人間館の殺魚人事件 |
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「――よってここに我が領土を、レーツェル国に譲り渡し、わが国は消滅する」 戦争に負けた。無残な負け方だった。俺たちがいる南方戦線は突破され、首都は空爆されて滅んだ。 飛行機なんて時代錯誤なものがまだあったとは。逆に感心してしまう。 捕虜として一ヵ所に集められた俺たちは、元首の敗北宣言をラジオ放送で聞かされた。 熱帯の南方戦線の蒸し暑い環境の中、塹壕に籠り砲撃をやり過ごし、塹壕病に苦しめられた日々は永遠に無駄になったわけだ。 俺はむしろ納得した気分で、額からとめどなく流れ落ちる汗をぬぐった。 「土方隊長、俺たちどうなるんですかね」 一番若い部下が情けない顔で耳打ちしてくる。お互いの顔は泥で汚れていた。俺は疲れたように笑った。 「どうなるってお前、敵さんが俺たちを生かしてくれると思うか? 文字通り居るだけで場所取りだぜ、俺たち」 今の世の中、土地が足りな過ぎて人間の方が邪魔なのだ。 西暦2500年、世界は地球大温暖化で大陸の8割が海中に没した。生き残った人類がやることは一つしかない。残った土地を奪い合って、戦争で敵国の人口を減らし、自国の領土を拡大することだ。作物を育てる土地も、住む土地も足りない。労働力は自国民でこと足りるし、捕虜に食わせる食料はない。 となるなら、わざわざ捕虜を生かす理由もないわけだ。大昔は捕虜の人権とやらに守られて自国に帰れることもできたが、今回の戦争では人口削減が元々の目的である。そして負けて領土はなくなり、帰る国も失った。完全に詰みだ。 俺はむしろ笑って言った。 「まぁ、俺たちはよくやった。天国は満杯になることはないそうだから、あの世に期待しようぜ」 部下は納得いかないのか眉が八の字だ。 「諦めないで下さいよ! そこは『俺がなんとしてでも生かして帰してやる。心配するな』って激励するところでしょ」 「できないことは約束しない主義なんだ、俺」 「たいちょう~」 「ははっ」 空笑いも極まれり。駄々をこねられてもどうしようもないんだからしかたない。俺だって国には家族がいたし、帰れるものなら帰りたい。しかし、一度兵隊に出た以上帰れる保証は皆無だ。この国と戦って負けた兵隊は帰ってこない。ただの噂ならまだしも、本当に一人も帰ってこないのだ。 皆殺しにあってるとしか考えられない。そしておそらく次は俺たちの番だ。 部下の命乞いはするつもりだが、叶えられる見込みは薄いと思っている。 (一番若いこいつだけでも、帰してやりたいんだがな……) 死を避けられないのをわかっているのに、強がって駄々をこねている部下の頭をぐりぐりと撫でた。子犬のようで隊のみんなで随分可愛がってたのだ。 (まぁ、せめて死ぬときは皆一緒にしてもらえるように頼んでみようか。それくらいは許してほしいもんだ) 「なんですか、いきなり~」とぐちゃぐちゃにかき回された髪を庇いながらも、やはり部下の眼には涙が溜まっていた。 □□□ 飲まず食わずであれから1日。 ざっと50人ほど捕虜同士の腰と両手首を縄で縛られたまま数珠繋ぎで歩かされ、連行されたのは白い砂浜と海だった。 こんな時でなかったら泳ぎたいくらいの綺麗なビーチ。ここが処刑場とはいい趣味をしている。 「溺死とは、また古典的な……」 このまま海中まで行進させるつもりかもしれない。全員が繋がれている以上、一人が溺れれば、連鎖的に全員が溺れる。悪辣すぎる。 美しい景色とは裏腹に抱く感慨は、全くもって最悪なものだ。 「隊長、俺苦しいのは嫌ですよ」 後ろから部下がおびえた声で言う。俺だっていやだよ。げんなりとため息も漏れる。一緒に殺してくれという願いは叶えられたものの、よりによって一番苦しい処刑法だとは。覚悟していたとはいえ、部下たちの間にも緊張が走っている。 しかし、妙といえば妙だった。真後ろに繋がれていた副官が耳打ちしてきた。 「気づきましたか隊長。連中、何かを待っているようです」 「あぁ、随分イライラしている」 そこかしこの敵兵たちはしきりに海に目をやり、小声でせわしなく話し合っている。さながら海から来る何かを待っているように。 「捕虜収容船かな」 後ろから窮地に希望を見出したかの如く、期待に満ちた部下の声がした。 (んな訳がない) 敵兵たちの顔色を見ればわかる。勝ったくせに焦燥感に張りつめた面。恐ろしいものを見るように海を見つめる眼差し。 おまけに大っぴらに口に出すのも憚れるのか、小声でこれから来るモノの内緒話を交わしている。 絶対ろくなもんじゃない。 どうせ殺される身だが、いらぬ恐怖を味わうのも御免である。 (サディストの処刑人が船でやってくる、ってオチはやだな) 神様仏様、どうかサディスト野郎に部下たちを拷問させないでください。祈るしかないわが身がもどかしい。海から一体何が来るんだ。 ……答えは一時間後に分かった。 □□□ その何かを待つ間、灼熱の砂浜に座らされて一時間。 すでに拷問である。ケツに火が付きそうだ。 そんな具合に熱中症に眼がやられつつあったので、最初は見間違いかと思ったのだ。遠くの波間に巨大なイガグリがひょこんと見えた気がした。 (ン?) 何度か目をこするも……気のせいじゃなかった。 瞬きする間にイガグリが二つになり、三つになり、四つになり……さらに増えながら、すさまじい勢いで波を弾き飛ばしながらビーチに突進してきたのだ! 桃太郎の桃のごとく、どんぶらこと。ただ勢いも大きさも比べ物にならない。 イガグリたちのスピードを証明するように、波がかき分けられてすさまじい水柱が立ち、その轟音は耳を覆いたくなるほどだった。縛られているのでそれは叶わなかったが。 恐怖から反射的に立ち上がろうとするも、繋がれた部下たちもバラバラのタイミングで立とうとするもので、結局全員がもんどりうって倒れ込んだ。 敵兵たちはそれを咎めなかった。なぜなら、敵兵たちも度肝を抜かれていたからだ。 イガグリたちは、砂浜にすさまじい勢いで揚陸した。ドガーンと大地が揺れた。衝撃にビーチの砂が舞い上がり、辺りは一面もうもうとした砂で目もあけられないありさまだ。 しばし、せき込む。何が何だか全くわからなかった。 砂がようやく落ち着き、見えたものと言ったら砂浜に鎮座する、背丈の三倍はあろうかという、やはりイガグリだった。 □□□ しかしよくよく見ればイガグリはカニだった。無数のトゲトゲに覆われたカニ型揚陸艦のようだった。 自分でも何をいっているのかわからない。こんな兵器は聞いたこともなかった。 敵兵も部下たちも開いた口が塞がらないようだった。 カニ型揚陸艦の腹がスライドしてぞろぞろとナニカが出てきた。そいつらもまたトゲトゲの甲殻で覆われた人型の生物だった。 奴は親切にも腰の抜けた敵兵に手を差し伸べると、立たせてやり、何事かささやいたようだった。甲殻じみた口がガチャガチャと開閉する。 しゃべれるのか。 話が付いたのか、奴らはぐるりとこちらと向いた。ぞわりと背筋が凍る。 甲殻類の人間? たちはザッザッと無機質に砂を踏みしめて、俺たちをぐるりと取り囲んだ。 部下たちも異様な雰囲気におびえて、背中合わせに縮こまっている。 奴らのうち一人が口を開いた。 「盟約ニヨリ、キミタチの所有権ハ、我々に移ッタ。我らが海ノ、人間館ニ、ゴ招待シヨウ」 人間館? なんだそれは。 質問は許されなかった。それ以降は一言も発せられず、奴らは無言で距離を詰め、腕をひっつかんできた。抵抗は無意味だった。力が強すぎる。なすすべもなく引き立てられ、イガグリ型揚陸艦に放り込まれた。 □□□ イガイガに覆われた巨大カニ型揚陸艦。 その内部はただの船というには狭苦しく、冷たい雰囲気だ。そしてとげに覆われているせいで、普通の船にあるべき甲板がない。おかしい……。 俺たち捕虜が閉じ込められた船室は、窓ひとつあるだけで冷たい鉄の隔壁に囲まれていた。なんの余裕か、手と腰の縄は外されている。 『捕虜ノ収容ヲ確認シタ。潜航準備ニカカレ』 艦内放送が船にこだまする。 (……おいおい、潜航ってことは、これが話に聞く“潜水艦”か?) ならば甲板がないのも納得できる。 潜水艦といえば、世界が海中にほぼ沈んだ頃の第四次世界大戦で大活躍した潜航する船だ。当時の主戦場は海だった。ただでさえ農耕地が不足しはじめた時代。陸の農耕地が戦火で使えなくなっては、戦争をして領地をぶんどる意味がない。だから戦火は海で交わされた。船も潜水艦も活躍華々しい時代だった。 だがまぁ、前線で大活躍したということは、戦争中にかなり破壊されたということだ。今では、潜水艦を作る資材も困窮し、潜水艦は老兵の昔語りにでてくる大昔の兵器といった印象だ。 それはともかく――。 「奴らは何者で、俺たちをどうするつもりだ?」 潜航し、窓の外がすっかり海中の群青に染まったころ、ポツリと独りごちた。部下たちは、海の中が珍しいらしく窓に群がっている。 おそらくここまでして俺たちを殺すつもりは無いだろうが、俺たちは甲殻類のバケモノたちにとってどんな利用価値があるんだろう。 (例えば、焼いて食っちまうとか? 溺れる様を見て楽しむとか?) 考えても考えても、恐ろしいことばかり頭に浮かんで疲れてきた。 ――と、そのとき扉が開いた。噂をすれば影だ。 「諸君ノ処遇ヲ伝えに来たが、お邪魔ダッタカナ?」 (……嫌味か?) そりゃあ、小さな窓に鈴なりに飛びついている部下たちは見ものだろう。まるでおのぼりさんだ。いや、潜航しているからおさがりさんかもしれない。……何を考えているんだ俺は。 「お前ら……全員整列!」 命令は雑だが、全員従って三列にならんだ。俺は習い性で人数まで確認して、伝令者に向き直った。 「これでいいな。まず処遇の前に聞きたいんだが、君たちは何者だ?」 「アア、コレハ失礼。マズハ名乗ロウ」 そう言って、甲殻類の奴は、ずるりと甲殻を脱いだ。……だ、脱皮?! 殻を脱ぎ捨てるようにして現れたのは、――魚と人間の中間のような生き物だった。 人型だが、ぬるりと湿った肌は鱗で覆われ、光の反射と共に綺麗な模様をうき立たせた。顔立ちは魚より人間に近いが、それでも顎のラインに切り込みがあり、恐らくそこがえらなのだろう。服は着ていないが、体表のうろこ模様が服に見えなくもない。オレンジと白の太いしましま模様だ。 部下たちは絶句したあと、一斉に距離をとり、ざわざわと驚きの声を上げた。 使者は驚きの反応が嬉しかったらしく、にっこりした。 「ああ、すっきりした。陸の大気圧に抵抗するために、パワード甲殻スーツを着ているんだが、なにぶん窮屈でね。どうだい驚いただろう?」 いきなり流暢になった。そうか、カタコトだったのは甲殻スーツ越しにしゃべっていたからか。現実逃避でずれたことを考えてしまう。 「改めて名乗ろう。我々は見ての通り魚人だ。数百年前の人間が遺伝子操作で作った、魚と人間のハイブリッド種だ。