告白

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「告白しようと思うんだ」
 そんなことを聞いたのは由美がお昼を食べ終えて生徒会に行った友達からのメッセージを返しているときだった。
 あまりに唐突な健二の告白に、由美は携帯片手に怪訝な顔をする。
「告白って何の?」
「告白って言ったら一つしかないだろ。愛の告白だよ。I love youと伝えたい」
「だから?」
 テンポにのせて戯曲的にそう言う健二に、由美は興味なさそうに相槌を返す。
 健二は真顔に戻り、恥ずかしそうに小さな声で抗議の意を表する。
「……なんかもっとこうないのか? リアクション的なやつ」
「って言っても相手も知ってるし、結末も大体想像つくし」
 そう。由美は相手を知っている。というか気づいていた。だいぶ前から。
 だがそれは健二にとっては驚きの発言だったようで、驚きの表情で固まっていた。
「な、なんで知ってる!? まさか俺の秘密の日記を読んだのか!?」
「そんなの読むわけないでしょ。本棚の一番上の奥なんて面倒な場所に隠してるもの」
「なんで場所を知っている!?」
「知らないわよ。参考書のカバーで偽装してたなんて」
「知ってるじゃないか!?」
 とはいえ昔は楽しかったが今はもう飽きてしまってしばらく読んでない。健二が彼女に恋心を抱いたのは恐らくそのあとだから、日記で知ったわけではないのは本当だった。
「っていうか結末知ってるって言ってた? 俺の恋の結末はどうなるの!?」
 情報漏洩よりも直近の課題である告白のほうに重きを置いているらしい。健二は由美が口を割らないとなるとすぐにそちらに話題を移した。
 由美はワンテンポおいて携帯から視線を外し、顔を上げる。
 その顔には哀しそうな表情を浮かべていた。
「私の口から言わせる気?」
「言いにくいことなのかよ!」
 撃沈したように机の上に顔を伏せる。
 可哀そうだがこればかりは仕方ない。由美が援護しようがどうしようもないハードルというのが、彼女にはある。
「健二も知らないわけじゃないでしょ。あの子の事情」
 健二は机に突っ伏しながらうめくように答える。
「俺だって成算が低いことは知ってるんだ。だからこそできることはしておきたい」
「うん。それで?」
 いつの間にか由美は再び携帯に視線を落としていた。
 だが話は聞いているようで相槌は返ってくる。ならばと健二は続ける。
「まず形式を整えたい。ありきたりな告白じゃなく、ちゃんと心に残る告白をしたい」
「うんうん。間違ってないよ。続けて」
「データとか思い出とかじゃなくてちゃんと形に残るやつ。加えてちゃんと俺の誠意が伝わるやつ」
「それは違うと思うの」
「え……?」
 まさかそこで否定されるとは思わず、健二は固まる。
 何か間違っていただろうか。いや、何も間違ったことは言っていない。ならば何かが足りなかったのだろうか。
 由美は諭すように続けた。
「いくら誠意を見せたとしても許せないことってあると思うの」
「え? それは確かにそうかもだけど……」
 言外に健二はいくら誠意を見せたとしても振り返ってもらえないといっているのだろうか。そこまで絶望的ではないと思っていたのだが……
「いくら何でも合コンに行くのはいくら彼女に事前に報告して誠意見せていてもアウトだと思うの」
「お前何の話してるの!?」
「え? もちろん聡から女の子とお茶して帰るってメッセージが届いたからそれは間違ってるって……」
「俺の告白の話はどこ行った!?」
 健二が叫ぶと由美はきょとんとした表情を浮かべた。
「それまだ続いてたの?」
「続いてたも何もどこで終わったと思われたのかすごい気になるんだけど」
 まさか現実性がなさすぎるから勝手に終わったものと判断されたんじゃ……
 不安になる健二をよそに由美は退屈そうに頬杖を突く。
「ああ、うん。そうか。まだ終わってなかったね。じゃあさっさと終わらそ?」
「えっと、うん。まあ結論から言うとラブレターを送ろうと思うんだけど」
 ゆっくりと演出を交えながら進めたい健二としては不本意だったが、さっさと結論に入る。また飽きて妙なところに話をもっていかれても困るからだ。
