ワールドワイド・ルナティック |
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★☆★ 「パパ。明日、彼氏が家に来るから」 娘のミラベルの声に、私は耳を疑った。 思わず噛み付いていた、女性の首筋から口を離し、問いかける。 「そ、それっ……今、言う?」 「今、思い出したんだもん」 ミラベルが決まり悪げに笑った瞬間、女性の首の傷口から、ぽたぽたと血が染み出した。 ★☆★ 昔から、ミラベルは若干頭の弱い子だった。 親の贔屓目で見ても、ちょっと危なっかしいところがあるのは否めない。そりゃ、顔は私と妻に似て、美の結晶だけれども。 サラサラで真っ直ぐな真紅の長い髪に、黒目がちの大きな眼。ティーンモデルのような、華奢で柔らかな体つき。月光のような透き通った肌。 こんなに美しい吸血鬼は、ミラベルくらいしかいないだろう。あと妻。あと私。 思考が逸れた。彼氏ね。……彼氏? なんとか私は、冷静を保とうとした。しゃがんだまま、抱えている女性に視線を移す。今宵の晩餐は、森林公園でランニングをしていた、健康的な二十代の娘だ。あごで切りそろえた亜麻色の髪が、くしゃりと頬にかかっている。 闇が広がる公園の植え込みの陰で、満月だけが、私たちを照らし出していた。 月の光を浴びながら、なんとか呼吸を落ち着け、私は脇で立っているミラベルを見上げた。大丈夫だ、私は百年生きている吸血鬼。娘に彼氏が出来たくらいで、動揺などしない。 しかし。 「彼氏がいるって、パパ、初耳なんだけど?」 我ながら、情けないくらい、私の声には動揺がにじみ出ていた。 「今言ったもん」 胸を張って、誇らしげに言うんじゃない! キラキラしたミラベルの表情を見ていたら、頭痛がしてきた。私は乱れてもいない、自身のオールバックにした髪を片手でなでつけると、咳払いをしてなんとか普通の声を出した。 「彼氏って、お前に釣り合うような、立派な吸血鬼なんだろうな?」 「うっ、うん!」 嘘だな。私は目を細めて、ミラベルを見つめた。 元気のいい返事の割に、笑顔が急に引きつっている。私の疑いの視線に気がついたのか、ミラベルは顔を赤くしてむくれた。その反応に、私は多少、意地悪を言いたくなった。 「当然、霧やコウモリに、姿を変えられるんだろうな?」 ミラベルの口元の引きつりが増した。着ているブラウスの、胸元のリボンをいじり、汚れてもいないレース付きのスカートの裾を払う。動揺している時のミラベルの癖だ。 「う、疑ってるでしょ、パパ! 嘘じゃないんだからねっ!」 ミラベルが叫んだ瞬間、気を失っていた女性が眉をしかめ、小さく呻いた。 あわてたミラベルが、目を見開いて、両手で自分の口を押さえている。私はため息をつくと、ハンカチをポケットから出して、さっと女性の傷口の血を拭った。 「ご、ごめんなさい……」 しおれるミラベルの声を無視し、女性の表情を観察する。慣れているのでわかる。あと五秒で、完全に意識を取り戻す。 見てなさい、と私は身振りでミラベルに示した。ミラベルはあわてて、私の正面に回り込むと、私と女性の顔を交互に見ている。 「う……」 女性がもう一度呻く。私は一瞬目をきつく瞑ると、すぐ目蓋を開いて彼女の顔を覗き込んだ。 私の赤い瞳は、今、金色に輝いている。 女性が、目を開く。 「大丈夫ですか?」 目が、合う。 ぎょっとして身を引こうとした女性の肩をきつく掴み、私は、じっと彼女の揺れる瞳を凝視する。 「あ、あたし、一体……」 うろたえる彼女の瞳に、金の目をした私が映っている。私は口を開いた。 「あなたは、貧血で、道に倒れていた」 ミラベルが、ごくりと息を呑む音が聞こえた。女性の目が、うつろに翳っていく。 「あっ、あたし……?」 「そう」 「あたし、貧血で」 「そう。倒れていたんだ」 女性の唇が、わなないた。その瞳の焦点は定まっていない。好奇心丸出しで表情を輝かせている、目の前のミラベルも、見えてないのだ。私は満足して、にっこり笑った。 「私はあなたを介抱していた。でも、もう大丈夫のようだ。家まで送っていきましょう」 つられたように、女性が笑顔になった。 起き上がって私に礼を言うと、フラフラと夢遊病者のような足取りで、住宅地に入る道へ歩き出す。 これぞ、吸血鬼の御技・《ワールドワイド・ルナティック》。 目を合わせた人間の全て――心も体も、記憶でさえも操ることができる催眠術である。 残念ながら、ミラベルはこれが下手くそである。 力加減がブレブレなのだ。子供の時、遊園地でお腹がすいたと駄々をこね、気がついたらミラベルのもとに人間が殺到していたことがある。どうやら、道行く人全員に術をかけていたらしい。 かと思えば、そのへんのサラリーマン一人、捕獲することもできない。 「だって……イケメンは、直視できないよぅ……」 などと言い、じゃあ女性ならいいのかと今日も一緒にここまで来たが、どうしてもミラベルは、一対一で人の目を見ることができない。この術さえ使いこなせれば、楽に食事ができるというのに。 まぁ、とはいえ私も親だ。薄々原因は察していた。相手の顔面偏差値は正直、関係ないのだ。 ミラベルは、内弁慶タイプの人見知りである。 家族以外の吸血鬼と、まともに話しているところを、見たことがない。 私は急に不安になってきた。こんな人見知りの娘に、どうしたら彼氏ができるというのか。食事さえ満足に、一人ではできないというのに。 「ママと一緒にいる時に、知り合ったのか」 フラフラ歩く人間のすぐ後ろを並んで歩きながら、私はミラベルに問いかけた。だいたいミラベルは、妻と行動することのほうが多い。 「ちがうよぉ」 「え……じゃあ、一人で?」 