呪い屋でございます、お見知りおきは結構。 |
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1、 「では、呪い屋さん、この男を」 夏の昼下がり、この店のランチタイムもそろそろ終わろうとする頃だった。喫茶店だか定食屋だかよく分からない……まあ、大衆食堂といっていい店の隅っこで、サングラスの男はスマホの画面を見せた。 壁際の長椅子にもたれた俺は腕組みをしたまま、努めて眠そうな顔をして、ゆっくりと頷いた。長袖長ズボンにロン毛、しかも前髪をだらんと垂らした自分の姿は、傍目にも不潔っぽいという自覚はある。 「受けた仕事は必ず果たす。果たせない仕事は受けない、よろしいか」 男を正面から見たくなかったのだ。くたびれたTシャツに毛脛剥き出しの短パンにサンダル履きという格好は、いかにも暑苦しい。 つけっぱなしのテレビでは、バラエティ番組の司会者がスタジオの観客をどっと沸かせている。その、静かな中で時折聞こえる爆笑に紛れて、男が不機嫌に囁いた。 「狙った相手は必ず仕留めると聞いたが?」 「誰でも狙うわけではない」 俺は窓の外へと目をそらす。ごみごみした街中で、アスファルトの照り返しだけが眩しい。暑いせいか、人影はまばらだ。退屈な光景を見るともなしに見ていると、男が低い声で吐き捨てた。 「期待外れだったな」 「嫌なら他所を当たれ」 窓の外を眺めたまま、抑揚を殺した声で、俺はぶっきらぼうに言い放った。 「何?」 男が唸る声に、正直言うと肝が冷えた。そこらのオッサンにはできない芸当だ。こんなナリをしていても、そこはやっぱり、本職だ。 だが、ここは腹の下に力を入れて、ようやく聞こえるぐらいの囁き声で答える。 「俺の他に呪い屋がいればな」 「舐めてもらちゃあ困る」 同じくらい低い声だったが、俺なんかよりはるかに余裕たっぷりだ。こういうタイプは、怒り出すと命に関わる。ここ何回か、こういう男を前に商談してきて、それが肌で分かるようになってきた。 とはいえ、そんなことはおくびにも出さない。上目遣いに眺めて、面倒臭げに脅し文句を吐く。 「試しに呪ってやろうか? お前を」 バラエティの爆笑が、さらに大きく聞こえた。他愛もないやりとりがしばらく流れたのち、目の前のスジ者は、威圧感たっぷりに答えた。 「いいだろう」 さっそく、俺は次の手続きに入る。 「では、調査料を」 面倒くさい、というニュアンスたっぷりに言い放った。 仕事を受けることも受けないこともある。こういうふうに手間賃を取っておかないと、いつ食いっぱぐれるか分からない。男も事務的に、淡々と尋ねた。 「振込先は?」 「キャッシュで」 銀行で口座を開いたり、口座番号をいちいち依頼主に教えたりしていたら、足がつく原因になる。現金のほうが安全だった。もっとも、帰りの道が危険にはなるが。 「おひとりで?」 そんなに手間のかかることではない。車は持ってないし、交通機関では遠回りだ。なるべく、時間のロスは避けたい。人目に付くのも、イヤだった。 俺はおもむろに立ち上がる。 「送っていただこう」 2、 「例のものは準備してあるな?」 俺が尋ねると、車検を受けているのかどうかも疑わしい軽自動車が走ってきた。 「ああ」 依頼人は、俺に手錠をかけた。そのまま助手席に押し込まれる。依頼人が後部シートに座ると、その隣で待っていた男が背後からアイマスクを付けてきた。これも、契約の内だ。 呪う相手の家までは、車で移動することになっている。その間、俺は依頼主が用意したアイマスクをつけられて、それを外せないよう、手錠のまま助手席に座っている。このまま背中を刺されたり、海へ沈めたらおしまいなのだが、そこは俺も「呪い屋」だ。そんなことをしたらどんな目に遭うか、こういった筋の人たちの間にはまことしやかな噂が伝わっている。 なぜなら、俺が呪って死ななかった相手はいないからだ。死ぬ間際の呪いは、さぞかし強烈なことだろう……。 どれほどの間、どこを走ったのか分からない。手錠とアイマスクを外された俺は、人通りの少ない路地の、「いかにも」という門構えの家の前に立っていた。 「ここだ」 素人目にもわかる、和風の豪勢な造りの家だった。何重もの瓦屋根が、ぶわっと枝を開いた松の枝の向こうに見える。俺はそれを見上げながら、もったいぶって指図した。 「うむ、では、人払いを」 古い軽自動車の窓がハンドルでぐるぐると開けられ、依頼人が必要なことだけを告げた。 「10分後に」 車が走り去ると、そこには俺と……門の前をうろうろしている男の子だけが残された。 「どうだ」 俺は近づかないで囁く。こういうふうに、離れていても聞こえるように微かな声で話すのは、訓練していなければできないことだ。だから、傍目から見ても、俺が話しているようには聞こえないだろう。 「あと3日といったところか」 男の子の声も、どこからか聞こえてくる。どういう声で話しているのかは、よく分からない。アカの他人に聞こえているかどうかは知らないが、どっちにせよ、なんの話か分かるはずがない。 「では、3日後に」 「身体は洗っておいてね」 すかさず返ってきた一言は、ちょっと聞いただけでは何の脈絡があるのか見当もつかない。だが、俺にとっては大問題だった。 「言っておくが……」 「冗談だ」 文句を言おうとする俺を遮った男の子がニカッと笑ったところで、ちょうど10分が経ったようだった。俺の後ろに、さっきのボロっちい軽自動車が止まる。 3、 もとの大衆食堂近くで目隠しと手錠を外され、俺は軽自動車から下ろされた。これで、仕事は終わりだ。3日経ったら同じ時間に、ここへ来ればいい。そのときは、人の命に見合った報酬が現金で手渡される。それまで、俺は暑い自宅でじっとしているしかない。仕事の性質上、あまり人目につくのは考えものだ。 ロン毛のウィッグを外すと、まだ日は高い。俺は滝のような汗を流しながら、最寄りの駅まで歩いた。報酬は多額なのに、俺には金がない。握りしめた小銭でようやく切符を買う。 なんとか自宅のある町まで帰ることができたが、アパートのドアにたどり着くまでは、これまた結構な道のりを歩かなくてはならないのだ。ドアノブにようやくカギを差し込んだときは、目まいを起こして倒れる寸前だった。 「早番ですか?」 身体の中を、清々しい風が吹き抜けていったような気がした。見上げると、真夏の眩しい光の中に、髪の長い影が揺れている。 昔、こんな光景を何度も見たような気がする。朦朧とした意識の中で、俺は思わずつぶやいていた。 「母……さん? 姉さん?」 だが、俺に話しかけたのはその、どっちでもない。すらっとしたスーツ姿の女性が、きょとんとした顔で見下ろしていた。 「不破さん? 不破さん?」 「あ……風間、さん?」 最近、隣に越してきた風間異羽(かざま ことは)さんだった。引っ越しの日に出会ったのだが、きれいな人だったのでちょっと気になって、つい手伝ったりなんかしてしまったが、あわよくばお付き合いを、なんていう図々しいことまでは……あんまり、ない。その辺の現実は分かっているつもりだ。 この人の前では、俺は金のないフリーターということになっている。 「ご無理なさらずに……」 「え、ええ」 曖昧に答えて部屋に引っ込もうとしたのは、風間さんの優しい言葉には全て下心があると分かっているからだ。 「あ、こないだの終身保険プラン、できましたよ」 「いや、俺フリーターなんで」 突き出されたのは、「不破高登(ふわ たかと)様・23歳」と書かれた、年金だの傷病保険だののシミュレーションだ。 早い話、風間さんは保険屋さんなのだが、その日暮らしのプータローが死ぬまでの心配なんかしても仕方がない。それと……。 屈んだ胸元から、豊かな谷間が見えている。つい僕の目はそっちへ……。 いかんいかん、気づかれたら完全に嫌われる。 「あの……不破さん?」 視界の片隅で、つややかな唇が囁く。やましいことがあるからか、風間さんの顔をまともに見られない。 「いえ、その、僕は別に……!」 暑い所でパニックに陥ったせいか、目の前が真っ暗になる。もう、風間さんの姿はおろか、声も聞こえない。代わりにどこからか響いてきたのは、俺をたしなめる微かな声だった。 「そりゃあお前、まず金だろ」 そう、金なのだ。俺を、風間さんどころか真っ当な人生から遠ざけているのは……。 目まいは一瞬のことで、俺はすぐに我に返った。辺りを見渡してみると、誰もいない。ただ、遠い青空に向かって、1枚の白い羽が風に乗って飛んでいくのが見えるばかりだった。 4、 3日間、扇風機しかな暑い部屋から一歩も出ないで、俺は悶々と過ごした。風間さんが帰って来やしないかと期待したが、それが叶ったってどうということはない。今日、あの大衆食堂までの往復の電車賃しか持っていないのだ。 だが、スマホはきっちり鳴る。「呪い屋」の仕事がない時は、単発のバイトで食いつなぐしかないからだ。「呪い屋」の仕事がなかったら、貸金業界のブラックリストに載って、スマホも使えなくなっていたところだった。 「もしもし?」 誰からのコールか、確かめる必要はなかった。平日に仕事もなく、アパートでくすぶっているしかない俺に電話をしてくるような奴は、ひとりしかいなかった。 「オレオレ」 「詐欺師に用はない」 皮肉たっぷりに言ってやった。何の悩みもなさそうな声が、ヘラヘラと返事する。 「随分な挨拶だな」 こいつにはそれでも足りないくらいだ。俺の転落人生に、無関係とは言わせない。 「何だよ明彦」 「この辺に来たから昼飯でも一緒にと思って……どうせヒマだろ?」 「大きなお世話だ」 誰のせいでこんなことになったかというと、こいつのせいである。もっとも、逆恨みと言われれば、俺は反論できないが。 穂積明彦(ほづみ あきひこ)。その日その日を生きていくのがやっとの俺とは違って、こいつは堅気の務め人だ。今年で25歳になるはずだが、俺とは違って、無難に生まれて無難な人生を歩んで来た男だ。 だから、人の苦労を思いやることがあまりない。それでいて、金のない俺に余計な心配をして、お節介はしっかり焼いてくるのだ。 だいたい、風間さんのことをちょっと話したら「そりゃあお前、まず金だろ」とぬかしたのもこいつだ。 言うことをいちいち信じていると痛い目に遭うと分かっているのに、なぜか乗せられてしまう。俺が単純なのか、こいつが無責任なのか。たぶん、両方だろう。 「こないだの株、どうなった? ほら、買ってみるって言ってたの」 「お前な……」 デイトレードとかそういうのを教わって、「誰でもやっているから」と勧められたが、実際は大損だった。だから俺は今、実家にも言えない膨大な借金の返済で、食うや食わずの生活をしている。 「ああ、そうそう、あの店、摘発されたってよ」 「ああ、そうですか!」 ゲーム機での違法賭博をやっていた、場末のバーだ。最初は勝っていたが、次第に難易度が高くなり、気が付いたら怪しげなところから金を借りて、その筋の方々のお世話になる羽目になっていた。 投機にせよバクチにせよ、ハマったのは俺なんだから文句も言えないが、その入り口に連れていったことは何とも思っていないらしい。 「何だよ……すまん、虫の居所が悪いみたいだな」 「そんだけの用なら切るぞ」 俺は返事も聞かずに、スマホの通話を切った。時計を見ると、そろそろ、例の報酬を受け取りに行く時間だった。 5、 報酬の受け取りは簡単だった。あの軽自動車が来るのを待って、大きな羊羹の箱を受け取るだけだ。これで3000万円。これで依頼主と2度会うことはないし、口外したら呪いがかかることになっている。 俺の作ってしまった借金はデイトレで2億くらいだから、あと3人は呪い殺さないと返しきれない。問題はギャンブルの借金のほうで、出所が出所だからほとんどカラス貸し、いつ払い終わるか分からない。ただし、返済はしているので、しつこく追い込まれることだけはなくなった。 ヤバい金だけに、返済先に振り込むのはたいへんだった。100万円ずつ30カ所、トボトボ歩いて銀行を探し、時間差で振り込んだり窓口を変えたりとセコイことをやって、ようやく歩きでアパートに帰ってきたときは、すっかり暗くなっていた。 