おねしょたファンタジー |
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0 ごとごとと揺れる荷車に座っているのは眠たそうな女と犬耳を生やした少年であった。 女は大きめの外套を毛布代わりにして、こんもりと積まれた麦わらに身体を預けている。めずらしい髪の色をしており、つややかな金髪にいくつかの赤い筋が走っている。栗色、金髪、赤毛、単色ならばごく普通であろうが、混ざっている者はなかなかいない。 「おい、犬」 呼びかけられた少年の犬耳がぴくりと動く。雪を連想させるような白い毛は、犬耳としっぽの先だけがほんのりと黒かった。雪原を走る狼と似ているかもしれない。 「なんですか、ご主人さま?」 「寝るには場所が足りない。お前歩け」 女はそういって、少年を荷車から蹴落とした。 「ひどいです」 愚痴はいうものの、少年のほうは慣れた様子である。馬に引かれてゆっくりと進む荷車であるので、普通に歩けば置いていかれることもない。 広々とした場所を確保した女は、ごろんと横になって寝入ってしまった。 「ひでえご主人さまだなぁ、坊主」 御者台に座るいかにもな農夫が同情するような声音でいう。 「いつものことなのでだいじょうぶです」 「そうか? 俺のとなり座るか?」 「いいんですか?」 「いいよいいよ。お前みたいなちっこいのならたいしたことないさ」 少年は走って、御者台に飛び乗った。 「ありがとうございます」 子どもらしい明るい笑顔。農夫もつられて笑う。 それにしてもと農夫は思う。なにせ、不思議な組み合わせの二人だ。尊大な態度をする若い女に、まだ声変わりもしていないような歳の獣人の少年。旅人というには不用心に思えるし、貴族さまにも見えない。夫婦でも家族でもないだろう。 農夫はちらりと少年の首を見た。奴隷の証である首輪がしっかりとついている。 あのような傍若無人な態度をとられているのに、よくも逃げ出さないものだ。 とはいえ、このように若い獣人の少年では、逃げたところで生きていくのは難しいだろう。 「お前さんがたは、王都からきたんだったか」 「はい。ご主人さまが騒ぎを起こしてしまったので、住めなくなってしまったのです」 「騒ぎってえと、その、なんだ?」 「ええと、王都では、お尋ね者です」 農夫は思わず顔をしかめた。お尋ね者ということは、賞金首である。そうとうな事件でも起こさなければ、賞金首になることもない。 あまり詮索するのも面倒がありそうだ。賞金首たちはなべて厄介。騎士崩れの凄腕の傭兵もいれば、もぐりの怪しい魔術師なんぞもいる。賞金首でありつつも賞金稼ぎという者もいるのだ。王国や都市国家が乱立するこのあたりでは、場所によってその者の立場が変わる。 なんにせよ、一介の農夫に過ぎない自分の手にはあまる。 駄賃をもらって町まで乗せる。それだけでいい。 王都でのお尋ね者と聞いて、一瞬記憶が刺激されるが、それを深く沈めた。 「そうか。まあ、あんま聞かないことにしとくよ」 「すみません」 少年はうつむいて、しょんぼりとする。犬耳がぺたりとへたれてしまっていた。 「まあ、まあ。別にお前さんがたが悪いやつだっていうつもりはないさ。駄賃は多くもらったし、お前さんは素直だ。後ろの姉さんはちょっとばかしあれだけどな」 「うう」 「ほら、食うか、鹿の干し肉。うちで作ったやつだけど、なかなか出来がいいんだ」 「わあ、ありがとうございます」 一欠片の干し肉を渡す。少年は両手に持って、大事に少しづつかじって食べる。その仕草のほほえましさに、肩の力が抜けた。 少し肌寒さを感じるが、青空の広がるすばらしい天気。麦畑を半分に割ったかのような細長い田舎道を、荷車はゆったりと進んでいく。 人里を抜けると、風に波打つ草原が広がった。 丈の短かな草である。遠くでは鹿の群れであったり、野兎、キジ、白サギ、さまざまな野生の動物が見てとれる。農夫はうさぎの肉の味を思い出し、少し腹を空かせた。 異変はまず、野生の動物からであった。 一部の動物が、なにかから逃げるように走り去っていく。そののち、小さな音と振動が伝わってきた。 馬が集団で地面を叩いて走っている時特有のものである。 正面から見えてくるのは甲冑をまとい馬に乗る数十の男たち。 騎士か、あるいは傭兵か。どちらにせよろくな者たちではない。 ちんけな農夫でしかない男にとっては恐怖以外のなにものでもない。手綱を握る手が自然と震えた。 「だいじょうぶですか?」 心配するように声をかけた少年。意外なことに、彼は落ち着いていた。 農夫は深呼吸をして、なんとか気を静める。どうせ逃げられはしない。おとなしくしているほかないだろう。 甲冑をまとった集団が、荷車を囲むようにして止まった。 「農民か? 奴隷持ちとはおそれいった」 へらへらと笑いながら声をかける若者。頬に一筋の傷がある、荒っぽそうな気性の者。 傭兵だ。それも、野盗と変わらないような、命知らずたちだ。 「あなたたちは出稼ぎの傭兵かい? 俺はしがない農夫に過ぎないから、金目のものなんて持ってはいないよ」 「ああ、悪いな。怖がらせちまったか。別にとって食おうってわけじゃない」 「そうかい」 「ただ、少し食料をわけてくれないか。心もたなくてね」 思いのほか話のできる連中なようだと、農夫は安堵した。身包み全部剥されるよりははるかにいい。 「一袋ならかまわない。金はくれるのかい?」 荒く挽いた小麦の一袋をとって、若者に渡す。 「これで勘弁してくれ、ははは」 投げ渡されたのは小銀貨の一枚。相場から考えれば随分と安い金額だが、仕方がない。 「はあ、もういいだろ?」 「ああ、悪かったな。助かったよ。ところで」 まだなにかあるのかと、農夫はため息をつく。 「後ろに乗ってるのは女か? 少し貸してくれよ」 にやにやと笑いながら、若者が女を指差す。驚いたことに、いまだにすやすやと眠っていた。 「勘弁しておくれ。そういうのは、町にいって商売女とするものさ」 「こちとら女日照りがひどくてね。娘ってわけでもないんだろ?」 「あの、その、ご主人さまになにかご用ですか?」 緊張感のない声音で少年がいった。若者は一瞬きょとんとするが、すぐに大きな笑い声を出す。 「ああ、そうだ。そこの草むらで、君のご主人と仲良くしたいのさ。だからいますぐ、のんきなご主人を起こしてあげてくれないかい、君」 「わかりました」 少年は御者台からひょいっと飛び降りて、荷台へとまわりこむ。外套にくるまった女の肩を激しくゆすった。 「ご主人さま、ご主人さま」 「ああうるさいうるさいうるさい」 少年の頭をげんこつで殴る。そしてふたたびまぶたを閉じる。 涙目になりつつも、少年はふたたび肩をゆすった。 「ご主人さま!」 「ああもうなに!」 身を起こした女は、荒っぽい男たちに囲まれてる状況を見て、察した。 「へえ、へえ。こいつはずいぶんなことだ。わたしになにか用事でも?」 外套をひるがえし、乱暴な手つきで髪を払った。 挑発をするように、ふんと鼻で笑う。 「おお、こいつは美人だ。運がいいな」 「どうだかね。で、なに?」 「いやいや、わからないかい、この状況で。簡単なことさ。あんたに、俺たちを慰めてほしいのさ。金なら出そう。銅貨一枚でいいか?」 若者たちはげらげらと笑った。 「まあ、いいけどね、わたしに勝てたら」 ゆったりとした動作で手の平を上に向ける女。 それは一瞬の出来事である。 手から青白い光がほとばしり、人の頭ほどの火球が生まれる。 それが上空に放たれると、大きな音を立てて爆発した。 あまりにあざやかな魔術。傭兵たちは言葉を失う。 小さな火の粉がふりそそぎ、馬たちは驚いて嘶いた。 「で、ほんとにわたしとやりあうつもり? 田舎傭兵さん」 動揺する若者たち。馬をなだめつつも、顔を青くしつついう。 「ま、まて。こいつもしかして、王宮燃やしのフレイじゃ」 「学院じゃなかったか。五百人は焼いたとか」 「聖王国の賞金首で、流浪の賞金稼ぎの。金貨で一千枚の」 若者たちの大半は震えていた。ついでに農夫も奥歯をがたがた鳴らしていた。 「失礼な、ほんの少し研究室を焼いただけだ!」 「ご主人さま、誰も信じてくれませんよ」 適当に主人をなだめる少年。かいがいしく背中をなでている。 「ま、まてお前ら落ち着け! こいつを掴まえれば一千枚だぞ!」 「いや、団長。無理ですって、たしか生け捕りが条件ですよ」 「無理ですね、焼き殺されます」 「魔術師で錬金術師で薬学者らしいですよ。魔術だけじゃなくて怪しい薬とか道具も色々あるとか」 若者たちの士気は非常に低かった。 「くっ、一千枚が」 「いいからさっさと、散れ、散れ。根性なしども。わたしは寝る。犬!」 「は、はい」 「そこで正座」 少年は荷台の上でさっと座った。 