ラノベ作家とFX、どっちが儲かるか? |
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※ 当作品を読んだ場合、人により精神的被害、また間接的に金銭的被害を受ける可能性があります。その点を理解した上でお読み下さい。 なお、投資は自己責任でお願いします。 『プロローグ:ラノベ作家を目指すのは駄目ですか?』 事の発端は実に簡潔。高校二年の夏休みを間近に控えて進路調査が行われ、調査用紙に『ライトノベル作家』と書いた。 すると、職員室に呼び出された。 全くもって遺憾である。 職員室内はエアコンでよく冷えていた。 角田晃(すみたあきら)の通う高校は公立であるためか、教室にはエアコンがない。しかも何の因果か晃の座席は日当たりのいい窓際で、この時期は灼熱地獄と化す。 ならばとカーテンを閉めれば今度は風通しが悪くなって、蒸し風呂状態になるのだからもう色々と詰んでいる。晃は問いたい。この学校は、窓際の生徒に死ねと言うのか。 なのに職員室には冷房が効いているとくれば、生徒にはもはや学校を爆破する正当な権利があると思う。夏の行事か何かで、花火の代わりに鉄筋コンクリート三階建て、築三十年の校舎を爆破解体出来たなら、さぞや胸がすっとすることだろう。今手がけている『自衛隊異世界召喚モノ(仮)』を書き終えたら次はそんな話を書いてみるのも面白いかもしれない、と妄想を膨らませてみる。 けれど現実の晃は今現在椅子に座らされて、対面する担任からありがたーいお小言をいただいている真っ最中で。 「いや、先生もな。別にお前の進路を否定するわけじゃないんだがな?」 これである。 ぎしぎしと古びた椅子をきしませてソフトアフロの担任が言うには、「お前本当にこの進路で良いのか? ん?」だそうだ。 良いのかも何も、良いと思わなかったら書かないだろうに、このアフロは何を言っているのか。 だから晃は、胸を張って正々堂々と主張する。 「俺、変更する気はありません。ライトノベル作家一筋で頑張ります」 「いや、しかし進学も就職もしないというのはちょっとなぁ……。お前、あとあと絶っっっっっっ対、困るぞ? 本当に良いのか?」 アフロ頭を突きつけて、アフロはそう脅してくる。このアフロでふわっと包むぞ、と言う意味なら、確かに困ることこの上ないが。 「大丈夫ですよ。一、二年もあればきっとデビュー出来ますから」 「いや、先生ちょっと調べてみたけどそう上手くいくもんじゃないんだぞ、それ。ちなみに親御さんはどう言ってた」 「え? 二人ともとりあえずやってみろ、と言ってましたけど」 「あいたーっ!」 額に手を当てて、アフロが天を仰ぐ。 それがアフロの持ちネタ、もとい口癖。ちなみに発声はクレッシェンドで、語尾にいくほど高音になる。 けれどアフロが何故呻いたか、晃にはその理由がわからない。そんなにおかしなことだっただろうか。この進路には両親ともに快諾してくれて、特に父は「うん、まあ、その……アレだ、ようするに、やれるだけやってみろ、ってことだな、うん。どうせお前の人生なんだし」と背中を押してくれた。言葉の上でも物理的にも。 「うーん、そっかー。親御さんの了承済みかー」 親の了解を得ていると言われては分が悪いと思ったのか、アフロの言葉は途端に歯切れが悪くなる。アフロが自分の頭に手をやって、ふさふさのアフロで気持ちを落ち着かせ始めた、そんな時だった。 「え? ラノベ作家……?」 そんな声が、晃の背後から聞こえた。 振り返るとそこに、クラスメイトの女子が立っていた。 相馬一美(そうまかずみ)、晃の教室のクラス委員長だ。 と言っても外見的に委員長らしさは皆無で、イマドキの女の子と言う感じだ。前髪の片側をヘアピンでちょっと留めて、反対側はそのままに。 制服は軽く着崩していて、襟元は三番目のボタンまで開かれている。もっともこれは校則を守る気が無いというよりは、教室にクーラーが無いせい。 そんな外見とは裏腹に、頭脳明晰成績優秀の才媛……なんてこともなく。数学や化学が得意な理数系。英語や国語は苦手で、よく赤点をとっている。それでもって、忘れ物も割とする。 そんな彼女を目にする度、晃は常々こう思っている。 普通過ぎる、と。 こういうのが小説に出すときに一番困るタイプだ。いまいち個性がなく、どうにもキャラが立たない。委員長であるならもうちょっとそれらしい特徴を出していかないと、というのが晃の持論。 胸にしたってそうだ。 巨乳でも貧乳でもない、かと言って無乳や並乳でもない。ものすごく中途半端なサイズだ。実際貧乳寄りではあるのだが、こういう場合に使われる表現代表の控えめだとか申し訳程度だとかかすかにあるだとか、そんな言葉のどれもがどうも晃の感性的にしっくりこない。とにかく色んな点が微妙すぎて、どんな表現もカテゴライズもすり抜けてくるのだからどうしようもない。きっとここまで作家泣かせの胸は他には無い、そう断言することだって晃はいとわない。 よって晃は作家志望としての敗北と諦念を込めて、その胸をこう評している。 ――――あれはまるでステルス爆撃機みたいなおっぱいだ、と。 そのステルスおっぱい、もとい相馬はアフロを押しのけて、さらにこう言って詰め寄る。 「あのさ、ラノベ作家なんてやめた方が良いよ? あんな儲からない仕事」 どうしていきなり、そんなことを言われないといけないのか。 ただでさえアフロにアレコレ言われていたのもあって、晃はカチンと来た。 はっきり言って晃は相馬と普段は全く交流が無い。せいぜいがプリントを手渡されたりとか、連絡事項をやりとりする、そんな程度。けれどここまで言われて引き下がるなんて、そんなのは男じゃない。そんな気持ちとラノベ作家を侮辱されたのも相まって、晃は背一杯の皮肉を込めて言ってやる。 「へー。じゃあ、相馬はどんな儲かる仕事につく気なんだよ?」 「あ、私? 私はね……」 ふ、と何故か彼女は薄く微笑み、言葉を溜める。その言葉を待つかのように一瞬、職員室が静寂に満たされた。ややあってから、彼女は腰に手を当て髪をかき上げると、満を持して口を開く。 「個人投資家――――それもFXのトレイダーね!」 「……は?」 予想外の回答に呆然とする晃の隣、職員室のど真ん中、アフロが超特大の「あいたーっ!」を叫んだ。 『一章 ライトノベル作家は儲からない?』 その日は朝から憂鬱だった。 登校時にはすでに刺す様に太陽光線が降り注ぎ、ただ歩いているだけで汗ばむどころか汗だくになるぐらい。そりゃ旅人もマントを脱ぎだすわな、と晃は開襟シャツの胸元を指でちょいとつまんで換気に勤しむ。 教室のあちこちから聞こえてくる言葉は「暑い」が発言数断トツの一位。誰も彼もが『暑い』と言う言葉の弾丸を乱射する。 そんな中、晃は一人カーテンに向かって『暑い』とツイート。誰もフォローしてくれないけどかまわない。友達? なんだそれ。 友人がいない人間のことをぼっちだの言うが、元々それほど社交的ではない晃にしてみれば、友達はどちらかというと不要な存在。いないほうが静かで良いし、自分の時間が持てる。ぼっちサイコーとは言わないまでも、居心地は悪くない。 そう思っていると、ばーん! 背中を叩かれた。 「はよっーす、角田! 今日もあっちぃなぁ!」 振り返ると、こんがりと日に焼けた肌に短く刈り込んだ頭の暑苦しい笑顔があった。 高原剛天(たかはらごうてん)、晃のクラスを代表する陽キャラだ。 どうしてか、この手のキャラはわざわざ声をかけてくる。純然たる陰キャラの申し子である晃としてはほっといて欲しいのだが、こういうタイプは一人でいる人間を見ると何故か声をかけてやらないと! と思うらしい。そしてそんなやつがすぐ後ろの席なのだから、色々と災難だ。 「ああ、うん。おはよう高原……」 「なんだよ元気ねーなー。駄目だぞ? 夜遅くまでエロ動画見てたら」 「み、見てないって、そんなの」 実際のところは公募が近いため執筆をしていたのだが、そんなことを説明する必要はない。余計な話をしたところでからかいのネタを提供するだけだ。晃は作り笑いを浮かべて曖昧に返答をして、その場を切り抜けるにとどめる。陰キャなら誰もが保有するガードスキル、その名も『愛想笑い』。地味に役に立つ堅実な技だ。とりあえず困ったらこれを使っておけば、たいがいの状況はうやむやに出来る。 けれど高原はそれよりも気になることがあったのか、すでにこちらを見ていなかった。 なんだ、と視線の先を追うと、丁度教室に入ってきた相馬の姿が目に留まった。 『個人投資家――――それも、FXのトレイダーね!』 相馬を見るなり、晃の脳裏に再生されたのはそのシーン。BGMにアフロの『あいたーっ!』を添えて。 昨日、あの後すぐに帰ったので事の顛末は知らないが、自分の時の比ではなくアフロが呆れているのはわかった。さぞや長い説教になっただろう、と晃は推測する。 そもそもFXってなんだ、と晃は思う。とりあえずお金を稼ぐ手段と言うことは知っている。あとは、なんだか危険らしいということ。ようするに、詳しいことは何一つ知らない。そう言う意味では、馬鹿みたいな動画をアップして生活しているユーチューバー、の方がまだしも現実味がある。 ふむ、後でちょっと調べてみるか、と晃が考えていると。 彼女と、目が合った。 偶然でも気のせいでもなく、ばしっと。びしっと、びびびっと目が合った。 晃は慌てて顔を背けるも、相馬がつかつかと近づいてくる。そんな足音がする。 まさか、そんなはずはと思っている間にも、敵は接近。横目にちらと盗み見ると、見敵必殺! とばかりに、熱センサーで標的をロックオンした誘導ミサイルのごとく、ぐんぐん迫ってきていた。 焦る。もしかすると、昨日口を利いたから、目をつけられたのかも。 相馬も陽キャラ代表であり、陽キャラにはちょっと口を利いたら知り合い、と言うことになる世にも恐ろしいルールが存在する。 これはまずい、と晃は大いに焦る。 ええい、チャフを撒け! レーザーで迎撃しろ! いや、高原をフレア代わりにして欺瞞しろ! 晃の脳内で曹長がそう叫ぶも、もう遅い。逃げる間もなくミサイル相馬、晃に着弾。 「おはよう、角田君」 「お、おはよう、相馬……」 晃は気後れしつつも、しどろもどろで挨拶を返した。 心の中のスマホが、Jアラートをぶち鳴らし、やたら機械的な女の声が、頼みもしてないのに緊急事態発生を告げてくる。 教室の空気が、ざわめく。 クラスメイト一同が、本来はありえない陰キャな晃と陽キャの相馬の対話を、混ぜちゃ駄目な組み合わせの洗剤か、第三種接近遭遇みたいに見守る。 「今日の放課後、話があるから帰らないでね」 それだけ言って相馬は教室の一番前、自分の席へと戻っていった。 晃は呆然と、その後姿を見つめる。遠巻きに、ひそひそとクラスメイトらが話す声が聞こえる。一体何が? と。 すかさず高原が、またも背中をばーん! 「え? ちょ、お前何? 今のどういうことっ?!」 こっちが聞きたかった。 ◇ 「それじゃ、ちょっと場所を変えよっか?」 放課後。 そう言われて、相馬に言われるままについて行ったら、今は使われていない空き教室に連れて行かれた。防犯上扉は閉まらないようになっているものの、教室の中にいるのは晃と相馬の二人だけだ。 相馬は換気のために窓を開けて、部屋の隅にどかされている椅子を二つ持ってきて、さらに机も引っ張り出す。それを教室の真ん中に置いて、対面する形で椅子を配置。晃は言われるまま、その椅子に座る。 晃にしてみれば、女の子に呼び出されるなんてことは人生初。なんだ、なんの話なんだと、今朝からずっと考えているが、まるでわからない。 とりあえず昨日の出来事から思い当たる話題は、ラノベ、FX、あとアフロあたり。けれど相馬はラノベが好きではなさそうだったし、晃もFXに興味なんかない。ましてアフロのことなど、話すことは何もない。 そもそも場所を変えるのは何のためだろうと考えていて、晃はふと思い至る。 このシチュエーション、どことなく『告白』というやつに似ていないか? と。 いや待て、落ち着け、と晃は急に緊張しだした自分をいさめる。二回深呼吸をする。 はっきり言って、相馬一美はタイプじゃない。全然タイプじゃない。けれどもしそうなら、これが告白だとしたら、やぶさかではない。据え膳食わぬは男の恥と言うし、その時はすかさずOKの一言だ。そうだ、そうしよう。 晃はそう心に決めて、スタンバイ。 「あのね、角田君。