「いいんじゃない? 古風で雰囲気出てると思うよ。それで聡のことなんだけど……」
「待って。これからが本題なんだ」
「はぁ?」
 まだ続くのかと由美は思いっきり顔をしかめる。その反応に健二はやりにくそうに眼をそらす。
 その視線は教室の中をあてもなく動き、ある一点で固まった。
 その不自然な反応の意味を探ろうと視線の先を追って一人の女子生徒が近づいてくるのをとらえて、由美は納得した。
「ねえ、二人で何の話してるの? 浮気?」
「冗談やめてよ。何でこんな奴と」
「でも由美って平野君と仲いいよね。今日も一緒にお昼食べたんでしょ」
 平野とは健二のことだ。
 由美は小さいころからずっと健二呼びだったから逆に違和感がある。
「今日は美和が委員会でいなかったから、たまにはいいかなって」
「じゃあ今日だけなの? 明日も二人で食べるなら私も混ぜてもらおうと思ったのに」
 ころころと笑う彼女に、由美は合わせて笑う。
 彼女こそが健二の片思いの相手の本田真理だった。
 丸っこい目をした愛らしい顔に人懐っこそうな表情を浮かべる彼女は、学校中の男子の人気者だった。
 ただし今は事情があってフリーの状態が続いている。だから健二に芽があるかというとけっしてそんなこともないのだが。
 果たして健二自身はそのところどう思っているのかと横を見て、由美は思わずぎょっとする。
 冷房が効いているはずなのにだらだらと汗を流し、視線は意味もなくきょろきょろ動いている。いろいろと挙動不審だった。
 要するに極度の緊張でおかしくなっているのだった。
 真理も似たようなことを思ったのだろう。心配そうな表情で健二に話しかける。
「平野君大丈夫?」
「えあ?」
 急に話しかけられて、健二は妙な声を出す。
 まずい。
 反射的にそう思った由美は慌ててフォローに入る。
「大丈夫大丈夫。健二はたまにこんな感じになるから」
「そうなの?」
「そうなの。薬飲めば直るから」
「薬? 頭痛薬とかだったら私持ってるけど」
 なおも言い募る真理に、由美は心配するなと笑い返す。
「渋谷の路地裏にいるジョンからしか買えないやつなの。とってもハイになれる不思議な白い粉なの」
「……それ本格的にダメじゃない?」
 由美の話術で真理は引きつった笑みを浮かべる。
「それで何の用?」
 ぼろが出ないうちに用件を聞き取って追い返そうと由美は話を進める。
「えっとね、平野君に用があって」
「お、俺?」
 まさか矛先が自分に向かってくるとは思わず、健二は動揺する。
 そしてそれは由美も同じだった。今まさに真理に告白するための話をしているときに、その真理から話があるというのはいったい何を意味しているのか。
 二人が緊張に背筋を伸ばす中、真理はごくごく自然に言う。
「先生が呼んでたよ。職員室に来いって」
「ああ、うん。わかった」
 都合のいい幻想に支配されかかった健二はそれを聞いてコンクリブロックで殴られたような衝撃を受けるも、そんなことをみじんも感じさせずに引きつった笑顔で答える。
「えっと、ちなみに呼んでいた先生って……」
「私が呼びに来たってことは?」
「そういうことだよね」
「うん、そういうこと。じゃあね」
 それだけ言うと真理は手を振って二人から離れる。女子の群れに飛び込む真理の背中を見送りながら、健二は蒼白な顔を由美に向ける。
「お前なんてこと言ったんだ! あれじゃあ俺が変な薬使ってるみたいじゃないか」
「でも健二が真理のことを好きなのを隠すためには何か言い訳しないと」
「それにしても何であれなんだ! 渋谷の裏路地ってどこ!? ジョンって誰!?」
「昨日昔のドラマ見てたらそんな場面があったのよね」
「そのせいで振られたらどうしてくれる!」
「大丈夫よ。どのみち振られるから。それで、本題って?」
 健二はいまだ納得できないような顔をしていたが、いまさら言っても仕方ないと割り切ったのだろう。「本題」とやらに話を戻す。
「添削をしてほしいんだよ」
「あ、ラブレターの話?」
 忘れていたように由美が言うと健二はうなづく。
「そういうこと。女子の目線から見て変なことが書かれてないか見てほしい」
