子宮脱出ニートツインズ |
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「おはよ。なんか夢見た?」 「パパとセックスする夢」 あたしの問いかけに、妹のひらめがベッドに横になったまま答えた。 「マジ?」あたしは目を丸くする。 「マジ。なまらイケメンだった。まあでも夢だからだろうねそれは。本物は汚いおっさんに決まってるよ。腹は出てるのに手足は枯れ木みたいに細くて、あちこち毛が生えてて、その癖頭はバーコード」 「なんで会ったこともない父親そんなディスるし」 「ママが捕まえられるような男なんて知れてるし」 「でもあたし達の父親だよ。美人姉妹のうちらの父親なんだから、見てくれは良いはずだってば」 朝の八時に目を覚まして二時間くらいうだうだしてたら、布団を共有する双子の妹の目が開いた。暇だったあたしがテキトウに話しかけたら、なんだか倒錯的な夢を見ていたことを告白されたのだ。 「なんか股湿ってる」言いながらパジャマのズボンに手を突っ込むひらめ。「クンニしてよお姉ちゃん」 「やだしキンモ。つかごはん食べようよ」 「じゃあちょっと待って。すぐ起きるから」 ひらめは布団からだらだら這い出して、ぺたぺた床を歩き出す。そいでからあたしの方をふり向いた。 「お姉ちゃん、来なぁよ」 ひらめは綺麗だった。胸のあたりまで伸ばしっぱなしの髪は漆黒で、肌は透き通るみたいに白かった。背は165センチあって、パジャマの上から分かるくらいには乳も張っている。人形みたいな顔をしていて、漫画みたいに大きな瞳は吸い込まれそうに澄んでいた。 「今日って何日だっけ?」何気なく尋ねるひらめ。 「十一月五日で木曜日」カレンダー見て答えるあたし。 「平日やね」 「関係ないけどね」 「せやね」ひらめは笑った。「学校も仕事もないもんね、うちら」 妹と一緒に好きなだけ寝て、好きな時間に目を覚ます。ただ二人でうだうだするだけの一日を過ごし終えたら、一つの生き物のように同じベッドに潜り込んで眠る。 あたし達は、ニートだった。 ○ あたし達二人はニートになるまでに色々な間違いを積み重ねて来たし、今も積み重ねている最中なのだけれど、最初に歯車が狂いだしたのは多分、高校受験の時からだ。 中三の進路志望調査において、学年主任は近所で一番のバカ高校をあたしに勧めた。まあそこだろうなと思いながら下校時間を迎え、校門であたしを待っていた妹に『あんたはどこ勧められたの?』と問うてみた。 『B高校。ギリ行けるって』 近所で下から二番目の高校の名前を挙げるひらめはちょっと得意そうだった。ひらめは双子の姉であるあたしよりほんのり、本当にほんのりとだけれど勉強ができたのだ。 『あたしA高校』 『は? お姉ちゃんバカじゃん?』 『うっさいなもう。ひらめなんて煮付けにされて食われちまえ』 『あなたの方こそ天日干しにされちまいなぁよ』 いつもどおりに罵ったあたしに、ひらめはいつもどおりの返しをした。あたしの名前は『くらげ』だった。 『そっかそっか。お姉ちゃん、バカだったか』 『ウッザいなもう。死ねひらめ』 あたしはこの時すごく悲しかった。ずっと一緒だったひらめと進路が別れるかもしれないことに寂しさを覚えていたのだ。ちょいちょい喧嘩はしたけれど、登下校を共にし同じ部屋の同じベッドで寝起きする片割れを、あたしは愛していたのだから。 でもひらめは当たり前みたいな顔でこう言ったのだ。『しゃあないから二人でA高受けよ』 は? あたしはひらめに縋るように踏み込んだ。『いいの?』 『お姉ちゃんこそわたしと違う学校でいいの?』 嫌に決まってる。でもどう考えてもあたしがひらめに合わせるべきなのだ。一生懸命勉強してひらめと同じ高校を受かるべきなのだ。ひらめを本当に愛しているならそれは頑張れたはずだし頑張らなければいけないはずだったのだ。 けれどもひらめはあたしにそんなしんどいことを要求しなかった。自分が高校のランクを下げれば済むことだからと言ってはばからなかった。母親を黙らせる為に定期テストをサボタージュしてすら見せた。 『お姉ちゃんB高受けてもどうせ落ちるでしょ。お姉ちゃんわたしよりバカなんだから』 などとあたしを嘲笑しながら、ひらめは全教科30点ぴったりに調整した答案を見せびらかした。そうすることであたしの尊敬と親愛を得ようとするひらめのことが頼もしかった。だがシングルマザーの経済的事情で高校卒業後は働くしかないあたし達にとって、どこの高校を選ぶのかはとても大切な選択だったはずである。百歩譲ってそういうことを理解するのにはまだ幼かったのだとしても、A高校はいわゆる不良の吹き溜まりで、あたしやひらめのようなぼんやりした子が入学すれば洗礼を浴びることは分かり切っていたはずなのだ。 ひらめは愚かだったが、ひらめを叱り、自ら努力しなかったあたしも愚かだった。 無事にA高校に進学を果たしてしばらくしたある日、あたしが高校の廊下を歩いていると、全身ずぶ濡れで雑巾みたいな臭いを漂わせたひらめとすれ違った。 『おす。お姉ちゃん』と何でもなさそうな顔を装うひらめ。 『何があったのひらめ? 大丈夫?』 『寺内とかにやられた。死ねばいいのに、あのブス軍団』 雑巾絞ったバケツの水をアタマからかけられたらしい。仏頂面を作りながらも目は赤く、頬は腫れていた。 『掃除押し付けられそうになったから、なんであんたみたいなブスの言うこと聞かなきゃいけんの言ったら、小突かれて水ぶっかけられた。卑怯だよね』 本当はあたしと同じくらいどんくさい癖、ひらめは自己主張が強くて協調性がなかった。友達なんかいなくても、あたしのことを子分みたいに連れ回していれば幸せそうだった。頑固者で、内弁慶で、孤独だった。 だから敵を作った。 だからいじめられた。 お昼休みに一緒にごはんを食べようとするとひらめのお弁当が砂塗れになっていた。一緒にお風呂に入ると首から下は痣塗れで煙草を押し付けたような痕まで残っていた。教室で下を向いているあたしの肩が揺すられると、隣の教室に連れて行かれてそこでは裸に剥かれたひらめのお葬式が開かれていた。あたしの存在に気付いたひらめの表情からは、こっちを見るなという声にならない悲鳴が聞こえて来るかのようだった。 ひらめはどんな集団に所属してもたいていは一人で孤立していたけれど、こうまで酷いいじめにあったのは柄の悪い高校に進学したからだ。そこにいるのは出る杭をきっちり叩いて叩きのめして、圧し折れた後からオモチャにして弄ぶような、容赦も倫理観も欠片もないような連中ばかりだった。そんな中にひらめを放り込めば、それは当然の結果だったのだ。 あたしは負い目を感じた。 ひらめは学校に行かなくなった。ママはひらめを叱ったがあたしはひらめに同情的だった。あんなに酷い目にあうところに行かなくて良いとただ無責任に思っていた。ひらめは何も悪くないと感じた。 そしてある日の深夜。あたしはひらめにたたき起こされ、学校のガラスを割りに行くことを提案された。 『もうみんなぶっ壊れれば良い』ひらめは鬱屈した瞳であたしを覗き込んだ。『火でもつけちゃおうよ。そしたらあんな高校なくなる。自由になれるんだ』 あたしは頷いた。ひらめのような容赦のない肉体的精神的暴力に晒されてはいないまでも、中津川ひらめの双子の姉で外見だって瓜二つのあたしに教室に居場所なんてなかった。小ばかにして来る声を寝たふりでやり過ごしながら、ちょっかいをかけられたり略奪にあうことに怯えていた。あたしはひらめを虐げて自らを冷遇する学校という場所を憎んでいたし、被害者同士手を取り合って学校に報復するというのは、甘美な試みに感じられた。 あたし達は真夜中家を抜け出した。 校舎に侵入する際ガラス窓を叩き割るひらめの手つきにためらいはなかった。わざとかってくらい派手にばりりーんとぶっ壊した。そうすることであたしの称賛の視線を欲していた。実際、手にした木の棒でガラス窓を一枚一枚叩き割りながら廊下を闊歩するひらめの姿には、強い頼もしさを感じさせられたのだ。 分かっていた。あたし達二人は現実からの逃避を図っていたのだ。自らを縛り付けて離さない苦痛の園である高校を破壊して、ひらめと二人だけでどこか自由な旅へと出掛けたかった。ひらめなら連れて行ってくれるような気がしたのだ。 警備員のおじさんが血相を変えて廊下を走って来た。 あたし達は高校を退学することになった。 ○ 高校中退後働き始めたあたし達だったけれども、似たような性格をしているあたし達は似たような理由で仕事を続けられなかった。まずどっちも根本的に仕事をこなせなかったし、ひらめはちょっとしたことで職場の人に逆らってやり込められてはキレてバックレてしまい、あたしは逆らいはしないまでも少し厳しく注意されただけで泣きながら逃げ出してしまう。そして自宅の子供部屋で照れた表情を突き合わせては、似た者同士だねとへらへら笑い合った。 「あんたってさぁ」あたしはひらめに言った。「一緒に落ちぶれる分には最高の相方だけれど、何か前向きなことをしようって時は、てんで役に立たないよねぇ」 「いいじゃん別に。頑張るのって疲れるし。お姉ちゃんいて良かったよ。もしお姉ちゃんいなかったらあたし多分生きてて楽しくない」 「なぁに? 今生きてて楽しい訳?」 「別に」ひらめは言いながらどぶ川みたいな用水路に蟹を投げ込んだ。 散歩に行くぞと言い出したひらめの後ろを付いてったら近所の用水路の前まで連れて行かれた。幅は広くて底は深くて、沈んだ自転車の形がぼんやりとしか分からないくらいには濁っている。とは言え不衛生に感じるのは人間にとってだけらしくって、寒い季節を除いてコンクリートのほとりには蟹が何匹も張り付いていた。 「ねぇお姉ちゃん。地底探索隊ごっこやろうよ?」隣り合って腰かけてるとひらめはなんか変なこと言いだす。「わたしが地底探索隊、お姉ちゃん地底ね」 「いや意味分からんし」 「ほらお姉ちゃん。上手に地底やってくれないとわたし探索できないじゃん」 「だから地底って何?」 「分かんないから探索するんじゃん!」 「ええと……。もういいよ。あたし上手に地底できる自信ないから普通にしてるよ。あんたの好きなように探索して?」 「お姉ちゃんマジ無能」言いながらひらめはあたしのジャージのチャック開けて下着ずらしておっぱい触る。「出た、でか乳輪」 「死ねっ」あたしはひらめの頭をしばく。 「右は標準の範囲内でちょっと大きいくらいだけれど、左は明らかに常軌を逸してるわ」 ひらめはけらけら笑っている。風呂入った時とかいっつもこれ言って来るんだよねこいつ。いっぺん泣かされた時とかは、ネットで他人の乳輪の画像調べて来て『これとかお姉ちゃんよりでかいよだから安心して』って慰めてくれたんだけど。 そんな言う程でかくないから。 あたしが顔赤くして黙り込むとひらめはそれ以上あたしの乳輪をいじめない。あたしの服の下着とジャージのチャック戻して膝を抱え直す。 そしてしばらく蟹を水路に投げ込んで遊んでいたひらめだったが、それに飽きると再びあたしに話しかけて来た。 「ねえねえお姉ちゃん。過去か未来に行けるならどっちがいい?」 とりとめのない話題。その話がしたいっていうよりは、ただ単にあたしに甘えて来てるだけって感じだった。 「過去」あたしは即答する。「過去に行って妊婦のママのお腹を思いっきしぶん殴ってお腹の中のあたしを流させる。奥義堕胎パンチを食らわせてやる」 「は? それわたしも死ぬんだけど」 「一緒に死ねよ」なんで一人で死なないけんの。 「やぁよ。一緒にこの世を生きようよお姉ちゃん」 「はあ? 生きてて楽しくないんじゃなかったの?」 「楽しいよ」ひらめはあっさり前言を撤回する。「お姉ちゃんいたら楽しいよ、生きてて」 あたしは息を吐いて肩を竦める。「今は楽しいっていうか楽だけどさ? 一応あんたもいるし。だけれどあたしらもう何年引きこもっちゃったよ。どうせこの先碌な人生送らんよ。何が楽しいの。最初っから生まれてこなかった方が……」 「その内一緒に死ねばいいじゃん」 最初、あたしはそれを何気ない台詞だと思った。