「そりゃ、パパ、私だってずっとママと一緒じゃないよ。一人で出歩く時もあるし」 あっけらかんと笑い出すミラベルに、私も表情を和ませた。 「確かにそうだな。でも、何がきっかけなんだ? お前、人見知りだろう」 ミラベルの笑顔が固まる。その反応に、私の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。 「……す」 急にミラベルが頬を紅潮させてリボンを触りだしたので、私は耳を近づけて、もう一度言うように促した。さらにぎゅっとリボンを揉みしだき、ミラベルは小声で言った。 「えすえぬえす……」 SNS? 「出会い系?!」 「ちがうよぉ!」 目を尖らせる私に掴みかからんばかりに、ミラベルは拳を握りしめて怒鳴った。 「いかがわしいヤツじゃないもん! 今の時代はそれがフツーなんだから! 百年前で止まってる、パパの感覚とはちがうのっ!」 さりげなく私をディスったな、娘よ。 若干傷ついた。私の感覚は古いんだろうか。百年前なら、そもそもネット社会ですらない気もするけど。 私の表情を見てか、気まずそうにミラベルはスカートの裾を伸ばし始める。 「思ったとおり、パパってば誤解するんだから……。言っておくけど、テオは出会いを求めてそういうのやってる人じゃないから」 「テオ?」 「彼氏の名前」 とたんにミラベルの表情は持ち直し、あっという間に笑顔になった。 「彼、天体観測が趣味なの。ずっと、テオと、星の話してるの」 「ふーん」 確かにミラベルも星は好きだ。小さい時から、私と妻が星座の話をしてきた影響もあるのだろうか。同じ趣味の彼氏を見つけることができて、なによりだ。 でも、趣味が真面目でも、本当は出会い目的でネットを徘徊していたのかもしれないし。ミラベルの反応を見るに、立派な男ではない可能性があるし。 私の心の中で黒い疑念がうずまき始めた頃、女性が立ち止まった。周りの家より大きい、白い二階建ての家の前である。鉄柵と、針葉樹の植え込みがぐるりと周りを取り囲んでいる。 「お金持ちの家の人だったんだね、この人」 キョロキョロしてミラベルが感想を言った。私は、ぼんやりした表情の女性の横顔と、建物を交互に見た。病院の娘さんだったのかな、とふと彼女を見て思う。 家、というより何かの施設のように見えたのだ。家の前にある鉄柵門から見る限り、一階には窓がない。二階には窓があるが、明かりはついていない。 「わぁ、ヤダ、パパ。見て、この家、玄関にニンニク吊ってる。変なの」 「えぇ?」 目を凝らすと、確かに玄関の、扉の脇についている照明から、ニンニクの束が吊るされていた。どんなオブジェだ。 触らなければなんてことはないが、我々吸血鬼は、ニンニクや十字架に弱い。自然と嫌な気分になり、私はミラベルを呼んだ。 「ここで彼女とはお別れだ。絶対門から先は入るんじゃない」 はーい、とミラベルが私に寄り添った。さっと周りを見渡す。あたりに人はいないし、どの家も明かりはついていない。女性を振り返らせて、私たちは門の前で向かい合った。 「さよならー。ごちそうさまでしたー」 にこやかにミラベルに手を振られ、うつろな微笑みで女性は手を振り返している。私より先に彼女の血を吸ったミラベルは、思い出したように唇を舐めている。 私は一歩進み出ると、再び金の目で彼女の目を覗き込んだ。 「それではごきげんよう。あなたは『今』から、一時間前にかけての記憶を、すべて無くす」 「あたしは……『今』から、一時間前にかけての記憶を……無くす」 「そう。――ただし、記憶を無くす開始地点は、三秒後の、『今』」 「さぁん、にぃ、いちっ!」 《ワールドワイド・ルナティック》! ミラベルの声に合わせ、私たちの姿は霧散する。 彼女が正気に返った時、もう通りには、彼女以外誰もいない。私とミラベルはコウモリに姿を変えて、家路への道を飛んでいる。 ★☆★ 「ねぇ、あなた。吸血鬼狩りが流行ってるんだって」 家に帰って、ミラベルが自分の部屋に引っ込むと、妻のイリーナがそう言いだした。 イリーナはミラベルと同じ、燃えるような美しい色の髪をひとまとめに結び、淡い空色のネグリジェを着ている。 「ふーん? 今、この時代に?」 私の足元では、先程イリーナが起動させた、お掃除ロボのルンバが頑張って回転している。アンティークの洋館風の我が家に、あんまりルンバは馴染んでいない。すぐ絨毯のヨレに引っかかってしまう。 ルンバを助け起こしながら、私はソファに腰掛けているイリーナに苦笑いした。 「狩ってどうする? SNSで晒すのか?」 「さぁ? 晒しても、どうせニセモノだと判断されるのがオチだと思うけど」 イリーナも笑いつつも、眉間にしわを寄せている。これ見て、と新聞を渡される。吸血鬼の家にだけに届けられる専門紙だ。 トップ記事で、『釣りに注意!』の文字が書かれている。 「釣りみたいな方法で、危険な目にあう吸血鬼が増えてるみたいなの」 「釣り……」 「人通りのない道に、襲ってくださいと言わんばかりに美女が一人でいたり。吸血鬼と思わしき者には、話術が巧みなイケメンを近づいてきたり」 「ほう。で、近づいてどうするんだ」 「捕まえて監禁して、研究するんじゃないかってウワサ」 私は記事を読んでみた。美女にヨダレを垂らしてついて行った若い吸血鬼は、物陰で十字架を押し当てられそうになったのだという。現場の近くには、ミラーリングした車が見えた。 バーに行くのが日課になっていた女吸血鬼は、常連客のイケメンと仲良くなった。彼は普通の人間だったが、催眠術について興味があると話をしており……。 そこまで読んで、私は首をかしげた。 