背徳の獣 |
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それは十歳くらいの女の子の首に深々と牙を立てていた。 場所は市場から少しだけ離れたところにある路地裏。建物と建物の隙間に出来た、ほんの小さな空き地だった。 仕事が早めに終わり、暇な昼さがりを市場で潰すことにしたところ、何の気もなしに足を踏み入れた路地で、俺はそれをみてしまった。 それに拘束された女の子の顔は、異様な方向を向いていた。 首は何かを問うかのように傾げられている、顔自体は頭上の空を見上げる。通常ならまず不可能な角度を取っているのは、それがかみついた時に女の子の首が折れてしまったせいなのかもしれない。 それ――後姿から見るに、中年くらいの男らしかった――の背後からその様を見ることになった俺には、女の子異常な体勢、そしてその表情までよく見ることが出来てしまった。 目を半開きにした胡乱の表情の女の子の首から、その男はじゅるじゅると、汚らしい音を立てて血を吸っていた。 俺の頭の中では、色々なことが渦巻いていた。しかし、それを意味のある思考や、行動に移すことは出来なかった。 十五になったばかりのガキが、異常な光景を前にすれば、そんな反応が普通だろう。 ただ茫然と立ち尽くすことしか出来ない俺には気付かない様子で、それは女の子の首筋にくらいつき、一心不乱に血を吸っていた。 女の子の首からの出血量は多く、地面には男が啜り切れなかった血が水たまりを作っていた。 その次々と血の雫が落ちていく血の水たまりを見て、どれくらい時間が経った頃だろう。 男がふと、口を女の子の首筋から離し、背後の俺を見た。 その時の男の顔は、多分一生忘れられない。 歳の頃大体四十、といったところの男は、そいつがやっている凄惨な行為とは裏腹に、気の弱そうな顔立ちをしていた。人の好さそう、とも形容できるような丸顔で、どんぐりのように小さな目が印象的だ。顔の下半分は無精ひげに覆われ、肌は不健康にガサガサと荒れている。 頭には幾分大きすぎるように見える鳥打帽を乗っけ、体にみすぼらしいコートを付けた風情はろくな仕事についているように見えなかった。 どこにでもいる、日雇いの仕事で食いつないでいるようなおっさんはしかし、その顔を女の子の血で赤く染め上げていた。 いくら気弱そうに見えるとはいえ、白昼堂々、女の子の血を吸うような奴が、その現場をしっかりと見てしまった俺を放っておくはずがない。 一気に襲って来た恐怖に俺が体を強張らせていると、男は思いもよらなかった行動に出た。 ひい、と小さく叫ぶと、男は女の子から弾けるように飛び退いた。 そのまま俺から遠ざかるように、三方を壁で囲まれた空き地の、奥の方の壁に張り付いた男は最初、俺の方をじっと見ていた。 俺もそんな男の目を、しばらくじっと見ていた。そして、不意に男の視線は俺から、地面に転がった女の子の体の方へ向いた。 男に釣られて、俺も力なく地面に横たわる女の子を見る。支えを失い、大地にぐったりと倒れた女の子は仰向けの姿勢のまま、顔はじっと地面を向くという異様な姿勢をしていた。 年端もいかない女の子の、そんな姿は痛々しい、としか言いようがなかった。 男の方を見る。女の子をそんな風にした当人は、地面に倒れた女の子に目を縫い付けられていた。男の体は小刻みに震え、息も徐々に荒くなっていった。 そして、何の予兆もなく、男は背後の壁を登った。 コンクリ造りの壁の、ちょっとした突起を掴み、男はあっという間に、建物の屋上へと消えて行ってしまった。 女の子の死体と一緒に残された俺は、少しの間だけ、男の消えた後の空間を見ていた。 しかしかなり不味い状況になっていることに気が付いて、その場をすぐに離れることにした。 女の子の死体を放っておくのは良心が痛んだが、仮に他人や、警察に見つかれば、移民の子である俺が犯人に仕立て上げられるのは目に見えていたからだ。 そうしてその場から逃げだした俺は、あのことを忘れることにした。 日々の仕事や生活に意識を向けるように努めたおかげで、その内に、あのことを考えることは無くなってきた。 しかし、忘れていたはずのあの出来事を最近になってよく思い返すようになった。 その理由はおそらく、今の俺があの出来事と関連が深い仕事に就くことになったのと無関係ではないのだろう。 そして、あのことを思い返す度に思うのは、死んだ女の子のことではなく、女の子を襲っていたあの男の不可解な行動のことだった。 白昼に女の子を襲ったあの男は、俺を見てどうして叫び、逃げだしたんだろう。自分の殺した女の子を見て、どうしてああも怯えたのだろう。 自分がそんなことを気になっていることも含めて、最近の俺はふと気付くと、そのことを考えてしまっている。 「どうして男はあんなにも怯えていたんだろうな?」 俺、アズマ・クサカベが尋ねると、隣に座ったユーリ・シュアマンは、うーん、と唸り始めた。 現場に向かって走る装甲トラックの車内は、タイヤやエンジンの立てる音が常に響いていた。それでもなんとかお互いの話し声は聞こえていて、ユーリの唸り声も耳に聞こえてきた。 こんな話をしたきっかけは、移動中の車内の沈黙に耐えられなくなったらしいユーリが振ってきた話題のせいだった。 初めて吸血鬼に遭ったときはどうだったか。 吸血鬼の起こすテロ活動への対処を任務とする、この大隊に入隊して、初回の実戦のことを話したユーリに対し、俺が話したのは三年も前のあの出来事だった。 吸血鬼、なんて存在が当局によって伏せられていた頃の話だ。 この国を脅かす吸血鬼の存在が公に認められ、その危険極まりない連中を相手にする、こんな部隊に入ってもなお、あの時の男の行動の意味は理解できなかった。むしろ吸血鬼について知り、連中との戦闘を経験するごとに、あの男の行動への疑問は深まっていった。 吸血鬼、とは近年になって存在が確認された新人種のことだ。 驚異的な身体能力を持ち、人の血を求める習性を持つことから、古来から伝わる吸血鬼の名を与えられている。もっともそれは俗称で、学術的には他に大層小難しい呼び名があるそうだが、それよりも俗称の方が実態を正確に表していることから、新聞の記事から学術的な会議、そしてそれと戦う特殊部隊の隊員の小話でも奴等は吸血鬼、と呼ばれる。 吸血鬼は、生きた人間の血を吸わなければ活動していけない。 故に、時に殺害してまで生きた人間の血を吸うことは、普通の人間にとっての食事と同じものであり、その行為に良心の呵責を感じたりすることはない――と、入隊時に受けた教育では説明されていた。 そして、人間を豚や牛といった家畜同然に扱う吸血鬼を、これまで何人、いや、何体も見てきた。 ここ一年の間に積み重ねられた知識・経験と、あの、初めて見た吸血鬼の行動は、あまりにもかけ離れていた。 「結構な体験をしてんだなお前」 「まあな」 「悪かったな、変なこと聞きだしちまって」 「いいよ、別に」 「そう言ってもらえると助かるぜ。……で、その理由だがよ、あんまり考えたくないことだが」 と断ってから、ユーリは話し始めた。 「その吸血鬼にとっては、女の子の血を吸うなんてことが思いも寄らなかったことだったんじゃねえかな」 ふん、とユーリの言葉に頷いた。 「そいつは吸血鬼であることを隠し、普通の人間の社会に溶け込んで生活を送ってる奴だったのかもしれねえな。最初は女の子を殺して血を吸うなんてことは全く考えず、もしかしたらお前と同じように仕事が早めに終わったんで市場をふらふらしていた。そしたらたまたま、人気のない路地で一人で遊ぶ女の子を見つけちまった。そしたら吸血鬼の本能がむらむらと起こってきて、気付いたら女の子を襲って血を吸ってしまった――我に返った時には、いたいけな少女は死んでいて、自分の顔と手は真っ赤。自分が無意識の内に罪を犯してしまったことを感じた男は、それを見ていたお前から逃げるようにその場から去った――なんて可能性もあるんじゃねえかな」 「吸血鬼が人の血を吸うのに罪の意識を感じるのか」 「なりたての吸血鬼ならそういうこともあるんじゃねえの? いくら研究が進んでるとはいっても、吸血鬼のことは吸血鬼にしか分からねえし」 そんなものだろうか、とユーリに応じてから、俺はふと自分の方に向けられる視線に気付いた。 向かい側の席に座ったエルサ・グリムが、じっと俺の方を見ていた。 物憂げな表情を浮かべた顔で、ユーリと俺を見ていたエルサは、俺の視線に気付くと、すぐに目を逸らした。 そのまま全身を包むアサルトスーツの足の金具を、何事もなかったかのようにいじり始める。 うなじの辺りで結わえられた長い黒髪と対照的な白い肌は、トラックの闇の中で一層白く浮かび上がっていた。 この国の人口の七割を占める白色人種の特徴である色素の薄い、透き通るような白い肌だが、俺達の大隊ではとても珍しい。 俺達の所属する大隊――第四○一特務衛生大隊は、隊員のほとんどを、二級市民の扱いを受けている移民、貧民、異人種で構成している。 吸血鬼という非常に危険な存在を相手にしていること、そして安全性の検証が十分にされていない特殊装備、〝特装服〟を主力としているからだ。そんな危険な部隊に、白色人種を当てて、世論の反発を受けてはとても厄介。ならばたとえ任務や装備を理由に死んでも、世間からの風当たりが厳しくないような連中を当てよう、ということだ。 そんな部隊に純粋な白色人種であり、それも女性であるエルサがどうやって入隊したのかはよく分からない。 女性の軍人自体は、度重なる戦乱で人材の払底したこの国――連邦の中ではめずらしくなかったものの、平の兵士に白色人種がいるのはこの大隊の中では異様なことだった。 親の事業の失敗で娼館に身をやつしかけたところを、身分を偽り、逃げ込むようにこの大隊へ入り込んだ、という噂も聞いたことがあるが、本当のところはよく分からない。エルサがほとんど俺達と関わろうとしないからだ。 白色人種としてのプライドがあるのか、エルサは作戦や訓練で必要なこと以外、ほとんど俺達と関わりを持とうとしない。ふと気が付けば人から離れて一人本を読む、そんな陰気な行動を平然と取る女だった。 彼女が俺と同じ分隊に配属されてもう三か月も経つが、馬鹿話や私的な話をしたことはほとんどない。 そのくせ、彼女は今のように、ふと気が付けば俺の方をじっと見ている時がある。 どうして俺の方を見てくるのか、理由はよく分からない。もしかしたら、有色人種の中でも特別苛烈な差別を受けている東方黄色人種が珍しいからなのかもしれないが、そこまでの険は感じられない、なんとも判断のつかない視線だった。 そんな彼女が正直俺は苦手だった。 つらつらとそんなことを考えていると、運転席と荷台を繋ぐ小さな扉から、巨大な禿頭が唐突に出てきた。 アンドレア・モレスキ。俺とユーリ、そしてエルサの属する第四〇一特務衛生大隊、第一中隊第一襲撃小隊第二分隊の分隊長が姿を見せると、それまでどちらかといえば弛緩していた室内の空気が張り詰めるような気がした。 俺やユーリだけではなく、直接の部下ではないはずの特装服の整備員達までもが、表情を引き締める。 十年前の大戦、その後の各地の紛争、作戦に参加し、数々の戦果を挙げたというモレスキは、下からも上からも恐れられる存在だった。 おおよそ考えられる限りの軍律、軍務に精通し、その乱れを僅かでも見つければ徹底的な制裁を加える。大隊の上層部からも一目、二目置かれるモレスキは、一分隊長にも関わらず、中隊、大隊の指揮官からも意見を求められることがある。 どうやら運転席に備えられた通信装置で大隊司令部や、他の車両に乗り込んでいる襲撃小隊長と連絡を取り合っていたらしいモレスキは、右目の下にある大きな刃物傷が酷く目立つ顔を、荷台の俺達へ向け、おもむろに口を開いた。重く、深く、聞いてる者の腹を揺さぶるような声が耳に入ってくる。 「作戦は予定通りだ。