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「恩田、今日は何月の何日だ?」 額に冷却シートを貼った先輩が、手元の動きを止めずに聞いてきた。僕はエナジードリンクの瓶に突っ込んだストローから口を離す。 「十二月の二十四日、……もうすぐ二十五日」 「その通り!」 空元気な先輩の声と単調な二人のタイピング音が、真っ暗なフロアの闇に吸い込まれていく。 何も返さずにいたら先輩は間髪入れずに質問を重ねた。 「今日が何の日か分かってんのか? イブだぞ、イブ。クリスマスイブ! そして一時間後にはクリスマスだ! 世の中の人間は皆恋人たちと甘い時間を過ごしてるんだ。なのに俺たちときたら!」 先輩は自称喋っていないと眠ってしまう人間らしく、疲れてるときほど饒舌になる。完全無視すると拗ねるし最悪の場合夢の世界に旅立ってしまうので、僕は適当に返事をすることに決めている。 「何やってんだろうって思うだろ?」 「仕事ですよ」 「分かってるよ。お前は真面目か!」 「真面目に生きることにしてるんで」 「聞いてねえ。俺が言いたいのは、なんで俺らが今日仕事やってんだって話だよ」 「沢口さんが納期間近の案件抱えて蒸発しちゃったからですね」 「さあわぐちィ! あいつ街で見つけたらブッ飛ばしてやるからなァ!」 先輩は怒りのままに勢いよくキーを叩く。同時にプラスチックが割れる音がした。 「ああァ!」 先輩はくまに囲まれた目で僕を見つめる。 「何やってるんですか……」 「何やってんだろうって思うだろ?」 「先輩のと同じキーボード、倉庫にあったはずなんで取ってきますよ」 「さっすが恩田くん、超優秀! ……あ、ついでにコーヒー買ってきて」 僕はコードを一時保存し、財布とカードキーを持って席を立つ。 「五分以内に戻ってくるんで寝ないでくださいよ?」 「へーい」 「クリスマスか」 自動販売機がカップにコーヒーを注ぐ音を聞きながら、誰もいない廊下でふと呟いた。 部長が「クリスマスぐらいホワイトでないとな」と笑えない冗談を言ったせいで、家庭や恋人を持つ同僚は沢口さん案件を見て見ぬふりをして皆早々と帰宅していった。……といっても彼らも彼らで別件のデスマーチ明けだったりするので、残ってもらうのが酷すぎたのも確かだ。 件の沢口さんは、労働環境に嫌気が差したのか一週間ほど前に姿を見なくなった。どうやら辞職したらしいが、先輩が部長に問い詰めようとしたら「余計なことを気にするぐらいなら手を動かせ」と叱られていた。転職したのか社会からドロップアウトする道を選んだのか、はたまた宝くじやFXで大儲けしたのか、今は誰にも分からない。分かるのは、僕たちが残された案件を明日の朝までに片付けなければいけないということだけだ。 信頼していた人だったというのもあって残念だが、今となっては仕方がない。 コーヒーが注ぎ終わって、できあがりランプが点灯した。 「できあがり、と」 半透明の小さな扉を開けて紙のカップを取り出した。 両手にコーヒーのカップ、左脇にキーボードを挟んでいる。廊下の壁に嵌め込まれた縦長の鏡を見て、我ながら滑稽な格好をしているなと思った。特に、綺麗に張ったスーツとやつれた顔のコントラストが皮肉だ。 「何やってんだろう、か……」 口ずさんで鼻で笑う。 今の僕の姿も、先ほど同じ言葉を口にした先輩のこの世の終わりみたいな顔も確かに可笑しかった。でも、思わず笑ってしまったのはそのせいではない。「何やってんだろう」というフレーズがひどく懐かしく感じられたからだ。 もう十何年も前のことなのにはっきりと思い出せるのは、あの夜が僕の人生においてそれだけ衝撃的で、そして今までも何度も思い出しては後悔してきたからに違いない。 「何やってんだよ」 頭の中で響くのはあの日の僕の声だ。 「ホント、何やってんだろうね……」 お決まりのように彼女の声もついてくる。 まるで呪いだと思った。彼女の声を引き金にあの日の記憶がフラッシュバックする。そして僕の思考は、何度もそうしてきたように、その冷たい記憶の中へ潜っていくのだ。 ◆ 「ここ数年で最強のレベルと言える強烈な寒波が日本海を越えて列島を襲おうとしています。本日の夕方から夜にかけて各種交通機関に大きな乱れが生じる恐れがあるため――」 後先のことを何も考えずに生きる高校生男子にとっては、天気予報なんかどうでもよかった。予報士のお姉さんがどれだけ険しい顔を浮かべていてもどこか他人事だと思っているから、昨晩録画したドラマを再生することに迷いは無かった。 「帰りに電車止まったら迎えに行くから連絡ちょうだいね」 「うん」 台所の母さんに生返事をした。どうせ止まってもなんとかなるだろうと思いながら、ぼんやりとドラマのオープニングを眺めていた。 電車通学は大変でしょと言われることが多かったが、あまり大変だと思ったことは無かった。一度電車に乗ってしまえばあとは一時間弱座っているだけで目的の駅まで乗せていってくれる。その間本を読んでいようが音楽を聴いていようが他の乗客を眺めていようが僕の自由だ。 大変なことがあるとすれば、ふたつ。ひとつは電車に乗り遅れたときだ。 田舎の電車は、一本出てから次が来るまでの間隔がとにかく長い。通勤通学者が多いはずの朝の時間帯ですら一時間に一本か二本。昼過ぎの三時間弱は一本も発車しない。特に遠い地域から通っている僕なんかは、乗りたかった始発電車に乗り遅れたら問答無用で遅刻が決定する。多くの同級生がまだ家を出ていないであろう時間帯に、学校へ遅刻の連絡を入れなければいけないのだ。 もうひとつは悪天候で運行ができなくなるとき。海岸沿いを走るエリアは日本海から直撃する風に弱く、強風の日には決まって同じ駅で立ち往生する。風が収まってくると運行を再開するのだが、万一の突風に備えてか超低速で動くので、自動車はおろか自転車にも抜かされたりする。 冬場は車内の暖房が異常な温度に設定されているから、運行見合せのときに飲み物を持っていないと脱水症状を起こしかける。電車通学に慣れていなかった一年目の冬は地獄を見た。今年からは電車に乗るときは水筒が空でないことを確認しているので大丈夫だ。 冬休みに入ったので、授業の代わりに部活が午前中に行われる。終業式の一週間ぐらい前から本格的に雪も積もり始めていたから、最寄り駅から学校までの道を自転車で行き来することは諦めていた。今日も踏み固められた雪の上を同じように踏みつけながら学校に向かっていった。 「あ、恩田。お前、今日よく来たなあ」 顧問の先生の第一声がそれだった。 「え、今日も稽古ありますよね?」 僕は首を傾げる。道場にはもう着替えが済んで体操をしている部員もいた。 「今日は電車止まるかもしれないって言ってたぞ」 「ああ。止まったら止まったでなんとかなりますよ。稽古休むわけにはいかないと思って」 「お前は真面目だな。もしあれだったら早めに帰れよ」 「分かりました」 おざなりに返答した僕は結局、通常通りの時間まで稽古を続けた。部室での談笑の後に校舎のある山を下り始める頃には、時刻は午後一時に迫っていた。 坂道から見渡せる市街地は真っ白になっていた。僕が道場にいる間にまた降っていたようだ。灰色の雲が反対側の山まで薄く広がっていたが、隙間から差す陽光は屋根の雪で淡く跳ね返り、街の空はぼんやりと光っているように見えた。 何か特別なことが起こる予感がした。 「ケイちゃん」 聞き覚えのある声に振り向く。坂の少し上の方に彼女は立っていた。僕は思わず息を飲んだ。 膝下まで伸びる真っ黒なコート、そして赤色の帽子とマフラーで最大限の防寒をした相手の顔は、長いまつげの生えた目元しか見えない。それでもそれが誰なのか僕にはすぐ分かった。左目尻の泣きぼくろにも覚えがあったし、僕を「ケイちゃん」と呼ぶのは、家族か親戚か近所の大人か、幼馴染みの彼女ぐらいだからだ。 「ユウ姉……」 僕は返事をするように彼女を呼んだ。急に息が詰まったような気がして、冷たい空気を思い切り吸い込んだ。 そしてすぐに、少し先を歩いていた部活仲間たちの存在を思い出した。はっとなって前を向き直すと、少しニヤつきながら僕を見て「先に行ってる」とジェスチャーしていた。何も言わずに口を尖らせて眉間にしわを寄せてみせた。 「やっぱりケイちゃんだ! 久しぶりー」 僕が部員たちとやり取りをしている隙に、ユウ姉こと橋野悠華はすぐ隣まで駆け寄って来ていた。 「今日も練習? 冬休みなのに大変だねえ」 「ユウ姉こそ……」 確かに久しぶりだ、と遅れて思った。以前と同じように話していいのか、同じように話せるのかという不安が、僕の舌を一瞬だけ麻痺させた。 「ユウ姉こそなんで学校に来てるんだよ。もう受験終わってるんだろ?」 「終わってるよー。最後に学校でも描いておこうかなって思って来たんだけど、電車止まるかもって思ってほとんど何もしないで帰るところ」 「あ、そうなんだ」 「うん」 ひんやりした沈黙が体を包む。 我ながら素っ気ない態度を取ってしまったな、と小さく後悔する。でも、自分でもビックリするぐらい言葉が出てこない。前はもっと自然に話せていたはずなのに。 橋野悠華は僕の家の近所に住んでいる女の子だ。学年こそひとつ上だが、誕生日は一か月も離れていない。昔から家族ぐるみの付き合いがあって、彼女はいつも僕の実の姉のように接してきた。「ケイちゃん」「ユウ姉」という呼び方もいつから始めたか覚えていないくらい定着していて、たぶんお互いの親がそう呼んでいたのだろうと思っている。 二人の年齢が離れるのは本当に短い期間だが、ユウ姉は常に僕よりも一年先の人生を歩んできた。一年早くランドセルを背負い、一年早く中学校に通い、一年早く高校生になった。そして僕がまだ部活に明け暮れてる今年、ユウ姉は進学する大学を決めた。 東京の美術大学に推薦で合格した、と少し前に母さんから聞いた。昔から絵を描くのが好きだったユウ姉は高校でも美術部に入っていて、コンクールで何度も入賞していることは学校でも有名な話だった。 天真爛漫な性格で、才能があって、リーダーシップのあるどこか大人びた顔立ちの美人。ユウ姉が多くの生徒にとって憧れの存在であるのは自然なことだと思うし、一歩前を行く姿を一番近くで見てきた僕がどれほど強く彼女に憧れていたかは言うまでもないだろう。公園の砂場で一緒に遊んでいた頃の気持ちとはまるで意味が違うけれど、僕は今もずっと橋野悠華が「好き」だった。 「それにしてもホントに久しぶりだよね……」 少し歩いてからユウ姉が口を開いた。風と足音だけの時間を気まずく感じたのかもしれない。少なくとも僕はそうだった。 ちらっと横目で見ると、ユウ姉の目線は坂道の両脇に植えられた桜の樹に向けられていた。桜の樹と言っても今はもちろん花はおろか蕾もついていない。その代わり白い空に伸びた枝には雪がずしりと乗っていて、なんとなく新しい種類の樹木に見えた。 「ケイちゃんとこうしてしっかり話すの、いつぶりだろうね」 「えっと、たぶんお盆のとき以来、かな。お墓参りの朝の……」 ユウ姉の言う通りしっかり話せてる自信がまるで無い。声が震えかけてるのは寒さのせいだと思ってほしい。 「あー、じゃあ八月以来だ」 「四ヶ月ぶりぐらいかな」 「なんか変だね。一緒の電車に乗ってることあるから会ってる気はするのに」 部活があるから帰りの時間は重ならないけれど、朝の電車はたぶんいつも同じだ。学校に遅刻しないための電車は一本に絞られるのだからそれはごく当たり前のことで、乗る車両すらもコイントスと同じ確率で被る。 「近くに座ってもケイちゃん全然話しかけてくれないもんねー」 「だって、単語帳読んだり勉強したりでずっと急がしそうにしてたじゃんか」 「まあそうなんだけどさ」 ユウ姉には悟られたくないが、本当は話しかける勇気が湧かなかっただけだ。いざ話しかけたところで今みたいに頭が真っ白になることは分かっていた。雪に覆われたシーズンオフの野球グラウンドが皮肉のように白く光っている。 よく考えたら話しかけなかったのはお互い様のはず、と言いかけて思わず言葉を飲んだ。不意に見たユウ姉の目元が笑っている気がしたからだ。 