それまでのんびり待っているつもりだったらしい。 「だからすっごくうれしいな」 こんなにも待たせてしまっているにも拘わらず、彼女はそう言って笑ってのけた。 うじうじと意気地のない僕を待つ時間さえも楽しむ彼女は、人生という流れに、流されるままに浮かぶことがとても上手だったのを記憶している。 「おーい」 僕が影に向かって声を掛けると、ちゃぽんとマンションの影が揺れた。 どうやら大きな影に入って潜水を楽しんでいるらしい。 僕も同じマンションが作る影に腰を下ろして、彼女が遊び疲れて帰って来るのを待つ。僕の家から徒歩十分ほどの場所にあるこのマンションは、大きな影を誰にも見られず独り占めするには好都合の場所だった。彼女が影の中を泳ぎ出した時辺りから入居者が段々と居なくなったマンションで、ほとんど廃マンションと言っていい。 チトセはこの場所がお気に入りで、彼女の姿が見えないな、と思った時には大抵この場所にいる。 「ぷはぁ!」 影の中から勢いよく上半身が飛び出してきて、彼女の長い髪がバサリと揺れた。見ているのはプールで泳いでいる彼女の仕草と何ら変わりないのだが、髪が濡れていないので違和感を物凄く感じる。水飛沫を上げてキラキラ輝くはずの髪ツヤは無く、空気に触れて一本一本がサラサラなびくのだ。 「よくもまあ、飽きずにずっと影の中に入ってるね」 「飽きるっていうよりも、トモヤと離れたくなくてさぁ」 「よくわからない事言うね。影から出たって一緒でしょ」 「わかってるくせに~」 チトセは無邪気に笑う。 僕はそんな彼女につられて口角が上がるのを感じた。 「あ、元気出たね」 チトセは僕の顔を覗き込んで満足そうにしている。 「何言ってんだよ、僕は元から元気だ」 そう言いながらも僕はドキリとしていた。昨日仕事でミスをしてしまい、少し落ち込んでいたところなのだ。 「話してよ。お仕事の事でしょう? 話すと楽になるよ」 「でも仕事の事をチトセに聞いてもらうわけには……」 「大丈夫。今は」 手を広げて見せるチトセは、本当に何でも包み込んでくれそうで、僕は仕事のミスや愚痴などをついつい話してしまった。それをチトセは静かにうなずきながら聞いてくれる。 「だから明日からミスした分を取り戻さないといけないんだ。その為に随分と方々に謝ったよ」 「大変だねぇ。でも許してくれたんでしょう? まだ見捨てられてなくてよかったじゃん、まだまだ最悪じゃないね」 「最悪に近いと思うけど!」 まだ最悪じゃない、というのも久しく彼女の口から聞いていなかったセリフだ。しかし大学生の頃、彼女はそれを口癖の様によく言っていた。彼女は不思議な前の向き方をする子で、みんなが諦めるような事でも大抵の事は「よかった、これが出来てるからまだ最悪じゃないね」と一人で勝手に安堵して、そこからまた進み始める。頭がキレているわけではないのだが、諦めない事が上手だったのだ。 大学の実験で大失敗した時も「よかった、薬品まだ残ってるからやり直せるよ」と胸を撫で下ろしたり、俺がデートに遅刻して美術館に入れなかった時も「でも雨が降ってなくてよかったね、散歩出来るよ」と公園でニコニコ楽しそうに笑う。 ふんわりと前を向き続ける彼女のそばにいると、何というか、僕は本当に救われた。 「なぁ、そろそろ上がって来いよ。もうずっと影の中にいるだろ?」 「え~、もうちょっとだから」 「もうちょっと、もうちょっと、って言いながら、もう一年だぞ」 チトセは鼻の下まで影に沈み込み、上目遣いで僕を見て来る。きっと影の中の口は尖っているのだろう。口を尖らせて上目遣いで抗議の視線を送る、これは少し駄々をこねる時のチトセの仕草だった。 そのまましばらく二人で見つめ合っていたが、チトセはまた影の中に戻って行ってしまった。 影から出てこない理由が、僕には少しわかる。 チトセは、就活に失敗していた。 何社落ちても前向きに、まだまだ次があると笑っていた彼女が、日に日に憔悴していくのを、僕は隣でずっと見ていた。 