黄金時代 |
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僕が目を覚ますと、サラリとした髪の女の子が目の前にいた。 僕はソファーに倒れ込んで、そのまま眠ってしまったはずだった。それなのに、なぜか寝心地の良いベッドの上にいる。 手足がこわばって、体中が痛かった。 女の子は、何かを期待するような表情で、そんな僕の顔を見つめている。 目覚めたばかりで頭が働かない。 深い泥のような眠りの余韻の底から、女の子の名前が浮かび上がってきた。 「ユキちゃんなの?」 女の子は、花がほころぶように微笑んだ。 「思い出してくれたのね、ありがとう」 「あんまり綺麗になってたから、すぐには分からなかったよ」 女の子は、ハッとした表情を浮かべると、可愛く身をくねらせて、うつむきながらつぶやいた。 「……本当に口がうまいのだから……」 耳が赤くなっていた。 僕は思った。 この子は、ユキちゃんだ。 ユキちゃんは…… 突然に、記憶が、あふれ出た。 僕はオフィスの廊下を早足で歩いていた。 気持ちを引き締めていないと、意識を失いそうになる。 ここ三週間ほど、ろくに寝ていない。 我が社の販売したプログラムに、ミスがあった。 そのため、全社がクレームの嵐の中にあった。 僕らは、その対応に追われていた。 僕は、さらに足を速めて廊下を進んだ。 ねっとりとした男の声が、廊下の角から聞こえてきた。 「……残った顧客は、ほとんどがコンピュータのコアな使用者だから、小手先の対応は通用しない。心をこめて対応する必要がある。意に沿わなくとも、相手の要望にすべて応じる。そんな心構えが必要なのだよ」 つづいて、若い女性の声が聞こえた。 艶のある美しい声で、聞く者を捕えて離さない魅力があった。 「そのことは何度も伺っております。コンピュータを主戦場とする企業が次々に撤退し、顧客が急速に減り続けているから、相手の要望にすべて応じる心構えが必要なのですよね?」 美雪さんの声だった。 廊下の角から、美雪さんが後ずさりしながら姿を現わした。シモヤマさんが、美雪さんを追いつめるように後を追っている。 シモヤマさんの髪はボサボサで、ネクタイが歪んでいた。いつもはキチンとしてるのに、珍しい。 目が赤い。 シモヤマさんは、獲物を狙う蛇のように美雪さんに近づき、絡みつこうとしていた。 シモヤマさん、酒の席でもないのに、女の子に絡まないでくださいよ。 酒の席なら絡んで良いのか、という脳内ツッコミが聞こえた。 美雪さんは、なんとかシモヤマさんから、離れようとした。 シモヤマさんは、逃げる美雪さんに追いすがる。 「さすがだね、美雪君。よくわかってるじゃないか。でも、本当に相手の要望にすべて応じることができるか、実際に確かめさせてもらおうか」 シモヤマさんは、美雪さんの行く手をブロックする。 「ようやく対策が完成した。これで今回の騒動は収束できる」 ふだんの美雪さんは、仕事が早くて優秀だから、なんとなく近寄りがたい雰囲気がある。 でも、追い詰められて心底困った顔をした美雪さんは、とても可愛かった。 次の言葉を聞いて、美雪さんの表情が変わった。 「ところで、男性が女性に下着を送るのは、それを脱がせる楽しみがあるからだって知ってたかい? ようやく私にもそうする時間ができたのだよ。終末を一緒に過ごさないかい。コンサートの特別チケットが手に入った。美雪君の好きな……」 そう言いながら、シモヤマさんは両手を広げて、美雪さんに迫った。 セクハラでパワハラですよ、シモネタさん! 美雪さんは、シモヤマさんの動きに合わせて舞うように身をひるがえした。髪の毛が美しく流れ、スカートがふわりと広がる。 僕は、美雪さんの背中に透明な羽根が輝くのを幻視した。 美雪さんは、軽やかにフェイントをかけてシモヤマさんの体勢を崩すと、華麗なステップでブロックをすり抜けた。 片手をあげ、小さくガッツポーズをする。 そのままシモヤマさんの背後にまわる。 「すみません。急いでますので」 美雪さんは軽快な足さばきで走り去ろうとした。 