密室殺人はホームルームの後に |
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不可能、ダメだと言われると実行したくなるのが自分の性分だった。 女風呂を覗くなと言われれば脱衣場から浴場の隅々まで、穴が空くほどに穴を探し。 学年一の秀才がいれば猛勉強してたった一度だけ、しかも一科目だけだが上回り。 ペンキ塗りたてと書かれていれば迷わず触れるのが自分の性分だった。もはや性癖と言ってもいいかもしれない。 とはいえ、この点を除けば自分は至って真っ当な、普通の、ほんのちょっぴりだけ平均身長より背が低い程度の常識人だ。 赤信号は気を付けて渡り。 熱々の小龍包は丸ごと口の中に放り込み。 推理漫画はあえて回答編から読んでいくような一般人である。 そんな極めて普通過ぎるほどに普通な自分に、やはり外見だけは普通っぽくしか見えないような彼女がこう言った。 俯きながら。 足を震わせて。 蚊の鳴くような声、という形容詞すら蚊に申し訳なくなるようなか細い声で。 彼女は言ったのだ。 「―――わたしと一緒に、密室殺人をしてくれませんか?」 * 「景春。お前は自分がどうして呼び出されたかわかるな?」 「ハッ! 小テストを白紙で提出したためであります!」 手は後ろに組んで直立不動。視線は眼前の教師よりやや上、窓ごしに見える木々に向けて朗々と応じた。春には満開の桜が咲き誇るものの、十二月初旬の今は気温同様に寒々しい枝があるのみである。 「わかってるならなんでそんなことした。お前成績悪くないし、問題が解けなかったわけでもないだろうに」 教師は怒っているというより、困惑しているようだった。無理もないかな、と思いつつ、職員室に響くような声で答える。 「ハッ! 先生は小テストの前に、『この程度の問題が解けないようじゃ期末は赤点、追試しかないぞ』と仰られたものですから」 「それがなんで白紙になる」 「この問題が解けずとも期末で点数をとり、追試を回避することもできるのだと証明してやろうと思いまして」 返事は深い深いため息だった。目頭を揉み、こぼれ出た「そうか」が聞いたこともないほどに重い。 「……そうか。俺の言い方が悪かったんだな。すまん。じゃあ、期末頑張ってくれ」 「ハッ! 失礼します!」 両手で頭を抱えて机に向き直った先生に深く一礼し、踵を返す。 (あれが三組の?) (ええ、何かと突っかかる問題児です。斉藤先生がかわいそうで見ていられませんよ) (私のクラスじゃなくてよかった。とてもあの子の指導なんてできませんからね) 「できない?」 ピクリと聞こえた声に耳が反応する。話の方へ顔を向けると、ひそひそと話していた教師二人がそそくさと視線を外した。どうやら自分のことを話していたようだけど、特に用があるわけでもないらしい。 止めていた足を再び動かし、職員室を出る。教師しかいない、独特の空気から解放されて、いつの間にかため込んでいた息を吐き出した。 「やっ、早かったね。だいじょび?」 声をかけてきたのは、十八鐘と書いて『トハチ ベル』と読む、珍しい名字とキラキラした名前を持ったクラスメイトだった。服装検査のたび一時的に黒くなる茶髪を両サイドに束ねて垂らす、目の下に描かれた星のマークが特徴的な少女である。 「問題ない。期末テストがんばれとエールをもらっただけだ。励みになる」 「あはは! 絶対勘違いしてりゅー!」 楽しそうに笑うベルに、「そうかな」と応じて歩き出す。ぴょこぴょこと彼女もついてきた。 「でもさ、その『できない』って言われるとやりたくなるクセ、そろそろやめた方が良いんでないにょ?」 「性分だ」 「あはは、ハル君らしいにゃあ」 そう言って、それ以上追及しないのが彼女の良いところだった。 ちなみに、千本桜という名字は呼びにくいらしく、基本的に景春という下の名前で呼ばれることが多いのだが、『ハル君』という呼び方をするのは彼女だけだ。 「でさでさハル君、相談なんだけど」 「なんだ」 ベルは小首を傾げて顔を覗き込むようにして、 「今度の期末に追試がかかっていることは承知の上で、勉強をワタクシめに教えてくんねーでしょーか?」 「またか。たまには自分でやらないと身にならないぞ」 「そこをなんとか。今のままじゃとっても無理ぽなのですよ」 ぴく、と眉を動くのを自覚した。 「無理、だと?」 「はいぃ、情けないことに」 「ベル」 「はい」 「簡単に無理とか言うな。人間やればできる。できないことはない。できるのだからできる」 「はいはい」 「難しければ自分が手伝う。二人でやれば必ずできる」 「そのとーり! じゃ、よろしくね! ハル君!」 「うむ、任せておけ」 大仰に頷いて見せると、ベルがこちらに手を振りながら駆け出して行った。彼女は部活があるので、そちらに向かったのだろう。 ということは、部活があるのに俺を待っていたのか。 「…………」 大した用もないのにチームメイトや指導者を待たせていたというのか、けしからん。 「後で注意しないとな……ん?」 はて、自力でやれなければ身にならないと言ったはずなのに、いつの間にかうっかり手伝いの約束をしてしまっている自分に気づく。 まあいい。次回から一人でやればいいのだ。今回だけ特別に教えてやろう。 「…………」 前にもこんなこと言ってた気がするな。 とりとめもなく考えながら靴を履きかえる。 さて帰ろうかと顔を上げると。 一人の少女が、まるで立ち塞がるように立っていた。 西欧系のハーフらしく、金色の髪を無造作に背中まで流し、制服の上からでもわかる女性らしい肢体は男女問わず魅了する。所作一つ一つに気品が溢れ、学力、運動神経、性格のどれをとってもパーフェクトな生徒会長、美作・エーデルバイス・美波。 ――――の、後ろによくいる少女。 目元まで隠れる黒い前髪と小柄な体格で、ほとんど目立たず、実際同じクラスのはずなのだがあまり印象に残っていない、そんな少女が。 両手で握った鞄にぎゅうっと力を込めて、顔を上げた。 「……あ、あの。ちょっとだけ、お時間、よろしいでしょうか。千本桜さん」 名字で呼ばれるの珍しいなと、頭の片隅でそんなことを考えた。 「ふむ、密室殺人、か」 あまり人のいないところで、という彼女の提案で、電車で四つほど行った先のファミレスに場所を移していた。ここなら同じ学校の生徒と鉢合わせする危険も少ないということだろう。幸い二人とも定期券の圏内なので、交通費も実質タダだ。 「とりあえず座ろうか。せっかくここまで来たのに目立っては意味がない」 「え、あ、はい、すみません……」 ひとまずドリンクバーをとり、一口ずつ飲んで一息ついたところからの「密室殺人しませんか」発言である。お客も少なくなってきた頃合いで、突然立ち上がれば嫌でも目立つというもの。幸い、声は小さかったから聞こえていた人はいないだろうが。 改めて腰を下ろし、彼女がちゅう、とオレンジジュースを啜るのを見て、腕を組んで考えながら口を開く。 「急なことで、正直驚いている。何と言っていいかわからない」 「そうは見えないんですが……」 密室殺人。密室内で行われる殺人のこと。 およそ特別なものを感じないこの少女には似つかわしくない言葉だったが、冗談を言っている様にも思えない。 「だが、現段階において何か言わせてもらえるならば、『バカなことはやめておけ』になるだろうか」 「と、とんでもないこと言っているのは、わかってます」 「ふむ、ではなぜ密室殺人という結論に至ったのだ?」 「そ、それは……その……」 声は徐々に小さくなり、やがて俯いて完全に聞こえなくなる。なんだか弱い物イジメでもしているようでかえって罪悪感があるが、だからといってここを聞かねば先には進まない。 「そもそも、なぜこのような相談を自分に? 君の友達にしっかりした人たちがいるだろう」 完璧な生徒会長美作・エーデルバイス・美波。クラス委員長にして学年一位の学力を持つ成田綾女。警視総監を父に持ち、自身も風紀委員長を務め、一説によるとかの名奉行の血を引くとも言われる遠山友理奈。学年最強最高の三人は同じクラスで仲もよく一緒に行動することが多い。多くの生徒からは、彼女らを尊敬と畏怖を込めて『三神+1』と呼ぶ。 まず頼るならそっちではないかと思うのだが。 「み、美作さんたちには、その、話せない、ことなので……」 「話せない?」 ピクリと眉が動く。ギロリと彼女への視線を強くする。 「は、はい」 「できないことはない。話すことはできる。ちゃんと理解してくれる人たちだろう。待っていろ今自分が話をつけてくる」 そう言って立ち上がり、「自分の分の代金だ」と五百円玉を置いて歩き出す。一瞬遅れて、彼女が慌てて俺の袖を掴んだ。 「ちょ! ちょっと待ってください! どこ行くんですか!」 「決まっている。美作会長、成田委員長、遠山女子に話を繋ぎに行くのだ」 「ダメですってば! だから千本桜さんに聞いてもらってるんです!」 「できないことはない。安心しろ、必ず伝える」 「ダメです! わたしは千本桜さんに聞いてもらうために来たんですから!」 「むっ」 ピタリと足を止める。急に立ち止まったせいか、彼女の方がバランスを崩してしまった。 「おっと。すまない」 腕を掴んで支えると、不意に彼女と長い前髪越しに目が合った。おどおどしながらも素直そうな澄んだ瞳で、隠してしまうのはもったいないな、と思う。 「……あ、ありがとうございます」 「気にするな。今のは自分に非がある」 小さく頭を下げ、席に戻る。考えてみれば、親しい人だからこそ話せないということもあるのかもしれない。話せない、と聞いてついカッとなってしまった。 ベルにも熱くなるクセを直した方が良いと言われたばかりだが、その通りかもしれない。 「さて、話の続きをしよう。遮ってしまって申し訳なかった」 「い、いえ」 彼女も席に座り直し、改めて話を再開する。 「で、ですね。美作さんたちには、その、話せな……いや、他の人にこそ話したいことだったので、それで、千本桜さんなら、きっと、ちゃんと、話を聞いてくれるかなと思って」 「貴女の信頼に敬意と感謝を。必ずや期待に応えらえるよう努力する」 どういう理由であれ、幾多の選択肢から自分を選んでくれたことに礼を述べて頭を下げた。 「は、はう!? い、いえ、感謝するのは私の方で……」 彼女はかえってしどろもどろになってしまった。 「で、ですね。その、密室殺人なんですけど」 「うむ」 「……わたしは、変わりたいんです」 カラン、と解けた氷が音を立てた。 「みんなと違って、わたしは頭も良くないし、長所もないし、可愛くもない。でもわたしだからしょうがないって思ってたんです。けど、やっぱり嫌で。何か一つ、具体的には言えないけど、何かしたいと思って」 俯いたままでも、声はちゃんと聞こえた。本気なのだな、と思う。 「……それで、たまたまテレビを見ていて、密室殺人をやっていたんです。ドラマだと思うんですけど。それで、これだって」 「何故?」 「密室殺人て、不可能殺人なんだそうです」 「不可能?」 ピクリと眉が動く。彼女は気づいた様子もなく、「はい」と続けた。 「密室状態にある被害者を殺害する。できないことをできるようにする。それがなんだが、すごいなって思ったんです。わたしも。できないことばっかりなわたしにも、何か一つできるんだって、できるようになりたいって、思って」 変ですよね、と恥ずかしそうに笑った。恐れているようにも見えたのは、茶化されたり、悪意ある言葉をぶつけられたりするのではないかと思っているのだろうか。 