周辺警戒は第三分隊で行い、突入は予定通り第一分隊と俺達がやる。各自、装備の確認を怠るな」 小話をする余裕は完全に無くなり、俺達はいそいそと自分の装備品の確認を始める。 装備の中でも一番重要な特装服の確認は、この振動の中では出来ないので、俺は短機関銃や拳銃、そしてナイフといった物の確認をする。 武装の点検をする自分の頭の中には、先程話していた吸血鬼のことはなく、ただ訓練で叩き込まれた動作を機械的に消化すること、ただそれだけがあった。 軍隊の組織と訓練はそのためにある。罪の意識が生じない内に人殺しをさせるために、高圧的な上官がいて、徹底した反復訓練がある。 俺達が大隊によって仕込まれた動作をしていると、装甲トラックが重々しいブレーキ音を立てて停車した。作戦区域に到着したらしい。 「特装服を装着しろ」 モレスキの言葉に背中を押されるように、俺達は自分の特装服の方へ向かった。 乗ってきた装甲トラックは、八輪式の軍用大型のトラックに、装甲板付きの荷台を乗せた特注品だった。大きな荷台はさらに二つの区画に前後で分かれていて、前側の区画には人員が、後ろ側の区画には対吸血鬼戦闘では欠かせない、特装服と呼ばれる装備が積まれている。 くぐり戸を整備兵の連中と一緒に通って後方の区画に入ると、小さな物置程度のスペースに詰め込まれた四体の人型が、赤色灯に照らされながら佇んでいるのが目に入ってきた。 四つの人型はそれぞれ微妙に大きさは異なっていたが、大きさも格好も、人そのものだった。胴、両手、両足を持つそれは、、腰の辺りで体が直角に折れていた。折れた部分には中へ入り込むための空洞が開いていて、その空洞と、深々とお辞儀をしているようなそれの姿勢は、どこか滑稽にすら感じられた。 そんな恰好とは裏腹に、試製五十二式特殊装甲服と名付けられた、人工筋と防弾版で出来たこれは、凶悪な力を秘めている。 自分の特装服の後ろに回り、腰から下半身へ繋がる空洞へ足を突っ込む。人工筋で形作られた太腿から足首へ足を通し、地面に俺の足が付いたのを確認した整備兵が特装服に付いた機器を操作する。しゅっ、と空気の抜けるような音と共にそれまで弛緩していた人工筋が収縮し、俺の脚をしっかりと覆う。 同じように上半身部分にも体を通し、腕に人工筋肉を纏った俺に、整備兵は仕上げとばかりにマスクと兜が一緒になったような被りものを被せる。 吸血鬼は恐ろしい力を持つだけでなく、その血に猛毒を持つ。戦闘ともなればそれを浴びることも多いため、外界と自分の顔面を完全に遮断するこの被り物は必須の装備だ。 目の部分は透明な人工樹脂で覆われているため、視界に大きな制限はなく、マスクも吸気を阻害しないように改良されたものなので、呼吸に支障は生じないはずなのだが、それでもそれを身に付けた俺は、息苦しさのようなものを感じる。 顔面に異物を嵌められていることに、神経が悲鳴を上げているせいもあるだろう。しかし、俺にはこの息苦しさの理由はそれだけではないような気がした。 人工樹脂越しの視界に、目の前で別の特装服に身を包むユーリの姿が目に入る。俺と同じように特装服にはめ込まれ、終いに被り物をされたユーリは、あのお人好しでお調子者のユーリではなくなっていた。 この被り物は、実用性だけでなく、対する敵への心理的な圧迫も考えて作られている。あえて無機質、威圧的に見られるように作られた被り物の顔面は、人間よりも、祭で出てくる鬼の面に近いように感じられる。 これを付ける度に、俺は自分が人間でなくなるような気がするのだ。 そのことへの不快感が、息苦しさとして表れているのかもしれない。 被りものを付け、むき出しだった背中を耐炎・耐衝撃線維で覆われ、短機関銃や散弾銃といった市街戦用の武装を付けた俺達は、外へ出た。 整備兵によって開けられた、装甲トラックの最後部の両開き戸から外へ出た俺の目に映る街は、いつもと違って見えた。 闇夜に包まれた建物の群は、特装服内の装置によって絶え間なく摂取される、感覚を鋭敏化する薬剤の影響で、奇妙にくっきりと見えていた。 そして体は、全て合わせれば成人女性と同じくらいの重量の装備を身に付けているにも関わらず、強力な牽引力と、動作への高い追随性を持つ人工筋によって、恐ろしく軽やかに動いている。 今の俺は人間じゃないな、という気持ちが、さらに強まるような気がした。 金属と人工筋で出来た鬼となった俺達の周りには、同じように特装服に身を包んだ襲撃小隊の面々、そして特装服は身に付けていないものの、銃火器で武装した兵士達が無数にたむろしていた。 全部で十人を超える特装服を身に付けた者の中で、一際巨大なモレスキが、小隊長の特装服と何事かを確認している。 しばらくの話し合いの後、モレスキは俺達の方を向いて「行くぞ」と言った。 右手の銃把を握り直し、俺はモレスキの後に続いた。 * アズマ、という名前には、両親が生まれた国の言葉で、東方、東国、という意味があるらしい。 どうして俺にそんな名前を付けたのか、聞く前に二人は死んでしまっていたけれど、もう帰れなくなった故郷への憧憬であろうことは簡単に想像できた。 この連邦という国からいくつもの山と海を越えた先にある故郷の島国を、俺の生まれる遙か前に、両親は追われていた。 向こうの方では格式の高い武家の出身ながら、政治的な革命を目指して活動していたという両親は、国内で迫害を受け、命の危険から、遠いこの国へ逃げのびてきた。 しかし、言葉から、食べるもの、仕事、習慣、人間関係の全てが異なるこの国での生活は両親にとってはかなり厳しいものだったらしい。 二人とも弱音のようなものを俺に話すことはなかったものの、心の中では、いつか祖国へ戻ることを望んでいたのだろう。俺や、死んでしまった妹の名前には、そんな想いが込められているようだった。 しかし、両親と違って、俺は生まれ、育ったこの連邦という国に愛着のようなものはほとんど持っていない。 白色人種以外の人種は劣等人種、という思想が染み付いたこの国で、俺や家族は酷い差別を受けてきた。肌が黄色いからと言うだけで汚物を投げられ、突然殴りかかられたこともある。まともな仕事に就くことはことは出来ず、餓えと貧しさが常に俺達家族には付いて回った。俺が十三歳の時に両親が死んだのも、そのすぐ後に妹が死んでしまったのも、理由の大元は黄色人種への社会からの差別だった。 そんな連邦という国から、俺は一刻も早く出たかった。 連邦の有数の地方都市であるこの街には縦横に路面電車が走っている。 自家用車はかなりの世帯に普及しているが、古くから整備され、街の主要路に張り巡らせられた路面電車を利用する人は未だ多く、昼過ぎのこの時間帯でも座席の半分くらいは埋まっていた。 黄色人種の俺が電車へ乗るのを見ると、大方の連中はちらと視線を寄こすだけだったが、何人かの人間は露骨に顔をしかめた。 公式には差別撤廃、人種平等を謳っている連邦だが、そのために罰則のある法律はなく、古くから人々に根付いている差別感情は未だ深いものがある。 入口近くの隅の席に俺が腰かけると、その二座席程隣に座っていた老婆が何事か呟きながらさらに二座席、俺から遠ざかった。 慣れた反応だったが、不快であることに変わりはない。俺は一つ鼻息を吐くと、早々に目を閉じ、自宅近くの駅に着くまでそうして過ごすことにした。 街の中心地である官庁街、商業街から路面電車で三十分ほど行った、労働者向けの集合住宅の一角に、俺が住む家はある。 築二十年ほど、外見はそれ相応に古びてはいるが、作りはしっかりとしていて、間取りも一人暮らしには十分だった。 大家は純潔の白色人種のオヤジだったが、もともと工場勤務で有色人種と親しく付き合っていたそうで、俺の入居も快く受け入れてくれた。 集合住宅の入口を開けると目の前にらせん階段があり、その入り口の左右両側に住宅に繋がるドアがある。 その右側のドアが大家の家のものだが、ノックしてみても返事がないため、どうやら買い物か何かに出かけているらしい。 帰宅の挨拶は後ですることにして、俺はらせん階段を登り、二階の自分の部屋に戻ることにした。 鍵を開けて、部屋の空気を吸いこむ。 三日ぶりに戻る部屋は懐かしくもあり、一方で孤独のようなものが染み付いているような気がした。 それまで履いていた編みあげのブーツを脱ぎ、玄関から真っ直ぐ伸びる廊下を通って居間に向かう。通りに面した窓を開けると、淀んだ空気を押しのけるように、外から心地よい風が吹き込んできた。 少しだけその空気を味わってから、キッチンへ行ってヤカンでお湯を沸かす。 しゅんしゅん、とヤカンが鳴り始めると、棚の中から取り出したお茶のパックで、お茶を作る。 透き通った赤色のお茶を二つのカップに分けると、一つはテーブルの上に置き、もう一つのカップを持って、居間の片隅に設えた木の台へ向かう。 その上には、二つの写真が写真立てに入った状態で置いてある。一つには緊張した面持ちで写真機に向かっている、若かりし頃の両親、もう一つには、公園で遊びながら、無邪気な笑顔を写真機に向けている妹のカエデが、それぞれ映っている。 カエデは、両親の生家の家紋に使われていた植物の名前で、秋口になると葉が鮮やかな紅色に染まるのだそうだ。もっともその名前に似合わず、カエデは元気でお転婆な娘だったが、そんな彼女も病には勝てず、両親が酔漢に刺されて死んだあと、後を追うようにこの世を去っていた。 そんな三人の写真の前に、湯気のくゆるカップの一つをその前に置くと、俺は両手を三人に向かって合せた。 どれくらい合っているのかは分からないが、両親の出身の国では、こうして死者を弔うのだそうだ。 十秒ほど瞑目して手を合わせてから、俺は椅子に腰掛け、もう一つのカップに入れたお茶を飲み始める。 表情一つ変えない、両親とカエデの写真を眺めながらお茶をしばらく飲んでいると、頭と全身に張り付いていた緊張がほどけていくような気がした。 頭の中に、くらり、と眠気が襲ってくるのを感じる。椅子に腰かけたまま、俺は目を閉じ、眠りの中へ落ち込んでいった。 耳には、昨晩の銃声がまだ残っていた。手には、昨日殺した男の感触がまだ残っていた。 * 襲撃する建物の一室には、吸血鬼の五名の他にその〝餌〟になっている民間人が数名いると想定されていた。 今回、そこに吸血鬼がいることが確認されたのも、きっかけは建物の周辺で続発していた失踪事件だった。 吸血鬼は定期的に人の生き血を吸わなければならない。生き血を飲まなければ死ぬ、という訳ではないらしいが、一定時期、血を飲まないでいると、依存症の禁断症状のようなものが出て、活動力が極端に低下してしまうそうなのだ。そのため、街に潜伏する時、連中は民間人を何人か連れ込み、生き血を補充するためのサーバー代わりにする。 不自然に数の多い事件を不審に思った、四○一大隊の情報小隊が周辺地区を張っていたところ、女性を暗がりに連れ込む男を見つけ、それが数年前に確認された吸血鬼の一人であることが分かった。 潜伏先と見られる建物を特定したところで、急きょ、襲撃計画が練り上げられた。その男は吸血鬼の中でも下っ端に属する奴で、捕らえたところで旨味はあまりないと考えられていたが、市民への被害が続発していた為、放っておく訳にはいかなかった。 トラックを停めたところから、最初は一塊で移動していた襲撃小隊は、目標の建物が近づくと三方に分かれた。 旧市街地の片隅の通りに面した、平屋の事務所が今回の作戦の目標だった。 事務所は、この国で事業を新たに開始するという外国人の名義で借りられている。吸血鬼はどういう訳か、この連邦という国ばかりを目標にしている。連中が入り込まないよう、連邦の入国管理局も色々と手を尽くしているらしいが、奴等は外国人や連邦人の名義を使って、いつの間にかこの国に入り込んでいる。 吸血鬼がいるであろうその建物の、通りを挟んだ向かい側に第三分隊が陣取り、吸血鬼が逃げ出した時や、不測の事態に備える。