100番目のアリス |
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アリス かわいそうなアリス どこへ行ってんやろう おらんくなったアリス 出といでアリス 口ずさんでいた歌が自然と止まった。小さな頃から聞いて、いつの間にか知っていた歌。子どもの間で口から口に伝わった不思議な歌詞と悲しいメロディ。 で、アリスって誰なんやろ? きっと意味なんてないんやろうなあ。誰かが何となくで歌い始めて、何となく広まったんやろうけどさ。 それより。 うわ、人間や。人間が朝八時半に職場の前におるわ。 って私も人間やけどさ。 再び歩き出そうかどうか迷いつつ、しばし考える。 二本の足を地面につけてる。腕も二本。肌も人間の肌だ。肌色だし。緑色でもないし、ウロコもついていない。 尻尾も見えないし、羽もついていない。髪質も色も人間のものだ。 やっぱり、人間やな。 会社の前に人間。それも多分女性。 この辺りは人間の姿はない。珍しいこともあるもんや。 お客さんやで。先生も奥さんも、何してるんやろ……って、寝とるんやろうなあ。 絶対、寝とるわ。まったく。寝てるあいだに、先生のウロコ、はがしたろか。いや、労基にチクったほうが効くかも。 「ちょっと、あなた!」 いきなり大声で言われて、ビクッてした。ここは職場前。「ホワイトリー法務局代書士事務所」の看板が見える。奥さんが作ったので、手作り感満載で怪しいことこの上ない。……いや、別にいいねんけどさ。 それにしても、ずいぶん攻撃的な人やな。私より少し上、大学生ぐらいかな。と言っても、学生っぽくはない。 あれ? この人、なんか見おぼえがある。前に一度会ってるんちゃうかな。えっと誰だっけ……。 「あなた、ここの事務員よね?」 「ええ、そうですけど……」 「お名前は?」 え……なんでそんなこと聞くん。言いたくないねんけど。 と私が思ったのが表情に出たのだろう。 「名前は? 名前ぐらい言えるでしょう!」 うわ、声、大きい。近所迷惑やで、お姉さん。 「……パークスですけど」 しぶしぶ苗字を答えた。この辺りの人達は血の気が多いから、あまり騒いでるとブチ切れられそうやし。窓から物投げられたら、かなんもんな。 「ああ……確か、マリーさんね。そうだった、そうだった」 え、なんで知ってるん? 怖っ! とか思ってる場合ちゃうか。 やっぱりこの人、会ったことある人やわ。私の名前、普通に言ったし。うちのお客さんよね? えっと、なんの用事できた人だったかなあ。 「マリー・パークスさん、こうして見ると、ずいぶんと若そうね。あなた、何歳?」 「十六歳ですけど……」 「やだ、まだ子どもじゃないの。学校にも行かずに何やってるのよ!」 十六歳だったら、もう教育を受けなくてもいいやんか。そりゃ、大半の子は学校に通ってるけどさ。 オトンがケガして休職してるから、私が代わりに働いてんねんよ。だから、本当は学生。学校はずっと休んでるだけ。私の住んでる地域は、貧しい家庭が多くて、学校に通えなかったり、通ってても家庭の事情でアルバイトのほうが忙しかったり、そういう子もまあまあいるから、別に何も言われへん。 この人、誰だったかなあ。多分、前に会ったときにはこんなにキーキーしてなかったはず。このキャラやったら、忘れへんやろうし。 「あなたたちのせいよ! 専門家だから相談したのに! うちの主人は治るどころか、ひどくなるばっかりじゃないの!」 怒鳴られてしまった。 そして、うちのお客さん決定。相談にきたことがあるんやわ。主人ってことは結婚してる人、と。 うーん、なんの相談だったんやろ。日付と相談内容を教えてくれへんと、こっちも対処できへんねんけど。 「ご主人が、ですか……?」 なんとか聞き出してみようか。それとも相手にしないほうがいいんか。見極めが難しいなあ。 「あの、旦那様は具体的に……」 「なんなのよ、『密室の恋』って! ふざけないでよ!」 「密室の恋……?」 意味が分からない。そんな法律用語、聞いたことがない。先生がアドバイスしたのだろうか。 「あの、密室の恋というのは一体……」 「うるさい!」 私が問いかけた言葉は、怒鳴り声にかき消された。と言っても、この目の前の女の人にじゃない。 私は声の主がいる二階を見上げた。つられて、相手も上を見る。 「ひっ」 そして、短い悲鳴を上げた。 「あー、もう! うるさいうるさいうるさいねん!」 窓から奥さんが飛んで降りてくる。羽はないけど、ふわふわと飛べるのだ。 海のような青い髪と、キラキラと輝く金色の瞳、見たことがないほど真っ白な肌。人形みたいだ。 おまけに、百歳をとうに超えているというのに、私よりも年下に見える。 急に奥さんが飛んで降りてきたので、相手は度肝を抜かれたようだった。奥さんは不機嫌さを隠そうともせず、相手に詰め寄った。 「まーったく。夢の中で子どもを抱きしめて、涙、涙と思ったら、あんたの声で目が覚めたわ。最悪の目覚めやわ」 「な、なんなの……」 「うるさいで、あんた。朝っぱら大声出して近所迷惑やねん。この辺りはエルフの居住区やから、みんなこの時間は寝てんねん。エルフは夜行性やから。騒ぐんやったら、よそ行き」 「え、何……? 誰……?」 さすがに度肝を抜かれたみたいや。声が震えてる。 「誰って、見りゃ分かるやろ。法務局代書士補助者やんか」 いや、見ただけじゃ分からへんって。 法務局代書士の先生を補助する。補助者になるには、法務局に登録しないといけない。先生が法務局代書士、奥さんが法務局代書士補助者。そして私はただの事務員。 最近、このままここに就職して、補助者として働かないかって誘われてんねんけど、やんわりと断り続けてる。先生も奥さんも労働意欲が低いから、私に仕事を押しつけてくるのは目に見えてるし。それに、あくまでも今の仕事はアルバイトだ、本職ちゃうもん。こうして仕事をしていると、落ち着いたら、学校に戻りたいなって思うようになってきた。学校で勉強して、できたら将来は……。 「あなた、確か……サマンサ・ホワイトリーさん? ホワイトリー先生の奥さんの」 「なんで私の名前知ってんの? 気色悪いなあ」 「なんですって!」 奥さん、ケンカ売ってどうする。 通りはさっきからシンとしている。多分、みな寝ているのだろう。だけど、何かと荒っぽい地域だ。このまま騒いでると、近所の人に怒られそうや。 「あの、奥さん、この人は多分お客さんですよ……」 しゃあない、なだめにかかろう。 「え? そうなん?」 「違うわよ!」 ちゃうんかい! もう、なんなのこの人……。 「客じゃないんやったら、とっとと帰り。こんなとこで大声出されたら迷惑や。ほら、さっさと帰らへんと警吏(けいり)呼ぶで、しっしっ」 「……覚えてらっしゃい」 奥さんの容赦ない言葉と態度に、女の人は捨て台詞を残して去っていった。 私はふうと息をついた。 「奥さん、お客さんを怒らせてどうするんですか」 「あんなん、客ちゃうわ。本人が違うって言ってんねんから、そうなんやろ」 そりゃそうやけどさ。 「……多分、前にうちに来てはると思うんですけど覚えてます?」 「全っ然」 一体どこの誰なんやろ。あ、そういえば。 「あの人、ここら辺の人やないですよね、どこの人なんでしょう?」 この地域は訛りのある地域だ。私しかし、奥さんしかり。そして住んでいる者は、方言を隠そうとはしない。今の人はどこかよその地域の人なのだろう。 「え? ああ、言われてみればそうやな」 奥さんはどうでもよさそうだ。 「あ、ほんじゃ、私、もっぺん寝直すわ。今なら、夢の続きが見られるかもしれへんし。もう一度、あの子に会って、抱きしめて、涙の再開をせんと」 言うが早いがふわりと浮かび上がった。 「ちょっと、奥さん、仕事……!」 「少しだけ横になったら、すぐ下りるから。ほな、おやすみ」 言い終わる頃には、もう二階にいた。あっという間に窓から部屋に入る。やられた。 絶対に起きてこないだろう。 私は溜息をついた。 会社に入ったら、こっちもこっちで、先生は寝とる。机に突っ伏して熟睡。まあ、いつもと言えば、いつものことだ。 先生は肌にウロコがあり、全身が緑だ。 先生も奥さんも夜行性なので、昼間は眠くてしょうがないらしい。で、実際に寝る。 それなら、夜に事務所を開ければいいと思うけど、夜に開けてるエルフの事務所がけっこうあるので、ここは人間をターゲットに絞ろうということで、朝昼に開けるようになった。そして、それだと昼夜逆転になるので、眠いらしくてよく居眠りしている。 ……何か間違っている。 「おはようございます」 一応声をかける。一向に起きる気配がない。まったく……。 「先生! 起きてください! 始業時間ですよ!」 言いながら、机をバンバンと叩く。 先生はゆっくりと上半身を起こすと、あくびをした。 「あれ? マリーくん? なんやもうそんな時間かいな」 「先生、始業時間の少し前から起きといてくださいよ。今、表でちょっとした騒ぎがあったんですよ」 「なんやそんなん、いつものことやないか」 私はさっきのできごとを話した。 「旦那のことで相談……誰やったかいなあ。相談もたくさんあるし、具体的な内容が分からんことにはなあ。密室の恋……知らんなぁ」 先生も分からないらしい。「密室の恋」という言葉は、先生も初めて聞いたそうだ。もちろん、法律用語でもない。 「そういえば、密室で思い出したけどな。昨日、法務局の通称『密室』に侵入未遂事件があったんやって」 「え、『密室』にですか?」 王立法務局の中には、「密室」と呼ばれている部屋がある。外から鍵をかけるタイプの部屋だ。おまけに関係者以外は立ち入り禁止の場所にある。だから、部屋の中に何が入っているのかは知らない。 個人的には、登記印紙やお釣りなどの金銭関係のものが置いてあるのではないかと思う。それなら、お金目当てに泥棒がくるかもしれない。 「それで、犯人は捕まったんですか? あと、法務局開いてます?」 「犯人は捜査中やな。法務局の奥のほうに侵入されたらしいから、その辺りは調べとるかもしれんけど。窓口は開いてる」 「分かりました。じゃあ、ちょっと出かけてきますね。