厳しい冬の終わりには ~日ノ巫女と凄ノ王の伝承~ |
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「早くおいでよ、清彦。凄ノ王のくせにだらしないぞ」 月夜見(つくよみ)は、険しい山道の先から俺に声を掛けると、軽やかに雪を蹴散らし、坂を駆け上がってゆく。 月夜見は、日ノ巫女の見習いになったばかりだ。背は少し伸びたが、着ている日ノ巫女の狩衣は、まだまだ大きすぎる。 日ノ巫女が着る白い鹿の狩衣には、雪キツネの毛皮が襟と袖口に縫い付けられている。山絹の糸は、まぶしい朝日を受けて、金の刺繍のようにきらめいている。 本来は神秘的で荘厳な姿のはずだが、まだ巫女見習いの月夜見が着ると、ただ丸っこくってフワフワしてるだけだった。 月夜見は、雪の積もった坂を飛び跳ねるように登ってゆく。小柄なその姿は、まるで白いウサギのようだ。 「ちょっと、待ってろよ。鎧と武器で、身を固めてると、雪の坂を登るのは、大変なんだぜ」 ざくざくと雪を踏み固めながら、俺は月夜見の後を追った。 月夜見は噴きだし、澄んだ声で叫んだ。 「言うものね! 黒塗りの胴と熊の毛皮が鎧で、腰に下げた山刀が武器か」 「狼の籠手(こて)も着けてるぞ!」 「籠手が重くて登れないのか。あはは。でも一番重いのは、近頃やたらと飯をお代わりする、あんた自身だよ!」 「重い、なんて、一言も、言ってないだろうが! それに、あんまり、大声をだすと、雪崩がおきるぞ!」 「息が切れてるよ、清彦。凄ノ王にしては、だらしないぞ!」 月夜見の言葉には答えず、俺は歩幅を広げて、一気に雪の坂を登りきった。 少し開けた道の先に、里と山をつなぐ長い吊り橋が見えてきた。吊り橋は蔓ツタで編まれている。深い谷の底では渓流が激しい水音をたてて流れ下っている。 雪解けが始まっていた。 抜けるような青空を、真っ白な雲が飛ぶように流れてゆく。 雪をいただいた険しい山々が、人里とは隔絶した荘厳なたたずまいを見せて、目の前にそびえ立っていた。 胸の内に流れ込む鮮烈な山の冷気は、身にこびりついた穢れを清め、洗い流してくれるようだった。 「まず、俺から渡るぞ」 吊り橋を揺らして雪を落し、一歩一歩確かめながら、俺は吊り橋を渡った。そして、山の神様に許しを乞うてから、山の側へと踏み込んだ。 俺たちは、村のじっちゃんに、ずっと言い聞かされてきた。 山里の冬は、寒くて厳しい。 とびきり厳しい冬が終わりに近づくにつれて、村人たちは、ようやく訪れる春の兆しを待ちわびるようになる。 でも、まさにそんな時に悪鬼の群れが村に襲い掛かってきたのじゃった。 悪鬼どもは村を焼き払い、悪行の限りを尽くした。 じゃが、ほどなくして日ノ巫女様と凄ノ王によって退けられた。 それからというもの、悪鬼どもの悪行を食い止めるために、冬の終わりになると日ノ巫女様と凄ノ王を先頭に押し立てて、村中総出で山へと繰り出すようになったのじゃ。 しかし、悪鬼どもがふたたび村を襲うことは無かった。だから、参加する村人は徐々に減っていったのじゃよ。 今年は日ノ巫女と凄ノ王だけが山へと分け入って、襲い掛かる悪鬼どもを退け、山の神様から山の幸を分けていただく許しを乞う、そのための儀式を行うことになっていた。 そして、毎年行われている村オサの宣託で、今年は俺と月夜見が山に遣わされることになったのだった。 春を迎える儀式を成すために、俺たちはここに来たのだ。 月夜見は、手すりの綱を掴んで、恐る恐る吊り橋を渡っている。吊り橋が少し揺れるたびに、ギュッと手すりの綱を掴んで動かなくなる。 渡りきるには、まだまだ掛かりそうだった。 そういえば、こいつは高い所が苦手だったな。 「気を付けろよ、お前は肝心なところでドジだからな」 俺がせっかく親切な言葉を掛けてやったのに、月夜見は俺を睨んで叫んだ。 「余計な事を言うな。気が散るだろうが。手すりの綱が離れすぎてるのが悪いのだよ!」 俺は、思わず笑ってしまった。 「お前が小さいせいだ。それに、そんなに緊張してたら、かえって危ないぜ」 「判った!」 月夜見は大きな声で言った。