木野美姫のままに |
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手ぶらで家出をするというのは、もうその時点で負けている。 青は常々そう考えていた。 後先考えずに家を飛び出したって、子供はお金もなければ車もない。お腹もすくし遠くへも行けないのであれば、近くの公園かどこかでじっとして、探しにやってくる親を待つしかない。友人の家に匿ってもらうという選択肢もあるけれど、それだって友人の親が電話をかけてしまえば水の泡、飛び出した時点で負けは決まってる。 だから青は、いつも計画的に家出をすることにしていた。 後のことも先のこともちゃんと考えて、きちんと準備をしてから慎重に、こっそりと秘密裏に家を出る。それからあらかじめ立てていた計画通りに電車に乗って、遠い目的地へと向かうのだ。この前は苫小牧に行ってきた。その前は小樽。気の向くままに足を運んだ。 「友達と遊んでくる」とだけ家族に伝え、一人遠い地で家出を満喫するのは不思議と開放感があった。それは青が周囲から真面目な子として見られているからなおさらだったのかもしれないが、子供が大人の目を盗んで何かをしでかすのは、大人の目を盗むことそのものに魅力を感じるからだろう。 家出はいつも日帰りだったし、月の小遣いをそれまでに貯めておけば金銭的にも難しくはない。買ってきたスナック菓子を隣で幸せそうに食べる姉の紫(ゆかり)を横目に、青はせっせと倹約した。時々紫が青にせがんでお金を貸してもらう光景は『アリとキリギリスみたいね』と母を笑せた。 家出をする時はだいたいが土日祝日のどれか一日のみだったが、今回は少し違う。待ちに待った冬休みがやってきたからだ。 この長い連休を有意義に利用しようと、青はお金を貯め、計画を立て、こつこつと準備を進めてきた。冬休みは一二月の二二日からだったが、クリスマスと正月は家族と過ごすことになるだろうと考えて、決行の日は一二月二七日にした。つまりは今日だった。 その朝、少し遅くベッドから抜け出した青がリビングへ向かうと、窓からはすでに暖かい日の光が射しこんでいた。絶好の家出日和だと青は思った。階段や廊下は痛々しいほど冷えこんでいたが、リビングはさっきまでヒーターがついていたのか少し肌寒いくらいだった。母が気遣ってか床暖房はつけっぱなしのままだ。 そして予想通り、家には誰もいなかった。 父は仕事へ、母は何かの用事に出かけ、紫は部活に行った後だ。家出をする時に家族と顔を合わせたくはなかったので、そのタイミングを狙った。どちらかといえば顔に出るほうではないけれど、変に見透かされるのが嫌だった。特に青にとって母は要注意人物である。 「今度の冬休みにさ、友達とスキーに行ってこようと思うんだけど、いい?」 泊まりで、と何気なくつけ足して青が聞いた時も、母は最初は驚いた顔をしたが、それからじぃっと青の目を覗きこむようにして見つめてきた。家出を目論んでいる時はなぜか決まって母はそうした。 青はスキー場や泊まる場所、母とあまり縁のない友達の親が連れて行ってくれることなど、事前に調べてきたものを事細かに身振り手振り説明したが、声が上擦っていないか心配だった。 やがて母は一人うなづくと、いつものくしゃっとした笑みを浮かべ、 「いいわよ。ゆっくりしてらっしゃい」 と言った。 姉にも同じように説明したが、こっちは「お土産楽しみだなあ」とだけ返ってきた。紫の場合は暗にお土産を買ってきてほしいと言っているわけではなく、ただ無邪気に思ったことを口に出しているというのを青は知っていた。しかしそれがまた厄介で、これでは何かしらお土産を買ってこなければならなかった。 そして父にはーー青は、父に対しては逆にほとんど説明をしなかった。 「泊まりでスキーに行ってくるから」 これだけだ。父は何かまだ聞きたそうな顔をしたが、青は気づかないふりをした。それから父はいつものおどけた調子に戻り、目には見えない透明なストックを持って両手を振ってみせた。 「あんまり飛ばしすぎるなよ。怪我しちゃ大変だからな」 うはは、と父は笑った。青はぼそぼそと返事をして目を反らした。父が色々な言葉を飲みこんでいるのがわかったからだ。 青は、生まれつき感性が鋭かった。 人の口から出てくる言葉と胸の中にある心の『ズレ』に人一倍敏感であり、そして嫌っていた。どうしてみんなあんな気持ちの悪い喋り方をするのだろうと青は理解に苦しんだ。中学の先生も、近所のおばさんも、それに父も。大人になるとみんなそういう喋り方になるんだろうか。 それは薄っぺらで、上っ面で、ニセモノだ。 青は時々どうにも我慢ができなくなって、息が詰まって仕方がない時があった。それに、父がたまに口にするあの言葉もそうだ。 ーーここは僕の家だ。 父は誰かと口論になると、こう言う癖があった。 その瞬間、青は家中のあらゆるものに対してよそよそしい態度をとらなければならなかった。リビングの椅子もソファーも自分の部屋のベッドですらも、他人行儀に申し訳なさを感じ、居たたまれない気持ちになる。そういった鬱憤が溜まると自然、どこか遠くへ行きたい衝動に駆られた。それが青のストレスの解消方法でもあり、一時的な避難でもあり、同時に大人たちへの小さな復讐でもあった。 青は母が作り置きしてくれた朝食を済ませ、テキパキと準備をした。身支度を済ませて厚いコートを身に纏い、ぱんぱんに膨らんだ重いリュックを背負って玄関に向かう。しかし靴を履こうとしたところで、はたと思い立ってリビングに戻った。 ガスコンロと蛇口の漏れ、ヒーターや床暖房、家中の窓という窓や裏口のドアがちゃんと締まっているかを確認する。異常なし。オールグリーン、と呟いてみる。正面玄関の鍵も忘れずに回す。 それから青は、心おきなく家出を始めたのだった。 一 今回青が降り立ったのは、真幌町(まほろちょう)という名前の街だ。 青が住んでいる東雲町の駅と真幌町の駅は隣同士で、青のこれまでの家出先としてはもっとも近い。ホームは木のベンチが置いてあるだけの吹きさらしで、昨日降り積もった雪が日に照らされて少し溶けている。何もないおかげでホームからは町が見渡せた。 木、木、木、山、道、店、木ーー。 町並よりも木々や山のほうがぱっと目に飛びこんでくるようなところだ。 建物や道路はあるにはあるが、そちらこちらに雪で白く染め上がった自然に町が今にも飲みこまれそうな雰囲気がある。青はたまに電車で通りかかるので窓から覗くことは度々あったけれど、こうして地に足をつけて眺めるのは初めてだった。東雲町とはまた違った静けさだな、と青は思った。 『静寂』という漢字に二つの読み方があるということを青は最近知ったが、同じ『静寂』な町でも、東雲町が『せいじゃく』と読むのなら、この真幌町は『しじま』と読んだほうがしっくりくる気がした。 しばらく見入っていた青は、待ち合わせをしていたことを思い出す。膨らんだリュックをよいしょと担ぎ直し、改札口へと向かった。 駅の中はこぢんまりとしていた。うら寂しげに閑古鳥が鳴いている。だから青は、隅のベンチに人が座っているのをすぐに見つけることができた。 彼女は本を読んでいた。少し猫背で、組んだ足をぷらぷらとさせている。 温かそうな白のマフラーに口元を埋め、品のある深緑のコートの下からは地元の高校の制服だろう紺のセーラー服のスカートが覗いている。艶のある黒い髪は無造作に後ろで結んでいるにも拘わらず、妙に様になっていた。茶色の皮のブックカバーをかけているので何を読んでいるのかはわからないが、こちらの存在に気づかないくらいには熱中できるものらしい。 綺麗だな、と青はその横顔を見て素直に思った。 化粧気はなく、血色のいい頬はほんのりと赤い。鼻梁の長い形の整った鼻を持つ彼女は美人とまでいかないまでも、いつか母に見せてもらった、外国のコインに描かれた乙女の横顔に少し似ていた。 高校生ってどうしてこんなに大人びて見えるんだろう、と青はいつも不思議に思う。遠からずなれるもののはずなのに、高校生になっている自分がまるで想像つかない。 「おまたせ」と青は声をかける。 彼女はーー木野美姫(きのみき)は、顔をあげて青の姿を見つけると、ふっと吹き出して顔を背けた。肩を震わせて笑いをこらえているようだった。あはは、とついには声に出して笑った。 「家出にしてはずいぶんな荷物ね」 「手ぶらでは家出をしない主義でして」 ムッとしながらしかつめらしくする青の態度に美姫はまた笑った。美姫の名前に『姫』があるからか、青は彼女と喋る時は冗談半分にこういう態度をとることがあった。もっとも美姫のほうは名前に反して淑やかな感じはあまりなく、どちらかというとあっけらかんとしているほうだったが。 美姫は読んでいた本を鞄にしまうと、ひょいと立ち上がる。 「そいじゃあ行きましょ。別荘まで案内するわ」 弾むような足どりで前を歩き出す彼女に、青は遅れてついていった。 今回の家出がいつもと違うのは連泊という点だけでなく、協力者がいることもそうだった。美姫とは少し前に知り合ったばかりではあったが、彼女から青に別荘を使わないかと提案してくれたのだ。 駅を出ると、ぼんやりとした日の光が待ち受けていた。そちらこちらで雪が光を反射させ、水面のようにさざめいている。冷たく湿った風が青の頬をなぜた。その風に乗って、美姫が振り返らずに呟くのが聞こえてきた。 「これじゃあ本当に『クローディアの秘密』みたい。さしずめ私はジェイミーってところね」 どうやら独り言のようだった。 美姫は以前も、こうした意味のわからないことをふいに呟くことがあった。けれど青は美姫の独り言は嫌いではなかった。その言葉は単純な思いつきからではなく、彼女の胸の奥底のほうから流れでてきて、何の加工も施されず、吐息と共にこぼれ落ちたものだと直感的に知っていたからだ。 彼女はいつも、本心で物事を語る。 同時に、いつも胸に秘密を隠し持っている。 青はなんとなくだがその気配に感づいていた。 ◆ すぐ目の前に、山があんぐりと大口を開けて構えていた。 「こんなところに別荘があるの?」 青は仰ぎながら思わずそう口にする。美姫に導かれるままに街と山を繋ぐ大きな赤い橋を渡り、坂道をしばらく登ったところにある山の入り口に青は立っていた。 「もちろん」と美姫は答える。「びっくりした?」 青の反応は予想していたようで、悪戯に成功した子供のように美姫は勝ち誇った笑みを浮かべている。長靴でくるように、と事前に忠告してきた意味を青はようやく理解した。 「びっくりしたっていうか……予想外すぎる」 別荘とは聞いていたけれど、まさかこんな雪山の中だなんて誰が考えるだろう。青が詳しいことを尋ねても美姫はあまり教えてくれなかったのだ。 ためらうことなく山に入る美姫を追って、青もおそるおそる歩を進める。 ほんの数歩足を踏み入れて左を向いてみると、青はさらに驚いた。 別世界だった。 視界のほとんどが白で埋めつくされ、音のない世界がそこにはあった。 だだっ広く開けた道にはでこぼことした雪が敷き詰められていて、雪肌をまとった、見上げるほど背の高い木々が両側から生い茂り、神秘的ともいえるトンネルを作りあげている。