永住許可の申請の相談をして、登記官に農転の相談をして、土地と建物、あと会社の登記事項証明書を取って、収入印紙を買ってきます」 「気が利くなあ、助かるわ」 先生と奥さんに任せてたら、いつまでも仕事が進まへんし。あ、そうだ。 「あの、先生、奥さんのことなんですけど……」 「サマンサが? あいつ、またなんかやらかしおったんか?」 今回は違う話ですよと、訂正した。そう、今回は。 奥さんはとにかく気性が激しい。でも、反面、裏表がないし、サバサバしている。いい人だ。 「奥さんに頼まれて、奥さんの生前贈与のための家系図を作成したんですけど、お子さんは百人って聞いていたのに、どう確認しても九十九人なんですよ。配偶者は先生、お子さんは九十九人で進めていってもいいですか?」 「ふああああ、なんや眠たなってきたわ」 ったく、人の話、聞いてへんな。 まあいいわ。あとで奥さんに確認しよう。勘違いならそれはそれでいいし。 法務局に持っていく書類を整えて、袋に入れる。 「ムシュフシュ、借りますよ? ……って寝てるんかい!」 目を離したら、先生はもう寝ていた。 起こすのは諦めて、小型ドラゴンのムシュフシュで出かけた。 ムシュフシュは空が飛べないせいか安価なので、この辺りでは馬の代わりに使われている。 「いってきます」 寝息しか聞こえてこない職場から外に出た。真っ青な空と心地いい風。ムシュフシュに乗って散歩でもしたい気分だ。 法務局に着いて、馬車置き場の隣にある、ドラゴン置き場にムシュフシュをくくりつけた。 「すぐ戻るからね」 軽く首の辺りをさすると、ムシュフシュは鼻をこすりつけてきた。おとなしくていい子だ。 法務局の方へと向かって歩く。この辺りは王立市役所、王立法務局、王立税務署、王立警吏署などが立ち並ぶ区画だ。いくつか仕事があるときは、移動に便利なので助かっている。 「あれ?」 法務局の手前におじさんがいる。地べたに座って、お酒を飲んでる。平日の真っ昼間。行きかう人の視線なんて気にならないのだろう。 うーん、牧歌的やなあ……って、のんきなこと考えてる場合とちゃうかった。 「おっちゃん、ご機嫌さんやなあ」 「晴れてるからねえ」 私が話しかけると、おっちゃんは破顔した。しかし通り一本向こうには王立警吏署がある。職務質問でもされたらかわいそうや。 「おっちゃん、ここな、警吏の人がよう通んねん。どっかよそにうつったほうがいいで?」 「本当だねえ」 何か違和感を感じた。でも、どこでそう思ったんか自分でも分からへん。 「お姉ちゃん、近所の子?」 「ううん、仕事で来てんよ。こき使われてるわ」 「おっちゃんの友達、移民だから、住民票が出なくてねえ」 おっちゃんの王立市役所への文句を聞きながら、私は曖昧に笑った。ずいぶんと飲んでるみたいや。 「じゃあ、おっちゃん、私そろそろ行かなアカンから」 おっちゃんは地面に座ったまま、手をひらひらと振って見送ってくれた。警吏の人がよく通るせいか、こういうおっちゃんは、ここの通りには少ない。 前に、ああいうおっちゃんを見たのはいつやったか。あのときは走るあごひげのおっちゃんを警吏の人が追いかけて、けっこう大騒ぎになってんよなあ。あちこちから野次馬が集まってきて。 そんなことをつらつらと考えつつ、なんとか用事を済ませた。 「やっぱり、永住許可かあ……」 独り言が出てしまう。今の書類では永住許可の書類は受理できないと言われてしまった。農転の相談はうまく言ったし、登記事項証明書も必要なものが取れた。他の仕事はうまくいったのに、永住許可だけがうまくいかない。 移民のお客さんの永住許可の書類に必要な翻訳がまだできていないのだ。いつも翻訳を頼む先生が入院してしまい、もう一人の先生は船で海外に長期出張中なため、訳してくれる人がいない。 新しく翻訳者を見つけないといけない。また仕事が増えると思うと、溜息をついてしまう。 とりあえず、帰って先生に相談しよう。こないだから何度も話しているのだけれど、寝ているか、半分寝ていて覚えていないらしい。 ムシュフシュを撫で、ロープを解く。さて、事務所に戻らないと。 「アリ~ス、かわ~いそうなアリ~ス」 ふんふんと口ずさみながら、ムシュフシュに乗って出発する。 法務局の裏手をゆっくりと走っていると、人影が目に入った。 「あれ?」 手綱を引いて、ムシュフシュを停める。 道の向こうに見えるのは……。 「クラークソンくーん!」 手を振って、駆け寄る。いや、正確にはムシュフシュに乗って、突進したというべきか。 クラークソンくんは硬直してるように見える。ムシュフシュが珍しいんかな。この辺りでは馬ぐらい普通やねんけど。 あいかわらず、見事な金髪や。 「クラークソンくん、今日も金髪やねえ。どこで染めてんの? すごい綺麗やん。へえ、目も綺麗な青やねえ。 自前? いや、自前ちゃうかったら、変か。 あ、それと、今日はなんかの用事? どっか行くん?」 「ええっと……?」 怪訝そうな顔をされてしまった。ああ、これだから、ボンボンはなあ。ノリ悪いなあ。 「あ、言い忘れてた。初めましてやで」 「え?」 「私、同じクラスのマリー・パークス。って言っても最近は学校行ってへんから、クラークソンくんがきたのとちょうど入れ違いやわ」 「パークスさん……?」 「そうそう。みんな、マリーって呼んでるから、マリーでいいで」 「マリー……さん?」 「なんや、他人行儀やなあ。いや、他人やけどさ……」 これには訳がある。 幼馴染の友達から聞いた話だ。 クラークソンくんは外国から転校してきた。昔、この町に住んでいたらしいけど、なにせ赤ちゃんの頃の話なので、覚えてる子はいなかった。 うちの学校はすごく下町にあって、お金持ちの子なんてまずいない。クラークソンくんは、学校から少し離れた高級住宅地に引っ越してきた。 裕福な家庭の子らしいと誰かが言った。大きな家に住んでいて、お手伝いさんがいるらしい。そりゃ、金持ちの家だわ。 先生に連れられて教室に入ってきたクラークソンくんは仕立てのいい服を着ていた。綺麗な標準語で挨拶したとき、クラスの子はイライラしたらしい。気取ってると思ったからだ。 それから、クラークソンくんは髪を染めているのに、先生が注意しないのは、親の財力のおかげだとか、そういう噂が流れ始めた。 そんな感じの噂話を、私は幼馴染の友達から道で会うたびに聞いた。 私はクラークソンくんのことはよく知らなくて、職場でその話をしたら、奥さんがとても怒った。 「クラークソンさんだったら、私、知ってんで。すごくいい夫婦やわ。息子のアレクを大事に大事にしてはったで。アレクもいい子で、私、よう遊んだったで。マリー、あんた、アレクに意地悪とかしたら、私が許さへんで!」 奥さんに言われて、確かに噂話だけで、人を判断するのはよくないなって反省した。それで、機会があれば話しかけてみようと思ってた。 今日がちょうどその日になった。まさか、クラークソンくんが王立税務署の辺りを歩いてるとは思わなかった。 「ここ、税務署やねんけど、税務署に用事?」 納税しにきたんかな。え、でも、クラークソンくん、学生やんなあ。 「隣の王立市役所に手続きをしにきたんだけど、いろいろと難しくて……」 「そうなんや?」 「今日は一度帰って、父さんに聞いて、また出直すよ」 「学校、休んだんちゃうの?」 「先生には手続きのため休むって伝えてあるから、今日うまくできなかったと話したら、もう一度休めると思う」 お母さんはと聞くと、体調が悪いらしい。お父さんは仕事で昼間家にいないし、お母さんは具合が悪くて外出できないので、クラークソンくんが学校を休んで、市役所まで手続きにきたそうだ。 「なんの手続き? 私、手伝おうか?」 ここは事務所。 とりあえず、クラークソンくんを連れてきた。来客用のスペースに通し、書類を広げる。 先生は寝ている。奥さんも多分上で寝ているのだろう。……のんきな夫婦やな。 「ええっと、本籍地はここにあるみたいだから、この場合はね……。ちょっと待ってね、書類を読み込むから……」 海外に住んでいたので書類が思っていたよりややこしい。しばらく集中したいと告げると、クラークソンくんは新聞を読み始めた。 なんや、インテリっぽいなあ。新聞、て。 多分、こういうところが、うちの学校の子らに気取ってるって思われたんやろうなあ。 でもね、学校の子らは何かきっかけがあれば、すぐにクラークソンくんを仲間に入れてくれると思うねん。見てて、そんな感じするわ。インテリ+ボンボンキャラ辺りがいいんちゃうやろか。 しかし、ややこしい書類やな。一度出国して、最近また入国してるから、この場合は……。 「へえ……」 独り言のようにクラークソンくんが呟く。 「どうしたん?」 「この記事、なんかすごいよね」 読んでいた新聞を見せて貰ったら、嫁と姑の大戦争から、近所や親戚の人を巻き込み、事件に発展したという記事だった。 「これ……隣町やん」 知らんかった。姑が大根で嫁を殴って、嫁が姑の愛馬に落書きしただなんて。そこから、一気に刑事事件に発展。うーん、殺伐としてますなあ。 「こんなニュースもあったんだね」 「どれどれ」 見ると、池に落ちたエルフの女性が死亡したと思われて、病院の遺体安置室に置かれていたら、目を覚ましてむっくりと起き上がったという記事だった。仮死状態になるという体質だったそうだ。 「あ、ここの奥さんもそうやで」 「そうなんだ?」 「うん、死体みたいになるよ……って、私、書類、読み込まな」 「あ、ごめん」 しばらく書類を読み込み、手続きの手順を頭の中で組み立てた。よし、多分、大丈夫。 「これで合ってるとは思うけど、私、無資格者の素人やし、先生に確認するね。ちょっと待ってて」 「先生! 起きてください!」 机をバンバンと叩く。先生がうっすらと目を開けた。 「ちょっと、先生! 海外からの転居の手続きについて聞きたいんですけど!」 「なんや、うるさいな」 後ろから声がした。振り返ると奥さんがいた。眠そうだが、怒ってはいない。 「海外って何? そんな仕事、あったっけ?」 「あ、ええっと、仕事ではないんですが……」 「じゃあ、何?」 「あの、同じクラスのクラークソンくんが……」 手で差し示した方向にいるクラークソンくんは立ち上がって挨拶をした。 