模造の王 |
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――この国は寒いの。 見た目だけは豪奢な寝台の上で、母が口癖のようにそう言っていたことを、ミリは何かにつけて思い出す。事実、カルトレイスは寒かった――気温が氷の溶け出す温度を大きく上回ることはあまりなく、そのため、一年を通して氷雪が街路に見られるほどだ。 しかし、生まれた時からそのような環境に身を置いていたミリには、「寒い」という概念がどのような感覚なのか、長らく理解することができなかった。特別口にするほどのものではなかったのだ。だから母親の存命中に、彼女がその言葉の真意を掴むことは困難だったと言える。今は違う。 そうか。これが「寒い」なのか。 周りを固める従者達の手によって、まるで着せ替え人形のようにドレスをお仕着せられながら、この感覚が「寒い」であることを、ミリは漸く自覚する。もっともそれは気温に関する相対的な感覚としてではなく、寧ろ親しみすら覚えていた心境の再認識であったものの、その感情は図らずも、彼女の母親が抱いていたものと同種のものだった。 母が亡くなった今になって通じ合うというのも皮肉な話ではあったが、それでもミリは、唯一の肉親と胸中を共有しているのだという確信に、思わず口元を緩める。すらりと伸びた手足に着々と着付けが施されて行く過程に、アッシュブロンドの髪が淡々と編み込まれて行く作業の中に、彼女の心は最早存在しなかった。その心は時を遡り、かつての言葉から当時は理解することのできなかったニュアンスを抽出するという、極めて個人的で感傷的な作業の中にあった。 「寒い」を共有して「温かさ」を感じるという矛盾。 なんて馬鹿げた話だろう――ミリは自らの笑みに諧謔的な色が交じるのを自覚する。 「――王女様。そろそろお時間でございます」 と、いつの間にか傍に控えていた老執事の一言に、ミリは回想から引き戻された。 そうこう考えているうちに滞りなく着付けは完了し、従者達はすでに部屋の外へと姿を消している。目の前の姿見に、往時の母親を再現したかのような自分が映し出されている。……ミリは溜息交じりに振り返り、物思いに耽る時間を中断させたこの執事へ非難の視線を向けるが、老いた忠臣はいつものように、困ったような表情を浮かべるばかりである。 「『王女』はないだろうクローヴィス。今日からわたしは『女王』だ。成人していないとは言え、いつまでも子供と思って接されても困る」 「……失礼しました、女王様。何分、私にとっては王女様であった期間の方が長いもので」 クローヴィスと呼ばれた執事は、撫で付けた白髪の下で、柔和な笑みを形作る。ミリの心境からすればあまりにも安穏とした表情であることには違いなかったが、勝手知ったる従僕の微笑みを目にし、彼女の憂鬱が幾分和らげられたのもまた事実だった。 母様もこのような気持ちだったのだろうか。 だとすれば、当時から仕えていたであろうこの執事は、相当な狸であるに違いない。……このとぼけた仕草に、母様も幾度となく救われていたのだろうか。 「行くぞ」 照れ隠しにコートを翻し、つかつかと部屋の出口へと向かうミリの背中を、「はい」というゆっくりとした声が追従する。女王としての初めての正装は、思っていたよりもかなり動き辛く、歩く感覚すら覚束なかった。 扉を開けられ外へ出ると、廊下の左側を固めるように整列する兵士達の敬礼を尻目に、ミリは目的地へ向かって闊歩する。幼い頃から、母――先代女王――に連れられて何度も歩いた経路だったので、今更迷いようはなかった。ただ、そこを進んでいるのが今は執事と自分だけであるという事実が、非現実感という形で彼女の顔つきをしかつめらしくさせる。 敷き詰められた朱の毛氈。 頭の上で煌々と灯る照明。 壁に掲げられた武器の類。 そのどれもが記憶とは異なった厳めしい様相で、ミリの頭を混乱させる。今ここを歩いているのは本当にわたしなのだろうか? 本当のわたしは母様の寝台に寄りかかり、頭を撫でられながらうたた寝しているのではないだろうか? ……馬鹿らしい妄想だ、とミリは思う。分かっている、これは憂鬱から逃れるための現実逃避だ。本当にわたしは子供気分ではないのか? これから先、こんなことでやっていけるのか。 しかし。 「…………」 バルコニーへと続く扉の前で、ミリは立ち止まり、逡巡する。 ちらと周囲を窺うが、立ち並んでいる兵士達は皆無表情で、これから彼女がどうするべきか、無言で強制しているように感じられた。 緊張しているのではなかった。そこにあるのは息苦しさを伴う実感であり、すでに引き返すことはできないという絶望感だった。ミリはほんの僅かな期待をもって背後のクローヴィスを振り返るが、彼もまた、ここに至っては無言で見つめ返してくるだけである。表情から若干の悲しさは読み取れるものの、彼女の胸中を察して助け出そうとするほどの意志は感じられない。 「ふん」 だから。 ミリは笑う。 諦念と覚悟を声に滲ませて、笑う。 ――この国は寒いの。 脳裏を過ぎる母の言葉を噛み締めながら、ミリは一歩一歩、扉に向かって進んで行く。世界への入り口が自分ではない他の誰かの手によって開け放たれ、視線で促されるままにゆっくりとバルコニーへ歩み出る。 寒い。……寒い。 今なら分かる。母様も同じようなことを思っていたのだ。「冬」に閉ざされたこの国の中で、自分の未来も閉ざされていることを知っていたのだ。 張り出しへと出てきた彼女を、民衆の歓声が出迎える。 眼下の広場は、この小さな国のどこにこれほどの数があったのかと思わせるほどの人影で埋まっていた。ミリの目には殆ど全ての国民が集結しているようにすら感じられたし、実際、その予想はそれほど外れているものではなかった。彼らが巻き起こす喧噪は、すでに熱気を通り越しており、狂気と呼べる度合いのものだった。 気後れはない。 ただ、寒い。 寒くて寒くて――今にも凍えてしまいそうだ。 しかし、先程までミリを押し潰さんとしていた憂鬱は、目の前の光景を視界に収めると義務感へ取って代わる。彼女にしかできない役割を、今この場においては全うしようという、静かな覚悟へと変化する。 ミリは決然と腕を振るう。 先刻までの騒がしさが一転、水を打ったような静寂が訪れる。 声を張り上げるように、大きく口を開く。 凜とした声が辺りに響き渡る。 「先代女王の崩御に伴い、ここに即位を宣言する! 我が名は――」 模造の王 1 響き渡る悲鳴。 辺りを包む怒号。 それらから窺える感情の色に既視感を覚えたからか、あるいは単に音量の問題で頭が麻痺したようになっていたからか、一年前の継承式まで遡っていたミリの回想は突如として打ち切られた。我に返った彼女の視界に、鮮やかな血の色が飛び込んでくる。僅かに届いた飛沫が頬に、意匠の凝らされた外套に小さな印を形作る。 「お怪我はないですか、我が君。……あぁ。申し訳ありません、お召し物が」 振り下ろした剣を払いながら、顔に焦りを浮かべた青年が馬上のミリを振り返る。彼の足元では胴体を切り裂かれた三本足の獣が、踏み固められた雪の上に朱を投げ掛け、体躯を無惨に痙攣させているところだった。……事切れることもできずに悶える獣を一瞥し、ミリは微かに眉根を寄せる。 「早く止めを刺してやれ、バート。汚染獣とは言え、無駄に苦しませることはない」 「はっ。……仰せのままに」 言い終わるや否や、再び振り上げられた剣が獣の首を切断する。ミリはすんでのところで目を背けたが、それでも短い断末魔は鼓膜に残った。 バートと呼ばれた兵士は、怒りに満ちた声音を他の兵士達に向ける。 「もう一度ミリ様に獣を近付けてみろ! 次はお前達の首が飛ぶことになるぞ!」 ――堅苦しい男だ。 鬼の如き様相で部下を叱咤するバート――団長である――の声を耳にしながら、ミリは内心、自分が酷く冷めていることに気付く。 短く刈り込んだ髪に、端正な顔立ち。指揮能力の高さに加え、彼個人の実力も確かなものではあるのだが――殆ど信仰にも似た実直さで自らに仕えるこの男のことを、ミリはあまり好きになることができなかった。しかし今し方、危機から救われたことは事実である。にも関わらずそのような感情を抱いてしまった自分自身に対して、ミリは苦笑せざるを得なかった。……守られるのが当然だとでも思っているのか、わたしは。 すと視線を前方へ投げると、兵士達は未だ群れと交戦中である。頭数では上回っているものの、敵も死に物狂い、思うように排除が進んでいないというのが現状のようだった。何せ相手は飢えた獣である。その勢いたるや、こちらの士気とは比べようもない。 「民の避難はどうなっている?」 「八割ほど。後は負傷した者や年老いた者など、自由に身動きが取れない者を逃すだけでございます」 「それならお前も手を貸してやれ。役に立たぬわたしのお守りなど必要ない」 ミリの言葉に、バートは明らかな狼狽を見せる。 「役に立たぬなどということは……ミリ様は我々の力でございます。ましてやお守りなど、とんでもないことです。しかし相手は理性なき獣、私がここを離れ、殿下の身に万が一のことがあろうものなら――」 「……もういい」 それをお守りと言うんだ。 ミリは馬上に立ち上がると、目の前の兵士達に向かい声を上げる。 「民の避難を最優先せよ! これは防衛任務だ、逃げる獣は無視して構わん! 繰り返す、これは掃討任務ではない、あくまで防衛任務だ!」 鶴の一声だった。 それまで銘々に剣を振るっていた兵士達が、ミリの言葉で我に返ったように陣形を組み直す。敵を食い止める者、動けない民を逃がす者――目先の敵に惑わされることなく、予め定められていた役割へと立ち戻り、徐々に態勢を回復し始める。 そこから先の展開は単純な二部構成だった。即ち、前半は避難誘導とその護衛に専念する忍苦の時間、後半は一方的な排除の時間である。気掛かりを早々に潰した結果として、ミリ率いる屈強な兵士達は、純粋な戦闘に注力することができたのだった。……いくら獰猛な獣の群れと言えど、日頃から鍛錬を重ねてきた剣と真正面にやり合えば、相手になろうはずもなかった。 カルトレイスの国土は狭い。 宮殿を起点とした同心円状に広がっているのだが、先程まで戦いが繰り広げられていた「縁」から中心までの距離も、精々が歩いて半刻ほどのものである。そのため帰還する道すがら、ミリは宮殿の周りに寄り集まる石造りの建造物の数々を、毎度のように目にする。凍てついたそれらを見、まるで暖を取るために炉を取り囲んでいるようだ、と思う。 お馴染みになった感傷に浸っていると、眼下でバートが口を開いた。 「ミリ様。先程はお見事でございました」 「それは皮肉か?」 ミリは鼻白んだ様子の一瞥を向ける。「お前が指揮を執っていればとうに終わっていただろうに、要らぬ護衛などに成り下がるから苦戦したのだろう。……戦力にもならぬわたしが、何故毎度のように出向かなければならない」 「そのようなことはありません。我が君がいらっしゃらなければ、我々は烏合の衆でございます。我々が力を発揮できるのは、殿下の存在あってこそ」 それに、とバートは腕を広げて辺りを指し示す。 ――鞍に跨がるミリに向かい、市民達が銘々に感謝の言葉を投げ掛けている。中には積雪しているにも関わらず、路上に跪き祈るような体勢を取っている者も居た。返り血を浴びたミリの姿に顔面蒼白となっている者も居れば、感極まった様子で涙を流す者も散見される。先刻の戦闘は事実、あくまで防衛のためのものに過ぎなかったのだが――その光景はあたかも、主君の凱旋を出迎えるようだった。 バートの表情が陶酔に染まる。 「ミリ様自らが出向いてくださったという事実が、これ以上とない希望を国民に与えておいでなのです。何があろうと、ミリ様がいらっしゃるのなら安心できる、という心強さを。殿下不在のカルトレイスなど、私には想像することすら」 「もういい、やめろ」 苦虫を噛み潰したような表情で、ミリは遮る。 「……百歩譲って、わたしが出向く意味は認めよう。しかし、だからと言って、騎士団の要であるお前がわざわざ護衛につく理由にはならないだろう」 「自讃で恐縮ではありますが、護衛は最も腕の立つ剣士が務めることになっております。