「私が単語帳とか読んでたの、見てたんだ?」 「え、うん」 「問題集とか解いてるのも?」 「そりゃ見てたよ」 「何の教科やってたかも知ってるの?」 「英語とか化学とかでしょ? ユウ姉も受験勉強大変なんだろうなって……」 彼女の質問の意図が分からなかったので何も考えずに返答した。そしてすぐに、僕がユウ姉を観察していたと白状してしまったのだと気がついた。途端に恥ずかしくなってくる。 「ち、違う! たまたま見てただけで!」 「あははは」 マフラーで覆われた口を全開にしているであろうという大笑い。冷気に晒されているはずの顔が熱い。 「でもよかったー」 「……何が?」 「ケイちゃんに距離置かれてるのかなって思ってただけ。やっぱ今日は学校に来て正解だったよ」 なぜかユウ姉は嬉しそうにそう言った。表彰のために全校集会で登壇するときよりも笑顔に見えるのは僕のうぬぼれかもしれない。 「距離なんか置かないよ」 その後に「だって僕はあなたが好きなんだから」と勢いでも言い加えられたらどんなに楽なことか。僕は指先を温めるふりをして言葉を吐息に変えて誤魔化した。 そんなことをうっかり口にしてしまって、ユウ姉の気持ちが僕に向いてないと知るのが怖い。ユウ姉が離れていくのが怖い。僕が恩田圭介という男として見られなくても、弟のケイちゃんでいる限りはユウ姉と一緒に過ごせる。だからこのままでいい。今までもずっとそう思ってきた。 大学がある大通りを歩く。人通りが多いためか歩道には電熱線が埋め込まれていて、ここでは雪や氷に足を取られる心配が無い。このまままっすぐ進めば駅の裏に出る。 「いつから東京に行くの?」 「卒業式が終わったらわりとすぐ。住むところにもよるけどね。年が明けたら家族でお部屋探しを兼ねて旅行に行くよ」 「じゃああと三ヶ月か」 「うん。ケイちゃんに会えなくなると思うと寂しいなあ」 どうしてさらっとそういうことを言うんだ、と悔しくなる。人の気も知らないで、と腹が立つ。それでもユウ姉に寂しいと思ってもらえることが何よりも嬉しくて、それが情けない。 「そういえばケイちゃんは大学決めた?」 反応に困っていたのが見透かされたのか、ユウ姉は話題を変えた。 「いや、まだ決めてない」 「そろそろ先生たちも早く決めろって急かしてくる頃だよ」 「休み明けには進路希望調査出せって言われてるよ」 「ケイちゃん勉強できるし、行きたいところに行けばいいのに」 「そこまではよくないよ」 同級生も部員も、同学年の知り合いのほとんどはもう志望大学を決めている口ぶりだった。皆には勉強したい分野があって、もしくは将来やりたいことがあって、その夢に向かって進路を決めている。ユウ姉もずっと続けてきた絵をもっと深く学ぶために大学に行くことを決めた。 僕にはそういう夢が無い。その理由は簡単で、これまでちゃんと考えたことがなかったからだ。 「僕って何がやりたいんだろうなあ」 ぽつりと呟いた。友人にはこんな風に弱音を吐くことはまず無い。でも相手がユウ姉だと思うと自然と口にできた。 「将来のこと?」 「そう。ユウ姉も皆もすごいよ。夢とか目標とかを決めてまっすぐ進んでいくの、僕には簡単なことじゃない」 「んー」 横目でユウ姉を見ようとすると、彼女の顔が思った以上に近くにあって驚いた。僕の表情を伺うようにまじまじと見つめられていた。脈が跳ね上がる。 「な、何……?」 言葉と一緒に吐いた息すら届いてしまいそうな距離感に耐え兼ね、口から飛び出そうになった心臓を飲み込み、僕はそっぽを向きながら尋ねた。 「ケイちゃんはやりたいことが無いわけじゃないと思うよ。欲張りなだけだと思うけどなあ」 「欲張り?」 「そう、欲張り。あとすっごく真面目」 ユウ姉の目が柔らかく笑う。 「ケイちゃん、勉強は好き?」 「たぶん。やってて面白いとは思ってる」 「部活は?」 「面白い。……強くはないけど」 「ゲームも好きでしょ? パソコンにも詳しいし」 「ちょっと詳しい程度だよ」 「食べるのも、本を読むのも、ドラマを見るのも、釣りをするのも、友達と話すのも好き。それから……」 ユウ姉はポケットに入れていた手を出し、細くて白い指を折りながら話す。違和感を感じて僕は思わず彼女の言葉を遮ってしまった。 「あれ、ユウ姉、手袋は?」 手がごわつくの嫌う僕と違って、ユウ姉はこの時期いつも手袋をしていた。指先が凍えると上手く絵が描けなくなるという話を信じていたから、何か無い限りは着けているはずだった。 「手袋? ああ、実はなくしちゃったみたいで。あはは、お恥ずかしい」 「なんか珍しいね。ユウ姉がものをなくすなんて」 「そうかな。結構こっそりなくしたり見つけたりしてるよ、色んなもの」 ユウ姉はすごくしっかりしてるから、素直に意外だなと思った。ユウ姉の白い手がもう一度コートのポケットに戻っていく。 「それで、なんだっけ? あ、そうだ。ケイちゃんは好きなものがいっぱいあるでしょ。やりたいことが無いんじゃなくて、いっぱいあって選べないだけなんだよ」 「そう、なのかな」 「絶対そう! だから焦んなくてもいいんじゃないかなー」 「ユウ姉だって急かしたくせに」 「私、急かしてないよ」 マフラーの奥から小さな笑い声が聞こえた。 「ケイちゃんが東京の大学に来てくれたらまた会えるなあって思っただけ」 どうしてさらっとそういうことを言えるんだ。彼女の横顔、左目尻の泣きぼくろを見て、僕は心が締め付けられるような気がした。堪らずにまた顔を背ける。 「……考えとくよ」 ユウ姉が小さく笑う。その声が嬉しそうに聞こえるのだから、やっぱり僕はうぬぼれ屋なのだろう。 駅に着いた後に二人でうどんを食べた。駅に併設されたチェーン店だ。温かいものを身体に入れたおかげか、外にいたときよりもなんとなく会話は弾んだ。 「うどん、おいしかったねー」 「うん。たまに来るとおいしい」 「さてさて、時間までどうしよっか」 お昼過ぎは帰る電車が無い。一番早い電車でさえ、発車時刻は十五時ちょっと前だ。駅の周りには自由に居座れる施設がいくつかあって、僕はいつもそういうところで過ごしていた。でも今日は行きたいところがあった。 「ちょっと買い物しようかなって思う」 「私もついてっていいよね? 駄目なら別のところ行くけど」 「全然駄目じゃないよ」 駅の中を通ってデパートに向かう。道路を挟んで反対側の駅舎とデパートは、陸橋のような連絡通路を介して二階同士が繋がっている。お腹が膨れて歩くペースが少し遅くなったユウ姉を気にしながら、僕は無駄に幅のある通路を進む。 ユウ姉と一緒にショッピング。まるでデートのようだと僕は緊張していたが、ユウ姉はなんとも思っていない気がした。家族と夕食の食材を買いに行く、ぐらいにしか考えてないのだと思う。 駅構内の壁にはちゃちな電飾や柊の飾りが取りつけられていた。田舎なりに頑張って季節感を出そうとした跡が伺える。 「今日クリスマスイブだもんね。駅員さんがつけたのかな」 ユウ姉もちょうど同じ方向を見ていたようで、同じようなことを呟いた。 「そういえば東京のイルミネーションはすごいらしいよ」 「うん、このシーズンはドラマとかでもよく見るよ」 「ここも東京ぐらい豪華に飾り付けしてくれればいいのになあー」 ユウ姉が「東京」と言う度、見えない手に冷たく背中を押される。 これまでは「ケイちゃん」でいれば問題無かった。一年早く電車通学を始めても、橋野悠華は変わらず三軒隣の家に帰ってきていた。僕はその気になれば弟として、姉である「ユウ姉」に簡単に会いに行くことができた。彼女が近くにいてくれるならそれでよかった。 「別にいいじゃんか。ユウ姉は東京に行くんだしさ」 笑いながら言おうとしたが上手く笑えなかった。「ユウ姉は東京に行く」という僕自身の言葉が脳の中で乱反射して、冷たい空気を吸い込んだ喉の奥をひりつかせる。 ――いいのか? ユウ姉が東京に行ったらしばらく会えなくなるんだぞ。 心の奥から声が聞こえた。いいわけがない、というのは分かっているんだ。でもどうしていいのかは分からなかった。 「私が東京に行ってもいいの?」 似た質問が今度は耳から脳に届く。僕は思わず立ち止まってしまった。ユウ姉は笑顔のまま僕の返答を待っている。 「なんでそんなこと聞くんだよ」 「ケイちゃんは私が東京に行っても許してくれる?」 「許すも何も、僕の許可なんか必要無いじゃんか」 「寂しくない?」 せめてふざけた口調で、せめてからかうような表情で聞いてくれたら、僕は素直に「寂しい」と答えられるのに。ユウ姉は絵を描いてるときと同じぐらい真剣な顔とトーンで問いかけて僕を困らせる。 「ふざけてる?」 「本気で聞いてるよ」 「そうだよね」 僕はユウ姉には気付かれないように深呼吸をした。 「寂しいに決まってるじゃんか」 口にした途端に恥ずかしくなって、逃げるようにまた歩き始める。 「だって……」 だって好きな人と、と言いかけた口を手で覆う。臆病な吐息が指先の震えを暖める。やっぱり僕は恩田圭介にはなれなかった。 「だって家族と離ればなれになるんだから。そりゃ寂しいよ」 背中の方向からユウ姉の小さな笑い声が聞こえた。 「なんだ。やっぱりケイちゃんも寂しがってくれるんだね」 「当たり前だろ」 嘘を吐いているわけじゃないのにそんな気分だった。駅構内に吹き込んだすきま風が、僕の身体の芯まで届いて冷やす。 歩調を早めたユウ姉が僕の隣までやって来て笑った。 「照れることないじゃん。私もケイちゃんと同じぐらい寂しいよ」 違う、同じぐらいじゃないんだ。僕の「寂しい」とユウ姉の「寂しい」は違うんだよ。 ユウ姉の優しげな笑顔がなぜか悲しそうに見えた。すぐ隣にいるユウ姉がもう遠くにいる気がした。気持ちを燻らせた「ケイちゃん」は、ユウ姉と並んでデパートへ向かう。 「ところで何買うの?」 エレベーターに乗り込んでからようやくユウ姉が聞いてきた。僕は衣料品売り場のある一階のボタンを押す。 「今日はクリスマスイブだからさ」 「分かった! 靴下だ」 「ちょっと違う」 「そう言えばケイちゃんってまだサンタさん信じてる?」 「まさか」 話している間に一階に着く。フロアには暖房が効いていて少し暑いぐらいに感じた。ここでも時季を意識した飾りつけが施されているが、それなりにお金をかけているようで駅で見たものよりいくらかマシだ。 どこに売っているだろう、と階を見渡した。何を買おうとしているか知らないユウ姉もきょろきょろしている。やがて『クリスマスセール・冬物特価』と書かれた小さな幟を見つけた僕は、その一角に向かって歩いていく。 「ケイちゃんって普段はこういうところあまり来ないよね? 今日に限って何買うの?」 「……手袋だよ」 「手袋って手袋? ケイちゃん、手袋履かないじゃん」 「僕のじゃなくて」 売り場の棚を見渡し、直感を刺激した赤い手袋を選び取る。暖かそうな女性用の手袋だ。 「私の!?」 本当に驚いたユウ姉のすっとんきょうな声がフロアに響く。何人かの目がこちらに向いたのに気が付いて、ユウ姉は恥ずかしそうに咳払いをした。 「いいよいいよ。なくしたの私の責任だし、ケイちゃんに買ってもらう訳にはいかないよ」 「今日はクリスマスイブでしょ?」 「そうだけど」 「クリスマスプレゼントだよ。僕からユウ姉に」 声が上ずりそうになった。 照れを堪えてここまで言えた自分を誉めてあげたい。相当に強引な自覚はあったけれど、ユウ姉に何かをしてあげられる日は今日が最後なんじゃないかという焦りが、僕を少しだけ勇敢にしてくれた。 「これとか、どうかな?」 僕は手袋を見せながらユウ姉に尋ねる。反応が怖くてしっかり顔を上げられない。 「帽子とかマフラーと同じ色だし。あとユウ姉には赤が似合う気がするし」 少しの間だけ困惑した表情を浮かべていたユウ姉は、僕の目をまっすぐ見て笑った。今日見せてくれた中でもとびきりの笑顔である気がした。 「ありがとう、ケイちゃん。私、この手袋だけはなくさないようにするよ」 「うん。僕の方こそありがとう」 僕がそう告げるとユウ姉は小首を傾げた。その仕草が堪らなく愛しく感じた。 どうして僕が礼を言うのか、と聞きたいのだろう。プレゼントを受け取ってくれてありがとう、という意味だとは恥ずかしくてさすがに口にできない。 