「初めまして。アレクサンダー・クラークソンと申します。マリーさんとは同じ学校で……」 「アレク!」 言い終わらないうちに、奥さんは駆け寄ってきて、クラークソンくんに抱きついた。 「アレクやないの! うわあ、こないだまでめっちゃ小さかったのに、しばらく見いひんうちに、大きなって。また、えらい男前になって、まあ」 奥さんに頭を撫でられたクラークソンくんは、訳が分からないといった感じで呆然としている。 「マリーさん、えっと、この人はマリーさんの妹……?」 奥さんの見た目の年齢でそう判断したらしい。確かに、私より少し下に見える。だけど、青い髪と金色の目は明らかに私と色が違うやん。クラークソンくんって、けっこう天然なんやろか。 「ううん、ここの先生の奥さんやよ」 「アレク、私のこと覚えてへんの? 水臭いなあ」 奥さんは納得いかないと言った表情になった。 「奥さん、クラークソンくんと最後に会ったのっていつですか?」 思わず口をはさむ。 「え? せやなあ……十五年ぐらい前かなあ」 私達は十六歳だ。 「そんなん、覚えてませんよ。一歳とか二歳の頃の話じゃないですか」 「ああ、そうなんや?」 奥さんは相変わらず呑気というか、適当というか……。 「あ、ねえ、アレク。今日は何しに来たん? 学校でいじめられてへん? お父さんとお母さんは元気?」 いっぺんにあれこれと質問されて、クラークソンくんは困っている。 「奥さん、落ち着いてください。クラークソンくんからしたら、奥さんは初対面なんですから」 「あ、そうかあ」 奥さんはがっかりしている。 「アレクがそんなんなんて、悲しい」 言うと同時ぐらいに奥さんはゆっくりと床に倒れた。まるで眠るみたいに。みるみるうちに血の気が引いていく。真っ青な顔、こわばった手足。 「あ、あの……どうしたんですか? どこか具合でも悪いんですか?」 クラークソンくんは慌てている。 「ああ……死んでんよ」 とりあえず説明。 「死んだ?」 何が起こったのか理解できないと言った表情だ。 「えっと……死んだっていうより、仮死状態かな」 「仮死状態? どういうこと?」 クラークソンくんは飲み込めないみたいだ。まあ、確かにねえ。 「奥さんの悪い癖というか……」 「病院に連れていかなくていいの?」 「いや、そんなたいしたこととちゃうし……」 「でも、倒れたんだよ?」 むくりと奥さんが起き上がった。 「復活!」 頬はバラ色に戻り、手足のこわばりもとけて元通りだ。 「えっ……あの、大丈夫なんですか?」 「アレク、あんたは優しい子やねぇ。いい子、いい子」 奥さんに頭を撫でられて、クラークソンくんは動揺している。 「今見た通り、奥さんは、仮死状態になることができるねんよ。そういう体質やねん」 「体質?」 「まあ、これを初めて見たら驚くよね。私も最初にこれされたときは悲鳴あげて、腰抜かしたもん」 クラークソンくんは呆然としている。 「ああ、アレク、驚いた? ごめんごめん。私、自分で死んだり、生き返ったりできるねん。すごいやろ?」 無言でクラークソンくんは頷いた。言葉が出ないのかもしれない。私は尋ねた。 「奥さん、小さいときから、そういういたずらばっかりしてはったんですか?」 「え? 自分で操作できるようになったのは、最近かなあ。昔は勝手に死ぬから困ったりもしてんで」 「へえ、貧血みたいに倒れてしまってたんですか?」 「うん。一度、目が覚めたら、病院だったこともあるわ。ショックが大き過ぎると、勝手にそうなってたんやろうね。最近は好き勝手に死ねるから、楽やでー」 にこにこと笑う奥さん。まったく悪気はなさそうや。 「あ、そうや。で、なんでアレクはうちに来たん?」 「クラークソンくんとはさっき、税務署の辺りで偶然会ったんです。引っ越してきた手続きに手間取っているようなので、私が手伝おうと思って、ここに連れてきました」 「引っ越しの? あ、じゃあ、私がやるわ」 奥さんが当たり前だという口調で言った。普段、仕事をしない奥さんが、自ら進んで働こうとするなんて。よっぽどアレクのことが気に入ったんかな。 「アレク、お父さんとお母さんは元気? アレクのお母さんとは、昔、たまにお茶飲んだりしててんよ。懐かしいわあ」 「母はあまり体調が優れないです……。それでも、この町に戻ってきて、だいぶ落ち着いたみたいです」 「そっか、そっか。それは良かったわ」 奥さんはホッとしたような表情を見せる。 「そういや、マリー。なんで、アレクのこと『クラークソンくん』なんて呼んでんの? アレクも『マリーさん』って、えらい他人行儀な。同じ学校なんやろ?」 「そうですけど、初対面なんで……」 「アレクは『マリー』、マリーは『アレク』って呼びいな。敬語も禁止。分かった?」 奥さんの命令で、お互い名前で呼び合うこととなった。 「あれ? そういえばさあ」 奥さんが言葉を続ける。 「アレクって確か海外で暮らしとってんよね? 外国語できる?」 「はい」 「なら、ちょうどええわ。マリーの仕事、手伝ったって。永住許可の申請するのに、翻訳者がいなくて困っとってん」 アレクに手伝って貰って、移民の永住許可の仕事を進めることになった。 学校が終わると、アレクはまっすぐに事務所に来てくれる。一緒に作業をした。 「ここ、どういう意味だろ? 直訳すると、『家族の頭』になって、辞書だと『家族の長』『グループのリーダー』って書いてあるけど……」 手元の書類に目を走らせる。ええっと、この場合は……。 「『筆頭者』でお願い」 どうしても、法律関係の用語の訳に慣れないので、私がつきっきりになっている。先生も奥さんもアレクに会えるのが嬉しいらしく、最近は真面目に仕事をしてくれている。 確かに、世帯主とか筆頭者とかって、訳すのは難しい。アレクの語学力に感謝やわ。 「アリス。かわいそうなアリス。どこへ行ってんやろう……」 何となく口ずさむ。 「……それ、何の歌?」 「え? ああ、アレクは海外にいたから知らないんやね。なんだろ、この辺りで流行ってるというか、そういう歌やよ」 「マリー、くだらん歌、歌っとらんと、さっさと仕事し!」 奥さんに怒られてしまった。 ある日、仕事の途中で家族の話になった。先生も奥さんも兄弟が百人ぐらいいるらしい。すごいという話になった。 「うちも弟二人と妹二人がいるから、大家族だって言われますけど、先生と奥さんのところはもっと大家族ですね」 「家に人がたくさんいるのっていいですよね」 アレクが言う。 「アレクって一人っ子やっけ?」 お父さんとお母さんとアレクで三人だったはず。 「マリー、何言ってんの。アレクには妹がおるよ」 奥さんが口をはさむ。 「サマンサ!」 先生が奥さんに注意する。奥さんはハッとした顔になった。 「アレク、妹いるん?」 私が聞くとアレクは落ち着かない様子になった。 「あ、ううん。えっと、いや……」 「……どうしたん?」 黙ってしまったアレクを見て、何も言えなくなった。 先生と奥さんもハラハラした様子でこっちを見ている。なんだか分からないけど、触れてはいけない気がした。 よし、話を変えよう。 「あ、ねえ。私、小さいとき、誘拐されかけたことがあったんよね。この話、したっけ?」 私の鉄板持ちネタ。 「え、誘拐?」 アレクは青ざめている。犯罪の話だから怖いのかもしれない。 「あ、ううん。全然たいした話とちゃうねんよ」 「マリー、あの……」 「マリー、喋ってばっかりおらんと、手え動かしいや!」 アレクと奥さんの声が重なった。二人とも声の調子が重い。アレクは思いつめた感じがするし、奥さんは軽口っぽく喋っているが、いつもの口調に聞こえない。 アレクも奥さんも黙ってしまった。気まずい沈黙が流れる。 どうしようか……。困った。 「あ、ねえねえ、見て見て。この新聞記事」 私はアレクの前に新聞を広げた。 代理母から産まれた子どもが、代理母に体質が似る場合があるという論文の発表だった。両親の子どもなのに、遺伝子上は他人であるはずの代理母に、アレルギーや持病などが一致する場合があり、遺伝との関係を調べていると書かれていた。 「こんなことってあるんかなあ。不思議やんねえ」 「へえ、見せて」 アレクは興味を持ったみたいで、新聞を手に取って読んだ。 「こんな記事が載ってますよ」 アレクが新聞を持って、先生と奥さんのところに持っていった。 「え、何―?」 奥さんがにこっと笑う。あ、良かった。空気が変わりそう。 アレクに渡された新聞を奥さんが広げる。先生も横からのぞきこむ。 途端。 奥さんはぐしゃっと新聞を丸めて、ポイっとゴミ箱に叩き込んだ。 さらにバンと机を叩く。 「マリー、仕事中やで! さっさと仕事しい!」 余計に怒られてしまった。 帰り道。 オレンジ色の太陽に照らされながら帰路につく。 今日の奥さん、機嫌悪かったなあ。一体どうしたんやろ。 「あ、マリー!」 幼馴染の友達に会う。 「ねえ、マリー。仕事で法務局ってところに行ったことある?」 「どしたん、急に?」 「あ、なんかね。法務局の奥に財宝が隠してあるらしいよ」 謎の噂だ。 「財宝なんて見たことないで」 「あ、そうなんや? なんや、ただの噂かあ」 それより。 「あ、ねえ。同じ学校にアレクっておるやんか?」 「転校生の子?」 「そうそう」 私はアレクの話を友達にした。海外での生活が長いから、言葉が訛っていないだけだとか、けっこういい人だとか。 「ふうん、そうなんや? じゃあ、今度話しかけてみるわ。マリーがそういうなら、いい人なんやろうね」 友達は、家に帰っていった。 きっとこれで、アレクも周りとなじめるはずだ。 私はホッとしつつ、家に向かった。 「あ、マリーやんか、おかえり」 「こんにちは、おばちゃん」 近所のおばちゃんだ。 「マリー、法務局ってところに、宝が隠してあるって本当なん?」 「何、それ……」 近所のおばちゃんにも同じことを言われた。 「宝なんてないでー」 「ええっ、そうなんや。つまらんわー」 謎の噂が広まってるなあ。 ある日、女の人が事務所に飛び込んできた。 皆の目がいっせいに注がれる。 あれ、この人、確か……。 「あんた達のせいよ!」 いきなり怒鳴り散らされた。 