青は白髪の巨大な老人たちに厳めしく見下ろされているような心地がした。『果たしてお前に足を踏み入れる資格はあるのか』と値踏みされているようだ。木々の底からそこここに這い出した笹の葉は、お化け屋敷の無数の青白い手のように道に突きだし、だらんと垂れていて気味が悪い。 時折風が吹いて、木々にこびりついていた雪の塊がはがれ、砕け散りながら視界を白く染めた。前方はゆるやかにカーブをしているせいで道がどこまで続いているのか見当もつかない。 こんなところで二日も過ごせるんだろうか? 青は不安になってきた。前々から泊まりこみの家出をしてみたいと思ってはいたが、中学生という立場からしてそれが難しいことはわかっていた。どこへ行っても身分を証明する必要はあるし、友人の家に泊まりこめば親を通じてばれてしまう。そのため青は今まで家出は日帰りでしか行わなかった。だから内情を知っている美姫から別荘の提供をしてもらえたことは、まさに渡りに船だ。けれど、青はその船が今や泥船のように思えて早くも後悔しかけていた。 「ついてきて」 と美姫がさっさと歩きだす。青は置いてかれまいと後を追った。 雪の降り積もった道は真ん中だけ除雪されていて、細く狭い道ができている。日の光で少し溶けているのか、ところどころ滑りやすく、青は何度か転びそうになった。手を繋いでてあげよっか、と美姫が冗談めいて言ってきたが、青は断固拒否した。 「ここを歩いているとね、なんだか落ち着くの」 前を歩く美姫は振り向かずに言った。 「この場所にいてもいいって気持ちになるわ」 相づちとも言えない相づちを打ってみたが、青にはその気持ちがよくわからなかった。何せ相変わらず周囲の老木たちが睨みつけてくるような気がしてならない。美姫の声は穏やかだったが、ほんの少し含まれた寂しさのようなものを青は感じとった。 しばらく歩くと、急に開けた場所にでた。 「うわ、ずいぶん広いね」 青が声をあげる。 学校のグラウンドより一回り広い空間がいきなり顔を現したので、青は面食らってしまった。美姫はすぐそばにある木造の大きな建物のほうを指さした。 「そこにあるのがトイレよ。そいで向こうに見える三角屋根が炊事場。本当はこの時期水は止められるんだけど、今は使えるようになってるから安心して」 勝手知ったる我が家のように振る舞う美姫に、青はすぐには理解が追いつかなかった。不安はますます大きくなり、「こっちこっち」と促されるまま美姫の後ろをついていく。 木造のトイレと炊事場の間には木製のテーブルとベンチがぽつぽつと並んでいた。が、今はこんもりと雪が積もっていて使えそうになかった。夏になれば炊事場では肉が焼かれ、大人たちはテーブルで美味しいものに舌鼓を打ち、子供たちは芝の上を駆け回るのだろう。冬のキャンプ場は、夏がくるのを黙して待つよりほかはないとばかりにじっと堪えているようだった。 除雪機で作られただろう小道はややくねりながらもさらにずっと奥まで伸びている。美姫の後ろから覗きこむように前を見てみると、何かが目に入った。 奇妙な建物だ。 焦げ茶色のとんがり帽子をかぶった、長い足のついている、六角形で木造のーーあれは、小屋だろうか? どことなくドングリのような見た目をしていた。青はこんな建物をこれまで見たことがなかった。それも小屋は一つだけでなく、二つ三つかたまって建てられていて、そのかたまりが離れたところに三つほどある。小さな集落みたいだった。 近くまで来ると案外大きく感じた。小屋の『足』の部分は青や美姫の背丈よりも高く、小屋そのものを雨よけにするように下にベンチが設置されている。建物の床の部分に入り口があるらしく、床下から階段が伸びていた。 「あれは何?」 「バンガローよ」 美姫は歩きながら説明をしてくれた。 バンガローはキャンプで泊まる時に使う簡易的な施設らしい。青は家族と旅行でコテージに泊まったことはあったけれど、バンガローは初めて見た。コテージとバンガローは外観こそ似てはいるが、コテージは家具家電などの調度品が揃っている施設であるのに対して、バンガローは基本的に何も置いていないのが特徴なのだとか。 美姫は奥まで進むと、一番端にあるバンガローの前でようやく足を止めた。 「着いたわ。ここが私の別荘よ」 青は美姫とバンガローを交互に見た。 「別荘って……いいの? ここ使っても」 誰かに怒られはしないか青は心配になったが、当の美姫はどこ吹く風だ。 「そりゃあ無断で使ったらダメだけど、許可はちゃんととってあるもの。心配ご無用よ」 言われて、青は改めて美姫の『別荘』に目を向ける。 壁にリースのついた表札がかかっているのを見つけた。そこには『メトロポ荘』と書かれてあった。他のバンガローにはこういう表札はなかったと思うから、どうやら美姫がこのバンガローにつけた名前らしい。 「さ、入りましょ」 と美姫が言う。 豚のようにまるまると肥えた不安を抱えながらも、美姫に誘われるがままに青はメトロポ荘の中へと入っていった。 こうして、二泊三日に渡る青の家出生活がスタートした。 二 「靴はここで脱いでね。土足は厳禁だから」 階段を登って上に開いた入り口の真ん前に、大きめの玄関マットが敷かれていた。その上で美姫は長靴を脱ぎながら青に注意する。青もそれに倣い靴を脱ぐと、美姫は入り口の扉を閉め、靴が並んだままのマットを引きずるようにして扉にかぶせた。こうすることで扉からのすきま風を塞いでいるのだった。 「ようこそ、メトロポ荘へ」 と美姫は手を広げ、恭しくかしこまってみせる。仕草とは裏腹に子供が自分の宝物を見せてくる時のような目の輝きをしていた。青は美姫の手が示すほうーー部屋の中をゆっくりと見渡す。 思いのほか生活感のある部屋だった。 テーブルもあれば本棚もあり、カーペットまで敷かれている。基本的に何も置いてないのがバンガローだと説明されたばかりなので、がらんとしているのかと想像していた。けれど考えてみれば美姫が別荘として使っているのだ、何もないほうが不自然だろう。青からすればむしろコテージに近かった。 電気もつけていないのに部屋がやけに明るいと思ったら、入り口付近の窓とその反対側にある窓のほかに、丸く小さな天窓が四つほど天井についているのを見つけた。 「なんか、お洒落なところだね」 「でしょう? 造りが面白いから気に入っているの」 少し寒いけどね、と美姫は笑った。 「荷物はどこでもいいわ。上着はそこのハンガーにかけてね」 そう言う美姫はすでに上着を脱いで制服姿だった。紺のセーラー服は美姫の雰囲気にとても似合っていると青は思った。 六角形の部屋の上部には出っ張りがあって、バンガローの正面側の窓の近くにいくつかのハンガーがかかっていた。青は部屋の隅に荷物を置くと上着を脱いで、言われたとおりにハンガーにかけた。 美姫はその間に黒く細長い機械のスイッチを入れた。 「それってヒーター?」 「うん。コンセントだけはあるからね、ここ。カーペットも電気カーペットだし、寒ければ電気毛布もあるから使っていいよ。あ、紅茶とコーヒー、どっちがいい?」 「えっと、じゃあ紅茶で」 「オッケー」 美姫は出入り口側の窓に並べてあるペットボトルを一本手にとって、その向かいにある木目調の食器棚らしき小さな棚からステンレス製の片手鍋を持ってきた。それからヒーターの近くにあった黒い台のようなものに鍋を乗せて、水を注いだ。ピッ、と音がしたかと思うと寝ぼけたようなモーター音が唸り始める。 IHだった。クッキングヒーターすら持ちこんでいたことに青は少し驚いた。さりげなくその横に炊飯器も置いてある。鼻歌を歌う美姫の慣れた手つきから、本当にここで生活をしているのがありありと伝わってきた。 「ほんとはお湯を沸かすのにケトルを使いたいのだけれど、荷物をあんまり増やしたくないのよね」 言いながら、美姫は食器棚からとりだした二つのマグカップに紅茶を淹れる。ほんのりとフルーツの甘い香りが部屋に漂った。 「ここの荷物ってどうやって持ってきたの?」 青は周囲を見回しながら尋ねる。 「ソリに積んできたの。何回か往復したからそりゃあ大変だったわ。外の柱にロープと一緒にくくってあるから、もし街で買い物がしたかったら使ってもいいよ」 青はうなづき、淹れてもらった紅茶に口をつけた。ふうと息をつく。ようやく一段落した心地だ。それにしてもここは時間がゆったりと流れているような気がする。時計を探してみると、しかしどこにも見当たらなかった。 「ちょっと不安?」 きょろきょろしていたからか、美姫がそう聞いてくる。ここでの生活のことを言っているのだろう。「少しね」と青は答えた。ここに入るまではものすごく不安だったけれど、この空間のせいなのか、それとも紅茶の甘い匂いのせいなのか、不思議とさっきまでの不安は薄れていた。 「きっと青はこの場所を好きになると思うよ」 と美姫は微笑む。 それはたまに見せるあの独特な、独り言のような口調だった。 その言葉は占い師の予言を連想させ、どうして美姫の発する言葉はこう、深いところからやってくるような感じがするんだろうと青は考えた。不思議ではあるけれど、本当にその通りになるような気がするのだ。 ふと、青は本棚の上に写真立てが置いてあるのを目に止めた。じろじろと見るのは失礼だと思い一度は目を反らしたが、見覚えのある風景が写っていたので今度はまじまじと見た。 「あの写真ーー」 青が指摘すると、美姫は嬉しそうに目を細める。 「気づいた? そう、あの時の写真よ。友達に作ってもらったの」 「わざわざ?」 「気に入ってるの。青とのツーショット写真でもあるしね」 そう言って悪戯っぽく笑う美姫に、青は気恥ずかしくなった。もともとこの写真は青が撮ったものでもあったし、同時に恥ずかしい記憶が蘇ってしまったからだ。そもそもの話、この一枚の写真が始まりだったのだ。美姫に出会ったのも、こうしてバンガローに訪れたことも。 美姫と初めて出会ったのはつい最近のことなのに、こんな人里離れた山の中にいるせいか、青にはあの日のことが昔々の出来事のように思えてならない。 あれは青が、家出先の小樽に行った時のことだった。 ◆ 「ブラキオサウルスみたいね」 ふいにそう声をかけられて、青はびっくりした。 夕焼け色に染まる小樽の景色を眺めるともなく眺めていたものだから、人の近づく気配には気づけなかった。振り向くと見知らぬ人がいつの間にか立っていて、青はまた驚いた。その人はジーンズジャケットに両手をつっこんでいて、灰色と黒のキャップからは細くて長い後れ毛を儚く揺らしていた。 けれど彼女の視線は青ではなく、遠くのほうを見つめている。『ブラキオサウルス』のほうだ。さっきのは話しかけていたのではなくて、独り言だったんだろうか。青は変な気恥ずかしさと不安を紛らわせるためにそそくさと彼女と同じ方に向き直った。 ブラキオサウルスというのは、あそこにあるクレーンのことだろう。 ちょうど青も同じことを考えていた。四本足で、前には長い首を上に伸ばし、後ろには尻尾までついている。赤と白を基調にした大きなクレーンはまさにブラキオサウルスの形をしていた。彼はその長い首を海に向け、暮れなずむ空を寂しそうに眺めては一人黄昏れているように見えた。 