私、あなたに単刀直入に聞きたいんだけど」 相馬は椅子に腰掛けるなり、そう切り出してきた。俄然、晃の中の何かのゲージが溜まりだす。 さぁ、来るぞ来るぞ来たぞ! 「本気でライトノベル作家になろうと思ってるの?」 「OK!」 ほとんど脊髄反射的で答えてから、晃は何かおかしいぞ、と気づいた。 具体的には、質問の中身が想像と全く違ったこと。参考写真と実物が別物な、インチキ通販商品みたいなコレジャナイ感がにゅるりと出てくる。 「えっ……と、な、なにが?」 相馬は言いようのない表情で困惑していた。 さもありなん。 「あ! い、いや、ごめんっ。俺、てっきり告白かと……じゃなくて!」 ついイタい妄想が撤甲弾の如く頭蓋骨を貫通し、飛び出た。慌てて口から飲み込んで、脳内に戻すも手遅れ。被弾した相馬はとっくに呆れ顔で。額に手を当てて、しょっぱい顔で、はぁーとしょっぱいため息をついて。 「えー……稼ぎのない人間には興味ありません! フリーター、自営業、派遣社員、正社員。その他なんらかの継続的収入源があったら考慮します。以上!」 そんなちょっとどこかで聞いたことのあるようなセリフで、さっくりばっさり切り捨てられた。 晃は即座に「すいませんでしたっ」と頭を下げる。女に謝るなら早いほうが良い、とは父の弁。 「あ、その、でもまあ……私もよく考えると最初に言っておくべきだったと思うし……」 口の中で喋っているみたいに相馬はそんな弁解を述べて、場を仕切り直すようにこほんと一つ咳払い。それから汗ばんだシャツの胸元を直してから机の上で手を組んだ。 「ところで角田君さ、本気でラノベ作家になろうって思ってる?」 そう言って相馬は狙撃手ライフルスコープみたいに、真っ直ぐな瞳を向けてきた。 「えっと……どういうことだ?」 「昨日、先生と話してるの聞いてたんだけどさ、角田君進学も就職もしないんだよね」 「ああ、そうだけど。それがどうかしたのか」 またその話か、とアフロの説教でうんざりしていた晃は投げやりに答える。 「わかってる? ライトノベル作家志望が、プロになれる確率がどれぐらいか」 「ん。……難しい、ってのは知ってる。けど確率って言われるとわからないな」 それだけ答えると、相馬は小さくうなずいた。 実際のところ公募の審査結果の発表を見れば投稿作品数が出ているが、晃はそんなもの見ない。必要なのは自分の作品が審査を通ったかどうかだけで、他の作品がいくつあったか、なんてどうでも良いと思っている。 投稿作品数はレーベルによってだいぶ違い、同じ人が何作か投稿するケースも多々ある。そもそも上手ければデビュー出来て、下手ならデビュー出来ないのだから、確率などさほど問題じゃない。と言うのが晃の見解だ。 「私、昨日帰ってから調べてみたんだけどね。デビュー出来る確率は、メジャーレーベルなら〇・五%以下。マイナーレーベルでだいたい一・五%前後。最大手に至ってはなんと約〇・二%」 相馬は、ぴ、と人差し指を立てて、そんな数字を次々と読み上げていく。 「つまり、作家としてデビューするためには最低で六十五倍。最高で五百倍の倍率を潜り抜けないと駄目ってこと。それがどれだけ大変なことか、角田君わかってる?」 たしなめるように言われて、ちょっとむっとした。 どうせそんなこともわかってないんでしょ! そう馬鹿にされた気がして晃は反撃に転じる。 「いやちょっと待った。それは単純に応募者数と受賞者で出した数字だろ? でも実際には、応募者全員の実力は拮抗しているわけじゃない。あてずっぽうになるけど、三分の一から半数近くが初心者か問題外のはずだから、普通に小説が書けるならだいたい倍以上の確率になる……違うか?」 「それはそうかもしれないけど、でもそれって気休めみたいなもんでしょ? 倍になったところで〇・四%から三%。依然として絶望的な数字には変わりないんじゃない?」 「それは俺の投稿作がほぼ毎回のように一次審査通過、時々二次審査通過しててもか? 通過はしなかったけど三次審査とかレーベルにもよるけど十人もいなかったはずだぞ。それでもお前は一律〇・四から三%で考える気なのか?」 「そ、それは……」 ぐっと相馬は言葉をジャムらせ、軽く顔を逸らした。悔しそうに唇を噛むのが見えた。 してやったり。 晃は悪い笑みを浮かべ、心の中でガッツポーズをするが。 「……あのさ、もしかして角田君、デビュー出来れば何とかなる、そう思ってない? デビューなんて最初の難関で、本当に大変なのはその後だってわかってないんじゃない?」 「そ、それは……」 逆襲された。 数秒前の相馬まんまに言葉をジャムらせて、今度は晃が顔を逸らして唇を噛む番だった。 相馬の言葉通り、晃はデビュー後のことなんか考えたことがない。公募に作品を投稿して、受賞して、それでデビュー出来れば万事解決、ぐらいに考えていた。 その心の内をあっさり見破ったのか、相馬はやっぱりね、とぼやいて諦念のこもった大きな溜息を一つ吐く。 それからまっすぐに晃を指差して、こう言った。 「じゃあ、デビュー出来れば上手く行く……まずその幻想をぶっ壊そっか?」 そう宣言した相馬は、まるで親の仇のように鋭い目つきで晃を睨んでいた。 「――――ライトノベル作家の平均的な年収はサラリーマンと同じぐらい」 夏の熱気で蒸された教室の中、相馬の声が響いた。 そんな中で汗で張り付いてくるシャツをうんざりと引っぺがしながら、晃は「そうなのか?」と返す。 「百万部、一千万部と売れてる人は勿論桁外れになるけどね。作家全体で見るとだいたい五百万から六百万円が平均的な金額みたい。でもね? これって、今の日本における三十代の平均年収とほぼ同額にしかならないの」 「しか、って。そう言うがお前五、六百万て大金だと思うぞ……?」 高校生の金銭感覚的にはそのはずだが、相馬にはどうやら違うご様子。 晃としては今現在の年間のお小遣いが十二万円というところだから、六百万はその五十倍。つまり、お小遣い五十年分。五十年はお小遣いに困らない計算。仮に多少贅沢をしたとしても十年分ぐらいにはなる。 すげーじゃん、儲かるなぁラノベ作家! と、晃は思うのだけれど。 「金額そのものじゃなくて、作家の仕事としての難易度やリスクを考慮すると少ないってこと。毎年どれだけの作家が消えていっているか、あなたも知らないわけじゃないでしょ?」 「そりゃまあ……」 確かに相馬の言う通りだった。晃の記憶の中だけでも、何人もそんな作家がいる。 アニメ化してそれなりに売れていたはずなのに、いつの間にか見かけなくなった人。すごく面白いわけではなかったけど、そこそこ面白かったから買っていたのに続きが出なかった人。一巻目から何故かメディアミックスされるぐらい奇妙にアピールされていたのに、二巻すら出ずに消えた作品。消えたと思ったら出てきて、そしてまた消えた手品のインクみたいな作者。 出てくるときは華々しくて、けれど消えるときはふっと姿を消してしまう。まるで全ては、夢か幻だったみたいに。 「普通の仕事ならそれなりの福利厚生が充実しているし、退職金だって出る。病気やトラブルがない限りは続けられる。なのに作家は福利厚生が無くって、突然仕事がなくなる可能性があって、その上退職金も出ないんだから平均値がサラリーマンと同じじゃ割に合わないでしょ?」 「ん。そりゃまあ、確かにそうだな」 腕組みをして知ったかぶりをしたが、福利厚生ってなんだろう、と晃は思う。退職金はわかる。仕事を辞めた時にもらえるお金、それぐらいは知っている。 「新人作家に至っては、もっと悲惨だからね。平均年収はなんと百五十万から三百万だってっ!」 相馬は興奮気味に机に手をついて、声を荒らげたが。 「いや、それでも百五十から三百も貰えるなら悪くないんじゃないか?」 「…………ん?」 「ん?」 相馬が小首を傾げて、きょとんとしていた。 理由はわからない。何故そんな顔をしているのかわからなくて、晃も一緒になってきょとん。そのまま二秒ばかり、二人できょとん。 最初に口を開いたのは、相馬の方だった。 「えっと角田君? 年収って、もらえる金額のことじゃないって知ってる? そこから税金とか引かれるって理解してる?」 「えっーと、ぜ、税金ですか……?」 急にそんなことを言われても、口ごもらざるえない。だって、高校生だもの。 消費税ぐらいは知っているつもりだが、本格的な税金の話となってくると、もうお手上げだ。どうしようもない。 とりあえず、スルースキル『愛想笑い』を浮かべておく。その瞬間、何故か相馬は顔を歪めたがきっと気のせい。そう、思いたい。 「よくわかった。知らないのがよーくわかった」 「あ、やっぱわかるか?」 「わかるよっ!」 若干キレ気味に怒鳴られた。 なにもそこまで怒らなくても。 「まあとにかく、税金諸々を差し引いた額が一般的に言う手取り額、つまり実際にもらえる金額ね。で、税金の他、年金、健康保険なんかを差し引くとさっき百五十万から三百万あった新人作家の年収は、だいたい百万から二百三十万ぐらいにまで落ち込むって思って欲しい」 相馬はそう説明するが、晃は思う。思っていたよりは減っていない、むしろまだ百万以上残ってるな、と。 「……なんだ、そんなもんか」 晃がそうつぶやくと、途端に相馬の顔色が変わる。 「は? ちょっと待って、あんたなに言ってんの」 「ん? なに言ってるって……相馬こそなにを言ってるんだ?」 「いや、だって少ないでしょ! ちょー少ないよ! こんなのやっていけないよ!」 机をばんばんと叩いて、ギャーギャー喚いて、相馬は身を乗り出してくる。一瞬その勢いに押されるも、晃も負けじと立ち上がり対抗する。 「は? いやいや! 多いだろ! 最低百万て! 俺の一年間の小遣いが手取り十二万(スマホ通信料含まず)だから約九倍だぞ?! 小遣い約九年分だぞっ?!」 「え、なんでお小遣い基準っ?! そうじゃなくて! 百万なんて年間の給料としてみたらダメダメでしょうが!」 「いや、百万を笑うものは百万に泣き寝入りするんだよ!」 「するかもだけど! 私が言いたいのはそういうことじゃなくて! 一般的な社会人の収入として――――」 不意に、相馬の口撃が止んだ。 それから相馬は腕組みをして、どこか小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。 「ははーん、なるほど、そう言うことね……。どうも話がかみ合わないと思ったら、そこがわかってなかったのね。そりゃ話が合わないわけだわ」 相馬はなにやら独りごちて、一人で納得する。晃はわけがわからずその様を眺めていると。 「あのね、角田君? 手取り百万ってね、少ないの」 まるで幼子に言い聞かせるように、ゆっくりとした口調で相馬が告げてきた。 「えっと……そう、なのか?」 「そうなの。近年の二十代の平均年収は約二百五十万、三十代が五百万! 今の日本の最低年収が二百万! 手取りなら百二十万! つまり! 手取り百万ってのは最っ低レベル! そもそも! 人ひとりがただ生きているだけで、食費、光熱費、水道代なんかの生活費等々で、年間約百五十万ぐらいはかかる!」 「百五じゅ……」 晃はもう、絶句するしかない。 「もちろん、住んでる場所や条件によってだいぶ変わるよ? でもだとしても手取り百万は問題外だし、二百三十万でも少ない」 そう言われてようやく晃は理解出来た。 百万から二百三十万だと、必要とされる金額に足りないかちょっと飛び出るぐらいしかない。だから駄目なのだと、相馬はそう言いたいらしい。 思う。 確かにこれはまずい、と。 するとそのことが顔に出ていたのか、相馬がどこか勝ち誇った様子で笑みを浮かべる。 「どう、わかった? ラノベ作家がどれぐらい儲からないのか」 「い、いやちょっと待て! お金が全てじゃないだろ? ラノベ作家ってのは夢のある職業なんだよ!」 「お金が全てじゃない、ね。……知ってる? 闇金ウ○ジマくんにこんな言葉があるんだけど」 そう言って相馬は、ふ、と不敵な笑顔を浮かべ、ゆっくりと確実に言葉を紡いでいく。 「――――金が全てじゃないけれど、全てのことに金がいる」 「っ?!」 そのフレーズを耳にした瞬間、晃はぐっと押し黙る。その言葉はサバイバルナイフよりも鋭く心の奥底に刺さり、晃が試みようとしていたあらゆる反論を可能性ごと屠る。 「すごい言葉だよね、これ。実際そうだけど、生きるのも死ぬのも、子供を育てるのも、何をするにもお金がいる。