顔が赤くなってる。 月夜見は急に綱から手を離し、吊り橋の上を駆けるように渡り始めた。 「危ない!」 踏み外したら、激流のうずまく谷底へ真っ逆さまだぞ。 月夜見は泳ぎも下手くそだから、見てるこっちが肝を冷やすぜ。 月夜見は吊り橋を駆け渡ると、すぐに言った。 「さあ、祭壇を作ろう」 俺は、さっそく背負った荷物から、祭壇の包みを取り出した。縛った紐を解いて、月夜見に差しだす。 月夜見は吊り橋の上をそれほど歩いてない。なのに、肩で大きく息をしながら、祭壇の包みを受け取った。 (怖かったのだな) 俺は作法のとおりに、月夜見の脇につつましく控えた。 月夜見は祭壇を組み立てながら、代々の巫女に伝えられた言ノ葉を静かに唱えた。 わが言ノ葉に耳をすまし、わが言ノ葉を心に刻め。 チは大いなる不思議を成す。 すぐれて強き力あれば、これを霊(チ)と言う。火ノ輝ぐツ霊(ヒノカグツチ)、怒ツ霊(イカツチ)など八百万(やおよろず)の神々がこれなり。 (ああ、始まったか。退屈なんだよな、言ノ葉を聞くのは) 俺の真っ当な思いにはまったく気づかない様子で、月夜見は言ノ葉を唱えつづける。 あまたの命を萌え出でさせるものを地と言う。ヨモギ、アワ、ヒエなど、あまたの草木を始め、オケラ、セミなどの虫、モグラ、イタチ、ヤマアラシなどのケモノも地から生ずるなり。 (言ノ葉を唱えるのは退屈じゃないのか?) そう思いながら月夜見を見たら、にらまれた。 それから月夜見は目をそらせ、言ノ葉をつづけた。 母の腹に子を宿らせるものを父(チ)と言う。 二つあるゆえ父(チチ)とも言う。 (この言ノ葉は、初めて聞いたぞ) 俺は思わず月夜見を見つめた。 「ガキには聞かせられない言ノ葉だってあるさ」 そう言いながら月夜見は、ほんのりと赤らんだ顔を伏せた。 どきりとした。 すこしうつむいた月夜見の横顔が、ひどく大人びて見えた。 「しきたりだから唱えてる。清彦はガキだから、聞くな!」 (無茶を言うなよ。俺は隣にいるのだぞ) そう思ったが、口はつぐんでいた。 月夜見は、ゆっくりと顔をあげ、再び言ノ葉を唱え始めた。 水多きものを井と言う。 水多き所に住む大きなケモノを井ノ獅子(イノシシ)と言う。 水多き霊を井ノ霊(イノチ)と言う。 身の内にあって命を保たせるものを血と言う。 血を流し過ぎれば、人は命を失う。 チは、計り知れない力を持つ…… 月夜見は、言ノ葉を唱えながら祭壇を組み立てている。供え物を置くための台を据えている。 月夜見がかがむと、狩衣が密着して、突きだされたお尻から背中にかけて、やわらかで美しい曲線が現れる。 いっしょに水浴びしていたころとは、全然違う形をしていた。 なぜか、ひどく艶めかしい。 月夜見のくせに…… (日ノ巫女様の御利益なのかな) 「立派な日ノ巫女様に見えるぜ」 そう声に出そうとしたが、喉がひどく渇いている。声が、かすれそうだ。 ゴクリと唾を呑みこんだとたんに、邪魔が入った。 「止めろ、そこまでだ!」 月夜見の唱える言ノ葉は、突然に打ち切らされた。 予想外の事にあわてて振り返ると、声の主はすぐ眼の前にいた。 いつの間に近づいていたのだ? 山の天候が変わるのは早い。 山の峰から現れた分厚い雲が太陽を遮り、辺りはたちまち薄暗くなってゆく。 寒風が吹き上がってくる。 目の前にいるのは、たぶん悪鬼のたぐいだった。 巨大な蝦蟇蛙のような顔に大きく開いた口には鋭い歯がたくさん生えている。手に持つ丸太ン棒は、一撃で牛を打ち殺せそうな大きさがあった。 そいつの背後で、雪が音もなく崩れると、数十体の異形の群れがそこに立っていた。 俺がためらったのは一瞬だった。 すぐに俺は叫んだ。 「走れ、月夜見。村のみんなに知らせるんだ!」 月夜見が吊り橋を駆ける音を背後に聞きながら、俺は教えられた型のとおりに、派手に山刀を振るって、悪鬼を牽制した。 「ただの貧相な小僧と思うたが、オレに立ち向かう気か。こいつが凄ノ王とでもいうのか?」 悪鬼は力を溜めだした。腕が異様に膨れ上がる。丸太ン棒を振りあげて、叩きつけてくる気だ。 これ以上は押さえられそうにない。 