「変ではない」 だからこそ、ハッキリと答えた。 「えっ?」 「不可能を可能にする。できないことをできるようにする。当然のことだ。素晴らしいことだ。誇るべきことだ。人類はそうやって進化してきた。否、人類だけではない。あらゆる生物が進化という名の成長を続けて不可能を可能にし、今日まで生きてきたのだ。君が今までできなかったことをできるようになることに強い決意を抱いたのなら、自分は全身全霊をかけて応援しよう」 不良が更生するために選んだ手段が受験だろうが野球だろうが介護だろうが、選んだ先によって評価が変わることはない。変わりたいと思い、実行することこそが大切なのだ。 少しだけ、彼女が俯いていた顔を上げた。前髪の間から、驚いたような、呆けたような顔を見える。 「密室殺人。実行不可能な殺人計画を可能にする。その響き、いたく気に入った。是非とも成功させよう」 すっと右手を差し出す。彼女は手と顔をキョロキョロさせながら、どうしていいのかわからない様子だった。 「失礼、左利きだったか」 「い、いえ、右利き、です」 彼女は慌てて右手を差し出しかけてから、服で一度手を拭ってから改めて自分の手を握り返した。 小さな手だな、と思う。拭いていたのにまだじんわりと汗が滲み、小さく震えているのがわかる。どう見ても引っ込み思案の彼女が、ろくに話したこともない相手に、密室殺人の話をしようと決意したのだ。どれほど勇気が必要だったか、自分には想像もつかない。 必ずや、彼女の力にならんことを。 決意とともに力を込めてから、料理が来たのをきっかけに手を離した。話が終わるまで待ってくれる。素晴らしいファミレスである。 「遅れて申し訳ありません、こちらご注文の品になります」 遅れていただけだったのか。 いただきます、と両手を合わせてフォークをとると、空気が若干和んだ。彼女も感じたのだ、先ほどまでより話し方が柔らかくなる。 「ふふ、こうして誰かと食べることってあまりないので、不思議な気持ちです」 「彼女たちとは食べているのでは?」 「そう、ですけどね。どちらかと言うと気を使ってもらっている感じで、心苦しいところもあって」 「自分にそういう気遣いはできない。だから貴女もそういった気遣いはいらない。普通にしてほしい」 「はい。ありがとうございます」 ふふ、と笑みを浮かべたのがわかった。何が楽しかったのかはわからないが、楽しいのなら良しとしよう。 「わたし、話しかけてもらうのを待つばかりで、自分から話しかけたりできないから……あっ」 「できない?」 ピクリと眉が動く。ガタン、と音を立てて立ち上がって。 「できないということはない。今すぐできるよう配慮しよう。斉藤先生は無精ひげこそ剃らないが、ああ見えて生徒をよく見ている先生だ。相談すれば必ず応えてくれる。待っていてくれ今呼びに行く」 「ま、待って! 待ってください!」 「むっ? そうか、斉藤先生は男性で歳も離れている、あまり参考にならないな。ではベルを呼ぼう。彼女は外見も言動もアレだが周囲を明るくすることに長けたLEDのような少女だ。どんな相手ともきっと仲良くなる、待っていてくれ今呼びに行く」 「そ、そうじゃなくてですね!」 彼女はぎゅっと袖を掴んで引っ張り、言葉を重ねて誤解であると説明を繰り返した。よくはわからないが呼びに行かせないという強い意志を感じたので、不承不承席に戻る。 「……はあ、もう絶対『できない』なんて言わないようにしよう」 もっとも、彼女はそう決意を呟いていたので、悪いことばかりでもなかったのだろう。良いことだ。 * 「見てみてハル君、可愛いポーズ♪」 「うむ」 顔の前で横向きのピースをしながらウインクするベルに一言だけ返事をし、再び目線を本に落とす。 見てはいないが、不機嫌そうな顔をしたことが声でわかった。 「ちょっとハル君、ちゃんと見てよ~、昨日鏡の前で三時間も考えたんだからさ~」 「きっと鏡がノイローゼになっている。後で慰謝料払えよ」 「もう! つまんない! 激おこ! 激おこ美少女ベルちゃんだにょん! 怒ったポーズ!」 今日もLEDは元気で明るい。本を閉じ、「うむ」ともう一度返事する。 「何読んでたのん? Hな本?」 「Sな本だ」 「え」 一瞬ベルが真顔になった。本屋のカバーをとり、表紙を見せる。 「推理小説のSだ」 「ああ、そゆこと。どこまで読んだの?」 「探偵が密室殺人のトリックを説明しているところだ」 「じゃあもう最後まで読んじゃったんだ」 「まだ読み始めたばかりだ」 「また最後から読んでんの!?」 あちゃー、とベルが頭を押さえる。まるで常識人のようなリアクションだ。 「ハル君さ、前にも言ったけど、オチを最後に読んだらダメよ。作者が草葉の陰で泣いてるよ?」 「まだ生きている。それにダメだと言われると挑まずにはいられないのだ」 「……はあ、ハル君は台無しの王子様だよ」 「そんなことはない。楽しみ方が少し違うだけだ。目玉焼きに牛乳をかける人もいるのだからな」 「げっ、そんな人いるの?」 「自分は知らないが」 「私も知らない。じゃあいないかもね」 「そうだな」 話が途切れる。さてまた読み返そうかと本に挟んでいた指を抜こうとしたときだった。 「ねえ知ってる? 真の読書家って、最後から読むものらしいんだよ」 「何だと?」 訝しむようにベルを見据える。彼女は空気の抜ける音の口笛を吹きながら続けた。 「たくさん読むようになると、普通に最初から読むことが『できない』んだってさ。だからとりあえず最後を読んで、それから最初を読まないと本が『読めない』んだって。もったいないけど仕方ないよね、『無理』なんだから」 「できない? 読めない? 無理だと?」 なんだか妙にそこだけ強調された気がするが、大した問題ではないので無視する。 「できないことはない、読めないはずもない、無理などではない。自分が必ずやってみせてやる」 「えー? 『無理』しなくていーよー? どーせ『不可能』なんだからさー?」 「不可能など存在しない! 見ていろ、今まさにこれから、一ページ目から読んでやる!」 挟んでいた指を抜き、一ページ目まで戻る。 「いいかベル、必ず一ページ目から最後まで読み切ってやる、不可能などいくらでも可能にできるということを証明してやる!」 「はいはーい、足を長くして待ってるにょん……おや?」 「首だろ……む?」 ベルの訝しげな声に、本から顔を上げる。ベルとは反対隣に、一人の少女が歩いていた。 前髪に隠れた目元に小柄な体格、昨日話していた彼女だ。 「お、おはよう、千本桜くん」 「うむ、おはよう」 「え、えと、十八さんも、おはようございます」 「おはにゃん」 にゃん? と首を傾げた彼女は、少し戸惑った後に「えと、先に行くね?」と言い残すと駆け足で離れて行った。 小さくなっていく彼女の背中を見送り、改めて本に目を落とすグエッ! 突然ベルが襟首を掴み、怒りを露わにした。 「ちょっとハル君! なんで土浦っちがハル君に挨拶してんの!?」 「クラスメイトだからだろ」 「あそっか」 納得したのか手を離してくれた。改めて本に目を落とすグエッ! 「そうじゃないでしょ! 昨日まで全然何にもなかったじゃん! どうして急に!」 「昨日色々話したからだろ。手を離してくれ、痛い」 「むむむむむ、怪しい、吐け! なんか他にあるはず!」 「ない。何もない、だから離せって」 「むむー」 少し時間がかかったものの、ようやく手を離してくれた。首元を軽く直してから、ふと思い出したことを聞いてみる。 「ところでベル、密室殺人のやり方を知っているか?」 「ホワッツ!?」 まるで外国人タレントのようなリアクションをしたベルは、ゆっくりと小さく首を横に振った。 「そうか、変なことを聞いてすまなかったな」 「う、うん……」 流石に突飛過ぎたか。ベルの表情が落ち着かなくなってきた。 これで最後にしよう。 「ところでベル」 「こ、今度は何だにょん! 毒か! 不倫か! 最終兵器か!」 「土浦っちとは誰だ」 「…………………………は?」 今度こそベルから表情が抜け落ちた。 土浦景子。それが密室殺人を相談しに来た少女の名前だった。 クラスメイトの名前なのに覚えておらず、あろうことか聞くことさえ忘れているとはまさに無念の極み、次回話をするときには地に頭をこすりつけて謝罪せねばなるまい。 「しっかし、密室殺人ねえ」 「ああ」 お昼休み、ベルと机を挟んでお昼を一緒に過ごす。いつも通りの日常だ。 土浦女子と話をしたことはベルにも伝えたが、その内容までは話していない。密室殺人はあくまで自分のミステリに関する話題の一つとして振ったことになっている。 「まあでも実際、ないよね」 「ニュースでは見ないな。そうそう創作物のような事件が起こる国も嫌だが」 「そうじゃなくてさ、基本的に密室殺人てありえないんだにょん」 「ありえない」 できない、とは違う響きに、どう反応していいかわからなかった。「つまりさ」とベルがウインナーを指したフォークを掲げる。 「密室状態で人が死んでいました。誰かが被害者を殺害することはできません。じゃあこれは事故か自殺、あるいは病死と判断されるわけ。で、捜査はそっち方向に進めていくから、そもそも密室殺人は成立しないし、犯人だって捜査の入りから間違っててくれた方が安心だーしょ?」 「まあ、そうだな」 「だから現実には密室殺人なんてない、あるいは判別されないし、そもそも殺人にはしないようにするってわけさ」 密室殺人は密室殺人が成立した時点で密室殺人ではなくなる。わかり難いようだが要するにそういうことかと納得すると、湧き上がっていたものが急速に落ち込んでいくのがわかった。 「つまり、密室殺人は不可能だ、と?」 「そーは言ってなーよ。ただフツーに考えると、密室殺人は殺人として取り上げられない方が自然ってこと。まあ別の理由であえて密室殺人にしたがる場合はあるかもだけど」 ふむ、と咀嚼してた卵焼きを飲み込む。 どこか雲をつかむような話だったが、ベルのおかげで考える道筋は見えてきた。 つまり密室殺人は密室殺人であると思われない方が理想だが、今回の目的はあくまで殺人ではなく密室殺人そのものを成立させること。であるならば、密室殺人を成立させつつ、同時に殺人であると証明させてしまえばいいのだ。 「おお」 思わず声が出てしまった。これはこれで面白い。密室状態、絶対に殺人ではありえないはずなのに、何らかの証拠によって殺人としてか判断できない。だから警察ないし探偵がいるのなら、密室の謎に強制的に挑まなければならない。 まるで挑戦状のようではないか。わざわざ密室殺人だと教えてやったのだ、解けるものなら解いてみよ、と。 背筋がゾクゾクする。不可能を可能にするという意味ではむしろ探偵側の方が立ち位置としては正しいはずだが、これを一から組み立てる側に立つというのは想像外の経験で、かつ漫画や小説では得難いものでもある。 面白い。 「……ありがとうベル。色々見えてきた」 「だめだよーって話をしてたのに、しばらく黙ってた結果見えて来たって、これもうわかんないわー」 でもま、とハンバーグを口に運ぶと、ベル得意げに言った。 「アドバイスくらいならできるし、何かあったら言ってほしいな。面白そうだし」 「うむ、頼りにしている」 ミステリ小説などを読むようになったのは、元はベルの勧めだった。つまり彼女はミステリ系の知識については先輩にあたる。大いに頼らせてもらおう。できれば土浦女子にも紹介して三人で計画を練りたいところだ。 後で本人に聞いてみようか。 「では、最初に何を考えるべきかな」 「場所でしょ。