「あんた……」 奥さんはしばし黙った。三秒ぐらい。そして言った。 「誰かと思ったら、こないだのキーキー女やんか。どしたん、またヒステリー起こして」 「だっ……誰がヒステリーよ!」 「それがヒステリーやろ。ああ、うるさ」 ……すごいわ。 いや、この怒鳴りこんできた人もすごいけど、言い返す奥さん。肝、座ってるわあ。百年以上生きてると、そうなるんやろか。 って感心してる場合ちゃうか。 「なんなの、あなた!」 「お前こそ、なんやねん! 突然大声出して! どつきまわすぞ、コラ」 「あ、あなた達のせいよ……!」 「だから、何がやねん!」 ちょっと、この会話、止めたほうがいいよね。つかみ合いになりそうやねんけど。 「サマンサ、落ち着いて」 あ、先生が入った。 「でもさ、こいつ、前も……」 先生は奥さんをイスに座らせた。そして私に紅茶を入れるように言った。 「お客さん、うちの事務所に何の用ですか? 前にも来られてますよね。具体的に話していただけますか?」 静かに先生が尋ねた。 それが合図になったかのように、女の人は口を開いた。 「うちの人はギャンブルをして、お金を全部使ってしまうので、借金だらけなの……それで……ここの事務所に相談したらいいって友達が言うから……」 それで、相談に来たのか。旦那さんの浪費癖か。難しいっちゃあ、難しい事案のような。 浪費だけだと手が打てないけど、病院で診断して貰って、病気だと認められたら、打つ手もあるかな。診断の結果次第やな。 「それなのに、ここの人は病院に行ってくれって。その話をしたって、うちの人は全然聞いてくれないのに」 え、でも、病院に行かないと、こっちは何もできないのに。 「うちの人にいくら言っても、どんどんお金を使ってばっかり。ここで相談したって、全然解決しない」 え、いや、アドバイスしてるのに。 「……思い出したわ」 奥さんが呟いた。 「前に、旦那の浪費癖がひどいって相談に来た人やんな? ギャンブルの相談は毎日のようにあるから、すぐには思い出されへんかったわ。確か、病院に行くようにって言って、そこから……ああ、あんたとケンカみたいになったな」 「あんた達のせいよ! うちの人、逮捕されたの! あんた達がきちんとしてくれなかったから!」 え、逮捕……? 隣を見ると、アレクは呆然としているように見えた。私は手元のメモ用紙に内容をかいつまんで書いた。 『簡単に言うと逆恨みやわ。この仕事をしているとよくある話。先生と奥さんが何とかしてくれると思う』 私の書いた文章に、アレクが返事を書いた。 『よくある話なの?』 『まあ、そうね』 『そっか……。この女の人は何を怒っているの?』 『えっとね、この人の旦那さんはギャンブルにお金をつぎこむ人なの。その場合、やめさせるのに、後見人をつけるとか、そういう法的処置があるねん。でも、ただの浪費だけだと無理やねん。病院で病気だと診断されたら、こっちも手が打てるんよ。でも、それが伝わってへんみたいやわ』 『そうなんだね……』 『まあ、それもよくある話』 『ところで、この人って近所の人?』 『え、よく知らんけど。どうして?』 『いや、喋り方が、この辺りの人じゃないから……』 そういや、この人、訛ってへんよな。そうやった、そうやった。アレクはよく気がつくなあ。 『移民かもね。最近、永住許可の仕事も増えてるし。移民の人はこの辺りの訛りで喋らへんから』 『移民の人、多いの?』 『そうやね。そういえば、今気づいたけど、こないだ喋ったホームレスのおっちゃんも移民やわ。訛ってなかった』 『へえ、そうなんだ』 『そのおっちゃんさあ……』 書きかけた言葉が途切れた。 「このまま、うちの人は刑務所に入るんでしょう? あなた達のせいよ!」 金切声で叫ぶ。話が飛ぶ人やなあ。 「なんで急に刑務所なん? だいたい、逮捕の理由は?」 「法務局に侵入しようとして捕まったって……。私、どうしていいか分からなくて……」 「法務局?」 奥さんが怪訝そうな表情になる。 「何で法務局なん? 両替所とかならともかく。あんたの旦那はお金が欲しかったんやろ? 法務局に忍び込む意味が分からんわ」 「し、知らないわよ……」 「なんか言ってへんかった? 法務局にした理由とか、そういうの」 奥さんに聞かれて、女性は少し考えるような表情になった。思い出そうとしているようだ。 「……そうね、確か『密室の恋』がどうとかって言ってたわ」 「密室? 法務局の『密室』のこと?」 「ここに相談にきたときも言われたわよ」 事務所が静かになった。「密室の恋」なんて言葉は聞いたことがない。どういうことだろう。 女の人はイライラしたような表情で続けた。 「前にここに相談にきたとき、説明で『密室の恋』がどうのって言われたわ。分かっていてするのが何とかで、分かっていないのが何とかって。それからしばらくして、うちの人が夜に出かけようとしていたので聞いたら、『密室の恋』がどうのって同じようなことを言ってた。『密室の恋』だったらまずいけど、そうじゃなきゃ大丈夫だからって。それなのに、逮捕されたのよ! なんなの!」 分かっているのが何とかで、分かっていないのが何とか? ええっと……まさかとは思うけど、それ……。 いや、まさかね。ありえへんありえへん。 「……もしかして、『未必の故意』のことを言ってるん?」 奥さんがいぶかしげな表情で口を開いた。 「私が、旦那は正当防衛で無罪だって言ったら、あなたが『密室の恋』だって……」 うわあ。 ふと見ると、先生が頭を抱えている。 「うわ、それ、どう聞いても『未必の故意』やろ? 何、その聞き間違え」 奥さんの言葉に、女性は納得いかないという表情になった。 軽く肩をつつかれた。 『なんの話?』 アレクがメモ用紙で聞いてきた。 『ええっと……この人は勘違いしてる。言葉を聞き違えてるわ』 奥さんが説明をするときに、「過失」とか「未必の故意」を例に出した。それをこの人は勝手に解釈してしまった。 『逮捕と関係あるの?』 『関係ないで。この人がうちにした相談は、旦那さんがギャンブルが好きで困っているということ。旦那さんが逮捕されたのは法務局に侵入しようとしたから』 『違う話だね……』 『そうやね……』 とりあえず、この人を落ち着かせて、こっちの話を聞いて貰わないとアカンねんけど、聞いてくれなさそうやなぁ。さて、どうしたもんやろ。 「あんたさ」 奥さんは呆れた口調で言った。 「自分の責任ってないん? 旦那がギャンブルまみれで、この国まで引っ越してきて、それでも治らんくて。で、挙句の果てに逮捕? 逮捕の話は職業柄珍しくもなんともないけど、あんたみたいな客は珍しいわ」 「どういうこと」 女の人の声が震えてる。怒っているのか、悲しいのか。私には分からへん。 「あんたみたいに、思い込みが激しくて、人の話を聞かなくて、気に入らなかったらキーキー怒鳴るような自分勝手な客や」 うわ、奥さんも言うなあ。 確かにここまでキレまくるお客さんって初めて見たけど。そこまで言わなくても。 「配偶者アホ罪で、あんたも逮捕されたらいいねん」 奥さん、言い過ぎ! それにそんな罪状、ないから! 「……よ」 女の人が何か言ったけど聞き取れなかった。皆がいっせいに見る。事務所が一瞬静まり返る。 「どうしてよ! 私は一生懸命やってたのよ! あの人がギャンブルをやめないので、どれだけ悩んだか! 住み慣れた町を離れて、違う国にまで引っ越したのよ! どれだけ心細かったか! なのに、なのに……」 女性は床に座り込んで、床をどんどんと拳で叩いた。 「なんで! どうして! どうしてよ!」 泣き叫び、床に突っ伏す。嗚咽が響く。 「……分かったわ。あんたも悩んでてんな」 女性は床に座り込んで泣いたまま、こくこくと頷いた。辛かったらしい。 「あんたの旦那は、今回の件やと微罪処分やわ」 女の人は泣いた顔のまま、奥さんを見た。 「……だから、まあ、今回はうちの人が身元引受人になって、釈放の手続きをしたるわ」 「え……?」 「だから、釈放。えっと、あんたの旦那を外に出したるって言ってんねん」 「本当に?」 「嘘言ってどないすんねんな。ほな、一緒に王立警吏署に行こか」 三人は連れ立って、王立警吏署に向かった。 「……すごかったね」 「うん、あそこまで怒鳴られたのは初めてかな。まあ、先生と奥さんは慣れてるかも」 「先生と奥さんは動じないね」 「あの二人はね」 そう言って、二人で少しだけ笑った。 「マリー、前に話してくれた誘拐の話、詳しく聞いていい?」 「うん、別にいいよ」 どうしたんやろ。アレクはものすごく真剣な表情だ。 「えっとね、十五年ぐらい前の話やよ。幼い子を誘拐しようって考えた悪い奴がいてさ、まだ小さかった私を抱いて連れて行こうとしたらしいんよ。でも、私、どっかで危険を感じたんかな。すっごい大声で泣きわめいたらしくて。誘拐犯が抱いてられなくなるぐらい、大暴れしたらしいの。それで商店街のおばちゃんとかが私が連れてかれそうになってるって気がついてん」 「それで、どうなったの?」 アレクは真剣だ。ほんまにどうしたんやろ。 「え……商店街のおじちゃんやおばちゃん達が、その男を捕まえて、吐かせてん。そしたら、子どもをたくさん誘拐して連れて行こうとしてるって言ったらしくてさ」 「それで?」 「あの……警吏を呼んできて、そいつの言った港に行ったら、船があって、中に子どもが何人か閉じ込められてたらしいわ。それで誘拐犯が逮捕されたって……」 「前に僕に妹がいるって言うような話になったことがあったけど……」 「うん」 聞いた。でも、それ以上聞かれへんかったわ。 「本当なら、二歳下の妹がいるんだ」 「……妹?」 本当なら? 不思議な話や。 「そう、妹。名前はアリス」 「……いい名前やね」 奥さんから、アリスの話を聞いたことがない。アレクが幼い頃、よく遊んだと言っていたのに。 「アリスは……産まれてすぐに誘拐されて、それからずっと行方不明なんだ……。妹のアリスが産まれたのは僕が二歳のとき。産まれてすぐに誘拐されて、今も見つかっていない……」 「この町で?」 無言でアレクは頷いた。 「母はアリスが行方不明になってから、ひどく取り乱すことが多くなった。