俺は振り向くと、背後のかなめ石に巻きついた占め縄に山刀を叩きつけて、叫んだ。 「掴まれェェェ!」 占め縄に編みこまれた麻の綱が切れて、支えの綱がすべて外れる。吊り橋は、大きくうねり、たちまち谷へと落ちてゆく。 吊り橋の上で、月夜見は驚いた顔をして、こちらをふり返っていた。 「綱に掴まれ! 縄梯子になるから、体を支えて登れ!」 しかし、月夜見が手を伸ばすひまもなく、足元にあった吊り橋は、たちまち向こうの岸へと落ちてゆく。 月夜見は支えを失って、谷底へと真っ逆さまに落ちていった。 走り出そうとした俺の頭に、凄まじい衝撃が襲った。 「手間を掛けさせやがって」 それが俺の聞いた最後の言葉になった。 気が付くと、俺は谷川を激しく流れる水の中にいた。 「清彦、きよひこォォォ~」 月夜見の叫ぶ声が、木霊のように、あたりに響いていた。 「月夜見?」 すぐ先をぐったりとした月夜見が流されてゆく。 俺はあわてて月夜見に泳ぎ寄った。 抱えて流れから引きだそうとした。 「なんだ、これは。どうなってる?」 俺には、腕が無かった。 手も足も、無い。 胴も顔も無かった。 「俺は、水……、なのか?」 俺の体は、澄んだ水になってしまった……、ようだった。 水の体では、月夜見を掴むことも、抱き上げることもできない。 ……だが、水なら水のやりようがあるさ。 体はこれ以上ないほど柔軟になったけど、考え方も柔軟になってる気がするぞ。 俺は月夜見を水の体で包みこんで、渦を巻くように回転しながら、流れを横切って岸へと向かった。 なんとか岩場の澱みへと流れ着く。 でも、岸に引き上げることが出来ない。 「しかたない」 俺はそうつぶやいて、月夜見の頭を浮かせ、岸のそばに留まった。 (俺は、水に生まれ変わったのだな。そうなら、悪鬼に殴られて死んだってことか) 思わず涙があふれた、ような気がした。 俺自身がすべて涙になったように思えた。 でも、すぐに悲しさは流れ去って行った。 不思議と悲しさをまったく感じなくなっている。 悲しみを水に流したのかな。水だけに。 月夜見の顔をしげしげと見るのは久しぶりのことだった。月夜見の顔は、やわらかくあどけない表情なのに、顔の輪郭には大人の毅然とした鋭さがが現れ始めていた。でも、今はまだ大人ではない。それなのに、もう子供ではない。不思議な美しさに満ちている。 (こいつ、いつの間にか、こんなに綺麗になってたんだ) 見つめているうちに、俺の体が熱くなってくるのが分かった。 しばらくすると、月夜見は小さな音をたてて水を吐きだした。 それから、大きく息を吸い込んだ。 月夜見は、目を開いた。 自分が水中にいることに気づいたようだ。 あわてて両腕をあげて水から出ようとする。 「まて! 腕を水から出したら、反動で……」 月夜見は、水中に没した。 しこたま水を飲みこんだ。 「そらみろ、言わんこっちゃない!」 あ、俺の言う事など聞こえてないか。 月夜見は、水底に足をつけて浮びあがり、こんどは岩を掴んで体を流れから引き上げた。 俺が、月夜見の髪を、頬を伝い落ちてゆく。 滑らかな首筋を、脇を伝い落ちる。 「このごろ、一緒に水浴びをしなくなったと思ったら……」 月夜見の胸は、意外なほど豊かで、形が良く、やわらかかった。 くびれた腰を、引き締まった腹を、伝い落ちる。 それから俺は、思わず赤面した。 水になった俺に、顔は無かったけどな。 俺の体は、思わず熱くなっていた。 月夜見がつぶやいた。 「なぜかしら。雪解け水に落ちたはずなのに、冷たくないわ」 「すまない。こんど機会があったら謝るから」 それから俺は、こんどの機会があるとは思えないことに、改めて気付いた。 「すまない。守ってやれなくて」 水にできることなんて、何もない。 凄ノ王なのに、水の身では日ノ巫女を守れない。 胸が重苦しい。 今の俺に、胸なんて無いはずなのに。 俺は、狩衣に隠れたすらりとした脚を滑り落ちると、月夜見の体からゆっくりと離れていった。 でも、月夜見の体のしなやかでやわらかな感触は、いつまでも生々しく残っている。 「不思議ね、体が濡れてない。ひょっとして神水なのかしら」 月夜見は、腰に下げた袋から、儀式に使う甕を取り出した。 