女の子が密室でいけにえにされちゃう話 |
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わたしが奴隷としてテノチティトランに送られたのは、ずいぶんと昔のことになる。 自分でいうのもなんだけど、見目麗しく美しく、かわいらしくもかしこいわたし。当然もてる、男も女もちょろいものです。そんなわけで奴隷として売ったり買われたりするたびに、少しづつ、住む場所がよくなっていき、食べるものはおいしくなって、最後には湖上都市テノチティトランをようするアステカ王国王の側仕えになった。 ふだんなにしてるかというと、ちっちゃかわいい女の子なクアゥテモクさまの足や耳をぺろぺろして首筋にちゅっちゅしてはむはむするお仕事である。生きててよかった。 しかし近頃はひじょうに大きな問題が発生する。 クアゥテモクさま、むずかしいお年頃になる。 現在十二歳であらせられるクアゥテモクさま、まあたしかにいろいろ考えちゃう時期だとは思うんだけど、側仕えとしてはどうしていいものやら。 王(トラトアニ)ともなれば従者の二十人やそこらはふつうにいるのがあたりまえ。しかしそれがうっとおしかったのだろう、なんかもう近づくだけで物投げる暴言吐くの騒ぎです。むかしはすなおでいい子で「マリーナと一緒にねる」っていってぴったりくっついてたあの子が、しくしく。耳なめたりほっぺにちゅーしてあげると、きゃーっていってよろこんでくれたクアゥテモクさまが、ああ、おいたわしや。 わたしが十二歳のころってどんなだっただろうか。いまから五年前で、ちょうどテノチティトランにきて、クアゥテモクさまの側仕えになったくらいのころか。思い出してみると、うーん、かなーり暗黒面に落ちかけていたような気がする。男も女も利用して這い上がって自由気ままにわがままに、いいもの着ておいしいもの食べて欲望全開に生きるんだ、くらいだった。一年くらいで落ち着いたけど。クアゥテモクさまかわいかったからね、当然よね。 しかし困った。クアゥテモクさまのお悩みを手助けする方法がまったくわからない。いやたぶんこういうのは時間が解決してくれるもので、あと一ないし三年もすればおだやかになってくださることだろう。放置こそ最良。 方針が決まった、ので起きることにする。側仕え用の寝室から朝日がこぼれていた。 身体を包んでいた木綿の織物をはいで、丁寧に畳んでおく。眠るときは基本全裸なので当然わたしも全裸である。黒曜石を磨いた鏡(テスカ)をのぞくと、淡褐色の肌に黒髪で、なんとなくしゅっとした顔のわたしが映る。いやこれはねむそうな顔だった。 水がめから桶に水をそそいで、手と顔を洗う、冷たい。手ぬぐいでぬぐってから、木綿の織物でできた下着、肌着、貫頭衣を身につける。貫頭衣は長方形の布のまん中に穴をあけてそこからすっぽり頭を入れるかんじ。帯を腰に巻き、軽くしわをのばし、あとは前かけをつける。側仕えの戦闘服である。模様などはごく単純なものをほんの少し。布のはじに多少のふちどりがある。色は白に灰色が混ざったかのような雰囲気だ。 腰まで届く長い黒髪をゆって、紐でくくって後ろへまとめる。さらさらつやつやの三つ編みが完成する。 靴底を紐で足裏に固定するような構造の皮の上履きをしっかりはいて、さて。 クアゥテモクさまが住まうこのお屋敷はそれはもう広くって、一日ではまわりきれないくらいなものだけど、ある程度慣れてくれば不自由はない。白漆喰の壁に板張りの床な廊下をすいすい歩いていく。わたしはよく訓練された側仕えなので床を歩くときに音など出さないのだ。 上がったり下がったりぐるぐる回って、クアゥテモクさまの寝室へ。入口の扉の前にはそれをはさむようにふたりの豹戦士(オセロメー)が立っていた。 「おはようございますう」 筋肉むきむきの男のひとたち、無言でうなずいてくれた。王家に忠誠を誓いすぎて日常会話すらむずかしくなってしまったかわいそうな人たち、のあいだをするっと抜けるように扉を開ける。 寝具として使っている木綿の織物が二十枚は広げられそうな広々とした部屋、その中央に寝具にねっころがってくるまってる小さな暴君がおわします。高所にあけられている窓から射し込む光がうっとおしかったのだろう、もう頭まですっぽりと入っております。 わたしは音をたてないように静かに上履きを脱ぎ、そろりそろりと織物が広げられた空間に足を入れる。この小さな子ひとりのためだけに、織物が無数にしかれている。刺繍や染色によって様々な柄が描かれているので、これ一枚でたぶんよゆうで超かわいい奴隷買える。そんな奴隷買えちゃう織物を素足で踏んでいるという事実にちょっと興奮しつつ、クアゥテモクさまのとなりに到着。 「朝ですよ、クアゥテモクさま」 なんかまるまった謎の物体、反応なし。 「今日は大事な儀式がある日なので、早めに起きられたほうがいいですよ」 すごいくぐもった声で「うー」とうなられる。 しかたがありません、これはクアゥテモクさまを起こすために必要なことです。 と自分を正当化して、これっぽっちももっていない罪悪感を薄めて、ふふふ。 するり、するりと服を脱いでいき、全裸になる。 織物をそっとめくって、中に侵入。 この白くてあたたかい物体を捕獲して、ぺろぺろ。ここはお腹かな。 「や、やめなさい、マリーナ」 「どうしましょう、なんだかとってもむらむらしてまいりました」 ぎゅーっと抱きしめ、ぬくぬく。ああ、子どもってあたたかい。ああそうじゃなかった。 「早起きできない悪い子にはおしおきです」 逃げられないようにがしっと掴んで、耳に舌を入れて。 ぺろぺろ、ちゅっちゅ、はむはむ、ちゅる、ちゅるる、じゅるるる。 「あ、だめ、マリーナ」 じゅっぱじゅっぱじゅるんじゅるんれろれろれろれろ。 宴だ、甘露だ、天国だ。 耳なめの極意は音にある。びちゃびちゃと水っぽい音を出すことで、なんかへんな気分になってくるのだ。当然舌の感触もきもちがいい。耳のふちをなぞってあげたり、そっと息をふきかけてあげたり、軽く噛んでみたり、飽きさせないようにいろいろと手を変え品を変えて刺激しつづける。 すると。 「んんっ」 たいそうかわいらしいお声で鳴いてしまったクアゥテモクさま。ああかわいいよぅ。 「目が覚められましたか?」 「ええ、そうね」 織物をばさっとふき飛ばして、気取った仕草で髪をはらうクアゥテモクさま。大変美しい髪と、それをはらう手である。 その小さくてやわらかそうな手のひらが、わたしのほっぺたをばちんと叩いたのであった。 クアゥテモクさまのお着替えを手伝って、一段落。 やはりお美しいクアゥテモクさま。なんといっても特徴的なのは、白い髪に白い肌、薄い金色の瞳だろう。顔立ちそのものはいちおーわたしたちと似てはいるが、すさまじくきれい。 アステカ民の標準は、黒髪に褐色の肌なのでなんだかもうよくわからない。おそらくは、まれに現れる色違いの動物と似たような現象だと思っている。たとえば豹。まだら模様の黄色い毛、まれにいる真っ黒でつややかな毛。はたまたケツァール。深い緑色をした羽根、まれにいる純白の羽根のやつ。 そんなめずらしい髪の毛をもつクアゥテモクさま。 わたしに全裸土下座させているもよう。 「ほんとうに無礼な奴隷よね。なにかいうことはあるかしら、マリーナ」 「いえ」 やわやわなクアゥテモクさまの足が、わたしの頭を踏んでいる。 ぐりぐりと力を入れられるたびに、なんかいけない気持ちになってくる。 「あなたの頭には葦でもつまっているのかしら。斧で断ち割って確かめてみるのも一興かも」 「はい」 「ろくな受け答えもできないのね。いいわ、そんなになめたいなら、好きなだけなめればいいじゃない。ほら」 頭を踏んでいた足が、目の前に。 足の指をなめてしゃぶれということでしょうか。 な、なんて屈辱的な行為を強いるのか。おそろしい子。 「わたしのいっていることが聞こえないの?」 「いえ」 くっ、わたしはこのまま足の指をなめなければいけないのか。 すみませんわれわれの業界ではご褒美ですっ。 はむはむ、ちゅるちゅる。 「笑っちゃうほど無様ね。あなた、わたしが死ねっていったら死にそうよ」 いや、さすがに死にませんよ、と思いつつ、爪のつるつるや指のあいだの味わいぶかいところを丹念になめる。だって死んだらクアゥテモクさまをぺろぺろできないじゃないですか。 「いくら奴隷とはいえ、ここまでするのはマリーナくらいね。人間としての尊厳はどこにおいてきたの?」 ひぐぅうう。日々成長なされる言葉責めの鋭さ。この子はわたしが育てた。 ああ、ずっとなめていたいけれど、そろそろ時間かなぁ。 くっ、今日の儀式がなければいいのに。とは思うけれども本来はまじめで有能な側仕えなので、しかたがない。 「人間としての尊厳は神々に捧げられたのです。ああ、かわいそうなわたし」 いいながら、クアゥテモクさまの足を手拭いで清める。 そしてすばやく身支度を整え、ついでにクアゥテモクさまの寝室にある織物をきれいに畳んで、積んでおく。 クアゥテモクさまの手をひいて、扉の前で上履きをはかせ、準備完了。 「では、いきましょうか。クアゥテモクさま」 クアゥテモクさま、なにかへんな生き物を見るみたいにわたしを見つめて。 「わたし、マリーナがわからないわ」 「優秀な側仕えですよ」 頭なでなでするも、ぱしっとはらわれる。 「気安くさわらないで」 「やだぁもうクアゥテモクさまいけずぅ」 そんなにため息を吐くと、しあわせが逃げちゃいますよん。 ――偶像は、彼らが食物とするあらゆる穀物と野菜を練り混ぜて作ります。食物を細かくくだいて混ぜ合わせ、生贄の脈打つ心臓から滴る血を注いで練り混ぜます。このようにして偶像を作ると、新たな生贄の心臓が捧げられます。―― エルナン・コルテス『メキシコの征服』より 太陽の祭壇。 石材を四角錐の形状に積み上げた大きな建造物、いわゆる金字塔というやつだ。その天辺にあるのが、太陽神を祭る神殿、太陽の祭壇である。わたしはクアゥテモクさまの側仕えとして後ろに控えつつ、広間の中央で舞を踊る美しい乙女を眺めていた。 背格好も年齢も、だいたいはわたしと似たようなもので、淡褐色の肌に黒髪黒目というアステカ民の標準的な姿。長い黒髪は三つ編みにされていて、背中で揺れている。服装は木綿のひらひらとした服で、赤や緑の鮮やかな模様で染められていた。 黒曜石(イツトリ)の小刀を二振り、右手と左手に持って、くるくると回るように踊る乙女。 太陽神に捧げる大切な儀式であるけれども、この手の儀式はだいたい長いので、少し疲れてきた。身体を動かしているほうがまだ楽ちん。ずっとつったってるだけってしんどいです。 お目覚めクアゥテモクさまを輿に乗せて、お屋敷から祭壇まで笛や太鼓を鳴らしながらゆっくり進む。いよいよ中天にさしかかろうとするころあいに、本日の儀式の主役である乙女を先頭に、数人の神官、名主さま、クアゥテモクさまとわたしは祭壇への階段を登っていく。神殿の中に入ると、扉もなにもかも閉めて密室にして、笛と太鼓の音を背景に乙女が踊る。 豪華な椅子に座ってだるそうにしてる少女改めアステカ王国王であらせられる、急降下する鷲の意味の名をもつクアゥテモクさま。眠っちゃだめですよ、ばればれですからね。いくらかかり火だけで薄暗いとはいえクアゥテモクさまの見た目はすごく目立つのです。神の血を引く半神半人という設定なんですからね。もうちょっとだけがまんしてくださいな。 白い髪をもって生まれてきてしまったものだから、ごくまれにいる白いケツァール鳥と同じように、クアゥテモクさまも神の御使い扱いされてしまったのでした。 笛の音が余韻を残して消えていき、太鼓が一際大きな音を鳴らして音楽がおわる。 乙女の舞がゆるやかに止まる。 いよいよもっとも大事な儀式に移る。 乙女は二振りの小刀を静かに石床に置いた。続いて、頭にある羽飾りを抜き取り、衣を脱ぎ、下着も外す。一糸まとわぬ姿になった。 広間の先へと進み、安置してある石の寝台に身体をあずける。心臓が取り出しやすいように、あおむけだ。 しずしずと近づいてくるのは、乾いた血に染まった貫頭衣をまとう神官たち。