その腕は密室の鍵

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『閉じ込められたら、我々密室開放委員会へどうぞご連絡を!!
 TEL-………』
 そんな落書きが、堂々と路地裏の壁に描かれていた。
 僕は呆気にとられてそれを眺めた。
 そして呆気にとられたそのまんま、携帯電話を取り出してなんとなく写真におさめた。
 黒いマジックのようなもので、それはでかでかと掲げられていた。
 なんだろう、密室開放委員会? 誰がこんなの使うんだ。閉じ込められたらってのもよくわからない。探偵みたいなもの? 密室事件の解決?
 わけがわからなかった。
 
 ……霞む意識の中、なぜかその記憶が薄っすらと蘇ってきたのが不思議だった。
 僕は冷たい床に転がっていた。段々、体中が思い出されるようにじわじわ痛んでくる。
「うーん……ん、いま何時だ……」
 僕は仰向けになって、ポケットに手を入れたが、携帯は入っていなかった。
 ぼんやりと真っ暗な天井を眺める。
 はぁ、と溜息をついて、それから笑ってしまった。
 僕はつい最近、町中でなんだかんだあって、ある不良に因縁をつけられてしまったのだが。
 不運にも不機嫌だった彼との再会は、まさに帰ろうと学校の廊下を歩いている時の衝突だった。
 そして、今に至る。
 って僕、気絶するまで殴られ……いや違う。たしか殴られて転んだまま放置されたから寝たんだ。
 なんで寝たんだろう。さっさと帰ればよかった。
「帰るか」
 起き上がった。
 怪我自体も大したものではないようだ。少し頬がズキズキする。
 少しあたりを見渡すと、離れた床に僕の携帯電話が転がっていたので、歩いていって拾う。
 時刻を確認してみると、午後七時半ほどだった。
 そして、扉の方に向かう。
 ……開かない。
 押してダメなら引いてみよ、ということで引いてみたが、そもそも引き戸だった。
「ん、んん?」
 鍵がかかっているのだろうか、だとしても普通そういうのは内側からかけるもののはずなんだけど。
 反対側の扉も確認してみる。
 ここは空き教室で、後ろの方で机と椅子がごちゃごちゃと積み上がっている以外は普通の教室と同じだ。
 後ろ側の扉もまた、なぜか開かなかった。
 なんだろうな。棒でも引っ掛けて開かないようにしてるんだろうか。じゃなかったら、扉が壊れたとか? いやでも、二つともそんな都合よく壊れるなんてことはないだろう。
 それにしても、しっかりと閉ざされていた。
 あまりやりすぎると壊れるかもしれないし、うーん。
 ちらり、と窓際の方に目を向ける。
 ここは四階。あ、でも、確かベランダがある。非常階段から下に降りられるかもしれない、と思い、積み上がる机を迂回してベランダに出る扉の鍵を開ける。
 カチ、とあっけなく鍵はあき、ドアもすんなり開いた。
 夜の学校。向かい側の校舎には明かりのついている教室があった。七時半すぎなら、部活も終わって少しくらいという感じだ。忘れ物でも取りに来ている人がいるのかもしれない。
「あれ」
 ベランダの扉を開けると、すぐそこにチェーンがかかっていて、看板がぶら下がっている。
「老朽化……危険のため、ベランダ立ち入り禁止……」
 そうだ、確か来週からもう工事が開始されるとか言っていた。下から上ろうとした非常階段の一段目が抜けたとか……。
「そうか……この校舎……よりによって……」
 できるだけ危険な綱は渡りたくなかった。まあ別に、わざわざ穴が開くかもしれないベランダや非常階段を歩かなくても、明日になれば誰かしら来るだろう。……多分。
 こういう時、気軽に呼べるような友人がいればいいのだが。
「まあ、最悪向こう側の校舎に大声出せばいいか。いっそ階段も結構大丈夫かもしれないし、どうにかなるだろ」
 そして、ベランダの扉を閉めた時。
 ふと、あの落書きが頭をよぎる。
 閉じ込められたら、我々密室解放委員会へどうぞご連絡を!!
 ……こういう時なのだろうか。
 そうだ、そういえば携帯で写真を撮った。まぁ、誰かの悪ふざけかもしれないが、あんな不思議な悪ふざけをするとしたら面白いやつのような気がする。
 僕は教室の電気はつけぬまま、後ろの方に置かれている机に座った。
 それから、携帯の写真におさめられた番号に電話をかけてみる。
 数コールの後。
「はーい。もしもーし」
 少し間延びしたような声が、電話越しに聞こえた。
 電話の向こうはしんと静まり返っており、その声以外に聞こえる音はない。その声も、なんとなく中性的で男女の判断がしづらいものだった。
「……あ、ひーちゃん?」
 いや、誰だよ。
「違います」
「あ、違いましたか。じゃ、あれか。えーっと……」
 ……間違えたのだろうか。
 考えている様子だったのでしばらく黙っていると、あっ、という声が聞こえた。
「えっと、密室解放……係に頼みかな?」
 係と委員会じゃだいぶ違うのだが。
 僕は思わず笑ってしまった。
 思い通り、これは多分、面白いやつだ。
「え、あれ? これも違いました? あれ、えーと……」
「いや、あってます。僕今、部屋に閉じ込められてましてね」
「……! そうなのですか。助けに参りますよ! 場所はどちらですか?」
 僕は学校名を告げた。
「んむ? それは、あれですか?」
「あれ?」
「いま、僕の目の前にあるヤツですか?」
「いや見えねぇから知りません」
 と至極当たり前のことを言いつつ、一人称の僕から男の人なのかなーなんて思った。
「あ、あってるみたいですー。ちょうど今、入り口っぽいところを通ってまして、そう書いてあります、門のところに」
「近くにいたんですね。んじゃお願いしますよ。一番奥にある校舎の四階、階段上ってすぐの部屋にいるんで」
「了解ですー。では、暫しお待ちを」
「あ、ベランダからは上らないようにお願いします。危ないので」
「はーい、了解です」
 多分、今の時間なら校舎の扉は閉まっていないだろう。多分、わりと簡単に潜入できるはず。
 電話がぷつりと切られ、僕は通話時間を眺めてから携帯を下ろす。
 どんな人だろう。意外にも、密室からの開放(正直この状態は密室とは言い難いが)はちゃんとやってくれるらしい。
 そういえば、この部屋の状態がどんな感じなのかとか、そういうことを全く話していなかったけど、それでよかったんだろうか。
 ま、いっか。
 ちょっとした気まぐれのようなもの。
 来なかったら来なかったで、方法はないこともない。かなり不安だが、外の非常階段を下りればいいだろう。
 と、ぼーっとしていると、また僅かに眠気を感じる。
 あの不良……まさかおんなじ高校だったとはなぁ……同じ学校だとわかっていたら、声をかけたりは……いや、わからないな、それは。
 さて、これからどうするか……僕は喧嘩が強いわけでもないし……これからはできるだけかかわらないようにしよう……。
 なんて、ぼんやりと考え、うとうとと本格的にまどろんできたその時。
 衝撃的なまでの破壊音が校舎内を裂いた。
「――わ!?」
 ――なんだ?
 僕はそのまま机から転げ落ち、右肩から床に大激突した。
 な……なんなんだ?
 早鐘のように打つ心臓が痛い。唐突の衝撃過ぎて頭がくらくらする。
 まるで先ほどの音が嘘のように、校舎内は静まり返っている。起き上がって頭をふると、わずかに階段を歩く音が聞こえてきた。
 あ、やばい。
 生命的危機を感じる。
 どうしよう、とベランダの方に目をやると、さっきの明かりの灯った教室の窓から、誰かが身を乗り出してこちらを見ていた。
 ……ここでベランダに逃げても、僕がやったと思われるパターンじゃないだろうか、これ。
 思わず笑ってしまった。
 足音は階段をのぼり終え、廊下を歩き、そして……。
 僕はしゃがんだまま扉に背を向け、頭を抱えた。
 再び、破壊音。
 今度は予期していたお陰もあって、さほど衝撃ではなかった。
 しかし、第一波がいまも頭の中を響いている。
「……こんばんはーです。一回間違えちゃいました」
 僕は頭を上げ、後ろを振り返った。
 固く閉ざされた扉は……真っ二つに切断され。
 その向こうに、人が立っていた。
「…………マジか」
 廊下も電気はついておらず、微弱な光がその人を僅かに形作る。
 腰までの、長い髪。
 扉の残骸を越え……彼女は、教室に入ってきた。
 そこにいたのは、僕よりも年下と思しき体格の、一人の少女だった。
 不気味とも可愛らしいとも思える、大きな真っ黒の瞳。それが、僅かな光を――向かいの校舎の光だろうか――きらりと反射させていた。
「……さあ、もう大丈夫ですよ。開放されたです」
 僕は苦笑した。
 早速、階段を駆け上ってくる音が聞こえてきたのである。
「逃げるぞ!」
「え、ええ?」
 僕は立ち上がって、少女の手をとった。
 少しの思考。もう、とりあえず逃げなきゃダメだ。こちらは暗がり。向かいの校舎からは、僕の顔は見えないはず。
 思い切ってベランダに向かう。鍵を開け、チェーンをまたいで飛び出した。
「あ、危ないんじゃなかったんです?」
「多分大丈夫だと信じるしかない」
 そうはいっても、床がぬけるなんてことは殆どの確率でないと思っていたのだ。
 人は危険に面した時、それから逃げようと知らないうちにさらなる危険に飛び込んでいることがある――。
 なんて、思いもしなかった。
 左に向かって走る。軋むベランダ。錆びている。
 なんとか階段に到着。
 下る。軽快な金属音が二つ。
 無事三階に到達し、更に下ろうと階段に足をかけた、その時。
「……わ!?」
 後ろからそんな悲鳴が聞こえ、次いで、何かの折れるような……バキ、と。
 階段が……外れた?