父が環境を変えたほうがいいと判断して、海外に引っ越した」 「それで、お母さんは? 落ち着いたん?」 「うん。少しずつだけど、海外で生活して気持ちが穏やかになっていったみたい。母がこの町に帰ってきたいと言い始めて、父も僕も心からホッとした。僕はこの町を覚えていなかったけど、産まれて二歳まで育った故郷だし、楽しみにしてた」 「そうなんや……」 「母は以前よりは落ち着いたけど、それでも心身ともに弱ってしまっていて、横になっていることが多い。だけど、この町が好きみたいで、表情も明るくなった。父も僕も、この町に戻ってきて良かったって思ってるよ」 「そっか、良かった……」 「ここは親切な人が多いよね。町を歩いていると、僕のことを覚えている人が声をかけてくれたり、お惣菜を分けてくれたり。温かい町だなって思うよ」 そういう見方もあるんやなあ。 「ねえ、その誘拐事件って、私が誘拐されかけたことと関係あるんかな?」 「どうなんだろ……。マリーを誘拐しようとした犯人たちは全員捕まったよね。船に閉じ込められていた子ども達の中に、アリスはいなかった。誰もアリスのことは知らないって言ってる。犯人達も、子ども達も、誰もアリスを見ていないって……どういうことなんだろう」 「アリスを誘拐した人達は別にいるってこと?」 「でも、それも不自然だよね。マリーを誘拐しようとした犯人達とは別の誘拐犯がいて、アリスだけ誘拐されたって」 「そうやね……。目撃情報とかはないん?」 「アリスらしき赤ん坊を抱いた若い女性を見たって人がいる」 「えっ!」 「でも、不思議なんだ。その女性、馬車にはねられて亡くなったんだけど、そのときには赤ん坊はいなかったんだって」 「どういうこと?」 「分からない。若い女性が、アリスらしき赤ん坊を抱いて走っていた。次に目撃されたときには一人だった。馬車の前に飛び出したらしい」 「アリスはどこに行ったの?」 「分からない……。何もかも分からないことだらけ」 「うん……」 「この話は、父からこっそりと聞いた。母の前ではアリスの話はしたことがなくて。母から話を聞けたら、もう少し詳しいことが分かるかもしれないけど、母が取り乱す姿はもう見たくないんだ……」 「そうだよね……」 考えても考えても答えは出なかった。私はふと考えた。 「ねえ、アリスの話、先生達にしてもいいかな?」 「突然、何……?」 「先生と奥さんなら、当時のことを何か覚えてるんじゃないかなと思って。あ、嫌ならいいよ」 「ううん、ここの先生も奥さんもいい人で、信用してる。何か新しい情報が入ってほしいな」 それからしばらくして、アレクが帰った。 お母さんの体調が心配なので、アレクは早い時間に帰る。 私は定時まで働いてから帰る。 永住許可の書類を整えていると、先生と奥さんが帰ってきた。 「ただいま」 「まったく、厄介な夫婦やわ。旦那は楽して儲けることしか考えてへんし、奥さんは気性が激しいしな」 奥さんはブツブツと文句を言っている。あいかわらずだ。 「先生! 奥さん! 聞きたいことがあるんです」 「どうしたん、急に?」 「アレクの妹の、アリスの話です」 先生と奥さんは顔を見合わせた。 「行方不明になってるって、二人とも知ってるんですよね。アレクは探したがっています。何か覚えていることとか、ないですか?」 「ない」 奥さんがきっぱりと言った。でも、私の目を見てはくれない。どうして? 「え、でも……」 「マリー、アレクの家のことに首突っ込んだらアカン。あそこの奥さんは体が悪いねんから。あんたが騒ぎ立てて、余計に具合が悪くなったらどうするん?」 正義感の強い奥さんが、アリスのことに関わるなと言うのが納得いかへんかった。奥さんなら、率先してアリスを探し始めそうやのに。 だけど、奥さんの言い分はもっともや。アレクのお母さんは病気がちなのだから、刺激しないほうがいい。 それでも、そんなまっとうなことを言うなんて、奥さんらしくないと思った。 次の日、放課後にやってきたアレクに、昨日のことを話した。 「なんか奥さんの態度がおかしいんよね。先生も黙ったまんまやし」 「先生と奥さんが、何か隠してるってこと?」 「え……いや、そこまでは思いたくないけど……」 先生と奥さんは、どうして話してくれないんやろ。 「いくつか気になることがあるんだけど……」 アレクは何かを考えてる表情になった。 「何?」 「いや、まだ確信が持てないから……。もう少し考えたい」 いつものように二人で仕事をする。 先生と奥さんは、アレクに慣れてきたのか居眠りしている。 アレクが話しかけてきた。 「怒鳴り込んできた奥さんと、その旦那さんは移民。マリーが出会ったホームレスの人も移民。なんで移民ばかりなんだろう?」 「この町が国境に近いから?」 馬車で行けば、すぐ国境や。 「それもある。でも、隣国は裕福な国だよね」 「うん。生活に余裕のある家庭が多いし、教育を受けている人も多い。言葉が訛ってなくて、綺麗なアクセントで喋るから、就職しやすいって聞いたこともあるわ」 「そうだよね」 「あれ? なんでそういう生活の人が、わざわざこっちにやってくるん?」 「……多分だけど、そういう生活からはみ出してしまったんじゃないかな。それで、仕切り直しで、外国であるこの町に引っ越してきた。僕の家みたいに、環境を変えたくて、海外に引っ越す家もあるしね」 「あくまでも想像やけどさ……。借金があったり、何か騒ぎを起こして町にいられなくなって、国境を越えてこの町に来たって可能性もあるんちゃう?」 「そういう人もいると思うよ」 逃げるようにやってきた人達。国境を越えて、それまでの裕福な生活から、下町の生活へ。 「逃げてきたってさ。今まで裕福な生活してたら、余計に大変なんちゃう? この辺りはあまり就職先も多くないし。治安だって、けっこう悪いやん。あ、アレクの家の辺りはお金持ちばっかりやけどさ。うちの辺りとかは、全然違うし」 「……そういう人達は、どうやって生活していくんだろう?」 「どうって……頑張って就職先を探すしかないんちゃうかな。それが無理やったら……危険だけど、お金をたくさん貰えるような、秘密のアルバイトをするとか?」 「秘密のアルバイト?」 「そう。なんていうか……家族には話せないような、バレたら警吏に捕まってしまうような、そんな仕事。そういうよろしくないアルバイトを単発でちょこちょこ引き受けるんかもね」 アレクは考えるような仕草になった。こうして見ると、綺麗な金髪やなと改めて思う。この髪、染めてないわ。根元までプラチナブロンドだもの。生まれつきなんやろうな。 学校では、髪の毛染めてるのに、親がお金持ちだから特別扱いされてるって言われてたみたいだけど。改めて、アレクは髪の毛を染めていない、それにいい人だって幼馴染の友達に言っとこう。 「……あ!」 アレクが椅子から立ち上がった。 「すみません、ちょっと出てきます」 アレクは丁寧な口調で、先生と奥さんに声をかけた。二人とも寝ていたところを起こされて、驚いている。 「え……じゃあ、私も行きます」 就業中やけど、しゃあない。アレクを一人で行かせるわけにはいかへんし。 「マリー? 一体どしたん?」 奥さんが不思議そうに尋ねてくる。 「私もよく分からないんですけど、アレクが謎が解けたみたいなんで、付いて行きます。すぐ戻ります」 ムシュフシュに二人乗りで法務局の近くの公園にきた。 「アレク、どういうこと?」 「細かい話はあとでする。とにかく急ごう」 ホームレスのおっちゃんがいる。お酒を片手に地面に座っている。 やっぱり違和感を感じる。なんだろう。 「こんにちは」 私が声をかけると、おっちゃんはニコニコと笑った顔になった。 アレクが前に進み出た。 「あなた……この王立法務局の通称『密室』に侵入しようと考えていますね。この前、侵入未遂事件を起こしたでしょう? 誰なんですか?」 おっちゃんの顔から笑顔が消えた。 「お前こそ、誰だ」 目が笑っていない。もしかしたら、最初から目つきが鋭かったんかもしれへん。私が気づかなかっただけで。 お酒に目がいく。 ああ、そうだ、お酒! なんで気づかなかったんやろ。 「おっちゃん……ホームレスとちゃうな?」 私は問いかけた。 「この辺りで昼間からお酒飲んでるおっちゃんはな……飲んだあとに道走るねん」 「マリー、どういうこと?」 アレクが怪訝そうな表情になる。 ああ、もう。 アレクはほんまにボンボンやなあ。分からんねんな。 「お酒飲んだあとに、めっちゃ走ったら、酔いがすぐに回んねん。だから、みんな、めっちゃ走りよるわ」 「へえ、そうなんだ……」 「だけど、このおっちゃんは座ってゆうゆうとお酒飲んでるやんか。だから、ホームレスを演じてるんやろうなって思って」 おっちゃんは、ぐ、と言葉に詰まった。この辺りの人とちゃうから知らなかったんだろう。 「まず引っかかったのは、私に『移民は住民票は出ない』って言ったこと。おっちゃん……出るねんで? 今は出るねん。こないだ、法律が変わったから。それから、お酒の話。あと、言葉遣いやね。おっちゃんは『友達が移民』って言ったけど、そんな綺麗な言葉で喋るんは地元の人とちゃうわ。おっちゃんが移民やね?」 おっちゃんは答えない。当たりということやろう。 「アレクは? 何を考えたん?」 「マリーの話で、さらに確信が持てたよ」 「え、そうなん?」 「この辺りの人はみんな顔見知りで、付き合いも深い。夜中に抜け出して、法務局に侵入したなら、たちまち近所の噂になるんじゃないかな。マリー、違う?」 「……そうやね。人間は昼間起きてる人が多いし、エルフは夜中に起きてる人が多い。法務局に入ったところを見られなくても、家に出入りしてるところは、誰かが必ず見てるやろうね。すぐに広まると思うわ」 「では、侵入したのはよその地域の人だということになる。そして、事件が起きたのは最近。となると、最近この町に来た人で、捕まる前にすぐに引っ越せる立場の人……」 「それが、俺ということか」 おっちゃんは不機嫌そうに呟いた。 「だけど、そうだとして、何の証拠がある?」 アレクは少し黙った。 「実行犯は別の人ではないですか?」 「別の人? アレク、どういうこと?」 