「お帰りなさい」 台所に立っていた、背中のつややかな裸エプロン姿の美しい身体が振り向いた。昔、中学校の美術でスケッチした古代ギリシャの……少年みたいな。 「夕ご飯? それともお風呂?」 まばゆい笑顔で尋ねる声は、その男の子のもののようでもあり、どこからか聞こえるようでもあった。 「どっちも勝手に済ませたんだろ、先に」 自分の住まいへ上がるのに、何の遠慮がいるものだろうか。風呂でさっさとシャワーを浴びると、トランクス一枚で冷蔵庫の缶ビールを飲む。 「あんまり飲むと、身体に毒だよ?」 「ひと月にいっぺんぐらいだろうが!」 居間にツマミを持って行って、貪り食う。このくらいの楽しみがないと、やっていられない。俺はあまりアルコールに強くないから、あとはこのまま寝るだけだ。 だが、この男の子にとって、それはちょっと困ることなのだった。 「じゃあ、寝る前に、お約束の……」 俺の背中に回り込むと、どこをどうやったものか、裸エプロンのままマウントポジションを取る。 「待て、待て、いや、もっと他のものを……」 跳ね返そうにも、ものすごい力で押さえ込んでくる。これが異種格闘だったら、完全にタコ殴りだ。だが、男の子は艶然と微笑んだ。もし、芸能活動なんかやっていたら、これだけで女子中高生は卒倒するだろう。 「なら、いいんだ。これで契約終了ってことで」 「いや、それはまだ」 困る。まだ、借金が残っている。真っ当なほうはあと何回というメドがついているが、ヤクザなほうは言われた額を耳を揃えて返さない限り、一生ついて回る。 その辺の事情は、この男の子もよく知っていた。 「そうだよね。呪い殺せる相手、教えてほしいでしょう? ボクに」 「え、でも、ちょっと、あ、ああ、ああああ~!」 エプロンが脱ぎ捨てられ、平たい胸がぴったりと押し付けられる。鳥肌が立ったところから、生命力がどっと抜けていくような気がする。 気も遠くなっていったが、ある意味では気持ちよかった。生きていく上での余計な苦しみから解き放たれていくような、そんな気がした。 6、 「分かってるよ、苦労したってのはさ」 力尽きてトランクス一枚で居間に横たわる俺のとなりで寝そべる男の子に、俺は脱ぎ捨てられたエプロンをかけてやった。 そう言うと、まるでコトに及んだかのように聞こえるだろうが、そうではない。ひどい目に遭わされた上に、見苦しいモノを見せられたくなかっただけのことだ。 「オフクロ、小学校に入る前に死んだからな、病気で」 その頃、例の明彦は平凡に掛け算の九九なんかを練習していたはずだ。 「顔、覚えてる?」 「写真でしか」 実際に見たことはないが、きれいな人だったみたいだ。 「お姉さんは?」 「まるで生き写しみたいだったらしい、オヤジの話だと」 姉は、中2になるまで俺の面倒を見てくれたが、仕事での過労がたたって死んでしまった。その頃、明彦はそこそこ名の知れた高校で、勉強したり恋愛していたりしていたらしい。 「お父さん、どうしてたの?」 「死に物狂いで働いてな、何とか高校には」 入ることができたが、家の雰囲気は真っ暗だった。本当だったらバイトでもして家計を支えるところだが、俺はその暗さに耐え切れなかった。 「お芝居は、どこで覚えたの?」 「部活と……養成所で」 たまたま部員不足に喘いでいた演劇部に入ったところ、すぐ役者にハマった。部活や大会に出ているうちだけは、現実を忘れられたからだ。その頃は明彦もそこそこの大学に入って、学生生活を満喫していたらしい。 やがて卒業の時期を迎えたが、俺は暗い現実に向き合うことがどうしてもできなかった。バイトしながら俳優養成所に通うことにしたが、オヤジは黙認していた。 ちなみに明彦は、難なく就職活動を済ませて、そこそこの企業に営業職で入ったという。 「役者には、なれなかったんだね」 「最初のオーディションで落ちてな。ああ、俺じゃダメなんだなって思ったとき、養成所の人から手品やらないかって勧められて」 俳優よりもそっちだと言われて、マジシャンに入門した。明彦とは、その時に知り合ったのだった。 「本当に疫病神だね、あいつは」 「お前が言うな」 明彦にしてみれば、デイトレも、気晴らしのバクチも、人脈づくりの一環として勧めたつもりだったのだろう。だが、養成所で戦力外通告され、俳優業を断念した俺は、そっちにのめり込むしかなかった。 明彦も一応、たしなめはしたが、それっきりだった。全ては、俺に原因がある。 「だって、僕が声かけなかったら、君は……」 「言うな、その先は」 そんなとき、オヤジから連絡があった。帰ってこい、と。俺の苦境を察したのかどうかは知らないが、借金抱えて帰れるわけがなかった。 この世には、神も仏もないものか。せめて、守護天使でもいてくれればいいのだが。 そんなときに、誘いをかけてきたのがこの美少年だった。 「君は、呪い屋にはなれなかったわけでしょう?」 7、 あのとき、俺は真剣に死のうと思っていた。実家から連絡のあった次の朝、早く起きて、近くの国道を突っ走るダンプカーの前輪に飛び込もうとしたのだった。 「別になりたくてなったわけじゃ……」 そう言う俺の唇を、しなやかな指がふさぐ。 「気色悪いな、俺はだからそういう趣味は」 「ボクと組まなかったら、キミは死んでた」 男の子は、真顔で言い切る。そこは、俺も反論できない。 「それはそうだけど……」 それでも言い訳すると、また平たい胸が覆いかぶさってきた。 「僕は取りついて殺せる相手を、君に教える。君は仕事を受けるか受けないかを依頼人に告げる」 早い話が、この男の子は一種の死神だということだ。俺は、この死神と組んで「呪い屋」に姿を変えたのだった。 まず、売り込んだ相手はカラス貸しだった。こいつらから金を引き出しては、またこいつらに返済するという回りくどいやり方だったが、死神との契約だから仕方がない。たとえば「借金をチャラにしないと呪い殺すぞ」という脅しはアウトだ。あくまでも、死神に人を殺させるということが前提なのだ。これを破れば、俺が命を取られる。 仕方がない。俺には人を殺す呪いなんか、かけられないのだから。役者として鍛えた演技力と、手品師としての話術で、呪いが効いたように見せかけることができるだけだ。 「だからやめろ俺は」 俺ができる手品も、手錠抜けがやっとである。だから、こんな華奢な男の子の手足をすり抜けることもできないのだった。 「いいじゃない、別に命を取ろうってわけじゃないんだし」 その代わりに、吸い取られるものがある。 「いや、それでも何かこう……」 最後の抵抗を試みると、潤んだ目で見つめてくる。 「彼女いないんでしょ? じゃあ、ボクと」 若い女の子なら一発でコロリといくのだろうが、こっちにそっちの趣味はない。 「いや、そういう趣味は」 抵抗空しく、少年は俺の手足を四肢で器用に絡めとる。 「ちょうだい……キミの性欲(リビドー)、もっと」 そう、借金を「呪い屋」で返すために払う報酬は、俺の心に潜む、男としての、そのナニなのだ。さっきの失神もそのせいなのだが、二度はごめんだ、二度は。 大の男が少年に凌辱される図というのは、一部の腐った女子には目の保養にもなるだろうが、当事者にとってはたまったものではない。 神も仏もありはしない。せめて守護天使くらいは、と思っていたら、俺に憑いたのは死神だったわけだ。 俺の頭の中に、いままで憧れた女性の姿が浮かんでは消える。 ……母さん! ……姉さん! ……そういえば、高校時代の、サマーセーターがよく似合う担任の先生は、姉さんによく似ていた。 ……胸のラインが、くっきりと見えて、って、そっちじゃない! 「そうそう、そういう妄想が欲しかったんだ!」 しまった、と思った時、部屋の外に救いの天使が舞い降りた。3日くらい前に見た、青空を舞う白い羽根のイメージと共に! 「あの~、ごめんなさい、ちょっとお静かに……」 風間さんだった。さすがに死神も、はっと目が覚めたらしく、押さえこむ手が止まった。だが、僕は僕で、こんなところを見られたら最後、それこそもう生きてはいられないだろう。 「あ、これは、その……」 助けてはほしいけど、このまま自分で何とかさせてほしかった。もっとも、相手が死神ではどうにもならないけど……。 無駄な抵抗とは知りつつ、力の抜けた身体を持ち上げようとした、その時だった。 「じゃ!」 何事もなかったかのように、可愛らしい死神は眼の前から突如として消えた。 8、 次の依頼は、1週間も経たずに来た。自分でも何をやったのかよく分からない単発バイトで、日当5000円をもらって帰るついでに郵便局に寄ってみると、局留めの手紙が届いていたのだ。 指定された場所に行ってみると、何だか様子が違った。今度ばかりはいかにも高そうな、照明のぼんやりた感じの静かなクラブだった。露店で古本を売っているオッサンみたいな、偽ロン毛のむさくるしい男が来るところではない。 それでも俺は、柔らかいカウチに、大衆食堂にでもいるかのような態度で、そんなこと気にもしないというふうに座り込んだ。 背広をきっちり着込んでレイバングラスをかけた男が、スマホの画面を見せる。 「この男を」 「受けた仕事は必ず果たす。果たせない仕事は受けない、よろしいか」 ここまではお決まりのパターンだったが、意外な一言が飛び出してきた。 「それは聞いている」 「誰から?」 誰からも漏れることはあり得ない。ドキッとしたが、僕は努めて平静を装った。目の前の依頼人は、それこそ呪いでもかけているかのような重々しい声で告げた。 「最初の依頼人から」 「……秘密のはずだが」 俺の「呪い」にすっかりびびっている依頼人たちが、誰を呪ったか口外するとは思えなかった。だいたい、そんなことを自分から口にしても、恨みを買いこそすれ、何のメリットもないだろう。 そんな動揺が伝わったのか、男は鼻で笑った。 「我々を舐めてもらっては困る」 「というと?」 声が震えているのが、自分でも分かる。慣れてしまえば、こんなものは何でもなかったはずだった。だが、目の前の男は、真剣に怖かった。 「呪い屋などというものを、誰が信じる?」 「じゃあ、お前は?」 思い切り低い声で応じたのは精一杯のハッタリだったが、軽くかわされた。 「信じていない」 「そんなら、何しに?」 いつもの声にもどってうろたえたが、男はそんなことなど気にもしていないようだった。 「確かめに来たのさ、呪い屋が本物かどうか」 「どうやって確かめる?」 こんなやりとりが、一度だけあった気がする。それがいつだったか思い出す前に、男は一気に切り出した。 「こいつを呪い殺せれば、信じる。報酬も払う。できなければ、命をもらう」 「果たせない仕事は……」 既に、呪うのが前提になっている。ここは条件をはっきりしておく必要があったが、この男には意味がなかった。静かな威圧が、俺を金縛りにする。 「一度だけ、狙って呪い殺したことがあるだろう」 「それは……」 思い出して、ぞっとした。この男が怖かったのではない。俺は確かに、自分の都合だけで死神を使ったことがあったのだった。だが、この男はどうやって、それを知ったのか。 「信じさせるために、呪い殺したんだ、俺のアニキ分を」 俺の最初の依頼主を殺させる理由が、それで分かった。呪い屋の噂だけは伝わっている。兄弟分の復讐を果たすために、この男は、呪い殺されたと思しき順番を遡って、ヤクザ同士の対立関係を片っ端から洗っていったのだ。 だが、俺としては男の追及に応じるわけにはいかなかった。命がかかっている。 「信じないなら、帰れ」 交渉決裂だ。呪い屋を信じられないなら、それでいい。人を殺したくて死神を使っているわけじゃない。 だが、それはあくまでも俺の都合に過ぎなかった。 「本物でないなら、生かしてはおけん。できないことをできると騙してきたんだからな、この業界を」 下手に売り込んだら、こんどこそ海に放り込まれる。手錠は何とか外せるが、足をコンクリートで固められたら、どうにもならない。 つまり、今後、呪い屋は続けられないということだ。まだ、借金は残っているのに……。 だが、俺の頭の中で一つ、閃いたことがあった。 「それならば、受けん」 「何だと?」 男が声を荒らげることはなかったが、小便をちびりそうなほど怖かった。