乙女の手足を一本一本がっちりと掴み、動けないようにする。 そして最後には大神官さま。乙女が石床に置いた黒曜石の小刀を拾い、乙女の前へ。 小刀は、胸へと吸い込まれるように刺さった。 痛みを堪えるようなくぐもった悲鳴と、淡々と心臓をえぐっていく神官。 ぴくぴくと震える乙女の胸からは、新鮮な心臓が取り出された。 血をふきだし、震えるように動く心臓が高々とかかげられる。 それと同時に、扉という扉、窓がいっせいに開かれた。差し込んでくる太陽の光が、乙女を、神官を、そしてクアゥテモクさまを照らしている。 心臓が捧げられ、太陽が復活したことを模しているとかなんとか。とにもかくにも、儀式の一番大事なところがおわった。 クアゥテモクさま、出番ですよ。お祈りの時間ですよ。 と念じてみたものの当然のことながら反応はない。わたしはこっそり近づいて、内緒話をするように、クアゥテモクさまの耳元に手をそえて、ふぅ、と息を吹きかけた。 「わ」 かわいらしいお声を出して、びくんと身体を震わせるクアゥテモクさま。お目覚めのご様子です。 このあとは神々の像の前で日が沈むまで祈りを捧げなければいけない。ということを即座に思い出したようで、クアゥテモクさまがゆったりと立ち上がる。 「マリーナ」 「はい」 「宴の準備を」 「かしこまりました」 クアゥテモクさまは神官たちと一緒に、神々の像の前に立ち、祈りを捧げる。 さてと。夕暮れまでは、まだまだたっぷり時間があるとはいえ、やることが少ないということもない。なによりクアゥテモクさまが口にするトラカトロリを作り上げるのには時間がかかる。肉が骨から自然にはがれるくらい、じっくりと煮込み続けなければいけないからだ。 石の寝台では、乙女の解体が進められている。心臓は棚に供えられた。首は胴体から離され、それも供えられている。内蔵はまとめて壺に入れられた。神殿の屋根にばらまかれ、空を舞う大鷲に与えられるだろう。胴体の肉は豹などに、手足はわたしたちの口に入る。 ようやく手足も解体されたので、それが入った大きな壺を受け取る。 両手で持って、よいしょ、よいしょ。太陽の祭壇の入口を出る。金字塔のてっぺんにある建物なので、景色が一望できる。 アステカ王国の首都である、湖上都市テノチティトラン。淡水湖の真ん中に浮ぶ島を、永い年月をかけて少しずつ増築した町並みは、升目のようにきれいに建物が立ち並ぶ。白漆喰で統一された建物は美しく、もっとも太陽の光を感じさせる。その建物の隙間をぬうように、水路が流れ、数えきれないほどの小舟が浮かんでいる。島の外も同じだ。テノチティトランで商売をしようと商品をいっぱい小舟に乗せた人々が、沿岸部をひっきりなしに出入りしている。 わたし自身の経験からも、各地を移動する街道商人(ポチテカ)から話を聞いても、これほど人が多く、美しく、そしてどのようなものでも手に入る都市はない。テノチティトランこそ、アステカ王国の覇権を象徴しているといっても、まあ、いいすぎではないだろう。 都市のまわりを囲むように浮かぶ農地(チナンパ)は、テノチティトランを守るテスココ湖の底に沈む滋養豊かな泥を使って、ありとあらゆる野菜や穀物を育てる。湖からは魚やかえるや苔や蛇がとれる。小舟で移動して別の島に行けば、犬や猿や豹や豚、うずらに七面鳥にかもにがちょう、数えきれないほどの動物が狩れる。 すごい、とにかくすごい、すごすぎる、湖上都市テノチティトラン、をかかえるアステカ王国、の頂点である偉大にして全(まった)きこと比類ないお方であらせられるクアゥテモク現人神陛下、に仕えている超絶有能完璧美人で最強に万能な精鋭側仕えのわたし。ふはははは。 まあいってもクアゥテモクさまはまだ子ども。十四歳で成人と認められる中で、ようやっと十二歳になったばかり。わたしより五つも下。下賎な奴隷の身分に過ぎないわたしに、耳に息を吹きかけられて起きちゃうクアゥテモクさまかわいい。 は、そうだ。ぼーっとしすぎた。さっさとお仕事せねばおしおきされてしまう。 さーて作りますか、トラカトロリ。 ――死体を解体し、股のひとつは王にご馳走するために送り届け、残りは有力者や親戚のあいだで分配した。死者を捕らえた者の家で食事をするのが常であった。肉はとうもろこしと一緒に煮て、小さなお碗に少量の汁、とうもろこしとともに盛って、各人に配った。この料理はトラカトロリと呼ばれていた。―― ベルナルディノ・デ・サアグン神父『ヌエバ・エスパニャ諸事物概史』より 日が沈んで空が赤く染まっていった頃合いに、準備はととのった。 神殿正面にある広場ではかかり火が焚かれ、屋外で使う大きな卓がずらりと並んでいる。保温用の火鉢にのせられた数多くのさまざまな料理があたためられている。 わたしをふくめた側仕え、小姓はもちろんのこと、有力者である領地持ちの貴族、名主、相談役の老人、戦士階級である鷹戦士や豹戦士、この広場に集められたおよそありとあらゆる身分の者が、ただひとりのために片膝をついている。 唯一この場で静かに立っているクアゥテモクさまが、ごく自然な動作でゆったりと地面に手をつけ、指先に土をつける。その土をくちびるに触れさせた。 「感謝を」 作物や動物を養い育む太陽と大地に感謝を捧げる祈りの所作である。 それがおわると、クアゥテモクさまはとっても立派な椅子に座る。 さて、トラカトロリを配膳しなければ。 ほとんどみんな片膝ついてる中で、そろりと立ち上がり、大鍋から汁をお碗にそそぐ。そしてクアゥテモクさまにそっと差し出した。クアゥテモクさまはそれを木匙でそっとすくって、一口。 すると、太鼓と笛が鳴らされ、宴がはじまった。 お偉いさんたちが食事を楽しむ。基本的に儀式のある日は朝からこの時間まで断食をしているので、料理のおいしさも格別だろう。わたしみたいな不真面目な側仕えなんかは、料理をする合間につまみぐいをするのでそれほどでもないけれど。 クアゥテモクさまの周囲には、四人の側仕え、四人の小姓、四人の相談役おじいちゃん、四人の豹戦士が立っている。わたしのお仕事はクアゥテモクさまのお世話。腕によりをかけて作ったトラカトロリ、おいしいかな。 そんなふうに思ってじーっと見てみたら、食の細いクアゥテモクさまにしてはそこそこ食べているように思う。やったぜ。 トラカトロリの作り方っていうのはそんなにむずかしいものではない。人の手足と、とうもろこしを一緒に煮込み続ければそれで完成する。しかしわたしはそんなものでは満足しないので、一応手をくわえているけれど。 まずは大鍋に水と手足と臭み消しの香草をぶちこんで、弱火でじっくり煮込む。そのあいだに、貝殻を粉々にしたものを入れた水に漬けてやわらかくしたとうもろこしをいくつか引き上げ、実をもぐ。この実を石臼ですりつぶしてから、石の鍋でがっつり焼く。焼いたあとは大鍋にどっさり入れる。 すりつぶしたとうもろこしは、汁にとろみと風味をつけるために入れるもの。あとはふつうのとうもろこしも入れる。味の土台はとまと(トマトル)にした。充分に熟れて大きくなったとまとを、ぽいぽい入れる。煮込めばとろけて形もなくなるだろう。 太陽の色が変わりはじめるころには、手足の肉が骨から簡単に外れるくらいにはやわらかくなる。大きなへらで肉をほぐしてかき混ぜて、ほどよい大きさにしてから、最後の仕上げ。 乾煎りしたいんげん豆、いも、いくつかのきのこ、菜っ葉、粉末状にした赤とうがらし(チレ)や塩などを入れて、完成。 とまとが土台の汁は、手足の骨からしっかりとした出汁がでていて、するすると飲める。肉はとろとろぷるぷるで、いくらでも食べられそう。人肉特有のなんともいえない、くせというか臭みというか、まあそういうのは赤とうがらしや香草やとまとの力でほぼ気にならない。捌いたばかりで新鮮な肉だし、むしろ心地よい風味にもかんじられる。 会心の出来ですよ、クアゥテモクさま。おかわりもありますよ。 なんて思いつつも静かに佇んでいるわたし。外から見たらしゅっとした側仕えにしか見えないだろう。ほかの後輩側仕えたちはクアゥテモクさまのお碗を片付けたり、別の料理を配膳したりして細々と働いているので仕事をさぼってるようにも見えてしまうのは内緒。 七面鳥のあぶり焼きとか、大ぶりの緑とうがらしを炒めたものとか、かぼちゃを煮込んだものとか、色々とある料理をとうもろこしの生地で包んで、なん種類かあるつけだれにひたして、ぱくりぱくりと食べるクアゥテモクさま。ちなみにわたしは赤とうがらしを土台にしたつけだれが好き。黒とうがらしのぴりぴりしたやつもおいしいけれどね。 しかしクアゥテモクさまの胃袋はごくあっさりといっぱいになったようで、ふぅ、と満足そうに息をついた。 「ショコラトルを」 これだけは譲れないよん、ってかんじでわたしはささっと動いて、ショコラトルを用意する。 やかんに準備されていたショコラトルを、クアゥテモクさま専用の美しい黄金の杯に、高い位置からそそぐ。風味づけのバニラの粉末を少しふりかけて、はいどうぞ。 泡だった黒褐色の液体が、クアゥテモクさまのお口に運ばれる。こく、こく、とかわいらしく音を鳴らしてお飲みになられた。杯が卓に置かれたので、わたしはクアゥテモクさまのお口を手拭いでぬぐった。 ショコラトルは、カカオ(カカオトル)、とうもろこしの粉、赤とうがらしの粉、砂糖、はちみつ、ありみつ、あとは細々とした香草などを絶妙に配合させて作る、滋養豊かな飲み物だ。甘く、こくがあり、うま味とから味がカカオの風味をひきたてる。高貴な方々のためのものだ。わりとおいしい。なんでわたしが味を知っているかというともちろんこっそり隠れて飲んだことがあるからだ。 さて、最後に煙草の準備。とうもろこしの芯で作られた煙管に、煙草の葉とバニラの粉末を入れる。火鉢からひとかけらの炭をのせて、はいどうぞ。 クアゥテモクさまがゆっくりと息を吸うと、じりじりと葉が燃えていき、火がついた。あとは火箸で炭をのける。 煙をぷかぷかさせる神秘的美少女クアゥテモクさまは、肘かけに肘をつきながら、ぼんやりともくもくすぱぱ。もうあとはたいしてやることはない。 というわけで目配せ。絶妙な連携によって、下がる者と留まる者を決めて、交代で食事をしにいく。二人の側仕え、二人の小姓、二人の相談役おじいちゃん、二人の豹戦士が下がっていった。わたしふくむ。 身分の高い順番に並べると、おじいちゃん、豹戦士、側仕え、小姓、みたいなかんじなので、ふつうは身分に合ったもの同士で食事をしにいくのだけれど、自由人奴隷代表のわたしはてくてく歩いていく戦士さまの服をつまんだ。 「チマルマ、一緒に食べましょう」 精鋭近衛戦士部隊の中でゆいいつ女性で豹戦士(オセロメー)を名乗ることが許された濃褐色の美人さん。ほんのりと眉をひそめているのがまたそそります。 黒豹の毛皮でできた胸当てと腰当てが目印のかっこいいチマルマ、少し顔をしかめる。 「マリーナ、宴の最中だ。あまり習わしに背くことはよくない」 ということで断ろうとするものの、もうひとりの豹戦士さんなんかは苦笑しているし、おじいちゃんも笑ってる。ふはは、わたしに逆らえるようなやつはクアゥテモクさま以外にはいないのだ。 「わたしが作ったんですよ、トラカトロリ。自信作です」 「そのトラカトロリも問題だ。あれは神聖な食べ物であるし、滋養があればいい。味を整える必要などない」 「まあ、まあ、かたいこといわないで」 チマルマのかたくてがっしりとした手を掴んで、ずるずるとひきずるように広場のはじっこの卓へ。てきとうにおいしそうなものももっていった。 「じゃあ食べましょう」 「はあ」 クアゥテモクさまの目の届かないところであれば、座ってもいいことになっているので、こちらには椅子がある。その簡単な作りの椅子に、ため息をつきながらチマルマは座った。お貴族さまや名主さまたちはいろいろと挨拶や世間話でもあるはずなので、たぶんつっ立っているはず。おえらいさんも大変だなぁ。 てきとうに、とうもろこしの生地で肉とか葉っぱとか包んで、もぐもぐ食べる。はーおいしい。 チマルマはかぼちゃが好きなのか、やわらかくしたかぼちゃをどっさり生地にのせて、肉ものせてから包んで食べている。