人を生かし、動かしているのはまずお金。そのことを角田君はもっと知るべきだと思う。例えばそう……もし私があなたの子供を妊娠したとする」 いきなりの、爆弾発言だった。 例え話のはずだが、心臓が飛び跳ねた。 例え話のはずだが、一瞬晃はパニックになる。 例え話のはずだが、背筋をぞっと冷たい物が駆け抜けて、手足が震えた。 なのに相馬は、平然としている。 思う。なんだこいつ、心臓から乳首毛でも生えているのか、と。 そんなことを考えている間にも、相馬は続ける。 「私産みたいの! だから責任とってね? ……なんて、いきなり言われたらどうする?」 どうするもなにも、どうしようもない。 そんな状況にいたる以前に、そういうことが起きうる行為を晃は致したことが無い。 だから何をどうすればいいのかとか、まるでわからない。 と言うことで晃は、何も考えずに思ったままを口に。 「えっと。とりあえず、ちゅうぜ――――」 「は?」 射殺さんばかりに睨みつけられて、晃は即座に口を閉じた。ついでに回れ右をして、今すぐこの場を離れたい衝動に駆られる。 うっそりと、相馬が責め立てるような低音を放つ。 「ないわー……」 「たっ、例えばの話なんだろ?! だったらどう答えても良いじゃないか!」 「まー、良いけどねー。別にねー。……あー、角田の彼女じゃなくて、良かったーっ!」 あからさまな軽蔑の眼差しで、相馬は投げやりにばんざいをした。 そのまま制止して五秒後「ま、それはさておき」と相馬は仕切り直す。 「もし仮に角田にそう事態が発生した場合、中絶するとなると十万円、出産するってなると、検診費、出産費、入院費諸々含めてだいたい五十万程度、人によっては百万円ぐらいかかる場合もあるの」 「えっ……そっ、そんなかかんの?」 「そんなかかんの」 こっくり、と相馬はうなずき。 「さらに子供一人を大学卒業まで育てたら、最低一千万から。私立の学校に入れたりとかするなら三千万」 さっき以上に大きな金額に、晃はもう言葉も出ない。愛想笑い、というよりは苦笑いを浮かべて、話を聞く置物に徹する。 「ちなみに角田は小中学校って私立? 公立?」 「え? 公立だけど……」 「じゃあ、あなたの教育費にはここまでだいたい五百万円。ちなみに私立の小中高だったらもっと。もちろん、食費その他はまた別。つまり、あなたがここまで来るのに最低でそれだけのお金がかかっているってこと。――――逆に言えば」 相馬はそこで言葉を切り、真っ直ぐに目を見つめてくる。聞け、と言う意思がこもった強い視線で。 「もしお金が無ければそもそも子供を産めないし、育てられない。もっと言えば、お金が無いってことは生きていけないってこと」 じわりじわりと、その言葉が晃の立場を狭めていく音が聞こえてくる。もうすでに自分はがけっぷちに立たされていて、相馬に追い立てられているかのような錯覚にとらわれる。 「わかる? お金が稼げない仕事を選ぶってことは、それだけ人生の選択肢が狭まるってこと。自分の首を自分で絞める行為なの」 相馬はさらに、崖から落ちろとばかりに言葉の槍をこちらに突きつけてくる。 「ついでに言うけど、これは恋愛についてもそう。収入の少ない男なんて、大半の女からしてみれば恋愛対象外。公募で言うと一次選考落ち。ううん、そもそも応募資格無し」 ついででそんなこと言って欲しくなかった。 けど晃は、たったそれだけの反論すら出来そうにない。ただじっと、相馬の言葉に耳を傾けていることしか出来ない。 「ラノベ作家……素晴らしい仕事だと思うよ? けど少なくとも、リスクヘッジ――――要するに危機回避のために進学か就職しておくことを私は勧めておく。万が一、作家になれなかった時のためにね。……進路、もうちょっと考えてみたら? 今後の人生を決める大切な選択なんだから」 泰然と、飄々と、涼しい顔でそう言う相馬を見ていると、もう何も言えない。 女はずるい! 口が回るから口喧嘩じゃ勝ち目が無い! とは父の弁。 思う。違いない。 完膚なきまでに叩きのめされて、晃はもうぐうの音も出ない。 「ってことで、私からの話は終了。……うーん、思ったより時間かかっちゃったなぁ」 スマホに目をやって、相馬が眉根を寄せる。 「あ。何か言いたいこと、ある?」 その問いかけに晃は無言で首を振る。これ以上言葉を交わしても、きっとより落ち込むだけだと考えて。 「そ。じゃあね。さよなら、角田」 そう言って、相馬は部屋を出て行く。 教室の中、晃は一人きりになる。 それでも晃は、しばらくの間椅子から立ち上がることすら出来なかった。 ◇ どうにか晃が再起動したころには、もう夕暮れに差し掛かかっていた。 どこか遠くから、ひぐらしの物悲しげな声が聞こえてくる。家路を急ぐ車が増えて、軽い渋滞が発生する。風が少しだけ涼しいものと入れ替わる。 晃の足取りは重かった。 鉛か何かがシューズのそこにでも入っているかのようで、一歩一歩にいつもの倍ぐらい時間がかかる。 まるでのどの奥に魚の骨でも刺さっているかのように苦しくなって、晃はあたりに誰もいないことを確かめてから、ガードレール越しに用水路に向けて叫んだ。 「相馬一美の守銭奴――――っ!」 王様の耳はロバの耳、ならぬ相馬一美は守銭奴を用水に向かって暴露。その声で人が集まってこないうちに猛ダッシュでその場を離れた。それでちょっと、すっとした。 ただそれでも、魚の骨はとれなくて。 「ちくしょう……」 結婚? 出産? 子育て? ついでに税金が手取りで最低年収? そんなこといきなり言われてもわかるはずがない。まだ高校生で、お小遣いをもらっていて、金銭感覚がどうのと言われたところで理解が追いつかない。そもそも、その時になったって考えられるかどうか怪しいことを、今考えられるわけがない。いや、それどころか、女の子と付き合えるかどうかすら危ないと言うのに。 そんな晃の苛立ちを逆なでするように、電柱にとまったアブラセミがけたたましい声で鳴き出した。き、とにらみ付けてやるもセミはお構いなしに鳴き続ける。早々に諦めて、晃は帰り道を急ぐ。 こんな時は家に帰ってクーラーで涼んで、心を無にして執筆するに限る。そうすればきっと、すっと気が晴れる。 そんなことを考えながら用水路沿いの道を抜けて、大通りへと出る。そしてその大通りを横切る横断歩道に差し掛かった時だった。 赤信号で、一台の車が止まっているのが見えた。 普段ならそんなもの、気にも留めない。極ありふれた日常の風景だ。でもこの時は何か見知ったものが見えた気がして、晃はその車を注視する。 相馬が、乗っていた。 しかも、若い男と一緒に。 え、と思う間もなく、信号は青に変わって、車は走り出す。見えなくなる。全てはあっという間の出来事だ。 晃は呆然と車の向かった方向を見つめる。 「なんなんだよ、あれ……」 思う。 一緒にいた男は誰なのか。 兄か従兄か、まさか父親か、あるいは……。 想像をめぐらせる晃の脳裏に、ふっと相馬の言った言葉が浮んできた。 『収入の少ない男なんて、大半の女からしてみれば恋愛対象外』 その言葉を思い出し、晃はぎりりと歯噛みする。見ず知らずの若い男が相馬の肩を抱いてほくそ笑んでいる画が頭に浮ぶ。頭の中が、溶けかけのカキ氷みたいにぐちゃぐちゃになった。 「くっそ――――っ!」 苛立ちを誤魔化すように、晃は自宅まで残りの距離を一気に駆け抜けた。 『二章:FXはギャンブルじゃないのか?』 「――――放課後、話がある」 お昼休み、晃は相馬にそう告げた。 場所は昨日同様空き教室に。と思ったら、カップルがいちゃいちゃしていたので仕方なく図書室に場所を変えた。 その図書室の一角、窓際の席に向かい合って座る。腰掛けるなり、相馬がにやにやしながら訊いてきた。 「んで、なんの話? あ、告白でもすんの?」 「しねぇよ!」 昨日の失態を思い出して、つい大きな声が出てしまった。慌てて口を塞いで、他の利用者に心の中で謝罪する。そのせいで、最初に聞きたかったことが切り出しにくくなった。 お前、昨日の男誰? そんなことを言ったら、それこそ告白みたいだ。それだけは避けたい。相馬なんて、タイプじゃないのだから。 落ち着け。 自分にそう言い聞かせて、晃は平静を保つ。 ここに呼んだ本題はそれじゃない。あくまで目的は昨日のお返しだ。ライトノベルは儲からない、なんて話で現実を教えてくれた相馬に、ちょっとした意趣返しをするために呼んだのだ。 だから、落ち着け。 小さく息を吸って、吐く。憎き仇敵に挑む意気込みで、晃は戦端を開いた。 「昨日お前、作家は儲からないって言ったよな」 「ん、言ったさ」 あっけらかんと、相馬は言ってのける。きっとこれから逆襲されるとは夢にも思っていないのだろう。そのまま晃は、昨日討ち死にした自分の弔い合戦を開始する。 「けど、お前の言うFXだって儲からないって話じゃないか!」 『FX』 外国為替証拠金取引のことだ。 高校生にとっては馴染みのない話だが、単純に言ってしまえば両替だ。円をドルに交換。あるいは、ドルを円に交換する。たったそれだけのことだ。けれどその相場は常に変動しているため、タイミングを見て交換すればその差益が得られると言う寸法だ。 例えば一ドルが百円のときに百円を一ドルに交換したとする。それから相場が動いて、仮に一ドルが百十円になったとする。するとその時点でドルを円に戻せば手元には百十円、つまり十円の儲けを出せる。 この時仮に一ドルではなく十ドル持っていたなら、儲けは十倍。つまり、百円だ。あるいは百ドル持っていたなら、儲けは千円になる。 「――――ってことで、仕組みとしちゃ簡単な理屈ってのはわかった。けどFXって、八割から九割の人が退場するんだってな?」 晃の問いかけに、相馬は答えない。 痛いところを突かれたからなのか、あるいは別のことを考えているのか、その指摘を相馬は冷静な面持ちで聞いていた。 「その残りの一、二割だってほとんど五年以上は勝ち続けられなくて、大半が退場する。それどころか資産を全て失って、借金を抱えるようなやつもいれば、数日前に始めて、いきなり数百万単位の借金を背負ったりとか。寝て起きたら資産が無くなってたり、数億稼いでからそれ以上に損失を出して借金を背負ったやつとか。ちょっと調べただけでも、ぞっとする話ばっかりだ。こんなギャンブルがお前の言うように『稼げる』なんて俺には到底思えないね」 吐き捨てるように言うと、相馬はきょとんとした表情で、目を見開いていた。どうやら反論も出来ないらしい。 決まった! 大勝利! そう思っていると、相馬は「おー」なんて言いながら、のん気にぱちぱち拍手をはじめた。 何かがおかしかった。思っていたよりもずっと余裕に見えた。 いや、それどころか。 「へー、すごーい。なに? あれから調べたんだ?」 なんて、言い出す始末。 どこにも全くダメージを感じない。 事前に立てた作戦では、ここで相馬の苦い顔が見られたはずなのに。 「いやー、さすが作家志望だね。まさか昨日の今日でそこまで調べてくるなんて思わなかったよ」 昨日は滅多切りとばかりに切り刻まれたのに、こうしきりに褒めそやされると、これはこれで調子が狂う。 そう、思っていると、 「でも――――FXは儲かるよ。ラノベ作家よりも確実に」 にっと、相馬は不敵な笑みでそう断言した。 「確実に、とは大きく出たな、おい……」 しかも『ラノベ作家より』とわざわざ強調して。 晃は思う。と言うか、確信する。 こいつ、絶対性格悪いぞ、と。 「はい。それじゃあまず、さっきの話を捕捉しよっか」 言いながら、相馬は胸の前でぱんと手を合わせる。 「えっと、最初に角田は九割が脱落、なんて言ってたよね? でも、その九割って、大半が予備知識も危機意識もまともに持ってなくて、『バルサラの破産確率』も知らない人達だからね」 「バル……え?」 耳慣れない言葉に聞き返すと、相馬は軽く腕組みをして人差し指を立てた。 「バルサラの破産確率。ナウザー・バルサラって数学者が考案した、投資における破産確率の算出方法ね。一回投資資金率、勝率、損益比を設定して、その手法で無限回取引を行うとどれぐらいの確率で破産するかを計算出来るの。で、それを一覧表にしたものが『バルサラの破産確率表』って呼ばれてて、わかってる人はその確率表に基づいてトレード方法を調整する。損益比的にどうか、資産に対して一回の許容損失はどこまでか、現行のトレード手法における勝率はこのままで大丈夫か? とかね。