「写真、一枚お願いしてもいいかな」 声に振り向くと、彼女と目が合った。どうやらさっきのは独り言ではなかったらしい。けれどその瞳は澄みきっていて、目が合っているのにどこか遠くを見つめているような感じがした。青は戸惑いつつもうなづく。 「そいじゃあこれね」 と言って渡されたのは携帯電話だった。 彼女は青の隣に並んで、ブラキオサウルスに背を向ける。そこをポジションと決めたらしい。青はいそいそと彼女から離れ、すでにカメラを起動していた携帯電話を構える。 レンズ越しに見ても、やっぱり小樽の海の夕日は綺麗だと思った。 海の見えるこの港は駅からはずいぶんと歩くけれど、どうしてかここは惹かれるものがあった。青が住んでいる東雲町には朝と夜、たまに海霧が流れこんでくるものだから、海に対して親しみを感じているのかもしれない。 空はさっきより赤々としていて、低い雲の底は淡紅色に染まり、夕波がいっそう輝きを増していた。ブラキオサウルスから漂う哀愁は深まるばかりで、その前で彼女は相も変わらずポケットに手を入れて微笑みを浮かべている。 青がカメラを撮り終わると、彼女は「どれどれ」と嬉々として近寄ってきた。上手く撮れたか自信はなかった。そもそも上手く撮ろうという意識さえしたことがない青は、自信などあるわけもなく、情けなくもおずおずと携帯電話を差し出すほかなかった。 彼女は写真を覗きこむと、あはは、と笑った。 「ちょっと指が映ってるね、ここ」 「えっ」 慌てて青が写真を覗きこむーー本当だ! レンズに指がかかっていたのだろう、青の指らしきものが写真の左端にぼやけて写っていた。景色に見とれて気づけなかった。 「ごめんなさい。もう一回撮ります」 「ううん、いいよこれで。すごくいい写真だと思う」 「でも……」 恥ずかしさで夕日に負けないくらい顔を赤くした青に、彼女は「大丈夫よ」と優しく微笑んだ。その顔はどことなく姉に似ていると青は思った。 彼女は青の隣に並ぶと、二人が見やすい位置に携帯電話を持って写真を見せてきた。 「普通はね、写真を撮ってって言われたら、人を中心に撮ると思うのよ」 青はハッとする。たしかに言われてみればそうだった。写真の彼女は中央よりやや右にずれていた。景色ばかり見ていたせいだ。途端に申し訳ない気持ちが湧き上がってきたが、彼女はそれをなだめるように穏やかな口調で続ける。 「でも、この写真はそうじゃないでしょう? 人と景色がちゃんと調和しているというか、そうーー写真というより、一枚の絵って感じね。素敵だわ」 それはさすがにお世辞がすぎるだろう。別に特に意識などしていなかったのだから。しかし、だからこそ戸惑った。なぜなら青は、彼女が本心からそう言っているのを感じたからだ。 青の戸惑いもつゆ知らず、彼女は写真を眺めながら朗らかに言った。 「写真はね、その人の感性やその人の心を写すものだと私は思うのよ。だから私、人の写真を見るのが好きなの。その人がどんなものに興味を持って、何に感動して、どういう気持ちで撮ったんだろうって想像してみるとちょっと面白かない? この写真は君の心と感性がよく表れていると思うよ」 もはや青は何も答えられなかった。どう反応すればいいのかわからない。でも、嫌ではなかった。彼女の話を聞いていると、不思議と気持ちが落ち着くような気がした。 「君、名前は?」 と脈絡なく彼女は聞いてくる。 「……あ、天野です。天野青っていいます」 しどろもどろに青が返すと、彼女はにっこりと笑った。細めた目はやはりどこか遠くを見つめているようだった。 「私は、木野美姫」と彼女は名乗った。「よければ連絡先、交換しない?」 それ以降、青と美姫はたまに連絡をとり合うようになった。 ぽつぽつとだが青は色々な話を美姫にした。今度はどこへ行ってきたとか、そこで何をしてきたとか、学校でどうのこうの。時には少しこみ入った話もしたーー家出を繰り返す理由や、父への不満をうっかり吐露することもあった。美姫には人から話を聞き出す不思議な力があるらしい。青は自分の内面のことを人に話すのは本来得意ではなかったはずだが、美姫にはなぜかすんなりと話すことができた。 逆に、青は美姫のことをあまり知らない。 知っていることと言えば、隣駅の街に住んでいることと、高校三年生であること、それからいつも本心で話をする人であること。それくらいだ。 しかし、青にはそれで十分だった。人を信頼するのにそんなに多くの情報を必要とはしない。少なくとも青にとってはそうだった。 そしてそんな彼女からある日、次のような連絡があった。 ーー今度の冬休み、もし家出するなら私の別荘を使わない? 青は首を傾げた。別荘? うまく飲みこめなかったので詳細を聞こうとしたが、詳しくは教えてくれなかった。それは見てからのお楽しみに、らしい。というよりすでに決定事項になっていた。青はため息をつき、半分投げやりな気持ちで『仰せのままに』と短く返した。もう半分は、純粋に楽しみな気持ちではあったけれど。 ◆ メトロポ荘があるキャンプ場から少し離れた場所に、中央広場というものがある。そこでランチをしないかと美姫が提案してきた。 彼女があまりにも無邪気に浮き浮きと言ってくるので、提案というよりはほとんど命令に近いと青は思った。断ればしょぼくれる姿が目に浮かんだからだ。こういうところも姉に似ている気がした。 「そいじゃあさっそくお弁当を作りね。腕によりをかけて作るわよ」 いつの間にか制服の上にエプロンをかけていた美姫が腕まくりをする。青は辺りを見回した。 「でも、食材ってどこにあるの? 冷蔵庫は?」 「そっちにあるわ」 青が尋ねると、美姫は後ろの窓を指さした。そこにはさっき使ったいくつかのペットボトルが並んでいるだけだ。青は首を傾げる。 「僕には水しか見えないんだけど」 「窓を開けてごらん」 言われるままに青は窓を開けてみた。 吹きこんできた冷たい風に顔をしかめながら辺りを覗うが、木と雪と向こうに見える他のバンガロー以外は見当たらなかった。しかし、ひょいと視線を下に向けると、青はようやくそれを見つけた。木の窓枠に数本の釘が等間隔に打ちつけられていて、そこからいくつかの袋が下がっているのだった。 青は振り返って美姫のほうを見る。 「もしかして、この中?」 「ピンポン。そこから好きに使っていいわ」 袋はすべてジッパーつきで、大きさも厚さも素材もそれぞれ違っていた。保ちたい温度や食材の種類によって使い分けているらしい。野菜の入っている袋や肉類の入っている袋、小さな袋には調味料が詰まっていた。ちなみに保冷する必要のない調味料や油は食器棚のほうにあるのだとか。 その食器棚はよく見るとダンボールで作られていた。一見して普通の木目調の棚に見えるが、それは壁紙を使っていたからだった。六つほどのダンボールを重ねてから壁紙をぐるっと巻いてひとまとめにして、枠の部分もきちんとコーティングされている。本棚も同様で、美姫のお手製だった。そのほうが持ち運びも楽だし、組み立ても解体も簡単にできるからだという。 「玉ねぎとベーコンもとってちょうだい」 美姫はテーブルの上を片づけてまな板や包丁を用意し、片手鍋でまたお湯を沸かし始めた。コンソメスープを作りたいらしい。 「そういえば青って料理できるの?」 「うーん、まあ、それなりに。上手くはないけどね」 母の帰りが遅くなる時は夕飯を作ることがあったので、その点では問題なかった。父も紫も料理はからきしだったからだ。食材はあらかじめ母が用意してくれるので、簡単なものであれば作れるには作れる。 「でも、ここって料理しても平気なの?」 素朴な疑問だったので質問すると、もちろん、と美姫は答えた。 「もちろん内緒よ。見つかると怒られるから気をつけてね」 誰に怒られるのかは知らなかったが、青は一応気をつけることにした。 ちょうど日が真上にきた頃合いに料理を作り終えて、美姫が用意してくれた二人分の弁当箱と水筒にそれぞれ詰めた。そこまではよかったが、青は嫌な予感がした。美姫が底に新聞を敷いたダンボールに、使ったフライパンや片手鍋をせっせと入れ始めたからだ。それに洗剤とスポンジと白い布巾も。 「ねえ、洗いものってもしかして」青は窓の外を見る。「外の炊事場でやるの?」 日は照ってこそいるが寒いことには変わりない。このメトロポ荘から炊事場は地味に距離が遠いし、その水の冷たさときたら想像するだけで青を震え上がらせた。 しかし美姫はにこりと笑って、ダンボールを青にぽんと寄越した。 「さ、ちゃちゃっと洗ってランチにしましょ」 青と美姫は再びコートに身をくるんでメトロポ荘を出発した。 ぼんやりとした朝に比べると日の光は目を覚ましたように強く照っていて、空にはふたひらみひら、白い雲がたなびいている。 青と美姫の雪を踏みしめる音の他には、たまに囀る鳥の声や、日の光で溶けた雪が草木から雪崩れる音のほかはなく、ほぼ無音だ。街では寝静まった夜でさえ車の通る音がするものだから、青には新鮮だった。音のない世界は不思議な心地よさがある。 もともとこの山はレクリエーションの施設として使われているらしく、あちこちに看板が立てられているのを見つけた。夏場になればちらほらと人が訪れるのだろうが、今は人の影すら見当たらない。かわりに狐か狸か、よくわからないが動物の足跡が点々と続いていた。 看板の案内に沿って進んでいくと、やがて開けた場所にでた。 雪をかぶった木のベンチがあちこちに設置されていて、奥には大きな東屋がある。前を歩いていた美姫がくるりと振り返る。 「ここが中央広場よ。あの奥の東屋でランチにしましょう。あそこは見晴らしがいいの」 しかし東屋に屋根はついているものの、壁や扉はないので吹きこんできた雪が中にまんべんなく白くまぶされていた。しかしこんな時のために美姫がシートもちゃんと用意してきたようで、二人並んで腰を掛ける。 「どう、いい眺めでない?」 と美姫が得意顔で言う。 「うん」と青は素直にうなづいた。 前方になだらかな勾配ができているおかげでここからでもかなり遠くまで見渡せた。空も青く、空気も澄んでいて、日に照らされて輝く雪化粧がよく映えている。青は景色を見て気持ちがいいと感じたのは久しぶりだった。 「わ、美味しい。青って意外と料理できるんだ」 弁当をつついていた美姫が目を丸くして言った。 「たまに作ってるから。お母さんがいない時だけね」 青が作ったのはバターとにんにくと塩こしょうで味つけをした、小松菜とベーコンの炒め物だ。時間がない時はさっとできるものだし、姉の好物なのでよく作っていた。メトロポ荘の窓にぶら下がっている食材袋の中で青が作れるのはこれくらいしかなかった。 あまり料理は得意ではないと豪語する美姫が作ったコンソメスープも、やや玉ねぎが不揃いでしゃきしゃきしすぎてはいたけれど、美味しかった。寒さでこわばった体が内側からじんわりとほぐされていく。たまにはこういう場所で食事をするのも悪くないかもしれないと青は思った。 「ちょっと散歩してかない?」 と、美姫が食後に提案もとい命令してきたので、青はそれに従った。荷物はとりあえず東屋に置いておく。盗む人はさすがにいないだろう。 スープを飲んで体が温まっているからか、青はさっきよりは快適な道のりに感じた。