体格いいし背も高いし筋肉すごい、かぼちゃの恩恵なのか。 「いやぁ、今日も疲れましたねえ」 「われらが主君はいまだ王としての責務を果たしているのだぞ。早く食べて早く戻らねば」 「いやいや、あとは煙もくもくしながらお喋りするだけじゃないですか。ずっと立ってるのもおちつかないですよう」 「信じられぬほど自堕落な側仕えだな。お前が戦士なのだとしたら、私みずからが性根を叩き直してやるところだ」 チマルマ怖い。いや違うんだ聞いてくれ。 「お世話できるなら楽しいんですけどね、髪をとかしたり爪を磨いたり肌に香油をぬりこんだり。でもどうしたって儀式や宴があると、なかなかお世話をする機会もありませんし。ほら、こういうときだと側仕えも増えるじゃないですか」 「まあ、そうだな」 「四で揃えたいのはわかるんですけどね。もういっそのこと一人づつにすれば、きっちり四に揃うのに、とか思います。チマルマひとりいれば、大抵のことはどうにかなるでしょう?」 「偉大なアステカ王国王のそばにそれしかいないのは問題だ。実務の話ではなく格調の話であるのだから」 あー、宴めんどくさいー。手間ばっかりかかって、疲れるんだよ。まあトラカトロリ食べられるのはいいんだけど。 ということでお碗にそそがれた汁をすする。うむ、やはりいい出汁がでている。とまとと赤とうがらしの組み合わせは説明不要の相性だ。われわれアステカ民の魂に響く。 お腹がよろこんでいるのがすごくよくわかる。ふいー、大満足。 「そういえば、たまに忘れそうになるが、マリーナは奴隷であるのだろ」 「ええ、そうですね。ちゃんと首輪してますよ」 あごを上げて、柔皮でできたいいかんじの首輪を見せる。 「なぜ奴隷になったのだ」 「あー、あれです。実はわたし育ちがいいんですけど、幼いころに父が死んで、ええと、新しい父ができたんです。それで弟が生まれたんですけど、わたしがいると世継のあれこれでもめそうだなぁ、ってなったので、売られてしまいました」 アステカ王国のけっこうはじっこのほうにある、そこそこ大きな辺境の地、そこを治める名主の娘。かつてはそんなだったもよう。当時はけっこうしんどかったけど、いまはしょうがないかなってくらいの気持ち。 チマルマが眉間にしわをよせる。悪い虫でも食べたかのような表情だ。 「よく生きていたな。それは、神々に捧げる供物になっていたとしても不思議ではない」 「わたしとしては、まあ、とくに未練があるわけでもなかったので、それでもよかったのですけど、見目がよかったので、はい」 あとは、それなりに物覚えがよかったことが働いたのだろう。 十歳ころの話かな。あのころからでもわたしはマヤ語とナワトル語を話せた。たいていのことは一度教えられたら覚えた。一応はいいところの娘であったので、多少の教育や躾もされていた。ちなみにいまは七つほどの言葉を話せる。マヤ、ナワトルをふくめ、トトナカ、ミケ、サポテカ、ミシュテカ、オトミ語だ。タラスコ語とかいう田舎言語はちょぴっとだけ。ありがとう街道商人のみんな。 「そういうチマルマはどういう経緯で豹戦士に?」 ひととおり食べおわったチマルマは、杯に入った竜舌蘭酒(プルケ)をぐいっと飲む。ひとつ息を吐き出して、ちょっと遠くを見る。 「なりゆきで、としか。私は下級貴族の出なんだが、両親としてはお前と同じような側仕えにする心づもりであったらしい。だが、私は身体を動かすほうが得手で、鷹戦士(クゥワクゥワウーティン)になったのだ」 鷹戦士ならば、それなりに女性もいる。梟戦士、狼戦士も同様だ。 しかし、髑髏戦士や豹戦士までいくと、いない。特別な意味を持つ戦士だからだ。 「町の治安維持、巡視、危険な害獣の退治、戦、いろいろやって、それらの手柄が認められた。女で豹戦士は前例がないと問題にはなったが、基準は満しているし、女の豹戦士も必要だろうという結論になった。クアゥテモクさまは女性であらせられるからな」 はえーすごい。化物だなぁ。 「豹戦士って素手で豹(オセロトル)を倒すのが基準のひとつって聞いたんですけど、ってことは」 「私が身につけている黒豹の毛皮は、私が仕留めたものだ」 ひぇー。 「わたしも一応はクアゥテモクさまの側仕えとして、護身の術などを身につけてますけど、いやぁ、豹戦士は別格ですねえ。いつごろやったんです?」 「二十ないし二十二のころだと思う」 「あれ、そういえばチマルマっていくつでしたっけ」 「いまは二十八だな」 なんと、二十代だった。風格が歴戦の戦士なのでもうちょっといってるかと思ってた。 ああでも見た目はきれいだから若くも見えるんだよなあ。戦士さんはやっぱり独特の空気がある。 「近頃はクアゥテモクさまの護衛任務や戦士育成所での監督ばかりで、いささか退屈だ。また石剣(マカナ)を振ってウィチロポチトリ神に花を捧げたい。戦がなつかしいよ」 ちょっとお酒入ってるからか、びみょうに愚痴っぽくなってるチマルマ。なんだこいつかわいいぞ。 「ささっ、どうぞどうぞ」 「いやもうけっこうだ。戻るぞマリーナ」 お酒すすめようとしたもののすぱっと断わられてわたししょんぼり。くっ。 ――知らぬ女とかかわりを持つな、清潔に生きなさい。この世にふたたび生まれることはなく、また一生は短く、苦労とともに過ぎていく。やがてはすべてが果ててしまうのだから。―― ソリタ『ヌエバ・エスパニャ報告書。親から子へ伝える教訓』より 儀式がおわって次の日。うーん朝日が気持ちいいなぁ。 今日はとくに急ぎの予定もないので、だらだらと着替えて身支度ととのえて、寝室を出た。 あんまり早く起こすと、クアゥテモクさまも不機嫌になっちゃうからね。てけとーに時間つぶしてから起こしにいきますか。 ぷらぷらと歩いてなんとなくかまどの間にいってみる。軽くなにか食べようかな。とうもろこしの髭で茶を作るのもいいし、生のとまとをかじってみるのもいい。干乾しとうがらしもけっこうおいしいんだよね。 高貴な方々にふるまう食事を作るところなので、当然広いし、調理器具もめっちゃある。石を削りだして作った鍋や、焼き物をするための石版、とうもろこしやとうがらしを粉末にするための臼に、黒曜石の調理刀がずらりと並ぶ。食器も、ひょうたん(マラカ)の実をわって乾かしたものや、金銀の匙、お碗、湯呑み、その他いろいろ置いてある。土と人骨を砕いて混ぜて焼いた陶器もあったりする。 わたしよりも早く起きて、お仕事をしているひとたちが何人かいるようだ。む、見覚えのない男の子が一生懸命水がめを運んでいるではないか。水がめを置いて、ふうと一息ついてるその子を背後から抱き締める。 「わ、わ」 「君かわいいねえ、最近きたの?」 服のすそからするりと手を入れ、肌をやわやわとさわる。耳にはふぅと息を吹きかけた。 ぐへへ、お姉さんとちょっといいことしようか。 「や、やめてください」 「だいじょうぶ、とってもきもちいーよ。ふぅ」 はずかしがっちゃって、かわいいなぁもう。耳なめ、はむはむ。 とやってると、頭をすこんと叩かれた。 「なにやってるんですかマリーナさん」 側仕え仲間の子が、呆れ顔で立っている。 男の子はそのあいだに、ぴゃーとどっか行ってしまった。かなしい。 「ひとのお楽しみを邪魔するとは、おのれ」 「朝からやめてくださいよ、もう」 「うーん、あの子ぜったい素質ありそうなんだけどなぁ。たぶんおしり舐めたらすぐひんひんいうよ」 「え、おしり? え?」 「あ、やってあげよっか。きもちいーよ」 「いやいや、というかなんですか、わかるって」 「おしりいけちゃうひとは、なんか反応が違うの。まあだいたい舐めれば一発だね」 「は、はあ」 「あとは、四つんばいになったときに、こう、おしりがくいっと上がってるひとは、だいたいやってる。あとは指を入れたときにするっといくひともあれだね」 「というか、そういう話はいいんですよ!」 淡褐色の肌を真っ赤にそめちゃう後輩ちゃんかわいい。 そっと抱きしめ。 「んふふ」 「ほんとにもう、見境ないですね。呆れます」 背は同じくらいなので、正面から抱きしめると顔がよく見える。まつげが長くて瞳がうるうるしてて、これはたまらない。今夜はこの子に決めた。ちゅーしようとすると人差し指で阻止された。な、なぜ。 「クアゥテモクさまを起こしにいってあげてください。最近はマリーナさん以外の側仕えだとすぐ癇癪を起こしてしまいますから」 ああ、そろそろお部屋にいってもいいかも。 彼女を離し、てけとーに生とまとをかじってお水を飲んで、かまどの間を出た。 クァウテモクさま、非常にめずらしいことに、起きていらしたもよう。 身体を起こして、ぼんやりと朝日を眺めていらっしゃるクアゥテモクさま。なにやら詩を歌っているご様子です。 この世に永遠はあらじ ただしばしの間のみ 翡翠は砕け 黄金は溶け ケツァール鳥の羽根は折れ この世に永遠はあらじ ただしばしの間のみ 「ネサワルコヨトルさまの詩ですね」 挨拶の代わりに、わたしはそういった。 クアゥテモクさまは、あまり判然としない表情。なにかに浸っているような、あるいは憂いているような、そんなふうに見える。 あ、これ、痛いやつだ。思春期特有のはずかしいやつだ。 やはりお年頃となると、なんだか心が不安定になるのか、変にかっこうをつけたり、なにもかもがわかったかのような達観した様子をしてみたりと、いろいろあるのだが、クアゥテモクさまはどうやら達観系のやつにそまってしまったもよう。 断食する狼の意味の名を持つネサワルコヨトルさまは、そういうちょぴっと痛い時期の子に大人気の名主さまである。戦でも大活躍し、治世も安定していたことでおなじみの名君だ。詩人としても知られ、先程の詩などはとても有名だったりする。 湖上都市テノチティトランのいくつかの神殿も、ネサワルコヨトルさまの治世で建造されているし、なによりも水道橋が大きい。この大都市への飲み水を安定して供給するこの水道橋がなかったら、テノチティトランの発展も進まなかっただろう。 名前についてのまめ知識。ネサワルコヨトルさまもそうだけど、王や名主の名前はざっくりとした慣例がある。だいたいは動物などの単語を入れて、それに、なになにする、みたいな言葉を足す。人気のある動物は、豹や鷲や鷹、狼や兎、めずらしいところだと、かえるとかだろうか。 盾に爪をたてる豹、食い散らかす雷鳥、燻ぶるかえる、とまあこんなかんじである。 これはアステカだけではなく、近隣の国もだいたい同じようなもので、言語が代わるだけだ。ナワトル語だと、ケツァルコアトル神。マヤ語だとククルカン神。意味はどちらも羽毛ある蛇。 では庶民の名前はどうか。多いのは、生まれた月の名前や、花や草木に動物の名前だ。そこらからもじってつける。ちなみにわたしのマリーナっていうのは、葦(マリナル)からきている。葦なんてのは湖や川の近くでいくらでも生えてるありきたりな草。な、なんと単純な名前なのか。 「マリーナ」 「は、はい葦です」 いけないぼーっとしていた。なんでしょうかクアゥテモクさま。 「市場にいってみたいのだけど」 む、なんだ突然。いったいどうしたのか。 しかし主の期待に応えるのが、よく訓練された側仕えというもの。 「かしこまりました。輿を用意させます」 「そうではなくて」 ん、なんだ、もしかしてもしかすると。 「お忍びで、市場を散策されたいということでしょうか」 「ええ」 おおっとこれは大胆なお願いであります。尊きお方であらせられるクアゥテモクさまが、気軽に動けるところというのは数が少ない。このお屋敷と、中庭にある動物園や植物園、あとは戦士育成所であったり、ほかのお貴族さま、名主さまの屋敷くらいか。 そんなクアゥテモクさまが、市場へ。どうしたものか。 「お供の数はいかほどがよろしいのでしょうか」 「マリーナひとりではいけないのかしら」 あ、ちょ、これはまずいぞ。さすがにそんなことわたしの独断でやったら即生贄にされてしまう。 うーん、なんで急に市場にいきたくなったんだろう。それがわからないからちょっと判断に迷う。 「なにか欲しいものがあるのでしたら、用意させます」 「わたしは、市場を見てまわりたいの」 観光目的かぁ。 たぶん、気づまりなのかな。