ノーチェ・トリステ |
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西暦1519年と言うから、今からちょうど500年前のことである。 現在の中央アメリカ。海抜二千メートルの場所に位置するメキシコ市は、当時「月の湖」と呼ばれる湖だった。 湖上の島には、邪教を信仰する蛮族が首都を作っている。 人口三十万人。一辺が四キロにも及ぶ正方形の大都市である。いくつかの島を中心に精密なイカダを組み立て、湖の泥で埋め立てて農地と堤道を作り、無数の橋で結んだ。 巨大な大神殿を中心に、街は百年の時をかけて碁盤の目のように整地され、数十の神殿、尖塔、広場、すべてが良質な白漆喰で塗り上げられ、磨き抜かれている。 蛮族とは言え、王宮の周辺には神学校と軍学校があり、音楽院と女学院まであった。 南北と西に向かっては、大神殿から一直線に伸びた大通りが堤道となって対岸の街まで伸び、二本の水路が随伴して新鮮な水を運んでくる。 朝日を浴びて白亜に輝く首都の名は、テノチティトラン。 王国の名は、アステカ。太陽の民の住む国。 スペイン人征服者《コンキスタドール》によって、今まさに滅びの時を迎えようとしている国である。 征服者の名は、エルナン・コルテス・デ・モンロイ・イ・ピサロ。 滅びによってもたらされるものは、新しき良き時代の幕開けか、それとも略奪と破壊による崩壊か。 奇しくも、蛮族たちには古い予言があった。 かつて、海の向こうの赤と黒の地《トラリンパラリン》に追放した平和の神、ケツァルコアトル・セ・アカトルが一の葦の年《1519年》に帰還し、玉座につくという予言が―― そして、その時、未曾有の大災害がアステカ王国に降りかかる、と予言は続く。 † 1520年6月24日。 昨年の11月8日に、コルテスがテノチティトランの王宮に入って早、半年以上が過ぎた。スペイン軍にとって、はじめての夏が来ようとしている。 深夜。 コルテスは、玉座に深く座り大きく息を吐いた。 持ってきた松明《たいまつ》がチリチリと燃え、広間に不穏に揺れ動く光と影を投げかけている。雨季に入ったメキシコ盆地の湿度は高く、まとわりつくような空気は心まで湿らせてくる。 「コルテスさま、どうかされたのですか?」 書記官である、二十五歳の青年将校ベルナール・ディアスがやって来た。ディアスは、第一次遠征隊より参加していて、いつもコルテスの傍らにいる。 ディアスが、自分で持ってきた松明を柱の松明立てにかけると、玉座の間の荒廃具合がいっそう顕著になった。 埃が積もり、白漆喰はひび割れ、絢爛《けんらん》だった刺繍布の飾り付けも破れ、床に落ちている。 「ディアスか。ここに来るまで、俺たちは何万人の原住民を殺したんだったかな。そして、その行き着く先がこれとはな」 「弱気になられてはいけません」 現在、王宮は五万のアステカの精鋭に取り囲まれていた。しかもテノチティトランの住民全員が、有事の際には戦士となる。 湖上の島の上で、コルテス軍約千名が三十万の敵に囲まれているのだ。 「蛮族とは言え、同じ人間だ。真の神の教えを伝え、生け贄などという風習をやめさせられればと思ったのだがな」 アステカは、毎日多数の生け贄を太陽に捧げている。人間の血が太陽の活力となり、再び朝日となって昇るようにと。 「その思いに賛同する多数の原住民がおります。コルテスさまは、希望の星なのです」 アステカの圧政に苦しむ原住民は、生け贄の中止を標榜するコルテス軍に加わり、昨年には一万を越える人々がコルテスの下に集まるほどになっていた。 「本当の敵が、仲間と思っていた人間たちだったというのは、存外こたえるものだ」 アステカを征服しそうだと、本国であるスペインに報告すると、何故か反乱軍とみなされ討伐隊が派遣されたのだ。こういうことは、スペインではよくある。 船十一隻、総員千五百名、馬八十騎、砲十二門、小銃手八十名、射手百二十名。 コロンブスの新大陸《ヌエバ・エスパーニャ》発見以来、最大規模の軍隊である。 その大部隊が、4月23日にサン・ホアン・デ・ウルアと名付けた海岸に上陸して来た。 「討伐隊を討伐」するため、コルテスは直属部隊の半数である百名と全砲門、騎馬、小銃の大半を首都に残し、海岸線に向けて出発。 捕虜にしている、アステカの王モクテスマ二世は副官であるペドロ・デ・アルバラードに任せることにした。 「ナルバエスなど、仲間ではございません」 コルテス討伐隊はナルバエスという司令官に率いられていた。 ナルバエスは、ごろつきの親分で、兵もアステカ王国の黄金に目が眩んだ雑兵だった。 5月28日。 センポアラと名付けた、海岸線にコルテスが最初に作った前線基地に居座るナルバエス軍を捕捉した。 雨季に入った新大陸は雨が降りしきり、海抜二千メートルの高地から行軍してきたコルテス軍は疲弊しきっていた。センポアラから五キロ離れた、カヌー川《リオ・デ・カノアス》の手前で小休止を命じるしかなかった。 