海の底に沈んだ、人間たちの遺産に拠って文明を築いている。まぁ建物は私たちを作った人間が、海中用に改修したものを使ってるがね」 わかりやすい説明だけど、なに、その、なんだって? 魚人? 「そんな話聞いたことないぞ……。河童みたいに架空の存在じゃないのか?」 「実物を目の前にして現実逃避とは恐れ入る。私は本物だ。仲間も、そら、窓の外を泳いでいるよ」 全員、弾かれるように窓を見る。見慣れた普通の魚の群れに交じって、赤い鱗の魚人たちが気持ちよさそうに泳いでいた。あ、こっちに手を振っている。 「彼女達は鯛種だね。時折浅瀬まで散歩に出るんだ。ちなみに私はカクレクマノミ種だ。大昔、ただの魚だった時分は人間に水族館で観賞用に飼われていたようだが、魚人の私は逆に人間館の館長をしている」 「人間館?」 それは潜水艦に連れ込まれるときにも聞いた言葉だ。 “人間館ニ、ゴ招待シヨウ”なんて言ってたから、この船もそこに向かっているんだろうが、……不吉な響きだ。一体何なんだ、そこは。 怪訝な顔から疑問を察したのか、魚人はあっさりと告げた。 「人間館とは、絶滅の危険がある人間を保護、展示、繁殖するための施設だ。君たちは戦争で数を減らしすぎたんだ。保護が必要なほどに。これから君たちは、海底にある人間館で保護される」 「はぁ……ッ?!」 「なに、地上より餌には事欠かないし、一人一空気槽だから人口過密の殺し合いにもならない。飼育係もつくし、至れり尽くせりだ」 熱帯魚野郎は、いかにもいい話だと言わんばかりに得意気だ。 (黙って聞いていれば――!) せっかく生き残ったのに、今度は魚に飼い殺しにされるだと? そんなの許せるか! 「ふざけんな馬鹿野郎」 俺は怒りのあまり、奴のぬめる皮膚を引っ掴んで投げ飛ばそうとした。 しかし、逆に投げ飛ばされたのは俺だった。視界がぐるりと回り、ダン! と背中に鋭い痛みが走る。 隊長! と部下たちが叫ぶも、俺を人質に取られているからか動けないようだ。こいつ、手慣れている……! 「我々の人間調達先は、君たちのような軍人種の捕虜なんだ。こちらに引き渡された途端に暴れる者も多くて、我々は対人戦闘術を取得した。それに、ただでさえ栄養失調気味でふらついている君たちには負ける気はしないね」 「はっ、どうりっで、捕虜たちが一人も帰ってこないわけだ……っ」 「全員、食料と引き換えに我々に売られたよ。抵抗も無駄だった。可哀相にね」 いかにも同情していますと言いたげな口調に、さらに憤ったが、関節を極められて動けやしない。 ならばと、部下達に一斉にとびかかるように目で命じてみるも、奴は機先を制するように口を開いた。 「数で掛かればこの潜水艦を占拠できると思うかい? それは無理だな。そんなことになれば、我々はこの船を解体する。この船は人間に空気を吸わせながら運搬するための船だ。今、船が分解したら、君たちはおぼれ死ぬ。我々は海中でも息ができるから問題ないが」 ……嘘じゃなさそうだ。俺は目を閉じた。くそが、全部夢ならいいのに。しかし、背中に感じる床の冷たさがこれが現実だと告げていた。 「君は一番調教のし甲斐がありそうだね。ショーが楽しみだ」 この上何をさせる気だこいつらは……。 絶対に逃げてやる。 □□□ 「ねぇ、ママ。この人間すごい凶悪な顔してるよ」 「あらほんと。お腹が痛いのかしらね」 誰が凶悪な顔だ、コラ。しかめっ面で厚さ30㎝のガラス越しに幼い魚人とその親を睨んだ。 俺は見世物にされていた。 奴らが“人間館”と言った施設に移されて3日。 館長が言ったとおりに、部下たちとは離れ離れで、一人に一つのガラス張りの空気槽(空気で満たされた水槽、とでもいえばいいか)に閉じ込められた。もちろんここは空気はあるが、ガラスの外は建物の中とはいえ海中である。勿論密室だ(じゃないと海水でおぼれ死ぬ)。ちなみに飼育員が海中と空気槽を出入りする時は、その間にある小部屋で脱水や注水を行い、空気槽に水が入らないようになっている。 客の魚人たちは建物の中を泳ぎながら、等間隔に並べられた空気槽に入った人間を観察する仕組みらしい。 しかし、魚人たちがこの施設を作ったかと思えばそうではない。海中にある大抵の建物は人間が作ったものを再利用しているらしい。人間館も例外じゃない。 そして俺はこの人間館のつくりに、非常に見覚えがあった。 「――元々は水族館じゃねぇか」 数少ない娯楽施設だが、陸上には今だにある。水族館とは水槽に展示された魚たちを人間が鑑賞する施設だ。俺も小さい頃にはよく行った。 それが海中に没して、今度は魚人が人間を観察する施設になった。つまり、人間館とは見る者と見られるものが逆転した施設ということになる。とんだ皮肉である。 さて、水族館のコンセプトは『種の保存・生物の生態教育・環境調査・レクリエーション』だが、人間館もそのコンセプトを受け継いでいるらしい。レクリエーションというのは、水族館でいうイルカやアシカのショーだが、館長の口ぶりだとこれを人間にもやらせるらしい。何考えてるんだあの男。 そして今日の営業は終了し、これから、そのショーの調教師が来る。やめてくれ。 嫌々待っているとドカーンと扉が開いた。 やってきた魚人は黄色い体に青い縦縞模様、……派手だ。 「というわけで、貴方の飼育係兼調教師のアゼリアです。チョウチョウウオの魚人で夢は小説家! 一緒に頑張りましょうねー土方さん。目指せ人間館のナンバーワン!」 そしていきなり俺の手を掴んで、ぶんぶんと握手してきた。 「離せ! 問答無用か! 恐ろしい奴だな」 何度も言うが恐ろしい力である。俺は渾身の力で振りほどいた。 アゼリア? は口を尖らせた。 「えー、敵愾心バリバリー。調教は信頼関係がないとできませんよ。僕を信頼して、ほら」 そういって、両手を広げる。ハグを求めているのか、強引な奴である。俺は呆れて言った。 「あのな、何をさせられるのかもわからないのに信頼なんかできるわけ無いだろ」 「あ、そうか。来たばかりの人間は人間館の事何も知りませんよね。じゃあ説明しますけど、僕らの目的は種の保存と生態教育と……」 「それは知ってる。だけど、レクリエーションのショーってなんだ。お前はそれを俺にやらせるために調教しにきたんだろう」 「いやん、いきなりそれを聞いちゃいますか。もっとお話ししたいのに、もう……直接的なお・か・た」 ツンと、鼻先をつつかれる。俺の拳が唸りを上げそうになった。 もちろんたやすく受け止められたが。……本で。 「あーこれはせっかちさんですねぇ。飼育日誌に書いておかなくちゃ。……じゃあ説明しますけど土方さんにやってもらうのはコレです」 これ、と突きつけられたのもやっぱり本である。 「これに書いてあることをやれってか?」 しかし、表紙は白紙。ペラペラとめくるも中身も何も書いていないようだ。 「違いますよ。土方さん、貴方には本を執筆してもらうんです。あとお客さんの前で書いた物語の朗読ショー。ね、楽しそうでしょ?」 「はぁ?」 唖然とした俺の前で、アゼリアは陶然とした顔をした。 「いいですよね、物語。僕ら魚人は、創造性のない生き物でして、創作活動というものが苦手なんです。建物もそうですが、いつも人間が作ったものの再利用ばかりで。人間の図書館なんて娯楽の最上級ですよ。ですが新しい物語を誰も作れないので、僕らは娯楽に飢えている。そこで捕まえた人間たちに色々書いてもらおうということです」 アゼリアはにっこり笑った。 「わかりましたね! じゃ早速書きましょう! まずは原稿用紙10枚の掌編から。さぁビシバシ行きますよー」 そういってアゼリアはルンルンと原稿用紙や机を取りに行ったようだった。 「調教師ってより、編集者じゃねぇか……」 俺の疲れ切ったツッコミは、空気と交じり合ってどこかに消えていったのだった。 □□□ 『えー、マリアナ海溝で迷子になった太郎君は、寅衛門に新しい道具を出してもらいました。“迷子になってる場合かコンチク書~”という秘密地図でした』 ドッと俺の空気槽前で魚人たちが爆笑する。10分で書いた『寅衛門シリーズ』は特に子供に人気で、ショーでは人だかりができるほどだった。しかしこんな手抜きな話でもウケるとは、本当に娯楽が無かったんだなぁとしみじみする。 「いいですよー、土方さん! 人気投票も一位です。このままいけば全部僕の業績になるので、主に僕のために頑張ってください!」 「自己中かよ! そこは嘘でもお客様のためにとか言っとけや」 ほんとどうしようもないな、この調教師は! 「いやそれにしても、好調ですね。他の人間は創作には四苦八苦しているのに。何かコツでもあるんですか?」 アゼリアが手帳片手にわくわくと聞いてくる。 「コツっていうか、テンプレートがあるんだよ。①何か問題が起きる②解決策を考える、③失敗/成功して事態が変化する。これの繰り返しだ」 俺は適当にさらさらと奴の手帳に書いてやる。ちなみにこの紙はストーンペーパーと言って粉にした石でつくった紙らしい。だから耐水性も高く、水中で使っても問題ない。 アゼリアはキラキラした目で手帳を見つめると、テンプレートが書かれた手帳をギューッと抱きしめた。 「僕、これ大事にします! 僕もいつか小説家になりたいので。あ、コピーして他の人間たちに配るのもいいですね。みんな執筆が捗ります」 わっほーいと一目でテンションが上がっている。魚人も可愛いところがあるんだなー、見た目魚だけど。 そういえば、ひとつ気になることがあった。 「なぁ、なんで小説家になりたいんだ? 魚人は創作活動が苦手なんだろ」 アゼリアは小首を傾げて、何でもないように言った。 「んー、僕ってチョウチョウウオの魚人ですけど、両親の種が違くて、生まれた僕は一代限りの交雑種なんですよ。だから子供は残せないんです。でも物語ならいろんな人の心に残るでしょう。だから僕は魚人には絶対になれないっていう“小説家”になろうと奮闘中なんですよ」 ……想像以上に重い理由だった。これは話をそらさずにいられない。 「そ、それは大変だな。その、新しく別なテンプレートもう一つ作ろうか?」 「わーいわーい! ありがとうございます。それもコピーして人間たちに配っちゃいましょう」 よかった、気をそらせたようだ。 アゼリアの喜びようをボ~っとみていたが、一つ気付いた。 (ん? 他の人間たちにも配る?) それは願ったり叶ったりじゃねぇか……。ちょうど部下たちにここを抜け出す相談をしたかったんだ。 俺はいつまでもここにいるつもりは無い。確かに充分に食わせてもらっているが、せっかく生き延びたのに飼い殺しなんて御免である。どうせなら生きるのも死ぬのも陸がいい。 (絶対に陸に戻る。部下と一緒に、だ) 見つめた手のひらを、決意を込めてぎゅっと握り込んだ。 そのためには、アゼリアに気付かれないように部下と連絡をとらなくては。 「なぁ、アゼリア。配れるようにたくさん書くから、紙をくれないか」 「なんと、土方さんが僕に頼み事とは珍しい。