僕は、美雪さんの前方を指さして、思わず叫んだ。 「危ない!」 犯罪担当のヨコタが、無駄にでかい体で美雪さんの行く手に立ちふさがっていた。熊を撲殺できそうな太い腕で、バカでかい消火器を構えている。 「危ない!」 しかし、ヨコタは体を捻って、美雪さんを通した。 濃いヒゲに囲まれた分厚い唇から、野太い声で、思いもよらない言葉が吐きだされた。 「声を掛けてくださったら、いつでも潰しますから」 ヨコタは、ニキビだらけの顔に、ニタリと凄みのある笑みを浮かべた。 目がマジだった。 ゴガ~ン! 轟音を立てて、消火器が床に落とされた。 とんでもない重さがあるようだった。 美雪さんは、ヨコタがシモヤマさんを睨みながら牽制している間に、廊下の角を曲がって、たちまち姿を消した。 よかった、よかった、死人がでなくて……。 ヨコタは、脇をすりぬける僕に向かってつぶやいた。 「大丈夫っすよ。自分は証拠や目撃者を残すようなヘマはしませんから」 まてよ、ヨコタ。 それって、僕まで抹殺するつもりだったってことか? 「ただの軽い冗談っすよ」 でも、ヨコタの眼はマジだった。 僕が廊下の角を曲がると、遠くでウエムラが、誰かに話しかけていた。 ウエムラは、美雪さんに話しかけていた。 カベに伸ばした腕をあて、美雪さんのゆく手を遮ってる。 カベドンというやつだ。 ウエムラの少ししゃがれた声が聞こえた。 「今度、納涼花火大会とコラボした宝石展示会があるんだ。よかったら、俺と一緒に行ってみないか?」 美雪さんは笑みを浮かべ、黙ってウエムラを見上げてる。 人を魅了する、とろけるような笑みだった。 ウエムラの薄い唇の隙間から、かすれた声が絞り出される。 「帰りに寄る店も決めてあるよ。室内は洒落ていて、ガトーはナッツが香ばしいし、スフレは絶品だよ」 美雪さんは、甘えるような声でささやいた。 「困ります。今は、この書類を届けないといけないので……」 ウエムラは、ギラつく血走った目で美雪さんを見つめてる。目の周りに深い隈があった。 「ごめんね、君を困らせて。イケナイ事だね。とても罪作りだよね。でも、ようやく仕事を一段落させたから、良かったら……」 美雪さんは、もじもじと恥ずかしそうに体をくねらせた。 思わず抱きしめたくなるような、可憐なしぐさだった。 美雪さんの豊かな胸に、かかえた書類が強く押し付けられている。 あの書類になりたい。 僕は、ちょっとだけ思った。 書類に、赤い大きな字で、極秘! と書かれてるのが見えた。 ウエムラは美雪さんの胸を見つめながら言った。 「いま君は、秘密を胸に抱えているのだね。いつか君の心の扉を開いて、君の大切な秘密を覗かせて欲しいな」 ウエムラ、お前は自分が何をしてるか分かってないな。 半分眠って、夢の中で行動してるのだろう! 美雪さんは、困ったような表情を浮かべた。 「今は仕事中だし、急いでるから……」 美雪さんはそう言うと、少しうつむいた。それから、きつく唇を噛んだ。そして、強い意志を秘めた表情でウエムラを見あげた。 ハッとするような凛々しい横顔だった。 守ってあげたい! 僕は近づき、ウエムラの肩をたたいた。 「やあ、ウエムラ! パッチは、できたか?」 自分でも驚くくらい大きな声だった。 ウエムラはゾンビのように緩慢な動作で僕に向き直った。 無精ヒゲが目立つ。 深い疲労で頬がこけていた。 ウエムラは、人を殺せそうな目で僕をにらんだ。 「できてるよ。社内ランで送っただろう!」 少し腹がたった。 お前のプログラム・ミスで社内の全員がひどい目にあってるのだぞ。 あやまらないのかよ。 僕ににらまれて、ウエムラは少したじろいだ。 すると美雪さんは、すばやくウエムラの腕をくぐりぬけて、走り出した。 僕の方をふり向いて、小さくサムズアップする。 美雪さんは、引き締まったお尻を左右に振りながら走り去った。 すらりとしたふくらはぎと滑らかな太ももの幻影が、いつまでも僕の脳裏に残されていた。 職場の同僚たちは、とびきりの話題を、洗練された話術で飾り立てて、美雪さんに語りかける。 