何せ、ミリ様の身に何かあろうものなら取り返しがつきませんので」 「…………」 「もし私では不足だと仰るのでしたら、他にも護衛を」 「過度だと言っているんだ」 喉元まで出掛かった言葉を、ミリは辛うじて呑み込んだ。 矛盾している。 この男は、万が一にもわたしが危険に晒されてはならないと言いながら、戦場には赴けと言っている。実際、今日も回避こそしたものの、危ない場面があったではないか。そのちぐはぐに気付いていないのだろうか? ……問題ではないのだろうな、とミリは思う。この男の中では、いや、民衆の中でさえ、わたしがそうすることはただの前提であり、自明の事柄に過ぎないのだ。だから問題が、「どのようにして危険を減ずるか」という一点に集まっている。詰まるところ彼らの中では、今の形が合理的だと考えられているのだろう。 と。 「……?」 ミリは不意に視線を感じ、手綱を引いて愛馬の歩みを止める。 注目されることそれ自体は彼女にとって珍しいことではなく、慣れ切った日常の一部でしかないとすら言えるのだが、それ故に、普段と違う種類の視線は全く奇異であり、否が応でも関心を惹いたのだった。 主が立ち止まったことに気付かず、前に進んでしまったバートは慌てた顔で振り返るが、彼女はそちらには反応することなく周囲を見渡す。人混みの中で目に入ったのは、小さな子供だった。まだ誰かしらによる庇護が必要な年齢の、赤い頬をした女の子である。見たところ、親らしき人間は近くに居ないようだった。 何とも言えぬ彼の表情にミリが戸惑っていると、バートが戻ってくる。 「ミリ様、どうかいたしましたか? お具合が悪いのであれば、誰かしらに医師を呼ばせますが――」 「いや、良い」 女の子はミリと視線が合っても、目を背ける素振りさえ見せない。決して敵対的な瞳ではなかったが、それはどこか心の隅に引っ掛かる佇まいだった。落ち着いていると言うべきか、悲しんでいると言うべきか、少なくとも周りの大人達とは対照的である。 何か言いたいのだろうか? 話しかけようかと考えるも、彼女との距離はそれなりに離れていたし、ミリにはその行為自体が何かのパフォーマンスを意味するように感じられた。周りに望まれているであろう行為。心優しい女王という行為。そんな考えが脳裏を過ぎると、同時に薄い嫌悪感が鎌首をもたげてきて、固く目を瞑る。次に目を開いた時、女の子が立ち去ってくれているようにと願いながら。 たっぷり十秒はそうしていただろうか。ミリが再び目を開けると、子供の姿は果たしてその場から消えていた。 宮殿に辿り着くと、俄に騒がしくなっていた。 通例ならば兵士達の敬礼で迎えられるところ、今日に限ってはそれもない。ミリ自身は別段気にしないのだが、バートは違うようで、慌ただしく正面広場を動き回る兵士の一人を問い質し始める。……ただしミリも、迎えの有無はともかくとして、この騒ぎを怪訝に思わない訳ではなかった。何があったのか――手近な者に事情を訪ねようとして、喧噪の中に慣れ親しんだ顔を見出す。 「クローヴィス。何の騒ぎだ?」 ミリは鞍から降りると、玄関付近に静かに佇む老執事へと歩み寄る。彼はやはり安穏とした表情で、「ミリ様、ご無事で何よりでございました」とゆっくり頭を下げた。 「賊が一人、邸内に忍び込みましたようで。前代未聞のことで皆慌てておりますが、すでに捕らえられておりますので、ご心配は要りません」 「忍び込んだ? 目的は何だ?」 「何ともはや。どうにも口を割らないようでして、見当もつきません」 「……ほう」 興味深い出来事だった。 クローヴィスの言う通り、女王の邸宅に侵入しようなど、前代未聞である。 反体制勢力に関しては前例がない訳ではなかったが、国民のおそらく九割九分が王女を信仰しているカルトレイスのこと、纏まった数で存在できないために抵抗の意味が殆どない。一人二人が声を上げようとも、水面下で弾圧されるのが関の山である。ミリも数少ない事例を耳にしてはいたが、その顛末は悲惨なものだった。 にも関わらず、とミリは思う。にも関わらず、宮殿に忍び込んだ人物――一体全体、どのような考えをもってそのような行為を成したのか。いや、成せたのか。 「その者は今どこに?」 ミリは気が付くと、興味をそのまま口に出していた。 クローヴィスは困ったような色を浮かべるも、主から見つめられると口を割る。 「地下牢かと思われますが、……何をお考えですか」 「会いに行く。興味が湧いた」 その言葉を聞いてしばし忠臣は逡巡していたが、ミリを良く知る彼のこと、やがて諦めたように溜息を一つ漏らすと「護衛は同行させてくださりますよう」と呟いた。それは今許可を出さなかったとしても、彼女なら早晩、単身で少年の元へ赴きかねないと考えたからであって、ミリは実際にそうするつもりであった。 宮殿地下の牢獄が使用されることは、殆どないと言っていい。と言うのもそこが、国政の側で表沙汰にしたくない囚人を収容する設備であり、女王の近くに位置するという性質上、余程でもない限り敬遠されるからである。ミリもその存在こそ知ってはいたが、在位中に使われるのはこれが初めてのことだった。 屈強な兵士を一人と老いたクローヴィスを引き連れ地下へと向かいながら、ミリは内心、原因の掴めない昂揚感のようなものを覚えていた。勿論そのような態度はおくびにも出さなかったものの、階段を下りて行く足取りも最近の彼女にしては軽い。 「殿下。お分かり頂いておりましたら恐縮ですが、」 「分かっている。奴の手が届く範囲には近付かん」 そんな気持ちも知らずに駆り出された兵士は「それならば結構なのですが、しかし」と当惑気味に受け答える。 「何故私なのです? 護衛であれば、団長の方が適任かと思われるのですが」 「……バートか」 段差を下りながら、ミリは天井を見やる。「あいつはこの件で忙しいだろう。ただの興味に付き合わせるには及ばんよ」 「はぁ」 「それともお前は、わたしのお守りなどでは不満か?」 「い、いえ! 不満どころか、大変光栄な次第で……」 へどもどしてしまった彼を不憫に思ってか、ミリの耳元でクローヴィスは「……あまり兵士を困らせませぬよう」と小声で窘めた。確かに少し苛めすぎたかも知れない――そう思い、ミリは「冗談だ」と軽く笑う。 階段の先は仄暗く、入り口近くのランタンが一つ吊されている以外にろくな灯りはなかった。そのため、左手に二つ並んでいる牢のうち、最奥の一つは暗闇に沈んでいて中まで見通すことができない。石組みの壁は静かに冷え切っており、こんな場所に監禁されたらそれだけで音を上げてしまうだろうな、とミリは思う。 侵入者は手前側の牢に囚われていた。 鉄格子から最も離れた壁に金具で拘束されており、頭を垂れたまま、三人が牢の前に立っても顔を上げようとはしない。すでに拷問を受けた様子で、一糸纏わぬ上半身には無数の傷が刻まれていた。そこでミリは「はて」と思う。 「面を上げろ」 今し方覚えた違和感の正体を確認するために、ミリは牢へと声を掛ける。こんな場所で少女の声が聞こえたことを胡乱に思ってか、怪訝そうに三人へと向けられた相貌は、果たしてミリと年頃の変わらぬ少年のものだった。 女王を捉えた視線が、驚きのあまり凍り付く。 「そう警戒するな、痛めつけにやって来た訳ではない。どうして貴様が宮殿に忍び込んだのか、単に興味が湧いただけ――」 そこで、ミリは一旦は開いた口を閉じた。 少年の表情が、見る見る憎悪に染まったからだった。 「――ミリ・カルトレイス」 「…………。その面を見る限り、目的はわたしだったようだな」 主を呼び捨てにされたことでか敵意を向けられたせいか、憤激した兵士が牢に詰め寄ろうとする気配を感じ、ミリは面倒臭そうに片手を挙げて制する。 「しかし、それならそれでますます分からんな……女王として恨まれるような心当たりはないが、個人的にも貴様の顔に見覚えはないのだが」 がちゃり、と拘束具が大きな音を立てる。 少年が激しく食ってかかったのだった。 流石に怯んだミリを守るように、クローヴィスが瞬時に前に出る。 「心当たりがないだと! 自分がしたことも覚えてないのか、お前! どの口がそんなふざけたことを!」 「賊が、何という口の利き方を」 「良い!」 いよいよ割って入った兵士に向かい、ミリは一喝する。その声は短い間ではあったが、狭い地下空間に響き渡り、そこに居る人間全ての動きを止めさせた。普段、演説や号令に用いられる声量が近くで炸裂したのだから、兵士はおろか、激昂していた少年でさえも気圧される。 木霊が静まった後、打って変わった静かな物腰でミリは切り出す。 「済まないが、やはりこれといった心当たりはないな。何かわたしに非があるのなら頭を下げても良いのだが――いや、それはまずいのか――そうだな、王として誠意は示そう。それで、わたしは何をした?」 「…………」 「居丈高な物言いは許せ。何せ、王と王女の生き方しか知らないものでな」 少年はミリの態度に若干気勢を削がれた風ではあったが、煮えたぎる憎悪は双眸に留めたまま、今にも噛み付きそうな低い声音を漏らす。その様は先刻、死に物狂いで襲い掛かってきた獣のそれを彷彿とさせた。 「お前が」 「わたしが?」 やがて少年は、殺意さえ籠められた唸り声を上げる。 「――お前が、親父を殺したんだろうが」 2 宮殿の一角には書庫が設えられており、国内随一の蔵書数を誇っているが、それと言うのも、カルトレイスでは紙が貴重なためである。 その大半は歴史書の類であり、写本の一冊にしても一般市民の手が届く価格ではない。手に取るのは学者の類が殆どで、それも王政側に認められた数少ない者に限り、期限付きの貸与を許されている程度である。よって蔵書を自由に閲覧できるのは事実上、女王であるミリのみに与えられた特権と言って良かった――彼女が自身の境遇に感謝していたとすれば、それは他ならぬこの権利に依るものが大半を占めよう。 母の死後、ろくな話し相手も居なかったミリにとって、心休まる時間は精々読書の場くらいしかなかったのだった。……そう言って良いのなら、カルトレイスにおいては二重の意味で唯一の趣味である。 ――載ってはいないか。 朝食を終えた席で、持ち出した書物に目を通しながら、ミリは溜息を吐いた。 蔵書の中には王政に不都合なものも少なからず含まれていたが、今、彼女が読み進めているのはそう言った種類に分けられるものの一つだった。しかし、自分の探している記述が一向に見当たらず、ミリは失望から長い髪を掻き上げる。彼女が本に対して失望を覚えるのは、これが殆ど初めてのことだった。 それでも粘り強く頁を捲っていると、開け放した扉の向こうから、出し抜けに慌ただしい音が聞こえてくる。誰かが駆けてくる足音と、入り口の辺りで押し問答する声。 「……来たか」 ミリは一瞬動きを止めると、目を伏せたまま本を閉じる。 思っていたより早かったな。いや、奴ならこれで通常運転なのか。……さて。 「ミリ様!」 息を切らしながら食堂に飛び込んできたのは、鎧姿のバートだった。鍛錬中に知らせを耳にし、慌てて駆けつけてきたところか、とミリは見当をつける。重い装備を纏ったまま走ってくるのだから、少なくとも尋常のことではない。 「朝から騒々しいな」 ミリは素知らぬ顔で本を除ける。「しかもなんだ、その姿は。お前は鎧で食堂に入れと教わったのか、バート?」 「も、申し訳ございません。しかし――」 バートは狼狽しながらも唾を飲み込み、続ける。 「あの賊を護衛に任ずるなど、どういうおつもりなのです!」 ※ 「――お前が、親父を殺したんだろうが」 少年の言葉に、今度はミリが凍り付く番だった。……殺した? わたしが? 彼女自身が口にした通り、ミリには恨まれる心当たりがない。それどころか、自分を殺してでも女王としての役割を果たしてきたつもりだったのだ。にも関わらず放たれた一言に、ミリは動揺し、一切の思考が纏まらなくなる。 「いい加減を抜かすな! ミリ様が民に危害を加える訳がなかろう! ……クローヴィス殿。