反町返子は反逆する |
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宿題を忘れた。 今年の四月に高校生になったばかりの私こと、反町返子(そりまちかえこ)にとっては最悪の状況だ。なぜなら、高校生になってから約一ヶ月が過ぎようとしているこの時期に、ゴールデンウィークを目前に控え、高校生たちが浮き足立っているこの状況に悪目立ちをするということは、私の今後の学校生活に関わる一大事なのだから。 つまりは、目立ちたくないのだ。 昼休みが終わり、五時限目の数学の授業、私の出席番号は五番。宿題の提出は出席番号順だ。グズグズしていれば、すぐにでも私の順番が回ってくる。私は隣の席にいる親友、深川優子(ふかわゆうこ)に助けを求めた。 「ゆっこ、私やばい」 「どうしたの? かっこちゃん」 私の切羽詰まった表情に、何かを察してくれたのか、深川優子ことゆっこが心配そうな顔をして私の方へ向き直る。ゆるふわおっとり系美人女子高生のゆっこは、少々天然気味で、よく何もないところで躓いたりすることがあるが、今はそんなことはどうでもいい。さっそく宿題を写させてもらおう。 「宿題忘れた!」 「えぇ!?」 「ノート写させて! 次の数学の授業まであと五分だから! 数学の宿題忘れちゃったから!」 「わ、わかった」 ゆっこは困り顔で自分の鞄の中身を探る。ゆっこ、早くしてくれ授業が始まるまであと四分しかないぞ。ゆっこはしばらく鞄を探る動作をしたあと、ピタリとその動きを止めた。そして真顔でゆっくりとこちらに顔を向け、一言。 「ノート、忘れちゃった」 と掠れた声で吐き出すように言った。 お前もかよ! と心の中でつっこんだ。無慈悲に教室内に鳴り響くチャイム。手遅れとはまさにこの事よ。アディオス! 私の学校生活! と、簡単に終わらないのが人生というものだ。なぜなら、まだ私にはとっておきの秘策がある。この追い詰められた状況を『逆転』する、唯一私にしか出来ない、たった一つの方法が。そう、教室内で宿題を忘れたと怒られ、クラスメイトに笑われるこの運命を、この状況を『逆転』させてみせる。 ガラガラと音を立てて教室のドアが開いた。そこには強面の教師、数学の鬼の異名を持つ木戸哲(きどあきら)の姿が。私は恐怖し、身を震わせた。 「それでは授業を始めるがその前に、この前出しておいた課題を提出するように。では、出席番号順から来てくれ」 ついにこの時が来てしまった......! クラスメイトは順番に宿題を出していき、あっという間に五番目、私の番だ。 「出席番号五番、反町」 私の名前が呼ばれた。緊張でお腹の奥がぎゅるぎゅると悲鳴をあげる。勇気を振り絞るのだ。『アレ』をやるのだ! しかし、『アレ』はこの状況を逆転できるとはいえ、同時に身を滅ぼす諸刃の剣。クラスメイトの目の前で宿題を忘れたと怒られ、晒し者になるのか。それとも、『別の意味』でクラスメイトからの晒し者になるのか。どちらにしろ、晒し者になる運命に変わりないのなら、私は......! 「おい、何をしている反町。早く課題を提出しろ」 もはや迷っている時間は無い! 最初から、私の取るべき選択肢は決まっている。 私はおもむろに席を立ち、教壇まで歩いて行った。そして、私はノートを提出する代わりに木戸の目の前に立ち、くるりと体を百八十度回転させる。木戸と私の間には、ひと一人分の空間を空けた。これは、次に私が行う『アレ』の為に必要不可欠な条件だ。 覚悟は決めた。あとはそう、私が実行するのみだ。ゴクリと覚悟の唾を飲み、ダラダラと額から流れる汗を右手で拭うと、私は思いっきり背中を反らしブリッジをした。 「ほぁぁぁぁぁぁ!」 私が気合いの雄叫びを上げると、教室内に微妙な空気と沈黙が漂う。 「え......」 あの強面で、数学の鬼と有名な木戸からは想像も出来ないほど気の抜けた声が教室内に木霊すると、教室内の空気が次第に凍りついていった。 「おい、一体どういうつもりだ!」 突然、私が行った奇行に木戸は怪訝な表情をする。と同時に、教室内を満たしている凍りついた空気を、叩き割るかのように、突然校内放送が流れた。 「木戸先生、至急職員室までお願いします。繰り返します......」 女性の声だ。多分、英語教師の奈良浅見(ならあさみ)先生だろう。それにしても、声をうわずらせながら慌てて放送をしている。これは一大事に違いない。 「一体なんなんだ......とにかく、私が戻るまで自習しておくように!」 そう言いつつ、目の前でブリッジしたままの私を一瞥しつつ躱しながら、教室を後にする木戸。それを尻目に床に崩れ落ちる私。羞恥心と、成し遂げた達成感と筋肉疲労で体がプルプルと震える。しかし、最悪の状況は回避できた。私はこの追い詰められた状況を『逆転』したのだ! しかし、そんな私を嘲笑するかのように、突然一人の男の声が教室に響きわたる。 「で、でたー! おかっぱのブリッジだぁー!」 アホ顔で私のことを指差し、ニヤケながら叫んでいるのは私の幼馴染、阿形羽賀男(あがたはがお)だ。こいつのせいで余計クラスがザワつき出している。私は心の中でバカオに文句を言いながら、睨みつけた。私はこいつのことをバカオと呼んでいる。あだ名の由来は、言いやすいしバカオの性格を表すのにぴったりの愛称だからだ。 結局、あれから教室に木戸が戻ってくることは無く、宿題の提出は次の数学の授業まで延期になった。噂では、別れたはずの浮気相手が学校まで乗り込んで来たらしいけど......真相は神のみぞ知る。 「かっこちゃんありがとう! 私もかっこちゃんと一緒に怒られちゃうってビクビクしてたけど、かっこちゃんのお陰で助かっちゃったよ!」 「おかげで私はクラスの晒し者になったわ」 私が自嘲気味にそう言うと、ゆっこは私をなぐさめるかのように首を横に振り『そんなことないよ』と言った。下校時間、私はいつもゆっこと一緒に途中まで帰る。毎日変わらない私の日課の一つだ。 私には特別な能力がある。それはなんと言うか、言葉で説明するのは難しいのだけれど、かいつまんで説明すると、私にはピンチな状況を『逆転』することのできる力があるのだ。名付けて、ハンドメイド逆転。略して反逆(はんぎゃく)と呼んでいる。例として上げるなら、木戸に起こったあの出来事だろう。 しかし、この能力には大きな欠点が一つある。それは、この力を発動させるためには、とある行動をとらなければならないという事。 とある行動とは、そうブリッジだ。状況によっては、大勢の人の前でブリッジをしなければならない。それが私の羞恥心をゴリゴリとえぐる。 私の特別な能力を知っているのは、この世界にたった二人。バカオとゆっこだけ。二人とも小学生の頃からの幼馴染で親友。さまざまなピンチを私の能力で切り抜けつつ、私も二人に助けられつつの関係なのだ。 「よう、おかっぱ! 久しぶりにお前のブリッジ見たけどやっぱ最高だわ」 不意に後ろから声をかけられる。坊主で筋肉バカで、やけに暑苦しく自己主張の激しい顔をした、色黒のこの男はバカオだ。幼馴染で近所に住んでいるのだから、帰る道は同じとはいえ、今日はこいつと一緒に帰る気分にはなれないのだけれど。私はため息をつきながら振り返り、悪態をつくかのように返事をした。 「なんだ......バカオか」 「バカオじゃねぇよおかっぱ! おれは羽賀男だって言ってるだろ!」 バカオは私の髪型を私のあだ名として呼んでいる。不本意だけれど、言っても聞かないし本人は呼び慣れているみたいなので、私のあだ名を改めさせる事は諦めることにした。私も、こいつのことをバカオとあだ名をつけて呼んでいるので、おあいこか。 「うるさい、あんたのせいで私は余計な恥をかいた。罰として、アイスおごれ」 「はぁ!?」 バカオは納得がいかないという表情をしているが、今日起きたことを鑑みれば私の主張がいかに正しいことかはすぐにでもわかるはずだ。私は強引にバカオとゆっこを引っ張って、駅前のコンビニに連れてゆく。散々文句を言っていたバカオは、私の抗議についに根負けし、私とゆっこにアイスを奢ったのだった。 「ん? あれ、松坂先輩か」 三人揃ってコンビニから出てきたところを、不意にバカオが目の前の方を指差し、呟いた。それに私とゆっこも反応し、目の前の横断歩道を見る。あれは一年上の先輩松坂桃李(まつざかとうり)だ。丁度こちらに向かって歩いてきている。 バカオの言葉に松坂先輩に気付いたゆっこは、棒アイスを食べるのを急にやめ、顔を背けて私の背後にそそくさと隠れた。 「やぁ、君たち同じ高校だよね?」 「あ、どうも一年後輩の阿形羽賀男っす」 バカオが軽く挨拶すると、松坂先輩も軽く会釈し笑顔を返す。 「隣の君は......ん?」 私が挨拶しようとしたところで、松坂先輩は後ろに隠れているゆっこに気が付いたようで、急に私の方から視線を外しゆっこの方へ駆け寄ってきた。 「優子? あはは優子じゃないか! 久しぶり、元気だったか?」 嬉しそうにゆっこに話しかける松坂先輩。小学生の時からの友達であるゆっこに、一つ上の知り合いがいたなんて初耳だ。しかし、嬉しそうな松坂先輩とは対照的に、ゆっこの様子はさっきからずっと暗い。観念したかのようなそぶりで、いそいそと私の背後から出ると作り笑いを浮かべながら返事をした。 「はい、お久しぶりです先輩」 松坂先輩は爽やかな笑顔とは対照的に、興奮を隠しきれないかのように声を震わせながら、ゆっこに向かって言った。 「びっくりしたよ。君も同じ高校に進学していたなんてな。あとでゆっくり話そうじゃないか、二人っきりで」 「すみません、今日は......約束がありますので」 ゆっこはそう言うと私とバカオの手を強引に引っ張りながら、逃げるようにその場を後にする。振り返った私の目には、松坂先輩がこちらをじっと見つめる姿が映り、妙な胸騒ぎを覚えた。 それからすぐに、私は知ることになる。松坂先輩のとある噂について。 「松坂先輩について?」 翌日の昼休み、私はバカオに松坂先輩のことについて尋ねることにした。昨日松坂先輩と会った時、知り合いのように話していたのは、ゆっこだけじゃない。まず初めに松坂先輩を見つけたのは、バカオだ。全くの初対面ならそれはありえない。 でも正直、うちの高校に通っている生徒で、松坂桃李のことを知らない人はほとんどいないだろう。全く男っ気もなく、地味な高校生活を送っていた私だって名前を知っているくらいだ。なぜ、それだけ有名なのかというと、彼は間違いなく学校内で一番のイケメンだからだ。噂ではモデルの仕事もしているらしい。シュッとした細身の体型に、ハーフを思わせるような彫りの深い顔立ち、そして乙女心をくすぐるあの笑顔、さらには運動神経抜群で、学業も優秀。おまけに実家は金持ちで、女性関係の噂は絶えないらしい。 が、しかしまさかあの松坂桃李とゆっこが知り合いで、しかもただならぬ関係を思わせるような雰囲気を漂わせているなんて。 でも一つ疑問がある。ゆっこの松坂桃李に対する行動は、むしろ彼を遠ざけようとしているかのように思えるほどに、素っ気無いからだ。私はそれが気になって仕方がない。 「どうして俺に松坂先輩のことを聞くんだよ?」 「あんた、何か知ってそうだから」 「決めつけかよ! ん~まぁ知っているかと言われれば、知ってるぜ」 「知ってること、聞かせて」 「なんだよ藪から棒に。でもま、この学校に入学して松坂先輩のことを知らない奴の方が、珍しいと思うけどな」 バカオはそう言いながら、松坂桃李のとある噂について話し始めた。 「あの人、小学生の頃からトランペットやってて、ここじゃ、吹奏楽部に入ってるみたいなんだけどさ」 私は、へぇと相槌を打つ。まさかあの松坂桃李が吹奏楽部に入部していたなんて。私の思っていた松坂桃李へのイメージとは違ったので、少し驚いた。私としては、サッカー部や野球、テニス部なんかに入りそうだなと思っていたので、意外だったのだ。だいたいモテる男子という奴は、決まってそういう部活をしているイメージがある。 