でも、僕には気の利いた話題なんて無い。 仕事が忙しすぎるから。 何を話したらいいか分からない。 どんな風に話したら気に入ってもらえるか分からない。 だから、美雪さんに話しかける機会さえ掴めないでいる。 でも、いいんだ。 時々でかまわない。 美雪さんの笑顔を見ることができれば、それで十分さ。 僕がここまでやれたのは、美雪さんがいてくれたからだ。 いつ美雪さんに見られるか分からない。 だから、手を抜きたくない。 そう思うから、頑張れた。 でも、僕では美雪さんを楽しませるのは無理だ。 美雪さんは、同僚たちの渾身のエンターテイメントを毎日体験してる。最上の楽しみを、日々味わっている。 美雪さんに全てを捧げる! 職場の同僚たちは、そう決意してる。 すべての同僚を敵に回して勝利するなんて、僕にはできっこない。 だから、美雪さんが毎日楽しく会話して、毎日楽しい体験をして、毎日楽しく時を過ごしてくれるなら、相手が僕でなくても構わない。 度重なる徹夜で疲れ切った思考は、負のスパイラルに陥ってゆく 美雪さんが僕の人生から消える日は、いずれ訪れる。 僕は別れの日を脳内でシミュレートしていた。 その日に、笑顔で美雪さんを祝福できるように。 激しい喪失感で、生きる意味を見失わないために。 美雪さんの幸福を祈る言葉をつむぐ。 美雪さんに別れの言葉を伝える場面を思い浮かべる。 そんな機会すら、決して与えられることはない。 そんなことは、分かってる。 でも、…… 僕は、深夜勤務に備えて、早めに職員食堂に入った。 席の空いているテーブルに、美雪さんがいた! 心臓が高鳴る。 口の中がカラカラになる。 「同席してもいい?」 僕は、さりげなく聞えるように気を付けながら、声が震えないように祈りながら、美雪さんに言葉をささげた。 美雪さんは、嬉しそうに微笑んだ。 人を幸せにする笑顔だった。 「ええ、どうぞ」 美雪さんは、少し顔を傾けて僕にささやいた。 「さっきは有難う」 その一言で、全身に色濃く溜まっていた疲れが吹き飛んだ。 何て応えようか。 そう思った瞬間に、呼び出し音が鳴った。 何も、こんなときに。 顧客からの問い合わせだ。 対応に時間のかかる苦情の多い相手だった。 クレーマーは、対応した者の説明にブレがあると、それをさらに追求してくる。だからクレーマーには、対応する者が決められている。 僕が対応しなければならない顧客だった。 美雪さんに手を合わせて謝り、廊下にでて人気のない場所で通話する。 以前と同じ説明を最初から繰り返す。 「せっかく購入していただいたのに、不具合があって、本当に申し訳ありませんでした」 「大事なお客様を相手に、そんな不誠実な言い方があるか!」 頭ごなしに怒鳴られる。 「社員教育も満足にできない会社だから、こんな出来そこないのクソソフトに法外な値段をつけて売り出して、平然としていられるのだろうが!」 同じ文句を聞かされる。 本題に入るための儀式みたいなものだ。 これをしないと、「誠意がない、説明が不親切だ」と、延々と文句が続いて治まらない。 クレーマーごとに適切な対応は異なっている。 だから、担当者を決める。 必要なことだし、納得もできる。 だけど、自分が担当をやるのは、心の底から嫌だった。 ようやく本題に入れた。 修正ソフトが完成したことを伝え、ダウンロードの方法を説明する。 「修正できたなら、菓子折りを持ってお客様の家を一軒ずつまわり、頭を下げてプログラムを直すのが筋だろうが。それをお客様にやらせようとは、どういう了見だ。そんな甘い考えだから、こんな初歩的なミスを見逃して、大事なお客様に迷惑をかけるんだよ!」 ごもっともです。 でも、弱小メーカーにできることは限られてる。 ひたすら頭をさげる。 「お前の会社のせいで被った損害は、きちんと賠償してもらうからな」 申し訳ございません。 「お前ではラチがあかん。社長につなげ!」 社長につないだら、あかんから、何とか謝りたおす。 何度も、何度も、何度も謝って、ようやく終了した。 体が重い。歩くのも辛い。 ずいぶんと時間がかかってしまった。 