凶夢四十 |
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1:じゃんけん 学校の裏の公園のベンチに、浮浪者みたいな恰好のおじさんがいつも座っていて、そのおじさんにお願いすればどんな願いでも叶えてくれるという噂がある。 学校でいじめられていたわたしはある日、藁にもすがる思いでおじさんのところに行ってお願いをする。 「前田と上岡と御園を殺して」 そしたらおじさんはわたしの両手をじっと見つめて、「チャンスは二回やで」などと意味深なことを言う。それでおもむろに「じゃーんけんほい」と言いながら手を出してきた。 わけも分からずにつられてこちらも手を出す。 グーとパー。わたしが勝っている。 おじさんは黙って頷いて公園から歩き去る。 次の日、わたしをいじめていた三人が撲殺死体で発見された。金槌みたいなもので殴られた状態で道路の真ん中に転がっていたのだという。人通りが絶えない程賑わう大通りだというのに、犯行の目撃者が一人もいないという、不可解な事件だった。 そのことを友達に話したら、そのおじさんのところへ案内するように頼まれた。部活のライバルにケガをさせたいのだというのだ。 その通りにする。 おじさんはわたしの時と同じように、友達の両手をじっと見つめ、「チャンスは二回やで」と前置きしてから、その子にじゃんけんを仕掛けて来た。 結果グーとチョキ。友達の負けだ。 すると、じゃんけんをした方の右手が友達の手首から落っこちて、公園の地面に転がった。 手首から先を失った友達の右腕は噴水みたいに出血し、友達は痛みと恐怖にその場でのたうち回る。 「うわぁあああっ! ぎゃぁああああっ!」 転げまわる友達を、やけに冷たい瞳でしばらく見降ろし、おじさんは言う。 「チャンスは後一回。どうする?」 友達が何も答えられないでいると、おじさんは何も言わずに公園を立ち去った。 2:廃墟の鏡 ある廃病院の地下室に、目の前に立つと向こう側に吸い込まれてしまうと噂される鏡がある。 鏡の向こうに行くにはいくつか条件がある。まず鏡のある部屋には一人で入ること、そして鏡の前で目を閉じて、頭の中で『私と入れ替わってくれ』と唱え、それから鏡に手を触れることだ。 噂の信憑性を高める証拠は何一つとしてなかったが、しかし友人の一人が試してみると言い出したので、そいつと二人その廃墟に向かった。 鏡のある部屋には一人しか入れないので、そいつが部屋で儀式を行う間中、俺は部屋の扉の前で待機していた。 やがてそいつが部屋から出て来る。「どうだった?」俺が尋ねると、そいつは首を横に振って、残念そうにこういった。 「何もなかったよ」 「そうか」 と言いながら俺は気付いていた。 そいつの着ているシャツの模様が、部屋に入る前と全くの鏡写しに変化していることに。 そのことは未だにそいつに告げていない。そもそも、その友達とはもう会っていない。 気味が悪いからだ。 3:あんたみたいに それはほんの悪戯のつもりだった。 ただ嫉妬しただけなのだ。後から生まれたというだけでわたしの何倍もの愛情を両親から受け、何かと優遇され、どんなに愚かなことをしでかしても許され、それが当たり前のように振舞うあんたのことを。 二人で信号待ちをしている時に、ふとその小さな背中を眺めていて、軽く手で押して驚かせてやれば楽しいだろうと感じた。それだけなのだ。 だっていうのにあんたは車に跳ねられて死んだ。わたしのしたことはバレなかった。子供が突然道路に飛び込んだ。それだけの事故だ。事故で済んだのだ。 わたしはただ黙っているだけで良かった。当時からわたしはそれができる程度には成熟した年齢だったし、そもそもわたしは賢かった。しっかり者で、冷静で、芯が強かったのだ。甘えん坊で泣き虫で愚鈍なあんたとは何もかも違う。 だからわたしは今県下で一番良い高校に通っているし、運動ももちろん勉強もできて、恰好の良い彼もいる。両親は出来の良い娘を愛してくれる。 目の前で妹を失った悲劇を乗り越えたヒロイン、それがわたしだ。 だから邪魔をするな。 無駄なことをするな。 何回突き飛ばしたって同じなのだ。信号を待って横断歩道の前にいる時、あんたは当時と同じ小さな手で、弱い力で、わたしの背中を押そうとする。わたしにされたのと同じことをやろうとする。 でもわたしはあんたと違ってトロくはない。いつだってそれに備えているし、多少の不意打ちにも耐えられる。 「恵子って信号待ちの時一人で良く転ぶよね? どうして?」 いろんな人に聞かれる。分からないとわたしは答える。 でも平気なんだ。わたしは答える。心配はいらない。こんな奴に殺されてやる程わたしはトロくないし、こんなことでくじける程心が弱くもないのだ。 根競べだ。あんたがわたしを殺すのを諦めるのと、わたしがおとなしく殺されてやるのと、どちらが早いか。 負けるつもりはない。当時からそうだった。わたしはどんな些細な勝負事でも、そうすることであんたが泣いてわたしが叱られるのだとしても、負けてやるようなことはしなかったじゃないか。あんただってそれを分かってるんでしょう? だからもういい加減、諦めて成仏するべきなんだ。 4:人物画 中学生になってあたしは美術部に入部することにした。 入部届を出す為に顧問の先生の所へ行くと、先生は私の顔を見て驚いた表情を浮かべた。 それに訝ったあたしが「どうしたんですか?」と尋ねると、先生はいくらか言いよどんでから、話をしてくれた。 今からちょうど二十年前の美術部員に、病弱な一人の女生徒がいた。絵画の才能があり、特に写実的な人物画の能力は大人でもたじろぐほどで、当時から美術部の顧問をしていたその先生は熱心にその子の指導をしていた。 ある時その子の病気が悪化し、美術部の活動にもあまり参加できないようになった。しかし絵画は書き続けていて、とうとう入院することになっても筆を手放すことはなかった。 やがてその病気で亡くなることになる数日前、見舞いに訪れた先生に、その子は一枚の絵を渡した。驚くほど繊細な筆致で描かれた、ロープで首を吊っている少女の絵だった。 『この絵をずっと持っていてください。わたしが死んでしまった後も、ずっと』 その子が亡くなってからも、学校の美術室の倉庫にはその絵が残っているのだそうだ。 「それがどうかしたんですか?」 あたしは尋ねる。すると先生は「それが……」といいよどみ、美術室の倉庫へとわたしを案内する。 「これを見て」 見せられたその絵の中で首を吊っているのは、見まごうことなくあたしだった。 5:戦場の夢 戦場にいる夢をたまに見る。 現実の僕はまだ十四歳なんだけれど、夢の中では十八歳の青年だ。自分とは異なる名前があり、家族がいて、性格も違う。 そこにいる僕は旧日本兵の恰好をしていて、どうやら二等兵ということらしく、毎日先輩兵に過剰なまでの私的制裁を受ける。立ち上がれない程ボコボコにされ、酷い捻挫や打撲、時に骨折までしているにも拘らず訓練や作業は続く。穴を掘らされ、荷物を運ばされ、作業が遅いと言われ、また殴られる。 夢を見る度に少しずつ戦争は進んでいる。今はナムールにいる。 新緑の葉を茂らせたヤシの木が空高くまで聳え立ち、瑠璃色の海には長い海藻の合間を熱帯魚や海亀や泳いでいる。現実の僕はもちろん見たことのない景色で、そもそも僕はロイ・ナムールという地名さえ、夢の中で初めて知った。 僕はそこでゲリラと戦う。小隊長の命令で拠点の一つを包囲し、中のゲリラを殲滅せよというのだ。 しかしヘマをした。別の拠点からゲリラの応援が駆けつけた際に撤退しそこね、捕虜にされたのだ。 僕はゲリラの拷問にあう。 僕の指には熱したナイフが入れられ、皮膚や筋肉を引きちぎられ、むき出しになった骨を関節からペンチで引っこ抜かれる。そういうことが十本の指の一つ一つに対して行われる。 発狂寸前で目が覚める。 家族にその話をしたところ、どうやら父も祖父も、叔母やいとこまで、血縁者の多くが若い頃にその経験を味わったのだという。そして夢の中で成り代わる青年というのが、僕の大叔父なのだそうだ。 「隆さん気の小さい人やったけん、兵隊やった頃のことトラウマになっとってな。PTSDっちゅうんかなあ? 医者にもかかっとったんやけど立ち直れんで、衰弱して若うに亡くなったんよ。当時は珍しい話とちゃうんやけど……それが関係しとるんかもなあ」 しかしこの大叔父、ゲリラに捕まった経験はなく、ナムールにはいったことはあっても命からがら日本へ帰ることはできたのだという。 だったら僕が今夢の中でしているこの経験はいったい何なのだ? 「隆さんがしたのと違う経験をした人は、たまにおるんやけどなぁ。そんでもその人らもなんやかんや生きて日本へは帰って来とるんよ。そしたら夢も終わる。亮介くんもいつかそうなるんとちゃうんかなぁ?」 だが夢の中で行われる拷問は未だ続いている。僕の両手の指はなく、片方の目は見えなくなっていて、睾丸までもが銃で撃たれて破裂している。 拷問は遅々として進む。一晩で見る夢はせいぜい数分から数十分。それが永遠のように感じられるが、しかし時間は確実に経過して、夢の中の僕の全身は次第に衰弱し死に近づいていく。 前回はゲリラの一人が僕の頭に銃を突きつけて、僕の知らない言葉で何やら喚き散らしているところだったから、次回はあれが火を噴いて僕はようやく死ねるのかもしれない。 夢の中で殺された人はいないのだという。もしあの銃が夢の中の僕を撃ち殺したとして、現実の僕はどうなるのだろうか? 想像通りのことが起きるのだとしても、僕はきっと次の夢では、あのゲリラに殺してもらえることを心の底から願っている。 6:神様の埋まる庭 夕方僕が家の庭を散歩していると、同じ年くらいの、人とは思えない程綺麗な女の子が地面に開いた穴を土で埋めていた。 僕がそれに気付いたのを感じ取ったのか、女の子は土で真っ黒にした指を僕の方に突き出して、「誰にも言わんとってな」と僕に言った。 「何を埋めたん?」と尋ねると、女の子は「んー? 神様」と答える。 ……神様? 訝っている僕に、女の子は疑り深い目を僕に向けてからこう続けた。 「絶対に掘り返したらあかんねん。ほなけん、あとでこの上に大きな岩を置いといたるわ。誰にもどけられないような奴な。でもその岩が万一誰かにどけられそうになったら、あんたは何をしてでもそれ止めてな? 頼んだで?」 僕は聞き返した。「なんでそんなこと俺がせんとあかんの?」 「あんたがそこにおるけんよ」 「ほんで、もし止められへんかったら?」 「あんたを殺す」そう言って女の子は穴を埋める作業に戻った。「もう見んといて!」 訳も分からず、僕は屋内へすごすごと帰っていく。 次の日の朝起きると、家中の人間が庭に集まって、困った様子で話をしていた。 僕がそこに向かうと、庭の真ん中に、僕の身長くらいある大きな岩が置いてある。 大の大人が何人がかりで挑んでも、どかすことは愚か一センチ動かすこともままならないような、巨大な岩だった。 「こんなもの昨日までなかったのになぁ。誰が持って来たんかなぁ」父は嘆くようにして言う。「どないしてどかそう?」 しかし結局、その岩は誰にもどかすことが出来ず、今でも庭の真ん中に鎮座している。 7:横断歩道 いつもは奈央と二人で小学校から下校しているのだけれど、今日は香苗も付いてきた。奈央は嫌そうな顔をしたのだが、幼稚園の頃からの知り合いの香苗を無下にはできず、一緒に帰ることになった。 人気のない横断歩道を渡る時、香苗はぴょんぴょんと横断歩道の黒いところを飛び越えながら、白いところだけを踏んづけていた。 「何してるの?」と奈央。 「黒いところを踏んだら地獄に落ちるの」 「何バカなこと言ってんの?」 奈央の言い方に、香苗はむっとした表情をしたので、わたしは「へぇそうなんだぁ」と納得してやることで香苗の気持ちをフォローした。 「落ちる訳ないじゃん、地獄になんて。