 ヒヤリと背筋が冷たくなり、しかし下り続けようと……。
「わ、わ、わわ!」
 どん、っと、何かが僕の背中を思い切り押した。
 そこで察する。
 これは……僕らを追う先生よりも遥かに危険だった。
 なすすべもなく、僕は階段に顔面から突っ込んだ。
 それから世界が反転を繰り返し、もつれ合うように転げ落ちる。
「………っ!」
 絶句し、永劫にも思われる落下を乗り越え。
 踊り場に到達。
「ぶ、無事ですか……」
「うあ……なんとか……」
 なんとも運がよく、少女は最終的に僕を下敷きにする形で落ちていた。
 無事そうだ。
 少女は起き上がると、階段の方を見やる。
「一段抜けて、バランスを崩してしまいました」
「ここまで放棄するって、この学校……」
 と、呟きながら怪我の感じを確かめていると、
「おい! 誰だ!?」
 上階から怒号が聞こえた。
「もう少し逃げるか」
 僕がそう言うと、少女は僕に手を差し伸べ。思った以上に強力な力で僕を立ち上がらせてくれた。
 骨折などはないようだ。脚も怪我はない。
 背中と腰、脇腹をぶつけたようだったが、打撲程度という感じだ。
 僕たちは慎重に、かつ素早く階段を駆け下りる。
 背筋は凍りっぱなしだったが、下に回り込んだ先生もいるかもしれない。まあ、この校舎自体が校内では辺境なので、そうすぐには駆け付けられないかもしれないが。
「ごめんなさい」
「ん?」
 最後の外れた一段を飛び降り、ついたてのような柵を越えて、地面に足をつける。
「僕、迂闊でした。学校には先生という存在がいることを忘れていたのです」
「……ま、まぁ、忘れることは誰にでもあるって」
 そのまま校舎脇を抜け、駐車場を通り、フェンスを飛び越えて学校の敷地を出た。
 僕はちらりと振り返る。
 先ほどまでいた四階の校舎に電気が灯っている。人影も見えた。
 見なかったことにして、道路をしばらく走る。
「……僕、馬鹿なのです」
 唐突に、少女は言った。
「一度に三つのことしか覚えられなくて、だから何階か忘れてしまったです」
「三つってそりゃまぁ……ていうか、さっきのってなんなんだ?」
 扉が真っ二つに割れていた。轟音、破壊。あれは彼女によるものだろう。だが、武器や道具なんかを持っている感じもない。それに、一瞬だった。
「? あれってどれですか?」
「……密室開放の術?」
「ああ!」
 通じた。
 疲れてきたので、少しペースを緩める。ぶつけたところも痛い。
「あれ、手刀です」
「え……あれ、素手で……?」
「はい」
「そんなこと……できるのか?」
 信じ難い。扉は木製だ。高さは二メートルほど。それを、真っ二つに――?
「……というより、僕のたった一つの取り柄、なのです」
「マジかぁ……ちょっと、気になるけど……きみ、家は?」
「……家? あ、すぐ近くですよ。でも、道がわからないです。校門の通りに出れば多分わかるですが」
 こっちは学校の裏側だ。僕は少し考えて、表に出る道を考えて小走りで進む。少女も横に並んだ。
 僕はそれから少し迷って、声をかけた。
「……とりあえず、ありがとう、助けてくれて」
 なんて言いつつ、自力なら最低でも、扉かベランダどちらかを壊すだけで出ることができていたのに、まさかのどちらも壊れるという全く予想外な結果となってしまったわけでもあったが。
「いえ……少なくとも四つは物事を覚えれないと……なのです」
「メモとかとれば?」
「……はっ! その手が……!」
 僕は笑ってしまった。
 ちら、と横を向いて、横目で眺めてみる。
 腰まである髪の毛量は少なめ。身長は僕よりはかなり低いが、腕はすらりと長い。体は華奢で、階段を落ちた時も彼女の重さは驚くほど軽く感じた。
「……そういえば、名前は?」
「はい? 僕ですか?」
 うん、と答えつつ、僕は道を指差して、右に曲がる。
「僕は……波戸榎已です。榎已でいいですよ」
 まるで聞き慣れない名前だった。
 はど、えやみ、か。
「あなたは?」
「僕は、篠崎朔だよ」
「じゃあ……さっくんですか」
「ああ……別にいいけど」
 そんなあだ名は初めてだった。
 ぼんやりと、この不思議な状況に非現実感を抱きながら、数十メートル先の空き家を目印にまた道を曲がろうと思っていたところで。
「この道知ってます。家すぐそこですよ」
「あ、本当?」
 僕はペースをゆるめ、ほぼ早歩きくらいの速さにした。
「あ、あれです」
 少女、もとい榎已が、指差す先にあったのは。
 ちょうど今目印にしようとした、空き家だった。
「……あれ? あれって空き家じゃ……」
「空き家ですよ。ちょちょいとお借りしているのです」
 ……それ、怒られるヤツ。
 まさか、そんな家族で空き家に住んでるというのか……!?
 一種の戦慄。
 しかし、空き家は真っ暗だ。いやでも、住んでいても明かりはつけられないか。本来空き家なんだから、通報でもされたらたまらない。
 榎已はぐるりと家を迂回し、正面玄関ではなく裏口に向かった。
 僕はどうしようかとぼんやり考える。今日はもう遅い。そろそろ帰らないとだし……。
 そこでふと思い当たる。
「あのさ……一応、助けてくれたお礼がしたいんだけど」
「……いや、僕だってわかります、今日のは失敗です、大迷惑をかけてしまいました」
 榎已はこちらに顔を向け、申し訳なさそうに瞳を俯け……そして。
 こちらに向けて、倒れてきた。
「うわっと」
 その軽さもあり、なんとか受け止めるがずるずると滑り落ち。
「……あれ、おい、榎已?」
 顔をこちらに向けると、彼女は気を失っていた。
 神経が凍るような。
 まさか、さっき階段で、頭でもぶつけて――?
 そう思った時。
「えっちゃーん」
 と。
 誰かの声が聞こえた。
 顔を向けると、さきほど僕たちが来たのと別の方向から、(つまり表の通りに続く道)誰かがこちらに走ってきていた。
 逃げたほうがいいのか? と思考を巡らせるが。
 えっちゃん……え……榎已。
 ということは――。
「あれ、きみって?」
「……え?」
 しかし、続いたのは予想外の言葉だった。
*
 僕は数日前、街を歩いていた時、不良気味な男に絡まれる女の子に遭遇した。
 僕は昔もそういう状況を目の当たりにしたことがあった。……そしてその時声をかけられなかったことを、ずっと後悔してきた。
 だから決めていた。次そういう人たちに出会ったら、必ずどうにかして助けると。
 そして僕はその不良に声をかけ。
 その時は数発殴られるくらいで済んだものの、後日……というか今日。
 不良の彼と自分の高校で再会し、今に至るのだが。
「あ、ありがとー朔くん。買ってきてくれたんだ」
 明るい部屋。
 ベッドに寝そべる黒髪の少女と、そのそばに座り込む女の子。
 おかっぱが結構伸びちゃってもうすぐ切ろうみたいな感じの中途半端な髪型に、活発そうな表情を浮かべる少し幼い感じのする顔立ち。
 榎已のいうところの『ひーちゃん』、そして僕が助けたその張本人である筒山緋星が、そこにいた。
「はい」
 僕は彼女に頼まれて買ってきたものを、コンビニの袋ごと渡した。
「ん、ありがとー。えっちゃん、起きてー」
 彼女はコンビニの袋からおにぎりを取り出すと、パッケージを破いてそのまま、榎已の口の中に詰めた。
 ベッドに寝ている榎已は、ちょっと顔をしかめてから、無意識という感じにもぐもぐと口を動かしはじめる。
「あ、その辺座って座って」
「あ、おう」
 ここは、緋星の家だ。
 緋星はもともと榎已と面識があったらしい。
 そして奇しくも、あの時反対側の校舎でこちらを見ていたのが、彼女だったというわけだ。
 音に心当たりを覚え、ベランダに髪の長い影が見えた時に確信したようだ。
 そして、その榎已は現在空腹でスリープモード……らしく、それを見越したのもあって榎已の家に向かってみたところ、僕達と遭遇した、という感じだ。
「……それにしても、君とも同じ学校だったとは……」
ついでに、学年まで同じで二年生だとのことだ。それはあの不良の奴も同様らしい。
 まさか、こうもねぇ。
「んにゃ、逆に他の高校って方が珍しいでしょ。この辺なんてそんな高校ないんだし」
「まあ、それもそうなんだけどさあ」
 ちら、と榎已に目を向けると、彼女は口だけでもぐもぐと器用におにぎりを食べている。
 周囲が明るくなったので、服装も見える。
 サイズの大きめな真っ黒のトレーナーを着ていて、下には水色のスカート。
 トレーナーが大きいせいか、スカートはとても短く見える。
 なんか、いろいろと危うい。
 しかも、明かりに照らされると、かなり整った顔立ちなのがよくわかった。
「っていうかそれにしても、都針くんてば。八つ当たりはいかんよなぁ。しかもさ、閉じ込めるまでしなくてもいいじゃんねー」
 声のした方に目をやると、呆れたような顔の緋星がため息をつく。正面のクッションの上で、膝を抱えて起き上がりこぼしみたいに揺れはじめた。
 都針。彼こそが、ある日緋星に詰め寄り、またある日僕を閉じ込めたり殴ったりした、例の不良だ。
「いや……でも、ベランダが危ないってこと忘れてたんじゃない? 僕もそうだったし」
「だとしたらわざわざドアをしめる意味ある? 殺されるほど恨まれてるわけでもないっしょ?」
 僕は少し考えた。まあ確かに、そんな感じではなかった。ただ、何かに怒っているような。
「不機嫌だったな。苛々してるから壁殴るのと同じ感覚、みたいな」
「ふーん……そりゃ嫌な奴だ」
 なんて言って、緋星は「にはは」と笑った。
 ……ただいま、午後八時半。
 親には「ちょっと友達と遊ぶ」なんて連絡したものの、実際はこれだ。何かいろいろとアレな気がする。
 よし、チャンスなり。
「んじゃ、僕はこれで――」
「はっ!」
 がばっと、視界の隅で何かが起き上がった。
 その何かはきょろきょろと一瞬あたりを見渡して、
「あっ」
 緋星に飛びついた。
「んぐ、おはよーえっちゃん」
 そのまま、しばし沈黙。