もう食事を片づけられただろうな。 当局の指導とかのせいで、テーブルに残された食事は、すぐに片づけられてしまう。 あきらめて食堂に戻ったら、美雪さんが僕のトレイの前にいた。 僕を見て微笑む。 「お疲れ様。食事はちゃんと守ってあげたわよ!」 美雪さんは、そう言うと立ち上がった。 僕は、かろうじて言った。 「あ、ありがとう……」 心の底から湧き上がる深い感謝の気持ちにふさわしい言葉を思いつくことができなかった。 テーブルから去ってゆく美雪さんに、後光がさしているように思えた。 美雪さんは、僕を待っていてくれた。 それなのに、僕は美雪さんをほったらかしてしまった。 ああ、これで美雪さんとの付き合いは終わったな。 僕は、そう思った。 でも、すぐに思い直した。 いや、付き合いは、始まってなかった。 始まらなかったんだ! だって、これまで話す機会がなかったから。 話す機会? あるじゃないか。 今なら、美雪さんと話ができる。 僕は、美雪さんを追いかけた。 すぐに追いつくことができた。 時間をかけてはいられない。 息を弾ませながら、疲れ切った頭で、伝えたい思いを凝集させて、言葉をしぼりだす。 「ありがとう。ぜひ、これからも僕を支えてほしいのだけど……」 美雪さんは、しばらく目を泳がせていた。 神秘的で曖昧な表情を浮かべている。 僕を見つめて、細かく体をゆすっている。 それから美雪さんは、急に真剣な表情になった。 心を決めたのが分かった。 緊張が極限まで高まる。 肌が静電気を帯びたようにチクチクしてる。 僕の背後で無数の人々が蠢いている。そんな気配を感じた。 何だか、ものすごく良くない予感が胸を締めつける。 美雪さんは、深々とお辞儀をした。 それから、大きな声で、はっきりと僕に言った。 「ごめんなさい!」 僕の背後から、いくつものため息が聞こえた。 たくさんの足音が次々と遠ざかってゆく。 誰かが、僕の肩を優しく叩いた。 シモヤマさんだと、なぜか分かった。 ゴガ~ン! 轟音を立てて、何かとんでもなく重い物が床に落とされる音がした。 ヨコタが消火器を定位置に戻していた。 ヨコタは、虫けらを潰すときのように無表情だった。 ウエムラが立ち去ろうとしていた。 着流し姿だった。無精ヒゲが、妙に格好よかった。 肩に刀をかついでる。 ふり向いたウエムラは、凄まじい殺気を放っていた。 魂を消し飛ばされそうだった。 ウエムラ、それは模造刀だよな。 本物じゃないよな? でも、なぜ着物なんか着てるのだよ。 「泊まり込みが続いて、着られる物が無くなってしまったから、寝間着代わりの浴衣を着てるのさ」 ……着られる物が無くなって…… 一瞬、切られる者が亡くなって……、と脳内変換された。 気が付くと、あたりから人影が消えていた。 美雪さんの姿も、消えていた。 玉砕したことを理解するのに、しばらくかかった。 食堂に戻ると、食事が消えていた。 せっかく、美雪さんが守ってくれたのに。 一口も食べずに無駄にしてしまった。 それが、ひどく切なく、残念に思えた。 落ち込んでる暇は無かった。 夜勤に備えて、コーヒーをがぶ飲みする。 胃が重い。頭が重い。 不自然に目が覚めてくる。 眠たいのに眠れそうにない。 これなら寝落ちせずに済みそうだ。 でも頭は、まるで働かない。 夜勤が始まった。 次々に飛び込む質問、質問、質問、クレーム、質問、非難、見当違いの提案、非難、非難、クレーム、クレーム、クレーム。 永遠に終わらないかと思えた。 ………… やがて二十四時間対応の夜勤が終わった。 それでも、仕事は終わらない。 対応に一定以上の時間がかかると、その顧客は自動的に僕が担当することになる。 そういうシステムだ。 夜が明けても、質問とクレームが続く。 「いったん、パソコンのスイッチを切ってください」 やれやれ、これで何とかなったな。 ウエムラの性格はアレだけど、腕前はたいしたものだ。今回の訂正ソフトは、機能が追加されたうえに、なんの不都合もなく動いている。 ミスを挽回できるほどの出来だった。 なら、なんでミスしたのだよ。 分かってる。 