手 |
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この机が欲しい。 それは今まで夏美が生きて来た中で、一番強いともいえる衝動だった。なぜだかはわからない。ダークブラウンでどっしりとしたその机は、今年高校に入学する少女が使うにはあまりにも大人らしく、消して可愛いとは言えなかった。 天板は重厚感があり、両側には三つずつ引き出しがついている。真ん中にも浅い引き出しが一つ。幅は約一メートル、奥行きは六十センチ程のものだ。 つやつやとした机上に夏美が手を這わすと、彼女の予想通り少しひんやりとした木材の感触がした。 先ほどからリサイクルショップの店員が、こちらに視線を寄越してきているのを夏美は気づいていたが、机を撫でる手は止めなかった。汚されでもしたら困るとでも思っているのだろう。 「お母さん」 傍らで少し怪訝な顔をしている母親に視線を移し、夏美は言った。 「やっぱりこれがいい」 志望校に受かったら何でも一つ買ってあげるという親の約束を、夏美はなんとなく面白くない気分で受け取っていた。何かを達成したらいいものが貰えるというのは学生の内だけだ。だからそれを素直に享受することに、なんの後ろめたさもないわけだが――なんだかご褒美をもらうために芸を覚える動物のような気がして違和感があった。 それに受験しようと決めたのは他ならぬ自分自身であり、親の希望の学校へ行くわけでもないのにそれでご褒美というのは、少しおかしいのではないかと感じていた。 思い切り高いものを吹っ掛けたら、どうなるのだろう。それとも気を使って出来ないとでも思っているのか。少しばかりの悪戯心が、夏美にいつもとは違う景色を見せた。 塾の帰り道にある古ぼけたリサイクルショップになんとなく足を踏み入れたあの日。夏美の目に、古臭い机の姿が映った。それは部屋の隅に押しやられ、ほこりを被っていた。 ――おいで。 机に呼ばれたような気がした。夏美は吸い込まれるように机に近づくと、その淵を指でなぞった。つややかで、少し冷たいそれは真冬に触れる人の肌の様で、外は三十度越えの猛暑日だというのに彼女のうなじは怖気だった。 その日は逃げるように家に帰り、二日後またもや塾に行く前に店に立ち寄った。同じように机を撫でると今度は寒気はしなかった。また次も、次の週も夏美は店に通った。 ひっそりと静かな机は、いつでも変わらずに夏美を迎えた。そこにある時間の流れはいつもゆるやかでおだやかで、受験勉強に疲れた彼女の心を僅かでも楽にした。 「お嬢ちゃんよく来るねぇ」 店主に話しかけられたのは、店に通い始めてから半年後。高校入試を間近に控えた頃だ。夏美は視線を彷徨わせながら、下を向いてはい、とだけ小さく答えた。彼女は人見知りだったが、店主はそのことはまったく気にしていないように話をつづけた。 「この机が気に入ったのかな?年頃の女の子にはちょっと早い気もするけどね」 人の好さそうな店主の顔に、夏美は少し気を緩めた。 「……なんか、綺麗だなって」 「綺麗? 綺麗かなぁ、若い子の感性って不思議だなぁ」 おじさんの書斎にあるような机でしょう、と店主は笑った。確かにそうかもしれない。映画やドラマで書斎、と呼ばれるところにある机はこんな感じだ。多分、自分の部屋には全くそぐわないだろう。 それから入試を終えて、夏美は晴れて志望校に合格した。宣言通り何でも買ってやるという両親を、彼女はリサイクルショップに連れて行った。おそらく両親は可愛らしい小物や、新しい服やアクセサリーを強請るに違いないと思っているだろうと夏美は考えたし、事実その通りで彼女が所望した威厳ある机の前に両親は困惑するしかなかった。 「本当にこれが欲しいの?」 母親は再度念を押すように言った。それには彼女には早すぎるという思いと、何その机に付けられた値段が高かった、という理由もあった。夏美はそれをきっちり見抜いていたが、母親の顔を真っすぐ見て頷いた。両親は二人で顔を見合わせて、観念したように店員を呼び財布を開いた。 そして机は夏美の家に来た。水色を基調とした落ち着いた室内に、その机はやはり似合わなかったが夏美は満足していた。 新しい制服がハンガーにかけられ、新しいローファーを揃え、筆記用具も新調して。入学式を三日後に控えた日の事だった。 「じゃあ、自己紹介出席番号順で、やっていこうか」 担任の声に、夏美は現実に引き戻される。軽く頭を振って状況を把握しなおした。そうだ、今は入学式が終わり、割り当てられたクラスの席に座っている。前から席順を数えると、夏美は十三番目の席だった。ぼうっとしていてはいけない。何事も最初が肝心だ。クラスメイトが次々と自分の名前、出身中学校や趣味等を発表していくのを聞きながら、夏美は身を縮ませた。途轍もなく緊張している。彼女はこういう場面がことごとく苦手だった。 「こ、小林夏美です……第二東中出身です」 ついに自分の番に来て立ち上がり、言葉を発したがそれ以降、何も言えなくなってしまった。