 僕は浮かしかけた腰をどうするわけにもいかず、ちょっと考えてから座り直した。
「……僕またお世話になっちゃったですか?」
「そだね。ほら、三日くらいなんも食べてなかったんじゃないの? そんなときに『腕』使っちゃダメだよ」
「むむ……」
 こうしてみると、あれだ、緋星は榎已の保護者か何かなんだろうか。
「でも、お金もないですし……」
「うーむ。やっぱ広報かなぁ。障害物の方って仕事来る?」
「一週間前にも山に転がってる岩を破壊しましたです」
「一週間かぁ……うーん」
 よくわからない話題になってしまった。仕事……お金……それって。
 なんて考えていると、榎已は緋星から離れて、ベッドに座ろうとし。
「あっ」
 と僕を見つけて驚いたような顔をした。
「ども」
 と片手を上げてみる。
「あれ……あっ、そうだ……も、もしかして、さっくんがここまで……?」
「いや、そういう訳じゃないよ。ちょうど通りかかったんだ、筒山さんが」
「緋星でいいよ」
 言われて、ちらりと彼女に目をやると、なにかうーんうーんと考え込んでいる。
 どうしたものか、と考えていると。
「……僕、いま一人で修行中なのです」
 突然、榎已がそんなことを言った。
「修行中?」
「はい。僕達の家には代々この『腕』の力があります。そして中学校を卒業後、親元を離れて五年間、自分の『腕』の力だけで生活するという試練があるのです」
 ものすごい、なんか、突飛だ。
 でもなんか案外腑に落ちた。
「ですが僕は馬鹿なので……どうしたらいいのか全然わからず、開始早々死にかけたところに……」
 と言って、榎已は緋星に目を向けた。
 緋星は考えるのをやめていて、ちょっと照れたみたいに笑った。
「私がちょーど通りかかって、拾ったわけ。密室開放委員会とかは私の提案なのね。まあ、うーん、まだまだなんだけどさ」
 確かにまぁ、僕みたいな物好きがどこかしらに閉じ込められ、そしてその委員会の存在を知っているなんていう確率、とんでもなく低そうだ。
 それにしても、この委員会、意外なところで繋がっていたな。
「……都針くんじゃあなぁ……」
 不意に緋星がそうつぶやいた。都針? なぜ今都針が出てくるんだろう。
「あっ、都針くん。その人と僕、昨日またあったです」
「え!?」
 緋星は身を乗り出して声を上げた。どちらかというとそっちにびっくりした。
 でも内心では僕も驚いていた。榎已と都針の接点もあるのか。
「とりあえず殴っておきました。ひーちゃんに言われたとおり」
 はっとした顔をした緋星。ちらっと僕に目をやる。
 それで僕も気がついた。そうか、不機嫌だったのはそのせいだったわけか……。
「うーん……。でもあいつ、なんでそんなにえっちゃんに接触してくるんだろ?」
「わからないです。なんか言ってましたよ。殴ってたから聞こえませんでしたけど」
「うーん。でも、さすがにあんなヤツにえっちゃんを渡すわけには……」
 確かに、あいつに榎已を渡すとなるとちょっとあれだよな。何を企んでるかも分からないし、不良だし。
 でも確かに、どうしてそんなに榎已にかかわろうとするのか、その理由を聞く価値くらいはありそうだ。
「聞き出せないかな? その、理由ってやつ」
 僕がそう提案すると、緋星は「まあ、そうだね」とうなずいた。
「理由と条件次第では……考えようもなくはないかも」
「僕が聞いてみようか」
 また殴られる可能性はかなり高かったが、ここは男が行くべきだろう。
「頼んでいい? だめそうだったら全然無理しなくていいから」
 緋星は、ちょっと考えるような感じで言い、僕は「わかった」と返した。
「…………」
先程から沈黙している榎已に目を向けると、彼女は大きな瞳を見開いてきょとんとした表情を浮かべていた。
「……どうした?」
「ど……どうして、そんなに僕に協力してくれるですか? ひーちゃんも、さっくんも」
心底驚いた様子。まあ、僕に至ってはつい数時間初めて会ったような相手である。無理もないのだろうか。
どう答えようかと考えていると、緋星が口を開いた。
「どうしてもなにも、友達じゃん? 友達のことは全力で守るし、全力で協力するのが私のモットーだからさ」
榎已はちょっと嬉しそうに大きな目を瞬かせる。
「友達……ですか。じゃあ、僕もひーちゃんのこと手伝います、いつでも言ってくださいです」
「ん、ありがと。えっちゃんはそこにいるだけで可愛いからねえ。もう十分かもー」
「え? えっ、ええ?」
緋星はにやにやと笑いながら僕の方を見てくる。まさか、僕がそんな理由で榎已に協力しようとしていると言いたいのか……。僕は無言のまま睨んでおく。
「で、でも、さっくんはどうしてなのですか?」
 緋星に可愛いと言われて照れたのか、ちょっと慌てるようにして首を傾げる。
 ……まあ、可愛いけど……。
「……一応助けてもらったから。そのお礼って感じで……」
曖昧に答えると、にやにやしたままの緋星が親指を下に向けていた。見なかったことにする。
「い、いいんですか? 僕、迷惑ばかり……」
「いやいや、そんなことないよ……まぁ、僕も友達ってことで」
「さっくんも、お友達、ですか?」
榎已は、ちょっと嬉しそうに瞬きをした。
 なんかこう考えてみると、榎已ってわりといつも無表情だと思っていたけど、よく見ると結構表情があるなぁ。
 なんて考えながら、
「まぁとにかく、まかせて」
 とかカッコつけてしまった。
 
*
 次の日の朝。
 校門前。
 僕は湿布を貼った頬(あのあと緋星に貼られた)をさすりながら、校内に入る。
 さて、あいつは今日も学校にいるんだろうか。あんまり見かけないイメージがあるから、いつもはサボってるのかもしれない。
 そういえば、昨日の破壊された扉。あれってどうなってるんだろうか。……犯人探し……は、するだろうけど……。
 まあ、バレたらバレたで、その時考えればいいか。
 なんて思って、下駄箱で靴を履き替えようとした時。
 廊下の壁によりかかる男子生徒がいた。
 多くの生徒が彼から離れた距離を歩き、異質な空間を作り出している。
 彼が都針だ。斎藤都針。
 彼は明らかに僕の方を見ていた。
 着崩した制服に、不良としては珍しげな、黒髪。長めの前髪から覗く猫目が、目つき悪くこちらを睨んでいる。
 僕は靴を履き替えてから、そいつの方に歩いていった。周囲が若干ざわつく。
 僕は彼の正面に立った瞬間、僕ではなく、彼の方から口を開いた。
「お前、あの扉はどうした」
「…………」
 僕はちらっとあたりを確認。人は多い上、注目されている。
「知らないよ。なんのこと?」
 僕はそう言ってから、思い切って彼のそばに近づいて小声で言った。
「ここじゃあいつの話はできないだろ」
「…………」
 今度の沈黙は相手側だった。僕が近づいたことに対してか、また周囲がざわざわする。
 ……というか、こんなに有名な奴だったのか、こいつ。僕は知らなかったのに。
「来い」
 斎藤都針は不意にそう言い、僕の返事も待たず歩きだした。
 僕は迷わずそれを追いかける。
 殴られようが覚悟の上だ。僕は軽く息を吸い込んでうなずいた。
 そのまま彼が向かったのは、屋上だった。
 屋上の扉なんて開いていないはずだが、どうやら目的はその屋上への扉の前のようだった。確かに、こんな場所は誰も来ない。
 都針は階段の最上段に鞄を放るように置き、座った。僕はその数段下から彼を見上げる。
「……あの扉、やったのは本当に波戸榎已なのか」
 やはり。壊れた扉のことは話題になっているだろうし、聞きつけて勘付き、接触してきたのかもしれない。
 僕は少し考えるが、そこで嘘をついても仕方ないと思い、肯定した。
「そう。僕が密室開放委員会ってやつに連絡をとったら、彼女が来た」
「密室開放委員会……筒山緋星か」
 その辺りは知っているのか。前緋星に詰め寄っていた時に話していたのかもしれない。僕はあの時、会話の内容をよく聞いていたわけではなかった。緋星はその時、理由は知らないが何故か急いでいて、僕が声をかけたらさっさと行ってしまったし。
「……お前もてっきりあいつらの仲間なのかと思っていたが。違うんだな」
「まあ……緋星と会ったのもあの時が初めてだし、榎已と会ったのも偶然。榎已と緋星と、君に結構深い因縁があったのも昨日知った」
 都針は、眇めるような眼で僕を見る、視る。
 さすが不良というべきか、その目つきにはそれだけで何か圧倒されるものがあった。
「あいつらからなにか聞いたのか」
「聞いた。君が波戸榎已に接触しようとする理由を教えて欲しい」
 僕は即そう答えた。
 怯んだら負ける。怖くないわけではなかった。でも僕は。あの時、あの時もう、見てみぬふりをするのはやめると決めたんだ。
 強くなりたいと、そう思ったんだ。
「理由次第では考えるって、榎已は言ってた」
 僕は都針の答えを待つ。
 彼の目は、少し迷うように左右に揺れる。初めての表情の変化。
「……もともとそこは波戸榎已自身に話すつもりだった。だから緋星から連絡の手段を聞こうと思った。もう少しだったのに、てめぇが……」
 苛立たしげに睨まれた。
 いや、それは……僕悪くないよね。
「昨日偶然、遭遇して……なのに、あの野郎……緋星、あそこまで、突っぱねなくたっていいだろうが……」
 なんか、これはこれで可哀想に思えてくる。
 よくよく考えてみると、僕が声をかけて緋星を逃がした時も、都針は何か強く言ったり手を出したわけではなかったようにも見える。
 ただ緋星は、相当苛々した感じで「時間ないんだからホントやめて!」と言い放ち、それに対峙した都針が明らかに不良っぽいオーラを放っていたから、僕は止めた。
 まあしかし、あのまま放っておいてよかったとも思えない。
「……そうなると、君が榎已を知ったきっかけってなんなんだ」
 僕はそう尋ねた。榎已のことは知っていながら連絡を取れなかった。だが、緋星が榎已の知り合いということは知っていて、接触することはできた。
 一体どういうことの流れだ?