突入を担当する第一分隊、そして俺達第二分隊は、建物へ向かって移動する。 建物は大部屋二つに、小部屋が一つ、それに地下室から成る。その内、吸血鬼が陣取っているのは地上階の二つの大部屋、それに地下室だと事前に入手した間取りからは予想されていた。複数の部屋のある建物を襲撃する場合には、敵が対処する隙を与えないために、各部屋を同時に突入することが望ましいのだが、地下室への進入口が発見出来なかったために、今回はまず二つの分隊が大部屋のそれぞれを同時に襲い、その後、間髪入れずに地下室を制圧することになっている。 大部屋の内、正面入り口に面している方への突入を俺達が担当し、そこから見て裏手側のもう一つの部屋へは、第一分隊が突入することに計画ではなっていた。 俺達は建物の入口に向かって移動する。 大量の装備を抱えた状態での移動だったが、物音は立てられない。異常な怪力を持つだけでなく、吸血鬼は感覚も優れていて、たとえ建物越しだとしてもこちらの気配に気付かれる可能性があった。 移動する順番としては、先頭に俺、その次にモレスキ、エルサが続き、最後尾はユーリが固めている。 短機関銃を視線と一体になるように構えたまま、俺は街路を移動する。入口の脇に俺が膝をつくと、少し間を置いてモレスキが俺の左肩をぽん、と叩いた。全員が配置についた、という合図だ。最後尾のユーリが配置についたところで、その前のエルサの肩を叩き、エルサはその前のモレスキを、という手順になっていて、これで俺は声を出さなくても背後に続く全員が配置についたことを知ることが出来る。 これもまた、徹底的な反復訓練で叩き込まれたことの一つだった。 中隊司令部からの指示を待つ間、中の様子に耳をそばだててみるが、物音は奇妙なほど聞こえてこない。気取られてるか、それとも寝ているだけなのか、いまいち判別は付かないまま、耳に付けた通信装置からは「突入準備」と指示が入る。裏手の第一分隊も、準備が完了したらしい。 入口の右脇についた俺の横を通り、モレスキが向かい側に移動する。俺の背後に陣取ることになったエルサが、握った散弾銃を、ドアの取っ手に向かって構えた。銃口の脇で、俺はポーチから閃光手榴弾――爆発すると光と音をまき散らし、敵を行動不能にする特殊な手榴弾を取り出し、その安全ピンを引き抜いた。 敵を皆殺しにするのなら普通の手榴弾――爆発と共に破片を周囲に飛ばすものを使えば良いのだが、それでは人質がいた場合、一緒に殺してしまうことになる。閃光手榴弾もまともに食らえば火傷や怪我は避けられないが、致死的な怪我は避け、なおかつ敵の行動力を奪うことが出来る。 状況が不明確な突入作戦で、必須の装備といえる閃光手榴弾、そのピンを抜いた俺を見たモレスキは、左手を突き上げる。すると、建物の中から漏れ出していた明かりがふ、と消えた。地下か、どこかに陣取った部隊の手によって、電線が切断されたのだ。 それから間もなくして「突入」と無線が短く言った。 エルサの散弾銃が火を噴く。 取っ手が吹き飛び、モレスキがドアを蹴破ぶる。ドアの隙間から閃光手榴弾を俺が放りこむと、全員がドアの脇へ身を隠す。 内部から悪態が聞こえてくるのとほとんど間を置かず、閃光手榴弾が炸裂する。 その直後に、モレスキが内部へ侵入する。そのデカイ背中を追って俺も続く。 普通のテロリストが相手なら、後は閃光手榴弾で動けなくなった敵に銃弾を撃ち込むか、拘束すれば良い話だが、俺達の相手は化け物だった。 モレスキに続いて中へ入ったとき、何か巨大な物が俺達に向かっていた。 木で出来た大きな事務用の机だった。モレスキの肩越しに前方を見てみると、吸血鬼と思しき男が二人いて、一人が机を俺達に向かって投げる一方、もう一人の男は大部屋と隣り合う、小部屋に向かって走っていた。 どうやら連中は今投げている机の裏にでも隠れて、閃光手榴弾から身を守ったらしい。 突然の襲撃にも素早く対応する能力は、さすがは吸血鬼だった。 だが、化け物具合ならこちらも負けてはいない。 自分に向かって投げられた机に向って、モレスキは左腕を一閃した。もともとの筋力、そして人工筋による強化、薬剤による反応時間の短縮によって高い威力を持った左腕は、がっしりとした造りの机を容易に弾き飛ばした。 予想外のことに呆けた顔をした吸血鬼に、モレスキは右手に握った短機関銃を腰だめのまま連射した。 秒換算で六百発に及ぶ銃弾の雨を受けた吸血鬼は、無数の穴を体に開けた状態で倒れた。その男に止めを刺す間もなく、今度は小部屋に逃げ込んだもう一人が、銃を持って出てきた。 紛争地帯で好んで使用される突撃銃だった。そいつに銃口を向けるのが間に合わない、と判断したモレスキは、体の正面をその男に向け、腕で顔と胸をかばいつつ、体をひざまずかせた。 突撃銃から放たれた銃弾が、モレスキへ突き刺さる。うめき声一つ立てずそれに耐えるモレスキの肩越しに、俺は自分の短機関銃を、男へ向かって放った。 十数発の弾丸を受けて、男は銃を握ったまま倒れた。 男の倒れるのとほとんど間をおかずに、ひざまずいていたモレスキが何事もなかったかのように立ち上がった。 「怪我は?」 「問題ない」 間髪入れず「リロード」と言って弾倉を交換するモレスキの援護に入る。 鋼板とセラミック、そして人工筋肉で体の主要部が覆われた特装服は、拳銃弾や、小口径の突撃銃の弾丸ならば耐えることが出来る。それでも当たり所が悪ければ銃弾は体を貫通するし、貫通はしなくても衝撃で体はダメージを受ける。それも体内に入っている薬剤のおかげか、戦闘中は気にならなくなってしまうのだが。 素早く予備の弾倉を短機関銃に叩き込んだモレスキは、小さく頷き、リロードを終えたことを伝えてくる。 それを確認した俺達は、部屋の中に他に吸血鬼がいないか素早く確認する。 俺は地面に倒れ伏した吸血鬼の一人に近寄ったが、その、急所を弾丸で何カ所も貫かれた男はまだ生きていた。 大量の血液を流し、息も絶え絶えで、意識がもうろうとした様子ではあったが、その無数に刻まれた銃創のいくつかは既に血が止まりかけていて、このまま放っておいても命は助かるのは間違いなさそうだった。 この、驚異的な回復能力も吸血鬼の能力の一つだった。頭を潰すか、心臓を徹底的に破壊しない限り、行動不能には出来ても吸血鬼を殺し切ることは出来ない。その能力は未知なところが大きく、そのため、吸血鬼相手に戦闘をしても、研究のために極力生け捕りにするよう、上からは命令されている。 猛毒を持つ血液に極力触れないようにしながら、男の両手を腰の辺りに回して手錠をかける。男は抵抗するそぶりを見せなかったが(というよりも出来なかったのだろう)、俺が触れた時、憎々しげに何事かを呟いた。 外国語なので意味は分からなかったが、それは多分、“死ね”とか“触るな”とか、そういうニュアンスが含まれていたのだろう。 「制圧!」 もう一人の、小部屋の入口で倒れた吸血鬼(そいつもかろうじて生きていた)の他に、誰もいないことを確認すると、モレスキはそう大声で叫んだ。 俺達のいる大部屋と隣り合うもう一つの大部屋からも同じように「制圧!」という声が聞こえてくる。向こうの部屋への襲撃も、上手くいったらしかった。 もう一体の吸血鬼にも手錠をかけ、俺達は隣室へ移動する。残る地下室へは、その部屋からしか下りられないからだ。 隣室には小隊長を含めた、第一分隊の隊員が五人と、撃たれた吸血鬼が二体いた。吸血鬼の内一体は頭から上がなくなっていて、もう一体は右腕がなくなり、左腕と両脚を繋がれた状態で、拘束されていた。 「残りは地下にいるらしい」 小隊長がそう声をかけると、モレスキは小さく頷いた。 「自分達が突入します」 「いや、しかし」 「クサカベ、先行しろ」 小隊長に有無を言わせず、モレスキは残る地下室へ向かった。そんな部下の態度に、小隊長は何も言わなかった。 薄汚れたコンクリートの階段を、慎重に、ゆっくりと下りていく。電気が消され、真っ暗闇となった階段の狭いスペースを、銃口の下に取り付けられたライトの作る光が一筋の線となって切り裂く。 あと一段で開けっ放しになった地下室のドアに辿り着くところで、「動くな!」と、訛りの酷い連邦語が投げつけられた。 足を止めて、中から聞こえてきた男の声に耳を傾ける。 「変なことはするな! こっちには人質がいる、銃を捨てて上に行け!」 「落ち着け、抵抗は無駄だぞ」 興奮しきった男とは対照的なモレスキの声が闇に響く。 「抵抗しなければ命までは奪わない。君こそ銃を捨てて、出てくるんだ。命を粗末にしてはいけない」 「うるさい!」 地下室から、二回ほど銃声。その後に、押し殺した女性の悲鳴が続く。 「言う通りにしなきゃ人質殺す!」 「分かった、銃を捨てる」 そう言いつつ、モレスキが自分のポーチから閃光手榴弾を取り出すのが分かった。 「だから、君も落ち着くんだ」 そこで、わざとらしい咳を一回。咳の音に紛らわせるように、手榴弾のピンを抜いた。 指示も、何も必要もなかった。閃光手榴弾を地下室の中へモレスキが放り、その炸裂を見届けてから、俺は中へ突入した。 閃光手榴弾の放った煙の臭いに混じって、強烈な死臭がマスク越しに伝わってくるような気がした。 マスクで密閉された鼻に、実際はそんな臭いは届くはずがない。ただ目に入ってきた視覚情報が、そんな錯覚を起こしていた。 明かりといえばドアから差し込む、上階からの光程度だった。上階からのそれも、第一分隊が破壊した窓から差し込む外の街灯程度で、光としてはほんの僅かなものだったが、体に投与された薬剤によって鋭敏さを増した視力、そして目が闇に慣れたことで、地下室の内部は、物の輪郭程度ならばしっかり把握することが出来た。 少なくとも、四人分の死体が地下室には打ち捨てられていた。それを背に、生き残りの〝餌〟である全裸の女性を楯に、吸血鬼が立っていた。閃光手榴弾で目をくらませながらも、男は人質の女性はしっかりと捉えたまま、持っていた拳銃を俺に向けようとしていた。 クソ野郎、と毒づきながら、握っていた短機関銃の弾倉を外す。薬室に残っていた一発を天井へ向かって撃って暴発の危険性を無くしてから、短機関銃を部屋の隅へ向かって放る。そして、俺は素手で男へ向かった。 男へ向かって走り込む途中、男の握っていた拳銃が数発発射される。しかし銃弾は俺ではなく、部屋の隅や、壁の方に向かっていく。 銃弾から顔をかばうように両腕を組みながら、男へ接近する。男から、力任せに人質になっていた女性を引きはがすと、銃を握っていた男の手首を力任せに握りつぶす。 特装服によって強化された筋力によって、強靭なはずの吸血鬼の骨は枯れ枝のように折れる。 ぎゃあ、と叫ぶ男の喉元に、今度は手をかける。筋肉や気道もろとも、男の頚椎を、俺は砕いた。 肥溜に捨てるのがお似合いのクソ野郎。 首に手を掛けるまでは、そう思っていた。しかし手の平に骨が砕け、生命が絶たれる感触が伝わると、言いようのない不快感が、全身を襲った。 頚椎を砕かれた男の顔が、だらん、と変な方向を向く。 その瞬間、脳裏にあの女の子の様子が浮かぶ。 三年前、吸血鬼に襲われていたあの女の子。 首を噛みつかれたあの子も、首が折れ、顔が異様な方向へ向いていた。 * 目覚めたのは真夜中だった。 いつの間にか全身は汗でぐっしょりと濡れ、心臓はバクバクとやかましく、息もランニングをした後のように荒かった。椅子の背もたれから体を起こし、なんとか体を落ちつけようと深呼吸を繰り返す。 もう終わったことだ、と自分に言い聞かせる。 俺がああしなければ、人質は誤射で死んでいたかもしれない。 あの後の現場検証では、既に死んでいた人も含めて、人質全員が女性で、全員性的暴行を受けた上で、血を吸われていた。そして、生き残りの女性は他の人々が死んでいく姿を見せられながら、生かさず殺さず、血をすすられ続けた。 あいつらは薄汚れた地下室でくびり殺されても良いような連中なのだ。 だから、お前が罪悪感を覚える必要は全くない。 