「そんな物を持ってるから、泳げずに溺れるんだよ!」 俺は、思わず頭を抱えた。水になった俺に頭など無かったけどな。 それから月夜見は、水になった俺を儀式に使う甕へと酌んだ。 「俺なんか酌んだら甕が穢れるぜ。どうなっても知らねえぞ。それより、早く村に知らせに行けよ!」 しかし俺の声は、月夜見には届かない。 月夜見は、俺の入った甕をうやうやしく捧げながら、河原を歩き始めた。 「生きていやがったか!」 頭上から声が響いた。 突然に、目の前に黒い影がふってきた。 地響きを立てて地面におりたつ。 つぎつぎと異形の者たちが地面におりたってくる。 「あの急流を泳ぎ渡るとは、只者ではないな。やはりこの小娘が日ノ巫女だったか!」 巨大な蝦蟇蛙のような悪鬼が、鋭い歯の生えた口を大きく開いて言った。 「だが、ここで倒せばよい。それだけの事だ。さっさとこいつを倒して、里の若い女どもの肉をたっぷりと貪ろうぜ!」 月夜見は、悪鬼どもの前で、一歩も引かずに踏みとどまっていた。 俺は、月夜見が何を考えてるのかが分かった。 (私が引けば、こいつらはすぐに村を蹂躙する。踏みとどまって少しでも時をかせがないと……) 俺は、月夜見の凛々しい表情に魅入られた。 (何とか守ってやりたい) だが、水の体しかない俺では、悪鬼から月夜見を守れない。 俺の喉元は強張り、胸が苦しいと感じた。 そのとき、蝦蟇顔の悪鬼が月夜見に襲い掛かった。 月夜見は、小さく声をあげて後ずさった。 月夜見の捧げ持つ甕が大きくゆれる。 俺は、不意を突かれた。 甕から俺がこぼれ落ちる。そのまま地面に吸いこまれてゆく。 悪鬼は、手に持つ丸太ン棒を振りかざすと、月夜見をめがけて凄い勢いで振り下ろした。 「ダメェェェ!」 ダメな事は、月夜見に言われなくとも、分かる。あんなのを喰らったら一撃で即死だ。 その時、俺は谷川の水とつながった。激流を全身で感じとる。 「だめだったら、ごめんな!」 俺は、谷底を流れる激流の勢いを借りて地面から吹き上がった。悪鬼の腕と丸太ン棒を受け止める。 なんと、振り下ろされる丸太ン棒を、月夜見に当たる寸前で食い止めたぞ! 谷川の勢いは、凄かった。 「ば、馬鹿な、水の盾だと? ならば、これならどうだ!」 悪鬼は、いったん丸太ン棒を引くと、今度は横から月夜見を殴りつけてきた。 「清彦、そばに居るのね?」 そうつぶやいて、月夜見は叫んだ。 「防いで!」 防ぎようがない! 月夜見が丸太ン棒をまともに喰らって体を二つに折られ、吹き飛ばされる姿がありありと思い浮かんだ。 俺は震えあがった。 ピッキーン。 ぐわっしゃ! 鈍い音を立てて、丸太ン棒が動きを止めた。 「こ、氷の盾だと?」 悪鬼は、うめいた。 雪解け水の冷たさと谷底の冷気で、俺の体は凍りついていた。 「クソが、ふざけやがって!」 悪鬼は、こんどは俺を丸太ン棒で殴りつけた。 凍りついた俺の体に、無数のひび割れが走る。 でも、水がひびにしみ込んで凍りつき、すぐにひび割れを埋めて塞いでゆく。 悪鬼が叫んだ。 「らちが明かねえ。こうなれば、寄ってタカってやっつけるぞ!」 「やれやれ、里を焼き払うために力を蓄えてたのだがな」 赤黒い溶岩のような悪鬼が、凄まじい火焔を飛ばした。 俺の体は、たちまち溶け崩れた。 巨大なイタチのような悪鬼が凶悪な顔で俺を睨みつける。 「喰らえ!」 凄まじい烈風が吹きつけた。 水に戻った俺の体は、粉々になって吹き散らされた。 巨大なネズミのような悪鬼が体中に生えた太いトゲを逆立たせた。 月夜見にトゲの先端を向ける。 バチバチと蒼白い電光が走っている。 「まずい!」 俺は、バラバラになった体を慌ててつないだ。 目もくらむような強烈な光が走る。落雷のような轟音が響き、絶叫があがった。 悪鬼たちは、ぶすぶすと黒煙を上げながら、地面に倒れ伏している。 月夜見は……、無事だ! 雷撃を逸らすことができたようだ。 巨大な蝦蟇蛙のような顔の悪鬼が、体から煙を上げながら、ゆっくりと立ち上がった。 「言ノ葉すら唱えずに雷撃を打ち返しただと?」 そう言うと、悪鬼はあたりに散らばる武器に手をのばした。 