んー、これはなんとも気持ちがいい。よし、いいですよ、人間たちの人数分書いてもらいましょう」 しばらくして、アゼリアはストーンペーパーをたくさん持ってきた。しめしめと、内心ほくそ笑んでいるとアゼリアがさらりと言った。 「あ、でも検閲はしますからね。仲間同士で密謀されては困りますんで」 「お、おう……もちろんだ」 俺は引きつった顔で頷いた。当たり前だが、バレないように手段を考えなければ。 俺は首の後ろをさすりながら、天井を見上げた。天井に取り付けられた人間鑑賞用の強いライトが眩しい。……そこで気づいた。 (あ、そうか。これを使って書くか) 部下たちが気付くかは賭けだが、やってやれないことはない。 俺はペンを執った。 □□□ あれから一週間。 結論から言うとバレずに部下と連絡が取れた。 「いやー、文通が大流行りですね。お互いに執筆のノウハウを教え合うのは大変いいことですので、もっとやってください。主に僕の業績のために」 アゼリアは、俺の部下たちから届いた手紙を渡してきて、にこやかに言った。傍目には小説のノウハウのやり取りだが、その文通で部下たちと脱出の相談をしているとは思いもしないようだった。 いくら検閲してもそれらしき文章が見つからないから、信用して積極的な連絡を許可しだしたのだ。それほど創作のノウハウ増えるのが嬉しいらしい。魚人が娯楽に飢えすぎている証拠でもある。 俺はおざなりに頷きながら、寝っ転がって受け取った手紙を天井の光に透かして見た。 行儀が悪いと、アゼリアにも人間館の客の魚人たちにも不評だが、こうしないと、隠された文字が見えないんだからしかたない。 紙を光にかざすと、紙に開けられた微小な穴が文字として浮かび上がってきた。そう、ペン先で紙に穴を開け、光に透かさないと見えない文字を書いたのだ。傍目にはただの小説ノウハウ集にしか見えない手紙も、これで立派な密謀書である。 魚人たちは魚の習性を引きずっているのか、強い光を直視することができない。例え、人間館の照明でも。だから光に透かさないと見えないこの文字は、バレずに済んだ。丁度人間でいう太陽を直視できないようなものだろうか。 寝っ転がって読んだ副官からの手紙に、俺は眉をしかめた。 (想像以上に、ここに残るって奴らが多いな……) 空腹の苦しさとと戦争の苛酷さが想像以上に脱出の気力を萎えさせているらしい。 確かにここでは武器を取らなくていいし、ひもじい思いをしなくてもいいけど……本当にそれでいいのか? そこに自由はないんだぞ。海の底でただ肥えさせられ、朽ちていく気か。 (……まぁ、残るって奴を無理やり連れて行くわけにはいかないか) それに確実に脱出できるってわけでもないのに、部下の命を懸けさせるわけにはいかない。 まずは誰かが脱出の実績を作る。一人ができれば、皆できるって自信を持てるだろう。なら俺が先陣を切らなくては。隊長として最後の役目だ。 さて、手紙にはもう一つ、気になることが書いてあった。 (予言者の『河童』? ……なんだそりゃ) 副官がいうには、文通が流行ったころに作られ、人間たちの間で参考にされている辞書の著者の名前だという。誰でも貸し借りできる辞書だが、俺の手紙を見た部下がためしに辞書を透かしてみたところ、針で穴を開けて書いた文字があった。 ――それも、人間館で起きる未来の出来事が書いてあったという。 副官の手紙の最後には、その辞書に書いてあったらしい明日の入場者数が書かれていた。これが当たれば、予言書は本物と言うことだ。 俺は明日を待つことにした。 □□□ 次の日、営業終了直後。 机に向かって明日のショーの分の原稿を書きながら、俺は何気なさを装って聞いてみた。 「アゼリア。今日の入場者数何人だ?」 同じく頭を掻きむしりながら自分の小説の原稿を書いていたアゼリアが、不思議そうに答える。 「何ですいきなり。ええっと、1523人ですよ。それが?」 「いや、ありがとう」 礼を言って原稿に向かったものの、ペン先に力が入らない。入場者数が当たってたのだ。とんでもないことだぞ、これは。 (予言の書、本物だったのかよ……) だとすると相当まずい。 副官の手紙によれば、あと3日後に『魚人の客が毒で死ぬ』らしい。 これも予言の辞書に書いてあったことだ。うまくいけば、これを機に逃げられるかもしれないが、3日間では準備期間が少な過ぎる。 いや、あんな如何にも怪しい予言、外れるかもしれない。また次の機会を狙うか? さてどうする。 「あの~、深刻な顔しているところ悪いんですけど、僕の話聞いてもらえます?」 「あん? 何だよ」 机に座ったまま振り返ると、原稿は諦めたらしいアゼリアが恐る恐るといった調子で話しかけてきた。 「そろそろ土方さんも、人間館に慣れてきたみたいだし、次の段階に進もうと思いまして……」 「次の段階?」 俺が怪訝そうな顔で聞き返すと、アゼリアはやっぱりと肩を落とした。 「いい加減忘れちゃったかと思ったんですが、案の定ですか。まぁいいです。人間館のお役目の一つ、『種の繁殖』について、そろそろだと思いましてね!」 「はぁ?!」 と怖い顔をしてみたが、内心思い出してきた。人間館のコンセプトは『種の保存・生物の生態教育・環境調査・レクリエーション』。種の保存といえば、繁殖で、つまりは……。 「お、お断りだ! いくら軍に居て女日照りだったとはいえ、衆人環視のなかまぐわう性癖なんかねぇぞ!」 動物園だろうが水族館だろうが、生態観察の一環として交尾は観察され記録されていたはずだ。人間館も例外じゃないかもしれない。 けれどもアゼリアはなだめるように言った。 「まぁまぁ、そう言うと思って記録も観察もしないことになってます。土方さんは、たくましい殿方と一緒になるだけでいいんですよー」 ン? 今聞き捨てならない台詞が……。 「まて、……殿方? 俺は男とまぐわう羽目になるのか?!」 「え、ええ。相手は土方さんよりオスらしい人間なので、流石の土方さんも性転換してメスになるしかない感じですよ、ハイ」 俺は魂の底から吠えた。 「人間は! 性転換しねぇよ!」 えッ!! とアゼリアは飛び上がって驚いた。 「に、人間って性転換しないんですか?!」 その話詳しく! と言わんばかりにネタ帳をめくる手が早い。 「してたまるか! 男に生まれたら一生男だよ!」 「で、でもこの前捕まえたつがいの軍人種はオス同士でしたよ。てっきりどっちかが性転換してメスになるのかと……」 ポンポンと会話をしながら、アゼリアのペンは止まらない。俺はこの話をするか迷った。ぜってーネタにされる。 「……それはあれだ、軍は男所帯で発散先がないからな……」 アゼリアの目がきらりと光る。高速でメモしている! 「はぁ、イルカ種がオス同士で交尾の練習するようなものですかね! 人間も同じなんてたまげたなぁ。僕たちは性転換する種が多いですからてっきり人間もそうなのかと……。道理で繁殖実験が失敗続きなわけです。ちなみに僕も元メスですが、最近オスになりました」 ペンをくるくると回しながら、どや顔するアゼリア。いらん報告だった。俺は一気に疲れた。 「誤解が解けてよかったよ……」 「はぁ、相手はメスしかダメなのかぁ。でもそうすると、困ったことになりますね」 カリカリとネタ帳に今までの話をまとめているアゼリア。気のないセリフだが、猛烈に嫌な予感がした。 「何が」 「今度あなたたち人間を繁殖させるために、いくつかの人間館の人間同士でブリーディングをする計画があがっているんですが、あなたのお相手が……やっぱりオスなんですよ。彼、もうずいぶん前からうちの人間館に婿入りしてまして」 「ちくしょうが! お断りだ!」 「でしょうね。でもこれが断れなくて……。向こうの人間館のメンツもありますし、お見合いだけでもしませんか。相手オスですけど」 俺は、俺の話をまとめるのに夢中で気のない説得をしているアゼリアに、こないだ書いた本をばさっとぶん投げた。 アゼリアは慌てて頭を庇って叫んだ。 「ああっ! カ、カグヤヒメを投げないでください」 「無理やり子供作らせようとするのも腹立つが、男同士なんて鳥肌が立つわ!」 「かといって、各地の人間館にいる人間は全員オスなんですよ。主な人間の仕入れ先は戦争の捕虜になった軍人種ですからね。人間の軍人種はオスしかいないのは、あなたも知ってるでしょ」 宥めるような口調だが、どうにもならないことをどうにかしようってのが間違ってる。 「だからって男同士で何がどうなるっていうんだよ!」 「……( ゚д゚)ハッ! あなたが男の娘になれば、あるいは……!」 いかにもいいこと考えました! と言わんばかりに生き生きした顔をするアゼリア。俺は高速でつっこんだ。 「名案みたいな顔はヤメロ! あれはフィクションだ! 偏った読書遍歴してんじゃねぇよ!」 「ワレワレノカガクリョクヲ、アマクミテハイケナイ」 「なぜカタコトになったし。……や、やめろ、じりじりと近づくな。アッ――!」 ……ジーザス。 □□□ 3日後。結局抵抗しても無駄だった。 俺は頭の上に白いヴェールを乗せられて、白いシャツとキュロットスカートに着替えさせられた。白づくめって結婚式の白無垢かよ。雑な女装である。男の娘だかお見合いだかなんだか知らねぇけどこれは無い。自然と悪態が口をついた。 「くそ、こんな格好させやがって。お婿に行けねぇじゃねぇか」 アゼリアはあっけらかんとして言った。 「いや嫁に行くんですよ、土方さん。どうしたんです今日は。イライラしちゃって」 「だから嫁自体がおかしいって……いや、何でもねえよ。それよりお前は俺の女装を小説に取り入れようとするのをやめろ」 油断も隙もなくネタ帳片手に、俺の恰好をさらさらと描写しているアゼリアに釘を刺した。 ため息が漏れる。予言の書に書かれた『毒殺の日』は今日なのに、何も手を打てなかった。時間が無さ過ぎたのだ。 いや、一応脱出のための道具はできたのだ。ストーンペーパーで作ったアクアラング。防水性は抜群。これでかなり息が続くと思う。小さく折りたたんで隠して持ち運べるから便利だ。 ……が、脱出の機会がなければ無用の長物である。 (何やってるんだ俺は。せっかくのチャンスなのに、みすみす逃しちまうとは……。しょうがねぇ、次の機会を待つか) 後悔するもどうしようもなく。こうなったらひとまず脱出は置いておいて、差し迫る問題の方を解決しようと気合を入れなおした。 ……つまりは、男とお見合い事件の方だ。 □□□ 出会いは強烈だった。 見合い相手だと紹介された男は見覚えのあるやつで。驚きの声を上げる間もなく、そいつからいきなり右ストレートが飛んできた。辛うじて避けるものの、拳圧でヴェールが吹っ飛ぶ。 見合い相手――がっしりとした筋肉のついた元敵兵――ギルキスはにやりと獰猛な笑みを浮かべた。 「よう、元気そうじゃねぇか。土方」 「おい、バーサーカーがなんでここにいやがる」 引きつった顔で当然の疑問を言うと、ギルキスは肩をすくめた。 