翌29日夜明け前。 大雨で川は増水し、道はどこもひどくぬかるんでいる。憂鬱な天候だった。 普通の人間なら戦意を失ってしまうような天気で、現にナルバエスは川の北岸まで兵を進めていたが、わずかな歩哨を残して主力はセンポアラに戻してしまっていた。 逆にコルテスは、この不愉快極まりない天候を見て、攻撃を決意した。 「諸君! 敵兵力は、我々の三倍あり、我々は疲弊している」 テノチティトランから兵を進めながら、各地に駐留させていた部隊を合流させ、現在三百七十一の兵力になっていた。 「困難と悪条件のどん底にある。しかし、諸君は一騎当千の精鋭である! そして、敵は油断しきっている。この大雨は、天が我々にもたらした大いなる味方である!」 コルテスのカリスマと天性の統率力で、疲弊して幽鬼のようになっていた兵士の目に力が宿るのを見て、コルテスは続けて鼓舞した。 「我々は、これより奇襲をかける。これに勝利した時、栄誉と誇り、大いなる富がもたらされるであろう! 我々は、新大陸に|蔓延《はびこ》る邪教から人々を救いに来た勇士である! 黄金を奪いにきただけのゴロツキどもを、これより排除掃討する!|突撃《サンティアーゴ》!」 コルテスは前進の命令を下した。 渡河は困難だったが、無事に北岸に渡り、敵歩哨を捕まえた。 コルテスは、捕虜からセンポアラ外縁の防衛地点に兵力は投入されておらず、町中央の神殿に全員が宿営していることを聞き出すと、総攻撃に出た。 ナルバエス軍は混乱し、コルテスは瞬く間に神殿前に並べられた砲門を奪い、宿営場所には火をつけた。 ナルバエスは片目を槍で貫かれ捕獲され、雨が止んで朝日が周囲を照らし始めたころには、戦闘はすべて終わっていた。アステカの戦士とは比べるまでもなく脆弱であった。 「俺が、この新大陸に来てやったことのうちで、もっとも取るに足らない仕事だったな」 だが、結果として、コルテスの保有する兵力は歩兵千三百、小銃手、射手がそれぞれ八十。大砲二十、馬九十八頭になった。 幸福の女神が、はじめてコルテスにほほ笑みかけているように思われた、その時。 首都テノチティトランからの、凶報が来たのである。 アステカ人が、大反乱を起こしアルバラード率いる残存部隊を包囲したという。報せをもたらしたのは、トラスカラ国というアステカと敵対する国の二人の人間で、コルテス軍の盟友だった。 「俺がテノチティトランを離れさえしなければ。ナルバエスが来なければ」 言っても仕方のないことだった。 分かっていても痛恨だった。 目の前にあった、大勝利が砂つぶのように手のひらから零《こぼ》れ落ちていったのである。 「アルバラードさまも、お辛かったのでございましょう」 沈痛な面持ちでディアスも頷いている。 6月10日。 百名の守備隊をセンポアラに残し、コルテスはテノチティトランに向けて再び行軍を開始した。 まず、たった一週間でトラスカラ国に到着した。それは、以前の半分の日数という速さだった。 ここでトラスカラ軍もコルテス軍に参入した。要所に駐留部隊を戻し、差し引き千名の部隊となった。 テノチティトランに近づくにつれ、少しづつ情報が入って来た。 5月にアステカ王国では、トシュカトルという大祭を行う。 もっとも盛大な祭礼の一つで、一年かけて準備を行い、熱気が最高潮になった時に王宮前の大広場で数百人の大舞踊が行われる。 その舞踊にアルバラードとその部下は、突然襲い掛かり徹底的な大虐殺を行なったという。 憤怒したアステカ全市民は、大反乱を起こし王宮にスペイン人を閉じ込めてしまった。 今までは、アステカ人はコルテスを平和の神ケツァルコアトルとみなし、王宮に招き入れ友好的であった。 アステカ王のモクテスマ二世を王宮に幽閉し、実質コルテスが王座に座っても、アステカ人は従順だった。 それが、完全に一転してしまったのである。 この報告を聞いた時、コルテスは愕然とし、さすがの彼も途方にくれて言葉も出なかった、と後にディアスは書き残している。 しかも、残存部隊は王宮を要塞化し攻撃をしのいでいるが、水と食料を断たれ、かなり困難な状況にあることが分かった。湖の水には塩が混じり、飲めないのである。 「あらゆる抵抗を排し、首都に入城する」 コルテスは迷わず決断した。 6月24日夕方。 海岸を出発して、ちょうど二週間でテノチティトランの堤道にまでやってきた。 湖の西岸からは、堤道を四キロで首都に入れる。これが、北や南の堤道だと十キロも堤道が続くのだ。 アステカ人はコルテスの入城を阻止するどころか、人影もなく門は開け放たれ、不気味なほどの沈黙に首都は包まれていた。 王宮に着くと、すぐさまアルバラードを呼び出し事の顛末を聞いた。 アルバラードは祭りに乗じて、スペイン人に襲いかかる計画をアステカ人が立てていて、そこで機先を制して攻撃をしかけたのであって、正当防衛だと主張した。 「すさまじい恐怖であったのだろうな」 何度目になるか分からないため息をついた。 