クラスメイトのそれで終わり? という視線が突き刺さる中、夏美は崩れる様に椅子に腰を下ろす。おざなりな拍手が終わり、後ろの席へと注目は移っていった。 失敗した……と夏美は暗い気分になる。どうして自分はみんなのように、うまく話せないのだろう。二つ後ろの席の女子生徒が何か面白い事を言ったらしく、教室に笑い声が響いた。 夏美はまた机を前に、小さくなることしか出来なかった。 今日はホームルームだけで後は帰宅を許されていたので、夏美はさっさと鞄を掴んで教室の外へ出た。親から学校どうだった? と聞かれるのが恐い。そうしたらきっと自分は笑顔で、大丈夫だと答えるのだろう。ちっとも大丈夫なんかじゃないのに。 自宅へ戻ると机に突っ伏すようにして、頬を擦り付けた。ひんやりしていて心地いい。そのまま寝てしまいそうだった。 ――ガタッ。 「っ?」 いきなりすぐ下から音がして、夏美は飛び起きる。中央引き出しからその音は聞こえたようだった。なにか虫でも入り込んだのだろうか。恐る恐るそこを開けてみたが、特に何も変わった所はない。筆記用具とノートが整然と並んでいるだけ。 勘違いだったのだろうか? いったん閉めて、もう一度素早く開けてみたが何も変わらなかった。夏美は立ち上がり、ベッドに身を投げる。多分、疲れているんだろうと思う。瞼を閉じるとすぐに睡魔が襲ってきて、夏美はそのまま眠ってしまった。 ――どれくらい経ったのだろう。下の階から自分を呼んでいる母親の声で、夏美は目を覚ました。壁時計を見ると既に十八時を回っており、少なく見ても三時間は眠っていた計算になる。そのおかげがいくらか気分が軽くなったような気がした。下に降りようと身を起こすと奇妙な事に気が付いた。 自分は寝る時、こんな物をかけて寝ただろうか。 夏美の手に握られているのはひざ掛けだった。椅子に座ってる時使う物なので、机の横に置いておいたはずなのだが……。 頭をひねる。自分で寝ぼけてかけたのだろうか。 「なつみー! ご飯覚めちゃうよ!」 「はーい!」 考え込んでいると再度母親の声がして、夏美は階段のほうへ駆けた。 「学校どうだった?」 夕飯のシチューを口に運んでいると、母親が心配そうに声をかけてきた。やはり聞かれるか……と夏美は視線を逸らしたくなるのを我慢して、母親を見つめた。 「別に……普通」 そう言う声は思いのほか低くて、夏美は少し焦る。 「まだ初日だからよくわかんない」 取り繕うと、母親は少し心配そうな笑顔を見せた。夏美はランチョンマットの端を弄りながらうつむく。 「楽しくなるといいね」 「うん」 大丈夫だよ、と笑い飛ばすはずだったのに出来なかった。既に明日の学校が憂鬱になっている。言葉少なに食事を終えて風呂に入り、机に向かう。ルーズリーフを一枚取り出して、今日一日の出来事を書き出していく。夏美なりの日記だった。 『今日は入学式だった。うまく自己紹介が出来なかった。友達が出来るのか不安で仕方ない』素直な気持ちは誰にも言えない。ネットの海にだって流せやしない。心に溜まっていくばかりの不安や焦燥を夏美はこうやって紙に書き出すことで消化していた。 『私が希望して入った学校だ。頑張る』最後の一文はいつだって自分を鼓舞するために、前向きな事を書く。そのまま大きく息を吐くと、夏美はベッドに入った。携帯の充電を忘れずにして目を閉じる。 その時、優しく頬を撫でられた気がした。 思わず跳ね起きた。 枕元の時計を確認するとベッドに入ってからすでに一時間が経っていた。 眠っていたのだろうか。でも、さっき確かに……。思わず自分で頬を撫でてみるが、そこにはなんの答えもない。ただ少し冷えた頬があるだけだった。 なんだかおかしい……夏美は机の方に視線を向ける。アレを置いてから、何か……。カーテンが窓を覆っているというのに、薄青い月光で机が浮かび上がって見えている気がした。 「……」 でも、不思議と怖い感じはしなかった。なんだか大丈夫だよ、と撫でられた気分に近い。そんな自分に戸惑いを感じながら、再び夏美は眠りについた。 ――カタリ。 引き出しからまた音がしたのを、気づかぬままで。 授業が始まってから一週間も経つというのに、まだ夏美は友人を作れずにいた。というのも、同じ中学校ですでにいくつかのグループが出来上がっており、そこに入るタイミングを逃した、という方が正しいだろう。 夏美が卒業した第二東中学校から、ここの高校に来たものは殆どいない。何しろ遠いのだ。彼女は電車で片道一時間半かけてここまで通って来ていた。 夏美にはどうしてもこの高校に入りたい理由があった。中学生のころから英語が好きで得意だった彼女は、折に触れて海外に行ってみたいと思っていた。この高校が二年生の際修学旅行の代わりに十日間、海外で簡易ホームステイを行っていると学校紹介で知った夏美は両親を説得し、必死で勉強してここに入学したのだった。 しかし、最近は朝の電車が少し辛い。通勤時間に当たっているので仕方がないことが、満員電車の中で寝不足気味の夏美はいつも壁に押し付けられて潰れていた。