「貴族の上官ぶん殴ったら売られたんだよ」 こういうやつだ。戦場ではバーサーカーと呼ばれ、その好戦的な暴れ方から敵味方に恐れられた奴だった。上層部に疎まれて売られたというのはいかにもありそうである。 「そうかいそりゃ気の毒に。でも俺まで殴ることないよなぁ」 「そんなの、俺が殴り合いたいだけにきまってるだろ。ここの魚人もまぁまぁやるんだが、感触が魚でいけねぇ。そろそろ人間と殺りあいたいと思ってたところに、ちょうどよくノコノコと。しかも女装までして」 「来たくて来たわけじゃねぇし、着たくて着たわけじゃねぇよ!」 魂の叫びもこいつには届かない。それどころか奴のニヤニヤと拳の調子を確かめる様に、さっそく精神力がガリガリと削られていった。 こんな奴と結婚しろとか正気か? 「お、早速の夫婦喧嘩ですか。御精が出ますね」 全然正気じゃないアゼリアがのんびりとした口調でとんでもないことを言い出す。小説のネタにする気満々な様子にげっそりした。 「お前の眼は節穴か! 出会って秒で殴り合う夫婦がどこにいる?! いやそれ以前に夫婦じゃないし」 「夫婦みたいに息ぴったりだけどなぁ。お知り合いですか?」 「敵軍の隊長だよ! 地上じゃ白兵戦でやり合ってた」 「決着はつかずじまいだったがな。なぁ、こっちはウォーミングアップは済んでるんだ。ここで決着つけようぜ」 軽く構えるギルキス。なんだろう、すごく嫌な予感がする。 「……まて、ウォーミングアップ?」 ギルキスは無言のまま、親指でくいっと部屋の隅を指した。 そこには薄暗がりに魚人が倒れているようで……。アゼリアが呆然と口を開いた。 「え、シャロン? し、死んでる」 シャロンと呼ばれた魚人は髪が針のようになっていた。全体的に四角く、部屋の隅のフィットしている。体表は白地に黒のドット模様で不自然におしゃれだ。 そんなシャロンは、アゼリアの声に反応し、かろうじて上体を起こし―― 「し、死んでないっす。先輩……」 と、一声上げて力尽きた。慌ててアゼリアが駆けつける。 ギルキスは肩をすくめた。 「毎晩ステゴロやってたら限界だったらしく寝た。なかなかいい勝負したってのに、途中で終わってこちとら欲求不満だぜ」 そういって、ギルキスは魚人に向かって白いタオルを投げつけた。 反省するどころか、むしろ不満そうだ。俺としてはぶっ倒れている魚人の方が心配で仕方ない。というか誰だ? 「そいつは?」 「ギルキスさんの飼育係のシャロンです。ハコフグの魚人で毒もちですけどいい奴ですよ」 そう言ってアゼリアは、涙ぐんで手を合わせた。 (可哀想に、こんな筋肉ゴリラにやられて……) 俺も心の底から同情していると、シャロンはやっぱり力の限り上体を起こした。傍らに落ちていたギルキスが投げたタオルで顔を拭うと……妙な事を言い出した。 「だから死んでないっす。……先輩、ギルキスさんがバーサーカー過ぎて、このままじゃ毎日夫婦喧嘩ですよ。僕も土方さんも身が持たないんで、もうち少し穏やかなイベント入れません?」 イベント? 「いや、そういう問題じゃないだろ……」 俺のまっとうなツッコミが光る。だが、アゼリアはまるッと無視した。ネタ帳をパラパラとめくり、逡巡しているようだ。 「まぁ、確かに順番が滅茶苦茶か。普通夫婦喧嘩は結婚の後だしなぁ。……んー、じゃあ先にデートしてきてください。小説のネタ的にそれが正解です」 「はぁ?」 思考が停止する。どうしよう、何を言っているのか全然わからない。なのに二人ときたら、話が通じているようだった。 「ああ、それはいいっすね……。もう一人僕が担当している人間――土方さんの部下――が、今日が朗読会デビューなんですよ。二人で応援してあげてください、ね……」 おいおい冗談じゃねぇぞ……! と止める間もなくギルキスが返事をした。 「おう、じゃあさっさと行こうぜ。デートしたら喧嘩できるんだろ」 お前もまともじゃねぇよ。デートとか何考えてるんだ、ギルキスにシャロンよ。 わいわいと、俺を抜きにまとまりかけている意見を前にして、俺はようやく気付いた。 「どうしよう、まともな奴がひとりもいねぇ……」 とりあえず誰も見ていない隙にキュロットスカートは着替えることにした。どうせ部下の空気槽に移動するために上にウェットスーツ着ることになるだろうが。部下も上官の女装姿とか見たくないだろうし。 ……色々言い訳しつつも、部下に会いに行く気は満々な俺であった。デートは知らん! □□□ 飼われている身なので流石に二人だけのデート(違う!)とはならずに、飼育員二人と部下の応援に駆け付ける事となった。 シャロンは自分が担当している、俺の部下の両肩に手を置いて、熱く激励している。 「大丈夫、君はやればできる子っすからね! 今まで積み上げた研鑽を見せるときっす!」 「はい、シャロンさん! 俺がんばります!!」 「熱血してるねぇ」 「俺の部下がいつの間にかたぶらかされてる……」 「まぁまぁ、嫉妬しないでください土方さん」 いつも可愛がってた部下が魚人になついている様を見るのは、なかなか悔しいものだ。しかもこの部下は、密謀書で陸に戻らないと宣言した奴でもある。想像以上にここの生活に馴染んでいるようだ。……それもまた寂しさを助長させた。 部下は俺を見つけるとパッと顔を明るくして、駆け寄ってきた。 「あ、隊長来てくれたんですね!」 「おう、元気そうで安心したよ。ここでの暮らしはどうだ?」 「毎日楽しいです。命の危険はないし、ご飯もいっぱい食べれるし。あと、俺の作ったお話でみんなが喜んでくれるのが嬉しいんです!」 「……そうか、良かった。お前がいいなら、いいんだ」 「隊長?」 あんなに自分の後をついてきた部下が結局自分とは違う道を行こうとしている。それが予想以上に自分にはショックだった。自然と声が暗くなりかける。 しかし、敵地とはいえ部下の晴れ舞台に水を差す訳にはいかない。俺は緩く首を振って笑った。 「いやなんでもない、頑張れよ」 「じゃあ、行ってきますね! 俺の雄姿を見ててください!」 観客が待っている、空気槽と展示室を隔てるガラスの前に走っていく部下。その背中がふと陸の戦場でみた部下の背中と重なった。 「雄姿ねぇ……そういう勇ましいセリフはせめて戦場で聞きたかったぜ……」 俺は、戦場でぶるぶる震えていた部下を思い出して苦笑いした。 □□□ 部下の朗読会は、俺のお気楽な日常ドタバタコメディとは違っていた。かつての戦場を舞台にした、部下の半自伝的な物語である。砲撃の真に迫った迫力、白兵戦の血潮が猛るような熱を帯びた口調。客席の魚人たちは固唾を飲み、緊迫感に皮膚がピリピリと粟立った。 飼育係のシャロンは耳が聞こえない魚人のためなのか、ガラスの前に立ち、手話で盛り上げている。その動きも、物語を反映したのか大ぶりで、派手である。 小説の勉強になると判断したのか、アゼリアは部下の話を急いで走り書きし始めた。しかし、やはり迫力にのまれているのか手に力が入り過ぎている。二度ほどペン先が潰れてた。 部下の語り口は続く――。 「そこに敵の砲弾が着弾し、味方はバタバタと倒れ……」 204サンディ戦のことだ。俺は懐かしさに目を細めながら、観客たちを見る。エイの魚人やら、鯛の魚人やら――天井までびっしりと詰めかけた客たちは息をするのも忘れたのか、両手を握りしめ口を引き結んでいる。緊張が頂点に達していた。 「血にまみれて土に転がる戦友を助け起こそうとする、一人の男の頭上にまた砲弾が迫り――!」 ドカーン叫んで、シャロンが両手をバンッとガラスに押し当てた。タイミングも最高でビクッと肩が跳ねる。おいおい、こんな手話もあるのか? びっくりしたのか、天井近くにいたエイはうっかり天井に体を打ち付けてしまっている。観客たちもぶわりと一度に後退した。他にもふらつく客もおり、シャロンの演出が凄まじい効果を上げたことは明白だった。 ……だが、 「おい、なんかおかしくねぇか?」 ギルキスが訝し気に言う。 一人の魚人が苦悶して体を痙攣させた。それに驚き駆け寄る魚人たちも喉を抑え苦しみ始める。それが瞬く間に伝染するように、何人も! もがく度に魚人たちの長いひれがふわふわと舞い踊り、まるで半狂乱の舞のようだった。観客達は一瞬でパニックに陥った。 突然の恐慌に部下の朗読が止まり、シャロンもびっくりと目を見開いていた。さすがのアゼリアも慌ててペンを放り投げる。 「お客さんが!」 「早く助けなきゃ!」 俺は、反射的に飛び出そうとするアゼリアとシャロンの腕をつかんで引き留めた。観客の倒れ方に見覚えがあったからだ。 「まて、この倒れ方は毒ガスだ。今行けば巻き込まれるぞ!」 「だって……!」 「防毒班を呼ぶか、海中に毒が拡散して薄まるまで待て!」 俺の指示に、はっとしたシャロンは空気槽内の壁に取り付けられた電話の非常ボタンを押し、受話器で救援を呼んだ。 「今、救急隊を呼んだっす! 防毒班も一緒に!」 「よし! いいか救急隊が到着するまで早まって飛び出したりするなよ! 二次被害は御免だ」 軍の命令じみた迫力に、すっかり二人はのまれたようだった。それでも歯がゆそうにガラス向こうから目を離さない。本当なら今すぐ飛び出したいだろうに……。 ……もう、手遅れかもしれない。ガラス越しの廊下に沈んでいる、色も模様も様々な魚人たちはピクリとも動かず、皆死んでいるように見えた。 俺はふと『魚人の客が毒で死ぬ』という予言を思い出した。 (こういうことだったのか……。それにしても毒なんてどこから……。そして、河童はどうやってこの事件を知ったんだ?) 死んだ魚のぎょろりと濁った眼を思い出しながら、俺はいつまでも動かない魚人たちから目を離せずにいた。 □□□ 救急隊が到着したものの、やはり手遅れだったらしい。唯一の生存者を残して、客たちは全滅した。 警察から告げられた彼らの死因は、まさに驚くべきものだった。 「まさか、全員フグ毒の中毒死とは……」 その場にいたフグ毒の持ち主は一人しかいない。案の定、ハコフグの魚人――シャロンと共犯と目された部下が捕まった。一方の俺たち3人は部下の空気槽に軟禁されている。事情聴取は終わったが、当局も戸惑っているのがわかった。 アゼリアがやりきれないように吐き捨てた。 「なんでシャロン達が捕まるんですか! 絶対おかしいですよ! いつだって毒を出さないように気をつけてましたし、そもそも空気槽のガラス越しにどうやってフグ毒を散布するんですか! 空気槽のガラスの厚さ30㎝もあるのに」 ギルキスがつまらなそうに反駁した。 「と言ってもなぁ。フグの魚人がガラス叩いた途端に、全員フグ毒に倒れるっていかにも怪しいじゃねぇか」 「どっちの味方なんだお前は」 仮にも自分が世話になっている飼育員に対して、なんという言い草か。ため息つきながら冷たい目で見ると、ギルキスはニヤリと笑った。 「俺は面白くなればなんだっていいさ。