「そのようですね。擬似戦争をするような、勇猛さ示す舞踊だったらしいですね。トシュカトルの大祭というのは」 戦の歌に歌が重ねられ、歴戦の勇者が完全武装して躍り出る。アステカ人三十万人が一丸となって、襲いかかってくるように思えたらしい。 たった百名の残存部隊を率いるアルバラードの恐怖たるや、想像を絶したのだろう。 本来であればアルバラードは、決して無能な副官ではないのだ。 そもそも、アルバラードはずっと以前に難破して、マヤ地方の海岸線に漂着し、原住民と暮らすようになったスペイン人だった。 現地人との通訳と風習を知るために、副官として迎え入れたのだ。 マヤ地方とテノチティトランは、三百キロ以上離れているとは言え、アルバラードはコルテス遠征隊の中で、もっともアステカ文化に詳しいはずだった。 「だが、大失態を犯したことに間違いはない」 営巣用の個室に閉じ込め、謹慎させているが事態は深刻を極めている。 アステカ人は、話し合いに応じようとせず、スペイン人の全滅のみを求めているのだった。それほどに、トシュカトルの大祭は彼らにとっては重要で、神聖なものだった。 雨音が聞こえてきた。 振り続ける雨は、牢獄のようにコルテスを王宮に閉じ込める。 わずかな食料と湧き水と雨水。 籠城を続けたところで、本国からの援軍も期待できない。 「ふ。ふふふ……」 考えるまでもなく、状況は絶望的だった。 これほどの窮地に立ったことは、未だかつてない。 スペインでの歴史上でも、これほどの困難な戦争は聞いたことがない。 どう考えても全滅必至で、それも生きたまま心臓をえぐられ、生け贄にされる死が待っている。しかも、遺体はトウモロコシとトマトで煮て喰われるのだ。 しかし、まだ生きている。生きているのである。 生きているという思いが全身を駆け巡り、窮地において絶望は体の奥底で熱となって、コルテスの魂を熱くさせる。 「これより、撤退作戦を開始する!」 冷徹なコルテスの、内に秘めたる英雄の魂に火がついた。 † 6月26日。 アステカ軍による激しい攻撃が始まった。 夜明けともに、雨のように石投げ器で石を打ちかけてくる。王宮全体が激しい音に包まれた。 窓や壁から顔を覗かせれば、狙いすました槍がすぐさま飛んでくる。アステカ人は百メートルの距離で、正確に獲物を打ち抜く槍投げ術を持っていた。 そこに、まさに豪雨のように矢が降り注ぐのである。 スペイン軍は、一歩も外に出ることができず要塞化した王宮に釘付けになるしかなかった。 コルテスは、まず王宮内の戸板や柱、木という木を集めさせていた。湖上の首都テノチティトランからの退却で、困難なのは堤道の切れ目だった。 王宮から見ても、すでに五ヶ所の切れ目ができているのだ。元々、首都防衛のために堤道は何ヶ所もたやすく切断できるようにしてあって、その上湖には無数のカヌーがひしめき合い、武装した戦士を乗せている。 堤道の補修と防衛に、デ・オルダスという副官を三百名の兵と小銃手と射手を向かわせた。 「オルダス殿、アステカ軍の強襲を受けて負傷。部隊の被害甚大。撤退いたします」 伝令がコルテスの執務室に駆け込んできた。 「全砲門開け。大弓射手隊、前へ。アステカの追撃からオルダスを守れ」 結局、死者二十名。負傷者は百名を超えた。 堤道にたどり着くことさえ、できなかったという。 大損害である。 守備兵を除いて、一度に投入できるほぼ最大戦力でさえ、この結果だった。 王宮の各所に火がつけられ、突破口からは無数の勇士がなだれ込んでくる。水路からも王宮に侵入しようとしてくる。夜になっても、死闘は続いた。 翌日。翌々日も激しい死闘が続いた。 「イタリア、フランス、トルコへの戦争に従軍した兵士が言っております」 やつれ、まぶたに大きなクマを作ったディアスが言った。 「いかなる砲兵戦でも、これほどの激烈な戦闘は経験したことがないと」 「そうであろうな」 かすれた声でコルテスも答えた。アステカ軍の隊列は、どんなことがあろうと密で崩れないのだ。一人一人が、まさに一騎当千の勇士で、向かい合うとこの上ない畏怖の感情を引き起こすのだった。 「今となっては、もう遅いがアステカ人は尊敬に値する人々だったな」 朝日を受けて輝くテノチティトランを初めて見た時は、神話の国が実在したとさえ思ったものだ。 大市場で売買される布や食べ物、あらゆるものが上質で、整然と並べられて売られていた。食べ物では、特にチワワという食用犬とサンショウウオ《ウーパールーパー》はうまかった。 町は活気にあふれ、歌と踊りで賑わい、それでいて規律は遵守され、酔っ払い一人いなかった。 人々は、一人残らず誠実で温厚で、約束は絶対に守る。 腹を空かせている者には、必ず食べ物をやり、転んだ者には手を差し出す。 物を大切にし、一つとして無駄にしない。驚くべくことに、スペインにはなかった公衆トイレという施設が至る所にあり、町はもちろん湖もどこも綺麗で輝いていた。 「我々は、彼らとこそ、よき友人にならねばならなかったのかもしれぬ。