思わず、口をはさんでしまった。どういうことやろ? 「多分、実行犯は……昨日事務所に来た人の旦那さんだと思う」 「えっ!」 「あの旦那さんはギャンブルが好きでお金に困っていた。隣国で生活ができなくなって、この国で仕切り直そうと思って引っ越してきたけど、ギャンブル好きは治らなかった……。それで、奥さんに内緒で、この人から法務局に忍び込むアルバイトを引き受けた」 「なんで法務局?」 「法務局の奥の部屋――通称『密室』には宝が隠してあるって噂があるから、その財宝を盗もうとしたんだと思う」 「え……『密室』ってそんな場所なん?」 「実際は古い書類が保管されている倉庫だと思う。多分、法務局からしたら大切な書類だけど、それ以外の人にはただの紙切れじゃないかな」 「まあ、そうやんね。永住許可の昔の開示請求とか、そういう書類がしまってあるんやと思うわ」 「大事な書類なので、外から鍵をかけて保存してある。それで、財宝が隠してあるという噂になった。そんな噂を鵜呑みにして、侵入しようとした……違いますか?」 アレクは静かだけど、有無を言わせぬ口調でおっちゃんに問いただした。返事はない。でもそれは正しいということだろう。 よく分からない噂を信じて、建物に侵入するって……。すごい浅はかや。 「あー、ここか。探したっちゅうねん」 宙を飛んで奥さんが登場した。 「奥さん? どうしたんですか?」 「どうしたもこうしたも、あんたらがよう分からんことを言って出てったから、追っかけてきたんやんか。ムシュフシュがないから、頑張って飛んでんで。あちこちであんたらを見かけたか聞きながらきたから、時間かかったわ。あー、もう、久しぶりに長時間飛んだから、だるいわー。ちょっと寝ていい?」 「ダメに決まってるやないですか。寝に来たんですか?」 「何言ってんねん。なわけないやんか。寝るんやったら、会社で寝るわ」 自信を持って言われてしまった。……いばるとことちゃうで、奥さん。 「で? アレク、どうして会社から出て行ったん? ん、こっちの人は?」 ……緊張感、ないなー。 「奥さん、こっちの人は……ええっと、窃盗犯です」 「え!」 「いや、正確には窃盗ほう助?」 「どっちなん?」 「ええっと……窃盗しろとそそのかしたわけですから……」 「マリー、奥さん、窃盗の法的な話はあとにして貰えませんか?」 アレクに注意された。 「ちょっと、マリー。アレクに怒られたやんか」 小声で言われて、つつかれた。 「だって、奥さんが……」 「えー、人のせいにするん?」 「二人とも! ふざけないでください」 やっぱり怒られた。 「アレク、で、この人はなんなん?」 奥さんが話を戻した。そらすだけそらしといて、綺麗に戻すなあ。ちょっと感心。 「この人は……悪いことを考えている人です」 「犯罪者?」 「え、犯罪者……なのでしょうか?」 「なんで、疑問に疑問で返すん?」 奥さんが突っ込む。アレク、黙る。 「ちょっと奥さん、話が進みませんよ」 しょうがない、割って入ろう。 「え、でもさ。話が見えへんねんもん」 注意されたのが嫌なのか、奥さんは少しふくれた。……うーん、緊張感、ないなー。 アレクは真剣に奥さんに話しかける。 「さっき、うちに来てた女の人いましたよね。あの人の旦那さんを法務局に侵入させるようにそそのかした人です」 「ええっ!」 奥さんが驚いた様子で大声を出した。 「え、でも……何で法務局なん? 金、あるかー?」 偽ホームレスが鼻で笑った。 「あんた、けっこうバカだな。いいのは顔だけか」 「え? 美人って褒めてるん?」 あ、嬉しそう。奥さん、嬉しそう。 って。 緊張感! ない! 偽ホームレスは語り始めた。 「……こないだ、うちの祖父が亡くなったよ。これはいまわのきわに聞いた話だ。十五年前、祖父が旅行中、運転していた馬車の前に若い女性が飛び出してきた。祖父は避けようとしたが、とっさのことでよけきれず、彼女をはねてしまった……」 「若い女性?」 奥さんが呟く。誰だろうといった表情だ。 偽ホームレスの祖父の回想 十五年前の夜。 「この国はいいところだなあ。いい旅だった」 馬車を運転しながら、独り言を呟く。 たまには休暇を取って海外旅行というのもいいものだ。 そんなことを考えていた矢先。 「うわあっ!」 馬車の前に女性が飛び出してきた。 急いで馬の向きを変えようとするが間に合わない。一瞬目が合った。怯えきった表情。 馬のいななき。ドスンという鈍い音。 気がついたときには、血だまりの中、女性が倒れていた。 「ちょっと、あんた、大丈夫か?」 急いで駆け寄る。助け起こすがぐったりとしている。若い女性のようだ。 うっすらと目を開ける女性。唇が微かに動く。 「お嬢さん、どうした? どこか痛いのか?」 「……密室」 「なんだって?」 「……法務局の奥……密室」 息も絶え絶えになりながらそれだけ呟くと、女性は再び目をつむった。だらりと手が下に下がる。腕の中にぐっと体重がかかる。 急いで病院に運んだが、彼女は助からなかった。 警吏にはすべて話した。 彼女が最後に残した言葉が気になった。警吏なら何か分かるのではと思った。 「そんなに意味はなかったと思いますよ」 警吏からの説明はこうだった。 あの女性は法務局でアルバイトをしていた。最後に話した言葉は、「あなたのしたことは、『認識ある過失』ではなく『未必の故意』だ」というような意味ではないかということだった。 また、「法務局」という言葉も、「アルバイト先の法務局の前でこんな目に遭うなんて」と言いたかったのではないかとのことだった。 その話が本当だとしても、気持ちはそう簡単に切り替わるものではなかった。 ショックで何も手につかなくなった。 周囲からは、「あなたは何も悪くない。あれは事故だった」と慰められた。 一度はそうだと思って、記憶を封印して生きてきた。 けれど、死が近づいた今、あるのは後悔だけ。 あのとき、彼女の言葉通り、法務局の「密室」を調べておけば良かった。 あちこちに手紙で問い合わせた。 法務局の「密室」については何も分からなかった。 しかし、亡くなった女性について、いくつか分かったことがでてきた。 その若い女性は、もともとはあまり素行が良くなかった。 しかし、軽い気持ちで法務局で清掃員のアルバイトを始めたのがきっかけで学びたい気持ちが芽生えた。 法務局は法律関係の仕事を扱っているし、働いている人も勉強家が多い。触発されたのだろう。掃除の合間にいつも独学で勉強していたそうだ。 周囲には「これからは真面目に生きたい」と話していた。 ただ、付き合っている彼氏は不良で、そのことについては悩んでいるようであったと。 これらのことが分かるにつれて、思ったことは、将来のある若い人の未来を奪ってしまったという後悔の念ばかりが浮かんだ。 こちらももう長くはない。 もう少ししたら命も尽きるだろう。 天国で会えたら、あのお嬢さんに何度も謝ろう。 「……祖父は亡くなる前に、俺にこの話をした」 「それであんたは、おじいさんの代わりに、その若い女性について調べようと思ったん?」 奥さんの問いに、男は再度鼻で笑った。 「バカらしい。俺は祖父から話を聞きながら、頭の中で計画を練っていたよ」 「計画?」 「金になる計画だ。祖父がはねた女は、もともとは素行の悪い不良だ。真面目に勉強しているふりをして、何か悪だくみでもしていたのだろう。女のいまわのきわの言葉は、金に関してのことだ。法務局の奥の『密室』に、金目のものが隠されてる」 最低の男や。 この人のおじいさんはとてもいい人なのに、孫のこいつは、なんでこんな性格に育ったんやろう。 「しょうがないので、ホームレスのふりをして、法務局の前で見張ることにした。何か『密室』についての情報が入らないかと思ったからだ。だけど、収穫はなかった。あの女のように清掃員として中に入れば、何か聞けるかもしれないと途中で思いついたが、もうホームレスで顔を覚えられている。中に入ったところで、警戒されそうだ。それに体を動かして働くのは面倒くさい。楽して金目のものを手に入れて、遊んで暮らしたい」 「それで、手に入れられたん?」 奥さんが冷たい口調で聞く。 「まだだ。だけど金になる話なんだ。うまくいけば大金が転がり込む。しかし、自分の手を汚して逮捕されるのは嫌だ。そこに金に困っている男が現れた。ギャンブルでつぎ込んで、この国に夜逃げ同然で逃げてきたバカな男だ。そいつに話を持ちかけたら、喜んで乗ってきた。しかし、侵入することはできなかった。思ったより、頑丈な作りだった。外から鍵がかけられており、どうしても壊すことができなかったと」 おじいさんの話を聞いて、こいつが悪だくみを思いついた。 そして、金になると思った、ギャンブル好きの男が法務局に侵入しようとして、逮捕されたということか。 こいつ、ほんまに最低やな。 奥さんは溜息をついた。 「あんたのしてることは犯罪やで」 「それがどうした」 「アレク、マリー、こいつを押さえて!」 言うが早いが奥さんは男に飛びかかった。 「警吏に突き出したるわ!」 三人で男を押さえつけて、ぐるぐる巻きにした。 肩で息をしながら、奥さんは言った。 「あんたはなんか勘違いしてるわ。私は十五年前から、法務局に出入りしてるから、その子の噂も聞いたことがある。いい子だったってみんな言ってんで」 奥さんは口を開いた。 「あの子は真面目に働いとったわ。最初こそ、見た目も派手で、口の利きかたも悪かったらしいけど、周りから注意されたら素直に謝って、外見も態度も直していったらしいわ。そのうち、勉強しようって気持ちになったらしくて、休憩時間に本を広げてた。周りの人はそんなあの子を応援して、参考書をあげたり、勉強を見たりしてたって。本人ももう少ししたら、彼氏と別れて、昔の仲間とも縁が切れる。そしたら、資格の試験を受けて大学に行きたい。真面目に暮らしたい。って口癖のように言ってた」 「少しだけど、その人の気持ちが分かる気がします」 「そうなん?」 「私も勉強なんて全然好きじゃなくて、このままダラダラと生きていくんだろうなって思ってました。でも、オトンがケガをして、私が働かないとダメになって。私も軽い気持ちでホワイトリー先生のところを選んだんです。