「実はその吹奏楽の部長、三年の福原美野里(ふくはらみのり)と付き合ってるってもっぱらの噂よ」 「へぇ、そうなんだ」 ゆっこに関しての噂ではなかったことに安堵し、ホッと胸をなでおろす。しかし、それがバカオにとって少々気に食わなかったみたいだ。バカオはもっと私に驚いてほしかったようで、少しむっとした表情で付け加えるように言った。 「それだけじゃねぇんだ! 実は、あの松坂先輩は吹奏楽部に入部してる女子部員全員と付き合ってるって噂もある」 「は? 吹奏楽部の女子部員全員と?」 あまりにも突拍子の無い噂に、思わず気の抜けたような声が出てしまった。 「そう、吹奏楽部の女子全員とだぜ? すげぇだろ」 「確かにすごいけど......それって、本当? だってありえないでしょ。それに、そんなに堂々と噂されるようなことしてたら、絶対彼女にバレるし。というか、バレない方法が思いつかなくらいだわ」 私の至極真っ当な返答に、バカオはやけになるわけでもなく、不思議そうな表情をしながら言う。 「さあね? 松坂先輩は超能力者なんじゃね?」 バカオの言葉に私は言葉を失った。もし、そんな状況が許されているというのなら、一体どうやって? 私には想像もつかない。それとも、偶然そういう価値観を持った人たちが、偶然同じ部活に集まることなんてあるのだろうか? もしも......本当にバカオの言っていた噂が真実だとしたら、それは、あまりにも不気味すぎる。なぜなら現実離れしすぎてフィクションにしか思えないからだ。しかし、バカ男は馬鹿でも嘘をつくような人間ではない。 ただやはり気になるのは、昨日感じた松坂先輩に対する違和感。松坂先輩とゆっこの関係。そう言えば、今日はまだ、ゆっこと一言も話していない。昨日のあれ以来、ゆっこの様子が少しおかしく、避けられているように感じる。そして、昼休みの教室内で私とバカオが二人で話をしているのにゆっこの姿が見えない。こういうことは、今日が初めてだ。何か......嫌な予感がする。 「バカオ、ゆっこの姿が見えないけど」 「そういや、今日一日ずっと見てないな。なんかちょっと変な感じ」 「ゆっこのこと、探しに行こうよ」 「おう。俺もちょっと心配になってきたからよ」 私とバカオで、ゆっこのことを探しに行くことにした。授業が始まるまであと二十分ほど。わざわざ探しに行かなくても、待っていればゆっこは教室に戻ってくる。そんな理屈は頭の中でよく分かっているのだけれど、心がざわざわと落ち着かないのだ。 私たち一年生の教室は一階、二年生は二階、三年生は三階へとなっている。一年先輩である松坂桃李は、二階の教室にいるはずだ。昨日のこともあるし、もしかするとゆっこは二階にいるかもと考えた私は、廊下を出て二階へと階段を駆け上がる。すると二階の廊下、一番奥にある教室から丁度、松坂桃李とゆっこが一緒に出てくるのが見えた。二人は揃って、三階へ上がる階段に向かっている。 私はバカオと一緒に二人の後を追った。階段を登って行く二人の姿を追いかけて行くと、三階を越えて屋上の方へとたどり着く。外へと繋がる扉は開いていた。 私がゆっくりとした足取りで外の方に出ると、すぐに二人の声が聞こえてきた。 私の後ろからついてきたバカオと一緒に物陰に隠れながら、二人の様子を観察する。ゆっこはどうにも困ったような表情をしていて、正反対に松坂桃李は笑顔で饒舌に喋っていた。二人の表情があまりにも対照的だったので、私の松坂先輩に対する疑念はより深くなる。 「先日の話ですけれど、申し訳ございませんが私は吹奏楽部には......」 「そんなこと言わないでさ、もう少し考えてくれない? 優子は昔からクラリネットが得意だったじゃないか。一緒の中学で吹奏楽部をやってきた仲だろう?」 「えぇ......ですが」 「初めての高校生活で、慣れないことも多いんだろう? 部活に入れば友達だって自然に増える。それに、ここだけの話なんだけれど、吹奏楽部は女子生徒が多いんだよ。というのも、男子部員は僕一人なんだ」 「どういう事......ですか?」 ゆっこは困惑した表情で尋ね返した。それに対して、松坂桃李はさらっと涼しい顔で、特に何か気にするそぶりも見せずに話す。 「まぁ、自然とそうなっちゃったんだよね。というわけで、知り合いである君が入部してくれたら、僕としても心強いんだ」 「しかし......私はあの時、先輩のことを」 「あぁ、そのことは気にしなくていい」 「え......?」 ゆっこは松坂桃李の言葉に驚いたような表情をした。『そのこと』とは一体どういう事なのだろう? 「とにかく、入部して欲しいんだ。ぜひ、君に」 その時、困り果てたような顔をしたゆっこが私たちの方へ、ふっと顔を向けた。とっさのことに、私たちは隠れることが出来ず、固まってしまう。ゆっこは安堵したような表情をして、私たちの方へと声をかけてきた。 「かっこちゃん! 羽賀男くん!」 ゆっこの一言に、松坂桃李も私たちの存在に気付いたのか、こちらへと顔を向けた。さっきまでの笑顔が、ふっと真顔に戻る。本人の心境としては、いい所だったのにのこのこ邪魔しにきやがって、という風なんだろうか。 「ごめん、ゆっこ。盗み聞きするつもりはなかったんだけれど、心配になって探しちゃった」 「ううん、心配してくれてありがとう、かっこちゃん!」 笑顔でゆっこは私にそう言った。しかし、その隣で腕を組んでいる松坂先輩は心持穏やかではなさそうだ。声をかけるのもおっくうになる。でも、無視するわけにもいかない。 「すみません、松坂先輩」 「全然いいよ。仲のいい友達がいるって素敵だね」 松坂先輩は私に対して怒ることなく、あくまで紳士的に穏やかな口調で言った。でも、顔は笑顔なのに目が全く笑っていないのが、不気味すぎる。私の隣に突っ立っているバカオは、のんきにあくびをしていた。本当に空気の読めない男だ。でもま、この場に男子が松坂桃李だけという状況は好ましくない。こうして、この場にいてくれるだけでも、幾分か安心感はある。 「次は生物の授業だろ? とっとと準備しないと遅れちまうぜ?」 バカオの一言に、私とゆっこはハッとした。生物の授業は二階、廊下手前にある、生物化学準備室の隣の教室だ。ぐずぐずしていると遅刻する。 「それでは、すいません。失礼します」 ゆっこは松坂先輩に一礼し、その場を後にした。それに続くように、私とバカオも一礼してゆっこの後を追う。 途中、ふと後ろが気になり振り返ると、松坂桃李はゆっこの方をじっと見つめていた。真顔でずっと。それこそ、穴が開いてしまいそうなほど。 次の日の放課後、そろそろ帰ろうかとゆっこに声をかけようとしたが、姿が見当たらない。ゆっこは今日一日、いつもと変わらない様子だった。用事があって、先に帰ったのだろうか? そうだったらいいのだけれど。 あの人、松坂桃李のことが浮かんでしまう。昨日、私はゆっこに『大丈夫?』と尋ねた。ゆっこは私に向かって『大丈夫』と一言、いつもと変わらない笑顔で言った。私はそれ以上、ゆっこに何も聞かなかった。バカオもだ。私もバカオもゆっこの事を信じているから、だからゆっこが大丈夫と言ったのなら、大丈夫なのだろうと思っていた。もし、本当に助けが必要なら、自分の口から私たちに言うだろう。けど......。 やはり、昨日のことが頭から離れない。あの松坂桃李の不気味な視線と顔が、脳裏に焼き付いている。そして、バカオが言っていたあの噂。眉つばものだけれど......どうにも気になる。 「お~い? 何やってんだよおかっぱ。帰らねぇのか?」 「ちょっとね。吹奏楽部を見てこようかなって」 私がそう言うと、バカオは『そっか、じゃあ先に帰るぞ』と言い、教室を出ていった。 「まぁ、見るだけなんだし。一人でも大丈夫でしょう」 自分に言い聞かせるように呟き、意を決して吹奏楽部へと足を進める。吹奏楽部は二階の第二棟校舎の南側にあったはずだ。案内板を見ながら、ゆっくりとした足取りで吹奏楽部に向う。不幸中の幸いか、私はまだどの部活にも入部していなかったので、不審に思われても体験入部がしたいと言えば、何とかなるはずだ。 あれこれ考えているうちに、部室の目の前までやってきていた。恐る恐る、窓から中の様子を確かめようとしたけれど、カーテンが閉まっていて中の様子は分からない。しかし、隙間からは光が漏れているので、教室に人がいるのは確実だ。さて、どうするべきか。 悩んだ挙句、私は部室の扉を開けることにした。 扉に手をかけ、意を決して開ける......開かない? 鍵がかかっている? このままでは仕方が無いので、ノックすることにした。中から開けてもらうのだ。 二回ほどノックをすると、中の方で何か動きがあったようで、パタパタと騒がしい足音がする。しばらくすると、鍵がガチャリと解かれる音がして、ゆっくりと部室の扉が動いた。 「ん? あれ、君は」 そこにいたのは、松坂桃李。吹奏楽部に入部しているというのだから、出てくるのは当たり前だろう。しかし、心の準備がまだ出来ていなかった私は半笑いのまま固まってしまった。体感一、二分くらいかかって、ようやく私は松坂桃李に喋りかけた。 「あ、あの私」 そこまでい言いかけて、私は気付く。松坂桃李と扉の隙間から見える部室の様子。部員たちは、皆女の子ばかりで、一体全体どうしてか理由は分からないけれど、何かを中心に取り囲むように集まっている。そしてその中心にいたのは、なんとゆっこだった。 「君、昨日屋上で会ったよね?」 「そ、そうですね! その節はどうも。実は私、吹奏楽部に体験入部したくて」 私は、もっともらしい嘘をついた。 「ふ~ん。それで、楽器は?」 「へ?」 急な問いに、私は思わず変な声を出してしまう。そんな私の様子に、呆れたような顔をして松坂桃李はもう一度、私に対して質問をしてきた。 「だから、今までどんな楽器を演奏してきたの? もしかして、高校生になって初めて楽器を演奏したいと思っているわけ? それならやめたほうがいいなぁ。音楽の道って素人が思っているより、ずっと厳しいんだよね」 松坂桃李は、不機嫌そうな顔で私にそう言う。確かに私は今まで楽器なんて演奏どころか、触ったことすらないし、中学はずっとオカルト部だったよ! 内面を見透かされた言葉に、ついムキになった私はとんでもない嘘をついてしまった。 「ちゅ、中学校の頃からトランペットをやってます!」 「へぇ、そうなんだ。奇遇だね、実は僕もトランペットをやっているのさ。体験入部したいんだよね? じゃあ、入ってよ」 ああ、やってしまった。どうしてすぐばれるような嘘をついてしまったのだろう。もし、今ここでトランペットを吹いてみろなんて言われたら......すぐにボロが出る。しかし、何はともあれ部室には入ることが出来た。今はそれで十分だろう。 入るなり、私はゆっこがいた方へ目をやる。多くの部員に囲まれ表情は良く見えないが、あのゆるふわヘアーは間違いなくゆっこだ。私には分かる。 それにしても異様な光景だ。この広い部室に、女子部員が一箇所に固まっている。一体どういう事なのだろう? 背後で扉が閉まり、がちゃりと鍵の掛かる音がした。松坂桃李が、扉とその鍵を閉めたのだ。これで私は、逃げられなくなったわけだ。さてどうするか。いや、まず初めに確かめなくてはならない事は、ゆっこの無事の確認だ。 「すいません、あれは一体?」 私は松坂桃李に質問した。いや、せざるを得ないと言ったほうが正確か。むしろ、あんな異様な光景を見せられて、あれはなんだと質問しない奴はいないだろう。 「あぁ、あれは新入生を歓迎してるのさ」 松坂桃李はそう言って、目の前にいる女子部員たちに顎で指示を出す。顎で人を使う奴が本当にいたなんて......心の中で憤りを感じたが、ここはぐっとこらえて、ゆっこの方へと目線を向けた。サーっとまるで波が引いて行くように、部員たちは後ろへ下がる。そこにはタオルで口を塞がれ、体を椅子に縛り付けられ身動きの出来ないゆっこがいた。 「これは一体、どういうつもりなんですか!?」 私は、松坂桃李に向かってと怒鳴るように言った。親友がこんな目に遭わされて、黙っている方がおかしいだろう。ゆっこの腕には、きっと抵抗したであろう赤い傷跡が生々しく見える。