「まあそれくらいならいいけどさ。そのあとちゃんと私の愚痴にも付き合ってもらうからね」
「わかってるよ」
 そう言ってカバンからラブレターを取り出そうとする健二はさっと顔色を青くする。
「どうしたの?」
 様子の変化を察した由美が声をかけると、健二は、ギギギと擬音が聞こえてきそうなぎこちないしぐさで振り向いた。
「ラブレター……どこかに落としたみたい」


 放課後になり、健二は職員室のドアをたたく。
 顧問の先生方が指導に行っているからか、中はいつもと違いどこか閑散としていた。
 そんな中、健二は呼び出しを受けた先生のもとに向かう。
 がっしりとした体つきの先生だった。いかにも昔スポーツをやっていたような感じだが、本人曰くスポーツは授業以外ではやったことがないという。発達した大胸筋を見る限り全く信じられないが、「生きるとは鍛えることだ」などと訳の分からないことをいっているくらいだから、熊とか野生動物と戦っているうちに鍛えられたのだろうと健二は勝手に考えていた。
「ども、本田先生」
 健二の軽いあいさつに、本田幸一は鋭い眼光を健二に浴びせる。
 威圧感たっぷりだが、健二がニヘラと笑って受け流すと、幸一はため息をついた。
「平野、呼び出された理由はわかっているか?」
 そう問われ、思考を巡らすも、まったく思いつかない。
 しいて言えば定期試験前ということだろうか。だが健二が学年最下位を取るのはいつものこと。取り立てて騒ぐほどのことでもないように思えた。
「まったく見当もつきません」
「そうか。ちなみに試験のことだとは思わないのか?」
「だって今更でしょ?」
「それはそうだが……」
 開き直っているような健二の態度に幸一はどこか納得いかないような表情を浮かべたが、実際そうだと思ったのだろう。それ以上追及はせずに、引き出しを開けて何かを取り出した。
「これのことだ」
 幸一が机の上に置いた便箋を見て、健二は顔色を変える。
「先生、それって……」
「そうだな。お前の書いたラブレターだな」
 それは先ほど健二がなくしたと思っていたラブレターだった。
「見たんですか!? プライバシーの侵害だ!」
 教師とはいえ、許されないことはある。
 特に昨今の風潮を見るに教師が生徒のラブレターを勝手に見て笑いものにするなど許されることではない。
 憤る健二に、だが幸一はひるむことはなかった。
「俺だって見る気はなかったさ。このラブレターが真理宛でなければな」
 このラブレターは本田真理に向けたもの。
 そして幸一の姓は本田。
 真理は幸一の実の娘だった。
「いや、父親でもプライバシーっていうものが……」
「父親には娘に悪い虫がつかないよう監視する権利と義務がある」
「そんなの一体どこに……」
「基本的人権は人間が天から与えられた権利だ。それと同じようにこれは父親が天から与えられた権利と義務だ」
「そんな無茶苦茶な……」
 断言する幸一に健二は顔をしかめる。
 由美が無理と言っていたのは何も健二がモテないからではなかった。
 真理にはこの父親がいるからだ。
 真理は整った容姿とほんわかとした雰囲気で中学のころから人気の女子生徒の一人だった。にもかかわらず高校に入ってから近寄ってくる男子がめっきり減ったのはこの父親がいるからだった。
「だが俺も何も頭ごなしに言っているわけじゃない。ちゃんといい人が相手であれば邪魔はしない」
「なら見守っててくださいよ」
 悪びれることなくそういう健二に、幸一はあきれたような表情を浮かべた。
「お前は自分が親目線で見ていい人な自覚があるのか?」
「だって僕、女遊びなんてしませんし」
「しないとできないでは天と地ほども差があるな」
「酒も飲みませんからそれで身を持ち崩すこともありません」
「そもそもまだ法律上許されてないからな」
「まあ家は確かに普通の家で金持ちとかではないですけど」
「待てよ。家の話に行く前に一つ見過ごせない点があるだろう」
「ほかに何かありましたっけ?」
 首をひねる健二に、幸一は怒鳴るように言う。
「定期テストで学年最下位が定位置のやつに娘はやれん!」
 幸一の叫びに、これまで見て見ぬふりをしていた同僚の教師たちが一斉に視線を向ける。