……そら、早速面白そうなことがきやがった」 その言葉に反応するように扉が開いて、クマノミ館長がやってきた。開口一番とんでもないことを言う。 「君たちに頼みがある。君たちの手でこの謎を解決してほしい」 俺は内心飛び上がった。仮にも素人に推理を任せるか、普通? 「まて、普通そっちで検証するだろ。俺は素人だぞ」 「検証は全部済んだ。が、どうしてもガラス越しに散布した毒の謎が解けない」 「専門家に解けないものが、俺たちに解けるわけが……「あるんだ、それが」」 イライラしているのか、館長が間髪入れずに口を挟む。 「知っていると思うが、我々は創作じみたことに頭が回らない。こんな推理小説みたいな事態は初めてだ。データは全て提供するから、解決に導いてほしい」 「……」 俺のかたくなな視線に屈したのか、館長は急に態度を軟化させて猫なで声で言った。 「そうだ。謎が解けたなら、願いは何でも聞こう」 これはチャンスなのか? 疑わしいものの、俺は抱える願いを口にせずにはいられなかった。 「……なら、捕虜たちの中で希望者は陸に帰してやってくれ。俺たちは自由が欲しい」 ほっとして館長が即座に頷く。 「わかった」 怪しいながらも一応の言質は取った。俺は内心ほっとした。 だが、意外なところから反対の声があがった。ギルキスだ。 「それじゃ困るな。俺はお前に帰ってほしくない」 ああ、と館長が納得したように頷いた。 「夫婦だから?」 これを認めてはならない! 俺は即座に反論する。 「違う!」 対してギルキスは楽しそうにニヤリと笑った。 「違わない、夫婦喧嘩で死ぬまで殴り合う約束がご破算になっちまう。てなわけで、推理対決で俺が勝ったら土方とイチャイチャ夫婦喧嘩デスマッチ(死)だ」 「いや待て。そんなの認められるか!」 俺の必死の制止! だがクマノミ館長は華麗にスルーした。 「じゃあ、二手に分けよう。土方くんが真相を究明したら陸に帰す。ギルキス君が勝てば、土方君は一生人間館の中でギルキス君と夫婦喧嘩(死)だ」 「なっ……?!」 ギルキスのニヤニヤ笑いが一層強くなった。こいつ、楽しんでやがる――! 「じゃそういうことで、早速俺は捜査に入るぜ。向こうで詳しい話を聞かせてくれ」 あっという間に歩いていくギルキス。 「じゃあ、あとは頼んだよ」 競歩の勢いで遠ざかる館長。 「ちょっと、待て――!」 こだまする俺の叫び! 二人はもう消えた後だった。 アゼリアといいシャロンといい、クマノミ館長といい、魚人は人の話を聞かないという常識が、俺の中で確定した瞬間だった。 (あとギルキスも) □□□ 俺たち以外誰もいなくなった部下の空気槽で、アゼリアと顔を見合わせる。 結局俺とアゼリアは自由行動を許され、二人で捜査活動に乗り出すことになった。 「絶対犯人を見つけましょうね! シャロン達の無実を証明するんです!」 ペンを片手に意気込むアゼリアに対して、俺はまだ何かに騙されたような気がしていた。……本当に人間を解放してくれるのだろうか。 「土方さん?」 「ん、いや何でもない」 いかんいかん。約束のことはひとまず置いておこう。たとえ約束がなくても、共犯と目されている部下の疑いを晴らさなきゃいけない。俺は首を振って雑念を追い出した。 「とりあえず、警察側からどんな情報が提供されたんだ?」 アゼリアはメモ帳をパラパラとめくった。 「ええとですね、フグ毒にはいくつか種類がありまして。今回犯行に使われたフグ毒は『パフトキシン』といいます。命の危機を感じたフグの体表から出てくるそうで、われわれ魚人には猛毒です。……その、シャロンもこの毒を持っています」 いきなり幸先の悪い情報に、アゼリアはずーんと沈んだ。そりゃ、犯人と目されているシャロンが犯行に使われた毒を持っていたのだから、これ以上不利な情報はないだろう。だが―― 「でも、シャロンが客席に毒を散布するには、厚さ30㎝のガラスを突破しなければならない。今のところ、この謎を解くことがシャロンの無実を証明することになる」 俺はポンポンと落ち込むアゼリアの頭に手を置いた。 「ひとまず、生き残りに話を聞こう。何か有益な情報があるかもしれない」 アゼリアも頷いた。 「はい、シビレエイの魚人が唯一の生き残りみたいですよ。さっそく病院に行きましょう」 「おう」 で、いつも通り俺だけダイビング装備に身を固める羽目になるんだろうか。この空気槽の外は海だからなぁ。怯えられなければいいが……。 □□□ 見覚えのあるエイだなって思ったら、部下の朗読会で天井付近を泳いでいたエイだった。シャロンのジェスチャーに驚いて天井に体を打ち付けたみたいだが、大丈夫だったのだろうか。 ……それはともかく、俺を見つめる目がこわばっているのは気のせいか。 「き、来てくれてありがとうございます。人間館の方々……」 気のせいじゃなかった。案の定、シビレエイの魚人は怯えていた。なぜって、見たことのない黒い人型――つまり俺が、ごぼごぼと泡を吐きだしながら現れたからに決まっている。人間館の外は海だから、スキューバダイビングの装備をしなければ出られないのだ。そもそも水槽間を移動するときにはいつもこれだが、しかし病院にまで押しかけるにはこの格好は難がある。 「捜査のご協力に感謝します。あ、これは気にしないでください。ただの怪しい置物です」 (断定かよ……!) アゼリアが笑顔全開でシビレエイをなだめた。シビレエイはその笑顔に押されたように頷いた。それでいいのか。 「では早速ですが、あの時何があったのか教えてくれませんか?」 すっかり推理小説に出てくる刑事になりきっているようだ。生き生きとしている。シビレエイの魚人は頬に手をあてて小首を傾げた。 「ええと、ほとんどあなた方が見ていたものと変わりません。飼育員の方が、急にガラスに手をついて驚いたんですが、その後突風が巻き起こってよろめいたんです。毒に倒れたのはその直後でした」 「風?」 「ええ、飼育員の方がガラス越しに能力でも使ったのかと思いましたよ。私の発電器官のように」 そういってシビレエイは胸に手を置いた。そこに発電器官があるらしい。いや、その前に――。 (なんだ能力って……?) 俺の疑問を察したのか、シャロンが振り向いて説明してくれた。 「魚人たちには魚の頃の特性を引き継いでいる者がいるんです。その特性を能力って言ったりします。シビレエイさんの発電能力、シャロンの毒を出す特性も能力の一つです」 なるほどな。俺はわかったとばかりにサムズアップした。さらに水中でも使えるストーンペーパーにさらさらと文字を書いて、シャロンに見せた。 『シャロンは突風を出す能力を持っているのか?』 「いえ、シャロンの能力は毒だけです。それも命の危機にしか使いません」 ……なるほど、謎の突風か。シャロンのジェスチャーに驚いてよろめいたのかと思ったが、どうやら風のせいだったらしい。 ん、海中で風なんか吹くのか? アゼリアに聞いてみる。 「俗称ですよ。水流の事を『風』っていいます。人間の書物に大気の動きの事を『風』と呼ぶと書いてあって、それが流行って定着したんですよ」 そうか、謎の水流……だんだん真相が見えてきた。 俺は今度はシビレエイに向かって、質問を書いた紙を差し出した。 『その水流はどこから来ましたか?』 「どこって……。――からですよ」 俺はその答えに深く頷いた。 なんだ、もう解けたも同然じゃねぇか。 謎の水流。その水流が来た方向。そして人間館でシビレエイがいた場所。シビレエイの発電能力。 俺はアゼリアの肩をとんとんと叩いた。 『行こう。確かめなきゃいけないことができた』 「え、もういいんですか? しょうがないですね。――じゃあ、シビレエイさんどうもありがとうございました。お大事になさってください」 「ええ、ありがとう。捜査頑張ってくださいね」 手を振るシビレエイに見送られながら、俺とアゼリアは病院を後にした。 それにしても、小説家を目指す者の血が騒ぐのか、アゼリアはこの事件が起きてから生き生きしているようである。 (まさか、同僚の危機を小説のネタに……?) いや、まさか。と思いつつも、これまでこの小説馬鹿のやらかしていることを思い出すにつけ、疑いは晴れなかったのであった。 □□□ 病院から出てサンゴ礁の間を泳ぎながら、早速アゼリアが聞いてきた。やはりわくわくとしている。 「で、確かめたいことって何ですか?」 俺はアゼリアの差し出すメモ帳を借りて、さらさらと文字を書いた。どうでもいいがこのメモ帳、ネタ帳も兼ねてるらしく、アゼリアの雑多なネタが満載だった。警察からの提供情報と男の娘ネタが一緒に書かれているのは、シュールとしか言いようがなかった。 それはともかく、アゼリアに書いた文字を見せた。 『人間館の真水ってどこで浄水されている? 海水と混じったりしないのか?』 俺の質問が予想外だったのか、アゼリアは小首を傾げた。 「浄水場なら、人間館のそばにありますよ。人間用の真水は海水と混ざっちゃ用をなさないですから、大きな空気槽に浄水施設を丸ごと入れて、海水とは遮断しています――でもそれが?」 俺は我が意を得たり、とばかりに頷いた。海水から遮断されている浄水施設。犯行には最適じゃねぇか。 『次の目的地はそこだ。俺の推理が正しければ、そこに犯行に使われたフグ毒がある』 「はぁッ? どういうことですか!」 『どうもこうも、そこからフグ毒が散布されたんだよ』 「ちょっと待って下さい! 30㎝のガラスの次は、50m先の施設から散布ですか?! どんどん現場から遠ざかっているのですが!」 『行こう、行ってみれば全部わかる』 俺は詳しい話を聞こうと、メモ帳をめくるアゼリアの背中を押して、道案内させた。説明している時間が惜しい。アゼリアは忘れているかもしれないが、これは競争なのだ。 早くしないと、ギルキスが謎を解いてしまうかもしれない。この謎は魚人にとっては難しいようだが、人間には容易い謎だからなおの事。 ……あるいは、もう謎を解き終わっているのだろうか。 □□□ ついたのは水族館わきの浄水場である。 俺はやっとウェットスーツを脱いで人心地着いた。この施設は空気槽にすっぽり覆われているから息ができる。……場所柄少し臭うが。 浄水場は絡み合ったパイプだらけで、傍目には水の動きが全く分からないようになっていた。だけどそのパイプの先にいくつかの巨大なプールじみた水槽があり、そこで水の浄化を行っているようだった。例えば、不純物を沈殿させる『ろ過槽』、活性汚泥に圧搾空気を吹き込んで、汚泥を微生物に分解させる『曝気槽(ばっきそう)』などなど。 俺は吹き込まれる空気で強烈にぼこぼこ言っている『曝気槽』近くにかがみ、覗き込んだ。 「濁っていて見えねぇな……」 「落ちないでくださいよ。この曝気槽は一度落ちたら浮かび上がれないと言われているんですからね」 アゼリアが釘を指す。俺は肩をすくめた。そんな恐ろしい特性だから、犯行に使われたんだよ。 「なあ、ちょっとだけこの装置を止めてくれないか。