初めの頃は愚痴混じりに酒を煽っていた彼女だったが、就活が進むにつれて口数も少なくなり、僕と話していても何処か上の空になっていた。 大学を卒業しても一向に職は決まらず、チトセは焦っていたのだと思う。就職浪人という自分の持つ肩書きと、会社に就職した僕とを比べて、彼女は疲弊していた。 よかったまだ大丈夫、という口癖もいつしか聞かなくなっていた。 「ねぇ、チトセ」 影がちゃぽんと揺れるが、返事は無い。しかし、少し揺れるだけで彼女が何処にいるかがすぐにわかる。チトセは今、倒れたカラーコーンの下にいるようだ。 夏の太陽は影をはっきりと地面に映してくれる。日陰と日向のコントラストが馬鹿みたいに強くて、影は地面に穴を空けているように黒い。影の存在が濃くなるほど、その微細な変化もすぐ目に留まるようになる。影が揺れるだけでもチトセの存在をすぐに感じられるのだ。 これが冬だったらこうして見つけられない。 冬の太陽は優しすぎて、影が薄くて曖昧だからだ。冬になるにつれて薄くなる影、そしてチトセ自身もそれに合わせて薄くなった。どんどんと薄くなって消えてしまいそうで不安だったのを思い出す。やはり、夏の方がいい。 僕は日陰から出て空を見上げて、太陽に手を翳した。 ギラギラと空全体を焼くような陽光は、僕の顔もじりじりと焼く。梅雨が明けた今日の日は、いつにも増して世界が明るく照らされている。僕自身が作る影も、そこだけ穴が空いたかのように漆黒を映していた。 とぷん、と影が波打つ音がして、僕の足元からチトセが現れる。上半身だけ出して僕を見上げる姿は、何処か人魚に似ている。 「私はね、トモヤと居れればいいの」 そういって首を傾げるチトセを見ると、胸が高鳴った。そして、その高鳴りはどんどんと大きくなる。 やっぱり僕の気持ちは変わらない。出会った時から、ずっと変わらない。そう自分に最終確認をして、唾を飲み込んだ。 チトセの疲弊している姿を見てからずっと考えていたのだ。自信と意気地のない僕はチトセにこの話をするまでに、一年以上も掛かってしまっている。だけどいつまでもなよっちく先延ばしにしている訳にはいかない。 僕はチトセの前向きな所が好きだった。いつもこの世に悩みなんて無いとでも言うように笑っているのが好きだった。 だから、就活なんかで彼女が壊れていくのを見たくない。でも、影から出たらまたチトセはきっと、また虚ろな目に戻ってしまう。 だから、僕は決めたのだ。 ――結婚しよう。 その一言を伝える為に、僕は深呼吸をする。ポケットに入れていた指輪の箱を、指先で確認する。 そして僕は地面に座った。 チトセと目線の高さが一緒になる。 「チトセ……笑わないで聞いてね」 チトセは首を傾げたまま、澄んだ瞳で僕を見ている。その瞳は少しだけ潤んでいて、微細に揺れていた。きっと、僕も同じ目をしている。 「僕と――」 「トモヤ、お前何やってんだよ」 不意に後ろから太い声が聞こえた。 緊張が最高潮に高まっていた僕は、飛び上がるほど驚いた。これは比喩ではなく本当のことで、僕は飛び上がってそのまま立ち、声の方へ振り向いたのだ。 「何やってんだよ」 声の主は、僕とチトセの共通の友達であるシュウタだった。彼の声音も表情も、どれもが怒りに満ちている。 何故? 僕の頭は疑問符で満たされていたが、それをシュウタに聞くことはできなかった。ただならぬ雰囲気に圧されて声が出なかったのだ。 まさか、シュウタもチトセの事を……? それはあり得ない話ではない。でもシュウタは僕とチトセの仲を応援してくれていたのではなかったのか? 「お前、一人で何してんだよ」 シュウタはそう言って、僕の肩を突き飛ばした。 よろめいた僕は自分の影を踏んでしまい、冷汗が噴き出す。チトセを踏んづけてしまったかも知れない。 慌てて足元を確認するが、チトセの姿は無かった。 「急に殴るなよ」 「お前が何も答えないからだ。