でもどうやら違うらしかった。言いながらあたしの首らへんを掴んで、大きくて綺麗な瞳をこっちに近づけて来るひらめの表情に一切の欺瞞がないことに気付いて、あたしは息を呑みこむ。 息がかかるような距離でひらめは囁く。 「わたしずーっとお姉ちゃんとモラトリアムしてたいんだよね。だってちゃんとした大人になっちゃったらさ、きっといつか袂を別つことになるよ? 別々の道を行けば気持ちも離れるし居場所も離れる。そんでお互い結婚でもしちゃったら、もう別々の家族の一員だよ。離れ離れだ。それは、寂しいじゃない?」 「言ってることは良く分かるけど……」どうしようもないじゃんか、そんなの。 「そもそもお姉ちゃんニート卒業できるような性格してないでしょ? 弱虫で怠慢でバカで」 「あんたも似たようなもんだし。つか、あんたはそれに加えて性悪だから、あたしのがマシだし」 「同レベルだし。もうしばらくはママの庇護の元でテキトウに二人で仲良くやろうよ。でも、ママがわたし達を養ってるのが情なのか惰性なのかは知らんけど、とにかくそれはいつか底を尽く訳じゃん。そうなったらさ、今まで楽しかったねーってことで、仲良く一緒に死の?」 その瞳は澄み切っていた。 「それがうちらがいくつの時かは分からんよ? でもいつかは訪れることなんだよ。必ずね。で、その時になって一緒にくたばったとして、はたしてうちらの生涯は、他人と比べて不幸だったのかな?」 「いや不幸でしょ。人の半分以下しか生きられんとか嫌じゃん?」 「人の半分以下しか生きられないんだとしてもさ、仲の良い片割れと一緒にへらへらだらだら過ごせたんだったら、それは幸せな人生だったと思うんだよ。あたしは満足。最後は二人でどっか旅にでも出てさ、緑の多いところか人のいない海か、そういうところで笑いながら明るく一緒に死のうじゃん」 本気で言ってるし。ひらめってこうなんだ。自堕落で自己破壊的だ。それを美しいと思ってる。それにあたしを巻き込もうとする。巻き込まれ続けた結果として今のあたしが存在する。 あたしがまともになろうと思ったらきっとこいつを断ち切らなくちゃいけない。 「でももしお姉ちゃんがわたし裏切って、一人でまともになってあたしを置き去りにしたりとかしたらさ」ひらめは青白い光を宿した瞳であたしの顔を覗き込む。そしてひんやりとしながらも粘着質な笑みを浮かべた。「あたし、お姉ちゃんのこと殺して食うからね」 ぞっとした。大きな氷を無理矢理飲まされたみたいに感じる。すごく息苦しくって冷たいのに、無償にそれを味わっていたくもあるのだ。 「無理だよ」あたしは言ってやる。「あたしあんたよりとろいし。無理だから。無理」 「だろうねぇ」ひらめはけらけら笑った。そしてあたしのほっぺにちゅうをする。「じゃ、ずっと一緒だ」 「嫌でもね」あたしは大げさに気持ち悪がったりはせずにそう言ってやる。 「うん」 ひらめはあたしから離れて地面に両手付いて脚を投げ出す。 その一時、空は澄み渡って見えた。 ○ 中三の春休み街を歩いていたあたし達は結構大きな雑誌のモデルにスカウトされた。喫茶店で話を聞いて貰った書類を母に渡して、撮影当日担当の記者が厳しくってあたしは泣き出してしまった。 『お姉ちゃん泣かさすような人に撮影とかされたくないから』 そんな風に撮影をボイコットしてひらめはあたしを連れ帰った。帰宅後『あんたが口答えばっかするから向こうが怒って厳しくなったんでしょ』とか文句言うあたしにひらめがキレ返して喧嘩になった。 喧嘩すると八割あたしが負けるしその時もそうだった。そしてその時のひらめはいつもよりボロボロにあたしを言い負かした。拗ねたあたしが就寝時まで押し黙っていると、ひらめがあたしに抱き着いて泣きじゃくって来た。 『ごめんごめんごめん。ごめんお姉ちゃん。本当にごめん』 そう言って必死で仲直りを乞うてきた。ひらめはとにかくあたしが口を効いてくれないという事実が悲しくて怖くて寂しくて、それ故喧嘩の原因が何かとか公平に言ってあたしが悪いこととかを全部かなぐり捨てているようだった。あたしはひらめを抱き返してひらめと同じだけ謝った。 ひらめひらめひらめ。優しいひらめ。大好きなひらめ。 それで仲直りできたんだけど、スカウトされたこと自体は周囲に自慢して回るのがひらめらしさだった。第二次性徴の進んだひらめは誰の目にも綺麗で他の女子とは明らかに一線を画していた。その後も色々なところからスカウトが来て、そのいちいちを進学先の高校で自慢して回った。あたしに合わせる為に高校のランクを下げた為に勉強でも周囲を見下していて、もう絶好調って感じだった。調子にのっていたしみっともなかったしムカつかれるのも無理はなかった。 でもだからって寺内浅黄って女がひらめに……というかあたし達に施した仕打ちは常軌を逸していた。 ある日の朝学校へ向かうと忍び笑いがあたし達を取り囲んだ。それは学校のどこにいてもねっとりと張り付いてあたし達を離さなかった。『変なの』って首を傾げながらいつもの場所で一緒にお弁当食べてたあたし達の前に、寺内が現れた。。 『なぁに?』 ひらめは虚勢を込めた表情で寺内に応じた。寺内はひらめのクラスで一番威張っていた女子で、ひらめのことを敵対視していた。カレシがひらめに色目ばっか使ってるのが原因らしかった。 『こんな動画ネットでみかけたんだよー』 寺内はあたし達に自分のスマートホンを差し出した。流れていたのは、あたし達を身ごもってお腹を大きくしたあたし達の母親が、媚びた笑顔を浮かべながら男に犯されている古い映像だった。 『これ、皆に送ってあげてるから。あんた達にも送ってあげるね』寺内はそう言って笑った。『あんた達ってさ、母親が妊婦もののAVに出る為に仕込まれた娘なんじゃない?』 その動画に出ていたあたし達に似た若い女が本当にあたし達のママであることは、その動画を最後まで視聴してすぐに理解した。何故ならその女は行為前のインタビューで男の質問にこう答えていたからだ。 Q.生まれるのは双子? 子供達の名前は決まってるの? A.双子の女の子。名前は『くらげ』と『ひらめ』。 あたしは自分達に愚かな遺伝子を与えた愚かなママを憎んだ。どうしてこの女はあたし達に付けるつもりの名前を撮影中に言ってしまったんだ? 『くらげ』と『ひらめ』なんておめでたくて珍しい名前を全国に晒してそれがどういう結果を産むかを、なんで想像できなかったんだ? 寺内はそのネタを使ってひらめを繰り返し繰り返しいたぶった。ひらめは顔を真っ赤にして怒って中途半端に抵抗してはおもしろがられた。そしていじめに発展した。ただでさえひらめは出る杭で敵が多かった上、恰好のネタまで見付かったのだから、それは自然な流れだった。 ひらめは布団に潜り込んでその動画を繰り返し繰り返し視聴するようになった。ふさぎ込んでいて可愛そうだった。どう言葉をかけていいのか分からないあたしはとりあえずその動画を一緒に視聴した。吐きそうだったし泣きたくなった。 ひらめが見ていたのは行為前のインタビューで『この子達の為に少しでもお金が必要だから』とママが媚びた表情を浮かべるところと、行為中に男優にお腹を触られて『今動いたよ』と言われて『え? 本当、どっちかなー?』と演技でなく本当に嬉しそうにしているところだった。その二つだけをひらめは何回でも何回でも繰り返し見ていられた。 ある日忙しくパートで働くママが珍しくあたし達の前に顔を出した時、ひらめは見ていた動画を閉じて、普段生意気言ってばっかりのママに優しい笑顔を向けた 『いつもありがとうねママ』 あたしは何も言えなかった。 ○ 「もうどのくらいママに会ってない?」とあたし。 「五日くらい?」カップラーメンにお湯を注ぎながらひらめ。「いい加減見捨てられたんかもね、うちら」 「勘弁してよ。もしそうだったらどうすんの?」 「その時はそれこそ姉妹心中でしょ。楽しかったよお姉ちゃん。今までありがとう」 「冗談じゃない」 あたし達を養う為に忙しくパートで働いている母親とは元から会うことが少なかった。小さい頃からずっとだ。それが故に親密だったあたし達姉妹だったけれども、こんなに長いこと母親と遭遇しないのは珍しかった。 ダイニングの床はゴミに塗れていて足の踏み場もない。ママがいてもいなくてもそうだ。掃除くらいやっておいてとヒステリックに喚く母親に対し、あたし達の態度は無視か聞き流すかどっちかだった。ここはママの寝室でもあるんだからと放っておいた。ひらめは『命令口調がムカつく』とのことで、あたしはそんなひらめの裏に隠れて怠けたいだけだった。 いつ愛想尽かされてもおかしくはないと思っている。あたしに危機感がないのはひらめに危機感がないからだ。基本的にあたしの感情や行動はひらめに引きずられている。もう随分長いことそういう姉妹関係をやっていて、そういう姉妹関係が楽だった。 チャイムの音がした。 あたしが目線で『どっち出る?』と合図すると、ひらめは口頭で「居留守使おう」と言ってカップ麺の蓋を開けた。面倒をあたしに押し付けるような真似はしない代わり、自分から行動したりもしないのがひらめという妹だった。あたしはそれに習って自分のカップ麺の蓋を開ける。 「なんかドキドキするね」 「別に」ひらめはすまし顔でカップ麺をすすりこむ。 「誰だと思う? ママが荷物両手でふさがれてるとか?」 「さあねぇ」ひらめは余裕でスープを口にする。 ぴぽぴぽぱぽぴぽぴん! と激しくチャイムが連打される。ごいんごいんと扉が叩かれてギシギシ揺れる。身を竦ませたあたしがひらめに飛びつくと、急に静かになった。 「な、なんかヤバくない?」あたしはひらめに縋りつきながら言った。 「知るかもう。意地でも出ちゃダメだよお姉ちゃん。出たら負けだからね!」 「何に負けるの?」 「自分に!」 そんなのあたしら既に百戦百敗だよと言おうとした、その時だった。 あたしの背後でばりりーんとガラスが割れる音がした。慌てて振り返るとダイニングにただ一枚だけのガラス窓が叩き割られていて、その向こう側に黒いスーツの男達に囲われたチビのバニーガールの姿があった。 バニーガールは壊れた窓のフチに手をかけて、威風堂々とあたし達の家に侵入し、堂々たる表情でこう言った。 「さっさと出ろよクズ共が。なんで私にガラス割る手間をかけさせてんのバカじゃん?」 背は百五十センチ届かないくらいで髪はドの付きそうな金髪。それが肩まで。兎の耳は白色でボディは赤。おっぱいはぺったんこで、分厚く化粧した顔つきは如何にも気が強そうだった。 三人の黒スーツを従えながら、バニーガールは縋り合うあたし達の向かいの椅子に腰かける。そして机の上のカップラーメンを勢い良く腕で薙ぎ払った。 絶句するあたし達。ぶちまけられた二人分のカップ麺。湯気を絶たせながら床を広がるスープ。 「ちょっとあんた……」あたしは口をぱくぱくさせる。びっくりしすぎて頭が働かない。パニックになりそうだ。「だ、誰? ですか? なにすんの?」 「なにってあんたらの借金取り立てに来たんですけど?」バニーガールは網タイツに包まれた脚を机に投げ出す。 意味が分からない。あたしはとりあえずひらめの方を見る。ひらめはあたしと同じくらい怯えた顔をしていたけれどバニーガールのことはちゃんと睨んでいて、それから何か確信を得たような表情で言った。 「こいつ、寺内じゃね?」 あたしは目を大きくしてバニーガールの方を見る。言われてみればそうだ。高校時代にひらめをいじめていた寺内浅黄。背が低くてぺちゃぱいでひらめにはブスと言われていた(ひらめはあたし以外誰のことだって平気でブス呼ばわりするけれど)寺内浅黄。人相はあんまり変わっていないし、左目の上にあるちょっと目立つホクロなんかもそのままだ。 「違う」バニーガールが不満そうな顔で言った。「私の名前はクレオパトラ・T」 「なに言ってんのあんた?」ひらめは言いながら軽く身を退く。「寺内でしょ?」 「クレオパトラ・T!」バニーガールは眉間に皺を刻んで机を激しく叩く。 「だから寺内でしょうが。な、なに? なんのつもり? 