ロケーション」 ごちそーさんま、と手を合わせてベルが続ける。 「場所によってトリックなんて様々だし、逆に言えば使えるトリックがあってもその場所とかみ合ってなければ使えない。手持ちのトリックがあるならともかく、ないのなら余計にまず場所を決めて、そこでどう密室にするかを考えるのかってことじゃない?」 「うむ、その通りだ」 素晴らしいな、ベルと話しているだけでどんどん思考が前に進んでいく。普段はお茶らけているが、やはり性根は良い奴でかつ頭の回転に優れているのだろう。 普段からの痛々しい言動は、ひょっとすると能あるタカが爪を隠すアレなのかもしれない。 「……しかしさ、私は正直やーだなって思うよ」 「密室殺人がか?」 反射的に聞いてから、彼女の視線を追って違うことに気づく。 ベルが見ていたのは、背景にバラ庭園でも錯覚しそうな程煌びやかな光景だった。美作・エーデルバイス・美波、成田綾女、遠山友理奈の三人と、地味で小柄な少女がポツンと一人。三神+1の面々だった。 お紅茶が似合う三人に混ざるにはあまりにも儚く、どこか場違いで、肩身もせまそうにしている。 ふと、三人の中の一人と目が合った。 「む」 黒髪に黒縁眼鏡、真面目を絵に描いたようなクラス委員長、成田綾女だ。見られていることに気づいたからか、鋭く目を細めると、不機嫌そうに眉を顰める。 嫌われるようなことはした覚えがないが、ひとまず視線を逸らすことにした。 そんなやりとりに気づいた様子もなく、ベルが続ける。 「仲良いってのかもしれないけどさ、楽しそうには見えないモン」 「……あまり悪く言うものではない」 やんわりと注意してみたが、弁当箱からほとんど顔を上げないままの土浦女子を見ると、ベルの言う通りに思えた。 ふーっと吐いた息が白い。小さく見えるコンビニの時計はすでに十時を過ぎており、ひょっとして来ないのではないかと不安な気持ちに襲われる。 密室のトリックを考えるためにも、まずは現場探しから。 そこで土浦女子と連絡を取り、こうして土曜日に待ち合わせしてどこにするかを見て回ることにしたのだ。 しかし、かれこれもう十五分ほど遅れている。遅刻するような子ではないと思うのだが、ひょっとすると急な用事か、あるいは何かあったのでは。 「……あ、あの」 か細い声が後ろから聞こえた気がしたので振り返る。 黒髪の小柄な少女が立っていた。ふかふかしたコートに灰色のマフラー。とても暖かそうな格好をした、土浦さんだった。 「申し訳ありませんでしたあああああああああああああああああああ!!!!!」 脊椎反射でアスファルトに跪き、額を叩きつける。昨夜何度となく練習した土下座だった。 「えっ!? いや、ちょ、立ってください、むしろ謝るのは遅れたわたしの方……」 「この千本桜景春、あろうことかクラスメイトの名前を把握しておらず、そして何度か言葉を交わしたにもかかわらず、名前を覚えていないことすらわかっていなかったというこの無礼! 非礼! 傲慢不遜! 平に! 平に! ご容赦願いたく候! もし望まれるのであれば、この腹を切って詫びる所存にございます!」 懐から黒塗りの鞘と柄の小刀を取り出し平伏叩頭。いつでも本当に切腹できる準備は整えてある。 「と、とにかく立ってください! 目立ってます! 目立ってますから!」 「お許しいただけるのでしょうか?」 「当たり前です! というか、全然ちっとも怒ってるとかないですから!」 「貴女の優しさに幾万の感謝を」 土浦女子に肩を揺すられ、ようやく体を起こす。彼女は顔を真っ赤にして涙目になっていた。 「ほ、本当にもう、出会いがしらに土下座とか、想定の範囲外にも程があります……」 「申し訳ない。次回会うときには必ず謝罪せねばと誓っていたもので」 土浦女子は目立つのが苦手なのか。確かに公共の場である以上、不適切な行いは慎むべきだし、好奇の目で見られることを好まない人も多いだろう。 配慮が足りなかった。強く反省を心に刻む。 「とりあえず行こうか。歩きながら話そう」 「は、はい。そうしましょう」 今もちらほらと注がれる視線から逃げるように歩き出す。 「それにしても、なんでよりによってこんなものまで用意したんですか。危ないですよ」 「ベル渡されたのだ」 小刀を不安そうに持っていた土浦女子が鞘から抜き取り、そっと触れる。 「詫びをするなら腹を切るのが日本男児。覚悟があるなれこれを使うにゃん、とな」 どんな理由であれ婦女子を傷つける愚行を冒した以上、必要とあれば命をもって償わねばという自分の覚悟を理解した、最も親しき友人であるベルの信頼を感じる。 「あっ、これ刃が引っ込む奴ですね」 遊ばれただけか! 密室殺人をどこで行うか。今日はそれを見つけることが目的である。 「さて、まずはどこへ向かうか」 簡単に密室殺人と言っても、それに適したロケーションなど早々あるものではない。嵐に見舞われた無人島の別荘や吹雪の中の山小屋などがあれば理想的だが、あいにくそんなものは近くにないし、あったところで易々と行けるものでもない。 ある程度身近でなければならない、そんな場所が。 「わたし、考えてきたところがあるんですけど、いいですか?」 「もちろんだ。元々は貴女が発案者なのだから」 了承し、彼女と共に向かう。まずは電車に乗るようだった。 昼前ということで、座れないけど混んでいるというほどでもない。手すりにつかまりながら、彼女は「クローズドサークル」と話題を切り出した。 「ご存知ですか? ミステリだと割とメジャーな単語ですが」 「いや」 「簡単に言えば閉じられた空間という意味です。連絡手段や行き来する方法がなくなって、嫌でもそこに居なければならない状況。わたし達の目指す『密室殺人』とはニュアンスが異なりますが、広い意味での『密室』の一つです」 「ふむ」 「ただ、こうした場所はかなり特殊ですから、わたし達みたいな普通の人にはとてもできな……いえ、よりふさわしい密室があると思うのです」 「ふむ」 なんだかできない、と言われそうな気がしたが、気のせいか。 「むしろクローズではなくオープン、それでいて自由が効かない、そんな場所が、あそこです」 前髪の奥に隠れた瞳を俄かに輝かせ、土浦女子が窓の外を見る。いつも俯いているところばかり見ていたが、まっすぐに前を見つめる彼女はやはり三神に負けず劣らず魅力的ではないか。 「千本桜くん?」 「ああ、すまない」 振り返った土浦女子に、慌てて彼女が見ていたものを探す。窓の向こう、大きな看板に備え付けられた『シネマ』の文字。 映画館だった。 訝しく思いつつ、チケットを買ってコーラ、ポップコーン等々装備を整え劇場に入る。徐々に人が増えてくると、彼女の言う『密室』がわかりかけてきた。 これだけ人がいては、殺人など到底行えない。しかも出入り口に鍵がかかっているわけではないので、厳密に言って『密室殺人』は成立しないだろう。 しかし、いざ映画が始まれば証明は暗くなり、客のほとんどがスクリーンに夢中になる。映画は音も大きく、ちょっとした物音ならさほど目立たない。隣人を殺害すれば完全に容疑者だろうが、離れた席ならば疑いの目を誤魔化せる可能性は十分にある。 「なるほど、一理ある」 ふむと頷き、周囲をくるりと見回してから、ふと隣に座る土浦女子に目を落とす。 彼女は上映予定の映画のチラシを束にして持っていた。 「そんなに持ってきたのか」 「……え? あっ、その」 選挙で配れるくらいに分厚くなったチラシを、恥ずかしそうに裏返す。両面印刷だから裏にしたところで隠れるわけではないのに。 「その、つい、あると持ってきてしまって。どうせなら全部読みたいな、と」 「気になる作品だけ持ってくるものなのだと思っていたが、なるほどそういう考え方もあるのだな。自分にも見せてくれ」 「え、あ、はい」 一枚もらい、ざっと目を通す。洋画のホラー物だった。まったく手を付けたことのないジャンルだが、あらすじだけ読んでもそれなりに面白い。 出演者やスタッフ、原作物なら原作、シリーズ物なら前作を知っているだけでもより興味を持って読めるだろう。映画が始まるまでの時間を過ごし方としては、理想的かもしれない。 「……変じゃ、ないですか?」 「うむ?」 ふとかけられた声に、顔を上げる。前髪に隠れた瞳が不安げに揺れていた。 「普通じゃ、ないですよね。二、三枚ならともかく、あるだけ全種類なんて」 「そうなのか? 別に何とも思わなかったが。むしろ次回があれば自分もやろうと思ったくらいだ」 真顔でそう応じると、ぽかんと口を開けた後、やがてくすっと笑みをこぼした。 「そう言っていただけると、ほっとします。でも、二人とも持って行っちゃったら、チラシ無くなっちゃうかもしれませんね」 「そうならないよう次も二人で来ればいい。そうすれば一枚ずつで済む」 合理的な提案をして、次のチラシをもらう。あまり評判の良くない漫画原作の実写化作品の続編だった。面白いかどうかは別にして、興味が引かれるのは確かだ。チラシにはこういう楽しみ方もあるのだな。 「……あの」 土浦女子が何か言いかけた時、照明が暗くなり、スクリーンに映像が流れ始める。映画自体はまだ始まらないが、CMもなかなか面白いものがあり、他の映画の予告も含めて映画の楽しみの一つである。 「どうかしたか?」 「あ、いえ。大丈夫です。それより、映画見ましょう」 「うむ」 密室殺人も気になるが、とりあえず映画は映画で楽しもう。でなければ学生料金千八百円が浮かばれない。 ぐっと背筋を伸ばし、固まった関節をほぐす。座りっぱなしとはいえ二時間集中して同じ姿勢というのはなかなか疲れるものがあった。 今日見たのは宇宙戦争物のエピソード8だった。ちらほらと不安な評判も聞いていたが、損したというようなものでは決してなく、充分楽しむことができた。 「千本桜くんは、他のエピソードも見ているんですか?」 「テレビでいくつか見たが、おそらく全部ではないな。幸い宣伝番組として放送された一つ前のエピソードは見たので、内容は何となく把握できていると思う」 「わたしも同じ感じです。テレビで見たくらいなんですけど、せっかく前エピソードを見たのなら、劇場で最新作を見るのもいいかなって」 「うむ、そういう勢いは大事だ」 そう言って笑い合いながら、エスカレーターを降りる。もう少し映画の話に花を咲かせてもいいが、そろそろ本題にも入っておこう。 「ところで、もう一つの目的の方だが」 「はい」 「別の場所を考えた方が良いと思う」 ハッキリと口にすると、和んでいた空気が俄かに冷たくなった。 「発想自体は悪くないし、できないことはないと思う。そして成功させることができればとても面白い。だが」 エスカレーターを降りるため話が止まる。一歩遅れて土浦女子もついてくる。 「不特定多数の人が多すぎる。先ほどの『クローズドサークル』ではないが、あまり関係のない人を巻き込むのは避けるべきだ」 計画における不確定要素を排除する意味と、単純に多くの人に迷惑をかけてしまうという倫理的な意味の両方があった。 「……そう、ですか」 今日は前向きがちだった顔が俯いてしまう。もう少し言い方を考えるべきだったか。 「でも、今日は楽しかったです。久しぶりに誰かと映画を見ました」 「であれば、何よりだ」 いつものメンバーで映画を見に行ったりはしないのか? という疑問が頭をもたげたが、ぐっと飲み込んだ。あの四人の様子と今の言葉からして、おそらくないのだろう、わざわざ追求する必要はない。 「さて、昼時も過ぎたし、そろそろ店も空いてくる頃だろう。どこかで昼食を」 「ハル君?」 ふと聞き覚えのある声に足が止まる。