抵抗することも最近は諦めている。 それもこれも。すべてはあの机だ。 頬を撫でられたと思った次の日から、引き出しの中から音が頻繁にするようになった。背中や頬を撫でられることもあった。 しかしそうされても、夏美はそれを両親に相談するという事はしなかった。そうすればあの机は処分されるか、どこか目につかない所へ置かれてしまうだろう。 なんだかな、と夏美は思う。それではあの机が寂しがるのではないか、と妙な事を考えている。あの手に悪意を感じないせいかもしれない。背中を触られた時、軽く叩くような感じだった。まるで頑張れ、と言われているみたいな。 「はぁ……」 「小林さん」 急に話しかけられて背中が跳ねた。それに相手も驚いたように、少し後ずさった。 「あ、今大丈夫かな……?」 相手の顔を見て、とっさに名前を思い出せない。それが伝わったのか、彼女は笑った。 「鳴海 唯だよ。ごめんね急に話しかけて」 「だい、じょうぶ。ごめん、こっちもびっくりして」 教科書の角を触りながら笑顔を作る。声がひっくり返りそうになったがなんとか耐えた。 「なんかすごく顔色悪いから、話しかけちゃった」 そう言いながら唯は夏美の顔を覗き込むように、身をかがめた。 「大丈夫?」 「そんなに悪い?」 「かなりね」 そうなのだろうか。夏美は顔を触ってみる。確かに寝不足で肌荒れはしているが、特に体調が悪いという事はなかった。 「元気なんだけどなぁ」 困ったように言ってみると、少し呆気にとられたような表情をした後唯は笑いだした。 「なんだ。小林さん話しやすいじゃん。ね、こっちおいでよ」 ぎゅ、と色白な手が夏美の手を握った。がんばれ。背中を叩くあの手の事を思い出した。勇気を出して言ってみる。 「いいの?」 「友達だからね」 唯の手はとても暖かく、夏美はそれをしっかりと感じて綻ぶ様に笑顔を作った。 唯と話してから、彼女と仲がいい別の友達を紹介してもらい夏美の交友関係は広がっていた。唯は地元の中学から進学してきたらしく、知り合いが多かった。そして何より明るくて、少し空気を読めない所はあるけれど夏美に積極的に関わって仲間の輪に入れてくれた。 「唯は天然だからなぁ」 「ちょっと変わってるけど、面白い子だよ」 彼女の友達は少しだけ、手のかかる子供というように唯の事を表現した。しかしそこには面倒くささ等微塵もなく、彼女に対する強い親しみが感じられた。 きっとこういう人間がみんなに愛される人間なのだと夏美は皮肉でもなく嫉妬でもなく、素直にそう思った。 「お母さん、友達が出来たよ」 母親に打ち明けた時、彼女の肩から少しだけ力が抜けるのを夏美は感じた。きっと今まで心配だったのだろう。その中でも何も急かすような事も言わず、自然体で接してくれたことを夏美は今更ながらありがたく思った。 そして、あの手だ。最近も撫でられるのは変わらない。やはり察するに、あの手は引き出しの中から来ている様だった。決して夏美に危害を加えることはない。机の上で寝てしまった時、さり気なくコップを淵から遠い所に移動しておいてくれたり、床に落ちた消しゴムをいつのまにか拾っておいてくれたりするような、慎ましい手だ。その姿を見たことはないのだけど。 そして今日もベッドに入ると、お疲れ様とでもいうようにひんやりとした手が額に乗せられた。 夏美は思わず笑みをこぼす。まるで優しいお姉さんのようだな、と思ったから。 「あなたに会いたいな……」 うとうとしながらそうこぼすと、夏美は眠りに落ちていった。 ――あれ、なんだろ。真っ暗だ。 夏美は目を覚ました。と思ったが、夢の中かもしれないと思いなおす。自分の部屋ではない風景が目の前にあった。畳ばりの部屋である。 首を背後に向けると、古ぼけた木製の扉がある。正面には机があり、窓を背にして置かれている。夕暮れ時のようで、オレンジ色の光が差し込んでいた。 ――あ、動く。 歩ける。一歩踏み出すとみしりと床が鳴った。昔祖母の家で嗅いだ畳の匂いが酷く懐かしい。それにうつる影が長い。なんだか寂しい感じのする部屋だった。そのまま何歩か歩いて机の前に立つ。夏美の家にある机とそっくりだった。むしろそのもの、なのではないだろうか。彼女は机上に手を這わす。真ん中の引き出しが少しだけ開いていた。夢の中だから気にしなくてもいいはずなのに、何か重要な秘密を覗いてしまう気がして夏美は周囲を見回した。 引き出しを引くと、その中には封筒が沢山入っていた。手紙だろうか。宛名は――。 『須賀 花乃子様』 『勝木 鉄二より』 宛名と送り主が反対になっているのもあった。この二人はきっと手紙のやりとりをしていたのだろう。中身を読んでみたい衝動に駆られたが、夏美は封筒をそっと引き出しに戻して閉めた。ふと窓の外を見るとアスファルトではなく、砂の道が続いている。当たりを見渡せば最低限の木造りの家具が置かれてあった。テレビはない。出しっぱなしになっている服に目を落とすと、最近の物とはずいぶん違っている様だった。 ここはどこなのだろう。夏美は後ずさりして、木製のドアを開けた。