居ても立ってもいられず、私はゆっこを縛り付けている縄を解こうっと走り出した。 すると、松坂桃李は私に対して余裕ぶったような態度で言った。 「君、体験入学しに来たわけじゃないんだろう? それに、きっとトランペットをやっていたなんて嘘だ」 「今......そんなことを議論している場合ですか? 」 「違う違う。俺が言いたいのはねぇ、君は彼女の友達で、わざわざ体験入学したいなんて嘘をついてでも、そいつを助けようとしてるんだろう? てことさ」 私は松坂桃李の言葉を無視して、ゆっこの方へと向かう。 「友情って奴かな? まぁ、でもさ君のおかげでより楽しくなって来たよ」 松坂桃李は、気持ちの悪い笑みを浮かべながら、私がゆっこを助けようとしているところを面白がって見ている。 絶対に許さない! 先生に......いや、警察に突き出してやる。そう思いながら私はゆっこの方を見る。 しかし、ゆっこはこちらを見るなり悲壮な表情をしながら、大きく顔を振った。罠だからこちらに来てはいけない、という意思表示なのだろうか。いや、考えている暇はない。一刻も早く助けないと! そういう感情で頭がいっぱいだった。 私の思いを知ってか知らずか、松坂桃李は顎をくいとやり、部員たちに指示を出す。すると、今まで一歩下がってこちらを見ていた部員たちが、一斉に私の方へやってくると腕や足をガッチリと捕まえ、身動きを取れないようにした。 「今すぐ私を離せ! でないと......」 言いかけて、それ以上言うのを止めた。なぜなら、目の前に松坂桃李がいるからだ。じっと私の目を見つめながら、顔を近づけてくる。 「でないと......どうするんだ? 俺のことを誰かに言うつもり? 別に構わないよ。出来るものならね」 私の目を見つめながら、奴はどんどん顔を近づけてくる。 「そうだ、おかっぱ女。お前の顔は好みじゃないが、特別にハーレムに入れてやる」 「お断りします」 「ははは! じゃあ、改めてこう言おう。俺の奴隷になれよ」 「何度も言わせないで貰えますか? お こ と わ り し ま す!」 私は松坂桃李を睨みつけながら、怒鳴るように言った。しかし、奴は毛ほどにも動じず、むしろ笑っている。そしてどんどん私の方に、自分の顔を近づけてくるではないか。 嫌な予感というものは、実際よく当たる。間違いなく奴は、私に対して唇を近づけて来ている! 松坂桃李は目を閉じ、顔を左斜めに向け、私の唇へと一直線に近づいた。迷う暇も、考える暇もなく私はーー 松坂桃李に頭突きしていた。 「あっがっ!?」 大きなうめき声を上げながら、松坂桃李は鼻を押さえている。当然だ、私が全力で頭突きをその鼻頭にかましてやったのだ。むしろ、効いてもらわなくては困る。しかし、ダメージは私の頭部にももちろんあるわけで、私は頭突きをやった勢いのまま頭を抱えつつ、私を拘束していた部員たちもろとも背中から倒れこんだ。 「く〜っ......!」 松坂桃李は、真っ赤に染まった鼻頭をこすりながら、涙目になって唸る。鼻を両手で押さえながらうずくまる形で、その場から動けないようだ。私を拘束していた部員たちも、なぜか糸の切れた人形のようにその場から動かない。 「お、おまえっ!」 絞り出すようにそう言った奴は、次の瞬間表情を変えた。苦痛に満ちた表情から、いたって落ち着いた表情になる。 「まぁ、いいさ。お前もいずれ俺の奴隷になる」 どういう意味だ? 私は奴の言葉の意味を考えながら、地面に座り込んでいる姿勢を、すぐにでも立てるように整える。そして、目の前にいる得体の知れない男、松坂桃李のことを警戒した。 そんな私の様子を尻目に、松坂桃李は呑気に歩き出し、私から一、二メーターほど離れた場所にある楽器置き場で立ち止まると、片手で持てるくらいの比較的小さめなケースを取り出し、パチパチと音を立てて開けた。あのケースはトランペットのケースだ。 何をするつもりだ? まさか、トランペットを私に直接投げてくる訳じゃないだろうな? いや、普通に考えてそんな馬鹿なことをする訳がない。では、トランペットでも吹いてみせるつもり? この状況で、そんなことをして、それで私を惚れさせてみせる気だとでもいうのか? 何をトチ狂ったらそんな発想になるっていうんだ! 違う。もっと、異様な気持ち悪さを感じる。得体の知れない何かを......切り札を隠し持っているかのような、そんな恐ろしさが、ヒシヒシと私の背中を、悪寒とともに駆け巡った。 「あーん」 急に何を思ったのか、松坂桃李は大きく口を開けケースに綺麗にしまってあったマウスピースを手に取り、口の中に放り込んだ。 あまりにも奇妙で信じられない行動に、私は理解できず、その場で固まってしまう。さっきからも揉みくちゃにされて、かきたくもない汗をかいているけど、今度は別の種類の......いわゆる冷や汗という奴が、ダラダラと背中から吹き出して来た。 「もごもご! もがもが!」 口の中でマウスピースをゴロゴロと転がし、満足そうにしている松坂桃李。私はその様子を固まったまま見ていることしか出来なかった。そしてーー 「おえぇ!」 ワザとらしく大きな音を立てながら、右手の親指と人差し指で口の中からマウスピースを取り出した。マウスピースはたっぷりの唾液でテラテラと光っており、見るからに気持ち悪くて吐き気がする。松坂桃李はそれを自慢げに私の方に見せながら言った。 「俺はいつだって駄目な方だったよ」 そう言いながら、奴は私の方へ近づいてくる。 「父は東大卒で医師、母は慶応卒で元女優。兄貴は東大に現役合格、妹は兄貴が進学したところと同じ有名な私立高に行った。じゃあ俺は? なんで俺だけこんなしょぼい場所にいるんだ? 生まれてから今まで俺は、父にも母にも兄貴にも妹にも、何一つ勝てなかった。唯一好きで小学生からやってたトランペットだって、一回しか吹いたことない兄貴の方がずっと上手い」 怒りのこもった目で吐き捨てるようにそう言うと、今度は打って変わって晴れ晴れとした、爽やかな笑顔で語り始めた。 「だが、いつからかは忘れたが、俺には不思議な力があるということに気が付いた。そう、たしかここに入学してきた頃くらいからかな。同じクラスの女に告白されたんで、趣味じゃないが、何が何でもアイツらに勝ちたかった俺は、適当に付き合ってみることにしたのさ。兄貴や妹にはまだ恋人はいなかったからな。見返したかった。するとどうだ? 初めてキスをしたその日からだよ。俺のためなら、何でもしてくれるようになったのさ、あの女はな。初めは気がつかなかった、よく尽くしてくれる奴だと思ってたよ。でもすぐに『何か』が違うことに気が付いた。そう、すぐにな」 私は立ち上がり、とっさに奴から距離を取ろうと後ずさった。しかし、周りにいた吹奏楽部の部員たちに再び捕まってしまう。その時私は気が付いた、私を拘束しているこいつらは、感情や意思が表情から読み取れない。まるで......操り人形にでもなってしまったかのように。 「さぁて、おかっぱ女。確か、体験入部したいって言ってたよな? トランペット......吹いてたんだって? だったら吹いてみな。 このマウスピースを」 私は、思いっきり手足をバタつかせて抵抗した。しかし、何人もの人間に思いっきり掴まれてしまっていては、どうすることも出来ない。奴はもうすぐそこまで近づいている。 「見極めてやるよ、先輩としてな。そして歓迎してやる、俺様の奴隷としてな」 「や、やめて! 気色悪い! 私にそれを近づけるないで!」 私が大声で怒鳴ると、松坂桃李は意地の悪い笑みを浮かべ、右手で摘んだままのマウスピースの真ん中にある窪みに、舌を入れて舐め回し始めた。 「れろれろれろ」 「ぎゃぁぁぁぁぁぁ!」 思わず絶叫する。次の瞬間私は両頬を松坂桃李に、左手で挟まれるような形で捕まれた。息苦しいし、顔全体が痛くて辛い。思わず顔をよじらせて逃れようとすると、私の目にあのマウスピースが映る。おぞましい物を見せつけられ、恐怖で体が震えた。 どうすればいいのよ! このままじゃ、私は目の前にいるクソ野郎の都合のいい人形にされてしまう。こんな状況じゃ、私の『切り札』も使えない。誰か......助けて! 「ほら、優子の方を見てみろ。今からアイツに見せつけてやる」 「あ......ああっ!」 「ん〜? 何か言いたそうだな。当ててみよう、多分何を見せつけるのかって言いたいんだろう? もちろん、お前がアイツを裏切る所だよ!」 横目にゆっこの方を見る。目に涙を浮かべ、何かを伝えようと顔を振るゆっこ。体は縄で縛られ、身をよじらせる度に食い込んで痛いはずなのに、タオルで塞がれたままの口で必死に叫ぶゆっこ。 「ンーッ!!!」 ごめん、ゆっこ。私、あなたを助けられなかった。 その瞬間、コンコンと静かに誰かが部室の扉をノックする音がした。と同時に声がする、女性の声? 「あれ? 鍵がかかってる? ちょっと、ここ開けなさい!」 松坂桃李はその声に聞き覚えがあったのか、私の口元寸前まで近づけていた、唾液でベトベトのマウスピースを慌ててケースに戻し、急いで扉の方へと向かった。そして、部室の扉の鍵を開ける前に、私の口を部員たちが塞いだ。これじゃあ助けを呼ぶことも出来ない。 「ど、どうされました井口先生」 その口ぶり、おそらく教師? しかもこの時間、このタイミングで来るとするならもしかすると、吹奏楽部の顧問か? 「きょ、今日は職員会議があって部活には来れないはずでしたよね?」 やはり、この吹奏楽部の顧問だ! 必死に身体をよじらせ声を出そうと抵抗した。私は顧問の先生と松坂桃李のいる扉から、一メートルも離れていない位置にいる。しかしがっちりと押さえ込まれていて、顧問の先生の方まで音や動きが伝わらない。そして部員たちは扉から私が見えないように、並んで壁になった。 「そうなんだけれど、実はね」 顧問の先生がそう言うと、松坂桃李は思わず小さな悲鳴を上げた。確かに聞こえた、松坂桃李の悲鳴。きっと、何か嫌なことでもあったに違いない。 「ども、先輩。体験入部させてもらいに来ました」 この声は聞き間違えようがない。小さい頃からずっと一緒に過ごして来たのだ、すぐに分かる。思わず目に涙が浮かんだ。先に帰るって言ってたくせに、ほんと馬鹿。 「お、お前」 「なに? 二人とも知り合い?」 「いえ、ちょこっと話したことがあるだけですよ。それよりも、先生。職員会議があるのに、無理言ってここまで案内してもらってすみません。俺、馬鹿なんで学校の案内板よく分かんなくて」 「まぁ、私も新しい一年生の部員が欲しかったからね。それに、ここの吹奏楽部は男子が松坂君だけだもの。彼一人だと心細いだろうし、一人でも男子部員が増えてくれたら、嬉しいんじゃないかな? と思って」 先生のその言葉に、半ば強制的に松坂桃李はうなづいた。ただ、声はわなわなと震えていて怒りを隠しきれないようだけれど。 「それじゃ、私は職員会議があるから」 そう言って、顧問の先生は部室を去る。扉にはもう鍵はかかっていない。そして、ここには松坂桃李とその部員以外に、三人いる。私とゆっことそしてーー 「よう、先輩。お久しぶりです。と言っても、昨日あったばっかしだけど」 バカオだ! 「何の用だ?」 松坂桃李はぶっきらぼうに、吐き捨てるようにそう言った。実に胸くそ悪そうにボリボリと頭を掻いている。私の目からは部員が壁になってよく見えないが、ボリボリと頭を描きむしる音がここまではっきりと聞こえているのだ、奴はそうとうムカついているに違いない。 「体験入部ですよ、体験入部」 バカオがそう言うと、松坂桃李はため息をつき、うんざりしたような声で吐き捨てるように言った。 「お前もか」 「お前も? ってどう言う意味っすか」 バカオは声を低くしてそう言った。完全に、奴を敵視している。そう言った雰囲気を感じる。しかし、そんなバカオの様子にもまったく物怖じすることなく、むしろいたって冷静に受け止めているといった感じで奴は言った。 「いや、何も。そういや、お前もいたなって思い出しただけさ」 「そうっすか。でも、何かおかしいっすねこの部室」 「何が?」 