あの男をくびり殺した俺は、あの、無垢な女の子を噛み殺した男と同じ存在である訳がない。 大丈夫。 大丈夫。 自分にそう言い聞かせる内に、心臓の拍動は徐々に落ち着き、呼吸もいつものリズムを取り戻していった。 それでも言いようのない不快感が背筋に残るのを感じながら、椅子から立ち上がり、キッチンで水を一気に三杯飲んだ。 今度は自室のベッドへ倒れ込み、目を閉じてみたものの、神経は興奮しきってしまったらしく、眠りが訪れる気配は全くなかった。 仕方なくベッドから下りて、今度は湯を沸かしてお茶を作る。 お茶をカップに入れて居間のテーブルに腰かけると、それを飲みながら、俺は夜明けが訪れるのをそのまま待った。 朝日が昇った後は、溜まった家事を片付けることにした。 簡単な朝食を食べて、掃除、洗濯、そしてベランダで育てている観葉植物の水やりをする。 それをする内に頭からは昨晩のことは流れ落ちていった。 作戦の後に服用した、精神安定剤のおかげもあったのだろう。いそいそと働き、少しすっきりとした気分を味わった俺は、今日はどうするか、と部屋で一人呟いた。 今日は久しぶりの非番、休みの日で、一日自由に過ごして良いことになっている。 もっとも、こうして休みを与えられても、俺は持て余してしまうことが多い。普段忙しいことの反動か、いざ一日を自由にしていい、となっても、どう過ごせば良いのかが分からなくなってしまう。残りの半日どう過ごすか少しだけ考えてみたけれど、特に良い考えは浮かばず、とりあえず少しだけ凝った昼食を作ることにする。 ジャガイモと青菜の炒めもの、牛肉と野菜の南方風煮込み――という無国籍な昼食を終えた後は、少しだけ昼寝をして、その後、筋トレをすることにした。 そこそこハードで、長い筋トレを終えても、まだ三時にならないくらいの時間だった。 仕方ないのでレコードでも聞きながら、小説でも読むことにしたその時、居間の壁に何かがこつん、と当たる音がした。 黄色人種の我が家では、石を投げられることもそれほど珍しくもないのでそのまま無視していたのだが、反応が無いことを見ると、石を投げた当人が「おいアズマー!」と外から声をかけてきた。 聞き覚えのある声に顔を外に出してみると、ユーリ・シュアマンが下で手を振っていた。 「飲みに行こうぜ!」 応じた俺の顔は、少しだけ引きつっていたかもしれない。 ユーリと休みの日に飲みに行くのは珍しいことではなく、行きつけの酒場や、あいつの家にお邪魔することもよくある。 ただ今日は、ユーリの後ろにいつもならいない、一人の人影があった。 エルサ・グリムが相変わらずの物憂げな表情で、ユーリの後についていたのだ。 「いやーやっぱ綺麗な女がいると酒の味が違うねえ!」 げはげは、とビールを飲みながらユーリは笑う。丸テーブルを挟んだ向かい側の席で同じようにジョッキを傾けながら、俺は左隣りに座ったエルサをちらりと見た。 俺達はいつもユーリと飲むときに使っている酒場〝アルハンブラ〟にいた。 そこへ向かう道中も、いざ入って杯を重ねても、エルサは無言のまま酒を飲むだけだった。 特に仲が良い訳でもない俺とユーリと酒場に入ったのはどういうつもりだ、とただ無表情にビールを飲むエルサを見ながら思った。 「おいアズマ、どうだい! ただ冷たいだけの気の抜けたビールが、美女がいるだけでこんなにも美味くなるのは不思議だよな!」 「別に変わらねえぞ」 「ああ……」 ユーリは大仰に顔を覆い、顔を横に振って見せた。 「どうしてそうそっけないことしか言えんのだクサカベ上等兵! 付いてんのかお前!? ……おおっと、何が付いてる、とは言わないぜ。淑女の前でそんなこと言えないからなあ!」 そしてまたげはげはと、ユーリは笑った。店に入る前から上機嫌だったユーリは、二、三杯麦酒を飲んだだけだというのに既に出来上がっているようだった。 ここまでユーリが喜んでいるのは、まず間違いなくエルサが来てくれたせいだろう。 人が好いこいつは、今まで話もしなかった(それも一般的な感覚で言えば美人の部類に入るらしい)エルサが酒席をともにしてくれていることだけで嬉しくなってしまったのだ。 自分で言って自分で大笑いしているユーリから視線を外し、エルサに顔を向ける。 長い黒髪を、仕事の時のように後ろで結わえず、自然に流すままにしたエルサは、ほんのりと化粧もしているようだった。それが外に出るせいか、俺達と一緒にいるせいかは分からないが、いつもと違う様子のエルサは、よく見れば確かに綺麗だった。 間近で見ると、彼女の肌はきめ細やかで、座った姿にもどこか淑やかさのようなものが感じられる。 もしかしたら、良いトコのお嬢様だったのかもしれないな、と思いながら見ていると、それまでテーブルを見ながらビールを飲んでるだけだったエルサが顔を上げて俺の方を見た。 「何か、顔についてる?」 口に含んでいたビールをむせ込みそうになりながら、「いや別に」と彼女に返す。 「俺らなんかとお前が飲む気になるなんて、どういうつもりかな、と思ってさ――」 「別に、深い意味はないわ。分隊員同志で飲むなんて、珍しくもないでしょ?」 いや今まで無かっただろ、と内心で思わず突っ込む俺の横で、エルサはぐい、とジョッキを傾けた。 「お代わり」 「おいババア! 美人にビールもう一杯!」 エルサの言葉を聞き逃さず、すかさずアルハンブラの女将に叫んだユーリは、次いでさりげなく、手をエルサの手を重ねようとした。 酔った様子の微塵もないエルサはユーリの手をついと避け、わきわきと指を蠢かせていたユーリの手はテーブルに転がっていたピーナッツの上に置かれる。 避けられたことも気にしていない様子で、ユーリはじっとエルサを見た。 「何にせよ、来てくれて嬉しいぜエルサ。今日のあんたはいつもよりずっと綺麗だ」 「あなたの目がおかしくなってるんじゃないの、シュアマン伍長」 「そうかもしれない。君の魅力にちょいと頭がとろかされてるのかもしれないな」 「それは口説いてるのかしら、シュアマン伍長?」 「ふっ、ただ事実を話しているだけさ」 「確かあなたは妻帯者だと思ったけど?」 「……あんなのはただ長く一緒にいるだけの、そう、姉みたいなもんさ。だから――」 「おいユーリ」 目がマジになっているユーリへ顔を近づけ、囁くように言ってやる。 「カーチャが来てるぞ」 それまでエルサをじっと見ていたユーリは、まるでバネ仕掛けの人形のように瞬間的に体をテーブルの下に隠した。 テーブルの下で、ユーリは必至に周囲を見回しているようだった。ちなみにカーチャというのは、ユーリの嫁のことだ。 「おい、アズマ、どこだ、どこにいる」 「嘘だよ馬鹿」 そう言いながらビールを飲んでいると、脇でくすくす、とエルサが笑っていた。 目を細め、口に手を当てて小さく笑う姿は、普段の捉えどころのない様子とはかけ離れていた。内心で俺が驚く横でエルサは掌で顔を隠して笑い始めた。爆笑しているらしい。 「……ごめん、あんまりにも面白くて」 「お前でも笑うんだな」 思わずそう言ってしまうと、エルサは顔から手を離して「ひどい」と言う。 「まるで私が機械か何かみたいじゃない」 「いや悪かった。でもお前、俺達の前じゃ今まで全然話してこなかっただろ」 「そうかもしれないけど、おかしいことがあれば笑うのは別の問題でしょ」 エルサがそう言う横で、ユーリがため息をつきながらテーブルから這い出してきた。 「そうだアズマ。失礼なことを言うんじゃない。そして嘘をついちゃいけません、ってママに言われなかったのか」 「育ちが悪くてな。そういう記憶は全くない」 と嘘を言いつつビールを飲む。 「ユーリの奥さんってそんなに怖いの?」 「怖い。良い人なんだけどユーリには厳しい。一度こいつの家に行ってみると良いぞ。面白いから」 「アズマ、命令だ。あんまり人の家庭事情を話すんじゃない」 「さっき、嫁さんのこと〝姉みたいなもんだ〟って言ってただろ? 実際に姉さん女房でな、よく泣かされてんだよ」 「だから話すなって言ってんだろ……」 そうしてしばらく、俺とエルサはユーリをいじりながら酒を飲み続けた。 思いもよらず、エルサとの飲みは楽しい時間になった。三人で馬鹿なことを話していると、いつの間にか夜は更けていき、周りにいた客も徐々に少なくなっていった。大分酔いが進み、少しだけ平衡感覚に不安を覚え始めた頃、見計らったようにユーリがお開きを宣言した。 「明日からまたクソみたいなお仕事があるからな」 「二軒目は?」 エルサはそう言って、ユーリに向かって首を傾げる。 かなりの量――多分俺の倍は飲んでいたが、その顔はちょっと赤くなった程度で、まだまだ表情には余裕があった。 「エルサくん、私の話を聞いてなかったのかね? 公僕たる我々は節度を持って飲酒しなければならんのだよ。故に、今日は帰る」 「嫁も怖いからな」 「張り倒すぞアズマ」 それでもまだぶうぶう言うエルサを引っ張って、俺達は店を出た。 家がアルハンブラの近くにあるユーリは、店を出るとさっさと俺達から離れていった。どうやら帰る方向が一緒らしい俺とエルサは、連れ立って路面電車の停留所に向かった。 停留所へ向かう道すがら、エルサは俺の前を歩きながら鼻歌を歌っていた。少しだけ足元をふらふらとさせながら、上機嫌に軍隊式のグース・ステップを踏む彼女は、つい昨日まで俺と話しをしようともしなかった女とは思えなかった。 多分、何かあったんだろうな、とその様子を見ながら思った。 俺達への無関心、不干渉を貫いていたこの女が急に態度を変えたのには、何か理由があるのだ。自分の気分を恐ろしく落ち込ませたり、追い込むような出来事が。俺とユーリとつるんだのも、気持ちを紛らわすためだろうと、まとまりのつかない酔った頭で思った。 停留所に着くと、ちょうど路面電車が停まっていた。なんとか出発する前に中へ走り込むと、俺達以外に乗客は誰もいなかった。 俺は、先に中に入ったエルサの向かい側の席に座る。 ふう、とアルコールのかなり混じった息を吐く俺を、エルサは何故か不満そうな目で見てきた。 「何で隣に座らないの?」 「年頃のお譲さんの隣に座って良いもんかね?」 「いいのいいの。私達の仲じゃないの」 何だかんだでこいつも大分酔ってるらしい、と思いつつ、言うことを聞かないと面倒そうなので、エルサの隣の席に移動した。 うふふ、とか言いながらエルサは俺の腕に体をもたせかけてくる。 「楽しかったねーアズマ。また飲もうねー」 「おい、あんまり近付くな酔っぱらい」 「勃っちゃった?」 「馬鹿か」 あっはっは、エルサは酔った中年の親父のように笑った。 「あー良い気分」 「そりゃ良かった」 「今日はほんとありがとね。久々に楽しかったわ」 「他に一緒に飲む奴はいないのか?」 「いないよ。昔のお友達とは音信不通だし、肉親はもう皆死んじゃったし」 「飲む相手といえば、移民と黄色人種だけって訳だ」 「何よ、皮肉?」 「実際そうだろ? 今まで話しかけもしなかった俺達と飲もうってのは一人に耐えられなくなったってっことだろ?」 「まあ、そうなんだよね」 脳天気に笑ったまま、エルサはさらにこんなことを話した。 「ちょっと前に、お父様が死んだの」 そう話すエルサの顔色に、悲しみのようなものは浮かんでいなかった。 むしろ、その一言を言った彼女の顔には安堵のようなものさえ浮かんでいた。 「何年も入院して、苦しみ抜いた末に死んだわ。とは言っても、元気な時にも私達に迷惑をかけたり、入院した後も頭がおかしくなったりしてたような人だから、死んだ時は正直、せいせいした。死んで二か月経つんだけど、ふと最近になって、寂しさみたいなのに襲われるようになったの。ああ、これで私は一人になっちゃったんだな、って。そんな時に、ユーリが声をかけてくれたの」 「ふぅん」 そう俺がため息をつくと、エルサは頬をむっと膨らませた。 「何よその反応。人が自分の身の上話をしたっていうのに、ひど過ぎない?」 