彼らは、蛮族などでは決してなかった」 † 6月28日。 食糧が、ほぼ尽きた。 あと数日分もないのである。 加えて、ナルバエス軍からの参入組の士気低下が著しかった。 「王よ」 コルテスは、捕虜として幽閉しているアステカの王モクテスマ二世の部屋にやってきた。 「もはや、私は王ではない」 モクテスマ二世も、ひどいやつれようだった。五十二歳になるというが、初めて出会った時は四十にしか見えなかった。 今は、激しい心労からか六十を過ぎているかのようにも見える。 金糸で刺繍された貫頭着に、腰巻き。緑のマントと指輪、足輪で正装していていつものように礼儀正しかった。 「総攻撃にでているということは、新しい王を選んだのであろう。おそらくは、弟のクイトラワクだ」 力なくうなだれて言った。 悲しい姿だった。 コルテスと出会った時、王は魔術師であり政治家であり、類い稀なる指導者であった。 今、すべてを失った王になんの力もないことをコルテスも理解していた。ギリギリまで追い詰められた中、藁にもすがる思いだったのである。 それでもアステカ軍の説得を、モクテスマ二世は承諾した。 「だが、私が何を言ったところで、もはや無駄だ」 そう言い残して、モクテスマ二世は守備兵と外に出て行った。 王宮の二階、広場を見下ろせるバルコニーに出ると、石と槍、矢が天を暗くするほど飛んできた。大きな盾を持った守備兵が五人でモクテスマ二世を守らなければならなかった。 だが、モクテスマ二世の姿を見つけると攻撃はピタリと止んだ。 「アステカの民よ。勇敢なる太陽の民よ」 朗々とよく通る声で、モクテスマ二世は語りかけた。 「今一度攻撃を止めるのだ。その代わり、白き人の即時退去を約束する!」 アステカ軍から、一人の将軍が出てきた。色鮮やかな鳥の羽飾りを頭に付け、緑の腕輪をはめた屈強な戦士で、豹の戦士《オセロメー》シグァコアツィンと名乗った。 広場は水を打ったように静まり返り、物音一つしなくなった。 「王よ。偉大なる前の王よ。我々は三人委員会を開催し、新たなる王をすでに選んでしまいました。我々は、軍神である主神、南の蘇生する戦士《ウィチロポチトリ》に毎日あなたの安全を祈願しています。ですが、もう我々は攻撃を緩めることはできません。神々は、悪逆非道なるスペイン人を絶滅させよと命じているのです。もし、神々の御心どおりに戦いが終われば、その時は再びあなたを王として迎え、前にも増して忠誠を捧げます」 言い終わると、再び石や矢や槍が雨あられとなって飛んできた。 その内の大きな石がモクテスマ二世の頭に当たって、彼は倒れた。 昏睡したモクテスマ二世は、時おり意識を戻したが翌29日、失意の中でこの世を去った。 従軍僧のザアグン神父が、意識を取り戻した時に改宗を進めたが、拒否し続け異教徒として死んだ。 「偉大なる王よ。あなたの三人の娘の面倒は、このコルテスが責任を持って見させていただきます」 捕虜であっても、誠実で公平で思慮深いモクテスマ二世の王としての生き様は、コルテスは元より、コルテス軍全員の心を打っていた。 偉大なる王の死に、将兵のすべてが涙したのである。 「遺体は、どうしますか?」 アルバラードとは別の、サンドバルと言う副官が言った。 「異教徒として死んだのであれば、異教徒の元に返そう。捕虜を二人釈放し、王の遺体を背負わせてアステカ人のところに運ばせよう」 彼らが、その後、遺体をどう処理したかは知らない、とコルテスは書き残している。 「釈放する二人のうち、一人はトチトリィにせよ」 トチトリィはアステカの若い医女で、モクテスマ二世の世話をさせるために虜囚《りょしゅう》としたが、想像以上に医術の腕がよく、しかも、患者であればアステカ人スペイン人の区別なく熱心に治療する娘だった。 「よいのですか?」 トチトリィは、コルテスの従軍医より薬草に詳しく、外傷だけでなく様々な病気も診てくれた。 「世話になった。恩に報いることは、ほとんど出来ないが、偉大なるモクテスマ王を託すのであれば、彼女しかおらぬ。我らと共に死地に連れて行くこともあるまい」 ほどなくして、一人のアステカ人とトチトリィが通訳とともにやって来た。 「お前たちの王が崩御なされた」 ゆっくりと、トチトリィの目を見ながら言った。切れ長の黒目が印象的な娘で、童顔のせいかスペイン人の娘に比べると少女のようにさえ見える。 過酷な環境ゆえに、疲れ切った顔をしているが、瞳に宿る意志の光にはいささかの翳《かげ》りもなく、むしろ凛々しくさえ思えた。 「亡骸《なきがら》を、お前たちの民に返したい」 トチトリィは何も言わず、ただじっと静かに見つめてくるだけだった。悲しみを湛《たた》えた瞳の色は深く、黒曜石と同じ色をしていた。 † いよいよ万策が尽きた。 ボテリョという名の兵士を呼び出した。ボテリョはローマに住んでいたラテン語学者で、星占い師でもあった。 「お呼びでしょうか?」 ボテリョも、ひどいあり様だった。