急がないと信号変わっちゃうじゃない」 奈央が急かすが、香苗はあくまあでも白いところだけを歩こうするので、奈央は苛々とした表情を浮かべる。 「この愚図。落ちる訳ないじゃない。もういいよあんたなんて置いていくから。知らない」 そう言って奈央は香苗を置いて行こうと背中を向ける。 「待って」と香苗。 「何?」と奈央。 「そんなに言うならあんたも落ちるようにしてやる」 香苗がそういうと、片足を黒い道路に乗せていた奈央は、そこに真っ暗な穴が開いているかのように、体勢を崩して中に吸い込まれていく。 「うわぁあああ。ぎゃぁあああああっ!」 奈央は黒いアスファルトの中に吸い込まれ、すぐに見えなくなった。その場には悲鳴と、奈央の付けていた黄色い通学帽子だけが残されている。 わたしは思わず自分の足下を見て、慌てて両足を横断歩道の白い部分に移動させる。 「大丈夫だよ」と香苗。「よっちゃんはわたしに酷いこと言ってないから、地獄に落としたりなんてしないよ。安心して」 放心していると、やがて青信号がカチカチと点滅し始める。 「ほら、もう渡ろう」 そう言って、香苗は足下を気にせずに横断歩道を小走りで渡り始める。 わたしもその後ろを続く。信号が赤になる前に、いや一刻も早く、この横断歩道を渡りきるのだ。 8:祖母の部屋の人形 祖母の部屋には、祖母が幼い頃から使っているという人形がある。 掌に乗るくらいの小さな人形で、白い顔をして鼻も唇もくっきりと彫られている。実際の人間と比べると頭が大きいし、手足も短いけれど、おおむねリアルだ。 古い人形というのは今とは作りが違うのか、わたしにとっては不気味に思える。為に祖母の部屋には近寄りたくなかった。 ある時、リビングでテレビを見ていた時、母から祖母の部屋に行くよう頼まれる。 「おばあちゃんの部屋のごみを取って来て」 人形が不気味だから嫌だ、は、手伝いを怠けようとしていると見做されそうだ。 言うとおりにする。 部屋に入るとまず人形と目が合う。棚の上に置いてあるそれが、はっきりとこちらを見ているように感じて、わたしは嫌な気持ちになって、人形に背中を向けさせることを思いつく。 人形の身体に振れ、持ち上げる。 すると、その両腕がわたしの手首に絡みつき、その手の平がわたしの皮膚を掴んだ。 「ぎゃぁあああっ!」 激しい力だった。泣きたくなる程の痛みに、わたしは絶叫を上げる。何とかその痛みから逃れようと手を引っ込めようとするが、力が強すぎて離れない。 「どうしたの?」 母親が部屋の扉を開け、中に入って来る。 その途端に人形はわたしを掴むのをやめた。 「お母さんっ!」 わたしは必死で起こったことを説明したが、結局信じてもらえない。 「子供の精神は不安定だからね。時々、そんな妄想に囚われるのよ。白昼夢って奴?」 掴み上げられたその痛みはしばらく続いて、時間がたって赤黒い痣が出来、いつまで経ってもそれは消えない。 どころか、年月が経つごとに大きく色濃くなっていくような気さえするのだ。今では、わたしの掌と同じくらいの大きさになっている。 それさえも家族にとっては他の原因によるものなのだそうで、人形に付けられた痣だという主張は信じてもらえない。しかし怖がっていることは理解してもらえ、祖母の部屋には入らなくて良いとは言ってもらえる。 それが救いだ。 9:タコ親父 放課後、学校の運動場で野球をして遊んでいると、いつも金網の向こう側で見物しているおっさんがいる。 浮浪者風の男で、真っ黒に日焼けした小太りの体に、ぱつんぱつんの黒いシャツを着せている。肌がやけに綺麗で、でもいつも汗だくで、頭はつるっぱけの坊主。おそらく四十代くらいだろう。 『タコ親父』というあまりにもなあだ名を付けられたそのおっさんのことを、俺達はとりあえず無視することにしていたのだけれど、ある日俺の打席の番におっさんが運動場にずしずしと入って来た。 「一回だけ俺に打たせてくれ」やけに甲高い声だった。「一回だけ、なあ、一回だけ」 上手く断れる奴はいなかった。一回だけという言を信じて、俺達はおっさんに一打席だけ与えてやる。おっさんは目を輝かせて打席に入り、ピッチャーが山なりに投げたボールに向けてバッドを振る。 弾き返されたボールは運動場の柵をはるかに超えた。 みんなが目を丸くしていた。子供が迷惑をかけないようにするために、運動場の柵は高い。だから、今まで一度もボールがそこを超えたことは、なかったはずなのだ。 ボールの行方を見送って、はっとした俺達はその場からタコ親父が消えていることに気が付いた。タコ親父は足跡一つ気配一つ、持っていたバッドまでその場に残さないままで悄然と姿を消していた。 俺たちはタコ男と、タコ親父のホームランボールを探して運動場を出る。残っていた教師にも出来事を伝える。誰かの庭にボールが入っていたりしたら大変だ。 しかしその日の内にはボールは見付からず、タコ親父の姿もその日を境に見なくなる。 数日後、タコ親父がはじき返したボールは三百メートル離れたとある民家の窓ガラスをぶち割り、中に住んでいた中年夫婦を激怒させていたことが発覚する。しかし、いくら説明しても夫婦はそれが俺らの学校から飛んできたことを信じない。 当たり前だ。三百メートル弾なんて聞いたことがない。俺らだってタコ親父の存在がただの幻で、そのボールは俺達に無関係に飛んできたものだと信じたいくらいだ。 しかしそれでも俺はタコ親父に再び巡り合える日を待ち望んでいる。だってあのバッド、随分高かったんだもの。 10:コイン 十円玉に懐かれた。 小学生の頃持っていた十円玉に、彫刻刀で傷をつけた。特に意味のある行いではない。ただ刃物を持ったら何かを傷つけてみたくなり、その対象がたまたま十円玉だったのだ。目立たないように小さく自分の名前を彫った。 しかしお金とは使われるもので人から人へ流れるもので、何かの機会にその十円玉を手放すが、しかし一年後くらいに僕は再びその十円玉に巡り合う。買い物をしたお釣りにその十円玉が混ざっていたのだ。 珍しいこともあるものだと思い財布に入れ続けていたのだが、しかしまたしても何かの拍子に僕はその十円を使ってしまう。お釣りを合わせる時なんかに、必要になったのだと思う。 その三年後、すでにその十円のことを忘れていた頃に、再びそいつは僕の手元へ舞い戻る。 修学旅行先で友人の財布を盗んだ際、中にその十円が入っていたのだ。これが証拠になるとまずい。僕はとっとと使ってしまうことにして旅館の自販機にその十円を放り込む。 その二年後、別の自販機から出て来たお釣りにその十円が混ざっていた時には、僕はいい加減に怖くなる。 おまえは京都の自販機に放り込んだはずだ。どうして四国の片田舎にまでやって来て僕に会おうとするのだ。 「それ、懐かれとるんとちゃうんでないん?」姉が僕に言う。「呪われとるんとちゃうか? お金はありがたいものやから神様が宿るっちゅうやん? 名前彫ったりして傷つけたからバチがあたるんやわ。あんたを取り殺してやろうとして、しつこくあんたにまとわりついとるんよ」 縁起でもないことを言う。 僕は電車に乗っていけるところまで遠くの港に行き、できるだけ遠くまでその十円玉を投擲し、海に捨てる。 これで戻ってきたらもうその十円を遠ざけることはやめ、どう扱うか考えよう。 もし本当に呪われているのだとしても、所詮は銅の塊だ。彫って傷つけることが出来るなら、ばらばらに切り刻むことも出来る。ドロドロに焼いて溶かすことも、ぺじゃんこに潰してしまうことも。十円如き怖くはない。 問題はどうやってその十円が僕を好きか嫌いかを判断するかということだ。自分を好きで何度も舞い戻って来る奴ならば、たとえ十円だって酷い目に合わせたくはない。 11:スイッチ ある夏の日、それも四十度近い気温のとんでもなく蒸し暑いその日に、僕は一人、汗だくで近所の公園の中を歩いていた。 あまりの暑さの所為で誰しもが建物の中に避難している。僕だってもうすぐにでもそうするつもりでいた時に、悄然とした公園に一人、ブランコに座っている、肌の白い十歳くらいの女の子の姿と目が合った。 「お兄さん」 声をかけられる。 「なぁに?」僕は答えた。 「何もかもが嫌になったことってなあい?」 変なことを訊くものだ。「あるよ。こう暑いと本当にそういう気分になる。最悪だ」 「世界を滅ぼせるならそうしたい?」 「そのくらいの気持ちになることもたまにはあるなあ。でも、それは多分、誰だってそうでしょう?」 「そうかもね」女の子は満足したように頷いた。「じゃあこれ、どうぞ」 それは四角い白の土台に丸い黒の突起物が生えているだけの変な機械だった。いや、機械かどうかも怪しい。ただのおもちゃだろう。何かのスイッチを模したおもちゃ。 「これ、地球破壊スイッチね」少女は言う。 「なにそれ?」 「文字通り、ボタンを押したら地球が爆発するの。わたしが作った。良かったら押してみて。もちろん、地球が無くなったらお兄さんも困るから、良く考えてね」 そう言って女の子はブランコを降りて、手を振りながら公園の外に飛び出していく。 もらったスイッチを掌に載せて、僕はぼんやりと考える。 押してやろうか? 本当であるはずはないと思いつつも、しかし地球が破壊されると言われたものを、わざわざ押すのは趣味が悪い。事実かどうか押して確かめるというのも、あんな小さな女の子の言を間に受けているようで、嫌だ。 じゃあどうするべきか? なんとなくポケットにそのボタンを入れたところで、僕は気付く。 あの女の子、この暑さの中で、少しも汗をかいていなかった。 12:人魚 父方の叔父に亮一って人がいて、これがちょっと信じられないくらい温厚で優しい人でわたしは好きだったんだけれど、姉は気味が悪いと言って怖がっている。 「ああいう人程裏で人に言えんようなことやっとるもんなんよ。絶対そうや」 どう考えても偏見だと思うし、そもそも仮に裏で人を殺していようが麻薬を売っていようが、わたし達にとって優しい人であることは確かなら、それ自体は悪いことではないんじゃないだろうか? ある時叔父の家に遊びに行ったわたしは、一人で庭の池の傍で遊んでいて誤って足を水中に突っ込ませてしまう。そして、池の奥から白い手がわたしの脚を掴んだ。 それは確かに人の手の形をしていた。わたしは恐怖して絶叫を上げる。腕はわたしを池の奥へと引きずり込もうとする。池を取り囲む岩に尻餅を付いてなんとか踏ん張っていると、叔父が怒りの形相で駆け寄って来た。 「このあばずれ!」 凄まじい迫力でそういった叔父は、手にしていた木の棒で池の中を叩いた。すると、人の声とするにはあまりにも高い声が聞こえて、わたしの脚から手が離れる。 「出て来い! 出て来んかい! 殺したる!」 叔父が続けざまに水中にいる何者かを叩くと、黒い髪に水を滴らせ、真っ白な肌をした女性が池から姿を現す。その下半身は上質な鯉を思わせる赤と白の更紗模様で、その全身は息を飲むほど美しい。 人魚だ。 「日頃の恨みか? 日頃わしがおまえを棒でどつきまわっしょる腹いせか? このあばずれ! 水の外にも出られん癖に! 毎日わしに生かされとる癖に! ただじゃ済まさんぞ糞ボケがっ!」 そう言って叔父は池の中に入っていき、木の棒を人魚に振り上げる。人魚は許しを乞うような表情で硬直するが、叔父は許さない。鈍い音が続けざまに響き、アタマが裂けて鮮血が飛び散り、顔の形が変わりぐったりと人魚が倒れ伏すまでそれは続けられた。 「いけるんか、好江ちゃん」 そう言って叔父はわたしの方を優し気な表情で見た。 「こんだけ躾といたらもう行けるとは思うけど、念のためにもう池には近寄られんで?」 「どうしてこんなん池におるんよ」わたしは泣きじゃくりながら言う。 「知り合いがくれたんよ。親父さんから譲り受けたけどバケモンなんかよう飼わんけん言うてな。臆病やから棒で叩いといたら従順やし、綺麗な女の人魚やし、面白いと思うて、それからずっと飼いよる。そんでも子供を引き込んで食おうとするなんて、やっぱりバケモンはバケモンなんやなあ。