「いや、一目見れば誰だっておかしいってことに気づくでしょ、先輩。だって、吹奏楽部なのにまったく楽器の練習をしている人がいないじゃないですか。それにーー」 バカオは、私とゆっこのいる方向に向かって喋りながら言った。 「あの人だかりなんなんすか? おかしいっすよね。誰がどう見ても」 バカオの至極真っ当な質問に、松坂桃李は当然のことのようにいいのけた。 「別に? 俺にはどこがおかしいのか分からないな」 その白々しい態度についにバカオはキレた。しかし、激しく怒鳴ったり、相手を殴りつけるとかそんな乱暴な怒りではない。もっと冷静な......例えるなら静かな怒りという奴だ。 「そうかよ。そんじゃ、もうあんたと話す理由はねぇな。来てんだろ? おかっぱと優子がよ。来たばっかしで悪いんだけどよ、家に帰してもらうぜ? 先輩」 「すまないな、そういう訳にはいかない」 「どうしても、俺は二人を連れ帰る。多分、親も心配してるだろうしよ」 バカオはそう言うと、次の瞬間大きく動く気配を感じた。足音が聞こえる、多分扉の方から近い私の方に向かって走っている。バカオの気配がこちらに向かって、すごい勢いで近づいてくる。 その時だ。急に足音がパタリと止んだ、と同時にバカオの叫び声が聞こえる。 「は、離しやがれ!」 その口ぶりから察するに、バカオも私と同じように吹奏楽部の女子部員たちに、拘束されてしまっているようだ。三十人ほどいる部員のほとんどが、松坂桃李の支配下に置かれている。こんな状況では、抵抗することもままならない! どうにか......どうにか動けるようになれば! ブリッジが出来る状態になれば! この状況を逆転出来るっていうのに! 私はもう一度、手足をばたつかせてもがいた。どうしようもないこの状況に、どうにか出来る糸口を見つけたい! 「ちょ、ちょっとどこ触って! あはん!」 ん? 「や、やめろって! うほほ!」 女子部員に身体を触られて、いい気になっているな……しっかりしろ! 小学生の頃からずっと、柔道習ってたんでしょ!? なんとかしなさいよ! 私は心の中でバカオに叱咤する。しかし、次の瞬間急に、バタンバタンと、何かが倒れるような音が聞こえた。 「あんた達に恨みは無いんだけどよ、ちょっと投げさせてもらったぜ。精一杯手加減してるんだけどよ、こっちも必死なんだ。すまねぇな」 次々に人がなぎ倒される音が聞こえる。多勢に無勢で、本来ならいくら柔道経験者と言えど、やり過ごすことは難しかったと思う。でも、相手は意思の無い人形のようなものだ。ワンパターンな人形だったなら、多勢に無勢でもやり通せる! 「おい! そいつを全力で押えろ!」 松坂桃李の怒号が聞こえた。すると同時に私の拘束が解け、自由の身になる。一体何事かと周囲を見渡すと、私とゆっこの周りにいた部員も合わせて全員でバカオを取り囲んでいた。 「お、おいやめろ! お前ら!」 大勢に無理やり押さえつけられたら、いくら柔道経験者と言えども身動きは出来ないだろう。そしてーー 「動くな」 松坂桃李は私の方へ向かってそう言う。しまった! 突然の出来事に呆けてしまっていた。私は慌てて立ち上がり、ゆっこの方に目をやる。そこには、拘束を解かれたものの、松坂桃李にがっちりと顔を掴まれ身動きできない状態のゆっこがいた。 「ゆっこを離して!」 「はぁ......そんなこと言って、素直に離す馬鹿がいると思ってるのか? ま、いいや。そのまま、動くんじゃないぞ?」 そう言うと、松坂桃李はゆっこの口に巻かれたタオルをほどき、顎をがっちりと手で捕まえながら自分の顔の方へ引き寄せた。 「やめなさい!」 「嫌だね。こいつが俺に何をしたのか分かっているのか? 中学三年生の時、わざわざ告白してやったってのに、断りやがったんだ。自慢じゃ無いが、それなりにモテてた俺は当時、すっごく傷付いた。それはもう......復讐して全てめちゃくちゃにしてやりたいくらいにな」 松坂桃李はゆっこの顔を自分の目の前まで引き寄せた。 「い、いや! 私にはずっと好きな人が......」 「あの時もそう言って俺を振ったよなぁ!? ま、でも関係ない。今から俺のものにするんだからよ!」 松坂桃李は顔を醜く歪めながら、気持ちの悪い笑みを浮かべた。唯一の取り柄だった顔も、今や醜悪に成り下がる。こいつは、もはや人と呼ぶにはあまりに異質すぎる。畜生だ! 「全て支配してやる! 親父も、母さんも、兄貴も、妹も! そして、ここにいる部員どもも支配した! 次はお前だ優子! この世界の全てを支配して、俺様が王になるのだ!」 松坂桃李は高らかに叫ぶ。そんな、威張り散らす奴を目の前に、私は冷静に言葉を返した。 「確かに、あんたの力は人の世を、いずれこの世界の全てを支配することが出来るかもしれない。けれどここに、この場所に、私が『いる』ということは、あんたは人の上に立つ器じゃなかったってことだ」 「な、なんだと! この世界の王になるこの俺様を、愚弄するのか!」 先ほどまで冷静だった面影は何処へやら。松坂桃李は激昂した、よほど腹の虫に据えかねたのだろう。しかし、もう遅い。奴は『選択』を誤った。あの時、バカオを拘束するために私を自由にしたのが、間違いだったんだ。それはもう、取り返しのつかない大きな間違い。 「あなたは、特別な力を持っているのは自分一人だけだと、信じて疑わなかったの?」 「な、何が言いたい!?」 私は松坂桃李に背を向ける。そして、思いっきり背中を反らせ両手を地面につけた。 「ホアぁぁぁぁぁぁ!」 気合いの雄叫びを上げながら私はブリッジをする。松坂桃李は私の奇行に数秒固まり、突然吹き出し、腹を抱えて笑った。 「な、なんだそりゃ! ははは! ここにきて子供騙しか? それとも、追い詰められて頭でもいかれたか!」 「いえ、そのどちらでも無いわ。もうすでに、『逆転』しているのよ。あなたと私たちの立場は」 「黙れ! もういい飽きた。時間稼ぎをするつもりならーー」 その時、部室の入り口、先ほどバカオが入ってきた方の扉から誰かの声が聞こえた。 「ちょ、ちょっと何よこれ!」 「えっ......?」 またもや聞き覚えのある声だったのか、急に松坂桃李は取り乱す。先ほど、顧問の先生が来た時よりずっと動揺しているように見える。 人をかき分け、松坂桃李の目の前までやってきたのは、一人の女子高生。髪は若干赤茶色がかっていて、色白で、キリッとした切れ長の目を持った、美人の女性だ。その人を見るなり松坂桃李の顔色がどんどん悪くなっていく。 「な、なんで? きょ、今日は部長会だったじゃないのか? 美野里」 美野里と、松坂桃李は言った。まさか......。 「部長が部室に来ちゃまずいのかしら、松坂くん」 その言葉に、松坂桃李は萎縮した。間違いないあの人は、吹奏楽部の部長の、福原美野里だ! でも、バカオからの噂では、確か二人は付き合っているっていう話だったはず。であれば、松坂桃李の支配下に置かれているはずなのだけれど、福原先輩が操り人形のようになっている様子は無い。どういうことなのだろうか。 次の瞬間、信じられないことに松坂桃李は、美野里先輩にビンタをされた。突然の行動に、呆気にとられる松坂桃李。 「あんた何やってるのよ! その子を離しなさい」 ピシャリと松坂桃李に向かっている美野里先輩。抵抗するかと思いきや、ゆっこを離し椅子に座らせた。素直に言うことを聞いている!? 一体どういうことなのだろう? 「あなた大丈夫?」 急に美野里先輩がこっちを向き、未だにブリッジしたままの私を心配しつつ、変な目で見ている。私は慌ててブリッジをやめ、ぺこりと頭を下げた。 「い、いえ大丈夫です。すみません」 私も松坂桃李と同様に萎縮してしまっている。あんな光景を見せられちゃ、萎縮してしまうというものだ。でも、どうして松坂桃李は美野里先輩を操れないのだろう? 「一体ここで何をしてたのよ」 「いや、体験入部がしたいっていうんで」 「体験入部!? この惨状が?」 美野里先輩がそう言うと、松坂桃李は押し黙った。操り人形になっていた部員たちは、松坂桃李が萎縮しだしてから、糸の切れた人形のようにパタリと倒れ、動かないでいる。中には、うーんと呻きながら起き上がる者もいた。もしかして......美野里先輩が弱点なのか? というより、奴が怖いと思っている人物には効かないように思えた。 「あとでじっくり、話を効かせてもらうわ。彼女としてではなく、部長としてきっちりとね......」 「ひぃっ!?」 こりゃ、尻に敷かれるタイプだな。あの様子じゃあ、王様になるなんて夢のまた夢だろう。 かくして、私とゆっことバカオは助かった。 ん? そういえば、バカオは一体どうしたんだ? あれから全く動いている様子がない。横目でチラッと様子を見ると......鼻血を出してぶっ倒れていた。大方、大勢の女の子に一斉に抱きつかれてそのまま、といったところか。相変わらず、女子に免疫が無いんだから。いつまでたっても、彼女も出来ないんだぞ! 「ごめんね、かっこちゃん羽賀男くん」 後日、ゆっこは私とバカオに改めて謝罪した。私のせいで、二人を大変なことに巻き込んでしまったとのことだ。私とバカオは目を合わせ、そして二人合わせてこう言った。 『友達を助けるのは当たり前!』 珍しく今回はバカオと意見が合ったな。まぁ、当たり前のことだし当然か。そんな私たちの言葉を聞いて、ゆっこは両手で顔を抑える。どうかしたのかと、私とバカオは心配して近寄った。 「ううん、大丈夫! 目にゴミが入っただけだから」 その言葉を聞いて私はーー 「馬鹿だなぁ、今時そんな嘘は誰も信じないんだぞ」 そう言って、私はそっとゆっこの頭を抱きしめた。 これは、クラスメイトからの又聞きで、イマイチ信憑性にかけるところはあるのだけれど、あれから、松坂桃李は別人のように大人しくなったらしい。どうやら吹奏楽部の部長、福原美野里先輩と付き合っているという噂は本当で、しかも松坂桃李は美野里先輩の尻に敷かれているらしい。詳しいことは分からないのだけれど、どうやら松坂桃李は美野里先輩に随分と借りがあるようだ。 松坂桃李の、あの厄介な力も今は鳴りを潜めている。どうやら、あの力は随分と自分自身の精神的な影響を受けるみたいで、美野里先輩にこってり叱られてからは全く使えなくなったと、バカオから聞いた。まぁ美野里先輩が監視しているなら、大丈夫でだろう。それに今の所変な噂も無いし、数日前にあんなことがあったとは思えないほど、今は平和だ。 それはそれとして、実は私には気になっていることがある。それはーー 「私、ゆっこに好きな人がいるなんて初耳なんだけど!」 「そ、そうだったかな?」 とぼけたような表情で、ゆっこは私の質問をはぐらかす。 「そうだよ! ね、教えて? 親友の私に教えてよ〜」 「う、う〜ん」 「ねぇねぇ! お願い!」 しつこい私のおねだり攻撃に、ついに根負けしたのか、ゆっこは渋々といった形で話始めた。 「じ、実は私の好きな人は......」 「うんうん!」 「かっこちゃん......なんだよ?」 ゆっこは上目遣いで私の方を見ている。妙な沈黙が続き、どうしていいか分からなかった私は、空気を変えようと、わざと大げさに驚いて見せながら言った。 「ま、まさかー! 冗談でしょ?」 「......」 じっとこちらを見つめたまま、視線を逸らさないゆっこ。その表情は真剣そのもので、私はそれ以上何と言葉を返していいのか思いつかなかった。どうにかこうにか、絞り出してようやく出てきた言葉がこれだ。 「ほ、本当のことなの?」 そう再確認だ。我ながら、何て馬鹿なんだろうと思う。しかし、そんな私の様子をずっと見ていたゆっこは突然、真剣な表情からいつも通りの笑顔に戻り、おどけるような仕草で言った。 「な、な〜んちゃって! 本当は秘密です!」 「びっくりしたー! もう脅かさないでよー」 びっくりしすぎて冷や汗ダラダラだ。でも、ゆっこがドッキリするなんて初めてなので、少し新鮮な気持ちになる。それと同時に、ちょっと悔しくもあった。してやられたって気分。 それはそれとして、最近ゆっことよく目が合う気がする。