余裕ができて自然と視野が広くなり、そのおかげで青は道中で少し気になるものを見つけた。 「どうしたの?」と美姫が聞いてくる。 「いや、あの木についてるのって何かなって」 すると美姫は嬉しそうに微笑んで、「見てみましょう」と軽やかに誘った。 近くまでくると、鉄の板のようなものが針金で木にくくりつけられているのがわかる。雪がこびりついて端のほうは見えなかったが、文字は読めた。ヤマモミジ、と書かれている。この木の名前らしかった。 「へえ」と青は呟いた。「親切だね」 物言わぬこの冷たい看板に、青はある種の温かさを感じとった。看板というよりは看板を作った人に対してだ。これを作った人はいい人だと青は思った。 山を訪れた人に、木のことを知ってもらいたいという気持ちが胸の中に流れこんでくるようだった。隣で美姫の満足そうな声が弾んだ。 「こういうのが山のあちこちにあるの。少し見て回らない?」 うん、と青はうなづいた。今度は命令という感じはしなかった。自分自身も見てみたいと思ったからだ。 中央広場にある木は、比較的見栄えのするものが多い気がした。 さっき見たヤマモミジや、シウリザクラ、イタヤカエデがそうだ。逆に何もない通路にはミズナラやシラカバ、ハクウンボクやカラマツが群生している。どれもこれも葉が落ちているので見分けが難しいが、注意深く観察すると幹の模様や枝が伸びている様子でわかるものがあった。 ある程度周辺の木々の種類を把握すると、二人はちょっとしたゲームを始めた。一人がどれか適当に木を指定して、もう一人がその木の種類を当てるというゲームだ。 思いのほか熱中した。 青は真剣になって微に入り細にわたって木を観察するも、当てることはなかなか難しかった。反対に青が問題を出しても美姫はすらすらと答えるのでなおのこと悔しがり、青はムキになって当てようとした。 その中でやがて、青は一本の木に目を止めた。 ひときわ大きな木で、周囲の木とは違い厳かな雰囲気を放っているのが青にもわかった。いっそ恐ろしいくらいだ。 十数本の幹が大きく手を広げるように伸びてはいるが、それらは根元のほうでひとつになっている。青はふと、ヤマタノオロチを連想した。テレビゲームでたまに見かける、首が九本もある伝説上の生き物のことだ。 「あれって、カツラ……だよね?」 「正解よ。この木、ずいぶんと立派でない? 初めて見た時は恐かったくらいだもの。ヤマタノオロチって勝手に呼んでるのよね」 美姫も同じことを考えていたようで、青は少し嬉しかった。たしか『ブラキオサウルス』の時もこんな感じだった。美姫は『ヤマタノオロチ』の幹にほっそりとした白い手をそっと押し当てる。 「この子、どれくらい生きてるんだろうね」 「百年は経ってたりして。なんか、存在感が違うよね」 美姫はそれには答えず、しばらくはじっと『ヤマタノオロチ』を見つめていた。青もそれに倣った。音のない山の中では時間がゆっくりと過ぎていく。遠くで鳥の声が聞こえ、それから、美姫が静かに呟いた。 「こういうのを見てると、『たしかなもの』って感じがするのよね」 例の独り言のような話し方だった。 「たしかなもの?」 青が首を傾げると、美姫は続けた。滔々とよどみない口調で。 「月の光が綺麗なのも、おじいちゃんとおばあちゃんが手を繋いでいるのが微笑ましいのも、この子がこんなにも厳かなのも、長い長い時間のふるいにかけられているからだと私は思うの。そういう永続的で、変わることのない性質を持ったものはね、『たしかなもの』と言っていいと私は思うわ」 青はあまり理解できなかったので、何も答えられなかった。 けれど『それ』は、青の頭の中を素通りし、胸の奥の奥までたどり着き、パズルのようにぴったりとはまるような感覚があった。『それ』は自分が欲してやまないものじゃないかと、漠然とながらも青は予感していた。 自然、青はいつも疑問に思っていたことを口にする。 「どうして人って、口と心がちぐはぐになっちゃうのかな」 しかし美姫はまた答えなかった。青の顔をちらりと見て微笑むだけだ。視線を『ヤマタノオロチ』に戻し、美姫は言った。 「感情はね、二種類あると私は思うの。表面を流れる感情と、奥底に流れる感情の、ふたつ。表面の感情は天気のように移ろいやすいけれど、奥底の感情は小川みたいにね、ひっそりとだけどいつも変わらず穏やかなに流れてるのよ」 それから美姫はうつむいて、どこか沈んだような声を出した。 「だから、どんな時でもね、小川のせせらぎに耳を傾けることが大事なの。そうすればーーそうすれば、たとえ嵐のような場所にいたとしても、少しは生きやすくなると思うから」 美姫は突然くるっと青のほうを向くと、右手を上に、左手を下に持ってくるようなポーズを作った。 「ねえ青、こっちの上の手が『天気の感情』だとして、下の手が『小川の感情』だとしてね? そいじゃあ恋愛の感情ってどこらへんにあると思う?」 唐突な問題に青はたじろぎつつも、真面目に考えてみた。しかし、真面目に考えるほどよくわからなかった。 「……ここらへん?」 と青はおそるおそる、美姫の右手と左手のちょうど中間のあたりに手を差し出す。途端、ぱちん! と音がした。乾いた音が周囲にこだまする。美姫が両手で素早く青の手を挟んだのだ。 「正解。私もそう思う。どっちもあるから厄介なのよね、恋愛って」 してやったりな子供の笑みを浮かべている。美姫の手は冷たくて、滑らかで、柔らかかった。青は少し間を開けてからハッとして、「離してよ!」と顔を真っ赤にして美姫の手をふりほどく。 ◆ その帰り道だった。メトロポ荘が見えてきたところで、青は何気なくキャンプ場の入り口に目をやった。すると、何か動くものが映ったーーような気がした。ほんの一瞬だ。すぐに消えてしまった。 動物かなと青は思ったが、あの一瞬のイメージを頭の中で思い返してみると、二足歩行だったような気がする。それも黒っぽい服を着て、背が高く、前のめりの姿勢で歩いていたーーような気がするのだ。ティラノサウルスのように。 「どうかした?」と美姫が聞いてくる。 青は首を振った。よくわからない。自分の記憶を自分でねつ造しているのかもしれないし、そう思うことで自分を守ろうとしているのかもしれない。 なぜだかは知らないけれど、青は妙な胸騒ぎがした。 ◆ この頃の夜の足は早く、五時を回る頃には空はすっかり暗くなっている。 メトロポ荘の室内は電気こそ通っているが、コンセントのみで照明はない。そこで美姫がとりだしたのは、手のひらに乗るほどの小さな銀色の筒のようなものだった。 「オイルマッチっていうの」 言って、美姫は窓から射すかすかな月明かりを頼りに、筒の上の部分にある突起をねじる。すると、筒と同じ色の棒状のものが中から現れた。その先端には白い髭のような繊維がついていて、その髭の中に黒くて四角い石が覗いていた。その石で筒の側面についている黒い部分をシュッと擦ると、オイルが染みこんだ髭に火が灯る。それはライターのような先の尖った滑らかな火ではなく、ヒトダマのように輪郭のぼやけた丸い形をしていた。 「へえ、面白いね。小さな松明みたい」と青は身を乗り出すように覗きこむ。 美姫はあらかじめ用意していたランタンに、マッチの火を点けた。やや大きめの黄色いランタンで、これも燃料にオイルを使っているらしい。芯の先のほうはアルコールランプのような太めの芯になっていて、中の天井を舐めるように力強く燃えている。一つのランタンの中に三つもオイルが内蔵されているのでかなり明るく感じられた。 柔らかな明かりの中での静かな夕食が済むと、シャワーを浴びてくるようにと美姫に言われた。青は貸してもらったバスタオルとリュックに詰めておいた着替えを持って、外へ出た。シャワーはキャンプ場の入り口にある木造の大きな建物の中にトイレと一緒に併設されている。メトロポ荘とは違ってトイレもシャワー室も照明がついていたし、熱いお湯も使えはしたけれど、いかんせん冬場だ。外の冷気が室内のいたるところに忍びこんでいて、青を芯から震えさせた。 「温かい格好をしてったほうがいいよ」という美姫の忠告通りだった。行きよりも帰りのほうが寒く感じるくらいだったからだ。 美姫はそれを予想していたのか、メトロポ荘に帰ってくるとランタンでお湯を沸かし、紅茶の用意をしてくれていた。ランタンの上に片手鍋を乗せれば、少量であればお湯を沸かせることができるらしい。面白いので美姫がシャワーに出かけた後、青も頃合いを見計らって同じようにお湯を沸かしてみた。 シャワーを浴び終えると、二人はトランプをした。 『ハヤブサ』という遊びは青は得意ではあったものの、美姫には一度も勝てなかった。次の『豚のしっぽ』でも負け、さらに『戦争』でも負け、こてんぱんに打ちのめされた。兎を狩る獅子のごとく美姫が手を抜く気配はまるでなかった。しかし少しでも手を抜こうものなら、青はカンカンになって怒っていただろう。 「本を読んでみない?」 と美姫がうなだれる青に提案する。 「眠る前に本を読むとね、そりゃあぐっすり眠れるのよ」 やや芝居がかった口調だ。何か企んでるな、と青は察したが、言う通りにした。本棚から好きな本を選んでいいと言われたので、ランタンを片手に背表紙のタイトルに目を通す。読書を好む姉であれば知っているものもあったかもしれないが、青はあまり本を読むほうではなかったのでどれもこれも知らない顔ばかりだ。 ただ、その中で気になるものを見つけた。 『クローディアの秘密』というそのタイトルに、青はどこか聞き覚えがあった。 これってたしかーーそういえば今朝、駅で美姫が呟いてなかっただろうか? 表紙を見ると女の子と男の子が二人並んで背を向けていた。青はその本がどことなく親しげな顔をしているような気もして、これに決める。 その間に美姫は二人分の毛布と寝袋を用意していた。それからいそいそと食器棚のほうへ向かい何かをとりだしてくる。 戻ってきた美姫の右手には、ローソクの箱が一つと、左手には空き缶が二つ。一目見てそれが空き缶だとわかったのは、側面が三分の一ほどくり抜かれて空洞になっていたからだ。 「それは?」と青が聞くと、美姫は片方の空き缶を手渡してくる。 「お手製のローソク立てよ。本を読む時はローソクの明かりに限るのよね」 よくよく観察してみると空き缶の底の真ん中から針が一本突きでていて、そこにローソクを立てるらしい。底の裏を見ると針の正体は安全ピンだった。ぐにゃぐにゃに曲げられてセロハンテープで固定されている。 美姫はランタンの火でローソクを灯すと、それを空き缶の中に差しこんだ。 「青、ちょっと見て」 美姫はランタンの火を吹き消してから、空き缶をくるっと回転させてみせる。へえ、と青の口から感嘆の声が漏れた。 反対の側面に、大きな赤い星が浮かび上がっていた。 「綺麗でない?」と得意気に言う美姫の瞳は、明かりに照らされて爛々と輝いている。さっきの企みの臭いはこれだったんだ、と青は納得した。 空き缶に錐か何かで星形に穴を開け、その穴の一つ一つからローソクの光が漏れでているのだ。少し子供じみたものだったが、メトロポ荘の暗闇の中でそれは幻想的な輝きを放っていた。 「青のはまだ穴開けてないから、今度自分でやってごらん」 と美姫は優しく言う。