茶色のツインテールに目の下の星。小柄なその少女とあの呼び方は、一人しかいない。 「ベル」 十八鐘と書いてトハチベルと呼ぶ変わった名前の少女は、片手にクレープを持ち、左頬にクリームをつけてまん丸く目を開いていた。 「ほえ? ハル君デート?」 「ち、違います! 千本桜くんにはちょっと付き合ってもらっただけで」 「うむ。ただのデートだ」 「ぴょっ!?」 今の感嘆は土浦女子のものだ。意外と面白い声を出す。 「ちょ、千本桜くん、その」 「男女が二人でどこかに行けばデートだろう。その際に交際の有無は問わないはずだ」 「いやまあ、そうかも、ですけど」 頬を赤く染めて人差し指をいじいじする土浦女子に対し、ベルの反応は淡白なもの。 「まあそんなとこだろと思ったよ。大方映画でも見に行ったんでげそ?」 「その通りだ。よくわかったな」 「そりゃ上から降りてくればね、映画くらいしか行くとこないでげそ」 「まあな」 ベルがクレープを食べ終えると、「そう言えばさ」とついてきた。 「この前密室殺人がどうのって言ってたけど、あれどうなったのん?」 「今探しているところ。いいところというのはなかなか見つからないものだ」 目だけで土浦女子を見やる。密室殺人の話に多少動揺が見えたが、小さく首を振ってあくまで話題の一つと伝えると、こくっと頷き返してくれた。 ベルに意識を戻すと、ふふん? と嫌らしい笑みを浮かべる。 「ねーねーハル君、私実は一つ、いーとこ知ってるよ?」 「いいとこ?」 「そっ♪ 密室殺人に最適な場所。よかったら教えてあげよっか?」 「うむ、お願いしたいところだが。どうする?」 土浦女子に伺いを立てる。密室殺人の発案者は彼女だ。面識もあまりないベルの協力を得ることに不安を感じる可能性は否定できない。 彼女は少し迷った後、こくんと頷いた。 「……わかった。頼む」 「おけおけ風呂桶~。じゃ、お昼食べてから行こっか」 言うなり、彼女は土浦女子との間に割り込むようにして横に並ぶ。 彼女の頬には、今もクリームがついたままだ。 「ベル、クリームついてるぞ」 「え、どこどこ」 「頬だ。左頬」 「わかんないわかんない。とってとって」 「自分でとれ」 「いーから」 何がいーからなのかわからない。ふうとため息を一つして、指ですくってやる。 「それを? それをぱくっと?」 「しない。ティッシュ持ってる」 ポケットからティッシュを取り出そうとしたときだった。 「じゃあ私がするー」 「うわ」 言うなりベルが指に食いつくと、ぺろりとクリームを食べていった。 「ふふん、ごちそうさまでしたー」 「突然人の指に食いつくな。非常識だぞ」 「ふーんだ」 ぷいっとそっぽを向いてしまったベルに、ちょうど向かい合う形になった土浦女子が躊躇いがちに聞いた。 「あの……十八さん、怒ってます?」 「べっつにー?」 ベルはいつもと変わらぬ笑顔である。先日も『激おこのポーズ!』などとやっていたから怒らないわけではないが、今回はおよそ怒っている様子も理由もない。 ないはずなのだが。 やはりどこか、ベルの笑顔には背筋に嫌な汗が流れるのだった。 三人で昼食を終え、ベルの案内で向かった先。 ある程度予想していたというか、自分も候補の一つとして考えていた場所であったため、大きな驚きはなかった。 「やはり学校か」 「そこはわかっていても驚いてほしいところだよハル君」 学校であれば、映画館のような不特定多数を巻き込む点はある程度改善される。少なくとも学校関係者しかいないからだ。また、各教室や施設などが多く、鍵をかけて密室を作る場所はいくらでもある。 何より、毎日通うホームグラウンドだ。よく知り、よく慣れた地の利があった。 「考えなかったわけではない。が、他に適した場所がないか先に探していただけだ」 「ふーん、まあいいけどさ」 まずは体育館や校庭など、屋外から見ていく。本命はやはり校舎だが、意外な掘り出し物があるかもしれない。 「しっかし密室殺人ねえ、お母さんはハル君をそんな風に育てた覚えはないよ?」 「誰がお母さんだ」 「じゃあ何?」 「ただのクラスメイト」 「ぶぶー」 お約束のように言葉のやりとりを交わしながら見て回る。 ふと、さっきから土浦女子が一言も喋っていないことに気づいた。 「どうかしたか?」 振り返って話しかける。びくんと肩を震わせた土浦女子は、「ううん、大丈夫です」と首を横に振った。 「ただ、話に入っていくのが苦手なだけで。ちゃんとお話は聞いてましたから」 「むっ、申し訳ない。上手く入れるよう話題を選ぶ」 「いえいえ大丈夫ですよ、聞いてるだけでも楽しいですし、それに」 彼女は小さく苦笑して、 「……私、二人なら普通に話せるんですけど、三人以上だと、話の中に入っていくことができなくて。こう、楽しく話している空気を、自分が入ったせいで壊してしまいそうな気がしてどうしても声が出せないんです」 「ふむ」 わかるような、わからないような、どちらとも言えない感覚だった。 「自分は三人以上で話すことがほとんどないからな」 「ベル君はわたしくらいしか話す人いないからねー」 「そうだな」 振り返ってベルに同意する。すると、土浦女子は何か言いたげにしたがすぐに口を閉ざし俯いてしまった。 雰囲気的には旧校舎でもあれば最適だったのだろうが、生憎この学校にそんなお洒落な建物はない。校舎へ入り、一階から順に探す。 しかしめぼしい教室はなく、二階、三階と歩いた後、自分たちの教室で一度休憩することにした。 窓から外を見渡すと、中庭が見えた。暖かい季節にはそこでお昼を食べる生徒もいるが、冬にそんな奇特な奴はまずいない。 「あんまり良いとこないね」 「うむ」 うーんと唸るベルに、言葉少なに応じた。 四階建ての校舎は、格クラスの教室がある一般教室棟と、理科室や職員室など、特別教室が並ぶ特別教室棟に分かれたL字型をしている。この教室からなら、先ほど見ていた体育館や、陸上部用のトラックも見えた。 ふと、そこに見覚えのある姿を見つける。 「む、あれは」 「何々? ああ、ひょっとして遠山ちゃんかな?」 黒髪を一本に束ね、凛とした大和撫子のようなイメージの彼女が、スパイクに履き替えて豹のように一直線に駆け抜けていく。そう言えば、どこか日焼けしているような感じがあったが、陸上部に所属していたのか。 「風紀委員じゃなかったのか」 「えと、遠山さんは、陸上部もやってるから」 「運動神経抜群で、一年の頃に人数合わせの助っ人で入ってからハマったらしいよ。呼ばれれば他の部にも助っ人するくらいだからね」 「そうなのか」 三神と呼ばれるだけあって、やはり目立つ存在なのだな、と思う。 ちらりと土浦女子の表情を覗くと、どこか浮かない顔をしていた。いつもお昼を共に過ごす友人が称えられているときにするような表情にはとても見えない。 さて、と声の調子を明るくしたのはベルだった。 「どーしよっか? 四階見に行ってもいいけど、やっぱり何にもないと思うよ? 基本的に作り一緒だし」 「そうだな」 四階でめぼしい教室といえば音楽室くらいか。ただ、それを密室殺人に使えるほど音楽の知識は多くない。 そもそも現状の何の当てもないまま探していても、めぼしいものは出てこないのではないか。もっと狙いを絞っていくべきではないのか。 映画館、という発想は面白かった。あえて鍵をかける以外の密室の方法を使い、暗闇や音量という映画館独自の状況を利用する。 クローズドサークルという考え方も面白い。外界と隔離された世界。学校ならばある程度出入りする人間が決まっているため、この考えに当てはまる。連続殺人をするわけではないから、完全に隔離されている必要はないというのもある。 鍵をかけない密室。そもそも密室は密閉空間である必要はないのだ。であるならば、むしろより開放的な空間にしてはどうだろう? 体育館。ダメだ。広くはあっても密閉空間にはなる。ただの密室だ。 中庭。校舎からぐるりと見渡すことができる。とても殺人には向かない。 もっと開放的で、入り口が制限されていて、できれば外から見えるような……。 「あった」 「え?」 聞き返してきたのは土浦女子だった。ベルは退屈になったのか、大あくびをしている。 「屋上だ」 「屋上? 全然密室じゃないじゃん。確かウチの学校だと出入り自由で普段は鍵もかかってないくらいだし」 「だからこそだ。出入り口は一つ、フェンスは高く外からの出入りは困難。何より外から見えてしまう。そこを利用する」 頭が回る、思考が進む。いいぞ、ゾクゾクする。 「まずは屋上に上がって入り口を封鎖する。鍵なんて、外側から取っ手に自転車の盗難防止用のチェーンでも巻いておけばいい。そして内側からフェンスを乗り越えて注目を集める。自殺志願者かと誰もが下から見上げ、驚き見守ることだろう。そこへもう一人の人間が現れ、地面に突き落とす」 びゅう、と冷たく乾いた風が吹いた。軽く唇を舐めて続ける。 「下からは多くの目撃者が屋上を見守り、外から降りれば気づかれてしまう。そんな中警察が鍵を破って屋上へ上がってくるが、そこには誰もいない。屋上という解放空間で行われる密室殺人。目撃者も多数いる中での大胆な犯行、何より目撃者が証言する、『これは断じて自殺や事故などではない』と」 そう、これは挑戦だ。自殺や事故で片付けてくれるな、と。 もっと楽に、わからないようにすることもできた。だがあえて密室殺人だと教えてやったのだ。 この密室、解いてみせよ、と。 傲岸不遜、大胆不敵。ぞくりと肌が粟立つのを感じた。 「で、肝心のトリックはあるの?」 「それはこれから考える」 「あり」 がくっとベルがよろけた。 とはいえ、後は上手いこと屋上から消える方法を考えるだけで全てが整う。方向性は定まった。 どうだ、と密室殺人の発案者である土浦女子を振り返り。 思わず息を呑んだ。 「……良い、すごく、良いと思います」 小さく肩を震わせて、顔は青白いのに口元は笑みの形を刻んでいる。いつもは前髪で隠れた目は、どこか焦点が合っていないような気がした。 「挑発的で、芸術的。良かった、やっぱり千本桜さんに相談したのは正解でした。ねえ、千本桜さん!」 ぐるんと頭を回して振り返った彼女に、思わず一歩下がる。 そして、彼女の一言で何かが壊れる音がした。 「じゃあ、誰を殺しましょうか!?」 「…………は?」 「わたしとしては、やっぱり美作さんですね! あの綺麗な横顔を恐怖に染めてやりたい! 最後にどんな顔をするのかこの目に焼き付けたいです! あるいは成田さんでしょうか! ちょっと勉強ができるからって調子に乗ってるあの傲慢な鼻を叩き折ってやりましょう! それても遠山さんにしますか!? あのいかにも善人って感じで、友達だよっていう表情が虫唾走るんですよ! ほっといてくれって! いちいち構ってきてさあ! こっちの心情なんてこれっぽっちもわかってないくせに、良い人アピールのために利用してんじゃねーよってさあ!」 彼女は肩で息をしていた。狂気で爛々と目を輝かせる彼女は、とてもついさっきまで一緒に映画を楽しんでいた少女と同一人物とは思えない。 「……落ち着こう。できる、と証明できればいいじゃないか。わざわざ実行する必要はない」 「はあ!? 何言ってるんですか! 密室殺人は人を殺して初めて密室殺人なんですよ!」 大人しかった土浦女子の髪は乱れ、今はその目がハッキリと見える。 彼女は、心の中にこんなにも深い闇を抱えていたのか。 「……人殺しは犯罪だ。だから人はミステリを読む。ありえない物だからこそ空想の中で楽しむんだ」 「はは、千本桜さん、怖いんですね? 