もう一度聞く。一人で何してた」 「一人じゃないよ。チトセと話をしてたんだ」 それを聞いてシュウタの怒りはどんどん高まっていくようだった。今更嫉妬をしているのだろうか。もう何年もチトセと僕は一緒にいるというのに。 「チトセはいないだろ」 「いるよ。今はまた影の中に潜っちゃったみたいだけどね。きっとシュウタが怖くて潜ったんだ」 「お前まだそんな事言ってるのか?」 「だからわかってるよ。もう僕も決心したんだ。チトセを影から出すことにしたよ。ちょうど今その大事な話をしてたのに」 「いい加減にしろ!」 目の前が一瞬真っ白になって、僕の身体は宙を舞った。殴られたと気付いたのは、僕が地面に倒れてからだ。倒れた僕の目の前に、ポケットから飛び出た指輪の箱が転がって来る。口の中に血の味が広がる。 「いつまで馬鹿みたいな事言ってるんだ!」 「馬鹿はお前だろ……いきなり何すんだよ……これから僕が」 「チトセはもう死んだんだよ!」 シュウタの声が、嫌に耳に反響した。 その反響が広がって、段々と静かな世界が騒がしくなってくる。 遠くで車が走る音が聞こえる。何処かでセミの鳴いている声が聞こえる。横断歩道の寂れたメロディが、誰かの喋り声が、どんどんと僕のいる空間を包んでいく。 アスファルトが熱い。僕の身体を焼いている。 シュウタは何を言っているのだろう。 チトセはいるじゃないか。今も、この影の何処かにいるはずだ。大事な話をしていたから、きっとまだ、僕の影の中。 セミの声がうるさい。 これでは影が揺れる音が聞こえない。 チトセが何処にいるかわからないではないか。 「チトセ?」 影に向かって呟くが、返事は無い。声が小さかったのだろうか。 「チトセ!」 また僕の頬に衝撃が奔った。馬乗りになったシュウタが、また僕を殴った。 「いないんだよ! チトセはここにはもういない! 去年の今日、このマンションの七階から飛び降りて死んだんだ!」 シュウタの涙が、僕の頬に落ちて来た。僕は何が何だかわからず、呆然とシュウタを見つめ返していた。 廃マンションは、外壁をぽろぽろと崩しながら、日陰を作っている。その日陰の中をさっきまでチトセは泳いでいたはずだ。 死んだなんて馬鹿げている。僕は知っている。その時シュウタよりも近くに僕はいたのだから。僕の目の前に彼女は落ちて来たのだから。 シュウタは知らないのだ。彼女は七階から影に飛び込んだだけなのだ。だから、彼女は無事だった。だから今も気持ちよさそうに影を泳ぐ。 「僕、説明しなかったっけ? シュウタには言ってたと思うんだけどな。チトセはあの時影に飛び込んだから無事だったんだよ」 「聞いたよ。聞いた。何度も聞いた! まだそんな馬鹿な事言ってるのか? いつまでも現実から逃げて、それでチトセが喜ぶと思ってるのか? 影に潜れるわけないだろ!」 「現実が見えていないのはどっちなのさ。……チトセ! 出て来てよ! シュウタが僕の話を信じないんだ!」 僕は影に目を凝らす。しかしどこの影も揺れず、チトセが何処にいるかわからなかった。きっとシュウタが怒っているから怖がって出て来れないに違いない。 「シュウタ、一旦離れてよ。チトセが出て来れないよ」 「もうやめてくれ。……お前がどんなに後悔したかわかる。あの時悩みを聞いていれば、あの時出歩くのを止めていれば――後悔しても後悔しても足りなかったんだろ? ……だからお前はチトセの幻影を作り出しちまったんだよ。あいつが飛び降りても無事だった世界を自分の頭の中に作っちまったんだ」 シュウタの言っている意味がまったく理解出来ない。チトセが幻影? 今だって影の中を悠々と泳いでいる彼女の何処が幻だというんだ。冗談も程々にしてほしい。侮辱する気だろうか。社会に出る前に少し躓いてしまっただけのチトセを死んだことにしたい程、シュウタの中では就職が大事なのだろうか。 馬鹿にするのも大概にしてほしい。チトセをこれ以上貶めるな。 