それらを考慮して、破産確率一%以下……ほぼ〇%になるのが理想的な投資手法で、一%以上は危険域って言われてる」 「一%以上でか?」 「当然。だってその投資方法を実践する人が百人いたら一人以上は破産するってことだからね。確率的にはちょっと高すぎるでしょ?」 なるほどそう言うことか、と晃は理解する。一回でも破産したら終了と考えたら、確かにその確率でも危ない。仮にそれで全資産を失うようなことになれば、破産がそのまま死に直結してくるのだから一%は確かに安心出来る確率ではない。 「この破産確率を考慮しない取引はほぼ全部破産する、って言ったら言い過ぎだと思うけど、少なくとも破産確率を考慮している人に比べたら確実に破産しやすい。そしてこんな初歩すら知らずに取引してる人が大半だから九割が退場するってわけね。作家志望で言うと、昨日今日小説書き始めた人がいきなり公募に投稿するようなもの、って言ったら、きっとどれぐらいのことか理解出来るんじゃない?」 「なるほど……」 確かにその人達がよほどの天才で無い限り、九割九部九厘一次落ちになるだろう。 するとうなずく晃に気を良くしたのか、相馬の説明が一気に加速する。 「ま、今言ったのは確率的な破産回避手段だけど、他にもあるよ? 例えば『指標発表時は取引しない』なんかは常識なんだけど、『フラッシュクラッシュ』、『メンテガラ』、『テロ活動』、『要人発言』。相場を乱高下させるものは色々あるけど、それがいつ起きるかは誰にもわからないから理想的な回避方法は、何も保有していない状態。つまり、『ノーポジション』と呼ばれる状態が最高の状態なわけなのね。でも、投資する以上常に『ノーポジション』であるわけにはいかない。だからそう言う意味では買ってすぐ売る『スキャルピング』がもっとも危機回避能力が高いって言える。ただ、危機回避能力が高いのは『スキャルピング』だけど、同時に技術習得が最も難しいのも『スキャルピング』ってのがジレンマなのね。しかもこれ、使ってる口座によってはシステム的負担が大きいとかで凍結されるってリスクがあるから余計に使い難いの。逆に技術的に一番簡単なのは数日から数週間保有する『スイングトレード』なんだけど、もちろんその保有している期間は危機回避出来ない状態。だから私個人としては、バランスとリスクヘッジと利益率で言えば『デイトレード』がベストだと――――」 フラッシュクラッシュ、までは聞いていた。 けどそれ以降は耳慣れない言葉がびゅんびゅん乱れ飛んで、がんがん頭痛がして、ちんぷんかんぷんでついていけなかった。 それでも、滔々と語る相馬の様子はどこまでも淀みがなく、ためらいがなく、今話を作っていると言う感じは微塵も感じられない。 聞く、ではなく、見ていて思う。この話において勝ち目はない、と。 そんなわけで晃は、この点に関しては早々に白旗をあげることに決めた。 「わ、わかった。とりあえず、破産する可能性はゼロに近い、ってことにする。……でもだからって、儲かるとは限らないよな?」 そう指摘すると相馬は唇に指を添えて、「うん、いい質問だね。角田君」と楽しげに微笑む。 「角田は調べてて、おかしいと思わなかった? 上がるか下がるかの二分の一の相場なのに、退場する人が九割ってとこ」 「ん? いや、そう言われても俺は実際にやってみたわけじゃないから……。でも言われてみればそうだな。上に動くか下に動くかを予想するだけなら、勝ってる人が五割いても良いはずだな……」 なのに、実際は九割。 そこにどういうからくりがあるのか、晃には皆目見当もつかない。しばらく沈思黙考してはみたものの、相馬が時間切れ、とばかりに「おほん」とこれ見よがしな咳払い。 「本来なら五分の勝負のはずが、九割負けてしまう。その主な理由が『プロスペクト理論』ってやつなのね」 また聞きなれない言葉が出てきたな、と思ったが、これは聞いたことがあった。確か、心理学漫画か何かだったような。そんな気がする。 「プロスペクト理論……えっと確か、人間は利益を得る喜びよりも、損失を出すことの方がより強い心理的ダメージを負う、だったか?」 「ん、まあ大まかにはそんなとこね」 こくり、と相馬はうなずいて。 「相場の基本は損小利大。つまり損失は小さく、利益は大きく伸ばすものなんだけどね。この『プロスペクト理論』によって損失を出すことを嫌うせいで、大半の人は利益が出たらすぐ確定、損失が出そうな時は相場が逆行して利益に転じるまで待っちゃうことが多いのね。さらに相場の九割は逆行するから、それに味をしめて余計に逆行を待つ人が出てくる。でも期待に反してさらに損失が広がったらどうなると思う? 現実に一回の利益は一とか二で確定する人が、利益に反転するのを待ち続けて損失を十にも二十、時には百や二百にも増やしてしまったりする。そんな馬鹿なと思うかもしれないけど、実際にそんな人が多いからこそ本来なら五割近いはずの結果が偏るの。だからもし実際に勝とうと思うなら、プロスペクト理論を理解し、それを逆手に取って退場する人達の九割の逆を行くこと。そうすれば……」 「勝てる、ってことか?」 相馬はその問いかけには答えず、軽く眉を持ち上げて微笑むにとどめた。 「へへー、じゃあここでちょっと角田に問題です。一日に資金の一%ずつ利益をあげていくと、一年後に資金はどうなるでしょう?」 「一日一%? おいおい、そんなの簡単だろ。三百六十五%増加じゃ……」 言いかけて、晃は気づいた。 これはそんなに単純な計算ではない、と。 「いや、違うか。初日は一%増で済むけど、二日目からは一%増の一%増……増加分がどんどん上乗せされていくから三百六十五日目は……一%増の三百六十五乗……か?」 こんなもの、暗算出来るわけが無い。 「ん。気づいただけ偉いよ。この場合の計算式は、『一・〇一の(三百六十五引く一)乗』で、一・〇一の三百六十四乗。で、答えは約三十七倍になる」 「さんっ!?」 驚いた。最初の資金が百万円だったとしたら、一年後には三千七百万円になる計算だ。 「ま、実際には土日は市場が開いていないから年間の稼働日は二百五十日ぐらいで、十二倍ってとこなんだけどね」 相馬は飄々と言ってのけるが、それでも百万は千二百万になるということだ。 「い、いや、でも毎日増えたらの話だよな?」 「そりゃもちろん。どこかで必ず損失は出るからそう上手くはいかないよ。……でも、もし毎日の結果が『利益三%』か『損失一%』でそれぞれの確率五十%だったら?」 どうなるのか。 言われて、晃はちょっと考えてみる。 仮に勝率が五割だった場合、二日で二%利益が出る計算になる。つまり……。 「あれ? 達成出来る?」 少なくとも、不可能とは言えなかった。 もちろんこれは仮の計算だから、五割が成立してこそ、利益三%、損失一%になってこそ。極めて限定的な条件においてのみ成立する計算だ。だがそうだとしても、出来なくはないんじゃないか? と晃は思い始める。 気づけば、相馬がニヤニヤと顔を覗き込んでいた。 「しかも、勝ち続けた場合は資産十二倍に対して、負け続けた場合は資産十二分の一。つまり百万から始めた場合、最大利益が千百万なのに対して、最大損失は九十二万。実際に五割勝てる状況だったら、まず得しかしない。これぞまさしくザ・損小利大、ってわけね」 相馬は腕組みし、誇らしげにステルスな胸を張る。 「さーて、角田君。まだ何か言いたいことはあるかね?」 「……ない」 知識量が、理論武装のレベルが違いすぎた。付け焼刃の知識じゃ、まるで歯が立たない。大人と子供、戦車と水鉄砲、月とすっぽん、バラにバラ肉。 「じゃあ論破! いぇす!」 相馬は、両手を挙げて勝利宣言。晃はもうぐうの音も出ない。 なのに、相馬はさらにトドメを刺しに来る。 「あとさー。小説の場合はプロが教えて貰えたからって、みんながプロになれるわけじゃないよね? そしてプロになれても、売れるわけじゃない。才能とか、運とか。そんなものがどうしたって必要になってくる。でも、FXの場合はロジックが小説ほど曖昧じゃないから、上手い人に指導を受ければ少なくとも半数以上は同じぐらいのレベルになれるのね。……ま、あくまで私個人の見解だけど。このあたり、既存の作品をそのまま持ってこれないラノベに対してFXはすでにある方法をそのまま真似することも出来る、ってのも強みね」 やめろ。 もうわかったからやめろ。晃はそう言いたくて、たまらない。なのに血も涙もない鬼の相馬ときたら、まだ追撃の手を緩めようとしない。 「ああ、そうそう。それとね。角田さっき、FXはギャンブルだ、なんて言ってたけどさぁ」 なんだ、まだなにかあるのか。憂鬱な気持ちで顔をあげると、どきりとするぐらいに相馬の顔がすぐそばにあって。 「――――作家を目指すことはギャンブルじゃない、って証明出来んの?」 その言葉に、心臓がどくんと跳ねた。 真っ直ぐに射抜くような双眸で見つめたまま、相馬はなにも言わない。ただ、じっと見つめてくるだけだ。 晃は何も言い返せない。 言い返しようが無い。 悔しかった。作家志望なのに、ただの一言も反論出来ない自分が情けなかった。ここまで小説を書き続けてきた自分は一体なんだったのかと、自分自身を責めた。 そうして気づいた時には、目から熱いものが流れ落ちていた。 はっとして、相馬に気づかれないように顔を逸らす。 だがしかし、時すでに遅し。 「えっ? ちょっ……な、泣いてる?」 慌てた口ぶりで相馬が訊いてきた。 けれども、ああ、泣いてるさ! などと答えられるはずも無い。ただ嗚咽をあげてしまわないように、涙をこらえる。けどこらえたら、こらえた分だけ溢れてきた。もうとまらない。 「おっ、男でしょ? えっ、えっ、な、なんで泣くの!」 「泣いたら悪いのかよ!」 思わず叫んだ。他の利用者が一斉に注目した。晃は慌てて口を抑えて、ついで目元も手で覆う。 「えーっと……ハンカチ、使う?」 そんな声と共に差し出されたのは、薄い青色のハンカチで。それを見ていると、なんだか余計に惨めになった。 「いるかよ、ばーかっ!」 思わず悪態をついて、晃は図書室から逃げ出した。 『三章:逃げないことって、本当に大切ですか?』 「はぁ……」 早々に昼食を終えた晃は、ため息を一つ吐いて机の中から原稿を取り出した。 閉じ紐で括られた原稿の一ページ目には『異世界召喚自衛隊ファンタジー(仮)』と印刷されている。それは公募用に書いていた長編作品をプリントアウトしたもので、もうじき締め切りが近いということで見直しのために学校に持ってきていた。 晃は赤ペンを手にして原稿に目を通し、気になったところや誤字脱字にチェックを入れていく。 その最中、何気なく最前列に位置する相馬の席に目を向けた。相馬はまだ昼食をとっているのか、背中を向けていて顔は見えない。けれどそんなこと、どうでも良いだろと原稿に向き直り、再度チェックを始める。 赤ペンで丸をつける。あるいは、ここもうちょっとボリュームアップ、と書く。ふと相馬の席に目をやる。背中を見る。夏服の背中に、ほんのかすかなにブラ紐が浮んでいるのを眺める。 原稿に目を戻す。 バランスが悪い、と書こうとして書き損じた。ブラ、と書かれた文字を赤ペンでぐりぐり消す。相馬を見る。目が合った。相馬が振り返って、こちらを見ていた。慌てて目を逸らす。 晃は相馬と昨日から何も言葉を交わしていない。朝一、教室に入るなり鉢合わせた時も。クラス委員の仕事か何かでプリントを手渡された時も、一言も会話しなかった。 そしたら高原が「な、なぁ、相馬となにかあったのか? あったんだろ?」と、いつになく遠慮がちに聞いて来たが、適当に返事をしておいた。実際になんと言ったかはよく覚えていない。 そもそも、なにも言えるわけが無かった。 男が高校生にもなって泣いたのだ。しかも、女子にちょっと言い負かされたぐらいで。 こんな話、ちょっと大っぴらには出来ないし、したくない。男としての沽券に関わる。元々晃にそんなものあったかどうかはともかくとして。 実のところ、晃が陰キャになった理由はそれだった。 子供の頃からどうにも涙腺が弱いのか、よく泣いたし泣かされた。いわゆる『泣き虫』というやつで、実際にあだ名としてつけられたことだってある。流石にこの歳になってからはそう泣くようなことはなかったが、だからといって生来の性質が治ったというわけではなかったらしい。 昨日の醜態を思い出して、晃は暗澹とした気持ちで原稿をチェックする。