俺の推理が正しければ浮いてくるものがあるはず……」 「汚泥だけだと思いますけど……まぁ、やってみます」 アゼリアがどこかに行ってから、しばらくして曝気槽に吹き込まれる空気が止まった。……しばらく待っていると、泥にまみれて何かがぷかりと浮いてくる。 アゼリアも帰ってきて、一緒に曝気槽を覗き込んだ。 「何か見つかりましたか?」 「ああ、フグだよ」 そこにはたくさんのハコフグが、濁った泥水の表面にぷかぷかと浮いていた。言うまでもないが魚人ではなく、ただの魚である。 「な、なんでこんなところに!」 「ここで毒を濃縮していたんだよ。曝気槽から湧き出る空気で、浮けもしないし沈めもしない。生かさず殺さず、ストレスだけを与えてフグ毒を抽出して……」 エグイことを考えるものだ。犯人はここで濃縮した毒を、ある方法で人間館の客席に送り込んだに違いない。――さて問題はその方法だが……。 考えに沈む俺の背後で、カツンと足音が響いた――。 □□□ 気配に振り向くと、そこにはギルキスがいた。 呆気にとられる隙も無く、奴は何か白いものを曝気槽に投げた。ぽちゃんと水音。 一体何を、と再び曝気槽を覗くもソレはあっという間に沈んだようで、すでに影も形も見えなかった。なんだ? ゴミか? 訝しむ俺に何事もなかったように、ギルキスは俺と目を合わせた。ニッと笑う。 「よぉ、ハニー。お前もこいつが目当てか?」 “こいつ”と顎で指したのは、フグが大量死している曝気槽だった。 俺は立ち上がってから、奴に向き直った。 「だれがハニーだ。……あんたがここにいるってことは謎は解いたんだな?」 「おぅとも。あとは報告するだけなんだが……トリックはわかっても犯人がわかんねぇな、これだけじゃ」 「これは半分事故で、半分恣意的な殺人だからな」 「ど、どういう事なんです?」 アゼリアがせきを切って聞いてくる。 「犯人はここで作ったふぐ毒を散布しようと仕掛けをつくったけど、事件そのものは偶然起きたってことだ。シャロンは巻き込まれただけだな。そもそもシャロンの毒じゃないし」 「ほ、本当ですか?」 頷くとアゼリアは力が抜けたのか、へたりと座り込んだ。本当に心配だったんだろう。 ギルキスはどこからか持ってきた棒で、暴露槽のフグを摘まみ上げ、つまらなそうに眼前にぶら下げて観察している。 そして心臓に悪いことを言ってきた。 「ついでに、犯人はわからなくても、心当たりはある、だろ?」 「……」 いやなことを聞きやがる。確かに心当たりはあるが、それを指摘することは魚人から隠していた密文書が明らかになるという事である。 「隠すことねぇじゃねえか。この本の作者だろ?」 そう言って、ギルキスが取り出したのは例の辞書であった。作者は『河童』。人間たちの間では予言書として知られている。 俺は肩をこわばらせた。 (確かに一番怪しいのは『河童』だ。事前に毒殺事件があることを知っているのは彼だけだ。これを当局に指摘できれば、犯人に近づけるも同然――!) しかし――。 「……俺には言えない」 肝心なのは、辞書の「客毒殺の予言」は紙に穴をあけて書くという例の穴あけ文字で書かれていることだ。この文字が明らかになると、同じ文字で書かれた脱出を企てた密文書も、芋づる式に白日の下にさらされることになる。つまり、クマノミ館長たちの前でこの本の予言を指摘することは、密文書で脱出に賛同した部下達を窮地に陥れることに繋がるのである。 「じゃあ、俺の勝ちだ。俺には守るもんは何もないから犯人の指摘もできるぜ」 「……好きにしろ」 俺はうなだれた。トリックは指摘できても犯人は指摘できない。部下を売るなんて死んでも御免だ。 ……あるいはここで辞書を奪い取って燃やしてしまうべきか。いや、ギルキスに勝てるか五分五分だし、よしんば辞書を奪えてもアゼリアに疑惑を持たれる。彼まで殺すことなんてできない。 ギルキスは暗い目をしている俺をじっと見ると、肩をすくめた。 「……まぁ、合格か。先行ってるぜ、ハニー。報告会が楽しみだ」 そう言い残して、ギルキスは証拠品のフグを持って去っていった。 しばらくして、沈黙に耐えかねたようにアゼリアが口を開いた。 「か、河童ってなんのことですか?」 それは答えられない。俺は座り込んだままのアゼリアに手を差し出した。 「いいから俺たちも行こうぜ。あぁ、これからあんたとは長い付き合いになりそうだ。よろしくな」 俺の手を借りて立ち上がったアゼリアが、肩を跳ねさせて驚いた。メモ帳がポロリと落ちる。 「ま、まさか負ける気ですか。犯人を指摘できないから? それでいいんですか?! そりゃ残ってくれるなら嬉しいですけど。……自由になるのがあなたの望みじゃないんですか?」 おいおい、飼育員が人間にそこまで入れ込んでいいのかよ。おれは呆れると同時に嬉しくて仕方なかった。 「いいんだよもう。部下の疑いを晴らせればそれで」 たとえギルキスが密文書のことをばらしたら、俺が首謀者だと自首しよう。部下たちと自分なら秤にかけるまでもない。 部下たちの命が一番だった。 □□□ 娯楽に飢えているにも程がある……。 推理を発表する場として提供されたのは、よりにもよって部下の空気槽の中だった。 (おい、ここ犯行現場だぞ……) どいつもこいつも不謹慎すぎる。 空気槽を覗くガラス前には、また鈴なりの魚人たち。事件のせいで一般の客は一人残らず帰された。なので、ここにいる魚人たちは全員職員なのだろう。……それがざっと100人はいる。 つまり人間館の警備は手薄になっている。きっと今なら脱出も成功しそうだ。 ……しかし、今の俺は推理を披露する側だ。注目されている今、流石に抜け出せる気はしなかった。 ぴりぴりと肌に視線が集中するのを感じる。 部下の空気槽の中にいるのは、俺、館長、アゼリア、ギルキス。そして警察に手錠をかけられて部下とシャロンが連れてこられていた。 推理発表会が始まった。 館長が代表して口を開く。 「それじゃ、始めよう。まずは土方君の推理を聞かせてもらおうか」 突然の指名で、声がひっくり返りそうになる。そのせいか迂遠なことを言ってしまう。 「あ、ああ。この事件は半分恣意的な殺人で、半分事故だ」 「つまり?」 館長がすかさず促す。俺は小さく息を整えて答えた。 「……トリックが発動したのは偶然なんだ。客は天井のスプリンクラーによるふぐ毒の散布で死んだ」 いきなりの結論だ。反応を待ったが、みんなきょとんと瞬きをしている。アゼリアが素直に聞いてきた。 「す、すぷりんくらーってなんです?」 ……そうだ、すっかり失念していた。 「ああそうか、海中じゃ火事は起こらないんだな。陸では建物内で火事が起きたとき、天井から水を撒いて火を鎮火するんだ。その設備をスプリンクラーと言う」 この建物は人間の水族館を再利用したものだという。ならば、スプリンクラーも当然設置されている。 これで納得できたのかアゼリアが感心したように頷いた。すかさずシャロンの質問。 「ふぐ毒はどこから来たっすか?」 俺はアゼリアと共に訪れた浄水場を思い出しながら口を開いた。 「スプリンクラーの接続先の浄水場だ。暴露槽にフグが大量死していた。あそこに落ちたものは、浮いていられずにすぐ沈んでしまう。フグにストレスを与えて、毒を濃縮し、毒が溶け込んだ水をスプリンクラーに送り込んだんだ」 浄水場から直接スプリンクラーの道管がひかれているのは、スプリンクラーの水が海水と混じらないようにするためだろう。もし海水を通せば錆が浮いてスプリンクラーヘッドが詰まる。建物は人間が海中用に改修したというのだから、スプリンクラーの接続先を浄水場にしてもおかしくない。 続いて館長の鋭い質問。 「なぜスプリンクラーの仕業と断定できるんだい」 「生き残りのシビレエイが言っていた。シャロンのジェスチャ―に驚いたらすぐに天井から風が巻き起こったって」 「それが?」 「それこそスプリンクラーから放出される水圧だ。水圧0.1 MPa以上毎分80リットル。客が吹き飛ばされても仕方ない」 「じゃあなぜ、スプリンクラーは起動したんだ。火なんてどこにもなかったぞ」 「俺が見ていた時、天井付近にシビレエイが泳いでいた。おそらくシャロンのジェスチャーに驚いたとき、はずみに放電したんだ。それで天井のセンサーがショートして、スプリンクラーが起動した」 館長が俺の答えを統括した。 「まとめるとこうか。シャロンのジェスチャーに驚いたシビレエイが放電し、スプリンクラーが起動。フグ毒が散布され、客が中毒死したと」 なにかに気付いたのか、アゼリアが慌てた声で聞いてきた。 「ちょ、ちょっと待ってください。人間向けの浄化槽でフグ毒が濃縮されていたのなら、今回の事件の前に人間が被害に遭っていたんじゃ……」 俺は、いやと軽く首を振った。 「それがパフトキシンは人間には無毒なんだ。魚には有害だけど……」 後ろの方で警察官の魚人たちがざわめく。 「なるほど。なら真犯人は浄水場にふぐを入れたやつだな」 「しかし真犯人がいるにせよ、トリックの発動は偶然だった。半分事故で半分恣意的な殺人とはそういうことか」 「じゃあ真犯人は誰だ」 その言葉に全員が俺に視線を送る。犯人の指摘をせかしているようだった。 ――しかし、答えるわけにはいかない。あの辞書のことを口にすることは、部下を売るのも同じことだった。 俺はため息をついて、ゆるく首を振る。 「……俺がわかるのはここまでだ。犯人を特定する証拠がなかった」 すると、それまで腕を組んでじっと俺の推理を聞いていたギルキスが、ニヤニヤと口を開いた。 「俺ならわかるぜ。犯人」 「……!」 ざっと一斉にみんなの視線がギルキスに集中する。『河童』のことを指摘するつもりか。俺は苦々しい思いでギルキスが説明するのを待った。 ……本当は殴ってでも止めたかったが、そうしたところで疑いがこっちに向くだけである。成り行きを見守るしかない。いざとなったら、自首よう。そうすることしかできない、不甲斐ない自分にぐっと奥歯を噛み締めた。 ――しかし、ギルキスは思いもよらないことを口にした。 「この殺人は全部茶番だ。誰も死んでいないし、事件なんて起こっていない。だから犯人はいない。まぁ脚本家はいるようだが」 時間が止まったように、魚人も人間も静まり返った。 □□□ 俺は狼狽しておぼつかなく口を開いた。 「ど、どういうことだ?」 ギルキスは肩をすくめて言った。 「怪しいと思ったんだ。一番スプリンクラーに近い位置にいて、毒を一番多く浴びているシビレエイがなぜ死んでいない?」 「え……?」 そんなのこと、思いもしなかった。だが確かにおかしい。全員即座に死ぬほどの毒を浴びていて、なぜ彼だけすぐ喋れるほどに回復していた? 俺は致命的見落としに、背筋が粟立つのを自覚した。 ついで、そしてこれだ――と、ギルキスが取り出したのはあの時のフグだ。 「暴露槽にいたフグを調べさせたら、死んだ後に暴露槽に放り込まれたらしく毒は出していなかった。これはどういうことだ?」 