気のせいだよね? あの、松坂桃李事件から数日たち、ようやく......ついに! 待ちに待ったゴールデンウィークだ! 何をしよう? 休みの予定は別にきっちり立てるタイプではないのだけれど、高校生になってから初のゴールデンウィークだし、つい最近ひどい目にあったし、うんと羽を伸ばしたい! ゴールデンウィーク前の最後の授業が終わり、放課後みんなが帰り支度をし始めたそんな時、バカオがこんなこと言い出した。 「なぁ、おかっぱはさ。年下の人とか......好きになったことあるか?」 思わず、聞き間違いかなと思った。だって、バカオに初めて会った時から今の今まで、恋愛相談なんてされたことないし、ましてやバカオに恋人が出来たなんて話を聞いたこともない。 けれど、バカオの顔は真剣そのものだ。思わず何事かと茶化してしまいそうになったが、慌てて思い返し、詳しく話を聞くことにした。 「一体全体どういうつもりなのよ? そんなことを私に聞くなんて。もしかして、好きな人でもいるの?」 私がそう尋ねると、バカオは今まで見たこともないほど顔を真っ赤にして、『ば、馬鹿! ちげぇよ!』と必死に否定してきた。この反応、間違いなく奴は恋なるものをしている。そんな気がする。必死に否定しているところが怪しすぎる! それにしても、バカオは年下好きか。私が一人で納得していると、バカオは顔を真っ赤にしながら再び同じ質問をしてきた。 「だから......お前は年下を好きになったこと......あんのかよ」 「年下を好きになったことはないけど、アンタが年下で好きな人がいるってんなら応援してあげるよ」 私がそう言うと、バカオはさらに顔を赤くして否定してきた。まるで茹でダコだな。それにしても、バカオに好きな人か......ゴールデンウィークはゆっくり出来ると思っていたのになー。こんな面白いネタ、見逃せるわけないじゃん! 私の悪巧みを知ってか知らずか、バカオは顔を引きつらせている。バカオには一歳年下の妹がいたはずだ、もしかしすると妹の友達、という線もあるかもしれない。今度、バカオの妹に会って確かめてみようか。丁度明日からゴールデンウィークで学校は休みだし、久しぶりにバカオの妹に会いたいなって思っていたし! 私のゴールデンウィーク一日目の予定は、バカオの家に行くことで決定した。 「なんか変なこと企んでるだろ」 「別に?」 「とりあえず、家には絶対来るなよ! いいか、絶対だぞ!」 それはフリか? ともあれ、行くなと言われれば、行きたくなるのが人としての性である。次の日、朝早く起きて歯を磨き、バッチリおかっぱ頭を整え、まだ夏には少し早いので薄めの生地の服の上から、カーディガンを着るような形でバカオの家へと出かけることにした。暑くなったらカーディガンを脱げばいい、そんな楽観的な服装である。まぁ出かけると言っても近所の、しかもバカオの家に行くのだ。そこまできっちりした服装にしなくてもいいだろう。 自分の家から歩いて数分もしないうちに、バカオの家についた。どこにでもあるような一軒家だ。私の家とさほど違いもない、何の特徴もない本当にごく普通の家だ。そんな昔から慣れ親しんだ、安心感のある一戸建ての中へと入るために、インターホンを押すと数分もしないうちにバタバタと足音が聞こえて、ガチャリと玄関の戸が開いた。 「あれ? かえこおねぇちゃん?」 「こんにちは! 麻衣子ちゃん」 玄関から出てきたイエローのTシャツにブルーのレギンスを来た女の子は、バカオの一歳年下の妹。阿形麻衣子(あがたまいこ)だ。私は一人っ子で兄弟がいなかったので、麻衣子ちゃんのことを、本当の妹のように可愛がっている。実際、顔はバカオに似ずに可愛らしく、お目々がくりくりしている。ショートヘアーがよく似合う童顔美人だ。 「こんにちは久しぶりだね! 麻衣子ちゃん」 私の背後から麻衣子ちゃんにそう声をかけたのは、何を隠そうゆっこだ。私が事前に連絡して、バカオの家の前で待ち合わせるようにしていたのだ。 「ゆうこおねぇちゃんもいたんだ!」 笑顔で出迎えてくれる麻衣子ちゃん。ゆっこは麻衣子ちゃんと会うのは、何ヶ月ぶりだろう? この前会ったのが、高校合格祝いのパーティで一緒になった時だから、約一ヶ月ぶりくらいか。でも私は先週、麻衣子ちゃんに会っている。家が近所なので、よく夕飯をおすそ分けしたりする関係で、バカオの家には行ったり来たりしていのだ。 だからと言ってはなんだけれど、麻衣子ちゃんの反応が私よりゆっこの方が若干嬉しそうなのだ。そりゃ、頻繁に顔を合わせる隣近所の人より、久しぶりに会う知人の方が会った時の喜びは大きいだろう。でも、何故だか少し悲しい気持ちになる。 「突然ごめんね? 遊びに来たんだけれど、バカオはいるかな?」 「お兄ちゃん? いるよ! ちょっと待っててね」 そう言うと、麻衣子ちゃんはバカオを呼びに駆け出していく。その間、私はゆっこと談笑しながら時間を潰すことにした。それにしても、ゆっこはオシャレだなぁ。白いワンピースが似合う人って中々いないと思う。体のラインが綺麗だからかな? 「かっこちゃん、私の方じっと見つめて、どうしたの?」 ゆっこが若干頬を赤らめながら、上目遣いでそう尋ねてきた。そんなにじっくり見つめたつもりは無いのだけれど、私は慌てて『ごめんごめん! ワンピースがよく似合っていたからつい!』と弁解した。それに対して、ゆっこは照れながら『そ、そんなことないよ』と言う。 まったく、あの出来事以来、私は妙にゆっこのことを意識してしまっているようだ。いかんいかん、しっかりせねば。そうこうしているうちに、麻衣子ちゃんがバカオを連れて、玄関まで戻って来てくれたようだ。 「お、おまえら......」 バカオはわなわなと震えている。当然だ、あれほど私に絶対来るなと釘を刺していたのだ。むしろ、怒らない方が珍しい。そんなバカオに対して、私は笑いながら言った。 「来ちゃった!」 来てしまったものはしょうがない。しぶしぶといった感じで、バカオは私たちを自分の部屋へ案内した。男性の一人部屋というものは、なんと言うか散らかっているというか、油っぽいというか、そういうイメージがあるのだけれど、バカオの部屋は驚くほど綺麗に整頓されている。本人が几帳面というか、綺麗好きな性格のせいだ。部屋の掃除や後片付けも、全部自分で行なっているらしい。 「あれだけ来るなって言ったのに、マジで来るやつの気がしれないぜ......」 「まあまあ、そんなこと言わないでよ。恋愛初心者の君に、ちょっとでも助けになればと思って来てあげたのさ」 「べ、別に俺は恋愛とか! 恋とかしてねぇし!」 またまたバカオは顔を真っ赤にして否定する。それをゆっこが『まぁまぁ』と言って宥めた。 「羽賀男くんの助けになればと思ったのは本当だよ! それに、私はこの前助けてもらったお礼もあるし......少しでも羽賀男くんの役に立てればと思っているの。ダメ......かな?」 「ぐぬぬ......分かったよ」 ゆっこの切実なお願いに、バカオもしぶしぶ納得した。さすがゆっこ! そのひたむきな視線には、誰も勝てない。私は、ゆっこに向かってガッツポーズを取る。すると、ゆっこもニコリと笑ってガッツポーズを返した。 さて、ここまでは順調。問題なのはここから。何故なら、恋愛の手助けという名目で、バカオの家に訪れたはいいが、私も恋愛に関してはまったく経験の無い、恋愛初心者だからである。つまりは、私もバカオのことを馬鹿に出来ないのだ! だがしかし、誰かの恋愛を応援したくなるのは人としての性だと思う。ただ面白がっているだけだろ! と言われれば返す言葉も無いけれど。 「さっそくだけど、告白しちゃいなよ」 「はぁ!? ななな、何言ってんだお前! そんなこと出来るわけないだろぉ!」 バカオは全力で私の提案を拒否した。当然だ。こういう突拍子のない、無理難題をやらせようとする所がまさに、恋愛初心者故である。 いやぁ、しかし誰かの恋愛事情を観察するのって、本当に楽しいなぁ。私自身、モテたこともないし告白なんてしたこともない。随分と、青春とは程遠い人生を歩んで来ている。なので、バカオの恋愛を応援することにより、この経験が自分自身の恋愛へと繋がればいいなと思っている。バカオには悪いが、色々と参考にさせてもらうよ。 「私も、昨日かっこちゃんに電話でいきなり行こうって呼ばれて、羽賀男くんのお家に遊びに来ちゃったんだけど......」 チラリとゆっこが私の方を見る。私は目で合図した。この先のプランは......無い! ゆっこの表情が固まる。すまない、後先考えず、行き当たりばったりで今日バカオの家に行くことになってしまって、本当に申し訳ない。 「と、取り敢えず羽賀男くんの気になっている女性について、教えてもらえるかな?」 ナイスゆっこ! 本当に申し訳ないのだけれど、バカオ相手に私は相性が悪すぎる。普段よく顔を合わせる間柄なので、なんというかこういうこと質問するのは照れ臭いし、バカオだって真面目に答えようとしないだろう。ここは、ゆっこに任せるしか無い! 頼んだよ、ゆっこ。 「恋っつーか、気になっている子はいるんだけどよ」 「うんうん、その子ってどんな子?」 「いや、あのなんつーか。妹の同級生で、たまに家に遊びに来るんだけどよ」 やはり、私の予想した通りだ。一見バカオは、ガサツで、細かいこと気にしなさそうで、誰とでも仲良くなれるタイプに見られそうだが、実は初心で繊細、そして几帳面な性格をしている。ナンパはおろか、クラスメイトの女の子にさえ、上手く声をかけることが出来ないのだ。だからこそ、もしバカオが好きになるほど近い場所に関わる相手がいるというのなら、それはバカオの家族に近い存在に違いないと思った。あと、年下って言ってたし。 「その子が麻衣子ちゃんと遊んでいる所を気になって、だんだん気になって来ちゃったって感じかな?」 「まぁ、そんな所だよ......」 バカオは照れながらも、ゆっこの質問にちゃんと答えてくれている。ここまで素直なバカオも珍しいけれど、バカオが照れている様子に、なんだか私とゆっこも恥ずかしい気持ちになってしまった。 「その子の名前は、知っているの?」 「名前は確か、人形遊美(ひとかたあそび)だったはず」 「遊美ちゃんって言うんだ! 可愛らしい名前だね。遊美ちゃんとはもう何回かお話ししたの?」 「まぁ......それなりには。でも、俺なんて全然相手にされてないと思うし。ただ、麻衣子が家に連れて来る時にちょこっと挨拶して、たまに一緒に遊んだり、話ししたりするぐらいだし」 「そうなんだ。やっぱり、遊美ちゃんってとっても可愛いのかな?」 「え!? ま、まぁ......そうだな。一般的に可愛らしい顔立ちをしていると思うよ」 遊美ちゃんの容姿を説明する時だけ、バカオの口調がおかしくなった。顔もさっきより赤くなっている気がする。バカオにとって、遊美ちゃんはもろ好みなのだろう。遊美ちゃん、一体どんな人物なんだ? 早く会って見たい! 「ちなみに、今日は遊美ちゃんは羽賀男くんのお家に遊びにくる予定はあるのかな?」 「ん〜? ど、どうだろう? 今日は来ないかもなー」 棒読みではぐらかそうとしても、余計怪しまれるだけだぞバカオ。ということは、今日噂の遊美ちゃんに会えるかもしれないな。 「それじゃ、私が麻衣子ちゃんに遊美ちゃんが来るかどうか聞いてみるわ」 「ちょ! 何言ってんだおかっぱ! 勝手なことするんじゃねぇ!」 「いいじゃんいいじゃん、減るもんじゃないし。ちゃちゃっと聞いて、駄目だったら駄目でいいじゃん」 そう言って私はバカオの制止を振り切り、急いで部屋を出た。そして、隣の麻衣子ちゃんの部屋におじゃまする。コンコンと二回ノックをして、『麻衣子ちゃん、今ちょっといいかな?』と声をかけた。すぐに『いいよー!』と元気のいい返事が戻ってくる。それを確認してから、私は麻衣子ちゃんの部屋の扉を開けた。 「ごめんねー! ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」 「どうしたの? かえこおねぇちゃん」 麻衣子ちゃんは、可愛らしい笑顔で私に尋ねてきた。