何の理由があって人んちの窓破ってカップ麺ひっくり返して……ちょっと、ねぇ、お姉ちゃん」 そこで何故かあたしの方を見るひらめ。意味が分からなくてとりあえず味方のあたしに視線をやっただけって感じだ。あたしも全く同じ表情でひらめの方を見ていたのだけれど。 「なにって、だから借金の取り立てだってば」バニーガール/クレオパトラ・T/寺内浅黄はそう言ってひらめを睨む。「あんた、私らに三百八十万円負債があるよ?」 「は? いや覚えがないから……」震えた声でひらめ。 「白切んな。あんたがクレジットカードで作った借金が今そんくらいの額なんだよ。私らはカード会社から取り立てを依頼されてやって来た非合法の専門業者で、あんたは今から私らの用意した車に乗って借金を返す為に『あること』をやってもらうんだ。ドーユーアンダスタン?」 「だから、借金って何なんだよ!」 「説明します」 静かな声が割って入った。 「波野さん?」寺内が声のした方を見る。 黒スーツの男達の中に、一人だけ女が混ざっていた。そのことに気付かなかったのは、波野と呼ばれたその女の背が男と変わらないくらい高かったこともあるし、性差を感じさせない程整った容貌をしていたということもある。声を聞かなければ美女か美青年かを判別できないような、中性的で整った容姿の持ち主だった。 「あなた方に覚えがないのは無理もありません。なんといってもそのクレジットカードを実際に使ったのは、あなた方のお母さまなのですから」 「ちょっと、どういうこと……?」震えた声でひらめ。 「簡単なことです。あなた方のお母さま……中津川洋子さんは娘のクレジットカードを勝手に使い浪費を繰り返し、そうして作った借金を利息によって膨れ上がらせ、自らはとっとと雲隠れしたという訳なのです。そういう事情ですがまあ法律的にも支払いの義務はあなたにございますので、こちらの指示に従っていただく他ありません。観念してください」 「嘘だ! ママはそんなことしない!」ひらめは喚くように言った。 「実際にやってんだよ! 現実を受け入れろよ! あんたは母親に売られるんだよ!」寺内はそう言って立ち上がり、机の向こうからひらめの頬をビンタした。 「ぎゃ、ぎゃ!」ひらめはその一発で完全にすくみ上って寺内に怯えた視線を向ける。「い、いた……」 これにはあたしも怒った。怒鳴った。「なにすんの!」 「うっせぇ!」寺内がそう言ってあたしを睨みつける。あたしは何も言えなくなる。 「いや……おかしいでしょ」ひらめは張られた頬に手をやって、震えた声で言った。「今まで取り立てとか全然なかったし、いきなり借金とか信じられないんだけど。もし仮にそれが事実だとしても、なんでわたしにそれ支払う義務あるよ?」 「そ、そうだそうだ」とりあえずあたしはそれだけ言っておく。 「そりゃ、フリーターだった頃にママに外に連れ出されてお姉ちゃんと二人でカード作らされた記憶はあるよ? 『二人にもそろそろこういうのが必要でしょー』とか言ってたけど、結局一度も使わさしてくれなくて……。それをママが勝手に自分の為に使ってたのが事実だとしても、ちゃんと裁判とかやったら、支払いの義務はママってことになるはずだし」 「そ、そうだそうだそうだ」 「あんたらさぁ」寺内は深く溜息を吐いた。「世の中そんな甘くないよ? クレジットカードって言われるがままに作るモンでもなければ人に預けるモンでもないから。ちゃんと自己管理できてないあんたが悪いんであって、支払いの義務はあんたにあるから、普通に」 「も、もしそうだとしても……事情を斟酌してジコハサンとか……」 「ねぇから!」 寺内はそう言ってもう一発ひらめの頬を張る。 ひらめは驚いた様子で言い返そうとしたが、その前に寺内はひらめをさらに殴った。 「あんた今いくつよ?」寺内はひらめを往復で殴った。「自己破産なんて言葉どこで覚えた? クソニート」寺内はひらめをさらにさらに往復で殴った。「私と同学年ならもう2×歳にはなってるんだろ? 職場で役職付いたり、結婚して子供がいたり、そういうのが当たり前の年だからな? それがこんな家の中でダラダラ人任せに生きて来たんだからさぁ、当然の報いだよ。もう手遅れなんだよ。両手足切り飛ばして変態のオモチャにしてもらうくらいしかないんだよ借金ダルマで能無しのおまえが生きていくにはさぁ!」 「待って、待って待ってよ!」ボコボコに殴られるのに抵抗できないでいるひらめを守るべく、あたしは寺内に縋りついて腕を掴んだ。「そんな殴んないでよ、ひらめのこと!」 「るっせぇ粋がんなクソ虫! くらげ風情が!」 寺内はあたしの腹を蹴り飛ばす。激痛と共に強烈な気持ちの悪さがお腹の底から全身に駆け巡り、あたしはその場で蹲る。そこからさらに寺内の強烈なつま先が二度三度とあたしのはらわたに叩き込まれた。 「ちょっと……待ってよ。お姉ちゃんは……お姉ちゃんはやめてよ」 ひらめは言いながらよたよたと寺内に縋りつく。ぐちゃぐちゃに泣きじゃくった表情と、おどおどしながら精一杯抵抗するその態度は、十年以上前寺内と同じ教室で寺内にいじめられていた頃とまったく同じものだった。 「前も、前から、それだけはやめてって……言ってるでしょ。関係ないでしょ、関係ないでしょその子は。ねぇ、わたしは何でもするから……」 「だったら昔みたいになんでも私の言うこと聞いて、ゴミ箱の中身でも食ってれば?」寺内は愉快がるように笑う。「その綺麗な顔と身体で借金返しな? 逃げ場ないよ? 自己破産とかで逃げられないようにする為の私達専門業者だから。私達は悪党だから平気で暴力も振るうし人身売買でも何でもするけど、カード会社はそんなこと知らないって体裁だから綺麗なまんま。まあ、そっちもまともな会社じゃないからこそのこの手口なんだけど……」 「おかしいよ……。ママがそんなことするはずないよ……」 絞り出すように言うひらめにあたしは胸が痛くなる。ひらめは信じている。自分の母親を。ママが出演している妊婦もののAVを視聴した時だってひらめはママを憎まなかった。動画を何度も視聴しながらかつてのママと向き合ってママを許そうとした。許して見せた。 ひらめは、優しいんだ。 「あんたさぁ。良くそんなこと言えるよねぇ。バカじゃない?」けれども寺内はそんなひらめを嘲笑った。「そらあんたが小学生とか中学生だったらさぁ、あんたらの母親にもあんたに対して情の欠片くらいあったかもしれないよ? でもねぇ、大人になってまで何年も何年も家に引きこもって苦労かけ続けてたら、例え親子の情と言えども底を尽いて当たり前なんじゃない?」 「う、嘘だ……」 「嘘じゃない! 考えてみなよ。腹が膨れている時から身体売って、身を粉にして働いて働いて、それでも貧乏で、なーんにも良いこと一つなくって! それもてめぇらが大人になったら開放されるかと思ったら……そっからまた姉妹揃って何年も引きこもり続けてさぁあ? ゴミ虫二匹の為の滅私奉公がずーっと続いた! そら娘のこと憎くもなるよねぇ。同情するわ粗大ゴミ二体産んだばっかりに人生台無しって感じで。こんなみじめな女って他に見たことないよ」 「ママは……ママは……」ひらめは赤くなった顔を青くして息ができないような表情を浮かべている。 「何がママだよ良い大人がさ? 母親のことちょっとでも慕ってるんなら、家に引きこもって母親を苦しめ続けるべきじゃなかったんだよ」寺内はニヤニヤと笑う。人を苦しめる時にだけは正論を吐く、いじめっ子ってのはそう言う人種だ。「まあでも良かったよね最後の何年か、娘に借金させた金で医者の女にでもなったみたいに遊び回れたんだからさぁ? 娘の人生と引き換えにちょっとの間だけ贅沢味わえたんだから。良かった良かった。きゃはは! きゃははははは!」 「魔がさした……魔がさしただけなんだよママは」 「違うよ計画的犯行だよ。あんたらがバカ過ぎて気付かなかっただけでさぁ?」 ひらめはほとんど過呼吸に陥ったみたいに蹲って息を上手に吐けないでいる。あたしはひらめに抱き着いて背中をゆっくり撫でてやる。混乱して顔を青くして泣きじゃくっているひらめがあたしにはいたたまれない。 「大丈夫、大丈夫だよひらめ。お姉ちゃんがいるよ」あたしは言った。「お金だったらあたしが一緒に返すから。何があってもどんな風になってもお姉ちゃんは一緒だから。ひらめと同じことをあたしもするから」 ひらめは目を見開いてこちらを見た。何を言っているんだ何を言っているのか分かっているのかという顔をしていた。 あたしは笑って頷いて見せる。「ずっと一緒だよ、ひらめ」 「お姉ちゃ……」 「はい黙れー!」寺内がそこで口を出し、あたしの胸倉をつかんだ。「なあくらげお姉ちゃぁん? あんたさ、どんだけ平和な脳みそしてんの?」 「あ、あたしがひらめを……」 見捨てる訳ないのだ。というか見捨てられる訳ないのだ。ママがいなくなった今あたしにはひらめがいないとどうにもなんないし、ひらめがひらめでいてさえくれるなら借金とかは大した問題じゃない。一人は嫌だ。 「そういうことじゃないから」本気で哀れむような目線を寺内はあたしに送る。「波野さんが言ってたよね。あんたらの母親はあんたらに作らせたクレジットカードで豪遊してたんだって」 「それがどうか……」 「あんたもカード母親に預けてたんでしょ? なんで自分だけが無事だとか思えんの?」 はっとしたあたしは波野の方を見る。 波野は微笑んであたしの方を見る。「四百九十万円がくらげさん、あなたの負債額です。お母さまが最初に使い始めたのはあなたのクレジットカードだったのですよ」 「ま、マジで……。ちょっと、じゃあ……」 「はい。あなたが望もうと望まざるとあなたは妹さんと同じ運命です。あなたもこれから私達の用意した車に乗っていただきます。そしてどんな目にあっても借りたものは返していただきます。方法は用意しています」 「そういうこった」寺内がそう言って指慣らしをすると、二人の黒服の男があたしとひらめのそれぞれの肩を掴む。そして家の外へと歩き出す。誘拐する気だ。 「……寺内さぁ」そう言ってひらめは寺内の方を睨む。「なんであんた、そんな非合法の仕事してんの?」 「寺内違う。クレオパトラ・T」寺内は言って肩を竦める。「おめでたい恰好と名前でしょう? でもねぇ私もうその寺内って名前捨ててんだよ。私も組織に借金あるから、返しきるまではね」 「は?」ひらめは目を大きくする。 「まあでもあたしらのあんたらと違うところは、ちゃんと役に立つ能があるからまともに働かせてもらえてるってことなんだけど。あんたらのことは、とびっきりむごい目に合わせてやるから覚悟しときな」 そう言って寺内はポケットからハンカチを取り出して、波野から受け取ったスプレーをそれに吹きかける。そしてそのハンカチをひらめとあたしに交互に嗅がせた。 意識が暗転する。 ○ 目が覚めた。 「起きた?」 ひらめに声をかけられて思わず縋りつく。ひらめは不安げな表情であたしの背中に手を回す。 あたしは周囲に目をやった。「なに、ここ?」 長方形のひんやりとした部屋である。長い辺が六メートルか七メートル、短い辺はその半分くらい。天井は然程高くない。お腹の周りをゴム製の輪っかで縛られていて、おへそのあたりから赤紫色の鎖が伸びている。ひらめのお腹にもあたしと同じものがあった。 二本の鎖は右側の長い辺の壁に向かって伸びていた。部屋全体はむき出しのコンクリートの灰色なのに、その一面だけが鎖と同じ赤紫色に着色されている。二本の鎖が括り付けてある突起には2メートル程の距離がある。鎖は今はたゆんで大部分が床に触れているが、あまり長くはなさそうだ。 「ねぇねぇひらめ」あたしはひらめにおどおどとした視線を向ける。「これってなんかの悪夢?」 「頬つねったろか?」ひらめは人差し指と親指をわきわきさせる。 「やだよあんた容赦ないもん」 「お姉ちゃんの頬をつねらずしてどうやって夢か現実かを確認すんだよ」 「ひらめの頬をあたしがつねれば解決じゃん」 「やぁよ。わたしのほっぺ元からじんじん痛んでるから必要ないもん」 「寺内にムッチャ殴られてたもんね。まだちょい赤いよ」 「それだよ。なまら痛かった。