今はそんなことを考えている場合じゃない。この公募のために全力を尽くすのだ、とちょっとしけった心の薪に火をつけようとするも、思うようにはいかない。 どうやら今日は、仕事が進みそうに無い。 漫然とそんなことを考えていると、つかつかと誰かが近づいてくる足音が聞こえてきた。そしてその足音がふっとすぐそばで止まって、晃は顔をあげた。 相馬だった。 相馬はなにやらかしこまった様子で、一瞬瞑目し。 「昨日はごめんなさい! その……言い過ぎました」 反省してます! と立位体前屈みたいに深々と頭を下げてきた。 あまりにいきなりのことで面食らって、晃は戸惑ってしまう。 「いや、その……別に謝らなくても。お前は別に間違ったことを言ったわけじゃないんだし」 「そうかもしれないけど、そうじゃないの! なんて言うの? こう……けじめ? そう、けじめの問題なの! わかるでしょこの気持ち」 なにやら男前な理論を持ち出して来て、相馬が顔を近づけてくる。その様子に教室内のクラスメイトたちが「おお!」といきり立つ。しかし当の本人は全く気づいていない。 「わ、わかった! わかったからとりあえず、落ち着け? えっと……椅子、座れ?」 高原の椅子を献上品として差し出すと、まだ興奮冷めあらぬ相馬は「そうね。こう言うことは腰を据えて話をすべきね。……で、何から話す?」とか何とか。 なんだこいつ、めんどくさい。 どうしたものかと晃は考えあぐねる。こんな時、面倒な女への対処の仕方、なんて授業を学校が教えてくれたら良いのにと思う。きっと陽キャに話しかけられた時の対処法、その次ぐらいに重要なんじゃないかと思うが。 「あ。それ……」 相馬が何かを見つけたように、晃の手元を指差した。その先にあるのは、ついさっきまで見直しをしていた原稿で。 「角田が書いた小説……だよね?」 「まあ、そうだけど」 人にそれを見られるのはなんだか気恥かしくて、晃は原稿を無造作に机に突っ込んだ。 「ごめんね」 相馬が、また謝った。 それも、さっきとは違う様子で。 「そうだよね。角田、頑張ってるんだもんね」 相馬はうな垂れて、急に小さくなったみたいに弱々しく見えた。 「……俺が頑張ってるかどうかなんて、どうしてわかるんだよ」 適当なことを言うな。そんな意思を込めて抗議すると、相馬はすっと指差す。 指先は、晃の机に向いていた。 「印刷した原稿、見直してたんでしょ? ……私知ってるよ。見直しのとき、印刷する人としない人がいるって」 「は?」 だから頑張ってると言いたいのか、ちょっと意味がわからなかった。 「そんなの、俺はただその方が良い気がするってだけだ。見直しなんて別にわざわざこんな印刷なんてしなくても良くて……」 苛立ちを誤魔化すように言葉を並べる。 けれどそれでも、相馬は首を横に振って。 「手間が掛かっても無駄だと思っても、これが良いって思ってやってるなら、それは頑張ってるってことだよ。真剣だってことだよ。そしてきっと、真剣に頑張ってること馬鹿にされたら、誰だって泣きたくなるよ」 いつものまっすぐな眼差しで、相馬は見つめてくる。まさかそんなことを言われるとは思ってもみなくて、晃は一瞬呆けてしまう。 「だから、ごめん」 相馬は目元を緩めて、また頭を下げた。 その言葉に。晃は吸い込まれそうになる。ばつが悪くなって、顔を逸らした。 なんなんだ、と思う。 なんなんだこいつは、と顔が熱くなっている自分に気づく。 もう顔どころか全身を逸らしたくなって、晃は身悶えしていると。 「あのさ。それ、ちょっと見ても良い?」 机を指差して、相馬が首をかしげた。 「……ん」 どうしてその申し出を断らなかったのか。気がつくと原稿を差し出していて、それを相馬が手に取っていた。 相馬は原稿を食い入るように見つめる。 正直、晃にとって目の前で読まれるのは初めてのこと。親にだって見せたことはない。どんな感想が飛んでくるのかと、気が気じゃない。内容は異世界に召喚された自衛官達が、魔法アリのファンタジー世界で葛藤する話で。しかもちょいエロありの代物だ。 読むなよ? 二十枚目前後は読むなよ? 絶対読むなよ? 晃は今すぐそう言いたいところだが、言ってしまえば前フリにしか聞こえなくなる。言いたいけど、言えない。なんて、どこのラブソングだよと自分自身にツッコミを入れる。 だけどいくら経っても相馬は何も言わない。相馬は軽蔑のまなざしも向けてこない。どころか目を見開いて、真剣に読んでいる。のめりこんでいる。没入している。 その手が止まったのは、どれぐらいたってからだったのか。 「うん、やっぱりこれは頑張ってる人の作品だね」 ぽつりと、そんなことを口にして、相馬は原稿を撫でた。その仕草に、晃は一瞬どきっとした。 相馬はページを元に戻すと、机の上でトントンと紙をそろえてから大事なものを扱うように、丁寧に返却してきた。 「はい、読ませてくれてありがとう」 その所作に見入ってしまって、晃も思わず「どうも」と頭を下げる。 「デビュー、出来るといいね」 にっこりと、相馬はそんなことを言う。 思う。 なんだよそれ、と。 「なぁ、相馬」 「ん?」 「俺、就職して兼業作家目指すことにした」 晃は自分でもびっくりするぐらいあっさりと、その言葉を告げた。 この二日間、ずっと迷っていた言葉だった。 初志貫徹で、作家一本に絞るのが正しいのか。それとも相馬の言うように、考え直すのが正しいのか。作家になるというのはギャンブルじゃないのか、そうでないのか。ずっと、ずっと迷っていた。 確かに、相馬の言葉は正しいように思えた。それでも自分で選んだ道で、他のものに目移りせず、一つの物事に集中するのが正しさだと思って生きてきた身からすれば、その言葉は安易には受け入れられなかった。本当は、相馬の言っていることのほうが正しい、と感じていても。 だからその言葉がすっと口から出てきたのは、晃自身不思議だった。 「そっか……うん、その方が良いよ、きっと」 相馬はにっと笑んで、そして親指を立てた。言葉を返すのがなんだか照れくさくて、晃も親指を立てる。実際やってみると、それはそれで照れくさかった。 「よし。それじゃあ、頑張ってる角田に良いことを教えてあげよっかな」 相馬はちょっと嬉しそうな顔で、いきなりそんなことを言い出した。 「何だよ、良いことって」 また何か語りだす気だな、と思いつつも、晃はもう慣れた。机に頬杖をついて、すでに聞く体勢に入る。 すると相馬はいつものように、人差し指をぴっと立て。 「じゃあ今日は――――『サンクコスト効果』について」 高く柔らかな声が、硬く聞きなれない言葉を紡ぐ。 「サンクコストってのは埋没費、つまり埋もれた費用のことね。人ってね、物事に対してすでにお金や時間がかかっていればいるほどなかなか止められないの。趣味だとか、経営だとか、ゲームだとか。仮に先行きが見えていて、より状況が悪くなるってわかっていても続けてしまうのね。……例えば角田が、UFOキャッチャーをしてたとする。でも景品がなかなか取れなくて、そろそろ諦めたほうが良さそうだって思ってる。でもそういう時って、それまでに使ったお金が多ければ多いほど、止めにくくならない?」 「んーまあ、そうだな。使った金額が百円や二百円ならともかく、千円近くつぎ込んだらやめられないだろうな」 月々の小遣いが一万だけに、と晃は胸中で加えた。 「つまりそれが、サンクコスト効果ね。このあたりはプロスペクト理論とも絡んで、すでに支払ってしまった損失を何とか取り返そうって気持ちもあるんだと思う。でもそれは大半の場合、余計に損失を広げることになる。だからどんなに損失が出てたとしても、状況が良くない場合は即撤退が大原則。例えば大昔のアニメの名台詞で、『逃げちゃ駄目だ』なんてのがあるけど、投資の世界であれをやった日には破産待ったなし。株の格言だと『銘柄に惚れるな』って言葉があるんだけど、これは特定の銘柄にこだわり過ぎていると、引き際が見えなくなったり、他の良い銘柄を見落とすこともあるって忠告なのね」 そこまで滔々と語ると、相馬がこちらの顔を覗き込んで。 「だからね、角田。もし何年書いても作家になれそうにない、って感じたなら止めるのも選択の一つだから。もし運良く作家になれたとしても、続けるのは無理だと思ったら辞めても良い。それは別に恥かしいことでもなんでもない。確かに結果が出るまで続ける、ってのは大事なことだよ。でも、時にその選択は破滅への道になりうる……そのことを覚えておいて欲しいの」 軽めの口調とは裏腹に、その言葉はずしりと重かった。のしかかられた肩が、みしみしと軋みそうなぐらいに。 「わかったよ、覚えとく。ようするに、ヤバそうなら迷わず逃げろってことだよな?」 相馬の言葉を真正面から受け止めるのが怖くなって、晃は軽い口調で答えると相馬もそれに合わせてか軽く首肯した。 「ん、まあそゆこと。逃げるが勝ち、って言うでしょ? まあ、私的には勝ちは勝ちでも、クオリティの価値だけど」 ふふん、と相馬は何故か誇らしげに腕組みをして。 「だからもし角田が不良に教われてたら、私は真っ先に逃げる自信がありますよ」 「いや、そこはちょっとぐらい助けてくれませんかね? 俺喧嘩とかしたことないんで」 「そこは大丈夫、逃げたあとでちゃんと警察呼んであげるから」 「へーへー、そりゃどうも」 そんな話をして晃達は、二人で笑った。 ◇ 五時間目の授業が終わってから。 トイレで用事を済ませた晃は、廊下を歩く相馬を見つけた。どこに行くのか、相馬は教室とは反対方向へと向かっている。 そう言えばさっき『各クラス委員は職員室に集まってください』なんて放送があったな、と思う。 なんとなくそのまま相馬のことを目で追う。姿が見えなくなってからようやく我に返り、自分がトイレの入り口を塞いでいることに気づく。ついでに、怪訝な顔で睨んでいる男子にも。 そそくさとその場を離れて、道を開ける。男子生徒はなにやら言いたそうだったが、それどころではなかったのかさっさとトイレに入っていった。 「なにやってんだ、俺は……」 晃は自嘲気味に笑った。 もしかすると、相馬とは仲良くなれるかもしれない。そう思っている自分がいた。 まあ、タイプじゃないんだけど。 全然タイプじゃないんだけど。 それよりも自分の作品を褒めてもらえたのが、何より嬉しかった。ネット越しじゃない現実の、目の前の人間に読まれるのも褒められたのも初めてだった。 きっと気のせいだろうけど、今ならなんだって出来る。そんな気がした。まあ、そんなのはそれこそ気のせいなんだろうけど。 かぶりを振って、晃は教室に向かう。 到着した教室は、やけに騒がしかった。 誰かが悪ふざけをしているんだろう。晃は一瞬、そう思う。 けれど聞こえてきた声に、戦慄する。誰かが、あるいは複数が何かを読み上げている。 それも、聞き覚えのある文章を。 まさか。 嘘だ。 気のせいだと言ってくれ。 引きつりそうになる頬を誤魔化しながら、晃は恐る恐る教室に一歩踏み入れた。 「お。作家先生のご登場だ!」 途端に、そんな声が響き渡った。 声の主は高原で。その周囲にはクラスの男子が数人いて。けれどそんなことよりも重要なのは、高原があの原稿を手にしていたことで。 その光景が晃の目に飛び込んできた瞬間、ぐらり、地面が揺れた。 「血にまみれた刃は、赤みをたい……びた?」 「ちげーよ! 帯(お)びた、だろ。これぐらい読めるだろ!」 そんなじゃれ合いをしながら、高原達は珍しいオモチャでも見つけたように、さも楽しげに原稿の中身を読み上げていく。 「血にまみれた刃は、赤みを帯びた怪しげな輝きを放っていた。その光景から少女は目を離すことが出来ず、ただじっと見つめていた……」 自分が書いた小説を公衆の面前で朗読される。時にそれで人が殺せる、なんて話を聞いた時、晃はまさかと思ったが、今ならその気持ちがわかる。痛いほどによくわかる。 ほんの一文読み上げられただけで、全身がかっと熱くなって、今すぐにのけぞってブリッジして、奇声を発してそのままここから逃げ出したい衝動に駆られた。 ――――落ち着け! 羞恥で身を焼く公開処刑の真っ最中、晃は必死に自制する。冷静を装う。頭に血が上らないように、歯を噛み締めて、己を律する。 こういう時、慌てるのが一番いけない。 この手の輩は多くの場合、相手が慌てれば慌てるほどに頭に乗ってくる。こちらがノってこないと、それはそれで不機嫌になることもあるが、大抵は飽きて沈静化するはず。 