罰として、しばらくまともな食事はさせへん」 わたしが表情を引きつらせると、叔父はわたしの頭を撫でる。 「好江ちゃん、このことは黙っといてな。なんでも好きなもん買うたるけん。なぁ?」 叔父に言われたとおり、という訳でもないが、その時の話は誰にもしていない。もちろん、姉にも。 あの池の中の異形が誰にも隠し通されている限り、叔父は誰にとっても優しい人で、そうあってほしいとわたしは思うのだ。 13:火事だーっ! 教室で静かに授業を受けていると、隣の席の三浦が突然真っ白い顔でぶるぶると震え出す。 またか。 三浦は唐突に首をかきむしり、恐怖に満ちた表情でその場を立ち上がると、恐怖に満ちた表情で絶叫した。 「火事だーっ! 火事だ、火事だーっ!」 それから三浦はあたりの生徒にひとしきり「火事だ!」と知らせて回った後、彼には炎がはっきりと見えているだろう何もない窓をじっと見つめ、「あ、ああぁ。あぁあああっ」と呆然とした声を出す。そして 「うわぁああああっ!」 と叫びながら廊下へと飛び出し、校舎の階段を駆け下りて行く。そして運動場へと姿を現すと、池に飛び込むのが窓から見えた。 そしてしばらくすると、池の水に塗れた三浦が、付き物が落ちた様子で教室に姿を現す。 「三浦おまえ着替えてから来いよ。床が濡れるだろうが」と教師。 「体操着取りに来たんすよ。でないと着替えるも何もないじゃないすか」と三浦。 「だったらせめてちょっとは体拭くとかさぁ……」 「服が濡れてるんすよ。裸で来いっていうんですか? それ言うんだったら誰かに体操着池まで届けさせるとか、そういうことしてくれても良いんじゃありませんか?」 「おまえが勝手に教室から飛び出すのに、どうしてそんなことしなきゃならんのだ?」 「いうこと聞かなくなるんすよ、体が。俺の意思じゃないんです」三浦は悲壮感に溢れた声を出す。泣くのを堪えているようですらあった。「もう嫌です、こんなの」 やがて三浦が火事を知らせる間隔は短くなって行き、まともに意識がある時の方が少なくなり、やがて精神病棟に入れられる。 「三浦が入ったっていうあの病院、いつか火事になる気がする」 クラスの誰かがそう口にする。 そのとおりになる。全焼した病院で、逃げ遅れた三浦が焼け死んだ知らせを受け、ほとんどの奴の反応は気味悪がるでも面白がるでもなく、やっぱりそうなるよね、と言った静かで安堵すら含んだ納得だった。 「なんかしてやれたかな、俺達」と三浦と親しかったクラスメイトが口にする。 どうにもならない。どんなに手を尽くしたところで防ぎようのない運命というのはこの世に存在しているし、三浦が焼け死ぬのはきっとそういうことの一つなのだ。 14:柴山くん 「よう」 と、地元で柴山くんに声をかけられた時は本当に驚いた。 「うわ柴山くんやん」 「何が『うわ』やねん。つか村瀬よう俺のこと分かったな」 「いや鼻の上のホクロがちょっと、なんていうか、ははは」 「えぇ~。気にしとるのにぃ。でもそれで村瀬に気付いてもらえたんやったら、まあ、ええかなぁ」 それから少し話をして、互いに時間があるということが分かり、喫茶店に入らないかということになる。 近くの喫茶店でコーヒーを二つ注文し、柴山君は 「ほんでさっきの『うわ』ってなんなん」 と言った。 「えぇ~? 言わなあかん?」 「え? なんそれ」 「なんそれって……。そっちが聞いたんでないん?」 「いや何の気なしやったんやけど、そうやって改まられると気になる」 「びっくりしただけやで。ひさしぶりやから」 「ほんまかぁ?」 「ほんまやほんま……。って、いいたいところやけど、やっぱ話してえぇ?」 「ええよ。別になんでも」 「ほら柴山君とぼくって、六歳の時から会うてへんやん?」 「ほやなぁ。十五年くらいぶりちゃうかなぁ」 「せやろ? んでな、柴山くんって、なんの前触れもなしに突然ぼくの前から消えたやろ?」 「んー。そうかもな。なんかすまんなぁ」 「いやそれはええねん。そやけどなぁ、おらんようになってから他の友達に柴山くんのこと聞いても、誰も覚えてへんっちゅうねん。確かに柴山くんとは二人だけで遊ぶことが多い……というかそれだけやったような気がするねんけど、そんでも近所に住んどんやったら誰かの記憶にはないと不自然やん? せやから……」 「せやから?」 「柴山君の存在は夢か幻か、幽霊か、その類のもんやと思うとったねん。今日まで。イマジナリーフレンドみたいな奴?」 「ほんで」柴山君は改まった表情でぼくを見詰めた。「ほんで、俺が例えば幽霊やとして、村瀬はどう思うんや?」 「なんも思わんよ」ぼくは答えた。「大事な友達や。こうしてまた会えて嬉しい」 柴山くんはしばらく沈黙していて、それからうんと小さくうなずいたかと思ったら、ふと微笑んだ。 「なら良かったわ。気味悪がられたりしたら連れてったろ思うとった」 「連れてくって、どこへ?」 「幽霊の国やわな」 「そんなんあるんか?」 「ある訳ないやろーっ」柴山君は笑った。「ほな、ちょっとトイレ」 それから柴山君はトイレに立ち、しばらくしてコーヒーが一杯、届く。 それを飲みながら何十分経っても、何時間たっても、柴山君は戻ってこない。 コーヒー一杯で粘るのも限界となり、ぼくは喫茶店を出て、その場で独り言ちる。 「会えて良かったわ。ホンマやで」 本心だ。それに、ぼくは何があっても柴山くんを恐れたりはしない。 あの柴山君が、人を幽霊の国なんてところに引き込むような真似をする訳がない。ちょっとお茶目で、意地悪なことを言う時もあったけれど、楽しくて優しくて本当に良い奴だったのだ。 15:林 近所の空き地では、木がほんの数十本生えているだけの小さな林をたまに見かける。 その空き地はほとんどの場合本当の意味でただの空き地で、木の一本も生えていないのが常だ。しかし通学路として毎日突っ切っていると、百回に一度くらいの割合で、小さな林があるのを見かけることがあるのだ。 何の前触れもなく生えているそれは、翌日になると何事もなかったかのように消えている。かと思えば思い出した頃にまた出現するので、奇妙な話として噂になっているのだ。 ある時、学校の友達を家に招くつもりで下校を共にしていた時、件の空き地でその林を発見する。 「これ噂の怪奇現象じゃん」 はしゃぐ友達に、僕は 「縁起が悪いから、あんまり見ないでおこう」 と言って見るが、友達は 「近くで見てみよう」 などと言い出す。 「知らないぞ」 「なんだよビビってんのかよ」 友達は僕の方をつまらなさそうに見つめると、林に近づき、中に分け入っていく。 やがて友達の姿が見えなくなり、そしていくら待っても友達の姿が現れなくなった。 隠れているのか? と思い、僕は友達に声をかける為に木々に近づいて行くが、妙な胸騒ぎを途中で感じる。 ……友達の方から出て来るのを待とう。 そして何分間も、何十分間も膝を抱えて友達を待ち続けていたが、いつまで経っても友達が姿を現すことはない。 一時間を過ぎる頃、僕は林から背を向ける。 友達はあの林に飲まれたのだ。あの十数本の木々の間に友達は迷い込み、林の外へ出ることが出来なくなっている。やがて遭難した友達は、飢えと渇きに苦しみながら木々の間で朽ち果てる。死体を見付けられることもない。 そうなることが何故か僕には確信できた。しかし助けには行かない。大人に訳を話して助けに行ってもらうこともしない。 あの友達は一人であそこに入り込んだのだし、助けられるのならともかく、ただ道連れになる為だけの他人を寄越してやる必要なんてどこにもないのだ。 16:鯉 夜の散歩が好きだ。ドブ川としか言いようのない汚い用水路の脇を、つんとした臭いを嗅ぎながら、水の音と涼しさを肌で感じて流れに沿って下流へと歩くのが好きだ。 その散歩は夜というより深夜に行われ、ほとんど丑三つ時だ。そんな時間に女の子の一人歩きなんて危ないよ、なんて言ってくれる優しい家族はわたしにはいない。でもそんなことを気にしたことはなかったし、気にしないまま大人になって、一人になるのだと思っている。 用水路を下り続けると、一か所だけ水が深まっている箇所があって、コンクリートの壁に囲まれたそこをじっと眺めていると、大きな鯉が姿を現す。 その鯉は魚影からして真っ暗で、たまに小さく顔を出すと、どこが目なのか判別もつかない程真っ黒だ。その体長は大きくて、どう小さく見積もっても一メートルくらいはある。 ある日学校で、一人だけいる友達にその話をする。 「いや一メートルって……そんなでかい鯉おる訳ないやろ」と友達は言う。「サヤちゃん、作り話多すぎやで?」 確かにわたしは作り話は多い方だ。けれどそれだけは本当に嘘ではないのだ。一メートルというのも大袈裟ではない。川を覗き込むわたしの傍を鯉が通過する時、自分の身長よりもそれは大きく見えるくらいなのだ。 実際、そう言われた日の深夜、用水路を下るとやはりそこには鯉がいて、泳いでいる。 「そういやあんた、昼間にはおらんね」とわたしは鯉に話しかける。「昼寝て夜起きとるん? わたしもそうなんよ。昼十一時くらいまで寝とってから学校行って給食食べて、午後の授業だけ受けて、家にもんて来るんよ。同じやね」 真っ黒な鯉は答えない。聞いているのかも、そもそもわたしの存在に気付いているのかもわからない。 けれどその鯉はもうすでにわたしの友達だった。友達であるということが大切だから、その存在を信じてもらえないことを悲しいとも思わないし、その正体が何であるかも気にならない。 「危ないよ、ホンマに」友達はこうも言っていた。「良くないもんに取りつかれとるんやって。何やっても習慣にならへんあんたが、そんな毎夜毎夜に汚い水路に欠かさず行くなんて、普通とちゃう証拠やわ。もうやめそれ」 知らない。わたしは思う。忠告している風ではあるが、どうせ心から心配してくれているって程じゃないはずだ。 多分。 「あんたの場合、その鯉含めて夜の散歩自体嘘かもしれへんけどな。いつかあんたが脚滑らして水路の中で死体で発見、とかありそうで怖いんやわ。ちょっとだけ」 仮にそれが本当になったとして、何だというのだろう。 汚いドブ川の藻屑の一部になるのなら、それはわたしに似合う場所でわたしに似合う存在になれると言うだけの話であって、幸せで優しい話なんじゃあないだろうか? 17:泥の中 私はあるいとこの男の子に懐かれている。その年のお盆も祖母の家で面倒を見てやっていると、外で遊びたいと言い出したので付き合ってやる。男の子は祖父母の家に良く出入りしているようで、手ごろな公園を知っていたので、そこに案内される。 「砂場で遊ぶんや」 というが昨日は雨が降っていて砂場で遊ぶことは難しそうだ。 案の定砂場は泥塗れになっていてわたしは気まずい顔で男の子を見る。しかし男の子は気にした様子もなく砂場に入り込み、ドロドロの中に手を突っ込む。 「わぁ。あったぁ」 と男の子。「どうしたの?」と声をかける私に、男の子は泥の中から片手を引っ張り出す。 男の子の拳と同じくらいの巨大な眼球が男の子の手に握られている。 「ひゃぁ」私は驚く。「なんなんそれ?」 「泥の中にたまにあるんや。お姉ちゃんにだけ見せたろ思うてな」男の子はその眼球を脇に置き、再び手を泥の中に突っ込む。「ほら、一杯ある」 だなんて言いながら次々と眼球を泥の中から取り出していくので、私は目を回しそうになる。 「気持ち悪いぃ。良くないもんちゃうんか、それ?」 「でも何も悪いことされたことないし」 「絶対バケモンやって。お母さんとかにはその目玉のこと話したん?」 「してへんよ。前に目玉のことは秘密にしとけって言われたし。見せたんはお姉ちゃんやけん、特別や」 「秘密にしとけって……、それ誰に言われたん?」 「泥の中におるおばけや。全身泥だらけで、体中に目があるねん。目ん玉はそいつの落とし物」 その話を聞いて私はぞっとして「もう帰ろう」と促した。男の子は素直に従った。 やがてお盆が終わりしばらくが立って、男の子が交通事故で亡くなったという知らせを受ける。 