「帰ってよ。シュウタの考えはよくわかった。だから、僕の前から消えてくれ」 「わかってない。もう一年だぞ。今日は一周忌だぞ……? チトセのところに行こうぜ。そんなところにあいつはいない」 「もういいったら! お前の事はよくわかった! だから一刻も早く何処かへ行ってくれ!」 雲が太陽に掛かり、日差しが翳り始める。マンションの影がぼんやりと曖昧になるのを見て、僕は焦った。チトセが見つからなくなってしまう。 「早く何処かへ行けって! このままじゃチトセが見つからなくなっちゃう。冬の時もそうだ、居なくなりそうだったのを必死で呼んだんだぞ!」 「それも知ってる。あれは冬の太陽のせいじゃない。お前自身が、あの日の記憶を忘れかけてただけだ。夏の日差しと飛び降りるチトセを一緒くたにして覚えてたから、お前が見る冬のチトセは曖昧だったんだ!」 影がぼやける。 僕は影の輪郭を見極めようと、地面を這うように顔を近づける。 後ろでシュウタがまだ叫んでいるのが聞こえる。 「やめろよ、もう……! この場所だってそうだ! チトセのお気に入りの場所だってトモヤは言ってたな? それは全然違う、ここから飛び降りたあいつの姿がお前の中で残ってるだけだ。だからお前が見失うとチトセはここに戻って来るように見えるんだ」 「そんなわけない……そんなわけない……」 だっているのだから。 さっきまで一緒に喋って笑っていたのだから。 雲はますます濃くなってきて、辺りはどんどん暗くなる。チトセを見つけられないまま、どんよりと空気が湿って来る。 「チトセ!」 僕が呼んでも返事は無い。何処に行ってしまったのだ。 辺りを見回して、そこら中の影を隈なく調べて、一つの答えに辿り着いた。 「おい、やめろ」 シュウタの制止など聞こえなかった。 僕がチトセを見失った時、彼女は大抵このマンションの影にいた。では、このマンションの影でチトセを見失ったら、次は何処にいるだろう? 僕は閉鎖されたマンションの入り口の木材を取り除き、階段を上る。 「やめろって!」 後ろでシュウタの声が聞こえるが、僕の足は止まらない。 チトセはきっとあそこにいる。チトセが飛び込んだ七階の部屋。そこの壁が作り出す壁で、きっと僕を待っている。誰にも邪魔されず、また昨日までの様に、ちゃぷちゃぷと影を泳いで。 七階の部屋はすべて扉が取り除かれていた。もう誰も住まないのであろう、壁紙やフローリングも剥がされていて、無機質なコンクリートが剥き出しになっている。 僕は迷わず一つの部屋に飛び込む。 忘れるはずのない、チトセが影へと飛び込んだ場所。 そこにチトセはいなかった。 「馬鹿な……真似は……やめろ……」 息を切らしながら僕に追いついたシュウタが、部屋に入って来る。その鬼気迫る表情に僕は思わず距離を取り、ベランダから外へと出た。 「いないだろ? チトセはここにはいない」 ゆっくりと近づいてくるシュウタは仮面を被っているように表情がちぐはぐで、その目を見るだけで僕の身体は震えた。 チトセに何をする気だ? 僕に何をする気だ? これ以上、奥へは進めない。ベランダの手すりへと体を押し付けて、出来る限りシュウタと距離を取ろうとする。 シュウタが近づいてくる。 僕は手すりの上へとよじ登る。 「お願いだから、やめてくれ。こっちへ来い」 シュウタの手招きに、僕は首を振る。シュウタの目に涙が浮かんでいる。 果たしてあれは何の涙なのだろう。 「こっちだよ、トモヤ」 ふと、僕を呼ぶ声がした。 その声は心地よく鼓膜を震わせ、僕の体に染み渡っていく。恐怖から来る体の震えも収まり、じわじわと温かみを感じた。 僕が振り向くと、遥か下の地面にチトセがいた。 マンションの影から上半身を出して、僕に手を振っている。 「トモヤ」 今いる場所が高くて親指くらいにしか見えないけれど、チトセは確かに僕に向かって両手を広げてくれている。 ああ、そんなところにいたのか。 「やめろ、トモヤ。