麻衣子ちゃんはバカオの一つ下、つまりは中学三年生なのだけれど、童顔のせいでもっと幼く見える。少なくとも私には小学生高学年くらいに見えた。そんな可愛らしい麻衣子ちゃんに、さっそくあの事について聞いてみた。 「遊美ちゃんていう子、お友達なの?」 「うん、そうだけど......。かえこおねぇちゃんどうして、遊美ちゃんのこと知ってるの?」 「ついさっき、バカオから聞いたのよね。それで、もしかして今日遊びに来たりするのかな?」 「う、うん。もうそろそろ来ると思うよ。私の家で待ち合わせて出掛ける予定だったんだけど......実は昨日、お兄ちゃんからも、しつこく聞かれたんだ」 麻衣子ちゃんは苦笑いをしながら、バカオが問い詰めて来た時のことを教えてくれた。必死だなと思いつつも、それだけ真剣なら、俄然こちらも応援に気合いが入るというもの。しかし、問題は遊美ちゃんがバカオのことをどう思っているか、である。それを見極めるためにも、ぜひ今日会って話してみたい。 麻衣子ちゃんから言質をいただいた以上、ここで待たない訳にもいくまい。私は、麻衣子ちゃんにお礼を言って部屋から出た後、バカオの部屋へと戻った。 「遊美ちゃん、今日家に来るんだってさ。みずくさいなぁ、バカオ。そんなに隠さなくたっていいのに。私と、ゆっこがしっかりサポートしてあげるからさ!」 「お、お前〜!」 「ま、まぁまぁ、羽賀男くんも落ち着いて! 私たちはただ、影で応援するだけだから! 二人の間に入ってどうこうするわけじゃないから。それに、影で二人の様子をみながら、何か羽賀男くんにアドバイスできるかもしれないし......ね?」 「はぁ......わかったよ。いいか! 絶対じゃまするんじゃないぞ!」 「わかってるよバカオ。私を信用して?」 「おかっぱ! お前が一番信用できないんだよ!」 そんな訳で、私とゆっこはバカオの部屋で待機。遊美ちゃんが来たら、麻衣子ちゃんとバカオが先に対応した後、挨拶がてら私たちが登場という作戦になった。 十分くらいたった頃、ピンポーンとインターホンが軽快に鳴る。遊美ちゃんが来たのだ。私は緊張と好奇心の間で揺れ動きながら、その時が来るのを今か今かと待っている。隣で同じく待機しているゆっこも、私と同じ気持ちなのだろうか、落ち着かない様子でソワソワしていた。 話し声が聞こえる。透き通るような、美しい声。今まで聞いたことない誰かの声に、胸を高鳴らせながら、よく聞くため部屋のドアに左耳をそっと近づけた。 「い、いらっしゃい! いつも、遊びに来てもらって悪いね。うちの麻衣子が世話になってます」 バカオの声が聞こえる、バリバリに緊張しているな。ところどころ、声が上ずっているし、言葉遣いも普段と比べて変だ。 「いえいえ、私も麻衣子ちゃんにはよくしてもらってますし、お兄さんにも色々お世話になっていますから」 さっきの美しい声の主だ。やはり、この声は遊美ちゃんの声か。 「ごめんね、遊美ちゃん。実はお兄ちゃんのお友達が遊びに来てて、遊美ちゃんに挨拶だけしたいって言ってるんだけど、大丈夫かな?」 「私は全然大丈夫ですよ!」 「いやいや、無理しなくていいんだぞ? あいつら、勝手にやってきたみたいなもんだし」 「いえ、それにお兄さんのお友達の方なら、私の方から挨拶したいくらいです」 バカオめ、余計なことを。しかし、遊美ちゃん本人は私たちと会いたがっているみたいだ。中々いい流れだぞ。ほどなくして、バカオの部屋の扉が開かれた。そこにはバカオが一人立っていて、苦々しい表情で私たちを、遊美ちゃんの元まで案内してくれた。私とゆっこは顔を見合わせて、ガッツポーズを取る。いよいよ噂の遊美ちゃんとご対面だ! リビングのソファーに麻衣子ちゃんが座っている。どうやらお出かけのためか、グレーのデニムに、すらっとした足が際立つジーンズに着替えている。そして、隣に一緒に座っている人影が見えた。すらっとした細身の体型に、縦ストライプのシャツと春らしい桜色のスカートが映える。その人影は、私たちに気がつくとすっと立ち上がり、私たちの方へと小走りで駆け寄って来た。 「こんにちは。初めまして、人形遊美と申します」 肩まで伸びたストレートの、艶やかな黒髪が印象的な色白美人さんだ。真っ先に頭の中に浮かんだ言葉は大和撫子。そりゃ、バカオも好きになるはずだわ。 「こんにちは、遊美ちゃん。私は麻衣子ちゃんのお兄さんのお友達で、反町返子っていいます。気軽にかえこって呼んでね」 「こんにちは。同じく、深川優子です。突然ごめんね? 迷惑じゃなかった?」 「いえいえ、全然大丈夫ですよ。むしろ嬉しいくらいです」 遊美ちゃんは、笑顔でそう答えた。一つ年上の先輩に、急に声をかけられるなんて、きっと困惑するに違いないと思っていた私の予想を、すっかり裏切る形で友好的に接してくれる遊美ちゃん。なんだか、私も嬉しい気持ちになってくる。 私は今まで一人っ子だったので、ずっと姉や妹が欲しかった。なので、麻衣子ちゃんを妹がわりに可愛がっていたのだけど、これからは麻衣子ちゃんと一緒に、遊美ちゃんも可愛がれると思うと心が踊る。私の邪な気持ちを知ってか知らずか、遊びちゃんは『よろしくお願いしますね』といって、私に対して握手をしてきた。 挨拶の時に握手をする習慣は、私はあまり馴染みがなかったのだけれど、遊美ちゃんからの握手は断れまい。私は差し出された遊びちゃんの左手を左手で握り返す。そして、『こちらこそ、よろしくね!』と笑顔で言った。 「それで、さっそくなんだけれど」 自己紹介もほどほどに、私たちは例の作戦を開始することにする。 「どうしたんですか?」 遊美ちゃんは突然の私の申し出に、首を傾げながら返事をした。 「実は、遊美ちゃんと麻衣子ちゃんに、ちょこっとしたお願いがあってね?」 私は隣にいるゆっこにアイコンタクトする。それを見たゆっこが、はっとしたような表情をして、私にアイコンタクトを返した。続いて、ゆっこが遊美ちゃんに話を切り出す。 「もしよければ、羽賀男くんも含めて私たちも、遊美ちゃんたちと一緒に遊んでもいいかな? 迷惑じゃなかったら......なんだけれど」 ゆっこが遊美ちゃんに優しくお願いする。それを聞いた遊美ちゃんは、太陽よりも眩しい笑顔でこう言った。 「私はもちろんいいですよ! 麻衣子ちゃんもいいよね?」 遊美ちゃんは待ってましたと言わんばかりの勢いで、頷く。そして、遊美ちゃんの隣にいた麻衣子ちゃんに向かって『いいよね?』と確認した。むしろ、遊美ちゃんの方がノリノリで、麻衣子ちゃんの方が少し困惑していた。そんな麻衣子ちゃんも苦笑いしながらも、しょうがないといった形で私たちが一緒に行くのを了承してくれた。 私たちの住んでいる地区は、都心から少し離れていて住宅街が多く、少し田舎っぽい。しかし、電車で數十分揺られながら都心の方に行くと、ガラリと雰囲気が変わる。人混みが波のように荒れる場所、都会だ。 ここには私たちの住んでいる地区とは違い、あらゆるものが溢れている。ゴールデンウィーク一日目には相応しい場所だと言えるだろう。これからのシーズンに向けて、色々と買いたいものもあるし、おしゃれなカフェやレストランを満喫するのもいい。もちろん、ゲームセンターだってある。 それにしても、連休シーズンに入ると人が多い。普段私の住んでいる町とは、別の世界のように感じるほどだ。 「あっ! ここ新しく出来たスイーツショップだ。ケーキの食べ放題もあるんだって! いこいこ!」 麻衣子ちゃんははしゃぎながら、遊美ちゃんの手を引っ張る。それに笑いながら付き合う遊美ちゃん。微笑ましいなぁ、と思いながら二人の姿を見ていると、未だに緊張しっぱなしでオドオドしているバカオが横目に入った。 「ちょっとしっかりしてよ!」 私がバシンと背中を叩くと、バカオはびっくりしたような表情をして私の方を見ながら背中をさすった。それにしても、仮にも女の子と一緒に出かけるというのに、ジーンズに無地のシャツというファッションは如何なものか。 「いってぇ〜な。何すんだよ!」 「何すんだよ、じゃない。さっきから、一言も喋ってないでしょあんた」 「まぁまぁかっこちゃんも、羽賀男くんも落ち着いて! 勝負はここから、でしょ?」 ゆっこは笑いながら、私とバカオを落ち着かせる。 「とにかく、これがデートだとするのなら、もうすでに戦いは始まっているのよ!」 私はキリッっとキメ顔を作り、バカオを叱咤する。恋愛経験ゼロのお前が言うなって話だけどね。 「そうだ! 羽賀男くん、遊美ちゃんたちをエスコートしてあげなよ。紳士な男の子はモテるよ」 「デデデデート......エスコートトトト」 駄目だ、このままではバカオの頭がショートしてしまう。えぇい、仕方ない! 「ゆっこ! バカオの腕引っ張って!」 私はブツブツと呟いたまま固まっているバカオの左腕を抱えながら、ゆっこにそう言った。ゆっこは呆れ顔でバカオの右腕を抱え、そのままずるずるとスイーツショップに引きずりながら入っていく。 中に入ると、冷房が効いていて心地がいい。そして、甘いフルーツのような、生クリームのような香りがする。周りの席には女性が多く、次にカップルが多かった。今まで行ったことのないお店の雰囲気に圧倒されたのか、バカオの顔色が悪い。 やれやれ。この調子じゃ先が思いやられるぞ、と思いながらバカオを無理矢理引っ張って、三人用の席の真ん中に座らせた。 「ごめんね、遊美ちゃん麻衣子ちゃん。こいつも一緒に座らせてあげてね。私とゆっこは隣の席にいるから」 そう言って、私は三人を置いて隣の席に向かう。さすがに一緒の席になれば、嫌でも話さなくてはならない状況になるだろう。我ながら、機転の効いた良い作戦だったと思う。あとは、バカオが遊美ちゃんに嫌われていないことを祈るのみだ。 「かえこさんは、一緒にこっちに座らないのですか?」 ゆっこが待つ席に行く途中、後ろから遊美ちゃんに引き止められた。急なことだったので少し驚いたけど、一呼吸おき、落ち着いてから遊美ちゃんに言った。 「私たちは、無理矢理付いてきちゃったみたいなものだからね。気にしないでいいよ」 「でも、せっかく一緒に来たのですから、仲良くなるためにも一緒に食べましょうよ」 何とか言いくるめようとしたのだけれど、遊美ちゃんは頑として譲らない。参ったな、どうしたらいいんだろう。そんなに私たちと仲良くなりたいのかな? 内心嬉しいような、でも今はバカオの方を優先させるためにも、距離を取っておきたいというような、複雑な心境である。 「そ、それに遊美ちゃんたちは三人用の席でしょ? それ以上は座れないよ。ほら、他の席もお客さんいっぱいで埋まってるし」 苦しい言い訳だ。確かにお客さんはいっぱいだけれど、午前中だからだろうか? まだ幾分かは余裕がある。 「でも......」 私の袖を掴んで離さない遊美ちゃん。どうしたらいいかと悩んでいると、遊びちゃんの背後から麻衣子ちゃんが声をかけてきた。 「遊美ちゃん? どうしたの? 早くケーキバイキング行こ?」 「え? う、うん麻衣子ちゃん」 なんとか、麻衣子ちゃんが遊美ちゃんを連れて行ったおかげで難を逃れた。ふぅ......ヒヤヒヤしたわ。私はゆっこの待つ二人用の席に座り、一息ついた。 「バカオ、上手く遊美ちゃんと話せるといいね」 「うん......」 ゆっこは、何か悩みでもあるのかうつむき気味で、気の無い返事をする。 「どうしたの? ゆっこ。浮かない顔して」 「ううん、何でもない。ただ......」 「ただ?」 「何だか、遊美ちゃんには気をつけた方がいい気がするの」 ゆっこはただならぬ表情で私にそう言った。突然のことに、私は動揺しながらゆっこに聞き返す。 「ど、どうしたのよゆっこ」 「あのね......遊美ちゃんが、かっこちゃんのこと、じっと見ていたの気づいてた?」 「へ?」 「遊美ちゃん、さっきからかっこちゃんのことじーっと見てるんだよ。何だか、それが私には不気味に見えて......ご、ごめんね。急にこんな変な話ししちゃって」 「ううん、大丈夫だけど......」 遊美ちゃんが、私のことをじっと見ていた? 