「催眠術って」 「《ワールドワイド・ルナティック》のことだと思う」 私は目を見張り、続きを読んだ。彼女もイケメンに無理やり連れ出されそうになったが、辛くも逃げ切ったという。 「だけど、なんで人間が術のことを知ってるんだろう」 「有名な話だもの。吸血鬼が人間を魅了するのは」 映画も漫画もいっぱいあるし、とイリーナは首筋を掻いた。 「フィクションと、事実は違うだろう? ただの魅了と、あの術はちがう」 「確かに。……その女吸血鬼みたいに、うっかり人間と仲良くなって話しちゃった、とか?」 もしそうだとしたら、無用心な話である。私にとって人間は、食料以外の何者でもなく、穏便に血を頂ければいいくらいの認識でいる。そういう心の向きは理解できない。 イリーナもじっと私の持つ新聞を赤い目で見つめ、目を細めた。 「《ワールドワイド・ルナティック》の本質は、魅了を超えてるわよね。頑張れば、世界征服だって夢じゃないもの。人間が欲しくなって当然かも」 「そうか」 私が新聞を返すのと交換するように、イリーナがスマホを差し出してきた。 「吸血鬼同士のSNSで、こういうの、まわって来てるわよ。あなた好きじゃないから、知らないと思うけど」 確かに、ツイートする系統のは全然やってない。 スマホの画面には、『拡散希望』と書かれた記事が表示されていた。 【牙を持つ同志たちに告ぐ! 《ルナティック》の使用を控えよう! 移動に楽をしないこと。 お腹がすいたら、通販やデリバリーを活用するべし。】 ……全部忠告無視しちゃったよ、オイ。 私の表情でわかったのだろうか、イリーナはスマホを私の手からひょいと奪い、呆れたように肩をすくめた。 「術を控えろ、変身はするな、腹が減っても、人を襲うな……全部、やっちゃってない?」 「うーん。だって……まぁ、二〇一八年だからな、今は」 迷った挙句よくわからない切り返しをした私に、イリーナは表情を変えないまま鼻を鳴らした。 「心配だわ、あなたも、ミラベルも。しばらく、デリバリー生活にしましょうか?」 「お前、デリバリーは鮮度がなくて嫌いって言ってたじゃないか」 「そうだけど、家族が安全に暮らせる方がいいじゃない」 確かにそうだけど、私もデリバリーはあんまり好きじゃない。私はそう言おうとしたが、思案顔のイリーナのつぶやきに遮られてしまった。 「ただ、明日が問題よね」 「明日?」 「せっかくミラベルの彼氏が来るのに、どんなおもてなしをしたらいいのかしら」 「えっ」 デリバリーなんかどうでもいい。私はあわててイリーナに詰め寄った。 「お前、ミラベルに彼氏がいること、知っていたのか?!」 「知ってるわよ。明日来るんでしょ」 にこやかに言われて、かえって言葉が出せなくなる。 予想はしていたけど、なぜ家の女性陣は、父親を除け者にするのか。 私が微動だにしないのを見て、イリーナは二人がけのソファに足を跳ね上げて寝そべり、背もたれに寄りかかって低く笑った。 「私も写真しか見てないから、テオがどんな子なのかは知らない。いい子だといいわね」 「写真?」 「あら、見せてもらってなかった?」 「いやっ……確かに、見せてもらってないけど」 そんなに哀れみの笑みを浮かべないで欲しい。というか、問題はそこではない。 「写真って……吸血鬼は、映らないじゃないか」 きょとんと妻は、目を丸くした。 吸血鬼は、鏡やカメラに映ることができないのである。 私の顔色をトレースしていくように、しだいにイリーナの笑顔がこわばり、青ざめていく。 「ヤ、ヤダ……。私、気がつかなかったわ! テオって、吸血鬼じゃないの?!」 今度は私がイリーナに呆れる番だった。昔からコイツは、妙なところで鈍い。 ともかく、ミラベルに問いたださなくては。私たちはリビングを出ると、階段を上り始めた。 「ミラベル! 話がある!」 ギシギシいう床の不協和音とともに、私は声を張り上げた。 階段脇にあるミラベルの部屋のドアが開き、スマホを片手に持ったミラベルが、首をかしげてこちらを見た。 あっと、私は息を飲んだ。 スマホの待受画面に、メガネをかけた、若い黒髪の男が一瞬見えたのだ。 「それがテオか?!」 ぱっとミラベルが血相を変え、スマホの画面を胸に押し当てて隠した。 「ちょ、ちょっと、勝手に見ちゃ嫌ぁ!」 「嫌なら待受にするなよ!」 ミラベルは口を尖らせて、もごもごと赤くなった。 「だ、だって……こうすると、会いたい時会えてるみたいで、嬉しいし……」 私は一時間ぶりに、頭痛を感じた。娘と我々のあいだに、ひどい空気の温度差が漂っている。 「そのぅ、ミラベル?」 私の後ろから、温度の壁を壊そうと、果敢にイリーナが進み出る。 「ママもすぐ気づかなかったからアレだけど。テオって、吸血鬼じゃないのよね?」 ぐっと、ミラベルが詰まる。 「人間だな」 ミラベルの表情がこわばり、ぐっと、スマホを握る指に、力がこもる。 「……いいでしょ」 きっと私とイリーナの目を交互ににらみつけ、ミラベルはスマホを持ってない左手で、スカートの裾を握り締めた。 「人間と、吸血鬼がくっつくなんて、昔からよくある話でしょ!」 「フィクションと現実はちがうのよ、ミラベル」 夫婦揃って、同じようなセリフを言う日である。 私はこめかみを押さえながら、ふと、もう一度、ミラベルのスマホを見た。 SNSでできた彼氏か……。先程感じたよりもどっと、黒雲のような不安が湧いた。 「なぁ、今日の新聞見たか?」 私の問いに怪訝な顔をして、ミラベルは首を横に振る。あっとイリーナも声を上げ、不安げに私の顔を見上げた。 「何? 何なの?」 「吸血鬼狩りが流行ってるのよ」 事件を説明していくにつれて、ミラベルの顔は青ざめ、関節が浮き上がるほど指の力が強くなる。 