 無数の視線を浴びてなお、健二はぽかんとしていた。。
「え? そんなことで?」
「そんなこととは何だ。大事なことだ」
「確かにそうですけど」
「そんなわけでこのラブレターを渡すことは認めん」
「そんな! 横暴だ! 教師だろうと父親だろうとそんな権限はないはずです! 恋愛は個人の自由だ!」
「確かに恋愛は個人の自由だ。だがそれなら恋愛の邪魔をすることだって個人の自由だ」
「くっ! 教師のくせに揚げ足取りを!」
 意地悪そうな笑みを浮かべる幸一を見て、健二は歯噛みする。
「告白したければするがいい。だが家で一日につき一つお前の悪口を吹き込んでやる。日を追うごとに好感度が下がっていくさまは見ものだな」
「卑怯だぞ! それが教師のすることか!」
「教師である前に一人の父親だからな」
「いや父親としても最低だからな!」
 けらけらと笑う幸一を、健二は憎々しげににらみつける。
「とはいえ、俺も話の分からない男ではない。お前が次の定期テストで全教科平均点以上を取ったら娘との交際を許してやろう」
「言いましたね! 男に二言はありませんよ!」
「無論だ。とれるものなら取ってみな」
 挑発するようなその口調は、健二に平均点などとれるはずがないという教師としてはあるまじき自信に満ちていた。
 しかしそれが健二に火をつける。
 こうして男二人の間に火花が散っていた。


 平均とはある一定の方法で算出される中間的な大きさのことだ。その算定方法にはさまざまであり、メリット・デメリット様々だが要するにみんなが取れる問題を取っていればとれる点数ということ。そう考えると幸一の言っていることもあながち無茶なことではなかった。
 ただし……
「絶対無理だよ」
 帰り道、健二は早速由美に弱音をこぼしていた。
「まあ全教科っていうのはね」
 全教科というのがネックなのだった。
 誰にでも得意不得意はある。そんな中全部の教科でみんなが取れる問題を取るというのは意外に難しい。
 苦手科目が一つや二つならそれらを集中的に訓練すればいいが
「健二の場合は全教科苦手だもんね」
 むしろ健二の場合は得意教科がなかった。強いてあげれば国語くらいだが、それとて平均よりは下回っていた。
「勝てる勝負を仕掛けて陰でほくそ笑むなんて。なんて非道な奴だ」
「教師がテストでいい点を取れっていうのは別に非道でもなんでもないでしょ。まあ、やり方はだいぶ悪役っぽいけど」
 由美がそう諭すと健二は落ち込んだようにうつむいた。
「で、あきらめるの?」
 問いかけにも答えず下を向きながら歩いている。
 健二は悩んでいた。
 まともに勉強している奴ならともかく自分に全教科平均点というのはそれほどの難題に思えた。
「真理、彼氏ほしいって言ってたな」
 そんな健二を見て由美は挑発するようにそう声をかけてくる。
「真理ね、中学までは結構人気だったんだよ。でも高校に入ってからぱったりとなくなった。何せあの先生が親だもんね。生半可な気持ちじゃ言い寄れないよね」
 真理には幸一という壁がある。
 逆に言えば平均点さえ取れればその最大のハードルがなくなるわけだ。そう考えればお得な勝負ともいえるが……
 やはり健二に平均点を取るのは荷が重い。
 だが、
「別にそれでもいいと思うよ。告白なんてしちゃえばこっちのものだしね。あとで小学生も顔負けの意地悪されるかもだけど」
「あきらめない」
 健二はぽつりとつぶやいた。
「わずかでも可能性があるならせめてあがいてから諦めたい」
 その絶望的な回答に対し、由美は口元をほころばせた。
「なら私が勉強教えてあげる」
 はじかれたように健二が顔を上げる。
「いいのか?」
「別にいいよ。もともと私、試験前に一生懸命勉強するタイプじゃないし」
「でも由美って成績いいよね?」
「そんなことないよ」
「この前学年で一番じゃなかった?」
 数学だけという条件付きではあるが、由美は何度か学年で一番を取ったことがある。にもかかわらず成績が良くないというのは謙遜が過ぎるが、
「所詮母数が母数だから」
 要するに周りがばかだから自分が一番をとれるだけでそんなに頭がいいとは思っていないということだった。