その少年のひざをまくらにして、女は横になる。若者たちなど興味がない、とでもいうかのようだ。 傭兵たちはため息をつくと、静かに荷車から離れていった。狂犬をむやみに刺激したくない、という意図が見えている。 傭兵たちが離れると、農夫は馬を進ませる。震えは止まってなかった。 「はあ」 少年はひとつ息を吐く。自分のひざですやすやと眠る主人に困りつつも、なにもかもを諦めた表情で、頭をなでた。いつものことだ。 そこから離れた丘の上で、青白い肌の女が、その光景を見つめていた。 美しい顔立ちに、上等な仕立てのローブを身につけている、黒髪の女。しかしあまりに命を感じさせぬ肌色が、幽鬼のような雰囲気を醸し出す。 人であらぬことの証明であるように、女は尋常ならざる視力を持ち合せていた。 人が麦の粒ほどの大きさにしか見えないほど、遠く離れた位置にいるはずなのに、細部までを隅々まで確認できるようである。 「あら、偶然ね。フレイを見つけられるなんて。それと、あの子は例の神狼かしら」 うふ、うふ、と薄気味悪く笑う女。そのたびに、長い黒髪がゆれる。 笑いに連動するように、女から真っ黒な霧がもれて、広がっていく。 すると、足元の草むらが一瞬で枯れ、風に乗り消えていった。 草原の中で、女のまわりだけが、赤黒い土に成り果てる。 「とても楽しくなりそうね。うふ、うふふ」 女は不気味な笑いを続けて、ずっとふたりが乗る荷車を見つめていた。 『戦乙女と神の狼』 1 「ああ、ようやく着いたか」 金に赤が混じった髪の女、フレイは、地面に立つとぐっと身体を伸ばした。ぱきぽきと骨が鳴る。 白に毛先だけがほんのり黒い毛をもつ少年、フェル。世話になった農夫とあいさつをしてから、手早く荷物をまとめ、背負った。背負子を使って大荷物をくくっているが、その大きさたるや尋常ではない。フェルの身体の何倍もの量である。しかし、それほど重そうにはしていなかった。 農夫はフェルからのあいさつを返し、そそくさと離れていってしまう。まるでふたりとは関わりたくないとでもいうような早業であった。 町はそれなりに栄えているようだ。入口の検問を抜ければ、赤茶色の煉瓦作りの町並みが広がっている。門や石壁で囲われているような都市と比べればもちろんちっぽけなものではあるが、大通りを歩けば敷布に座って細々としたものを売る露天売りたちがずらりと並んでいる。剣を下げた荒っぽい男や、町民であろう町娘、荷車を自分でひいている者、ずいぶんと活気がある。 フレイはフェルを気づかうことなく、すたすたと歩いていく。 「ご、ご主人さま、早いです」 「うるさい。急げ犬ころ」 フレイの目的地はたいてい町の中心近くにある。それはすぐに見つかった。 大きな看板には、馬車と道と剣が刻まれている。 自由都市の交易のための駅馬車協会。通称、駅馬車協会。単に協会ということもある。 白漆喰の造りのよい建物だ。扉をくぐると小鐘が鳴った。 酒場と役所と商館を混ぜたような様相だ。依頼や相談、各種の手続をするための対面型の卓が正面にある。部屋の中央には大きな掲示板、依頼などがはりつけられている。あいた空間にはいくつもの椅子と円卓があり、さまざまな者がいた。 フレイはまっすぐに対面卓に向かう。 「いま町についた。色々教えてほしい」 「かしこまりました」 受付嬢はにっこりと微笑む。 「この町は雑用系と採集系の依頼が多いですね。野盗や魔獣の討伐などは少ないです」 「あまり実入りはよくなさそうだ」 「そのぶん、安全な依頼が多いのです。失礼ですが、会員証を見せてもらっても」 フレイは会員証を卓に投げた。 駅馬車協会の会員証とは、そのまま協会員としての意味と、身分証としての意味も持つ。 なにができるのか、協会への貢献度はいかほどか、出身地や名前に年齢なども刻まれている。 白銀、金、銀、銅、鉄、錫、木。素材の希少さに応じて、貢献度がわかる。 銀の会員証なら上位の貢献度だ。商人ならば、商店持ちで安定した商いを営む者でなければ発行されない。傭兵であれば、数多くの護衛依頼を達成しなければならない。フレイの場合であれば、傭兵や冒険者としての依頼に、魔術師や錬金術師に薬学者としての貢献も足されている。 「まあ、やはりフレイさまだったのですね。めずらしい髪の色をなされているので、もしかしたら、とは思っていたのですが。フレイさまであれば、調合系の依頼も任せられますね。いかがいたしましょうか」 「いまはいい。先にそこそこいい宿と食事処を教えてほしい」 「そうですね、金の麦亭などはおすすめですよ。ちなみにわたしの実家です」 くすくすと笑いながら、受付嬢はいった。 「堂々と身内の店をすすめるとはな」 「ええ、おすすめです。そちらの獣人の少年を差別するようなこともありませんし、食事にも自信があります」 「実家は継げなかったのか」 「兄弟が多かったので、必死に勉強して、駅馬車協会で働けるようになったんですよ。わたしの密かな自慢です」 「そうか」 宿の場所を聞いてから、フレイは協会を出た。 ずいずい歩くフレイの服を、フェルがひっぱる。犬耳がぴこぴこと動いていた。 「ご主人さま、お肉が食べたいです」 「石でも食ってろ、犬」 フレイはフェルの頭をぐりぐりと乱暴に撫でた。 「へえ、ここが金の麦亭か」 木造のなかなか大きな建物をフレイが見上げる。壁や柱の状態から、年季が入っていそうだ。しかし手入れはしっかりとされているようである。 中に入るフレイたち。 一階が食事処で、二階より上が宿の、よくある造りのようだ。 「いらっしゃぁい。食事かい? 泊まりかい?」 人のよさそうな中年女性。宿のおかみさんだろう。 「両方。先になにか食べたい」 「なら、そこらへんに座って待っててくださいな。予算はどのくらいかしら」 「味がいいなら小銀貨まで出してもいい」 「あらあら、お金持ちなんですね。さすがにそんな上等なお食事は用意できないので、大銅貨二枚でどうでしょう」 「じゃあそれでいい」 受付卓に銅貨を置いて、フレイは近くの席へ。外套を脱いで、ローブ姿になる。 フェルは背負子を床に置いて、ひと息つく。 「ふう」 「あー、疲れた疲れた、お腹空いた、だっるい」 「ご主人さまは歩いてただけじゃないですか。荷車の上ではずっと寝てましたし」 荷物のほぼ全てを背負っていたフェルはいう。 「お前は知らないだろうけど、魔術を使うと疲れるんだ。あのあほな傭兵集団をおっぱらうのに使っただろ」 「あれくらいならいつも平気な顔して使ってるじゃないですか」 フレイはふんと鼻を鳴らして、行儀悪く卓に肘をつく。 それほど待たされることもなく、おかみさんがお盆を持ってやってきた。 「とりあえず、汁物と果汁の水割りね。あ、お酒は飲むのかしら」 「麦酒、ぶどう酒、あと蒸留酒の果汁割りを順番に」 大銅貨を渡しながらフレイはいった。 「あらぁ、ずいぶん飲むのね。だいじょうぶ?」 「飽きたらそこの犬ころに飲ませる」 あたたかい汁物をきらきらとした目で見ていたフェルを指差した。 「あんまりいじわるしてあげないの。ね?」 フレイはふんと鼻で笑う。 おかみさんはため息をついて、厨房へと戻ろうとするが、フレイがそれを止めた。 「そういえば、食器は出るのか」 「木製のはともかく、金属のものは有料なの。それでもいいかしら」 「まあ、田舎町ならそんなものか。いい、自前のがある」 フレイはローブの中から、食器を保管する小物入を取り出した。それを卓の上に乗せ、開いていく。 銀のさじ、肉を切り分けるための小刀、突き刺すための三叉串。織布を手前に敷いてから、それらの食器をきれいに並べていく。 「まあ、ひと財産ね」 「そうかもしれないな」 「そういえば、王都の店では金属の食器まで用意されてるんですってね。もしかしてあなたたち、王都からいらしたのかしら」 「そうだ。あと、世間話は食事を終えてからにしてほしい」 「あら、ごめんなさいね」 おかみさんがあわてて席を離れていく。 「さて」 木製の杯に入れてあるのは、果汁の水割り。柑橘系の香りがするもので、酸っぱそうだ。フレイは軽く一口飲んでみると、思いの外さわやかで口あたりがよく、飲みやすいものであった。 続いて汁物をさじですくって口にする。肉と野菜の旨味がじんわりと広がった。肉は鶏、野菜は玉ねぎとにんじんに名前のわからない葉物が見える。汁は少し白濁しているから、おそらくは骨がらをじっくりと煮込んだものであると見当をつけた。わずかな塩気もいい。 食事を楽しんでるフレイを、フェルはじぃいいと眺めている。尻尾はぶんぶんと左右に揺れて、犬耳はぷるぷる震えている。お腹がぎゅるぎゅる鳴ってもいる。 にやにやと笑いながら、フレイはおいしそうに汁をすすった。 「はー、おいしい。ここの食事はあたりだ」 「ご、ご主人さま」 「んー?」 