青はうなずき、それから二人とも寝袋に潜っておのおの静かに読書を始めた。なるほどローソクの明かりはたしかに読書にぴったりだと青は思った。温かい光が紙面にじわりと染みこんでいくようで、自然と物語の中に入りこめるような気がする。 本の中のクローディアという少女は、青と少し似ていた。彼女もまた計画的に家出をするタイプであるらしい。青はそこに親しみを感じ、彼女の秘密とはいったい何だろうと期待しながらページをめくっていく。 秘密といえばーー青は、隣に寝そべる美姫の横顔を盗み見た。 彼女が抱えているらしい秘密も気になるところだった。が、いくら考えても青にはもちろん見当もつかない。知らなくてもいいと前までは思っていたけれど、今は美姫のことをもっと知ってみたいという気持ちになっていた。 そのうちに眠くなったので、青は本を閉じてローソクを吹き消した。隣ではすでに美姫がかすかな寝息を立てていた。青も仰向けになって寝袋のジッパーを閉め、天井を見つめる。丸い四つの天窓からは、雲がかかっているのか星が見えなかった。 あっという間の一日だったな、と思いながら青は眠りについた。 その夜、青はティラノサウルスの夢を見た。 影のような黒々とした巨大な恐竜がキャンプ場に侵入して暴れ回っていた。ティラノサウルスは木々という木々をなぎ倒し、『ヤマタノオロチ』や『ブラキオサウルス』を噛み砕き、そしてメトロポ荘をぺしゃんこに踏み潰した。 ◆ 平穏なメトロポ荘で事件が起こったのは、次の日の夕方頃だった。 美姫は学校に少し用事があるらしく、午後からメトロポ荘を出て山を降りていった。青はしばらくはまた山の中を散策していたが、昨日に比べてかなり寒く、雪も降りそうだったので途中で切り上げた。 メトロポ荘へ帰っても特にやることはなかったので、青は本を読むことにした。『クローディアの秘密』の続きが気になってはいたし、この家出生活も明日で終わりだ。せっかくだから最後まで読んでいこうと青は考えた。 読み進めていくと、姉のクローディアとその弟ジェイミーは二人で家出をするようだった。それも家出先に美術館を選び、そこにこっそりと潜伏して有意義な生活を送っているところが描かれていた。青はその美術館の名前に目を止めた。 『メトロポリタン美術館』 そう書かれていた。青はすぐにピンときた。きっとこれが『メトロポ荘』の由来だと、そう確信した。 「でも、どうしてここからとったんだろう」 美姫はどういうつもりでこのバンガローに『メトロポ荘』という名前をつけたのか。なんとなくだが、青にはそこに意味があるような気がした。 窓から射しこんでいた西日が弱まり、気づけば辺りは薄暗くなっていた。文字が読みにくくなったので、青は昨日の美姫がしたようにオイルマッチを使ってランタンに明かりを灯す。オイルを節約するために三つのうち一つだけ火をつけることにした。本を読むにはこれで十分だ。 そういえば、と青はそこで昨日の夜に使っていた空き缶のローソク立てのことを思いだした。美姫のように自分のも穴を開けて模様を描いてみようか。ああいう工作は青は嫌いではなかった。 「すごいものを作って美姫を驚かせてあげよう」 さっそく探してみると穴を開ける道具は錐ではなく、コンパスの針を使っていたらしい。それらしいものがこれしかなかった。左手に空き缶を持ち、右手にコンパスを持って作業にとりかかろうとするーーが、いざとなると何をどう描けばいいのかぱっと思いつかない。 しかたなく青は何かヒントを得るため美姫のローソク立てを持ってきた。 見ると、側面に描かれた大きな星は少し歪んではいるものの、それでも等間隔になるようきちんと穴が開けられている。火を灯した時に綺麗に見えるようにだろうかと観察をしていると、青はあることに気がついた。 「これ、お酒だ」 ランタンの明かりに照らされたそれは、ビールの缶だった。 昨日は暗くてよく見えなかったら気づかなかった。青は訝しむ。 なんでここにお酒の缶が? まさか美姫が飲んだわけではないだろう。想像ができないし、ましてやまだ高校生だ。家で両親が飲み終わった空き缶を使ったのだろうか。 しかしなぜだかその時青は、昨日の『ティラノサウルス』のことが頭に思い浮かんだ。変な夢を見たせいもあるかもしれない。 そこで突然、大きな音が鳴り、地面が揺れた。 「うわっ」 青は驚いて悲鳴をあげる。 誰かが下から強くノックをしたのだと遅れて気づいた。青はすぐさま空き缶やコンパスを急いで足下や背中に隠す。 「入るぞ」 低い声がして、ドアが勢いよく開く。上に乗っていたマットと青の長靴が跳ね飛ばされた。 はたして入り口から首を出したのは、美姫ではなかった。見知らぬ男だった。 いや、と青は思い返す。見覚えはあった。背が高く、がっしりとした体格で、真っ黒なジャケットを着たその男は間違いなく昨日の『ティラノサウルス』だと青は直感した。見間違えではなかったのだ。青は呆然としてその場で固まる。 男はまず青のほうを見て目をカッと見開き、それからランタンのほうを睨みつけた。その顔にはっきりと険が現れる。視線がまた青に戻ってきた頃にはそれも消えていたが、かわりに口角を無理やり持ち上げたような笑みが浮かんでいた。 「美姫は花摘みにでも行ってるのかい」 「はい?」 「ああすまん。トイレに行ってるのかってことだ」 すまん、と言いつつもその言葉には怒りが滲んでいた。青は怖じけながら首を振る。下手に答えれば怒鳴られるかもしれないという恐怖があった。 「学校に用があるって……あの、言ってました。まだ戻ってきてないです」 「学校だと?」男は眉を顰めた。「何をやってんだあいつは」 語気が荒くなり、男の怒りが膨張していくのが見てとれた。青はどうしたらいいのかわからなかった。男は品定めするように青をじろじろと観察してくる。その目はどこか美姫と似た性質を持っていた。相手の底を覗きこむような鋭い目つきだった。 体がこわばったせいか、青が後ろ手に隠し持っていた空き缶がへこむ。 パキン、という甲高い音が静かな部屋に響き渡る。血の気が引く思いだった。 男は観察を済ますと、深いため息をつく。そこには諦めのようなものが混じっていると青は感じた。 「驚かせて悪かったな。邪魔をした」 と言って、男はドアの取っ手に手をかける。そして閉める間際、ランタンのほうを指差して言った。 「『子ども川ばた、火の用心』だ。くれぐれも火には気をつけるんだぞ」 青は小刻みにうなづいた。そして勢いよくドアが締まる。どすどすと階段を降りる音がして足音が去って行くと、ようやく青は息をついた。へなへなと腰が崩れる。 「……なんだったんだろ」 というより、誰だったんだろう? 青は手に持っていたビールの空き缶をじっと見た。 「美姫の知り合いなのかな」 そんな素振りだった。いや、知っているどころか、ある程度親しい間柄であることは青はなんとなく察していた。あの男は美姫のことをよく知っている。少しではあるが、滲みでる怒りのほかに美姫への理解が覗いていたからだ。それを青は言葉にこそできないものの、肌で感じ危惧していた。 そう考えながらこのビール缶を目にしていると、体の内側がぞわぞわとした。昨日の帰り間際に感じた嫌な予感が今やくっきりと浮かび上がり、同時に胸が痛くなった。急に美姫が遠い存在のように感じられて奇妙な不安に駆られた。 ふとそこで、どこからか話し声が聞こえてきた。外からだ。 青は窓のほうへ行って覗きこむと、「あっ」と小さく叫んだ。 さっきの男と、それから美姫がいた。 ちょうど帰ってきたところで鉢合わせたようだ。二人で何かを話しているものの、ここからでは会話の内容は聞きとれない。 「何を話してるんだろう」 青は聞きたいような、聞きたくないような気持ちに揺られ、ばくばくと鼓動が恐ろしいくらい早くなった。それから意を決して、気づかれないようにそろりと入り口に近づいた。床に這いつくばってドアをほんの少しだけ持ち上げる。 するとその隙間から、声が聞こえてきた。 「ーーのためになると思ったの。この場所が必要だと思ったから」 美姫だった。何かを弁明しているようだったが、よく状況がつかめない。しかし青は次の男の言葉ははっきりと聞こえた。そして耳を疑った。 「なるほどな。お前がついているその『嘘』も、あいつには必要だったわけか」 おどけた調子で男は返す。 「嘘?」と青は眉をしかめた。美姫は一瞬ひるみ、顔を赤くして男の顔を睨みつけている。そこへすかさず射貫くような男の声が飛んだ。 「それにしたって勝手がすぎるぞ美姫。何か問題が起きたらどう始末をつけてくれる?」 びりびりと恐竜の咆吼じみた怒声が響く。そして男は言い放った。 「言っとくがな、ここはお前の家じゃないんだぞ!」 それを聞いた瞬間、青は目をあらんかぎり見開いた。 さあっと血の気が失せて動けなくなり、頭が真っ白になった。二人はなおも何かを喋っているようだったが、もう青の耳には何も届かなかった。 ーーここは僕の家だ。 父の呪文のような口癖が、青の脳裏を駆け巡っていたからだ。 気づけば長靴を手にとっていた。 勢いよく外へ飛び出し、美姫と男が驚いたようにこちらを見たような気がしたが、青は見向きもせず振り切るように駆け抜けた。転びそうになりながらもキャンプ場を後にし、背の高い老いた木々の茂る山道を突っ切り、青は着のみ着のままに山を降りていった。 三 青が初めて家出をしたのは、小学五年生の時だ。 きっかけはありふれていて些細なもので、父とのテレビのチャンネル争いだった。それまで何度かあったことだが、当時あまり口数の少なかった青はたいていは膨れたまま二階の自分の部屋へ閉じこもることが多かった。 変えないで、と青が訴えても父は聞く耳を持たない。 「あんなのいつでも借りられるだろう。ほら、こっちのほうが面白いしタメになるじゃないか。歴史の勉強にもちょうどいいしな」 と父は青の反発の声をかき消すようにリモコンで音量をあげるだけだ。 しかし青は今回ばかりは譲りたくはなかった。好きなテレビアニメの最終回だったからだ。世界の名作を原作としたアニメシリーズを青は好んで見ていて、中でも『ハイジ』はお気に入りだった。古いアニメで再放送で流されていたものではあったが、こんなにも心を震わせ満たしてくれるものは他になかったし、青にとっては宝物のような作品だった。少し大きくなった今でもそれは変わらない。 ところが父はそれを知らなかった。というより、理解が及ばなかったのだろう。普段おとなしい青がここまでの反撃に出るとは想像もしていなかった。 いつものように父はリビングにくるなりソファーに寝転がり、アニメを観ている青に構わずリモコンをテレビに向けた。しかし、いくらボタンを押しても反応はなかった。 電池が切れかかっているのだろうかと思い、父はリモコンの底の面を軽く叩く。それでも反応する気配はなかった。面倒臭そうにため息をつき、電池を交換することにする。が、蓋を開けて父は驚いた。電池そのものが消えていたのだ。 父はしばし考え、床で体育座りをしてアニメにかじりつく、犯人と思しき人物のほうに目を向けた。 「青、電池はどこへやったんだ?」 しかし青は答えなかった。視線すらもテレビに固定されたままだ。