密室、というほどでもないけど、籠の中の鳥、くらいにはクアゥテモクさまは不自由だ。王というものがそもそも不便なものであるけども、クアゥテモクさまはまだ若すぎる。実務のほうは副王の方がさばいていらっしゃる。 わたしとしては、その願いを叶えてさしあげたいけれど、やはりむずかしい。 というか最近のクアゥテモクさまの癇癪とかの原因って、もしかしてそれなのだろうか。習い事にお勉強に儀式の練習、王として学ばなければならないことはとても多い。もちろんわたしたち側仕えや、年寄り連中などが全力で支えてはいるが、義務の多さに辟易しているのかもしれない。 でもなぁ、さすがになぁ。わたしひとりじゃちょっと、どうにもならない。 ごめんなさいクアゥテモクさま。と思いつつ、神妙な顔を作ってみる。 「それは、承服しかねます」 「どうしてかしら」 「間違いがあってはならないからです。二十にひとつ、四百にひとつ、八千にひとつの間違いであっても、クアゥテモクさまのお立場から考えると、許されません。市場がそれほど危険に満ちている、というわけではございませんが、人が非常に多いです。なにかの偶然が重なってしまえば、クアゥテモクさまの安全を保証できません」 めったにあることじゃないけれど、人さらい、すり、強盗、悪漢、酔っ払い、あとはアステカ王国に恨みをもつ者が、クアゥテモクさまの素性を知って、襲ってくる可能性もまったくないとはいいきれない。 たぶんだいじょうぶ、ではだめ。ぜったいに安全でなければ。 クアゥテモクさまは、すごく不機嫌そうな表情をしながらも、不満はいわなかった。 わたしはクアゥテモクさまの頭をなでなでしながら、笑顔でいう。 「慰みがほしいのでしたら、動物園にいきましょう。最近獣使いのかたから学んだ芸をお見せいたします」 びたんとひっぱたかれた。な、なぜなのか。 お屋敷の中庭には、動物を放し飼いにしている空間がある。 草木や花などは、庭師が丁重に管理して、動物などは調教師が管理する。細々とした世話もいっぱいあるので、ここで働いている者も多い。ちらほらと、水がめを運んでいる小姓の子や、草木の枝を裁断しているおじさん、ぐえぐえ鳴く七面鳥にできそこないのとうもろこしをあげているお姉さんもいたり。 いわゆるここが、アステカ王国王ひとりのために管理された、動植物の庭園である。 きれいに掃き清められた砂利道を、不満たらたらのクアゥテモクさまとお散歩。すべすべお手々をそっと掴んで、てくてく。歩くたびにさくっさくっといい音がでるのでなんとなくたのしい。 ざっくりと生き物は棲み分けされている。危険な豹や鷹、凶暴な豚(コヤメトル)、毒を吐く栗鼠(ポトル)などは、あまりひとめの触れないようなすみっこの檻に入れられている。比較的おだやかであたまのわるそうな生き物は放し飼いにされていたりする。七面鳥やがちょう、かも、うずらなんかも放し飼い。ところどころに作られている小池にぷかぷか浮かんでは、調教師お姉さんがぶん投げたとうもろこしをついばんでいる。あいつらばかだから、池に浮かんだものはぜんぶ食べ物だと思ってるふしあるからな、ちょーうける。 少し歩いたところにある、ちょっとした休憩所のようなところに到着。長椅子に卓と屋根がある、お花見しながらお茶でもどうぞな空間だ。長椅子に織物をしいて、ちょこっとととのえて。 「どうぞ」 クアゥテモクさま無言で座る。というかねそべった。ご機嫌ななめな様子。 な、投げないでね、石投げないでね。 「さっき、芸とかなにかいってたようだけれど」 「はい。少々お待ちください」 「くだらないことだったら、革鞭で叩いてやるわ」 え、そんな、背中にみみずばれができるくらいのやばいやつだったらどうしよう、はあはあ。 ちょっと意識飛んでた。妄想しすぎるのもよくないね。よーしいくぞぉ。 「ふぃゆ、ふぃゆ」 いきなりなにやってるんだこいつ、みたいな侮蔑の目で見られつつ興奮しつつ、声を出しつづけた。 「ふぃゆ、ふぃゆ、ふぃゆ」 しばらく同じちょうしで声を出すと、遠くから似たような鳴き声が返ってくる。 「ふぃゆ、ふぃゆ」 一羽、二羽、三羽、ばさばさと音を立てて飛んでくる。そして、わたしの右肩、左肩、あたまにちょこんとのっかった。 「へえ、ケツァールを呼んだの。そんなことができるのね」 ケツァール鳥。この世でもっとも美しいとされる鳥。 鮮やかで、ずいぶんと深い色見をもった緑の羽根が生えている。お腹は赤く、これも深い色合い。瞳はつぶらで、なんともかわいく愛らしく、そしてなによりの特徴が尾羽。わたしの腕ほどの長さのある、ひときわ美しい緑色の羽根が、ゆらゆらと揺れている。 そしてそして、ただでさえめっちゃかわいいケツァール鳥。わたしのあたまに立っているのは、なんと色違い。純白のケツァールだ。お腹と瞳がほんのり黄金色というもうめずらしいことこのうえない、どんな金細工を山ほど積んだとしても、釣り合うことはないだろう、って子。 「ふぃゆ、ふぃゆ」 わたしがふぃゆ、というと、ケツァール鳥も同じように声を出す。音はすごくかわいらしいんだけど、実はこれ女の子が男の子ケツァールに「なんだかすっごく子作りしたいかも、うっふん」みたいな意味だったりする。それで、いちばんかっこよくてきれいな男の子ケツァールを探すのだ。 すまぬ、ケツァールよ、わたしは卵を産めないのだ。しくしく。 「お気にめしまして?」 「ええ、おもしろかったわ。これほど間近でケツァールを見るのははじめてよ」 そうだろうそうだろう。この鳴き声をうまいことだすために、熟練のケツァール鳥捕獲職人さんにじっくり教えてもらったんだから。簡単にできちゃあ、商売あがったりってもんです。 「ええと、ふぃゆ、ふぃゆ?」 ふふん、簡単そうで、そうじゃないってところが、この鳴き声の。 「あら、意外と簡単ね」 そ、そんなばかな。三羽のケツァール鳥、ばさばさと飛んで、クアゥテモクさまのまわりに止まったぞ。 「なつこいのね。ケツァールは警戒心が高くて、めったにひとの近くにはよらないと聞いたのに」 クアゥテモクさまが指先でちょんちょんさわっても、羽根をなでても、ケツァール鳥は逃げなかった。というかむしろきもちよさそうにふにゅってなってる。 か、完全敗北。がくっ。 クアゥテモクさまの部屋にもどって、お茶を飲んでもらいながらお世話をする。 椅子にすわって優雅にとうもろこしのひげ茶を飲むクアゥテモクさま。だらりと伸ばされているおみ足にそっと手をそえて、やすりで爪をととのえる。細心の注意をはらいながら、一本一本磨いていく。 磨きおわったら、水をふくませた木綿の織物で足を清め、つづいて乾いた布でぬぐう。仕上げにほんのりとさわやかな香りのする香油を足首にちょこっとぬって、おしまい。 足のお手入れがおわったのがわかったクアゥテモクさま、意地の悪そうな顔をして、足をひょいと上げた。そしてわたしの顔を踏む。 「文句でもあるの?」 「いえ」 膝をついてるわたしは、黙ってクアゥテモクさまのいたずらを受け入れる。 足の裏の少しかためで、やっぱりやわらかい皮膚、それが顔いっぱいにかんじる。それほど力は入れてないようで、多少圧迫されるだけだ。 近頃のクアゥテモクさまは、こういったいじわるを好んでおられる。まあ、いろいろ溜まっておられるのでしょう。性根がやさしいので遠慮があるのがわかる程度の、かわいいものだ。こうやって顔を踏んでいるのも足を清めおわったあとだ。もうちょいきつくてもだいじょうぶです。 若干興奮しつつも、それを表に出してしまっては興がさめてしまうものだ。わたしは少しかなしそうな表情を作って、屈辱にたいして必死に耐えている奴隷を演じる。膝のうえでこぶしを作るのも忘れない演出家のわたし。 「なまいきね。ひざまづきなさい」 「はい」 クアゥテモクさまの足がのけらたあと、少しの間を作って、じっくりゆっくりたっぷりと平伏した。床にひたいをつけると、ひんやりしてきもちがいい。 後頭部に圧迫をかんじる。ひゃぁあ、クアゥテモクさまに踏まれてるぅうう。 「下賎な奴隷女には、身の程を教えてやらないとね」 「はい」 「あなたなんて、足の裏をぬぐうための雑巾にも等しいのよ。それを教えてあげているの」 「はい」 「はいではないでしょう」 「ありがとうございます」 ふひぃ、よだれがでそうになるくらい興奮しちゃうよぉ。この屈辱感がたまらないよぅ。 「そもそも、わたしの肌にふれることはおろか、視界に入るのでさえ不敬なの。本当は、ぼろでも着て、できそこないのとうもろこしでもかじってるのが似合いなのだから。いまこうしてこの場にいられるのは、わたしの寛大な温情であるの。わかる?」 「はい、はい」 「そうね、あなたに人間の言葉はふさわしくないわ。せいぜい七面鳥の鳴き声ね。ほら」 ぐりぐりとおしつけられるクアゥテモクさまの足裏。 ひ、ひどい、なんてひどいことをいうんだ。よりにもよって七面鳥の声で鳴けだなんて。 そんな、ああ、鼻血でそう。びくびく。 「くぇ、くぇ」 「うわぁ、なさけないわ。ものすごく無様ね」 「くぇ」 「そんなみじめな気持ちになるくらいなら、わたしは神々に心臓を捧げたほうがよっぽどいいわ」 「くぇぇ」 冷たい言葉と、足裏の連携がすさまじく、わたしの頭の中が沸騰してしまいそう。 い、いつの間にこれほど上手になられたのでしょうか。このマリーナ、感激です。 おかわりがほしいので、ものすっごくまぬけな七面鳥の声を出していたのだが、クアゥテモクさまの責めは突然中断された。足はどかされ、言葉もなくなる。 な、なぜ、いますごくいいところだったでしょ。 ひどいよ、あんまりだ。 というわけですっごく物欲しそうな顔でクアゥテモクさまを見上げた。 「ねえ、マリーナ」 「くぇ」 「もうそれはいいから」 え、ひどい。お前が鳴けっていったんじゃないか。 おしおきするぞ、ぐへへ。 「どうしても市場にいきたいのだけど」 え、あー、そっちか。 二度目のお願いです。でもだめですよ、クアゥテモクさま。外は危ないですからね。わたしの頭でもふみふみして鬱憤をはらすがよいのです。縄でつないでお散歩とかそういうのでもだいじょうぶです。 「ねえ」 「承服しかねます」 「もう一度いうわ。どうしても市場にいきたいの」 三度目のお願い。 なるほど、なんかわからないけど実は目的があるのかな。ただのうさばらしのためにここまでわがままいう子じゃなかったし。 警備の人数を増やしてもらうことを了承してもらえるのなら、なんとかなるのかな。チマルマがいれば大抵のことはどうにかなるだろうし。でもあれかな、頭のかたい年寄り連中を納得させるためには、最低四人は必要かな。うむ。 「お供がわたしひとり、というのはどう考えてもむずかしいです。最低四人、豹戦士を護衛としてつけるのならば、おそらくは可能であると思われます」 「チマルマだけならいいわ。マリーナとチマルマのふたりきり」 「それだけでは、副王さまをはじめ、多くの方々が納得されません」 「マリーナも、チマルマがいればどうにかなると思っているのではないのかしら」 「わたしがそう考えていたとしても、やはりむずかしいです」 だめなものはだめなのよん。ごめんなさいね、クアゥテモクさま。 護衛をつければいいんだから、そこを納得してもらえば、いつでもだいじょうぶですよん。 まあ、いってることもわかる。四人もいかつい豹戦士がついていたら、もはやお忍びの体裁はととのわない。目立ってしょうがないだろうし、隠しきれるものでもない。体裁をたもてるぎりぎりが、わたしとチマルマだろう。 さて、クアゥテモクさま、いかがいたしましょう。 無茶をするには、あとひとつ、必要ですよ。 「マリーナ」 「はい」 「市場にいかせて」 四度目のお願い。 ありがとうございます。これでわたしも思う存分、クアゥテモクさまの力になれます。 「かしこまりました。万事つつがなく、準備を整えさせていただきます」 慣例は教えた。権限も、地位も、ご自身の意味も。それでも四度願われた。 ならば主のために全力をつくそう。 それだけの強い意思であるのだから。 ――この地の人々がなにかしら沽券にかかわることで喧嘩を始めた場合、両者とも精力を使い果たし、喧嘩を止めて立ち去るとき、あいつは奴隷の子だ、という。