この不埒者、これ以上は生かしておけません」 遂に抜刀した兵士を、ミリも今度は制止することができなかった。 何を考えればいいのか、自分が何を言うべきなのかも分からず、少年の射殺すような眼差しの前に立ち尽くす他にない。 兵士を宥めたのは老いた忠臣だった。抜き身になった剣の束に手をやると、ゆるゆると左右に首を振る。それでも憤激収まらぬ様子の兵士には構わず、クローヴィスは鉄格子の最前に立ち、囚われた少年と相対した。彼が矢面に立ったことで、兵士もそれ以上動くことができなくなる。 「それは、どのような意味ですかな」 老執事は口を開いた。 その口調は平生と変わらぬ穏やかさを含んでいたが、少年に投げ掛けられた視線は全く笑っておらず、静かな殺気さえ感じさせられるものだった。しかし少年は怯むどころか、真っ向からクローヴィスを睨み返す。 「言葉通りの意味だ」 「それはありませんな」 執事は言下に否定する。 「私はミリ様がお生まれになった時分から仕えておりますが、ミリ様が刀剣の類をお持ちになったことは一度もございません。失礼ながら」 クローヴィスはミリを見やる。「大の大人を御自ら手に掛けられるほどのお力は、ミリ様にはございません。……もう一度お訊ねしましょう。『それは、どのような意味ですかな』」 「…………」 騙っているなら、容赦はしない。 クローヴィスの眼光から意図を汲み取った少年は、それでも黙りこそすれ、視線を外そうとはしなかった。相変わらずの憎悪を瞳の中に宿し――だが一方のクローヴィスも目を逸らしはしなかった。 どれだけの時が経ったのか。 両者の睨み合いによって続いていた静寂は、やがて少年の側から破られる。 「ケント・ブラウアー。……心当たりがあるだろう、ジジイ」 クローヴィスの眉がピクリと動いた。 「お前が、お前達が殺した男の名だ。忘れたとは言わせない」 「……。成る程」 くるり、と老執事は主の方へ向き直る。 「ミリ様。大丈夫ですかな」 「あぁ……問題ない」 「それから貴方」 今度は兵士の方へ向き直る。「兵務に戻りなさい」 「な――クローヴィス殿。私はその狼藉者を」 「――戻れと言っている」 がしゃん。 騒々しい音が響く。 兵士が腰を抜かしたのだった。 クローヴィスが出口を指し示すと、兵士は無言で何度も頷きながら立ち上がり、這々の体でその場を後にする。その挙動はまるで、肉食獣に威嚇された小動物のそれだった。 しかし忠臣が再び主を振り返った時、その表情はいつもと変わらぬものだった。「ミリ様」呼び掛けられたミリははっとするが、すぐに気を取り直すと、「言ってくれ」とクローヴィスに先を促す。 王女の耳元で、執事は何事かを囁いた。 「……そう言うことか」 得心がいったようにミリは頷くと、決して明るくはない表情で少年を見据える。 「名を訊こう」 「ふん……これから殺す人間に、そんなもの訊いてどうする」 「殺す?」 ミリは「はは」と笑いかけるがそれも一瞬のこと、すぐに面白くもなさそうな表情で壁に視線を投げ、やがて少年に目を戻す。その間の感情の機微を読み取れたのは、この場においてクローヴィスただ一人だった。 「殺さんよ。これから不便だから訊いたまでだ」 「これから? 何を言っている?」 「貴様は」 ミリは告げる。「これからわたしに仕えてもらう」 ※ お覚悟と、お考えがあるのですね? 昨晩あの後、クローヴィスに投げ掛けられたその言葉を、ミリは頭の中で反芻する。考えならあるさ。覚悟は……どうだろうな。 目の前ではバートが捲し立てている。 「――確かに昨日、私で不足ならば他にも護衛を、とは申し上げましたが、何故よりにもよって賊などを! それでは本末転倒ではありませんか! あの者を殿下のお傍に置かれては一層危険が、」 「彼奴はわたしに会うために、宮殿に忍び込んだらしい」 反論を遮り、ミリは用意していた言葉を並べる。 「どうしても忠心を伝えたかったとのことでな。今時、気骨のある若者ではないか――それに、お前が騎士団長としての任に専念できぬことを、わたしが心苦しく思っていることは伝えていたろう?」 ミリは背後に控える老執事を見やる。「それに、こいつももう歳だ。丁度良いではないか。今のうちに護衛兼執事として、後任を選んでおくのも悪くはない」 「そ、そう言うことだとしましても! それならば尚、慎重な人選が必要では――!」 「わたしの目に間違いがあると言いたいのか?」 ぎろり、と険を含んだ視線を向けられ、バートはたじろぐ。主から睨み付けられたとあっては、さしもの彼も勢いを失ったようだった。 しかし、ミリはそこで語気を緩める。 「お前の言いたいことは分かる――万が一、あの少年がわたしに危害を加えるようなら、取り返しがつかないと言いたいのだろう。それはその通りだ。お前の言うことも一理ある。……だがわたしとて、一朝一夕で彼奴を信用するほどめでたくはないさ。彼奴の傍には、クローヴィスを常につけよう。いくら老いぼれとは言え、お前もこの男が後れを取る姿など想像できまい?」 今度はバートが老執事を見やる番だった。困ったように微笑む彼の姿を見て、バートはしばし考えを巡らせていたが、やがて観念したように口を開く。 「……確かに、クローヴィス殿、でしたら」 「だろう。そして、もし彼奴がわたしを害しようとしたなら、その時点で討ってしまえば良いだけのこと。人事は元通りだが、この国の敵は一人減る。何にせよ、こちらにとって悪いことは何もない」 ミリは表向き、真面目な顔を装ってはいたが、内心では苦笑する。――よくもまぁ、我ながら適当なことをペラペラと。 勢い込んでやって来たバートは、ミリの策を耳にして赤面する。 「し、失礼いたしました、ミリ様。私めでは、そこまで考えが及ばず」 「良い。今後も防衛の任に励め」 ミリは続ける。「お前のことは頼りにしている」 止めの一撃だった。 女王から思いがけぬ賛辞を与えられ、彼は一瞬固まった後に傅くと、「……勿体なきお言葉」と感極まった様子で呟いた。顔を伏せたままバートがその場を辞した後、ミリは緊張の糸が切れたのか、ふうっと安堵の溜息を吐く。 「――老いぼれで悪うございました」 と、背後から放たれた言葉にミリはぎょっと振り向き、ついで小さく苦笑する。クローヴィスの表情はいつもと変わらず、柔和なものだった。 「言葉の綾だろうに。しかし済まなかったな、爺や」 「いえ、老い先短いのは本当でございます。……しかしミリ様も、悪くなられました」 「言うな」 ミリは寂しげに笑う。今までは本心を隠すことこそあれ、配下に対して意図的な虚言を弄すことはなかった。まして騙す目的でそうしたことなど、一度もなかった。 しかし、忠心を伝えたかったから、などと。 ミリは内心、複雑な思いを抱く。――バートでなければ、使えぬ言い訳だったろうな。 二人が食堂から女王の居室へ戻ると、椅子の上から鋭い眼光がミリに注がれた。 少年のものである。 ミリは敵意の入り交じった眼差しを受けると、普段クローヴィスがそうするのを真似、困ったものだという表情を形作ってみせる。 「そう警戒せんでも、取って食いはせんよ。楽にするといい。その体勢では無理があるかも知れんが……クローヴィス」 「はい」 老執事は手に持っていた盆を机の上に置くと、少年を後ろ手に捕らえている拘束具を外し始める。その間も、穿つような視線は片時も離れることはなかった。 少年の口から低い声が漏れる。 「何を考えている」 「さて」 ミリは小首を傾げ、薄く笑った。 「慈愛に溢れる女王は、将来有望な若者が命を落とすのを惜しんだのかも知れんし、単なる気紛れで恩赦を授けてやろうと考えたのかも知れんな。まぁ、大穴で貴様に一目惚れしてしまったという線もあるが――」 話しながら、ミリは持ち歩いていた本を戸棚の上に置く。 小気味良い音を立てて、少年の拘束が外された。 その瞬間、無防備な女王目掛けて少年は飛び掛かる。いや、飛び掛かろうとした。 ぐるり、と少年の視界は一回転し、気付いた時には床の上に這いつくばる格好である。今し方解放されたはずの両腕が再び後ろ手に捻り上げられ、彼は化かされたような心持ちで身を捩るも、ろくに動くことすらままならない。 「――冗談はさておき、わたしの考えは言った通りだ。貴様はこれから、わたしに仕えてもらう。意に沿わないかも知れんが、受け入れてもらうぞ、少年」 そこでミリは、笑みを向ける。「とは言え、そこまで平伏す必要はないのだがな」 「殺してやる」 「やめておけ。貴様ではクローヴィスは出し抜けんよ。それに、今回はこいつだから良かったものの、他の兵士の前で同じことをしてみろ」 少年の前にしゃがみ込み、真剣な面持ちで続ける。 「今度こそ、八つ裂きにされるぞ」 「……恩でも売っているつもりか?」 ミリはその言葉には応えず、黙って立ち上がると、少年から距離を取る。そうしている間にも、クローヴィスは彼の左足に縄の一方を巻き付け、もう一方を部屋の柱に括り付けていた。 腰掛け、部屋の主人は老執事が持ってきた食事を指し示す。 「まぁ食べろ。いくら何でも、飲まず食わずでは持たんぞ。この先、わたしも貴様も忙しくなるのだからな」 再び解放された少年は体を起こすと、用意された食事を見下ろし、ついでミリへと視線を戻す。「なに、毒など盛っていない」という言葉は意にも介さない風で、そのまま怪訝と警戒の入り交じった声音を向ける。 「忙しくなるだって? 何の話をしているんだ、お前」 「いい加減覚えて欲しいな。……わたしは言葉通りのことしか言わない」 「それを信用しろとでも言うのか」 「そう言ったか?」 盆の上からティーカップの一つを手に取ると、ミリは口をつける。「覚えろ、と言っただけだ。ほら……何も入ってはいない」 「…………」 渋々ながらも少年が漸く椅子に腰を下ろすと、ミリは満足げに頷いた。しかし食事には手をつけない様子を見て、「後で知らんぞ」と苦笑する。 「貴様には、わたしの公務に付き合ってもらう」 仕方なく、ミリは切り出した。 「勿論、クローヴィスも同行するから抵抗は無意味だが、貴様にもそれほど悪い話ではないだろう。一応はわたしの背後を取る機会がある訳だし、その目でわたしの仕事ぶりを見て、これからどうするかという判断もできる」 「はっ――何かと思えば、おれを懐柔するつもりか」 棘のある言葉を放った少年に対し、ミリは「小僧一人を手懐けて何になる」と冷めた視線を送る。少年は怒りから立ち上がろうとするも、背後から寒気とも圧力とも知れない気配を感じ、黙ってその場に座り直した。 「……いいだろう」 有りっ丈の敵意が少年の瞳に宿る。 「どういう気なのか知らないが、おれを生かしたこと、必ず後悔させてやる」 「そうか」 ミリは腰を上げる。「なら行くぞ。……貴様も精々、後悔せんようにな」 3 父は何かと戦っていたのだと、ブラウアー少年は記憶している。 それは具体的な形姿を持った敵ではなく、当時幼かった彼が理解するには曖昧な概念であったが、「見えない敵」と戦っているらしき父親の姿は輝いて見えたし、子供心に憧れてすら居た。「見えない敵」が所謂「体制」と呼ばれているものであることは、後になって知った。 活動のため一家の暮らし向きは悪く、母親は良人へ徐々に否定的になって行ったが、それでもブラウアー少年は父親に対する尊敬の念を崩すことはなかった。ケント・ブラウアーは人格者であると言えたし、少年は、そんな父のことだから、いつか「体制」にも打ち勝つに違いないと思っていたのだった。 そんな翌る日のことである。 父親が、他殺体となって発見された。 誇りに思っていた父親の突然の死に際し、当時十五であった少年にはしかし、嘆き悲しむ暇も与えられなかった。良人の悲劇を受け、母親が床に伏せってしまったからである。 一家の働き手は少年以外に居なくなったが、父親が「反体制派」であったという理由でろくな勤め口ももらえず、糊口を凌ぐのがやっとだった生活の中――母親も死んだ。衰弱死ではあったものの、少年からすれば殺されたも同然だった。 そんな母が今際の際、少年に言ったのである。 ――お父さんは、女王に殺されたの。 勿論、今となっては少年も、女王が直接父親に手を下したのだとは考えていない。