だが、ここはハッタリどころだ。命が惜しくて受けたと思われては、偽物の疑いは解けないだろう。 「割に合わん……命がかかった仕事だ」 再び、鼻で笑う声が聞こえた。 「ならば、倍額払おう」 「そんなはした金で」 実を言うと、一瞬だけ心が動いた。だが、まだ早い。男はしばらく考えていたが、おもむろに尋ねた。 「どれだけ欲しい?」 「では、3倍」 これで成功すれば、もうデイトレの借金は消える。しかも、カラス貸しが死ねば、もう呪い屋はやらなくてもいいのだ。当然、あの死神とのナニもなくなる。今はそれだけで充分だった。もっと追い込まれていたときなら、10倍でも吹っ掛けたかもしれないが。 男としてはむしろ、そっちを想像していたらしい。拍子抜けしたように肩をすくめた。 「いいだろう」 俺はいつもの調子を取り戻して、面倒臭さたっぷりに言い放った。 「では、調査料を」 9、 「ここだ」 名前も分からないようなごっつい高級車に、いつものようにアイマスクと手錠付きで他2名と共に乗せられて、着いた先には見覚えがあった。 死神と契約したはいいものの、さすがに売り込み先が分からず、歩いて訪ねた最初の依頼人の屋敷だった。 そんな相手と二度も関わりたくないので、足がすくんだ。だが、そんな怯えを見せるわけにはいかない。俺はゆっくりと息を吐きながら、抑揚を殺した声で告げた。 「うむ、では、人払いを」 男も、同じくらい無感情な声で応じた。 「10分後に」 辺りはすっかり暗くなっている。こんな夜中にこんな連中の家の前をうろうろするのは……例の美少年、というか死神だけだった。 ありがたいことに、鋲を打った大きな門の前に立っている。これで裏に立っていたら、尻を一晩貸してでも表へ回ってもらうつもりだった。 「あと、何日……」 俳優修業で鍛えた、遠間からの囁き声で尋ねようとしたところ、俺の背中を叩く者があった。 「おい、約束は10分……」 さっきの男かと思って振り向いたが、そこにいたのは見知った顔だった。 「あれ、待ち合わせてたっけ?」 明彦だった。スーツ姿だったが、いくら何でもこの時間まで外回りということはないだろう。 「ええと……」 言葉を選びながらよく見ると、目がとろんとしている。酔っているらしい。接待か何かの帰りだろう。 「何やってんの、た~か~と……?」 大した変装ではないが、酔っ払いに見抜かれたのは情けなかった。とはいうものの、こんなところで本名をばらされてはかなわない。あの男たちが、どこで見ているかも分からないのだ。 「実は彼女できちゃってさ~、いままでちょっと、ね~!」 本人は幸せだろうが、俺にはどうだっていいことだ。とにかく、ここから離れてほしい。 だから、とっさに一芝居打つことにした。 「何者か?」 「何者も何も、何のバイト?」 一応、キャラとしては「呪い屋」のつもりだったのだが、明彦にはもう正体バレバレなんだから意味はない。馴れ馴れしく絡んでくるのを、できる限りの威厳でもって突き放しにかかるしかなかった。 「下がれ! 下がらねば子子孫孫まで災いが及ぶであろう」 「いや、俺もお前も独身だろ……あ、俺はもしかすると……。」 これが即興劇なら相手の俳優は当意即妙の受け答えで観客をドッカンドッカン笑わせてくれるだろう。だが、相手は酔ったど素人の明彦で、ここは無人の公道である。悲しいかな、養成所で戦力外通告を食らった俺には、もうそれ以上、話を広げることはできなかった。 ただ、ウケないネタをひたすら繰り返すばかりである。 「一族みな……」 「知ってんだろ、俺と父ちゃん母ちゃんだけだって。あ、でも、いずれは……って何言わすんだスケベ!」 酔っ払いなりにボケてみせたつもりなのかもしれないが、あいにく、俺は明彦と漫才コンビを組んだ覚えはない。 11、 やむを得ない。俺は口をパクパクやりながら、死神に向かって握り拳を突き出すと、指を1本ずつ立ててみせた。 「あと、何日? 1、2、3、4……」 だが、酔っ払いの好奇心と観察眼は侮れない。何か変わったことがあると、すぐに飛びついてくるものだ。 「何踊ってんの? 俺にも教えて~!」 正面からしがみつかれて往生した。前は見えないわ、うるさいわ目立つわ……俺の命がかかっているというのに、明彦は思いのままにじゃれついてくる。 まあ、いつものことといえばそうなのだが、今回は極めつけだった。最低限のこととして、死神からのサインがないかを確かめようと門まで近づいてみたが、明彦は払いのけても払いのけても絡んでくる。 「じっとしてろ……」 耳元で囁いてみたが、酔っ払いは聞いてなどいない。騒いでいるうちに、とうとう、門の脇にある通用口が開いてしまった。 がっしりした体格の男が、顔を覗かせる。目鼻は暗くて分からなかったが、その筋のオーラだけは夜目にも見えるようだった。 「危ないぞ、ここ……」 明彦を追い返そうとしたが、それこそ蛸のように手足を俺に絡みつけて離れない。 「ね~、もっと踊ろうよ~!」 警備担当らしい男が門から出てきた。明らかに、俺たちを不審者と見なしたのだ。 万事休す。これで呪い屋として捕まれば、俺がカラス貸しの債務者だってことは一発でバレる。死神は目の前にいるが、コンタクトが取れていないから、依頼通り殺すことはできない。結果として、命懸けで相手にするスジが2本に増えるわけだ。しかも、生還の保証は全くない。 だが、そこで夜中に一条の光が、軽やかな足取りで差し込んできた。 「待ってたんだ、ハニー!」 門の前の美少年……死神が駆け寄ってきて、俺にしがみついたのだ。冷たい吐息が、耳元をくすぐる。 「あと5日……」 俺も、小さな耳たぶに唇を寄せた。 「では、5日で……」 交渉成立だ。門の前でも、吐き捨てるような声が危機の回避を告げていた。 「ちっ……オカマ同士の痴話喧嘩か」 えらい言われようだが、明彦も同じことを考えていたようだった。目の前には恐怖で引きつった顔があった。 「お前……そういう趣味が?」 異性にまだ欲望ギラギラの俺に対しても、世の同性愛者に対しても偏見に満ちた一言を残して、明彦は夜の道をこけつまろびつ逃げていった。せめて、夜が明けて目を覚ましたら、今夜のことを忘れていてほしい。 だが、災難は去ったわけではなかった。 「あら、こんばんは」 まさかの闇の中に、澄み渡った声が聞こえた。スーツ姿の、出るとこ出た黒髪の美女……風間さんだった。こんな夜中に道端で美少年と絡み合って、目立たないわけがない。当然、明彦と同じ誤解を招くだろう。 終わった……。 もともと手の届く相手ではないのに、俺は失意のどん底に叩き込まれた。明彦並みに悪気はないにしても、首っ玉にしがみついているコイツは許せない。 俺の淡い恋を踏みにじってくれた死神を、首を回して睨みつけようとしたが、その姿は俺の背中にも、呪う相手の門前にもなかった。 「助かった……?」 依頼主が見ているかもしれないということを忘れて、思わずつぶやく。風間さんのことも目には入っていなかったが、声を掛けられて、ハッと思いだした。 「こんなところで何を?」 「近寄るでない、ここは穢れし場所」 恥ずかしいのをこらえて、俺は「呪い屋」のキャラを演じてみせなければならなかった。 「まあ、ある意味」 風間さんのリアクションは薄いものだったが、あいにくと「呪い屋」のキャラは濃かった。 「去れ……ここは女人の来るところではない」 目に、熱いものが滲む。誰でもいいから、助けてほしかった。 「あそこお婆さん通ったけど」 確かに、遠くに人影が見えはしたが、救いなど期待はできない。俺は、言いたくもないセリフを口にしてでも、風間さんをここから遠ざけなければならなかった。 「子を成すことが叶わぬように……」 「それ、セクハラだからね」 風間さんは豊かな胸の前で腕を組んで、冷ややかな眼で俺を見つめていた。全身が、金縛りにでも遭ったかのように動かない。 これで、全てが終わったのだ。そう思うと、胸の谷間をつい見てしまったときのように、目の前が真っ暗になった。 ふと気が付いたときには、10分が経っていたらしい。依頼主の男が、口元を歪めて不機嫌に尋ねた。 「何だ……あれは」 やはり、監視されていたらしい。もともと俺を疑っていたのだから当然だろう。俺も、ある種の感慨を込めて答えた。 「あれが……呪いだ」 12、 5日後の朝早く、例のクラブに行ってみると、そろそろ閉店するところだった。男は律儀に待っていて、羊羹箱を渡して去っていった。 気になったのは、最後の一言だった。 「では、また」 依頼主と2度会うことはないし、口外したら呪いがかかることになっている。これは契約の上で、常に確認していることだ。とりあえず、社交辞令だと思って忘れることにした。 午前中いっぱいで、例の如く銀行周りをした。これで、借金はすべて返済された勘定になる。カラス貸しも死んだことなので、めちゃくちゃな返済を迫られることはないだろう。利子が多少高くても、死に物狂いで働いて返すしかない。 そう思うと、公演が終わった後のように、ふっと肩の力が抜けた。もう、「呪い屋」になることはないのだ。古い友人と別れたときのような寂しさが、不意に襲ってくる。 だが、「呪い屋」をやるたびに、死神のお世話になるのはもうごめんだった。ろくでもない連中とはいえ、1人殺すたびに、美少年に押し倒されるのである。あの、全身から力が抜けていく感覚には、耐え難いものがあった。 そりゃあ、余計なものが削ぎ落されてすっきりとはするが、何か大切なものまで身体から抜けてしまったかのような、変な気分にもなるのだった。 それが、あと1回残っている。腹を決めてアパートに戻ってみると、死神は俺のワイシャツ1枚だけを羽織って、ニヤニヤ笑いながら待っていた。 「お疲れ様、それじゃあ……さっそく!」 台所に蹴たぐり倒されたが、俺はポロシャツを引き剥がされるに任せていた。抵抗する気もなかった。人が1人死んで、それで借金地獄から解放されたのだと思うと、そのくらい仕方がないという気になっていたのだ。 金のことしか考えていなかった頃とは、えらい違いだった。 「いただきま~す!」 固い身体がしがみついてくると、全身に痺れが走る。何か重荷が下りたような気もするが、気の遠くなるような脱力感にも侵される。 意識が、遠のいていく。 諦めて、状況に全てを委ねようとしたとき、アパートのドアがいきなり開いた。 「あの……不破さん!」 風間さんの声だった。そう言えばカギを懸けていなかったと気付くよりも先に、俺は上半身裸で跳ね起きていた。 「……っ痛てえ」 死神でも、不意にどこかをぶつけたら痛いものらしい。あちこちさする音が聞こえる。風間さんはそれには構わず、俺をじっと見据えていた。 芝居とはいえ、夕べのセクハラ発言が脳裏に蘇る。子供をつくる云々は、どう考えてもまずかった。ここは、俺から謝るべきだった。 「あの……昨日は」 「ああ、そのことはいいの、それより、夕べのあの家のことなんだけど」 話をさっと切り替えられて、ちょっと拍子抜けした。 「何か?」 答えて、今さらながらギクリとした。直に手を下していないとはいえ、あの家ではひとり死んだのだ。そして俺は、そのおかげで一息ついている。 「ちょっと……上げてもらっていいかな」 「どうぞどうぞどうぞ」 やましさもあったが、俺は妙に神妙な気持ちでいた。それに、風間さんが俺の部屋にいるなんて、夢みたいだった。一度くらい、こんな夢を見てもいいと思ったのだ。 居間から、気まずそうな声が聞こえた。 「あの、じゃ、私これで……返済は1週間以内に」 いつの間にか奥へ引っ込んでいた死神は、風間さんが去るのを待っていたらしい。そう思えば、俺には救いの天使が現れたわけだが、そうなると別の問題が起こる。 姿かたちと今の格好からして、どう考えても誤解を招くのだ。 「何……アレ」 「あの……金、借りてて」 居間の死神を必死で隠したが、あまり意味がない。願わくば、さっさと俺の服を探し出して着込んでほしかった。 だが、なぜか風間さんは鋭い声でそれを止めた。 「ちょっと待って!」 耳元を何かがかすめたような気がしたとき、今で死神の悲鳴が聞こえた。 「やべ!」 何があったかと駆け込んだ先には、不思議なことに誰もいなかった。 