寒がりの君が手袋を外す |
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すう、と大きく息を吸うと、透き通った冬の空気が体に染みこんできた。 はあ、と息を吐くと、僕の口からは白い煙がもわもわと立ち上った。 よし、とマフラーで隠した口元で自分に気合を入れて、駅の北口から学校へ通じる道を一歩踏み出す。 今日、僕はあの子に告白をする。 * * * * 僕らの通う高校は、駅から数百メートルほど坂を上がったところにある。 都心から電車でおおよそ1時間。都会とも田舎ともいえないこの住宅地は、登下校の時間だけ制服を纏った高校生であふれかえる。 そんな駅から続く上り坂を、僕はできるだけゆっくり、踏みしめるように登っていく。 クラスメートの女子がおはよう、といいながら僕の横を追い抜いて走っていった。 僕もそれにおはようと答えるが、その子はすぐに僕の声の届かないところまで走っていってしまった。 さすが元陸上部、引退しても体力には自信がありますってことか。 僕がゆっくりと道を歩いているのは、別に僕が文化部で運動が苦手だからではない。 あの子を―――熊谷仁美を待っているからだ。 下り電車でやってくる彼女は、僕の住む家からは丁度学校を挟んで反対の方向の、高級住宅街に住んでいる。 彼女に告白する機会を求めるのであれば、この登校中の坂道が最も有効なのだ。 僕は今日、この日のためにシミュレーションを重ねてきた。 彼女に遭遇できる可能性で言えば、学校に着いた後、つまり教室内のほうが高い。 ただ、教室内でミッションを実行するのは、周囲の目もあってやはり少々恥ずかしい。 休み時間のバタバタした短い間に作戦を成功させるのも、情緒に欠ける気がする。 下校時なら、一緒に帰ろうといえば100%確実に彼女と二人きりになれるだろう。 だが、もし告白が上手くいったとして、下校中では駅に着いたらそれでサヨナラ、また明日である。仁美は僕とは反対方向の、上り列車で帰るからだ。 「家に帰って冷静になったらやっぱないわ」とか言われたら、立ち直れる気がしない。 だから登校中の、朝のファーストコンタクト時に告白を成功させ、その後丸一日使って完全攻略するのが僕の作戦だ。 僕は受験生らしく、英単語帳なんかを開いて坂道をゆっくり登っていく。 英単語帳に集中しているフリをすれば、ゆっくり歩いていても不審がられないという、これも僕がシミュレーションの結果得た必勝カモフラージュ法だ。 precious。 貴重な、大切な、尊い―――― 特に意識を向けず、英単語の意味を記した部分に目を滑らせる。 普段は目につかないその単語が、今日はなんだか妙に心に引っかかって仕方なかった。 「ちーっ ひーっ ろーっ クンっ!」 がばっと後ろから冷たい手を両頬に当てられる。 「うわっ、冷たッ!」 「おーっ、英単語やってる。勉強熱心だねぇ」 「……そろそろ手を離してもらえないかな、仁美。覚えにくい」 「えーっ、千紘のほっぺ暖かいんだもーん。学校までだから。いいでしょ?」 「ダメだ」 仁美の手は、高山の新雪みたいに冷たくて、白くて、繊細で、やわらかい。 十二月に入って気温が下がってくると、毎年仁美はこうやって僕の頬に触れたがった。 彼女のその手が頬に触れる度に、僕は毎回無理矢理その手を引き剥がす。彼女に触れられるのはイヤじゃないけど、流石に体温を奪われるのはごめんだ。 今回も、単語帳をカバンにしまって両手で彼女の手を掴んではがす。 「大体、そんなに手が寒いなら手袋をすればいいじゃないか。このまえのバースデープレゼントにあげただろ」 「そうだっけ」 「とぼけたって無駄だ。そのマフラーとお揃いで一緒に渡しただろ、緑と黒のやつだよ」 「あーっ、そうだったそうだった!」 仁美は平手に拳をぽんと置いた。 僕をからかってるのか。 「そーゆー千紘クンはどうなのさ? 手袋してないじゃん?」 「だって僕はほら、英単語帳見てるから。手袋してたらページをめくりにくいだろ」 「じゃあ私も英単語やるー」 仁美と二人で、並んで歩きながら坂道を登っていく。 決して急な坂道ではないし、何なら3年近く毎日通った道だ。なのに、今日はなんだか妙に心臓がバクバクと早く、強く脈打った。 「……仁美」 「んー?」 仁美は英単語帳のページをいったり来たりしながら、脳内単語テストをしているらしかった。 言うぞ。 言うぞ。 言うぞ…… …… ………… 言えない。 言おう、言おうと口を開いても、喉元でつっかえて言葉にならない。 僕は打ち上げられた魚みたいに、口をただパクパクさせていた。 「どしたの千紘、読唇術の練習?」 「……違うよ!」 その日も、僕は仁美に何も言うことはできなかった。 これで7日目。 