私は遊美ちゃんの方をそこまで意識して見ていなかったから、分からない。ゆっこの言っていることは本当のことなのだろうか? いや、ゆっこに限って変な嘘をつくはずもない。 「ごめんね、変なこと言って。ただの私の勘違いかもしれないし、羽賀男くんの恋の応援もしないとね!」 ゆっこは、私に謝りながらそう言った。とりあえずゆっこの言葉にうなづき、ふと遊美ちゃんの方を見る。 遊美ちゃんがこっちを見ていた。真顔でじっと食い入るように。背中にゾッと寒気が走る。次の瞬間、遊美ちゃんは私に目を合わせたまま、にっこり笑った。 とっさに席を立ち上がり、皿を片手にケーキを取りに行く。未だに、遊美ちゃんの視線を背中に感じながら、バイキングに並ぶ好物のケーキをいくつか皿に取り、席に戻って取ってきたケーキを口に頬張るも、味わう余裕もない。スイーツショップを出た後も、食べたケーキの味を思い出せないほど強く、遊美ちゃんの目が私の脳裏に焼きついていた。 あれから、デパートに服を見て回ったり、カフェに入って談笑したりしたのだけれど、その度になぜか遊美ちゃんの視線を感じ、振り向くと遊美ちゃんと目が合うということが続いた。何だかそう、確かに不気味だ。 そうこうしている内にすっかり時刻は夕方になり、一旦私たちはバカオの家に戻って来た。そういえば、バカオは遊美ちゃんと、仲良くなれたのだろうか? 気になってバカオの方を見ると、そこには遊美ちゃんと仲良さそうに笑い合いながら、握手しているバカオの姿があった。様子を見る限り、作戦は上手く言ったように思えるけど......。 「それじゃ、私たちはそろそろ帰るね。今日は、一緒に連れて行ってもらって本当にありがとう。また、機会があったら遊ぼうね!」 私は遊美ちゃんたちにそう言って、帰り支度をする。その時だ、遊美ちゃんがトコトコと私の方に近づいて、尋ねてきた。『かえこさんは、どこに住まわれているんですか?』と。 突然の質問に、私は『え?』と聞き返してしまう。すると遊美ちゃんはもう一度聞いて来た『かえこさんのお家はどこですか?』と。 「私の家? ここから近所なんだけど......どうしたの?」 「いえ、ちょっと気になって。今日も一緒に遊べてすごく楽しかったですし、私からも、かえこさんを遊びに誘いたいなって思いまして」 ニコニコと笑顔でそう言う遊美ちゃん。特に怪しい雰囲気とか、邪悪なものは感じない。純粋に、私にそう言っているのだろうと思う。でもなんだろう、ゆっこから話を聞いて以来、遊美ちゃんの視線が気になる。私の考えすぎかな? とりあえず、遊美ちゃんには自分の家の場所を教えて、ゆっこと一緒にその日は帰ることにした。 「何かあったら電話してね? 助けてもらった恩返しもしたいし、私はいつでもかっこちゃんの味方だから」 私の家までの途中の帰り道、別れ際にゆっこはそう言った。心配そうな顔なゆっこに、私は笑顔で『ありがとう! その時は、ぜひ頼らせてもらうね』と元気よく返事をする。それを聞いたゆっこは、安心した様子で手を振り、駅の方へと歩いていった。 遊美ちゃん......別に、悪い子には見えなかったし、そんなに危険な人物にも思えない。でもなんだろう、ゆっこが私を心配していることも気になるし、暫くは警戒しておいたほうがいいかもしれない。そんなことを思いながらふと前方を見ると、私の家の前に誰かが立っていることに気付く。 誰だろう? 日が暮れて来て辺りは暗くなってきてるし、丁度玄関の方が影になって姿が見えない。その人影は、私の家の玄関の扉を開け、中に入って行った。妙な胸騒ぎを覚えた私は、急ぎ足で自宅へと向かう。 「た、ただいま!」 勢いよく玄関を開け、いつものように帰って来たよと合図をする。しかし、家の中は暗く人の気配がしない。おかしい......いつもなら、お父さんとお母さんが出迎えて来てくれるはずなんだけど。お父さんは普通の会社に務めるサラリーマンで、家族思いのいい父だ。残業だろうか? では、お母さんは? 専業主婦で、ほとんど家にいるはずのお母さんの姿さえ見えない。買い物に行っているとしても、部屋の電気を消して買い物にいくとは考えにくい。 額から汗が一雫流れて頬を伝う。何かやばいことが起こっている、私の第六感がそう告げていた。恐る恐る、玄関からリビングの方へ向かうと、ぼんやりとしたオレンジ色の光が辺りを照らしている。一体なんだ? 忍び足で明かりの元へと近づいていくと、ロウソクが一本テーブルの真ん中に立っている。そのロウソクの光がゆらゆらと揺れながら、部屋をぼんやりと照らしているのだ。そして、ロウソクの明かりで出来た影が、すっと伸びて見える。人影だ、まだ暗くてよく見えないけれど、確かにそこに誰かいる。テーブルの椅子に座っているようだ。 動悸が激しくなる。緊張で体が震えた。不審者? それとも泥棒? 嫌な予感が頭の中を巡る。とりあえず、その人影の正体を確かめるために、恐る恐る近づいた。とても怖かったけど、それ以上にあの人影の正体が分からないことの方が、もっと恐ろしかったのだ。 真っ黒な塊に手を触れ、私は愕然とした。これは人だ、間違いない。ただ、ピクリともしない。鞄からスマホを取り出し、ライトで照らしてみる。正体を確かめるために。 「え? お母さん?」 人影の正体は私のお母さんだった。私は動かないお母さんを何度も揺さぶって、声をかけた。しかし、返事は戻ってこない。瞬き一つせず、表情も変わらないお母さん、まるで『人形』にでもなってしまったよう。 訳の分からない状況に息を切らしながら、部屋の電気をつけようと、お母さんのいる場所の反対側へ移動しようとした。するとテーブルを挟んで反対側に、椅子に座る人影を見つけ、恐る恐るスマホの明かりで照らすと、それは私のお父さんだった。お父さんも、お母さんと同様に『人形』のように固まって動かない。 「な、なんなのこれ......? 一体どうしてこんなことに」 スマホで周りを照らしながら、部屋の電気を探す。そして、ようやくスイッチを見つけ電気を点けると、部屋が明るくなり、周りが見渡せるようになった。テーブルの中央にはロウソクが一本、ケーキの上に立てられている。まるで誕生日の日に、ケーキにロウソクを立てるみたいな光景だ。ただしケーキは小さく、およそ一人分しかないし、ロウソクだって一本だけならあまり祝うという気分にはなれない。むしろ、異様な光景だ。 それを取り囲むように、私のお父さんとお母さんがテーブルを挟んで、互いに反対側に座っている。今ここで、私の家で、私の家族に一体何が起こっているというのだろうか。あまりに奇妙で気色悪くて、非現実的な出来事に私の感情が追いつかない。すると、誰かの足音が聞こえた。まっすぐこちらに向かってくる。 思わず身構えた。この家に、私と両親以外に住んでいる人はいない。つまり、この足音は私たち家族以外の第三者だ。お父さんとお母さんを、まるで『人形』みたいにした張本人である可能性が高い。緊張で息が切れ、動悸がさっきよりも激しくなった。 音はこちらに向かってどんどん近づき、ついに足音の主は私のいるリビングに入ってくる。 「え、遊美ちゃん?」 私の目の前に現れた、足音の主。遊美ちゃんが、何食わぬ顔で私の前へと現れた。たしかに、私は遊美ちゃんに自分の家の場所を教えた。しかし、だからと言ってその日のうちに来るか? おかしい、何かがおかしい! 「こんばんは、かえこさん。いえ、かえこおねえちゃん」 「遊美ちゃん......だよね? どうしてここにいるの?」 「実は、今日はね? 私の誕生日だったんだ。だから、私の新しい『家族』に祝ってもらおうと思って」 「な、何を言っているの? 遊美ちゃんのお家はここじゃないでしょ?」 私は困惑した。誕生日? 私の新しい家族? 意味がわからない! 遊美ちゃんが内心どう思っているのか、私には皆目検討もつかない。ただ、これだけは分かる。今、私の家族にとんでもない災厄が降りかかっているということだけは! 「私、ずっと探していたの。私の本当の『家族』を。生まれたときから私は一人で、知らない人ばかりだった。でもね? 私には分かるの。私の本当の『家族』は普通の人とは違う。なぜなら、私も『普通』じゃないから」 「何が......言いたいの?」 「一目見たときから、私には分かったんだ。かえこおねえちゃんは、普通の人とは違う! 雰囲気というか、オーラというか、目の奥がキラリと光っているというか。他の周りの人間たちと全然違うの」 何を言っているの? 普通の人とは違うって......まさか。私の能力は、バカオとゆっこにしか話していない。家族にさえずっと秘密にしてきたことを、遊美ちゃんは知っているというの? いや、話の流れ的に考えて知っているというより、感じている......? そして、遊美ちゃんが言っていた『私も普通じゃない』という言葉の意味。 まさか、松坂桃李と同じ......それとも別の力? 分からない、ただ今の私に分かることは、とにかく遊美ちゃんを止めなきゃならない、ということだけだ。 「お母さんとお父さんに何したの!」 私の質問の意味が分からないといった様子で、遊美ちゃんは首を傾げる。 「何って。かえこおねえちゃんだって、持ってるでしょ? 他の人間には無い、『特別な力』を」 「特別な......力?」 「そうだよ? これが私の力。私が一度でも触れたことのある人間は、もう私の思い通りに出来るお人形さんになるんだよ?」 一度でも......触れたら人形に......? 次の瞬間、足に何かにつまずいたような感触が走り、私は思わずその場に倒れてしまった。すぐに立ち上がろうと足を上げようとするけど、何故か上手くいかない。何か変だ。足のつま先が......足首が、まるで石になってしまったかのように、固まって動かない。四つん這いの姿勢のまま、動くことが出来ないのだ。 「な、なんで......?」 「かえこおねえちゃんは、もう私のお人形さんになっちゃったんだよ? 気付かなかったの?」 足首から徐々に固まって、動けなくなるような感触が襲ってくる。遊美ちゃんに触られていた......? 一体どこで!? いや、冷静に今日のことを思い返してみる。 私は遊美ちゃんに触られている。遊美ちゃんに初めて会った、『あの時』だ。遊美ちゃんと『握手』をした時から、私は遊美ちゃんの『人形』になると決まっていたという訳か。 しかし、まだ諦めるには早い。そうだ、私には遊美ちゃんと同じ特別な能力がある。追い詰められた状況を、逆転する秘策がある! ただ、もうすぐ完全に足どころか腰から下が動けなくなるこの状況で、どうすれば『ブリッジ』出来る? 普通に考えれば無理だ、そんなこと。あの『反逆』の力を使うためにはどうしても、ブリッジしなければならないのに、私一人ではどうすることも出来ない。 その時、私はゆっこの言葉を思い出した。 『私はいつでもかっこちゃんの味方だから』 そうだ、私は一人じゃない。今がまさにその時だ、親友を頼る時なのだ! 私は今だに右手に握りしめたままだったスマホを思い出し、バカオの携帯へと電話をかける。バカオの家は、私の家から徒歩でも数分しかかからない。まずはバカオに助けを求めよう! プルプルとコール音が鳴る。内心早く出ろと焦りながら、遊美ちゃんに気付かれないように、スマホを袖の中に隠した。 しかし、私の思惑は思わぬ形で裏切られることになる。 近くで誰かの電話の着信音が聞こえた。聞き覚えのある音、それは間違いなくバカオのスマホ着信音だった。 「なんなの?」 遊美ちゃんは不満をそうに呟くと、リビングを出て行く。しかし、ものの数分でまたこちらへと戻ってきた。バカオを一緒に連れて。 「え? バカオ......?」 バカオは私の言葉に反応することなく、無表情で遊美ちゃんの横に立っている。遊美ちゃんは、バカオの携帯を手にして私の方に、見せびらかすように揺らしていた。スマホの画面にはしっかりと、私の名前が表示されている。 「あはは! かえこおねえちゃん駄目だよ。助けを呼ぼうなんて、無駄なんだから。この人はね? 