つか何あいつ。クレオパトラ・Tってアタマおかしいんじゃない?」 「アタマがおかしいよね」 「なに? 誰の趣味な訳? なんか非合法組織にいるらしいし、いわゆるアレ? 闇の権力者?」 「闇の権力者なんじゃない?」 「闇の権力者ならしょうがないか」 「うんしょうがないよ」 「しょうがないか」 へらーっと笑い合ってみるがひらめの表情は見事にひきつっている。きっとあたしも同じ顔をしているのだろう。 茶化しあってはいるが、実際は胸の奥に冷たい岩を詰め込まれたような不安感があった。胃がシクシクと痛んでいる。何が始まるのか分からず不安でならず、自分の置かれた状況が受け入れられない。ひらめがいなかったら気が狂って泣き喚いていたところだろう。 あたし達が身を寄せ合っていると、天井から声が降り注いだ。 『ハローバカ姉妹。最後になるかもしれない眠りはどうだった?』 寺内の声だった。あたし達が顔を見合わせ、天井に視線をやる。灰色の天井にはスピーカーといくつかの監視カメラが設置されていた。スピーカー越しに寺内が語り掛けて来ているのだろう。複数あるカメラの内、中央で赤紫色の壁を睨んでいるものに小さな筒のようなものが設置されていて、暗い空洞をこちらに向けているのが気になった。 『ところでどうでも良い話なんだけどさぁ? 双子って先に母親から出て来た方が『妹』なんだってさ。先にお腹に入った方が後から生まれて来るはずだから、っていう理屈らしいけど……まあ他でもない双子のあんたらならもしかして知ってたかな? 私はさっき波野さんに聞かされて初めて知ったわ。一つ雑学でした』 「ちょっと寺内! これどういうことよ?」ひらめがそう言って天井に向けて吠える。 『それを今から説明してあげるんじゃん?』寺内はあざ笑うような声を出した。こちらの声は分かるらしい。おそらくは映像も。『まあだいたい察しは着くんじゃない? 密室に人が二人、凶器が二つ』 「凶器?」 『そうよ凶器。もうそろそろ見ない振りはやめたら?』 あたしはドキリとする。 そうだ見ないようにしていたのだ。だから話題にも出さなかった。それは、本当に本当に恐ろしい想像に繋がっているから。 長方形の短い方の二辺にあたる壁に、それぞれまったく同じ大きな銀色のナイフが飾り付けるように設置されている。刃渡りは20センチメートルほどで、刺しても切ってもどっちでも人を殺せそうに鋭い。 『時間無制限。どっちかが死ねばゲームは終わる』 あたしとひらめは顔を見合わせる。 『あんた達二人の内のどっちかが死ねばもう片方は開放ね。出られた方は借金チャラ。単純明快』 ひらめの表情がみるみる青ざめた。あたしの顔を見て、あたしの背後にあるナイフを見て、最後に引き攣った顔であたしの顔を見た。 あたしはひらめの方を見て身じろぎもできない。 『まあいわゆるスナッフフィルムって奴よ。娯楽用の殺人映像。金持ってる変態が高い金で買ってくの。特に若い女同士が殺し合う奴は人気でさぁあ? まああんた達なら自分らの借金分は余裕で稼げるわよ。見てくれだけは良いし、双子の姉妹ってのも珍しいから、きっと人気が出るはずだわ』 スナッフフィルムという言葉は聞いたことがある。ひらめがそういうアングラなの大好きで『闇サイトとかに乗ってるはず』とか言って一生懸命探していたことがある。 でも見付かるはずがなかったし見付からなかった。見付かってはならないのだそんなものは。存在してはならないはずなのだ。 『何をバカな、って思ってる? 世の中は平和で善意に満ちてて、そんな残酷な話マンガの中だけだとか思ってる? 違うから実際あるから。あたしもこの仕事初めてびっくりしたよ。秘密厳守の変態金持ち集団、実際にあるんだからすごいよねぇ。つー訳でさ』 けらけらと、寺内の嘲笑が聞こえた。 『今すぐ殺しあえアホ姉妹。んじゃあね』 声が途切れた。 ○ あたしは自らの身を抱いて震えていた。 殺し合う、ひらめと。他でもない大切な片割れと。 背後の壁には大きなナイフがかかっている。見ているだけでぞっとするような怪しい輝きの鋭いナイフ。たしはこれでひらめを刺さなければならないことになっているし、あたしはいつ何時これでひらめに刺されてもおかしくはないのだ。 「ねぇお姉ちゃん。そんな怯えなくて大丈夫だよ」 ひらめの声がした。 「この鎖さぁ。そんなに長くないし、くくってある場所同士が二メートルくらい離れてるから、そっちの隅っこいたらわたしの身体届かないんだよねぇ」 赤い壁から伸びた鎖を限界までぴんと伸ばして、しかしひらめの身体はあたしに届かなかった。鎖の長さが足りていないのだ。 「部屋の両端はお互いにとって安全地帯って訳みたい。自分の陣地的な? だからそんな震えないでよ。怖くないよ、怖がらないでよ、ねぇ?」 「……怖がらなくて済む訳ないでしょ」 「あのねぇお姉ちゃん。こっちは丸腰でこんなに近くまで歩み寄ってるんだよ? それでそんな怖がられたらこっち、寂しいってもんでしょ? ねぇ……」 ひらめはそう言って膝を折りたたみ、眉を顰めてあたしの方を見た。 『ひらめのナイフ』をひらめは自分の陣地である壁に置いて来ていた。戦う気はないと言う意思表示。あたしを見詰めるひらめの表情に敵意や害意はないし、自分を怖がっているあたしに対する寂しさを表情に滲ませている。 しかしだからと言って恐ろしくないはずがないのだ。ひらめは優しいしあたしの味方だけれど、倫理観とか精神力という部分であたしとそんなに差がある訳じゃない。命のかかった状況で悪魔に囁かれない保証はどこにもないのだ。 「部屋の両端は安全地帯で、これはその為の鎖で……」ひらめは自分のおへそから伸びた赤紫の鎖をじゃらじゃら触る。「でもどうしてこの鎖、壁の両端から伸びてないんだろう? なんで側面の長い壁に、二つ並べて括り付けられてるんだろう……? しかもおへそなんて変なところに」 ひらめと殺し合ったあたしはどうなるんだろうか? 今日に至るまでにひらめと戦ったことがない訳じゃないし、その多くであたしは敗北していたように思う。腕力とかは同じくらいだけれど何か暴力を振るうことに対する意識の差みたいなものがあって、あたしが平手で殴る時にひらめはグーで殴るしあたしがグーで殴る時ひらめは物で殴って来る。つか喧嘩勝ったことあるっけ? ボコボコにされた記憶しかない。十台の頃とか『怖い』って印象を持っていたくらいだ。 「ねぇちょっと! お姉ちゃんいい加減にしてよ」ひらめは怒った声を出す。「あたしがお姉ちゃん殺す訳ないでしょうが! こんな時に信頼しあえなくってどうするの!」 「どう信頼しあうっていうの!」あたしは頭を抱える。 この部屋からは、一人しか出られないんだ。 ひらめは傷付いた顔をする。「ずっと一緒だったじゃんうちら……。産まれたその瞬間からずーっと。世界中他の誰のことを疑ったとしても、このあたしのことを疑うのは止してよ!」 「ママはあたし達を裏切った!」 「だからどうしたの?」 「あんただってあたしを裏切るかもしれない!」 「ないから!」ひらめは地団太を踏む。「ないから! ないからないからないから!」 ひらめはあたしがいるのとは反対側の壁に向かって駆け出して、自分の分のナイフを手にとる。 「ちょっと……何のつもりひらめ」 「こうすんのよ!」 ひらめは手に取ったナイフを投げつけて来る。 あたしはすくみ上って頭を抱えた。 がしゃんと、ナイフが壁にぶつかる音がして、一瞬後、今度は床に落ちる音がした。 ひらめの突然の行動にあたしは震えて何もできないでいる。数秒の沈黙があって、ひらめの溜息が聞こえて、それからひらめの行動の意味を考える余裕ができてるあたしはゆっくり目を開けた。 ひらめの投げたナイフはあたしの身体から数十センチという距離に転がっていた。 「拾えば?」ひらめは部屋の真ん中で両足を投げ出してこちらに不服そうな目を向けている。「あげるから、そのナイフ。あなた二本とも持っといてよ」 あたしは咄嗟にそのナイフを握りしめる。「どういうつもり?」 武器を奪われるというのはこの空間での勝敗を致命的に左右してしまうはずだ。というかほとんど降伏に近い。ひらめのが喧嘩強いのは事実だとしても、腕相撲の勝敗は五分五分で走っても同じ速さのあたしと、そこまで絶対的な力量差はないはずなのだ。 あたしは理解した。ひらめは本当にあたしを殺して一人で生き残るつもりなんてないのだし、あたしのことを心から信用してくれているのだ。少なくとも、今この瞬間は。 「バカ。バカお姉ちゃん。くそう、くそうくそう」 拗ねたような顔で床を睨んでいるひらめを見ていると、なんだかものすごい罪悪感が湧いて来る。あたしはひらめに貰ったナイフを反対側の壁に向かって滑らせた。 「返すよ」あたしは丸腰でひらめの方へ歩み寄る。部屋の真ん中で、あたしは世界一大事な妹を抱きしめた。「ごめん、ごめんねひらめ」 「……ありがと」ひらめはあたしの胸の中に顔を埋める。「ありがと、ありがとぉ……」 あたしは愚かだった。今この時この瞬間、ひらめは命を懸けてあたしの妹であってくれたのだ。あたしを殺さず、あたしを疑わないということを示し、あたしと心を通わせようとしてくれたのだ。あらゆる打算を投げ打ってでも、あたしはそれに応えなければならなかった。 あたしはひらめを抱きしめ続けた。 ○ 「ごはんとか出るのかな?」とひらめ。 「部屋の隅に安全地帯があるってことは、長期戦を想定されてるっぽいし、出るんじゃない?」とあたし。 「じゃあうんこは?」 「……そっちにあるじゃん便器。見えてるでしょ?」あたしは鎖が伸びているのと反対側の壁を指さす。 実はナイフ以上に鎖以上に、この部屋で覚醒して最初に目に入ったのがその設備だった。身も蓋もなく、それはうんこをする為に準備されたものに違いなかった。何せ洋式便器そのものなのだから。 「ご丁寧に紙まであるし」とあたし。 「ウォシュレット付いてんの?」とひらめ。 「こんな時に贅沢ねぇ」 「はあ? お姉ちゃんを心配してやってんだよ? あなたケツ拭く時やたら奥まで深追いする癖あるんだからさぁ、ウォシュレットなしのトイレじゃまた痔になるよ? ママだって糞安月給なのに、お姉ちゃんが痔になった時それだけはちゃんと家のトイレに設置してくれたじゃん! 嫌だからねあたし、お姉ちゃんのケツの穴にボラギノールぶち込むのもう二度と嫌だからね!」 「いいじゃん別にボラギノールくらいぶちこんでくれても! できないんだよ一人じゃ! なんか怖いんだよケツの穴の中に異物突っ込むのぉ! 繊細だからぁ、あたしのケツの穴あんたの百倍繊細だからぁああ!」 ちなみにウォシュレットは付いていた。 糞尿垂れる時はお互いカメラの壁になるという乙女にとって大切な取り決めを行っていると、天井からペットボトルの水二つとカロリーメイトの箱が降り注いであたしの頭を襲った。 「いたっ、あたっ、あうっ」 三連撃を食らう。500ミリのペットボトルは天井から落ちると結構な痛さだ。「トロいねお姉ちゃん」とかあたしを罵りながら、たまたま当たらなかっただけのひらめはカロリーメイトの箱から包み一つとペットボトルの水一つをこちらに差し出した。 「部屋の真ん中に落ちて来るってことは、これを取りに来たところをナイフで切り合ったりとか、そういうゲームなのかもね」ペットボトルの水をぐびぐび飲みながらひらめ。 「……節約しときなよ。便所の水飲む羽目になる」あたしは一口水を飲む。 「わたしのなくなったらお姉ちゃんの分けてもらうもん」 「それ嫌だから節約しろっつってんの」 「とか言いながら自分が先に飲み干しちゃうのがお姉ちゃんなんだよ」 「そうなる可能性あるから『あげないよ』とは言わないんじゃない」 「そんなシリアスに節約する必要もないと思うんだけどね。最悪ウォシュレットあるんだしさぁ」 「でもそれなんか嫌じゃね?」 「まあ嫌だけど。つかさ」ひらめは澄んだ瞳であたしの方を見やる。「いつ頃にする?」 意味が分からずにあたしは首をかしげる。「いつって?」 ひらめはあたしの心に刃を突き立てる。「いつ一緒に死ぬ?」 