外に出れるかと思ったが、そのまま落下するような感覚がして足が引きつった。 目が覚めると自分の部屋だった。携帯のアラームがけたたましく鳴っている。早鐘のように鳴る心臓を抑えて夏美はアラームを解除した。 「あれ、なんて読むんだろう……」 あの女性の名前。かのこ、だろうか。ぼんやりした頭を軽く何度か叩いて夏美は下に降りた。台所では母親が朝食を作っていた。 「ずいぶん今日は早いね」 「うん」 起床三十分前にアラームをセットしている。いつも起きた後ベッドで少しまどろむ時間があるから、こんなに早く起きることは滅多にない。 「おはよう」 「おはよ」 食卓では父親がトーストを齧っていた。彼は夏美の学校より更に遠い所に会社があるので、彼女より早く起きて家を出ていき、そして深夜に帰ってくる。言葉には出さないが、そんな父親を夏美はいつもすごいな、と思っているのだった。 椅子に座ると、もうご飯食べる? と母親が聞いてくる。それに頷いて、新聞を読んでいる父親に話しかけた。 「お父さん、これなんて読む?」 紙を差し出すと、父親はそれを手に取ってまじまじと見た。 「かのこ……かな? 友達の名前?」 「うん」 「古風な名前だね」 紙を受け取る。友達ではなかったが、他になんと言えばいいのかわからなかった。 「学校は慣れた?」 そう聞かれて、最近父親とまともに話をしていないことに思い至った。というよりも顔を見るのも久しぶりかもしれない。 「友達が出来たんだ」 母から聞いて知っているかもしれないと思ったが、自分の言葉で言いたかった。夏美はもともと父親が嫌いではない。よく思春期といって父親が疎ましくなる時期が来るとはメディアの情報で知っているけれど、自分がそうなるのがあまり想像出来ない。 「よかったな」 ふわりとコーヒーの匂いが、まだ夜が明けかけの窓辺に漂った。父親の背後の窓から見える群青色の空がとてもきれいで、夏美はやっぱり父親が好きだと思った。 「あたしだったら読んじゃうな、その手紙」 学校に行って夢の話をすると、唯はおどけた調子でそう言った。 「デリカシーないもんね、唯は」 隣の友人が笑って、つられて夏美も笑った。 「えー、あるよ! でもさ古いよね。手紙とか」 今はラインじゃん、と唯はお弁当の卵焼きを頬張りながら言う。確かにそうだなと夏美は思った。なんとなくあの風景は、古いような気がしていたけれど間違っていなかったのかもしれない。現代ではなかったのではないか。 夏美はひとまず四人グループに落ち着いていた。お弁当を食べたり移動教室の時は、常にこの四人で行動している。唯以外の友人たちも良い人だ。誰かの陰口を言わないだけでこうも違うのか、と中学時代のグループを思い出しては、しみじみ居心地のよさを実感する。 唯は夢の話が気になるらしく、すでに興味を失った他の二人を気にすることなく考え込んでいる。 「二人は恋人同士なのかな」 「かなぁ。私はそうだと思うけど」 「いいなぁ、そんな恋したいわ」 「夏美は出来そうだけど、唯は無理でしょ」 「はぁー? あたしには出来ない理由は!」 みんなで笑った。唯はいつも愛のある弄りをされているけれど、頭の回転が速く笑いに変える力がある。夏美にはとても出来ないことだった。一度すごいなぁ、と言ったことがある。唯はその時「あんたの素直さも相当なもんだよ」と言って笑っていた。それは少しだけ呆れにも取れる発言だったが、唯の顔があまりにも普通だったため、夏美はそのままの意味で受け取っていた。きっとそれでいいのだと思う。 また進展があったら教えてね、という唯の言葉に夏美は頷いた。今日も夢を見るのだろうか。 帰宅して手早くご飯を食べ、風呂に入り寝る準備をする。明日は体育があるから忘れないように……と体操服を用意してベッドに入ると、もはや日課と化した手が頬を撫でた。 「……花乃子さん?」 むに、と頬をつままれてやはりこの手は彼女だと確信する。昨日見た夢から察するに、結構昔の人のようだが、なぜこの机から出てくるのだろう。夏美はこの手は引き出しから来るものだと結論付けていた。手が出てくる前に、引き出しが妙な音を立てているからだ。 この手に撫でられると眠くなる。まるで睡眠導入アイテムだ。 ――ん。 眠った感覚もないのに、すぐに景色が変わった。前回は自分の足で歩けたが、今回は上から見下ろすような形で視点が固定されている。また夕暮れ時だった。見たこともない木の電柱の下に、人間が二人いた。男性と女性だ。季節は少し肌寒い頃なのか、男性の方はマントのようなものを着ている。 ――聞こえない。 無音だった。二人の口は忙しなく動いて笑いあっているというのに、何の音声も夏美の耳には入ってこなかった。だけど彼らが、ただの知り合いを超えた仲だというのは見てわかる。女性の方は楽しくて仕方がないという顔をしているし、男性の方もそんな女性を愛しく思っている様だった。 あんなにキラキラするものなのか。夏美はまだ、真剣に人を好きになったことがない。これから誰かを好きになれるかどうかも自信がないくらいだ。 ――私も恋をしたら。 あんな風に綺麗になれるのだろうか。そんなことを二人を見ながらぼんやり考え込んでいると、いきなり風景が変わった。 豪華な部屋だ。夏美は調度品についてまるきり詳しくないが、博物館で見たような焼き物や絵画が置かれている広い部屋だった。そこでつまらなそうに椅子に座っている女性は、先ほどの女性だ。随分きれいな恰好をしている。今とはメイクの仕方が違うので違和感があるが、かなり美しい人だ。 ――きっと花乃子さん。 あの白くて細い指。きっと毎晩夏美を撫でてくれる手に違いなかった。しかしその手は握りしめられ、顔色は優れないようだった。黒塗りの重そうなドアが開くと、夏美の父親より少し年齢が高そうな男が二十代くらいの男性を連れてきて入ってきた。 女性はきっ、と男性を睨みつける。それを取り繕うかのように、お茶が運ばれてきて、三人は円卓に向かい合うように座った。 女性はむっつりと黙ったままだったが、男性陣は笑みを浮かべて談笑している様だった。 なんなのだ、これは。夏美は混乱する。どうして花乃子さんはあんなに楽しそうじゃないんだろう。さっきまでの笑顔とは程遠い、暗く沈んだあきらめたような顔。美しく咲いていた花が、突然萎れてしまったようだった。 ふわり、と体が上昇するように感じる。 あ、起きてしまう……と思った時にはもう、夏美の手はアラームを止めていた。 「それはお見合いじゃないかな」 また早起きしてしまった夏美は、家族で朝食をとっている最中に夢の話を打ち明けてみた。 「お見合い?」 「そう。親がこの人なら娘と付き合っても大丈夫そうっていう人を選んで、実際に会わせてみるの。両方が納得したら結婚するのよ」 なんとなく納得がいかない。花乃子には好きな人がいるのに、なんでお見合いなんかするのか。 「好きな人がいてもお見合いするの?」 「普通はしないね」 父親が新聞を畳みながら言う。 「でも夏美の話をきくと、随分昔の話じゃないか。それだったら無理やり見合いっていうのもあったかもしれない」 「なんで?」 「女性の方がお金持ちみたいだから、よりお金持ちの人と結婚させたいとか。相手の男性が貧しくて釣り合わないとか。色々理由はあるよ」 あの豪華な家が花乃子の家であるなら、最初に見た畳張りの部屋は男性の方――鉄二の部屋なのだろう。確かに、裕福な感じはしなかった。 「昔は今より色々と、難しかったのよ。自由な恋愛っていうのがね。でも夏美がそんな夢を見るなんてね。何か影響される物でもあったの?」 学校でちょっと……と夏美は誤魔化した。机の話など出来るわけがない。そそくさとご馳走様をして部屋に戻り、鞄を持って出ようとした時だった。 ぐい、と肩を引かれた。驚いて立ちすくむ。夜以外に、手が出現することはなかった。引かれた方に視線を移すと、置き去りにされた体操服が入った袋がある。いつでも夏美を助けてくれる、優しい彼女はあの後どうなったのだろう。 「ありがとう。行ってきます」 誰もいない部屋に向かって声をかけ、夏美は家を出た。 まるで放心していたように一日が過ぎてしまった。何度も夢の中の花乃子を思い出している。そのせいで友達との会話も疎かになってしまったが、彼女たちは特に気にしていないようだった。 グループに入ってもうすぐ一週間経つが、夏美はこの場所に必要とされているのかわからなくなってきている。居心地はいのだけれど、きっと自分がいてもいなくてもかまわないのではないかと。 ベッドに入ってもその思いがぐるぐる渦巻いてうまく眠れない。こんなことは考えるだけ無駄なのに、とわかっているのに止まらなかった。 その時手が目じりに触れた。理由もなくただ不安で涙が出る夏美の頭を、手は優しく撫でて涙を拭ってくれる。 夏美は思わずその手に触れてみた。すり抜けると思ったのにしっかりと感触がある。 いる。 花乃子はここにいるのだ。細くてしなやかな指が、夏美の手を握り込んだ。暖かい。 ――あ。 夢を見ている。花乃子は大きなボストンバックを引きずるようにして歩いていた。あたりは真っ暗なのに、その姿だけが浮かび上がって見える。やがて夏美が以前見た、木の電柱の所まで来ると蹲ってしまった。きっと季節は冬だ。花乃子の吐く息は白かった。 やや間が開いて、男が反対から走り込んできた。鉄二だ。夏美はじっと二人を見つめる。二言三言交わした後、彼らは走り出した。 手をつないでいる。鉄二にもあの花乃子の柔らかい手の感触は伝わっているだろうか。二人は走って走って、少し休憩して尚も走り続ける。まるで夜明けから逃げているみたいだと夏美は思った。 朝は美しいのに。どうして。 走り続けて彼らがやっと止まったのは、今にも崩れそうな木造アパートの前だった。階段を上り、部屋の中になだれ込む。 真っ暗な部屋を手探りして鉄二が電気をつけると、二人は顔を見合わせて抱き合った。 ――逃げたんだ、あの家から。 あの豪華で満ち足りていたと思う生活を花乃子は捨てたのだ。 ふと目を覚ますともう朝だった。今日は学校は休みである。