青、青、と再度呼びかけても知らんぷりである。 父はこうなってしまった青はテコでも動かないことを知っていたので、早々に問答を諦めた。重い腰を上げて食器棚へと向かう。電池の予備はいつもそこの引き出しにしまわれてあった。ただし、見つけたのは単四や単二の電池ばかりで、リモコンに使う単三電池は影も形もなく行方をくらませていた。予備はまだいくらかあったはずだった。 父はまた青に視線を向け、睨みつけた。涼しい顔でテレビを視ている青にだんだんと腹が立ってきたが、父はそこでいいことを思いついた。 単三電池はテレビのリモコンだけでなく、エアコンやデッキのリモコンでも使われている。それを利用すればいい。 父は勝ち誇った顔でソファーのほうへ戻り、テーブルの上にまとめてあったいくつかのリモコンをガチャガチャと漁り始めた。しかし、はたしてどのリモコンの電池も見当たらなかった。ソファーの真上にある掛け時計ですらもその秒針を止めていた。リビングのありとあらゆるものから電池がごっそりと抜かれていたのだ。 「電池をどこへやったんだ、青」 さっきより幾分語気を強めて父は言った。それでも青は素知らぬ顔だった。 父は痺れを切らしてまた立ち上がり、とうとう強硬手段にでた。 リモコンがなければテレビ本体のボタンで操作すればいい。そう思ってテレビに近づいたが、たたらを踏む。目を丸くした。 「なんだこれは」 ボタンの部分にガムテープがベタベタと貼ってあるではないか。しかもそれだけでなく、よく見るとリモコンの信号をキャッチするセンサーまできっちりと塞がれていた。 「いい加減にしろ!」 叫び、父はガムテープを剥がし始める。今まで動かなかった青もさすがに動揺して父を止めにかかった。 「やめて! お願いだから変えないで!」 青は父の腕を必死に掴みにかかるがびくともしなかった。そこへちょうど母が帰ってきた。異変を察したのか慌てた様子でリビングに入ってくる。 「ちょっと、どうしたの二人とも」 父が手を止めて声を上げた。 「青が電池を隠したんだ。見ろ、テレビにガムテープまで貼っつけられた」 「だって!」 青も抗議を唱える。 「落ち着いて」と母は厳かに言った。「青、ちゃんと説明してみなさい」 うながされ、しばらく黙ってはいたが、青はぽつぽつと説明をする。言葉こそ拙かったものの正直に話した。 それは内容からして子どもじみていて、目も当てられないような説明ではあったが、母は青の言葉よりもその瞳や態度に目を向けることで青の心を察することができた。同時になぜこんな諍いが起こったのかも理解した。 しかし母が何かを言う前に、父は動いた。青の説明があまりにじれったく、それに場の流れが悪い方向に向かっていると肌で感じたからだろう。 ビリビリとガムテープを力任せに引き剥がす。 「ここは僕の家だ。これだって僕が買ったテレビだ。リモコンだってソファーだって何だって、僕が好きに使ってもいいはずだろう!」 父が叫んだ直後、青は全身が凍てついたような気がした。周囲にあるあらゆるものが一瞬にして遠ざかっていくーーそんな感覚にとらわれた。空虚な気持ちに襲われ、一刻も早くこの場から離れたい衝動に駆られた。 「青!」 母が止める間もなく青はリビングを抜けだし、部屋へも行かず、サンダルをつっかけてそのまま外に飛び出した。 ◆ 息せき切って青が逃げた先は、公会堂だった。 住宅地の奥まったところにそれはあり、幼稚園の頃は送迎のバスがくるまで友達とよく遊んでいた馴染みのある場所だ。目と鼻の先に古いお寺と墓地があるからか普段人を見かけることはなかったが、青はこの独特な静かな雰囲気が好きだった。なぜだか落ち着いた気持ちになれる。 公会堂の庇の下で、青はうずくまった。泣きもしなかったし、いくらか時間が経つと荒かった息も整ってはきたが、胸の中の虚ろな感じはなくならなかった。 辺りは薄闇に包まれ、お寺も墓地も夜気に溶けこんで息を潜めている。背の高い街灯が公会堂やそばにある何かの記念碑を白々しく照らしていた。遠くから蛙の鳴き声が聞こえてくる。 どれくらい経っただろうか。しばらくすると、足音が近づいてきた。青は顔を膝に埋めていたままだったが、すぐにそれが誰だかわかった。 足音の主は迷う様子もなくまっすぐに青の真ん前にきた。まるで始めからここにいることがわかっていたかのように。 「青、帰ろ。風邪引いちゃうよ」 抑揚のない、それでいて澄みきった声。間違いなく姉の紫だった。普段はぼうっとしているのに、青が困っている時はいつも一番に察知して助けにきてくれる。表面は淡泊にすら感じる時はあるけれど、その胸の奥にはちゃんと温かいものが詰まっていることを青は知っていた。 しかし、今はその紫にでさえ素直にはなれなかった。頑として唇を引き結び、顔すらも上げない。絶対に家には帰りたくなかった。 紫は何度か声をかけた後しばらく黙ったままそこに立っていたが、ついにどこかへ行ってしまった。青はちらりと顔を上げ、それからまたうつむいて沈みこんだ。余計に寂しさが募るようだった。 あんなことしなければよかった、と青は後悔した。母に頼んで録画をしてもらえばそれで済んだのだ。それをしなかったのは、父への反抗心があったからだろう。青は復讐心からそれをやったわけではなかったが、生来の負けず嫌いな性格も拍車をかけていた。 やがて、また遠くから足音が聞こえてきた。 紫のものではなかったが、今度も誰かはわかった。だから青は半分ほっとし、半分はがっかりしたーーいや、がっかりのほうがずっと大きかった。 「帰るわよ、青」 母の優しい声が淡い雪のように降ってきた。石のごとくうずくまった青の体にすうっと染みこんでいく。青は今度は抵抗せず、顔を上げずにゆっくりと立ち上がる。そんな青に母は黙って手を繋いでくれた。 道中、青は手を引かれながら街灯に映し出された自分の影をずっと見つめていた。黒々とした自分の影は、繋がれた手を離せば今にもどこかへ飛んでいってしまいそうだ。本当は母ではなく、父にきてもらいたかったのだと気づいたのは、ずいぶん後になってからの話だ。 しかし、こんな惨めな思いをするのは初めてだった。父に対してーーあるいは『大人』に対して強い敗北感を抱いたのも、青はこれが初めてだった。 ◆ メトロポ荘を去り山を降りた青は、真幌町の住宅地に迷いこんでいた。 少し前から雪が降り始めている。 大きな雪片は羽毛のように夜空を舞い、街灯によってオレンジ色に照らされた雪道に幻想的な影を落としていた。いつかテレビで観たマリンスノーのようだと青は思った。マリンスノーの正体がプランクトンの死骸だと知って、ショックだったのを覚えている。周囲を包む雪の影が青には牢獄のように思えた。 駅までの道は覚えてはいたが、行かなかった。家に帰ったところで事情を説明できる自信がなかったし、まだ帰るつもりもない。かと言ってメトロポ荘に戻ろうとも思わなかったので、こうして青はあてどもなくさまよっている。 それも部屋着のまま、財布も携帯もリュックも、何一つ持たずにだ! ーー手ぶらで家出をするというのは、もうその時点で負けている。 本当にそうだ。まったくもってそのとおりだと青は今まさに実感している。今までずっとそう考えてきたし、突発的に家出をする人間のことを心のどこかで笑っていた気もする。それだからこそ今の自分の現状を見て、底知れない敗北感が青を覆っていた。 いったい、自分は何をしているんだろう? 青は自分がどうしてあの場から逃げだしたのかわからなかった。頭が真っ白になって、気づいたらそうしていた。美姫に会ったらどんな顔をすればいいのだろうか。顔を赤くして男を睨みつける彼女の顔がふと浮かぶ。青は頭を振ることでその顔をかき消した。 美姫は、嘘をついている。 たしかに男はそう言っていた。美姫の反応からしてそれは本当らしかった。 あの美姫が? いつも本心で話していた彼女がどんな嘘をついていたというのだろうか。何かを隠している気配はたしかにあったけれど、嘘をついているとは青は想像もしていなかった。それだけに混乱した。 何かが粉々に砕け散ってしまいそうで、美姫に会うのが恐かった。自分が今まで見ていた景色がジグソーパズルのように雪崩れ落ちて、跡形もなく消えてしまう予感がして恐ろしかった。 「この街から離れよう」 青くなった唇から、白い吐息と共にそんな言葉が漏れた。低くかすれていて、まるで自分の声じゃないみたいだと青は思った。 駅の方向を一瞥したが、電車で帰る気分ではなかった。歩きたい気分だった。そうだ、歩いて帰ろう。道はまるで知らないしどれだけ時間がかかるのかわからないけれど、方角さえ間違えなければいつかはたどり着くはずだ。普段の計画性などすっかり忘れたかのように、青は思い立つままに行動した。 青は住宅街の適当な場所で右に折れ、はるか遠くの東雲町を目指した。 道の両端にぞろりと並んだ家々はどこの窓からも明かりが漏れている。時折賑やかな笑い声が聞こえてきた。青は自分が笑われているような気分になり、耳を塞いで足を早めた。 しばらく歩くと住宅地を抜けて大きな道路に突き当たる。この道をまっすぐ進んでいけば東雲町にたどり着けるかもしれないと青は考えた。道は山に面していて、鬱蒼と茂った大きなスギの木がどこまでも続いている。 木々を眺めていると、青は昨日のことを思いだしていた。 昼に外でランチをしたことや、美姫と木の種類を当てるゲームをしていたこと、それにあの立派なカツラのことも。今の自分の有様を見ると、昨日のことが嘘みたいだと青は思った。それとも、本当に嘘だったんだろうか。 「……『たしかなもの』って、何なんだろ」 青はひとり呟いた。美姫とのあの会話以来、青は自分なりに考え直して整理し、少しだけそれを理解することはできた。 月の光。 手を繋ぐ老夫婦。 百年生きるヤマタノオロチ。 そういった長い長い時間のふるいにかけられたものは『たしかなもの』じゃないかと美姫は言っていた。永続的な性質を持っているのだと。どれだけ時間が経っても変わらないもの。そういうものを自分が望んでいるのだと青は知った。 しかし、青にとって美姫の存在もまた『たしかなもの』だった。 初めて会った時から信頼できる人だと感じていた。青は意識こそしていないが、その感性の鋭さゆえに信頼できる人とできない人を見分けられる能力を持っていた。けれど、今やそれさえもぼやけてしまっている。青の内側で膨らみ続ける漠然とした不安は、自分の感覚を信じていいのかも判然としないのが原因のひとつでもあった。 青は宙を見上げる。ふーっと白い煙を漂わせ、それから独り言を吐いた。ちょうど美姫がそうしていたように。 「僕が『たしかなもの』じゃないのは、たしかだな。今だって、ふらふらしてるし、不安定だし。……どうしたら僕は『たしかなもの』になれるんだろう」 自嘲気味の笑みが浮かぶ。かさついた唇が割れて痛かった。こんこんと降る雪は青の頭や肩にも積もり、冬の凍てついた夜気は頬と耳を真っ赤に染めた。体は芯まで凍ったように冷たくぶるぶると震え、手足の指先の感覚はもうほとんどない。ずいぶん歩いてきたつもりだったが、東雲町はまだ遙か向こうに感じられた。そもそも自分がいったいどこらへんにいるのかもわからないのだ。 