私は一拍おいて、静かにミラベルを見つめて問いかけた。 「ミラベル。テオという人間は、本当に、信用が置けるのか?」 ひと呼吸分の、間が空く。答えるミラベルの目がつり上がっているのを見て、私は久々に緊張を感じた。何それ、とミラベルが言った瞬間、ミラベルの手の甲に血管が浮き上がり、パキンとスマホにヒビが入った。 「新聞の詐欺師と、テオを一緒にしてるの?」 「ちがうと言いたいが、テオを全く知らないからな」 「だから明日、家に来てもらうんでしょ!」 「家じゃなきゃダメか?」 「何でよ!」 怒鳴りながら、ミラベルは涙目になっている。 ミラベルは頭の弱い子だが、空気の読める子ではある。私の沈黙の意味を、イリーナの不安げな表情の意味を、察することはできるはずだ。 万が一テオが詐欺師で、吸血鬼を狙っているのなら、自宅を教えれば、家族全員が危険にさらされるのだ。 「テオは詐欺師じゃないよ!」 「……私は、お前のことが心配なんだよ、ミラベル」 「だからって、娘の恋人と、犯罪者を結びつけていいわけないでしょ!」 そう言った瞬間、ミラベルの姿が霧散した。 「ミラベル!」 イリーナが叫び、私も仰天してあたりを見回す。 「あったまきた……! もう私、今日は帰らないから!」 天井のあたりからミラベルの声が降ってきたかと思うと、ふっとロウソクの火を吹き消したように気配が消えた。 あとには、呆然とした私たちが残された。 ◆◇◆ シャーロットはぼんやりと、窓辺で月を眺めていた。 今宵は満月である。月の輝きがまぶしすぎて、星がよく見えない。 カチャリと部屋のドアが開いて、博士が入ってきた。 ベッドに腰掛けていた彼女は振り返り、唇を持ち上げた。博士は黒のタンクトップ姿の彼女をつと見、かすかに眉をひそめた。 「博士? どうされました?」 「シャーロット……。君、首を虫に刺されたか?」 シャーロットは少し考えた。首をかしげた瞬間、亜麻色の髪が頬にかかる。木々の多い公園でランニングをしていたから、気づかないうちに刺されてしまったのかもしれない。 「ほら、ここ。ここの二箇所」 右の首筋に、背後から博士の手が触れた。傷口を指先でなぞられ、くすぐったくなったシャーロットは、笑って博士の胸に後頭部を預ける。 博士はシャーロットを受け止めてくれたが、彼女が見上げた彼の顔は、かつてないほど真剣だった。 「……博士?」 「文献にあった傷口と、よく似ている……」 博士はつぶやくと、シャーロットの後頭部を胸から引き剥がし、彼女の両肩を押さえたまま、じっくりと傷口の観察を始めた。不満げにシャーロットは、両膝を合わせて足をもじもじさせている。 「シャーロット。今日、僕以外の誰かと会ったかい」 再び、シャーロットは考え込む。今日はずっと、この研究室にいた。ただ、夜だけランニングをしに行って……。 「会って、はないと思います……」 「煮え切らない答え方だね。はっきり答えなさい」 はい、と言いながらも、シャーロットは自信が持てない。 「夜だけ、ランニングをするために公園に行きましたが、人に会った記憶はありません。でも、何か――何か、あたし、忘れてしまっているような気がして」 博士の瞳が輝きだした。 「何を忘れている? 何をだ?!」 シャーロットは必死で思い出そうとした。でも、何も出てこない。人には会わなかったし、ランニングの道に変わったところもなかったはずだ。 「特には。ただ……今日の夜はやけに、時間が経つのが、早かったような気がします」 「体感時間が早かった? どれくらい?」 「……一時間、くらいでしょうか。ぼんやりしていたのかもしれません。ランニングして……気がついたら、家の前にいたんです」 「ブラボー!」 唐突に叫ばれて、びっくりしたシャーロットは肩を震わせた。その肩をまだ押さえながら、博士は嬉しげに笑い出す。 「君はもしかしたら、吸血鬼に会ったのかもしれない」 シャーロットは目を瞬いた。 「吸血鬼に出会ったと思われる話を調べると、必ず記憶の欠如があるのだよ」 「そんな……。欠如、というほどのものなのかどうか。あたし……自分が、疲れているだけだと」 「皆そう言う。なんだか体もだるいし、今日は眠いから、あまりはっきり、起きた出来事を記憶してこなかったのだと」 言いながら、博士はシャーロットを揺さぶり、彼女の体を自身の方へ向かい合わせた。 「この傷口を見なければ、僕も君に早く寝るように勧めただろう。だが、シャーロット。今夜は寝かさないぞ! なぜなら君が、《金の目》の手がかりになったのだから!」 シャーロットは遅まきながら、バクバクと心臓が高鳴り、頬が紅潮してくるのを感じた。そっと、傷口に触れる。 博士が期待するようなことは何一つ覚えていないのだが、こんなに博士が嬉しそうな顔をしているのだ。それなら彼の、役に立ちたかった。 「なんでもします、博士。あたし、何をすればいいのでしょうか」 「そうだな」 博士はベッドに乗り上がると、マットレスを軋ませて、シャーロットに顔を近づけた。 「公園へ行こう。もっと何か、手がかりになるものがあるかもしれない」 ☆★☆ 私は焦っていた。 まさかミラベルが、あそこまで怒るとは思わなかった。 「あなた、どうしましょう?!」 イリーナが表情を引きつらせて、私の腕にすがりついてきた。私も正直動揺していたが、妻の指先の震えに気がつき、あわてて気を引き締める。 「これじゃ家出じゃないの、どうしたらいいの?」 「お、落ち着きなさい。今の時間、行ける場所なんて限られてる! あの子が行くとすれば……っ」 私は腕時計を見た。時刻は午前零時を指している。この時間、若い子が行ける場所。 コンビニ。