夏美は重たい身体を持ち上げて、机に近寄った。真ん中の引き出しを開けてみる。この中にあった手紙はどこへ行ってしまったのだろう。捨てられたのだろうか。 そして花乃子はなぜここに捕らわれているのだろうか。先ほど見た夢では、これからは幸せになれるという感じがしたのに。 椅子に座り、机に頭を横たえる。 ふ、と眠たくもないのに意識が遠のき、気づいた時にはあの畳の部屋だった。自分の部屋と同じような恰好で机に突っ伏していて、夏美は慌てて立ち上がる。 今度は動けるようだった。狭くて、花乃子の部屋に比べて古くてあまりにも質素だ。 いきなり木製のドアが開いて二人が帰ってきた。夏美は慌てて身を隠そうとしたが、彼らは彼女が見えないような振舞だった。 ――きっと過去の映像なんだ。 だから自分は知覚されないのか。二人はとても仲睦まじく見えた。窓の外が急激に変化をしていく。桜が咲き、紅葉が散り――季節が巡っていった。肩を寄せ合って、時には言い争いのようなこともしていたが良好な関係だと夏美は思った。喧嘩の後は抱きしめて、顔を撫でで。 鉄二の手は優しく花乃子を撫で、抱き締めていた。夏美が恥ずかしくて目を逸らすほどに。 巡る季節が三度目を迎えた頃、不穏な空気が漂い始めた。鉄二の姿があまり見えなくなったのだ。花乃子は一人部屋で待っていることが増えた。どうして帰ってこないの、とその横顔は憂いているようだった。 何度も涙しながら花乃子と鉄二は言い争っている。 ――やめて、喧嘩しないで! そう自分が言ったところで、何も変わりはしないのに。夏美は二人を止めようとしたが、体はそれをすり抜けてしまう。 音がないのに、こんなにも怖い。鉄二が顔を歪ませて怒鳴っているように感じた。そしてその大きな腕を振りぬき、花乃子をぶった。 夏美の息が止まる。なんで、あんなに仲がよさそうだったのに! 花乃子は横向きに倒れて、身を起こす事もせずに泣いているようだった。胸が詰まったようになって夏美はその場から動けない。 鉄二はそのまま出て行ってしまった。 花乃子と部屋に残された夏美は呆然とする。今度の夢はずいぶんと長い。 部屋の隅の蹲る花乃子の顔は、信じられないぐらい真っ青だった。温めてあげたかった。なのに彼女に触れられない。 夏美も花乃子の隣で座り込む。その時気づいたのが、花乃子は随分若かった。なんとなく年上の女性を想像していたが、涙にぬれた顔はとても幼くてともすれば――自分と同世代ぐらいに思える。白い頬が涙でかぶれて真っ赤になってしまっていた。夜になっても朝になっても、鉄二は帰ってはこなかった。 夏美はまるで早送りのような時の中にいるが、実際の時間を一人で待つ彼女はどれだけ心細かったのだろう。 恐らく三日ぐらい経った時、がたんと玄関から音がした。 その間花乃子はほとんど何も口にしていない。このままでは死んでしまうのではないかと思った。鉄二が帰って来て、夏美は心底ほっとしていた。しかしそれは夏美が望む結末とは、真逆へ向かう終末への入り口だった。 みしみしと足音を立てて花乃子の傍に来た鉄二は、乱暴に彼女の腕を引っ張り立たせようとした。何か怒鳴っているようで、それを聞いた花乃子の顔は血の気が引いたように真っ白になった。 掴まれた腕を振り払い、何かを訴えているようだ。しかし鉄二はそれをいかにも面倒くさそうに眺め、泣き出した花乃子を慰めることもしなかった。大きなため息をつくと、彼女を残して部屋を出ていく。 何が起こっているのか全然わからない。音が聞こえないのがこんなにもどかしいなんて……。 花乃子は魂が抜けたように突っ立っていたが、やがてよろよろと机に近づき中央の引き出しを開けた。手紙を取り出し、机の上に並べていく。読み直すことはしないようだった。 椅子に座り、右端の一番上の引き出しをあける。そこは今は夏美の筆記用具が入れられている場所だった。ここでも同じらしく、鉛筆が入っていた。それを削るための小刀も一つ。夏美は斜め後ろからそれを見ていた。 とてつもなく嫌な予感がして、目を逸らそうとする。何か恐ろしい事が起こると本能が告げていた。 ――いやだ。 左の手首に押し当てられた刀が夕日を反射して、おもわず夏美は目を閉じた。 鳴海唯は自分の部屋で足を投げ出し、音楽を聴いていた。どうせ今日は休みだし、髪の毛は起きたままだし顔も洗っていない。もうすぐ正午を回ろうとしているが暇だから昼寝でもしようかと考えていると、メッセージの着信音が響いた。 「あれー夏美じゃん。めずらしい」 滅多に送ってこない人物からの着信に、唯は一人で声を上げた。 『今日、会えないかな』 ――おや、本当に珍しい。夏美は普段こういうメッセージは送ってこない。遊びの誘いは九割唯からだ。なんだろう、あの夢の事かなと唯は当たりをつける。本人は気にしていないようだが、夏美は寝不足なのかいつも顔色が悪く、唯は心配していた。 『夢の事?』 『うん』 『なんかあったの』 『その人多分……死んじゃった』 「え」 死んじゃったって? いきなりの展開に困惑する。