13、 「借金……取りがいたの?」 「ええ……今日が、返済で」 部屋をきょろきょろ見回している風間さんに、俺はせかせかとペッタンコの座布団を差し出した。そんなんでも遠慮しいしい座る風間さんは、なおも怪訝そうだった。 「ふうん……子どもみたいだったけど? あれ? 窓から出ていかなかった?」 そこまでは見ていなかったが、逃走経路はそこしか考えられない。いずれにせよ、まさか死神がそこにいたと答えるわけにもいかなかった。 「あ……ああ、気のせい……いや、子どもに見えるけどいいおっさんでその」 しどろもどろになったところで、更に突っ込まれた。 「どういう……ご関係?」 「いや、債務者と債権者……」 そう言うしかない。いや、性欲を差し出すことで殺人代行の契約を結んでいるのだから、そう言えなくもないのだから、嘘はないといえばない。 だが、納得はしてもらえなかった。 「でも、取っ組み合いに」 見られていたわけである。美少年に組み敷かれる姿を自分で想像すると、恥ずかしさというより、気色悪さで血の気が引いた。 「いいえ」 即座に否定したが、風間さんは自分が見たものに妙にこだわった。 「でも、あっちがこんなふうに」 その光景を再現しようとするかのように身を乗り出した風間さんの足元で、座布団が滑った。 「あ、ちょっと!」 倒れそうになるのを止めようとしたが、遅かった。 「きゃっ!」 可愛らしい悲鳴が上がる。俺は逆に風間さんの身体の下にスライディングして、抱きしめる格好になってしまったのだ。 しかも、上半身が裸のままだ。風間さんの胸の柔らかさが、素肌にモロに来る。 「ああ……そんなつもりは」 そんな言い訳が通用する状況じゃなかった。心ならずも口にした夕べのセクハラ発言なんか目じゃないほどの猥褻行為だ。 「不破、さん?」 目の前で、風間さんの不安げな瞳が揺れている。一瞬だが、どす黒い考えが頭の中を駆け巡った。 ……どうせ嫌われるなら、このまま想いを遂げてやろうか? だが、それを実行に移すような度胸は、俺にはなかった。ついでに、心も身体も、落ちついたものだった。俺にしては信じられないほど、紳士的に落ち着いていた。 ……そんな、何も、何も感じないなんて! 絶好のチャンスを逃して呆然とするやら、間違いを犯さないでほっとするやら、複雑な気持ちを抱えておろおろしている間に、風間さんはするりと身体を起こして居住まいを正した。 「え、ええ、忘れてください……私もその、忘れるので」 「はい……」 気まずい間がしばらく、狭い部屋を支配した。風間さんはスーツの襟元を正してうつむいたままだし、俺は俺で、台所へ拾いに行けば済むTシャツを、クローゼットを開けたり閉めたりしておろおろと探し続けた。 やがて、俺が死神に脱がされた服に気付いて手に取ったとき、風間さんが咳払い一つして聞いた。 「で、この辺に不審な……」 「み、見てません、見てません!」 何の話か確かめないまま、とにかく俺は新しい生活を前に、死神のことも、風間さんの胸の感触のことも忘れようとしていた。 「そうですか。あ、実はちょっと、保険の調査で、その、失礼……しました」 もそもそTシャツを着ていた俺の背中で、ため息まじりの声が聞こえた。頭がすっぽり抜け出したときにはもう、ドアは音もなく閉まっていた。後を追いかける理由もないので居間に戻ると、畳に何かが突き刺さっていた。 「……羽根?」 美しい、白い羽根だった。ただし、道端に落ちているようなものではなく、触ると柔らかいのに、その側面は刃のように鋭い。 「……いったい、どこから?」 それを撫でたり眺めたりしているうちに、俺はこれを何度か見たことがあるような気がしてきた。 たとえば、高3の夏。俳優養成所に入ると言い出したのを担任が中途半端に止めたとき。止めるならもっとはっきり叱ってほしいと思いながら教室の外を見ると、こんな羽根が舞っていたのだった。 あるいは、去年の冬。養成所で最後のオーディションに落ちたときの厳しい講評。会場の外へ出ると、木枯らしと共に飛んできた白い羽根が俺の頬をかすめて、血が滲んだ。 14、 そんな思い出に浸っていると、やかましくドアをノックする音がする。少なくとも風間さんは、そんなことはしない。 俺の人間関係を引き算していくと、残るのは1人しかいなかった。 「やかましいぞ明彦!」 ドアを開けると、糊のよく利いたカッターシャツを着た悪友は、上がるぞとも言わないで駆け込んできた。 「何、何、何、今の女!」 風間さんのことらしい。そういえば「隣に引っ越してきて、ちょっと気になる」程度のことは話したが、こいつ自身が直に会ったことはない。 「いや、その……風間さん」 明彦が絡むと単純な話もややこしくなるので、あんまり言いたくはなかったが、まわりくどいゴマカシをするよりはマシだった。 「どうやったんだよ」 コノコノコノと肘でガンガン突いてくる明彦は、心の底から喜んでいるようだった。俺にしょうもない小遣い稼ぎの方法を教えて借金地獄への道を開いてくれた張本人とは、とても思えない。 まあ、デイトレにせよギャンブルにせよ、俺が勝手にハマったんだから文句を言う筋合いもない。それに、こうやって親身になってくれるのを見ると、どうも憎めないのだ、こいつは。 とはいえ、説明すると長いし、どこをどう省略したらいいのか分からない。とりあえず明彦が言う「まずは金」の話から始めることにした。 「えーとその……玄関診断士」 「何それ」 自分でも、よく分からない。死神とから玄関を連想したんだろう。金を稼ぐ方法として、とっさに思いついたのが、ありもしない資格だった。 「えーとだから……玄関の、強度とか」 「まあ、地震で歪んだりするっていうしな」 とりあえず、明彦は納得した。あとは適当に話をでっちあげて、追い払う……というか仕事に行ってもらうだけだ。 「デザインとか」 「家の顔だしな」 即興劇の要領だった。とにかく、思いついたことは何でも、ためらうことなく口にするのがコツだ。明彦も、ツッコミ入れることなく、話に乗ってきている。 「あと……運勢とか」 「なんか占い師みたいな」 当たり障りのない所に話がオチてきたので、適当なところで丸めて切り上げた。 「そういう感じ」 これでさっさと出ていってくれるかと思ったが、俺の恋愛がうまくいっていると思い込んだ明彦の興奮は、なかなか冷めることがなかった。 「やったじゃんお前、俺にも紹介しろ」 鼻息の荒さに、俺は一歩退いた。だいたい、紹介するもしないも、今の僕は保険の勧誘対象者の一人であって、友人ですらない。今朝は、保険の調査とか言っていたが、本業はそっちなのかもしれない。 どっちみち、下手に誘ったら、よけいに嫌われそうだった。だったら、今のままでいい。以前ほど、風間さんを見て心が躍ることもなくなっていた。 「いや、そういう関係じゃ……」 やんわりと断ったつもりだったが、ちょっといい身体した美人を前にした明彦は、目が血走るくらいにヤル気を起こしていた。熱くなるあまり、俺が遠慮して止めたことまでも、コイツ自身を基準に、完全に誤解されていた。 「横取りしやしねえよ! そういう関係にしてやるっての!」 15、 明彦はちゃらんぽらんではあるが、言ったことはやりきる男だった。 「どうもこのたびはおめでとうございます」 乾杯の音頭を取ってもらいながら、俺は呆然としていた。 絶対に無理だと思っていたのに、気が付くと、俺は風間さんと一緒に夜の街にいた。明彦の言う通りに、隣の部屋の風間さんを訪ねてアポを取ったら、あれよあれよという間に話が進んで、俺たちは風間さんとお近づきになれたというわけである。 ただし、ビール片手の第一声はちょっと気が早い。風間さんも、きょとんとしていた。 「えっと、何が?」 明彦は、ニヤニヤ笑っている。俺との交際が始まったのをトボけていると思っているのだ。 またまたあ、という感じで、さらに思わせぶりな物言いをする。 「いや、こいつと……」 それ以上しゃべられたら、せっかくここまで来られたのに、また疎遠になってしまう。俺は明彦の話を遮った。 「ええ、無事契約が成立しまして」 「え? 私、何の勧誘も……」 風間さんとなら、どうしたってそういう話になる。あとは、その場その場で話をでっちあげるだけだ。それほど難しいことではなく、相手の言ったことに合わせて適当なことを言っていればいい。 「あ、別の人来たんです別の人」 風間さんでなければ、他の勧誘員が来たことにすればいい。どうやら風間さんは事故調査の合間にダメモトで俺を勧誘してるみたいだから、本業でやってる人が契約を取っていくなんてことはあるかもしれない。 この業界のことはよく知らないけど、辻褄はなんとか合っていたみたいで、風間さんはすんなりリアクションを返してくれた。 「誰が?」 名前を考えてなかった。とりあえず、思い付きで言葉をつないだ。 「ああ、ほら、指名で」 俺と風間さんだけの間だけで通用する話に、明彦が入って来られなくても一向に構わない。だが、こいつも放っておかれて黙っている性質ではなかった。 「ああ、そういうお仕事……おまえいつの間に」 適当に相槌を打って、俺を冷やかす。風間さんはにっこり笑って、明彦にも水を向けた。 「じゃあ、穂積さんもぜひ」 だが、この男が将来の安全を考えて保険などに入るわけがない。いや、そもそも、風間さんの仕事自体を勘違いしている様子があった。 「いいんですか?」 鼻息が、荒い。いつも落ち着いている風間さんも、この勢いにはちょっと引いた。 「え、何が、ですか?」 盛りのついた犬か猫のように、明彦は風間さんにすり寄る。とっさに引き剥がしにかかったが、もの凄い力で引っ張られ、俺はしばらく立ち往生した。 「落ち着け、明彦……」 「お店どこですか?」 そっちの指名かい! 風間さんは表情をひきつらせたまま、その場で硬直した。 「え……?」 16、 だが、今度は俺の身体が凍り付くことになった。 「どうも先生、このたびは」 つい最近聞いた、いや、二度と聞きたくない声だった。 「どちら様でしょう?」 「おトボけを」 なるべく高いトーンの声で返事をしたのだが、ムダな抵抗だった。昨日で縁の切れたはずの依頼人が、俺の背後に立っている。 俺はとっさに、裏の仕事の声で囁き返した。 「気安く話しかけるな」 「これは失礼……お楽しみ中のところを」 さも可笑しそうに笑うのが不気味だった。俺の「呪い屋」としての能力は、この男だって認めているはずなのだ。 「二度は会わない約束だ」 「呪って欲しいヤツはまだおりますのでねえ……」 まさか、「呪い屋」の出入りしそうなところをシラミ潰しに探していたのか? そうだとしたら、何て執念深い男なのだろうか。ルール破りはこの男のポリシーみたいなものらしい。 商談は後にして、さっさと帰ってほしかったのだが、ここで面倒臭い奴に気付かれてしまった。 「おい、誰?」 酔って虚ろになった目で、俺と男をかわりばんこに見比べている。お願いだから、正気を失うほどに呑んでいてほしかった。この場は仕方ないけど、明日には忘れていてもらいたかった。 「ああ、こっちの話」 当たり障りのない言い回しでかわしたが、酔った明彦の食いつきは普段よりも余計に速かった。 「あ、今回のクライアント?」 確かに、そう言われればそうだ。俺はもう関わりたくないのだが、向こうはまだ、依頼をゴリ押ししてくるつもりらしい。 そんなのほっといてくれればいいのに、風間さんも不審げに聞き返してきた。 「クライ……アント?」 ごまかそうと思ったのだが、とっさに言葉が出てこないでうろたえる。 「ああ、あああ、あの、玄関相談の」 「玄関?」 小首をかしげながら聞き返されて、俺は余計に混乱した。玄関の相談とか鑑定とか口走ってしまった相手は、確か……。 「ああ、こいつ、玄関鑑定士なんです」 明彦だった。俺が真面目に堅い仕事をやってるって風間さんにアピールしようとしてくれたのだろう。それには率直に感謝するが、勝手な言い分だということを承知の上で言わせてもらう。 もうちょっと、時と場所と方法を選んでほしかった。 「はあ、そんな資格が……」 風間さんも、どうリアクションを取っていいか戸惑っている様子だった。 