今までの人間観察から、晃はそう判断。 小さく息を吐いて、呆れ顔を浮かべて着席した。基本相手にしないこと。どうせ追いかけたところで、高原グループのパス回しが待っているだけだ。 晃は深く息を吸って、吐いて、さらに思考する。 わかってる。 これは闘うべきことじゃない。 相手をしなければそのうち飽きる。そうでなくても、六時間目の授業が始まるまでの辛抱だ。どうせ元のデータはネット上に保存されていて。原稿が万一返ってこなくても、多少進行が遅れる程度のことだ。相馬の言葉を借りるなら、リスクヘッジというやつだ。 ここでもし喧嘩にでもなったら、手を怪我でもしたらそれこそコトだ。だからここは『サンクコスト効果』に基づいて、逃げるのが正解。だから相手をしない。 焦りと羞恥を深く飲み込んで、晃は試練に耐え。 「あ、エロいシーンみっけ!」 今、最大の試練が、訪れようとしていた。 その声に、ぶわっと全身の毛が逆立つような感覚と、汗腺が開くのがわかった。もう、今この瞬間に窓から身を乗り出して、そのまま大空に羽ばたきたい衝動に駆られる。 「透けるように白い肌を晒して、彼女はそこに立っていた。豊かな乳房も腰周りの肉付きも、股間の茂みでさえもそのままに。……って、おいおいおい! 角田先生! 股間の茂みってなんですかーっ?!」 「……おい、言うほどエロいか、それ?」 「そうだそうだ! 角田、次はもっとエロいやつ、官能小説とか書けよ!」 男子からは好奇の視線が、女子からは侮蔑のこもった視線が飛んでくる、そんな気がした。 気がしただけだ。晃は実際には見てなんていない。特に女子と目なんか合ったらきっと嫌悪の視線で射殺されて、変態呼ばわりされて、一生のトラウマになるから。だから次の授業の予習をするフリをして、何食わぬ顔で教科書を広げて、視線は下に。自分の机の周りに絶対防衛ラインを築き上げて、自尊心を自衛する。 それでもなお羞恥が頂点に達して、今にも憤死しそうになる。うつむいて歯を噛み締めるにとどまらず、まぶたを噛み締めるようにぎゅっと閉じる。なんならそのまま全身を球体にまとめてしまって、転がりだしたい気分だ。 思う。 死ぬ。 これは本当に死ねる。 それだけの破壊力が、実際にあった。 慈悲を請うようにスマホで時間を確かめると、授業開始まであと五分。おそらく教師が現れるまでせいぜい三、四分といったところ。 それで、この地獄は終わりを迎えるはずだ。それまで、耐えろ。 最後の希望にすがり、晃は今まで以上に決心を固めた。 その時、だった。 「ちょっと! なにしてるの!」 そんな怒声が、教室に広がっていた喧騒を切り裂く。相馬の声だった。 その声に恐る恐る顔をあげて見ると、相馬がアンケート用紙か何かの束を手に、教室の入り口に立っていた。 相馬は不機嫌そうな態度で、まっすぐに高原の元へと向かっていく。 「な、なんだよ相馬……」 相馬ににらみつけられて、高原は弱々しく二歩後ずさり。高原の取り巻き立ちにいたっては、早々に避難していた。 孤立した高原の元にたどり着いた相馬は、怒りを飲み込むように、すぅっと息を吸ってから通告する。 「高原、その原稿を今すぐ角田に返しなさい!」 問答無用、逆らえば死ぞ、とばかりに相馬は高原を睨みやる。 けれど高原もこれに負けじと反論。 「い、いや、これはそう言うんじゃなくてさ。その、ちょっと借りただけなんだって、なぁ? 角田」 勿論、その原稿は貸したものじゃない。机の中にしまっておいたのを、高原が勝手に持ち出したものだ。 にもかかわらず、高原はこちらを軽く睨み目配せ。おそらくは、話を合わせろと言いたい様子。 「そんなわけないでしょ!」 晃が答えに迷うより早く、相馬が叫んだ。一瞬のち、教室内がしんと静まりかえる。 その瞬間、相馬は高原に掴みかかった。その手から、原稿を取り戻さんとして。 「なっ、なんだよ! やめろよ!」 「そっちこそ、今すぐ離しなさい!」 ここまで来ると流石に黙っていられない。晃も席を立って、乱闘に加わる。 と言うか、仲裁に入る。 「お、落ち着けよ相馬! 俺は別にかまわないから……」 晃は相馬を制止し、なだめすかそうとするが、ぎらついた目で睨まれた。 「かまわないって何っ?! 角田は悔しくないの?! こんなの黙って見てられるのっ?!」 興奮しきった相馬は止まらない。それどころか、一層激昂して叫んだ。 「――――あんたが苦労して書き上げた、夢の詰まった原稿でしょうが!」 恥かしげもなく、怒りをあらわにして教室に響き渡るような声で叫んだ。びりびりと鼓膜が震えて、教室全体が揺れた気さえした。 バカじゃないか、と晃は思う。 ただの、原稿だぞ。データは家にあるんだぞ。なのになんで、書いた本人より感情移入してるのかと。 なのに気がつくと、晃の目からは涙が溢れて。 「は? え?! ちょ……角田なんで、また泣いてんの!」 「な、泣いてねぇし!」 「泣いてるから! どこからどうみても、三百六十度泣いてるから!」 「馬鹿言え、三百六十度も泣いてねぇよ! スプリンクラーじゃあるまいし。せいぜい百八十度だ!」 「もののの例えよ! 背中で泣く、って言葉知らないのっ?!」 そんな馬鹿なやりとりをしながら涙を拭い、晃は相馬側につく。 手を添えた。原稿を掴む。自分の大切なものを、取り返すために。 少し相馬と手が触れるが致し方ない。相馬は気にしていないし、第一眼中にないと言われた相手を意識するのもバカらしい、と晃も気にしないことに。 けれど高原は、それが気に入らなかったようで。 「お、お前らアレか? つきあってんのか?! そうなのかっ?! そうなんだろ、こんちくしょー!」 「はぁ?! 何をわけのわからないこと言ってんのバカ原! つべこべ言わずにその手を離しなさい!」 「知ってんだぞ! お前ら最近こそこそと二人でいるの! おれ知ってんだからな!」 高原は要領を得ない内容を口走り、取り乱しているように見えた。けれど相馬はそれ以上に興奮しているようで、まるで高原の言い分に耳を傾けない。 「だから! それが今、何の関係があるっていうのっ!」 渦中でそのやりとりを見ていて、晃は若干、ことのあらましが見えてきたような気がした。 これはつまり、もしかするとあるいはそういうことなのか? と。 そう考えた矢先、のことだった。 びっ、と嫌な音がしたのは。 その音が閉じ紐でくくられた所から原稿が破れだす音だと気づいたのは、一瞬後のことで。 次の瞬間にはもう、原稿は宙を舞って。 夏の教室に、雪が降った。 再度、しんと教室の中が静寂に包まれて、誰もが言葉を失う中で。 一番最初に口を開いたのは、高原だった。 「おっ、お前らが引っ張ったからだ!」 狼狽した様子で高原は、自己弁護を始める。 「おれはちゃんと返すつもりだったんだ! なのに、お前らが無理やり引っ張るからこんなことになったんだ! だからお前らが」 そこから先は聞こえなかった。 代わりに乾いた音が教室に鳴り響いて、高原がたたらを踏む。 相馬が高原の頬を、平手打ちしたのだ。 一瞬遅れて何をされたのか理解した高原の顔が、絶望に染まる。 そして、相馬が泣いた。 声をあげて、床に座り込んで、子供みたいに、泣いた。泣き喚いた。 クラスの誰もが言葉を失って、その光景に釘付けになる。晃も呆然とその光景を見つめる。バラバラになった原稿よりも、その真ん中で泣く相馬の姿に目を奪われる。 六時間目はまだ訪れない。 空気を読んでいるのか、まだ来ない。 その代わりに相馬の声に触発されてか、窓の外でセミが鳴きだした。 『四章:もしあなたなら、どちらを選びますか?』 ひと気のなくなった教室の中に、紙をめくる音がそっと響いた。窓から入り込もうとする日の光は僅かに弱まり、幾分涼しくなった風が時折カーテンを揺らす。 そんな中、晃と相馬は散らばった原稿を並べ直していた。 本来ならページ数が振ってあればあっという間に終わる作業だが、晃はその肝心のページ数を入れ忘れていた。だから持って帰って自分で並べ直すと主張したものの、相馬に「責任は私にもある。だから手伝わせて」と押し切られた。それは確かに彼女らしいと言えば彼女らしいのだが。 晃は原稿を持つ手を止めて、こっそりと相馬の様子を盗み見る。 相馬の目は赤く潤み、まぶたもかすかに腫れていた。それでも相馬は黙々と原稿の中身を確認し、並べ替えていく。 思う。 本当に泣いたんだな、と。 その瞬間を見ていたというのに、未だに晃には相馬が泣いたことが信じられない。 教師が到着したのは、あの直後で。六時間目に現国の授業をする予定だった年配の女教師は、現場を見るなりなんだこれはと騒ぎ立て、頬を腫らした高原を睨み、泣いている相馬に言葉を失い、即座にアフロを呼びだした。 幸い事態を把握していた数名の女子が説明してくれたおかげで、まず高原達がちょっかいをかけた、と言うことで話は落ち着いた。 それでも状況の説明のために幾ばくかの時間をとられて、晃達が開放されたのはHRも終わりに差し掛かった頃で。 そして、現在に至る。 ふと晃が壁に掛かった時計に目をやると、作業を始めてからかれこれ一時間は経過していた。その間相馬は何も喋らず、黙々と作業を続けている。 「あのさ」 つい沈黙が嫌になって、声をかけた。 「あいつ……高原だけど、きっとお前のこと好きなんだよ」 それは別に言わなくてもいいことだったが、言ってやった。多少ムカつきはしたから、これぐらいの意趣返しは許されるはず、と。何も反応しない相馬に、晃はさらに高原情報をリークする。 「あいつ、確かアルバイトしてるぞ。金稼いでるらしいぞ。お前の条件に合うんじゃないか?」 少し冗談めかして問いかけると、 「無理、子供過ぎ、大嫌い」 相馬はまるで興味が無いと言わんばかりにぼそりと言い捨てた。抑揚のない声で放たれた言葉は、本人に届くことなく教室の空気に紛れて消える。 「いや、俺もお前もまだ子供だろうよ」 そう指摘すると、相馬がかすかに顔をあげた。怒られるのか、と思わず身構えたが、聞こえてきたのは落ち着いた声だった。 「――――『もうはまだなり、まだはもうなり』」 少しかすれてはいたものの、いつもの講義のように相馬は人差し指をぴっと立てる。 「……それ、また何かの用語か?」 「そう。相場の格言で、買い時を焦る気持ちと、売り時を迷う気持ちを戒める言葉」 相馬は目元を手の甲で軽く拭い。 「でも、私はこうも思う。……まだ子供、なんて思ってても気づけば私達は大人になってて、もう大人になったつもりでも、親からすればまだ子供って言われる。そんな私達のことを言ってるみたいだな、って」 そこまで話した相馬はふふっ、と笑い、赤い目の笑顔をこちらに向けてきた。 「ね。そう、思わない?」 「ま、確かにそうだな」 少し。 ほんの少しだけ空気が和らいだような気がして、晃はほっとする。 やっぱり相馬は意地悪く笑っていて、強気で、その方がしっくり来る。その方が良いと、そう思う。 「あのさ」 「なに?」 「……いや、悪い。なに聞こうとしたか忘れた」 あはは、と愛想笑いを浮かべて、怪訝な顔をする相馬を煙にまいた。 もうずっと、気になっていることがあった。 なぜ相馬はそこまでラノベ作家にこだわるのか。 最初晃は密かに、彼女自身がラノベを書いていた可能性を考えていた。けれどその考えは年齢的に若すぎるのと、これまでの会話の様子から違う、と否定。 当事者らしくない、とでも言うのか。彼女の言動は、どちらかというと身近にそういう人間がいた、そんな感じに近いように思えた。だからその人の存在を確かめようとしたのだが、今貴様は何をしようとしていたかわかっているのか! と脳内の軍曹にたしなめられてやめた。 なにせ、あの相馬が泣くほどのことだ。 かなり彼女の内面に踏み込む話になることは間違いない。それはきっと、無軌道に地雷原を突き進むようなもので。最悪踏み出した一歩目が丁度地雷の真上で、即死する可能性だってあった。だからやめた。それは戦略的撤退で、サンクコスト効果を踏まえた行動で。正しい判断だと晃は考える。 それでも、と思う。 相馬のことをもっと知りたい。理解したい、と。いつからか晃は、そんな衝動に駆られる自分を感じていた。 そんな時、だった。 不意にノックする音が教室内に響いた。 見れば、戸口に一人の男が立っている。 見覚えのある男だ。あの日、相馬と一緒に車に乗っていた、あの男。 年齢は大学生ぐらいだろうか。晃はそう当りをつけたが、いまいち判断しきれない。