「買ってくるから、待ってて」 「うん。すぐ戻ってきてね」 手袋を持った僕は会計カウンターの方へ向かい、ちょっと振り返ってユウ姉を見た後、また歩みを進めた。 一瞬で焼き付いた彼女の笑顔が網膜から剥がれない。目の奥と耳が熱い。やっぱりこのフロアの暖房は効きすぎだ。 「このまま五階に行こうよ!」 手袋を無事に渡してエレベーターに乗った直後、ユウ姉がそう提案した。僕が返事をする前に白い指がボタンを押す。暖かさで身体がほぐれたのか、ユウ姉の動作はどこか軽快に見える。 「五階って、なんだっけ?」 「本屋さん。言っておくけど、今度は私からケイちゃんにプレゼントする番だからね。ケイちゃんが実はええかっこしいなのは知ってるけど、年上にもちゃんと花を持たせないと」 「年上って……」 生まれたのは一ヶ月も違わないじゃんか、と僕が今さら言えるはずもない。同い年でないことを素直になれない言い訳にしてきた張本人が、彼女の言葉を今になって否定することはできない。 「年上だよ。私はケイちゃんの一個上」 ユウ姉が呟く。 「そうだよね」 同意して思わず俯いた。エレベーターの高度は僕の気持ちと反比例するように上がっていく。 もしも同い年だったら、僕も一緒に東京へ行って、あわよくばまたユウ姉と向こうで食事に行ったり遊んだり、そんなことができたんだろうかと考えてみる。考えていて悲しくなった。東京でもユウ姉の近所に住むとは限らない。ユウ姉が変わらず接してくれるとも限らない。一つ絶対に当たる予言があるとすれば、僕は来年もこの街に残って、ユウ姉は東京に行ってしまうということだけだ。 どう足掻いてもそんな未来を変えることはできない。感情が底に達したとき、「五階です」というアナウンスが流れ扉が開いた。 「ほら、ケイちゃん、行こうよ。あんまりのんびりしてると電車出ちゃうよ?」 目線を上げると、フロアに飛び出したユウ姉が笑顔で手招きをしていた。その姿にも元気をもらって、もう一度僕自身を奮い立たせる。 ――きっと今日がラストチャンスなんだ。 僕の想いは固まり始めていた。 「そういえばケイちゃん」 「うん?」 「大学決めた?」 「その質問、さっきも聞いて」 一メートル先を歩いていたユウ姉がピタッと立ち止まり振り返った。ブレーキをかけ遅れたせいで、衝突しそうなぐらい間合いが詰まってしまう。思わず言葉が止まった。 「さっきケイちゃん、考えておくって言ってたじゃん。そろそろ決まったかなあって思って」 ユウ姉は近すぎる距離なんか気にも留めずに話す。警戒されていないというべきか、意識されていないというべきか。もちろんユウ姉と近づきたくないわけではないのだけれど、ちょっと身を乗り出せば顔同士が触れ合ってしまいそうなこの距離感はさすがに気まずい。 「さすがにそんなすぐには」 こっそり後ずさりをしながら答える。 「ホントに?」 ユウ姉はなぜか、僕が離した空間を埋めるように寄ってきた。僕はユウ姉の両肩にそっと指先を当てて力を入れずに押し返そうとする。 「ちょっと近いよ、ユウ姉……」 「あ、ごめん。ちょっと気分上がっちゃって」 楽しそうに笑ってみせるユウ姉。手袋を渡せたのを喜んでくれてるならいいんだけれど、どこか僕をからかってるようにすら見える。ユウ姉がどういうつもりなのかは分からないが、その無邪気にも大人っぽくも感じられる笑顔のせいで僕の心臓は潰れてしまいそうなくらい締めつけられる。 「それで、ケイちゃんはホントに大学決めてないの?」 「決めてないよ。嘘吐いたって意味無いじゃんか」 「大学は決めてないけど、東京に行きたいとは思ってるんじゃない?」 「それは」 やっぱりからかわれている気がした。それでも僕は確かに東京に、ユウ姉がいる東京に行きたいと強く思っていた。 「それは、そうだけど」 今度はフフっと小さく笑った。 一度意識してしまったせいだろう。今日はユウ姉のどんな仕草も可愛く見えてしまう。 「ケイちゃんはやっぱり優しいなー」 「別に優しいとかじゃないよ」 「そんなケイちゃんには、ユウ姉サンタからこれをプレゼントします!」 ユウ姉はすぐ右の棚にあった、目に刺さるような赤い表紙の分厚い本を手に取った。改めて周囲を見ると、ここは大学受験用の参考書コーナーだったことを認識する。こちらもシーズンのせいか、多くの種類の本が隙間無く並べられていた。 僕はユウ姉の持つ本の表紙の文字を見て、驚きのあまり言葉を失いそうになった。 「それって……」 「入試の過去問が載ってる参考書だよ。ほら、先生も志望校は高い方がいいって言うじゃん」 「それは知ってるけどさ」 「駄目?」 「駄目じゃないけど」 「だって私、東京の大学って言ったらここしか知らないもん。大丈夫だよ。ケイちゃんは勉強できるから」 今度こそからかわれてると確信できるようなおどけた口調ならどんなに反応しやすいことか。そんな僕の気など知らないユウ姉は、いたって真剣な表情を、ともすれば本気で僕がその大学に合格できるとすでに信じきっているような眼差しを僕に向ける。 「さすがに無理だよ。奇跡でも起きない限り」 「奇跡かぁ……。ねえ、ケイちゃんは奇跡って信じてる?」 もしこれが例えば、部の仲間や後輩からの質問だったら迷わず首を振るだろう。顧問の先生が時折「俺たちは奇跡じゃなく努力で勝つんだ」と熱いことを仰ってくれるからだ。試合のときは僕もそうありたいと願っている。 けれど今日のユウ姉を前にして「奇跡は無い」と断言する自信はまるで無かった。偶然ユウ姉に会えて、昔のように仲よく話して、クリスマスプレゼントまで交換しようとしているこの瞬間こそが、僕にとってまさに奇跡と表現するに相応しいものに思えてしまっているからだ。学校の坂の上で抱いた予感が不意に脳裏に蘇る。 答えに詰まる僕にユウ姉は微笑んだ。 「私は信じてるよ。奇跡は起こるんだってね。もしケイちゃんが信じてなくても、私がケイちゃんの分まで信じてるからね」 「さすがに大袈裟すぎるよ」 「そうかな? ……でもちょっと頑張ってみようかなって思わなかった?」 心を見透かされているのか、それともユウ姉の言葉で暗示にかかっているのか。それはどちらでもいいことだった。なぜならば彼女の言う通り、僕の中ではすでに小さな決意が芽生えていたからだ。僕はほぼ無意識に頷いた。 「ケイちゃんが頑張ってくれるなら私がプレゼントする甲斐もあるってことかなー」 「でもいいの? 僕が本当に使うかも分からないし」 「いいの、いいの! だって贈り物は強引なサプライズぐらいがちょうど嬉しいって、さっきケイちゃんに手袋貰って思ったんだもん。だから半分はケイちゃんのせい」 「……ありがとう」 手袋を嬉しいと言ってくれた嬉しさ。強引なやり方だったと思われていた恥ずかしさ。様々に浮かびくる感情を、感謝の思いで包んで口にした。 「それじゃあ買ってくるね」 ユウ姉は軽く手を振ってレジへ向かう。離れていく彼女の後ろ姿を見て何かが込み上げてくるような感覚に陥った。初めて感じた懐かしい気持ちだった。 そして僕は決意した。 僕は今日、橋野優華に想いを告げよう。 長い間追ってきたユウ姉の背中をもう一度見やる。今日ならきっと上手くいく、そんな気がした。 買い物を終えて戻ってきた改札前には普段は見ない人だかりができていた。その中心には簡易的な掲示板が置かれていて、寒波の襲来を見据えた列車の運行状況について記されているようだった。 背伸びをして目を細め、その内容を確認する。午後六時ぐらいから本格的に悪化する天候に備え、夕方以降のダイヤを大幅に変えるそうだ。幸い、すでに時刻変更や運休が決まっている電車のリストに僕たちがこれから乗る予定のものは含まれていなかった。 「三時前の電車は大丈夫みたい」 「よかったー。私、無事に帰れそうってママにメールするね。ケイちゃんママにも一緒に送っておこうか?」 「いいよ、自分でやれるから。それにそっちの家と携帯の会社違うし、余計にお金かかっちゃうよ」 「そっかー」 ユウ姉は白い携帯電話を鞄から取り出しポチポチと文字を打っていく。その画面の右上に表示された電池残量が少ないことに気が付いた。 「ユウ姉、電池無くなりそう」 「うん。昨日充電し忘れちゃってさ。大丈夫、赤くなってからも結構持つのだ」 「なんか意外だな」 思い浮かんだことを素直に口にした。 「意外かなあ」 「ユウ姉でもうっかりすることあるんだと思って」 「私、うっかりしてること多いよ。今日だって現に手袋なくしちゃってたし」 「それも意外だと思った」 「いっぱいあるよ。ケイちゃんの知らない私の顔」 携帯の画面からユウ姉の顔に視線を移した。目に飛び込んできた泣きぼくろとユウ姉の言葉に心臓が跳ねる。 なぜか痛い部分を指摘されたような錯覚に陥ったのだ。長い間傍で過ごしてきて長い間憧れの眼差しを向けていた相手を、お前はまだ何も分かっていないのか。そう非難された気分になった。もちろんユウ姉がそんな意図で放った台詞であるわけがないことは理解している。僕自身がそう思ってしまったというだけだ。 こんな僕がユウ姉に気持ちを伝える資格があるのか。固まったはずの決意が揺らぎそうになるが、ユウ姉からのプレゼントを鞄越しに握って恩田圭介を必死で鼓舞する。 「行くよ、ケイちゃん」 「うん」 僕たちは改札を過ぎ、電車の待っている四番ホームへ降りていく。 電車は定刻通りに発車した。 僕たちが乗り込んだのは二つしかない車両の後方。乗客は疎らだ。振替えの祝日といえども、ダイヤの乱れを気にせずに出かけた物好きはそこまで多くないのだろう。休日のこの時間には珍しいことに、僕たちのほかには高校生らしき人たちもいない。車窓の向こうに視線を移せば天候が次第に悪化していくのが分かった。いつの間にかまた雪が降り始めていて、風も強くなっているようだった。 進行速度よりも速く流れる白い景色の中、電車は一駅、二駅と南下していく。僕の頭の中はユウ姉に伝える言葉をどうするかでいっぱいだった。 右隣に座ったユウ姉は色々なことを話してくれた。今年一年の出来事、受験に向かうクラスの雰囲気、大学に行ってからの予定。僕は曖昧な返事しかできなかったが、それでも懲りずに話しかけてくれるので退屈はしなかった。僕がユウ姉になら弱音を吐けるのと同じようにひょっとするとユウ姉も僕だけに言いたかった話が溜まっていたのかもしれない、と考えるのは愚かだろうか。 乗り込んだときには外と同じぐらい冷えていた車内の空気も、三つ目の駅を通り過ぎた頃にはコートを着ていられないぐらい暑くなっていて、やや不快感を覚えるほどだった。なぜか最大出力で動き続ける設定のせいで、座椅子の下のヒーターからは絶えず熱気が吐き出されている。ただでさえ乾燥した冬の空気がどんどん湿度を失っていくのが肌で分かった。 「なんか話してたら喉乾いちゃったねー」 目を細めて顔を手で仰ぐユウ姉。前髪がふわりと動いたのに合わせて僕の心の中にある何かもくすぐられたような気分になった。 「ユウ姉、飲み物とか持ってる?」 「持ってるよ。ケイちゃんはある?」 「うん。部活終わった後に水筒に汲みなおしたから」 ユウ姉は膝の上に乗せた鞄を探っている。それほど深くないはずの底まで手で掻き分けて困った表情を浮かべた。 「学校に置いて来ちゃったかも」 「美術室?」 「ううん、二階の廊下だと思うけど」 二階は三年生の教室がある階だ。今日も自由登校の冬期講習が行われていたはずで、受験が終わったユウ姉もクラスメイトに会いに行ったのだろう。 僕は自分の鞄から水筒を取り出した。部活中でも困らない大きな水筒だ。今は半分ほどしか入れていないが、満杯にするには一リットル近く必要になる。 「ただの水でよかったらあるけど」 「さすがケイちゃん、頼りになるねー」 ユウ姉は鞄の口を閉じて水筒を受け取ると、赤いボタンを押して蓋を開けた。 「このまま飲んでいい?」 ユウ姉から問いかけられて気が付いた。僕の水筒は、幼稚園児が遠足に持っていくような蓋がコップになっているタイプではなく、すぐに飲めるように飲み口が用意されているだけのものだ。不安定なリズムで揺れるこの車内でそこに口を付けずに飲むのは至難の業だろう。