「……俺がちょっと路地裏を歩いてた時に……スプレーで密室開放委員会って壁に描いてる緋星を見かけたんだよ。そんときは緋星の顔を知ってたわけじゃなかったから、そいつが波戸家の榎已かもって思って俺は声をかけた」
「波戸の『腕』のこと、知ってるのか」
 僕は思わず口を挟む。そこまで、常識的に知られているレベルの情報ではないはずだ。
 と、そこでチャイムが鳴った。ホームルームが始まる。
 だが僕たちはどちらも動かなかった。チャイムが鳴り終わるのを待って、都針が口を開く。
「ああ。代々あの『腕』を持って生まれてくる一族の中、今現在試練の最中である波戸榎已。俺はそいつを探してた」
 ……ややこしくなってきた。
 大体、最初からそうなのはその理由だ。脱線し過ぎたが、そろそろ問うべきだろう。
「……それで、その理由は何なんだ?」
 意を決して尋ねると、都針は少し考えてから、まっすぐ僕の目を見た。
 眇めるように、見下される。
「それは、波戸榎已のいるところで話したい」
 ………結局はそうなるのか。
 ならば。
「じゃあ、君と、榎已と緋星。それと僕。この四人でどうだ」
 都針は、怪訝に片眉をひそめる。
「緋星はまだしも……なんでお前がいるんだ」
「僕らだって君のことを信じたわけじゃない。非常戦闘員だよ」
「……お前がか」
 まあ、そのとおりなのである。
 が、まぁ、少なくとも逃がすまでの時間稼ぎくらいはできるだろう。……多分。
 なんて考えていると、都針はすっと真面目な顔をした。
「だがとりあえず言っておきたいのは、波戸榎已は今、狙われているってことだ」
「……狙われて?」
「ああ。これは緋星と前遭遇した時にどうしても伝えたかったんだが、まあ、無理だったな」
……あの時、声をかけない方がよかったんだろうか……いや、どちらにせよもう済んだことだ。
それにしても、狙われているとはどういうことなんだろう。
「まず言っておきたいのは、俺は少なくとも波戸榎已の敵ではないということだ。だが、あの連中は紛れも無い敵」
「敵……?」
 なんだか、都針の言っていることは嘘には思えなかった。いや、もちろん、すべて嘘でこいつこそが敵ということは頭の片隅に置いておくにしても、だ。
「捕まったら、解剖でもされて『腕』の原理を徹底的に調べられるだろうな」
 僕は無意識に、あの真っ二つに破壊された扉を思い出す。
 あれほどの力なら、そういう奴らが出てきても、おかしくない……のか? いや、でも非現実的過ぎて信じがたい。いや、それを言えばもうあの腕の時点で常識外だけれど。
「お前、緋星と波戸榎已には連絡できるか? できれば波戸を一人にしないほうがいい」
「……緋星はいま学校にいるはず……榎已は朝になったら帰るって言ってたから、今は家に向かってるか、着いてるかどっちかだと思うけど」
 都針は軽く舌打ちをした。
「あの連中はもうかなり波戸榎已に近づいてるはずだ。家が知られていてもおかしくはないな」
 言うやいなや、彼は立ち上がった。
「お前、波戸榎已の家を知ってるだろ」
 どうあっても吐かせる、そういう目をしていた。
 どうしよう、と僕は考える。
 信じるか、信じないか。
 すべて嘘かも。こいつもその連中のグルかも、あるいはそんな連中存在しないかもしれない。
 ……でも、まてよ。
 榎已は昨日、こいつに会った時、勝ったみたいだった。ということは、こいつが敵でも負けることはないということではないか。
 独断でいいのかどうかも迷ったが、もしもこいつの話が本当だった場合、それはできるだけ早い方がいい。
 僕はうなずいた。
「わかった。案内する。緋星にも連絡するよ」
「……早くしろ」
 言いながら、都針は荷物は放置したまま階段を降り始めた。
 僕も鞄をそこに置き、そのままポケットから携帯を取り出した。緋星に電話しようとして、今はホームルーム中であろうことを思い出してメールに変えた。
 まあ今日は学校をサボることになるが、仕方ないだろう。
「……お前、名前は?」
 不意に言われ、誰に言われのか振り向く。
 階段を降りていく都針だった。
「……篠崎、朔」
名前を問われるなんて、少し意外だ。
 なんか、思ってたより話の通じる奴だよな、なんて、すごい偏見だったと思うけど、そう思ってしまう。
「おい、止まってんじゃねぇ。メールぐらい歩きながらもできるだろうが」
 慌てて都針の後を追う。
 四階分、階段を降りたところでメールを送信。その間、都針とは無言。
 てっきり返信には時間がかかるかもと思っていたが、簡潔に「わかった。校門行く」というすごく物分りのいい返事が返ってきた。
「校門に来るってさ」
「緋星か。……あいつ、要るか?」
「要るだろ。緋星だって榎已のことは大事なんだと思うし」
 言うと、斜め前を歩いていた都針がちょっと呆れたみたいに息を吐いた。
「俺にそこまで堂々と話す生徒はお前と緋星くらいだよ」
「…………」
 実は僕、あなたがどんな人なのか全然知らないんです、なんて言えない。
 無言のまま、今度は榎已の携帯に連絡する。せっかくなので、電話をかけた。
「……はーい。もしもしー」
 無事そうな声が聞こえる。
「……僕だけど。朔」
「あー、さっくん。どうしました? なにかわかりましたですか?」
 相変わらず変なしゃべり方で、そう返された。
「ああ、今どこにいる?」
「今ですか? 家にいますよー」
「家か。ちょっと緊急事態なんだ。今から行くから、鍵閉めて絶対に動くなよ。変な奴がいたらすぐ殴れ」
「?? 了解です」
 不思議そうな榎已。僕は、今都針と一緒にいる事を話した。スピーカー音声になった携帯から、榎已の声が聞こえる。
「それで、都針くんは、どうして僕を?」
「……波戸榎已、俺の名前、やっぱり聞いてないんだな」
「え? 都針くんじゃないんですか?」
「……斎藤、斎藤都針だ」
「さいとう……あっ、ああ! 思い出しました、そういうことでしたか!」
なにか合点がいったらしい。僕には理解できない話であることに間違いはない。
「だとしても、なぜその斎藤都針くんが僕を探していたのです?」
「波戸本家から連絡があった。あんたは今狙われてる。聞いたことはあるだろう、昔、波戸の力を得ようとして襲い掛かってくる集団が多くいた事。その残党だと思う」
「……あ、し、知ってます。そういうことでしたか……じゃあ、静かに待ってます」
 榎已は自分が言うほどバカじゃないんじゃないか、なんて思いながら、もしものために通話を接続したまま、特に話すこともなく校舎の入り口までやってくる。何故か扉を出るとき都針に先を譲られた。
 そして、校門に向かう。
 そこには既に緋星が待機していた。相変わらず中途半端な髪型だ。
 ちらりと彼女は都針を一瞥。
「……これからどうするつもりなの?」
 本当に、気後れする様子がない。見ていて心配になるレベル。
「とりあえず、安全な場所に連れていって、その間に俺達があの連中を始末する……ってのが理想だが――」
 つなげっぱなしの電話も意識しながら、そう話したと思った瞬間。
 電話の向こうから、破壊音が聞こえた。
硝子の粉砕するような甲高い音に加えて、質量の大きいものが破壊される、低い音。
「!! な、榎――」
 思わずそう言いかけた僕は、都針に腹を殴られ黙り込む。
 静かにしろ、と目で言われ、僕たちは駆け出した。
 先頭に緋星が立ち、道案内する。
「や、やめろです!」
「黙れ」
「う、あ、あれ……」
 電話の向こうから、そんな声が聞こえてくる。
 焦る。もう少し、もう少し早く都針の話を信じていれば……?
「斎藤の奴らはいないだろうな? 早いうちに行くぞ」
 斎藤――?
「ああ、急ごう」
 応じる声。何人かいるようだ。
そのあと、何か車のドアを閉めるような音と、エンジン音が聞こえてきた。
 相手は電話がつながっていることを知らない。僕達は喋れない。
 ギリ、と歯を食いしばる。
 そして思う。
 なぜこんなに、僕は必死になるのだろう?
 昨日あったばかりの、波戸榎已のために。
 それは、それは多分――。
 彼女が、似ているからだ。
 あの時僕が助けられなかった、あの女の子に。
 重ねているのか。思わず自嘲してしまう。
 意味なんかない。自分の罪滅ぼしにすらならない。
 そんなの、笑ってしまうくらい滑稽だ。
「――えっちゃん」
 かすれた声が聞こえた。緋星だ。
 緋星は、友人のために走っている。
 都針は……まだ知らないけれど、きっと何か、波戸榎已を守りたい理由がある。今はそう思える。
 でも、僕は――。
「……くそ、間に合わなかったか」
 小さくそう声が聞こえた。
 気がつくと、そこは榎已の家の前だ。
 でも、破壊された扉と、割れた窓。
 中が丸見えのそこには、誰もいなかった。
 素早く当たりを見回すも、人の影も見えない。
 電話からも、何も聞こえてこなかった。
「切れ、それ」
 言われて、僕は少し迷ってから電話を切る。
 その直後に、都針は自分の携帯電話を取り出した。
「波戸榎已が連中に捕まった。どこに逃げたかはわからない。探してくれ。まだこの街の中にいるはずだ」
 そういえば、都針は「俺たち」と言っていた。誰なんだろう。
「……都針くん。きみを信じるよ。私はどうすればいい?」
 顔を上げると、その言葉の主は緋星だった。
 その瞳はまっすぐに都針を見据えている。
「とりあえず出来ることはない。探すのはあいつらに任せる。……だから、お前たちに先に俺の話をする」
「……わかったよ」
 都針は僕と緋星に目を向け、口を開いた。
「俺たち、斎藤の家にも、波戸たちのようなある種の『力』がある。それは、二つ……これは、本来あまり口外できない話なんだがな」
 都針は続ける。
「ひとつは、単純な『暴力』というか、戦いの力だ。俺の話を聞いたことはあるか?」
 緋星は頷いた。少し落ち着いたようで、先程よりは軽い表情で言う。
「えーと、ある高校の不良集団を一人で壊滅させた、とか……町中で喧嘩になった大人の人を軽々病院送りにした、とか……その程度なら。そもそも君の家系がそっち系ってことは結構知られてるしね」
 なるほど確かに、それならあそこまで生徒がざわざわするのもおかしくはない。
 それに、そんな感じの話なら僕も聞いたことがあった。こいつのことだったのか。
「そうだな。本当はもっと裏に色々でかい話があるんだが、そこは置いておくにしても……そして、斎藤家は、波戸家とも密接な関係にある」
「密接……?」
「二つ目の能力……これは本当なら波戸家の人間にしか話せないという決まりなんだがな。……俺達の通った扉は、壊さない限り二度と開かなくなるんだよ」
 …………。
 なんだそれ、反応にすごく困るけど……。
 ああ、でも、そういえば。
 あの時、扉が開かなかったのは。そういう理由だったのか。