 ほかの人が聞けば嫌味に感じるだろうが、健二は知っていた。由美は純粋にそう思っているのだ。
 思うところはあるが、学年でトップクラスの由美においせてもらえるのは悪いことではない。
「じゃあ頼んだぜ」
「任せといて」
 由美はそう言って胸を張った。


 誰かにものを教えるにはまずその人がどれだけできるのかを確かめなくてはいけない。
 いくら由美が健二の幼馴染でよく知っているとしても、その工程は避けて通れない。
 そして健二の学力を図るために行った模擬テストを前に、由美は固まっていた。
「まさかこんなにできないとは……」
 その絶望的な点数に由美は頭を抱えた。
「こんなもんだろ?」
 対して当の本人は気楽なものだった。
「あんたここからどうやって二週間で人並みの点数が取れるようにすればいいのよ」
「それはもちろん由美大先生の一発逆転の秘策を使ってじゃないか?」
 気楽な健二に由美は盛大にため息をつく。
 だがいつまでも落ちてはいられない。由美は気力を振り絞って健二を諭す。
「あのね、健二。勉強っていうのは積み重ねなの。ごく一部の天才を除いて、一つずつ積み重ねるしかないの」
 健二と周囲に開いた差は義務教育が始まってからのおよそ十年の間、少しずつ、少しずつ開いていったものだった。一日一日は大したものではないかもしれない。それこそ漢字一文字分を覚えたかどうかの差しかないかもしれない。だがそれが十年の間に積もり積もって大きな差となっていた。
 何とかサルにでもわかるようにわかりやすくそんなことを話した由美は、絶望的な表情の健二に告げる。
「まあそんな顔しないで。張りぼてでも平均とるくらいなら何とかなるかもしれないし」
 由美に諭され、健二は教科書を開く。
 とはいえ由美はそれほど絶望はしていなかった。
 学期が始まって三か月ほどたってなお新品同然だった教科書がよれていたからだ。
 それすなわち昨日健二が自発的に勉強したことに他ならない。
 確実に前進している。あとは二週間後までどれだけ追い上げることができるか。


「じゃあちょっと休憩しようか」
「だあ~~~」
 由美がそう声をかけると健二は一気に机に寝そべる。
 疲れるのも当然だ。こんなに勉強したことなど健二の人生で初めてのことだろう。
 健二への差し入れと、自分へのご褒美も兼ねて由美は自販機に向かった。
 自販機は図書館を出てすぐの休憩室においてある。
 歩きながら図書館が閉まるまでどれくらいかと時計を確認する。確か図書館が閉まるのは七時くらいだったはず……
 携帯を開いて由美はびくっと体を揺らした。
 七時十分。もう閉館時間を十分も過ぎている。早く帰らなきゃと戻りかけて違和感に気づく。
 閉館時間を過ぎているなら司書さんに声をかけられるはずだ。だがそんなことは一度もなかった。集中していたから気づかなかったのだろうか。いや、そんなことはない。
 事情を確かめようと図書館のカウンターを除くも、そこには誰もいなかった。
 どういうことだろう。
 首をひねりながら由美はとりあえず休憩室に向かう。
 休憩室のドアを開いた瞬間、疑問は解決した。
「ん? もう終わったのか?」
 そこにいたのは大きなあくびをしている幸一だった。
「いえ……」
「あまり遅くなりすぎるなよ。俺が真理と過ごす時間が減るからな」
 おそらく幸一が司書さんに声をかけてくれたのだろう。自分が見ているから閉館時間を伸ばしてくれと。
「先生が開けてくれてたんですか?」
「まあな」
 念のため確かめると、幸一からは肯定の返事が返ってきた。
 だが……
「先生は邪魔すると思っていました」
 幸一は真理を溺愛している。だから告白しようとする健二のことは邪魔で邪魔で仕方ないはず。なのになぜ協力してくれるのか。
「確かに父親としてはあいつが勉強できないように教科書をびりびりに引き裂いたり、大量のゴキブリをカバンに詰め込むくらいのことはするべきなのかもしれん」
「それは父親として以前に人間としてどうなんでしょう」
「だが俺は父親である以前に一人の教師だ。信じてやらないといけないと思ってな」
 それは理想の教師の在り方だ、と由美は思った。