「この刀も、錆びて使い物にならねえ。この盾もすっかり錆びてやがる。だめだ!」 悪鬼の言葉を聞いて、俺は思った。 (そういえば、濡れた刃物は錆びるなァ) 蝦蟇顔の悪鬼は、黒い刃の大刀をつかむと、それを支えにして、ゆらりと立ち上がった。 「さすがは呪いの剣だぜ。水でも、血でも、錆びねえときてやがる」 「守って!」 月夜見の言葉が発せられる前に、俺は蝦蟇顔の悪鬼に飛びかかった。目玉を掻きむしる。えぐる。鼻と口をふさぐ。 (首の脇で閉じたり開いたりしてるのは、エラか?) エラが開かないようにふさいでやった。 (おお、苦しんでる、苦しんでる) 体を包んで激しく渦を巻き、さらに翻弄してやった。 蝦蟇顔の悪鬼は、俺を振り払って叫んだ。 「一斉に襲い掛かって殴り殺せ!」 月夜見がまけじと叫ぶ。 「食い止めて!」 「無茶を言うな。無理だよ」 脇で倒れていた巨大なネズミのような悪鬼が、体中に生えた太いトゲを逆立たせた。今度は、電光を生じていない。 いきなり、無数のトゲが月夜見めがけて飛んだ。 月夜見は、言霊をのせて素早く言ノ葉を唱えた。 「ほとばしれ!」 (陰より破すれ:くぼみたる所から出でて、元から別れた一つと成れ) 月夜見の捧げ持つ甕から、残りの俺が水流となってほとばしり、飛来するトゲを逸らす。 今度はツブテが月夜見を襲う。 甕からほとばしる水流は、ツブテの向きを変えた。 これで甕の中には、俺はほとんど残っていない。 黒い蓑傘を着た悪鬼が、かすれた声で言った。 「凄ノ王が守っておるのか。倒すのは難しそうじゃな。だが、術者の心を操るのは、どうじゃろうかのう」 (いけない、こいつは、とびきり危険なヤツだ!) そう思っても、俺にはどうすることもできない。 しかし月夜見は、俺を甕からすくい上げて、大きな声で言ノ葉を唱えた。 「はぜよ!」 (破せよ:元から別れ、一つ一つと成れ) 月夜見の手から放たれた俺は、強い言霊を帯びて飛び、黒い蓑傘の悪鬼を貫いた。 悪鬼の体は膨れあがると、波のようにゆらぎ、はじからバラバラに崩れていった。 悪鬼の体から真っ黒い霧が立ちのぼり、あたりに広がった。 周りにいた悪鬼たちは悲鳴をあげた。 黒い霧に触れた悪鬼たちの顔や体が溶け爛れてゆく。 月夜見は、倒れて苦しむ悪鬼たちを見すえて言った。 「下賤なお前たちに、言霊について教えてあげるわ」 月夜見は言ノ葉を紡いだ。 「元から分かれた一つ一つをハと言う。枝から分かれた一つ一つを葉と言う。元を一つ一つに分けるのを破と言う」 月夜見は、悪鬼たちを油断なく見渡しながら、平板な声で言った。 「この者は、葉を憑代にしていたから、破がよく効いた。どんなに恐ろしい呪いでも、掛けられる前に祓ってしまえば、どうということはない」 黒い蓑傘の悪鬼は、朽ちて黒ずんだ葉の山になっていた。 俺は、思わずつぶやいた。 「俺には何の事か、全然わからないぜ」 月夜見が応えた。 「清彦は黙ってろ。精いっぱい虚勢を張ってるのだから、邪魔するな!」 「あれれ、聞えてたのか?」 「ああ、途中からな」 月夜見が俺につぶやく。 「それにしても凄ノ王の力はすごいな。どうやったのだ?」 (どうやったって? 俺には、よく分からないよ) 「それより、月夜見よお、甕の中にはあまり残ってないぞ」 「わかった。気をつける」 蝦蟇顔の悪鬼が、黒い刀をかまえて憤怒の形相でゆっくりと月夜見に近づいてきた。 月夜見は言ノ葉を唱えた。 「はなれよ!」 (破、成れよ:元から別れて、一つ一つと成れ) そりゃそうだ。 俺だって、あんなヤツには近づかないで欲しいさ。 誰だって、あんな怖い顔を、近くで拝みたくはないからな。 月夜見は甕に指をつけて、残った俺をすくい上げた。悪鬼に向かって俺を放つ。 (知ってるぞ、これは邪を払う呪いだ) 飛沫になった俺は、強烈な清めの言霊に、谷川の流れの勢いをたっぷり乗せて、悪鬼へと走った。 勢いを絞り込み、一点に集める。 なんと、悪鬼の体を貫いた。 ズシン! と音を立てて、悪鬼の左腕が地面に落ちた。 悪鬼の上半身が斜めにずれてゆく。ゆっくりと大地に倒れ伏してゆく。 