「いや、お前等でも普通にそういう気分になるんだな、って思ってさ」 「……あんた、失礼過ぎる、って人から言われない? っていうかお前等って何よ?」 「白色人種のことさ。ガキの頃からこの国で生きているけど、白色人種から人間扱いされたことがほとんどなくてな。こいつらは俺達みたいに苦しんだり、寂しくなったりしないものだと思うようになってたんだ。でも、お前の話を聞いて、そうでもないんだな、って思った訳さ」 「私達だって、血の色は赤いんだから」 「青色だと思ってた」 「全く……」 少し酔いの醒めた様子のエルサは、苦笑いを浮かべて俺の軽口を聞いていた。 「それを言ったら、私だってあなた達の血は黄色いと思ってたわ」 「へえ?」 「連中は顔や肌だけじゃなく、性根も卑しい。我々のような思考力を持たず、ただ欲望のままに生きる下等人種だ――って、死んだお父様は使ってる有色人種を指してよく言ってた。多分、私だけじゃなくて、この国にいる白色人種はあらかたそういう風に言われながら育ってきた。だから、私も大隊に配属されて、あんたらと一緒に仕事をすることになって、正直身構えたわ。酷いことされたらどうしよう、って。でもね」 膝の上で絡ませた両手の指を見ながら話していたエルサは、そこで顔を上げて俺の目を見た。ちょっとだけ恥しそうな顔をして、エルサは言葉を続けた。 「実際にあなた達と仕事をしてみたら、聞いていたよりもあなた達は有能で、誠実で、勇敢なんだな、って思ったの。昨日だって、吸血鬼相手に、ひるまず、人質を助けたし……」 一瞬だけ、手のひらに骨を砕いた感触がよみがえる。それは無視して、エルサの顔へ注意を向け直す。 言ってて自分で恥ずかしくなったのか、エルサの言葉は尻すぼみに小さくなり、顔もいつの間にか伏せられてしまった。 「別に、倫理感とかで仕事をしてる訳じゃねえよ」 言われたこっちまで恥ずかしくなってきて、それを隠すために、俺は大げさにふん、と鼻で笑ってみせた。 「全ては金のためさ。真面目に仕事をしてるように見せておけば、首にもならないし、給料も上がるかもしれない。だから多少、無茶をする。それだけの話さ。お前のお父様が言ってたように、ただ欲望のままに生きる下等人種っていうのはあながち間違いじゃないぜ?」 「そうかな」 そこで列車ががくん、と音を立てて停車した。 小さく、あ、と呟いたエルサは窓の外を見渡し、「私、ここで降りなきゃ」と言っていそいそと席から立ち上がった。 「送るよ」 「いいよ。家までは歩いてほんの少しだし。私だって四○一の隊員なんだから」 「ま、そう言うな」 「だから良いって――」 「まあまあ」 頑なに拒むエルサの先に立って運賃を払い、電車を降りる。 エルサの家は停留所から少しだけ路地に入ったところにあった。俺の家と同じ、労働者向けの小さなアパートだった。 「……変なことしに来ないでよね」 「来ねえよ馬鹿」 じろりと俺を見てから、エルサは玄関のステップを上がろうとした。 最初の一歩を踏み出した時、その体がふらりとバランスを崩した。 反射的に、その体を抱きとめる。 大隊の隊員として日夜ハードな訓練を重ねているせいで、エルサの体は固く引き締まっていた。しかしその分を差し引いても、俺と比べてその体は小さくて、細い。思わぬ儚さに少しだけ驚く。アルコールの匂いと混じって、何か甘い匂いがその体からはするような気がした。 「大丈夫か?」 思わずドキドキしてしまったのを悟られないよう、つとめて事務的にそう尋ねる。 エルサの方もすぐに体を離し「ごめん、結構酔ってたみたい」と言った。 「じゃあ、気をつけろよ」 「ありがとう」 そう互いに顔も合わさず言いあうと、俺はその場を足早に離れた。 アルコールとは別の理由で、心臓が強く鳴っていた。 「ああ、くそ」 そう誰に向けてでもなく毒づきながら、自分がそう悪い気分ではないことに気が付いた。 * 第四○一特務衛生大隊は、その名称からして妙な部隊だ。 歩兵、戦車、工兵、砲兵、補給、憲兵、軍楽と、軍隊にはそれぞれ役割を持つ多くの兵科が存在するが、医療や防疫を担当する衛生部隊で、大隊規模を持つ独立部隊は連邦内では四○一くらいしいかないだろう。 しかもその任務は、本来の衛生科の仕事とは大きくかけ離れたものだ。吸血鬼によるテロ活動への対応は本来歩兵科か、最近になって多く編成されるようになっている特殊部隊が担当するものだ。 実質は市街地での対テロ活動を主任務とする四○一が衛生科とされているのは、その存在を秘匿するためでもあったが、構成する人員が移民や貧民層出身であることも関係していた。 二級市民の扱いを受けている連中に、伝統ある歩兵科を名乗らせたくない、と部隊が編成される際に歩兵科の将校から反発があったのだそうだ。そうした事情から、第四○一特務衛生大隊という奇妙な名前と奇怪な任務を持った部隊は設立されたのだった。 四○一は、その編成の中に三つの中隊とその支援部隊を持つ。 各中隊は、特装服を装備して吸血鬼との直接戦闘を担当する襲撃小隊、遠方から監視を行い、場合によってはライフルで狙撃を行う狙撃小隊、事前の偵察を行う偵察小隊等をそれぞれ持ち、中隊だけで一つの作戦を行う能力を持つ。 大規模な作戦となれば各中隊が合同で任務に従事することもあるが、基本的には各中隊がローテーションを組んで任務に当たる。 一つの中隊が事件に備えた警戒や作戦に当たっている間、他の中隊は訓練を行ったり、休養を取ったりする。 一つの作戦を終えた俺の属する第一中隊は、わずかな休みをはさみ、訓練期間に入っていた。 俺の前で膝をついたエルサが親指を立てる。 突入準備が整った、という合図だ。それを確認した俺は、握っている散弾銃の引き金を引いた。 反動と共に銃口から弾が発射される。蝶番に弾が当たるのと同時に、扉が蹴破られ、閃光手榴弾が中へ転がり、エルサを先頭に俺達は屋内へ侵入した。 順番はエルサ、ユーリそして俺だった。 俺が侵入した時には、エルサとユーリは持っていた短機関銃を左右に振り分け、中に設置された標的に向かって撃ちまくっていた。 二人の的確な射撃で標的のほとんどは既に打ち抜かれていて、俺が散弾銃を撃つ前に、「制圧!」というエルサの声が狭い室内に響いていた。 「状況終了」 メガホンで増幅されたモレスキの声が聞こえてくると、それまで暗闇に包まれていた訓練場に明かりが灯り、闇に慣れた目が少しだけくらむ。 目が光に慣れると、突入した部屋の様子が目の当たりになる。 部屋の中に置かれた人型の標的は、全部で六個あった。そのいずれの頭部にも、小さな穴がいくつも空いていた。 その内の一つの標的、そのすぐ横に座らされていた人影が、大きなため息をつきながら立ち上がった。 リー、という名前の同じ襲撃小隊の別の分隊にいる兵隊だった。人質役として標的の横に座らされていたのだが、幸運にも、弾には当たらなかったらしい。 四○一の訓練は人質役に本物の人間を使って行われる。実戦の緊張感を出すためで、実際、訓練を終えた俺の体はびっしょりと汗をかいていた。 さすがに銃弾は弾頭が木製のものを使用しているので、仮に当たったとしても相手が死ぬことはないが、それでもペイント弾や、模造銃を使った訓練に比べれば危険性と、精神的な重圧は計り知れないほど大きい。 「よう、俺の頭はここだぞユーリ」 そう言って自分の頭を指さすリーは、しかし顔にびっしょりと汗をかいていた。 「狙おうか迷ったがよ、綺麗なお顔に傷を付けちゃ可哀そうだと思ったんだよ」 「はッ! 言いやがるこの野郎」 「私語は慎め、さっさと部屋から出ろ。講評する」 ふざけ合うユーリとリーに冷水をかけるように、上からモレスキが声をかける。 訓練場は屋内に木製の仕切りを設けたもので、仕切りの上には訓練を担当する兵士が下の様子が見れるよう、足場が組まれている。 訓練はもっぱら大隊の訓練小隊が指導することが多いのだが、中にはモレスキのように自分の部下の訓練を直接見たい、という連中もいる。 訓練場から出た俺達はモレスキからの問題点を淡々と容赦なく指摘された上で、もう一度突入するよう指示された。また人質役になったリーはちょっと泣きそうな顔をしていた。 突入訓練を数度行い、今度は反対に人質役を何度か務めた後、俺達はようやくその日の訓練から解放された。 訓練場や宿舎、装備の整備所といった施設から成る第四○一特務衛生大隊の宿営地は、人気のない平原の中にある。数キロくらい西に行けば、部隊員の多くが住む地方都市があるが、宿営地周囲はほぼ完全な無人の荒野になっていて、見晴らしは物凄く良い。 訓練場から出て見上げた空は既に燃えるような橙色に染め上げられていて、殺伐とした訓練の後ということもあってか、恐ろしく美しく感じられた。 精神的な疲労も勿論のことだが、肉体的な疲労も常軌を逸していた。 訓練は屋内戦闘用の全装備を装着して行われるが、そこに筋力を補助する人工筋はない。つまりは自分の筋力だけで、防弾板、火器、ヘルメットといった三十キロ以上の装備を抱えて飛んだり跳ねたりしなければならない。 それを何度も繰り返した体は、一足前に出すごとに悲鳴を上げているようだった。 訓練場から出た途端、ユーリは装備を身に付けたまま地面にぶっ倒れた。 それを助け起こす余裕はなく、俺もその横で尻を地面についた。倒れたユーリはその口から、今際の際の遺言のように弱々しく言葉を吐いた。 「いつか死ぬと思う」 「人間、いつか誰でも死ぬ」 「でも訓練で死ぬのは願い下げだ」 「確かに」 身も心もガタガタになった俺達の横で、エルサだけは、なんとか最後の力を振り絞って装備を外した。 セラミックと鋼板を組み合わせたボディアーマーを外し、その下のアサルトスーツ――対燃・耐衝撃性に優れた素材で出来た戦闘服のチャックを外し、つなぎ状のそれから上半身だけをはだけさせると、訓練上の隅にある水飲み道へ向かって歩いて行った。 「訓練でただ一つ良いことを見つけるとすれば、だな」 「ああ」 「疲れで隙を見せた女性隊員のああいう姿を見れることだな」 「そうか」 アサルトスーツからノースリーブのインナーを覗かせた、汗に濡れるエルサは、確かに蠱惑的に見えるのかもしれなかった。しかし訓練に疲れた今の俺には、それに劣情を催すほどの余裕はなく、ただユーリの声に気の抜けた返事を出すことしか出来なかった。 しかし、ユーリと同じ気分になってるのはこいつだけではないらしく、訓練棟の脇に設けられたコースでランニングをする別の隊の連中もちらちらと、水道で顔を洗うエルサの方を見ているようだった。 ため息をついてから、俺も自分の装備を外す。 エルサと同じようにアサルトスーツから上半身をはだけさせ、同じように水飲み場に向かう。彼女の横で同じように顔を洗いながら、それとなく声をかけた。 「男共が見てるぞ」 そう俺が言うと、エルサは、ん? と水に濡れた顔を上げた。 そして体を起こし、周りを見渡す。エルサが顔を上げるのを見て慌てて顔を下げる男共(ちなみにユーリだけは顔を逸らさず、にっこり笑っただけだった)を見やった。 「何で?」 「その格好だ、格好」 「え? ああ……」 そこで初めてシャツ一枚の自分の上半身に気付いた様子のエルサは、慌ててアサルトスーツを着込んだ。 彼女の方を見ていた男連中から憎々しげに見られているのを感じていると、エルサが小さく「ありがと」と言ってきた。 「気を付けた方が良い」 そう言ってさっさと離れようとしたところで、「心配してくれたんだ?」とエルサは言葉を続けた。 「別に、そういう訳じゃない」 「ならなんで?」 「……女がそういう目で見られてるのが、なんか落ち着かなかっただけだ」 「それって心配してくれたってことなんじゃない?」 「そんなことは――ない」 歯切れ悪く答えた俺に、エルサはいじわるっぽく笑った。 あの飲み会以降、俺達はこうしてふとした時に話すようになった。話す中で分かってきたが、エルサは意外と冗談好きで、特に人をからかうのが好きなようだった。 