「は、はやく、はやく」 おいしい食事に機嫌がいいフレイ。さきほどおかみさんからも、あまりいじわるをしてやるなといわれたところだ。 「食べていいぞ、犬」 「いただきます!」 木さじを使って勢いよく食べるフェル。よほどお腹が空いていたのだろう。 フレイは自分の木のお椀から、肉や野菜などをすくって、フェルのお碗に入れた。空腹の獣人少年に気を使ったわけでもなく、食べ飽きたからだ。汁物で腹を一杯にするつもりはない。 そんな主人の気まぐれが、奴隷の少年には輝いて見えた。今日のご主人さまは機嫌がいい、もしかしたらお腹一杯食べられるかも、と期待が膨らむ。 「焼き肉と焼き魚、パンとお酒ね。うちの料理はこんなもんだよ」 次の料理をもってきたおかみさん。大皿に盛られた料理を卓に置き、フェルの頭をぽんぽんと叩いてから、受付卓へと戻った。 肉は、鶏のもも肉だろう。皮がぱりぱりに焼かれていて、実においしそうだ。魚は白身で、いくつかの香草と乳脂の匂いがする。なにやら衣がついてるので、パンくずをまぶしてから揚げ焼きにしたように見える。あとは、添え物として、じゃがいもの焼いたもの、生のトマトや茹でたほうれん草などがある。 まずは主人であるフレイが、料理を切り分ける。だいたい一口大に分けたあと、小皿に乗せる。 銀製の三叉串で、鶏のもも肉を優雅に食べる。鶏肉というものはたいてい卵を産まなくなった年寄りを捌いたものだが、なかなかにやわらかい。ぶどう酒に漬けてから焼いたのだろう。文句なく美味であった。 魚の揚げ焼きのほうも、さくさくほくほくでおいしい。魚自体は淡白であったが、乳脂の風味がよい。 あえてゆっくりと食べることで、目の前にいるよだれを足らした犬をじらすのが、いつもの食事の風景だ。ごちそうであればあるほど、非常に残念なことに、フェルは待たされる。 「あー、おいしいなぁ。ぜんぶ食べちゃおっかなぁ」 「ううぅ」 「この鶏もも肉とか絶妙な焼き加減でいくらでも食べられちゃう~」 ぽたり、ぽたりと落ちるよだれ。フェルはいくぶんか涙目であった。 そんな時に、フレイの頭がはたかれる。 「だから、そんなちいさい子にいじわるするんじゃないの。はい、お酒のおかわり」 おかみさんはさっさと離れた。フレイは舌打ちする。 しぶしぶ小皿に料理を盛って、フェルの前に置いた。 「食ってよし」 「わぁあ!」 フレイは夢中で食べるフェルを眺めながら、ちびちびと酒を飲んだ。 2 聖王国王立総合学院。 聖王国で最大の学術研究施設である。 都市国家が乱立するこの大陸で、聖王国が他国より一歩先を進んでいたのは、この学院の存在が大きい。 この学院は生徒に学術を学ばせる場所でもあり、ありとあらゆる学問を研究する場所でもある。 魔術、錬金術、占星術、算術、医術、農業、冶金、縫製、染色、建築、工学、水力学、商業、経済、歴史、言語、絵画、音楽、彫刻、詩歌、演劇。例をあげればきりがない。およそ人が営むもの全てが対象である。 フレイは優秀であった。ゆえに、金を払って学ぶ一般生徒ではなく、金をもらって研究のできる立場にあった。 フレイの研究成果は多いが、有名なのは魔力光の常識を覆したものだ。 魔術を行うさいに発生する青白い光。これは魔力そのものが光っている、というものが定説であったが、フレイは入念な観察と実験により、魔力が光っているのではなく、魔力と魔力がこすり合うことで発光していることをつきとめた。この発見により、数多くの魔術式、魔術具の効率化が成される。この時フレイは十五歳であった。 歳若くして魔術の権威となったフレイ。聖王国にフレイあり、とまでいわれたほどの名声だ。 その名声が、目を曇らせてしまったのかもしれない。 目の前には、瓦礫となった研究棟。 ガラス製の試験管、魔力を蓄えておくための魔石、研究結果を書き留めておくための羊皮紙、羽根筆。机、棚、金属の檻。その場にあったおよそありとあらゆるものが原型を留めていなかった。 立つのはフレイと、もう一匹だけ。 フレイは保険として用意していた、神具(アーティファクト)を起動し――。 声なき悲鳴を上げながら、フレイは飛び起きた。 心臓は早鐘のようにばくばくと鳴り、冷や汗がとまらない。 夢、というにはあいまいに過ぎる過去の記憶の断片。とにかく寒かった。 寝台に寝ているフレイと、長椅子に寝転がっているフェル。ぼろのような毛布一枚にまるまっている。なんだか寒そうだ。 「おい、犬」 眠りが浅かったのだろう。フェルはしばらくすると起きた。 「うう、なんですか、ご主人さま」 「寒いからこっちにこい」 誰が、とはいわずに命令する。 フェルは眠たそうにしながらも、フレイの寝台に入った。 ぎゅっと抱き締めると、あたたかい。大きな犬耳をさわっていると気持ちが落ち着いてきた。 「うむ、いい抱き枕だ」 「うー」 寝ぼけているのか、フェルはフレイの胸に顔をうずめる。そしてそのまますやすやと寝入ってしまった。 犬のくせになれなれしい、とは思いつつも、フレイはまあいいかとそのまま瞼をとざす。 たまにはこんなこともあっていい。 朝になり、少しづつ覚醒していく意識と共に、フレイは違和感に気がついた。 なにやら温かいものがある。それを抱き締めているようだ。寒い朝にはそのぬくもりが気持ちよい。 そういえば、夜中にフェルを寝台へ招いたのだったな、とフレイは思い出した。この時期は、犬ころを抱きかかえて眠ると、体温が心地よい。これが暑い季節になるとまるで逆で、あのふさふさ毛の生えた犬耳を見るだけで、暑苦しいものだ。 どうやら起きたのは自分だけで、フェルはまだ夢の中にいるようである。なにかおいしいものを食べる内容なのだろう。はぐはぐと口を動かし、フレイの胸を噛んでいる。 あむあむ、あぐあぐ。まるで音が聞こえてきそうなほど、フェルが胸をはんでいた。 よく見れば、肌着が唾液まみれになっている。おそらく、けっこうな時間のあいだ、噛まれていたのだろう。 違和感の正体。それは、フェルが寝台にいることではなく、自分に噛みついていたことだった。 フレイはげんこつを落とす。 「ひぐっ!」 「ひどいです、ご主人さま」 寝台から叩き落とされ、床の上に正座をするフェル。 フレイは肌着姿のまま、足を組んでフェルを見下ろしている。 「主人に噛みつく奴隷のほうがよっぽどひどいだろう」 「うう」 「長椅子にぼろの毛布では寒かろうと、同じ寝台で寝させてやれば、このざまか。ほんとうに恩知らずの犬ころだ」 「い、いや、寝台で寝てたのは、ご主人さまが夜中にぼくを呼び込んだからじゃないですか」 「あ?」 「な、なんでもないです」 フェルの犬耳はへたり、尻尾は弱々しくしぼんだ。 そんな姿を見せられると、ますますいじわるをしたくなる。フレイはそんな性格だ。 「ふん。大方、夢にごちそうでも出てきたのだろう。聞かなくてもわかる」 「はい。やわらかくてふかふかして、とってもおいしかったんです」 「馬鹿者め」 「ふぎゃ」 フレイはほっそりとした足で、フェルの顔を踏む。ぐりぐりと力を入れるたびに、フェルから鳴き声が響いた。 「そうか、そうか。そんなに腹を空かしていたのか。主人として、充分な量の食事を用意してやっていたと思っていたが、足りなかったか」 「そんなことはないんですけど」 「ならば、少し恵んでやらねばなるまいな。そら」 「え?」 フェルの目の前には、フレイの素足しかない。 にやにやと、意地の悪い笑みを浮かべる主人。フェルは、なんとなくフレイの意を察する。 ときおり、こういうことをやらせるのが、フレイだ。なにが楽しいのかはよくわからないが、やらねば機嫌が悪くなってしまう。フレイはよい主人。フェルは大半のところでそれを認めてはいるが、この歪んだ趣味だけは、なんともいえなかった。 「はあ」 フェルは犬のように四つん這いになって、フレイの足先を舐める。 本来なら屈辱を感じるような行為であるが、フェルにはそういう感情はなかった。 ほんのわずかの塩気に、なめらかな肌触り、舌から伝わる体温。フレイはわりとおいしいのである。 「ははは、無様だな犬ころ。そうだ、立場を忘れるんじゃないぞ。お前は下賎な奴隷の獣人で、高貴なわたしに飼われているに過ぎないのだ。お前なんざ、わたしがその気になれば、変態男どもの慰み物に早変りなのだからな。そら、誓え、犬」 ずいぶんとご機嫌になったなぁ、なんて呑気なことを考えつつ、フェルはうなずいた。 「ぼくは、ご主人さまの犬です。わんわん」 そして、足の甲に何度もくちづけをする。 足の指先をしゃぶり、指の間をぺろぺろと舐め、くちびるをつけて肌をちゅるちゅるとすする。 下品の音をたてるのも、主人のお気に入りだ。フェルは舌とくちびるを使って音を鳴らす。 手をけして使わず、犬のように動くのも重要な点だ。フェルがみじめな行為を、フレイのためにしている。