遠征前に比べるとずいぶん痩せ、目だけがぎょろりと飛び出している。服には返り血らしき汚れが、至る所に付着し黒ずんでいた。 誰もが同じようで、コルテスの直属部隊二百名とトラスカラ国の友軍三百はまだ規律を保てているが、元ナルバエス軍五百は戦意を失い投降を求める始末だった。 投降したところで、待っているのは生け贄として生きたまま心臓をえぐり取られる未来しかないのを、彼らはどうしても理解できないようだった。 「我々の未来を占うことは可能か?」 「もちろんでございます。星はすべてを見ております」 コルテスは、占いを信じてはいなかった。スペインでは大学で法律を学んでいて、論理的合理性こそが彼の最上であった。 加えて、ボテリョという男そのものが、まずうさんくさい。小太りで、いつも汗をかいていて、無償の占いは絶対しない。粘りつくような声は聞いていて、気分が悪くなる気がする。 それでも、占いに頼るほかなかった。 論理的に考えれば、全滅しかないのだ。 どう考えても、堤道を渡りきれると思えない。 もし、渡りきったとして、逃げ延びる先はトラスカラ国しかなく、そこまでアステカの支配地域を、追撃をかわしながら撤退する必要がある。 距離にして、およそ百六十キロ。海岸線に作った前線基地のあるセンポアラまでだと、三百キロ以上ある。 運良く追撃を振り切ったとして、カヌーを利用すれば先回りできるポイントがある。 歴戦の戦闘民族であるアステカ人が、それを見逃す手は万に一つも考えられない。 つまり、必ず大部隊を真正面から突破せねばならないのだ。 既に、何重もの包囲網は完成していて、三十万人のアステカ人が、たった千人のスペイン人を皆殺しにしようと全力を出しているのが現状だった。 もはや、占いに頼るほか手はないのである。 「天の配剤、天の歯車装置。それが、星々でございます。星を知り、星に聞けばこの世全ての理が一つ残らず審《つまび》らかになるのでございます」 王宮の国庫から運び出し、鋳《い》り直した金の棒を差し出した。さも当然という顔で、ボテリョは金を受け取った。 「いつ撤退すればいい?」 「撤退日は、6月30日の深夜。この日をおいて他にありません。遅れれば、みな殺しになるでしょう」 即答だった。しかも、明日だ。 いかにもインチキ占い師くさい雰囲気ながら、籠城はすでに限界だった。 噂は、あっという間に広がり、妙に一同を動かした。 そして30日の夜、闇を利用して首都を撤退することに決まってしまった。 撤退が決まると、王宮の国庫に納められていた翡翠《ヒスイ》や瑪瑙《メノウ》、金をどうするかが問題になった。 金は鋳直して、延べ棒にしてあるが重くかさばる。莫大な量で、持って逃げられるものではないのは、一目瞭然だった。 それでも、元ナルバエス軍の連中は、驚くほど強固に分け前として分配することを主張してきた。 「国王陛下に略奪品の五分の一を税として納めるのは臣下の務めであり、それを除いた分は将兵で分配する。そういう決まりでありましょうや!?」 生きるか死ぬかの瀬戸際においても、金を寄越せという言動に、コルテスは一瞬理解が追いつかなかった。 少しでも身軽に、素早く動いて逃げ延びるしかあり得ないが、主張に間違いはない。 夕方までに、大広間にカカオ豆を除いた財宝のすべてを集めた。アステカでは、カカオ豆が通貨の代わりになっていて、国庫には莫大な量のカカオ豆が保管されていたが、スペイン人にとって価値はなかった。 翡翠、紅玉、金。それらを組み合わせた工芸品。広間が埋め尽くされそうなほどの量になった。金だけで、スペイン金貨にして七十万枚以上あると見積もられた。 アステカには車輪がなく、壊れた砲台を分解して台車を作っていたが、とても運び出せる量ではない 国王陛下への分を、ナルバエス兵の前で取り分け、あとは自由にさせた。 「これらは、すべてお前たちのものだ。持ち運べると信じる分だけ、持って行くがいい」 コルテスがそう言うと、ナルバエス軍の五百人が我先にと財宝の山に群がり、抱えきれないほどの金塊を抱えフラつきながら出ていくのを、コルテス麾下二百名とトラスカラ国の勇士三百人は、彼らの代わりに王宮を死守しながら、憐れみの視線で眺めるしかなかった。 コルテスとコルテスの部下は、新大陸《ヌエバ・エスパーニャ》に来てマヤやアステカの人々、特にモクテスマ王と過ごすうち、彼らの誠実さと生き様に感化され、いつの間にか恥と尊さを魂に刻み込むようになっていた。 元々は、コルテスの部下のほとんどもナルバエス兵同様、黄金を求めて新大陸に渡って来たのだった。 コルテスは、冒険と名声を求めて来た。 どれも、己が欲望を満たすためだけの行為である。 そのために、何万人もの原住民を女子供に関係なく殺し、略奪しながらテノチティトランまで来た。 生け贄をやめさせ、真の神の教えを伝えるなどというのは、ただの建前だ。 獣のように、犬畜生のように、欲望のままに他者を踏みにじって生きれば、それでよかった。 