これは、その昔、貢ぎ物として配られた妾が生んだ子を意味する捨てぜりふなのである。―― ディエゴ・ドゥラン『ヌエバ・エスパニャのインディアスの歴史』より 「というわけでー、市場にいくのもけして悪いことばかりなわけじゃないと思うんですー。ほら、なんだかんだで箱入り娘っていうかお姫さまじゃないですかー。世の中を知るってのはきっとこれからのクアゥテモクさまのためにもなると思うっていうかー。あと最近はなんか大変なんですよね側仕えとしてー。さっきも顔ふまれたし七面鳥のまねさせられたしー。尊きみなさまがクアゥテモクさまを大事にしたがる気持ちってのは痛いほどよくわかるんですけど、そうやって抑えつけた結果の不満がぜんぶわたしたち側仕えにむかってってるのもあるんですよー。だからここらで一度くらいわがままを許してあげたほうがいいんじゃないかなーって。というかおじいちゃん連中も最近は冷たくされてるじゃないですかー。市場にいくことを許していただけるんならそこらへんわたしが調整してクアゥテモクさまを説得しますのでー。ていうか四度のお願いをさせたことにわたしたちはもうちょっと反省をするべきではないかとー」 「ああいいわかったわかった。反対はしない」 クアゥテモクさまにお願いをされてまず最初にきたところは、副王トラカエレルさまの執務室であった。 トラカエレルさまはもうけっこうなお歳で、おじいちゃんといってもいいくらいの年齢。それもそのはず、クアゥテモクさまをふくめ、なんと三代前の王からアステカ王国を支えている影の立役者なのだ。 というかぶっちゃけ現在の政務はほぼトラカエレルさまがやっているというね。表にはあまり出ないけれど実際王みたいなもの。アステカ王国の版図を広げ、法律を整え、民衆に国民意識を持たせるための神話の編集などもしちゃってるんだからもうすごい。 いまは貢ぎ物の中身を記録した書類を確認しながら、わたしと話している。 「ほんとです?」 「ほんとうだ」 怒涛の説得に副王さま辟易しちゃったのだろう。やったぜ。 「ただし、豹戦士長と詳しく警備の計画をたてなさい。できれば今日ではなく時期をはかってもらいたいものだが」 「たぶんクアゥテモクさまが納得しないのでむりです」 「ああ、お前がそういうならそうだろうな。わかった、すべてまかせる」 「はーい」 頭はおさえた。ほかのお偉いひともこれで黙るだろう。ふふふ あ、そうだ。 「忘れるところでした。おこづかいください。金砂と銀粒をいくつかほしいです」 「カカオ豆ではだめなのか?」 「もちろんカカオも持っていきますけど、うーん、念のため、ですね」 「はあ、わかった。あまり派手に使うなよ」 副王さま、棚からいくつかの袋を取り出し、机に置いた。 やったぜおこづかい。いただきます。 「それにしても、ずいぶんと変わったな」 「はぇ?」 「マリーナ、お前のことだ」 ああ、たしかにそうかもしれない。 こっちにきた当初は副王さまの補佐のお仕事もしていたからなぁ。たまにはそのときのできる女感を出したほうがいいのかもしれない。 「お前に仕事をさせると楽になるんだが、これでよかったのだろうと思っている」 「ういうい」 「クアゥテモクさまを頼む」 あれちょっとまじめな空気。 わたし、ひとつ咳払いをして、きりりと表情をしめる。 「かしこまりました」 お次に到着したのは戦士育成所。 むさい男のひとたちが毎日肌を合わせている、とかいうとなんだか男色者(クイロンポレ)の香りがするふしぎ。もちろん闘技の練習をしているだけなのでご安心を。 でっかい広場のあちこちで、剣や槍、盾、弓や投げ槍、投石、さまざまな武器や武具のあつかいを練習している。無手での格闘術もよく練習されているようだ。道具っていうのは壊れることが多い。投げ槍は一度投げたら折れるし、弓の弦も切れることがある。だからこそ、なにも持たない状態での戦いの技術というのは、重要だ。 そんな格闘術を練習する一角で、チマルマが二十人の男に襲われている。 「二十人組み手だな」 「あ、いいところに」 いかついおっさんあらため、豹戦士長さん登場。男らしい筋肉とひげが特徴だ。 「クアゥテモクさまが四度の願いをされたそうだな」 「そうなんですよー。だから相談があってー」 「まあ待て。チマルマの組み手がおわるまで」 といって、チマルマが立っている広場を指差す。 広場の中心にはチマルマがいて、それを円形で囲むように、男のひとたちが立っている。 じりじりと近づいてくる男たち、チマルマは自然体だ。 始まりは一瞬のことだった。突然チマルマの背後にいる男が走って襲ってくる。腕を掴まえた、ように見えた次の瞬間には、男のひとは地面に倒されていた。 時には二人、三人同時に襲ってくるものの、すべてが一瞬、地面に倒されている。 打、投、極。ありとあらゆる技を、時には力を使わずに流し、時には力だけで強引に放つ。 柔と剛を織り交ぜた、おもわずため息がこぼれてしまうほど、見事なチマルマである。 最後には、息を乱した様子のないチマルマひとりが立っている。 「いやぁ、あいかわらずすごいですねー」 「そうだな。女の身であれほど腕のたつものはいないだろうな」 「豹戦士の中では、チマルマってどのくらいの強さなんでしょう」 「そうだな。真ん中には届かないが、低いほうでもない」 「ええ、ていうかあれだけできるひとがまだまだいっぱいいるんですか」 「豹戦士というのは、それだけ特別な戦士ということだ」 「はぇー」 「マリーナもやってみるか。チマルマと」 え、いやいや、死んじゃいますって。あんな脳筋女豹と戦ったら。かんべんしてください。 とか思ってたらチマルマがすごい笑顔でこっちを見てる。 「いやいや、相手にならないですって」 「チマルマはやりたそうにしているぞ」 「わたしはあくまで側仕えの領分としての護身の術くらいしかですね」 しっかりと説明したはずなのに、わたしはチマルマの前に立たされていた。ひどい。 「取り決めはさきほどと同じでいいな。相手を傷つける行為はなし。背中が地面についたら負けだ」 「はあ。わかりました」 「悪いな。一度でいいからマリーナをおもいきり倒してみたかったのだ」 えーんえーん、ひどいよー。 もうしょうがないから、なるべく痛くないようにさっさと負けよう。 「あまりにも無様な負けをさらしたら、わかっているな」 うぉおおお、全力出すぞぉおお。 というわけで試合がはじまった。 ていうかどうやってもチマルマを倒せないというね。筋肉のかたまりだし、背もあっちのほうが頭ひとつぶん高いし、豹戦士だし。どないせいっちゅうねん。 チマルマ、ゆっくりとわたしの服を掴みにくる。とりあえず、落とす感覚で、伸ばされた腕をはじく。そういうやり取りが、だんだんと早くなっていった。ぱん、ぱん、くらいの感覚から、ぱっぱっぱ、ぱぱ、くらいの感覚へ。ちょっとまじ早いんですけど怖いんですけど。 「思っていたよりも動けるのだな。感心したぞ」 「いやもう限界です勘弁してください負けでいいです」 「それはだめだ。許さない」 掴むだけだったチマルマ、なんと打撃も混ぜてくるようになった。 ちょっと、当たったら痛いやつじゃんやめて。 右のまっすぐ、左のかぎ打ち、足は前蹴り廻し蹴りとかなりやばい。 必死にはたいたりかわしたりしてるけど、もうむりぃいい。 「逃げてばかりでは勝てないぞ。そちらから攻めたらどうだ」 ええいもうやけくそじゃ。 一瞬とぎれた打撃の隙をついて、一気に間合へ踏み込む。 チマルマの腕と腰をつかんでひっぱって重心を崩してから、軸足をいっきに刈りとる。 「動きはいいが、やはり筋肉が足りないな」 かりとれませんでした。びくともしないです。 チマルマ、わたしの服をつかんで、えいっとする。 わたし倒れる。負けました。 ひどいよぉ、チマルマのあほー。 「マリーナ、悪くなかったぞ。これなら最低限の警護は任せられる。安心した」 「おこちてくだしゃい」 チマルマ、ため息をついてから、わたしの手をとってひっぱりあげてくれた。ついでに服についたほこりとかもはらってくれる。 「じゃあさっそく、話しましょうか」 ちょこっと離れたところにある、休憩用の長椅子に座る。 豹戦士長とチマルマとわたし。 とりあえずわたしからてけとーに。 「それで、こんな経緯でクアゥテモクさまの市場見学がなされることになったんですけど、ぶっちゃけチマルマひとりいればどうにかなりそうなんで、もういってきていいですか?」 「馬鹿をいうな、許されるわけないだろう。クアゥテモクさまのまわりには、わたしとマリーナだけになろうだろうが、周囲にも警戒が必要だ。豹戦士では目立ちすぎるだろう、適任は梟戦士だな。精鋭を選んで四人ほどひっぱってこよう」 「そうだな、妥当だ。そして市場への見学だが、道順は決まっているのだろうか」 「いえ、ああでもたぶんこういう道順ってのはあるんですけど」 「いまのうちに決めておけ。通りそうなところには、鷹戦士を立たせておこう。そうだなざっと二百ほどをばらばらに配置するか」 「そうですね、充分だと思います」 「あとは、いつでも増援を送れるように、豹戦士を二十人ほど待機させておこう。梟戦士たちから定期の報告をさせ、異常が発生したら、ただちに向かう」 「ええ、これで八千にひとつの間違いもないでしょう」 ひぇええ。なんかすごい大事になってるぅうう。 「あ、あの、クアゥテモクさまにばれないようにしてくださいね」 「ああ、わかっている。それがクアゥテモクさまの望みであるからな」 そうして警備の計画がどんどん決まっていく。 いやぁ、一度決まると、早いよなぁ。これなら安心して遊びにいけるね。 期待しててもよさそうです、クアゥテモクさま。 ――大広場についた途端、われわれは今まで見たこともない光景に、すっかり感嘆の念に打たれてしまった。広場にひしめく無数の人と大量の品物、隅々まで行きわたっている秩序と規律、そのすべてが驚きであった。―― ベルナル・ディアス・デル・カスティリョ『ヌエバ・エスパニャ征服の真実の歴史』より 現在、小舟にのって移動中。 テノチティトランには無数の水路があり、小舟での移動というのは一般的だ。早いし、らくちんだし、なんとなくたのしい。というわけで、わたしとチマルマ、クアゥテモクさまの三人が、ゆらゆらと進んでいる。 クアゥテモクさまの格好には少々悩んだが、とりあえずめちゃくちゃ目立つであろう白い髪だけは完全に隠さなければならない。ということで、比較的地味なくすんだ白い織物をかぶってもらっている。 「市場にいったことがないだなんて、あんたのご主人はそうとうな身分なんだねぇ」 「そうなんですよー。お忍びで、ちょこっと見てまわるつもりでー」 わたしは船首のおっちゃんに返事をする。 さて、このあやしげな三人組のことを聞かれたときにどうするのか。というのもけっこうな悩みであった。けれども、へたに「お友だちです」みたいにいっても、逆に怪しまれてしまうだろう。ということで、いっそのこと正直に話す方向にした。そこそこいいところのお貴族さま、くらいの気持ちで話している。 まさか、アステカ王国王であらせられるクアゥテモクさまが、こそこそと出歩いてるとは思うまい。仮になにかを察せられたとしても、まともなアステカ民だったら、気を使ってくれるだろう。 というわけでクアゥテモクさまなのですけど、言葉少なくはなっておられるご様子ではあるが、なにもかもが新鮮でたのしいという空気はなんとなくかんじる。瞳が、こう、きらきらしているのだ。もうなんかかわいすぎて興奮する。 一方チマルマのほうはというと、いつもと変わらず、憮然としている。なにが起きても咄嗟に動けるように、自然体のまま、周囲を把握しているのだろう。いつも身につけている、黒豹の胸当てと腰当てはつけていない。一発で豹戦士とばれてしまうから当然だろう。というので、多少は不自然かもしれないけれど、わたしと同じような側仕えの服を身につけている。似合ってなくておもしろい。 白漆喰の町並みをぬうように進み、だんだんと喧騒が近づいてきた。 ちゃぽん、と水音をたてた櫂が動きをとめる。 「ほら、到着だ。