そういう意識をして動いたほうが、楽しいらしい。 しばらく行為を続けていたが、やめてよいという合図がない。いつもならそろそろおわってもいい頃合いだが、いったいどうしたのだろうか。フェルは上目使いでフレイを見た。 なにやら、水差しを持っている。フレイはその水差しから、雫を数滴たらす。 ひざに落ちたそれは、フレイのふくらはぎ、すね、などを通っていった。 「おお、うっかり水をこぼしてしまった。悪いがぬぐってくれないか」 手拭いでふけ、という意味ではないだろう。 フェルは、水の筋にそって、ちろちろと舌を動かした。あまり早すぎてもいけない。じっくり時間をかけながら、水滴を舐めていく。ひざに辿り着いたら、ついばむようにくちづけをした。これでいいのかと、フレイに確認するように、じっと見つめる。 「ふふん。お前もよくわかってきたじゃないか」 どうやら合っていたらしい。 とりあえず、同じようなことを、左右の足にする。すする強さは、弱いくらいのほうがいいらしい。じいっとフレイと目を合わせ、ちうちうすする。 「おっと、うっかり」 フレイは、ふたたび水をこぼした。次はふとももである。 内側に向かって流れていく水滴を、フェルは舌先で舐めた。 フレイの股のあいだに挟まれたような格好である。 ぺろ、ぺろ、ちう、ちう。そして、甘噛み。 すると、突然、フレイが股を閉じる。当然フェルはふとももに挟まれた。 「んぐー」 「では、おしおきだ」 そういって、フレイは水差しを一気にかたむける。 「わああ!」 大量の水がフェルの頭にふりそそぐ。髪がぐっしゃりとぬれてしまった。 そんな哀れなフェルを解放すると、フレイは寝台に転がってしまう。 「ねる。雑用でもしておけ、犬」 「ひどいです、ご主人さま」 フェルは少し涙目であった。 3 白くてもふもふとした毛並みの獣人奴隷のフェル。彼の仕事は多い。 まずは宿の二階から、一階へと下っていった。 「おはようございますー」 「あら、犬耳ちゃん。おはよう」 この宿を経営する中年女性のおかみさんが、さっそく働いている。食堂には早起きな者たちがちらほらと見え、ねむたそうな顔で汁物をすすっていた。 フェルは小さな手桶をおかみさんに差し出す。 「すみません。お湯をもらいたいんですけど」 「ああ、じゃあちょっと待っててね。銅貨はもってるかしら」 「はい」 フェルは小銅貨をおかみさんに渡した。しばらくすると、お湯がなみなみとそそがれた手桶が出てきた。 「どうもです」 礼をいい、フェルは手桶を慎重に持って、二階まで上がっていく。 主人が借りた部屋まで辿りつくと、手桶を卓の上に乗せた。 荷物をごそごそとあさり、洗い物を取り出す。お湯を使わなければなかなか落ちないような、食器などの油もの、頻繁に使うことになる手拭い、織布、そういったものをお湯に落としていく。 さじ、小刀、三叉串などは、お湯の中で指を使って汚れを落としていく。ある程度きれいになれば、お湯から引き上げ、よく乾いた布を使って、ぴかぴかになるまで磨く。 「ふう」 布類は、ざぶざぶとお湯の中を泳がせてから、引き上げて、よく絞る。 これらの布は、改めて洗濯をしなければならない。フェルの主人はきれい好きなのだ。 次に、旅の中で溜まっていった洗濯物を集める。主人の身につける、絹仕立ての高級な肌着と下着、大小さまざまな種類の布類、あとはいくつかの服だ。それらをまとめて大きな布、風呂敷につめて、きっちり縛り上げてから、それを背負った。 フェルはふたたび部屋を出た。廊下を抜け、階段を下りる。 「あ、洗濯かい? 共同の水場は店を出て右をまっすぐだよ」 「どうもですー」 おかみさんに返事をしてから、フェルは宿を出た。 右手の方向にまっすぐ進む。石畳の大通りをてくてく歩いていけば、広場が見えてきた。 中央には噴水があり、早起きな働き者たちがさっそく洗濯をしている。頭に三角巾をつけた女性がほとんどだ。フェルと同じくらいの年齢に見える少女や、働き盛りの中年女性、腰の曲がった老婆まで、年齢はさまざまである。やれ、旦那の稼ぎが悪いだの、となりの家の青年が親切だの、意地の悪い爺婆夫婦に困っているだの、無限に話題は尽きそうにない。 フェルはなんとか隙間をぬって、噴水の前まで辿り着く。だが、あまり場所が空いていない。 「あ、洗濯? ごめんごめん、ちょっとどかすから」 「ありがとです」 「ほら、ちょっとそこのあんた、もっとつめてよ。この子が入れないじゃないか」 「あんたがむやみに広げてるからだろ!」 わいのわいの騒ぎだす女性たち。とんでもない空間である。 ふう、と一息ついて、フェルはたんたんと作業をこなした。 衣類を水でぬらし、主人の手製で貴重品でもある石鹸をつけ、洗濯板を使ってほどほどの力加減で洗っていく。そうしたら水ですすいで、よく絞り、まとめておく。 石鹸は少し目立ってしまったようだ。フェルのほうをちらちらと眺める視線が増えていく。それは無理のないことである。錬金術師でもある凝り性の女主人は、自作の石鹸にほのかに薔薇の香りまでつけていた。フェルの洗濯が行われるたびに、その高貴な香りが広がっていく。 「ね、ねえ、そこの小さい君。それすごくいい香りするね」 「ええと、すごく高いお花の香りを移したらしいです」 「へえぇえ、季節の花の香油くらいなら、わたしも作ることあるけど、へぇええ」 「少し使ってみますか?」 「え、いいの! ありがと犬耳くん!」 「え、ずるい! わたしもわたしも!」 「わ」 あれよあれよと集まってくる女性たち。みなが薔薇の香りに夢中であった。 「わああ、これはいいね」 「ああ、旦那にはもったいないねこれは。わたしたちのぶんだけにしておこうか」 「うわ、足からお貴族さまみたいな香りがする!」 洗濯をなりわいにする、洗濯女がうれしい悲鳴を上げた。 大きなたらいに衣類を入れて、素足で踏んで洗うのだが、その足がいい香りにつつまれていく。 女性たちの手が、足が、衣服が、薔薇の香りにつつまれたところで、フェルの主人手製の石鹸はきれいさっぱりなくなってしまう。 フェルはやってしまった、と思ったが、うまい言い訳はひとつも考えつかなかった。 昼下がりとなり、ようやく暖かくなってきた頃合いに、フレイは目を覚ました。 赤混じりの金髪。つややかな髪をだるそうにかき上げ、身体を起こす。 なにやら奴隷の犬ころが挙動不審になっているのが気になるが、なにはともあれ目覚めの一服がなければはじまらない。 「茶」 「お、お湯は用意してあります」 犬耳をぴこぴこ動かしながらも、慣れた手付きで茶を用意する。 それは各種の薔薇の花びらを乾燥させたもので、たっぷりと茶器に入れる。からからに干上がってしまっているが、元々の姿を想像させるだけの色は残っていた。あざやかな赤薔薇、淡い桃色の薔薇、やわらかな色の黄薔薇。それらを混ぜ合わせ、熱すぎない温度の湯を注ぐ。香りが湯に移ったら、白磁の茶碗にゆっくりと入れる。 「はちみつは入れますか」 「いらない」 取っ手つきの、飲み口の薄い茶碗は、聖王国の職人が丁寧に作り上げた一品。その茶碗に、おしげもなく使われた薔薇の花びらの茶が満たされている。 フレイはまず香りを楽しみ、うっすらと赤い色合いを確認してから、一口。 酸味の奥に、かすかな甘味と渋みがある。好みの味に仕上がっているようだ。 「お茶菓子です」 「うむ」 小麦と乳脂を混ぜ合わせて作った生地を、じっくり釜で焼き上げた菓子であった。生地の中には乾燥させた果物が入れられている。 さくり。まずは食感。薄く何層も重ねられた生地は、さくさくとして簡単に崩れてしまう。それを強調するかのように、ときおりかための果物の食感があった。 りんごの薄生地焼きである。火を通したりんごは甘みを強め、もったりとした重さをもっている。 それを、酸味の強い薔薇の茶と食べると、どちらも何倍にもおいしく感じられた。 「しかし朝からりんごの生地焼きか。ずいぶん手間をかける。お前が作ったのか」 「い、いえ。宿のおかみさんにおねがいしました」 「まあ、そうか。茶の淹れ方はましになったが、菓子のほうはそれほど巧みではなかったからな」 首輪をつけた立派な奴隷であるフェルは、薔薇石鹸を使い果たしてしまったことをどうしてもいえなかった。ならばせめて、機嫌をとっておかなければ、ひどいおしおきが待っているに違いない。洗濯がおわったあと、市場を走って菓子の材料を探していたのは内緒である。 ちなみに洗濯物は、すでに干してある。建物と建物のあいだに通された紐に、しわをのばしてほされている。肌着などの小さなものは、部屋の中に干した。 「朝、朝。ん、いやもう昼か」 「はい」 「今日はどうするか。いや、なにもかもめんどうだ。部屋でごろごろしよう」 あいかわらずの肌着姿のまま、フレイはふたたび寝台にころがる。 