開発期間が短すぎたから、動作確認が不十分だった。機能の絞り込みが不十分になった。 無理に無理に無理を重ねて、破綻した。 そうだよな。 「スイッチをいくら押しても切れないのですけど……」 え? まいったな。 「左下の一番隅に旗のような印がありますね」 「ええ……。スタートという文字の左ですね」 スタート? ……まあ、いいか。 「そこをクリックしてください」 「クリックと言うと……」 カーソルを合わせて、と言いかけて気が付いた。 コンピュータを終了させる方法を知らない? パソコン初心者だ! カーソルという言葉も知らない可能性が高い。 「画面に矢印が出てますか?」 「はい」 「矢印を左下の隅にある印の上に合わせてください」 「合わせました」 「マウスを使ってますか?」 「マウスと言うと……」 「手で握って使う道具がコンピュータについてますか?」 「いいえ」 そうすると、トラックボールかな? 「矢印は、何を使って動かしましたか?」 「キーボードの下にある灰色の枠です」 枠(わく)かァ。たぶんタッチパネルだろう。 でも初心者だから、相手の使う言葉で説明した方が良いだろうな。 「その下に、細長い枠が二つありますか?」 「はい」 「その左側の枠に触れてください」 「何か表示が出てきました」 まったくの初心者だよ。まいったな。 「シャットダウンという表示がでてますか?」 「いいえ。ええと、……終了オプションという表示ならあります」 なんだって! ……、やってみるほかないか。 「終了オプションという文字に矢印を合わせて、左の枠に触れてください」 一息いれる。 「どんな表示がでましたか?」 「コンピュータの電源を切るという表示の下に、スタンバイ、電源を切る、再起動という表示がでました」 たぶん、これでいいだろう。 だけど、ずいぶん手を加えてあるようだった。 初心者が、バリバリにカスタマイズされたパソコンに、サポートがとっくに切れたOSをのせてるのか。 内部がどうなってるのかも、読めないなあ。 「電源を切るという表示に矢印を合わせたら、左側の小さな枠に触れてください。しばらくすると画面がいったん消えます。そのまま何もせずに、しばらくお待ちください」 「ええと……、はい、分かりました」 やれやれ、これで何とか成ったな。 この三週間ほどは、クレーム対応に追われて、ここで十五分、こちらで二十分と、つぎはぎの睡眠を取るのが精いっぱいだった。合計して六時間眠った日があれば、合わせて二時間のときもあった。 いつ眠れるか、いつまで眠れるか、まったく分からない日々が続いた。 一日の平均睡眠時間は、たぶん四時間くらい…… ……やべえ、寝落ちしてた。 怒ってるだろうなァ。 「コンピュータのスイッチを入れてください。これで直ってるはずです。確認してください」 「……今度はうまくいきました。本当に有難うございます。初めてコンピュータが思うとおりに動きました。孫にお古をプレゼントされたけれど、これまでまったく使いこなせませんでした」 孫からプレゼントされた中古パソコンだから取扱説明書が付いてなかったのか。納得したよ。 「このたびは、こんな年寄りに長い時間付き合ってくださって、丁寧にご説明くださり、本当に有難うございました。また分からないことがございましたら伺いますので、その時には、よろしくお願い致します」 いや、もうやめてよ。 僕は取扱説明書ではないっつ~の。 ……、所定の時間を越えたから、この顧客は僕が専属で対応することが確定かァ。 やれ、やれ。 「こんな欠陥ソフトに高い金を払わせやがって、何様のつもりだ! ぶっ殺してやるから名を名乗れ。会社も必ずぶっ潰してやるぞ!」 はい、はい。 「ぶっ殺す」は明白な脅迫だから、クレーマーではなく、犯罪者だ。 犯罪対策課のヨコタの担当だな。 ヨコタは、わが社の鉄壁のガードマンだ。 これまで、すべての犯罪クレーマーは、ヨコタの六法全書の朗読に耐えきれずに撃滅されていった。 さて、証拠の言動を保存して、…… 「では、担当の者に替わります」 よろしく、ヨコタ! 