当然喉が渇けば僕も同じように飲むしかないわけで、そういうことを意識するなと言われても今の僕にとってこれほど難しいことは無い。 でもそれを悟られるのは恥ずかしい。だから僕は「ユウ姉さえよければ」と答えようとした。 けれども、話し続けで水分を欲していた彼女の喉は僕の返事を待てなかったようだ。座席から伝わってくる振動、吹雪の中を走る風切り音に、ユウ姉が水を飲む音が重なる。飲み口から離れるユウ姉の唇に思わず視線が奪われた。 「間接キスだね」 「え!?」 デパートのときのユウ姉と同じぐらい大きな声をあげて驚いてしまった。彼女の口元を中心に固定されていた視界を慌てて移動させる。 「間接キスだねって言ったの。ケイちゃんも口付けて飲んでるでしょ?」 「あのさあ……」 顔を逸らして反対側の座席を見つめたまま、ため息交じりにそう口にした。どうしてさらっとそういうことを言うんだと悔しくなる。結局意識してるのは僕だけなのかと思わずにはいられない。 「別に気にしなくても大丈夫だよ。私とケイちゃんは家族なんだもん」 「気にしなくていいって言うぐらいならわざわざ言わなくてもいいじゃんか」 「思ったから言っちゃっただけ」 「ふざけてる?」 「ちょっぴり。でもね、ケイちゃんが相手だからだよ。はい、ありがとう」 今度はユウ姉から水筒を受け取って鞄にしまう。今のやり取りで僕も急に喉が渇いてしまったが、当の相手に間接キスと表現された直後に同じことを行う勇気は無かった。 僕相手だからふざけている、というユウ姉の言葉の意味を尋ねようとしたとき、電車は次の駅に停車した。慣性にぐらついた拍子に言葉は乾いた喉の奥に引っ込んだ。 この駅の周辺から、電車は海岸沿いのエリアを走ることになる。一切の障害物の無い冬の日本海から吹きつける西風は、普段でさえ電車を揺らすぐらい強い。増して特大の寒波が訪れているという今日は格別で、宙を乱舞する雪に景色を奪われた今の状態では本当に停車しているのかも疑いたくなるほどだ。 プツッと、車内放送のマイクが入る音がした。 「えー本日もご利用いただきありがとうございます」 スピーカーからくぐもった声が降ってきた。思わずユウ姉と顔を見合わせる。 「電車止まっちゃうのかな」 「どうだろ」 少しの間を置いてアナウンスが続く。 「えーこの電車、本日の強風の影響により、えー当駅から速度を落として運転いたします。えー大変ご迷惑をおかけいたします」 「あらら……」 ユウ姉がため息を吐いて肩を落とした。僕もつられて深く息を吐き出す.。 確か駅の掲示板には、寒波の影響が出始めるのは六時以降だと予報されていたはずだが、想定よりも早くやって来てしまったのだろう。 スピードを下げての走行はこういう天候の日の常套手段だ。電車は普段の半分以下の速度、ひどいときは自転車にも追い抜かれるほどの鈍行で走る。線路上や駅で立ち往生してしまうよりはよっぽどマシなのだが、家に帰るまで長い時間がかかってしまうのは避けられない。去年の冬にも何度か同じような経験をしてきた僕たちがため息を吐きたくなるのは仕方のないことだ。 「駅に着く前に日が暮れちゃうね」 「しょうがないよ。最近は昼の時間も短いし」 「まあいっか。今日はケイちゃんがいるから楽しいもん」 「またそういうことを……」 僕は眉を寄せて不満を伝えようとしたが、ユウ姉はただ嬉しそうに微笑んでいる。からかったりふざけたりしてるわけではなく本気で口にした言葉だったらいいのに。そう思わずにはいられない。 ユウ姉への告白は、電車を降りた後駅から歩いて、僕の家の三軒手前の玄関に彼女が入っていく瞬間にしようと決めていた。情けないけれど最後の最後でなければ勇気が振り絞れない気がしたからだ。相手の返事を聞かずに逃げ出してしまいたくなるかもしれないが、それだけは必ず堪えようと思った。 電車の動きが遅くなるということは、ユウ姉に伝える言葉を考える時間が延びるということだ。時間に余裕があるのは嬉しいことだけれど、気疲れしてしまうかもしれない。 「ねえ、ケイちゃんのお話も聞かせてよ。最近の部活とか勉強のこととかさー」 ユウ姉の言葉を合図にしたかのように電車がのっそりと動き始める。 このスピードならどうせあと一時間は電車の中だろう。告白の台詞を考えるのは一旦忘れて、ユウ姉と話せるこの時間を楽しもうと思った。 ユウ姉の様子がおかしくなったのは、次の駅に着いてからだった。 ここから先の区間で線路は最も海岸に近い場所を通る。ついに本格的に猛威を振るい始めた風のせいもあって、この駅に来て電車は完全に立ち往生してしまった。 今までの強風の日も何度か同じように一時的な運行見合わせになったことがある。どうやら天候の波みたいなものがあるらしく、少しでも風が弱くなるタイミングを見計らっているようだった。 電車が動かなくなってから十数分後ぐらいから突如ユウ姉の口数が減った。顔は俯きがちになり、どこかそわそわしているようにも見えた。 「ユウ姉、どうかした?」 「大丈夫。なんでもないよ」 少しだけ早口で答える。ユウ姉が何か普通でない状態にあることは明らかだった。 「ひょっとしてトイレ我慢してる?」 相手にだけ聞こえるような声で恐る恐る尋ねると、ユウ姉はゆっくりと一回頷いた。 思い返すと、先ほど水筒を渡したときに結構な量の水を飲んでいた気がする。よほど喉が乾いていたのだろうが、時間が経ってこうなることは予想できていなかった。 「でもまだ我慢できそうだよ」 「いや、行ってきた方がいいんじゃない? 電車もいつ動くか分からないじゃんか」 「うーん……」 ユウ姉は曖昧に返事をして笑うと、すぐにまた険しい顔つきに戻った。彼女に余裕が無いのは一目瞭然だ。とは言っても、我慢したくなる気持ちもすごく理解できる。 冷たい窓の外は雪で真っ白に染められていて、すぐ向こうにあるはずのホームの手すりさえ見えていないほどだ。もはや風がどっちの向きで吹いているかも判別できず、トイレのある駅舎にたどり着くこと自体がちょっとした大冒険になりかねない。外に行くのが億劫なのは当たり前だろう。 実は電車内にもトイレは設置されている。しかし、お世辞にも綺麗な場所だとは言えず、男の僕でさえ使うのをためらってしまうぐらいだ。 二分ぐらいはじっとしていたユウ姉も、ついに我慢ができなくなったのか鞄を持ってゆっくり立ち上がった。脱いでいたコートをもう一度羽織る。 「ごめん、やっぱり行ってくる」 「うん、その方がいいよ」 僕はちらっと外に目をやった。先ほどよりは風がおとなしくなっているように見えたが、さすがに一人では危険かもしれない。 「僕も一緒に行こうか?」 「ありがと。でも恥ずかしいから大丈夫」 ユウ姉は扉の近くまで速足で移動して、すぐ横の開ボタンを押す。ブザーが鳴るとすぐに信じられないぐらい冷たい空気が入り込んできて足首に巻き付いた。 「なんかあったら連絡するよ。この駅なら電波通じるから」 「うん、気をつけて」 ユウ姉は可愛らしく手を振ると、車内に残した腕だけで閉ボタンを押して駅舎の方へ向かっていった。一瞬だけ風によろめいたように見えたがなんともなかったようだ。 ユウ姉が白い世界に消えたのを見届けて、ふと彼女が座っていた位置に視線を落とす。そこには赤いマフラーが置き去りになっていた。 「結構こっそりなくしたり見つけたりしてるよ、色んなもの」 ユウ姉の声が蘇る。ユウ姉がこんなにうっかりした性格だなんて、マフラーを畳みなおしている今でも信じられない。少なくとも今日の彼女は浮足立っているような気もする。進学先が決まった嬉しさが溢れているのだろうと思った。 「大学か……」 呟いて鞄を見る。ユウ姉からプレゼントしてもらった参考書が入っている。もしも今日の告白をユウ姉が受け入れてくれたなら、来年はお互い大学生として……。そんな空想を浮かべながら僕は彼女を待った。 しばらく経ってもユウ姉は戻ってこない。初めは気長に待っていた僕もだんだんと不安になってきた。鞄から携帯を取り出そうとしたとき、天井からプツッという聞き覚えのある音がした。 「えー、本日もご利用いただきありがとうございます。風が多少おさまってまいりましたので、えー間もなく運行を再開いたします。えー大変お待たせいたしました。間もなく列車は運行を再開いたします」 僕が慌てて立ち上がったのは言うまでもないだろう。窓の向こうを見ると確かに風は勢いを失っていて、この駅まで来たときのスロースピードであれば問題無く走行できそうだった。そして、もう日が傾き始めたのか空は薄暗さを増し、車内の明かりを反射する雪が気味悪く浮かび上がって見えた。 まだユウ姉が戻ってきていない。今発車されてはユウ姉が置き去りになってしまう。僕は急いでコートを着ると、ユウ姉のマフラーと自分の鞄を持って外に飛び出していた。想像以上の寒暖差が頬に突き刺さる。 「えーお客さん! すぐ発車しますよ!」 前方車両の方向から運転手が叫んだ。僕に向かって言っているのは容易に推測できたが、五十メートルも先にいないはずの相手の声はほとんどが風にさらわれてしまって、どこか遠い世界からの音に聞こえてしまった。 「ごめんなさい! まだ知り合いが戻って来てないんです! 先に行っててください!」 稽古のときと同じぐらいに声を張る。本当に相手へ届いたかどうかは分からないが、運転手の影は電車の中に入っていった。 僕は脚を取られないように気をつけながら、ユウ姉がいるはずの駅舎に向かった。僕がホームから離れて間もなく発車ベルが鳴った。 初めて降りた駅だった。改札口には誰もいない。天候のせいではなくきっといつもこうなのだ。ワンマン車両で無人駅、都会ではたぶんあり得ないがここでは珍しいことではない。 見せる準備だけはしていた定期券をしまって駅舎の中に入る。改札を抜けたすぐ先は直角に折れ曲がっていて、メインの建物の方へ細い通路が繋がっている。大人数が一度に利用することをそもそも想定していないような造りだが、おかげで駅の中で迷う心配はなさそうだ。僕はユウ姉を探してまっすぐ進む。 冷たい風から解放された耳に誰かの声が届いた。会話している声ではない。しゃっくりを堪えているような断続的な音だ。僕が一歩ずつ進むたびに声は近くなっていく。 わずかに天井が高い場所に出る。声の主は窓際にいた。 電車が去ってしまったホームとガラス越しに向き合い、天に祈るかのように手を合わせている。泣きぼくろの見える横顔に涙が一筋、照明を反射していた。 「ユウ姉!」 僕は名前を呼んで駆け寄った。ユウ姉はこっちを向いて目を丸くしていた。 「ケイちゃん、なんで?」 「なんでって、ユウ姉が戻ってこないから……」 震える声で尋ねるユウ姉は、僕が近づくと白い手で目元を拭った。その仕草は、涙を拭いたようにも僕が幻でないことを確認したようにも見えた。 彼女の手のひらには灰色の板のようなものが握られていたが、それが何かを確認する前に僕の胸に冷たい塊が飛び込んできた。 「え……」 今までで一番の混乱に陥った。目に映っている世界がまるで信じられない。電車の暖房に誘われて見ている夢なのではないかと思わずにはいられなかった。 ユウ姉は、橋野優華は今、僕に抱き着いて泣いていた。 「落ち着いた?」 二人以外に誰もいない待合室。自動販売機で買ったカフェオレのカップをひとつ、椅子に座ったユウ姉に手渡して尋ねた。 「うん。ごめんなさい」 「別にユウ姉が謝る必要は無いと思うけど」 「ケイちゃんのこと、びっくりさせちゃったから……」 驚いたかと聞かれたら驚いたが、別に嫌だったわけではない。嫌なわけがない。むしろ永遠にあのままだったらよかったのに、なんて考えてしまっていたぐらいだ。 でもしかし、実際にあの状況が続いていたら脳か心臓が持たなかったのは事実かもしれない。上半身に巻き付いていた腕、そして胸に密着する彼女の身体から冷気が伝わってきていた。裏を返せば彼女は僕の持つ熱が伝わるのを感じていたはずで、だからどうということでもないのだけれど、今から思い返しても正気を失ってしまいそうな経験だった。 ユウ姉は少し無理に笑顔を作って、カフェオレから立ち上る白い湯気をふぅと優しく吹いた。 「私もちょっとパニックになっちゃってて。