容赦なく追及してくるエルサは少しだけ声をひそめ「本当かな?」と俺を見上げながら言ってくる。 「そうだよ」 自分でも口元がひきつっているのを感じながら、俺がそう答えると、エルサは楽しそうにふんふん、と笑った。 「またよろしくね」 そう言ってから、エルサは更衣室のある、宿営地の本部棟へ向かって歩き出していった。 夕闇の迫る空気の中で、徐々に遠くなっていくエルサの背中は酷く小さく見えた。 彼女が離れて、思わず俺は大きくため息をついた。そんな俺に、ユーリや、他の隊員が、余計なことをしやがって、と悪態をつきに寄ってきた。 エルサと言葉を交わしたのは、それが最後になった。 * 第一中隊の訓練期間はその日が最後で、俺たちの分隊はそこから二日の休みにはいることになった。 そのせいで、エルサの失踪の発覚は遅れることになった。 休養期間の後、エルサは宿営地へ出頭してこなかった。連絡もなしに欠勤をしたことを不審がった大隊の情報小隊――情報収集といった諜報を担当する部隊が、彼女が借りている部屋を確認したところ、エルサの姿は消えていて、何者かに荒らされていたことが発覚した。 その報告が四○一の本部に伝えられると同時に、全部隊が警戒態勢を取ることになった。 休養中の部隊も含めて、全隊が宿営地に集められ、エルサの捜索が秘密裏に行われることになった。 四○一は連邦軍外部はもちろん、内部に対しても存在が秘匿された秘密部隊で、隊員の素性も同様に秘匿されている。その隊員が何者かに襲われたということは、情報が外部に漏れた可能性を示唆していた。 その後の調査で、エルサの他に襲撃を受けた隊員はいないことが確認され、多数の隊員の素性が発覚してしまう悪夢のような事態にはならなかったことが分かったが、エルサの失踪の理由は不明なままだった。 情報小隊が主体となって捜索が続けられたが、失踪の発覚から三日が過ぎてもなお、エルサの行方は杳として知れなかった。 エルサの失踪が発覚してからというもの、俺達は四○一の宿営地内で待機を続けていた。 もともと待機任務の期間に入っていたから、というのは表向きの理由だが、実は別の理由があることは俺をはじめ、全員が理解していた。 今回のエルサの失踪は何者かによる襲撃という線が濃厚だったが、それを偽装して、エルサが敵のもとへ走ったという可能性も考えられたからだった。 裏切り者の可能性のあるエルサと一緒に行動していたり、交友のあったりする面々は例外なく宿営地内での待機を命じられた。その対象には同じ分隊である俺やユーリ、モレスキだけでなく、所属する襲撃小隊の面々、そして多少話をする程度の付き合いだった他部隊の隊員も含まれていた。 この三日間、調査の進捗に関する噂は耳に入ってきてはいたが、いずれも芳しいものではなかった。 吸血鬼との直接戦闘を担当する襲撃小隊の隊員が調査に関与することは出来ず、大隊からはいつもの任務を続けるよう命令が下りていた。 これで良いのか、という思いは徐々に強まっていった。 彼女は一緒に死線をくぐり抜けてきた、仲間だった。そして、それとは別に、俺は彼女に対して好意――もしかしたら、恋心さえ抱いていたのかもしれない。 そんな相手が、何者かに捕らえられているのかもしれないというのに、何もしなくて良いのか。そう思う一方で、冷静になるべきだと思う自分も確かにいた。 待機任務中は普段ほとんどすることのない、報告書の作成といったデスクワークもやらなければならない。 デスクワークをするための事務室の脇に設けられた喫煙所、そこのソファに深く身を埋めたユーリは、深く紫煙を吐き出した。 喫煙所いっぱいに広がるような紫煙を吐きだしたユーリの横で、俺は思わず顔をしかめた。 ユーリは愛煙家だが、俺はほとんど煙草は吸わない。ユーリに勧められて何度か試したことはあったが、どうにも性に合わなかった。ユーリに付き合ってこうして喫煙所にいることもあるが、煙草の煙は未だに苦手だった。 「あー肩が凝る」 そう言いつつ、ユーリは肩の辺りをごりごりと揉んだ。 「何で兵隊に事務仕事させるかね。事務員でも雇えば良いんだよ、全く」 「そうだな」 「気が抜けてんなアズマ」 「そりゃな」 「エルサのことは諦めろ」 思わずユーリの顔を見た。どうとでも取れる表情でユーリは煙草を口に咥えていた。 「馬鹿なことはしようと思わないことだ。女のために全てを投げ打つ――なんてのは一見格好が良いかもしれねえが、馬鹿のやることさ。そのために自分の生活とか、人生を捨てたところで、結局いつか後悔する。それも、恋人でもねえ女のためにすることはない」 「別に、そんなことは考えてねえよ」 「ならいい」 そしてユーリはまた煙を吐き出した。 お調子者で仲間想いだと思っていたユーリにしては意外な言葉だった。 「だけど」 友人の、意外な言葉に触発されたのかもしれないが、俺はこう言葉を続けた。 「仲間だろ。今まであいつとは何度もヤバい現場を乗り越えてきた。そんな奴を、情報小隊の馬鹿に任せておいて良いのか?」 「ああ、仲間を放っておくのは俺も嫌だよ。だけど、どうしようもない」 そしてまた煙草を口に付けようとして、火が吸い口の所まで達していることに気付いたユーリは煙草を部屋の隅へ乱暴に放った。 「これで俺が特装服を着こんで、エルサを捉えてるかもしれない吸血鬼共のところに殴り込みに行ったとする。めでたくエルサは救出され、俺は大隊の命令に背いた角で軍法会議にかけられ、良くて免職、悪くて銃殺だ。そして、俺の嫁さんも、腹の中のガキ共々路頭に迷い、飢死するか、娼館暮らしになるだろうよ」 「子供が出来たのか」 「おう」 新しい煙草にマッチで火をつけながら「三か月だとよ。おかげで家で煙草も吸えねえ」とユーリはぼやくように言った。 「アズマ、四○一に入ったのは何でだったっけ?」 「……国外に出るためさ」 過去のあの体験――女の子を噛み殺す男を見たあの経験から、吸血鬼がいかにヤバい存在かをしりながら、四○一で仕事を続けてきたのは、その見返りに得られる高給を元手に、国外での生活をするためだった。 差別にまみれたこの、連邦というクソのような国から出て、自由な生活を謳歌する、そのために俺はこれまで過酷な訓練や命の危険と隣り合わせの任務に耐えてきた。 「そう、そのためにお前はモレスキにしごかれ、吸血鬼を殺してきたわけだ。仲間のために、これまで積み上げてきたものを全て無駄にするのか? お前にとってエルサは、それほどの相手か?」 「お前、それほどの相手って――」 「言い方が悪かったのは謝る。ただ、究極的にはそういう話になる。危険のある行動を取るなら、それに伴うリスクと、行動した結果を天秤にかけることになる――そして、俺の場合、エルサよりも、自分の身や、嫁や、子供の方が大事だ」 ユーリのことを、睨みつけるのはほとんど初めてのことだと思う。 自分でも顔がひきつるのを感じながらユーリを見る一方で、こいつの言うことがどこまでも正しいことも、認めざるを得なかった。 エルサのために行動する、というのはそういうことだった。 自分のことを投げ打ち、あいつのために行動すれば、それによる様々なことが、自分に返ってくることになる。 そして、俺は、彼女のために全てをなげうつことは出来ない。これまで積み上げてきたことを、捨て去ることは出来ない。 ユーリから目を離し、リノリウムの床を見つめる。頭の中の熱が急激に冷めていくのを感じていると、ふと、エルサの顔が浮かんできてしまう。 現場で横にいるあいつ、あの路面電車で話したときのあいつの顔、最近ふとした時に見せるようになった笑顔。 俺は、それを捨てる。自分のために。 そう思うと、言いようのない激しい感情が、胸の中に湧きおこるのを感じた。両手に勝手に力が入り、爪が手の甲にめり込む。 そんな俺の肩に、ユーリが手を置いた。 見上げたユーリの顔は滲んでいて、そこで初めて自分がいつの間にか泣いていることに気が付いた。 「天秤にかけろ、とは言ったがよ」 そう言いながら、ユーリはわしわしと俺の頭を撫でた。そこで、今更ながらこいつが俺よりも二歳年上だということを思い出した。 「かけた結果、彼女を選ぶ、となったら、それは仕方ねえことだ」 馬鹿なことには違いないけどな、そう言ってから、ユーリは立ち上がった。 「便所」そう言いながら去るその背中に、心の中で礼を言いながら、俺は椅子から立ち上がった。 俺達の直接のボスであるモレスキは、まだ事務室で仕事をしていた。 握った鉛筆が冗談のように小さく見える巨体は、ただ座っているだけで威圧感を周囲にまき散らしていた。 そんなモレスキの前に俺が立つと、奴はその右頬の傷が酷く目立つ顔をゆっくりと上げた。 それだけで心臓を握り締められるような感覚を覚えながら、俺は口を開いた。 「曹長、エルサのことで話があります」 モレスキはしばらく声を返さず、じっと俺を見ていた。 その顔には何の表情も浮かんでおらず、ただじっと、ガラス玉のような丸い目で俺を見るだけだった。ただ物として俺を見るようなその眼を見返すと「向こうで聞こう」と事務室の脇の物置を指さしてきた。 物置には二人入っても問題ない程度の広さがあった。もっとも、かなり肩幅のあるモレスキが入ると、息のつまるような圧迫感があった。無意識の内に気圧されそうになるのをこらえ、俺は「現在の捜索の方法では、彼女は発見できません。捜索の方法を見直すべきだと思います」と話し始めた。 「それを考えるのは我々の仕事ではない」 眉ひとつ動かさず、モレスキは言った。 「ですが、意見を言うだけなら許されるはずです。話だけでも、聞いて下さい」 「聞くだけ聞こう」 鉄拳が飛んでくるかと思いきや、意外にもモレスキがそう言ったことに、驚きと安堵を同時に感じながら、俺は言葉を続けた。 「自分の知っている範囲で考えると、敵はエルサを四○一の隊員と知らず捕らえたのだと思われます。四○一の隊員だと知っていたとすれば、敵は必ず部隊の詳細を彼女から聞き出し、他の隊員を襲撃したり、宿営地を攻撃しにくるはずです。失踪から四日か、五日が経った現在でもその兆候すら見られないのを見ると、敵は別の目的で彼女を捕らえたのではないでしょうか。自分は、吸血鬼が人血の補充のために捕らえたのだと考えます」 「根拠は」 「手口です」 とにかく必死に、俺は話しを続ける。 「夜半に一人暮らしの女性を襲うのは、連中の常套手段です。それも、連中は最近、失踪が発覚しないように、周囲との接触が少ない人を調べたり、身よりのない浮浪者を攫っている傾向がある、と情報小隊のレポートで読んだことがあります。エルサはその条件に合致していて、それにエルサは腐っても四○一の隊員です。暴行目的の犯罪者に、不意を突かれたとしても易々と捕らえられるとは思えません。そんな彼女が捕らえられたのは、相手が異常な、吸血鬼のような力を持った相手だったからです」 「推察でしかないな」 「それはそうです。ですが、現在判明している範囲では、そうとしか考えられません。それに、その可能性は情報小隊の連中も思いいたっているんじゃないでしょうか」 「さあな」 と、何の感情も感じられない口調で話す様子はむしろ不自然に、俺には感じられた。モレスキは小隊長だけでなく、大隊の上級士官からも一目置かれる歴戦の下士官だ。調査の進捗や、情報小隊の分析に関することも、耳に入っている可能性は高い。 俺の言ったことに反応がそっけないのも、俺の推測が大なり小なり当たっているからかもしれない。そう考えながら、俺は言葉を続けた。 「だとすれば、情報小隊の今の捜索の方法は間違っています。奴等が本気を出せば俺達が奴等の尻尾をつかむことはかなり困難です。奴等のミスを誘い、手がかりを得るなら、別の方法が必要です……連中が人血補充用のエサを捕え始めたのは、大がかりなテロや作戦のために吸血鬼が集っているからです。そいつらの腹を満たすために、血を必要としてる。