何があったかわからないが、これは話を聞いた方がいいだろう。それに夢の話以前に、最近 夏美はグループで浮き始めていた。なんだか一歩踏み込めない雰囲気が夏美にはあるのだ。話を振れば返ってくるし、そんなにだんまりなわけでもない。だけど自分から話しかけてくる、ということが彼女にはほとんどなかった。 『わかった。今から用意する』 急いで打ち込みながら着替えを用意する。 『一時間後、いつものファミレスで』 髪をとかして顔を洗った。ファミレスはちょうど、夏美と唯の住む地域の中間に位置する駅前にあった。色付きリップクリームを塗ってバックを掴む。 そのまま駅へと走った。 「ごめん、待たせた!」 夏美はすでに中で待っていた。唯が息を切らしながらソファーに滑り込むと、彼女は気にしなくていいとでもいうように首を横に振る。また今日は随分顔色が悪い。 「急に呼び出して……ごめんね」 「いーんだよ。あんたは遠慮しすぎなの。それよりお腹減っちゃった! なんか食べよ」 軽くそう言うと夏美はほっとした顔を見せた。二人してメニューを覗き込み、注文する。 「で、どうしたの」 食べ物が思いのほか早く運ばれてきて、唯はタイミングを逃さないうちに切り出した。夏美は少し言いにくそうだったが彼女の身に起こった事をたどたどしく話しだした。 「――駆け落ちして喧嘩して……手首切ったってことか。簡単に言うと」 あらかた食事を終えてジュースを飲みながら唯は言った。夏美はなんだかそうなることを納得していないような顔つきだったが、唯はなんとなく事情を察していた。それは自分がそういった時代物の悲恋物をよく読んでいるからだろう。 唯は小説が好きだった。あまりこだわりはないが、一度大正時代が舞台の恋愛小説を読んだ時、似たような筋書きだったのを思い出していた。 「私もよくは知らないんだけどさ」 唯はその時代の事をよく知らない。読んだ時違和感しかなかった。 「その女の人、戻れなかったんじゃないかな。実家に」 「どうして?」 「だって駆け落ちまでして上手くいかなくなったから帰るって、今でもちょっとキツイよ」 でも許されるだろうとは思う。時間はかかるかもしれないけど、この時代であればその花乃子さん、とやらは死ぬ必要はなかったのではないかと思う。その話を読んだ時、唯は現代に生まれてよかったと心底思ったものだ。 「そんなのおかしい……」 「昔はそういうのが今よりもっと、恥ずかしかったみたい。私も本で読んだだけだから、よく知らないけど……花乃子さん優しかったんだね」 夏美はこくりと頷いた。目に涙がたまっている。 「撫でてくれるの。とっても安心するんだ」 「怖くないの?」 「全然怖くないよ。ちょっとおかしいのかな私」 鼻をすすりながら、夏美は弱弱しく笑った。 「今学校、夏美楽しい?」 夏美の肩が揺れた。机の端を忙しなく撫でている。直接的に聞きすぎたか、と唯は少し後悔したがそのまま話を続ける。 「なんていうか……もうちょっと積極性あるほうがいいかも」 言葉に出してしまってから傷つけたかもしれないと不安になった。自分はいつもそうだ。考えて、慮って相手に言葉を届けることが難しい。最近は意識して気を付ける様にしているが、なかなかうまくいかない。 「……うん、ごめん……苦手で、話すの」 夏美は下を向いてしまう。申し訳なさそうな声がどんどん小さくなっていく。 「えーと違う、怒ってるわけじゃない。私もさ、結構考えず言っちゃうことあってさ、今の友達と喧嘩も結構してきたんだよね」 なんと言えば彼女に伝わるか。夏美は優しいし、自分では気づいていないようだが芯もある。 彼女の高校志望の理由を聞いた時、随分将来設計がしっかりしていると思ったものだ。家から近いという理由だけで高校を選んだ自分とは違う。 「夏美が何言ってもさぁ、うちら大丈夫だから。うまく出来ないこともあるかもしれないけど、いつかうまくいけばいーんじゃん? それまでうちらと練習しよーよ」 軽く言いすぎたけれど、苦手な事は繰り返さないと人並みにはならない。それは唯自身が一番身に染みていた。 「練習」 「そう練習。失敗してもいいやつ。成功するまで、当たり前になるまで全部練習だよ。ね?」 不安そうな夏美の目が、じっと唯を見つめている。唯はバックの中を探り、チョコレート菓子を手に取った。個包装になった小さいもので、小腹が空いたときよく食べるものだ。 「手だして、手」 それを握って前に突き出す。夏美も困惑顔で手を出した。握手するように握らせる。 「大丈夫だから」 そう言って伝わるように少し、力を込めて握る。暖かく柔らかい掌は頼りないと感じたが、夏美もぎゅっと力を込めてきた。 「ありがとう唯ちゃん」 そう言う彼女の目は、先ほどとは少し違っていた。 唯と別れて夏美は帰路についていた。なんだか足取りが軽い。 唯は明るくて強い。自分もああなれたら。思えば自分は、自分のためにしか努力してこなかったのではないか。それはそれで生きていけるかもしれないが、なんて味気ない日々なんだろう。 花乃子もきっと強くて優しかった。