携帯も電池切れちゃってさ……」 鞄の上に置いた白い携帯電話を見ながらそう言った。裏返しの電話はカバーが外されていて灰色の電池パックがむき出しにになっている。電車が去ってすぐにそれに気が付いたユウ姉は、慌てて僕に連絡を取ろうとしたらしい。けれど彼女の携帯のバッテリーはいつの間にか限界を向かえていて、真っ暗な画面が真っ青な顔を映すだけになっていたようだ。窓際でとっていた祈りのポーズは、手の熱で電池を復活させようとしていた姿だったそうだ。 「恥ずかしいな、ケイちゃんに泣き顔見られちゃったなー」 ぐすっと鼻を鳴らす彼女の目はまだ少し充血している。 「別に気にすることじゃないよ。確かに初めて見たかもしれないけど」 僕の思い出の中のユウ姉はたいていいつも爽やかに大人っぽく笑っていて、たまに見せる別の表情と言えば絵を描いてるときの真剣な顔ぐらいだ。 「だってケイちゃんに置いて行かれちゃったと思ったんだもん」 「そんな、そんなことするわけないじゃんか!」 「ケイちゃんは優しいね。……でも私、ケイちゃんに置いて行かれても仕方ないなって思ってるんだ。いつもケイちゃんを置いてけぼりにしちゃってるから」 「僕を?」 向かい合う位置に座って問いかけた。 答えは返ってこない。潤んでいるユウ姉の瞳はまっすぐに僕へ向けられている。僕の言葉を待っているようだった。 「ユウ姉が僕を置いてけぼりにしてるってこと?」 小さく頷いて、ユウ姉はカップを傾ける。 「ユウ姉が東京に行っちゃうって話のこと?」 「それだけじゃないよ。今までずっと。生まれた日は一か月しか違わないのにさ、なんで私はケイちゃんよりも早く大人になってるんだろうって」 「それは……、仕方ないよ」 「可笑しいよね。もうケイちゃんのがよっぽどしっかりしてるのに、私がこうやってお姉さんぶってさ」 「ユウ姉?」 半ば無意識に相手を呼んだ。上手く言語化できないが彼女の口調や表情に違和感を覚えたのだ。ユウ姉の視線は確かにこちらへ向けられているが、僕を貫いて遠くを見ているように思えた。 「さっきだってケイちゃんが来てくれなかったら」 「ユウ姉!」 少し怖くなって声を張ってしまった。 彼女は二、三度瞬きをする。気が付くと違和感は消えていた。 「どうかした?」 「あ、いや、なんでもない」 「そっか」 「うん」 ユウ姉は残っていたカフェオレをゆっくりと飲む。僕もつられるように口を付けた。言葉の無い待合室に窓ガラスの揺れる音だけが響いた。 「ねえケイちゃん」 空っぽになったカップを持って、ユウ姉は僕の隣の席に座った。彼女の纏った冷気が僕の右腕を包み、抱き着かれたときの甘い息苦しさを思い出した。動揺していないふりをしてカップの底に息を吹き付ける。 「これからどうする?」 「これからって?」 「私たち、遭難しちゃったんだよ」 「遭難だなんて大袈裟な。この駅にいるって親に連絡すればいいだけじゃんか」 僕はそう言いながら携帯電話を取り出そうとする。するとユウ姉はなぜか首を横に振った。 「今私の携帯が駄目になっちゃって、ケイちゃんの電話も繋がらなくて、ここに公衆電話も無くて。私たちにはママたちに連絡する方法が無いんだよ」 「電話ならあるよ?」 鞄から出したシルバーの携帯をユウ姉に見せると、眉を寄せて悲しそうな顔をされた。 「ケイちゃんの携帯、この駅は駄目だと思う」 蝶番部分のボタンを押すと画面が開く。待ち受け画面には赤い字で「圏外」と表示されていた。 「本当だ。でもなんで知ってるの?」 「実はさっき最後にケイちゃんに電話したんだ。でも繋がらなかった」 「そうだったんだ。ごめん、ユウ姉」 僕自身が悪いわけではないとは分かっていたが、ユウ姉を泣かせてしまった原因には僕の携帯も含まれていたのかと思うと謝らずにはいられなかった。 「いいんだよ。だってケイちゃんが来てくれたんだし」 「僕に電話したってことは、ユウ姉の携帯は電波繋がったの?」 「そっか、そういうことだよね。でも電池が無いから結局意味無いや」 電波の届く範囲が違うのはきっと契約会社が違うせいだろう。よくある話だ。部室でも誰かと誰かの携帯は圏外だという話をした覚えがある。 念のため僕の携帯の電池カバーも外して中を見てみたが、案の定バッテリーの形はユウ姉のものとは違った。規格が同じであればユウ姉の電話を起動できたのだろうが、そう上手くはいかないようだ。 狭い待合室を見渡しても確かに公衆電話は見当たらない。木の椅子が十脚ほど、そして角に自販機が一台置いてあるだけの寂しい空間だ。外に出ることができれば見つかる可能性はあるだろうがそれは最終手段になりそうだ。風の当たらないここでさえ、実はじっとしているのが辛くなってくるほどに寒い。吹雪に曝されて公衆電話を探そうとすればその過程で間違いなく凍死する。 ということはつまり、ユウ姉の言う通り、外部との連絡が取れないという意味では僕たちは立派に遭難しているということになる。 ユウ姉にいつもの元気が無い理由もパニックを起こしかけた本当の理由も、今になってようやく理解できた。 「これからどうする?」 同じ質問を投げかけられた。 「とりあえず、待ってみようよ」 突如として心臓を蝕み始めた不安。それを鎮めようと、僕は自分に言い聞かせるように答えた。何を待てばいいのかなんて本当は分からなかった。 少しの間を空けてユウ姉が「いいよ」と言った。 手のひらにはまだカフェオレの熱が残っている。右腕にはまだ冷気が絡み付いている。本当に遭難したと認めるにはまだ時間だけが足りなかった。 僕たちがこの駅に着いてから一時間半が経とうとしていた。仮にも二年近く利用している路線の駅で遭難するだなんて思いもしなかった。時間が過ぎれば過ぎるほどに後悔の気持ちが募っていく。 天候はあれから悪化の一途を辿っていて、薄く黄ばんだ待合室の窓ガラスがガタガタと強く揺れる度に、ユウ姉は割れるんじゃないかと心配している。実は三十分ぐらい前、駅の周りの民家に助けを求めようと一度外に出たのだけれど、そのときですらまともに歩けないぐらいの暴風が吹き荒れていた。 踏み固められた歩道の雪は氷となって足を掬おうとする。風の吹いてくる向きに進もうとしたものなら顔に張り付いてくる雪が呼吸を許さない。 駅に着いてすぐの、まだ電車が動けていたぐらい風が落ち着いていたタイミングで外に出ればよかったのだと今になって思い知らされた。 「ごめんね、ケイちゃん」 ユウ姉は僕を巻き込んでしまった責任を感じているようで、さっきから定期的にこの調子だ。 「悪いのはユウ姉じゃないってば。それに、自販機もあるから死んだりはしないよ」 「そうだよね」 「そうだよ」 元気のない姿を見ているのが何よりも辛くて、僕はらしくないユウ姉を励ます。いつも勇気づけられているのは僕の方だから少し新鮮だ。 口では死んだりはしないと軽々しく言うのだが、心の底から安心できる状況でないことにも気付いていた。 この待合室には空調が設置されていない。外ほどではないにしても気温はとても低く、じっと座っているだけでどんどん体の熱が逃げていく。寒さを感じては自販機で温かい飲み物を買うことを繰り返しているが、高校生が持っているお金にはもちろん限界がある。皮肉にもお互いにプレゼントを贈り合ってしまった僕たちは特に。 「寒くない?」 コートの上から袖を擦るユウ姉に声をかける。赤い帽子に赤いマフラー、そして赤い手袋の完全防寒だが、それでもまだ足りないぐらいだ。 「大丈夫」 震えた声が返ってきた。彼女の顔はいつもにも増して白い。言葉通りの意味で捉えてはいけないことは僕にだって分かる。 「ユウ姉、お願いだから強がらないでよ」 「ケイちゃんは寒くないの?」 「僕は寒いけど大丈夫だよ。これでも普段から鍛えてるんだし」 「それ関係ある?」 「あるよ。筋肉は発熱量が多いから、ユウ姉より僕の方が寒さには強いはず」 「そうなんだ。やっぱりケイちゃんは物知りだね」 「僕も同期から聞いただけだけど」 「ねえケイちゃん、もうちょっと近づいても、いい?」 ユウ姉はマフラーから口元を出しながら言った。 「たぶんくっついてた方が暖かいと思うから」 「うん。分かった」 「うん」 正直に言うと、僕はユウ姉が近くにいるというだけで恥ずかしさと嬉しさで微熱が出そうだった。そんなことなど知らない彼女は座る位置をずらすだけでなく、僕の方に首を預けるようにもたれかかってきた。 心の平静を保つためにゆっくりと息を吐くと、体から逃げていく空気が白く染まってやがて消えた。 「ねえケイちゃん」 「どうしたの?」 呼ばれたので聞き返した。でもユウ姉の反応は無い。 「ユウ姉?」 肩に乗った彼女の頭。視界の右下隅に帽子の赤が常に映り込んでいる。 「やっぱりなんでもない」 ユウ姉は呟くように答えた。 遭難したからだろうか。それとももっと前からだったのだろうか。 いつの間にかユウ姉はいつもの彼女ではなくなっていた。 少なくとも僕がずっと背中を追い続けていた女性、大人っぽくてしっかりしていて皆から憧れられていた「ユウ姉」ではなかった。僕の肩ににもたれるのは、か弱くて小さくて、まるで家族に甘えたがる子供のようなただの女の子に思えた。 それでも僕は彼女を、堪らないほどに愛おしく感じていた。 電車を降りてから四時間が経過した。外は真っ暗だ。人はおろか電車もやって来ない。もし駅の掲示板で見た通りに動いているとしても、僕たちが乗った三時前発の電車の後はほとんど運休だったのだ。問題無く運行できるはずのあの電車ですら途中から速度を落としていたことを考えれば、残りは全部運休になってしまったと推測してもおかしくはないだろう。 僕もユウ姉もだんだんと何も喋らなくなっていた。温かい飲み物を買うためのお金も尽きていた。お腹は空いてまぶたは重く感じていた。 「ケイちゃん、寒いね」 突然ユウ姉が口を開き、僕の腕にぎゅっと抱き着いてきた。 「うん、さすがに冷えてきた」 ドキドキするための元気は気温の低さに凍り付いてしまったようだ。駅に来た直後に抱き着かれたときよりも冷静でいられた。むしろユウ姉の身体からほのかに伝わってくる熱が僕を落ち着かせてくれる気さえした。 でも本当は暑いのか寒いのかも分からないほど、肌が麻痺しているようだった。先ほどまで震えていた末端の感覚が無い。 「ケイちゃん、手袋、温かいよ」 「そっか。プレゼントしてよかった」 無事に家に帰ってしばらくしたら、ユウ姉は大学で絵の勉強を始める。僕の指は感覚が無くなるぐらい凍えてしまっているが、これからも絵を描き続ける彼女の指だけは大丈夫であってほしい。 「ケイちゃん、私ね、卒業する前に描きたい絵があるんだ」 「うん」 「学校のね、一番好きな景色。今日も描いてたんだ」 「好きな景色、か」 山の上にある校舎からは裾野に広がる街が見渡せる。ユウ姉が描きたいのはそれじゃないかもしれないが、僕は昼間に見たあの景色を思い出した。素敵な予感を与えてくれたあの風景も、今となっては夢の中の出来事に思えてしまう。 「ごめんね、ケイちゃん。私のせいで」 「ユウ姉は奇跡って信じてる?」 ユウ姉が悪いわけじゃないんだからもう謝らないでほしい。そんなことを考えていたら思わずそんな質問を口走っていた。 「それ、私が聞いたことだよ」 「僕は今日、ユウ姉に会えてよかったと思ってるんだ」 「遭難してるのに?」 「ユウ姉と会えて、クリスマスプレゼント交換して、今は家に帰れないって条件付きだけどこうやって二人で話せて。今日はいい日だったと思ってる」 眠気と寒さで頭がぼんやりして、自分の舌が勝手に動いてるような感覚だった。普段の僕なら絶対に言えないことを言っている気がした。それでも僕の口から出ている言葉に嘘偽りが無いことだけはちゃんと分かっていた。 「ユウ姉とこうやって過ごせてるのはもしかしたら奇跡なんじゃないかって、本気でそう思ってる。だからユウ姉が今日のことを気に病む必要はないって、僕は思ってるよ」 右隣から返事は無い。そもそも返事をするようなタイミングではなかったのだろうけれど、何か言ってくれるような期待をしてしまったのだ。勢い余って崖の外に飛び出してしまいそうな僕を止めてくれる言葉を待っていたのだ。でもユウ姉は何も言わなかった。 