たのしんでこいよ」 「あんがとねーおっちゃん」 テノチティトランの市場といえば、この世のありとあらゆるものが揃うといわれるほどだ。 実際にどの程度の規模であるのか、それを説明するための手段というものは無数にあるけれど、まずはひとつ、出入りする人々の数について。一日に四百人も出入りすれば市場としての体裁はたもつだろう。地方の田舎の領地ならばこんなものだ。もし八千人が出入りしていれば、大変な賑いといってもいい。ここまでの人数なら大市場を名乗れる。さて、テノチティトランの市場はどうであろうか。八千の倍、四倍、なんてものではない。おどろくことなかれ、なんとなんと、八千の二十倍、十六万人は越えるといわれている。テノチティトランの人口がおおよそ十六万の倍ほどであるのだから、その規模が知れよう。 品物の種類を数えるだけでも馬鹿馬鹿しいほどのもので、ごく簡単に列挙していくと、金や銀や宝石類の原石、その加工品。緑、青、赤、黄、紫、白などの単色、それらが混ざった色の羽根および羽飾り。これまた様々な染色をほどこされた織物、および刺繍。毛皮にしても豹、鹿、穴熊、山猫、栗鼠、もぐら、犬、うさぎ、いたち、およびさまざまな小動物。材木であればそれを加工した調理台、腰掛け、長椅子、板、あとは薪や炭。食べ物も野菜や果物や肉や魚や菓子なんかもあって、あとは土器や石材、真鍮や銅や錫で作った斧などの道具類。染料や薬、人間そのものをあつかった奴隷。それとそれと、ってもうほんとにきりがない。 これだけ雑然とした物と人が交わる市場であるならばどれほど混沌とした場所であるかともいいたいところだけど、そんなことはない。市場は毅然とした秩序と規律で整えられている。それらを保つための人間が一定の間隔で配置されているからだ。区画ごとにわけられた法を取り締まるための監査官が市場を見張り、問題が起きれば判事がでてきて解決する。 これが市場(ティアンキストリ)。テノチティトランの市場である。 あまりにもすごすぎてはじめてここを見たときはもうそりゃあびっくりした。あごが外れるとか目玉が落ちるとかおしっこもらすとか、冗談まじりのうわさってのは散々聞いていた。当時の奴隷仲間、主人であった貴族さま、名主さま、街道商人、わたしを売った両親でさえ、いっていた。うそではなかったと、本当にこんなところがあったのかと、目の前にしたって信じられないような光景であった。 そんな光景をはじめて間近で眺めるクアゥテモクさま。 「遠くから眺めるのと、近くから眺めるのでは、まるで違うのね」 なんか思ったよりも冷静な反応でしょんぼりする。まあそうか、神殿から眺められますもんね。 いくつもある市場の入口のひとつ、木材通り。褐色の肌に黒髪なたくましい男のひとたちが、木材やその加工品をかかえてとめどなく出入りしている。重いものを運んで暑いのか、服などほとんどきていないかのような格好だ。率直にいうと、裸ふんどしである。暑苦しいし汗くさいの二重苦である。 「マリーナ、なぜこのような場所から案内するのだ。もう少しその、穏便な場所があっただろう」 とはチマルマの言。たしかにチマルマのいうとおり、こんな汗臭いところからじゃなくても、というより無難な金細工売り、食事処、あるいは花や植物の商い、かわいらしい小動物をあつかっているところからでもよかった。 でもでも、普段ぜったいに見られないようなところのほうが、おもしろいじゃありませんか。 「ほらほらクゥちゃん。あっちで丸太になんかやってておもしろそうだよ」 「言葉遣い」 冷淡なチマルマの声が怖い。 「い、いや、お忍びなんだからしかたがないじゃないですか」 「いいのよチマルマ。マリーナの好きにさせて。そのほうがきっとおもしろいことになるから」 ほらほら、クゥちゃんもこういってることですし。 チマルマ、ものすごく深いため息をついて、脱力する。 「わかった。私はもうなにもいわない。それに見ていない」 チマルマ説得成功。ふーやれやれだぜ。 とりあえずクゥちゃんの手を掴まえて、すいすいと人ごみをぬっていくように進む。おっちゃん連中、こんなところで若い女たちを見かけるのがめずらしいのか、ちらちらと目線が飛んでくる。わたくしたち観光中ですの、うふ。 市場、というがものを売り買いするだけではない。その場での加工もけっこうありふれている。というわけで丸太に斧をがすがすふりかざしてるおっさんを眺めた。 「あれはなにをしているのかしら」 「わかんなーい。たぶんだけどある程度の大きさにしたら、のこぎりかなんかで板状に加工して、家具とか作るんじゃないかなぁ」 「へえ」 「あとは、丸太のままやすりかけて、そのまま椅子にしたりとか。あ、ほら、あっちに似たようなの売ってる」 「丸太が椅子なの? 変わってるのね」 「けっこう庶民のあいだじゃふつうなのよん」 「そのマリーナの喋り方、なんだか馬鹿にされてる気分になるわ」 そうですか、でも怒っちゃだめですよ。今日は一日これでいくから。 クゥちゃんと手を繋ぎなおし、チマルマがついてきていることを確認しながら、ぷらぷらと歩いていく。ときどきおっさんたちをよけながら、よくわからないあれこれな品物を指さしながら、お喋りを楽しんでいった。 「木屑はどうするの?」 「あつめて薪のたしにしたりとか」 「木の皮が紙になるって聞いたんだけど」 「種類が違うっぽいよ」 「なんだか黒い」 「炭だぜ。燃料にも染料にも消臭にも使えちゃうぜ」 そして木材の区画を抜けると、今度は土器。 多いのは壺で、大中小、クアゥテモクさまがすっぽり入りそうなものから、こぶしが入らないようなものまで様々ある。食料などを保存するのには壺に入れておくことが多いので、当然売ったり買ったりするひとは多い。 紋様の種類、わずかな色の違い、くびれがあるかないか、口の薄さ、これらにもたくさんの種類があったんだけれども、ここはそれほどクアゥテモクさまの好奇心が刺激されなかったみたい。いや、けっこう熱心に見てる。ものに疑問はもたなかったけど、おもしろくはあるのかな。 しばらく歩いて、お次は野菜の区画だあ。 「うわ、すごい。これってとうがらしよね」 クアゥテモクさま、とうがらし売りのところがいたくお気にめしたご様子。 「ええ、とうがらしですね」 なんかだんだん普段の口調に戻ってる気がするけどもういいか。逆にめんどくさいんじゃ。 「色だけでもさまざまだけれど、形、大きさ、それになんだか匂いもいっぱいあるみたい」 敷物を地面にしいたお兄さん、その敷物の上に麻袋や壺を置いて、とうがらしを並べている。ひとつひとつ別の名前をつけられたとうがらしが、二十種類ほど、ひとつの種類につき、四百個ほどは入りそう。後ろの麻袋なんかは、八千個は入るだろう。 「とうがらしが珍しいのかい?」 じーっと見ていると、お兄さんが陽気に声をかけてきた。 「いやぁ、この子世間知らずでー」 クアゥテモクさまの頭をぽんぽん叩きながら気軽に返事をするわたし。あ、やめてチマルマそんな目で見ないで。お忍びだからしかたないんだ。 「たしかにこいつなんかはちょっとばかし物珍しいかもしれないね。ひとつあげよう」 「わ、ありがとです」 わたしのかわいさにやられたお兄さんがおまけをくれたもよう。 そっと受け取ってみると、ああ、これはたしかにめずらしいかもしれない。小指ほどの太さと長さのそれは、風化してぼろぼろになった紙のような色と質感。独特の煙たい香気がする。 「そのままで食べられるから、半分にして味見をしてみなよ」 「だってだって、はいクゥちゃんあーん」 ぱき、っと割れたそいつをクアゥテモクさまに運んでみる。最初ちょぴっと抵抗したけど、しぶしぶ口に入れた。そのあとで、わたしもぱくり。 うむ、これは燻製とうがらしだ。とうがらしの種類はわからないけれど、おそらくは収穫されてすぐの新鮮なやつを、調味料につけて、そのあとで燻す。しっかり時間をかけて燻されているみたいで、ぱりぱりさくさくの食感がすばらしい。この燻製独特の匂いと、うまみが凝縮されたかんじと、ほんのりとする塩気とから味がもうたまらない。 「これはおいしいですねえ」 「そうだろう。うち自慢の燻製とうがらしだからな」 ちらっとクアゥテモクさまを見ると、ふむふむ、びっくりした顔をしているけど、おいしかったっぽい。じーっと売り物の燻製とうがらしを見つめている。 わたし、そっと耳打ち。 「買っていかれますか」 これはお茶うけにはよさそうだ。あとがけ調味料がわりに、これを砕いたものをふりかけてもいいかもしれない。 「二十個くらいくださいな」 「あいよ、カカオふた粒だな」 腰にさげた布袋から、カカオを渡す。受け取った燻製とうがらしは布に包んで腰につけた。 そしてお兄さんから離れていくと。 「わたしはなにもいってないわ」 「まあまあ、お土産にちょうどいいじゃないですか」 てなかんじで、市場をあちこち回って、かるーくお食事もしたころ。 クアゥテモクさまの機嫌は大変よさそうだ。いらいらして神経が過敏になってるんじゃないか、って表情から、いつもの賢しそうな表情に、笑みがこぼれている。ちょっと生意気なくらいがいちばんかわいいっていうね。 「ご気分は晴れまして?」 「ええ、そうね。おもしろかったわ」 それはよかったですぅ。 「最後にひとつ、まわりたいところがあるのだけれど」 わたしとしては、かなりの場所を巡ったと思ってはいるけど、それでもまだ足りなかったらしい。 というより、これからおっしゃる場所へいきたいというのが、四度の願いをされた理由なのかもしれない。 「どこでしょう?」 「奴隷が見たいわ」 「ひぇ」 「な、なに。変な声を出して」 ひどい、このわたしというものがありながら、よその奴隷に手を出そうとするだなんて。 おうぼーだ、非道だ、これはゆるしがたいぞ。 もうむちゃくちゃやらしいことして調教しなければ。 そそそ、だきっ、ちゅ。 はたかれました。なぜ。 「おおよそあなたの考えたことはわかったのだけど、そうではないわ。ただ、見てみたいの。どのようにあつかわれて、売り買いをされているのか」 そこまでおっしゃられるなら、案内するしかないじゃない。 「マリーナより賢くて従順な奴隷を買われてはいかがでしょう」 「チマルマ、それはとてもおかしいことです。なぜならわたしほど賢くて従順でさらにいうとかわいい奴隷なんてものはこの世に存在しません」 きりっとした顔で発言を正してみる。 「ふふん、それもおもしろそうね」 あ、あれ、クアゥテモクさま、ちょっと間違ってますよ。泣きますよ。 いいから案内しろといわれたのでしぶしぶいきますよん。はあ。 奴隷の売られている区画というのは、なんともいえない空気をしている。 金がなくなって自ら奴隷になるものもいるが、貧しい家庭に生まれたので親に売られたり、あとは軽微な犯罪を犯したものが奴隷にされたりもする。いろいろと思うところがあるのだ。 さりとて極端に暗い空気というわけでもない。奴隷であるからといって、主人がなにをしてもいいというわけでもない。しっかりと食事をさせなければいけないし、奴隷の負債がなくなったら解放してやらなければならない。奴隷も法によって守られるというわけだ。 そんなわけで、織物を地面にしき、天幕をはった商人たちが、左右にずらりと並んでいる。 奴隷の状態は様々だ。少年や少女、若者、中年、さすがに老人はいないが、それ以外ならいくらでもいる。 大半が皮の首輪をしているだけの者たちで、敷物の上にじっと座っている。ちらほらと、地面に刺された杭に縄で繋がれているものや、手枷や足枷をされている者たちもいる。もしかしたら逃亡や主人への反抗をしたのかもしれない。 馬鹿なことをする。逃げたあとどこへいくつもりだろう。抗っても鞭で叩かれるだけだ。 はあ、こうやって売られている人たちを見ると、昔を思い出してしまう。忘れることもできない、痛みをともなった過去。法が誰もを平等に守ってくれるとは限らないということを知った。 あああ、ちょぴっと暗い気持ちになってきた。いいじゃないか、昔は昔、今は今。クアゥテモクさまの側仕えになって、不幸だと嘆いたことは一度たりともない。わたしは、しあわせだ。 でも、もしもあのままだったら、こうはしていられない。