ファミレス。漫画喫茶。……あれ? 「い、意外とあるな……」 これが百年前との違いか。今度は私の手が震えてきた。ああ、イリーナが真顔になっている。 「友達のところも考えられるけど。でも、もしかしたら、彼氏のところかしら」 自分の眉がつり上がったのがわかった。思わず、強い口調になる。 「さっきあれだけ不安になる要素を知っておいて、行くか、普通?」 「私だったら、確認したくなるわ。真実を」 そう言うと、イリーナはスマホを取り出し、何か操作を始めた。 「何してるんだ? 電話するのか?」 「ちがう。GPSの確認。ミラベル、スマホ持ってたから」 私は衝撃を受けて、妻の顔と、液晶をタッチする指を見た。同い年のはずなのに、なんだこの差は。しかも、もう私よりもずっと、イリーナの方が落ち着いている。 私の心中を知らず、イリーナはスマホから顔を上げないまま、ホッとした表情を浮かべた。 「遠くに行ってなかったわ。ほら、ここ。天文台がある、森林公園の近く」 「森林公園?」 さっき食事をした場所ではないか。それに、天文台? 「天体観測……」 私は思わずつぶやいた。テオと、ミラベルの共通の趣味。 「イリーナ、家で待っててくれ」 「えっ?」 「私が必ず連れ戻してくる!」 言うが早いが、私は窓を開けると、コウモリになって弾丸のように夜の街へ飛び出した。 ☆★☆ 夜特有の湿った空気を風切りながら、私は公園に降り立った。そして、公園の入り口に停められている、車を見て戦慄した。 ミラーリングされた、黒いバンだった。 新聞に載っていた情報と、同じではないか! 私は焦って中を覗き込んだ。まぁ見えないが、人の気配は感じない。幾分ホッとしたが、それでも気は逸っていた。 ミラベルは、本当に詐欺師に騙されているのかもしれない。 コウモリの姿で、公園の中を突っ切る。公園は広い。ランニングコースが設けられており、木々の中にアスファルトが敷かれ、緩くくねった道には点々と常夜灯で照らされている。私が先程、女性を捕獲したのもこのあたりだ。血を吸う際、植え込みの影に連れ込んだのだ。 不安が増す。天文台は、もっと奥だ。ちょうど視線を上げたその先に、ドーム型の小さな白く丸い建物が見えた。あそこに、ミラベルがいるかもしれない。 ふと、人の話し声がした。 私は目線を下げた。常夜灯の下で、四人の男女がいるのが見える。その中の一人に見覚えがあった。先程の、亜麻色の髪の女性だ。 思わず、私は近くの木に停まってぶらさがる。心配の種が増えた。私が先程かけた術に、不備があったのだろうか。今までこんなことはなかった。私は霧に姿を変えると、彼らに近づいていった。 「――あまり奥には行かないんです。天文台の方は坂道になってるから、しんどくて」 亜麻色の髪の女性が、道を指さしながら歩き始める。ひょろりとした、黒髪の眼鏡をかけた男性が、興味深そうに頷いた。 「シャーロット。今日に限って、行く気になった、なんてことはないかな」 亜麻色の髪を揺らし、シャーロットは考え込んでいる。その後ろに控えている若い男女を見て、おや、と私は目を見張った。 彼らがなかなかの美男美女だったからだ。女性の方は、栗色のふわふわした髪で、不安そうに着ているピンクのパーカーの裾を握っている。ミラベルと友達になれるかもしれない。 男性の方は金髪で、青のおしゃれなスポーツウェアを着ていた。つまらなそうに、スマホをいじっている。そして、不意に顔を上げると、眼鏡の男性に話しかけた。 「行ったとして、こんな時間に開いてないですよ、博士」 博士と呼ばれた彼は、そうでもないと首を振る。 「この時期は流星群がある。近くの大学生たちが、毎年、天体観測のためにあそこを借りている」 「今日は、大学生なんて、見なかった気がします……」 言いつつも、シャーロットは自信がなさそうだ。白い上着を着た背を、少し丸めて頬に手を当てている。ぽんと、博士が、その肩を叩く。 「記憶の欠如があるなら、誰かに会った記憶も抜けてしまったのかもしれない。せっかくだ、行ってみよう」 私の心臓が、跳ね上がった。たいていの人間はあの術に当てられると、その前後の記憶も曖昧になるし、思考回路もぼんやりとしてしまう。普通は記憶違いで済ましてしまうはず。わざわざ自分の身に起こった出来事を確かめにくる人間がいるとは。 「行って……もし、吸血鬼に会ったら、どうすればいいですか?」 私は驚いて、危うく実体化するところだった。 口を開いたのは、今まで黙っていた栗色の髪の女性だった。噛まれたんですよね、と震える指で、シャーロットの首のあたりを指す。 「私たちも、噛まれちゃうんじゃ」 「装備はしてきただろう? 大丈夫だよ、アン」 簡単に言う博士に、アンは納得いかなそうに顔を曇らせている。 「君は逃げていいんだ。でも、必ず知らせてくれ。僕は彼らに確かめたいことがある」 二手に分かれよう、と博士はいい、背負っていたリュックから懐中電灯を取り出した。 「明るい道の方が安心だろう、アンとケビンはこのまま道なりに天文台の方を目指してくれ。僕とシャーロットは手がかりがないか、森の方も見てから行くから」 人間たちが分かれて、歩き出していく。私は迷った。正直、もう一度彼らに術をかけ直したい。合わせて、リーダー格と思われる博士に、行動の理由を問いただしてみたい。 しかし今、優先すべきはミラベルだ。遠ざかっていく博士とシャーロットを見、私は天文台への道を進むことに決めた。 「ねぇ、ケビン。私怖い。行ったことにしちゃダメ?」 まだいたのか。気がつけば、アンとケビンは数歩しか進んでいなかった。怯えた表情で、アンがキョロキョロしながら言う。ケビンは薄く笑って、俺は行きたいと言いだした。 