それが、今ここに来て変節をし始めている。 ナルバエスの兵士の姿は、間違いなくかつての自分の姿だった。 信用できるものは金しかなく、たやすく他人を裏切り、陥れ、略奪するだけでは飽き足らず命までをも無意味に奪う。 寂《さも》しい生き方だった。 ナルバエス兵のようには、なりたくない。 誇り高い、アステカ人のようになりたい。 モクテスマ王のようになりたい。 モクテスマ王に立派な生き方だと、そう言われる人間になりたい。 「見ていられません」 書記官のディアスが横に立っていた。 ナルバエス兵は、動けないほど金塊を背負ってなお、奪い合いを始めてしまっている。今、この時も王宮を死守するために、コルテス兵やトラスカラ国の勇士が戦っているのは理解できないらしい。 「ディアス、お前も行って分け前を手に入れて来てよいのだぞ」 「私は、偉大なる王より頂戴した分で、もう充分です」 そう言って、翡翠と瑪瑙を一欠片、小指ほどの金を片手の手のひらに乗せて見せた。 「それでは、わりに合わぬであろう?」 「わり、とはなんでございましょう。私にとって、偉大なる王と出会えたこと以上の褒美はありません。それに、この翡翠は王が友情の証として、私に直接くださったものなのです」 ディアスの目は、心底亡きモクテスマ王を敬愛している目だった。 「この翡翠には、新大陸に住む人々の誇りと友情が込められているのだそうです。私は、もし生きて帰ることができれば、この小さな翡翠を一生の宝とし、決して売り払うことなく、魂の拠り所として生きる所存であります」 今のコルテスには、ディアスの言っていることがよく分かった。スペインにいた頃には、きっと理解できない感覚だっただろう。 人を人たらしめる何か。 それを、アステカ人は確かに持っている。 文明として文字を持たず、車輪を禁忌として使わず、鉄器もない。 決して、洗練された文化ではないと思っていた。 「魂か。モクテスマ王も、そんなことを言っていたな」 魂を込めた生き方。 誇りある生き方。 丁寧に生きて、丁寧に死ぬ。 尊く死ぬには、尊く生きることが重要なのだと言う。 「もっと、王には話を聞いておくべきだった」 ナルバエス兵は、打ち捨てられた布切れさえ持って最後の一人が広間を出て行った。 これで、撤退のすべての準備が終わった。 あとは、深夜になるのを待つだけである。 破滅以外の道があるのだろうか。それは、考えないようにした。 † 夜更け。 宵闇と共に降り出した雨は、勢いを増していた。 全員の装備は、できるだけ軽装にさせた。 馬の口には轡《くつわ》を噛ませ、鳴き声が出ないようする ランプも最小限にし、厳重に覆いを被せる。 アステカ人に見つからないように、騒音が出ないように最大限の留意をしたが、砲台があり、国王陛下への税を満載した台車もある。 もっとも、台車類にはアステカ人が嗜むスポーツで使うゴム球を再利用することで、低振動低騒音を実現できた。 出立前、広間に全員を集結させた。 窓と出入り口を徹底して目貼りをしてから、ランプを点ける。 「諸君、我々は、これよりアステカの首都テノチティトランより撤退を開始する! 前衛隊を私が指揮し、堤道の切れ目を修復しながら前進。後衛は、アルバラードが指揮し、何としてもアステカ人の追撃を阻止せよ」 税と大砲、テスココ国王などの貴族や捕虜は中央に集めた。ナルバエス兵は、中央周辺に配置させるしかない。 作戦というレベルのものではなかった。 これしかないのである。 あとは、覇気と勇気、生きて帰るという強い意志だけだ。 「命令は、一つ。生きてテノチティトランを脱出せよ」 全員がコルテスを見ている。 視線のすべてを受けとり、ゆっくりと前衛隊の先頭に立つ。愛馬にまたがった。目の前には、閉ざされた門がある。 ゆっくりと門を開けさせた。 雨。 前方には、墨を流したような暗闇のみがある。 † できるだけ音が出ないように堤道に向かって、兵を進めた。雨が音と気配を消し、コルテスを味方している。 堤道の最初の切れ目まで、何事もなく来れた。架橋を、すぐさま開始する。暗闇の中での作業は困難だったが、順調に進んでいく。 アステカ人も、ナルバエスのように雨に辟易し、このまま秘密裏に撤退できるのではないかと、コルテスの心に淡い希望が芽生えた時、ラッパが吹き鳴らされた。 ラッパは次々に、至る所で吹かれ音は波となって広がり出した。 アステカ人に見つかった。 松明の明かりが灯り始めるのと、一つめの橋が架かるのが同時だった。 全力で急かせた。もう隠密は必要ない。 町中で、太鼓が打たれ出した。ドン、ドンと規則的な音がだんだん大きくなっていく。 振動は地面の底から響き、松明で浮かび上がる湖面を揺らす。 二番目の切れ目に、前衛隊がたどり着き作業を開始した。 ナルバエス兵と中央の大砲部隊が、やはり遅れがちになっている。 すさまじい勢いで松明が次々と灯され、テノチティトランの白亜の町並みが、雨のテスココ湖に浮かび上がっていく。それは、ひどく虚ろで幻想的だった。 