「ぼくは、どうしましょう」 「あー、そうだな。少し買い物を。あまればこづかいにしていい。あとは自由にしてろ」 フレイはいくつかの食材、香草、香辛料、薬草の名前をあげて、フェルに暗唱させる。 「なかったらなかったで、いい。ほら、いけいけ」 「はい」 りんごの薄生地焼きの効果か、普段ではありえないほどの自由。渡された硬貨も、銅貨ではない、銀貨だ。破格の待遇である。 どうか石鹸のことはばれませんように、と神さまに祈りながら、フェルは部屋を出ていく。 「行ったか」 フレイは窓から、犬耳が遠ざかっているのを確認してから、ぽつりといった。 そして手早く着替えてから、各種の調合器具を卓に並べる。ガラス製の試験管、管、純度の高い酒を燃料とする燭台。乳鉢、小皿、細長い棒。 調合時の真っ白な服をはおり、袖をきっちりと縛ってから、よくなめした革の長手袋をはめる。 まずは、さまざまな乾物を乳鉢ですりおろしていく。真っ赤で辛そうな匂いのするものは、新大陸からもたらされた新しい香辛料。黒い小さな木の実は、素手で触れるとぴりぴりとしびれるようになる、遠い東の国にある植物だ。 毒と薬の境目というものは、あいまいだ。本質的に同じものと考えてもいい。加工と、分量、そして摂取する対象により反応は変わる。調合するにあたり、なにを目的とするか、というものをはっきりとさせねばならない。 あらかた乾物をひきおえたフレイ。数十種類の毒草とも薬草ともつかぬものをさらに混ぜ、ごく小さな粒状の容器につめた。 その容器をさらに複数用意したフレイ。小指の先ほどもない小さなそれを、黒い砂と一緒にして、試験管につめる。木屑をかためたふたには、魔術式を組み込んでいった。 「閃光音響管」 フレイは慎重にそれを仕舞い込む。 閃光音響管。フレイが開発した、錬金術と薬学と魔術を合わせて作りあげた切り札のひとつ。 ふたにある魔術式に魔力を送り込むと、管全体に魔力が通っていき、時間差をおいて爆発。強烈な音と光を放ち、敵を無力化する。フレイはそれに各種の刺激物までを合わせた。 直撃すれば、目、耳、呼吸器、肌、それらの感覚器官がまともに機能しなくなる。 フレイの作り上げた対魔獣装備の中でも、強力な部類だ。 「だが」 フレイは知っている。切り札は、あってありすぎる、ということがないことを。 備えた時間、数だけ、脆い命を生に繋げることができる。 「わたしは、いつまで、生きていられるかな」 くつくつと笑いながら、フレイは作業を続けていた。 抗うために。 4 「かーいもの、かーいもの」 犬耳犬しっぽ、ついでに奴隷のフェルは、跳ねるような足取りで大通りを歩いていた。 フェルはもう石鹸のことはあきらめていた。世の中、どうにもならないことというものはある。使い切ってしまったのだからしかたがない。しっぽを股に挟んでがたがた怯えて暮らすよりは、その日がくるまで楽しく過ごしていくほうが有意義だろう。 人込みを抜け、歩き、ようやく辿りついたのは、市場である。主人の茶菓子の材料を探した場所と同じである。 「ええと、めずらしい香辛料があれば、買っておいてほしい、だったかなぁ」 露天を営む数多くの人々。ござを敷いて、実にさまざまな種類の品物を並べている。近くの村からきたであろう人々は、小麦や大麦、からす豆にひよこ豆、かぶやにんじんなどの根菜類、たまねぎやにんにくなどもある。狩りで得たのだろう、燻製肉や干し肉などもあった。 そちらも充分に興味をそそられたが、まずは香辛料である。 軽く、少しの量で風味をつけられる香辛料は、旅の商人に人気の品であった。野盗や魔獣などの危険、気候の違う土地でかかる風土病、または各領主や王国が自由勝手に設ける税金など、頭を悩ますことが数多い。しかし、それでも、莫大な利益を得られることもある。なにせ、現地で仕入れた木の実の粒が、百倍や二百倍の値段になることもあるのだ。かつては黒胡椒など、黒い宝石などと呼ばれていた事実が、商いの旨みの証明になっている。 そんなことをご主人さまは語っていたなぁ、などと思い出しながら、フェルは香辛料の一角へ。 人一倍鼻のきくフェルにとって、刺激の強い香辛料などは、近づくだけでも涙を流しそうになる。 いくつかの露天をまわり、値段、質などを確認して、いくつかの店にあたりをつける。相場というのは土地によってずいぶんと変わるので、よく調べなければならないと主人にはいいつけられていた。 その露天は、うさんくさい中年男性が営んでいた。 「こんにちはー」 「やあ」 並んでる品は、どれも見たことのないようなものばかりだ。 黒々とした木の実、老人のひげを思わせる草、そこらの野草をひっこぬいてきただけのようなものまである。 めずらしいものがあれば買ってくるように、とはいわれていた。が、しかし、自分が見たことも聞いたこともないものはどうなのだろう。詐欺にでもあってしまえば、目もあてられない。 「ええと、これはなんて実なんですか」 「それはねぇ、遠い遠い国から運ばれてきた、お茶の実なんだ」 「へええ。手にとってみてもいいです?」 「あぁ、丁寧に、たのむよぉ」 フェルは、それをひょいっとつまんで、鼻を近づけた。 おそらく炒って乾燥させ、匂いを強くした木の実である。なにやら香ばしいような、苦いような、なじみのない香りがした。少なくとも、おいしそうには思えない。 「変わった香りですね」 「そうだろぅ。これはねぇ、遠い遠いその国で、お金の代わりに使われたこともあったのさぁ」 うむむ、とフェルはうなる。木の実がお金の代わりになるなど、とてもではないが信じられなかった。だがしかし、フェルは賢い女主人から、昔は貝殻などがお金として使われていたこともあった、という話を聞いたことがある。場所が違えばそういうこともあるのだろうか。 いや、フェルはもうひとつ話を思い出した。この手の商売人というものは、直接現地にいって商品を仕入れている者はまれで、せいぜいがとなり町。又聞きによる又聞きによって話は歪められ、真実などとうてい知りようがないということ。 フレイが喋った例え話のひとつに、黒胡椒がある。それはある山脈に流れる川からすくいとって拾い集め、何年ものあいだ天日によって乾燥をさせると、あのように小さな粒が出来上がるという。当然のことながら、まったくのでたらめであった。 話半分に、聞いておこうかな。フェルは慎重だった。 「その実と、そっちのもじゃっとしたの、なんて名前なんでしょう」 「この実は、かかお、と呼ばれ、そちらは、とうもろこし、と呼ばれているよぉ」 「へええ。このもじゃもじゃが」 「ちなみにねぇ、これは、とうもろこしを包んでいる葉を、ほぐしたものなのさぁ。とうもころしのひげ、なんて呼ばれているねぇ」 「葉をほぐすと、ひげができるんです?」 「そうみたいだなぁ」 やはりとんでもなくうさんくさい人物である。 とうもろこしのひげ、と呼ばれているものは、香りは悪くなく、香ばしくて、ほのかな甘みのかんじる匂いであった。 こういうあやしい商品も、おみあげにはいいかもしれない。 「これ、いくらですか」 「そうだなぁ、これくらいで、小銀貨は、ほしいところだなぁ」 「うぇえ、高い」 フェルはそっと立ち上がり、離れようとする。 「あぁ、まった、まった。逆に聞こうじゃないかぁ。いくらくらいなら、ほしいのかなぁ」 「え、うーん。銅貨二枚くらいなら」 「おいおい、いくらなんでも、それはないなぁ。これは海をわたってきたもの。大銅貨二枚ぽっちじゃあ」 「いや、小銅貨です」 「おいおいおい、犬耳のぉ、おまえさん、ちったぁ価値がわかると思えば、おいおい」 「ぼくには価値がわからないので、その、ほかのひとにおねがいします」 そう冷たく返すフェルであった。 しかしこの中年男性は諦めが悪い。 「そうだぁ、おまえさんの主人なら、これらの価値がわかるだろぅ。わかった、わかった、ものは試しだ。かかおと、とうもろこし、ふたつあわせて、大銅貨一枚で売ろうじゃないか」 「ええ、でも」 「いやぁ、実のところ、こまっていたんだ。これらはたしかな価値のあるものなんだぁ、しかしここらのやつらにはこれっぽっちも売れはしない。このままじゃ首をくくるしかなくなるってぇなもんだ。なあ、ああ、たのむよ、犬耳のぉ」 「ううう、あう」 なんというか、必死であった。 ねちっこく絡んでくるこれが、なんとも断わりづらい。 優柔不断のフェルは、頭の中で言い訳を探しはじめた。 大銅貨一枚くらいなら、フレイも怒ることはないだろう。たぶんそう、きっとそう。 フェルは大銅貨を差し出していた。 「ああぁ、ありがとよぅ、犬耳のぉ」 そして銅貨をしまおうとする中年男性を見て、フェルは咄嗟に思った。 まて、これは茶の原料のはず。両方の品とも、握り拳ひとつぶん程度の量がある。