「俺は吸血鬼に会いたい」 「嘘でしょ?! なんで?!」 「《金の目》だよ」 ニヤリとするケビンに、私は思わず耳をそばだてた。 「あの力を利用すれば、遊んで暮らせるほどの金儲けができる。そう思わねぇか?」 こいつら、新聞に載ってた事件の犯人か! 私の驚愕にかぶさるように、アンが叫んだ。 「む、無理よ! あいつら、すごい力だったじゃない!」 「あの時は、装備が足りないから逃げられた。次は大丈夫さ」 ずんずんアンを置いて、ケビンが歩き出す。アンは助けを求めるようにあたりを見回していたが、アンの目に私は見えていない。誰も助けてくれないことがわかった彼女は、あわてて彼の跡を追いかけた。 「ま、待って! 一人にしないで!」 逡巡。ここで術をかけて、彼らを捕まえることもできる。でも、装備という言葉も気にかかる。吸血鬼は何気に、弱点が多い。一人を相手にしているあいだに、もう一人に攻撃を加えられるリスクがある。 ミラベルを連れて逃げよう。テオだって、こいつらの仲間かもわからないんだし。 私は空に舞い上がって再びコウモリになると、一直線に天文台を目指した。 ☆★☆ 天文台の入口は開いていた。 私は人型の姿に戻った。中に入ると、入ってすぐに階段があった。一応あたりを見渡す。そんなに広くない建物だが、自動販売機と、休憩スペースがある。左手には、衝立のように大きな鏡があった。スタッフの通用口を、来客の目から遠ざけるためのようだ。私は自分の姿が映らないので、危うく衝突しそうになった。 上で、気配がする。私は階段を駆け上がる。高いドーム型の天井を振り仰ぐように、大きな望遠鏡がそこにはあった。そしてその影に、ミラベルがいた。 「ミラベル!」 ぎょっとしてミラベルは後ずさった。逃げ出そうとした彼女の前に、私は霧の姿に形を変えて、一気に回り込む。人型になってその肩を掴むと、ミラベルは私を突き飛ばそうとした。 「離して!」 彼女の目が金色になりかけているのに気がついて、あわてて私は顔をそらし、逆にミラベルを突き飛ばした。よろけて、ミラベルは尻もちをついたらしい。小さな悲鳴が上がる。 私は警戒しながら、ミラベルの方へ顔を戻した。ミラベルは床に座り込んだま、痛そうに顔をしかめている。目の色は元に戻っていた。 目が合うと、一気に眉間のしわが深くなった。 「なんで来たの、パパ。どうしてここにいるって、わかったの」 「……まぁ、親だからかな」 真顔になったイリーナを思い出し、私はごまかした。ミラベルを助け起こそうと、手を差し出す。 「帰ろう、ミラベル。ここに新聞に載ってた奴らが来るから」 「だから、テオはそうじゃないって言ってるでしょ!」 ま、まずい、誤解されてしまった。手を結構な力で振り払われ、私はたじろぐ。ミラベルは私をにらむと、自力で立ち上がって裾を払った。 「他の人間も、ここに向かってるんだ! 厄介に巻き込まれても困るだろ、帰ろう!」 「嫌!」 ミラベルは髪を乱して首を振り、仁王立ちになって腕を組んだ。 「パパだけ帰ればいいでしょ。私はテオと話があるんだもん。絶対帰らないから!」 「テオがここに来るのか?」 私の言葉に、仁王立ちが崩れた。ミラベルは腕組みを解き、リボンに手を触れる。沈黙。ミラベルは、視線を泳がせている。私は少し、話を変えてみた。 「どうやってここに入った」 ミラベルは少し迷っているようだったが、答えてくれた。 「……鍵を持ってる」 「鍵?」 「……テオと、ここで会ったから」 答えになっていない。私の表情に、ミラベルは考え考え、説明してくれた。 「SNSで、大学の天文学部の人達と仲良くなったの。話をしてたら、テオが天文台を借りてるから、よかったら一緒に見ないかって。……最初の何回かは皆で見てたけど、そのうち、その……」 二人だけで、見るようになっていったのか。私の視線のトゲに気がつき、ミラベルは決まり悪そうにうつむいた。 「この間、私、鍵を持ったまま帰っちゃったから。だから、ここも開けられたの」 気詰まりな沈黙が流れた。私は言うべき言葉を探した。しかし言葉が出てこない。 正直、自分がミラベルのことをあまり知らないのに、気がついてしまったからだ。 食事の時は一緒にいるし、よく話すし、仲のいい親子だと思っていた。でも、人間たちとそんな交流を持っていることは知らなかった。 つい数時間まで、あんなにいつもどおり、話していたのに。 私がまとまらない思考を押して、なんとか口を開いたとき。下の階で、ドアが開く音がした。 「パ、パパ。出てって! 早く!」 ミラベルが私の肩を押し、階段へ駆け出した。 「ま、待て!」 もしかして、アンとケビンかもしれない。私は霧になり、急いでミラベルを追いかけようとして――固まった。 見たことがない若者が、階段をあがってくるのが見えた。 ☆★☆ 「テオ!」 ミラベルの嬉しげな顔に、テオが顔を上げ、笑顔を返した。 私は霧になったまま、どうしたものかと思案した。とりあえず、テオをじっくり観察する。食料としてみた場合は、おいしそうな部類かもしれない。 中肉中背に見えるが、赤のチェックの半袖シャツから見える腕や首筋は、ある程度締まっている。スポーツをやっているのだろうか。顔は地味な方だ。 パーマをかけた髪は、元が黒なのだろうが、根元以外は明るい茶色だった。色のあせたジーパン。砂が付いてる、黒のゴムサンダル。娘の彼氏の見た目の合格点としては、四十五点ぐらいか。 ミラベルに手を振ると、テオは階段を駆け上がる。ミラベルに抱きついたら、迷わず実体化して引き剥がしてやろうと思ったが、その前にテオはあれ、と首をかしげた。 「お前一人?」 お前? 