心臓が大きく二回脈打って、全身が総毛だって、あたしは凍えるような心地を感じた。 「前に話したじゃん? ママだってわたし達のこといつかは見捨てるんだから、時期が来たら一緒に死のうって。思わぬ形だけれどさぁ、あたし達はとにかくママに裏切られた訳じゃない。だから死のうよ、一緒に」 あたしはひらめの顔色を覗き込み、その表情から欺瞞の色を探した。 けれども見付からなかった。既に完全に腹をくくったという程ではないにしろ、ひらめの中でそれは確固たる結論として出ているらしかった。これからじっくりと二人で覚悟を決めていく準備を、ひらめは始めるつもりらしかった。 「そこのナイフをさあ、お互いの頸動脈に押し込んでせーので引くの。血がぶしゃーって出るから、抱き合って、なんならちゅーでもしながらさぁ、仲良しのまんま一緒に死のうよ」 「……冗談じゃないよ」 「じゃあお姉ちゃん、わたしに一人で死ねっていうの?」 「違うよ!」 ムキになって叫んだ。そして、ひらめを一人で死なせないというのが何を示すのかということに気付いて、あたしは意識が遠のくような気分を感じた。 「ねぇお姉ちゃん。そら、いきなり死ぬ覚悟決めろって言われても、時間かかるのは無理ないよ。でもねぇ、実際問題として、お姉ちゃんこの先一人で生きていける? わたしが死んでお姉ちゃん一人でここ脱出したとして、どうすんの?」 「どうすんのって……」 あらしには何の取柄もないし目標もない。あたしはひらめと一緒の部屋でひらめとへらへら過ごすのが好きだった。ひらめには良いところがたくさんあったしあたしを愛してくれたし何よりあたしと同じ波長を持っていた。妹で親友で下手をすれば恋人ですらあって、それを自分の為に犠牲にして一人でつらい世の中を生きていくということは、絶望的なことであるかのように思われた。 「わたしと二人だけのお部屋は安全で幸せ。でもお姉ちゃん外の世界でどんな目にあった?」 アタシは自分の反省を思い浮かべる。 小学校の頃家のこと貧乏って言われてからかわれ続けた。運動も勉強もダメで取り柄なんて何もなかった。友達なんて一人もいなかった。 中学校の頃から本格的な陰口とか嫌がらせが始まって、クラスの威張ってる奴の使いっ走りとかさせられることも増えた。いきなり校舎裏に呼び出されたかと思ったら、『顔が気に入らない』くらいの事情で砂塗れにされたこともある。 高校の頃は……思い出したくもない。 中退してからは職を転々としたけれどどの仕事もまともにできなくて、バカにされ溜息を吐かれ誰からも相手をしてもらえずそれがつらくて。一人で泣いてても誰も助けても慰めてもくれなくて、怒鳴られて、いたたまれなくて、自分がみじめで。そうなるのがつらいから家から出るのが嫌になって。 そんな時いつもひらめは傍にいて。 あたしをバカにしても、笑っても、それでも本気で軽蔑したりせずに肩を並べていてくれた。 あたしにとってひらめはいないとダメな人間で、一人は絶対に嫌だった。 「死ぬの、あたし達?」とあたし。 「それかわたしを殺すかだね。でもお姉ちゃんには無理だよ」 想像してみる。あたしを信用しきっているひらめにナイフを持って近づいて、その柔らかい首にナイフを押し込む自分の姿を。目を覚ましたひらめがあたしを見詰めるその顔を。あたしに裏切られたひらめの絶望を。 「……絶対無理だね」あたしは言った。 「そうでしょ?」ひらめは優しい顔で笑い、あたしの頭を撫でる。「わたしに借金があるってなった時、一緒に返すって言ってくれたよね? 結局はお姉ちゃんも同じ穴のムジナだった訳だけど……でも嬉しかったよ。あなたはあたしの世界一のお姉ちゃん。だからね、満足するまで二人で思い出話とかしてさぁ、気が済んだら一緒に死のうじゃん」 ひらめは爛漫とした瞳であたしの顔を覗き込む。 「ずっと一緒にいてくれるよね? わたしを一人で死なせて一人で生きようだなんて思わないよね?」 「…………」 「大丈夫いくらでも待つから。時間はあると思うから」 下を向いてしまったあたしの肩にひらめは手を置く。あたしの身体を抱きしめる。自分の内側に取り込むように。 「じっくり覚悟を決めてよお姉ちゃん。あなたが一緒に死んでくれたら、わたしはわたしの生涯に満足だよ」 ○ ただ一人いたあたしの幼馴染から同窓会の報せが来たのが二十歳の時で、それをひらめに見せるとけらけら笑いながらびりびりに破いてゴミ箱に捨てた。二十三歳の時にその子に子供ができたという報せがとどいて、ひらめは眉間に皺を刻みながらそれをライターで焼き捨て、呪いの言葉と剃刀の刃を封筒に入れて返信した。あたしは黙ってそれを見ていた。 それっきりその子とは何もない。 中学の卒業アルバムを見るのがひらめは好きだった。あたしと顔を突き合わせてこいつはどんな奴で今はどうしているというのを語らうのが好きだった。それだけを何時間でも何日でもあたし達は続けていられた。ひらめと引きこもった長い年月よりも、中学校の三年間の方が、遥かに濃密に感じられた あたしはママとひらめのいるあの家以外の居場所を知らないし、邁進するほどの趣味や前向きな目標を持ったこともない。仕事だって続いたことがないし人の役になんて立ったことがない。 そんなあたしでもママとひらめには愛されていると思っていた。そしてママは裏切ってひらめが残った。 ひらめはあたしに一緒に死ねという。あたしが一緒に死ぬのなら自分の生涯に満足するという。 でもあたしは死ぬのが怖い。 『休息の時間になりました』 数時間がたった頃、天井のスピーカーから冷たい密室に声が降り注ぐ。寺内のそれとは異なり、落ち着いて丁寧な無機質な声。波野と呼ばれていた女の黒服だ。 『それぞれの個室で体と心を休めてください。お疲れさまでした。おやすみなさい』 膝を突き合わせていたひらめとあたしの背後から、金属の擦れ合うような声が聞こえて来る。それぞれの背後をふり向くと、互いの陣地の壁の一部が横にスライドし、薄暗い廊下が姿を現した。 それぞれの廊下から一人ずつ黒服が姿を現して、あたし達のお腹に巻き付いた輪っかに後ろから鍵を差しこんで外す。あたし達を自由にすると、黒服はきびきびと歩いて再び廊下に消えた。てきぱきとした動きにあたし達は何もできずにされるがままだった。 「ナイフ持っとくんだった。どっちか殺してやったのに」とひらめ。 「あの壁出入り口になってたんだ。全然気づかなかった」とあたし。「休息時間とか……そんなんあるんだ。それじゃあひらめ、またあとで……」 言ってあたしが自分の陣地にできた出口から部屋の外に出ようとすると、ひらめがあたしの肩を掴んだ。 「待ってよ」とひらめ。 「なによ」とあたし。 「いやなんで別々の個室で休むし」 「……え? だって両側の壁に一つずつ出口と廊下が出現したってことは、それぞれ違う部屋で休めって意味じゃない?」 「そんなんわたしらの自由だし。うちらニコイチでしょ?」 「……ん。まあ、いいんじゃない?」 こんな時まで仲良しこよしを主張するひらめにあたしは苦笑。殺し合いの緊張感から解放されるための休息時間で個室だろうに意味ないんじゃないかと思うけど、あたし達は既に和解して連帯を手に入れていたのだからこういうことだってできる。 危機感がないとも楽観的だともいうことができる。状況を弁えていないとも。そうした性質があたし達を落伍者にしたのかもしれない。けれど少なくとも今この瞬間片割れとの絆を失わずに済んでいるのは間違いなく良いことだった。 個室はビジネスホテルの部屋みたいで、ベッドのある部屋にシャワールームが備え付けられている。あたし達はシャワーを使うことにした。 「ベッドあるってことは一晩休めるんだ。なんかぬるくない?」とあたし。 「消耗して気が狂って殺し合っても意味がないってことなんじゃないかな? 正気のまま冷静に姉妹殺し合うのが向こうの御望みとか?」とひらめ。 「冗談じゃない」 「まあだよね」 裸になったあたしらはいつものように互いの髪を洗ってやり、時々するように互いの背中を流してやる。ひらめの身体は白くて均整がとれていてすごく綺麗なのだ。 「ねぇお姉ちゃん。最後かもしれないから言っておくよ」ひらめは大まじめな顔で言いだす。 「なに?」 「今までお姉ちゃんの乳輪でかいっつってたの、ただからかいたかっただけで、言う程でかくないからね」 どうでもいいよんなもん。 こうやって身体洗わすのも向こうの目的なのかもしれない。若い女を殺し合わせるからには、あんまり垢塗れで醜くさせるより、ずっと綺麗にしておく方が映像として売れるのかも。 シャワールームを出て、用意されていた着替えを身に付ける。ふつうにあたし達の家にあるあたし達のパジャマだった。窃盗だった。 歯を磨いてベッドに腰かけていると、ひらめがあたしの肩をちょいちょい叩く。 「ねえお姉ちゃん。あれ見て?」 あたしはひらめの指さした方を見た。壁にかけられたパネルに、文字が刻まれている 惰眠は一人で貪るなかれ 意味が分からずにひらめと顔を突き合わせる。ひらめは口元に自嘲気な笑みを刻んで言った。 「なんか嫌味ったらしくね?」 ニートであるあたし達にとって確かにそれは厭味ったらしい文句かもしれない。確かにあたし達は『惰眠を一人で貪って』来たし、だから周りと差を付けられて無軌道に落ちぶれ続けた。今更どうしようもないのだけれど。 「まあいいや。あんなん気にしたってしょうがない」ひらめは立ち上がり、いつものようにあたしにお構いなく勝手に灯かりを消した。そしてもぞもぞと布団を被り、あたしの分のスペースを開けた。 あたしはひらめと同じ布団に潜り込む。 黙って抱き着いて来たひらめの身体に腕を回す。 いつも通りのぬくもりに寄り添うと、自然と瞼が落ちて来た。 ○ 眠っている間に妹に首を絞められるということはなく、一晩たっぷり眠ってあたしは目を覚ました。 「おはよう」 ひらめはベッドを降りていて、あたしの脚の方にかがんで何やらベッドを見詰めている。何がそんなにおもしろいのかと駆け寄ると、ひらめはベッドから伸びている銀色のレバーをぺこぺこ押していた。 「なにこのレバー?」とあたし。 「分からん」とひらめ。 押し続けていないと元の位置に戻ってしまうタイプのレバーだ。大きさは手の平の半分くらい。昨日は気付かなかった。 「まあなんでもいいや」ひらめは言いながら頭をボリボリかく。「歯ブラシ持って来たゲるよお姉ちゃん」 「え。ああ、うん」 あたしは銀色のレバーに魅入られて動けなくなる。 ひらめがしていたようにぺこぺこ押してみる。長押しとかもしてみたし、押しながらベッドに力を入れたりもしてみたけれど、どうやっても何も起こらない。 なんで付いているんだ、こんなもの? 「お姉ちゃん。何やってんの?」 ひらめは言いながらあたしの口の中に歯ブラシ突っ込んで来た。咥える。歯に押し当てられてじゃこじゃこ動かされたので「ひゃめい」と言ってひらめを睨む。 けらけら笑いながら自分の歯を磨き始めたひらめに、あたしは向き直って言う。 「ねぇ、真面目にこれ、なんだと思う?」 「知らんよ。どうでも良くない? なんか中に収納スペースでもあって、それを開ける為の仕掛けとか?」 「の、割にはどうやっても何も起きないの」 「家のベッドにもなんか色々レバーとか付いてるじゃん? あれ押しながらベッド折りたたむ仕組みなんだけど、変に力いるからさぁ、結局畳んだこととかないし。そもそも畳んだところでうちらのベッドの下魔境じゃん? こないだ食いかけのアンパンがカビだらけで出て来てさぁ……あれお姉ちゃんでしょ?」 言いながらベッドの周りをうろうろと歩くひらめ。そして反対側までたどり着くと、何かに気付いたみたいに屈みこんだ。 「こっちにも同じのあるよー」 「マジで? 押してみて?」 「もう押してるよ。でも何も起こらん」 ひらめはつまらなさそうな顔でレバーから手を放し、興味をなくしたように歯ブラシをじゃこじゃこし始める。 「ちょっと待って。ちょっと待って!」あたしは強い口調で言う。「押しっぱなしにしてみて?」 「えぇなに? 別にいいけど」 向こう側レバーを押しっぱなしにするひらめと同時に、手元のレバーをあたしは押した。 