連中はこれから、一人だけじゃなく、もっと多くのエサを捕らえるはずです」 そこで一度言葉を切って、俺は話しを続けた。 「そこで連中の前で、あえて攫われやすい人間を差し出してやるんです。俺がオトリになって、そいつらに襲われます。襲って来た吸血鬼を捕らえて尋問するか、俺が捕まった後に連中のアジトを突き止めて、襲撃する。それしか方法はありません」 「馬鹿げている」 俺が話し終えるなり、モレスキはそう切り捨てた。 「エルサを助けるために、不要な犠牲が生じる危険性が高い。お前は俺から上層部にそう提案しろ、と言いたいのかもしれないが、こんなもの提案するまでもない」 「けど、エルサを助けるにはこれしか方法はない」 「そのために襲撃小隊の隊員をさらに失えと? お前等を訓練するのにどれだけの時間と金がかかっていると思ってる?」 「エルサはまだ死んでない。可能性があるのにどうして諦めるんです」 「かといって、お前まで殺す理由にはならん」 「俺は死なない!」 「危険は高い」 「なんでお前はそう平気でいられる!」 その瞬間、腹で手榴弾が炸裂したような気がした。 モレスキが放ったボディブローが、俺のみぞおちに突き刺さったのだ。俺の体は後ろの壁の方まで吹き飛ばされ、立てかけてあったモップの中にもろに突っ込む。床に反吐を吐く俺の頭の上で、モレスキが冷めた視線を向けるのが感じられた。 「お前のしていることは駄々っ子が親に向かっておねだりするのと同じだ。お前は考え抜いた結果を話しているつもりかもしれんが、ただ自分が思うようにならないから文句を付けているに過ぎない。まずは頭を冷やせ」 そう言い捨てて、モレスキは物置から出ていった。 モレスキにエルサの救出について話をしたあと、俺には監視が付くようになったようだった。俺の発言をモレスキが情報小隊に告げ口でもしたのか、気が付けば情報小隊の隊員らしい連中が、視界の端にいるようになった。 エルサの救出のために動くなら、まずは正攻法で上にかけ合うのが先、と思ったのだが結果的には逆効果になってしまった。四○一を動かせないことが分かった今、後は自分でなんとかするしかなかった。 宿営地内に与えられた自分の部屋で、俺は色々と用意をする。外行きのための服に着替え、ホルスターを装着し、その中に護身用の拳銃を差し込む。 その他、必要なものの用意を一通り終えて、あとは出るだけ、という時になって、俺はもう一度だけ自分に問いかけた。 これで良いんだな。 自分の、夢、と言って良いのかもしれないものを、これで投げ打つことになる。しかしもう、ためらいはない。 部屋には小さな小窓が設えられているのだが、それが今、オレンジ色に染まっていた。 窓から見える、宿営地内の建物の一つ、訓練棟が燃えているのだった。小さな炎だったそれは徐々に大きくなり、それに伴って人の騒ぐ声も聞こえてくるようになった。 「自分達の方が大事、って言っただろうが」 思わずユーリにそう呟く。 俺が監視の目を欺き、外に出る隙を作るために、ユーリは放火をして、監視の目を引きつけてくれたのだった。 炎から視線を外し、俺は部屋に置かれた二段ベッドの上の段へ登る。そこに座り、天井に張られた木板を押すと、それが内側に向かって開いた。 天井裏を伝えば、外へ出ることが出来る。 脇の下に拳銃の重みを感じながら、俺は天井裏の闇へ、体を滑りこませた。 * 今回の件で面倒なのは、吸血鬼をおびき出すだけでなく、宿営地から逃亡した俺を探してるであろう情報小隊をはじめとした四○一の連中からも逃れなければならないことだった。 そのため、昼間から吸血鬼探しをする訳にはいかず、夜が来るまでの間、身を隠す必要があった。 情報小隊が張っているであろう自分の家はもちろん、どこかのホテルに入り込むのも出来なかったので、俺は下水に潜伏することにした。 古くから交通の要衝として発達したこの街は、成立当初から上下水道が整備されていた。しかしその中には、あまりにも古くて行政機関の管理から漏れている所もあり、その内の一箇所に入り込むことにした。 自分の身に火の粉が降りかかってくるような時のために用意しておいた避難所の一つで、人気のほとんどないことや、内部の構造がどのようになっているかは既に確認済みだった。 そこで夜まで待ってから、俺は闇に包まれた街に出た。下水に比べれば明るいものの、八時を過ぎた夜の街には濃い闇が満ちていた。 街灯が差すところも多いが、建物と建物の間を走る細い路地は帳が下りたように先を見通すことが出来ない。 吸血鬼達が人を攫うのは、そんな暗闇だった。 吸血鬼用の特装服も身につけず、その中に入って吸血鬼の襲撃を誘うのは自殺行為だと言えるのかもしれないが、勝算は無いわけでもなかった。 脇に差した拳銃には、対人威力の高い平頭弾が装填されていた。この弾丸が人体の中に入り込むと、着弾の衝撃で鉛製の弾頭がキノコのカサのように潰れ、肉体の広範に大きなダメージを与えることが出来る。普段の襲撃作戦でも使用されている弾丸で、これを何発も喰らえば、殺すまではいかなくても、吸血鬼を無力化することは出来る。そんなものを俺が持ち歩いて、襲撃されることを待っているのを、連中は知らない。 そして連中が襲いたくなるような格好を今の俺はしている。 ジャケットやシャツはぼろぼろな物を選んで着たし、さらには下水に入ったおかげで、それとなく饐えた臭いも漂わせている。顔は泥で汚してあるし、あとは酒でもかけてやれば、飲んだくれた浮浪者に偽装することが出来るだろう。連中が狙うのは、失踪しても気付かれないような連中だ。連中にとって浮浪者は打ってつけの獲物といえる。 血液補充用のエサを探している連中が襲ってくれば、そいつの不意を突いて捕らえ、エルサの居場所を聞き出せる。後は捕らえた吸血鬼を連れて行けば、四○一もエルサの救出作戦を実行に移すしかなくなるだろう。 その代わりに俺がどうなるかは分からないが。無意識の内に苦笑いが浮かぶのを感じながら、俺はジャケットのポケットからウィスキーの小瓶を出して、それを一口、二口と含んでから、残りを体にかける。 これで準備は完了した。あとは、吸血鬼供が上手く襲ってくれるのを願うだけだった。 エルサの家の周辺は夜間でも四○一や警官が張っていて、吸血鬼達も近寄らないだろうと考えられた。 俺が連中を誘うことにしたのは、そこから数キロ離れた、路地の入り組んだ下町区域だった。 街灯が少ないそこの人通りは恐ろしく少なかった。一昔前、吸血鬼の存在が当局によって秘匿されていた頃とは違い、最近ではその脅威は盛んに喧伝されていて、日が落ちた後は一部の繁華街を除いて人通りはほとんどなくなる。 神に見捨てられた化け物共。 呪われし存在。 吸血鬼の存在を知らせるポスターに書かれたそんな文句を思い出しながら、俺は路地裏の片隅に腰かけていた。 連中は一体、何なのだろう、と、飲んだくれた酔っぱらいの風情で座り込みながら、俺は思った。 あんな異常な存在が、科学技術が発展し、生活の向上した現代にどうして生まれてきてしまったのだろうか。 連邦軍のレポートによれば、連中の発生原因は不明なものの、かつて存在した全体主義国家――共和国が秘密裏に行っていた生体実験によって生み出された可能性もある、と書かれていた。 その真偽は分からないが、どちらにしても、人を害する存在でしかない奴等は、いつか殲滅するしかない。 こんな時に変なことを考えているな、と自分で思っていると、暗闇の中から一人の男が唐突に現れた。 手を脇の下に伸ばしたい衝動に駆られるが、なんとか我慢する。あくまで酔っぱらいの風情で、ゆっくりと男の方を見る。 男の歳の頃は、三十くらいだろうか。 緊張と恐怖、そして期待に、心臓が妙なリズムを奏でる。 なんとか自分を保ちながら、俺は酔っぱらいのように、男に向かって声を荒げてみせた。 「なんだ、俺になんか用か?」 男は無言のままだった。 今までの経験から、男は十中八九、吸血鬼だったが、まだ確証は得られていない。無言で見てくる男を、胡乱な様子を装いながら注意深く観察していると、不意に男がこちらに向かって歩き出した。 「おいなんだこの野郎、ふざけんな」 よろよろと立ち上がりながら、男に向かって左手を振り上げる。 俺の拳を容易に掴みとり、思いきり捩じ曲げた男の力は、ただ鍛えただけで得られる筋力ではなかった。 間違いない、そう内心で呟き、俺は男のみぞおちの辺りに蹴りを放った。 酔っぱらい相手に油断していた男は、先程の拳とは全く違う勢いで放たれた蹴りをもろに受けた。男の体を離してから、俺は右手を脇の下に突っ込み、引き抜いた拳銃を、男の胴体に向かって素早く連射した。 暗闇が束の間、発砲炎の光で染められる。俺が拳銃を抜いたことに気付いた男は、それから逃れるように背を向けようとしたが、銃弾が突き刺さるのはそれよりも早かった。弾倉に収まっていた十三発の弾丸、その全てを男に撃ち込んでから、弾倉を交換。さらに、懐から取り出したタオルで口元を覆う。 吸血鬼の血液は、普通の人間にとっては猛毒で、僅かな量でも摂取すれば、死亡する可能性がある。血液を防ぐには少々心もとないが、手元に専門の装備がない以上、タオルでもしないよりはマシだった。 銃を油断なく構えつつ、俺は男に向かう。 うつぶせの状態で地面に倒れた男を、足で仰向けにすると、無数の弾痕を開けられながらも、それでも生きていた。 大当たりだ、とタオルの下で思わずほくそ笑む。 しかしまだ油断は出来ないと思い直して、口元を引き締めてから俺は男の拘束に取り掛かる。持っていた手錠で男の手と手、足と足を繋ぎ、完全に自由を奪う。これでひと段落ついたことになるが、四○一か警察か、当局の連中と合流しないことには安心は出来ない。 男を引きずって歩き始めようとしたところで、目の前の闇の中で何か音がしたことに気が付いた。 コツ、という、革靴か何かが固い地面を叩いた時に響くような音だった。ホルスターに戻していた拳銃を慌てて引き抜き、音のした方に向ける。 「誰だ」 そう声を放つと、革靴をこつこつと鳴らしながら、闇の中から一人の女が姿を現した。 男物のスーツに身を包んだ、若い女だった。 背はすらりと高く、金髪らしい髪を短く切りそろえた姿は、細見のスーツをかっちりと着込んだ格好と相まって、一見すると男のように見えた。しかし、豊かなラインを描く身体は間違いなく女のもので、その顔立ちも夜目にも分かるほどに整っていた。 その右眼には、黒い眼帯がはめられていた。残された左目はじっと俺と、血まみれの男を見つめていて、その瞳には平然としながらも獰猛なものを感じさせる、まるで肉食獣のような光を帯びているように見えた。 わざわざ誰何なんてするべきじゃなかった。そう内心で毒づきながら、俺は女を撃った。 発砲炎が闇夜を照らした瞬間、女の体が視界から消えた。 俺が理解できたのは、女が体を素早く体を屈め、銃弾の軌道から逃れたところまでで、次に気付いた時には、女の顔が眼前に迫っていた。 甘い、香水の香りが嫌に鼻についた。 それを最後に、俺の意識は途絶えた。 * 俺を覚醒させたのは、容赦なくかけられた大量の水だった。 殴りかかるかのように勢いよくかけられた冷水で心臓が跳ね、息が止まる。見開かれた俺の目を、容赦なく向けられた何かの光が射す。 俺が拘束されたのは石造りの一室だった。幅と奥行きはそれぞれ六メートル、といったところだろうか。壁面と床を成形していない石で作られた部屋には、俺の他にもう一人人間がいた。あの眼帯の女だった。 今しがたかけられた水が入っていたらしいバケツを持った女の前には、タバコや、拷問道具、そして卓上電燈が並んだ小さなテーブルがあり、俺の眼を射しているのはその電灯だった。 俺を冷やかに見つめる眼帯の女の、残された左目を少しだけ見つめながら、その女の背後にある扉の方もそれとなく見やる。 石造りの部屋の中で、そこだけ木で作られた扉には鍵がついていた。