気づきを得られず、めそめそと泣いてばかりいたとしたら、今頃わたしは、ああ。 「どうしたの、マリーナ」 「すみません。少し考えごとを」 ふう、と一息吐きだせば、もう元気。 さてさてクアゥテモクさま、どういたしましょう。 クアゥテモウさま、なにやらひとりひとりの奴隷を眺めて、納得されているご様子。 「ほんとうに見てまわりたかっただけなのでしょうか」 「そういったでしょ。間違いはないわ」 「はあ」 「奴隷といっても、特別虐げられているというわけでもないのね」 そりゃそうです。なんたって商品ですからね。商売人なら、自分から商品の価値を下げるようなことはしないのです。商売人なら。 「そうですね、そのとおりです。わたしもクゥさまの奴隷ですけれど、けっこう自由に動いているでしょう?」 「あなたは、そうね、単純に比較はできないけれど、自由にしてるわ」 む、なんだ。びみょうにふくんだ言い方。 「自由にしすぎだ、とおっしゃられているんだ」 なんですと、チマルマさん。 眉間にしわをよせているチマルマ、目頭をもみながら、続ける。 「というより、いったいなにをしたらマリーナのような行動が許されるのだ。クアゥ、ごほん、クゥさまをふくめ、尊き方々の大半が、お前に頭が上がらないようではないか。私は常々疑問に思っていたのだ」 「わたしが優秀ということですよ。ふふん」 ちょっと胸をそらして自慢するかんじに。 「ねえマリーナ。たしかにここを眺めるかぎりだと、奴隷だからといってそれほど不幸だとは思わないわ。多くは下働きなどで働かせるのでしょう?」 「ええ、そうです。クゥさまがおっしゃられるように、細々とした雑用をさせるための下働きというのはよくあります。ほかには、わたしみたいに側仕えとして教育して、主人に仕えさせたりですね。職人さんたちの手伝い、治水や建築のための単純労働も多いです。あとはまあ、大声ではいえないのは、妾として囲ったりとかです」 「妾」 ふう、あんまりクアゥテモクさまに聞かせたくはないけど、汚濁を知るのもよい機会だろう。 「建前、というといいすぎですが、奴隷に関する法ではいけないこととされています。あくまでひとりの人としてあつかうように、ってことですね。多くの尊き方々は、自身の生き様に誇りをもっておられるので、強引に行為を強要するようなことはいたしません」 ただ、まあ、例外ってものはどんなものにもあるもので。 「ですが、そうではない方々もいらっしゃいます。そういうお方に買われてしまうと、少々大変な目にあわれるでしょうね」 「マリーナがそうだったのか?」 うーん、チマルマさん、そういうのはっきり聞いちゃうのかぁ。 「夜伽の技で相手を魅了するので、誰もが逆らえないのだ、といううわさがあるのだ」 だいたいあってる。 「実はそうなのです、といいたいところですが、違います」 「というと」 ほんとは内緒なんですよ、といいながら。 「チマルマがぜんぜん信じてくれないので、仕方がないのでお教えしますが、わたしは諜報のお仕事も任されていたのです。いまはクアゥテモクさまの側仕えとしてお仕事をしてるので、それほどその手のお仕事は任されていませんが、昔は副王さまの右腕といっても過言ではないくらいの働きをしていたのですよん」 「ほぅ」 「こう見えても七つの言葉を操れますし、最低限の武術も学んでいます。たいていの絵文字は読み書きできますし、文仕事も手伝えます。計算にも自信があります。さらにはいろいろな土地を放浪した経験からも、そこらの事情に詳しいですし、繋りもあります。そういったあれこれを使って様々な名主さまを支えてきたからこそ、副王さまからの信頼を得たのです」 どうだ、えっへん。 「なるほどな。人は見かけによらぬ、ということか」 ちょっとまてどういうことだ。見た目どおり優秀で賢そうではないか。 「ま、いいわ、なるほどね」 あっさり切り上げるクゥちゃんまじ鬼畜。 「ほんとうに、色々なことを知れたわ。それでも、まだまだわたしの知らないものがあるのでしょうね」 「ええ、いっぱいあります」 「燻製とうがらし、猿の干し肉、毒蛇の干物。マリーナも作り方を知らないのでしょう?」 「はい。わたしが知っているのは、ほんの上澄みの知識だけです」 そうですね、たとえば。 「豚にしても、そのままでは臭くて食べられません。解体のさいに、背中にある匂袋を傷つけずにとりだす必要があります。猿の肉の臭みの取り方、毒蛇や毒蛙の毒の取り除き方、なんでもそうですけど、それぞれに職人たちの秘伝があります」 ここらでちょっと教育しとくか。 「クアゥテモクさまは、そんな様々な職人たち、それを運ぶ商人たち、畑を耕す者や漁をする者、それらを統治する名主さま、神々に祈りを捧げる神官さま。そういった数多の人々、生き物の君主なのです」 「頭が痛いわね」 「実は、それほど気をはる必要もないのです。全てを決めることができますが、全てを決めなければならないわけではありません。わたしをふくめ、数多くの方々がクアゥテモクさまのお仕事を支えるのですから」 そうなのですよん。お仕事はできるひとにまかせちゃいましょう。 「やらなければならないことはいくらでもあります。河川の灌漑、街道の整備、神殿の建築、法律の整備、あげたらきりがないですね。でも、全てできるわけではありません。予算と人手には限りがありますから。クアゥテモクさまは、そういった物事の優先順位をつけるお気持ちで、方針を定めればよいのです」 あとはそう。 「それと、大事なことは、戴きたくなるような王になることです。思わず頭を下げたくなるような、威厳と尊厳をもった王に。そうすれば、まわりが勝手にしてくれますよ」 ふふんどうだチマルマ。わたしだってしっかりしてるんですよん。 「おどろいた。マリーナが賢そうだ」 お前はほんとわたしをなんだと思っているんだ。ぷんぷん。 そんなかんじでお喋りしながら歩いていると。 「泥棒よ!」 そこそこ身形のよいご夫人が、大声で叫ぶ。 そしてこっちにむかって走っている貧しそうな男。 人ごみの間をぬうように、通り抜けていた。 わたしめくばせ。クアゥテモクさま、いかがいたしましょう。 「捕えなさい」 チマルマうなずくと、口笛をひゅっと吹いた。 隠れてた梟戦士が一瞬でクアゥテモクさまを囲む。 そしてチマルマが走り出した。 見えたのは一瞬。 泥棒の目の前に立ったチマルマが、なにかをしたと思ったら、男はもう地面にふしていた。 手早く紐を取り出して、手を縛っている。 あたりがざわめきはじめた。 少しチマルマの手際がよすぎたのもあるかもしれない。 ふう、残念ですね。もうお忍びの時間はおしまいです、クアゥテモクさま。 クアゥテモクさまはうなずいた。 わたしが片膝をついて頭をたれると、梟戦士たちもそれに習う。泥棒を無力化させたチマルマも膝をついた。 クアゥテモクさま、優雅な仕草で頭をおおっていた織物をはらう。 長く美しい白い髪が流れた。 「大事にならなくてよかったわね」 道を歩く男も女も、少年少女も、店を構える商人も、誰も彼もが目を見開き、そしてすかさず膝をつく。 立つのはただひとり。あまりに美しく、高貴で、神秘をまとった少女。 第十一代アステカ王国王クアゥテモク陛下である。 ――空だけがあった 海だけがあった 獣、鳥、魚、蟹、木、洞窟 谷もなく、草、森もなく 暗闇の中に 静寂の中に ただ漠たる広がりを見せる 空と海だけがあった。―― 『ポポル・ヴフ』より たいへんな騒動になりつつも、クアゥテモクさまを輿に乗せてなんとか帰宅。いまはクアゥテモクさまのお屋敷で、ゆっくりとお茶を楽しんでもらっている。 お茶の香りを楽しみつつ、優雅に飲むクアゥテモクさま。お茶うけは、市場で買ってきた燻製とうがらし。お茶のかすかな甘みと、燻製とうがらしのから味がいいかんじに馴染んでるだろう。 「お忍びでの市場巡りは、満足されましたか?」 「ええ、とてもおもしろかったわ」 クアゥテモクさま、穏やかな微笑。 最後の泥棒騒ぎは驚いたものの、とくに危険なこともなく、充分に市場をまわれた。慰めという意味でも、将来のためにも、なったことだろう。かくも世の中は雑多であるということを実感されたのならさいわいである。 「ある意味ちょうどよいものでありました」 「なにがちょうどよいの?」 「泥棒騒ぎでございます」 まあつまりはこういうこと。 「慈悲あまねく慈悲深きクアゥテモク今上陛下、白昼の犯行に正義の鉄槌。とまあこんな筋書ですね。卑しき民草たちにも心を砕き、安寧を脅かす者たちへ容赦はしない。まこと正しき心をもった王、それを戴く民たちのなんと幸福なことか」 「なにそれ。ただの偶然じゃない」 「偶然ですが、結果がでてます。よかったですね、これからの統治がしやすくなりますよ」 クアゥテモクさまには華がある。人をひきつけるなにか、といってもいい。たとえば容姿であったり声であったり、堂々とした振舞いもいい。統治者にとって、威厳と魅力は非常に重要な点だ。 ただ、逆にいうと、それ以外の部分には不安があった。実績がないのもそうであるし、いまだ十二歳であられるという若さもたよりない。なにより女性の王というのが人々の心にもやを作る。 そんなおりに、クアゥテモクさまは悪党を退治した。偶然でも、ささいな悪事でも、実績は実績。こうなればわたしがいくらでも手伝える。多少過剰に喧伝するくらいはご愛嬌だ。若いという事実すら、これからが楽しみだ、安定した治世が続くのだろうという期待感に変えられる。 王とは過酷で孤独なものだ。少しでも心に平穏をもたらしたい。 まだ少し早いかもしれないが、覚悟と決意の火を灯す機会なのだろう。 「クアゥテモクさま」 「なに」 「本日、四度の願いをされました。これはわが国の王の権利です」 権利だ。しかし権利には義務が付きまとう。 「王とて全てを好きにすることはできません。副王さま、名主さま、多くの相談役のおじいさまの意見を無視することはできないのです。王とは個を見るのではなく、全体を見なければならないのですから」 「それは聞いたわ。幼きころから耳が痛くなるほどね」 「はい。好きにすることはできないのです。ただひとつ、四度願われないかぎりは」 河川の治水、神殿の建造、街道の整備、食料の買いつけ、法律の立案および撤回。議会によって決められる数多くの提案。それを調節するのが王の役目でもある。 数多くの貴族たち相手に舵取りをしなければならない過酷な立場ではあるが、満場一致の立案でも撥ね除けることができる権利も王には存在する。それが四度の願い。 四度願えば、どんな法律でも作れるだろう。四度否定すれば、どんな提案でも否決される。 「四度の願いにより、王は王であり、およそありとあらゆることができる、ということになっています。ただ、闇雲にこの権利を行使された場合、どうなるか想像はつきますね」 「ええ、そうね」 「穏便な方法であれば、王の座を追われるでしょう。過激な方法になれば、お隠れになってもらうことになります」 病気になったので療養する、という名目で、離れの屋敷に閉じ込められる。ほんとうにどうしようもなくなったら、おそらく、毒殺されるだろう。あくまで病死ということで。 「というわけで、あまり横暴をしてはなりませんよ。今日みたいなお願いはかわいらしいものなので、なんとかお許しを得ることができましたが、本来ならば気安く願われてはいけないのです」 「わかったわ、マリーナ」 おや、やけに素直ですね。 多少の憎まれ口は覚悟していたんだけどなぁ。ちょぴっと大人になったのかな。 それはそうと。 「そういえば、なぜ奴隷を見たかったのでしょう」 たぶん奴隷だけじゃなくて、いろいろ見てまわりたかったのだろうけど、一番の目的は奴隷の見学だった。 なんとなく不自然な気がしないでもない。 クアゥテモクさま、わたしの目をじっと見つめる。 やだ、はずかしいですう。 「こんなことをいうと不思議に思うかもしれないけれど、マリーナ。わたしは、あなたが知りたかったの」 「はぇ?」 な、なんぞ。いったいどういうことなのか。 クアゥテモクさま、お茶を机にことりと置いて、静かに喋る。 