 教師として、表層的なことでなく、最も根本的な心構え。
 そう思ったからこそすぐに休憩室を出ようとした。だが幸一はそれを許しはしなかった。すぐに次の言葉を挟んでくる。
「あいつは絶対に平均点なんてとれないって信じているから高みの見物を決め込む。それが教師のすべきことなんだ」
「すごい勢いで台無しにしましたね」
 予想通りだった。きれいなまま終わらせたかったのにと由美は不満げに言うと、幸一はニッと唇の端を上げる。
「危うく惚れそうになったか?」
「いえ。私、彼氏いますし」
「恋はいつでも突然だ。だから彼氏がいてもほかの男に惚れてはいけないということはないんだぞ」
「いえ、だめでしょう。人として」
「要するに俺が言いたいのは他に好きな男ができたからその男に勉強を教えたって罪悪感を感じることはないんだぞってことだ。それは人間として当然の心理だ」
 由美が否定すると幸一はさらに一歩踏み込んできた。
 それが誰のことを指しているのは一目瞭然だった。
 由美の胸がトクンと高鳴る。忘れていた感情が呼び起こされていくようだった。
 この感情は何だろう。
 自問して、由美は刹那のうちに答えをはじき出す。
 これはイライラだ。
「先生。私とあいつをくっつければ真理は安泰、とか思ってませんか?」
「ばれたか」
 健二が平均をとれないまま告白した場合、由美にもこういうジャブを繰り出してくるようになるのだろう。そうなると聡との関係にも悪影響が及ぶ。
 思わぬところで由美にも頑張らねばならない理由ができた。
「そろそろ戻ります」
 絶対平均点取らせる。その決意を新たにして、由美は休憩室を後にした。


 定期試験は三日間続く。
 普段は笑い声しか出さないようなちゃらんぽらんの口から元素記号が聞こえる独特な雰囲気の中、健二は黙々と勉強していた。
 そして二日目の最後、最難関である数学をそれなりの手ごたえで終えた健二はすっかり告白に王手をかけた気分でいた。
「なんとかなったな」
「あたし絶対将来教師にだけはならない」
 健二とともに、勉強を見てくれていた由美も燃え尽きていた。
「ここまでの試験はどう?」
「どうだろうな。自分ではそれなりにできたつもりではいるんだが」
 健二が目指すべきは平均点。つまり周りの出来にも左右される。仮に健二ができていたと思っても、周りもできていれば届かないことになる。加えていつも平均点を下げる側に回っていた健二の点数が上がったこともある。
 とはいえそのあたりは結果発表を待つしかない。
「ま、ここまで来たら心配しても仕方ないだろう」
「そうね、あとは明日の試験さえ乗り切ればってとこね」
「明日ってなんだっけ?」
「う~ん。何だったかな。なんか楽勝だったような気がするけど」
 そう言いながら由美は日程表を取り出す。
 そしてさっと青ざめた。
「どした?」
「健二……あんた国語って勉強した?」
「国語か。そりゃあもちろん……って国語!?」
 思わず大声を出して教室中の注意をひいてしまい、口を抑える。
「まったくやってない」
「うっかりしてたわ。健二は国語得意だからあとででいいやって思ってて」
 健二は国語だけは得意だった。
 とはいえそれはほかに比べればということで、平均を下回っていることに変わりない。勉強せずに平均点をとれる確率は皆無だった。
「まあ今からやるしかないわね」
「つっても明日は化学もあるんだぞ! その勉強もしなきゃいけないのに間に合うのかよ」
「何とか間に合わせなさい」
「そんな無茶な!」
「なら真理に告白するのあきらめる?」
 ここまで頑張ってあきらめるという選択肢は健二にはなかった。
「じゃあ放課後図書室ね。私はちょっと約束があって送れるけど、ちゃんと勉強してなさい」
 健二は声を出せずこくりとうなづいた。


 最後の追い上げにと図書室はそれなりに賑わっていた。
 健二はいつもの席に腰を下ろし、教科書を取り出し格闘を始める。だが今まで全く見ていなかったため、なかなか進まなかった。
 眠りそうになるのを叱咤して何とか勉強を続ける。
 不意に女の声が聞こえた。
「36ページが出るんじゃないかな」
 由美か?