だから僕は錯覚した。今ならユウ姉への気持ちを伝えられると確信してしまった。 「ユウ姉、僕は」 右肩にかかっていた重みが消えた。 二、三歩だけ足音がした。 隣にいたはずのユウ姉と真正面で目が合った。 少しだけ湿気を帯びた柔らかい物体が唇に触れた。 一瞬の出来事だったように思えた。何が起きたか脳が判断できたのは全てが終わった後だった。それは信じられないが間違いのないことだった。 僕はユウ姉にキスをされたのだ。 気が付くと少し離れた場所にユウ姉が立っていた。椅子に座った僕を見下ろしている。 「何やってんだよ」 唇に残った感覚を指でなぞる。 「ホント、何やってんだろうね……」 無邪気な笑顔を浮かべる彼女が、不思議なことにいつも通りの「ユウ姉」に見えた。 「奇跡じゃないよ」 「どういうこと?」 「今日ケイちゃんが私に会えたのは、奇跡じゃないんだ」 ユウ姉は向かいの椅子に腰かけ、悲しげな顔つきになる。その表情を、そして口元を隠すようにマフラーを鼻の頭まで引っ張り上げた。 「言ったらケイちゃんに嫌われちゃう。……今のでもう嫌われちゃったかもしれないけど」 「嫌いになるわけないじゃんか。だって」 「だって家族だから?」 食い気味の彼女の台詞が僕の魂を締め付ける。それは今日の昼間に僕自身が言ってしまった言葉だ。無意識に唱えてしまった呪いの言葉だ。「違う、あなたを好きだからだ」という一言が素直に口に出せない。 「家族だから、嫌われちゃうと思う。でも言うね、私ホントは気持ち悪い女なんだ」 どうして、どうしてそんなに悲しそうな顔をするんだ。僕はユウ姉にどんな言葉をかければいいんだ。お互いの椅子に挟まれた空間が異常なまでに広く感じた。背筋を走る寒気は気温のせいだけではない。 ユウ姉は僕から目を背けるように俯いて話し続ける。 「私ね、今日はケイちゃんに会いたかったから学校に来たんだ。だから会ったのは奇跡でも偶然でもないよ」 「それって」 「ケイちゃんは部活があって学校に来るはずだったから。電車が止まればケイちゃんと話せるし、今日はクリスマスだし、私はもうすぐ東京に行っちゃうから」 彼女の声は赤いマフラーを貫いて僕の耳に届く。僕の心臓に、刺さる。 「ごめんね、気持ち悪いよね。こんなのストーカーじゃんって思うもん。しかもケイちゃんは弟なのに! 家族なのに! ……ケイちゃんが優しくしてくれるのが、私をお姉さんとして慕ってくれるのが、すごく」 ふっと顔を上げるユウ姉。揺れる前髪。彼女の両目からつうと涙がこぼれた。 「すごく辛かった」 「なんだよ、それ」 ユウ姉がぐすっと鼻を鳴らす。無理に笑顔を浮かべようとしているのが分かった。 「プレゼント貰えて嬉しかった。いっぱい話せて嬉しかった。一人になったときにケイちゃんが来てくれてすごく嬉しかった。でも、ケイちゃんは私のことなんとも思ってないんだって考えたら、死にたくなるほど辛かった」 「なんだよそれ」 「だから今日で最後にしようと思ってたんだ。ケイちゃんに嫌われても気持ちを伝えようって。嫌われても私はどうせすぐ東京に行っちゃうから」 「なんだよそれ!」 無意識に立ち上がっていた。声を張り上げたのはユウ姉を責めたかったからじゃない。好きな相手をここまで追い込んでいた情けない自分への怒りが抑えきれなくなったからだ。冷えた喉が千切れそうになる。 「なのにこんなことにケイちゃんを巻き込んで! 私なんかのためにケイちゃんが犠牲になって! どうしていいか分からなくて!」 ユウ姉は僕と同じぐらいに大きな声を出した。 「ごめんね、ケイちゃん」 無理をして笑う目元。溢れた涙が彼女の泣きぼくろをなぞった。 「私、ケイちゃんのことが好きなんだ」 どんな言葉をかけるよりも先に、僕はユウ姉を抱き寄せていた。彼女の身体はまるで氷のように冷たく感じた。 「やめてよ」 彼女の涙声が胸元で直接響く。 「優しすぎるよ、ケイちゃん」 「違うんだ」 優しさじゃない。僕もユウ姉が好きなんだ。だから謝る必要も泣く必要も無いんだ。 「やめてよ、優しくしないでよ」 「ユウ姉」 「私は……」 「違うよ、ユウ姉。僕も、僕もユウ姉のことが」 「圭介!」 吹雪の音に交じって僕を呼ぶ声がした気がした。口にしようとしていた言葉が引っ込む。 「圭介! いるか、圭介!」 聞き覚えのある声だった。それが父親の声だと気付いたと同時に、待合室の扉が開いて目が合った。 「圭介!」 「父さん?」 父さんは額に汗を浮かべていた。僕たちを必死で探してくれていたのだとすぐに分かった。そして、僕たちは助かったのだと確信した。 「ユウちゃんもいるな? 大丈夫か、なんともないか!」 「僕は大丈夫。ユウ姉は」 いつの間にか僕に体重のほとんどを預けていた彼女は、立った姿勢のまま意識を失っていた。僕の胸の中で寝息を立てている。 「ユウ姉、ユウ姉?」 バランスを崩して倒れそうになった彼女を駆け寄った父さんが支える。 「大丈夫だ。俺が運ぶから先に車行ってろ」 言われるがままに車に乗り込んでから、しばらく記憶が無い。恐らく、安心して眠ってしまったのだと思う。 目が覚めたときには僕はベッドの上にいた。枕元にいる母さんからここが家の近所の病院だと教わりながら、自分の腕に繋がれている点滴の管を眺めていた。 僕たちが乗っていた電車が駅に着いたのは、予定よりも二時間以上遅れた時刻だったらしい。ユウ姉のお母さんが駅まで車で迎えに来ていたそうだ。家までは歩ける距離だとはいえ、吹雪の中の移動は大変だと心配してくれたのだろう。ユウ姉が僕と一緒だということもメールで聞いていたようだ。 もちろん電車が到着しても二人は駅から出てこない。おかしいと思ったユウ姉のお母さんはユウ姉に電話を入れた。その頃にはユウ姉の携帯はバッテリー切れになっているから当然繋がらない。慌てて僕の家族にも連絡を入れ、捜索が始まったらしい。 捜索と言っても幸い闇雲ではなく、僕たちが途中駅にいることは目星が付いていたようだ。電車の運転手が僕が下車したことを覚えていてくれたからだ。そしてちょうど仕事が終わった父さんが雪道の中車を走らせて来たというわけだ。 ユウ姉が意識を取り戻したのは僕よりずっと後だった。目を覚ましてから、実は二人とも危険な状態だったと聞かされた。特にユウ姉は栄養失調も併発していて、あと少し体温が下がっていれば後遺症が残る凍傷を患う可能性まであったそうだ。特に冷えやすい指先は手袋が無かったら危なかったと聞いてドキッとした。 僕にはユウ姉と合わせる顔が無かった。結果的に助かったからよかったものの、僕は彼女に何もしてあげられなかった。無力さが情けなかった。僕の今までの態度がユウ姉を苦しめていたと知ってしまったことも自己嫌悪に拍車をかけた。 僕が退院したのは遭難した翌日の昼頃だったが、ユウ姉は一週間近く入院していた。その間に一度でもお見舞いに行けばよかったのに、僕が病院に足を運ぶことは最後までできなかった。 ユウ姉を追い詰めていた罪悪感が僕の邪魔をしていた。会えばまた彼女を傷つけてしまうかもしれない。「ずっと辛かった」という涙混じりの言葉が脳内で何度も反射する。 今までならそんなことは考えなかったはずだ。けれどユウ姉が僕の前で「ユウ姉」を演じていたと知って、本当の彼女が分からなくなっていた。そして僕が「ケイちゃん」を演じていたとユウ姉が知ったら、彼女が今まで背負ってきたものを否定してしまうかもしれない。 とにかく、何が正しくて何が間違っているのか、まともな思考ができなくなっていた。ユウ姉を嫌な気持ちにさせるぐらいならもう関わらない方がいいと本気で思っていた。何かが変わるのがまた怖くなって、しばらくは会わない方がいいと、自分に暗示をかけて過ごしていた。 彼女の泣き顔を思い出す度に、携帯に残ったあの日の不在着信の履歴を見る度に、ユウ姉に触れた唇がズキズキと痛むように感じた。 もどかしく足踏みを続けていたらいつの間にか季節は変わり、気が付けば三月になっていた。学校の坂の桜の木には蕾が見えるようになった。 あの一件があってからの二か月半、僕は狂ったように勉強していた。愚かなことに、ユウ姉から貰った参考書が唯一の絆なのだと感じていたからだ。僕がその大学に合格する来年の春になれば今度こそ、ためらいもわだかまりも無しにして接することができると信じて疑わなかった。彼女が信じてくれる奇跡を叶えれば、何もかも上手くいくと思っていた。 まだ雪の残る道を一人歩いて卒業式に向かった日、僕は体育館の後方から卒業証書を受け取るユウ姉を見ていた。 「橋野優華」 何度も心でなぞった名前が呼ばれる。 全校集会で表彰を受けるときの何倍も凛と澄ました彼女は、割れんばかりの拍手の中で深々とお辞儀をした。降壇するまで彼女は一瞬たりとも僕の方を見ることはなかった。 卒業式が終わった後で三年生の教室に向かった。これから一年間勉強を頑張って必ず東京に行くから、そのときに僕の気持ちも伝えさせてほしい。最後にそれだけ言いたかったからだ。 二階に下りてすぐの窓から道場が見えた。この後の稽古に備えて後輩たちが掃除をしている。僕もユウ姉を見送ったら行かなくちゃ、と思った。 ユウ姉は教室の前にいた。あの日の泣き顔なんて思い出せないくらいの明るい笑顔でクラスメイトと話し込んでいた。 「ユウ姉!」 勇気を振り絞って名前を呼ぶと、彼女は一瞬だけこちらを向いた。それは気のせいではなかったはずだ。少し驚いた表情が残像として脳裏に浮かぶ。けれどもユウ姉は僕から目を逸らし、隠れるように教室に入っていった。 そのときになって初めて、僕は過ちを犯していたのだと気付かされた。あの日すぐにユウ姉に会いに行けばよかった。そう思ったときには全てが遅かった。 結局、僕が橋野優華を見たのはその日が最後だった。 ◆ 話すのをやめると、先輩のタイピング音が嫌によく聞こえた。ディスプレイの右下の時計がちょうど午前三時を知らせている。 「意外だな」 先輩が手元を動かしたまま僕の方を見た。 「何がですか?」 そう尋ねて、瓶の底に残ったエナジードリンクをストローで吸い込む。 「恩田にそんな過去があったことがだよ。お前はいつも自分の昔話を語りたがらないだろ」 「語る必要が無いと思ってますから」 「おうおう。なんだ? それはなんでもかんでも話しちまう俺への当てつけか?」 「違います」 「分かってるよ。お前は真面目か」 「真面目に生きることにしてるんで」 「はいはい」 先輩はもう一度画面の方を向いて腕を組んだ。疲弊しきった横顔がブルーライトに照らされている。 「で、なんで今日に限って話す気になったんだ?」 「先輩が言ったんですよ。『作り話でもなんでもいいから退屈を紛らわせる話をしろ』って」 「ああ、言ったよ。俺は生真面目くんな恩田のことだから、どうせつまらない作り話を聞かせてくれると期待してたわけだ。ところがどっこい! お前の口から飛び出してきたのはらしくもねえ初恋の話だったってわけだ」 「とんでもない。つまらない作り話ですよ」 「ふーん。まあいいけど。……ああァ! また同じ場所で止まりやがった!」 バグを踏んで癇癪を起したように声を荒げる先輩。さすがに慣れた光景だ。今夜だけでももう何度見たか分からない。本当に発狂しているわけではなく先輩なりのストレス発散法のようなもので、一回だけ吠えると組んでいた腕を解いてまたカタカタとキーボードを叩き始めている。僕も瓶をデスクの隅に追いやって作業を再開する。 「それで?」 「と言いますと?」 「その後はどうなったんだよ。まさかそれで本当に終わりってことはねえだろ。続き聞かせろ」 「続きも何もありませんよ。先ほど言った通りただの作り話ですから」 「つまらねえ嘘はやめろよ。面白くないぜ」 「面白くないですか。それはすみませんでした」 暗闇に浮かぶ画面、響くタイプ音。先輩はそれ以上何も言わなかった。 「恩田、今日は何月の何日だ?」 沈黙から十分、先輩が口を開いた。聞き覚えのある質問だ。 「十二月の、二十五日」 「そう、クリスマスだ」 先輩は僕の様子を窺うようにこちらを向いた。僕は気が付かないふりをしてタイプを続ける。 「俺は仕事も家事も育児もろくにできねえ、挙句の果てに嫁と子供に逃げられちまうような情けない人間だからさ。