 ふっ、と場違いに緋星が吹き出した。
「なんそれ、にはは、面白いなぁ」
 完全に筒山緋星だった。
「……お前、心配じゃないのか」
「そんなわけ。でも、怖い顔しててもどうにもならんってな。明るく行こう」
 僕はなんだか安心した。
 その瞬間、空気が軽くなる。
 大丈夫だ、こっちだって負けてない。
 僕は、迷いから目をそらして、そう思った。
「そんじゃ、学校とかの時はどーしてたの?」
「学校には行かねぇよ。ここ数日はあんたを探すために来てたけど、窓から入ってるから扉は死んでない」
「……あれ、さっき昇降口……」
 僕が思わず口を挟むと、都針は冷めた目を向けてくる。
「承知だ。だからお前に先を譲ったんだろうが」
「……ああ……」
「まあ昇降口はいくつも扉がある。どうにかなるだろ」
 ……超迷惑じゃん、それ。
そこで、ぽん、と緋星が手を打った。
「わかった。それを壊すための波戸ってわけか」
「そうだな。……数代前、斎藤と波戸は約束を結んだ。その当時から波戸はいろんな奴から狙われてたからな。それから守られる条件で、波戸は斎藤に協力するようになった」
それにしても、開かない扉の解決方法がかなり強引だ。もう、密室開放とかじゃなくて密室破壊と言ったほうが妥当だろう。というか、その通った扉が開かなくなる力になんのメリットがあるんだろう。
その問は飲み込んで、ふと気になったことを尋ねてみる。
「それなら、なんで都針と榎已は互いに離れてたんだ?」
「ああ……。約束したこと自体もう百年以上前と言われている。斎藤家は裏の顔が広いしそういう意味での力もあった。敵なんてもう何十年も前に倒しきってたからな、抑圧もあった。向こうもこっちに協力する理由がもうあまり無かったんだろう、つながりも切れそうだった」
 なるほど……と僕は相槌を打つ。
「だが、つい最近。波戸家から数年ぶりの連絡があった。どうやら今試練の途中である波戸の少女を狙う奴がいるらしい、とな」
「それ、えっちゃんに注意することはできなかったわけ?」
 確かにそうだ。本人に声さえかけられれば。
 だが、都針はあっさり否定した。
「無理だ。あの家の試練はよくわからんがハードなんだよ。互いの連絡は全く取れなくなる。斎藤家とのつながりが強かったときは試練にも斎藤が協力してたんだがな。今はそれもない」
「なにそれ、大変だなぁ」
 僕も思い返す。榎已、かなり危なかったもんなぁ……。
「っていうか、そういうことなら早く言ってくれればよかったのに」
「何言ってんだ。俺はあの時話そうとしてたぞ。聞いてなかったのはお前だろうが」
「ぐ……でも、あれよ? 学校イチの不良から声掛けられて逃げん奴いる? もっと優しげにやるとかさぁ、ないの?」
「あるわけないだろ。こっちだって必死なんだよ。ていうかそもそも、こいつが途中で出てこなければ強引にでも話してたからな」
 口論の矛先が、ぐいっと僕に向いた。
 ……ご、ごもっとも……かも……。
「いや。私は感謝してるよ? さっくんにはね。だってほんとに時間なかったんだもん」
「……なんの用事だったの?」
 僕がおもわず尋ねると、
「えっちゃん。お腹空いて死にそうだから助けてって電話来たんだよね。広告書いてたら」
「…………」
 どちらにしろ危なかったってわけか。
 と、その時。
 都針の携帯が震えた。
 三人は瞬時に黙り込み、空気もすうっと冷えた感覚。
「……見つかったみたいだ。行くぞ」
 都針は携帯を見たまま走り出す。僕らも追った。
「そんなにすぐ見つかるくらい都針くんって味方いるの?」
 走りながら、緋星が尋ねた。
「まあな。ここ数日、協力できるやつ全員に榎已を探してもらってた。一昨日もそれで、たまたま『腕』の練習をしてた榎已に遭遇した奴に連絡もらって、その場所に行ったんだ」
 ……そして。
「てめぇが変なこと教えてなければ、その時に斎藤って名乗ることぐらいはできたはずなんだよ……」
 憎々しげに舌打ち。
 緋星は知らん顔をし。
「てゆーか、都針くんって榎已より弱いってこと?」
 僕はその質問に思わずヒヤッとする。
 なんてこと聞きやがる。僕も思ったことではあるけど。
「そんなことはない。ただあいつには俺を倒すくらいの気があった。俺はあいつを傷つける気はなかった。『腕』を使う消耗もあるし、引くしかなかったんだよ」
 ははあ、なるほど。
 そこでまた違う事実にヒヤッとした。
 僕はどちらにせよ都針は榎已に勝てないだろうと思って案内することにしたのだ。その読みは見事外れていたことになる。
 本当……危なかったってわけか……。
 僕は思わずため息をついた。
 


 都針の案内で辿り着いたのは、街中の裏路地……というか、完全な街の隙間と言った感じの通りだった。
「へえ、この辺こんな道あるんだね……」
 ビルとビルのあいだ。よく分からない管の這う鉄壁が、周囲の気温を遥かに下げている。カビるようなじめじめとした空気が重い。まだ昼間のはずなのに、太陽の光は遮られ、うっすらと暗かった。
「ちなみにもともと連れてくる予定だった『安全な場所』も、この近くだ」
「近いんなら安全じゃないじゃん」
「迷路を想像しろ。壁挟んで隣にいても、そんなのほとんど関係ないようなものだろ」
「うーん、まぁ……」
 ちなみに、都針の仲間たちは全面協力してくれているらしい。いまもこの路地の中に何人も張り込んで敵の居る場所の特定も済んでいる。頼もしすぎる味方だった。
 ここにくるまでに、「連中」の話も少し聞いた。
 おそらく彼らは、昔斎藤家が消した集団たちの残党であろうということだった。
 護衛役である斎藤家とのつながりが切れかかるのを待っていたと推測される。普通に考えればもう少し経ってから……あるいは次の代の子でも良かったような気がするが、その暗躍が波戸家に感づかれたのが、波戸榎已が選ばれた理由だと思う、と都針は話した。
「それにしても……向かったとして、どうするつもり?」
 コンクリートを踏む音が冷たく反響する。
「とりあえず……あいつらがどんな敵か分からない。さっき電話の向こうでも、波戸榎已も歯が立たなかったか、何らかの手段で力を奪われた可能性がある」
「だよねぇ……何年も潜んでたんだから。絶対勝ちに来てるよね」
「まあ、どうにかする」
 そう言う都針は、鋭い目を前方に向ける。
「猫じゃなくて、蛇だったか……」
「あ?」
 その目を見てか呟いた緋星に、都針はいぶかしげに首を傾げた。
 僕も同感だった。
「……っていうか、あとどのくらい?」
「もう少しだな。あと、5,6分ってところか」
「地味にあるのね、じゃあ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
 都針はなにも返さなかったが、それを肯定とみなしたのか緋星は続ける。
「その『力』の起源とかってあるの? 扉が閉まっちゃうって、なんか誰かの嫌がらせみたいだよね」
「……それ、今訊かなきゃいけないことか?」
 口を挟んだのは僕である。それを、それを今ここで聞いてしまうのか。
 まぁ、僕も気になってはいたけどさ。
 緋星は妙に明るい顔で、そんなふうに言う。この先に待っているのはかなり熾烈な戦いであるような気もするのだが、なんなのだろう、この人の明るい精神は。
 都針は、ため息を交えて口を開いた。
「はっきりとした理由はわからないが、まぁ、一応伝わってるお伽噺みたいなのはある。……昔、ある人間が衝動的に、室内で人を殺してしまったことがあったらしい。その時、そいつはこう思った。『ああ、この扉が開かなくなってしまえば、密室殺人事件となり、自分はきっと罪を疑われることはないだろう』とね。その時神様は、人を殺し、そしてその罪から逃れようとした男に戒めとして呪いを授けた。その呪いは代々引き継がれ、まあそれが斎藤家で、その呪いがコレってことだな」
 ……なんか、すごいコメントのしづらい話だった。
「へぇー、そうなんだ。事実だとしたらある意味ロマンあるねぇー」
「波戸の腕の力の起源までは知らないが……他にも不思議な力を持った家は遥か昔からいくつもあるらしい。まあ、そのほとんどもいまは絶えてるみたいだけどな。超能力じみた奴らとか、物理的に『無敵』になれる奴らもいたって話だ」
 緋星が「へえー」と、興味津々という表情を浮かべる。
 都針が携帯電話にちらりと視線を落としてから、道を曲がった。ビルの間だと言うほどではない、小道に出る。
「……無敵なのに何でいなくなったんだ?」
「ああ……知らないな。そもそも実在したかも分からないような奴らだ」
「そうなんだね。いたら気になるなあー」
なんて話をしていると、道の先の曲がり角から人影が見えた。
 緋星はこちらに近づいて、ひそひそと「誰?」と尋ねてくる。
「あれは……俺の仲間だ」
 向こうもこちらに気付いたのか、辺りを見回すように動いてから手招きしてくる。
 小走りで近づくと、彼のいでたちも見えた。
 小柄な青年だ。制服を着ていて学生という感じだが、僕たちの高校の制服ではない。
「よっす。都針さん。連中ですが、この先の二本目の通路を右に曲がった所の三番目のビルに入っていきやした。人数は三人です。なんか大きなカバンを持ってたので多分波戸の譲さんはその中かと」
「三人か……向こうはこっちに気付いてそうか?」
「いや……分からないですね正直。尾行には気づいていなくても、波戸の本家に感づかれている以上、都針さんとこに伝わるのは当然ですし、まあ予測はされているかと」
「……なら、俺に対しても何か対策が打たれている可能性は高いな……」
 うーん、と考え込む。
 かなり手ごわい。しかも命もかかわっている問題と来た。
「……警察って、使えないのん?」
 緋星が不意に尋ねた。確かに、もうこれってそれしかないんじゃ……と思ったもつかの間、都針と青年に笑われた。
「そもそも、斎藤家自体が警察の敵なんすよ、結構いろんなことやっちゃってますし。身元隠して通報するにしても、連中はその辺暴露したり、証拠も握ってる可能性が高いっすから」
「あ、そっかあ」
「でも、都針って思いっきり身バレしてるよな?」
 僕がそう訊くと、都針はうなずいた。
「まあな。でも、斎藤ってのは本家みたいなのも存在してないんだよ。斎藤家の人間はみんなばらばらに場所を変えながら生活してたり、偽名使ってたり。問題起こすときも警察に顔バレてない奴ら使ったりしてるからな。世間や警察に知られてることは実際ほとんどない。存在すら幻化してるところもある」
「……だからこそ、その情報流されんのは困るってわけか」
「そういうことだな」
 これは困った。
 青年は、僕と緋星を交互に眺めてなぜか感心していた。よくわからないけど、ちょっとニヤニヤしている。
「……というかさ、都針くんて、そこまでしてえっちゃんを助ける理由ってあるの?」
 今それ、聞く?