うちの親が、先生って職業のところなら、きちんとしてるやろうって言うから、あまり何も考えずに」 奥さんは少し微笑んで聞いてくれてる。私は言葉を続けた。 「だけど、実際に働いてみたら、けっこう面白かったんです。最初は難しそうな仕事やなあって思ったけど、先生は優しいし、奥さんは明るいから、働きやすかったです。それで働いてたら、褒められるから嬉しくて。法律の知識がついていくのも楽しくて。最近では、勉強して大学に行きたいなあって思ってるんです」 「ええことやわ。あんたは賢い子やもん。このまま勉強して大学に行き?」 私は頷いた。なんだか嬉しい。 アレクが静かに言った。 「はねられた若い女性は、問題がないように思えますけど……」 「うん、でもな。その子が赤ちゃんを抱いてたって目撃情報があるねん」 「赤ちゃんを?」 「そう。赤ちゃんを抱いて走っていたという目撃情報が出たとき、みんなは首を傾げてん。人違いなんじゃないかって。そして、法務局の前ではねられたのは、何か忘れ物でも取りにきたんじゃないかって。それで馬車とぶつかったのだということになってん。付き合っていた彼氏が誘拐犯の一味で捕まったときも……」 「彼氏が逮捕されてるんですか?」 アレクが遮った。青ざめて見える。 「ん、そうやで? あの子の彼氏は不良やけど、あの子は違うって、法務局の人達がみんなでかばったらしいで。実際、そうやったんやろうし。彼氏は不良、彼女は元不良で、別れて真面目に生きようとしててんから……」 「誘拐……」 アレクの耳には届かないようだ。 「法務局に向かいましょう」 アレクがきっぱりと言った。 偽ホームレスはぐるぐる巻きのまま、置いておくことにした。警吏に通報しよう。 ムシュフシュにアレクと私の二人で乗った。奥さんは飛びながらついてきた。 「事件の日、清掃員の女性はアリスを誘拐したと思います。理由は脅されたからではないでしょうか。どこかで子どもを誘拐してきたら、悪いグループから抜けられ、彼氏とも別れられると持ちかけられたのではないでしょうか。小さい町です。サマンサさんが出産することは分かっていた。彼女は様子を伺い、隙をついてアリスを抱いて逃げた。しかし、真面目に生きようと考えていた女性です。すぐに後悔したのではないでしょうか。かと言って、僕の両親のところにアリスを連れて戻ると、誘拐犯で通報される恐れがある。彼女はとりあえず安全な場所にアリスを隠し、彼氏や仲間と話し合おうとしたのではないでしょうか……」 「それが法務局ってこと?」 奥さんが尋ねた。 「そうです。その女性は法務局で働いていたのですから、見取り図は頭に入っています。倉庫などの場所があったと考えられます」 「法務局以外ってことはないん?」 「いや、法務局から飛び出してきたんだと思います。それ以外の場所には侵入できるか分からない。法務局から走って出てきたところで馬車にぶつかったんではないでしょうか……」 その場面を想像して、少し沈黙になった。 「ねえ、アレク」 奥さんが優しい口調で話し始めた。 「うちの人が法務局代書士の資格を取ったのが今から十五年前。きっかけは、アリス。アレク、あんたの妹や」 アリスと法務局代書士の資格にどういう関係があるのだろう。そう考えているのが通じたかのように、奥さんは言葉を続けた。 「アレク、あんたのお母さんはあんたを産んだあと、次の子どもは難しいと言われた。もとから体の弱い人や、二人目の治療も大変だろうって。その話をあんたのお母さんが泣きながら話すのを聞いて、私は代理母になることを承諾してん。今までに九十九人産んでたから、百番目の子がアリスになるはずやった……。もちろん、遺伝的にも法的にも私の子どもちゃうから、あくまでも気持ちの上でやけど。ところが、産まれたばかりのアリスはさらわれてしまってん。行方不明になった」 「代理母……?」 「そう。アリスを産んだのは私」 代理母サマンサの回想 クラークソン夫妻はお金持ちで上品で、私とは住んでる世界が違う人やと思ってた。 だけど、とてもいい人達で、そして奥さんの体が弱かった。 私は心配して、精のつく食べ物を上げたりしてた。 長男のアレクが産まれて、しばらくは本当に幸せそうやった。だけど、二人目は難しいと言われてからは、奥さんはすっかり痩せてしまって、痛々しかった。 私は代わりに産んでもいいと言った。クラークソン夫妻はとても喜んでくれた。 アリスが産まれてすぐ、彼女は泣きながらアリスを抱いていた。「アリス、アリス」って何度も名前を呼んで。 続いて、旦那さんがアリスを抱っこした。彼も泣いていた。 私も涙が出てきた。 奥さんは、「サマンサさんもどうぞ抱いてください」とアリスを差し出してくれたけど、私は断った。 本当は抱きしめたかった。 だけど、資格がないような気がしてん。本当の母親ちゃうし。 私が泣きながらアリスを抱いたら、夫妻の間に亀裂が走るんちゃうかとか、私なりにいろいろと気を使った。 それで、「母乳を止める薬を飲んでくるから、あとで抱っこさせて」って言って、隣の部屋に行った。 クラークソン氏は、アリスの誕生を親戚に知らせるために、急ぎのフクロウ便を頼みに行った。クラークソン夫人は、病院の人からアリスの手続きについて、別の部屋で説明を受けていた。 みんながアリスから一瞬離れてん。 その一瞬の隙にアリスは誘拐された……。 覚えてるのはクラークソン夫人が「アリス! アリス!」って泣き叫ぶ声。そのあと、彼女は具合が悪くなって倒れた。 私はひたすら床にへたりこんで泣いてた。その場にいる人がみんな泣いてた。 さっきまでは、誕生したアリスが生を受け、生きてるという証のように産声をあげた。泣くアリスを見て、みんな祝福の涙を流した。それが一瞬で絶望の涙に変わってん。 私は急に視界が真っ暗になって、気づいたら仮死状態になってた。 目を開けたときには、クラークソン夫人が真っ青な顔で、泣きながら私の手足をさすってくれてた。大変なのはあんたのほうやのにって思ったら、また涙が出てきた。二人で抱き合ってわんわん泣いた。 あの日のことは、今でも夢に見る。 アリスを探して泣く夢。 誘拐されたのは本当は夢だったっていう夢も見る。アリスがいて、「いなくなったなんて夢やったんやね」って泣きながら抱きしめる夢。いつもそこで目が覚める。アリス……。 アリスのことがあってから、次の子を産む気になれなくなった。またいなくなったらどうしようって思うと、手が震える。怖くて怖くてどうしようもない。 ……私の中でアリスが思い出になったら、完全に過去のことになったら、次のお産を考えると思う。でも、そんな日はもうこないんちゃうかなって思う。 それでマリーに生前贈与の書類を作って貰った。戸籍に入ってる子どもは九十九人、産んだ子どもは百人。 アリスがいなくなったあと、いっぱい自分を責めた。私が目を離さなかったら良かったって。 ううん、それだけちゃう。あのとき夜更かししたのが悪かったんやろか、あのとき甘い物を食べ過ぎたのが悪かったんやろかって、いっぱいいっぱい後悔した。 でも一番後悔したのは、アリスを抱っこしなかったことやわ。 あのとき、抱いて笑いかけていたら、アリスはいなくならなかったかもしれへん……。 私があまりにも泣いてばかりいるから、うちの人が勉強して、法務局代書士の資格を取ったわ。これで二人で仕事ができるって。 私が一人で家にいてるのを心配したんやろうなあ。 自営業やったら、自宅と職場を一緒にできるから、私にも目が行き届くし、旦那の仕事を手伝ったら、いい気分転換になるって思ったみたいやわ。 「先生、優しいんですね」 「ううん、みんな優しいねんよ。うちの人も、アレクのお父さんもお母さんも、みんなみんな……」 アレクは奥さんを見た。 「今度、うちに遊びにきてください」 「アレク、あんたはいい子やね、ありがとう。……でも、顔を合わせにくいんよ。あんたのお母さんは、私の顔を見たら、アリスのことを嫌でも思い出すやろ? 体も悪いのに、心まで負担かけたくないやんか。だから、私、あれから会ってへんねんよ。十五年前、引っ越すって話も人づてに聞いたけど、見送らなかった。手紙のやりとりもしてへん。この町に戻ってきたって噂で聞いたときも、会いたかったけど、家にはよう行かへんかった。アレク、あんたを見てるだけで充分やわ。でも嬉しかった、ありがとうね」 奥さんの声は震えてる。 誰も悪くないのに、みんないい人なのに。どうしてこんなに悲しいんだろう。 法務局までもう少し。 「ねえ、アレク」 奥さんが口を開いた。 「アレク、もしアリスが法務局の中にいたら、泣き声で、次の日に誰かが気がつくんちゃうの?」 アレクは黙った。それから押し殺すような声で言った。 「……多分、アリスはもう……」 アリスは死んでいる……。 そうだ。 アリスが生きているはずがない。 今から私達が探すのは、アリスの亡骸だ。 そこから誰も口をきかなかった。静かに、でも必死に法務局を目指した。 十五年前にいなくなったアリス。産まれてすぐに連れ去られ、そのまま助けがこず、短い生涯を終えたのだろう。見つけたら、大事に葬ってあげないと。 生きていたら、今、十四歳。アレクの妹だからきっと美人だ。アレクと同じプラチナブロンドの髪にはリボンを結び、水色のワンピースを着て、幸せそうににっこりと笑う。そんなアリスの姿を想像して、私はひたすら悲しくなった。 法務局についた。 「あれ? 明かりがついてるやん」 奥さんが首を傾げる。この時間、法務局は閉まっているはずだ。奥のほうにうっすらと明かりがともっている。 「失礼すんでー?」 奥さんを先頭に三人で恐る恐る入る。なんなんだろう。 「あれ、ホワイトリー先生んとこの?」 警備員に声をかけられた。なんでこの時間にいるんやろう。人が何人かウロウロとしているのが見える。 「ちょっと、用事やねんけどさ。って、今日、なんかあるん?」 「ああ、月に一度の清掃の日ですよ」 「掃除するん?」 「ほら、奥に倉庫があるでしょう。通称『密室』って呼ばれてる。業務が終わったあとの夜に、倉庫をいくつか掃除するんです」 「すみません、密室に入れて貰えませんか?」 アレクが慌てた様子で話す。 