ベッドの脇から、ガタッ、という音がした。 あたしが慌ててベッドの脇に進むと、さっき隠れていた引き出しがベッドから飛び出していた。 「隠しスペースだ……」あたしは歯ブラシを握りしめた。「両側のレバーを同時に押さないと開か ないんだ、この引き出し。一人じゃ開けられないんだ……」 「ふーん。おもしろいね」ひらめは興味なさそうにベッドに座り込み、歯ブラシを口に突っ込んだまま欠伸をする。 「ちょっとひらめ、分かってんの?」あたしはひらめに詰め寄った。「謎を解いたんだよ、あたし達! これがどういう意味か分かってんの?」 『惰眠は一人で貪るなかれ』というパネルに描かれた嫌味な文句は、こういう意味だったのだ。一人に一つずつ与えられた休憩用の個室に、しかしあえて二人で入ってみろという意味のヒントだったのだ。二人がかりでしか開けられない隠しスペースを開ける為には、『惰眠は一人で』貪ってはいけないのだ。 「知らんよ」 ひらめはそう言って肩を竦める。こいつはこうなんだ。色んなことに無関心で無気力でそれが故に太々しい。自分の興味のあること意外何もかもがどうでも良いんだ。 あたしは引き出しの中を見る。 丈夫な紙でできたカードが一枚入っていて、そこにはこう書かれていた。 三つの命は今一つ 決別の時、失われる重さはいくつ? 「なにそれ。どういう意味?」ひらめはあたしの持ってるカードを覗き込んで言う。 「分からない。考えてよひらめ」 「えー分からん」 「考えてよ! 謎を解いて行けば、なんか良いことあるかもしれないじゃん!」 「良いことってなぁに? ニンテンドースイッチでも手に入るの?」 「ここから出られるかもしれないじゃん!」 「弄ばれてるだけだよ、お姉ちゃん」ひらめは歯ブラシを口から離した。泡がひとしずく口から垂れる。「脱出ゲームだったら最初っからそう言われてるって。どっちか死ななきゃ出られないって寺内言ってたじゃん? どうしようもないんだよ。諦めて一緒に死のうよ」 心底からの諦念を滲ませつつも、どこかケロりとして落ち着いた顔だった。 どうしてこんな顔ができるっていうんだ? あたしは思い、すぐに理解した。 そうだこいつはこういう奴だ。色んなことに対して諦めてしまっている。どうでも良いと思い込もうとしていて思い込むことに成功してしまっていて、だから周囲のにぎやかな景色から目を背けてあたしと二人でニートなんかやっていられたんだ。 そうすることでしか心を守れないんだ。何を願っても何を信じても裏切られて来たから。 生きて出られるとか心底思っていないし、希望を持つことを恐れているんだ。 死ぬことよりも。 「あたし……あんたと死ぬの嫌だ」 あたしは言った。ひらめはむっとした顔をして歯ブラシを放り出し、あたしの肩を掴む。 「わたしを殺す気?」 「違うよ! んな訳ないじゃん!」 「じゃあここから出られるとでも思ってるんだ?」ひらめは溜息を吐いた。「あいつが……寺内が、逃げ道を用意するなんて優しいことしてくれる訳ないじゃん。あいつはわたし達に容赦しないし殺すと決めたら絶対殺すんだよ。血も涙もないから! 人を人とも思ってないから! わたし達の生命なんておもちゃなんだよアイツの。姉妹醜く殺し合って浅ましく死んでいくのがあいつの望みなんだよ」 「嫌じゃんそんなの!」 「そうだよ嫌だよ! だからあいつの思い通りにはさせないんだ! 一緒に死ぬんだ! 仲良しのまま!」 ひらめはそう言ってあたしの肩を強く揺すった。有無を言わせない言い方だったがその瞳は懇願するかのようだった。 「あなたと殺し合ってまで生きていたくなんてないんだよ! だから……早く一緒に死のうよ……一緒に。ねぇ……」 ああそうか。あたしは気付く。 こいつは多分、こいつ自身の生命とかあたしの生命とか、全部どうでも良くて。最後を二人で綺麗に迎えられるのならそれで良いのだと思い込もうとしていて、思い込んだまま楽に死ぬ為に心中を焦っているんだ。 自分の内側に固めた……固めた気になっている死の覚悟が揺らぐことを恐れている。だから脱出に興味を示さないし示そうともしない。 あたしはひらめの肩を掴む。「あたし、あんたのことは絶対殺さないし傷付けないから」 ひらめはあたしと肩を掴み合ったまま息を吐きだして、思い詰めた瞳で床を見詰めた。 ○ やがてアナウンスが行われてあたし達は元の薄暗い長方形の部屋へと戻される。お腹にベルトを撒かれて、そこから伸びた赤紫の鎖で拘束される。 「なにやってんの?」 部屋へと戻されたあたしが最初にしたことは、部屋中の床や壁をくまなく見て回ることだった。 『三つの命は今一つ。決別の時、失われる重さはいくつ?』この文面が意味するところを知る為に、それは必要な行動であるように思われた。『惰眠は一人で貪るなかれ』というメッセージがベッドの仕掛けを解くヒントであったかのように、何かこの部屋にも仕掛けがあるのではないかと考えたのだ。 「るっさいバカひらめ。そっちの壁はあんたにしか調べられないんだから調べてよ」 「えー面倒くさい」 「良いから働けよ!」 「お姉ちゃんに働け言われる日が来たか」ひらめは苦笑して立ち上がる。「いいよ。他でもないお姉ちゃんの頼みだ。付き合ってあげる」 あたしからお願いしない限りひらめは動かない。ひらめだって内心で謎解きに興味がないはずもないのだが、それ以上に『どうせ生きて出られない』という諦念を守る為に心が頑ななのだ。 しかし……命がかかってすら、諦めの中に逃げ込むことに必死なのは、ひらめにしても行き過ぎなのではなかろうか? しばらく探し回った結果、ひらめが床にネジが四本刺さってるのを見付けた。ネジの溝の形はプラス。目を凝らすと床のその部分に正方形の板が嵌まっているらしく、その四つの頂点をネジでとめてあるあるようだった。 きっと中に空間がある。 「わたし有能。お姉ちゃん無能」たまたま見付けただけなのにやたら偉そうなひらめ。「開けてみようよ」 「ドライバーないのにどうするよ?」 「これ使えない?」 言いながらひらめは自分の陣地からナイフを持って来る。そしてネジの溝の突き立て、回そうとするが……上手くいかない。 「できる訳ないじゃんバカじゃん」ちょっと期待していたのを隠してあたしは言う。 「るっさいなぁ」 ひらめは残念そうにナイフをテキトウに放り投げる。壁にぶつかってその辺に落ちた。いい加減だが、ナイフのような殺し合いの道具をこれ程軽視して見せることがひらめなりの信頼の表現である。あたしは黙っていることでそれを受け止めた。 「プラスドライバーがいるね」あたしは言う。「ねえひらめ。今夜は昨日の反対の部屋に二人で行ってみよう」 個室は一人に一つずつある。昨日はあたしの陣地側の廊下の部屋に行ったから、今日はひらめ側の部屋に行ってみるべきだ。 「良いよー別に。それでお姉ちゃんの気が済むんならね」 ひらめは気だるげな表情で手足を投げ出した。 だるそうで面倒臭そうな、色んなことがどうでも良さそうな、いつものひらめらしい態度だった。極度にどんくさいが為に望むものを何も手に入れられないあたしを見ていて、かえってそういう虚勢を学習したのかもしれない。そしてそれはひらめにとって大切で取り返しのつかない場面でも貫かれるのだ。 『どうせそれ、お姉ちゃんには無理だよ』 『じゃあひらめにはできんの?』 『無理だし最初っから興味もないよ』 ひらめはいつもそんな調子で涼しい顔。頑張ることがバカらしくなる。 それに乗っかって一緒になって怠けて来た。けれど、今回ばかりはそうもいかないのだ。 「ねぇひらめ、あの暗号の意味って考えてる?」とあたし。 「暗号?」首を傾げるひらめ。 「『三つの命は今一つ。決別の時、失われる重さはいくつ?』」 「あああれね。三つの命かあ。この部屋で『命』と呼べそうなのは……」 ひらめは首をかしげて、それから自分自身を指さした。 「一つ」それからひらめはあたしの方を指さす。「二つ」最後にひらめは床の方に指を動かした。「三つ?」 「なによ、その『三つ?』って。床がどうしたの?」 「知らんよ。テキトウ言っただけ」ひらめは肩を竦めながら、自分のおへそのあたりに付いている鎖をじゃらじゃら鳴らす。「まあでも考えておいてあげる。暇つぶしにね」 「何の暇つぶしよ」 「お姉ちゃんが死ぬ気になるまでの暇つぶし」 あたしは溜息を吐いた。 ○ 時間来て、今度はひらめの陣地側の個室に行って、まったく同じ見た目のその部屋のベッドを調べる。案の定銀色のレバーがベッドの前後に一つずつあった。 「念願のプラスドライバーを手に入れたぞ!」 隠し収納スペースは同じ方法で開けることができた。そこに入っていたのはプラスドライバーであたしは歓喜。右手にそれを掲げ持って跳ねまわる。 「わざと空騒ぎしやがってさぁ」 ベッドに座って膝に頬杖付いているひらめの前で、あたしはバカみたいにはしゃいで見せる。 「謎が解けていくのって楽しいじゃない? 明日、部屋のネジ穴回してみようよ」 「ちょっとずつ前進してるっぽいのは認めるよ? けれどもね、断言してあげる。最後の最後、全部の謎が解けてゴールに達しても、『残念でした何もありませんよバーカバーカ』って描かれた紙が手に入るだけだから」 言いながらひらめは肩をすくめて立ち上がる。 「カロリーメイトしか食べてないとなんかイライラしてくる。栄養足りなくなるよこのままじゃ。早く死のうよ」 「一応謎を解くまでは心中待ってよ」 「良いけどお姉ちゃんに謎とか解けんの?」 「ひらめが協力すればいいんだよ。本気出したらあんたのが賢いイメージあるんだけど」 「わたしの脳みそなんてお姉ちゃんと同レベルだよ」ひらめは首を振る。「双子なんだから」 なんていうけれども実際問題ちょっとずつ差がある。というか色んなことについてひらめの方がほんのり優秀なんだ。そんな大きな差がある訳じゃないし、ひらめ自身に怠け癖があったから、なんだかんだと足並みは合ったんだけど。 シャワー浴びて身体洗って歯ぁ磨いてベッドに潜り込む。片割れの体温は家にいた頃と何も変わらない。 「本当何もかも同じくらいなんだよねうちら」ひらめは溜息と共にそう言った。「赤ん坊の頃の写真とか本当見分けがつかんくらいだしさぁ。出生体重まで同じだったでしょう、うちら」 「二千五百七グラムだっけ?」 「わたしその数字ネットのパスワードとかにしてる」 「マジで?」 「マジで。いくら双子だからってそれが同じなのは偶然だけれどさ。でも何か運命的なものを感じなくもなかったよ。このお姉ちゃんはきっと死ぬまでわたしの傍にいてくれるって、神様が保証してくれたみたいでさぁ」 隣り合って横になった状態で、ひらめは言いながらあたしの方に手を伸ばす。ほっぺたに手を触れ、人差し指でなぞり、唇に到達させる。親指と人差し指で優しくぐにぐにと触って来る。 あたしは付和雷同な性質で自分でものを決めたり考えたりするのが苦手で、だからひらめに連れ回されているのが楽で、そんなあたしがひらめにはちょうど良い相方らしかった。そういう姉妹関係の中で二十数年を生きていたし、その二十数年が楽しいと言うか楽だった。 「なんかそれエロい」あたしは言う。 「いいじゃん別に」ひらめは気にせずぐにぐに。 「あむ」あたしはひらめの指に噛みつく。 「あはは。なにすんの。痛い、痛いって、ちょっとやめてよぉ、もうやめ…………本気でやめろっ!」 ちょっと強めに噛んだら怒られた。あたしはびびって涙目になった。 ○ 翌日朝起きて歯ぁ磨いて元の部屋に戻される。 お腹にベルトを付けられて、赤紫の壁から同じ色の鎖で繋がれる。 「プラスドライバー、使うの?」 ひらめに問われる。あたしはドライバーを手にして頷いた。 「あっそ」 ひらめはそう言って赤い壁の方に座って寄りかかる。この期に及んで興味のなさそうにしているひらめのことが、そろそろ理解できなくなっていた。強がりや虚勢で物事に対して冷めた態度をとるのはひらめの癖だったけれども、二人の命がかかった状況でそれを貫いているのは常軌を逸している。 ひらめはいつもどんな状況でもあたしの知ってるひらめだし、それは今この瞬間も変わらない。