心配いりません、捕まってもあなたのことは一切喋りません。発案・計画・実行、全てわたし。あなたは想像を楽しんだだけで、罪も責任も何一つありません」 「自分のことではない。親しい誰かに、人殺しなどさせるわけにはいかない」 ぐらりと土浦女子の体が揺れる。痛々しく頭を押さえると、口端を吊り上げて言った。 「『できない』んですか?」 「なんだと?」 ピクリと眉が動いたのを自覚した。 「人殺しは『できない』んですか? 倫理的に悪いことだから『無理』だと? それてもあなたの計画はとても現実性のない『不可能』なものなんですか!?」 反射的に、自分でもなんと答えようとしたかわからなかった。 なぜなら、答える前に。 「やめろっ!」 ベルが土浦女子の頬を平手打ちし、彼女の言葉を遮ったからだ。 「卑怯だぞ! ハル君の性格利用しようとしやがって! ハル君の気持ちを、そんなことのために使うな!」 さらに襲い掛かろうとしたベルを羽交い絞めにして抑える。男女の力の差があるはずなのに、抑え込むのに相当な力が必要だった。 「ハル君は! ハル君は良い奴なんだ! できないことをできるようにするのは、いつだって誰かのためなんだ! 自分にできたんだから、みんなだってできると証明するために必死に努力してるだけだ! 不可能なんてない、頑張れば可能性があるんだと証明したいから、ハル君は空気も読まずに立ち向かうんだ! 無理だと諦めた誰かにために迷わず行動できるハル君の気持ちを、人殺しなんかに利用させてたまるか!」 「わかった! わかったから! 落ち着け!」 土浦女子が口を閉ざし、ベルが男女の力の差を破れないことを悟ってか、ようやく暴れるのをやめた。 これほど怒りを露わにするベルを見るのは初めてだったが、泣き顔も見るのも随分と久しぶりな気がする。 彼女の肩にぽんと手を乗せ、「大丈夫」と語りかけた。 「……ハル君」 「千本桜さん」 すがるような二人の声。 ギリと奥歯を噛みしめ、言葉を継いだ。 「……自分に、殺人は、できない」 ズキと胸が痛む。自分が『できない』と認めてしまったからか、それとも土浦女子の気持ちに応えてやれないからなのかは、自分でもわからない。 「……人殺しは、悪いことだ。必ず、色んな人を不幸にする。だから、できない」 一段と冷たくなった風が、教室の窓を揺らした。 いつの間にか日も暮れて来て、部活をやっている生徒たちの声も聞こえてこない。 風の音だけが聞こえる空間に、ぽつりと声を吹き込んだのは土浦女子だった。 「…………そうですか。そうですよね」 あまりに乾いた声音だった。小さな声にもちゃんと込められていたはずの感情が、今はまったく感じられない。 「その通りです。はは、私、なに言っていたんだろう。バカみたいですね」 そう言って立ち上がると、ぺこりと頭を下げた。 「迷惑をおかけしてごめんなさい。皆さんの言うとおりだと思います。密室殺人なって、バカなことしませんので、ご心配なさらず」 先に帰ります、と言い残して教室に戻る。あまりにも儚げな背中を、追いかけることができなかった。 * あれから一週間が経った。期末テスト期間に入り、部活動は基本的に禁止。普段とは違った緊張感がクラスにも広がり始めてきた。 ただ、それ以外では表向き大きな変化はない。もちろん、密室殺人事件なども起きておらず、平和な日常を過ごしている。 変わったことがあるとすれば、土浦女子が三神から距離をとり始めたことだろう。 普段なら昼食時には同じ机を囲むはずが、自分の机で一人で食べている。誘われていないわけでも除け者にされているわけでもなく、彼女のほうから誘いを断っているようだった。 もっとも、以前見た限りではとても楽しそうには思えず、むしろ今の方が土浦女子にとって望み通りの状況なのかもしれないが。 「まーたあの子見てりゅー」 ジト目で呟いたベルに、「気になるのでな」と正直に応じて視線を戻す。 「もういいじゃん。あの子ももう何も言ってきてないんでしょ? だったらさ」 「モヤモヤした終わり方が嫌いでな。それより、余計なことは言ってないだろうな」 少し視線を鋭くして釘を刺す。「言ってないよ」と応じたベルの顔はすこぶる不機嫌だ。 「密室殺人のことも、あの子たちに対する思いも。好きの反対は無関心なんだよ。興味ない子の言うことすることに、いちいち首突っ込む方がおかしいよ」 「そうか」 予想の一つとしてなくはなかったが、ああもハッキリ口に出されると異なる感情が湧きあがってくる。以前彼女は三神について『気を使われている』と表現していた。三人の気持ちがどうあれ、土浦女子は違う空気を感じていたことは間違いないだろう。 「でも、本当はどうなんだろうな」 「なにふぁ?」 本当にあのときの言葉が本心の全てなのか。 まだ自分は土浦女子のことをよく知らない。 彼女に関する多くのことが、推測の域を出ないままだ。彼女自身はまだ確かなことを、ほとんど口にしていないのだから。 だから、彼女のことをもっとよく知らなければならない。 ちょうどハンバーグを口に運んだベルに「別に」と誤魔化しながら、それでも一人足りない三神の昼食風景を見やる。 いつもなら楽園の背景でも錯覚しそうな三神の食事風景は、今日はどこか暗く感じられた。 小さな悲鳴と物が落ちる音に振り返る。小柄な女子生徒が、大量のノートを廊下にばら撒いていた。 放課後の廊下には人も多く、人にぶつかってバランスを崩したらしい。 ノートを拾い集めるのを手伝うと、女子生徒と目が合い思わず体が硬直した。土浦女子だった。 「手伝おう」 「大丈夫です。一人でできますから」 がさがさとノートを拾い集めると、自分が持っていた分も回収して立ち上がる。抱えたノートで前が見えなくなるほど積み上がり、なるほどこれではぶつかるしこぼすだろうと納得した。 「半分貸してくれ。このままだと危ない」 「平気です」 「自分に持たせることは『できない』と?」 「そうです……はっ!」 ニヤリと口端を歪ませて、ひょいと上から半分より少し多めに取り上げる。 「自分にできないことなどない、できないと言われると挑戦せずにはいられないのだ。悪いがこれは自分に持たせてもらう」 自分にとって絶対に譲れない領域だ。なんならこの場で土下座してでも持たせてもらうつもりでいた。 決意を込めた目で見つめれば、彼女も口をわなわなさせながら素直に頷くしかなった。 二人でノートを持って廊下を進む。沈黙の中歩き続けているせいか、空気すら物理的な重さを持っているように感じられた。 「……心配しなくても、密室殺人なんてしませんよ」 彼女がぽつりと呟いたのは、ちょうど人が途切れたタイミングだった。 「一時の気の迷いです。ご迷惑かけたことは謝ります」 「いや、楽しかったからかまわない」 ほっとした部分を胸の内に隠す。俯いた彼女を見ると、素直に喜ぶ気には慣れなかった。 「息苦しいんですよね、なんか」 「そうなのか?」 多少乾燥しているが、冬であればこんなものではないか。 冷たい空気を吸い込みながら答えたが、どうやらそういう話ではなかったらしい。 「見えない壁に覆われている感じがするんです。人に対して、規則に対して、未来とか人生とか、家族とか、常識とか。『ここからここまで』って範囲が決まってて、私の場合、こういう性格だからずっと狭いんです」 自業自得って気もしますけどね、と彼女は自嘲した。 「だから千本桜さんが羨ましいですよ。そういう壁を感じないので」 「そうなのか?」 「もし、『ここからここまでしか行けないよ』って言われたらどうしますか?」 「もっと先まで行く」 「ほら」 ようやく口元に笑みを刻んで彼女は言った。 「千本桜さんにはそういう壁がないんです。あるいは範囲がとても広くて、自由な人だからきっと感じない」 「そうだろうか」 「そうですよ。私とは違うんです」 一つ考えてから、言葉を返す。 「だから、密室殺人だったのか」 土浦女子の足がピタリと止まる。一歩先に進んでから自分も歩みを止めた 「そう、かもしれませんね。密室状態にある被害者を殺害する、あるいは魔法のような技術や発想で密室を作り上げる。できないはずのことを可能にすることに惹かれたのかもしれません。きっとそれは、私を囲う壁の外にあることだから」 自分を覆う得体の知れない不安のようなもの。彼女が『息苦しさ』や『自分を囲う壁』と表現したそれを打ち壊すものこそが『密室殺人』だったのだろうか。 であるならば、やはりできるようにするだけで、実行する必要はないのだろうか。 「美作会長たちのことは?」 ビクッと彼女の肩が震えた。一度口を開きかけ、首を横に振ってから言った。 「……あれはきっと本音ですよ。一緒にいると息苦しさを感じます」 「あの人たちが、嫌いか?」 「嫌いというと、違うかもしれません。ああは言いましたが、私はあの人達が良い人であることを知っています。優しくて強い人達です。ただ、少し住む世界が違うだけ。優雅に大洋を泳ぐ魚達と、私のような深海魚は一緒に泳げないんですよ」 「なるほど、うまい例えだ」 「ふふ、恥ずかしいです」 彼女が笑う。寂しげに、悲しげに。 職員室の戸を開けると、しゅんとまた背中が丸くなってしまう。自分にも何かできることはないかと、強く奥歯を噛みしめた。 野暮かお節介か、あるいは余計なことなのかもしれないが、土浦女子をあのまま放っておくことはできなかった。 一番話のしやすそうな遠山女子にコンタクトをとると、彼女たちも心配していたらしく、簡単に話し合いに応じてくれた。時間は放課後、場所は生徒会室で待っているとのことで、生徒会室の前に来ている。 およそ生徒会とは無縁な生活を送ってきただけに、職員室とも違う雰囲気に多少尻込みしつつ、扉をノック。かろうじて何か返事があったことを聞きとってから、中へと踏み込んだ。 コの字型に並んだ長机、左右の本棚にはファイルや本がびっしりと並んでいる。生徒会としての活動は今日はないらしく、そこにいたのは一人だけ。 優雅な金色の髪にエメラルド色の瞳。日本人離れした見事なプロポーションは、およそ同じ教室で授業を受けるクラスメイトとはとても思えない。美作・エーデルバイス・美波はドイツ系のハーフと噂を耳にしたが、同時にものすごいお嬢様でもあるそうだ。直接話したことはないが、ひょっとすると「ですわ」とか言うのかもしれない。 彼女は自分の姿を認めると、ゆっくりと口を開いた。 「ですわ」 ですわしか言わなかった。 「……は?」 「ですわ」 彼女はもう一度繰り返す。どうすればいいのだ、何を言っているのかさっぱりわからない。異なる次元にでも入り込んでしまったような感覚だった。 「あー! カゲハルもう来ちゃってたかー、ごめんごめん、大丈夫だった?」 背後からドアが開けられる音と共に、聞き慣れた日本語が入ってくる。それだけでとてつもなくほっとした気分になった。 長い黒髪を一本に束ね、手足を日焼けさせた大和撫子、風紀委員長の遠山友理奈だった。風紀委員長という肩書の割にざっくばらんな仕草は、彼女の外見に比べてギャップを感じるが、そこが彼女の魅力なのかもしれない。 「アッハッハ、カゲハルも戸惑ったろ? アタシたちは慣れてるから違和感ないんだけど、ミナミはわかりやすいからさ、親しくなるともう『ですわ』だけで何を言ってるわかっちゃうんだよね。で、最近だともう会話のほとんどが『ですわ』でさ。慣れない人だとたまに混乱するんだけど」 「ですわ」 「……なるほど」 主語やちょっとした助詞を省略して喋る人はたまにいるが、本文ほぼ全部を省略する人は初めて見た。 「ちなみに、今はなんと?」 「ちょっと待ってな。