なんでも、登校中唐突に激痛を訴えながら自分の目玉をかきむしり、えぐり出し、視力を失った状態でふらふらとしながら車道に向かって倒れたということらしい。そこを、自動車にひき殺されたのだ。 男の子の葬式に参加しながら、私は思う。 件の目玉の化け物が男の子の死に関係していないとは言いづらい。私はあの子のいとこだから、あの子の命を奪った化け物を許しはしない。それは間違いない。 けれど、一回ちゃんと約束したものを破って、泥の中の眼球を私に見せた彼にも、やはり落ち度はあったんじゃないだろうか? 約束をする習慣があるのなら、それを守る相手に危害を加えない程度の良識はあるはずなのだ。化け物なりに。 18:幻肢痛 隣の家に住む幼馴染に幸子という子がいるのだけれど、最近、自動車の事故で片腕を失う。 「左腕ないんには馴れたっちゅうか受け入れたんやけどなあ」退院して家に遊びに来た幸子は気丈を装うという訳でもなく言う。「でもなんかおかしいことが起きるんよ。ないはずの腕が、どっか引っ張られるような気がするんよ」 「なんそれ?」あたしは首を傾げる。「ないはずの腕が痛むっちゅうんは知っとるけど、引っ張られるんは初めて聞くなぁ」 「ホンマホンマ。幻肢痛の類なんやろうけど。……人間の身体って不思議やわぁ」 やがて幸子が家に帰り、わたしはシャワーを浴びてから自室でゴロゴロする。 携帯電話が鳴る。 「幸子?」とわたし。 「なあ巴ちゃん。ちょっと助けに来て」震え、涙に濡れた声がする。 「どしたん?」 「せやから例の、ないはずの腕が引っ張られる現象」 「それがどしたん?」 「またなった」 「ふうん。それがつらいん?」 「つらいっていうか逆らえれん。巴ちゃんの家から帰ろうとしたら、無いはずの左腕が引っ張られて、身体ごと変なとこ連れてかれ出したんよ」 「なんそれ? 今どこおるん?」 「分からん。なんか真っ暗。多分巴ちゃんのおるのとは別の世界や」 「はあ?」 「真っ暗過ぎてケータイの明かりも見えへん。それで、闇雲に操作しよったらなんとか巴ちゃんと電話がつながったんよ」 「落ち着き? ナンボ暗いいうたかて、ケータイの明かりが見えんのはおかしいって」 「ホンマに見えんのやって! なんも! 闇しかない!」幸子は泣き喚くように言う。「怖いよぅ、怖いよぅ」 やがて幸子の携帯電話が硬い地面に落下したような乾いた音が鳴り響き、通話が途切れる。 それっきり幸子は行方不明だ。 19:氷面 冬の寒い日、見事に表面が凍り付く池が近所にはある。 ちょくちょく遊びに行っては氷の表面に乗り、飛んだり跳ねたり、滑ったりする。両親は危ないからやめろというのでこっそりと。 ある日、いつものように一人で氷の上を歩いていると、氷の向こう側に変な者が見える。 人だ。 女の人……それも結構綺麗な女の人がこちらに靴の底を向けて立っていて、ぼんやりとこちらを見下ろしている。 僕は目を奪われる。 その女の人と目が合ったように感じたその瞬間、女の人は消えて、いつもの濁った池の氷が戻る。 なんだったんだろう、今のは? その話をなんとなく父親にすると、父親は 「それおまえの将来の奥さんやわ」 などと言う。 「外国のおとぎ話にそういうんがあるんよ。氷の向こう側に女の人がおって、それをなんとなく覚えとったら、将来それと瓜二つの女の人と出会って、結婚するっちゅう」 そういうものか? 「というかおまえ、やめろというたのに、またあの池の氷で遊んどったんか?」 などと呆れた表情をされるので、僕は気まずそうに頭を掻いて見せることで、どうにかその場を収める。 次の日も氷面を歩きに行く。 昨日見た女の人の姿を探して、池の真ん中のあたり歩き回っていると、僕は息を呑む。 女の人が氷面に横たわっていた。全身は真っ赤な血液で濡れていて、深い苦痛と憎悪に満ちた表情でこちらを睨んでいる。背中には何か大きな刃物のようなものが刺さっていて、その真上には、驚く程冷たい表情で女の人を見下ろしている一人の青年が立っていた。 僕だ。 背も伸びて大人になっていて、人相も変わっているけれど、それは間違いなく、僕だ。 氷面の向こうの『僕』はこちら側にいる僕に気付いた様子はない。しかし、女の人は間違いなくこちら側の僕の存在に気付いていて、何かを訴えるようにこちらを睨みつけている。 死にかけの女の人の震える手がこちらに向かって伸ばされる。 今にもその手が氷を破いてこちらの世界に現れて、僕の首を圧し折ってしまいそうに感じたので、僕は慌ててその場に背中を向けて逃げ出す。 氷面を走ったら危ないということはこの際忘れるしかない。 20:バーン 中学の頃、俺は特に何をやらかした訳でもないのに友達がおらず、孤独でいることをバカにする連中から蔑まれ、敬遠されるようになる。 そんな時、隣のクラスで同じような状況にある藍一郎という奴に話しかけられ、仲良くなる。 「まあなんとか乗り切ろうや。所詮一学年だけのことやで。登下校の時くらい、ぼくが話し相手になってやるしな」 なんてちょっと偉そうな話し方をするのが藍一郎で、そういうところが彼を孤立させたのかもしれないが、しかしその程度のことなら俺にも覚えがあるので、口には出さない。 ある日の昼休みに校庭で藍一郎と会っていると、目の前をクラスの奴が横切る。 「友達おらんもん同士、みじめにつるんどるわ」 通り過ぎ際にそう言われ、俺はむっとするが、何も言い返せない。 藍一郎はふと俺の方を見て、黄色い歯を見せて笑う。 「あいつ殺すわ」 何を言っているんだと思っていると、藍一郎は手をピストルの形にしてそいつの背中に向けて、「バーン」と口にする。 「これでいつか死ぬであいつ。良ぇ気味や」 そう言ってせせら笑うが、そんなバカげた慰みを口にしている藍一郎が哀れでもあり、周囲の人間から俺がこいつと同等の存在に見えていることが情けなくもあり、俺は溜息を吐く。 藍一郎はそれからも何度かそれを俺の前で繰り返し、そんな悪趣味な藍一郎でも唯一の友達だから切り捨てることができないまま、学年が終わる。 二年生になり、俺はクラスに気の合う奴らを見付けて、友達を作る。 「えぇなあおまえ。一人だけクラスで上手くやっとるんか。ずるぅない?」 などと藍一郎は言うが、俺は愛想笑いで誤魔化しつつ、「おまえかて友達やで」とかその場は調子を合わせておくことにする。 「ホンマか? ほならええわ。剛士のことは殺さんといたる」 ある日、地域に大きな地震が起きて校舎の一部が崩れ、学校の奴らの何人かが死亡する。 後から死んだ奴の名前を確認して、俺はぞっとする。 それは藍一郎が「バーン」と背中から打ち殺す真似をした連中で、どういう偶然かそいつらが一か所に居合わせているところで、狙ったように校舎が崩れたのだ。 そのことを藍一郎に話すと、藍一郎は愉快そうに笑って、指先を銃の形にする。 「いつからかこれで殺せるようになったんや。まあでも今回は時間がかかったけどな」 そして藍一郎は俺の肩を抱いて、言う。 「心配せんでもおまえのことは殺さんで。友達やもんな」 正直こんな性格の悪い奴、クラスに友達が出来た以上は切ろうと思っていたのだが、そうはいかなくなる。 幸いなのは藍一郎の性格が鈍く、無神経で、他人の内心を推し量るような能力は持ち合わせていないということだ。渋々友達の振りをしていても、おそらく、バレることはないだろう。 21:本 大昔に持っていた一冊の本のことが忘れられない。 とても面白い小説本で、ことあるごとにわたしはそれを読み返していた。いつそれを紛失したのかは思い出せないが、同じものを取り戻してまた読んでみたい。 だから、スマートホンを手に入れて最初にしたことはその小説に付いて調べることだ。はっきりと記憶しているタイトルを検索サイトに打ち込む。 何もヒットしない。 細部が間違っていたのかと思い色々試すが、何をやっても手掛かりすら見当たらない。内容は完璧に記憶していたので、それを色んな所に書き込んでみるが、知っている人は誰もいない。 「よっぽど珍しい本やったんやなあ」 と、相談した母親は言う。 「お母さんホンマにわたしがその本持っとったこと覚えとらんの? というか、お母さんが買うてくれたんでないん?」 「ちゃうなあ。あんたこそ、どこでその本手に入れたんか覚えてないん?」 覚えていない。いつの間にかそれは手元にあったし、いつの間にか消えていた。 「なんか、こう、わたしに本くれそうな人とか思い当たるん全部教えて。訊いて回ってみるわ」 「そんなにまでしてまた読みたいん?」 「そうなんよ。また読みたいんよ」 などと何かに取り付かれたようになり、またネットや知人に本の話をし続ける日々を送るが、ある時指摘される。 聞く度に、わたしが話す本の内容が食い違っているというのだ。 「前は恋愛小説で、その前はSF。その前はホラーやで。美恵子ちゃん、ホンマにその本なんやったん?」 姉にそう言われてみて、わたしは思い出そうと本のことを思い出す。 確か冒険小説だったはずだ。龍に乗った少年が母親に会いに行こうと旅をするという内容だ。 「次は冒険モノ? ホンマなんなん? タイトルも毎回違うし……美恵子ちゃん、ちょっとどうかしとるんとちゃうんで?」 姉の言うことは信じられないが、自分のネットの履歴を辿って、掲示板等の自分の書き込みを見返してみて、気付く。 わたしが語る本の内容はタイトルを含めて毎回食い違っている。姉の言う通り、恋愛だったりSFだったり推理ものだったり、その内容はバラバラだ。 しかし一つだけ共通していることがある。 主人公は最後に悪魔に目玉を抉られて苦しみながら死んでいく。どんな物語でも、そこに至るまでの過程など全部無視してそういうオチになるのだ。 わたしは本について考える度、その考えた内容をメモ帳に書き込むようになる。 下手をすると数分ごとに入れ替わっているらしい物語の内容は、しかしその時々では鮮明な唯一の物語であり、疑う余地のない明白な記憶なのだ。 メモ帳に書き込まれた物語の数はあっけなく百を超えたが、しかしただの一度も、主人公が目玉を抉られて死ぬ意外の結末に辿り着いた試しはない。 22:毒入り危険 その日はくたびれていた。部活の練習がきつく、終わった時には足取りがおぼつかず、酷い頭痛もしていた。ものすごく汗をかいて、異様に喉が渇く。 水分を補給した方が良い。 持って来ていたスポーツドリンクは飲みつくしてしまってから、長い間何も飲んでいなかったのだ。 学校の傍にある自動販売機に這うようにしてたどり着くと、朦朧とした意識で財布を取り出し、ドリンクを選ぶ。 ふと妙なドリンクが目に入る。 灰色一色の缶に、赤い文字で文が描かれているというだけの、簡素なパッケージだ。何よりも、書かれている文章がおかしい。 『毒入り危険』 1000円という値段がその缶の下には描かれている。俺は訝しみ、呆然とするアタマが錯覚して何かを見間違えているんじゃないかとも考えてみるが、いくら目を擦っても同じ言葉にしか見えてこない。 いったいこれはなんだ? 興味を惹かれ、俺は財布から千円札を取り出して投入し、そのボタンを押す。 ガコンと音がして、出て来た缶を手に取ると、とうとう限界が来たのか俺は立ちくらみを起こしてその場で膝を着いてしまう。 しばし目を閉じる。 眩暈から立ち直り、なんとか立ち上がって手元を見ると、購入したはずの『毒入り危険』の缶の代わりに、どこにでもある普通の果汁ジュースが握られている。 何だったのかと思いながらその缶のプルタブを引き、中のジュースを飲もうとして、俺は躊躇した。 ……これを飲むのは危険なのではないか? 俺は缶を自販機の前に置き、その場から背を向けて走り出す。 家に帰り付いて冷蔵庫の麦茶をがぶ飲みする。たまらない。 大きく息を吐きだすと、冷静な気分になり、さっき見たものについてじっくりと考える余裕ができる。 確かに意識は朦朧としていたが、しかし俺ははっきりと『毒入り危険』と書かれた缶を見たし、千円を自販機に入れた。お釣りは出てこなかった。 