僕はまた今日、眠れない夜を過ごすことになる。 * * * * 今日こそは言おう。 そう決心してもう1週間になる。 夕陽が葉の落ちた桜を照らす放課後、僕はいつものように仁美と並んで、駅に続く坂道を下っていた。 今日も言えなかった。 また明日挑戦すればいいや、なんて1週間前は思っていた。 でも時間というのはどうしようもないほど残酷で、僕がどんなにあがこうが前にしか進んでくれない。僕たちのタイムリミットは一日一日近付いて来ている。 「ねぇ千紘」 「うん?」 「私に何か言いたいことがあるんじゃないの?」 バレてる!? まさか本当に読唇術を!? 「あーっ、黙っちゃって。やっぱそうだ!」 「……否定はしない」 下から覗き込むように、仁美は僕に向かっていたずらっぽい笑顔をした。 「ほらほらー。この仁美ちゃんに言えないことでもあるのかなー?」 ニコニコ笑いながら、僕の頬をむにむにとつつく仁美。 「言ってごらん。ほらほら」 「……じゃ、また明日ッ」 いたたまれなくなって、僕は坂道を走りだした。 仁美をその場所に置いて、坂道を駆け下りる。 冬の冷たい空気が、仁美が触れて火照った頬を冷やしてくれる。 どうして。 どうしてただ一言、あの言葉を言えないんだろう。 シミュレーションならいくらでも(脳内で)やってきたのに。 どうしてこうも、仁美を前にすると心臓が高鳴ってしまうのだろう。 高校入学の頃から一緒にいても、何とも無かったのに。 どうしてこうも、僕の体は震えてしまうんだろう。 * * * * 自宅の浴槽に足を抱えて鼻まで浸かった僕は、息を止めてゆっくりと瞼を閉じ、思考を整えていく。 (体が震える……僕は怖がっているのか?) 今まで、僕は仁美を『そういう風』に意識したことはなかった。 彼女はただのクラスメートだったし、人付き合いが苦手な僕に冷たくあしらわれても、やたらとしつこく絡んでくる子だった。 僕たちの関係が変わってしまったのは、3年生の秋、仁美が地方の大学から推薦合格をもらったことを話してくれたときだった。 青天の霹靂とは、まさにあの瞬間のことを言うのだろう。僕の知っていた仁美の志望分野とも全然違うところに、仁美は進学すると言っていた。 あっけらかんと、さも当然のことですよと言わんばかりに平然とそのことを明かしてくれた仁美。 その衝撃は、まるで夕立の激しい雷雨のように僕に襲いかかった。僕は何となく、このまま一緒に東京の大学に通って、2人で何だかんだ友情が続くだろうと考えていた。 つい最近までベタベタされて迷惑だと思っていたのに、いざ高校卒業を前にして、仁美と帰るあの時間が無くなるのだということを意識しだすと、とても苦しくなった。 言わなきゃいけない。 あの言葉を。 仁美に伝えたい、僕の気持ちを。 でもどうすればいいんだろう。 決心するだけならもう何度もやってきた。 なのにまだ、一度も言えていないのは覆い隠しようのない事実だ。 答えの出ないまま、時間だけが過ぎていく。 * * * * 結局、僕は仁美に何もいえないまま年を越して元日を迎えてしまった。 日付の変わった夜中の午前3時。 凍てつくような空気の中を、いつもの坂道を上りながら仁美と2人、学校の近くにある神社まで初詣に出かける。 お互いの家族には「合格祈願のために学校の近くの神社に」なんて言っていたけど、そんなものは建前に過ぎない。 とどのつまり、僕が仁美と2人きりになる時間が欲しかっただけだ。 「うー、寒ッ!」 「手袋してくればよかったじゃないか。寒がりのくせに」 仁美は両手で作ったマスクにはーっと息を吐き、手をこすり合わせる。 今日も仁美は誕生日に僕があげたマフラーはしているのに、手袋はしていない。 「……もしかして、なくしたの? あげた手袋」 「いや? そういうわけじゃないけど」 「もしかして気に入らなかった?」 「いや? 気に入ってるよ」 「じゃあどうして……」 「いい加減しつこいね! さ、早く行こ行こ」 僕の手を取った仁美が走り出す。 手袋越しにでさえ、氷に触っているみたいに仁美の手は冷たくなっているのが分かった。 「じゃあさ、そんなに気になるなら千紘が『推理』してよ。得意でしょ!」 「何をだい?」 「『寒がりの仁美ちゃんは何故手袋をしないのでしょうか』。初詣から帰るまでがタイムリミットだよっ!」 「成功報酬は?」 「そうだなぁ……じゃあね。もし理由を当てられたら、今日一日私がなんでも言うこと聞いてあげる!」 「……本当に?」 「仁美ちゃんに二言はありませんよーっ!」 前を走る仁美に手を引かれながら、僕は必死に頭を働かせた。 * * * * 午前3時の神社には、人が誰もいなかった。 初詣客を迎える灯りだけが煌々と辺りを照らしていて、神社の厳かな空間に僕と仁美は2人きりになった。 