ミナミ、なんて言ったんだ?」 「ですわ」 「ああ、『(ようこそ、生徒会室へ。わたくしは生徒会長の美作・エーデルバイス・美波。同じクラスですから面識はありますが、残念ながら今までほとんどお話をすることもなかったので、ひとまず自己紹介をさせていただきました。あなたのことは四人でいるときにも時々話していましたので、こうしてちゃんとお話しできることを嬉しく思います)ですわ』だって」 「……うむ」 「で、次に『(所用を先に済ませるということでまだ友理奈と綾女が来ていませんが、ひとまずこちらの席に座っていてください。良かったら棚にある資料にご覧になっていただいても構いませんわ。そう待つこともなく二人もすぐに来るはず)ですわ』ってさ」 「……なるほど」 なんだかもう、色々とスゴイな。美作会長もニッコリと女神のように微笑んでいる。一言一句間違いないようだ。 「お招きいただき感謝する。自分は千本桜景春。まずは丁寧なご挨拶を頂いたにも関わらず、自分の無知のために無礼な振る舞いをしてしまったこと、申し訳なかった。お許し願いたい」 腰に手を当てて深々と頭を下げる。ぴったり三秒かけて頭を起こすと、いえいえ、とばかりに首を横に振る美作会長と、腹を抱えて笑う遠山女子の姿があった」 「そんなん気にする必要ないって、普通わかんないんだからさ、むしろ非があるなら慣れてるわたし達以外にこういう話し方するミナミや、ちゃんと事前に説明しておかなかったアタシ達の方だって」 「ですわ」 「『(そう)ですわ』ってミナミも言ってるよ」 好意的に受け入れてくれている美作会長と遠山女子にもう一度会釈し、改めて話を再開しようとしたが、その前に美作会長が口を挟んだ。 「ですわ?」 疑問形もあるのか。 「アヤメなら今日は来ないってさ。カゲハルが来るって言ったら、急用があるとか言ってどっか行っちまった」 「ですわぁ……」 おそらく残念ですわ、とかそんな感じだろう。落ち込んだ様子でこのくらいなら何となくわかる。 さて、と軽く手を手を叩き、遠山女子が話を切り替える。 「ケーコのことだよな。アタシ達も心配しててさ。今日話しかけてくれたのはアタシ達にとっても渡りに舟って感じだったんだよ。あの子に何かあったのかな」 「……少し、悩んでいるようだ」 密室殺人や、彼女が口にした殺意を伝えるべきかは、来る前に少し考えて言うべきではないという結論を出していた。彼女たちの今後の関係に深い支障を来しかねないし、密室殺人のトリック自体はまだ未完成のままだ。すぐに凶行に及ぶようなことはおそらくない。 「悩んでいる、かあ。やっぱあのことかなあ」 「心当たりがあるのか?」 頭の後ろに手をやって、遠山女子が唸る。 「あの子、今どこの委員会や部活にも入ってないんだよ。だからさ、アタシ達がいるとこにどうかなって誘ってみたんだ。ミナミは生徒会、アタシは風紀委員はもう決まってるから、時々助っ人で呼んでもらってる陸上部とか、親しい子がいる文化系の部活とか紹介してさ」 「ですわ!」 「『(景子ちゃんはとても真面目で地味な作業を黙々とこなせる忍耐力と素直さを持った子です。うっかりミスが多いわたくしにとっては、景子ちゃんが生徒会に入っていただけたらとても助けになるはず)ですわ』ってさ。アタシとしては単純に、友達増やしたり、色んなことに挑戦したら面白いと思うってだけなんだけどさ」 土浦女子のために、か。 二人が彼女のことを好きなのは本当なんだろう。表情を見ていれば、自分の友達がいかに素晴らしいかをこれでもかと語りたいという思いが『ですわ』の解説がなくても十分に伝わってくる。 ただ、本当に彼女のことを理解しているのかについては疑問が残った。 「土浦女子がそうしたいと言ったのか?」 「いや、アタシ達が勝手にやってるだけさ。あの子、最近になってカゲハルとは話すようになったみたいだけどさ、ほとんどアタシ達としか話してなかったから。もっといろんな人と仲良くなってほしいなって思って」 「なるほど」 気遣われている、か。土浦女子が言っていたことが理解できるような気がしてきた。真面目な彼女のことだ。自分に対して必要以上に気を使われれば、余計に気を使ってしまうだろう。 それに、彼女は三人以上になると話に入り込むのが苦手だと言っていた。そんな子が知らないグループに溶け込むのは容易ではない。 彼女たちは、やはり土浦女子のことをあまり理解していないのではないか。そんな疑問が頭をもたげた。 それから少し話をつづけた後、生徒会業務を少し残ってやっていくという美作会長を残して生徒会室を出る。 遠山女子が扉を閉めると、大きなため息をこぼした。先ほどのまで明るさを考えると、らしくないなと感じる。 「……カゲハルも感じたかもしれないけどさ。アタシも含めて、あの子のこと、わかってないのかなって思うんだ。アタシ達」 俯きながら、遠山女子が言った。表情は暗く、どこか苦しげに。 「こーいう言い方好きじゃないけど、アタシ達とあの子って違うんだよ。ああホントこの言い方嫌い。自分で言ってて反吐が出そう。聞いたことない? 三神ってやつ」 「ああ」 「それ考えたやつ殺してやりたいくらいムカつくんだけどさ、外から見てるときっとそう見えるんだろうなって思うんだよ。多分ミナミもアヤメもそんな風に言われてるなんて夢にも思ってないと思う。もし知ったら、あの二人は何するかわからないからさ」 口調は穏やかでも、表情には険しさが滲んでいた。影で囁かれていることに、はらわたが煮えくり返っているということだろう 「でも、やっぱりケーコとアタシ達で違う部分はあると思う。ミナミは根っからのお嬢様で、なんでもできて人からも好かれてた。アヤメは責任感強くてまとめるのが上手い。二人とも自然と人の輪の中心で育ってきた子たちだから」 「遠山女子は違うのか?」 「え?」と聞き返した遠山女子に、やや険のある言い方になってしまいったことを詫びる。 「ああ、いいよいいよ、呼ばれ方が珍しかったから驚いただけ」 彼女は軽く手を振って苦笑した。 「アタシは中心より、少し後ろから見てることが多かったからかな。持論だけど、『導く』っていうのは中心から前にいて、『まとめる』っていうのは中心から後ろにいる必要があるんだ。アタシは後者。で、あの二人は特に引力強いし、なんとなくバランスとるみたいに一歩下がることが多いんだよね。中心にいるより、端にいる人の方が全体が良く見えるんだ」 「正直、よくわからない」 話が比喩的になってきたので、わからないと正直に答えた。 「はは、良いって良いって。アタシだってちゃんと言葉にできてるかわからんだからさ。要は、アタシ達じゃ見えないケーコを、カゲハルに見てほしいんだ」 はにかんだ遠山女子は、どこか寂しげに見えた。 「さて、アタシはそろそろ風紀委員の方に行くよ。片付けときたい仕事があってね。もしアヤメに会いに行くなら、多分図書館で勉強してると思うよ。テストも近いし」 成田委員長の名前に、思わず眉を潜めてしまう。目ざとく気付いた遠山女子が、「どうかした?」と聞いて来た。 「自分が会いに行っていいものかどうか、と」 「なんで……ああ」 今日も自分が来ると聞いた途端に生徒会室を避けたような節があった。遠山女子も察したようで、しかし今度は少し楽しそうな苦笑を漏らし、「大丈夫だよ」と太鼓判を押す。 「むしろ喜ばれると思うよ。行ってごらん」 「わかった。ありがとう」 喜ばれるとは思わないが、とりあえず図書室には行ってみることにした。 「何でしょうか。勉強しているのがわからない? 邪魔しないでほしいのだけど」 ものすごく邪険にされた。 図書室にある自習用スペースにいる成田委員長を見つけ、声をかけての第一声がこれである。短めの黒髪に黒縁の眼鏡。委員長にして秀才と外見から訴えているかのようにすら感じる。 「申し訳ない。ただ、どうしても土浦女子について聞きたいことがあるのだ」 「……ふん。どうぞ」 何故だかさらに不機嫌になったようだが、ここで考えていたも始まらない。 隣の自習スペースから椅子を持ってきて腰かける。幸いまだ自習スペースの机には空きがある。 机に向き合ったままこちらを見ない成田委員長に、こちらから問いかける。 「土浦女子は美作生徒会長や遠山女子からいくつかの誘いを受けていたそうだが、成田委員長もそうした誘いをしていたのか」 「いいえ。元々私も部活には所属していませんでしたし、委員長という立場は誰かを誘うものでもないですからね。むしろ私は、彼女はもっと勉学に励むべきだと考えています」 「勉学」 おうむ返しに繰り返す。「ええ」と彼女がメガネをくいと上げた。 「彼女の成績をご存知ですか? はっきり言って下です。進級はどうにかなるでしょうが、進学には不安を感じます。だから私は暇を作っては彼女に教えていました。あまり効果はなかったようですが」 「どうして?」 ピタッとシャーペンが止まった。切っ先が僅かに震えているのがわかる。 「……教え方が悪かったのでしょう。あなたと違ってね」 「自分?」 「十八さんに時々勉強を教えているそうじゃないですか。彼女は授業中はわかっていないのにテストになるとしばしば上位にも名前が出る」 「試験前に少しだけだ。ベルは勉強が嫌いというだけで苦手ではない。やればできる子だ」 「土浦さんだってやればできます!」 ドン! と机を叩くと、声と共に静かな図書館に響き渡った。囲いがあるから直接視線は感じないが、空気が変わったのは感じる。 声を荒げたことを恥じるように俯くと、成田委員長はシャーペンを置いて体ごとこちらに振り返った。 「……私は勉強はできますが教えるのは苦手なんです。自分にできることが、どうして人にできないのかが理解できない。色々と手を尽くしましたが、なかなか目に見える成果に現れませんでした。彼女が私達と距離を置いたのも、もう私が嫌になったからかもしれませんね」 最後は自虐的に言い残し、再び机に向き直った。 これ以上は話をしてもらえないだろう。丸くなった背中に小さく会釈し、立ち上がって椅子を戻す。 「ところで、あなたはこんなことをしていていいのですか?」 顔を上げないまま、彼女が言った。 「もうすぐ期末試験でしょう。土浦さんのことも心配ですが、ご自身の心配もしたほうがいいのでは?」 そう言えば、ベルの勉強も教えると約束してしまっていた。あまり大丈夫とは言えないかもしれない。 「うむ、とりあえず平均はとれるよう頑張るつもりだ」 「……フン」 「え?」 「何でもありません。ではあなたは平均で満足していてください。私はまた学年トップをとりますので」 どこか不満げな成田委員長と別れ、図書室を出る。 「わっ」 「おっ」 図書室の前にベルが立っていた。 「どうした」 「ハル君が入ってったの見えたから、だいじょぶかなって」 「問題ない」 「ならもう帰る? 久しぶりに一緒にさ」 「部活はどうした」 「テスト前だから部活はないよ」 そういえば遠山女子も同じことを言っていたか。 「なら、帰るか」 「おっ今日は素直」 うっひっひ、と笑うベルと並んで昇降口へ。 靴を履いて外に出ると、部活がないせいか何となくいつもより静かな気がした。冬なので日が暮れるのも早く、徐々に暗くなる空が余計に気分を重くさせる。 「全くもう、また他の子のこと考えてりゅー! こんなプリティガールが一緒にいるんだからわたしのことを口説くことだけ考えてればいーの!」 「うむ」 「あっこれ人の話聞いてない奴だ」 「そうだな」 三神+1と話をして、みんな善い人たちだと思った。互いを思い合い、尊敬し合う関係だ。