悪鬼の体は、両断されていた。 (こりゃ、スゲエや) 月夜見も驚いた顔をしてた。それから月夜見は、感情のこもらない声で静かに言った。 「唱えた言ノ葉は、『破、成れよ』、だ。この者はハンザキを憑代にしていたから、その身を裂いて分かつことは容易だった」 (強がりだな) 俺には、月夜見の足が小刻みに震えてるのが分かった。 (頑張ったから、少しほめてやるか) 「ハンザキを憑代にしてるなんて、良く分かったな。さすがは日ノ巫女様だ」 「巫女見習いに分かるわけないだろ。清彦は黙ってろ」 叱られた。 (虚勢と当てずっぽうかよ) 「ばれたら、こいつら激怒するぞ」 「本人が死んでるから、ばれないだろう」 「月夜見は、意外と度胸があるなァ」 「清彦がいてくれれば、なんだって出来る」 おだてられた。 しかし、悪鬼たちは歩みを止めて、月夜見を遠巻きにしている。 (こいつら怯えてやがる。もう、一押しだ) 俺は、切り裂かれた悪鬼の体が、まだ死に切っていないことに気づいた。 (こいつ、しぶといな) 「この悪鬼を操ってみるぞ」 月夜見は、目を見開いた。かわいい! 「できるのか? ならばよし。掛かれ!」 (俺は、犬かよ) そう思いながら、俺は倒れた悪鬼の体に入りこんだ。 離れた体をつなぎ止めて、立ち上がらせる。 落ちた左腕は、腰を掴ませて、腕がつながったように見せかける。 ずれて別れようとする体をなんとかつなぎとめながら、刀を振りあげさせ、悪鬼の群れに無理やり突き進ませる。 (さあ、恐れおののき逃げ惑うがいい!) しかし、さすがは悪鬼どもだった。 俺の思惑とは逆に、逃げずに立ち向かってきた。 俺は、蝦蟇顔の悪鬼に刀をさげさせ、突きださせた。 「うお、胴を刺された」 「こいつもやっつけろ、早くしないと操られるぞ!」 悪鬼どもは同士討ちを始めた。 (たぶん、これだけでは悪鬼どもを食い止められない。他に手はないか?) 見上げるほど巨大なイノシシのような悪鬼が、ズシリ、ズシリと大地を震わせて、月夜見に近づいてくる。 「串刺しにして、喰ろうてやるわ」 その声は、地の底から響くようだった。 木の枝を槍のように尖らせて武器にしている。 鉄の武器は、錆びて使い物にならないからな。 枝には、まだ命が残っている。それが感じ取れた。 俺は、枝に浸み込んだ。 枝に残る命に、俺の水の命を加える。 悪鬼の持つ槍から、無数の芽が突きだし、根が伸びる。 山の天気は変わりやすい。 ちょうどいい具合に、雲が去って、まばゆい太陽の光が降り注いできた。 天空で輝く天照大御神の恵みを、萌え出た若葉に受けさせる。 木の槍は、たちまち緑の葉に覆われた。 「なんだ、これは!」 イノシシのような悪鬼は、あわてて槍を地面に突き立てた。 「こら、逆さまに刺すな!」 しかたないので、俺は槍の先端から谷川の水を吸い上げて、空中に根を伸ばした。 近くにあった蔓ツタに入りこみ、枝を伸ばしてやる。 そばの木々に谷川の水を送りこむ。 水を得た草木から生命力があふれ出た。俺の体にまで、草木の命がどんどん流れ込んでくる。 (草木の生命力って凄いなあ) 蔓ツタが、木の槍の根が、音をたてて伸びて、悪鬼どもの手足を縛る。 緑の木々が巨人のように膨れ上がり、悪鬼たちの前に立ちふさがる。 (これだけでは、だめだ。ただのコケ脅しにしかならない。なにか手だてがないか?) 危惧したとおりだった。悪鬼どもは、蔓ツタを苦も無く引きちぎり、覆いかぶさった緑の巨人の体をかき分けて、月夜見の方に進んでくる。 悪鬼の一匹が何か大きなものをを月夜見の足元に投げた。 ドサリと、ひどく不吉な音が響いた。 俺は、それが何かを確信していた。 (あれは、たぶん俺の体だ) 「清彦、キヨヒコォォォ~!」 月夜見の絶叫が深い谷に響きわたった。 雪におおわれた険しい山々も、嘆きの声を、か細く、何度も繰りかえした。 (すまない、月夜見。こんなに悲しませて。だが、どうすれば悪鬼どもを退けられる?) そのとき、俺に天啓がひらめいた。 (そうだ、上流に、きっとあるはずだ) 俺は谷川の激流を一気に逆のぼった。 山では、冬の間に何度も雪崩がおこる。