顔は悪くないのだがしまりがなく、どこかくたびれた雰囲気がある。そのせいで年齢そのものは若いはずなのに、漂う雰囲気は中年のそれだった。 さらに服装はTシャツにジーンズ、サンダルと飾り気の無い格好だが、シャツはよれよれでサンダルもジーンズも履き古した感じがあって、これまたくたびれた印象を受ける。その様子を目の当たりにして、確かフリーターの従兄が丁度こんな感じだったな、と晃はその男を眺める。 その男を見るなり、相馬が椅子から立ち上がり駆け寄った。 「お兄ちゃん! どうしてここに?」 「おいおい、少し遅くなるって言うから心配して来たのにどうしてはないだろ?」 そんなやりとり目にして、晃は思う。 なんだ、兄だったのか、と。 どこか安心した気持ちで二人を眺めていると。 「ん? お前、その目……」 「あっ、これは、その……」 相馬の目に気づいた相馬兄が、表情を曇らせる。相馬がしどろもどろになる。 途端に相馬兄が、きっと鋭い視線を晃に向ける。 「……お前か?」 「えっ、いや、俺は……」 「違うよ! やめて!」 慌てて相馬がフォローに入ると、相馬兄は「なんだ違うのか、そりゃすまん」と素直に頭を下げる。 それで一気に緊張が解けて、晃はほっと胸を撫で下ろした。 「彼はその……角田だよ。ほら、何度か話したでしょ?」 「おーおー、あの角田クンか! あ。オレはこいつの兄の相馬光太郎だ。よろしくな」 「あ、どうも。角田晃です」 手を差し出されたので晃はおずおずと握手するも、相馬兄は笑顔で応じる。クラスメイトの身内、と言うだけでも緊張するところだが、それが女子の兄ともなるとなんとも言えない緊張感がある。 すると相馬兄は手近な椅子を手に取り、腰掛けた。しかも何故か、晃と対面するようなそんな位置取りで。まるで今から説教されるかのような状況に、晃はなんだ、これ、と思う。 「あー、ところで角田クン。君、ラノベ作家志望、なんだってな?」 相馬はそこまで話したのか。そう思いつつも、晃は「ええ、まあ」と愛想笑いを浮かべながら曖昧に答えると。 「あー、やめとけやめとけ、ラノベ作家なんてろくなもんじゃねぇから」 ははは、と挨拶代わりの世間話のように、いきなり否定された。 「ちょ、お兄ちゃん!」 慌てて相馬が声を荒らげたが、相馬兄は手でそれを制する。 「あの……どうしてですか?」 何故そんなことを言うのか、あるいは何か怒らせるようなことを言ったのか。理由がわからず尋ねると、相馬兄はまるでなんでもないことのように答えた。 「んー? そりゃ俺が、元ライトノベル作家だからだな」 「……えっ」 ぎくりとした。 「なんだ、一美から聞いてなかったのか? あー、まあたいしたことじゃないからな」 ははは、と相馬兄は笑うが、晃はどう反応すれば良いのかわからない。 元ラノベ作家。 一応、予想していたとはいえ、この状況にパニックになる。もう頭の中は消化剤をぶちまけたみたいに真っ白だ。元作家なんて作家志望者からすれば神に順ずる存在で、一度ではあってもプロの御座にいた憧れの存在で。ましてそんな人が、作家なんかやめておけと忠告してくる。晃としては、もうその状況についていくだけでやっとだ。 「一美から話は聞いたと思うが、あんなに割に合わない職業はそうはないからな。ブラック企業と良い勝負だぞ、アレ。それでも続けるのか?」 ぐっと顔を近づけてきて、訊かれる。 その圧力に押されそうになるも、晃は何とか回答をのどから搾り出す。 「えっ……と、その、一応、作家になるのが夢、なので……」 「そうか、夢か。ま、夢じゃ仕方ねーわな」 はははっと、相馬兄が笑い、晃はほっとした。どうやら納得してくれたらしい、そう思ったが。 「じゃあ――――『作家を諦める』ならお前に『FXで確実に稼ぐ方法』を教えてやるって言ったらどうする?」 BC兵器並みにとんでもない質問が飛んできた。ぞっと背筋が粟立って、晃は目を見開く。 思う。 何を言ってるんだ、この人は。 思う。 なんなんだ、この人は。 思う。 本気で言っているのか。 それでも相馬兄は、にっと酷薄に笑む。 夕暮れの教室と相まって、その様はまるで人を欲望の道に引き入れんと甘言を吐く悪魔のようで。 「どうよ、悪い話じゃないだろ? 夢か金か。片やほぼ確実に大金を手に出来るほう、もう一方はデビュー出来るかも定かじゃない上に、食っていけるか続けられるかもわかんねー綱渡りのギャンブル。普通に普通の感性なら、どっちが良い選択かわかるよな?」 そこまで言われて、晃は思わず顔を引きつらせた。 けれど表情に不快感が出てしまったにも関わらず、相馬兄の態度は変わらない。相変わらず、その笑顔を崩さない。そのままの笑顔で相馬兄は話を続ける。 「あー、そうそう。現役のラノベ作家が何人いるか知ってるか? 推定で千五百から二千人ってとこだ。んで、対するFX人口は約四十万人だから、勝っていると言われる一割だけで四万人ぐらいになる」 相馬兄は頭の後ろで手を組んで、椅子の背にもたれる。今にも鼻歌でも歌いだしそうな体勢で、相馬兄は指で銃を作って見せて、晃に向けた。 「さーて、ここで質問だ。勝ち組と言える作家は何人で、FXと作家はどっちがより有利なんだと思う?」 ただFXと言わせたいだけの質問が飛んできて、晃の背筋が再度粟立つ。 純粋に、こう思う。 なんだこれ、と。 ぎゅっと拳を握り締めて、唇を噛み締める。夏だというのに寒気がする。息が苦しい。知らぬ間に自分は何か、恐ろしいものに巻き込まれたんじゃないかと、そんな気がした。 返答に困っていると、相馬兄は膝に頬杖をついて、まっすぐ目を向けてきた。 「……オレは君ぐらいの歳で公募に送って、それで運悪くデビューしたんだけどな?」 目が合った。相馬兄がにっと笑う。 「これがそこそこ売れたのがまずかった。たちの悪いことに、打ち切りになるわけでもなく、かと言って重版がかかりまくるわけでもない微妙な売り上げだ。……けど、あん時○○○文庫はまだ立ち上げたばっかでな。今でこそそれなりのレーベルになったが、当時はまだ弱小扱いで、オレみたいに微妙な作家でも首にならなくてな」 良いことのはずなのに、その口調はどこまでも残念そうで。 「さらにまずいことに、オレの担当がまたすげぇ良いやつでな。オレの作品は後からじわじわと売り上げを伸ばすタイプだから、もっと売れるように頑張っていきましょう! とか言いやがんだ、これが」 過去を懐かしんでか、相馬兄はさも楽しそうに、その担当がいかに気の合う相手だったかを語る。 「けど現実ってやつは、ライトノベルみたいにはいかない。ぽっと出の後輩に発行部数をあっさり抜かされて、向こうは百万部、二百万部突破、挙句アニメ化で重版の重版で重版だ。そしたら担当がまた、向こうに負けないように頑張りましょう! とか言いやがるんだが、そんなこと言われたら、よしこっちも頑張ろう! って言うしかないだろ?」 目で尋ねられて、それこそ否定出来ずに晃は仕方なくうなずく。 「でもな、駄目だ。とにかく駄目だ」 相馬兄は、投げやりにそう言い捨てて、大仰に手を広げると、かつて存在したとされるバナナの叩き売りみたいに膝を叩く。 「オレも担当も頭がねじれるぐらいに捻って、これで売れる! 行ける! 天下取れる! 、って確信して出すわけよ。けど結果はやっぱり低空飛行っつーか……」 はは、と口から乾いた笑いをもらして、相馬兄は苦笑いを浮かべた。 「ま、それでも楽しかったよ、あれは」 「あの、だったらどうして……」 やめたんですか。晃がそう尋ねると、実にシンプルな答えが返ってきた。 「子供が出来た」 その言葉は重く、ずしりと肩にのしかかってくる。 「そん時オレには付き合っていた女がいてな。 ある日、そう言われた。だから、二人で話し合った。産むのか、それともやめるのか。そうして話し合いの末、オレ達は結局産まないことに決めた」 「……何故です?」 「出産費用がな」 その言葉に、晃は相馬の言葉を思い出す。 『中絶するとなると十万円、出産するってなると、検診費、出産費、入院費諸々含めてだいたい五十万程度、人によっては百万円ぐらいかかる』 「いや、出産費用だけじゃない。産んだ後の子育てだって、簡単じゃない。共働きでなんとかやっていけているって状況なのに、子育てなんて土台無理だ。親を頼る。そんな選択肢もあったとは思う。けどオレは、小説家になることを親に反対されててな。理由は『不安定でお金にならないから』だそうだ。……笑えるだろ? 結局みーんな親の言う通りの結果になっちまったんだから。だからオレは余計に親を頼るなんて出来なかったし、そうしたく無かった。だからその時は、それがベストな選択だと思った」 自嘲気味に、けれど悲痛に表情を歪めて、相馬兄は懺悔するかのように両手を合わせた。 「けどな、理性でわかっていても、心が納得してくれるとは限らない。彼女は気落ちして、あまり笑わなくなって、そのことに気づいたオレは自分に責任を感じて、思うように執筆出来なくなって。その後ほどなく出版社から戦力外通知を下された。……もちろん、彼女とも駄目になった」 言い終えて、相馬兄は無理に作ったとびきり出来の悪い笑顔を向けてくる。笑えよ、とでも言いたげに。 「結局な、全部金なんだよ。安心を得るのも、幸せを得るのも、飯を食うのも、家を持つのも、日々を生きるのも。夢なんて曖昧なものじゃなく、みんな金金金だ。だからオレはあれ以後金を稼ぐことにのめり込んで。株を始めて、FXに手をつけて、仮想通貨、CFD、先物取引、BOなんてもんにも手を出した。なかでもオレにはFXが合ってたみたいでな、これまでなんで作家なんて目指してたのかわからなくなるぐらいに金になって、今はなに不自由なく暮らしてる。だからオレは言うんだ。作家なんてやめとけ、ってな」 そうして相馬兄は、悲しそうに笑う。 まだ、笑っている。どうして笑っていられるのか。 その姿を、これが自分の目指している戦場に行きそして戻ってきた帰還兵かと思うと、晃はぞっとした。 まるで全部何かの冗談のようで。それでいてどこまでも事実だと訴えてくるように、純度の高いチョコレートのような強めの苦味がじわじわと胸の中に広がる。 理解する。 目の前の敗残兵の言葉は、意地悪だとかまして志願兵たる自分が成功するかもしれないという嫉妬から出てきているのではない。 ただ単に、この先は危険だ、だから戻れと身をもって忠告するためにこの場にいて、言い聞かせようとするためにこんな話をしたのだ。 どうにも居たたまれなくなって目を逸らすと。視界の端、相馬兄から少し距離を置いた位置で、相馬がまた泣きそうな顔をしていた。その表情を目にした瞬間、思った。 きっと、これが彼女が抱えていたものだったのだと。 だから相馬はラノベ作家などやめろと言い。 だから頑張れと応援し。 だからバラバラになった原稿に、涙した。 向かう先は死地で、生き残れるのは運が良いやつだけで、それ以外はみんなほうほうの体で逃げ帰ってくるか、あるいはそのまま戦場に骨を埋めるだけだと知っていたから。 「で、どうする? 角田クン」 相馬兄が、上目遣いに訊いてくる。 さあ、行く先を決めろ新兵、と。 「それでもお前は、作家を目指すのか?」 「お兄ちゃん……」 相馬が弱々しい声をあげたが、相馬兄は一瞥し再度手で制した。 その時相馬の双眸が、一瞬こっちを向いた。 目が合った。 その目が、助けて欲しい、そう言っているように見えた。 もちろんそんなのはすべて晃の推測で、仮説で空想で妄想だ。最悪的外れな想像でしかなく、かすりもしていない可能性だってある。 しかし例えそうだとしても、晃は思う。 自分に何か出来ることはないのか、と。 道筋はとっくにいくつか見えていた。 相馬のときみたいに『どちらがより儲かるか』なんて明確な判定基準を頼りに勝敗を決めるのなら、まず負ける。けれどそう言った物差しが無いのならいくらでも屁理屈をこねれば、最悪でも引き分けに持ち込むことが出来る。小説家志望なのだから、普段なら絶対に使わないような理屈や思想を無節操に引っ張り出してきて、それっぽく「はい論破」なんてやるのは朝飯前で、不安なのは涙腺と気持ちと腕っぷしの弱さぐらいで。とりあえず勝てるかどうかは定かじゃないが、少なくとも負けない。それだけの自信はあった。 でも晃の中の冷静な自分は、こう言うのだ。 相馬兄を言い負かして、あるいは喧嘩別れして、それで一体何になるのかと。 