十数杯は作れそうに思えた。 お試しであるなら、これほどの量はいらないのではないか。一度や二度、茶を作れる量があればいいはず。 「ま、まってください。これ、半分の量でもいいんで、おつりをください」 「そんなぁ、信用がならないかぁ」 「ええと、ほら、味を気にいるかどうかは、飲んでみないとわからないじゃないですか。あ、これは煮出せばいいんでしょうか」 「あぁ、そうだ。軽く洗ってからぁ、煮ればいい。かかおのほうは、からをむいて、細かく挽いてから、乳で煮込んでもうまいぞぉ」 「ええと、その。半分でいいんで、小銅貨を、そうですね、四枚でいいです。返してください」 「ああ、もう、わかった、がんこな子だ。ほら、つりだよ」 小さな銅貨を受け取って、ひと安心と思いきや。 よく見れば、普段使っている銅貨と種類が違う。 多く流通している、聖王国銅貨ではなく、旧帝国銅貨だ。 「まってください。これは旧帝国銅貨ですよね。たしか大きさと重さの違いから、聖王国銅貨の半分程度の価値しかなかったはずです。この銅貨なら、あと四枚おつりが必要です」 「ああ、そうなんだなぁ。おじさんぜんぜん知らなかったよぅ」 そして、旧帝国通貨をさらに四枚もらう。 「で、では」 「ああ、ご主人によろしくたのむよぅ」 フェルはそそくさと立ち去った。 一息ついて、空を見上げる。 「なんか、疲れた」 ぷらぷらと歩いて、次に声をかけたのは、陽気なおばさんが営む露天であった。 「こんにちわー」 「はいこんにちは!」 並んでいる品物は、麦のつまった荷袋や、まだ青い果物たち。おそらく近くの村に住んでいる人なのだろうとフェルは見当をつけた。 「おいしそうな梨です」 「ふふん、一個なら小銅貨一枚、ざるなら大銅貨一枚さ。もうしばらく置いておいたほうが、甘くなっておいしいよ」 「うーん」 フェルは気分屋の主人のことを頭に浮かべた。とくべつ食べられないものがあったようには思わないが、好んで食べるものというものも、なかなか思いつかない。甘いものも、辛いものも、酸っぱいものもふつうに食べる。 梨、ぶどう、木いちご。ここに並んでいる品物の、どれを気にいるだろうか。 「ええと、どれが一番おいしいです?」 「おや、おもしろいことをいうねえ、坊や」 陽気なおばさんは、あっはっはと声をあげて笑った。 「なにがおいしいかだなんて、人によって違うだろう? 坊やはなにが食べたいんだい」 「どれもおいしそうだし、悩んじゃいます」 旅を続ける生活なので、保存のことが第一に浮かぶ。ぶどうや木いちごなどは、やわらかいので生のままでは大変だろう。干しぶどうや干しいちじくなどなら、旅のあいだもよく食べる。そういえば、干し木いちごというものはあまり聞かない。大抵は砂糖煮、蜜煮込みにされて、ガラスの瓶につめこまれる。少し焼いたパンに、砂糖煮を塗って食べるのもいいかもしれない。 そうして悩んでいるフェルが、ますます屈んでしまい、襟から胸元が露出した。 陽気なおばさんが、ぎょっとして、笑顔が崩れる。 この犬耳の少年の胸元から、おぞましい入れ墨が見えたからだ。 「ぼ、坊や。その、胸のやつ」 「え、ああ。これは魔術紋らしいです。ぼくもよく知らないんですけど」 そうして襟に指をかけたフェルが、ぐっと布をひっぱる。およそ服で隠れていた部分のすべてに、紋様が刻まれていた。 露天を営むこの中年女性も、うわさ程度のことなら聞いたことがある。 奴隷にされたものに、刻まれる魔術があると。 魔術紋、いや奴隷紋といったほうが有名だ。 奴隷の力を削いだり、意のままに操ってしまったり、痛みなどを与えてしまったりする、隷属の証。 しかし、それらは非常に高度な魔術であり、定期的な点検と、膨大な魔力、高価な触媒などが必要とされるらしい。 ゆえに、陽気であったおばさんがおどろいてしまった。 めずらしいといえばめずらしいが、ただのごく普通の獣人の少年。その少年に注がれている労力。それがすさまじい。魔術のことなどよく知らない中年女性でさえも、察することができる程度には、莫大な手間がかかっているはずだ。 この犬耳の少年はいったい何者なのか。中年女性は、背筋が凍る思いをする。 「うん、やっぱり木いちご。木いちごにしよう」 むふふ、と笑うフェル。実に無邪気なものである。 ここで中年の女性は、はっとなった。 こんな子が、これほどあやしげな術を使われるわけがない。なるほど、この子の主人のはったりか。 思えば、魔術紋にしては、あまりに書き込みがすぎる。うそとほらを吹くのが仕事の旅芸人の演劇でさえ、これほどのものはない。 すっかり理解をした中年女性は、もともとの陽気さを取り戻す。 「よーし木いちごか。これはちょうど食べ頃だから、おやつにいいと思うよ」 「そうします」 フェルは銅貨を支払い、木いちごを受け取った。 「それにしても、坊やのご主人さまってのは、どんな人なんだい? 一応、大切にされているようにも思えるけど、なんというかちぐはぐだね」 「えー、うーん、どうだろ、よくわからないです」 「着ているものは悪くない、肌つやもいい。こうして買い物できるくらいには、自由にさせてもらっているのに、その魔術紋だからねぇ」 「ああ、ご主人さまは魔術師でもあるので、自分でできるみたいです」 「はああ、いやぁ、それにしてもねえ。なにか、ひどい目にあったり、されてはいないのかい。食事はもらってるのかな」 「ときどき、変なことはされるかもです」 「え、変って」 「ええと、足をなめろ、とか」 陽気なおばさんは、しわがれた老人が少年に足をさし出す光景を思い浮かべた。 全身を鳥肌が覆う。なんというおぞましい趣味なのか。同性同士、しかもこのような無垢な少年に、倒錯的な行為を強いるなど、とうてい許されることではない。 しかしこの少年は奴隷で、逆らうことは許されない。 少年の運命の過酷さに、心の中で涙をほろりと流すおばさん。 「坊や、大変な主人をもってしまったね。わたしにはなにもできないけれど、そうだ、これをおまけにあげよう」 陽気なおばさんは、裏からひとつのざるを取り出した。 「わ、これ、さくらんぼですね」 「あとでわたしが食べようと思ってたんだけどね、坊やに少しあげよう」 フェルは受け取ったさくらんぼを口に入れる。 酸っぱく、さわやかで、じんわりと甘い。噛みついた瞬間に、皮がぷつっと切れる食感も、気持ちがよかった。種のまわりの果肉も残さずなめとって、房ごと種をとりだした。 「ごちそうさまでした。ここの市場、変なひとばっかりじゃないんですね」 「え?」 「さっき、香辛料を買ったお店が変わってて、ちょぴっと疲れたんです」 すっかりこの少年の味方になったおばさんは、義憤に駆り立てられるようだ。 「どこがへんだったんだい?」 「なにか、聞いたことも、見たこともないような香辛料を売ってたので、最初は詐欺かなにかなのかな、なんて思ってました」 「そいつはあやしいね。どうせ、ここらの地元のやつじゃないだろう」 「ぼくも、そのおじさんのこと、地元のひとには見えませんでした。遠くの海からなんとかとか」 「ああ、詐欺師の常套句じゃないか。遠くからきたので、常識がよくわからないんだ、とごまかすのさ」 「じゃあ、おつりを間違えたのも、そうだったんでしょうか」 「ええ?」 「ええと、聖王国銅貨ではなく、旧帝国銅貨を渡されて。これじゃ足りないですよ、っていったら、ちゃんとおつりをくれたんですけど」 「なんだいなんだい、とんでもないやつだね。役人さんに報告して、しょっぴいてもらわないと」 ふんすふんす、と鼻息を荒らくするおばさん。 「では、どうもでした。帰ります」 「ああ、帰り道には気をつけるんだよ」 フェルは知らない。 このあと、市場ではひと騒動が起きることを。 5 おやつを食べるのにちょうどいい頃合いに、犬耳ぴこぴこ少年のフェルが宿に帰ってきた。 部屋に戻れば、しっかりとローブを着たフレイが、椅子に座ってうんうんとうなっている。 卓の上には盤面と、駒。 いわゆる盤上遊戯、通称、合戦と呼ばれている、疑似戦の遊びだ。 「ご主人さまってほんと多趣味です」 「失礼な。仕事でもあるぞ」 「賭場でひとからお金をまきあげることは、仕事とはいわないと思います」 フェルは荷物をおろし、手早く茶を用意する。さっそく市場で買ってきた、めずらしいお茶を淹れてみた。とうもろこし、と呼ばれる植物の、ひげの茶。一応、味見をしてみたが、香ばしくて甘い匂いがとてもいい。 「ほう、めずらしいものを淹れたな。とうもろこしか」 「え、ご主人さま、知ってるんです?」 「もちろん。わたしに知らぬことなど、なにひとつとてない」 フェルは、筒状の、湯呑みと呼ばれる遠い東の国の茶器に、とぼとぼと茶をそそぐ。 フレイはなんのためらいもなく、それを口にした。 「いい茶だ。