そのことは普段ならとても頼もしいし安心感があるし、そのお陰で今あたしは冷静になれてもいる。最初の方であたしがビビっていた時は、自らのナイフを投げ打ってこちらを落ち着かせてくれもした。ああいうことをできるのがひらめなんだ。 けれど、脱出の糸口が見えたこの状況でまで、こうまでかったるそうにしてられるのだろう。 あたしは部屋の中央に見付けた四つのネジの溝の前に跪き、ドライバーを差し入れる。 それで床に嵌まっていた板が外れて、中の空間が現れた。 問いに答え、解き放たれよ 決別の順序を間違うことなかれ そのように刻まれた文字の下に、四ケタの数字を要求する画面と、0から9までの数字キーがはめ込まれていた。0の隣には『D』と『E』と描かれたボタンがそれぞれ存在していて、むき出しの『D』とは異なり、『E』のボタンは火災報知器のボタンみたいに薄いガラス板で守られていた。 デリートキーとエンターキー。デリートキーはともかくとして、ガラス板で守られて簡単には反応しないようになっているエンターキーは、おそらく一度しか使えないのだろう。チャンスは一回。間違うことは許されない。 「パスワードを要求してるんだろうね。問いに答えよってのはそういうことだもん」気付けば後ろから画面をのぞき込んでいたひらめが言った。「『決別の順番を間違うことなかれ』、かぁ。『問い』に関係あるのかな?」 「あるに決まってんじゃん。これもヒントだよ」 「そうかなぁ。そうとは限らないと思うけど。まあ、どうでも良いけどね」 投げやりに言ったひらめに、あたしは苛立ちを露わにした。「ねえ、あんたもいい加減真面目に考えなよ」 「えぇ、面倒臭い」 「きっとこれが最後だよ! これに答えれば外に出られるんだよ! ちゃんと考えれば必ず……」 「やぁよ。どうせ無駄だもん。無理だもんわたしとお姉ちゃんじゃ。真面目に頑張って報われたことってあなた、これまでの人生にたった一度でも存在する?」 「何言ってんの?」あたしはひらめの胸倉を掴む。「今そんなこと言ってる場合? 死ぬんだよ? これに正しく答えないと、死ぬんだよ、あんたも、あたしも……!」 「死ねばいいんじゃない」ひらめはふてぶてしい表情であたしの方を見詰める。「生きるっていうのはね、生きる為にがんばるっていうのはね、本当に本当に、しんどいことなんだよ。つらくてみじめで大変で、それでいて独りぼっちで、苦しいことなんだよ。そんな割に合わないことをがんばって……お姉ちゃん、バカじゃない?」 「うっさいひらめ! あたしは死にたくない!」 「なんで分からないんだよ!」 ひらめはあたしの胸倉を掴み返し、あたしの身体をぐいぐいと押す。あたしは思わずその場で踏みとどまる。 「ママはもういないんだよ! 裏切ったんだよ! わたしとあなたと二人だけの、安全であったかい世界はもう壊れたんだよ!」ひらめは泣き喚くような声で言う。顔は赤くなり、眉間に皺がより、肩は震え、それでいて、視線は駄々をこねてあたしに甘える時のようだった。「外は地獄なんだよ! お姉ちゃん言ってたじゃん! 過去に戻ってママのお腹を殴りたいって! わたし達二人を堕胎させたいって! ここはママのお腹の中なんだ! わたしとあなたと二人だけの閉じた楽園なんだ! だから、だから……」 ひらめはそう言ってあたしの身体に縋りつき、胸に顔を押し当て、泣きじゃくった声でこう言った。 「ここで一緒に死のうよ。外はやだよぅ……」 あたしは絶句して何も言い返すことができない。 ママの裏切りがこの子の心をこれ程までに深く傷付けていたことをあたしは初めて知った。寺内からのいじめがこの子の心をこれ程までに深く傷付けていたことを、あたしは初めて知った。 これまでの生涯の中でひらめは軽んじられて踏みにじられて嘲笑されて裏切られて来た。ひらめはこの世界に対して憎悪と恐怖と忌避を抱いたし、それが為にあたしと二人だけの小さな世界に逃げ込んでいた。 ひらめは絶望しているのだ。あたしは思った。ひらめは外の世界の全てに絶望していて、死を心底から受け入れられる程に絶望しきっていて、この小さな密室の中であたしと二人だけで終わりを迎えることを心から肯定しているのだ。 「あなたなら分かるでしょう……?」ひらめは震えている。「あなたなら分かってくれる。わたしを分かってくれるのは、わたしに寄り添ってくれるのは、いつだってあなた一人なんだ。この世界を一緒に憎んで一緒に取り残されてくれたのはあなたなんだ。このおかしな世界の中で、お姉ちゃんだけがわたしと一緒で、正常だったんだ……」 「……違うよ。あたし達があんな状態だったのは、あたし達がズルくて弱かったからで……」 「分かってるよそんなことは! なんで? なんでそんなことあなたがわざわざ口に出すの? ねぇ? なんで?」ひらめは深く傷付いた表情で喚き散らす。「そうだよ! 悪いのは全部わたしだよ! わたしなんでしょ? どんなにつらくても苦しくても理不尽でも、それでもそれは全部わたしが悪いんでしょ? 受け入れなきゃダメなんでしょ? 変わらなきゃダメなんでしょ? そんなの……そんなの嫌だよ」 そうだ嫌なんだ。自分を否定して困難に立ち向かうなんて嫌なんだ。理不尽や苦悩を受け入れながら卑屈にみじめに頑張って頑張って、傷だらけになりながらまっとうに生きるだなんて、そんなの嫌に決まってるんだ。 でもそうしなきゃダメなんだ。そうしなきゃ生きられないんだ。ひらめはそれを分かっている。 だから死にたがっている。 あたしと一緒に死にたがっている。 「外はつらいよ」ひらめはしゃっくりをあげた。「お姉ちゃん、あなたはそれでも生きていたいの?」 「生きたいよ」あたしは答える。 ひらめはあたしの顔を見上げる。泣きじゃくった顔を握りつぶした花みたいに微笑ませて、媚びるような表情で、ひらめはあたしに問うてきた。 「お姉ちゃんは、わたしに一人で死ねって言う?」 「言わないよ」 あたしは答えた。 「じゃあ一緒に死のうよ」 「一緒に生きるんだよ」あたしはひらめの肩を掴む。「一緒に生きるんだよ。助け合って、励まし合って。たくさん喧嘩して、その数だけ仲直りして、そうやって二人で生きていくんだよ。どんなにつらくても苦しくても、あたしはあなたの傍にいるんだよ」 「嘘だっ!」ひらめは慟哭する。「今までのようにできる訳がない! 外の世界であなたは変わる。そしてわたしを置き去りにするんだ! わたしを裏切ってあたしから逃げていくんだ! 決まってるんだ。ママもそうだった。わたしを否定してわたしを切り捨てて、そして一人でまともになるんだ! 違う?」 叩きつけられたその感情は、縋りつき甘える子供そのものだった。相手にしがみ付きありのままの自分の傍にいてくれと懇願し、願いを叶えてくれと泣き叫び、それが適わないとなると激怒する子供の絶叫だった。 でもそうだ。今までのようにできる訳がないのだ。ひらめの言うことはある意味では間違っていない。ひらめが今のひらめでいる限り、あたしは完全には寄り添うことができないのだ。 でも何があっても離れ離れになる訳じゃない。 「聞いて、ひらめ」あたしはひらめの頭を撫でて諭すように言う。「確かにあたしは変わるかもしれない。変わらなければ生きていけないかもしれない。けれどもね、あんたも変わるんだ。二人で一緒に世界から取り残されることを選ぶんじゃなく、二人で手を繋いで歩いて行くんだ。きっとできるよ。あたしは絶対にあんたを取り残して離れたりせずに、あんたがあたしと一緒に歩いて来られるようになるまで、傍にいてちゃんとずっと待っててあげるから」 「何言ってんの? 何言ってんのお姉ちゃん? お姉ちゃんの癖に? わたしより何をやってもどんくさくてずっとわたしが傍に付いていなくちゃダメだった癖に! 良くそんなこと言えたよね。バカじゃない?」 あたしは傷付いた。「うるさいひらめ! 集団で一番足の遅い奴と手を繋いでやって、足並み揃えてやってるとか言いながら、それ全部自分が怠ける言い訳にしてきたのがあんたっていう人間だ! 自分も十分とろくさい癖に!」 「だったら置き去りにしてやろうか!」 「嫌だよ!」あたしは叫んだ。「嫌だよぅ……」 あたしがそう言って膝を折ると、ひらめは戸惑った様子であたしの肩を掴んだままあたしを見下ろす。 「……嫌だから、嫌だからがんばるんだよ。励まし合って、支え合って、がんばり合わなくちゃいけなかったんだよ。そうあるべきだったんだ……あたし達は、間違ってたんだよ」 あたしは言う。ひらめは目を見開いてあたしを見詰めていた。あたしから、他でもないあたしからこれまでの二人の全ての在り方を否定され、酷く動揺しているようだった。 「なんで? なんでそんなこと言うの?」ひらめは涙を流す。「違うんだよ。何も間違ってないんだよ。あなたはそのままでいい。そのままでいいんだ。そのままのあなたの傍にわたしはいくらでもいてあげるんだ。その為に……わたしは死んだって良いんだ」 「あたしは死にたくない。ひらめとこの世を生きていたい」 「そしたらいつか必ずどっちかがどっちかを裏切るよ! 決まってる!」 ひらめは言う。そしてあたしから手を放して、床に座り込んで、小さな子供のようにわんわんと泣き出してしまう。 あたしは何も声をかけられない。 どっちかがどっちかを裏切る。ママがあたし達を裏切ったように。どちらかがどちらかを見限って置き去りにする日が、いつか訪れるのだろうか? ひらめがひらめのままでいる限り、この子は外の世界を生きてなんていけない。それはあたしだって同じだ。あたしが今のあたしのまま変わらなければ、この世界に耐えながらこの世界を生きていくことなんてできないはずなんだ。蹲って助けを求めて泣きじゃくっていることしかできないはずなんだ。 そうなったら……ひらめは、あたしのことを裏切るの? そんなはず……。 「ねえお姉ちゃん」 声がした。 気が付くと、さっきまで子供の頃と同じ表情で泣きじゃくっていた妹の頬に、太々しい笑みが刻まれていた。散々泣いて、気が済むまで泣いて、すっきりして元のひらめに戻ったみたいだった。 「あんたってさぁ? 結局そうなんだよ。口では威勢の良いこと良いながら、結局わたしに頼りっきりでさ?」 「……は?」 「あんたが本当に頼りになるお姉ちゃんだったら、ごちゃごちゃ説教垂れる前に、自分で問題解いてこの密室の外にわたしを連れ出すべきだったんだよ。そうした後で、ぐずってるわたしの手を握って、わたしのことを守ってくれれば良かったんだよ」 「そうだけど、でも、あたし一人じゃ問題なんて」 「そこだよねぇ。結局あなたは他力本願。何かあるとすぐわたしに縋りつく。わたしだってあなたと酷くレベル変わんないのにさ。けれどもね、これだけは確かなこととして」ひらめは言って、あたしの頭に手をやった。「お姉ちゃんはわたしをずっと信じてるし、だから、一緒に外に出ようなんて思えるんだ」 あたしは息を飲み込んでひらめを見る。 ひらめは太々しい笑みを浮かべていた。 「さっきまで偉そうに喚いてたのだって、結局は『なんとかしてよひらめ』ってことだよね? 分かるよ。一人で泣いてみてそれに気付いた。まったくしょうがないお姉ちゃんだよね。どうせ外でもわたしに手ぇ引っ張っててもらうつもりだったんでしょう? 良いよ別に? わたしお姉ちゃん好きだし。お姉ちゃんを守りながらお姉ちゃんの傍にいてあげる。お姉ちゃんを導いてあげる。……お姉ちゃん、わたしがいないとダメだもんね」 ひらめはパスワードの入力画面の前で膝を折り、人差し指を立てて数字キーを打ち込んだ。そして、あたしの納得を待つようにじっとあたしの表情を覗き込んだ。 『5014』 あたしは頷いた。ひらめ微笑んで、薄いガラスを砕いてエンターキーを押す。 『OK』 画面の文字が切り替わり、あたし達は顔を見合わせて両手を叩き合った。 ○ 「なんでわかったの?」とあたし。 「楽勝」ひらめは『どや』と描いてあるような表情で胸を張る。「ここはママのお腹の中。わたしとあなたとお姉ちゃんと、『三つの命は今一つ』」 言いながら、ひらめは自身のおへそのあたりに付いている鎖をじゃらじゃら鳴らす。 