呪歌。 太鼓とラッパ、歓声に合わせて戦いの歌が聞こえてきた。 莫大な音量は、コルテスの周辺からあらゆる音を消し去り、まるで無音の結界に閉じ込められたようになった。 兵を鼓舞しようとして、何を叫んでも声が口から外に出ていかない。 ナルバエス兵から、発狂する者が出始めた。鎧を着たまま湖に飛び込んだり、裸になって王宮に戻っていく。 どうしようもなかった。 そうこうするうちに、カヌー船団が堤道を左右から囲み出した。多くが、油を染み込ませた松明を掲げ、無数の戦士を乗せている。 滅びが形を持って、コルテスに迫り来ていた。 雨は変わらず降り続いている。 † 後衛部隊と、アステカ人の戦士と激しい戦闘が始まった。 大砲や銃での反撃も、圧倒的物量の前に無力だった。 なにより、投げ槍が脅威になっている。 夜でも、カヌーの上からでも正確に撃ち抜いてくるのだ。 直接、戦闘をしていない箇所には雨と同じ数の矢が降ってくる。 前衛隊が三つ目の切れ目の修復にかかった時、中央以降の部隊との間がだいぶ開いてしまっていた。 それをアステカ戦士は、見逃さず二つ目の橋を落とした。 前衛隊と、中央後衛が分離させられた。 コルテスは、前衛隊に架橋作業を続行させながら、自分は落とされた橋の復旧に二十名を連れて戻った。 投げ槍。 ズバン、と音を立ててコルテスの隣にいた兵の首に突き刺さった。二撃目。それは、コルテスを運よく逸れた。 肌が総毛立ち、一度全身が冷えてからカッと熱くなった。 落とされた橋まで戻ってきた。復旧させる材料はもうなく、アステカ戦士を斬り殺しては切れ目に投げ込んだ。 特に、中央部隊にアステカ戦士が群がり出した。カヌーを使って湖から次々に接岸して来ている。 後衛部隊は、密集したアステカ戦士に囲まれもう姿さえ見えない。 コルテスの周辺も、アステカ戦士に囲まれつつあった。やはり、圧倒的物量の前に、なすすべはない。 全滅するか、中央・後衛部隊を見捨てるか。ひどい状況だった。 「転進!」 前衛隊に戻る選択をした。 四つ目の切れ目。もう架橋の材料は前衛隊も使い切っていた。 敵味方かかわらず、死体を放り込むしかなかった。 矢が左肩に、いつの間にか刺さっていた。痛みはない。無視した。 もう、部隊という様相ではなかった。作戦もない。ただ前へ。一歩でも前へ。 突如、横から激しい衝撃があって、馬ごと湖に落ちた。槍が馬を貫通している。 夜の湖は、黒い液体のようで無数の松明を反射していた。服と靴、胸当てだけの鎧が重い。 切れ目を、そのままなんとか泳いで渡った。 水に濡れた体が、驚くほど動きにくい。 呪歌が、いっそう大きく勇壮なものになった。太鼓の音も連打されている。 雄叫びをあげた。 なんとしても、生き残る。 歯が砕けるほど食いしばった。 「突撃《サンティアーゴ》!!」 夢中で叫んだ。 声が出ているのかさえ分からない。 前へ。 † 対岸に渡り切った。 どうやって自分が対岸まで来たのか、思い出せなかった。 アステカ戦士も、散発的に数人が襲ってくるぐらいで、撤収を始めているようだった。 周りには二十名ほどのコルテス兵がいて、ナルバエス兵は一人もいない。 堤道の、中央・後衛部隊がいた場所はいまだにアステカ戦士が殺到して、どうやら殲滅から捕獲に切り替えたようだった。 周りの兵に、松明を集めてくること、集合のラッパを吹くことを命じた。 アステカ戦士も集まってくるかもしれないが、ともかく残存兵を集結させ追撃に対応する必要がある。 生きていても、地面に倒れこんだり、しゃがんでいる兵がほとんどだった。疲労というより、魂の半分を削り取られたようなほどの脱力感がある。 しかし、ここで休息を取るわけにはいかない。休息が、そのまま死につながる場所だ。 一人一人に声をかけ、強引に立ち上がらせた。 しゃがんでいる者は、なんとかコルテスの声を聞いて立ち上がった。倒れている兵で、ケガもないのに、立ち上がらない者が三名いた。心に負けて休息を優先している。気持ちは分かるが、もう二度と立ち上がれないだろうと、コルテスは見切りをつけた。 さして待たず百名ほどが、集結してきた。やはり、ナルバエス兵は一人もおらず、中央・後衛部隊の者はちらほらしかいない。 どうも、途中からアステカ軍の作戦が変更になった気配がある。 中央・後衛部隊を一人残らず捕獲し始めた時だ。 元々、アステカ族にとって戦争とは捕虜を捕まえるものであって、人を殺すものではないのだとモクテスマ王は言っていた。 だとしたら、前半戦の何が何でもスペイン人を皆殺しにしようとしてきた戦いが、彼らにとっては異質なものだったのかもしれない。 戦闘が勝利に傾き、余裕が出来たことで通常のあるべき戦争方法に戻したのかもしれない。 真相は分からないが、攻撃が緩んだおかげで全滅を逃れた。 彼らの作戦が終始殲滅であれば、間違いなく全滅していただろう。 体の芯からの震えを抑え、近くの小高い丘に移動することにした。 どうやら、大きな糸杉が一本生えている。 