薬効がありそうだ」 「はあ、あのおじさん、うそつきじゃなかったんだ」 「これはずいぶんと値段がはったろう。銀貨で買えたのか?」 「え」 銀貨。最低でも銀貨。 フレイの口振りだと、それが当然といった雰囲気だ。 まさか大銅貨、しかもそれを値切っておつりまで要求したとは、フェルの口からはいえない。 「ええと、木いちご、買ってきたんで、どうぞ」 「ん、ああ」 フレイはとくに話を掘り下げることもなく、木いちごを食べる。 盤上遊戯、合戦。それのひとり遊びを、フレイは続けている。ひとり二役とは器用だなぁ、なんてフェルは思いながら、眺めている。 合戦は、いくつかの決められた駒を、自分の陣地に配置して、相手と交互に駒を動かして戦う遊びだ。陣の配置の仕方、優先されるべき動き、そういった定跡を覚えれば、八割は勝てる。などとフレイはいう。しかしフェルはフレイに勝ったことがない。フレイはその勝てない二割に入るらしい。 「少し飽きたな。相手をしろ」 「はぁい。ぼくが勝ったら」 「晩餐の肉を倍にしてやる。引き分けでもいいぞ」 「よし!」 まずば盤面をきれいにして、通常兵科、槍兵、大盾兵、長剣兵、弓兵、散兵、軽騎兵、重騎兵、弓騎兵、親衛隊と司令官の駒を均等にわける。遊戯の規則は場所によって少し違っていたりするので、ここに特殊な駒が増えていたりすることもある。弩砲や投石器などである。 今回はいちばん単純な規則ではじめることにした。基本兵科のみである。 まずは自陣に駒を交互に配置していく。フェルはごくふつうの基本的な陣形。左翼、右翼を均等に、中央は厚めにして、遊軍としての騎兵たちを置く。この型は大抵の戦術と戦える万能なものだ。 一方、フレイは中央の厚みをよりもたせた、極端な配置をしている。これでは左右の陣形がすぐに崩壊して、包囲殲滅をされてしまうだろう。中央突破を狙っているのだろうか。 「くくく。ではどうぞ」 「はーい」 まずは順当に、軽く前線をぶつける。お互いに様子見の一手が続いた。 フレイの狙いがわからないので、攻め方を悩んでしまうフェル。 しかし、当初のフェルの予想通り、フレイの左右の陣形が乱れはじめた。 包囲をはじめた瞬間、正面の圧力を高めて、一気に突破、司令官をとるつもり。そのようにしか見えない。たしかにいまの状況だと、ぎりぎりでこちらの司令官に届きそうだ。 先に遊軍を動かすのは、定跡からははずれる。しかしそれには例外があり、最後の最後まで手を読んで、勝てる状況が作れるのならば、その限りではない。いまがそのときであるように思えた。 フェルは遊軍の駒を使って果敢に攻め立てる。一手一手を慎重に、しかし圧力を減らさないようにして。 だが、フレイの用兵は巧みであった。全体としてはフェルの陣営が押しているが、局地戦において有利に進め、ぎりぎりのところで均衡を保たれている。 あと一手、あと一歩を押し切れば勝てそうなのに、それができない。 フェルは、虎の子の駒、親衛隊までも投入して、全力攻撃をした。 「ふふん。それは悪手だな」 なんと、広がった戦線の隙間をぬって、フレイの弓騎兵の駒が駆け上がってきた。 「一手で逆転だ」 いうとおり、形勢がものの一手で逆転してしまった。 「むむむ」 あと一歩、こちらが早ければ、あと一手、あちらが遅ければ、勝てる。 しかし、そのひとつが足りない、絶妙な弓騎兵の位置。 「あああー、あー、負けました」 勝てそうで勝てない。一番くやしい負け方である。 「親衛隊は慎重に使うべきだったな。だがまあ、試合の時間が伸びただけで、お前に勝ちは拾えなかっただろう」 「なんかこんな手品みたいなので負けるなんてぇ」 「ふふん。そこが、八割のやつと、十割勝てるやつの違いなのさ」 フレイは高らかに笑いながら、フェルの司令官の駒を指で倒す。ことんと音をたてた。 「だが、まあ、悪くはなかった。倍ほどは増やさないが、少しは盛ってやろう」 「わ、ほんとですか!」 「ああ、ほんとうだ。だが、その前に」 喜ぶフェルの前に、フレイが立つ。そして、むんずと手首を掴んだ。 「少し爪が伸びでいるな。試合中に気になった」 「あ、ほんとだ」 フレイはフェルをひきずって、寝台にほうり投げた。 「きゃあ」 「なあに、天井のしみを数えているあいだにおわるさ」 フレイが荷物から取り出したのは、鍛冶職人に特注で作らせた、爪切り用のはさみである。 先端がわずかに湾曲していて、爪の曲線にそった剪定ができる特別製だ。 フレイも寝台の上にあがり、腰をかける。そしてフェルをひざの上にのせた。 「あの、いつも不思議に思ってたんですけど」 「なんだ」 「どうして、わざわざひざにのせて、爪を切るんでしょう」 「そんなのは簡単だ。切りやすいからだ」 フレイは、フェルを抱き抱えるようにして身体をささえ、指の一本一本から、丁寧に爪を切っていく。 「ぼく、自分でできますけど」 「奴隷に刃物をもたせるなど、おそろしくて、とてもとても」 そうして爪を切りおえた。 最後には、爪切りはさみについている、目の細かいやすりで、簡単に爪を整える。 フレイは満足そうに、ふう、と息をつく。 「うむ、いい出来だ」 「ご主人さま、ぼくを人形かなにかと間違えているんじゃ」 「奴隷なんて人形と似たようなものだろ、ほら」 なんと、フレイはフェルの服を脱がしはじめる。 まるで暴漢に襲われた乙女のように、フェルはひんむかれてしまった。 「うわあ」 「点検をする。背中を見せろ」 「あ、ああ、そういう」 フェルはおとなしく背中をむけ、じっとした。 背中の一面は、おびただしいほどの書き込みをされた、幾何学模様の魔術紋が描かれていた。 「ふむ。問題はなさそうだな。そろそろ解放してやらねばと思っていたのだが」 「ええと、ご主人さま」 「まあ、問題がないのなら、かまうまいか」 「ええと、ええと!」 「なんだ」 「くすぐったいです」 フレイは、ふれるかふれないかの感覚で、フェルの背中をなぞっていた。 「ほお、奴隷が主人に口ごたえか」 「そういうわけじゃないんですけど、ひゃ」 フェルの背中では、フレイの舌がはっていた。紋様をなぞるように、ちろちろと舌先を動かして、なめあげる。そして首筋にまで届くと、軽く噛みついた。 「ふふん。そういえば、噛みつかれたなと思ってな。返してやらねば不公平だ」 「ううう」 首筋をすするくちびるだけではない。ほっそりとした指先が、脇腹を、耳を、そっとなでている。 「くくく。足でもなめてやろうか」 「いやいいです。ぼくはそんな趣味ないです」 「ふん。お前には開拓者の精神が足りていないな」 ひととおりからかったあとで、フレイはフェルを解放した。 「そろそろ食事とするか。服を着ろ」 「はぁい」 食事はフレイのいうとおり、ほんのちょぴっと、肉が増えた。 なお、翌日。かかおととうもろこしの確保をまかされたフェルは、市場の騒動を聞くことになる。 悪くなくても牢にぶちこまれることもあるのだと、世の中の理不尽を悲しんだ。 6 「腐竜だと」 数日後、駅馬車協会へと立ち寄ったフレイは、受付嬢からなんとも奇妙な話を聞かされる。 「ええ、この町からほど近い沼地があるんですけど、そこで腐竜を見かけたという方がいて」 「距離は」 「朝から出発すれば、昼過ぎくらいには到着できると思います」 「近いな」 腐竜。それは、沼地や湿地を好む、大型の魔獣の名前であった。 竜と名のつくとおりに、巨大な身体に強靭な牙、鉄の刃すら弾く鱗で全身をかためている。 協会の基準でいえば、最低でも、銀級の冒険者が複数必要になる、討伐依頼だ。 「竜種の中でも、腐竜はおとなしく、あまり動かないことが多いので、緊急の依頼はしない方針です。しかし、竜種が住み着いたことを不安に思う人たちも多いので、なんとも困りました」 「退治してしまっても、かまわないのか?」 ごくあっさりいってのけるフレイ。 受付嬢は、目をぱちくりとさせる。 「え、でも、竜ですよ」 「あんなものはでかいとかげとそう変わらん。協会も素材がほしいのではないか」 「えっと、その、ちょっと待っててください。上に相談してきます」 「まあ、当然。こうなるな。協会は金の亡者なのだから」 「だいじょうぶなんです?」 数日後、フレイへの個人依頼として、腐竜の討伐が願われる。フレイの予想通りであった。 そうしていまは、犬耳をぴこぴこ動かすフェルを荷物持ちに、森を歩いていた。 フレイは、大きめの外套に、無手。腰には護身用の短剣などをさしているが、これが使われることはほぼない。フェルは、自分よりも大きな荷物を背負って、てくてくと歩いている。 用心などまるでない、堂々とした足取りで獣道を進むフレイ。長靴で枝を踏みぬいて、大きな音をたてても、気にする様子はなかった。 「ええと、この森を抜けると、沼地らしいです。