「どういうことって……?」 「推理の不備ってより、脚本の不備だぜ。これは」 ニヤニヤと笑うギルキスにアゼリアが叫んだ。 「ちょ、ちょっと待って下さい! ギルキスさん裏切る気ですか?!」 思いもしない言葉に眼を見開いた。 「裏切る? どういうことだ?」 ギルキスのニヤニヤ笑いは余裕の表れだろうか。ギルキスは肩をすくめた。 「まぁ待てよ。順番に説明する。まず、シビレエイが生きているってことが怪しくて、直接吐かせたんだよ。そしたら、自分は俳優で今回のは演技だって言うじゃねぇか。全部脚本通りだとよ。確かに魚人はフグ毒で死ぬが、今回のは全部演技だってことだ」 「まさか……」 「そんで脚本っていうのはこれだ」 そういって取り出したのは『河童』の辞書だ。 「これに穴開け文字を書いて、予言書を作り、人間を誘導したんだ。予言書に端を発する謎――今回は『魚人毒殺事件』だな――を作り、人間が解くさまを娯楽にしようと。まぁ、穴あけ文字はこちらの隊長さんが考えたのを流用したものだけど」 こちら、と親指でさされた俺は呆然と口を開いた。色々と聞き捨てならなかった。 「待て、予言書を”作った”!?」 ギルキスは呆れたように肩をすくめる。 「おいおい、アレが本当に予言書だと思ったのか? どうして本物だと思い込んだんだ」 「そりゃ、アゼリアに聞いた入場者数が予言書と一致したからで……あっ、そうか」 「そう、アゼリア自身が予言書を書いたんだ。予言書通りの入場者数を言って、予言書を本物だと思わせることくらい屁でもねぇ」 俺はいつから予言書を作ったのが人間だと思っていたのだろう。事実は魚人が書いたものだというのに。 「じゃあ、すでに密謀書はバレてたっていうのか……」 「残念ながらな。今回の事件の総脚本家はアゼリア。主演は俺とお前。後はみんな観客とちょい役ってことだ」 俺は開いた口が塞がらなかった。引きつる口を必死に動かしてかろうじて質問する。 「……じゃあどこからが脚本だったというんだ」 「さぁて。ひとまず男同士で結婚云々の辺りはかなり強引だったと思うぜ。俺が言えるのはそこまでだな」 得意気なギルキスにはもはや目もくれず、館長とアゼリアを問い詰める。 「……なぁ館長、アゼリア。こいつの言っていることは正しいのか?」 アゼリアは、しばらく戸惑っていたが、思い切ったようにぺこりと頭を下げた。 「……ごめんなさい、土方さん。僕、自分の筆力を試したくて……」 館長はアゼリアの震える肩を宥めるようにぽんぽんと叩いた。 「――まぁ今回はここまでだろうね。犯人まで作り込めなかったのは片手落ちだったが、創作が苦手な魚人にしてはよくやった。魚人も日々進化していることがわかっただけでも今回は収穫だ」 頭を掻きむしりたい気分だ! 「くそっ、全部認めるんだな」 「ああ、全部茶番だよ。予言書も今回の事件も全部。君は見事な推理だった。そこの筋肉人間に比べれば実に文化的な解決方法だった」 館長がムカつく顔で肩をすくめた。そのしたり顔につばを吐き捨てたい気持ちに襲われた。しかし、俺は館長と一つ約束をしていたのだ。ぶん殴るのはそれからでも遅くはない。 「じゃあ、約束を守ってくれよ。俺たちを地上に帰してくれ」 館長が静かに言う。 「……私がなんて約束したか覚えているかい?」 「え?」 「『謎が解けたなら、願いは何でも聞こう』。聞くだけだよ。叶えてやるなんて言っていない」 「ふっ、ふっざけんな貴様!」 ――ぶん殴る! 頭に血が上って振り上げた拳。それを館長のしたり顔にぶちかまそうとした。 しかし、殴る直前警官たちに取り押さえられた。床に顔を押し付けられる俺の前にわざわざ館長は座り込んで、諭すように言った。 「いいかい、君は人間たちに脱出を扇動した危険分子なんだ。そんな君の願いをホイホイ叶えるわけがないだろう」 冷然とした声。俺が脱出を企てた首謀者というのは、すっかりバレているようだった。脱出に賛同して連座した部下たちに下される処分に思い至って、のぼっていた血がざっと下がる。 ギルキスが館長につけ込むように、その耳にささやいた。 「怒るだけ損だぜ。館長、俺の願いは叶えてくれるんだろうな。そんな危険分子は今ここで俺が殺してやるよ。イチャイチャ夫婦喧嘩デスマッチの開幕だ」 獰猛に笑うギルキスはすっかり戦闘モードのようだった。目がギラついている。 くそっ、お前もそっちの側かよ、ギルキス! (――四面楚歌に万事休す。俺もここで終わりなのか?) 顔をしかめるも、頬に感じる床の冷たさが、これがまぎれもない現実だと教えていた。 □□□ ギルキスと俺のデスマッチは許可された。どっちかが死んでも損はないと踏んだらしい。たしかに、部下達に脱出を扇動した俺と、毎晩飼育員にバトルを挑んでいるギルキスじゃ、どちらも命を惜しまれるいわれはなかった。 唯一部下から「お願いだから絶対死なないでください」と涙声で言われたのが唯一の救いだ。アゼリアとシャロンまで申し訳なさそうな顔をしているのは笑ったが。こちらを嵌めたくせに人間に入れ込み過ぎだ。 魚人たちはガラス向こうの客席に避難して観戦するつもりらしい。 シャロンが職員たちにギルキスの暴れっぷりについて警鐘を鳴らしたらしく、危険だからとそうなった。部下もウェットスーツを着せられて無理やり観戦席に連れていかれた。ガラス向こうに眼をやると、魚人たちは大層盛り上がっている。そりゃ、普段娯楽に飢えている奴らが、推理大会の後にコロシアムも見れるとなれば、盛り上がるのも当然か。 目の前にはすっかり戦闘態勢のギルキス。対して俺は構えもしなかった。そんな気になれなかった。それでもギルキスはニヤニヤ笑いを止めようとはしない。 「やる気、なさそうだな。それじゃ困るぜ?」 口を開くのもおっくうだ。 「もうどうだっていい。全部終わりだ」 おれのやさぐれた声に、ギルキスはニヤリと笑った。 「またまた。口で嫌がっても、本当に殺されるとなれば、死ぬ気で抵抗するのがお前だ。伊達に付き合いは長くねぇ」 否定できないのが悔しいが、怒る気にもなれない。 「付き合い、ねぇ……。ならその付き合いの長さに免じて一つ教えてもらいたいもんだ」 ギルキスは何でもないように俺の質問を見やぶった。 「なんで魚人が確認できない文字で書いた密文書がバレたのか、だろ?」 そう、それだ。あの文字はライトにかざさなければ読めないはず。魚人は強いライトが苦手だから、絶対にバレないと思ったのだが……。現実はバレて、逆に利用される羽目になった。 全部が終わった今、せめてなぜバレたのか知りたい。 しかし――、ギルキスの答えは俺の想像を軽く超えていた。 「ありゃ俺が教えたんだ。アゼリアと館長に。ついでに真似て予言書も書かせてみた」 「なっ……!」 お前が諸悪の根源か! いや、待て。”お前が”予言書を書かせた……?! ギルキスはニヤリと笑った。 「脚本も半ば俺が手助けした。アゼリアだけじゃ穴だらけでとても実行できたもんじゃなかったからな。まぁ、そうはいっても8割はアゼリアの脚本のままだったから、茶番にもならなかったが。お前の教えたテンプレートを必死にいじくりまわしている様は健気だったぜ」 悪役じみたムカつく笑い方。アゼリアも俺もみんなお前の手の上か。俺の中で怒りが吹きあがる。 「それをお前自らがネタばらししたから、アゼリアが『裏切る気ですか』なんて言ったわけか……。くそっ、ふざけるのもたいがいにしろよ!」 (全部、全部お前に遊ばれてたってわけかよ――!) 腹立ちまぎれでもなんでもいい! 目の前のこいつをぶちのめさないと気が済まない。俺は怒りを込めて床を蹴り、突撃した。 「おっと、やる気になったか。八つ当たりじみた殺気だが悪くない」 ギルキスは余裕を崩さない。 俺の拳をやすやすと受け止めると、握りしめて引き寄せてきた。思わずギルキスに倒れ込む。 「――ッ?!」 ギルキスは俺を片手で支えると、――思いもしない事を耳にささやいてきた。 「けどまぁ、どうせやるなら陸でもいいんじゃねぇか。墓も作りやすいだろうし、お前も陸で死にたいだろう?」 (?! どういう意味だ?) 疑問に思う隙も無く、ジリリリリ!!! とけたたましいベルの音! 腕を掴まれたまま、音源を探してちらりと客席のあるガラス向こうに視線を送る。 そこには驚くべき光景が広がっていた。 のどを抑えて苦しむ魚人たち。窒息しかけているのか、酷く暴れてお互いの身体が激しくぶつかり、ひれはズタズタになっている。その中にはクマノミ館長もアゼリアもシャロンもいた。みんな悶え苦しんでいる。ただアクアラングを装備した部下だけがその集団から抜け出し、ポカーンとその様子を見ているようだった。 「い、一体何が……?!」 こんな状況なのにギルキスは平然として言った。 「じゃあ、とっとと逃げるぜ」 □□□ 俺とギルキスは空気槽、注水室の扉から出て、海中に泳ぎ出した。 毒で苦しむ魚人たちの間を、ストーンペーパーで作ったアクアラングで息をしながらすり抜ける。以前に作って持ち歩いていたが、ギルキスも同様だったらしい。 ――それはともかく、 (この症状、フグ毒のパフトキシンの中毒症状にそっくりだ……) 最初に見たそれは魚人たちの芝居だったが、今回は本物だ。その証拠に、すれ違いざまぷかりと天井付近に浮かんでいた魚人の首筋の脈をとってみたが、拍動は一つもなかった。心臓が止まっていた。 どうやらスプリンクラーで今度は本物のフグ毒が散布されているようだ。いったい誰が……。 棒立ちだった部下は、すれ違う俺たちにはっとして後ろについてきた。どうやら一緒に脱出することにしたらしい。 俺達が通り過ぎた後には、毒に苦悶する魚人たちが取り残された。 □□□ 部下のアクアラングの空気を分け合いながら、ギルキスの道案内に従い50mほど泳いだ。 ついたのは浄水場だ。 そこには敵味方を含めた部下たちが集まっていた。すなわちギルキスの部下ともちろん俺の部下もいる。全員脱出に賛同したメンバーだ。ここまで泳いできたのか水に濡れているが、みんな元気そうだ。 「これは一体……」 俺は体から次々伝い落ちる雫を拭うことにも思い至らず、ギルキスに呆然と聞いた。 「俺が集めた脱出希望者だ。非常ベルを鳴らして、スプリンクラーで全館に本物のフグ毒を散布したのもこいつらだよ」 なるほど、推理大会には人間館の全職員と見まごうほどの職員が見物に来ていた。警備は手薄だったのだ。確かに脱出の好機で、実際そのチャンスを逃さず脱出したらしい。 しかし、これだけの人数が一度に脱出するには綿密な連絡が必要である。そもそもどうやって連絡を取ったのか。 「どうやって集めた」 「お前が作った穴あけ文書に縦読みも仕込ませて部下たちに指示したんだよ。俺がバラした穴あけ文字に魚人たちの意識が向かったせいで、縦読みは気付かれなかった。奴らは一度あることは、二度あると思わない馬鹿どもだ」 おい、人が考えた方法をダシに使いやがって……! 頬が引きつるが、やり方としては不味くはない。 