「いや、でも、関係者以外は……」 「分かったわ。私は法務局代書士補助者。ほらこれ、補助者証とバッジ。これでいいやろ?」 「分かりました。職権ですね。それなら許可できます。でも、入る理由はなんですか?」 奥さんが、ぐっと詰まった。 「マリー、なんかないん?」 「え、私ですか?」 急にそんなこと言われても……。 あ! 「永住許可の申請はどうですか? 開示請求するにあたって、ここの書類を閲覧したいです」 「分かりました。では許可します」 密室の扉は開いていた。開けっ放しの状態で、人がいない。休憩時間のようだ。 「えらい、不用心やなあ。まあ、取られる心配もないんやろうけどさ」 「アリスを連れ去った女性は、清掃員ですから、この状態も知っていたのでしょう。アリスはこの中にいると思います……」 アレクは沈んだ声で言った。 今から私が探すのは死体だ。多分、奥さんは泣く。私も泣いてしまうだろう。楽しい気分にはなれない。 「うっわー、すごい書類!」 奥さんが大声を出す。 天井に届くほどに積まれた書類。 でも、この中からどうやってアリスを探そうか。 「掃除の人が入ると言っても、書類は動かしていないようですね。はたきをかけて、床掃除をしているだけに見えます……」 「……ん? 昔の登記事項証明書や、登記識別情報、首都に移る前の開示請求書辺りがないわ。なんでやろ?」 奥さんが書類を手に疑問を口にする。確かに。さっきから書類を見ていても、収入印紙の発行書などばかりで、重要な書類が見当たらない。 「その辺りの書類って、かなり大事な書類ですよね。清掃員にも見せたくない書類はどこかに隠してあるんでしょうか?」 アレクがはっとした表情になった。 「どこかに金庫があるはずです」 辺りを見回す。目が一点で止まった。指でさす。 「ここ! 不自然じゃないですか?」 奥さんは首を傾げている。私もよく分からない。 「柱にしては、空間が広いです。調べてみましょう」 三人で無心に書類をどける。 「あ、扉……?」 奥さんが呆然としながら呟いた。扉が隠れてた。 「この中ってことなん?」 アレクは足元の書類を拾い上げた。 「これ、重要書類じゃないですか?」 見ると、昔の開示請求書だった。他にも、重要な書類が無造作に積まれている。 「……金庫の中に入っている大事な書類を外に出して、中にアリスを入れたのだと思います」 移民の登録原票、現在事項の謄本、履歴事項の謄本、役員区の閉鎖謄本、権利証など……昔の、しかも大事な書類ばかりだ。 他の書類はかなり黄ばんで傷みもあるが、ここに積まれてる書類はまだ綺麗だ。 アレクの言う通り、金庫から謄本とかを引っ張り出して床に置く。そして、アリスを金庫の中に入れた。それから、外に飛び出して行った。 多分、そうなのだろう。 「開けるで……」 奥さんは震える手で金庫を開けた。固唾を飲んで見守る。 ぎいいっ。扉が開いた。 中におくるみが見える。 「アリス……!」 奥さんが手を伸ばす。 「アリス、かわいそうに。こんなところで一人で……」 奥さんはアリスの頬にそうっと手を伸ばした。まるで壊れてしまうかのように優しく愛しく指で触れる。 綺麗な赤ちゃんだった。 アレクと同じプラチナブロンドの髪。薄い桃色のおくるみに包まれている。人形のようだ。 「眠っているみたいですね……」 私は静かに言った。奥さんは頷く。 「アリス……あんたのお父さんはとてもお金持ち、お母さんはおしとやかで家庭的な人やよ。あんたをくるんでいるおくるみは、あんたのお母さんが作ってんで。ほら、ここの刺繍。私も少し手伝ってんよ。この綺麗な花があんたのお母さん、ちょっとゆがんだ花が私の刺繍……」 二つの花は笑っているように見える。幸せな時間がここにつまっている。 「男の子ならアルフレッドでアルフ、女の子ならアリスって、決めててんよ。あんたのお母さんは、女の子が欲しいっていつも言ってた。私の顔だちがやわらかくなってきたから、きっと女の子だって、そう言っては幸せそうに微笑んでた……」 目を閉じて想像する。お腹が大きくなってきた奥さん。そのお腹を愛しそうに撫でるアレクのお母さん。 「アレクがお母さん似の見事な金髪で、お父さん似の青い目だったから、あんたも同じように金色の髪と青い目の美人やわっていつも話してた。実際、その通りやったね。あんなにかわいい赤ちゃんは見たことなかった……」 白い肌とプラチナブロンドの髪。目は青いのだろう。アリスは眠っているようにしか見えないのに、もう生きていないなんて。 「私に似て、青い髪に金色の目で産まれたらどうしようって笑ったりもしたなあ。私に似るわけないのに……」 「サマンサさん!」 アレクが大声を出した。 「アリスが生きているってことはないですか?」 「え……何?」 奥さんは何度か瞬きをした。アレクの言ったことが飲み込めていないようだ。 アレクは頭に浮かぶ文字を言葉にして口に出すのがもどかしいといった口調で喋り始めた。早口だ。 「マリー、前に新聞で読んだ記事を覚えてない? 代理母から産まれた赤ちゃんが、代理母の体質を受け継ぐって」 「え? ああ、うん。読んだような……」 アレルギーや病気などが同じ場合があるって書いてあった。 「サマンサさんの仮死状態になる体質をアリスが受け継いで、今、仮死状態になってるってことはないですか?」 「えっ……」 「奥さん、仮死状態になったときは、いつもどうやって対処してるんですか?」 奥さんは、無言でアリスの手足をさすった。 「優しくさする。血の気が戻るように……」 私とアレクも手伝った。 「アリス、目え開けてえな。アリス、あんたを産んだお母ちゃんやで。あんたの本当のお父さんとお母さんがどれだけあんたに会いたがってるか。アリス……」 「あの夜、誘拐されたアリスは、赤ん坊なりに、危機を感じたんじゃないかと思うんだ。初めて触れる外気や騒音、抱きなれていない若い女性に抱かれて不安定な体勢になること。女の人がアリスを金庫に入れて、すぐ戻るつもりで扉を閉めたあと、アリスは暗くて狭いこの空間にいよいよ生命の危機を感じて、仮死状態になったんじゃないかな……」 「アレクの言う通りであって欲しいわ。アリス……アリス!」 奥さんは涙声だ。 アリスが目を開けた。三人が息を呑んだ。同時にアリスは大声で泣き出した。 「生きてた!」 「良かった……」 「アリス! アリス!」 奥さんは泣きながらアリスを抱きしめた。十五年前抱くことがかなわなかったアリス。やっと会えた。 「アリス……」 奥さんはアリスを抱いて泣いていた。いつまでもいつまでも。 「アリス!」 アレクのお父さんとお母さんがアリスを抱きしめる。アリスは無邪気に笑う。 良かった。 「サマンサさん」 アレクのお母さんが口を開いた。 「ずっと私に気を使ってくださってたんですよね。ありがとうございます。これからはまた前のようにうちに遊びに来てください」 「うん……行くわ」 みんな泣いていた。 でも幸福の涙だった。 アリスを中心に、幸せの空気が広がっていく。 しばらくして、町ではこんな歌がはやりはじめた。 アリス かわいいかわいいアリス かくれんぼしててん 帰ってきたで おかえりアリス |
薄荷 TfvXOHrnn2 2018年01月02日 23時10分43秒 公開 ■この作品の著作権は 薄荷 TfvXOHrnn2 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2018年01月29日 23時47分19秒 | |||
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Re: | 2018年01月24日 23時56分52秒 | |||
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Re: | 2018年01月24日 23時55分32秒 | |||
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Re: | 2018年01月24日 23時53分51秒 | |||
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Re: | 2018年01月24日 23時52分39秒 | |||
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Re: | 2018年01月23日 23時55分45秒 | |||
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Re: | 2018年01月23日 23時53分27秒 | |||
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Re: | 2018年01月23日 23時51分45秒 | |||
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Re: | 2018年01月23日 23時50分16秒 | |||
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Re: | 2018年01月22日 23時05分23秒 | |||
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Re: | 2018年01月22日 23時02分39秒 | |||
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Re: | 2018年01月22日 23時00分04秒 | |||
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Re: | 2018年01月22日 22時57分00秒 | |||
合計 | 13人 | 150点 |
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