17、 俺の陥った苦境など、例の男の知ったことではない。 「実は、また」 用件は、それ以上聞かなくても分かっている。俺にまた、「呪い屋」をやれというのだ。確かに、二度は会わないと言ったが、見つかってしまった以上、いや、ロン毛のウィッグ抜きの顔に勘づかれている以上、イヤとは言えない。 にっちもさっちも行かなくなってすくみ上る俺の気持ちなどつゆ知らず、明彦は俺を持ち上げ続ける。 「ああ、リピーターね! いい仕事してんなお前」 ヤバい連中との関わりがバレたら、それこそ風間さんとは交際どころじゃない。酔いに任せてのヨイショはやめてほしかった。 「そ、その話はまた」 「そうそう、忙しいんでね、こう見えて」 明彦はまだ俺の売り込みトークをやめないが、風間さんは明らかに引いていた。 「ああ、私は別に」 この分なら、玄関がどうとかクライアントがこうとかいう話は、何とか終わりそうだった。だが、明彦はぐいぐい押してくる。この辺が、営業成績を押し上げるコツなのだろう。 「いやコイツはですね」 意外なことに、助け舟を出してくれたのは、一番厄介な男だった。 「……お仲間で?」 もっと驚いたのは、今までまごついていた風間さんがいきなり、椅子の上でゆったりと脚を組んだことだった。 「ええ、まあ」 露わになった太腿に思わず目が行くが、悲しいことに、何にも感じない。あの死神のせいだが、そんな恨み事を言っている場合じゃない。どうしたわけか、そのスジの男と風間さんとの睨み合いが始まっていた。 「席を外していただけるとありがたい」 「ここでは、まずい話?」 ほとんど思い出せない母さんの顔や、優しかった姉さんの顔が頭の隅に閃いた。風間さんがよく似ているとか似ていないとか、そういう問題じゃない。女の人が危ない目に遭っているのを、放っては置けなかった。 「すみません、クライアントのプライバシーにかかわるので」 男に何か言うと、ケンカを吹っ掛けることになって、一回りややこしいことになる恐れがある。ここは、風間さんを止めておくのが早い。 だが、それは俺にとっては墓穴を掘るのと同じだった。自分から、クライアントを抱え込んでしまったのだ。 「話が早い。あの男を」 依頼人が商談に入るが、俺はもう、適当に聞き流していた。どうせ、やらされるのだ。死神が「できない」と言わない限りは、「あの男」とやらは死ぬ。 たまらなく気が滅入ってきたが、明彦にそんな察しがつくはずもない。今度は、依頼主に興味を持ったようだった。 俺との間に、強引に割って入る。 「ああ? お宅は?」 依頼主との間を文字通り、引き離してくれたことには大いに感謝しなければならなかった。だが、向こうとしては、これほど煩わしいことはない。 「だから、あの……この……いや、あの男を」 同じことを繰り返さなくてはならなくなった依頼人は、ガラにもなく慌てふためいていた。全くこいつは、誰のペースだろうとお構いなしにかき回す。 「なになに?」 たぶん、呪う相手のデータが映っているだろうスマホの画面を覗き込む。さすがにそれは、明彦の身の安全に関わる。俺は明彦に、鋭く囁いた。 「見るな」 ふだん見せない態度のせいか、明彦は一瞬だけ引いた。すかさず、依頼人は低い声で尋ねる。 「そういうことだ……分かったな」 「あ、ああ」 実は、全然分かっていなかった。だが、どっちみち門の前まで連れていかれて、死神と日程の辻褄を合わせるだけなのだから、たいして問題はない。 問題はむしろ、こっちだった。 「オレも行っていいか?」 「来るな」 叱りつけても、もう効き目はなかった。適応の速いヤツである。 その言い分は、こうだった。 「いや、あっちのお姉さんが興味ありそうだったから」 18、 風間さんには話を振らないでほしかった。巻き込みたくない。 だが、依頼人は思いのほか、素直に引き下がった。 「では……」 立ち去る直前まで、その目は俺の胸元をじっと見ていたものがあった。口元が、なにやら引きつっていた気がする。 ふと眺めてみると、胸ポケットにはあの白い羽根が入っていた。気になって居間で拾ったが、どこへ置くにも場違いな気がして、日が暮れるまで手元に置いていた。やがて、明彦から飲み会の連絡が入って着替えたが、なんだか放り出していくのも気が引けて、胸ポケットに入れていたのだ。 「大丈夫? その筋の人っぽいけど」 図星だった。そこはやっぱり、保険の調査なんかやってるせいだろうか。 風間さんは心配してくれたのか、転びも殴られもしていない俺の服の袖や襟を、指先で触ったり撫でたりして、記事や綻びがないかどうか確かめてくれているようだった。 その感触がくすぐったくて、俺は嬉しいやら恥ずかしいやら、つい身体を引いて逃げてしまった。 「人は見かけによらないもので」 そんなことを言ってごまかすのがせいぜいだ。だが、風間さんはちょっと真面目な顔をして、俺をまっすぐに見た。 「何してる人?」 間近で見る瞳は、やっぱり澄み切っていた。ドキッとしたが、どうもなんか違う。男ならもっと、なんかこう、ぐっとくるはずだ。 「さあ……」 本当のことなど言えるわけがない。この話題は、なんとかうやむやにしたかった。 それでも、明彦は放っておいてくれない。あくまでも、今夜中に俺と風間さんをくっつけるつもりのようだった。 「クライアントだろ? 誰?」 「名前知ってりゃいいんだよ」 何とか終わらせたい話題を蒸し返してくるので、つっけんどんに返したが、そこは俺と違って勤め人だった。 「そこはいくらなんでもムチャクチャじゃないか?」 「……まあ、カネ払ってもらえれば」 明彦にしてはもっともなツッコミに、俺は自分の席に戻って開き直るしかなかった。風間さんもまた、すぐ隣に腰を下ろす。足を綺麗に揃えて座る姿からは、さっき高々と太腿を上げてみせたご本人だとは到底信じられなかった。 年上の余裕からか、もったいぶって、大真面目な顔でたしなめる。 「そういう仕事って、危ないからね、気をつけて」 「いえ、ご心配なく」 胸を張って答えてみせた。何だか、いい雰囲気だ。明彦は仲を取り持つと張り切っていたが、案外、うまくやってくれたのかもしれない。 そう思ったのも束の間、やっぱりこいつはコイツだった。 「そういえばあのスマホに映ってたの、どっかで見た気が」 自分でお膳立てして、自分でぶち壊しにしていれば世話はない。せっかく俺だけを見てくれていた風間さんの関心は、別のことに移っていた。 それは、ようやくなかったことにできた、「呪い屋」関係の話題だった。 「そうね、門の構えなんか」 死神が立つ、あの門のことだ。俺はまた、そこで人の命を奪うことになるのだ。しかも、自分の手を汚さずに。 何だかいたたまれなくなって、つい強がってしまった。 「いや、どういう仕事が危ないとか楽だとか、そういうの、どっちだっていいんです……お金さえ払ってもらえれば」 19、 すると、風間さんはいきなり真顔で俺に向き直った。 「お金って、何だと思う?」 まるで学校の先生が、悪さをした生徒を叱るときのような畏まりようで、俺もつい、背中を丸めて小さくなった。 思い出すのは、俺が高卒で俳優養成所に入ると言い出した時の担任だ。まだ若い女の先生で、いま一つ押しが弱かった。もっときっぱり、「お前には向いていない」とでも言い切ってくれていたら、俺の人生はまたちょっと違っていたかもしれない。 ちょうど、今みたいな厳しい眼差しで叱ってくれていたら。 「え、と……もの買うときに、払うもの?」 そんなことしか言えない俺の、教養の程度が知れる。だが、風間さんは色っぽく微笑んだものだ。 「あなたの仕事、生き方そのものよ」 言われていることがよく分からない。一枚一枚のお札やコインが、俺自身だという理屈がよく分からなかった。 「でも、名前が書いてあるわけじゃなし、使ってしまえば同じなんじゃあ……」 誰が持っていようと何を買おうと、使ってしまえばただの金だ。コンビニのバイトで代金をレジに入れるときまで、さっきまで目の前にいた人の顔や姿を覚えていたなんてことはほとんどない。 だが、風間さんの言うことは、俺とは遥かに次元の違うことだった。 「あなたにお金が入るということは、あなたの仕事が誰かを動かしたということ。あなたがお金を使うということは、やっぱり誰かが動くということ」 俺はもう、愛想笑いをするしかなかった。 「何か、話が難しくって……」 風間さんと向き合っている俺でさえこうなのだから、蚊帳の外にされた明彦に居場所がないのも当然だ。 「帰るわ」 そそくさとこの場を離れようとするのを、目で哀願して引き留める。二人っきりにしてもらうにも、雰囲気ってものがある。 「誰も動かないのにお金だけが動くっていうことは、お金そのものの価値をなくすってことなのよ」 なにやら話が大きくなってきている。俺と金の関係から、金とは何かというややこしい説教が始まろうとしていた。何とか、頭の中で処理できる範囲内でおしまいにしなくてはならなかった。 せっかく、風間さんとの夜を過ごしているのだから。 「それと、相手の名前しか知らないってのと、どういう関係が……」 「相手がどこの誰か分からなかったら、金がどう動いたか分からないわ」 「動きなんかどうでも……」 約束した額のカネが渡れば、文句は出ない。バイトしてたときだってそうだし、「呪い屋」やってたときだって同じだった。 だが、風間さんはお金について、もっとシビアな考え方をしていた。 「あなたに入るお金は、人を他の誰かのために動かした代償よ。そういうお金を受け取ったら、あなたにはその代わりにやったことへの責任が生じるわ」 それだけ言って、風間さんは席を立った。1万円札をぽんとテーブルに置く。 「足りなかったら立て替えといて。不破君に返すから」 俺は止めることも出来なかった。言葉に詰まって、何も言えなかったのだ。 風間さんの言ったことをまとめると、今まで俺は金と引き換えに人を殺してきたってことになる。 身体の線がくっきり浮いたスーツの後ろ姿を見送りながら、明彦がつぶやいた。 「……怖っ」 俺はこんなことになるまでの自分のバカさ加減に腹が立ったが、元はといえば「呪い屋」の話をごまかすためだ。それをやめられなかったのは、明彦のせいでもある。 「どうやって教えたんだよ、門の構えなんか」 風間さんがそんな話をしなければ、俺も金の話なんかしないで済んだ。八つ当たりといえば八つ当たりだが、これで完全に風間さんに軽蔑されたと思うと、抑えが利かなかったのだ。 明彦はというと、俺に食ってかかられて、目を白黒させている。 「俺は……別に」 そういえば、つらつら思い出してみるに、こいつはスマホの画面がどうこうということしか話してはいなかった気がする。 20、 だが、俺は風間さんが言ったことを、身をもって思い知ることになった。 できれば知らんぷりを決め込みたかったが、命がかかっていると思うと、俺は郵便局に向かわざるを得なかった。局留めの封筒をアパートで開けると、依頼人から待ち合わせの時間と場所を書いたメモだけが入っていた。 俺は、これが最後だと自分に言い聞かせながら、再び「呪い屋」の格好で、あの男たちの車に乗った。 「ここだ」 目隠しと手錠を外されると、ぐるりと目まいがした。これは、いつものことだ。よく知っている場所でも、どこをどう歩いたか分からない状態で放り出されると、初めて来た場所のように錯覚するものだ。 「うむ、では、人払いを」 いつものように車を追い払いにかかると、男もその辺は心得ていて、いつもと同じ言葉を返してくる。 「10分後に」 だが、いつもの通りにはいかない出来事が起こった。俺は「呪い屋」キャラで、なるべく不機嫌そうに、重々しく命じる。 「待て……その辺を1周する」 再び車に乗って、家の周りを徐行させた。 「何のつもりだ」 男は苛立たし気に文句を言ったが、聞き流した。窓の外には、見覚えのある若い男が門をくぐるのが見える。顧客の家に営業では入るところなのだろうか? 俺はそれを眺めながら男に言った。 「もう一度、顔を見せろ」 「お前と同じで、それはできん」 「あんたじゃない」 漫才のような会話の後、男が目の前に突き出したスマホの画面には、よく知った顔が映っていた。 