あれが幻覚だったのか現実だったのか、確実に確かめる方法はなさそうだ。 だが一つ言えることは、ふと気になって改めた財布の残額が、きっかり千円減っているということだ。 23:虫 全身から前触れもなく白や黒の虫が湧いて出て、それが自分の股間の方へと這って移動し、性器の中に入り込んでは耐え難い程の痒さを齎す。 妹がそのようなことを俺や両親に訴えては、泣き喚く。 「なんか薬とかないん? あの虫をやっつけたりできる奴。それがあかんのなら、痒みが止まるような塗り薬でもええわ」 だなんて言うけれど妹に与えるべき医薬品はおそらくは精神薬で、いやもちろん掻き毟った股間への傷薬という意味での皮膚薬は必要かもしれないが、とにかくその痒さが精神的な物が原因であることは間違いない。 妹は中学校に入ってから数週間で、本の前触れもなく学校に行かなくなり、家に閉じこもって心配をかけている。昼夜逆転の不健康な生活を何年も続けていて、本人も自分の今の状況について焦りや将来への不安を抱えているようなので、それが引き金になって精神を病んだのは明らかだ。 しかし精神科を勧めても、納得しない。 「お兄ちゃんはわたしをキチガイやって言いたいん? ちゃうって。ホンマにあるんやってほらぁ、これ見てぇっ!」 なんて言いながら服を脱ぎ、虫の一匹もたかっていない、あるのは全身のあちこちに出来た引っかき傷だけの全身を見せ付けるので、俺は疲れてしまう。 病人は大変だが、病人の心配をする家族も大変なのだ。 引っ張ってでも精神科に連れて行き、カウンセリングと投薬を受けて戻って来ても、妹は浮かない表情で身体を抱いて震えている。 「もう痒いだけやなくて、身体に噛み付いてくるようになったんよ、虫。あかん、もうそろそろわたし危ないかもしれん」 だなどということを言いだし、今にも死にそうな顔を浮かべるが、俺達は優しく励ます以上のことはどうにもできない。 ある日の深夜、妹の寝ている隣の部屋から大きな喚き声がする。 「助けて! 食われる! お兄ちゃん、お父さんお母さん!」 この頃にもなると、真正面から相手をするとこっちまで精神を病むと言うことを、俺達は医者にも言われて理解していたので、それを無視する。 「助けてーっ! 死ぬ! 食い殺される! 助けて、助けてよお!」 耳を塞いでその声をやり過ごしていると、やがて声は小さく、か細くなり、いつか聞こえなくなる。 翌日。いつもなら正午を回る頃には部屋から出て来るはずの妹が姿を現さないので、俺は妹の部屋に様子を見に行く。 どこにも妹の姿はない。 ふとベッドに目をやると、そこには布団の隙間から赤黒い液体がにじみ出ていて、俺は驚愕する。 恐る恐る近づいて、布団を剥がす。 白や黒の大量の虫が、敷布団にびっしりと張り付いていた。 丸っこく、無数の脚の生えたその虫達は、俺の視界に入った途端に蜘蛛の子を散らすようにして布団から離れ、見えなくなる。 後には大量の血が染み付いた妹の布団だけが残されている。妹の身体は既にどこにも見当たらず、まるで何かに食い尽くされたかのようだった。 24:階段 兄貴が絵を買った。 医学部を受験して合格し、合格祝いに結構まとまった金額を両親から与えられていたのを、兄貴はなんと丸ごと使ったのだ。一枚の油絵に。 「絶対に手に入れるべきものだと思ったんだよ。というより、これは本来、俺の近くにあるべきものだって、見た途端に分かったんだな」 勉強のし過ぎでアタマがいかれたのか……。なんて思うが、俺も来年から受検なので、他人事だとは思っていられない。 兄貴が買ったのは、立派な階段の描かれた、学校の学習机くらいの大きさの絵だった。豪奢な屋敷のような場所にある荘厳なただ住まいの階段を下から描いた、写実的でいて、見ていると吸い込まれそうになるほど色使いの巧みな絵画なのだが、妙な物悲しさや、気味の悪さも感じさせられる。 何せその絵には階段とその周囲の風景が描かれているだけで、人っ子一人いないのだ。寂しい風景とも言えるし、どうしてそんなものを描いたのか疑問にも思う。 「こういう絵もあるよ」と兄貴は言う。「確かに、この絵の真ん中に、こっちを向いて階段に立っている女の人でも描かれていたら、それはそれで素敵だと思うけどね。でも、これはこういうものとして、良いんだ」 まあそう思ったのだから買ったのだろう。 兄貴はかなりの時間をその絵をずっと眺めて過ごすようになり、それによって大学の勉強や日々の生活に支障をきたすようになる。大学をサボってまで絵を見続けているのだから、はっきり言って異常な様子だ。 「そんなにその絵が好きなら、その絵の中に入ったらどうだ?」 なんて俺は言うけれど、兄貴は軽く笑い飛ばして、答える。 「この絵の中に入って、この階段を登ることが出来たらどんなに良いかと思うけど、それはできないよ」 まあそうだろうな。そう思っていると、兄貴は表情を変えずにこう続けた。 「でも、誰かが下りて来る可能性は、否定できない」 ある日、何の前触れもなく、兄貴が俺達の前から消える。 考え付く限りの場所を調べ、兄貴に繋がりそうな色んなところに電話をかけて回ったのだが、兄貴の行方を知る者は誰もいない。 ただ一人だけ、兄貴と同じ大学に進学したある知人だけが、こんな証言をした。 「おまえの兄ちゃんなんだけどな。女の人と一緒に歩いてたぞ。見たこともないような美人だったな。良くあんな女の子を捕まえたもんだと感心したよ。駆け落ちでもしたんじゃないか?」 俺は兄貴の部屋へ行き、部屋に残された階段の絵を見詰める。 これがただの駆け落ちだったなら、兄貴はこの絵を絶対に持って行っただろう。持ち運べない程の大きさじゃないし、大金をはたいて買って、あれほど執着していたものを、簡単に手放すようには思えない。 それを置いて行ったということは、つまりそれは、この絵自体にはもう用が無くなったということを意味している。 「階段から降りて来たのかな、その、美人の女とやらが」 一体何が降りて来て、それが今兄貴とどうしているのかは分からないが、兄貴の買い物が狙い通りの成果を得たらしいことは理解ができた。 兄貴は変わった性格だけど、アタマは良くて、狙いを外すことは滅多にないのだ。 25:地雷原 小学校の廊下のタイルの上で友達二人と遊んでいると、いくらか年上っぽい女の子がぼくらの間にやって来て、言う。 「一緒にあそぼ」 特に断る理由を想い付けず、「ええよ」と答える。 「ほなルール言うで。ここは地雷原や。地雷が二つ、どっかのタイルに埋まっとる」 女の子は唐突にそんなことを言いだす。 「いやなんでそんなん勝手に決めるん?」と友達の一人が言う。 「でももうホンマに埋まっとるんやで。しゃーないやん」 「いやありえんやろ。地雷とか」 「そう思うんやったら普通に歩いたらええやん。地雷をかいくぐってあたしにタッチ出来たら君らの勝ちやで」 なんていうので、タッチすれば良いだけなら、と考えたのか、その友達は女の子に向けて駆けだす。 「言っとくけどあたし逃げるで」 なんて言って女の子はタイルの上を駆けだす。友達と女の子の鬼ごっこが始まる。 走っていた女の子が、ぴょんと一枚のタイルを飛び越す。そこへ友達が飛び込んだ。 ドカンと鼓膜から全身に響くような爆音がする。 煙が吹き上がり、気が付けば友達がその場で身を伏せている。足元を抑えている。その子の左脚は膝から下がなく、あたりには爆破されて散り散りに吹き飛んだかのような肉の破片が転がっていた。 「まだやる?」 と女の子が楽しそうに言うので、ぼくは震えた声で答える。 「もう降参」 女の子は小首を傾げて、少しつまらなそうに、しかしどこか満足を含ませた口調で、言った。 「ほうか。ええよ。ほな地雷ゲーム終わり」 そしてぼくらから背を向けて歩き去り、どこかへと消える。 後から人に聞いたところによれば、そんな女の子はこの学校のどのクラスにも所属していないらしい。いったい何者だったのだろうか? 26:知らない人 ある日わたしが学校から家に帰ると、『楓』と名乗る知らない女の子がわたしの家にいて、母親と一緒に食事の支度をし、食事を食べ、自分用の食器や部屋まで与えられている。 「いやおかしいやろ。なんなんその人」 わたしは言うが 「どしたん桜ちゃん。お姉ちゃんのこと忘れたん」 と女の子は言いだすが、しかしわたしは少しも覚えはない。 わたしはずっと一人っ子だ。 混乱するわたしに、両親はわたしの記憶について質問をしたり、『楓』との思い出を話してくれたりする。どうやらわたしを心配しているようだ。しかしわたしは姉を名乗る見ず知らずの他人に納得がいかない。 「桜ちゃん、冗談や嫌がらせでこんなこと言い出す子とちゃうで。多分ホンマに、私に関する記憶だけが部分的に欠落しとるんやと思う。でも私たちが姉妹なことには間違いないんやけん、焦らんとじっくり様子見てみようよ」 なんて優しい表情で両親やわたしに言うその女の子に、わたしは不信感しか持つことができない。 しかし日々は流れる。 自分のことを邪険にし続けるわたしに、その女の子はずっと親切で献身的で優しかった。ここぞという時にわたしに近づき、わたしの望む言葉をかけ、手助けをし、労わり気遣う。 数年が立つ頃にはすっかり打ち解け、受け入れ、わたしは女の子を本当の姉のように思うようになる。 ある日わたしはその女の子に問いかける。 「なあ楓さん。あたしホンマに、楓さんについて、あの日より昔のこと覚えてないんよ」 そう言うと、女の子はあたりを見回して両親がいないことを確認してから、鈴を鳴らすような声で笑う。 「そりゃそうやわ。やって桜ちゃん、何も間違ってへんもん」 わたしは目を丸くして、女の子に詰め寄る。 「どういうこと?」 「どういうこともなんもないよ。私悪魔やで? 楓なんて女の子はもともとおらん。桜ちゃんだけ魔法かからんで正しい記憶を持っとるってだけ」 「いや……ちょっと、それホンマなん?」 「ホンマやで。でも安心して。確かに私は人間の世界に紛れて悪さしようとは思うとるけど、でも桜ちゃんのこと妹として好きなんもホンマやもん。お父さんもお母さんも好きやで。危害加えんけん、そこは信じてよ」 信じて良いのかどうかは分からない。しかしながら、この会話の内容を他人に知らせたところで信じてもらえないのは分かり切っているので、これからもわたしは悪魔との同居を続けるしかなさそうだ。 それに 「ところで桜ちゃん、高校入学おめでとう。家族でお祝いはするやろうけど、それとは別に、わたしからも何か好きなもん奢ったげよか?」 なんてことまで言って来る家族なら、この際悪魔でも良いと思うのは、いけないことという程でもないはずだ。多分。 27:神様 親や教師からは注意も受けるのだが、ぼくはいつも建物の谷間の薄暗いところや、下水道と金網の隙間のコンクリートなどの裏道を通り、近道をしている。 そんなある日、立ち入り禁止の廃トンネルを通る時、真っ赤な血に濡れたナイフを持った男と遭遇する。 足元には別の男が血まみれで転がっている。見るからに大けがをしているのに呻くでもなく微動だにしないことから、それが既に遺体で、男の持っているナイフで殺されたと見て間違いはなさそうだ。 腰を抜かすぼくに、男は言う。 「そんなビビらんでええで。別に、坊やに危害加えたりはせんから」 そう言って男はナイフを捨てて見せる。 僕は尋ねる。 「見逃してくれるん?」 「見逃すも何も、坊やを殺す理由ないで」 「なんで? 目撃したのに」 「別に隠す必要とかないわ。神様が守ってくれるもん」 「え? ……神様って、なに?」 「神様がついさっき俺の心にい話しかけて来て、このトンネルの中にいる男を殺せって言うたんや。そんで気が付いた時には、ナイフが足元に転がっとってな。神様の言うことやけん、そのとおりにしたんや」 「なんで、この人殺されなあかんの?」 「分からんけど、神様が言うからには世界にとって害やったんやろ? せやでこれは正しい行いやし、そんな俺が裁きを受けるなんてありえん。神様が、守ってくれる」 そう言って男は歩き去る。 