私はつっかかりたくなったが、ミラベルがすごい勢いで頷いたのでタイミングを逃した。 「そうだよ、なんで?」 「なんか声が聞こえた気がしたんだけど」 ミラベルは視線を泳がせ、リボンを激しくもみくちゃにしながら笑顔になった。 「わっ、私テオが来るまで、スマホで動画見てたの! それだよ、きっと」 けっこう怪しい態度だが、テオは納得したらしい。 「待たせて悪かった。親に送ってもらった?」 ミラベルが笑顔を引っ込める。テオは顔を曇らせた。 「ううん……」 「自転車?」 だんだんミラベルがうつむいていく。まさか飛んできたとも言えないのだろう。テオは険しい表情でミラベルを見つめている。不満そうに、テオは口を開いた。 「また徒歩で来たのかよ」 「だって……」 「前も言っただろ、そういうのやめろって」 ごめん、とミラベルはリボンに触れながら謝る。不穏な空気に、いつ実体化してもいいように、私は身構えた。テオは腰に手を当てて、眉をしかめたまま言った。 「不審者とか多いんだから、一人で夜遅く出歩くなって言ったろ」 ……ん? い、いかん、ちょっと身構えを解いてしまった。霧のまま淡く漂い、私はテオの横顔を見る。 「何回も、俺が迎えに行くか、親に話して送ってもらえって言ってんじゃん。なんで目的地に着いてから、来てって言うんだよ」 ……もっと身構えを解いてしまった。 う、うーん。もう少しだけ、点数をおまけしてやっても、いいかもしれない。なんとなく悔しいが、彼の表情には、本気の心配が滲んで見えたからだ。 「だ、だって、正式に挨拶してからでないと……そのぅ……テオがご飯になっちゃうかもしれないし……」 もごもごとつぶやくミラベルの後半のセリフは、テオにはよく聞き取れなかったらしい。怪訝な表情で聞き返そうとする彼を、ミラベルはうつむいたまま、声を張り上げて遮った。 「そ、それより……! 聞きたいことが、あるんだけど……っ!」 「ん? 何?」 私は別の意味で身構えた。イリーナの言ったとおり、ミラベルは、真実を確認しようとしている。しかし、どこから話すのか悩んでいるようだ。 間違って術を発動させてしまって、テオを動けない状態にしてしまう。 ☆★☆ 私がミラベルを連れて、天文台から出ようとしたとき。アンとケビンが、入ってきたのだ。 「あなたたち、何?」 「何って……」 ミラベルが戸惑っている。私は冷や汗を浮かべながら、なるべく丁寧に答えた。 「天体観測のためにここをお借りしている、大学のものです。あなたがたは?」 聞かれて、かえって二人は詰まった。アンとケビンは顔を見合わせる。と、ケビンが急に、顔を引きつらせた。怪訝に思った私はその視線の先を見て、凍りつく。 鏡だ。 私とミラベルは、鏡に映らない。 「ミラ――」 私が娘の名を叫ぶのと、気がついたアンが悲鳴を上げるのが同時だった。 ミラベルが驚いて、私にすがりつく。ケビンがポケットから何かを取り出したのが見え、私はとっさにミラベルをかばおうとした。 しかし。一歩遅く、ケビンは装備していたモノを、噴射した。 「ぎゃああああああ!」 私とミラベルだけでなく、その場にいた全員が、煙を浴びて悲鳴を上げる。 漂うのは、ニンニクの匂い。 私は人間の正気を疑った。こんな人間でも耐え難い匂いを、こんな閉じきった空間で噴射するなんて頭がおかしい。 だが、悔しいが、吸血鬼の対策としては正しかった。 がくんと、ミラベルの体が急に寄りかかってきた。気を失っている。私も半分、気を失いそうになりながら、必死で後ずさり、彼らから逃げようとした。 「ちょ、ちょっとケビン! 私無理、無理、出るわ!」 アンが叫び、吐きそうな顔をして口元を押さえ、入口へ駆けていく。私もミラベルを引きずりながら続こうとしたが、視界がチカチカしてきた。 ケビンが、背負ってたリュックを、下ろすのが見えた。大きく振りかぶる。私めがけて。避けたつもりだったのに、頭に衝撃を受け――私は気を、失った。 ☆★☆ 目が、覚める。白い床が見えた。はっとして、あたりを見回す。 巨大な望遠鏡が正面にあった。先程ミラベルとテオが話をしたところだ。私はソファに横倒しにされており、手足をガムテープでぐるぐる巻きにされていたのだ。 私は起きようとして、ソファから転げ落ちた。痛みに呻き、顔を上げると、少し離れたソファにミラベルがいるのが見えた。 まだ気を失っているのだろうか、ミラベルは背もたれにぴったり背を付け、頭をたれている。そしてその足元では、サングラスを掛けたケビンが、狂ったようにガムテープを巻いていた。 「おい! ミラベルに触れるな!」 ケビンがぎょっとして動きを止める。ミラベルがぴくりと顔を上げた。 「きゃっ、きゃああっ!」 跳ね上げた足を危うく躱し、ケビンはガムテープを持ったまま尻もちをつく。その額に、汗がびっしり浮いている。ケビンはじりじり後退し、ミラベルの足が届かないところまで来ると、ニヤリと笑った。 ミラベルが、不快そうに唇をかみしめている。私は手足を自由にしようともがいたが、服についたあの匂いのせいか、思うように力が出ない。 「パ、パパ! 大丈夫?!」 「大丈夫だ」 「パパ。やっぱりあんたら、吸血鬼の親子だったんだな」 よろよろと立ち上がり、ケビンが額の汗を拭う。私は彼をにらみつけ、怒鳴った。 「お前ら、何が目的なんだ! 吸血鬼を襲って、どうするつもりだ!」 「金儲け。――少なくとも、俺はね」 少し下がってきたサングラスを指で押し上げ、ケビンは低く笑う。 「まぁ、博士の方は違うみたいだけど。俺は魅力的な話だなと思って、のっかただけ」 「魅力的?」 「《金の目》の力だよ」 あんたら、人に言うことを聞かせる力があるんだな? そうケビンは言う。 