「あ……き……」 地声がぽろっと漏れて、慌てた。 「どうかしたか?」 「何でもない」 咳払いしてその場を取り繕うと、車から降りた。家の塀には裏にも通用口があって、そこには目鼻立ちの整った少年が立っている。 「どうだ」 いつもの調子で尋ねると、死神は面白くもなさそうに言った。 「どうだもなにも……こいつは死なない。今回は見送りだ」 「そうか……」 俺は溜まりにたまった息をついた。これで、明彦を殺さないで済む。 だいたい、ああいう連中に命を狙われなければならないほどの何をやらかしたのか。 「僕はじゃあ、これで」 死神はそそくさと去っていく。殺さない相手に用はないのだろうが、その顔は恐怖でひきつっていた。 「え?」 怯え切った目で死神が見ているのは、俺の胸元だった。 そこには、胸ポケットに隠した白く美しい羽根がある。 ふと気づいて目を上げてみると、そこにいたのは、別の意味での「死神」だった。俺は、その後ろに止まった高級車の助手席に、当然のような顔をして乗った。 「いかがですか」 目隠しをされたままで聞こえる声は、そうでないときよりも押しが利いた。身体がすくんだが、そこは最後だと思って「呪い屋」キャラを全開にする。 「呪い殺せる相手ではない」 これで、最後の仕事は追わりだ。誰も死なないで済む。以前だったらそうでもなかっただろうか、今はすっきりした気持ちになる。 だが、それはあくまでも俺自身の問題に過ぎなかった。 「それは困る……」 男にしてみれば、当てが外れたのだろうが、できないものはできない。最初に、そう言ってある。無理に頼まれて困るのは、俺の方だ。 そうはいっても、男にしてみれば知ったことではない。 「できなければ、その命をもらう」 思い出した。前の依頼のときも、俺の都合はおかまいなしだった。 「もしかして、最初から、そのつもり?」 そう言いながら、俺は手錠抜けの準備にかかっていた。手足の自由が利かないまま、どこか海の底に沈められたり、山奥に埋められたりしてしまっては目も当てられない。 男はそんな俺の内心を察してか、くつくつ笑った。 「さあ、どうかな……なにせ、親分が手塩にかけた娘がどうやら……死んでもらうのがあと腐れなくていい」 だいたいの察しはついた。やることはきちんとやって、下手をすれば家族まで増えるところだったらしい。とばっちりもいいところだ。 「……時間を、くれ」 それは、遠回しの了解だった。 21、 俺は「呪い屋」の変装を解くのも忘れて、とぼとぼとアパートにまで帰ってきた。部屋のカギを開けると、俺はウィッグを床に叩きつけて、台所の床に転がった。 身体が、ガタガタ震える。 俺のせいで、罪もない……たかがヤクザの親分さんの娘にちょっかい出してコトに及んでしまったにすぎない明彦が、死ななくてはならないのだ。自業自得というにはあまりにむご過ぎる。 しばらくひとりでうずくまっていると、ドアが微かな音を立てて開いた。 俺が声にならない悲鳴を上げて逃げると、やってきた者は足音も立てずに影だけを伸ばして追ってくる。 「い……イヤだ、助けて許してお願い!」 てっきり依頼人がアパートまで探し当てたのかと思って怯えた。部屋の隅で小さくなっていると、暗い居間の中で忍び寄ってくる者がある。 「どうなさったの?」 身をすくめるしかない俺の前に現れた影が、暗い部屋の中で青空を思わせるような澄んだ声で問いかけた。 風間さんだった。 急に嗚咽が込み上げてきたが、そこはぐっとこらえた。彼女の前で泣くのは、どうにも格好悪く思われた。何度も声を呑み込んで、俺はようやく答えた。 「できもしない契約を……結んでしまって」 やりたくもないし、できもしなかった。明彦を呪い殺すことなんて、俺にできるわけがないのだった。だが、やらなければ命がない。 あの連中は、本気でやる。 理屈抜きで、俺の身体がそう告げていた。 俺の身寄りは、実家のオヤジ1人だけだ。俺が死んでも、悲しむ人間は1人だけだ。だが……。 「じゃあ、取り消すことね」 保険屋をやっている風間さんは、さらっと答えた。事務手続きだけで済むなら、何も悩むことはない。俺と明彦の命を天秤にかけなければならないから、追い込まれているのだ。 「できません……死なない限り」 誰が、とは言わなかった。恐ろしくて言えなかった。それは俺か、明彦のどちらかなのだった。もちろん、風間さんはそんな事情など知る由もないし、説明して信じてもらえる話ではない。 「大げさね……」 くすっと笑う顔は、もの凄く可愛かった。こんな人を彼女にできたら、と一瞬だけ思った。あくまでも、一瞬だけだ。どうせそんなことは無理だし、何としてでも、と一念発起できるほどの気力はもう、残っていなかった。 ただ、この苦しみと悲しみだけは、分かってほしかった。 もし、母さんや姉さんが生きていたら、この思いを受け止めてくれただろうか。まだ、いろんな意味で子供だったころ、俺は何かにつけて、その胸に顔を埋めて泣いていた気がする。 「本当なんだよ!」 「ねえ不破さん、落ち着いてってば」 安心させようというのだろう、すらりとした足を今の床に投げ出して座り込む。男の部屋で、余りにも無防備すぎる。いや、俺はあくまでも隣の住人で、保険勧誘の対象者でしかない。 「そんなに簡単に言うもんじゃないわ、生きるとか死ぬとか。もっと気楽に……」 胸が潰れるような思いでのたうち回っているときに、その無関心はあまりにも残酷だった。見放されているのがたまらなく悲しかった。 「……気楽になんかしてられるかよ!」 目の前が真っ白になって、気が付いたら、俺の身体は風間さんの上にあった。 だが、それっきりだった。性欲(リビドー)を吸いとられた身では、もう、何をしようという気にもならない。 それでも俺はその残りに点火しようとムキになって、風間さんの豊かな胸や、きゅっとくびれた腰にむしゃぶりついていた。 ちょうど、悲しいことや辛いことがあったとき、母や姉にすがって泣いていた頃のように。だが、その2人の女性も、もうこの世にはいない。 「ちょっと、どさくさに紛れて……何? やめ……て」 「どうせ……どうせ死ぬんだから……」 このまま嫌われようが、警察に捕まろうが、もうどうでもよかった。明彦を死なせるのは不可能だから、俺は死ぬしかない。それならいっそのこと、想いを遂げておきたかったのだ。 だが、それは未遂に終わった。柔道か合気道か知らないが、俺の身体は不思議な力で跳ね飛ばされ、しこたま壁に叩きつけられていた。 床に転落すると、立ち上がって見下ろす風間さんの顔が見えた。 「それ、ごまかしね。間違ったら、精一杯償うのがフェアじゃないかな」 悪さをした弟をたしなめるかのような笑顔だった。嫌われなかっただけ、マシということか。 「償ったりしたら……」 それでも俺は、鼻で笑った。この場合、償うとは、あの男たちに殺されるということだ。無茶な願いだけど、 やっぱり、何も分かってもらえはしなかった。 「何か?」 風間さんは、続く言葉を待っている。だが、それは絶対に口にできないことだ。すると、言葉を交わすのは、これが最後になるかもしれない。 「いえ……もしかすると、これ……」 俺は、胸ポケットに入ったままだった、あの白い羽根を見せた。以前、風間さんが来たときに残された、刃物のように硬くて鋭い羽根だ。 「きれいね……お守りにするといいわ」 そんなわけなかった。こんなものを、風間さんが置いていくなんてありえない。だが、持っていろと言われれば、捨てる理由もなかった。 「ええ」 とにかく、疲れた。俺はそのまま、床の上で目を閉じる。全てが暗闇に包まれた。ただ、耳の奥で、風間さんの声だけが聞こえた。 「死んでは、ダメ。必ず、道は開けるわ」 最後の最後で男として何もできなかった身には、その一言も空しい。ただ……一つの考えが、心の中に黒い雲の点がぽつんと生まれたような気がしていた。 俺が死ねば、オヤジは独りぼっちになる。だから、死んではいけない。 気が付くと、締めきっていたはずのカーテンが開けられ、夕暮れの光が差し込んで来ていた。俺はアパートを出ると、男たちと約束してあった場所に向かった。 「どうだった?」 あの高そうなクラブで、男は一言だけ尋ねた。俺も、理屈抜きの一言で答えた。 「明日」 そう……俺が死ぬことはないのだ。 22、 次の日の朝早く、俺は眠いのをこらえて、高登の実家である穂積家の門を叩いた。 インターホンで誰かと問われて、俺は澄ました顔で答えた。 「玄関の鑑定に参りました」 「頼んではおりませんが」 主人らしい男が、怪訝そうに答える。 もちろん、押しかけだ。だが、俺には一晩かけて考えた秘策があった。俺の命か明彦の命か、選択の余地はない。少なくとも自分だけは死なない方法を考えなくてはならなかった。成功するとは限らないが、そのときは俺が死んで明彦が生きる。それだけのことだ。 ここで、主人と話をつけることができれば気はまだ楽なのだが、残念ながらモニターの横から割り込んできた者があった。 「あれ、お前」 明彦の顔を見たが、決心が鈍ることはなかった。構わず、用件だけを伝える。 「玄関が家の表と裏で逆でございます」 「やっぱ高登じゃん」 上機嫌で子供のようにはしゃぐ明彦は、自分ひとりで門を開けに来た。敷地の中には、今まで相手にした連中ほどではないが、立派な和風の家が建っている。俺は招かれるままに、座敷に通された。 「誰だ?」 ジャージ姿のくつろいだ姿をした恰幅のいい男が、疑わしげな顔を俺から明彦に向けた。 「ああ、俺の友達でさ、玄関鑑定士やってんの」 「玄関……?」 明彦の存在は予定外だった。背広を着ているところを見ると、外回りで近くに来たから要領よくサボっているのだろう。その上、命の危険も知らないで、ヤバい相手の娘にちょっかいを出している。 そう考えると、昨日とはうって変わって、腸が煮えくり返る思いがしてきた。 俺は母を失い、姉を失い、回り道ばかりの人生を歩んできたのだ。それなのに、なぜ、こんなに調子よく生きられる人間がこの世にいるのか。 そんな怨念が表に出ないよう、かつて習い覚えた道化芝居を思い出しながら、卑屈なまでに頭を畳にこすりつけた。 「頼む! 明彦! 俺を男にしてくれ!」 「いや、だからお前、飲み会セッティングしただろ。あの後どうしたんだよ、風間さんとは」 そういう意味の「男」ではないのだが……。 ただ、その名前を出されると、俺の心にも一瞬の迷いが生まれる。だが、生き残ると腹をくくった以上、妥協の余地はなかった。 いかにも面目ないという顔で、事情をなるべく遠回しに伝える。 「いや、そうじゃなくて……こないだの、アレ」 「ああ、あの筋っぽい人」 さすがに、営業が務まるだけあって、明彦は察しがいい。俺は勢いに乗って、一世一代の大芝居を打った。 「あれ、モロにアレでさあ、契約取ってくるって大見え切っちゃったんだよ」 「バカだな、だからあれほど」 心底、心配してくれているのだ。本当なら、良心の呵責というやつで、とてもこの先は騙しおおせるものではない。だが、死神に性欲を吸い取られ、生きる希望も可能性も奪われてしまった俺には、ハッタリを通すよりほかに死を回避する方法がないのであった。 「玄関直さないと、俺、コンクリートに詰めて海、沈められちゃうんだよ」 いきなり切り出したところで、首を縦に振ってもらえるはずもない話だ。大芝居の最後の仕上げに、全力で土下座をつく。あとは、明彦と、この家の主人次第だ。受けるにせよ断るにせよ、返事があるまで顔を上げてはならない。いや、上げられない。 小さな隙が、命取りになる。それが、芝居だ。 伏せた目には、お守り代わりの白い羽根が見える。俺にとっては風間さんの分身、いや、母さんや姉さんの形見といってもいい。 それが、朝日の加減か、一瞬だけ明るく閃いたときだった。 「分かった……親父」 納得した明彦は、この家の主に話を振った。この一言で、俺の生き死にが決まる。重苦しい間が続いたが、俺は頭を上げなかった。しばらくして、腕に鈍い痛みが走り始めた頃、結論が告げられた。 「よく分からんが、ま、いいだろう」 23、 俺は穂積家の玄関を飛び出した。形だけでもいいから、家の裏口を玄関に改装しなければならないのだ。スマホ検索程度でも最寄りの業者は見つかる。