雪崩は岩や樹木を押し流す。雪崩が運んだ岩や樹木は、谷をうずめ、雪解け水を堰き止める。 雪解け水は、堤からあふれ始めていた。堤は、雪や氷が溶けて崩れかけており、まさに決壊しようとしている。 俺は、堤の底からほとばしりだした水流と力を合わせて、流れを広げていった。 勢いのついた水流は、たちまち堤をくずして押し流し、岩や樹木を巻き込んで、凄まじい勢いで谷を下り始めた。激流の先に破壊の気が集まってゆく。全てを壊しつくす力が急速に高まってゆく。 途中にたまった水をすべて呑みこむ。大地を揺るがせ、岩を砕き、岸を削る。轟音すらも呑みこんで破壊の力に変えながら、激流は一気に谷をくだった。 破壊の奔流は、月夜見の姿が見えたと思った次の瞬間には、悪鬼どもをことごとく呑みこんでいた。 巨大なイノシシのような悪鬼は、鋭い木の枝に刺し貫かれた。 「これが凄ノ王の力か……」 そう言い残して、悪鬼は破壊の奔流に巻き込まれた。 赤黒い溶岩のような悪鬼は、水に没したとたんに爆発して砕け散った。 イタチのような悪鬼が、ネズミのような悪鬼が、数すら知れぬ悪鬼たちが、怒り狂ってぶつかり合う無数の岩の群れに呑まれた。悪鬼たちは、岩に挟まれてバラバラになり、骨を砕かれ、身を削り落とされ、すり潰されて形を失い、たちまち流れ去っていった。 俺は、全力を振り絞って月夜見を守った。 次々と転がり落ちる巨岩が、大木が、鋭く尖った枝が、激しい水流とともに月夜見に襲い掛かる。 巨岩同士を滑らせてぶつからせ、動きを止めて流れを遮る。月夜見に当たりそうになった岩を川底に叩きつけて砕く。巨木を岩と激突させて、ころがる向きを変える。流れを逸らす。 俺は全力で月夜見を守った。 蓄えた力が、削られ、そぎ落とされ、急速に失われてゆく。 「すまない、月夜見」 俺は、ついに力つきて、消滅した。 「清彦、清彦……」 月夜見がすすり泣いている。 俺の抜け殻にすがりついている。 俺が思った通りだった。悪鬼が月夜見に投げつけたのは、抜け殻となった俺の体だった。 「ウソだよね、清彦。死んでないよね」 月夜見は俺の体を抱き起し、甕に残った水を口に注ぎ込もうとする。 しかし、水は俺の口から流れ落ちるだけだった。 「無駄だよ、月夜見。それは、ただの水だ。俺は、もう残っていないから……」 俺のつぶやきは、月夜見には届かない。 「お願い!」 (私は、夜を統べる神の御名、ツクヨミを授かった者です。黄泉の国に住まわれる伊邪那美命の御前にて謹んで申し上げ奉ります) 「生き返って!」 (この者の魂は、まだ黄泉の平坂を越えてはおりません。どうか、この者の魂を返し賜れんことを、伊邪那美命の御前に伏して乞い願い奉ります) 月夜見の言ノ葉は、願いの強い言霊を得て、あたりに満ちた。 でも、かすみ、ゆらいぐ視界にみえる俺の姿は、完全に死んだ者の姿のままだった。 「あれ?」 (俺は、いまどこから俺の抜け殻を見てるのだ?) ゆれる視界がぼやけた。 「え?」 俺の口が急速に迫ってくる。 振り返ると、涙を流している月夜見の顔がすぐ近くに見えた。 俺は、俺の口の中に落ちた。 そして、ふたたび水の体を手に入れた。 水の体を集めて、自分の抜け殻の中に戻る。 「神水が、清彦の口に吸いこまれてゆく……」 月夜見のつぶやきが聞こえた。 俺は、水の体を全身に行き渡らせた。 「とくん」 鼓動が響いた。それから、苦労しながら息を吸い込む。 「清彦!」 月夜見は、俺の体を抱き上げた。 見上げると、月夜見の頬に俺の命がわずかにこびりついていた。 だから舌で舐めとった。 下唇にも付いてる。 俺は、月夜見の下唇を吸った。 月夜見は俺をギュッと抱きしめると、口づけを強く返してくれた。 いや、そんなつもりではなかったのだが。 そりゃ、うれしいけどよ。 でも、命が足りない。 このままでは、鼓動も息も止まってしまう。 その時俺は、月夜見の体に俺の命がまだ宿っていることに気が付いた。 あれを吸わせてもらえれば…… いや、…… でも、…… しかし、…… だが、ここで俺が死んだら、きっと月夜見を悲しませる。 しかたない。 他に仕方が無い。 俺は、心を決めて言った。 