沼地についたら、ぐるりとまわりを歩いてみるんでしたっけ」 「ああ、そうだ。いなければよし。いたら殺す」 「乱暴だなぁ」 風が吹き、森が鳴く。野鳥のさえずりや、木漏れ日は、まるで遠足を行っているかのような心地よい空気を形作る。 だが、人の領域の外は、なべて魔物や魔獣の領域。虎視眈々と、やわらかな肉を狙う狩人たちの巣なのだ。 「ご主人さま。たしかここらへん、小鬼が出るそうですよ」 「ああ、あと豚野郎も出るそうだな」 「いくらなんでも不用心すぎます」 「ふむ。まあ、そろそろ下拵えだけでもしておくか」 フレイは指先から青白く光る玉を作り出す。ひとつ、二つ、三つ。少しずつ増えていったそれらの数は、数十個。まるで鬼火のように、フレイの頭上に浮かんでいた。 そうして歩き続けたところ、襲撃。 フレイのひたいに向け、粗末な矢がまっすぐと飛んでいく。 フレイの身にふれる瞬間、金属同士をぶつけたような音を立て、矢は地面に落ちた。 「あいかわらず便利ですね。ご主人さまの魔術具」 物理障壁のお守りである。魔力をためた魔石を使い、一定以上の衝撃をはじく道具だ。 一度使えば魔石が割れて壊れてしまうが、フレイはこのお守りを自作できる。本来は高級品であるはずの魔術具が、湯水のように使われた。 「正面、木の上か」 フレイの頭上に浮かんだ光の玉が、鋭い光の矢となって、正面一帯を攻撃する。 なんてことはない、初級の魔術である魔力の矢(マジックアロー)である。 しかしそれが、尋常ではない威力を発揮する。小鬼は原型を留めることなく、ずたぼろになってしまった。それも当然で、フレイの魔術により、小鬼周辺の樹木すら破壊されるほどの、広い攻撃だからだ。 「防御はお守りで、攻撃は面を意識して。合戦の遊びだとあんなに細かいのに、なんで実践だとこんなにおおざっぱなんです?」 「簡単なことだ。合戦では手駒が限られているが、いまはそうではない」 これほど実力差があれば、緊張感など生まれようもない。フレイは同じ方法で、襲いかかってきた魔物や魔獣を退治していった。 「ほう」 そろそろ森を抜けられる頃合いに、相手は出てきた。 フレイが豚野郎といっていた魔物、豚男である。 背丈は人よりも一回りほど大きい。横幅は豚のようにがっしりとしている。なにより特徴的なのはその顔、豚そのものである。 ふごふごと鼻息を荒くする豚男は棍棒を振り回していた。 「あいつはかたいからな。十、二十、それとも、百か」 フレイの頭上に浮かぶ光の玉が、次々に分裂し、およそ数百ほどになる。 眩い光を放ち、それらは豚男へと飛んでいった。 初級の、ごく弱い魔術であっても、そのおびただしいほどの数は非常に暴力的。 木々や地面をえぐりとったそこには、ぼろぼろの豚男が立っていた。 あわれな豚男は、怯えた様子で、足をひきずりながら、立ち去ろうとする。 「ほんとうに、頑丈なやつだな。どれ、ではこれならば、どうだ」 両手を前に突き出したフレイ。すると、渦をまく光の奔流が収束し、輝きを発するようになる。 「浄化してやろう。光の衝撃(エーテルストライク)」 音速を越え、空気の壁を貫いた光球が、豚男へ直撃する。瞬間、閃光があたり一面を埋め尽す。 豚男の存在を示すものは、なにも残らない。 「なんというか、ご主人さま、反則です」 「規則そのものがないのだから、反則もなにもないだろう」 「まあ、そうなんですけど。はあ」 7 森を抜け、沼地に辿り着くと、そこには腐竜がたしかにいた。 沼に身体を沈め、ゆっくりと呼吸をする竜。大きさを語るには、並の魔物では事足らない。三階建の建物を上回るほどの巨体だ。 だが、そんなことはささいなことであった。 腐竜の頭にねそべっている女と比べれば。 「遅かったじゃないの、フレイ。待ちくたびれちゃったわ」 仕立てはよいが、ごく普通の魔術師が身につけるローブ姿。しかし肌色はあまりに青白く、その黒髪は闇をとかしたかのよう。生き物がもつ生命力をまったくかんじられなかった。 「イセリア」 「ちゃんと、神狼(フェンリル)も連れて来たのね。ああ、うらやましいわ」 「イセリア! お前はまだ、諦めていなかったのか!」 フレイはフェルを隠すように、イセリアと呼ばれた女から、立ち位置を変える。 「なによ、フレイばっかりずるいわ。一緒に研究して、立ち上げたものじゃない。人造神化計画」 「黙れ!」 「そして、わたしが追放されたあと、あなたはひとりで完成品を作り上げちゃって。ねえ、どうやって完全に制御化においているの?」 「神々はとうの昔に果てた。甦らそう、成り代わろうなどと、考えるべきではなかった」 「いいなぁ、いいなぁ、ほしいなぁ、その子。ねえちょうだい、フレイ」 おかしい。昔から頭のゆるい部分があった。だが、少なくとも、会話はできた、理解はできた。 いや、そもそも、あの肌色はなんだ。 フレイはひとつの閃きによって、答えを導き出す。 「イセリア、まさか」 「ああ、やっぱり、フレイにはわかる?」 「不死者か」 「そう、そうなの。やっぱりフレイはいいなぁ。ねえ、昔みたいに、また一緒に」 「イセリア」 「神々と不死者の共通点を見つけたときは、うれしかったなぁ。どちらも霊体で構成されてて、この地で過ごすためには、物体を必要とする。なら、不死者と神々の違いはなんだろう。ねえ、フレイ、わかる?」 「イセリア、聞け」 フレイはフェルをそっと抱き寄せて、頭をなでる。 フェルは話についていけず、ただただ困惑していたところだ。 とりあえず、指示に従い、荷物をおろし、上の服を脱いだ。 「イセリア、見ろ」 「わあ、すごい魔術式ね。並列多重構造に、回路を重ねて強度を増しているのね。フレイはすごいなぁ」 「これでも、不完全だ。いや、おそらく、完全なものなどありはしない。神々はわたしたちの手におえるものではない。ただの知的好奇心で踏み込むべきものではなかったのだ」 「いやよ。わたしは死にたくない。知らないことがあるままに、死にたくないって、フレイもいってたじゃない」 「かつて、たしかにわたしはそういったかもしれない。だから撤回する。生き物は死ぬものだ」 「そう。そんなこというの。わたしに死ねっていうんだ」 「そうだ。一緒に死んでやる。同じ罪だ。わたしたちが何人も殺したんだ」 「どうせ奴隷の子だったじゃない」 「いけない。いけないことだったんだ」 もらすように口にした言葉。それはあまりに小さく、誰の耳にも届かないかと思われた。 だが、間近にいたフェルには聞こえていたし、人外に果てたイセリアにも聞こえていた。 「平行線ね。わたしはずっと生きて、誰もを犠牲にして、なにもかもを知るわ」 「だめだ」 「やるの、決めたの。だから、止めてみせて」 イセリアが胸に手をあてる。すると、眩い光が迸り。 光が収まったときには、鎧姿となっていた。 胸当て、小手、額あて。左右に浮かぶは漆黒の浮遊盾。 ドレスのような鎧下が、ひらひらと舞い。 魔力が背中から吹き出し、羽根の形を作っていた。 それはまぎれもない、唯一無二の神具(アーティファクト) 「戦乙女の聖鎧」 「そう、わたしは選定者になるの。死者の魂を拾って救って、わたしの役にたってもらう」 「そうか」 「そう。だから、死んで、わたしに使われてね」 それはいにしえの光景。神々の時代のものだ。 強力な原始魔術により、イセリアが手をふれば、巨大な鎌が収まった。 腐竜を従え、命を選び、刈り取るもの。 「じゃあね」 イセリアがフレイに鎌を向けると、腐竜が咆哮をあげる。 フレイは諦めた。かつての友は冥府へと旅立ってしまったのだと。 そして決意した。意地を通すことを。 フレイは胸に手をあて、魔力を流す。するとフレイの身体が光につつまれ。 イセリアの鎧姿と鏡映しにしたような、格好。 それは唯一無二の神具。否。 かつてはひとつであり、そして三つに分かれてしまった神具。 「あら、フレイも戦乙女の聖鎧を」 「止める。全力で」 「うふふ、それも楽しそうね」 このあとふたりは大魔法合戦どーん 互角だよ勝負つかないよやべーよー やべ死体ばばあに犬耳ショタひとじちにとられた~ ショタ「へーんしん、とう! 神狼フェンリルさま爆誕や!」 死体ババア瞬殺やったね! 変態お姉さんさんぼこぼこにされるもなんとかショタを再封印。 ぼろぼろショタとお姉さん。ショタをひざまくらにしつつ。 お姉さん「ごめんね」 ショタ「ええんやで」 の精神でありがとうございます堂々完結です!!! |
etunama 2018年04月29日 23時57分29秒 公開 ■この作品の著作権は etunama さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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