 かすみがかった頭では声の主が判然としない。
 だが健二には由美以外に親しい女子はおらず、したがって声の主は由美以外にあり得ない。
 そして由美は健二をここまで引き上げてくれた恩人だった。ならば信じない道理はない。
 健二はすぐに36ページを開く。すると由美はほかの予想ページも声に出し始めたため、それらをすべてメモする。
 健二は睡魔に耐え、頭をこくりこくりと動かしながらそれらをメモする。
「どう? 平均点取れそう?」
「……あがくだけあがいてみる」
「がんばってね」
「おう」
 由美の声援を受けて、健二は再び教科書との格闘を始めた。


「これで授業を終わる」
 国語教師の声とかぶるように教室がざわめきに包まれる。
 これでテストはすべて返ってきた。
 それはつまり幸一との勝負の結果がはっきりしたということ。
 健二は迷わず由美のもとに向かう。
 不安そうな表情で待つ由美に、健二は勝ち誇った表情で言った。
「やったぜ! 全科目平均点以上だ!」
 その言葉に由美は驚愕の表情を浮かべた。
「ほんとに? 国語も?」
「もちろん」
「よくあの状況から頑張ったわね」
 たったの一日で平均点をとれるまで引き上げたことに、由美は素直に驚いていた。
 だがそれは健二の実力だけではなかった。
「お前のおかげだよ。よくドンピシャであてられたよな」
 前日、うとうとしていた時に聞いた由美の事前予想がことごとくあたったのだ。そうでなければとても平均に届かなかっただろう。
 だが由美はそれを聞くと首をかしげた。
「私、そんなこと言ってないけど?」
「へ?」
 ならばあの時の声はいったい……
 健二と由美がそろって首をかしげたその時、こそこそと逃げるように教室を出ていこうとする国語教師、幸一の姿を見つけた。
 健二はすかさずその後を追う。
 追いついたのは階段の手前だった。
 行く手を遮るように目の前に立つと、健二は胸を張って誇らしげに言った。
「先生。これで文句はありませんね?」
「ふん」
 幸一は悔しそうに鼻を鳴らした。
「じゃあさっそく……」
「待て!」
 捨て台詞を放ってから告白しに行こうとした健二を、幸一が呼び止める。
「なんですか? まさか教師が約束を破るんですか?」
「約束は守る」
 苦虫を噛み潰したように言う幸一に、健二は怪訝な顔をした。
「だがその場に俺も同席させてもらう」
「なんで!?」
 相手の親がいる前で告白するなんてさすがの健二も恥ずかしい。
 いや、もしかしてそれが狙いか。
「親に隠れて告白するやつがどこにいる!」
 普通そうだろう。という言葉を健二はなんとか飲み込んだ。
「俺のいないところで告白したところで認めんからな」
「なんてめんどくさい……」
 げんなりした健二に、幸一はにやりと笑う。
「ならあきらめるか?」
 ここまで頑張って、あきらめるという選択肢は健二にはなかった。
「ならこっちは由美に同席してもらいます」
「なんで私を巻き込むの!?」
 すっかり人ごとの気分で健二と幸一のやり取りを見ていた由美はいきなり巻き込まれ、悲鳴を上げる。
「いや、なんとなく?」
「私関係ないでしょう!?」
「ほら、この筋肉達磨が変な嫌がらせをしないように監視してほしいなって」
「私にこの筋肉の塊をどう抑えろっていうのよ!」
「お前ら陰で俺をそんな風に呼んでいたのか?」
 外野の声は無視して、健二は頼み込む。
「頼むよ……」
 明らかなアウェーの状況で一人でも味方が欲しいのだろう。
 必死に頼み込んでくる健二に、由美は嫌とは言えなかった。


「あなたのことが好きです! 付き合ってください!」