小さなボタンのかけ違いでバラバラになるのは、どちらにとっても不幸ではないか。 密室殺人は、きっと土浦女子にとって一つのきっかけだったのだろう。今の不安が燻った状態を解決するためのきっかけ。実際に殺す気はなかったのだと思う。 彼女はそのきっかけを失った。このままだと、ずっと自分の中に引き籠ってしまうかもしれない。 「ばーっかばーっかうんこハール君」 「むっ、仮にも年頃の女子が汚い言葉を口にするものではない」 「おっと、やっと聞こえたか」 「話しかけてたのか、すまない。考え事に集中していて気づかなかった」 ベルはふくれっ面からぷしゅーっと空気を抜くと、まっすぐに前を向いた。 彼女を横顔を眺めて、一つ大きく心臓が跳ねる。 ぴんと伸びた背筋、整った鼻筋。何より普段はお茶らけていても、いやいつもふざけているからこそ真剣な表情をした彼女は綺麗だな、と思う。 「昔さ、かくれんぼしてたときのことって覚えてる?」 「いや」 「だろうね、そのときの相手はハル君じゃなかったし」 なら覚えているわけないだろう、と呆れるには、ベルの表情は真剣なままだった。 「ハル君とは別の友達とかくれんぼしててさ、わたしは捨てられてた冷蔵庫に隠れたの。一度入ったら真っ暗で、怖かったから出ようと思ったら中から開かなくてさ。狭いし暗いしで、すごい怖かった。 叫んだり叩いたりして助けを呼んでも全然来てくれなくて、そのうち鬼の誰かが見つけてくれるって待ってた。でも、誰も来てくれないまま時間だけが過ぎてってさ。泣き疲れて、このまま死んじゃうのかなって思った頃、急に開いたの。開けてくれたのが、ハル君」 「ああ、あれか」 ぽんと手を打ち、ようやく思い出すことができた。 まだ七歳か八歳の頃に、かくれんぼ帰りのクラスメイトにすれ違って、まだ見つかっていない子のことを聞かされたのだ。彼らは『どうせ帰った、帰った奴を見つけるなんてできるわけないだろ』と言ったので、できないことはないと言い返して探しに行ったのだ。 彼らがかくれんぼをしていた場所を中心に行きそうな場所を探し、子ども一人隠れられるスペースをくまなく探してようやく女の子を一人探し出した。ただ名前は聞かなかったし暗かったから顔も見えず、あれがベルとは今まで思い至らなかった。 そういえば、小学生時代一度もクラスが同じにならなかったベルといつの間に仲良くなったのかを覚えていない。 「ハル君は覚えてないかもだけど、わたしは忘れない。汗まみれで泥まみれで、『ほら見ろやっぱり見つけられたじゃないか』って言ったときのドヤ顔と、その前のほっとした表情」 彼女はぴょんぴょんと華麗なステップで前に進むと、後ろ手を組んで、最高の笑顔を浮かべた。 「そのときからわたしは、ハル君のことが大好きなんだぜ?」 いつもと変わらぬ、いたずらっ子みたいな笑顔。顔が少し赤いのは、夕焼けのせいなのか。 「だからさ、ハル君が浮かない表情をしていると、わたしも悲しくなるんだぜ?」 まったく本当に、自分は彼女と出会えて良かったと心から思う。 その通りだ。自分が落ち込む土浦女子を見て悲しむように。 ベルもまた、自分が落ち込めば悲しく思うのだ。 「だからさ、ハル君はハル君の思うようにすればいいんだよ。いつだってハル君は、できないことに挑戦しているときが、一番イキイキしてるんだからさっ」 「そうだな」 「わたしは一番近くで応援してるぜい!」 「ああ、わかった」 迷いは晴れた。おうとも、最初から迷う必要などなかったのだ。 するべきと思うことをする。できないことはない。だからできることをするだけ。 いつもの単純な理屈じゃないか。 ぺろりと口を舐めて、「ベル」と呼びかける。 「色々とどうするか考える。手伝ってくれ」 「はい喜んで!」 居酒屋みたいに景気よく答えたベルの肩を叩き、大きく一歩を踏み出した。 * チャイムの音に続いて「そこまでー」の声が響く。一斉にペンを置く音がしたが、しぶとくペンを走らせ続ける者もいた。 「はい終わり。諦めろ。お前はどうせ追試だ」 「ひでーな先生!」 丸めたノートでぽこんと頭を叩かれ、クラスが笑いに包まれる。そこには、ようやくすべてのテストが終わっての開放感もあった。 テストが終われば冬休みまで、テスト返却と掃除くらいしかやることはない。今日もホームルームが終われば帰るだけだ。 さて、行こうか。 「少しいいだろうか、土浦女子」 三々五々席を立つクラスメイト達の間をすり抜け、今まさに荷物をまとめて帰ろうとしていた土浦女子の前に立つ。 ビクッと肩を震わせた彼女は、顔も上げずに「……なんでしょう」と答えた。 「少し付き合って欲しい用があるのだが」 「すみませんが、今日はちょっと」 「密室殺人だ」 ノートを鞄に入れる手が止まる。ようやく顔を上げた彼女に、ニヤリと笑みを浮かべる。 「どうだろう、せっかくだから一緒にやらないか。手伝ってほしいのだ」 屋上に上がると、真っ青な空が広がっていた。何かをするには最適な天気だと思う一方で、それが密室殺人という犯罪行為というのが皮肉っぽく、つい小さく笑ってしまう。 「……まだやってたんですか。もういいって言ったのに」 「む」 いつも通りに俯きながら、土浦女子が呟く。 「もうやめたんです。放っておいてください」 「土浦女子、どうして貴女は密室殺人をしようと考えたのだ」 「前にも言ったじゃないですか。あの三人が憎いからですよ」 吐き捨てるように彼女は言った。 「わたしと彼女たちでは人種が違うんですよ。遺伝子から違うのかもしれない。そんな人たちと無理矢理一緒に空間に置かれて、ひたすら劣等感を植え付けられる。うんざりなんですよ」 「では今は幸せなのか? 距離をとり始めたようだが」 「ええ。心の底から」 「にしては笑顔が見えないが」 「一人なのに笑っていたら気持ち悪いでしょう」 「そうだな。誰かといるから笑い合える」 むっと土浦女子が口を真一文字に閉じる。予想通りの反応に、小さく苦笑した。 「少し、彼女たちと話をした。貴女のことも話したよ」 「はは、なんて言ってました? まあロクなこと言ってないと思いますけど。バカとか、陰険とか、ぼっちとか」 「本当にそう言っていたと思う?」 「どうでしょうかね。他人には言わないかもしれませんね」 「じゃあ、本当に彼女たちがそう思っていると思うか」 「おも……」 言葉を濁し、辛そうに顔を逸らす。あえて何も口にせず、沈黙のまま彼女の言葉を待った。 風の音、遠くから聞こえる部活のかけ声。テスト期間が終わって久しぶりの部活になるのか。空き教室から聞こえるトランペットの音も心なしか弾んで聞こえる。 しばらくそうした音に耳を傾けてから、やがて彼女は囁くように言った。 「……思いません。あの人たちは、本当に良い人たちですから。私じゃ釣り合わないほどに、もったいないくらいに」 土浦女子が目元を押さえる。 「あーあ、本当にもう、つらいんです。優しい人たちなんですよ。自分の勉強だってあるくせに、成田さんは私にかまうんです。違う違うって言いながら、教えるためのノートにはいつもびっしり書き込まれてる。その分の時間を自分のために使えばいいのにってずっと思ってました」 「そうか」 「遠山さんは一番最初に私に声をかけてくれた人なんです。多分、私は三人以上いると喋れなくなることも気づいてて、二人で話ができるようなタイミングを選んで話しかけてくれる。遠山さんが最初になんて話しかけて来たかわかりますか? 『勉強教えて』ですよ。自分の方が成績良いのに」 「そうだな」 「美作さんは何言ってるかわからないんです」 「ああ」 「同意しないでくださいよ、まったくもう」 言いながら、彼女の口元はいつの間にか笑みの形に変わっていた。そういえば、美作会長もそうだった。 本当に大好きな友達の良いところを自慢すると、つい笑ってしまうほどに楽しいのだ。 「でも時々、ああ、楽しいんだな、とか、落ち込んでるな、とかわかるときがあるんです。いつも大人びてて凛々しいのに、ときどき妙に子どもっぽくなって。親しい人ほど、そういう面を見せてくれるんです。私のことも、近しい人間だと思ってくれてるんですよね」 でも、と彼女は鼻を鳴らす。こみ上げてきた感情が制御できなくなってきたのかもしれない。 少し、手助けしようか。 「そんな彼女たちに応えられない自分がもどかしい?」 驚いたように顔を跳ね上げた土浦女子に、無言で問いかける。 彼女は何度か目元を拭い、やがてこくんと頷いた。 成績も、社交性も、会話も。どれ一つ相手の望む通りに返すことができないことへの自己嫌悪。焦り、不安。何より親しくしてくれている友達への申し訳なさ。そういったものが積み重なって、歪んだ形で表れてしまった。 中にはコンプレックスや、周囲の視線によるストレスもあっただろう。きっとそれは、土浦景子という少女にしかわからないものなのだと思う。 「どうして貴女は、密室殺人をやろうと思ったのだ?」 「えっ?」 ずずっと鼻を啜って、彼女が聞き返した。 「それは……だから、テレビで見て」 「密室殺人は不可能殺人。最初から『できない』とわかっていたんじゃないか?」 あるいは、本人ですらもわかっていなかったのかもしれないが。 「密室の中に閉じ込めて、殺害不可能な状況を作る。ただ殺すことなら凶器を使えばできるかもしれないが、密室殺人は単なる人殺し以上に複雑な計画と準備がいる。自分にはそこまでできないことがわかっていた。だから密室殺人を選んだ。最初からできないから」 「……どうだろう、わかんない」 「まあいいさ。本心は、きっとみんなと話し合うことで、きっと理解できる」 くるりと彼女に背を向けると、屋上出入り口へと声をかけた。 「もういいぞ。出て来てくれ」 「えっ……まさか」 「ああ」 出入り口に人の気配があった。出てくるのに躊躇いがあるのか中々出てこなかったが、やがて観念してその姿を表す。 重たい足取りで進む彼女の姿に、土浦女子が困惑した声で言った。 「なんでここに……十八さんが?」 「ホントだよ! なに今の振り! 絶対あれご本人登場のやつじゃん! いま土浦っち絶対美作ちんとかいいんちょが来ると思ってたよ! ものすごい出難かったんだからね!」 黒髪を左右に束ね、相変わらず目の下に星のマークがつけたベルは、不満たらたらだった。 「だが彼女たちに待っていてもらうよう頼んでくれたんだろう?」 「教室で根! まあそりゃそーだけどさ、わたしのこともーちょい考えてくれてもいいじゃん。せっかく土浦っちが本音を話したんだし、こっそり聞かせた方が早かったんじゃないの?」 「盗み聞きは良くない」 「うわー、二時間ドラマ全否定だよ。それなしには成り立たないんだよ? ああいうドラマって」 思いきり眉を顰めたベルから視線を戻し、土浦女子に向き直る。 「それに、やはり本音であろうがなかろうが、本人が伝えるべきと決意してから伝えるべきだ。土浦女子」 「は、はい」 「彼女も昔、壁の中にいた」 「えっ?」 土浦女子が困惑する。何を話しだしたのか気づいたのか、ベルも眉を顰めた。 「自分一人ではとても開くことのできない壁の中に閉じ込められていた。貴女と同じように、一人で怖い思いをしていた。だが、貴女は違う。 貴女には、外から開けようとしてくれる三人の良き友がいる」 「あっ……」 土浦女子が俯く。胸の前でぎゅっと手を握り合わせた。 「行くんだ。彼女たちが待っている」 彼女は怯えを抑え込むように何度も深呼吸して、やがて顔を上げた。前髪の隙間から微かに覗いた瞳からは、決意が感じ取れる。 これなら、きっと大丈夫。 「ありがとうございました、千本桜さん! 