きっと、それじゃあ誰も救われない。相馬も、相馬兄も。そして多分、自分自身も。読者の誰も望まないバッドエンドなんて、作者の自己満足でしかないのだ。じゃあこの物語において自分はどう動くべきか。どんな役割を演じれば良いのか。晃はすでに思い描いていたストーリーから、一つ一つありえない結末を消していく。 そして、深く息を吸い、吐いた。 その時にはもう、とっくに心は決まっていた。 「俺は、作家を諦めません」 その言葉は何の気負いもなく、極自然に口から出てきた。 対する相馬兄は取り立てて驚くこともなく、小さくうなずいて。 「それで良いのか? 作家とFXじゃ、7・3か8・2ぐらいでFXが儲かるんだぞ?」 「そのあたりは相馬……妹さんに聞いてます。だから俺、別の仕事について兼業するつもりです」 「兼業作家か……」 相馬兄の眉間に、小さくシワが寄る。 「それは人の倍の時間を仕事に費やして、自分の時間を犠牲にする生き方だ。お前が考えるほど楽じゃない」 「そうですね……。わかってます、なんて言えません。俺、まだ仕事とかしたことないですから。……ところで、ちょっと聞いていいですか」 「なんだ?」 「相馬さんは最初作家になろう、って思った時、儲かるか儲からないかで決めましたか?」 その質問を投げかけると、相馬兄は一層眉間にシワを寄せた。 「俺、きっと作家目指すやつって理由はほとんど同じだと思ってます。すげー作品読んで、すげーって思って、感動して、泣いて、燃えて、ついでに萌えて。そして自分もそんな作品を書きたい、書けるようになりたい、それで生きていけたら最高じゃないか、ってそう思ったからみんな選んだんだと思います」 晃は、今でも覚えている。 きっかけは、大ヒットしたファンタジー小説で。毎回巻き起こる事件に胸躍らされて。強い主人公みたいに、自分もなりたいと思って。いつか自分もそんな小説が書けたら、という気持ちを抱いて。 そしてそれはいつの間にか、晃の夢になっていて。 『――――あんたが苦労して書き上げた、夢の詰まった原稿でしょうが!』 ああ、そうだ。間違いない、と晃は密かに笑う。 「相馬さんも、そうだったんじゃないですか?」 相馬みたいに真正面から相手の目を見据えて、晃は問いかける。陰キャな晃にはたったそれだけで、魂が磨り減ってしまいそうなほど精神に負荷がかかる。例えそれでも今は逃げて良い場面じゃないと言い聞かせて、足を突っ張って逃げ出さないように踏みとどまる。 溢れ出しそうになる涙腺に、しばしこらえろと命令を伝達する。 それでも、 「……やめた」 ぼそりと、相馬兄が呟いた。 「あーあ、やめだやめだ!」 相馬兄は椅子から立ち上がると、投げやりに叫ぶ。 「もう勝手にしろ。自分から苦労に飛び込んでいくやつのことなんか知らん。……一美、帰るぞ」 言って、相馬兄は足早に戸口へと向かう。けれど晃は、その背中に声をかけた。 「待ってください」 「あ?」 相馬兄は足を止め、振り返る。 「その、俺から一つ提案があります」 まだ全部終わったわけじゃない。自分の役割はまだ残っている、だから気を緩めるな、と晃は行動する。 相馬がいつもやるみたいに、挑発気味に、ついでに性格悪そうに。 「もし良かったら、俺の執筆指導をしてくれますか。『一応、元プロ』……なんですよね?」 「てめ……」 相馬兄は笑顔を崩し、ぎり、と音が聞こえてきそうなぐらい睨んできた。これは流石に調子に乗りすぎたか、と晃は今度こそ泣きそうになったが。 「へっ……万が一気が向いたら見てやるよ、ばぁーか」 何かが吹っ切れたように、相馬兄の頬が緩む。 「じゃあな、角田」 背を向けて、相馬兄は歩き出す。 「あ……ありがとうございます!」 遠ざかる背中に向かって、晃は頭を下げた。 顔をあげると、相馬がそこにいた。相馬と顔を見合わせて、互いに親指を立てた。 声をあげないようにして、二人でこっそりと笑う。 「それじゃ、私も帰るね」 「ああ、じゃあな。……あ、原稿はこっちでやっとくから行ってやれ」 「ん、ありがと」 そんなやりとりをして、相馬を送り出す。教室の戸口を抜けたところで、 「あ、さっきのだけど」 相馬がくるりと振り返った。 「ちょっとだけ、ライトノベルの主人公っぽかった。惚れるぐらいに」 「……マジか」 「うん、マジマジ。あとは稼ぎがあれば文句なし」 「結局それかよ」 晃がかくりと肩を落とすと、相馬はくすっと笑う。まあ、そういうやつだよな、と晃は苦笑いを浮かべた。 「それじゃあ、また明日。角田」 手を振る相馬に「ああ、また明日」と応えて、晃は見送る。 二人とも見えなくなると、一気に緊張が解けた。リノリウム張りの廊下に座り込む。ため息をつく。今まで耐えに耐えてきた涙腺が決壊して、ついに涙がこぼれた。それでも気分は物語を一つ書き終えた時のようで、晃はほっと安堵の溜息を吐く。 窓の外、空はシアンとマゼンダの入り混じったような色に染まりつつある。 遠く、ひぐらしが鳴いていた。 『エピローグ』 あれから、三年。 駅の構内は、人でごった返していた。 晃はクリアファイルに閉じた電車・新幹線の乗り方を確認する。 地方在住の人間にとって、電車はそんなにメジャーな乗り物でもなんでもない。メインは車、なにはともあれ車、切ないほど車。 もちろんみんなそうでもないけれど、乗らないまま過ごしてしまう人間は一定数いる。その一定数に晃は入るわけで、電車の乗り方とかまったくわからない。なんか、切符だかなんだかを機械にぶっ刺す。それぐらいのイメージ。 とりあえずホームに到着すると晃は、手近なベンチに腰掛けた。 それだけでもうへとへとになって、汗ばんできたシャツを指でちょいとつまむ。まだセミは鳴き出していないものの、その仕草をすると今年も夏が近いんだな、と思う。 ――――ひと月前のことだった、スマホに着信があったのは。 電話の相手は何故かそこそこ名のある出版社の人間で、自分の作品が最終選考に残った、などとわけのわからないことを言い。さらに何日か後には結果が出るので、その際にまた連絡する、等々。 詐欺だな。 ぬか喜びしないように晃は自分にそう言い聞かせ、信じ込ませ、どうせ最後の最後に駄目になるのだから気にするな、と平静を保ち。 そしてその結果、東京に向かうことになった。 「すげぇ手の込んだ詐欺……だったりしないよな」 未だに実感がわかず、晃は漫然と独りごちる。気を紛らわせるために魚の骨みたいな線路を眺めていると、すとんと誰かがわざわざ隣に座った。 なんだこいつ、と目をやると。 「や」 一美が、そこにいた。 「え? ちょ……なんでここにいんの」 「は? 見送りに来てあげたんですけど、『吉良アキラ』先生?」 一美が、にっと笑みを浮かべる。 三年経って成長したかと言うと、あまり変わり映えはしない。ステルスおっぱいもそのままだ。当人が言うには「女は高校生ぐらいで成長は終わるもんなの!」とのこと。そんなもんなのか、と幾分背が伸びた晃は思う。 高校卒業後、一美はあっさり就職した。 てっきりFX一本で行くんだと思っていたが、本人曰く就職はFXに対するリスクヘッジで、FXはブラックな職場だった場合のリスクヘッジとかなんとか。 ただ実際にはそれ以上にお金が好きだから、と言うのもあるんだろうと晃は思う。 「しっかし、すごいね。あの泣き虫晃が本当に作家になっちゃうなんてねー」 感心した様子で、一美はお世辞を言う。 「いやー、ほんとすごい。ほんと、ウチのお兄ちゃんすごいわー」 どうやらお世辞ではなかった。 「いや、そこはまず俺を褒めろよ」 晃がにらみつけると、くくくと一美は意地悪く笑う。 「けど、夢みたいだな」 「なに言ってんの。夢、だったんでしょ?」 訊かれて、「まあ、そうだな」とうなずく。 きっと夢が叶った人間は、みんなこの道を通ったんだろうと晃は思う。 ちょっと前まで夢でしかなかったものが現実になる。それこそ夢みたいな、現実の話で。ほっぺたがねじ切れるまでつねって、ようやく実感出来そうな感覚だ。 「けど晃、気をつけなさいよ? 一年で新人の三分の一が脱落、五年で約半分が脱落。そして、十年も経てば……」 「おい」 「それだけじゃないよ。収入格差のある夫婦はそれが原因で離婚になりやすい、っていうデータが」 「やめろ。今ネガティブな話ほんとやめろ」 喜びの絶頂にいるところを、楽しそうに背中を蹴ってがけ下に落としにくるやつがいる。その者の名は相馬一美、鬼である。 「や、ネガティブとかじゃなくてさ。だから頑張れってこと」 陽キャラエネルギー注入! とばかりにばーん! と背中を叩く。だいぶ痛かったから、百二十%ぐらい入った。そんな気がする。 「あ。それでも駄目だったら、そん時は私が養ってあげるからね」 「だからそう言うこというのやめろっつーの」 そんな軽口を叩いている内に、新幹線が到着。ナップザックにまとめた荷物を背負って立ち上がると、一美も一緒に立った。 「それじゃ、行って来る」 「ん。行って来い」 にっ、と一美は笑顔で答えて。 「あ、ちなみに私も行くから」 「は?」 こいつはいきなり、何を言い出すのか。 「いや、行くって……仕事は」 「もちろん休みもらってあるけど?」 「お前な、そんなこと全然」 聞いていないぞ、と晃が抗議の声をあげるも、一美は聞こえなーい、の姿勢で歩きだす。 「ま、別に良いんだけどさ、一体何しに行くんだよ」 「んー? まあ、実際に色々訊いて確かめたいからね」 「……何を?」 尋ねると、彼女はあの夏の日の、あの時のように。ふ、と余裕のある笑みを浮かべてから、ゆっくりと形のいい唇を開いた。 「――――ラノベ作家と、FXどっちが儲かるか」 全てはまだ、始まったばかりだった。 始 |
狭窄規格 2018年08月12日 21時37分28秒 公開 ■この作品の著作権は 狭窄規格 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2018年08月26日 21時23分57秒 | |||
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Re: | 2018年08月26日 21時00分29秒 | |||
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Re: | 2018年08月26日 20時46分46秒 | |||
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Re: | 2018年08月26日 20時22分32秒 | |||
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Re: | 2018年08月26日 18時31分10秒 | |||
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Re: | 2018年08月26日 18時10分19秒 | |||
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Re: | 2018年08月26日 17時32分07秒 | |||
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Re: | 2018年08月26日 16時48分06秒 | |||
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Re: | 2018年08月26日 14時54分24秒 | |||
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Re: | 2018年08月26日 14時10分50秒 | |||
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Re: | 2018年08月26日 13時12分30秒 | |||
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Re: | 2018年08月26日 12時02分13秒 | |||
合計 | 12人 | 350点 |
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