僕はしばらくその場から動けないが、やがて立ち上がり、家に駆けこんで泣きじゃくりながら見て来たことを両親に報告する。 死体が警察に発見され、男の捜索が始まるが、十年近くが立った後でも行方は愚か手がかり一つ掴めず、捜査は完全に暗礁に乗り上げているということだ。 28:キリン キリンの体長は今のところ四メートルから六メートルとされているけれど、もしもこれが、ほんの十年前までは猫よりも小さかったと言われれば誰か信じるだろうか? 俺が八歳の頃まではキリンは本当にそれだけ小さかった。いや小さかったという認識さえない。動物園の小さなガラスケースの中にいたり、一部の金持ちがゲージの中で飼っていたり、ペットショップに行けば普通に売られていたりするような、そんな生き物に過ぎなかったのだ。 いつ頃からか、それが大きくなり始めた。 年月が経つごとにキリンという生物種の体長はどんどん大きくなり、しかし、人々はそれが当たり前であるかのように振舞っている。図鑑の内容もいつの間にか書き直され、大きくなるキリンに合わせて世界の方もずれていく。 大きさに合わせてキリンの生態も変わる。まず餌が変わる。長い首への解釈も変わる。生息しているという区域も変化し、人々からの扱いも変化する。ついには、あの長い首は高所にある餌を食べる為に進化したなどと無茶苦茶な話を、学者を名乗る人間が大真面目な顔を口にするようになる。 「このままじゃキリンは人間よりも大きな生き物になるぞ」 俺は何度も口に出して主張して、そのたびに笑われて異常者扱いされたのだ。でも確かに、俺が十一歳の時にキリンは人より大きくなった。そして今も大きくなり続けているのだ。 だいたいあんなに大きな首の長い生き物が存在しているなんておかしいじゃないか。まるで恐竜だ。もうとうとう四から六メートルだなんて冗談みたいなサイズになった。やがて十メートル、五十メートルと巨大化していく未来が、このままでは必ず訪れる。キリン一匹に人々が踏み殺されないよう、戦闘機が何台も出撃してキリンを撃ち殺すような、そんな時代がやって来るのだ。 それが当たり前になる。その異常さに誰も気づかない。取り残されている恐ろしさについて俺がいくら訴えたところで、誰しもがあざ笑い、白い目で見詰め、異常者扱いして黙殺し続ける。 だが最も恐ろしいのは、そんな風に感じる俺の方が狂っていて、世界の方は何もおかしくないのではないかと、そう考えてしまいそうになるその瞬間なのだ。 何が狂っているのかなんて、本当は誰にも分からないのに。 29:カラス 大学に進学し、貧乏アパートで独り暮らしを始めて数日、ベランダにカラスが遊びに来るようになる。 特に餌付けをした訳でもないし、ゴミを外に出しっぱなしにしている訳でもない。しかしそのカラスは毎朝同じ時間にベランダにやって来て、俺がそれに気付いてベランダの外に出ると、それを待っていたかのようにバタバタと空へと飛び立っていく。 毎日やって来るそのカラスは間違いなく同じ個体で、しかも何やら白くて軽い欠片をベランダへと置いて行く。砕いた動物の骨か何かのような感触と見た目のそれを、俺はなんとなく拾い集め、箱の中へと貯め込むようになる。 数か月が経過し、箱の中身がほぼ一杯になった頃に、ある日ぱったりとカラスが来なくなる。 俺は同じ大学の医学部の友人に電話をかける。「医者の卵のおまえに質問があるんやけど」 「おうなんや」 「いやな。体重四十から五十くらいの女の子の骨の重さって、どんくらいなん?」 「はあ? ……いや、そんなもん医者の卵でなくても答えられると思うんやけど」 「癇に障るやっちゃな。早う言えや」 「八キロから十キロ。骨の重さは体重の約五分の一やで」 俺は電話を切り、白い欠片の詰まった箱を持ち上げる。 家に体重計はないが、八キロから十キロくらいと言われればそうだ。 俺は白い欠片の詰まった箱を持って家を出て、二時間程かけて、高校まで住んでいた田舎の山中に到着する。 そして木々の合間に分け入り、かつて付き合っていた女を殺して埋めた場所へと辿り着くと、持参したスコップで掘り返す。 何もない。 ここに埋めてからもう随分と時間が立っているはずだが、しかし骨が土に返る程の年月ではないはずだ。 ならばその骨がどこに消えたのかというと、それは決まっている。 あの箱の中だ。 この土の中で白骨化したあの女の骨を、何か月もかけてカラスがせっせと運んで来たのだ。 それを悟り、流石に気味が悪くなっていると、上空から音が降って来た。 カラスの鳴き声だ。 顔を上げると、数か月に渡って毎朝のようにベランダにやって来ていたあのカラスがいて、俺と目が合う。そして俺が気付くのを待っていたかのように、カラスはその場で羽ばたいて飛び上がり、空のどこかへと消える。 女の骨は持って来ている。改めてこの土の中に埋め直すことは可能だ。 だがしかしどんなに深く埋めたところで、あのカラスはこの骨を再び俺のところへ運んで来るだろう。あの女はしつこかった。どんなにはっきりと別れ話を切り出しても言うことを聞かず、挙句俺や周囲への嫌がらせを繰り返すストーカーと化して、かっとなった俺に殺された。殺されて尚、カラスを使ってまで俺に付き纏った。俺のところにやって来たのだ。 この骨をもっと粉々に砕いてしまうか? それとも燃やして灰にしてでもみるか? しかしそんな方法で肉体をこの世から消滅させたところで、もっと厄介な存在になって何度でも俺のところに現れるような気がしてならず、俺はどうしたら良いか途方に暮れ続けるしかない。 30:毒蛇 朝起きると二段ベッドの下段の弟がいなくなっていて、代わりに布団の隙間に真っ黒な蛇が一匹這いまわっているのを確認する。 誰も手を出せないでいる内に、祖父が言う。 「昔の外国の小説で、こんなんあったよなあ。なんか、朝起きたら虫に変身してもうとる子供の話……。虫と蛇は別物やけど、そんでもこの蛇、巧とちゃうか?」 そんなバカな。と思うが、しかし寝ていた弟が急にいなくなる理由なんて思い付かない。家のドアを開けて外に出たのだとしたら、開閉音で家の誰かが気付くはずだ。 「この蛇殺すんはちょっと待っとこう。しばらく籠に入れて様子見とこう」 祖父が言うので、とりあえず弟の捜索願を出して置き、水槽で蛇を飼い始める。 「この蛇どこの品種や。見たことないなあ」 と、父が言うので、わたしは 「これ巧が好きな蛇やわ。ほらあの子爬虫類図鑑持っとるやろ? ムッチャ毒が強いんやって。見せられたわ」 と説明する。 「そんなん日本におるん?」と父。 「おらんって。つか条約で入って来られへん。飼っとることも犯罪やで普通に」 飼育し始めて数か月が経過し、巧が見付かることもないまま、餌をやっていた祖父がその蛇に噛まれ、すぐに病院に搬送されるが、亡くなってしまう。 やがて警察が家にやって来る。蛇は、そのような危険な生き物を野放しに出来ないということで、保健所に連れて行かれる。 「なんでおじいちゃんを噛み殺したりしてもうたんや。おじいちゃんを返してくれ。巧を返してくれ」 容疑者扱いをされ、つらいことが重なって打ちひしがれる両親を見ていると、わたしの胸も苦しいが、しかしこうも思う。 あれが本当に巧で、人間の頃の意思や記憶を残していたとしても、しかし蛇の身体で蛇としての生活を何か月も続けていたら、その行動や習性が肉体の種に引き摺られて行くのは当然のことじゃないだろうか? 元が人でも、毒虫の身体を得れば毒虫に、毒虫の身体を得れば毒蛇に、やがてその心は少しずつ入れ替えられ、人でなくなっていく。 だから祖父を噛み殺してしまった時点でもうあの蛇の中に巧はいないし、巧でないなら殺処分も受け入れた方が良いのだ。 31:トビオリさん 僕たちの小学校で流行っている遊びに、『トビオリさん』というものがある。 遊び方は簡単。目を閉じて、『トビオリさん、トビオリさん、トビオリさん』と三回唱えてから、目の前に一歩、ジャンプする。 そうするとこの世から飛び降りてあの世に行くことができるというおまじないなんだけれど、成功したことはもちろんない。 「やり方があるんだよ」そう言ったのはクラスの一人の女子だ。「他人から聞いたのは、『トビオリさん』って目を閉じて唱える時、学校の屋上にいる自分を想像するんだって。しっかりイメージできれば、ちゃんとあの世に行けるって」 そう言われたので、皆で順番にその女子の言ったとおりにしてみるが、やはりあの世には行けない。 「次、僕やってみるね」 そう言って僕は目を閉じて、学校の屋上をイメージする。 他の皆と違い、転校する前の学校で屋上に忍び込んだことのある僕は、比較的鮮明なイメージを持つことが出来た。 「トビオリさん、トビオリさん、トビオリさん」 その時だ。 背後に視線を感じる。振り返ると、そこは学校の屋上で、僕の後ろにはたくさんの子供がいて僕をじっと見つめている。 この人達は、僕が飛び降りるのを待っているのだ……。そう思い、怖くなった僕が身を固くして震えていると、横から声がかかった。 「ちょっと、大丈夫?」 気付くといつもの教室にいた。やり方を教えてくれた女子が心配そうに僕を見つめている。 さっきの屋上と子供たちはただの空想だったのだ。僕は気付く。しかし空想にしてはあまりにリアルすぎて、僕は怖くなる。 「もう一回やってみたら? その時はちゃんと、前にジャンプしてみてよ」 女の子が平気な顔でそういうけれど、もちろん冗談ではない。 この世のものならざる現象があったとして、それを証明するために飛び降りて死ぬだなんてのは、まっぴらごめんなのだった。 32:入れ墨 親戚のおじさんに、上腕のあたりに入れ墨をしている人がいる。 大きく口を開けた鰐のような頭に、獣のよう身体を持った、真っ黒な異形の入れ墨だった。それは基本的に黒一色で構成されているが、その瞳だけが鮮やかな赤色で描かれていて、どの角度から見てもこちらを睨んでいるように感じられて迫力がある。 「どこで入れたん、それ」 わたしが尋ねると、おじさんは答える。 「んー。少年院」 「え? ……あー、知っとる。聞いたことあるよ。少年院に入っとった印に、安全ピンとかマーカー使って自分で入れるんやってな」 「そんな感じやけど、入れたんは自分でないんよ」 「そうなん?」 「うん。同部屋に背の低い気の弱いんがおって、そいつに入れてもろうた。自分より年下の小学生の女子に悪戯して入って来た奴やけん、いじめられとって。まあわしが率先していじめよったもんなんやけどな。でもそいつ手先は器用で、入れ墨の時だけは重宝したんや」 姪っ子にそんな話をしみじみ聞かせて来るあたり、結構お酒が入っているのかもしれない。 「でも元々はこれ、手の甲にあったんやけどなあ」 わたしは耳を疑う。「は? どういうこと?」 「いや、もともと手の甲に彫った入れ墨やねんけど、それが少しずつ移動して来て、今はもう上腕のここにおるんや。ほら見て今こいつ、右の前足を高く上げとるやろ? ゆっくりゆっくり、何年もかけてわしの身体を走りよる途中やねん」 本当だろうか? まさかな。……なんて思っている内にその日の親戚の集まりは終わり、その後両親の離婚やらなんやらがあって、そのおじさんとは数年間合わない日が続く。 そんな折、別居した父から知らせが入る。 「文昭が、おまえのおじさんが亡くなったから、できたら葬式に出てやってくれんか?」 「文昭さんて……あの入れ墨のおじさん?」 「そうや」 なんとなく参加することにして、父に向かいに来てもらい、葬式会場へ辿り着く。 死因は心臓麻痺らしい。原因不明。まだ四十代も半ばくらいで、身体にも悪いところはなかったのに、突然の出来事だったらしい。 「やっぱあの入れ墨の呪いなんかなぁ?」 おじさんの死体の前で、父は言う。 「呪いって? なああのおじさんの入れ墨動きよる言いよったけど、ホンマなん?」 「ホンマやで。ちょっと見てみぃ」 そういうと父は、あたりを見回して部屋にわたしと父しかいないことを確認してから、死に装束の胸のあたりを捲り、中をわたしに見せる。 