行ってきます! 十八さんも、ありがとう!」 「フン、わたしはまだ許したわけじゃないからね。まだ君のこと嫌いなままだし」 「それでも、ありがとうございました!」 そう言い残すと、階段を駆け下りていく音が徐々に遠ざかって行った。 また部活動のかけ声と、吹奏楽部の練習の音だけが響く屋上が戻ってくる。 「自分からも礼を言う。手伝ってくれて助かった」 「ハル君にはいつも助けられてるからね。ハル君のためなら何でもするよ」 ニヒヒと笑うベルに、ようやくため込んでいた息を吐き出した。テストも密室殺人も一区切り。肩も心も軽くなった気がする。 「でもま結局、密室殺人はやらなかったんだね」 「犯罪は良くない」 「本当はできなかったんじゃないの? 密室殺人なんてさ」 「できない?」 ニヤニヤしながら、ベルが口元を手で隠す。 「まー『無理』かもねー、ハル君じゃ。なんたって『不可能』殺人だからねー、『できない』よねー、あっ、別にバカにしてるわけじゃないよ? ただ『できないんだなー』って思っただけだから」 「無理ではない。ちゃんと考えてできている。ただ実行する必要がなかっただけだ」 「あーはいはい口だけならなんとでもー」 「いいだろう、ならば証明してやる!」 「アハハハ! まだ気づいてなかったのかな? そのナイフは刃が引っ込む奴で痛っ! ちょ、叩くのやめて! 普通に痛い!」 逃げるベルを引っ込むナイフ片手に追いかけまわす。口ではブーブー言いながらも、ベルは楽しそうだった。 そして自分も、心安らかに感じているのを自覚する。 なおナイフで追いかけまわすところを生徒に見られ、『校内に不審者が現れました』という校内放送が流れて学校はとてつもない緊張感に包まれた。 職員室に自ら出向いて事なきを得たものの、斉藤先生のため息の深さにはいくら謝罪の言葉を尽くしても足りないほどだった。 エピローグ 「ですわ!」 二学期最後の終業式、ホームルームも終わった放課後に、一つの机を囲んで四人の女子生徒が楽しそうにしていた。 『ですわ』しか言わない生徒会長美作・エーデルバイス・美波、学年トップの秀才委員長成田綾女、風紀委員長にして陸上部の助っ人エース遠山友理奈、そして三人と比べて随分地味で小柄な少女、土浦景子。 楽しげで結構なことだが、何をしているのか皆目見当がつかない。水を差さないようタイミングを計り、和の中に入り込む。 「取り込み中申し訳ない。これは何をしているのだ?」 「知らない? 『美作・エーデルバイス・美波ゲーム』」 遠山女子が不思議そうに言った。まったくの初耳である。やれやれ、とばかりにため息をついた成田委員長に代わり、土浦女子が説明してくれた。 「え、えと、美作さんが『ですわ』って言って、何を言っているのかみんなで当てるゲーム、です。私は、まだ、全然だけど」 「いいえ、土浦さんは良い線行っています。もう少し低音を聞き取れるようになればそこからは早いですよ。もうひと踏ん張りです」 「はいっ!」 嬉しそうに土浦女子が頷いた。低音てなんだ。 困惑する自分に、遠山女子が「やってみるかい?」とスペースを空けてくれる。近くの椅子を持ってきて、ひとまず参加してみる。 「自分は今のところさっぱりわからないが、遠山女子はわかるのか?」 「実はアタシも完璧にってわけじゃないんだ。まだ美作二級だからな」 美作二級てなんだ。 「二級から先は難しいですからね。まあ国語・英語と第二外国語をマスターすれば自然とわかるようになりますよ。ちなみに私は美作準一級です」 漢検みたいになってきたな。 参加してみたものの、案の定さっぱりわからない。次第にモチベーションも下がってきて、こみ上げてきた欠伸を噛み殺す。 「あら、もうギブアップですか? 今のなんて五級レベルですよ? まったく期待外れですね、こんなことも『できない』なんて」 「できない?」 ピクリと眉が動く。 「できないことはない。ただちょっとやる気がなかっただけだ。見ていろ、すぐに準一級まで追いついてやる」 「ふふふ、面白い、やれるものならやってみるがいい!」 ノリノリの成田委員長に、「はは、聞いてた通り、本当にできないって言うとすぐ熱くなるんだね」と遠山女子が笑う。「ですわ」と美作会長も続いた。 「でも、はい。熱くなる前にクールダウンの飴」 「はむ。美味し。かたじけない」 やんわりとヒートアップしていた自分を諫めてくれた。この人、ほんとうに人の扱い方というか、接し方上手いなあ、と思う。 「先にね、言っときたいことがあってさ」 「ふむ」 「ありがとうね。色々とさ」 照れくさそうに笑いながら、遠山女子が言った。 「うん、景春くんのおかげで、みんなと仲良くできるようになりました。私からも、ありがとうございました」 「えっ?」 「おっ?」 「ですわ?」 「えっ?」とみんなの疑問符に土浦女子も疑問符で首を傾げる。そう言えば、いつの間にか呼び方を変わったな。 とはいえ、それ以上彼女に何か言うこともなく、成田委員長が話を戻す。 「ふん、まあ、多少なりとも感謝はしています」 「ですわ!」 「自分にできることをしただけだ。感謝してもらうようなことではない」 それより、とかねてよりずっと疑問に思っていたことを問う。 「自分はどうも成田委員長に嫌われている様なのだが、何か失礼なことでもしたことがあるのだろうか。もしそうなら謝罪したいのだが」 自分を除く四人が顔を見合わせる。「言ってなかったのか?」と遠山女子が成田委員長に確かめると、口元に小さく笑みを刻んで教えてくれた。 「前に君が一科目だけだが試験で一番になったことがあっただろう? そのとき、アヤメは自己採点でケアレスミスに気づいたそうなんだけど、たかが一点と思って楽観視してたんだよ。で、結果その一点の差で負けて、次のテストでリベンジするーって、それはもう燃えに燃えてたわけ。ところが次のテストで君は満点どころが上位にも名前がないってんで、アヤメは消化不良感を今でも抱えているというわけさ」 「ふん、たった一度、一科目だけ勝ち逃げするような卑怯者に興味はありません」 「なんて言ってるけどな、あのときのアヤメは見物だったよ」 「ちょっと友理奈?」 「なんたってぶっちぎりトップだったアヤメが初めて学内の試験で負けたわけでさ、『ようやく私は真のライバルを見つけたようだわ。そう、彼というライバルをね』とか、『彼の存在が私を更なる高みへと押し上げることでしょう』とかね。もうアタシは笑いをこらえるのに必死で必死で」 「友理奈! ありもしない発言をねつ造しないでいただけるかしら! ねえ土浦さん!?」 「肩透かしの後の成田さんも面白かったですよ、『所詮、覇道は一人でしか進めぬのだな……これが王たるものの宿命か』とか言ってましたし」 「土浦さん!?」 「ですわ!」 「きゃあああああああああああ!!!!! それだけは言わないでー!」 とうとう真っ赤になった両耳を塞いで蹲ってしまう。いったい何を言ったのだろう。 気にはなったものの、そろそろ時間だ。 「ハル君! 世界一のプリティーガール、マジックベルちゃんがお呼びだよ! 駆け足で来るんだよ!」 「ぷりていがーるが呼んでいるので、すまないがここで失礼する。『美作・エーデルバイス・美波ゲーム』はまたいずれ挑戦させてもらいたい」 「もちろんだ。嫌だって言ってもアタシが引っ張ってくし」 「ですわ!」 四人と別れて、言われた通りベルのところまで急ぐ。 ぶすうっとした顔のベルは、合流するなり「文春砲!」と脇腹を突いてきた。 「物理攻撃は良くない」 「ふん、浮気者には当然の報いなのさ」 「友と楽しく語らっていただけだろう」 やれやれ、とため息を漏らし、彼女の隣を歩く。今回の一件から美作会長らとも親しく話すようになったのだが、反比例するようにベルはふくれっ面が多くなった。 「ねーハル君」 「どうした」 「密室殺人の件は結局お流れになっちゃったじゃん?」 「そうだな」 「実は消化不良だったりする?」 できないと言われればやりたくなるのが自分の性分だ。それは否定しないし、する気もない。 だからこそ、結果として『できなかった』ことにスッキリしないのは事実だ。 「密室はともかく、殺人自体はするつもりなかった。結果的に全部が丸く収まったのなら、それでいいさ」 「でも、すっきりはしてない」 でしょ? と重ねられると言い淀んでしまう。 「仕方あるまい。こればかりはダメだ。できない。不可能」 「あららハル君らしくもない。せっかくわたしが良い話を持ってきたのに」 「良い話とは?」 「ハル君の考えた密室殺人を実現する必殺プランさ。ハル君、わたしが何部に所属していたか忘れたのかい?」 「演劇部だろう……はっ!」 パーンと手を叩いて、ベルが声を大きくする。 「そう! ちょうど次に何をやろうかって話になっててね、自分たちで考えた密室殺人をテーマにしたら面白いんじゃないかって思ってたんだ。どう? 悪い話じゃないと思うけど」 実際に殺人事件を起こすのは嫌だが、創作としてなら問題ない。創作物の一つとして、考えた密室殺人事件を実現し、かつ披露する。 面白い。 「いいな」 「でしょ!? じゃあオーケーってことでいいかな?」 「うむ。よろしく頼む」 「じゃあ早速冬休みから練習入りたいから、脚本よろしくね。あとトリックとか必要な小道具のリストアップ、そうそう明日もう打ち合わせするから、予定空けといてね」 「待て待て待て待て」 おかしいおかしい。急すぎる。そもそも脚本? 書いたこともないぞそんなもの。 原案とかちょっと協力するくらいだと思っていたのに、がっつり関わってしまっているじゃないか。 「話が早すぎる。それに脚本なら演劇部にちゃんとした人がいるだろう。その人に任せるべきでは」 「普通は原作があって、ちょっとアレンジする程度だからね。今回みたいなオリジナルの脚本なんて誰も書いたことないよ。それなら今回のアイデアを一番よく知るハル君がやるべきでしょ?」 「しかしいくらなんでも急だ。流石にそれは」 「できない?」 ニッコリ笑ってベルが言った。 「そっかー、いくらハル君でも『無理』かー、そうだよね、急だったもんね~、ハル君ならできると信じてたけど、どうしても『不可能』って言うなら仕方ないよねー、だって『できない』んだから」 「無理じゃない! 不可能などない! 自分にできないことなどない!」 完全に言わされていることはわかったが、ここで引いては男が廃る。 良いだろう、男の本気の一夜漬け、目に物見せてくれようか。 「はーい言質いただきましたー。これからよろしくね、ハル君!」 それにこんなにも嬉しそうなベルの顔を見たら、見切り発車だろうが見栄っ張りだろうが後悔しない。 「ところでベル、タイトルについては自分が決めて良いのか?」 「いいんじゃない? あんまり変なのだったら却下するけど」 「それなりに自信がある」 「じゃあどうぞ」 「土浦女子の一件が割と参考になったからな。もちろん細かな設定は変更するが、あれをベースにして、こういうのはどうだろう」 「ふむふむ」 学校を舞台にした、密室殺人というテーマの物語。その両方がわかりやすく、かつちょっとしたパロディっぽいタイトルを、一呼吸おいて口にする。 密室殺人はホームルームの後に |
燕小太郎 2018年01月02日 22時57分19秒 公開 ■この作品の著作権は 燕小太郎 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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