「何かこうやって並んで神社歩いてるとさ」 「うん」 「神前式みたいじゃない?」 「……バカなの?」 「バカとは何ですか。折角推理に難航している千紘クンに、優しーぃ仁美ちゃんがヒントを出してあげてるのに」 「やっぱそれ、ヒントなんだ」 実際のところ、これまでの仁美との会話や彼女の行動の中で薄々『その可能性』については考えていたし、調べもしていた。 とはいえ、どうしても信じたくなかった僕はそのことから目を反らしていた。 だが今日は、どうしてもそれを認めて、自分の口から彼女に言わないといけないらしい。 かん、からんからん。 2人で投げた5円玉が賽銭箱に吸い込まれていく。 二礼二拍手。 もし神様が見ていてくれるなら。 僕の行く末をただ見守って、応援してほしい。 僕らは最後に一礼をして、拝殿に背を向けた。 参道を進んで、鳥居を出たところで僕は立ち止まる。 異変に気がついた仁美が、僕のほうに顔を向けた。 「ん、どしたの千紘」 「さっきの『推理』の答え、聞いてもらってもいいかな」 「おっ、待ってました。このまま平然と帰られたらどうしようと思ったよ」 仁美はいつもの、いたずらっぽい笑顔をした。 僕は彼女の笑顔が見るのが辛くて、地面に視線を落とす。 「仁美、君には婚約者がいるんだろう」 一際強い風が、僕らの間を吹きぬけていった。 仁美は何も答えず、表情を変えることなく僕を見つめていた。 「仁美のお母さんから聞いたんだ。突然合格をもらった地方の大学、そっちに君の婚約者がいるんだってね」 「んもう、お母さんったらおしゃべりなんだから」 仁美は後ろに手を組んで、くるりと回って僕に背を向けた。 「婚約者……っていうほどのものじゃないよ。許婚、かな。最初はちょっと抵抗あったけど、向こうの彼もとってもいい人なんだ。受験が終わったら、千紘にも紹介してあげるね」 「さっき神前式の話題を出したのは、僕に結婚という言葉を強くイメージさせるためだ。そしてこれが僕の推理の答え――――君は、結婚することを嫌がっている」 「言ったじゃん。相手はとってもいい人なんだって」 「仁美、君は引き止めてもらいたがっている。『何かいいたいことがあるんじゃないの』なんて挑発的な態度を取って、僕からの言葉を引き出そうとして。手袋をしていないのもその一つだ。君がまだ指輪をしていないこと、つまり婚約に至っていないことを僕にアピールするため。それが寒がりの君が手袋を外している理由」 仁美がしばらく何も答えなかったので、僕らの間では、ただただ冷たい風だけがぴゅうぴゅうと音を立てた。 「……ふふっ、正解。てっきり千紘は人の気持ちなんて推理できない人かと思ってたよ。じゃあ推理の成功報酬をあげないとね。何して欲しい?」 「仁美、僕も君に告白しないといけないことがあるんだ。少しだけ黙って聞いていてほしい」 相変わらず背を向けたままの仁美の肩を掴んで向き直らせる。 彼女の目からは涙があふれ始めていた。 「僕も君と同じ大学を受験するんだ」 「……ん?」 「君にも分かるだろう、もう出てしまった合格は僕程度の一存では覆せない。だから僕が君に付いていく」 僕はそのために入念な準備をしていた。 両親には事情を全て話し、家賃と生活費は自分で何とかする、という条件で認めてもらった。 計画を話したら、きっと仁実は負い目を感じてしまう。自分のために、僕の人生を歪めないでと言い出すはずだ。仁美に提案を拒否されることが、僕のとって最大の懸念事項だった。 「…………で、今日私に何をしてほしいわけ?」 「全部は合格してからの話になってしまうけど……ルームシェアして、仁美と一緒に暮らしたい」 「ルームシェア、ねぇ」 「君には今日、僕の提案に『うん』と言って欲しい」 仁美の提案は渡りに船だった。 多少強引な手段を使っても、僕は彼女に『うん』と言って欲しかった。 「いやいやいや。違うじゃん? そこは『結婚してください』とか、そういうことを言うべきところなんじゃないかなぁ!?」 「それが出来たら、大学時代から同棲なんて周りくどい苦労はしなくても済むんだ。だって僕らは女同士なんだから」 「それはそうだけどさぁ……」 仁美はその後、僕の申し出を受け入れてくれて、首を縦に振ってくれた。 帰り道、僕はしていた手袋を外して仁美と直接手をつなぐ。 空からは白い雪が降り始めていたけど、手袋をしなくたって少しも寒さは感じなかった。 |
YLK先輩 fBUfZAte0Y 2018年12月28日 02時11分43秒 公開 ■この作品の著作権は YLK先輩 fBUfZAte0Y さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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