 普通、聞くか緋星。それで、「あ、ねえわ」とかなっちゃったらどうすんだ、それこそ手詰まりだろうが。
 とちょっと焦ったのだが。
「……ないといえば、無い。だが、百年前に交わされたものでも、既に破綻したものであっても、約束は約束だ。俺たちはその時から今まで、波戸を裏切ることは絶対にない」
 そう言い切った都針は、すっと目を細めた。
「俺が行く。二人はここで待ってろ」
「え。それは――」
 僕と緋星は顔を見合わせた。
 僕はなんて言い返せばいいか分からなかった。
 行ったって足手まといになるなら、そのほうがいいのかも、とさえ思っていた。
 でも、緋星は違った。
「私は、友達を助けに来た。都針くんの約束を手伝うため、ってわけじゃない」
 そして見据える。
「っていうか、普通に考えてよ、さっき言ってたじゃん。都針くんにも何か対策が練られてるかもって。そんな中一人で突っ込んで何になるわけ?」
「それもそうなんだがな……」
 都針の横の青年が、急に真面目な顔になって不意に口を開いた。
「でも、行くなら覚悟した方がいいっすよ。なにせ、都針さんが通ったらもうその部屋からは出られないんですから。勝つか負けるかまで」
「いーよ。私は行く。……さっくんの方こそ、来る理由がないんじゃない?」
「……僕は」
 あの、三年前の出来事が頭をよぎる。
 数人の男に、連れていかれるひとりの少女。たすけたくて、でも、一歩も動かなくて――。
「……出来ることはやりたい。ここまで来たんだしね」
 痛い。
 自分の為じゃないか、そんなの。
 後悔が苦しくて、その埋め合わせが出来るような気がして。
 都針や緋星のような、信念も思いも持たぬまま。
「ま、緋星が来るって言ってんのに男が残るなんてありえない、か」
 都針は薄く笑った。
 少なくとも、僕は緋星を守ろう。僕はそう決め、頷いた。
「じゃ、オレは外で待機しますね。こっちは任せてください」
「ああ、頼んだ。……じゃあ、行くぞ。俺から離れるなよ」
 都針は道の先を覗き見た。誰もいない。
 僕たちは歩き出す。
 僕は、いいんだろうか、このままで。
 波戸榎已。
少女。
 助けたい。
 会ってたった一日しか経っていない人間を、自分の自己満足のためにか?
 でも、果たして、自分の為ではなく、本当に他人を想って行動できる人間などどれほどいるのだろうか。
 その信念や思いが、本当にすべてがすべて相手の為だけであると、そう言えるのか?
 自分が、友達に死んでほしくないから? 自分が、約束を破りたくないから?
 ――最低だ。
 僕は、どうしてこんなことしか思えないんだろう。
 馬鹿だ。バカだ。
 どうして。
「おい」
「――あ」
 都針が立ち止まっていた。薄汚れた白い扉の前。
「ボーっとするな。来ると言ったのはお前だ。死んでも知らないぞ」
「……ごめん」
 緋星が僕の顔を覗き込んで、「大丈夫?」と尋ねてきた。僕は頑張って笑って頷いた。
 都針がドアノブに手をかけ、ひねる。
あっさりと開いた扉。もしかしたら鍵がかかっていたり……と心配していただけに、拍子抜け。
「おい、朔。お前から入れ」
 なんだかんだ、都針に名前を呼ばれるのは初めてだよなぁ、とか思いつつ。
 僕は言われたとおりにビルの中に足を踏み入れた。
 無骨なコンクリートの室内。中には誰もいないが、すぐ正面に階段が伸びている。
 次に緋星、最後に都針が入った。
 扉は音もなく閉ざされる。もう、逃げることはできない。
 その時僕は思った。
 本当にもう、この中で死ぬのかもしれない。
 戦えるのは都針だけ。もしそれに対策が考えられていたら、僕と緋星だけじゃどうしようもできないのだ。
 でも……もし、都針だけが敵と戦い、それでもし、都針も榎已も戻ってこなかったら? それで後悔するくらいだったら、きっと、無意味でも戦って死んだほうがマシだ。
 そんなのはきっと間違っているけど、でも、そう思ってしまった。
「…………」
 僕たちは視線を交わす。
 建物はしんと静まり返っていた。
 左右にはいくつか扉がある。入口のものとは違う、頑丈そうな扉だ。
 都針が無言のまま階段を指差したので、都針、緋星、僕の順番で一列に並んで階段を上る。
 家の中にあるような、幅の狭い階段だった。素材はコンクリートで、できるだけ足音を立てないように進んでいく。
 一階に誰も居ないことにすこし恐ろしさにも似た感情を覚えたが、退くわけにもいかない。
 踊り場に出て、都針が二階を覗く。誰も居ないようだ。
 じりじりと、静寂と緊張感に焼かれる。心臓の鼓動だけが、いやに頭のなかに響いて。
「やあ、御一行さん」
 声がした。
 ちょうど階段を上りきった、二階のスペース。正面にある扉が開いて……その向こうに、部屋の中に、人がいた。
「……斎藤、都針くんだっけ。いやあ、聞いてるよ。思ったより行動が早いんだねえ。というか、こんな近くにいたなんて意外だったなあ」
 まるで緊張感のない、流暢な喋り方。
 声は少し高いが、男のものだろう。
 すこし距離があり、そいつはなぜかガスマスクのようなものを付けていて、顔は見えない。
「波戸榎已を返してください」
 そう言い放ったのは緋星だった。都針が制するように右腕を出したが、遅かった。
「へえ、嬢ちゃん。誰だか知らないけど……まあ、波戸榎已は……返せないよねぇ」
 耳障りな声が響き続ける。誰かが、ギリ、と歯を噛みしめる音が聞こえた。
「まぁ、榎已ちゃんはこっちにいるよ。ま、もっと上の階なんだけど」
 僕はちらりと辺りを確認する。
 階段はつながっていないようで、確かにこちら側に階段はもうない。男の言うとおり他の部屋に階段があるか、あるいは二階までしかないのか……。
 そしてこの階にも、正面の扉以外に左右2つに扉があった。一階のものと同様、丈夫なコンクリート造りだ。
 しばし、沈黙が流れた。
「……波戸榎已は今生きているのか」
 静寂を裂いたのは、そう問う都針の声だった。
「生きてるよそりゃあ。殺しちゃったら意味ないだろ。ここまではちょっと眠ってもらったけどね」
 睡眠薬かなにかか……。そんなものがあの榎已に対して使えたかはすこし微妙だけど、嘘か真かは知りようがない。
 再び、沈黙。
 どうすればいいんだ。
 迂闊に近寄るわけにも行かない。部屋に入るとした場合、全員で行くなら都針を最後にして入らなくてはならない。そんな悠長に待っていてくれるとはとても思えない。
 ――あれ。
 僕はその瞬間、背筋が凍るのを感じた。
 迂闊に近寄るわけにも行かない、そんな悠長に待っていてくれるとはとても思えない……?
 僕たちは、既にこの建物の中に入っている。
 居場所もあっさりと分かり、扉を閉ざすこともせず、開放したまま、僕たちは招き入れられた。
 それはもう、まるで――。
「さあ、どうするのかな? 御一行さん。わざわざ来たからには、何か作戦でもあるのかなぁ?」
 既にここは、罠の中。
「ないな」
 動いたのは、都針だった。
 緋星が僅かに手を伸ばす、だが、届かない。
 届くわけもない、それこそ瞬くような速さで。
 正面の扉が閉まった。
「――都針くん……!」
 それは、都針が扉を通過した証拠。
 僕たちは、前も後ろも塞がれた完全な密室に閉じ込められた。
「……都針くん、最初からそのつもりだったんかな」
 緋星は伸ばした手を下ろした。
 扉の向こうから、低く響くような破壊音が絶えず聞こえてくる。
「……くそ」
 結局、どうにもならない。
 力にもなれない。
 進めない。
 結局の意味じゃ変わってないじゃないか。
 三年前のあの時から、僕はなにも。
 助けたい人を、助けられない。
 あのときは勇気も力も足りなかった。今だって同じだ。
 呆然と立ち尽くし、数分が、あるいは数秒が経過した頃。
 右側の扉が、開いた。
「いや、ほんとボスの作戦は完璧っすねぇ」
「ああ。おっと、お二人はどうする? ま、ただで帰らせるわけにも行かねえんだけどさ」
 絶句。
 そして、混乱。
 そのコンクリートの扉を開けて出てきたのは、二人の男だった。
 その顔を見て、違和感が湧く。
 なんだろう、これは、この感覚は。
「……波戸榎已はどこにいるのかな」
 緋星の声が僅かに震えている。
「あ? この部屋だよ。もちろん向こうにも、その上の階にも波戸榎已はいねぇよ」
 そう言ったのは、背の高い男だ。
 もう一人、金髪の男がにやりと笑う。
「まぁ、どうせ斎藤の奴のことだから。協力もなにも自分一人で行くに決まってるじゃないっすか。でもバカっすよねぇ。どうせ信じないならここまで連れてくるべきじゃないんすよ」
 緋星が息を吸い込んだ音がした。
 まずい、と思ったけど、もう緋星は動いていた。
「信じなかったわけじゃない」
「おっと」
 緋星の突き出した拳は金髪の男にあっさりとかわされ……。
 入れ違うように放たれた足が、緋星の身体を数メートルも飛ばした。
「緋星――!」
 コンクリートの無骨な床に身体を打ちつけた緋星は、そのまま立ち上がらない。
 僕は振り向いて男たちを睨んだ。
「おお、こりゃあ信じろって方が無理だろ。ただの子供じゃねえか」
 確かに、違う。信じる信じないの話ではなくて、ただ、都針は僕たちを守るために先に行った。
 どうする、どうすればいい……。
 逃げて助けを呼ぶ? でも僕の力で入口の扉を破れるか? いや……そもそも僕は、逃げて、それで後悔しないのか?