「あなたはわたしが物心ついたころから、仕えてくれたでしょう? でも、どうにもよくわからなくて」 「はあ」 「あなたは奴隷の立場であるのに、ときどきわたしより偉そうだわ。副王さまをはじめ、あなたに頭があがらない人も多いし、そのわりにはふつうの奴隷ではしないようなみじめな行為もできてしまう。奴隷とはどういうものかと誰に訊ねても、余計にわからなくなったわ」 なんと、そういった理由で市場にいきたかったのか。 もぅ、わたしに直接聞いてくれればいいのに、ひねくれてるんだから。 「だから、市場にいって、直接奴隷たちを見れば、わかるかと思ったのだけど、そうではなかった。わからないということがわかっただけね」 ふぅ、とひとつため息をついて、肩をおとすクアゥテモクさま。 どうやらクアゥテモクさまの目からは、わたしは不思議生物かなにかのように見えるらしい。 おかしいな、市場でもいろいろお仕事してたんですよって話したのに、なぜなのか。 うーん、まあ、いっか。 「そうですね、わたしは少しだけ、変わっているかもしれません」 たまには、昔語りもおもしろかろう。 「実はわたし、お姫さまだったんです」 衝撃の事実、どーん。 「クアゥテモクさまと比べるのもおこがましいんですけど、小さな領地をしっかり治めている父と母がいて、花よ蝶よとかわいがられて、愛されていたんです」 そう、そのときはよかった。 「父が死んでから、少しずつおかしくなってしまったのかもしれません」 そう、あそこから変わっていった。 「新しい父がきて、母が妊娠すると、煙たがられました。生まれた子が男児だとわかると、余計にです」 少し重たい空気を演出しながら、かなしそうに喋ってみる。 クアゥテモクさまが黙って真剣に聞いている。これは語りがいがありますね。 運命に翻弄される悲劇の乙女の物語や、これは熱いですぞ。 息を整えて、続ける。 「いまならわかりますけど、邪魔になってしまったんでしょうね。男の世継のほうがいいに決ってます」 そう、だから。 「だから、わたしは、わたしが知らぬままに、売られてしまいました」 ちょぴっと間を作ってみる。 続きが気になりますか、クアゥテモクさま。 ここからもおもしろいですよん。 「売られた先もひどかったのです。奴隷に平気で乱暴をするような方でした」 あそこはきつかったなぁ、なつかしい。 「そうですね、粗相をした罰だ、というのをよくいわれました。皮鞭や平手などの暴力。豚や犬、七面鳥の真似をさせられたり」 あのころのご主人は元気かなぁ。 「奴隷になったばかりのころは、もう悲しくて悲しくて、涙ばかり流していました。あんなにしあわせだったのに、どうしてわたしばかりがこのような目にあわなければならないのか。痛くて、辛くて、苦しくて、どうにかってしまいそうで」 涙を作って、ひとつほろりと流してみる。 クアゥテモクさま、ひじょうにお辛そうな表情に。 いやいやまだ早いですよ、こっからが本番ですから。 「一番つらかったのは、全裸で土下座させられたことでした」 ふぅ、と息を吐き出す。 「多くの側仕え、小姓、主人の家族がいる中で、土下座をさせられるのです。罰だといって服まではぎとられて。冷たい床に額をつけて、もうしわけございませんというのです。主人は、これがなにも持たぬものの末路だ、卑しいものはこうまでして許しを乞う、なんていって。そして娘に、よく見ておけ、と。本来なら女というものは愛する者の前でしか肌を晒さないものだ。しかしなにもできずなにも持たないがゆえに、こうして多くの者の前で肌を晒した。よく覚えておけ、卑しい奴隷に人間の尊厳などないということを」 クアゥテモクさま、涙まで流してらっしゃる。 おお、なんと慈悲ぶかき主人であるのか。 しかしクアゥテモクさま、けっこうわたしに似たようなことやってますからね。いいんですけど。 あんま重い空気にするのもあれなので、そろそろいいかな。 いままでわざと作ってたかなしげな気配をすっぱりと消して、とびきりの笑顔を作る。 「ここで、きれました」 クアゥテモクさま、ぽかんとしてる。かわいい。 「てめえいいかげんにしろよふざけんなぶち殺すぞ、とそりゃまあえらい剣幕です。主人の顔がぱんぱんになるまではたいてやりましたよ。いやぁ、あれはきもちよかったですねえ」 人生の中であれほど怒ったことはなかった。自分のなかにあれほどの熱があるとは思わなかったなぁ。 クアゥテモクさま、ちょっと笑ってる。ふふふ、おもしろいでしょ。 「それで、どうなったの? 主人を殴ったら大変なことになりそうだけど」 ですよねですよね。わたしもそう思います。 あのときは心底なにもかもどうでもよくて、ただただ怒っていた。 生贄にされてもまったくおかしくなかった。 けれども、そうはならなかった。 「大変なことになりそうですよね。でもでも、不思議なことに、生贄にされることもなく、そのまま側仕えとして仕えることになったのです。主人はわたしに乱暴することがなくなりましたし、暴力を働いたことすら不問に処されたのです」 「へえ、なぜなのかしら」 わたしがあのとき悟った気づき。これがいまのわたしを形作っている。 すなわち。 「あれですね、なめられたらだめということです」 そう、わたしはなめられていたのだ。侮られていたといってもいい。 ずっとめそめそしくしくしてるから、いじめたくもなるし、粗雑にあつかいたくもなる。 そういうことなのか、と知って、まるで世界が広がったかのようだった。 「それで、ふつうに側仕えというか下働きというか、そんなかんじで働いてました。はっきり喋って、きびきび動いて、しっかり働くのです。なんでもやりましたねえ。掃除洗濯料理はもちろん、絵文字と言葉もがんばって覚えて、薬のあつかいや儀式の手順、地域の慣習や神話に歴史、ああ音楽とかも多少やりました。笛に太鼓に木琴にマラカスは使えますよん」 わたしの多芸の理由がいま明かされる。 「こうなってくるとおもしろくって、主人のほうも、ああこいつ使えるやつだなっていろいろ仕事を任してくれるんですよ。夜へのお誘いもそりゃまあ紳士に丁寧にしてくれるので、しかたないかなと。こっちも全力でやりましたよ。おかげでありとあらゆる趣味嗜好の方々を楽しませることができます」 そのせいでじゃっかん性癖が歪んでしまったかもしれない。 うーんかなしいなぁ。 「あとはもうとんとんですね。わたし自身に価値ができると、奴隷として、貢ぎ物としての価値ができるのです。かしこくかわいく美しく、万能で有能な側仕えですよと、どんどんお偉いさまのところへ送られるようになりました」 「そう。それで」 「はい。最後には、クアゥテモクさまの側仕えですね」 そうなんですよ。苦労したんですよ。いつもふざけてるように見えるかもしれないんですけど、ときどきはまじめなのです。 「あまり自分のことをしっかり話したことはなかったのですけど、これで好奇心は満されまして? ああ、ここまで詳細にわたしの過去を知っているのは、副王さまだけです。あまり喋らないでくださいね」 「たしかにマリーナのことを知れた気がするわ」 「はい」 「だけれど、やっぱりわからないわ」 クアゥテモクさま、じとっとした目つきで眺めてくる。 なにがわからないというのか。もうだいたい全部喋ったぞ。 「ええと、なにがでしょうか」 「あなたのわたしにたいする態度ね」 「はて」 側仕えとしての良識と常識をもって丁寧にせっしているというのに、まったくもう。 「あなたの昔話が正しいとするなら、トラカエレルの補佐でもやっているほうが似合っているじゃないの」 「ああ、なるほど」 有能すぎるわたしがあんまり仕事らしい仕事をしてないのがふしぎなのか。 「ここにきて最初のころは、そうでしたね。クアゥテモクさまのお世話をしつつ、副王さまの補佐も行っておりました。そうでなくなったのには理由がふたつあります」 「ふうん」 「副王さまがわたしにたいそう情をもたれてしまったのです」 さすがはできる男、トラカエレルさまである。 仕事も早く正確でひじょうに助かっている。けれども、それほど張り詰めなくていい。そうおっしゃってくださった。 あのときはちょっと泣きそうになった。 それで、じょじょにクアゥテモクさまのお世話のほうが中心になったのだ。 「わたしのことを信頼なさってくださったので、まあ、ちょうどよかったのかもしれません。信頼できる有能なわたしが、クアゥテモクさまを支えてくれることを期待しているのもあるかもです」 「なるほどね。トラカエレルがあなたをわたしによこした理由はわかったわ」 「ええ」 「それで、けっきょく、過剰なふれあい、なれなれしい態度の理由はなにかしら」 え、そこ、そこ聞いちゃうの。 こんなの聞かなくたってわかるでしょ。 天然か、クアゥテモクちゃん。 まったくやれやれ、あらためていうのもちょっと恥ずかしい気がしないでもないけど、こういうのもときどきはいいよね。 「そんなのはもちろん、決まっています」 そう、決まっているのです。 そっとクアゥテモクさまに近づいて、抱き締め。 「クアゥテモクさまかわいいんですもん」 ほほずりほほずり。やわらかすべすべほっぺたきもちいい。 「なによそれ」 「はぁ、かわいい。いやほんと当時荒れてた心を癒してくれたのはクゥちゃんだけですよん」 クアゥテモクさま、とくに抵抗することもなく、わたしにされるがまま。 でもちょっとため息吐いてる。最近多いですね。 「あなたは奴隷でわたしは王よ」 こぼすようにもらした言葉。 おっしゃるとおり、そのとおりです。 ですが、しかし、なのです。 「その前に、マリーナと、クアゥテモクです」 「はあ」 もうはっきり聞こえるくらいのため息。 「ほんとうにお嫌なら、改めますけど、クアゥテモクさまも、わたしのこと嫌ってはいらっしゃらないご様子です」 「嫌いよ。それに面倒だわ」 「ああ、なげかわしい。昔はわたしにすきすきいってくださっていたのに」 「あ、あれは、小さいころの話でしょう」 「そうですね、んふふ」 ほっぺに、ちゅ。 「そういうわけで、心の底からお慕い申しあげます」 こういう無抵抗なクアゥテモクさまは最近じゃめずらしい。 頭なでてあげても、うざったそうな顔をするだけだ。 このわたしの愛が信じられないのか、おのれ。 ならばいいだろう、わたしの親愛を聞くがよい。 「クアゥテモクさまのためなら、神々に心臓を捧げることも厭いません。ああでも、ちゃんと全身あますところなく使ってくださいね。内蔵は鷲に、胴体は豹に、手足の肉はトラカトロリに、骸骨は洗ってかわかして、翡翠をはめこんで飾って、皮膚はなめして太鼓にして、骨で叩いて、髪の毛もきっちりそって飾り物にですね、ですね」 「だめよ」 その一言は、とてもよく響いた。 少し間をあけて、聞いてみる。 「だめですか」 「そう。あなたはずっとわたしに仕えるの」 「そうですか、かしこまりました」 なんだか胸のなかがぽかぽかしてくる。 はあ、しあわせ。 クアゥテモクさまってばやっぱり決めるところは決めてくる。 つんつんしてるけど、大事なところでは、こうやっていってくれるんだもんなあ。 ああ、なんだかすっごくむらむらしてきた。クアゥテモクさまの全身にくちづけを捧げたい。 「あと二年たって、クアゥテモクさまが大人の仲間入りしたら、もっときもちいーことしましょうね」 「それは、嫌よ」 もう、てれちゃって。 「んふふ」 今日くらいは一緒にねても、神々に怒られはしないだろう。 テノチティトランにきてよかった。クアゥテモクさまの側仕えになれてよかった。 日々の幸福、今日この瞬間の幸福、自然と感謝の念が沸きおこる。 明日もその次の日も、そうでありますように。 わたしを形作った恵みをもたらした太陽と大地に、感謝を。 |
etunama 2018年01月02日 20時46分35秒 公開 ■この作品の著作権は etunama さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2018年01月22日 16時08分06秒 | |||
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