無理に頼ってくれとは言わねえよ? 実際お前みたいな優秀な奴から頼られても助けてやれん」 「なんの話ですか?」 「お前の話だよ。俺は仮にも入社直後からお前を見てる直属の先輩だぞ? お前が何か抱えて生きてることぐらいな俺にだって分かる」 先輩が勢いよくキーを叩く。今度は割れなくて済んだようだ、などとわざとらしく気を逸らしている自分が馬鹿みたいだと思った。 「何やってんだよ、クリスマスの夜に立派なスーツ着てさ」 「仕事ですよ」 「分かってるよ。なんで今日に限ってそんな綺麗なスーツ着てんだ? 誰かと約束があったんじゃねえかって聞いてんだよ」 「……仮にあったとしても僕は仕事をしますよ。先輩一人じゃ終わらないでしょ」 「分からんぞ。奇跡が起きるかもしれん」 「まさか」 「それに、最悪終わんなくていいんだよ。俺が叱られるだけだ。第一、元を正せば悪いのは失踪した沢口のヤロウだ」 「駄目です。朝までに終わらないときっと困る人がいるんで」 「はァ、お前は真面目だな」 入社してから何度言われたかも分からない台詞だった。僕の返答も決まっていた。 「真面目に」 ――真面目に生きることにしてるんで。 一瞬、その言葉を発することを心が拒絶した。舌の上にじんわりと痺れが広がる。 真面目に生きてきて得したことがあったか。叶った夢があったか。もっと器用に生きることができたならどれだけ幸せだったのか。 奥底に閉じ込めていた感情がマグマのように溢れてきた。もう真面目なんか辞めちまえよ、と囁く自分がいた。 「僕は」 それでも僕はもう生き方を変えたりしない。どんなに損をしようが、僕は彼女に誇れる生き方をする。 「僕は真面目に生きることに決めたんで……」 「はァ」 先輩は呆れたようなため息を吐いたが、その表情はなぜか安堵に満ちているように見えた。 「じゃあとっとと終わらせるぞ」 ◆ 「恩田くんだよね。ちょっと時間大丈夫?」 新学期、高校三年生になった僕を呼んだのは、同級生になった女の子だった。自己紹介のときに覚えたばかりの名前には自信が無かったが、その子が美術部であると言ったことは印象深く残っていた。 連れていかれたのは北棟の一階にある美術部の部室だった。初めて入る場所だった。 「恩田くんに渡してって頼まれてるものがあって」 「僕に? 誰から?」 わざとらしく聞き返してみたけれど答えは分かっていた。美術部の知り合いは一人しかいない。それでも知らんぷりしたい気分だったのだ。 「この絵なんだけど」 部室の一角、その子が見せてくれたのは一枚の水彩画だった。別に芸術には詳しくないけれど、誰が描いた絵であるかはそのタッチを見てすぐに分かった。 「これユウ姉の……」 「そう、橋野先輩の作品」 ユウ姉があの日、完成させたいと言っていた絵だと気付くまで時間はかからなかった。そして彼女の言葉を思い出す。 ――学校のね、一番好きな景色。 これがユウ姉が描きたかった景色。一番好きだった景色。 額縁の付箋に記されているのは絵のタイトルだろうか。カギ括弧の中には「ガンバレ」という四文字が書かれていた。 「橋野先輩の言うケイちゃんって恩田くんのことで合ってるよね? 四月になったら渡してほしいって言われてて、……ってどうしたの」 「何が?」 「何がって。泣いてるじゃん」 頬を液体が伝う感覚があった。顎の下まで転がった熱は手のひらの上にぽとりとこぼれた。 細い額縁の中に捕らえられていたのは二階の廊下から眺めた景色。階段を下りてすぐの窓から見下ろした道場だった。それは僕が普段稽古をしている場所だった。 ――僕はこれから、一生後悔を重ねながら生きていくんだな。 涙で滲んだ水彩画を見つめながら僕はそう強く覚悟をした。 それでももし僕にまだチャンスがあるとすれば、ユウ姉と元通りの、あるいはそれ以上の関係になれる奇跡が起こるとするならば、それは僕が大学に合格できた後の話に違いない。 僕は残された可能性に命を懸けるようにがむしゃらに勉強するようになった。それだけが僕の意味だとすら思っていた。 高校最後の一年間は瞬く間に過ぎていった。 そして卒業後の二年間も同じように残酷に経過した。 奇跡は起こると妄信していた僕が大学に合格できたとき、僕はもう二十歳になっていた。 一回目の受験では合格点にわずかに及ばなかった。二回目はケアレスミスで大減点、ユウ姉が決めた志望校に受からなければと意地になっていた僕は、併願受験していた大学をすべて蹴って二浪目に突入した。 三回目の受験でようやく無事に合格したわけだけれど、今から思うと浪人した二年間は何の時間だったのか本当に分からない。掲示板に僕の受験番号を見つけたとき、嬉しさも安堵も感じなかった。あらゆる感情は削ぎ落されて自己嫌悪だけが残っていた。 いざ大学生としての暮らしが始まっても心の空白は埋まることがなかった。ユウ姉の連絡先は分からず、今さら親に聞く気にもなれなかった。 二浪は大変だったでしょと言われることも多かったが、あまり大変だと思ったことは無かった。一度浪人すると決めてしまえばあとは一年間勉強するだけだった。 むしろ大変だったのは入学してからだ。周りのほとんどの学生は現役合格を決めた非常に優秀な人間だ。同じ試験に二年も多くかかっている僕が彼らとまともにやり合えるわけがなかった。ユウ姉にも会えぬまま勉強する意味を見失っていた僕はみるみるうちに落ちぶれていった。 二年生になった年の夏、親から電話があった。 「ユウちゃん、結婚するんだって」 そのとき「ふーん」と返したかそれとも言葉を失ったか、記憶が定かではない。ただ「結婚式は参加しないよ」とだけはっきり答えたのは覚えている。 相手は誰か分からない。知る気にもなれなかった。思えばユウ姉はもう大学を卒業している頃で、どんな交友関係があろうと不思議なことではなかった。 電話があった夜、アパートの一室で一人で泣いた。大の男が子供のように泣いて、財布が空になるまで安い酒を飲んだ。酒に潰れてこのまま死んでしまえばいいのにと本気で考えていた。 目が覚めたときには昼過ぎになっていてひどく頭が痛んだ。大学の講義は欠席した。 何をしても楽しくなかった。何をしても悲しくなかった。唯一心が動くことがあるとすれば、ユウ姉と最後に話したあの日のことを夢に見たときぐらいだ。まるで呪いだと思った。何年も前の出来事がすでに空になった僕の心をまだ蝕もうとする。 惰性で進学した工学部で、昔は好きだったパソコンについて学んでいた。過去なんか忘れて頑張ろうと一時は意気込んでみたものの、やがてそれも嫌になった僕はついに大学を辞めた。親と連絡を取ることもなくなった。 バイトで食いつなぐ日々。感情が無い、接客ができないと言われ職場を転々とした。 家賃滞納でアパートを締め出された日、ほとんど無一文の僕は近くの公園に泊まることにした。 「君、帰るところ無いの?」 暖かい日であったが熟睡するにはお腹が減りすぎていた。木のベンチもベッドには硬すぎた。午前二時頃だっただろうか、寝られずに夜を過ごしていたら通りがかった男に声をかけられた。 「放っておいてください」 初めは警察官か何かだと思ったがそうではないようだった。顔立ちから察するに三十台後半。街灯に薄暗く照らされている男のスーツはやけに高価なものに見えた。 「大学生?」 「違います」 なぜか図々しく隣に腰かけてきた。酒臭くはないが香水の匂いが気になった。 「じゃあフリーターか。もしかして仕事探してる?」 僕に話しかける相手の意図が読めない。怪しい人間であることは間違いなかった。 「すぐに否定しないってことは図星かな?」 「放っておいてください」 「腹減ってるだろ? 近くにファミレスあるから奢ってやるよ」 空腹、眠気、退屈、破滅願望。僕がその怪しい男について行ってしまった理由を挙げればきりがない。久しぶりに人と会話して、久しぶりに腹を満たして、大量のアルコールを流し込んで、人間が本来持っているべき警戒心の全てを失った。 気が付けば僕はこれまでの人生をその男に話していた。幼馴染に恋をしていたこと、クリスマスの日の遭難のこと、受験に失敗して二浪したこと、大学で落ちこぼれたこと。そして、僕の生きる唯一の意味だった橋野優華という女性がどこかの誰かと結ばれたこと。 相手にとってはどうでもいい話のはずだったが、なぜか最後まで笑顔で聞いてくれていた。僕が全てを吐き出した後で男は口を開いた。 「名前、恩田くんだっけ?」 「はい」 「恩田くんはきっと真面目に生きすぎたんだろうな。でもそれが君の魅力かもしれん」 男はスーツの胸元に手を突っ込み、内ポケットから名刺を取り出した。渡されたそれにはスタイリッシュな字体で『TETSUJI YUZAWA』と記されていた。 「どうせ行くとこなんか無いんだろ。俺の会社で働くといい」 その男、湯澤哲司の提案を僕は二つ返事で飲み込んだ。たとえ判断力が鈍っていなくとも同じ選択をしただろう。どうせ僕の人生は終わったも同然だと、強く強く信じていたからだ。 湯澤の会社はオフィスビルの三階にあった。事務所にはパソコンが数台並べて配置されており、それ以外のものはほとんど無かった。 「簡単に言うと、パソコンが使い物にならなくて困ってる人を助ける会社だ」 「パソコンを直すってことですか」 「好きだろ、こういう仕事。正直、君の経歴を聞いて運命だと思ったね。まあ焦ることはないからゆっくり仕事を覚えてくれればいいよ」 細かな契約を交わし、その日から僕は湯澤の下で働くことになった。 またどうせすぐに辞めることになると半ば諦めていたが、僕は結局その後の二年程度を湯澤の会社の社員として過ごしていた。 彼の会社がまともな会社でないことには気が付いていた。違和感を察知するまでは一か月とかからなかった。 不具合が起こったと電話をしてくる人は毎回同じような症状を訴えていたし、普通にパソコンを利用している上では起こりえないものだった。世間一般にはまだパソコンの操作に不慣れな人間が多いことは理解しているつもりだったが、どれもが人為的に起こされたような不具合に聞こえた。 エラーの原因を突き止めて解消する。それは修理する過程で避けられない工程であるはずだが、僕の業務には含まれていなかった。やっていたのは症状に応じて湯澤が用意したソフトウェアを売りつけるだけ。単価で一万円以上もするそれらを買うだけで、顧客の不具合は魔法のように解決するのだった。 何が起きているかは簡単に推測できた。 コンピュータウィルスの一種にランサムウェアと呼ばれるものがある。感染したパソコンは強制的にシステムを麻痺させられ、それを解消するためには要求された代金、言わば身代金を払わなくてはいけない。湯澤の会社がやっていたのも同じようなことだった。 電子メールか何かでばら撒かれたウィルスは、不特定多数のコンピュータを内側から破壊する。パソコンが使えなくなって困っている人のもとに、「お悩み解決」を謳う広告が表示される。もちろん、それがウィルスによって仕組まれたものであるのは言うまでもない。いち早く元のようにパソコンを使いたい素直な利用者は、迷わず記された番号に電話をするだろう。そして高価な張りぼてのソフトを購入し、すぐに問題が解決されるだろう。何が起きていたか分からない彼らは皆、不具合の元凶に向かって残酷にも「ありがとう」と感謝の言葉を口にするのだ。 「まあ恩田くんなら気付くとは思ってたよ」 僕が指摘をした直後でも湯澤はその余裕そうな表情を崩さなかった。想定内だと言いたげに笑う彼を見て、虚しさが込み上げてきた。僕はこの男を信頼したがっていたのだと自覚し、それが悔しくて堪らなかった。 「他の社員はたぶん気付いてないんだ。可笑しいだろ?」 「何も可笑しいとは思いません」 強い口調で言い返すと鼻で笑われた。 「いいや、君も内心は彼らのことを馬鹿にしてるはずだ。もし彼らを頼れる同僚だと思ってるなら、なぜ真っ先に首謀者の俺に直談判しに来たんだ? それとも俺に、ランサムウェアは気のせいだって言ってほしかったか?」 僕が口をつぐんでいると、湯澤は深いため息を吐いた。 「あれだけ痛い目見て、まだ真面目に生きようとしてんのか、君は。