 ぐるぐると思考が回る。
 僕は一度それを断ち切ると、口を開いた。
「あんたらは、どうしてそんなに榎已を必要とするんだ」
 正面の部屋から、ひときわ大きな破壊音が響く。ぴしり、とコンクリートの壁が軋んだ。
「必要、ねぇ……まぁ、単純に力がほしいってだけさ。力がなきゃなにも始まらない。壊したいものも壊せないし、守りたいものも守れない。あんたもそういう経験ぐらいあるだろ? 力がほしい、そう思うような瞬間が」
「……こんなの、間違ってる」
 その力はきっと、自分で作り出すべきものだ。他人から奪うようなものじゃない。
「そう思うならそれでいいっすよ。俺らにはどうがんばっても越えられない限界の先に居るんすよ、あいつらは」
 まぁ、と金髪の続ける。
「それで言ったら別に対象は斎藤くんでもいいんっすけどね。あいつはちょっと捕まえるのはちょっとむずかしいし、正直力もはっきりしてないんでどう研究したらいいのかわからないっすからねぇ。まあ一番しつこそうなやつは先に倒しちゃって逃げようって算段っす」
「倒す……?」
 ……なんでこいつらはこんなに自分から喋るんだ。じわじわと、焦りが生じる。
「そんなに難しいことでもないっすよ。無敵ってわけじゃないんですから。ガスでも放てばすぐに、ね」
 思わず扉の方に振り返る。扉の向こうはしん、と静まり返っていた。
 ……まずい。
 どうすれば――。
「お、終わったっぽいっすね。んじゃ、そろそろやりますか」
 金髪の男はそう言うと部屋をまっすぐ突っ切って、倒れる緋星の身体を跨ぐと、部屋の左側にある扉の方に行った。
「や、めろ!」
 僕はどうすればいいのかもうわからなくて、がむしゃらに男に掴みかかった。
「力がなければ守れませんねぇ」
 そいつは嘲るようにそう言い放ち、翻した拳で僕の頭部を殴った。
 あまりの衝撃に、一瞬意識がふっと闇に沈んだ。
 そのまま僕は、緋星のすぐ横にそのまま倒れる。
「さて、お疲れ様でした、三人共」
 言いながら彼らは、どこから取り出したのかガスマスクのようなものを着用する。
 割れるように痛む頭の奥、意識が霞む。

 三年前の中学二年生の時、僕は街の人気のない路地で、一人の少女を見かけた。
 彼女は数人の男に囲まれ、次々に何か言われていた。少女はすこし怯えるような表情で、ひたすらに首を左右に振っていた。
 助けなきゃ、と思った。でも僕は動けない。
 少女は、その中の一人に腕を掴まれ、ビルの隙間へと引っ張られていく。
 その時、周りには僕以外誰もいなかった。僕が、僕が何かできたとは思えない。でも、すこしでも声をかけて彼らの気をそらせたら、もしかしたら少女は逃げることができていたのかもしれない。
 僕は動けなかった。ようやく身体を動かせたのは、少女と男たちが道の奥に消えて数十秒ほど経ったときだった。
 僕は公衆電話に走って、警察に電話した。
 それくらいのことしかできなかった。でも、誰も見つかることはなかったらしい。
 少女も、男も。
 その時行方不明になったという子供はいなかった。でも、それでもああそうかと安心なんてできなかった。
 まさか、少女が一人であの男たちから逃げられるとは思えなかった。だからきっと、あの子は、あの子は――。
 その時から、僕は強くなりたいと思ったのだ。
 今度は守りたいと思ったのだ。
 そうやって時々ぼんやりと訪れるようになったその路地裏の壁に、密室開放委員会の文字が描かれていたのは、きっと偶然じゃなかった。
 ――でも、いいのか、と思う。
 僕にはそれしかなかった。自分の罪滅ぼしだ。自分が後悔したくないが為に、榎已をあの時救えなかった少女に重ねてしまうが為に、ここまできてしまった。
 そして僕は、それでも三年前と同じように、なにもできないまま、今度は永遠にやり直しもできぬまま、死ぬのだろうか――。

「あのね、さっくん」
 掠れた声が、僕の意識に触れた。
 緋星だ。
「私が、本当にえっちゃんのことを思うなら、私はここにこないほうが良かったんよ。えっちゃんは、私に傷ついてほしくないに決まってるから」
 ぼんやりと、その声だけが聞こえる。
「私は正しいことを選んだ気はないんよ。間違いなの。何もできないわたしがここに来ても、本当に足手まといになるだけ」
 小さく、吐息。
 まだ時間はあるだろうか。
「でも、間違うことなんだと、私は思うのよね。こういう、馬鹿で、無意味で、自分勝手な理由で……それこそが、好き、とか、守りたい、ってことで」
 その声は響き続ける。
「それは全然……正しくなくても、いっそ自分のためでも。守りたいって、そう思えるなら、それがどんな理由でも、間違っていても、それはきっと――正しい」
 そんなの、めちゃくちゃだ。
 そう思った。
「だから、さっくん。守りたいって思ったんでしょ? 波戸榎已のことを。だったら、それで十分だよ」
 波戸、榎已。
 ああ、そうか。
 たしかに僕は重ねていたのかもしれない。あの時救えなかった少女と、榎已のことを。
 でも、僕は、榎已を守りたかった。助けたいと思ったんだ。
「……なんかさっくんずっと迷ってるみたいだったからさ」
「……ありがとう」
 でも、多分、今度はもう間に合わない。
 もう、遅い。
 僕は無意識に、ポケットの中にある携帯電話に触れた。
 感覚だけで、通話の画面を開く。
 そして、僕は番号を打った。
 数回しか掛けたことのない電話。でも、頭が冴えていた。
 着信。
 もしもーし、と、あの少し間延びした声が聞こえてくる気がした。
 この密室から、彼女と一緒に逃げ出したかった。
「……おい、止めろ」
 急に、男の声が聞こえた。
 そしてその奥に――地響きに似た、揺れる音が響いていた。
 僕は目を開けた。
 目の前では、うつ伏せで倒れていた緋星が顔を起こして、呆然と目を見開いていた。
 僕も、そちらに目を向ける。
 右側の扉だ。ピシリ、ピシリとヒビが入り――。
 そして、轟音とともに四散した。
「な……!」
「薬が切れたのか……!?」
 そんな男たちの声が、その扉の向こうに立つ彼女が、ひどく遠い夢のように思えた。
 砂埃の向こうに、榎已が立っていた。
 下ろされた右腕は、服が破れたのかむき出しになって、赤い、赤い血をこぼしていた。
 彼女の大きな瞳と、視線が交差する。
 とても、とても悲しそうに歪んだ瞳から、ぽろぽろと透明な雫がこぼれ落ちる。
 その瞬間、数歩踏み出した榎已の腕が、まるで視界では捉えきれないような動きで背の高い男の首を打った。
 彼が崩れ落ちるよりも先に、もう一人、左側の部屋から出てきた男を、榎已が迎え撃つ。翻った右腕が頭部を殴り、その衝撃か男は部屋の奥へ、榎已は部屋の中央へと飛ばされた。
 そして、しんと部屋は静まり返った。
 あまりにもあっけなく、戦いは終わる。……そういえば、まだ部屋にガスは放たれていないようだった。
 僕は身体を起こした。
 その時、僕は榎已の右腕に何か文字のようなものが書かれていることにぼんやりと気づいた。
『約束は、破らない』
 少し歪んだ、その文字を、僕はぼんやりと眺めていた。
「……ごめんなさい」
 顔をあげると、それは榎已の声だった。
「ごめんなさい、さっくん。ごめんなさい、都針くん、ごめんなさい……ひーちゃん」
「榎已は、悪くない」
 僕は咄嗟にそう言った。でも、そんな言葉じゃ、何も届かない。
 榎已はそのまま、正面の扉へと向き合った。
 そして、左手で右腕を支えるようにして、振り下ろし始めた。
 コンクリートの硬い扉を、その腕が穿つたびに、赤い血が飛沫になって飛んだ。
 何度も、何度も、何度も。
「えっちゃん、だめだよ、腕が――」
「いいんです! この腕のせいで友達が傷ついてしまうなら、必要、ないです!」
 僕はただ拳を握りしめることしかできない。
 守れない。傷つけてしまう。守りたくても守れない……。
 あの男の言った言葉が蘇る。力がなければ守れない、力がほしいと思うような瞬間――。
 でも、こんなのは違う。意味がない。もしかしたら、男たちが言っていることはあながち間違ってはいないのかもしれない。だって、誰かを守りたかったら、きっと誰かを傷つけずにはいられないから。
 でも僕が守りたいのは榎已だ。
 そう思った。
 すう、と意識が冷めていくような感覚。
 そして目の前で、榎已は扉を破壊した。
 その向こうには――拳銃を額に突きつけられた都針と、満身創痍の男が立っていた。
 拳銃。
「はぁ、まさか榎已ちゃんが出てきちゃうとは……」
 そう言いながら、男は拳銃を下ろそうとしない。そのまま、彼は空いた方の左手でガスマスクを外した。
 その時。
 先程の男たちから感じた僅かな違和感が、明確に浮かび上がった。
 記憶が蘇る。三年前、少女の腕を引っ張っていった男――。
 間違いなく、コイツだ。
「……ま、いいや。どうする? 榎已ちゃん。おっと、動くなよ斎藤くん」
「……その人を離してください」
 榎已はまっすぐにそう言った。僕はその時、その右腕に別の文章も書かれていることに気がつく。
『友達には協力する』
『助けてもらったらお礼する』
 昨夜の会話を思い出す。もう、とても遠いことに思える。
『いえ……少なくとも四つは物事を覚えれないと……なのです』
『メモとかとれば?』
 ……そんな、腕に書くなんて、思ってなかったなぁ。
 僕は場違いにも、そんなことを考えた。
「離す? それはできないね。邪魔者は消したいんだよ」
「…………」
 榎已は右腕を構えた。
「おっと、君が動いたら少なくとも都針君は死ぬ。まぁ、どちらにせよ殺すんだけどさ」
 ……どうしようもない。
 今、榎已が動いたら、都針が撃たれる。かといって、榎已が攻撃せずに男に従ったところで、僕ら三人共多分殺される。
 逃げてくれ、と僕は思った。
 もうどうしようもないんだ、榎已の力なら、入口の扉を破ることくらいできるだろう。
 そんなことありえないと思いながら、僕は願った。
 しかし、榎已は。
 構えた右腕を、首にあてがった。
「えっちゃん!」
 緋星が必死に身体を起こす。榎已はこちらに背を向けていて、表情は見えない。 
 でも、血に濡れる右腕の裏側に、四つ目の文章が、見えた。
『ひーちゃんとさっくんは、友達』
 榎已は、腕を掲げた。男も、焦るような顔になる。
「僕がいなくなれば、世界は変わるのですね」
「――榎已!!」
 そして、その腕が振り下ろされた。
 その時、それぞれがそれぞれに、何かを願って行動した。
 僕の頭のなかには、遥か遠い記憶が蘇った。
 三年前のあの時よりも、生まれるより、ずっと前の、ずっと昔の、流れる血に残された記憶。
 都針が言った、『無敵』の能力。あれは、瞬間的に自分の内側のすべてを加速するものだ。
 治癒、力、感情。
 そしてその血は、きっと長い時間の中で薄れ、弱まり、多くの人々の中に分散していった。
 頭のズキズキとした痛みが消えた。ここ数日で負った、数々の傷が瞬く間にして治癒する。
 僕は床を蹴った。