やがて、向こうにトンネルが見えてきた。 近づくにつれてそれは大きくなり、間近までくると、大きな獣が大口を開けて佇んでいるような、そんな異様な雰囲気があった。中は煌々としたライトで照らされてはいるが、曲がりくねっているのか出口が見えない。 青は急に不安になってきた。歩いてきた道を振り返る。 遠く向こうに街明かりが見えた。目を凝らせばその奥に山の稜線がうっすらと浮かんでいるのが見える。メトロポ荘もそこにあるだろう。しかし青はそれ以上は考えたくなかったので、目を反らしてトンネルに向き直った。 一歩を踏み出そうとする。が、どうしてかためらってしまう。 もう二度と帰れなくなるような気がした。車が後ろから走ってきたのか、ライトが青の影を目の前に作りだす。その影は初めて家出をした時と同じように、吹けば飛ぶような薄っぺらい影だった。車がとおり過ぎると同時に影はくるりと横へ流されていった。 しかし通り過ぎたその車はーー紺の軽自動車はーートンネルに少し入ったところで停止した。あろうことかバックをしてくる。怪訝な顔をする青の真横にピタリと止めて、車の窓が音をたててゆっくりと降りた。車内の暗がりの中で、白い顔が浮かび上がる。 「……え?」 はたして運転席に座っていたのは、美姫だった。 青はただただ呆然とした。運転している美姫はさっきと同じように白いマフラーをして、深緑のコートを着て、高校の制服のスカートをはいている。違うのは銀縁の眼鏡をかけていることくらいだ。それが妙に大人っぽく見えて、一瞬誰だかわからなかった。 ハンドルを両手で握りながら、美姫は照れくさそうに笑った。 「ちょっとドライブでもしない? 夜の真幌町を案内するわ」 青はしばらく固まっていたが、やがて黙ったまま美姫の車に乗りこんだ。 四 真幌町の夜を駆ける紺の車は、青と美姫と、それから重い沈黙を運んでいた。 美姫は話すでもなく、音楽やラジオをかけるでもなく、ただただ前を見据えて運転をしている。静かすぎてワイパーや暖房の音がやかましく聞こえるくらいだ。 青は渡された自分の上着と毛布にくるまり、凍りつきそうだった足を暖房で温めた。途中で美姫はコンビニに寄ると飲み物を買ってきてくれた。青は首だけでお辞儀をして受けとり、ホットレモンを飲む。甘い液体がじんわりと染み渡り、体がどれだけ温かいものを求めていたのかがわかった。 青は湯気が昇るペットボトルの口に息を吹きかける。もがり笛のような低い音が鳴り、レモンの甘い匂いが車内に広がった。 「嘘をついていてごめんなさい」 ついに美姫はそう切りだした。 「私、もう成人してるんだ。高校生じゃないの」 しかし青はだんまりだった。視線は温風の出る暖房に、口はペットボトルにつけたままだったが、耳だけは静かに傾けている。その気配を察したのか、美姫は続けた。 「でもね、学生として振る舞ったほうが、青が接しやすいと思ったの。青は大人が苦手みたいだったから」 ちょっと恥ずかしかったけどね、と美姫は苦笑する。 たしかに、考えてみればおかしかったと青は思い返す。今日は別として、昨日は学校に用事もないのに制服で美姫は現れたのだから。特に気にしてはなかったものの、それは自分が高校生だと印象づけるためだったのだ。はたしてそこまでする必要があったかは今となってはわからないけれど、たしかに高校生の美姫でなければあそこまで心を開くことはなかったのかもしれない。 「あの人にもね、嘘をついてたというか、黙ってたのよ。青が泊まること。反対されるのが目に見えていたんだもの。そしたら勝手だって怒られちゃった。子どもに一人で火を使わせるなんて何を考えてるんだーってね」 美姫は苦笑する。 『あの人』と聞いて、青は一瞬身構えた。ティラノサウルスの人だとわかったからだ。「誰なの?」と青は乱暴に聞く。 「私の従兄弟で、あのキャンプ場の管理人。本当は冬の間は閉鎖してるんだけど、特別にメトロポ荘を提供してくれたのもあの人よ。時々私の様子を見にきてくれるの」 ふうん、と青は面白くなさそうに相づちを打った。ぷいと窓のほうを向く。外はまだ雪が降っているようだったが、景色は眺めずに窓に映った自分の顔を見つめた。我ながら不機嫌な顔だった。はー、と息を吐いてその顔を白く塗り潰す。 青は気をとり直して、疑問に思っていたことを口にした。 「あのメトロポ荘の名前って、『クローディアの秘密』に出てくる美術館からとったものだよね」 「うん。『メトロポリタン美術館』ね」 「どうして?」 重ねて質問すると、今度は美姫が押し黙った。 前の信号が赤になり、車が停止する。彼女はハンドルに軽く突っ伏して、少し逡巡してからゆっくり話し始める。海の底に響くような静かな口調だった。 自立をしたかったの、と美姫は言った。彼女の家庭は両親との関係がうまくいっていないらしく、居心地が悪いのだという。近いうちに家をでることを決めて、その予行練習も兼ねてメトロポ荘を借りたと美姫は簡単に説明をした。 信号が青になる。車が動きだした。 「あの美術館はね、クローディアやジェイミーにとって逃避の場所でもあるけど、二人を育む場所でもあったのよ。家出は一種の旅のようなものだと私は思うわ。家を離れた時よりも、一回り大きくなって帰ってくるの。……だから、そういう願いもこめてあのバンガローに『メトロポ荘』という名前をつけたのよ」 いい名前でない? と美姫はおどけてみせる。そうだね、と青は答えた。 車はやがて見覚えのある場所にやってきた。街と山を繋ぐ大きな橋だ。昨日は美姫と一緒に渡り、今日は青が一人で渡った赤い橋。戻ってきたのだ。見知った顔を見ると不思議と安堵を覚えた。 「時々ね、大人になるのってひどく難しいなあって思うわ」 美姫はフロントガラスを見つめたまま、いつもの口調で呟いた。車は青が使っていた山の入り口を通過して、その先にある砂利の敷かれた駐車場に入る。そこで停車して、美姫がサイドブレーキを引いた後に青は言った。前を見つめたまま、独り言を呟くように。 「でも、僕は美姫が大人でよかったって思うよ。美姫みたいな大人に出会えて、僕は本当によかった」 青と美姫はどちらからともなく目を合わせ、静かに笑い合った。 ◆ 大きな白髪の老人たちが作る神秘的なあのトンネルは、夜の帳が降りるとまた様子が一変していた。ミズナラもシラカバもホオノキも眠りについたように静かで、それでいて空に向かって手を伸ばし、厳粛な祈りを捧げているようでもあった。 美姫があの黄色いランタンを車に積んできていて、彼女は明るい火を掲げながら先頭を歩く。青はその後に続いた。 「なんか、落ち着くね」 と青は言った。昨日はあんなに不安だったのに、今では足を踏み入れた途端に安心する自分がいることに青は驚く。ランタンによって優しく照らされた山道は、どこか包みこんでくれるような雰囲気があった。 「でしょう? 青のことを歓迎してくれてるのよ、きっと」 すでに雪のやんだ空を見上げながら美姫が言う。いつの間にか雲は流れ、木々の間から見える無数の星がくっきりと浮かんでいた。 キャンプ場に出ると明かりが見えた。三角屋根の炊事場からだ。そこに人が立っていて、目を凝らすとさっきの男ーー美姫の従兄弟である『管理人』が火を焚いていた。青は一瞬身が竦む。しかし彼はさっきとは打って変わって機嫌がよかった。 「おう、戻ったか。グッドタイミングだな」 「準備をしてくれてありがと。わがまま言ってごめんね」 美姫が礼を言うと、管理人はフンと鼻を鳴らした。 「そんなもんいつものこったろうよ、まったく。……っとそうだ、食いもん持ってくるからそこで温まってな」 彼はそう言い残し、いそいそとバンガローのほうへ向かっていった。青は目を瞬かせた。 「何するの?」 「バーベキューよ。夏もいいけど、冬のバーベキューもいいものなんだから。午後に私が食材を調達しておいたの。あの人には青を連れ戻す間に準備をしてくれてもらったのよ」 あんなすごい剣幕だったのによく引き受けてくれたものだ。そう青は思ったが、美姫が内緒話でもするように囁いた。 「ああ見えて意外と根は優しかったりするのよ。ほら、あの木の看板あるでない? あれはあの人が作ったんだから」 「ええっ」 青は心底驚いた。本当に人は見かけに寄らないものだ。 管理人が食材を持って戻ってくる。前のめりの姿勢で向かってくる彼をさして、美姫は「ティラノサウルスみたいでない?」と悪戯っぽいく笑った。青は思わず吹き出し、一気に肩の力が抜けるようだった。「何ふたりして笑ってんだよ」と戻ってきた管理人のムッとする顔を見て、二人はさらに声を立てて笑った。 三人は炊事場の火を囲むように、後ろにあった調理台にもたれかかりながら舌鼓を打った。管理人はメトロポ荘で初めて青を目にした時の話や美姫の日頃のわがままぶりを愉快に語り、二人を笑わせた。真昼の外でのランチとはまた違った楽しさがそこにはあったし、寒い冬の中のジンギスカンは美味しかった。 お腹がいっぱいになって、青は一息つく。 「ねえ、散歩でもしない?」 と美姫が提案してきた。仰せのままに、と青はうなづきかけたが、管理人のほうを向いた。彼は満足そうに肉を頬張りながらニカッと笑う。 「『子どもは風の子、大人は火の子』だ。行ってくりゃあいい」 青は礼を言って、美姫と一緒に散歩に出かけた。 二人はバンガローの集落を通り、足は自然と中央広場へと向かう。深緑のコートに身を包み、ランタンを掲げながら前を歩く美姫はどこか儚げで、青には森の精のように見えた。 道すがら、青はずっと気になっていたことを聞いてみた。 「美姫はさ、どうして僕をメトロポ荘に誘ったの?」 すると美姫は「んー」とうなってから、顔だけ振り向いて答える。 「『ブラキオサウルス』を見てたから、かな」 「ブラキオサウルスって……あのクレーンの?」 「そう。あれを青が寂しそうに眺めてたから。私と少し似ているような気がしたの。だからかわからないけど、思わず声をかけてたわ。それで事情を知って、青には何か居場所が必要だと思ったの」 「ふうん」 自分としては家出を満喫していたつもりだったから、意外だった。見透かされていたのだ。急に恥ずかしさがこみあげてきて、今が夜でよかったと青は思った。変な顔を見られなくても済むからだ。 美姫は続けた。 「でも、それだけじゃないわ。青が撮ってくれたあの写真もよ。あれを見て仲間だと私は思ったの」 「仲間?」 「うーん、どう言えばいいかなあ。平たく言えば感性が似ているってところかしら。だから青をメトロポ荘に招きたいと思ったの。青と知り合えて嬉しかったのよ、私」 「ふうん」とまた青は答えた。こうも開けっぴろげに言われては返す言葉もない。そのかわり、青は美姫の背中を温かいまなざしで見つめた。 広場ではシウリザクラやヤマモミジが親しげな顔で待っていた。ランタンの優しい明かりがそう見せたのかもしれない。奥にひっそりと佇んでいる東屋は少し陰気な顔をしていて恐かった。 青と美姫は、あの大きなカツラの『ヤマタノオロチ』の前までやってきた。 相変わらずこの木は威厳を持っていたが、青は前よりも親しみを感じていた。この山にたゆたう包みこむような雰囲気は、もしかしたらここから滲みでているのかもしれないと青はふと考える。