それは体制側による暗殺であって、間接的な殺害であったと受け取っている。だが、それでも女王が父の死における原因であったことには何ら変わりなく、少年は胸のうちで憎悪の炎を育てて行ったのだった。 そして一年前――新たな女王の即位式。 『先代女王の崩御に伴い、ここに即位を宣言する! 我が名は――』 あいつだ。 喧噪の中でミリを見上げ、ブラウアー少年は思う。……あいつが、親父を殺した。 父が死んだ時期から考えれば、即位前のミリ・カルトレイスが命令を下すとは考え辛く、憎むべき対象があるとすればそれは先代女王であると、少年も理解はしていた。だが、「見えない敵」がミリという「見える敵」へと具体的な形を帯びた瞬間、彼の中の憎悪もまた、具体的な形を持ったのだった。 「諸君の苦しみは、このわたしが引き受けよう――」 ……あの日のことを、おれは忘れない。 「だから代わりに、諸君の力を貸して欲しい――」 こいつにも、決して忘れさせてなるものか。少年はそう思う。 だからこそ、ミリの声を耳にしながら、少年は混乱する。広場からバルコニーを見上げていたはずの自分が、いつの間にかミリの背後に立っていたからだ。 今、置かれている状況の異様さもさることながら、そこに時間の溶解という幻惑的な感覚も加わり、眩んだ少年は一歩、横にふらつく。するとその腕を、クローヴィスと呼ばれていた老執事に支えられた。「大丈夫ですかな」穏やかな声が掛かるが、少年は幻想ごと振り解くかのように、その手を払う。 「……女王様は一体、何が目的だ」 立ち直った少年は、クローヴィスを睨み付けた。 しかし老いた側近は、柔和に微笑むだけである。 「ミリ様のお考えは、この私では知り及びませんな」 「狸め」 吐き捨てるように呟くと、ミリの背中へ視線を戻す。 それだけで憎悪が煮えたぎるのを感じたが、先程の結果を見る限り、老執事の前で彼女に襲い掛かっても意味がないことは分かっていた。何せ、一体自分が何をされたのか未だに掴めずに居るほどである。どこかで機会があるはずだ、と自分に言い聞かせ、勝手に動き出そうとする体を抑え込む。目を瞑り、震える息をゆっくりと吐き出す。……再び目を開けた時、少年にはミリの演説へ耳を傾けるだけの余裕が辛うじて生まれていた。 「――諸君とわたしが力を合わせれば、このカルトレイスをより良いものにできるだろう。この土地で生まれ育つ未来の子や孫、そしてその先の世代までもが恒久の繁栄に与れるだろう。……そのための種子は今! まさにこの時に撒かれつつある! 決して努力を怠るな! 訪れる苦難に膝を折るな! 我々が希う平和への道は――」 歯の浮くような台詞だ、と少年は思う。 ――何が繁栄の種子だ。何が平和への道だ。綺麗事で適当に団結させておいて、皆にはあくせく働かせておいて、最後には実だけ自分が掠め取るつもりなんだろう。 こんなものを見せて、おれに何をさせたい。感化されるとでも思っているのか。 「随分とお気に召さないご様子で」 クローヴィスの言葉を、少年は「当たり前だ」と嘲笑う。 「聞き心地のいい言葉ばかり並べても、結局は『わたしのために働け』ってことだろう。国民を都合良く利用しておいて、自分は高みの見物か」 「そうですかな。……私はそうは思いませんが」 「どういう意味だ」 「ミリ様と同じでございますよ」 執事はおどけるように眉を吊り上げる。「私も言葉通りのことしか申しません」 ……ふざけているのか。 少年は腹立ち紛れに抵抗を考えるが、受け流されるのが目に見えていたため、仕方なく視線をミリに戻す。その背中から、何らかの意図を汲み取ることはできなかった。彼女が何をしたいのか、彼には読むことができない。 考えろ。 だから、少年は意識を巡らせる。 おれを付き合わせるメリットは何だ? 慈愛に満ちた女王という演出? ……なくはないが、それは要らないリスクを背負ってまですることなのか。不安分子への見せしめ? ……その割には中途半端だ。恐怖を煽ろうと言うのなら、とっとと公開処刑にでもすればいいはず。気紛れ? ……この結論に至るのは早すぎる。和解? それとも征服欲? まさか、本当に懐柔できるとでも考えているのか? ……駄目だ、どれを取るにも材料が足りない。 やがて演説が終わったらしく、辺りは万雷の拍手に包まれた。そこで思考の無駄を悟った少年は考えるのを止し、意識を切り替える。 歓声を背景に女王が歩いてくる。 その顔には不敵な笑みが浮かんでいた。 「どうだ。……わたしの考えは読めたのか?」 見透かされている。 少年はその場に立ち尽くし、拳を固く握り締める。一方のミリはさっさとその脇を通り過ぎて入り口へ向かったが、中に入る直前で振り返り、「何をぼさっとしている」と動かない少年へ声を掛けた。 雪道に数え切れない足音が鳴る。 王女一行が次に向かったのは、カルトレイス市中だった。 ミリは馬に跨がり、少年はクローヴィスに付き添われる――もとい、監視される――格好での往訪である。しかし、流石にクローヴィス一人で監視と護衛を両立することは難しいと見え、他に数人の兵士達が三人(と一頭)の周囲を取り囲む形となっていた。先日の防衛任務ほどではないが、それなりの大所帯である。 「…………」 少年は同行しながら、市民からは勿論、護衛兵からも時折好奇の眼差しを送られていたものの、どちらに対してもそれほどの興味は抱かなかった。ミリが配下に自分のことをどう伝えているか、という点を除けば、寧ろ彼の関心を惹いたのは、自分に対する待遇とミリ自身に対する待遇だったからである。 ……人目におれの拘束を晒すつもりはないらしい。 居室でこそ手首を板で固定されていた少年だったが、女王は演説の際も今回も、外では改めて彼を拘束する気はないようだった。彼はそこから推測を進める。……見せしめの可能性は薄くなった。と言うより、おれを罪人としては見せつけたくないのか。 「罪人を引き連れる/引き回す女王」という印象を与えるのは避けたい? 自分はあくまで清廉なイメージを保ったまま支配を続けたい? ……説得力があるように思えるが、それなら最初からおれを連れなければいいだけの話だ。ならどういうつもりで――そう考え続ける彼に向かい、馬上のミリが声を掛ける。 「どうした、難しい顔をして。わたしの仕事ぶりは見なくてもいいのか?」 「見て何になる」 少年は皮肉交じりに返した。「要するに市民のご機嫌取りだろう」 「ふむ、ご機嫌取りか。……目の付け所は悪くないが、もう少し声を潜めろ。護衛に聞き咎められた日には、命の保証はできんぞ」 「してもらいたいと誰が言った」 少年は強気に応じるが、彼とて無駄に命を捨てる気はなかった。 面倒だな――と周りには聞こえないよう声を抑え、続ける。 「いい気なものだな。自分一人だけ馬に乗って、市中遊覧か。他の人間には歩かせておいて、自分は楽をしたいのか。ここまで来ると恐れ入るよ、お姫様」 彼としては、例の調子で受け流されるだろう、と思って発した言葉だった。 しかし、なかなかミリからの反応がない。 怪訝に思った少年が馬上を見ると、目に入るのはきょとんとした顔の女王である。 「……何だ、事実だろう。それとも何か反論でもあるのか?」 「お姫様」 「は?」 「ふっ、くく」 ――堰が切れたように、ミリは大笑した。 それを切っ掛けとして、周囲の視線が一斉に女王へ向かう。一体何が可笑しかったのか分からず呆気に取られる少年に対し、ミリは息も絶え絶えな様子で、 「ははは――そうかそうか、わたしは『お姫様』なのか。これは知らなかった――はは――生まれてこの方、一度もそう呼ばれたことはなかったが――貴様の目には、くく、わたしは『お姫様』に見えるのだな? これはいい――」 少年は失言を悟り、自分の頬が火照るのを感じる。 無意識から出てしまった言葉だった。 事実、少女故の可憐というものがあるならば、彼の目から見ても、ミリは十二分にそれを備えているように思われたし、尊大とも取れる口調や振る舞いは、そこへ同時に、大人びた知性を付け加えているようですらあったのである。そういったミリに対する一連の印象が、意識的ではない連想によって、知らず少年の口から漏れてしまったのだった。……揶揄するつもりで発したはずが、少年は酷く後悔する。 「いいか、クローヴィス――これからはわたしを『姫様』と呼ぶのだぞ? ははは――」 「承知いたしました、姫様」 「ははははは!」 真顔で応じる老執事に対し、ミリはまたしても腹を抱える。少年は面白くなかったが、注意が集まってしまったこの状況では、下手な言葉を紡ぐこともできない。 その後の「遊覧」中もミリは上機嫌だった。そんな女王が珍しいのか、声を掛けられる市民は皆おっかなびっくりで、「何があったのか」とお互いに顔を見合わせる始末である。そのお陰で、本来ならば「あれは誰だ」と受け取られかねない少年の随伴に対しても、道行く人々の興味は見事に逸れていた。計算してやっているのか単に笑い上戸なのか――恥を悟られぬよう途中までは分析していた少年も、その内に馬鹿らしくなって気にするのを止める。 それだから、ミリの変化にすぐには気付なかったのだった。ことの始終を見届けるつもりであれば、それが異変に近いものであることは、少年にも察せられたはずだった――つまり女王が、僅かに目を見開いて固まったのである。馬も止めると、地面に降り立った女王はどこかへ歩いて行く。彼女がすぐ傍を通り過ぎたことでそれに気付いた少年は、今度は何だ、と投げ遣りに近い感情で視線を遣る。 その先に居たのは、小さな子供だった。 まだ誰かしらによる庇護が必要な年齢の、赤い頬をした女の子である。見たところ、親らしき人間は近くに居ないようだった。 ミリはその眼前まで歩み寄ると、子供の視線の高さまでしゃがみ込む。 「昨日もわたしを見ていたな。どうした? 何か言いたいことでもあるのか?」 この前も? 少年はその言葉で、漸くミリの行動へ違和感を覚えた。……この前も何も、女王がやって来れば皆その都度視線を注ぐだろうに、あの子供に何か特別、興味を惹かれるところがあったのか? 上機嫌だから、という理由で済ませるつもりは少年になかった。ミリの声音にいつもの冷静さと、少しばかりの緊張を感じ取っていたからだ。 女王に微笑みかけられた女の子はびっくりしている様子だったが、しばらくの間「あの」「その」と口をもごもごさせた後、背中に隠していた手を思い切った風に彼女に差し出す。それを見て目を丸くするミリに向かい、女の子はぱくぱくと口を動かした。 「おうちのうらに、咲いてました。……きれいだから、ありがとうございます、って、女王様にあげようと思って。……」 女の子が手にしていたのは、一輪の花だった。 カルトレイスにおいて、自然に花が咲くことは珍しい。日照時間の短さもさることながら、常に氷雪で覆われた地面では、芽を出すことすら叶わないからだ。 そんな珍しいもの、自分だって手元に置いておきたいだろうに、まず女王に捧げようと考える……何とも喜ばしい光景だ、と思うことは少年にはできなかった。彼は言わずもがな、女の子のことを知らない。女の子はまず自分の母親にあげようとしたのかも知れなかったし、その母親が「女王様にあげなさい」とでも言ったのかも知れない。彼女の意志であるという証拠はどこにもない。しかしそれでも、「大切なものは女王に捧げる」という精神が幼い子供にすら根付いているという考えに、少年は言葉にできない感情を覚えたのだった。 何だ、これは。 背筋に悪寒が走る。おれは大袈裟に考えているのだろうか。 「……そうか。ありがとう、大切にしよう」 ややあって、ミリ・カルトレイスはそう言うと、女の子の頭を優しく撫でた。女王に触れられた女の子は赤い顔をさらに真っ赤に染めると、逃げるようにその場を立ち去って行く。 しかし、やがて少年の方へ戻ってきたミリの佇まいからは、今までの上機嫌が嘘のように、跡形もなく消え失せていた。その表情には、自分が贈り物をされるのはさも当然のことであるとでも言いたげに、微塵の嬉しさも浮かんでいなかった。少なくとも少年には、そのように感じられた。 だから、皮肉のつもりで彼は言う。 