「この鎖がへその緒、それが繋がってる向こうの壁が胎盤って訳。ここまで分かれば後は簡単。『決別の日に失われる重さはいくつ?』これはつまり……」 「出産の時にママが失うのはあたし達二人分の重さだよね」 「そう! わたし達の出生体重は二人とも二千五百七。合わせて五千十四。これが正解って訳」 「すごい!」あたしはひらめの手を握る。「やっぱりひらめはすごい。賢い!」 はしゃいで手を取り合いながら、あたし達は一体となったような心地よさを抱いていた。共に奮起し、知恵を絞り、最後はひらめに良いところを取られたけれども……一緒になって脱出をやり遂げた。力を合わせて自分達の生命を掴んだのだ。 一緒に落ちぶれているだけの片割れだった。脚を引っ張り合う間柄だった。けれどもひらめは一緒に前を向こうというあたしの呼びかけに応えてくれた。知恵を絞ってあたしの生命を助け、守り抜いてくれたのだ。 カチンと音がして、赤紫色の壁からあたし達を繋いでいた鎖が外れる。そして反対側の壁、つまり洋式便座の鎮座していた壁の一部が引き戸のようにスライドし、出口を作った。 「それじゃあ出て行こう」あたしはひらめの手を引いた。「早く早く」 「あいあい」ひらめは言いながらきょろきょろと妙にあたりを見回す。「でもねぇお姉ちゃん。本当にこれ、もう助かってるのかな?」 「え? どうしたの? どう考えても全部謎解いたじゃん? だからこのとおり出口が開いたんだしさぁ」 「いやまあそうなんだけど……。なぁんかひっかかってるんだよねぇ」 不安そうにするひらめを見て、あたしは出口の前で立ち止まる。出口の向こうには廊下と階段があって、それは外の世界に通じているものだと思われた。 「怖いんならあたしが前行くよ」あたしは胸を張った。「なんか危険があるかもしれんでしょ? じゃあお姉ちゃんが責任もって先陣を引き受けます」 「なぁに珍しく姉ぶるね」 ひらめは苦笑しつつも、素直にあたしの後ろに回った。ちょっとだけ姉の顔立ててくれてんのかなとか思うと嬉しくて、あたしは出口に向かって歩き始めた。 「それに、この部屋がママのお腹の中だっていうんだったら、やっぱりあたしが先に出ないとね」 あたしが言うと、ひらめは首をかしげる。「え? どうして」 「だってさぁ、ママのお腹から先に出たから姉なんでしょう? 簡単な……」 一気に表情を青ざめさせたひらめが後ろを振り向くと、慌てた様子であたしにとびかかって来た。いきなり覆い被さられ、訳も分からずに地面に背中をくっ付ける。 バンッ、という、とても嫌な音が響いた。 テレビドラマなんかではたまに耳にする音だ。銃の発砲音。しかし作り物のそれよりはるかに生々しく、鼓膜と同時に全身を震わせるような冷たい響きを持っていた。 あたしはひらめの下敷きで訳も分からず混乱している。あたしに乗っかったひらめがあたしの顔を見詰めて、頬に手を触れ、じっと覗き込んでから絞り出すような声でこう言った。 「痛いとこ、ない……?」 あたしは訳も分からず頷いた。「大丈夫だよ。どうしたのひらめ、今のなに?」 ひらめは薄く微笑む。「……良かった」 お腹のあたりに生暖かい感触を覚えると、二人の身体が赤く染まっていることにあたしは気付いた。 ひらめは血まみれだった。背中からたくさん血を拭いていて二人の全身を染め上げている。あたしが顔を上げると、監視カメラの一台に取り付けられた小さな筒状の装置から煙を拭いているのが見て取れた。 そうだ。最初に部屋に入った時にも気付いたが、一台だけ妙な装置の取り付けられたカメラがあったんだ。きっとあれは銃で、あそこから飛び出た弾丸がひらめを襲ったんだ。 いや違う……。あたしは気付く。あれが狙ったのはひらめではない。あたしだ。 こんなヒントがあった。『決別の順序を間違うことなかれ』。あれは部屋を出る順番のことを差していたのだ。あたしはそれを間違えた。ひらめが先に出なければならなかったのだ。先に母親の胎内から出た方が『妹』なのだから。密室に入って最初に教わったそのことを、あたしは忘れていたんだ。 「おねぇ……ちゃん。良かっ……たよ……」血まみれのひらめがあたしの方を見詰めて言う。「これなら……ずっと仲良しのまま……。今まで、ありが……」 身体の中の空気を最後の一滴まで絞り出すようにひらめは話していた。その度にひらめの命がかき消えるかのようだった。それが怖くてあたしはひらめを強く抱きしめているしかなかった。 「ひらめ! ひらめ……しっかり……」 あたしの顔を虚ろな瞳で見つめながら、ひらめは最後の命を最後の言葉と共に吐き出した。 「生きて」 それっきりひらめはあたしの胸に顔を埋め、動かなくなった。 あたしは身体の半分がどこかへ吹き飛んだような衝撃を覚えてた。その衝撃が信じられなくてあたしはひらめの身体に縋りつき、泣き叫んだ。喉が裂ける程何度も何度もひらめの名前を呼んだ。 けれど何も言わなかった。信じられない程の量の血液を垂れ流しながら、目を閉じたひらめはあたしの呼びかけに応えなかった。こんなことは初めてだった。 「ひらめ? ひらめ、ひらめ!」 腹の奥底からこみ上げて来る巨大な恐怖にあたしは震える。ひらめが死んで、もう戻らないという現実が足元からあたしの全身を染めようとする。 いつまででもいつまででもあたしは泣き叫んでいられた。そうしていないと気が狂ってしまうことをあたしは理解していた。だがそれは妹を失う恐怖を一時押し留めるものでしかなかった。ひらめはもうあたしに微笑まないしあたしの手を握らないしあたしと一緒にいてくれない。その現実はすぐにでもあたしの全身を飲み込むし、あたしの全てを破壊にして取り返しのつかない姿にしてしまう。魂をズタズタに引き裂いて立ち直れなくしてしまう。 『生きて』 それでもひらめはそう言ったのだ。本当にひらめはとんでもないことを言い残した。本当にどうしようもないようなことをひらめは言い残してくれた。 そりゃあひらめ、あんたは最後にあたしを守れて気分良く逝ったかもしれないが、それで残されたあたしはどういう気持ちか少しは考えなかったのか? この小さく醜いあたし一人で、自らの愚かしさで妹を失わせたという事実を背負わせたまま、生きて行けっていうのか? 冗談じゃない。 「最初にちゃんと忠告してやったのに。本当に、詰めが甘いというか、間抜けというか」 嘲るような声が聞こえて来た。 「密室の謎を解いたまではたいしたもんだけど、最後の罠にはかかっちゃったね」 寺内だった。数日前会った時と同じバニーガールの衣装を着ていて、数メートル後ろに三人の黒スーツを従えながら、ひらめのことを心底バカに仕切った表情で見下ろしていた。 「あのカメラに仕込んだ銃、一発しか入ってないんだよ。だから、良かったねくらげお姉ちゃん。あんたは借金チャラで生き残れるよ」 視界の中に、密室に取り残された一本のナイフを発見した。 昨日ひらめがドライバーの代わりにしようとして、失敗してそこらに放り出していたものだ。出入り口のすぐ傍で凶弾に倒れたひらめのすぐ足元にそれはある。 「こういう仕掛けってたいていの奴は油断してひっかかるんだよねー。でもそいつ……身内と言えども他人を庇ったりとか普通する? 高校の時からなーんか母親とか姉に対しては変な執着見せたよねその女って。本当、気持ちの悪い……」 素早くナイフを手に取って、あたしは寺内の方へ飛び掛かり、お腹の真ん中にためらいなくナイフを押し込んだ。 「ギャァアアッ!」 悲鳴が上がり、滲みだした血がボタボタと足元に落ちる。寺内は瞳孔をかっ開いた目でこちらを見詰める。懇願するような顔だった。命を乞うような顔だった。もちろんあたしはそんなもの微塵も気にせずに、握りしめたナイフを力いっぱい捻り上げた。 寺内は声を出すこともできないまま苦悶の表情でその場に崩れ落ちた。あたしは仰向けになった寺内の腹からナイフを引き抜くと、とどめを刺してやるつもりでナイフを振り上げる。 「やめてっ! 助けて!」激痛に引きちぎれそうな表情で、寺内は喚き散らすように言った。「後悔するよ?」 「知るか」 そう言ったあたしの顔を見て、寺内はどんな取引も説得も万が一にも通じないということを悟ったようだ。絶望そのものの表情を浮かべる寺内の首に、あたしは力いっぱいナイフを差し込んだ。 血しぶきがあがる。 ○ 全身を血で染めたあたしはその場でぜぇぜぇと肩で息をする。そして動かなくなった寺内の身体を見詰めていた。 殺した。殺してやった。殺すことができた。 憐れみも後悔も微塵もなかった。あたしのこの行為がこの先どんな運命をあたしに招くのだとしてもかまわなかった。このチャンスを逃したままこの先の人生を生きることを考えれば、それは絶対になされないといけないことだった。 「詰めが甘いのはあなたも同じですね」黒スーツの中の紅一点……波野が哀れむような眼で寺内の死体を見詰めた。「負債者の一人でしかないあなたを、我々はそこまで積極的に助けたりはしませんよ。いくら我々でも、何が何でもという覚悟の人間を封じ込めるのは危険ですから」 「……どうなるの、あたし」 あたしは問うた。波野は瀟洒な笑みを浮かべてあたしを見詰め、答える。 「あなたには二通りの選択肢があります。この場で死を持って償うか、ここで死んだ彼女の負債を全て引き受けて組織で働くか」 「働かせて」 「様々な意味で、それはつらい選択になりますよ?」 「構わない」 こいつらの駒になるだなんてゲロみたいな選択だ。どんな扱いを受けるか何をさせられるか想像するに恐ろしい。 けれどあたしは生きなければならなかった。それがひらめの最後の願いなのだ。何をひらめなりの考えがあってそう言ったのか、それともただ単にそう言っておくのが調子の良い死に方だと思ってテキトウなことを言ったのか、それは分からない。けれどもそれはひらめの最後の言葉で、最後に口にしたのがあたしの為のあたしへの願いで、あたしはこの先一生涯、それと共にあることしかできないのだ。 「……良いでしょう。便宜を図ります」波野は言った。「あなたを本物の地獄に案内します」 「ひらめは……?」 「彼女の遺体は我々が責任を持って始末します。大丈夫、きちんと人間の遺体として扱いますよ」 あたしはひらめの元へと縋りつき、誰の物よりも見慣れたその顔を見詰めた。 目を閉じたまま動かなくなったひらめの存在は静謐で綺麗だった。今までに見て来た全てのひらめの中で一番綺麗だった。 ひらめひらめひらめ。優しいひらめ。大好きなひらめ。 ひらめは最後まであたしの妹だった。あたしの妹として生まれ、あたしの妹として死んだ。そして残されたあたしは一人、この先の生涯を生き抜かなければならない。たった一人で地獄を這いずって生き抜かなければならない。 心臓が張り裂けそうだ。けれどやるしかないんだ。あたしは生きるしかないんだ。 「そろそろ」 波野の声がした。あたしは震えた瞳で波野の方を向いて、それから縋りつくようにひらめを見た。 ずっとこの子の身体に縋りついて泣きじゃくっていたい。けれどそれは許されない。 あたしはひらめの柔らかい髪に手を触れて、ナイフを使って髪を一筋切り落とした。それを結んで、あたしは自分の服のポケットに入れる。 「持って行かせて」 「良いでしょう」 男の黒服が二人がかりでひらめの身体を持ち上げる。階段を上ってひらめの身体を外の世界へ運び出す。 さようならひらめ。あたしの大好きなあたしの妹。 別れを告げると、余計に涙があふれて来る。あたしは首を振り、ひらめの頭髪を握りしめてから……自分一人の脚で外の世界へと歩き始めた。 |
粘膜王女三世 2018年01月02日 23時56分21秒 公開 ■この作品の著作権は 粘膜王女三世 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2018年01月21日 23時57分12秒 | |||
合計 | 16人 | 380点 |
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