 緋星は、僅かな時間を稼ぐために、榎已の右腕に触れた。一瞬、その動きが止まる。
 我を取り戻した男が都針に銃弾を打ち込もうとした時、その僅かな動揺を縫って都針が銃口から身体をずらした。
 それぞれが目の前にある一瞬を、隙きに変えた。
 わずか、1秒。
 男までの距離が、一瞬にして詰まる。体中の細胞が限界を超えて動き、そしてその限界よりも速いスピードで修復されていく。
 僕はその時気がついた。
 ああ、僕が三年前助けられなかったあの少女は、きっと、榎已だったのだ、と。
 ――今度は、守ってみせる。
 振り向こうとする男の頭に、僕は渾身の拳をぶつけた。
 拳銃がゆっくりと地面に落下し、それを遠くに蹴った都針が、倒れる身体を押さえつけた。
 僕は勢いを殺しきれず、そのまま風を切る速さでコンクリートの壁にぶつかる。
 そこで、無音の加速は緩やかに収まり、やがて完全に消えた。
 僕はそのまま、意識を闇の向こうに手放した。
 これで、良かったのかな――。
 遅くなって、ごめんな、榎已。




「――すみませんでした!」
 青い青い空の下。朗らかな昼下がり。
 そんな天気に似合わない謝罪の声が、校舎の中に響いた。
「あ、遊んでたんです。どっちが、扉を殴って大きな音が出せるか、みたいな……」
「そ、それでやりすぎたんだよ」
 僕は、ちらりと隣に目をやる。
 そこにいたのは、斎藤都針。僕と並んで、ご丁寧に頭を下げている。
「もっと早く言え!」
「すいません!」
「全く、外部の人間の仕業かと警察にまで連絡していたのに……」
「すいません」
 僕たちは相談した結果、扉を壊したことを謝ることにした。
 榎已はやたらと参加したがっていたが、まぁこの学校の生徒でもない彼女が出てきても余計ややこしくなるだけだろうということで、却下した。
「……ま、まぁ怪我がないならいいんだがな……」
 先生も、ちょっと斎藤都針の存在に恐る恐る喋っている。まさか、学校一の不良生徒が自分から謝りに来るなんて思っていなかっただろうし、その隣に僕みたいな普通の生徒がいることも驚きだろう。
「どちらにせよ、あの校舎はもう建て直す予定だからな……」
「そうなんですか?」
「ああ。元々ベランダと一緒に改修の予定だ」
 本当だったら退学や停学になってもおかしくないレベルのような気がするが、都針から発される威圧からなのか、そういう話は出てこない。非常階段が一段抜けていたことに関しては知らないふりをした。
「あ、そうなんですね……」
「う、うん、だからもう、もうやるなよ。変な遊びは……」
 まさか本当に遊びなどと信じてはいないはずだが、都針の存在は大きかった。
 僕達はそのままあっさり許されて、学校を出ることができた。校舎を出るときはもちろん窓からだ。ちなみにこの間通った昇降口は未だ閉まったまま。
「……はぁ。まあ、なんとかなってよかったよ」
「……そうだな」
 ――あの騒動から、三日が経過していた。
 榎已含めて、全員が無事。あの男たち三人は、一生斎藤家の監視がついて回るらしい。殺されないだけマシなのだろうか、よく分からない。
 それから、都針は榎已の修行(?)に同行することになったらしい。
 まぁ、同じ家に住むとか言ってたけど……。その話を聞いた時に隣にいた緋星がニヤニヤしながら、「斎藤と波戸って、それぞれの夫婦と四人暮らししたりすることもあったんだって。っていうか、血が混ざるから結婚はしないらしいよ。ワンチャンワンチャン!」と言ってきたので、「君もな」と言い返したら顔を赤くして殴られた。めちゃくちゃ意味がわからない。まさか本当にこの斎藤都針のことが……。
「……そういえば、悪かったな」
「え?」
 急に都針に話しかけられ、そう尋ねてしまう。
「色々迷惑かけたし……まあとりあえず、殴ったの。悪かった」
 思わず、ぽかんとしてしまう。そんなことを言われるなんて、思っていなかった。
「あ、いや、うん、まあ……」
 なんて曖昧に答えていると。
「あ、さっくーん。都針くーん」
 後ろからそんな声が聞こえて、振り向くと手を振る緋星の姿が見えた。おお、ナイスタイミング。
 僕たちは立ち止まって、彼女が追いつくのを待つ。
「めっちゃ話題になってたよ。都針が何かよく分からない変な生徒と先生に謝ってる―って」
「……そうか」
 怪訝そうに目つきが悪くなる。やっぱり、猫目じゃなくて、蛇っぽいよなぁ……。
 それから、あの時僕におこった現象は、やっぱり都針の話していた「無敵」のことで間違いなかったらしい。
 それでわかったのだが、あの力を使うにはとてつもなく大きな感情が必要で、使われることも少なかったことから、徐々にその使い方を知るものが減り、血も薄れながら分散していったことが力の絶えた原因だという。
 その力を持った人々がいたのがはるか昔であることから、多くの人にその血が流れているのは分かるのだが、それを呼び覚ますのはかなり難しいことだし、もう多分使われることはないだろうと言われた。
 僕自身も、もうその血に残る最後の記憶を使い果たしたような感覚がある。
「さて、じゃあ私は今日もえっちゃんのとこ遊びに行こっかなー」
「また来んのか」
「いーじゃんべっつにー。てか都針くんちに行くわけじゃないし。えっちゃんとこだし」
「同じなんだよ」
 そんな会話も、なんとなくまだ見慣れないが、いつか日常になっていく気がした。
 そして、ふと校門のところに立っている少女が目に入った。
 少なめの黒髪、半袖の服から、包帯を巻いた右腕が覗いている。
「あ、えっちゃん」
 緋星が声をかけると、彼女はこちらを振り向いた。
 大きな真っ黒の瞳に、鏡のように空が映る。
「おかえりなさいです」
「よっし、えっちゃん! 帰ったら勉強しよう! 編入試験、受かるぞー」
「コイツに教えるの、相当厳しいけどな……」
「が、頑張るしかないからさ。手伝ってね、都針くんも」
「はぁ。俺勉強なんかできねぇよ」
 そんな会話を交わして歩き出す緋星と都針。
 僕はなんとなく笑顔になって、それを眺めていると、榎已がこっちに歩いてきた。
「さっくんは帰りますか?」
「ああ、いや、行くよ僕も」
 そう返して、僕も緋星と都針を追う。
「……あの、さっくん。僕思い出したんです」
 不意に言われ、僕は隣に目をやる。
 その瞳が、僕を見上げている。
「三年前、実は、僕あの男の人達に一度声をかけられたことがあったんです」
「ああ……」
 僕も思い出していた。
 重ねるも何も、まさか本人だったとは思っていなかったけれど。
 ああ、謝ろう、そう決して、僕が口を開こうとしたときだった。
「あの時、ありがとうございました」
 ……え?
「僕、路地に引っ張られてく時に、男の子が居るのが見えて……まぁ、僕もそれがさっくんだって気づいたのはあのビルの中でしたけど」
「いや、でも僕、あの時助けられなくて……」
「……僕、わざと路地に連れて行かれてから、腕で男たちを倒したんです。もう二度とこういうことをしないなら、父にも母にも言わない、って伝えて」
 僕は、呆然とその話を聞く。
「その時、パトカーの音がして、男たちはそのまま逃げていきました。僕は、きっとさっくんがやってくれたんだってあの時思ったんです」
「いや、でも、僕何もしてないよ……」
 そんなことでお礼を言われるのは、なんだか……あまりにも。
 でも、と榎已は笑った。
「さっくんだって、あの時、お礼を言ってくれたじゃないですか。僕、あんなに思いっきり間違えちゃったのに、です」
 僕は思い返す。
 扉が壊れ、ベランダが抜け、あまりにも成功とはいい難い密室開放委員会の仕事。
 でも僕は確かに、ありがとうと言った。
 それは、失敗でも榎已が僕のために動いてくれたからだ。
「さっくんがずっと悩んでいたのって、それのことだったんですよね?」
 一瞬言葉に詰まるが、ふと緋星がちらっとこちらを振り向くのが見えた。
 あいつ……口軽い上に察しがいいから本当にもう……。
「そんな、悩むことないですよ。僕はこの通り……『腕』も無事ですし、三日前……でしたっけ、のときも、助けてくれたじゃないですか」
 榎已は包帯の巻かれた右腕を掲げてニコッと、笑った。
 それは今まで見た中で一番の、満面の笑みだった。
「僕は、ずっと感謝しています。助けてくれて――ありがとう」
 何と返したらいいのかわからなかった。
 でも、ずっと抱えてきた何かが、ずっと縛られてきた後悔が、許されたような、それでもよかった、と柔らかく受け入れられていくような感じがして。
 ずっと、ずっと閉ざされていた扉を開けてくれたような気がした。
 だから、何度でも守れるよう、例えば榎已を、例えば緋星を、都針を。
 強くなりたい、と、もう一度思った。
 あの時とは違う、まっすぐな思いで。
「ありがとう」
 僕はそう言った。
 そして、晴れ渡る青空の下、榎已は小走りに数歩進んで、ちらりと振り向いて、もう一度笑った。
「――行きましょう、さっくん」
ひのえ H/uiBekOJA

2018年01月02日 16時19分43秒 公開
■この作品の著作権は ひのえ H/uiBekOJA さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:その扉を裂いたのは、轟音と一人の少女。
◆作者コメント:企画の開催、運営ありがとうございます。ちょっと強引な密室活用法ですが、どうかひとつ。

2018年01月27日 23時24分24秒
+10点
2018年01月23日 00時01分25秒
作者レス
2018年01月20日 23時50分25秒
+10点
2018年01月20日 21時26分46秒
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2018年01月20日 11時52分49秒
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2018年01月19日 23時14分41秒
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2018年01月13日 22時50分36秒
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2018年01月13日 10時11分46秒
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2018年01月11日 14時52分25秒
0点
2018年01月08日 16時21分50秒
0点
2018年01月06日 17時15分58秒
+20点
2018年01月05日 11時19分43秒
-10点
2018年01月04日 22時01分46秒
0点
合計 12人 70点

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