俺は大急ぎで連絡を取り、一緒に穂積家へと戻った。 明彦は営業にも回らずに、業者を待っていた。 「いやいやいや、急なお願いですみません」 軽やかに愛想を言うが、いかに明彦のトークが軽妙でも、これは危ない賭けだ。現に、業者は狐につままれたような顔をしている。 「いや、それはいいんですが、珍しい話ですな、裏口の内装も玄関にしたいというのは……」 「ああ、それなんですがね、こちらの……」 来た。 そもそも、俺の鑑定が最大の前提なのだ。だが、「玄関鑑定士」などという資格は存在しない。そこを業者が指摘したらアウトだ。 「はい、私の鑑定でして」 明彦を遮るようにして、しゃしゃり出る。NGワードは俺がブロックしながら、あくまでも明彦に進めさせなければ、玄関は今日中に仕上がらない。 遅くとも、今日の午後11時59分までには、死神を新たな玄関から招き入れなければならないのだ。 夕べから、頭の中にはその損得勘定と、「死ぬな」という風間さんの一言しかなかった。 運のいいことに、業者は納得した。 「ああ、方角が悪いと」 「そう、その……方角です」 うまく話を合わせたつもりだったが、俺か明彦のどちらが死ぬかという賭けが、そう簡単に終わるわけがない。 「どちらの先生でいらっしゃいますか」 「え……?」 俺は言葉に詰まった。占い師か何かだと思われたのだろう。会話の間を嫌う明彦がすかさず、言葉を継いだ。 「こちらはゲンカン……」 再び俺が前に出る。 「ゲンカン……ゲンカンドウ、そう、ゲンカン堂です。減税の減にアルミ缶の缶で減缶堂」 でっち上げの名前をつい、勢い込んでまくたてたので、業者もしばし、呆気にとられたようだった。一拍置いて、愛想笑いが返ってくる。 「あ、ああ、環境を守って空き缶を減らすぞ……みたいな」 「そ、そういう感じです」 なんとかその場を取り繕った俺の袖を、明彦が引っ張った。 「いつから名前変えたんだ」 ひそひそやるのが、実にうるさい。こんなことで足を引っ張られて業者に怪しまれたら、明彦が生きて俺が殺されることになる。 「資格取ると、名前もらえんだよ。詩吟とか日舞みたいに」 「ああ……」 何とか納得した明彦を、俺は急かした。 「今日中に仕事終わんないと、コンクリート……」 「ああ、分かった……じゃあ、お願いします」 業者が裏口へと席を立ったところで、俺はやっと一息つくことができた。だが、裏口が正面玄関っぽく改装されるまでは、油断はできない。特に、調子のいい明彦は要注意だった。 「そうだ、ちゃんと減缶堂さんの仲介だってお伝えください」 業者が首を傾げながら振り向いた。 「……どちらに?」 俺は明彦を肘で突いた。 「内緒なんだよ、そういう業界とつながってるってのは!」 「あ、そうなんだ……ああ、同業の方々に」 どうやら、俺はしばらく、この家から出られそうになかった。 24、 家から出られない理由は、もうひとつあった。 死神だ。 俺のトリックに気付かれてはならない。工事中に明彦が余計なことを言わないか監視すると共に、塀の向こうの通用口に立っている死神が気づかないかどうかも気をつけなければならなかった。 近所迷惑にならないようにと理屈をつけて、通用口を開けることなく、なるべく静かに工事をやらせた。だが、そのせいで、いかに急ごしらえの玄関とはいっても、形になったのはすっかり暗くなってからだった。 「よかったな、高登。これで海の底に沈まないで済むぞ」 「あ、ああ……じゃあ、な」 俺は業者や明彦への礼もそこそこに表玄関を出た。特に明彦とは、これでお別れだ。金のない俺だが、どうにか香典だけは包んでやろうと思った。 あとは、通用口の死神に会うだけだ。 夜闇の中にもそれとわかる美少年が、俺に気付いて艶やかに微笑んだ。 「未練がましいよ」 俺がまだ、金に執着していると思っているらしい。 「ああ、残念だった」 「儲けそこなったね」 にやりと口元を歪めるのを、俺も真似してみせる。 「お前だって、もっと欲しかったんじゃないのか?」 強がりだった。最後の1回は、我慢しなくてはならない。死ぬよりマシだ。 生きてさえいれば、俺のヤル気も蘇るかもしれない。そうすれば、風間さんともチャンスがあるかもしれない。 そう思っても、男の興奮を呼び覚ますまでには至らなかった。確かに身体は熱くなったが、ほとばしったのは浴場ではなかった。 ……涙? 夏の夜に、手足も心も一瞬で冷めきってしまった。だが、涙は止まらない。 「どうしたの? そんなに金が欲しかった?」 そんなわけがない。俺は慌てて目元を拭った。 「いや……それはまあ、1回休みってことで」 死神は納得したように、ふんふん、と頷いた。 「そうだな……まあ、次は期待してくれ」 通用口のまえから立ち去ろうとするのを、俺は慌てて呼び止めた。 「おい、どこへ行くんだ?」 「もう、今日はお前に用がないからな。それ、苦手だし」 死神が指さすのは、胸ポケットでぼんやり光る白い羽根だった。 「鳥の羽アレルギー?」 軽口を叩いたのは、腹に一物あるからだ。 「まあ、そんなもんかな……」 死神も、俺から離れたまま、肩をすくめて答えた。 好都合だった。そこで俺は、待ちに待ったタイミングでとどめの一言を放った。 「この家、玄関の表と裏、逆らしいぜ」 「……!」 夜目にも美しかった顔が、本性にふさわしいまでに恐ろしく歪められた。 ありがたいことに、目の前で姿を消した死神の形相をそれ以上は見ないで済んだが、俺は肝を潰して、暗い道を駆け出した。 どこをどうやって帰ったのかは、覚えていない。気が付くと、アパートの中にいた。 疲れに身を任せて床に身体を投げ出したが、その弾みで、胸ポケットの白い羽根が、倒れて伸ばした手の先へと滑り出た。 光を放っているわけではないのに、手元は明るい。この部屋で今生の名残にと胸にしまった風間さんの思い出だが、俺の命が保証された今は、持っている理由もない。むしろ、手にするべきは、本人の身体だ。 そう思うと身体がまた熱くなったが、白い羽根はどうしても手に取らないではいられなかった。 指先から心臓まで、ずくんという衝撃が走る。 羽根の先端から根元まで、思わず眺め入ってしまったが、そのとき、俺はさっきの涙の意味に気が付いた。 明彦は、死ぬのだ。 その代償に生きられることに気付いた瞬間、身体の中の熱がそのまま、涙となってあふれ出してきた。 25、 その晩、俺は眠れなかった。下着の上下1枚ずつで寝なければならないほど暑かったからというだけではない。明彦がどのような死を遂げるのか想像してはのたうち回り、家族の悲しみを思っては、布団を抱えて震えていたのだ。 夜闇の中での独りの時間は、罪悪感を増幅する。ただ1人の友達を殺したという、俺ひとりだけが知っている事実だ。待ちに待った朝の光が台所の方向から差し込んできたとき、ドアをやかましくノックする音が聞こえてきた。俺はひたすら、ごめんなさいごめんなさいと叫びながら、布団をかぶってうずくまっていた。 だが、ノックの音は止まない。罵声も聞こえてくる。それで分かったのは、少なくとも警察ではないということだ。 実行犯は死神であって、俺ではないのだ。 風間さんを初めとして、近所の人が起きてくると話がややこしくなる。とりあえず、俺は駆け寄ったドアを開けてみた。 「どういうことだ!」 開口一番、低い声で凄んできたのは、あのサングラスの依頼人だった。 「いったい、何でここが……」 「我々を舐めるなと言ったろう」 ロン毛のウィッグをつけていないときでさえ、居場所を嗅ぎ当てて「呪い屋」だと見抜かれたのだから、自宅が見つかるのは時間の問題だったに違いない。 それよりも、俺の命だ。明彦の命と引き換えに守ったのに、何でまた危険に晒されなくちゃならないのか。 男たちは、必死で押さえたドアをこじ開けて、部屋へと押し入ってくる。しかも、1人ではない。後にぞろぞろついてくる。近所迷惑ではなくなったが、逃げ道はなくなった。 それでも、俺は必死で弁解した。 「契約はちゃんと……」 「じゃあ、今朝お嬢さんを連れ出したのは誰だ!」 「え……」 明彦は、死んでいないということだ。死神が、しくじったのだろうか? じゃあ、あの時、あんな顔をして姿を消したのは? 考えても仕方がない。真っ白な頭の中で、言い訳の言葉を必死になって探す。 「いや、殺せないものは殺せないと……」 「やるっていったのはお前だろうが!」 言い訳できなかった。調査料までは、しっかり受け取っているのだから。それでも俺は、生き残らなければならない。とことんまで、「呪い屋」の仮面をかぶるしかなかった。 「どうする気だ? おまえたちを呪い殺すことも出来るが?」 「そんなら、今やってみろ」 数人がかりで床に押さえ込まれて手錠をかけられ、仰向けにされる。 「お前の呪いが早いか、それとも……」 男の手に、明らかに銃刀法違反と思しきナイフが光る。大声で助けを呼びたくても、声が出ない。 「殺す……気か?」 そう聞くのがやっとだったが、男はあの死神のように口元を歪めて笑った。 「あとで利く呪いと、今殺せるナイフじゃ不公平だろう?」 光る刃が、喉元に突きつけられる。 「どっちの指を詰めるか選べ。上か、下か?」 「下って……?」 男たちが、下卑た笑いを浮かべる。 「ナニをだな……」 トランクスがずり下ろされる。手の指か、こっちかを選べということだ。俺は、呻きながら答えた。 「下……」 男たちがしゃがみ込んで、両足を押さえにかかる。だが、これが一か八かの賭けだった。 ノーマークになった手錠から、両手がすっぽりと抜ける。その手を床に突いて、渾身の力で下半身を跳ね上げた。 「何だあ?」 間に合った。不意打ちに面食らった男たちの手から、足は両方とも解放された。 だが、狭いところで多勢に無勢だ。よろよろと立ち上がる俺に、逆上した男たちが掴みかかる。その辺のことはまだ何も知らないうちに、俺の去勢の危機はすぐにまた巡ってきた。 26、 「さあ、覚悟を決めてもらうよ!」 その一言は、魂を抜かれたように部屋を出ていく男たちのうち、誰のものでもなかった。下半身を剥き出しにして立っている俺の前に現れたのは、あの華奢な美少年だった。 いつもなら、こんな格好をしている俺を見て目を輝かせるはずなのだった。だが、ワイシャツを羽織った死神の目は今、怒りに燃えて俺を睨みつけている。 俺も負けじと言い返した。 「話が……違うじゃないか!」 玄関に立っていたら、相手を殺せる。そういう話になっていたはずだった。だが、死神にだって言い分はあるらしい。 「それはこっちのセリフだよ。あんな罠をしかけるなんて……もう信用できないな」 「じゃあ、お互いさまってことで……」 俺にしても、死神に用はないのだ。金で困ったことといえば、せいぜいギャンブルの借金が残っているくらいで、それにしたって自分で何とかするのが当たり前なのだった。 だが、話はここで終わりではなかった。 「たしかに契約解除だけど。ルール破ったのはそっち」 「う……」 冷淡に言い放って白い指をつきつける美しい死神に、俺は一言もなかった。しなやかな脚が音もな動いて、俺に迫る。 「貰うものがあるんだ……違約金として」 「わ、分かった……言う通りにする」 とうとう、尻を突き出さなければならないらしい。下も履いていないことだし、諦めるしかなかった。死神に背中を向けると、背中の上から下へ、冷たいものが一気に走った。多分、指先で撫でられたのだ。 足や腰が、ガクガクいいだす。 「やっぱり、イヤだあああ!」 こけつまろびつしながら、俺は這うようにして居間へと逃げた。まだ、窓を開ければ脱出できる。うまくすれば、下を履く余裕ぐらいあるはずだ。 だが、台所からの距離など知れている。しかも、相手は怒った死神だ。布団の上に転がったときには、もう俺を見下ろせる場所にいた。 腹を決めるしかなかった。 「好きに……しろよ」 痔の診察でも受けるかのような姿勢で、うつ伏せになる。だが、死神は鼻で笑った。 「何やってんの?」 「いや……それで済むことならと」 深い溜息が聞こえた。 「呆れたね……どこまでバカなんだか。まあ、好きな格好すればいいけどさ」 やりたくてやってるわけではない。