どんだけ不器用なんだ」 「僕は……」 「もう真面目なんか辞めちまえよ。いい加減大人になってもいい頃なんじゃないか? 言っておくが俺は恩田くんに期待してるんだ」 滑らかに口を動かしながら、湯澤はデスクの引き出しから数枚束ねられた紙を取り出した。僕の前に突き付けられたそれは新型ランサムウェアの仕様企画書だと記されていた。 「俺の理屈では、たいていのセキュリティソフトの目をかい潜れる。君ならできるだろう」 「僕に作れと言ってるんですか?」 「金は最低でも今の倍は出そう。売り上げ次第で報酬は当然膨れ上がる」 「共犯者になれと」 「ポジティブに考えなよ。生き方を変えるチャンスはそうそうあるもんじゃない。もう一度言うが俺は恩田くんに期待してる」 湯澤に洗脳されたというわけではない。そんな高度なものではない。僕自身がその生き方に嫌気が差していた。彼はそれを言い当てただけだ。 今まで自分が馬鹿みたいに大切にしてきたものが少しずつ削れていくのが分かった。それでも僕はそれが大人になるということだと言い聞かせ、湯澤の傍らでコンピュータウィルスの開発を続けた。 そして僕は世界の温度を忘れていった。 二年が過ぎた頃だった。季節は冬、ちょうど「今日」から遡って三年前のクリスマスイブの日だ。 僕はこの日、人生で二度目の奇跡に遭う。 湯澤の右腕として犯罪の片棒を担ぐ生活にも慣れてきていた。人を陥れて金を稼いでいる罪悪感ももうほとんど無くなっていた。たまに思い出しては吐き気が止まらないほど後悔し、それを忘れるために大量の酒を飲んでは戻す日々を過ごしていたのだ。麻痺と痛みを繰り返すだけの毎日だった。 「世間一般ではクリスマスには奇跡が起こるそうだ。恩田くん、君は奇跡というものを信じているか?」 湯澤の質問には答えられなかった。彼も僕の答えなど期待していない。口だけ動かして淡々と帰り支度を進めている。 「俺が思うに、君がこの仕事をしているのは奇跡だ。一生のうちに天職に巡り合える人間はごく一握りだからな」 汚い金を稼いで何が天職だ、と噛み付く元気はとうの昔に捨ててしまった。ただ「そうかもしれませんね」とだけ呟く。 「きりのいいところで恩田くんも早く帰りたまえ。俺の会社はホワイト企業なんでね」 会社を後にして、いつか憧れたイルミネーションの街を歩く。街路樹、ビル壁、駅に続く階段。煌びやかな電飾に覆われた世界がまるで僕を拒んでいるように感じた。 クリスマスの夜、僕は正気を保つことができない。はるか昔に耳にした少女の声が僕を、氷の張った記憶の海に引きずり込もうとする。重ねてきた罪の意識は膨れ上がって、孤独で惨めな背中に襲いかかる。僕は自らの良心に麻酔をかけるため、目についたバーに飛び込んだ。 イブのせいなのか店内は存外混みあっていた。カップルや夫婦と思える二人組客たちに追いやられるように、店の一番奥、壁際のカウンター席に座った。 度数の強いアルコールを注文しては、味わいもせずにがぶがぶと飲み干す。記憶が薄れていく。彼女の声が遠ざかる。喉を熱が通り抜ける度に後戻りできない方向へ進んでいる気がしていた。それこそが救いであると、嫌でも信じるしかなかった。 何杯飲んだか分からないが今日に限って酔いが回らない。いつもなら周りの状況など分からなくなるほどに意識が混濁するのに、楽しそうに夜を過ごす他人の様子が目についてしまう。 クリスマスの夜に一人で酔い潰れようとしている光景は考えるまでもなく異様だろう。警戒されるのは当たり前で、席幅が狭いわけでもないのに僕の右隣はずっと空席だった。日付が変わった頃、来店してきた女がようやくその場所を埋めた。店の外で纏ってきた冷気が僕の足元にも流れ込んだ。 「一番強いの、ちょうだい」 女はすでに泥酔していたようで、適当な注文をするとそのままカウンターに突っ伏してしまった。店の常連なのだろうか。店員は何か言うわけでもなく酒を作って彼女の前に置いた。 他人の人生に何があろうが僕の知ったことではない。いつからかそういう生き方をせざるを得なくなっていた。だからこの女がどういう経緯で酔っ払い、どういう理由でこの席に着いたかなんてどうでもいいはずだった。自分と同じ、ただの少しおかしな客。僕たちは無関係な人間同士、そのはずだった。 飲み干したグラスをカウンターに乗せながら右側を無意識に見ていた。腕に押し付けた横顔、彼女の左目尻のほくろが心の奥底にある何かをくすぐった。 「何かあったんですか?」 気が付くと僕はそう尋ねかけていた。 「私に聞いてるんです?」 「まあ……」 僕がそう言うと、女は顔を上げて僕を睨みつける。 「私はね! 私は」 何かを主張しようとした女はそこで言葉を止める。僕は思わず息を飲んだ。 湯澤は決して尊敬できない男だったが、妙に正しいことを言う人間でもあった。クリスマスには奇跡が起こるというのもどうやら本当のようだ。 そして、この世界は誰にも望まれていない奇跡で満ちているのだと悟った。ずっと会いたいと思い願っていた相手だったが、こんな自分になってから叶うなんて、なんと残酷な奇跡だろう。 たった十年弱では人の顔つきはほとんど変わらない。女の顔は記憶の海を漂っていた少女の面影を残していた。彼女の名前を、僕は知っていた。 「ユウ姉?」 「嘘……、ケイちゃん? ホントにケイちゃん?」 彼女の目は泣き腫らしたように赤くなっていた。その瞳が僕をまっすぐに見つめている。顔を背けずにはいられなかった。 「ケイちゃんだよね?」 「……うん」 「皆心配してたよ。私のママも、ケイちゃんのお父さんお母さんも」 ユウ姉の声はひどく震えていた。あれだけ飲んだはずなのに頭が妙に冴えていて、彼女の言葉は鼓膜を伝って脳に突き刺さるようだった。 「私も心配してた」 「ごめん」 相手の顔を見ることができない。何を伝えればいいのかまるで分からない。人を騙して生きている今の僕には、彼女と関わる資格なんてあるはずがなかった。 僕は席を立つ。 「会計、お願いします」 「待って! お願い、待ってケイちゃん!」 僕の袖をユウ姉が掴んだ。白く細い手の冷たさは服の上からでも分かる。 「私のせいだよね。私がケイちゃんを傷つけた……」 「違う。僕が勝手に傷ついたんだ」 「そんなこと、ないよ」 僕は座りなおすこともせずに耳だけ傾ける。 「ケイちゃんは知らないかもだけど、私、結婚してるんだ」 「知ってるよ」 「そっか。……でもね、今度別れるんだ。散々浮気されちゃったから」 「そうなんだ」 「私はずっと……」 ユウ姉はうなだれる。ぐすっと鼻が鳴った。 「あーあ、違うのに。こんなとき会うなんてなあ。なんでだろ。ケイちゃんにはもっと言いたかったこと、あったのに」 ユウ姉の目から大粒の涙がこぼれていく。腕を握っていた白い手が重力に吸い込まれるように離れた。 「ホント、なんでだろな」 ――ああ、また僕はユウ姉を泣かせているのか。 そう気付いた瞬間、黒く濁っていたちっぽけな心が、それを支えていたあらゆる下らないものと一緒に粉々になっていくのが分かった。 「何やってるんだろうな、僕は」 「え?」 生き方を変えるチャンスはそうそうあるものではない。皮肉にもそれは湯澤から言われた言葉だった。滅多に起こらないことを人は奇跡と呼ぶのなら、この瞬間がまさにそうであると確信した。 「きっと僕たちは今日会うべきじゃなかった」 「……そうだね。ごめんね」 「だから三年待ってほしい」 ユウ姉が僕を見上げた。涙が泣きぼくろをなぞる。 「僕が今から言うことは酔っ払いの戯言だと思ってくれればいい」 「ケイちゃん?」 「三年後のクリスマスの夜、僕はユウ姉を探す。ユウ姉がどこにいようが見つけてみせる」 まともな思考じゃないのは分かっていた。でも今の僕にとってまともであることが意味をなさないのも痛いほど知っていた。 もしユウ姉が、もし運命が、そして僕自身が許してくれるなら、きっとまた奇跡は起こるはずだ。ユウ姉が信じてくれなくても、僕が彼女の分まで信じる。 「もし会えたら、そのときは」 財布からお金を出し、カウンターに置いた。 「そのときは僕から、ユウ姉に伝えたいことがある」 「ケイちゃん、私は」 「ユウ姉!」 これ以上ここにいたら、きっとお互いに壊れてしまう。そんな気がした。だから言葉を遮って相手に背を向けた。 「またね、ユウ姉」 ――何やってんだよ。 去り際、脳に響いたのはあの日の僕の声だ。けれど僕の決意は固まっていた。僕はもう一度ユウ姉を追いかける。彼女に誇れるほど真面目に生きてみせる。 店の扉をくぐると、ビルの隙間を抜けた風が真正面から僕にぶつかった。ひどく寒く感じた。数年ぶりの寒さだった。 「いいんじゃない?」 会社を辞めたいと伝えたときの湯澤の反応は、信じられないほど素っ気ないものだった。 「どうした、豆鉄砲食らった顔して。止めてほしかったか?」 「いえ、そういうわけじゃ」 「辞めたい社員を無理に引き留めるつもりは無いさ。それに、俺も会社を畳もうと思ってたんだよ。十分稼いだから捕まる前に、な」 湯澤はノートパソコンを操作しながら話を続ける。いつも通りの余裕そうな表情だ。 「どうせこのやり方は終わりさ。そろそろOSも入れ替わるみたいだし、潮時だろ? 世話になってる恩田くんにはどうしてもらおうかと思ってたが、辞めるってんならちょうどいい」 握った弱みを武器に僕をいいように扱うなど湯澤には簡単なことのはずだった。しかし、思えば彼がそれをした試しは無かった。稀代の詐欺師を前にこんなことを思うなんて本当に愚かなのだが、僕を無条件で解放するという彼の発言も真実味を帯びて聞こえた。 「いいんですか?」 「別に問題は無いさ。というかわざわざ俺に聞くか? 怖いなら何も言わずに逃げればいいだろ」 パソコンを閉じて湯澤はため息を吐いた。 「やっぱり君は真面目すぎるよ。俺にとっては少し残念だが君の生き方は変わらなかった。だがそれが恩田くんの魅力だろうな」 ◆ 僕が会社を出る頃には時刻はすでに七時を過ぎていた。先輩と手を焼いていた例の案件は意外な形で幕を閉じた。意外と言うより、むしろ間抜けと言うべきか。 デバッグに嫌気が差した先輩が、沢口さんの使っていたパソコンを立ち上げたのが発端だ。きっといなくなった相手の弱みでも探って、いつか嫌がらせしようとでも考えていたのだろう。 他人のパソコンをしばらくいじっていた先輩は、やがて顔を向けてニヤリと笑った。 「恩田、お前は奇跡を信じるか?」 「まさか」 「いいからちょっと来てみろって!」 先輩が見つけたのは沢口さんの弱みなどではなく、なんと案件の仕様を満たす完成品だった。テストプログラムにもかけてみたが問題無く通過した。つまりそのまま納品できるということだ。 先輩は「クソ部長が引継ぎ失敗したに決まってる」と言ったが、今はどうでもいいことだった。確かに言えることは一つ、僕たちは無事に解放されたのだ。 ビルの隙間から朝日が街に差し込んでいた。もう夜は明けてしまった。 今からユウ姉を探し始めたって間に合わない。そもそも最初から無理な話だった。でも仕方がない、そういう運命だったのだ。それでもいいとすら思えた。僕は今なら、この寒さを抱えながらまた前を向いて生きていける気がしていた。あの日ユウ姉に会えたことがやはりかけがえのない奇跡だった。そう思えているだけで満足だった。 夜中に降っていたのだろうか。駅に向かう道には薄く雪が積もっていた。街角のあちらこちらにはクリスマス用の電飾が巻き付いている。朝日の中で弱々しく光を放っている様子が滑稽に思えた。 雪の上に赤い何かが落ちているのが見えた。近づいて拾ってみると、それは手袋だった。どれほど使いこんだらこうなるのかというぐらいボロボロだ。 「あ、それ私のです!」 少し前の方から声が聞こえてきた。顔を上げると声の主と目が合った。僕は思わず息を飲んだ。 |
蛍:mch 2018年12月30日 07時32分28秒 公開 ■この作品の著作権は 蛍:mch さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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