次々と、問い合わせが押し寄せてくる。 何度も、何度も、何度も、何度も、押し寄せてくる。 だから、夜勤の残業がすべて片付いたときには、午後六時になっていた。 いや、なんと今日は午後六時に仕事が終了しているのだ! 何週間ぶりだろう。 こんなに早く帰宅していいのか? ためらいがあった。 ショルダーバッグを持って職員専用の出口に向かう。 定刻を過ぎてるから堂々と帰って良いはずなのに、なんだかひどく後ろめたい。 シモヤマさんと出会ってしまった。 心臓が跳ね上がった。 捕まったら、ながながと話を聞かされる。 まずい、まずいぞ。 さりげなく、通り過ぎようとした。 「ご苦労さん。明日は午後出勤でいいよ」 あれ、今日は長話が無いのか。 それに、シモヤマさんの笑顔なんて初めて見た気がする。 何かあったのかな。 「新プロジェクトが本格始動するから、今夜はゆっくり休んでくれよ」 新プロジェクト? 何だか不安になるなァ。 しかし、もう保たない。 寝不足が続いたあげくに三十五時間の連続勤務だった。 激務だった。 会社からでると、まだ辺りは明るかった。 でも、景色から色が抜けていた。 まわりは全てセピア色だった。 街の雑踏が徐々に闇に染まり、ゆれながら遠ざかってゆく。 街の騒音が、だんだん遠くなってゆく。 気を抜いたら、この場で意識を失う。 それが分かった。 電車の座席は空いていた。 でも、座らなかった。 座れば、間違いなく眠ってしまう。 眠れば終着駅まで、いや、車庫に着いても、目覚めることはないだろう。 ………… なんとか自宅に戻るまで、意識をつなぎ止めることができた。 ドアを開けて、中に入る。 ふり向いて鍵をかけるのは、……もう無理だった。 ようやくのことで、靴をぬぐ。 意識が……、闇に……、呑みこまれてゆく…… 一歩、また一歩と、体を前に運ぶ。 ソファーに、たどりつく。 倒れ込むように体を横たえ…… 気が付くと、洗濯機が回っていた。 すぐそばで、懐かしい声が優しく語りかけてくる。 「意外とこまめに着替えてたのね」 「ありがとう」 僕はそれだけ言って、ふたたび心地よい闇の中へと落ちていった。 「どうしたの?」 ユキちゃんが僕に訊ねる。 僕はユキちゃんに答える。 「仕事のことを思い出してた」 ユキちゃんは、嬉しそうだった。 「そうなの? はい、どうぞ!」 そう言って、ユキちゃんは恋人のように僕の口元に食事を運ぶ。 美味しい。 「美味しいね」 ユキちゃんが笑顔になる。 「よかった、気に入ってくれて」 「ユキちゃんが作ったの?」 「ううん、レトルトよ」 「ユキちゃんが選んでくれただけあって、とても美味しいね」 ユキちゃんは嬉しそうに微笑んだ。 「ありがとう。でも、何を思い出したのだっけ?」 「仕事の事を」 ユキちゃんの表情が引き締まった。 「聞いてるわ。お仕事、本当に大変だったのよね。ほかの人達は専門用語を並べて問い合わせから逃げてたのに、丁寧に対応した。だから、会社は危機を乗り切れたのよね」 それからユキちゃんは、じっと僕を見つめた。 少し頬を染めて、可愛く首をかしげる。 「僕を支えてほしい、それがプロポーズの言葉だったわね」 「盛大に、ゴメンナサイといわれて、玉砕だったけどね」 「会社中の皆が集まってた。彼氏を守るために、そう言うほかなかった」 ユキちゃんは、クリクリした目で僕を見つめる。 「おばあちゃんは、そう言ってたわ」 ユキちゃんは、悪戯っぽく微笑んだ。 「でも、美雪おばあちゃんがいつも言ってたとおり。おじいちゃんは、甘え上手で、本当に口がうまいわね」 シルバー・エイジの先にある黄金時代には、人は掛け替えのない存在に守られて、飢えることも、寒さに凍えることもないという。 |
朱鷺(とき) 2018年08月12日 16時54分58秒 公開 ■この作品の著作権は 朱鷺(とき) さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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