「じゃあ、魚人たちが苦しんでいたのは? フグ毒なんて茶番で本当は無かったんだろ?」 「あれを見ろ」 そういってギルキスが指さしたのは曝気槽である。そこには湧き出す空気に弄ばれてタオルが浮き沈みしていた。 「ここでお前と会った時に投げ込んだフグ毒付きのタオルだ。奴ら今度は本当にスプリンクラーから出たフグ毒に苦しんでやがるぜ」 そういえば、捜査で曝気槽に来た時、こいつは何かを投げ込んでいた。それが、これか。 「よくもまぁ。こんなものどこで手に入れたんだよ……」 「伊達にシャロンと毎晩殴り合ってないさ。フグ毒のパフトキシンは『命の危機を感じたフグの体表から出てくる』んだろう? 喧嘩の死闘の時にぬぐったシャロンの汗と毒がたっぷりとしみこんだタオルだ。これは死ぬぜ」 確かに毎晩集めた毒ならかなり濃縮されているだろう。魚人を一網打尽にできるほどの威力はあるはず。それにしても――。 「よく俺たちは無事だったな……」 毒で苦しむ魚人たちの間を泳いだのに。 ギルキスは呆れたように肩をすくめた。 「自分で言ってたじゃねぇか。フグの体表からでる毒は、人間には効かない。そうじゃなかったら、しょっちゅうシャロンと喧嘩していた俺はもう死んでるさ。間違いねえよ」 こうなると話は最初から違ってくる。 「もしかして、お前がアゼリアの脚本に手を貸したのも……」 「全部、奴らを油断させて脱出するためだよ。それ以外の何がある」 はぁ、と大きなため息が漏れる。疑問が氷解してわかった。 俺の穴あけ文字をばらしたのもこいつで。警備を手薄にさせるために、推理大会を考案したのもこいつで。俺を引っ張り出して推理させるために脚本を書いたのもこいつで。ダメ押しとばかりに、デスマッチで魚人の注意をひきつけたのもこいつで。 そして俺はこいつの作戦に巻き込まれていたわけで。 つまりは―― 「つまりは、全部俺を踏み台にして立てた作戦じゃねぇか!」 ギルキスは悪びれもしなかった。 「そう怒るなって。お前がいたから成功した脱出作戦だ。もっと自信を持てよ」 「ぬけぬけと。それにまだ脱出してねぇよ。ここから先どうするんだ」 「活性汚泥を陸に捨てに行く潜水艇があるはずだ。そいつを使う――」 ギルキスがそこまで言った時、不意に俺の副官が声を上げた。 「隊長、誰か来ました!」 (まさか追っ手か?! いや、職員はみんな毒にやられたはず――!) 緊迫する俺たちの前に、そいつはぬらりと現れた。 アゼリアを背負ったシャロンだった。アゼリアはぐったりとシャロンに体をもたれさせている。 ギルキスが呆れたように言った。 「おいおい、なんで無事なんだ?」 「フグにフグの毒は効かないっす。(ほんとはちょこっと効いてますけど!)それよりお願いがあるんです!」 「お願い?」 すぅ、とシャロンは息を吸って、がばりと頭を下げた。 「……僕らも連れて行ってくれませんか!」 「そ、れはどういう……」 言いよどむ俺に対して、シャロンは必死に言い縋る。 「頼むっす! 今回の事件で僕らは利用されすぎました。死人が多すぎて、このままだと責任をとらされるかもしれないっす。最悪、処分されるかも……」 シャロンの足はがくがくと震えていた。 「アゼリアもか?」 俺の声に反応して、アゼリアはぐったりしたまま、回らない口を必死に動かした。 「ぼ、僕は土方さんに酷いことをしたから償いたいんれすけろ! ほ、ほんとは……」 そこで言いよどむ。相当不謹慎なことを言おうとしていると自覚しているようだった。だから俺は呆れながらも先を続けてやる。 「……今回の脚本の再挑戦(リベンジ)をしたい?」 それに勢いを得たかのように、アゼリアはまくしたてた。 「はい! ギルキスさんに騙されたのはくやしいけど、今回の事件は感服しまひた! あなたたひのように二重、三重にも罠をしかけりゅる人間の悪辣さが書きたい! 勉強したいんれす、連れてってくだひゃい」 誉め言葉なのか知らないけど、目はマジだった。狂気的だと言ってもいいかもしれない。 「アゼリアは毒で痺れてて口調は変っすけど、気持ちは本気っす!」 どうするとギルキスに視線を送ると、ギルキスは小首を傾げて言った。 「まぁいいんじゃねぇか、人質にもなるし」 「自分で陥れといて本当に悪辣だなお前は……」 ギルキスのこれまでのやらかしを思い出すにつけ、呆れてものも言えない。だが、ギルキスのおかげで助かったのも事実である。複雑な気分だ……。 それはともかくシャロン達のことだ。俺は二人に向き合って言った。 「俺も問題はないと思う。多分別天地に行くと思うけど、それでいいか?」 「はい、よろしくお願いします!」 「よろひく、お願いしましゅ」 シャロンがアゼリアと共に頭を下げた。 二人の新たな仲間を迎えていると、ギルキスの部下が潜水艇を見つけ出した。 「隊長見つけました!」 「よし、御託は後だ。さっさと乗り込め。いい加減帰るぞ」 その言い方がまるで、遊園地から子供を連れ帰る親に思えて少し笑ってしまう。一度は死を覚悟した身で、随分と贅沢なことだ。 俺は潜水艇のタラップに足をかけながら、そう思った。 ――実のところ、また死を覚悟する機会が訪れようとは、俺は知る由もなかったのである。 □□□ 今回の潜水艦はイガグリ型じゃなかった。円筒形の長い船体をしており、後ろの広い積載部に何トンもの活性汚泥を積んで、陸に輸送するための船だ。 さて通常積載量が何十トンにも及ぶ潜水艦で、荷物がカラの場合、最高速度はどのくらい出るでしょうか。 ……船内は、恐怖の叫びに満ちていた。 「わぁー! 待て待て! スピード、スピード出し過ぎだ馬鹿ーー!」 「まどろっこしい。追っ手も来ているんだ。ちんたらしていられるか」 「追っ手ぶっちぎってる癖に何を言っているんだ、お前は」 そう、脱出時こそふらふらの魚人たちが追いすがってきたが、ギルキスが潜水艦にフルスロットルを入れた途端に、全員吹き飛ばされた。艦内も似たような有様で、本当に死ぬかと思った。 しかし、これで追っ手云々は全員いなくなったといってもいい。 みるみる遠くなる人間館と魚人たち。 部下たちが歓声を上げる中、俺もほっと一息を付いた。こちらを振り向いてニヤッと笑うギルキスと拳をコツンと合わせる。 なんだかんだ言って、こいつは命の恩人だった。 □□□ それから一日潜航したり、浮かび上がったり、隠れたりと、いもしない追っ手を撒く。 最後には、またビーチにどごーんと上陸した。 誰もいない。 燦燦とした太陽に、白い砂浜。息がしやすい世界……。 潜水艦のハッチを開けて、みんな恐る恐る顔を出す。 「に、逃げきれたのか?」 「どうやらそうみたいだな……」 しばしの沈黙の後――。 わっと歓声を上げる元捕虜たち25名。敵も味方も関係なく、一緒に砂浜に飛び出して、深呼吸したり抱き合ったりしている。 俺は皆がはしゃぐ様をぼんやりと眺めていた。連れて帰れた部下は、捕まった時の半数以下。じわりと後悔に似たものが胸に広がってきた。 俺があまりにぼーっとしているので、不審に思ったのか、ギルキスが声をかけてきた。 「どうした? 元気ないじゃねぇか」 「連れてこられなかった部下たちのことを考えていた……。これでよかったんだろうか」 俺があまりにぼんやりしていて救いようがないと思ったのか、ギルキスは真面目に答えてくれた。 「お前の悪いところは、全部背負っちまうことだな。少なくとも、自分で残るって言ったやつのことまで背負うことはねぇ。そいつの人生はそいつのものだ。好きにさせてやれ」 「そうか……?」 ギルキスの言葉で思い出したことがある。脱出を計画した際に『隊長の最後の役目として俺が先陣を切らなくては』と覚悟したのだ。残るやつは残ればいいが、いつでも逃げ出せることを教えようと。 それを成し遂げた今、わずかでも部下たちに顔向けできるだろうか……? ふいに、部下たちの笑顔が脳裏をよぎった。 「――そうだな」 やっと踏ん切りのついた俺の横ににゅっとアゼリアが現れる。 「そうですよ、土方さん! あなたは今は誰を背負って立つべきかちゃんと考えるべきです。差し当たって、僕とシャロンはしばらくあなたの背中にべったりするつもりなので、ちゃんと背負ってくださいね。勿論、今回の事件をノンフィクションとして書く練習も――」 その図々しい物言いに俺は笑ってしまった。 「毒が抜けた途端にこれだもんな」 「アゼリアはこれがいいっすから」 自分とギルキスを入れて敵味方27人と、魚人2人。にぎやかで、騒がしいが、不思議とこれから先のことに不安はなかった。ここが陸だからだろうか。いや、限界を尽くしてみんなで脱出に成功したからに他ならない。 「なんとかなる、か」 「そうです、隊長! 何とかしてくれてありがとうございました」 部下が寄ってきてそんなことをいう。よくよく考えれば、こいつはあそこに残ると言ったヤツだった。毒殺事件のドタバタで連れてきてしまったが、良かったのだろうか。 「いいに決まってます。隊長をあんなにいじめる奴らのところなんて、こっちから願い下げですから」 憤慨している部下に、そうかと言葉少なに頷く。にやける口元を隠して。 あっ、と部下が思い出したように言う。 「そういえば、隊長は約束はしませんでしたけど、ちゃんと生かして帰してくれましたね」 「ん?」 「いえ戦争に負けたとき、俺が隊長に『俺がなんとしてでも生かして帰してやる。心配するな』って言ってくださいって懇願したことがあったでしょ」 確かにそんなことがあった。その時の答えはこうだった。 『できない約束はしない主義なんだ、俺』 もう遠い昔のようだ。確かに結果を見れば、俺は約束はしなかったが、部下の言う通りに『生かして帰してやった』ともいうかもしれない。 部下が嬉しそうにニヤニヤした。 「ね、今ならあの時と同じ状況になったら、何て言います?」 部下はあの時の口調をまねてこう言いだした。 「諦めないで下さいよ! そこは『俺がなんとしてでも生かして帰してやる。心配するな』って激励するところでしょ」 俺もあの時の口調のまま、こういってやる。 「できない約束はしない主義だが、……まぁびっくりするぐらい諦めの悪い俺だから、どうにかしてみせるよ」 肩をすくめてのんびり言うも、まぎれもない本心だった。 ふふっと部下が嬉しそうに笑って、アゼリアもシャロンも笑い、ギルキスは相変わらずニヤニヤして……。 いつのまにか敵味方の部下達も混ざって楽しそうな笑い声になっていった。 こうして俺たちの人間館脱出劇は幕を閉じたのだった。 |
北斗 2018年01月02日 22時26分02秒 公開 ■この作品の著作権は 北斗 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2018年02月14日 12時33分14秒 | |||
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