「月夜見、お前の乳を吸わせてくれ!」 月夜見は、しばらく呆然としていた。 「……え?」 それから、月夜見は耳まで真っ赤になった。 「あの、ええっと……」 俺は、もう一度、言った。 「頼む」 ゆっくりと月夜見の表情が引き締まっていった。 「分かった。この責任は、ちゃんと取れよ!」 月夜見はそう言うと、唇を強く結んだ。ほれぼれするほど凛々しかった。 月夜見は、狩衣を大きく開いて胸をあらわにし、俺に乳房を含ませた。 月夜見は俺に乳を与えながら、代々の巫女に伝えられた言ノ葉を静かにつぶやいた。 わが言ノ葉に耳をすまし、わが言ノ葉を心に刻め。 チは大いなる不思議を成す。 生きる力をもたらすものを乳(チ)と言う。二つあるゆえ乳(チチ)とも言う。 生れたばかりの子は、生きる力がたやすく失せる。 乳は赤子に生きる力をあたえる。 乳は、大いなる力を持つ…… 月夜見の唱える言ノ葉を子守唄のように聞きながら、俺は月夜見の乳を吸い続けた。 気になったので訊ねてみた。 「お前の唱えてる言ノ葉って、何なんだ?」 「言ノ葉は事ノ端、大切な真実のひとカケラだよ」 月夜見の乳房から、祈りが、命が、力強い言霊が流れ込んでくる。俺の体に広がってゆく。ぬくもりが、トキメキが、沸き立つような喜びが、俺の体に満ちてくる。 「生き返ったぜ、ありがとうよ。そうだ、これからもお前を守ってやるぜ」 俺は、元気に立ち上がろうとして、無様にへたりこんだ。 「だらしないなあ、凄ノ王のくせに。本当に清彦は、肝心なところでドジなんだから」 (クソ、決めなきゃいけいないところで決めそこなったぜ。返す言葉が無いなァ) 月夜見に言いたい放題言われてしまった。 「まだ生き返ったばかりだから、無理をするな!」 月夜見に叱られて、今度は慎重に立ち上がる。 少し目が回っているが、何とか歩けそうだ。 俺がふらついてる間に、月夜見はあたりから石を集めて手早く祭壇を作り、供物をそなえていた 「さあ、里に帰ろう」 どちらからともなくそう言って、俺たちは山を後に歩きだした。 最後の一歩を踏み出す前に、俺たちは山へと向き直り、儀式をしめくくる古の言ノ葉を大声で唱えた。言ノ葉の響きは、山に吸いこまれて消えていった。 それから、供物と祭壇を残して、俺たちは山をあとにした。 この年も、その次の年も、その次の次の年も、里も山も多くの幸に恵まれた。 |
朱鷺(とき) 2018年12月30日 12時01分08秒 公開 ■この作品の著作権は 朱鷺(とき) さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2019年01月14日 22時47分08秒 | |||
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Re: | 2019年01月14日 22時46分35秒 | |||
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Re: | 2019年01月14日 12時50分56秒 | |||
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Re: | 2019年01月14日 12時50分25秒 | |||
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Re: | 2019年01月14日 12時49分54秒 | |||
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Re: | 2019年01月14日 12時49分28秒 | |||
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Re: | 2019年01月14日 12時48分56秒 | |||
合計 | 7人 | 100点 |
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