私は黙ったまま、彼のサングラスをにらんでいた。 黒縁のサングラスは表面にミラー加工が施され、ギラギラと虹色に輝いている。これでは、ケビンの瞳が見えない。 《ワールドワイド・ルナティック》は、瞳と瞳が合わさって、初めて発動する術である。 正しい対処法だ。私は歯噛みした。サングラスを外させない限り、ケビンに術をかけることはできない。 「俺、一生何もしないで暮らせる程度の、金持ちになりたいんだよね」 私とミラベルと距離を保ったまま、ケビンは胸をそらした。 「俺、この顔だからさ。今まで何もしないでも、女の子達に食わしてもらえたんだけど。いつかは衰えるわけじゃん? 年取るんだし。あんたらにはわからないかもしれないけど」 「よ、よくわかんない」 ミラベルが口を挟む。 「なんで、この力が、お金持ちになることにつながるの?」 例えば、と腰を折り、ケビンはニヤニヤとミラベルに笑いかけた。 「大富豪に、術をかけてもらう。『お前は今日から、ホームレスだ!』……で、俺がその日から、その大富豪の家に住むわけ」 理解したのか、ミラベルが黙る。 「まぁ、応用はいろいろ利くだろうな。『その車はケビンのものだ!』『その土地はケビンのものだ!』『その女はケビンのものだ!』……理想の生活の、始まりだね」 我慢できなくなって、私は吐き捨てた。 「浅ましいやつだ」 「あんたらより寿命が短い分、満喫して死にたいのさ」 ケビンは言うと、再びポケットに手を突っ込んだ。またスプレーかと身構えたが、その手に握られたものを見て、私はもっと青ざめた。 ケビンの手には、十字架のネックレスが握られていたのだ。 十字架に触れると、私たちは火傷してしまう。 ケビンは笑うのをやめると、ミラベルの鼻先にそれを突きつけた。 ミラベルが反射的にのけぞって、顔をそらせる。私は声にならない悲鳴を上げた。 「や、やめろ! 娘には何もするな!」 十字架は揺れる。私は、どんどん自分の頬の血が降下していくのを感じた。今にもミラベルの肌につきそうだ。ミラベルは必死で、十字架から距離を取ろうとしている。 「じゃあ、俺にその目をくれるか?」 「……どうやって」 「移植するんだよ。あんたの眼球を、俺の目に入れる」 私は激しい自分の呼吸音を感じていた。一拍間を置いて、つぶやいた。 「君が吸血鬼になった方が、早いんじゃないか? 噛まれれば変われるぞ」 「嘘だね」 見抜かれて、詰まる。ケビンは得意げに言いだした。 「人間から吸血鬼に変わるには、特殊な儀式がいる。しかもその術、生まれつき吸血鬼じゃないと使えないって言うじゃないか。――俺は仲良しの吸血鬼ちゃんに聞いて、いろいろ知ってるんだよ。逃げられたけど」 一度、ミラベルの方を見やり、ケビンは十字架をさらに近づけた。 「自分の目の方が大事か? なぁ。娘の顔に、傷がつく方が悲しいだろ?」 ミラベルが呻く。私は全身の血が逆流しそうな思いで、拳を震わせていた。 「……わかった」 「パパ!」 ミラベルの叫びに重なって、何か、奥で、うめき声が聞こえた。 ☆★☆ ケビンが、怪訝そうに身を引いた。 かすかに聞こえる、若い男の声。私ははっとした。 テオだ。術の効果が解けて、正気に帰ったのだ。 「テオ!」 ミラベルが叫ぶ。ケビンが血相を変えて、怒鳴った。 「仲間がいたのか?!」 「テオ、起きろ!」 私はケビンに負けない勢いで声を張った。ケビンがテオの方にいくか、とどまるか迷っている。ミラベルがなおも叫ぶ。 「テオ――助けて!」 「ミラベル?!」 望遠鏡の影から、テオが飛び出してきた。一瞬、私たちを見、ぎょっとして足を止める。 「来るな!」 ケビンがミラベルの肩をつかんだ。小さくミラベルが悲鳴を上げる。 私はテオに向かって怒鳴った。 「テオ! こっちを見ろ!」 驚きの表情を浮かべたまま、テオが私の顔を見た。その瞬間、私は目を金色に変えている。 《ワールドワイド・ルナティック》! 「あの男の、サングラスを奪え!」 テオが駆け出した。ケビンが喚き、ミラベルを突き飛ばす。殴り合いになる。 ケビンの拳がテオの唇を切り、血が飛び散った。ミラベルが金切り声を上げた。 それでも、テオは止まらない。殴られながらも、ケビンの顔からサングラスを剥ぎ取った。 何発も殴られたテオは、そのまま倒れこむ。 焦った表情のケビンが顔を上げた先に、ミラベルの、怒りに燃える金の瞳があった。 「許さない……! あなたなんか、」 ケビンはあわあわと口を開き、後ずさった。この部屋の、空気が変わっていた。痛いほどに張り詰めた緊張感の中、髪を逆立てて怒る吸血鬼に、人間が逆らえるわけがない。 「一生、お金に関心がなくなってしまえばいい!」 ケビンは吸血鬼を狙う理由がなくなった。私はミラベルとテオを連れ帰り、祝杯をあげたのだった。 |
中梨 涼 2018年08月12日 23時59分44秒 公開 ■この作品の著作権は 中梨 涼 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2018年08月30日 22時11分09秒 | |||
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Re: | 2018年08月29日 23時57分00秒 | |||
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Re: | 2018年08月29日 23時20分16秒 | |||
合計 | 11人 | 150点 |
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