そこにある物を見て、わたしは息を呑む。 おじさんの、こちらから見て右側の胸、つまり心臓のある場所に、入れ墨は移動していた。鰐のような頭と獣の身体を持つ黒い異形は、目的の場所に辿り着いたかのようにその場で座り込み、閉じた口からは何か赤い物を滴らせている。 血だ。食いちぎったおじさんの心臓から滴り落ちる血だ。 「な? 呪いやろ」 父は言う。わたしは頷くしかなかった。 33:爆弾 六歳の弟がいて、おとなしい性格でいつも絵を書いている。そしてその絵の内容が妙なのだ。 「たっちゃん、何書いてるの?」 と机に向かっている弟に尋ねれば。 「ばくだん」 と答えるのが常だ。しかしそれは一見して爆弾の絵には見えない。 わたしが爆弾を描けと言われたら、ドクロマークの付いた黒い球体に導火線である縄が生えているような絵を書く。そうでなくとも、ダイナマイトでも手榴弾でも、とにかくシンプルで簡単な絵を書く人が多いはずだ。 爆弾なんていくらでもデフォルメのしようがある。 しかし弟の絵は複雑で、様々な小さな部品が複雑に絡み合い、さらにそれらの部品は細長いものや球体のもの、粉末状のものから液状のものまで様々だ。そしてそれらがどこに、どんな風に組み込まれているのか、ぐちゃぐちゃな矢印で示してある。 画力自体は六歳児相応なのだ。まともに見ればそれは『絵』という以前の、思い付いた形や模様をテキトウに詰め込んだだけの落書きにしか見えないだろう。そういうものを書いていると思っていたし、そういうものとして見てやっていた。 しかしある時、家に友人で大学の理工学部の学生が遊びに来た際、たまたま弟の絵を見てこういった。 「何この絵」 「爆弾らしいね。褒めてやってよ」 「いやよ気味が悪い」 「どう気味が悪いのよ」 子供の絵を、しかも人の弟の絵を気味が悪いだなんて、酷い言い草だ。 「いやだってこれ、本物のプラスチック爆弾じゃない」 「は?」 「絵は子供のだし、書き方も無茶苦茶だけれど、設計図としては最低限度成り立ってる。この通り組めば、本当にプラスチック爆弾が出来上がるわ。このマンションなんか吹っ飛んでしまうくらいの、強力な奴がね」 それからも弟は爆弾の絵を書き続けている。 34:窓 部屋の窓に一つ、こちらの様子が綺麗に映るものがある。 鏡と同じくらいに……と言って良いくらいにくっきりはっきりわたしの姿を映すので、たまに姿見として使っているくらいだ。そんな様子を見ていて、弟なんかは 「どう科学的に考えても、こんなに綺麗に映るんはおかしいんやけどなぁ?」 とか不思議そうにしている。 だがこの弟に、『科学的に』なんて言葉を正確に使いこなせる程の経験があるとは思えない。そういう風に言えば自分の勝手な予想に説得力が出ると思っているだけだ。実際に映っているというのが現実のすべてであり、それはただそういうものとして受け入れれば良いだけのことだ。 「姉ちゃん。ようその窓見とれるな」 なんて弟は言うし、わたし以外の家族は皆その窓に近寄ろうとはしないけど、わたしに言わせればおかしいのはビビりすぎているそちらの方だ。 ある日の夜、おでこに出来たニキビを気にして窓を見詰めていた時に、ふと窓に映ったわたしと目が合う。 なんとなく誘われているような気がしたので、わたしはふと手を出して、「じゃんけんほい」とばかりに手を開く。 窓の向こうに手を握りしめたわたしの姿を確認して、わたしは「え?」と目を見開いた。 窓に映るわたしは『あちゃー』というような表情を浮かべてから首を捻ると、小さく息を吐いて、残念そうにこちらに手を振る。 『じゃあね』 とばかりに窓からわたしが消え、それっきり窓は普通に窓に戻って、何も映さなくなる。 その話を弟にしてみると、弟は 「じゃんけん、勝って良かったな」 などと言う。 「もし負けとったら姉ちゃん、窓の向こうの自分と入れ替わられとったかも分からんで?」 んな訳あるか? ……と思うけれど、でも窓の向こうのわたしは負けたことをあからさまに落胆していたし、勝敗が逆なら何かが起きていた可能性もありそうではある。 「もし今度俺が窓に映った自分にじゃんけん挑まれたら、何出すか考えとかなあかんな」 冗談になっていない。 わたしは部屋の学習椅子を持って窓に近寄り、窓を叩き割って両親に報告する。 当然、叱責を受けるが、背に腹は代えられない。 目に見えた物が全てである以上、その窓はわたし達家族にとって危険なものなのだ。 35:冷蔵庫 十年前、まだ小学四年生だった頃、仲間と遊んでるところに一人の女の子がやって来た。 「仲間に入れて」 何となく仲間に入れてやる。女の子は気弱そうな様子で、どこか媚びたような笑顔を浮かべ、こちらの機嫌を伺うようなことばかり言う。 「ちょっとぉ。何するん?」 体にくっ付き虫を投げつけられても、そんなことを言いながら無理矢理笑って見せるだけだ。俺達は調子に乗って女の子を棒で叩いたり、砂を蹴りつけたりするが、怒る様子はない。 これは面白い。 俺達は女の子を連れて近所の山の中へと分け入り、大きな冷蔵庫が不法投棄されている場所に行くと、中に入るように女の子に命じる。 「ちょっとどんな感じか確かめてもらうだけや。すぐに出すで」 俺が言うと、女の子は不安と不信に満ちた表情で「ホンマに?」と訝るが、俺達は女の子の身体を掴んで無理矢理冷蔵庫の中に押し込めてしまう。 この冷蔵庫は中からは開けられない仕組みになっている。出してもらおうと懇願するようなくぐもった声が冷蔵庫の中から響くが、俺達は顔を見合わせてせせら笑うだけだった。 「行こうぜ」 誰かが言い、女の子を置いて山を降りて、サッカーをして遊ぶ。 やがて日が暮れ、家へと帰ろうとした頃に、ふと誰かが女の子のことを思い出す。 俺達は焦って山の中へ走る。 扉を開けようと冷蔵庫へと駆け寄ると、内側から、冷蔵庫の壁を隔てているとは思えない程のはっきりとした、怖気を振るう程激しい憎悪に満ちた声が聞こえて来た。 「許さない許さない許さない。殺してやる殺してやる殺してやる」 冷蔵庫全体が震え、軋むような音がする。地面が抉れる程激しく振動する冷蔵庫は、まるで一つの生き物のようだ。異常な現象だ。 この中には人ならざる者がいて、開けてしまうと俺達は本当に殺されてしまう。 そんな確信を覚え、俺達は恐ろしさのあまり誰も扉を開けることができず、それぞれの家に逃げ帰ってしまう。 幻にでも遭遇したということにして、それっきりその山の冷蔵庫に近寄らないことにする。不思議なことに誰も女の子の名前は覚えておらず、その女の子の人相を他人に話しても、知っている者は誰もいなかった。 十年後。成人式の場で再会した際、仲間の一人が提案する。 「ちょっと山の中行ってみぃへんか? 冷蔵庫の中が空っぽなのを確認せんと、多分ずっと夢見が悪いまんまやで」 同意の声が上がり、提案した奴の車に乗って山へと向かう。 恐る恐る冷蔵庫に近寄ると、いつか聞いたのと同じ声が聞こえて来た。 「許さない許さない。殺してやる殺してやる殺してやる」 俺達は恐怖に歪んだ顔を見合わせる。とにかくこの場にはいられない。これからどうするのだとしても、それを考えるのは山を降りてからだ。 俺達は冷蔵庫に背を向ける。 「待ってっ!」 ひと際大きな声が聞こえた。 「助けて。もう出して。お願い。殺すなんていってごめん。開けてよ」 あの頃と同じような、媚び諂うようなその声に、しかし俺達は応えることはしなかった。 「行こうぜ」 女の子の泣き喚く声を聞きながら、俺達は無慈悲に山を降りて行く。 ガタガタと冷蔵庫が痙攣し、軋みを上げる音が聞こえて来る。だがそんなものに耳を傾けられるような勇気は、十年前と同様、俺達は誰も持ち合わせていないのだ。 36:初めての夏。 幼い頃からの友達に佐代子ちゃんという背の低い子がいて、その子には夏になると避暑を兼ねて家族で祖母の家に遊びに行く習慣がある。 「お婆ちゃんの住んどる村には夏が無いんよ。一年中ずーっと冬。夏休みに遊びに行っても、普通に雪とか振っとるんよ」 山奥の奥にある周囲とはまったく孤立したような場所なので、その事実を知っている者は少ないのだという。 最初こそ疑っていたが、祖母の家に行った佐代子ちゃんから、雪の降る景色やらスイセンやらクリスマスローズやらの冬の花を、日付が分かるようにして写真に撮って送ってもらう内、ようやくわたしはそれを真実と確信するようになる。 「何でも大昔に村を襲ったバケモノがおってな。それを村の人達が寄ってたかって退治したんやけど、死に際にそのバケモノに村自体が呪われて、それっきり年中冬になってしもうたんやって」 「ふうん……。でもそんなずっと冬の村に、なんで人が住み続けたりできたん?」 「離れて行った人もおったそうやで? でも村で工夫して生きる人らもおったんや。農業できんでも商いは出来る訳やしな。なんとかしたんやろ」 「ふうん……なんかたくましいね」 「お婆ちゃんとかずっと村で生きて来たから、冬しか知らんのやって」 そしてある夏の日、家にいたわたしのところに佐代子ちゃんが訪ねて来る。 「お婆ちゃん家にいったんちゃうの?」 「行った。でもすぐもんて来た」 「なんでぇ?」 「お婆ちゃん、死んだんやって」それからぐずぐずと目を擦り、佐代子ちゃんは泣き出してしまう。「村に夏が来たんや。それで、あんまり暑いけん、お婆ちゃん、体壊して死んでしもうた」 泣きじゃくる佐代子ちゃんをなだめながら話を聞く。 なんでも、その妖怪の呪いというのも永遠に効果を発揮する訳ではなく、唐突に長い冬が終わり、村には数百年ぶりの夏がやって来た。 しかし初めて体感する夏の気温は凶器であり、九十二歳のお年寄りである佐代子ちゃんの祖母は、初めての夏の気温に耐えきれず熱中症で亡くなってしまったらしい。 「それは残念やったね。ほんでも、長生きしたからこそ、人生で初めての夏を迎えられたんやろ? そこは良かったんちゃう? 夏には夏の良さがあるんやから、それを知らんまま人生終えてまうんはもったいないわ」 わたしは言う。 月下美人やヒマワリやアサガオの花。それにセミの鳴き声。何より、刺すような夏の日差しや気温そのものも、知らずに逝ってしまうのはあまりにも惜しいもののはずだ。 「そんなもんなんかなぁ」 わたしの言葉が慰みになったかどうかは分からないが、とにかく佐代子ちゃんは泣き止んでくれる。良かった。 でも年中冬だというその村に、一度くらいは行ってみたくもあったので、そこは残念だ。 37:太陽 もう随分と長い間太陽が昇るのを見ていない気がするが、僕はそれで良い。 朝日が昇ると苦しみの時間が始まる。非が落ちている間僕は安全で、自由でいられる。 昔からずっとそうだった。 外で人に会うのが嫌で、学校に行くのが嫌いで、家で一人で閉じこもっている間が一番落ち着いた。 僕は吃音症で、つっかえながらしか喋ることができず、そのことをからかわれてバカにされて、余計に喋るのが億劫になり、だから友達もできずに時間をただやり過ごしていた。 やがて淘汰は迫害へと変わり、迫害はどんどん深刻化して行った。 昼の時間、僕にはどこにも居場所はなかった。だから、夜が好きだった。 このままずっと夜が良い。 僕は夜の街を、月明かりの下を、今はどこまでも自由に歩き回っている。 誰に何を話す必要もなく、顔を合わせる必要もない。たまに人とすれ違っても、僕はいない者であるかのように扱われ、声をかけられることはない。 たまに、空が少しずつ白んで行くのを目撃することもあるが、そういう時は決まって僕は意識を失う。 そして高いところから落ちる夢を見る。 その夢では最初、マンションの十階に僕はいる。その通路の柵に手を添えて、力を籠め、身を乗り出す。そして確実に死ねるだけの高さを確認するようにしばし地上を拝み、恐怖を押し殺し、飛ぶ。 地面に身体が打ち付けられる感触と共に、僕は目を覚ます。 僕は夜の世界にいる。安全で自由で孤独な、夜の世界が。 