鍵はかかっているのだろうか、だとしたら誰が持っているのか、そこから出たとして脱出や、エルサの捜索は出来るのだろうか。 そこまで考えて身じろぎしようとしたところで、俺は自分が両手両足を縛られ、椅子に座らされていることに気が付いた。 そこでようやく、俺は部屋の中に満ちている臭気にも気が付いた。 石造りの部屋には強い血と、体臭、そして排泄物のものらしい強い臭いが満ちていた。昔、ひょんなことで入れられた留置場で嗅いだことのある臭いで、恐らくここでは、俺だけでなく、他にも何人もの人間が連れ込まれ、拷問され、そして血を吸われたのだろう。 その中にはエルサもいるのかもしれない。頭に凶暴な何かが満たされるのを感じていると、女が俺に近付いてきた。 先ほど見た時と同様に、男物のスーツに身を包んだ女は、椅子に縛られた俺を、まるで虫か何かを見るような眼で見下ろした。 「何者なのかしら、あなたは」 そう尋ねる女に、俺は無言で答えた。そして、テーブルの上に置かれた無数の拷問道具を思わず視線を向けてしまう。おそらくこれから俺を待っているのは、正体を調べるための苛烈な拷問だろう。 それを覚悟した俺に、女は意外にも何もせず、ただこう言った。 「言いたくないのなら、話さなくても良いわ。既に色々と聞いているから」 〝聞いている〟 女の一言に、心臓が早鐘のようにペースを上げるのを感じる。 「あなたは私の仲間を捕まえるとき、何発も撃ち込んだ上で躊躇なく手錠をかけた。明らかに、あれだけ弾丸を撃ち込んでも私達が死なないことが分かっている様子だった。行動を二人一組にしていなければ、ワーニャはそのまま、あなたに捕らえられていたでしょうね。そして、最近になって警官と一緒になって歩いている、明らかに警官ではない連中……あなたは、その仲間でしょ?」 否定の余地のない女の追及に、ただ俺は黙っていた。 眼帯の女はただじっと、口をつぐむ俺を見ていたが、不意に俺から離れ、小さなテーブル、その上に置かれた電灯に手をやった。 女は電灯を動かし、その光を部屋の片隅に打ち捨てられていた布の塊に向けた。 部屋の片隅に置かれていたその布からは、小さな手が伸びていた。細いその手は、男のそれではなく、明らかに女性のものだった。その五本の指の内、四本は爪がはがされ、残る一枚の爪にも、肉と爪の間に、何本もの細い針金が打ち込まれていた。 嘘だろ、そう思わず言葉が漏れる。女はゆっくりとその布へ向かい、そしてそれを思いきり剥ぎとった。 電灯に照らされ、闇の中に白い肌が浮かび上がった。 エルサ・グリムはシャツとズボンという軽装のまま、そこに打ち捨てられていた。 その服は所々が破け、血が滲み、下の肌が露出していた。白い肌が露出したところには様々な拷問の痕跡が、くまなく刻まれていた。焼きごて、ナイフ、薬剤。そうしたもので痛めつけられたエルサに、俺の知る彼女の形跡を探すのは難しかった。 しかし、その殴られ、切られ、焼かれ、変わり果てたその顔は、それでも間違いなくエルサのものだった。 エルサ、そう叫んだ俺の様子で、女は全てを悟ったらしい。眼帯の女は抵抗すらしないエルサの足を引っ張り、俺の近くへ連れて行った。 エルサは俺が何度も声をかけても、目を開けようとしなかった。 「最初は、私達の活動に必要な血液を提供してもらうだけのために捕らえたの」 エルサを見つめる俺に、女は淡々と話した。 「私達の活動が完了したら、解放する予定だった。ただ、彼女を捕らえてから、どうにも街の様子が妙になった。彼女を捕らえたアパートに、急に警官と、軍人らしい人間が張り込むようになった。その理由を、私達は彼女から聞こうとした。けど、彼女はなかなか口を割らなかった。色々と拷問をしてみたけど、知らないの一点張り。最後には薬を使って、彼女が四○一という、私達対策の専門部隊の隊員であること、その宿営地の場所、構成人員――その他諸々の情報を得ることは出来たけれど、その結果、この子はこうなってしまったの」 電灯に照らされたエルサは、やはり目を閉じたままだった。 「生きてるわ。ただ、薬が効いたままで、また目を開けるかは分からない」 眼帯の女との距離を見計い、椅子に座ったまま飛びかかる。女の首元に噛みつこうと思っての行動で、手と足を繋がれた状態でもなんとか届きそうだったが、女は軽く身を引くだけで俺から逃れた。 地面に体を打ちつけ、口の中で歯が折れたのを感じる。俺はなおも女をなんとか傷つけようともがくが、この状態ではもう何もすることは出来なかった。 仮に噛みついたとしても、吸血鬼の血を含めば俺はたちどころに死ぬ。しかしそんなことは知ったことではなく、ただ俺はこの女を傷つけたかった。 獣のように唸り、地面を這い、女へ近づく俺を、女は蹴った。蹴りあげ、うつぶせの体勢だった体を仰向けにされ、さらに首を踏みつけられ、俺は完全に身動きを取れなくなった。 「殺す」 そう言うことしか出来ない俺を、女は冷然と見下ろしていた。その顔があまりにも憎らしく、俺は体を起こそうと力を込めるが、女の力はやはり強く、体は少しも持ち上がらなかった。 「私達が許せない?」 「当たり前だ。何の罪もない人を襲って、血をすする化け物が。いつか絶対に、皆殺しにしてやる」 「私達だって、好きで血を啜ってるわけじゃないわ」 女は足に込める力を強めたようだった。 「私達がこんな体になった原因を、あなたは知っているのかしら」 急に女は、そう尋ねてきた。意図が掴めず、ただ女を見返すことしか出来ない俺に、女はふん、と笑ってみせた。 「私達が連邦にばかりテロをしかける理由を考えたことがある? 私達は連邦に恨みを持っている。何故なら、私達がこうなったのは、全て連邦のせいだからよ」 女は足をぐりぐりと動かし、俺の喉をさらに潰した。 「十年以上前、私達の故郷、共和国と連邦は戦争をしていた。国力が遙かに勝る私達、共和国に対し、連邦は勝つためにある秘密兵器を使ったの。致死率九十パーセント以上。風で散らされることなく、一定期間は投射した空間に留まり、さらには数時間経てば必ず効果を失うという、夢のような毒ガスよ。それを使うことで、連邦は共和国に勝利し、そしてその副作用で、私達は血液を求める、こんな体になってしまったの」 喉の奥に、血の味を感じながら、俺は信じられない思いで女の話を聞いた。女の眼には何の感情も浮かんでいないように見えた。 「それだけじゃない。あなた達、自分の装備に使われている人工筋が、何で出来ているか知っている?」 尋ねながらも、女は俺の返答は望んでいないようだった。ただ徐々に足の力を強めつつ、話を続けるだけだった。 「私達の身体能力に、ただの人間を近付ける人工筋。装着者の意思に追随し、驚くほどの力と瞬発力を備える夢の素材――そんな都合の良い物を、人間が簡単に生み出せると思う? そんなものが自然界にあると思う?」 まさか。意識の遠のくのを感じながら、俺は女の声を聞いた。 「私達の同胞を捕らえ、生きながらに切り取った筋肉を、あなた達の装備は使っている。あなた達が不用意に破棄した装備――特装服、だったかしら? それを分析した結果、私達も知ったことよ」 眼帯の女は俺の首をぎゅっと踏みつけてから、唐突に足を離した。 血の混じった咳を出す俺の顔に、女は自分の顔を近づけた。 「さっき、私をあなたは化け物だと言った。確かに、血をすする私達は化け物かもしれない。なら、あなた達は何? 私達の故郷を蹂躙し、私達の同胞の肉で戦うあなた達は、一体何なの」 痛みとは別の理由で、何も言えない俺を、女は片目だけ残った左目でしばらく見ていた。 そして、体を離した女は、テーブルの上に置かれた拷問道具の一つを手に取った。 「あなたの部隊に関する情報は、全て彼女から聞いたわ。あなたと、この子に価値はない。あとは私達の恨みを少しでも晴らすために拷問をしてから、殺すだけよ」 道具、というよりは工具、といった方が近いものを手に、女は俺に近付く。抵抗する気は、どうしてか起きなかった。女の話に罪悪感を覚えた、という訳ではなく、ただ耳に入った情報を、処理することが出来ず、何の反応も起こすことが出来なかったのだ。 女がゆっくりと俺の体を起こす。 その時、女が何かに気付いたかのように背後を振り向いた。女は持っていた道具を捨て、脇の下に手を差し込むと、そこから小型の拳銃を抜き出し、扉に向かった。 女が扉に手を伸ばす直前に、木製のそれが外側から吹き飛んだ。女が扉の向こう側に向かって銃を放つが、それよりも遙かに数の多い火線が、女の体を貫いた。崩れ落ちる女の向こう側に、黒い、鎧の影がいくつも立っていた。 特装服を身に付けた四○一の隊員が、手に手に銃を持ち、部屋の中に入ってきた。 * 女に捕まる前、俺が放った銃声を辿って、四○一の情報小隊が俺達の場所を特定したのだそうだ。 四○一に収容された後、俺への御咎めは意外にも軽いものだった。それでも減俸の上、懲罰房に半年近くいることにはなったが、部隊から出されることはなく、ましてや銃殺にもならなかった。訓練を積んだ襲撃小隊の隊員は、自分が思っているよりも四○一に必要とされているようだった。 解放された後しばらくして、エルサは意識を取り戻した。しかし、受けた拷問のせいか、薬剤のせいかは判然としなかったが、彼女は声を発することも、自分から動くことも出来なくなってしまった。 俺やユーリが話しかけても何も返さず、トイレといった日常生活の動作も、完全に看護師の介助を受ける状態になった。彼女がまた話せるようになるかは分からないと、診察した医師は話していた。 半年の懲罰房での生活の中でも、それを終えた後に四○一に復帰した後も、俺はあの、女の吸血鬼が言ったことの真偽を確かめることはしなかった。 そうしたところで、何にもならないからだった。それを突きとめたところで、今度こそ俺は四○一によって消されるだろうし、そうならなかったとしても、これまでに起こった悲劇、そしてこれからも起こったことをどうする力も俺にはなかった。 そして俺は、四○一での仕事を続けなければならなかった。 心と体に傷を負ったエルサの面倒は、四○一が責任を持って看ることになっていた。しかし一定の入院期間を経た後は、扱いの酷さに定評のある軍の療養施設に入れられることになっていて、そこではまともな看護は受けられず、身体拘束をされ、そのまま寝たままにされるという噂だった。 俺はエルサを引き取ることにした。 仲間であり、想いを寄せた相手を、そんな状態にすることは、どうしても許せなかったからだ。彼女の世話を見るには当然ながら金が必要で、医療費を加えればかなりの額になる。 そのために俺は四○一での仕事を続けた。連邦から国外へ出ることは、もう頭に浮かぶことはなかった。 彼女の世話でそんな経済的な余裕がなくなったこともあったが、一方で罪悪感のようなものもあるのかもしれない。 吸血鬼を殺し、その肉でさらに吸血鬼を殺す俺が、自由になる権利などない。 自分のしていることは、決して正しくない。いつか必ず、その責めを何かしらの形で受けることになる。 そう思いながら、俺は今日も特装服を身にまとう。 |
赤城 2018年08月12日 16時56分19秒 公開 ■この作品の著作権は 赤城 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2018年09月09日 19時18分47秒 | |||
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Re: | 2018年09月02日 19時58分59秒 | |||
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Re: | 2018年09月02日 19時39分59秒 | |||
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