月に照らされた『ヤマタノオロチ』は、それくらい神々しかった。 昨日と同じようにふたりはしばらく黙って木を眺める。が、それを美姫がぽつりと沈黙を破った。憂鬱そうな静かな声だった。 「キャンプ場のバンガローね、来年の春になったらとり壊されちゃうの」 「えっ」と青は驚いて振り向いた。「なんで? どうして」 居心地がいいから、せっかくまた行きたいと思っていたところだったのに。美姫は優しく諭すように説明した。 「老朽化が進んでるんだって。見た目は面白いけど、あんまり安定感がないから仕方ないと思うわ。メトロポ荘は未だ大丈夫なほうなんだけどね、それも全部立て壊してまた違うのを作るみたい」 「そんな――」 青は素直に残念に思った。もう二度とメトロポ荘へ泊まれないのかと考えると、寂しさを覚える。それだけ愛着が沸いていたことに青はようやく気づいた。 しかしそこへさらに、美姫が追い打ちをかけるようなことを告げる。 「私もね、春になったら一人暮らしをするつもりなの。家をでて、しばらくはこの街からも離れるわ」 青は美姫の顔をまじまじと見た。もちろん冗談を言っている顔ではなかった。そうだ、バンガローの暮らしは自立のための予行練習だと言っていたじゃないか。青は今さらながらにそれを思い出し、固唾を呑んだ。 「……どこへ行くの?」 消え入りそうな声で青が尋ね、美姫は移住先を答えた。そこはずいぶんと遠く、青が気軽に訪れることのできないような場所だった。 青はショックを隠しきれず、目に見えて落ちこみ、うなだれた。よろよろと『ヤマタノオロチ』の幹に寄りかかって立つのがやっとだった 「いつか遊びにきてね。今度は家出じゃなくて、ちゃんと遊びにくるのよ」 と後ろから美姫が茶目っぽく笑う声が聞こえる。しかし、青は答えようとしても喉に何かが詰まって声がでなかった。ついさっきまでの空虚な苦しみが蘇り、胸の中で巣くっていたからだ。あまりに辛すぎてこの苦しみは一生とれないんじゃないかと思うほどだった。 美姫は青の後ろからランタンを掲げ、『ヤマタノオロチ』を見上げる。 「私ね、青には幸せになってほしいって思ってるの。本当に。心底よ」 その声は、母のように淡い雪に似ていた。 触れた瞬間に体の中に溶けこんで、胸の中で暴れ回っていた虚ろな感情が和らぐ感じがあった。それは美姫の胸の奥底からーー『小川の感情』からやってきたものだと青は知っていた。 青の瞳に生気が宿り、奥歯をぐっと噛みしめた。美姫によって照らされた木を正面から見据える。彼女の持つランタンの光が『ヤマタノオロチ』のいくつもの幹に青の影を映しだしていた。影は揺らめいてはいたものの、黒々とたしかな存在感を放っていて、力強かった。 青は少しためらったが、勇気を振り絞る。 「僕も、美姫の幸せを願ってるから」 と言った。 口にした途端、青の中で何かが吹っ切れた。見上げると清々しい星空が目に飛びこんできて、ふー、と細く長い息を吐く。舞い上がった白い靄はたちどころに消えていった。青はどこかすっきりした気分だった。 後ろから、春を告げる風のように美姫が優しく囁く声がする。 「幸せになってほしいと心から願える人がいたらね、それはとても幸せなことだと私は思うわ」 本当にそうだと青は思った。それもまた『たしかなもの』のような気がした。 青と美姫はキャンプ場へ戻り、管理人と別れ、メトロポ荘で静かに最後の夜を過ごした。『クローディアの秘密』は読み終えることができなかったが、美姫が餞別として贈ってくれた。あの小さな銀筒のオイルマッチと一緒に。 そして朝がきて、とうとう青の家出生活が終わりを迎えたのだった。 エピローグ 青は何もかもが久しぶりのような感じがした。 東雲町の駅も、駅の真ん前にある図書館も、だらだらとした坂道も、何もかもが久しぶりに会った知人のような顔をしている。たった二日間しか空けていなかったのにずいぶん長いこと足を踏み入れてないような気分だ。街は当たり前に以前と変わっていないにもかかわらず、青にはどこか新鮮で色づいて見えた。 家に着くと、土曜日だからか家族は揃っているようだった。両親の車も姉の自転車も駐車場に置いてあった。青は玄関を開けて「ただいま」と声をかける。 するとまずリビングから顔を出してきたのは、姉の紫だった。 「あ、青帰ってきた。おかえりー」 「おかえり、お姉ちゃん」 「どうだった? スキー楽しかった?」 言われて、そういえば友達とスキーに行くと伝えていたことを青は思い出した。それもずいぶん遠い記憶のように感じた。 「うん、楽しかったよ。すごく楽しかった」 もちろんスキーのことではないけれど、本心だ。紫は柔らかく目を細めて嬉しそうな顔をする。そこへ遅れて母がやってきた。お昼ご飯を作っていたらしく、エプロンをしたままだ。 母は青を見るやいなや「あら?」と目を瞠り、まじまじと見つめてくる。 「青、少し背が伸びたかしら? 前より大きくなった気がするわ」 「お母さん、たった二日でそんなに背は伸びないよ」 青は苦笑する。 「それもそうだけど……」と母は訝った。「なんだか、急に青が大人びたように見えてびっくりしちゃった」 話し声を聞きつけてきたのか、二階から父も現れた。 「おっ、帰ってきたか。おかえり青」 「ただいま、お父さん」 父はまた透明なストックを手に持って、しゃっしゃっと振ってみせる。 「ちゃんと滑れたか? 怪我しなかったか」 「うん、ちょっと転んだけど大丈夫。友達が助けてくれたから」 「ほー。いい友達を持ったじゃないか。やっぱ持つべきものは友ってやつだな」 うはは、と父は笑う。青も静かに笑った。こうして父と笑い合うのもすごく久しぶりな感じがした。 青は『友達』の言っていたことを思い出す。 ーー感情はね、二種類あると私は思うの。 『天気の感情』と、『小川の感情』。その二つがあると彼女は言っていた。 表面を流れていて移ろいやすい『天気の感情』と、奥底でひっそりと変わらず穏やかに流れている『小川の感情』は、人によってどちらかしか流れていないというわけではないのだと青は気づいた。ちょうど恋愛の感情と同じように、人の中にはどちらの感情も流れている。 それはもちろん、父にだって。 父の言葉は薄っぺらで、上っ面で、ニセモノめいて聞こえる時もあるけれど、奥底では本当に心配してくれていた部分もあるということを今では青も知っている。『小川のせせらぎに耳を澄ます』ことを覚えたのだ。美姫があの時伝えたかったことがなんとなくわかった気がした。 そういえば、と青は思い出したように鞄の中を漁りだす。紫にお土産を持ってきていたのだ。「はいこれ」と渡すと、紫は首を傾げた。 「これなあに?」 「空き缶で作ったローソク立てだよ。寝る前に本を読む時にぴったりなんだ」 「へえー、面白そう。あ、こっちは星が描いてあるんだね」 それは美姫のローソク立てだった。本とオイルマッチに加え、餞別として彼女から受けとったものだ。青が持っていてもよかったが、どうしてか紫に贈りたくなった。そうしたほうがいいような気がした。 「火を灯すと綺麗だよ。ちなみに僕のはこっち」 と青は自分のローソク立てを紫に見せた。穴の空いてない側面にはコンパスで『∞』のマークが刻まれていた。家族は揃って眉を寄せ合い、青の持つローソク立てを眺める。 「数字のハチ?」「無限のマークだな」「メビウスの輪というものよね」 と口々に言ってくる。青は首を振った。 「これは『たしかなもの』って意味なんだ。僕の中ではね」 父も母も紫もよくわからない顔をしたが、青はそれ以上は何も言わず静かに微笑むだけだった。 「お昼にしましょう」と母が声をかけ、みんなはリビングに入っていく。 青は靴を脱いで二階に上がり、重いリュックをベッドにぽいと放り投げ、ぶ厚いコートを脱いでハンガーにかけた。身軽になった青は弾むような足取りで階段を駆け下りていき、ほんのりといい匂いが漂う、賑やかで温かいリビングへと消えていった。 |
とよきち 5sKoz2C7Hg 2018年12月28日 00時04分32秒 公開 ■この作品の著作権は とよきち 5sKoz2C7Hg さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2019年02月13日 12時09分43秒 | |||
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Re: | 2019年01月17日 12時57分37秒 | |||
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Re: | 2019年01月17日 12時53分22秒 | |||
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Re: | 2019年01月16日 17時50分23秒 | |||
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Re: | 2019年01月16日 15時46分16秒 | |||
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Re: | 2019年01月16日 14時46分29秒 | |||
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Re: | 2019年01月15日 15時42分37秒 | |||
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Re: | 2019年01月15日 15時38分49秒 | |||
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Re: | 2019年01月15日 15時33分41秒 | |||
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Re: | 2019年01月15日 14時55分38秒 | |||
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Re: | 2019年01月15日 14時53分09秒 | |||
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Re: | 2019年01月15日 14時49分01秒 | |||
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Re: | 2019年01月15日 09時54分18秒 | |||
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Re: | 2019年01月14日 23時31分11秒 | |||
合計 | 15人 | 290点 |
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