「随分と慕われているじゃないか」 ――瞬間、ミリは見たこともない怒りの色を彼に向けた。 それは少年の前で、彼女が初めて露わにした強い感情だった。 てっきり、今回こそ受け流されるだろうと思っていた少年はまたしても面喰らったが、彼としてもこんなところで引き下がる訳には行かず、睨み合う格好となる。 ……何が気に障った、女王。 「殺されたいのか」 「お望みならな」 二人はしばらくそうしていたが、やがてミリの方が諦めたように力を抜く。 「もういい、行くぞ」 建造物が姿を減らす。 ちらちらと舞う雪の中、代わりに畜舎が目立ち始めた。 「縁」に向かっているのだろう、と少年は思う。 あれからミリとは、言葉を交わしていなかった。 そのためどこへ向かっているのか、何をするつもりなのかは、分からない。 ただ仮に、女王の機嫌を損ねていなくとも、少年は何も訊ねられなかったろう。それほど一行の間には、異様な雰囲気が漂っていた。 そうと言えるなら、静謐すら感じられる道中である。 人影は疎らになり、時折見かけても跪く姿ばかりだ。 どこへ行くつもりだ? 少年が考えようにも、目に入る光景には情報があまりに少なく、今までのような足掛かりさえ与えてはくれない。 雪の鳴る音。 広がる白。 やがてそれだけになる。 少年が肩越しに振り返ると、カルトレイスの全景が目に入るようだった。勿論、完全に視界へ収められるほどではなかったが、それでも大部分は見ることができた。 閉じ込められた国。 少年は、そんな印象を受ける。――おれ達はあんな小さな国の中に、生まれた時から押し込められていたのか。 しかし、このまま歩いて行ってしまっては。 焦りを覚えた少年は周りを盗み見るが、誰一人として表情を動かしてはいない。 どういうつもりだ。いい加減戻らなくては――少年がそう考えた時、ミリが足を止める。 愛馬から降り、一行を振り返る。 「ここで良い。これより先は、わたし以外の何人たりとも進むことを許さぬ。……クローヴィス、リントを任せるぞ」 「はい」 主の命を受けたクローヴィスが、手綱を受け取る。 ミリはそのまま、雪原の最中を歩いて行った。 おい。 少年は混乱する。それ以上進んだら、間違いなく汚染域に――。 「……ご心配ですか」 少年にしか聞こえぬよう、不意にクローヴィスが囁く。少年がはっとして顔を向けると、女王を見送る老執事の顔には哀しみが現れていた。 「おれが? しなければいけないのはお前達だろう。なんでこのまま進むことを許す」 「役割、ですからな」 同じく声を潜めて返した少年に対し、執事は淡々と答える。 「私は見たこともございませんが、あの先には神殿があるそうで。カルトレイス王は代々、そこで国の繁栄を祈り続けているのです」 「は――?」 何だ、その馬鹿げた風習は? 仮にそんなものがあるとして、そこまで辿り着く前に汚染獣にでも襲われたらどうするんだ? そうでなくとも、汚染にやられてしまったら元も子もないじゃないか。第一、そんな「祈り」なんかにどれほどの意味が――疑問渦巻く少年に向かい、クローヴィスはゆるゆると首を振る。 「決められていることでございます」 少年が周りに目を向けると、他の兵士達は皆例外なくその場に跪いており、表情を見て取ることはできない。この場に立っているのは、少年と老執事の二人だけだった。 信じているのか? 唖然とする。 まさか本当に、そんな「祈り」とやらに効果があるとでも? 少年は叫び出したくなった。 何か仕掛けがあるのだろう、見えないところに護衛が控えているのだろう。そう考えようとしても、目の前の雪原は白く広がるばかりで、隠れる場所など見当たらない。……これが「公務」だって? どれだけの時間が経っただろうか。 やがて遠くの方から、ミリが歩き戻ってくる。 一行が何もない雪原を引き返し、再び辺りが賑やかさを取り戻し始めた頃、ミリは漸く、少年に向けて口を開いた。 「どうだった」 「どう、だって?」 「だから、わたしの仕事に付き合って、どう思ったと訊いている」 女王の問いに対して、少年は「ふん」と鼻を鳴らす。 「仕事だと? ……馬鹿馬鹿しい。あれのどこが仕事だ」 内容のない演説。 市民のご機嫌取り。 意味のない祈り。 そのどれもが、少年の目には具体的な形のない、様式を重んじているだけの下らないものに映ったのだった。体面は取り繕っていても、実質はない仕事。それらは少年の予想とは些か異なってはいたものの、彼が抱く「女王」のイメージから殊更乖離しているものではなかった。 しかし棘のある少年の言葉に、何故かミリは満足げに頷く。 「そうだろうな、あんなものは仕事とは言えない。……だが必要とされている。この意味が分かるか、少年?」 「自分がこの国に欠かせない存在だとでも言いたいのか。それこそ馬鹿馬鹿しい」 「そうでもないさ――わたしが国に欠かせないと言うのなら、それはこの国そのものがわたしであることと同義だ。わたしの居ないカルトレイスは最早カルトレイスではなく、名前も持たない他の何かに過ぎないだろう」 「はっ……その理屈で言うなら、国のないお前も名前のない誰かだろう。いや、それどころか、女王じゃないお前は誰でもない」 「ほう、言ってくれるな。付き添い風情が」 そう毒づきながらもミリの表情は崩れるどころか、微かに笑みを湛えているようですらあった。少年は小さく舌を打つ。おれの言葉など歯牙にも掛けないという訳か――彼はどうせ聞いているのだろうと傍を歩くクローヴィスを振り返るが、そちらもまた、表情に特別の変化は見られなかった。 少年が苛々した気分で歩いていると、目の前に宮殿が見えてくる。どうやら少年が忍び込んでことで警備体制が強化されたらしく、衛兵と思われる人影が邸の内外を問わず増員されているようだった。 そんな無数の影の中でも、一際目立つ一団が一行を出迎えた。 その先頭で傅く人物を一瞥し、ミリは呆れたような溜息を吐いた。 「護衛に使っていた時間を、今度は何に浪費しているんだ――バート」 「ご無事で何よりです」 端正な顔立ちをした男が、ミリの言葉に頭を上げる。「恐れ入りながら一同、殿下の御身上を案じておりました」 男の言葉を受けて、ミリは渋面を作る。 「案じられるくらいなら、いい加減止めにしたいものだがな。顔見せも祈祷も、全て邸内で事足りるだろうに」 「そのような訳には参りません。皆、ミリ様のご来訪を心待ちにしているのですから」 「……行くぞ、クローヴィス」 これ以上の問答は時間の無駄だとでも言いたげに、ミリは老執事に合図して屋内へ入って行った。彼に促される形で、少年もその後に着いて行く。 と、宮殿に足を踏み入れる直前。 少年は視線を感じ、振り返る。 見ると、バートと呼ばれていた男が自分を見据えていたのだった。その表情は少年を敵視するようでも、値踏みするようでもあったが、少なくとも明らかな警告は受け取ることができた。――ミリ様に少しでも無礼を働けば、分かっているだろうな。 ふん。 少年は踵を返すと、そのままクローヴィスと共に敷居を跨ぐ。とうに分かり切ってはいたが、「命の保証はない」という言葉も、成る程脅しではないらしい――あの男の前では慎重に行動するべきか。 広い玄関ホールに入り、階段を上る。 先導されて左手に折れると、絨毯の敷き詰められた廊下を真っ直ぐ進む。途中、使用人と思われる人々がクローヴィスに頭を下げているのが見えた。壁に飾られた刀剣がそこここで光っており、「これは使えるんじゃないだろうか」と少年は思ったが、そこは老執事に機先を制される。 「それは模造品ですよ。重さはありますが、刃は入っていません」 「……聞いていない」 やはり、この狸を出し抜くのはどうにも無理か、と少年は心の中で悪態を吐く。武器があればあるいは、と考えたのだったが、鉄の棒ではクローヴィスを相手にできる自信はなかった。寧ろ重荷になるのが関の山で、それ以前に武器を手に取る余裕すら与えられないだろう、と少年は痛感する。 「お前は一体何なんだ」 あまりに隙のない老人に向かい、少年は疎ましげに訊ねた。 クローヴィスは掴み所のない声音ではぐらかす。 「ただの執事でございますよ。先代から女王様に仕えております」 「ここまで厄介な執事が居てたまるか……」 実際、少年にとって最も大きな障害はこの執事と言って良かった。 「仕事」の最中、少年は幾度もミリの隙を狙ってはいたのだが、そのいずれもが彼によって阻まれていたのだった。それも、ろくな行動に移す前に、悉く。彼さえ居なければ、少年は何度もミリに襲い掛かっていただろう。 「ミリ様のご希望に添うことが、私のお役目ですからな」 素知らぬ顔で、執事は微笑む。……駄目だ、何か別の手段を考えなければ。 居室に辿り着くと、少年に再び手枷が掛けられた。足こそ縛られなかったが、代わりに今朝と同様の形で柱と繋がれる。縄もその結び目も固く、手が使えない状況下では外すことはできそうになかった。なら口で――と少年が策を練ろうとしたところ、またしても「毒が染み込ませてありますので、ご注意ください」と老執事に出鼻を挫かれ、沈黙する。 さて、と窓際に腰掛けたミリが足を組む。 その背後には、すでに夕暮れが迫っていた。 「今日の外出はこんなところだ。初日にしてはなかなか歩き通しだったが、どうだ、そろそろ空腹が耐え難いのではないか?」 勝手に決めつけるな――と言おうとして、少年の腹がぐう、と鳴る。 顔を歪めた少年にミリはくすくすと笑うと、クローヴィスに小さく合図を送った。彼が出て行ったことで、少年は初めて、ミリと二人きりの機会を得る。 僅かな音と共に扉が閉まると、少年は口を開いた。 「一体何を企んでいる」 「企む? 何も企んでなど居ないさ。わたしは貴様に見て欲しいだけだ――このカルトレイスをな。それでどうするか、後は貴様次第だ」 「女王様が必要とされてる現状を見せつけて、『だから刃向かうな、従え』とでも言いたいのか? ふん、結局懐柔じゃないのか」 「……分からん奴だな。言っただろう、小僧一人を懐柔して何になる」 ミリは呆れたように続ける。「それとも貴様、わたしに手懐けられたいのか?」 少年は鼻で笑うが、そこはしかし、ミリの言う通りであると考えていた。懐柔する、手懐ける。言い方が何であれ、自分の女王に対する態度を改めさせることに、そこまでのメリットがあるとは思われない。改めたところで、何事もなく解放できるというものではないだろう。表面上は従っておいて、後でまた命を狙いに来るリスクすらある。 それなら結局、遅かれ早かれ、彼は殺される運命にあるはずだった。そうでなくとも、一生牢の中に閉じ込められ、二度と日の目を見られない程度の覚悟はしておかなくてはならなかった。……それなのにそうはされず、自分が無駄に連れ回されている現状は、少年にとっては不可解以外の何事でもない。 推測を口に出して行く。 「自分の敵を征服したい」 「それなら無碍に扱っているだろうな」 「和解して、自分の手足にしたい」 「手足が多すぎるのが困りものでな……不本意だが」 「本当におれに一目惚れした」 「あると思うか?」 「ないな」 少年の言葉を聞きながら、ミリは徐々に機嫌を良くしている風だった。それが何故なのか、彼には全く分からない。彼女の意図も心境も、少年の立場からでは、何一つ分からない。 そうこうしているうちに、「失礼いたします」とクローヴィスが戻って来た。その手には二人分の夕食が盆の上に乗せられている。 ミリは窓際から離れると、ふわりと椅子に腰掛ける。 「まぁ食え、腹が減っては戦はできんぞ。意地を張って頭が働く訳でもなかろう」 少年は施しなど受けたくはなかったが、本音を言えば、空腹は限界に達しようとしていた。元々宮殿に忍び込む前から、ろくな食事も摂っていなかったのだった。 観念すると少年も席につき、夕食に手をつける。……自分に合わせているのか、ミリの食事もメニューに変わりはなく、お世辞にも豪勢と呼べるものではない。それがまたしても彼の不可解を誘った。 どういうつもりだ。 目の前の少女を睨み付ける。 しかし、彼女は意に介する風もない。 少年は仕方なく、すでに何度も繰り返したその問いを、再び脳裏に浮かべる。