そこで、小休憩を取ろうとコルテスは思った。 † 結局コルテス直属の部隊でさえ、百名に満たない生存だった。 トラスカラ国の勇士たちが、およそ二百。その他の兵が五十。 松明と集合のラッパを吹いているので、あと五十ほどは生還するかもしれない。 合計で、約四百。 僥倖だった。 その上、馬が二十。大弓十二、小銃七。 新大陸には馬がおらず、アステカ人は馬と馬上からの攻撃を、ことのほか恐れるので馬が二十頭残ったのは大きい。 糸杉に近ずいていくと、三人の人影があった。兵に緊張が走る。待ち伏せだとしたら、いよいよ逃げ切れそうにない。 「攻撃シナイ」 カタコトのスペイン語だった。 コルテスらが、テノチティトラン滞在した半年で、言葉の達者な者同士で教えあい、ある程度の通訳が出来る者がアステカにも、スペイン軍にもできていた。 人影は、若い医女トチトリィと将軍シグァコアツィン、それと通訳だった。 「攻撃ナイ。話スル」 通訳が、もう一度言った。 シグァコアツィンが、槍と黒曜石を無数に埋め込んだ棍棒を地面に置いた。 トチトリィは、素手で大きな麻袋だけ持っていて、それも地面に置いた。 「話スルカ? 殺スカ?」 頷いて、コルテスも武装を解いた。 トチトリィが、麻袋を持って来て置いた。 「力《チア》ノ種。栄養アル。食ィ方、トラスカラ人、キケ」 「なぜだ?」 とっさに言葉が出た。 通訳が何か言う前に、トチトリィが通訳に言った。 「王、針、ヨク切レル石、クレタ礼」 トチトリィを釈放する時、余った手術用の針やメスを持たせた。そのことらしい。 信じられず、毒でも入れてあるのではと勘繰りそうになって、慌てて否定した。 アステカ人は嘘をつかない。人を騙したりもしない。 トチトリィであれば、なおさらだ。 うつむいて、一瞬自分を恥じた。 「感謝する」 心を込めて返事した。 「二度トクルナ」 シグァコアツィンが言った。 見つめあった。 ずっと考え続けていたことだった。 今、トチトリィとシグァコアツィンの目を見て答えが出た。 「拒否する」 生きて帰って、母国で安穏と暮らす日々。想像しないわけではなかった。 想像する度に、それでいいのかと、自分を責める声が聞こえてくるのだ。 その声は、モクテスマ王の声にもなって、楽な道に逃げてはいけないと語りかけてくる。 「俺が来なくとも、スペイン国は次々と軍を派遣してくる。それも、どんどん強力な兵器を持った軍をだ」 どこまで通訳できているか分からなかった。それでも、真剣に目を見て話せばアステカ人は聞く耳を持ってくれる。 「そして、その指揮官は俺以上に残虐だ」 自分がアステカを征服し、スペインの皇帝陛下であるカルロス一世より総督として任命され、アステカを守る。 モクテスマ王より、託されたものを守るのだ。 道は、それしかない 「俺が、アステカを征服する」 言葉に出来ない信念を両目に込めて、シグァコアツィンを見続けた。 「オ前、戦士ノ目、シテイル」 なんとなく、褒められたように感じた。 「オトゥバン谷デ、待ツ」 槍と棍棒を拾って、シグァコアツィンが去って行った。 オトゥバン谷は、テスココ湖を北岸周りでトラスカラに向かう時、必ず通らなければならない峡谷だった。 陸路では、五日はかかるがテノチティトランからは、カヌーを使えばたやすく先回りできる。 大軍勢を集結させるのは、間違いないだろう。 「オ前タチノ、神ノ呪イハ、私ガ解キ放ッテミセル」 トチトリィが言った。 天然痘とペストのことだろう。 スペイン人が持ち込んだ病禍で、猛烈な勢いで新大陸を汚染していっている。 こればかりは、科学が必要だ。いかなトチトリィとて無理だろう。 「幸運を祈る」 だがなぜか、そんな言葉が出ていた。 トチトリィと通訳が帰って行った。 雨が降っている。 水には困らなさそうだ。一つ、いいことを見つけた。 水筒の口を開け、雨水を貯めているとディアスがやってきた。 「生きていたか。よくやった」 「大きな、糸杉ですね」 息も絶え絶えに、ディアスが言った。 いつまで待っても、苦楽を共にしてきた、多くの兵が戻ってくることはなかった。 モクテスマ王の息子、二人の娘も死んだ。占い師のボテリョ、捕虜としたテスココ国の王も帰って来ない。財宝や捕虜の王侯貴族がいた中央部隊と後衛部隊は、ほぼ全滅したのである。 糸杉を背に、座り込みうつむくと涙がこぼれた。 † この悲劇の夜は、メキシコの歴史で「悲しき夜《La noche triste》」という名で知られている。 糸杉は、「悲しき夜の木」として、今でもメキシコ市内に残っている。 |
東湖 GZrABNwtFc 2019年08月09日 00時27分00秒 公開 ■この作品の著作権は 東湖 GZrABNwtFc さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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