 勇気を振り絞って言葉を発した直後、一陣の風が吹いた。
 それに乗って彼女の香りが届く。するとそのあとに話そうと考えていた言葉がすべて吹き飛ぶ。
 沈黙が場を満たした。
「う~ん、ごめんね?」
 少し悩んだ末、真理は断りの言葉を発した。
 歓喜に沸く幸一の表情とは対照的に健二の表情は絶望に沈む。
「な、なんで……」
 十分に予想できたことだった。にもかかわらず健二の口から出てきた言葉はそれだけだった。
「私頭いい人が好きだからさ」
「あっははは。それならお前は無理だな。真理の好みの正反対だもんな」
「さっきからうるさいんだよこの脳筋野郎!」
「おーおー何とでも言えこの負け犬が」
 途端に始まる健二と幸一の小学生顔負けの言い争い。
 それをよそに由美は真理のもとに近づいていく。
「本当に断っていいの? 確かに優良物件とは言えないかもだけど、あの親がいる限りほかに近寄ってくる人もいないんじゃない? 彼氏ほしいって言ってたじゃない」
「そうなんだけど、私にも譲れないものがあって」
 真理がテストの点数にこだわっているというのが由美には意外だった。
 全部は知らないが中学の時付き合っていた男どもはそんなに頭よくなかったような気がしたのだが、好みが変わったのだろうか。
 由美が首をひねっていると、真理は爆弾を落とした。
「だから一回平均点取ったくらいじゃ付き合えないかな」
 その一言に全員の動きが制止する。
 一番ダメージの少ない由美が代表して尋ねる。
「えっと、それってどういうこと?」
「だから次のテストでもいい点とってくれれば私も心揺れるかもってこと」
 それはつまり条件付きのオーケーだった。
「じゃ、じゃあ次のテストで何点取ればいいの!?」
「う~ん、総合点で学年二十位以内とか?」
「そ、それは……」
 健二にとってはかなり厳しい条件だった。
 すると真理は健二の腕に抱きつく。
「そのためにみんなで勉強しよ?」
「もちろんだとも」
 一転、健二は男らしく低い声でうなづく。
 その光景を、由美は軽蔑するように眺めていた。
 ふと気づいて隣に立っている幸一に声をかける。
「先生。気分はいかがですか?」
「ありえん。いったい何でこんなことに……」
「まあ仕方ないんじゃないですか?」
「こうなったら家中の蜘蛛を集めて……」
「学校ではやめてくださいよ。私、席近いんですから」
 そんなことを話しながら由美は一瞬だけ背筋が凍る感触を覚えた。
 視界の端で偶然とらえた真理のこちらへの視線。由美ではなく、おそらく幸一に向けた視線だろう。
 そして由美はこの勝負の構造を理解した。
 由美は真理が可哀そうだと思っていた。幸一に理不尽に干渉されて男友達に敬遠されている被害者だと。
 だがおそらくそれは間違いなのだろう。真理は楽しんでいた。
 幸一の邪魔を受けながらも自分に近寄ってくる健二を見て。
 さながら魔王の城にとらわれたお姫様といったところか。
 もしかしたらこの一連の流れは全部真理が仕組んだもの……?
 そこまで考えて由美は思考を打ち切った。
 一瞬浮かんだ可能性は正しいのかもしれないし、間違っているのかもしれない。由美がゆがんでいるだけで真理はもっと純真な子なのかもしれない。
 だがそんなのは関係ない。
「どっちみちこんな面倒な関係に付き合ってられないし」
 相変わらず騒ぎ続ける三人をしり目に、由美は彼氏のメッセージにこたえるべく携帯を取り出した。


しらら

2018年04月29日 13時01分34秒 公開
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