やめろ」 シュウタの声を背中に受けながら、僕は手すりの上に立つ。 一瞬眩暈がしたけれど踏ん張って、下で待っているチトセをじっと見つめて狙いを定める。 下から上へと吹き抜ける風があって、この風に乗って何処かへ飛んでいけそうな錯覚に陥る。だけど僕の目指す場所はそこではないのだ。 「――!」 そして僕は、影へと飛び込んだ。 僕かシュウタか、どちらのものかわからない悲鳴がこだまする中、「ずっと一緒だよ」というチトセの声を聞いた気がした。 ☆ 「それで、どうなったんだ?」 「それがびっくりしたことに、俺が間違ってたんだ。あいつは本当に影に飛び込んで消えちまった。影に潜ったんだよ」 「ふむ……ではトモヤ君は今、影の中を泳いでいる、と」 「そうだ。俺が行けばひょっこり顔を出すはずだ」 シュウタはそういって、頭を抱えながら笑った。今まで自分が如何に狭い了見で物事を見ていたかを思い知らされ、笑わずにはいられなかったのだ。 シュウタは窓の外を照らしている太陽の光を、眩しそうに見据えた。 「本当に飛び込めるんだもんなぁ……」 今トモヤとチトセは、二人で影の中を泳いでいる。二人揃って楽しそうに泳ぐ様を見たシュウタは、自分が間違っていた事を知った。 トモヤの言っていた事は、本当だったのだ。 本当に、影の中を泳ぐことは出来るのだった。 影の中を泳ぐ二人は、本当に楽しそうで、シュウタは羨ましさすら覚える程だった。社会のしがらみから逃れて何の悩みも無く遊べるのであれば、それがあの二人にとっては一番いいのだろう。 だから、シュウタはもう、二人を黙って見守る事にした。 自分が思う価値観もある。トモヤに友人としてやって欲しい事もある。しかし、それは言わない方が良いのだ。 実際に影を泳ぐ姿を見てしまったのだから、もう信じるしかない。影に潜る事が出来る人間がいて、トモヤとチトセはその生活を望んでいる。 シュウタはしばらくぼんやりと窓の外を見て、トモヤとチトセの二人の姿を思い浮かべていた。 そして、ふっと声を漏らして笑みを浮かべると、再びベッドに横になった。 仕方ない、そっとしておいてやるか――。 しばらくして寝息を立て始める。 真夏の太陽は今日も世界を焦がす程の勢いで光を注いでいるが、シュウタの居る部屋まではその猛威は振るわない。冷房が程よく効いていて、彼の安眠を助けている。 その寝顔を見ながら、先ほどまでシュウタと話していた男は、手に持ったバインダーに何かを書き込んだ。 「…………」 部屋の扉が開き、白衣姿の男が二人入って来る。 「容体はどうだ」 スーツ姿の一人が、バインダーを持っていた男に聞くが、男はゆっくりと首を振るのみだった。 「ダメだね。梶原修太は友人の死を受け入れられていない」 男はバインダーに留めていた写真を取り出して、白衣の男に渡す。そこにはトモヤの遺体が映っていた。 「高城友也の写真を見せても、それを認識できていない。彼の中では、友人は影の海に飛び込んで泳いでいる事になっている。目の前で飛び込みを見てしまった、激しいストレスによって、自分の世界を作ってしまったんだ」 写真とバインダーを受け取った男は、それを聞いて溜め息まじりで呟いた。 「その方が幸せなのかもしれないな」 男達、医師の面々は、病室を出て別の患者の回診に向かう。 室内は水を打ったような静寂に包まれ、寝息以外の音は聞こえなくなった。 その中で、眠っているシュウタは口元に笑みを浮かべている。 覚める事のない、夢みたいな夢が、彼を笑顔にさせていた。 |
かずほ 4bc3JM6Tl6 2019年08月11日 22時42分22秒 公開 ■この作品の著作権は かずほ 4bc3JM6Tl6 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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