答えは出ないと分かっていても、そうせざるを得なかったのだった。 目が合うと、女王はティーカップ片手に微笑む。 ミリ・カルトレイス――お前は一体、何がしたい。 4 それからの二週間、少年はミリと行動を共にした。 その中で彼が自分の経験やクローヴィスの言葉から分かったことは、例えば市中への往訪は日替わりで違う地区を訪れるようになっていることや、祈祷は月に一度程度行われるものであること、邸内においても様々な案件に許可を出す事務作業を行っていることなど、女王としての公務が多岐に渡ることだった。 初めのうちはミリが王座に寛いでいるだけだろうと考えていた少年も、日が経つに連れてその認識を改めざるを得なかった。何せ四六時中彼女に付き合わされていたため、朝起きて身支度を整え、食事をしたらすぐに外出――帰ってくれば書類の山、という生活習慣を殆ど共有していたのである(事務作業は「誰がやろうと同じだ」と言い、判を押すだけだからと少年にも手伝いを強制した)。 勿論少年とは違って生活に不自由することなどなかったが、その代わりに自由時間は全くないと言って良く、一週間が経った時点で少年ですら疲労を覚えたほどだった。あまりにもクローヴィスの隙が見つからなかったという事情もあるが、仮に単純に付き添っていただけであっても、遠からず疲弊していただろうと思わされるほど、彼女は激務に追われていたのである。 また、少年はミリの意外な一面を知る機会もあった。 ある日、市中の往訪から戻ってきた時のことである――昼食の時間にも関わらず宮殿を抜け出した女王は、少年とクローヴィスを引き連れ、あろうことか馬小屋に向かったのである(正確にはクローヴィスに見つかり、渋々ながら同行の許可を出した)。老執事曰く、彼女はどうやら愛馬リントがお気に入りらしく、時折業務を放り出しては世話をしているとのことだった。 「馬はいいぞ」 鬣にブラシを掛けながら、ミリは呟く。「何と言っても可愛いし、単純だ」 「単純に飼われるだけだから好感が持てると? ……女王様らしい」 そう毒づきながらも少年自身、リントに対しては悪い印象を持っていなかった。今まであまり馬を見たことがなかったために物珍しさが先に立っていた上、リントが毛並みの美しい、従順な馬だったからである。何より、悪意のない動物に対して悪意を向けるのは難しい。 そんな少年の気持ちを知ってか知らずか、ミリは珍しく少女らしい無邪気を示す。 「そう構えるな。貴様も触ってみるか? ふわふわだぞ、ふわふわ」 また、稀に書類作業がない日などは、書庫に同行することもあった。 初めて書庫に訪れた際、少年は見たこともない蔵書数に圧倒された。カルトレイスの識字率は決して高くないが、父親の影響である程度文字を読むことのできた少年は、一冊一冊にどれほどの知識が詰まっているのか、どれほど高価なのかを理解していたからである。 「どうだ少年、凄かろう。……もっともどれほど凄いのか、わたしにはあまり実感できないのだがな」 誇らしげに言ったミリに対し、少年は反感を覚える。それは単純に羨ましさという感情から発せられた部分もあったが、それ以上に目の前の光景が、そのまま女王が知識を占有しているという構図にも見えたのだった。 「……独り占めできて、満足そうだな」 「そうでもない」 書架の一冊に指を掛けながら、ミリはふと、神妙な面持ちになる。 「この書庫を一般にも開放できたら、と思うのだがな――今のところは、選ばれた人間しか利用できんのだ。おそらくわたしがいくら主張しても、こればかりは通ることがないだろう……ずっとな」 「女王でも主張が通らない?」 「知らなかったのか? わたしは別に万能の神ではない」 振り向いたミリの表情はどこか哀しげで、その言葉が嘘ではないと少年に考えさせるには、充分な説得力を持っていた。それはおそらく、女王の有限性を彼が実感した最初の出来事だった。 ……そう言う訳で、少年にとってこの二週間は濃密な時間であると言えたし、考えを変えるにも不足のない期間であると言えたのだった。ミリに付き合わされるのが一日や二日なら何とも思わなかっただろうが、それだけの間立て続けに境遇を見せつけられては、少年を騙すためにそう振る舞っているだけだと考えるのは難しかったのである。 女王への憎悪は消えていない。 相変わらず、執事の隙は狙い続けている。 しかし、文字通りミリと寝食を共にするうちに、少年は彼女を「良いご身分」だと思うことはできなくなっていた。最初に公務へ付き合わされた日には間違いなくそう考えていたにしても、どうにも少女も生活の中で、まるで「見えない敵」を敵視しているように思われたのである。 見えない敵――体制。 だけど、この国じゃお前自身が体制じゃないか。 お前は一体何と戦っている? 「さて。それでは行くか……少年、準備を」 「できている」 言われるまでもなく身支度を終えていた少年に、ミリは小さく微笑みかけた。 「すっかり従順になったものだな? 以前の険はどこへ消えた」 「見ろ、と言ったのはお前だろう」 少年は淡々と見つめ返す。「それでは不満か、女王?」 「……良い顔だ。それで良い、貴様は見続け、考え続けろ」 一行はミリの居室を後にする。 これからすでにお馴染みとなった、カルトレイス市中への往訪だった。少年は今回も隙あらばクローヴィスを出し抜くつもりではいたが、最近はそれよりも「見えない敵」を見極めることが目的となりつつあった。女王が抵抗している、何か得体の知れない大きな敵。見つけてどうこうという話ではなく、それはいつの間にか少年の胸に宿りつつある義務感のようなものだった。 見続け、考え続けろ。 ……余計なお世話だ。おれがそうしたいと思うから、そうするだけだ。 いつものように廊下を歩き、いつものように階段を下り――玄関ホールを抜けた先には、いつものように護衛の兵士達が待機している。少年の存在はいつの間にか当たり前になり、近頃は好奇の眼差しを向けられることも少なくなっていた。 すでに慣れかけている風景だったが、しかし。 「ミリ様、少しよろしいでしょうか」 一つだけ、いつもと違うことがあった。 「何だ、バート」 ――少年が警戒していたあの男が、その場に居たのである。 彼の顔には涼やかな微笑こそ浮かんではいたが、少年は嫌な予感を覚える。女王に対する彼の態度。あの日、警告するかのように向けられた眼差し。こいつの目的はおれだ、という確信じみた直観が少年の胸に去来し、それは彼が口を開くことで実際に現実の形となった。 「今日だけでも、少年をお貸し頂けますか」 「……何故だ? お前には他の仕事があるだろうに」 「ですから、『今日だけ』なのです――彼がここに忍び込んで、もう半月は経ちましょう。私自身が納得するため、そして何より部下を納得させるため、そろそろ彼の忠誠を見極める必要があります」 「…………」 ちら、とミリが少年の顔を見た。その視線を受けて、少年はバートの方へ一歩進み出る。――いつかは通らなければならない道だ。 バートは少年が歩み出たのを以外に思った風ではあったが、「こちらへ来い」と感情の読めない声で言うと、主に頭を下げてから歩き始める。 さて、……どうするか。 男の背中を追いながら、少年は冷静に思考を巡らせる。――こいつの口振りから察するに、おれは女王に対して忠誠を誓っていることになっているんだろう。他の兵士の反応と合わせても、そこは間違いないはず。なら、女王に対する無礼な発言は許されない。行動でも示す必要があるか? ……適宜だな。他は? 何か注意しなければならないことは、 「小僧」 不意に飛んできた男の声で、瞬間的に少年は悟る。――全て、だな。 「私は貴様がミリ様に仕えていることを、良く思ってはいない」 バートは話し続けながらも一切振り返らず、宮殿に沿うように歩き続ける。その声音は低く、平坦だった。女王に対する態度とは天と地ほどの差があることに、少年は納得しつつも苦い思いを抱く。これから自分がどうなるのか、薄々察しがついたからだった。 「貴様の忠心とやらも、信じてはいない。いや、そんなことは問題ですらない」 二人の目の前に、大きな兵舎が姿を現す。その前方に鍛錬用にとられたと思われる石造りの広いスペースがあり、中央には雑な様子に木剣が二振り、投げ捨てられているように見えた。……やっぱりこうなるか。 「拾え」 剣の前に立ち止まったバートが、顎で示す。 少年が拾い上げると同時に、彼も木剣を手に取り、片手で構えた。 「それで、おれはどうしたらいい?」 「ミリ様の配下に、弱卒は要らん」 「……戦え、ってことだな」 少年に剣の素養はない。 普通の兵士と戦っても、勝負にすらならないだろう。まして相手が騎士団長ともなれば、万に一つも勝ち目などないのは明らかだった。バートもそれは百も承知しているらしく、片腕で、それも自分からは仕掛けないことで、少年に形式的な情けを掛けているつもりのようだった。 上等だ。 少年は両手で構え、一歩踏み込む。 大きく上段から振り下ろされた一撃は、いとも容易く受け流された。それを予期していた少年は、振り下ろした剣をそのまま突きの形で胴体目掛けて突き出す――避けられる。 瞬間、少年の視界が明滅した。 横に払われた剣が少年の頭部を捉えたのだった。いくら木剣とは言え、頭を打ち抜かれた少年は意識を飛ばしかけるも、何とか体勢を立て直す。そこに間髪入れず突きが繰り出され、今度は左肩に命中した。 二度攻撃を受け、完全に無防備となった少年の顎目掛けて、バートは右足を蹴り出す。 「……話にならん。お前の忠心とやらはその程度か?」 倒れたところに追撃こそ加えないものの、立ち上がったところで袈裟に木剣が振り下ろされた。何とか体との間に剣を挟み込んだが、しかし木剣は衝撃を若干緩和するのみで、少年はたたらを踏む。……すかさず次の攻撃が飛んでくる。 「どうやって歓心を買ったのかは知らないが――」 ――頭部に二度目の攻撃が入る。 「貴様がどういうつもりなのかも知らないが――」 ――鳩尾に左拳がねじ込まれる。 「そんなものではミリ様の盾にすらならない――」 ――左腕に強烈な一撃が当たる。 どう見ても優勢なのはバートの方だった。 にも関わらず、徐々に余裕を失い始めたのも、バートの方だった。 木剣で容赦なく打ち据えられ、拳で幾度となく殴りつけられ、両脚で間断なく蹴り続けられて地面に転がった少年を足蹴に、彼は鬼のような形相を向ける。 「何故貴様なのだ」 ……何を言っている? すでに抵抗すらままならなくなった少年は、それでも体の痛みから思考は切り離し、悲鳴のようなバートの言葉を聞き続ける。何かがおかしい。少年の脳裏をここ二週間の出来事が波のように去来する。何がおかしい。 「ミリ様の御側に置かれるべきは、騎士団長たる私だろう! 何故貴様のようなひ弱な小僧が、何の権利があってその場所を独占している!」 あぁ。 少年は違和感の正体に思い至る。 ミリが抵抗している「見えない敵」が何なのかを、悟る。 「――そこまでにしておきなさい」 不意に頭上から降ってきた声は、クローヴィスのものだった。 少年の視界には入らなかったが、ゆったりとした足音も彼のそれである。 「立てますでしょうか?」 無理に決まってるだろう。 少年は内心、とぼけた様子の老執事にそう返すが、言葉の形まで持って行くには意識が限界に近付いていた。……あぁ、もしかしたら、今なら。ぼんやりと無意識のうちにそう思った少年は、隙を突いてクローヴィスの頬をはたこうと試みるが、すんでのところで阻まれた。その上、いつものように微笑みを向けられる。 「元気そうですな」 狸、爺。 ――懐かしい匂いを嗅いだ気がした。 洗ったばかりの衣服のような、珍しく注ぎ込んだ日射しのような、幼い頃、母親に抱かれていた時のような、甘く柔らかい匂い。 微睡みの中に揺蕩っていると、微かにふわり、と香る。その匂いに少年は安心し、寂しくなり、泣きたくなる。だから、定まらない意識と朧げな視界に、匂いの元を探す――人影を見つける。 「かあ、さん?」 少年が微かに漏らした一言に、人影は振り向いた。意識がはっきりしてくるにつれ、その輪郭も明確になる。