あてもなくふらふらと歩き回り、人々とすれ違い、僕は彷徨い続ける。 もう何年、太陽が昇るのを見ていないだろう? 僕が今のような存在になってから、どのくらいが経過しただろう? 僕はこのまま永遠に彷徨い続けるのか、それとももっと別の存在になるのか、それは分からない。 願わくば、煙がやがて薄まって見えなくなるように、暗い暗い夜の街に溶けて消える日が来ることを、僕は祈る。 38:音楽 夜一人で部屋でくつろいでいると、決まって隣の部屋から歌が聞こえて来る。 鈴を鳴らすような少女の声で、瑞々しく清涼で、それでいてとても愛らしい声だ。 歌の内容は特に決まっていないが、たいていは誰もが知っているような童謡ばかりだ。カエルのうた、とおりゃんせ、かごめかごめ、犬のおまわりさん、猫ふんじゃった……。何度となく耳にした声なのに、いつまでも聞いていたくなるような上手な歌だ。 その歌がどこで歌われているのかが気になって、ある日の夜、僕は歌が聞こえて来るのを待って家を飛び出し、声の主を探しに行く。 耳を澄ませて歩いていると、家の隣のボロ家の方から声が聞こえて来ているのに気付く。確か、ここは人が住んでいなかったはずだが? 良く見れば窓が開いている。そこから音が漏れているらしい。僕は背伸びをして窓の淵に手をやると、中を覗き込んだ。 一本の紐が天井からぶら下がっていて、そこに髪の毛を括り付けられた少女の首が、涙を流しながら歌を歌っている。 その少女は首から下がなかった。ぶら下がった生首が泣きながら歌を歌っていた。僕が全身を震え上がらせていると、少女がこちらに気付いて、歌を停める。 「たすけて」 か細い声で、少女はそう言った。 「たすけて、おねがい、たすけて」 僕は恐ろしくなり、たまらず窓の淵から手を離した。 そのまま地面に尻餅を着き、しばし腰が砕けて動けなくなる。 それからほんの数秒、何かを待つかのような間があってから、少女は再び歌い始める。絶えず歌っていなければならないと定められているかのようだ。 あの少女はいったい何で、どうして歌を歌っていて、何から助けを求めているのだろう? 何も分からない。だがあの紐からぶら下げられた少女の生首に会いに、もう一度窓をよじ登る勇気は僕にはなかった。 39:不思議なノート 『このノートを拾った人へ。あなたの体験した不思議な体験、この世ならざる何かに遭遇した体験を、このノートに一つ記して下さい。記したら、すぐにこのノートをどこかへと捨ててください。書くべきものはあるはずです。そういう人が拾うように、このノートはできていますから』 最初のページにそんな風に書かれている黒い表紙のノートを街で拾いました。そうです。このノートです。 かつてわたしはこのノートを拾い、自分の体験を書き記した後、ふと捨てるのが惜しくなり手元へ置いておきました。中に書いてある他人の書き込みが興味深かったのもあるし、持っておくとどうなるのかも気になったからです。 そうです。このノートを拾うのは二回目なんです。一回目は興味を持って何回も読み返していました。最初の一人が小説調の書き方をしているので、後の人もだいたいそれを模倣しているようですね。 それらの書き込みは、いったい何なのか。そもそも、このノートとはいったいなんなのか? 多分、誰か変わった人が作った悪戯の産物だろうと思っていたんですが……しかしこのノートを持ち続けていたある日、不思議なことが起こり始めました。 体調がおかしくなり始めたんです。熱があったりだとか、ケガをしたりだとか、そういうのではありません。何かがわたしの背中にしがみ付いているみたいに身体が重くて、手足を動かすのが億劫になり、食べ物も喉を通らない。そんな状態が、日に日に悪化するようになったのです。しかし異常と判断できる程ではなかったので、特にノートを持っていることと結びつけることはなく、日々を過ごしていました。 ある日の深夜、布団に入っていたはずのわたしは、自分がパジャマのまま夜の街を歩いていることに気が付いてはっとしました。手には、この黒いノートが握られています。 自分には夢遊病や夜騒症の経験はなかったので、これには驚きました。とにかく、パジャマのままで外を歩いている訳にはいきませんし、家に戻らなければなりません。ノートを持ったまま、家の方へと歩き出した、その時でした。 「ちょっと待って。それは置いてってよ」 背後から声がかかりました。さっきまでその場にはいなかったはずの、信じられないくらい綺麗な顔をした、髪が長くてしかも真っ白な、着物を身に付けた十二歳くらいの女の子です。 「そんなもんずっと持っとるもんとちゃうよ。ちょっと書き込むだけなら良いお祓いになるけど、ずっと持っとったらもっと恐ろしいもんを招き寄せるで。ほら、早う返して」 鈴を鳴らすような声、というんでしょうか? 女の子は聞いたこともないような綺麗な声でそう言って、わたしに手を伸ばしました。白い蝋燭で出来たみたいなすべらかな手でした。さらに良く見れば彼女の目は赤く、ガラス玉が入っているみたいに澄んでいました。他人の形をしていましたが、人間というにはあまりにも作り物めいていたのです。 「やっぱりあかんもんが取り着いとるなあ」女の子はそう言ってわたしの肩に手を触れました。「これはあたしがなんとかしといたげる。せやからお姉ちゃんはそれ置いてお家帰るんやで? 分かったん?」 わたしが頷くと、女の子は優しく微笑みました。 その綺麗な表情を見詰めていると、赤い瞳に意識が吸い込まれるような心地がしました。そして気が遠くなり、わたしはいつの間にやら自室のベッドにいたのです。 夢じゃないかとも、思いました。とんでもなくリアルな夢を見たんじゃないかと。しかしいくら探しても部屋にはあったはずのノートはなく、また、前日までわたしを苦しめていた体調不良もなくなっていたのです。 それからしばらく、不思議なこととは無縁な生活をしていましたが、最近、再びこのノートを拾いました。 『このノートを拾った人へ。あなたの体験した不思議な体験、この世ならざる何かに遭遇した体験を、このノートに一つ記して下さい。記したら、すぐにこのノートをどこかへと捨ててください。書くべきものはあるはずです。そういう人が拾うように、このノートはできていますから』 書くべきものならあります。このノートと、あの白い女の子の話。 ですがこの書き込みを終えたら、前回とは違い、わたしはすぐにでもこのノートをどこかへ捨てるでしょう。 次からこのノートを拾うあなたも、必ずそうすることをお勧めします。あの白い女の子も、誰のこともでも必ず助けるとは限りません。それにわたしのように、自分の軽率な行動で誰かに尻拭いをさせるのは、決して良いことではありませんから。 40:百物語 人間の言葉には『言霊』が宿り、それが不思議な力を持つというのは、色んな人に論じられていることです。 百物語という話があります。暗い部屋で何人かが順番に怪談を語り合い、それが百に達すると、霊的なものを招き寄せ不思議なことが起きるという話です。 怪談を取り交わしている内に、人ならざるものが怪談を言い合う人たちの中に混ざるようになり、誰もがそのことに気付かず、百個目の物語を語り終えた後になってようやく霊が混ざっていたことに気付く……なんていうのが、この百物語の定番のパターンです。 これはつまり、怪談に込められた言霊に招き寄せられ、人ならざる者が百物語に参加して帰って行くということを意味します。このノートに明らかに生きた人間でない者が語り部の話があるのは、そうしたことなのかもしれません。 言霊というのが本当にあるのなら、霊的なものについて話すとき、その言葉には霊的な力が備わると考えることが出来ます。そして言霊というのは文章を紙に書くときにも発生しますから、霊的な話がびっしりと書き込まれたこのノートというのは、いったいどれだけの霊的な力に満ちているんでしょうね? 一つ前の書き込みを行った人にとりついていた『良くないもの』というのは、このノートの持つそうした力におびき寄せられた悪霊の類と考えられますが、だとすればその悪霊から人を救った『白い少女』は、いったい何者なんでしょうか? それはおそらく、このノートに存在を記された様々な異形達と同じく、人間には決して正体の分からないものなのでしょう。 ……ここまではただの思い付き。本題はここからです。 先ほど百物語が異形を呼び寄せるということについて話しましたが、実はこれ、ぼく自身も体験したことがあるんです。 先日、友人と怖い話を持ちより、暗い部屋の中で順番にそれを発表しあうという遊びをやりました。百物語です。 百物語を行うメンバーの中には、英子さんという女性がいました。エイコさんと読みます。この人はむさくるしい男ばかりのメンツの中の紅一点、大変な美人の女の人で、話す怪談も面白いのでこの人の番が来ると盛り上がったものですが……一つ奇妙な点がありました。この人の物語は常に、英子さん自身を主人公としたものだったんです。 おかしいですよね? 同じ他人がそう度々怪異に遭遇するというのは無理のある設定です。ですから、普通は、『友達が』とか『ある男が』とか、そういう風に話す場合が多いはずです。 とは言え、『友達』の数にも限りがありますし、『ある男が』とした場合、登場人物に別の男が出現した際呼び分けに困ります。ですので、結局は『A男』とか『A子』とか、そういう呼び方に落ち着くことになります。実際、怪談に慣れたぼくらはだいたいそうしていました。 でも英子さんだけはずっと自分が体験した話ばかり……。常に『これはわたしがおばあちゃんの家に行った時に』とか、『これはわたしが三年前に体験した話なんだけど』とか、そういう風に話を導入するんです。そして不思議なことに、彼女の話の中で英子さんは、美術部員だったりソフトボール部員だったり、東京に住んでいたり大阪に住んでいたり、公立校に通っていたり私立校に通っていたり、その身分や立場が毎回食い違います。まるでそう、英子さんという人が、この世に何人も存在しているかのように……。 皆さんお気づきのことかとは思いますが、この英子さん、この世の人ではありませんでした。百物語を終えた時、ぼく達はそのことに気付いたのです。 何故って、英子さんなんて人はその場にいなかったはずですし、ぼく達がそのことに気付いたころには、煙のように消えていなくなってしまっていたのですから。 ぼく達が行った百物語が招き寄せた霊的な存在、それが英子さんだった訳です。しかしこの英子さん、いったい何者だったんでしょうか? ぼくは、この英子さんこそが、ぼく達の怪談の中で様々な異形に遭遇する架空の人物、『A子』さんだったんじゃないかと思うんです。 ぼく達がいろんな怪談に登場させ、口にする『A子さん』という言霊が、やがて一時的な実態を得て百物語をするぼく達の前に現れたのだと。そして英子さんは『A子』としての様々な体験をぼく達に聞かせてくれたんじゃないかなと。そういう風に思うんですよね。 本当のことは分かりません。少し不思議で、不気味な体験でありながら、ぼくはしかし、良い体験をすることが出来たと考えています。英子さんについて考える時、今でも少し幸せな気持ちになるんです。 何故かって? それはもちろん、その英子さんというのがとっても綺麗な女の子だったから、です。 また会いたいと思ったらもう一度百物語をする必要があるんですが、残念ながら、仲間は乗ってくれないままです。 |
粘膜王女三世 2019年08月09日 00時00分14秒 公開 ■この作品の著作権は 粘膜王女三世 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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合計 | 10人 | 130点 |
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