だから折れてしまったんだろう。最後に鉄二が何を言ったのかはわからなかったけれど、きっと彼女の心を破壊して有り余る言葉だったんだと思う。 夏美は男女の愛の事はよくわからない。死ぬほど酷い言葉をかけられても、あの机に閉じ込められる意味なんてわかりたくない。 だけど花乃子の世界は鉄二がいないとダメなんだと、それだけはわかる。だってあの中央の引き出しに花乃子はいるんだから。 夏美はお店によってノートを買った。自分がしようとしていることは的外れかもしれない。花乃子はそんな事望んでないかもしれない。だけどもう撫でられてばかりは嫌だった。自分も何か返したい。 家に帰りついて部屋にこもった。幸いなことに明日も休みだ。 シャープペンシルを握る。 小説は読むけれど長い文章を書いた経験なんて、読書感想文くらいしかない。 しかもこれは創作だ。 登場人物は『須賀花乃子』『勝木 鉄二』。花乃子はお金持ち、鉄二は貧乏。初っ端から自分の語彙力のなさに辟易する。それでもめげずに書いていった。 何度も消しゴムで文章を消す。こんなに難しいのか、文章を作るという事は。箇条書きにしてもよかったが、それではだめだ。心情がよくわからなくなってしまう。 つたない文字列を必死に作っていると、ふわ、と右頬に手が触れた。左手でその手を握る。やっぱり感触はあった。そしてきっとこの手は右手だ。ずっと片手しか出てこなかった理由が、あの夢で分かっていた。 切ったから。左手はもう動かないんだろう。 手はおとなしく夏美に握られるままになっていた。本当は手以外も、見る人によっては見えるのかもしれない。反対に手すら、見えないのかもしれない。 がりがりと机を削るようにして文章をつづっていく。殆ど勢いだ。書いて書いて一ページ書き上げた。 ――私は花乃子さんと旅をする。あなたの生きた時代をよく知らないから想像でしか書けないけれど。あなたが最後に言われた言葉を私は知らないけれど。あなたの望みはわかるような気がする。お金は無くてもいいから好きな人と一緒にいたかっただけ。だから私はあなたの幸せをここに作る。 花乃子と鉄二の出会いなんてひどい有様だった。あの時代に図書館なんてものがあったのだろうか。昔見た少女漫画でそういう出会いがあったから参考にした。二人の出会いは図書館で、鉄二が一目ぼれしたことにしよう。だって花乃子はとても美人だから。ああぐちゃぐちゃだ。過去に飛んだり未来に飛んだり、自分の主観が入ってしまったりして。 目がしょぼしょぼすると思って時計を見たら、とっくに晩御飯の時間を過ぎていた。そういえば背後で扉が開閉したような音がしたような気がする。熱中していたから母親は声をかけずにいてくれたのだろう。 握りっぱなしだった手はいつの間にか姿を消していた。飛ぶように下に降りて急いで夕食を食べる。そしてまた机に座った。次は二人が一緒に暮らすところ。 友達の話を参考にした。デートをして、手をつないでキスをする。たまにはお出かけして美味しいものを食べて。 たった五行を書くのに一時間も費やしてしまった。 これでいい。喧嘩した所も書いた。仲直りできる関係の方がきっと絆が強いから。 喧嘩のシーンで三時間かかった。うまく言葉が思い浮かばなくて椅子に背を預け目を閉じたら、あっという間に二時間経っていた。 改めて読み直すと余りにも拙く、短い文章だ。時系列は飛んでいるし、誰のセリフかもわからない箇所が沢山ある。こんな物は小説とは呼べない。ただの走り書きだ。それでもいいと夏美はぼんやりした頭で思った。誰かの為につづった物語は、その人だけに読んでもらえればいい。 夏美はこの中に、花乃子の世界を書きたかった。 起承転結もないこの中に、彼女の幸せを作って。 当たり前の日常の中に、彼女の笑顔を思って。 末永く幸せに暮らしました。そんなおとぎ話みたいな結末を書き殴った。 ノートはたった二枚しか埋まらなかったのに、酷く疲れていた。ノートを中央引き出しの中にしまうと、電池が切れる様に瞼が下がっていく。 ――花乃子さん! 夢の中で彼女の後ろ姿が見える。誰かと手をつないでいた。相手の人はぼやけていて良く見えないけれど。 きっとあの右手は彼と手を繋ぐから、もう夏美の所へは来てくれないだろうけれど。 ――よかった、よかった。よかった。 涙がいくつも頬に落ちて止まらなかった。真っ暗闇の中で、小さな光に向かって二人は歩いていく。 遠ざかる背中に夏美は思い切り手を振った。 あなたがいなくなっても私は――。 「私……」 夏美は自分の手を強く握りしめる。唯が頷いて少し笑った。 「もっとみんなと話したい」 春の終わりの風が、夏美の頬を優しく撫でた。 完 |
瀬尾 りん 2018年01月01日 14時35分39秒 公開 ■この作品の著作権は 瀬尾 りん さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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