視界から靄が晴れてゆき、徐々に鮮明になる。 「起きたか、少年」 少年の寝台に腰掛けていたのは、ミリだった。 公務の際に着る衣服ではなく、簡素な部屋着を身に纏っており、下ろした髪は窓から差し込む夕陽で黄昏色に染まっている。その色を目にした少年は、自分が随分長い間眠っていたことを悟った。 「驚いたぞ。帰ってくるなり、ぼろぼろの貴様がベッドに倒れているときたのだから。バートに手酷くやられたようだな?」 「誰の所為だと思ってる……」 「そう言うな。クローヴィスを置いて行ったろう」 ミリは眉を顰める。「いや、ここまでするとは思わなかったが」 見ると、彼女の手には小さな氷嚢が握られていた。怪訝に思った少年が体を起こそうとすると、毛布と何かがこすれる感触で、自分の頭や腕に包帯が巻かれていることに気付く。手当てをされたらしかった……両手に拘束具こそ取り付けられていたが。 「お前が?」 少年が半信半疑で訊ねると、ミリは機嫌を損ねた風に答える。 「馬鹿にするなよ。万能の神ではなくとも、貴様一人の看病はできる……クローヴィスに手伝いは頼んだがな」 「それを『できる』と言うか」 「口の減らない奴だな。まず、わたし自らの看病を光栄に思ったらどうなんだ」 女王は溜息を吐くと、手に持った氷嚢を少年の方へ投げて寄越す。両手が使えない少年は上手く受け取ることができず、それはぽとりと膝の上に落ちた。 冷たかったが、それほど嫌な感触ではなかった。 ミリは寝台から立ち上がろうと、大儀そうに腰を上げる。 「しかしその様では、しばらく付き添いなどできそうに――」 「――お前は」 氷嚢に目を落としながら、少年は口を開いた。立ち上がりかけたミリは「ん?」と目を丸くし、再びその場に腰を下ろす。 「お前は、あれと戦ってたんだな」 「あれ? 何のことだ?」 脳裏を過ぎるバートの言葉。 ミリが戦う、「見えない敵」。 「……盲信。 あいつだけのことじゃなく、皆の」 その言葉を聞いた瞬間、ミリの表情が目に見えて揺れた。 少年は目を上げない。 「お前は皆を支配しているようで、実際は支配されてたんだろう。求められるままに『女王』を演じて、『女王』として消費され続けていたんだろう。……あんなことを言って、悪かった」 「……何のことだ」 「『随分と慕われているじゃないか』なんて――言うべきじゃなかった。そんな言葉、お前からすれば皮肉にもならなかったはずだ」 少年は思い出す。赤い顔の女の子。一輪の花。 純粋な子供ですら、「女王」を求めるという現実。それでも、罪のない子供を守らなければならないという事実。……そして、そんな盲信が息づくこの国。 あの時おれは、気付いていたはずだった。 気付いていたなら、言うべきじゃなかった。 「はは」 少年の言葉に小さく笑って、ミリは顔を背ける。背を反らせて天井を仰ぎ、そのまましばらくは身動き一つ取らない。 そんな彼女に向かって顔を上げると、少年は幾度となく訊ねた、その度に理解することのできなかった問いを投げ掛ける。 「なぁ、ミリ・カルトレイス――お前が『見て欲しかった』のは、そう言うことなのか。お前は結局、おれに何をさせたかったんだ」 「そうだな――」 ミリはかぶりを振ると、少年の方に向き直る。 「一つ、昔話でもしようか」 「……昔話?」 「あぁ。このカルトレイス王国にまつわる、……もしかすると世界にもまつわる、ちょっとした伝承や伝聞の類だ」 それが、おれを付き合わせたことに繋がるのか? もの問いたげな少年に対してこくりと頷くと、ミリは「大部分が書庫から得た知識と、わたしの推測だが」と前置き、話し始める。 「かつて、この世界には『四季』と呼ばれるものがあった――」 ※ 「――四つの季節と書いて、『四季』と読む。これは文字通り、春、夏、秋、冬という四つ季節に由来する名称で、春は暖かく、夏は暑く、秋は涼しく、冬は寒かったそうだ。つまり、今のカルトレイスには冬しかないと言うことになる。 それだと気になるのは、どうして冬以外がなくなってしまったか、というところだろうが、伝承にはこうある――『争いを続けていた人間達に神様は激怒すると、彼らを永遠の冬に閉じ込め、周りには毒を撒いて出られなくしてしまった』と。これは要約だが、聞いての通り、この国の現状だ。 実際はどういうことかと言えば、それほど離れてもいない。ここに関する記録は確かなのだが、昔、戦争があったのだ。それも、カルトレイスを何十も繋ぎ合わせたほどの大国同士でな。その戦争で、兵器が用いられた……大砲? そんなちゃちなものじゃない。単発でもこの国が壊滅するほどの兵器だ。 大国はそれをお互いに撃ち合った。 問題はその性質で、土地も人間も一緒くたに焼き払ってしまうばかりではなく、その地を汚染して人の住めない環境に変えてしまうというものだった。加えてその兵器、乱発することで気象環境にも影響があったのだ。……もう予想はついていると思うが、それは一時的に冬を再現してしまうと言うものだ。もっとも、そうなるであろうことは当時も分かっていたらしいのだが、そこで誤算があった。 精々が一年程度で終わるはずの『冬』が、どういう訳か終わることなく続いてしまったのだ――それこそ、神の怒りとばかりに。今もまだ。 結果はカルトレイスを見ての通りだ。獣は飢え、作物は育たず、未来は閉ざされた。国の外には出ること叶わず、いつ終わるとも知れない『冬』に絶望した。……縁が必要だった。唯一絶対に信じることができる、生きる縁が。 昔、それは国であり、それを治める君主だった。しかし、君主が力を持ちすぎたことで戦争が起こったのだ。その二の舞になる訳には行かない。信じられるものが必要だが、戦争は二度と起こしたくない。ではどうすればいいか? ……簡単だ。力を持たない、形だけの君主を作ってしまえばいい。まるで模造刀のように、刃を入れない飾りものの剣を作ってしまえばいい。 ――『模造の王』だ」 ※ 「詰まるところ、わたしはシステムという訳だ」 言葉を失う少年に対し、ミリは何故か楽しそうに続ける。 「生きながらに人々へ希望を授ける存在。この国のために消費される存在。……生きながらに人々から消費され続ける存在」 「…………」 「わたしの母様は、そうして死んだ」 ミリの表情が怒りに歪む。 しかし、それも束の間のことで、彼女はやがて全てを諦めたように全身の力を抜いた。それは運命を受け入れた者特有の達観ではなく、絶望の前に打ち拉がれる者の虚無だった。 だから。 ミリは笑う。 諦念と覚悟を声に滲ませて、笑う。 「――この国は、寒いんだ」 そうしなければ、死んでしまうから。 虚無に呑まれて、消えてしまうから。 ……冗談じゃない。 少年の目にその少女は、華奢な体の線を黄昏に溶かし、今にも消えてなくなってしまいそうに見えた。人々から消費し続けられ、大切な者を奪い取られ、すっかり空っぽになってしまった女王の抜け殻が、そこにはあった。 少年は繰り返す。……冗談じゃない。 そんなものは王なんかじゃなく、ただの生贄だろう。 だが。 …………。 「さて。これがわたしの知る全てだ――手を出せ」 「手?」 はっとした少年が言われるままに腕を差し出すと、ミリはどこからか小さな鍵を取り出し、拘束具の穴に差し込んだ。かちゃり、というあまりに軽い音と共に、あまりに呆気ないまでに、少年の拘束が外される。 無防備な女王の前で、彼の両腕は自由を得る。 あの老執事の姿は、傍にはなかった。 「何のつもりだ」 「言っただろう。わたしはこのカルトレイスを貴様に見て欲しいだけで、その後は貴様次第だと。……わたしはもう全てを見せた、教えた。ならばもう、貴様を拘束する筋合いはあるまい」 「……。そうか」 少年は迷わなかった。 ただ、ランタンの灯りでも消すような気負いのなさでゆっくりと少女の首に手を伸ばすと、そのまま寝台の上に引き倒し、馬乗りの格好になる。ミリは倒される瞬間こそ苦しげな声を上げたが、これといった抵抗をすることもなく、されるがままだった。 こいつの人生がどれだけ悲劇的なものであろうと。 こいつ自身の意志ではなかったのだとしても。 「――お前が、おれの親父を殺した」 「そうだ、わたしが貴様の父を殺した」 微笑を浮かべながら、案外、と少女は続ける。 「知って欲しいなどと言いながら、わたしは結局のところ、こうして殺されたかっただけなのかも知れんな」 「そうか」 「あぁ。……このまま消費され続けて死ぬくらいなら、今、貴様の手で幕を下ろしてくれ。貴様の手に掛かるなら、それほど悪くもない死に方だろう。 …………。なぁ、少年」 「何だ」 ――少女の瞳から、大粒の涙が溢れ出す。 「わたしの人生とは、一体なんだったのだろうな――」 ……本当に? 少年は思う。 死を受け入れたなどと言う少女の体が、彼の眼下で小刻みに震えている。あまりに細く、頼りなく見える彼女の腕は、女王としての力など全く持っていないように感じられた。今まで目にしてきた数多の光景と、目の前で震えるただの少女を見て、少年は思う。……本当に? 本当にこいつが――親父を殺したのか? 「違う……」 少年は固く目を瞑ると、首から手を離し、自らの上体を起こす。 鈍い痛みが脇腹に走ったが、切り離す。そんなことは問題でもなかった。 誰が知っている? 決まっている。 あの時、一番最初に事態を理解したのは誰だった? 「――クローヴィス!」 少年は大声で呼ばわる。 あの抜け目ない男のこと、今も近くに居るという確信があった。 「どうせ居るんだろう、知っているんだろう! 嘘の始まりがお前なら、それを終わらせるのもお前の役目だろう! ――出てこい、クローヴィス!」 「少年――」 「お前は黙ってろ!」 口を開きかけたミリには顔も向けず、少年は全身から絞り出すように声を上げる。もう、これ以上の遠回りをする気など、彼にはなかった。 やがて扉が静かに開かれると、老執事が二人の前に姿を現す。茜色を受けたその顔に、最早とぼけるような表情は浮かんでいなかった。 「ここに」 「教えろよ、お前は何を知っている! 始まりに何があった! ――おれの親父を殺したのは、一体どこの誰だ!」 クローヴィスは、答えない。 ゆっくりと二人に歩み寄ると、寝台の傍に跪き、「……申し訳ございません」とミリに声を掛ける。静かに立ち上がり、少年に厳粛な眼差しを向ける。 「貴方には知る権利がありましょう……勿論、ミリ様にも」 ※ 「ケント・ブラウアー様が反体制派の活動家であったことは、ミリ様にもお伝えした通りでございます。彼は王権の廃止を求め、カルトレイスに考えを説いて回っておりました。……まずはそこから始める必要がございましょう。 そもそも、反体制とは何であるのか。 言わずもがな、体制に反するものでございます。それならば、体制とは何でしょう? 国の形です。つまりは本来、君主が人々の上に立ち、統治するという国家の構造でございます。……しかしながらこのカルトレイスにおいては、お分かりの通りミリ様も、先代女王であらせられたクレア様も、実際には支配などされておりませんでした。 言わば、逆に支配されていたのです。人々を統治し、人々から支配を受ける女王――それがこの国の有り様であり、体制でございます。他ならぬその意味でケント様は、反体制派でございました。 ケント様は、クレア様を救おうとなさっていたのです。 そのために王権の廃止を訴え、人々に自らの考えを主張しておりましたが、その考えを理解しようという者は皆無で、耳を傾ける者もおりませんでした。そうして彼は、人々が考える意味での『反体制派』――つまり、『国家に仇成す者』という烙印を押されてしまったのです。 誰がケント様を殺したか、とお訊ねになりましたな。 女王様ではございません。たとえ、その死がクレア様に起因するものだとしましても、クレア様ご自身がそのような命を出すことはございませんでした。自らを救わんと戦っている方に害をなそうなどと、どうして考えましょう? ミリ様。 貴方はケント様の死に、ご自分の責任があるとお考えなのでしょう。そのこともあって半月前、あのような行動をされた。 ですが、恐れながら申し上げます。 貴方は少年のお父上に対して、どのような責任もお持ちではありません。