今は私の『操り人形』なんだよ? かえこおねえちゃんも、他のみんなもいずれそうなるんだから」 遊美ちゃんは満足げにそう言った。そして、バカオのスマホの着信を切り、テーブルの上に置く。 私の体は足の方から、ドンドン固まって動けなくなっていっているというのに、私はどうすることも出来ないの!? いや、まだ諦めるわけにはいかない。まだ、手は動かせるのだから今度はゆっこに! 携帯の着信履歴からゆっこの名前を探す。急げ! 手が完全に動かせなくなる......その前に! 「あっ......!」 ついに、私は手で体を支えられなくなりその場に突っ伏した。もはや、四つん這いでいることすら出来ない。顔を横にずらし何とか息をするも、苦しくて息が詰まりそうだ。 「残念だったね、かえこおねえちゃん。苦しいのは一瞬だけ、それが終われば私たちは永遠に家族になれるよ」 遊美ちゃんは満足げに、私に向かってそう言った。時折、声を押し殺すかのような、クスクス笑いも聞こえる。 「え、永遠の家族?」 「ええ、そうよ。絶対に引き裂くことが出来ない、私だけの私の永遠の家族。素敵でしょ?」 「ええそうね」 私がそう言うと、遊美ちゃんは『かえこおねえちゃんなら、分かってくれると思っていた』と嬉しそうに言った。 「でも、残念だけれど、私はあなたの家族になれそうにないわ......永遠にね」 遊美ちゃんが怪訝そうな顔をして、私に問いただす。 「どういう意味?」 その時、リビング内に着信音がこだました。突然のことに、遊美ちゃんの注意が逸れる。鳴っているのは、私の携帯だ。 「な、何!? 携帯......?」 遊美ちゃんはつかつかと私の方に近づくと、おもむろにスマホを取り上げた。私は遊美ちゃんに抵抗することは出来ない。もはや、指一本動かすことすら出来ないのだから。遊美ちゃんは取り上げたスマホの画面を見ると、乱暴にスマホの電源を切った。 「いつの間に電話をかけてたの? しかも優子さんに。 でも、無駄な足掻きだわ。かえこおねえちゃん、何をしても、もう遅いんだよ?」 「いえ、違うわ。遅かったのはあなたの方よ、遊美ちゃん、あと一歩遅かったわね」 「一体何を言っているの......?」 私はゆっこのことを信じている。遊美ちゃんにスマホの電源は切られてしまったけど、ゆっこなら......あの着信一回で『気付いてくれる』はずだ! 次の瞬間、私の家の電話が鳴り響いた。遊美ちゃんの視線はそれに釘付けになる。それだけじゃない、テーブルに置かれたままだった、バカオのスマホの着信も鳴り出した。遊美ちゃんは、何が起こっているのか分からず、うろたえている。意識は完全に私から、着信の方へと逸れた。 完全に私に背を向け、やけになって電話機のコンセントを引き抜き、バカオのスマホの電源を乱暴に落とした遊美ちゃんに向かって、立ちあがって見せながら私は言った。 「私の勝ちよ」 声に気付き、振り返る遊美ちゃん。苛立ったような顔をしながらも、まだ余裕がある表情だ。私に向かって、一体何が出来るんだという感じで鼻で笑いながら言った。 「立ちあがったから何? 確かに、ちょっとだけ意識が逸れちゃって、少しの間動けたみたいだけれど、それでもまだ、足は固まったままでしょ? かえこおねえちゃんは私の操り人形なんだから、何をしても私の思い通りにしか、動けないんだよ!」 「遊美ちゃん、あなた私に向かってこう言ったよね? 私は『普通の人と違う』って。その通りよ、私もあなたと同じ、普通の人には無い力がある!」 「ま、まさか......いえ、させない!」 遊美ちゃんは、私を完全に人形に変えようと動く。しかし、ほんの一瞬、刹那の差で私が早かった。次に何をするか、すでに頭の中で決まっていたのだから、考えて動いた遊美ちゃんより早く動き出すことが出来た。 背中を思いっきり逸らし、ブリッジの姿勢を取る。さあ、反逆の時間だ。 次の瞬間、私は完全に人形になった。身動き一つ取れず、身体はマネキンの様に硬い。そんな私を見て、遊美ちゃんは勝ち誇ったように言った。 「遅かったのは、かえこおねえちゃんの方だったみたいだね。だって、ほら変な格好のまま固まっちゃっているよ? 人形みたいにカチカチで動けないでしょ? ふふふ、これかはずっと私の家族だよ」 遊美ちゃんが一歩一歩、私の方へと近づいてくる。その時、ぐしゃりと何かを踏みつぶすような音が聞こえた。ピタりとその場で動きを止める遊美ちゃん。次の瞬間―― 「ぎにゃああああああ!」 凄まじい絶叫が部屋中に響き渡った。と、同時に私の体がブリッジの姿勢から急に崩れて、仰向けに倒れる格好になる。身体の硬直が解けたのだ。それは、遊美ちゃんの意識が私から逸れたことを意味する。私だけじゃない、バカオもお父さんもお母さんも、遊美ちゃんの呪縛が解けて自由の身になった。お父さんとお母さんは、長い間人形にされたままだったせいか、机に突っ伏し気絶している。バカオは腰から砕けて、その場にへたり込んだ。 「い、いったいなんだ?」 バカオは息を切らしながら、絞り出すようには私に向かって尋ねる。人形にされていた間、意識が無かったのか、混乱している様子だ。私は起き上がり、目の前で起きている光景を確認してから言った。 「どうやら、しっかり『逆転』出来たみたいね」 遊美ちゃんは私の目の前で、尻もちをつきながら固まっている。顔からは大量に汗が吹き出し、何かに脅えているような表情をしていた。身体も小刻みにプルプルと震えている。一体何があったというのだろうか? 答えは遊美ちゃんの足元にあった。 「ゴ、ゴキブリ?」 遊美ちゃんの足元には、潰れたゴキブリの死骸が横たわっていた。なるほど、遊美ちゃんがこうなった原因はこれか。 「だ、だめなの......ゴキブリだけは......だめなのぉ!」 遊美ちゃんは目に涙を貯めながらそう言った。どうやら、よっぽどゴキブリにトラウマがあるみたいで、先ほどまでの威勢はどこへやら。その場でプルプルと震えながら、身動き出来ないといった感じだ。『永遠の家族』が、どうのこうの言っている場合じゃないらしい。 「遊美ちゃん、ゴキブリ嫌いなの?」 遊美ちゃんは返事をする代わりに、首をゆっくり縦に動かして応答した。先ほどまでとはまるっきり、百八十度違う遊美ちゃんの態度に、何だかかわいそうに思えた私は、ゴキブリの死骸をティッシュでくるんで包み、ごみ箱へと捨てた。それにしても......状況は逆転できたとはいえ、家にゴキブリが湧く状況は好ましくない。後でゴキブリホイホイを買いに行かなくては。 「し、小学生の時......トイレ掃除してたら、上から降ってきて......顔にっ!」 遊美ちゃんはそれ以上、話せないといった態度で口をつぐんでしまった。私もこれ以上、遊美ちゃんのトラウマを抉ろうとは思わない。しかし、このまま放っておけば、遊美ちゃんはまた誰かを人形にするかもしれない。そもそも、私や私の家族、そしてバカオを『操り人形』にして支配しようとしていたのだ。 どうするべきか。警察に突き出すわけにもいくまい。ふぅむ。 私が悩んでいると、放心状態で座り込んだままのバカオが、急に思い出したように言った。 「あれ......おかっぱ? 遊美ちゃん? ここは......?」 バカオは、ここがどこだか分かっていないらしい。恐らく、一人で知らない場所や家に行くのが心細かった遊美ちゃんが、自分に好意を持っていたバカオを操り人形にして、用心棒がわりにしていたのだろう。 私が状況を説明しようと、バカオの方へ話しかけようとすると、急にバカオが床にへたり込んだままの遊美ちゃんの方へ指差して、『頭の上に何か乗っかってる』と言い出した。 「え?」 思わず遊美ちゃんは頭を上に向けた。その拍子に、『それ』は遊美ちゃんの顔に這い上がってくる。 「い、いやぁぁぁぁぁぁ!」 遊美ちゃんは絶叫した。と、同時に『それ』こと『ゴキブリ』が大きく羽を広げて飛び立つ。しかし、体が大きくて重いせいか、ハンググライダーのように滑空することしか出来ずに、しばらく辺りを漂ったあと、地面にぼとりと落ちた。 「な、何とかしてぇぇぇぇぇぇ!」 遊美ちゃんは涙を流しながら私にしがみついてきた。私はため息をつくと、部屋の隅からお母さんが掃除に使う為にとっておいた新聞紙を数枚取って、くるくると棒状に丸め、未だ床にじっとしているゴキブリに向かい目にも止まらぬ速さで、振り抜いた。ゴキブリはとっさに逃げようとするも、逃げ切れずに私の新聞紙の餌食になる。 パン! という鋭い音が部屋に響くと、さっきまで元気だったゴキブリはすっかり大人しくなっていた。 私にしがみつきながら、ずっと隠れていた遊美ちゃんが、私の行動を見てぼそりと呟く。 「はわわ......すごい。ゴキブリを退治しちゃった」 「別に。お母さんの実家がすごい田舎で、遊びに行くと必ずゴキブリが出るから、慣れちゃっただけだよ」 私が静かになったゴキブリを片付けながらそう言うと、遊美ちゃんは私のことを羨望の眼差しで見つめ出した。参ったなぁ、なんて思っているとそれまで惚けていたバカオが立ち上がりーー 「俺だってゴキブリには強いぞ! なんせ、ゴキブリバスターなんて異名もあるくらいだからな!」 と自信満々に言い始めた。はぁ、だったら早く私の家のゴキブリを何とかしてくれ。 「かえこおねさま! 今日も遊びにきましたよ!」 松坂桃李の件といい、昨日の件といい、ハードな日常によって受けたダメージを回復しようと、ぐっすり寝ていたと言うのに、午前七時に私の家のインターホンを連打するバカは誰だ!? と、ドアを開けるとしばらく顔も見たくないと思っていた、あの子が立っていた。 「遊美ちゃん......こんな朝早くから何の用?」 「きゃぁ! パジャマ姿のかえこおねえさまも素敵です!」 昨日の一件以来、遊美ちゃんは私のことを、おねえさまと呼ぶ。ゴキブリから救ってくれた救世主だそうだ。昨日は遊美ちゃんを先輩としてこってり然り、もう二度と自分勝手な理由で能力を使わないと誓わせ、スーパーでゴキブリホイホイを買ったり、家の後片付けをしたり、お父さんとお母さんを起こしてなんとか事情を説明したり、忙しかったのだ。だから、そっとしておいて欲しかったのだけれど......。 「パジャマを褒めてくれてどうもありがとう。ごめんだけど、今日は疲れていて、遊美ちゃんと話している気力は無いの」 「いえ、今日は昨日のご迷惑とかえこおねえさまのご両親への挨拶も兼ねて、私が色々とおねえさまのお世話をしますので、おねえさまはゆっくりしていてください!」 いや、あなたがいるとゆっくり出来ないのだけれど! 私の心を知ってか知らずか、グイグイと私に近づき、中へと入ろうとする遊美ちゃん。私が入らせないようにドアの前に立って抵抗していると、突然私の名前を呼ぶ声が聞こえた。 「かっこちゃんと遊美ちゃん......?」 「え、ゆっこまで......どうしたの?」 「私は昨日、かっこちゃんが大変だったから大丈夫かなって様子を見に......一応メッセージも送ったんだけど」 私は昨日、ゆっこに助けられていた。異変を察したゆっこの咄嗟の機転により、遊美ちゃんの気を引く事が出来たのだから。しかし、昨日はスマホに触る余裕も無く、ベッドに倒れるように寝てしまっていた。と、私が呆けている一瞬を見計らい、遊美ちゃんが私とドアの隙間から家の中へと勝手に侵入する。はぁ......もう入ってしまったものはしょうがない。と諦めて、私は玄関のドアを解放する。 「ようこそ、反町家へ」 「かっこちゃん、大分疲れてるみたいだね」 ゆっこは苦笑いしながらそう言った。いっそのこと、バカオも呼ぶか。いや呼ばなくても、こちらに遊美ちゃんがいると分かれば、勝手に来そう。 ゴールデンウィークはまだ始まったばかり、先が思いやられるわ。 |
キーゼルバッハ 2018年04月29日 20時38分16秒 公開 ■この作品の著作権は キーゼルバッハ さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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