俺には、俺なりの考えがあるのだ。 夕べは、明彦を殺してしまったという絶望感から、来ていた服をかなぐり捨てて、下着一枚で布団の中にうずくまるしかなかった。 だから、脱いだ服はそのまま、布団の周りに散らばっている。ズボンに、ベルトに、胸ポケットのついたポロシャツ。確か、そこには……。 俺が尻を突き出してやっていることに、死神はまだ気付かない。 「勘違いしてもらっちゃ困るな。僕が欲しいのは、キミの貞操じゃなくて……生命力なんだよ」 そんなことはどっちだっていい。俺は見苦しい姿勢を崩すことなく、死神が近づいてくるのを待つ。やがて、冷たい両手が、俺の腰にかかった。 今だ! 俺は片手と両脚を突っ張ると、身体を大きくひねって、手に持ったものを死神の目の前につきつけた。 胸ポケットに入っているだけで、死神だけでなく、その筋の連中さえも怯えさせた、あの白い羽根だ。 「う……」 両手を自ら封じてしまった死神は、逃げることも出来ずに呻いた。夕べと同じように、その美貌が悪鬼のようにクシャクシャと歪んでいく。 夕べ、死神が消えたのは、これを恐れたからだ。だから、身動きできないところで鼻先につきつければ、難なく撃退できるはずだった。 だが、「はずだった」はあくまでも「はずだった」に過ぎない。死神は、僕の身体を抱え込んだまま離さなかった。 「……何で?」 「よく気づいたね、これに……でも、これ、悪意を持つ者にはキツいって程度なんだ、トイレの臭いみたいに」 嫌なたとえだったが、苦痛というのは、いずれ慣れるものだ。だから俺は、次に続く言葉の予想は、絶望と共に予想できた。 「だから効かないよ、こんなもの」 死神はしかめ面のまま言うなり、白い羽根を引っ掴んで握りつぶした。 27、 そのときだった。 暗い部屋のカーテンが一斉に舞い上がり、強く清々しい風が渦を巻いた。たちまち、四畳半の狭い部屋の視界は果てしなく広がり、そこには果てしなく広がる空と雲が現れた。 床もなくなってしまったので、俺の身体は死神の手から離れてストンと落ちたが、荒れ狂う風に吹かれて再び舞い上がった。 「おおっとお?」 目の前に飛んできたタオルケットを引っ掴むと、腰の周りに巻き付けた。でも、下を履いていないので、股間がスースーする。 前を押さえたまま、風に身体を任せていると、白く光る大きな翼が見えた。 ただし、片方だけ。 それを嘲笑う声が、頭の上から聞こえた。 「おやおや、白い翼のストーカーさんですか」 死神の挑発に乗せられるかのように、その翼が凄まじい勢いで飛んでくる。 「やっぱり、あなたね……」 どこかで聞いた声だった。 母さん? 姉さん? 先生……いや、オーディションの審査員? その、誰でもなかった。 胸元の開いた、裾の長い衣を風に閃かせた片翼の天使が、強い風に弄ばれながら、ふわりふわりと宙に浮かんでいる。 「風間、さん?」 俺のつぶやきは聞こえたのか、聞こえなかったのか。 「ずっと見守ってきたのに、一瞬だけ見えなくなったから、おかしいと思ったの」 ずっと? 見守ってきた? 風間さんが? いや、よく似た、他の誰か? 神も仏もありはしない。だが、せめてもの救いとして、守護天使くらいはいたということだ。 「さっさと仕留めにくればよかったのに」 死神はというと風の中でも、俺のワイシャツを羽織ったまま、平然とした姿勢を保っている。一方で、俺の守護天使は、かなり気を張っているようだった。 「私ができるのは、彼に寄り添い、正しい生き方を決めさせることだけ」 何か言うたびに、肩が上がっている。初めて舞台に立つ下手な役者にありがちなことだ。そこにない余裕が、死神にはある。 「それはあなたの……正義でしょう、堕天使さん?」 「もう、彼は選んだわ」 俺が選んだ守護天使の正義と言われても、すぐには思い浮かばない。今まであったことをひとつひとつ思い浮かべてみると、強いて言えば、風間さんに叱られて、明彦の代わりに死ぬのを選ばなかったことぐらいだ。 すると、やっぱり、この天使は……! 結論に至る間もなく、死神は楽し気に宣言した。 「じゃあ、ボクは代償を払ってもらうだけさ」 つまり、俺の生命力だ。さすがに、悲鳴を上げないわけにはいかなかった。 「助けて……」 強い風に押し返されて、声にならない。その唸りの中で、死神の甲高い笑いだけが響きわたった。 「残念でした。たっぷり、いただいちゃったからね。あとは残りを吸い上げるだけさ」 こいつとの、危な絵の数々が脳裏に蘇る。「呪い屋」をやるための報酬は、結局、俺の命を縮めていたのだ。風間さんによく似た天使が、悔しそうに顔をしかめた。 「う……!」 美しい死神は、さらにサディスティックな追い討ちをかける。 「何やって堕ちたか知らないけど、翼の半分もげた天使じゃ無理さ!」 風間さん、いや、彼女によく似た天使は、いわゆる堕天使だったということだ。でも、死神にそこまで言われるほどの悪事を働いたとは思えなかった。 死神の挑発に対するリアクションを見るまでは……。 「そうかしら」 堕天使は、不敵に笑った。風間さんが見せたことのない表情だった。ゾクっとくるほど危険で色っぽかったが、死神は意にも介さない様子だった。 「分かんないかなあ、あんたのどこにそんなパワーがあるわけ?」 「私じゃ、なくってね」 その視線は、俺に向けられた。 「え?」 俺に何ができるというのか。金は関係ないとして、腕力もなければ、学もない。 28、 だが、期待されていたのは、そんなことじゃなかった。風間さんそっくりの堕天使は、うっとりと微笑む。 「……ねえ、私が……欲しい?」 もともと胸元の大きく開いた衣の襟から、二つの玉がこぼれそうな谷間が露わになる。いや、肩をすぼめると、その衣自体が胸から落ちそうになる。 思わず息を呑んだが、あいにく、タオルケットの奥は静まり返っている。死神に、ずいぶんと持って行かれてしまったのからだが、その張本人は呆れかえっていた。 「だから堕ちたんじゃねえの? そんなんじゃ、まあ、翼は返してもらえねえな!」 それでも、本物の風間さんだったら願ってもないことをしてくれている堕天使は、諦めてはいなかった。 「もう一度、立ち上がるつもりがあれば、私……」 何? 何? 何してくれるんだ? 業を煮やしたのか、死神は手の一振りで、巨大な鎌を肩に担いだ。 「無駄だよ、そいつの欲望はもう……僕が」 勢いよく振り上げた刃が、堕天使を襲う。風に乗ってかわしたものの、鎌の切っ先が衣を切り裂き、足元から太腿までを露わにした。 「嫌……っ」 風間さんの声で、悲鳴が上がる。それが聞こえたとき、僕の心と身体の中で、何かが燃え上がった。僕の人生の中で出会った女の人たちの面影が、目の前にクロスオーバーする。 「母……さん? 姉さん……?」 「何? まだ?」 堕天使に向かって振り下ろされかかっていた大鎌が一瞬、止まった。だが、思い出の中に蘇る女性の姿は、途切れることがない。 「先生、審査員のお姉さん、それから!」 風に流されながらも、広げた翼を堕天使が死神に向けて振る。たちまちの内に、無数の羽根が刃となって拭きつけられた。 「温い!」 大鎌を構えた死神がくるりと1回転すると、俺のワイシャツはいつの間にか、フードのついた黒いお約束のローブとなって、光のナイフをことごとく弾き返していた。 そのまま、鎌と共に螺旋の渦を描きながら堕天使に向かって突進する。豊かな胸を隠した布を押さえたままの堕天使は、何を為すべくもなかった。 「不破さん!」 風間さんの切ない声が、俺を呼んだ。死神の鎌が、衣も、その身体も切り裂きにかかる。 「その人に……触るな……!」 衣の下半分があらかた吹き飛び、胸も露出しかかったとき、俺の叫びと共に身体の中から……正確にいうと、タオルケットの中から沸き上がった新たな力が、一条の光となって収束され、死神を射抜いた。 「サンキュー!」 風間さん似の堕天使が、さっきの哀願とは真逆の声を上げる。野獣のような咆哮と共に、美しい顔を歪めた死神は、大鎌を振り上げて突進してきた。 「このマザコン……シスコンがああああ!」 その怒りは、俺に向けられていたらしい。それを見て取ったのか、堕天使は余裕たっぷりに、片翼の中から一本の剣を引き抜く。 「とどめ!」 横薙ぎの剣の一閃で、死神は青い青い空の中に、白い白い雲のかけらとなって消えた。 29、 夏の風の吹きこむ四畳半のアパートで、俺は冷蔵庫から出した麦茶を風間さんに振る舞った。 「こんなもんしかありませんけど」 「いただきます」 綺麗な唇をグラスに当てた風間さんは、いつものスーツ姿で足を崩して座っている。 「あの死神はね、人の死を察知する力を持っていただけなの」 裏社会の依頼人たちは、ありもしない呪いのために、家一軒買えるほどの大金を俺に支払っていたということだ。明彦はといえば、殺しても死ぬようなタマじゃない。あのとき死神が姿を消したのは、あの白い羽根に怯えたからだ。 「私は、不破君の守護天使として、そいつを追い払ったってわけ」 あの羽根はやっぱり、風間さんが死神に向けて放ったものだったのだ。 守護天使は、誰のそばにでもいるものらしい。たいていは遠くから(というか別の高次元世界から)、本人に分からないように人生の節目節目でヒントを与えることになっている。 「明彦も?」 ヤバい恋にはまっているはずだ。俺がしくじっても、命を狙われる恐れはある。だが、風間さんはそんなに心配していなかった。 「守護天使がちゃんと見てるわ。彼なら大丈夫。危ない恋からはちゃんと離れていくでしょうね」 でも、守護天使がときどき戒律を冒して翼を失い、こうやって実体を現わさざるを得なくなる場合もあるという。 「だから……隣に?」 「いっぺん見失っちゃったから、そうじゃないかなと思って」 堕天使は、見守る相手が悪魔や死神などと契約を結んだ者が見えなくなることがあるという。そういうときは、近くで(同じ次元で)寝起きして、身辺警護をすることになるらしい。 風間さんが何で堕天使になっちゃったかは……あんまり考えないほうがよさそうだ。 「いつから、俺を見ていたんだ?」 「生まれたときから、ずっと。お母さんやお姉さんが亡くなってからは、と」 「先生とか、オーディションの審査員とか」 「あ、分かっちゃった? なるべく、似た人のほうが言うこと聞いてもらえるかな、って」 どうやら、俺は風間さんの掌の上で踊らされる人生を送ってきたらしい。 「あんまり、手を焼かせないでね」 「言われなくたって」 こんなのは、もう懲り懲りだ。確かに明彦の言うとおり、「まずは金」だろう。その金を通じて、俺は人とつながっている。 「お金が動くときは、あなたも動いているんだからね。期待してるわ、大人なんだから」 保険屋さんというのは世を忍ぶ仮の姿なのに、見守るポイントはやっぱりそこに落ち着くらしい。もっとこう、色っぽいことで大人扱いしてほしいものだ。 そう思ったとき、ふと気付いたことがあった。 「じゃあ……僕の……それは……取られ損?」 死神は死神で、やってもいない殺しの代償として、俺の純潔を汚していたというわけだ。 「戻してあげてもいいけど……」 それだ! 金は働けば戻るし、返せるけど、性欲(リビドー)はそうはいかない。戻してもらうには、俺の力だけじゃ無理だろう。 と、いうことは! 「それって、俺と?」 ちょっと期待したけど、翼の生えた天使のように、風間さんは俺のアタックを軽やかにかわした。 「代わりに、禁欲してね」 「そんなあ……」 あまりに、過酷だ。健全な成年男子に、それは、過酷すぎる。しょげる俺をたしなめようとしてか、風間さんは正面から額を指でつん、とつついて囁いた。 「ダメ! 私は母さんで、姉さんなんでしょ?」 そんなわけで、僕は今でも風間さんの良き隣人として、悶々とした日々を送っている。 |
兵藤晴佳 2018年08月12日 09時01分50秒 公開 ■この作品の著作権は 兵藤晴佳 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2018年08月28日 23時06分17秒 | |||
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