……このことを黙っており、誠に申し訳ございませんでした」 ※ 「……私から申し上げられることは、以上でございます」 クローヴィスは話を終えた。 何故、とミリが声を上げる。 「どうして教えてくれなかった。もしもそれを知っていれば、わたしは――」 「母君のご遺志でございます」 老執事は答える。 主に向けられたその表情は、深い悲しみを湛えていた。 「クレア様はケント様から、この国を抜け出すようご提案をされておりました。……ですが母君には、その時すでに貴方がいらっしゃったのです。貴方を置いて一人だけお逃げになることは、クレア様にはできなかったのでしょう――クレア様は貴方の幸せを願って、この国に留まったのです。そして、亡くなられた」 「…………」 「このことを貴方がお知りになれば、ご自分をお責めになったでしょう」 忠臣の言葉を受けて、ミリは沈黙する。 口を開いたのは、少年だった。 「その話が真実だという証拠はあるのか」 クローヴィスは首を横に振った。 「残念ながら、ございません。このことは書庫の記録にも残っておりませんし、人々もケント様のお考えを話そうとはしないでしょう。それどころか、覚えているかどうかも怪しい。信じるかどうかは、貴方次第でございます」 「……ふん」 また、自分で考えろ、ということか。 今までのように、そしてこれからも。 自分がどうするべきか――何を信じるべきか。 少年は寝台を下りる。 ……もう、眠っているのはこりごりだ。 「行くぞ」 やがて発された少年の言葉に、少女は目を丸くした。 「この国を抜けると言うなら、機会は今しかないだろう。……仮にも女王のお気に入りに危害を加えたんだからな、今更もう、あの男がなりふり構うとも思えない」 「――信じるのか?」 「ふざけるなよ、この狸の話なんて誰が信用するか――おれが信じるのは、親父の方だ。親父がそうしようとしたなら、おれは信じる」 どうするんだ、少年はミリを見据える。 「残りたいなら無理強いはしない。この国でカラカラになるまで絞られ続けろ。……それに、外に出たところで生き延びられる保証がある訳でもない。選ぶのはお前だ」 「わたし、は」 「ミリ様」 クローヴィスが、少女に向けて頭を下げる。 「……私は、クレア様に貴方を託されました。ですから貴方のご意志は尊重いたしますが、一つだけ、お願い申し上げます」 その場に跪き、ミリの手を取る。 そして顔を上げた老執事は、微笑んでいた。 「貴方が幸せと思う道を、どうか選んでくださいませ」 「…………」 ミリは考える。 少年がそうし続けてきたように、考える。 女王の去ったこの国のことを。 国に殺された母親のことを。 花を差し出した少女のことを。 盲信と戦った少年の父のことを。 その全てを思い浮かべ秤に掛けても、ミリには何を取るべきなのか分からなかった。だから、考える。――当の自分が、どうしたいのかを。 「はは。……偉そうになったものだな、少年」 彼女はそう言うと、目の前の少年を見つめた。 眦から、一筋の涙が流れる。 「……わたしを、たすけてくれ」 宵闇に乗じて宮殿を抜け出した三人は、リントの元へと向かった。元々、何度もそうしてきた経験のあるミリにとって、誰にも見つかることなく馬小屋まで辿り着くのは、造作もないことだった。 しばらくの間必要だと思われる食料は、革袋に入れて少年が運んだ。「『外』に出たなら必要でしょう」と執事から短剣を手渡され、少年は思う――とぼけた顔して、ずっとこんなものを忍ばせていたのか。 「ミリ様に万が一のことがあれば、示しがつきませんからな」 「くそ……どこまでも狸だな、爺」 宮殿を出る前に、クローヴィスは壁に掲げられた模造刀を手に取った。 何故そんなものを――という少年の問いは、老執事の表情で答えを得る。 何かあったら、自分が守るつもりか。 そして実際に、馬小屋に到着した一行は、武器の必要性を悟る。おそらく丸腰の状態では、足止めすることもできなかったろう、と。 ――小屋の中で、バートが待っていた。 「やはりいらっしゃいましたな、ミリ様。……どうも、その小僧に感化されすぎてしまったようだ」 「貴様……!」 「お戻りください。でなければ、力尽くでも連れ戻さなければなりません」 帯剣している。 それがあの時のような木剣ではなく、正真正銘の真剣であることを、少年は疑わなかった――同時に、戦慄する。この男を前に、自分達が相手になるイメージが浮かばなかったからだ。 「ここは私に」 すと、クローヴィスが前に出た。 模造刀片手に、目の前の男から視線を外さない。 バートは歪んだ笑みを浮かべる。 「これはこれは、クローヴィス殿――貴方ともあろう方が、まさか反逆を企てようとは。驚きました」 「反逆?」 老人は柔和な表情を崩さず、バートに語りかける。 「私が仕えているのはミリ様でございます。そのご意志に背いているのは、寧ろ貴方の方ではないですかな――バート・アルダーソン」 「ははは。威勢の良い。……いくら貴方でも、そんな玩具で、そんな老いた体で私に勝てるとお思いか?」 「勝てる?」 またしてもクローヴィスは問い返す。 「――私の『勝ち』とは、ミリ様のご意志が叶うことですな」 「抜かせ、逆賊が」 行きなさい。 横目で合図を送られ、少年はリントの背に飛び乗った。「手を!」と差し出された少年の腕を、ミリは忠臣を振り返りながらもしかと握り返す。 「爺や!」 走り始めるリントの背から、ミリは涙交じりに叫んだ。 「必ず勝て! お前が死ぬなんて、このわたしが許さんぞ!」 ほほ。 剥き出しの盲信と相対しながら、クローヴィスは考える。――どうも、負けられなくなってしまいましたな。 ミリの言葉に、バートは激昂する。 「そのお言葉を受けるのは――私のはず――この老いぼれが――」 「……『そこまでにしておきなさい』、と言ったはずですが」 抜剣した男に対し、クローヴィスは半身で剣を構える。 瞬間、音さえ凍り付くような鋭い気迫が辺りに満ちた。 「――聞き分けんのなら、容赦はせんぞ」 馬の扱いは、見様見真似だった。 しかし、普段からリントに乗り慣れているミリであっても、歩かせるばかりで走らせたことはなかったのだから、少年が手綱を取ろうとあまり変わりはなかった。二週間もの間、殆ど毎日のようにミリの命を狙っていたのだ――どうすればどのようにリントが動いてくれるのか、少年には手に取るように分かっていた。 「クローヴィス」 少年の腰に腕を回し、背中に顔を埋めながら、ミリは嗚咽する。 市中を駆け抜けながら、少年は後ろに声を掛けた。 「……あの男が死ぬかよ。どうせいつか、何食わぬ顔で出てくるだろう」 「そうだな。……そうだよな」 広い通りを抜け、「縁」の近くまで辿り着く。 そこで少年は、目を見開いた。 「くそ」 渋面を作る。 汚染獣だった。 闇の中に爛々と目を光らせながら、何匹もの影がミリ達の行く道を遮っている。……どうするべきかとしばし逡巡する少年は、ふと、それでもリントが速度を落とそうともしないことに気付いた。 行ってくれるのか。 賢馬を信じ、少年は影の中に突っ込む。 「退けっ!」 ――全速で突撃された獣達は、あまりの勢いにばらばらと散って行く。中には飛び掛かるものも居るにはいたが、リントの体に跳ね返されて地面に落ちる。 しかし、それはあくまでリントを狙った攻撃に対する結果だった。……もう少しで「外」だというところで、一匹の汚染獣が前から少年に向かって飛び掛かる。 手綱は離せない。 防ぐ手段がない。 少年の目には、辺りの光景が急に速度を落としたようだった。……やられる。 だから、見えた。 横から駆けてきた一体の獣が、少年の直前で汚染獣に噛み掛かる。 本来ならば、目にも留まらぬ速度のはずだった。 しかし、少年はしかとその目に焼き付ける。 …………。 ……親父? 「少年!」 背後から飛んできたミリの声に、彼はふと我に帰った。――そうだ、余所見している余裕なんてあるか。いつ追っ手が来るとも限らない。 「このまま出るぞ!」 蹄が地面を打つ感触が、硬いものから変化する。石畳で舗装された道を抜け、雪原に出たのだった。 少年は一度だけ振り返る。 あの獣の姿は、もうどこにも見当たらなかった。 「……さて」 リントの傍を歩きながら、少女は笑う。 「来るところまで来てしまったな、少年」 「そうだな。……随分と遠回りしたが」 彼が後ろを振り返ると、カルトレイスは随分と小さくなっており、その全景を容易く視界に収めることができた。広がる白の隔たりには、追っ手の姿を見つけることはできない。 前を向いても、月明かりに輝く雪原があるばかりだ。行く先に何があるのか、どちらへ向かえば良いのか、少年には見当もつかなかった。……しかし、彼もまた笑う。 「二世代に渡る逃避行か……それも、これからどこへ行けばいいかも分からないときてる。後悔するなと言われた時に、大人しく引き返しとくべきだったな」 「不服か、少年?」 ふん、と少年は鼻を鳴らす。 その口調は抜けないのか――まぁいい、そんなことより。 「少年じゃない」 彼がそう言うと、ミリは「少年だろうが」と怪訝な色を浮かべる。 少年はゆるゆると首を振り、立ち止まって少女を見た。それに倣ってミリも立ち止まる。空から静かに舞い落ちる雪が、二人の間へ広がる薄明にちらついていた。 「アーレントだ。アーレント・ブラウアー。 ……妙な名前だからな、アレンでいい」 ミリは一瞬きょとんとした風だったが、やがて「アレン」と噛み締めるようにその名を呟くと、少年に向かって微笑みかける。 「そうか。良い名だな、アレン」 「お褒めに与り光栄だよ、ミリ」 冬の王国は、もう見えない。 二人と一頭は寄り添い歩く。 |
瀬海(せうみ) G3b0eLLP4o 2018年12月30日 14時13分07秒 公開 ■この作品の著作権は 瀬海(せうみ) G3b0eLLP4o さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2019年01月25日 08時44分55秒 | |||
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Re: | 2019年01月25日 01時07分31秒 | |||
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Re: | 2019年01月25日 00時49分53秒 | |||
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Re: | 2019年01月23日 10時04分16秒 | |||
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Re: | 2019年01月19日 14時01分52秒 | |||
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Re: | 2019年01月19日 00時09分28秒 | |||
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Re: | 2019年01月18日 23時15分11秒 | |||
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Re: | 2019年01月16日 14時23分39秒 | |||
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Re: | 2019年01月16日 13時42分49秒 | |||
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Re: | 2019年01月16日 12時56分32秒 | |||
合計 | 12人 | 310点 |
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