大人の日本むかしばなし〜性交門〜 |
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昔々、ある寂れた村に弥吉という男がいました。齢三十を迎える男でしたが、女を知らぬ童貞でした。実家にパラサイトしていて、母に「あんたもそろそろお嫁をもらわんとねぇ」と正論を言われると、「うっせーんだよ! クソババア!」と理不尽に返すクズ野郎。そんな弥吉は家族のみならず、周囲の村人からも疎まれています。 コミュ力の低い弥吉にとって、彼女を作ることはミッションインポッシブルでした。そんな状況で弥吉は荒み、「女なんて皆ビッチだ」と嘯き、村中の女たちから総スカンでした。 弥吉は一生童貞に違いない。 そう陰口を叩かれているのは、弥吉の知るところでしたが、彼はそれでも構わないと思っていました。 しかし、あるとき、弥吉の考えを変える運命的な出来事が起こります。 「はっーー!」 弥吉は城下町で拾った命よりも大事な春画を、思わず手から落としてしまいました。春画をネタに、村の裏山でマイナスイオンに浸りながらオ◯ニーをするのが弥吉の日課です。弥吉は性に目覚めて以来、一日もオナ◯ーを欠かしたことはありません。それは弥吉にとって密かな誇りであり、また、◯ナニーに対する並々ならぬ拘りを窺わせる事実でした。 そんな尊いオナニ◯中にも関わらず、弥吉の意識は完全に別方向へ向いていました。 少し離れたところに、女が立っていたのです。ただ女が立っていただけなら、これほど動揺しなかったでしょう。 「美しい……」 自然と。 弥吉はごくごく自然と呟いていました。 その女は、今まで弥吉が出会ったどんな女よりも美しかったのです。 艶のある長い黒髪も、透き通るような白い肌も、包み込んでくれそうな優しい顔立ちも。その女の全てが弥吉にとってドストライクでした。 女の方に一歩足を踏み出しかけて、はたと気付きます。自分がフルチン全開であることに。慌てて着物を直しますが、焦り過ぎたのか足がもつれ、激しく転倒してしまいました。そして、運悪く木の根にしたたかに頭を打ち付けてしまいます。 大きな激突音に女がこちらを見ました。 やはり美しいーー弥吉はそう思いながら、意識を失いました。 ◻︎ 「お気づきですか?」 弥吉が目を覚ますと、聞き心地の良い声。どうやら仰向けに寝ているようです。そのままの姿勢でちらりと横を見やるとあの女が心配そうな顔をして座っていました。 「ご気分はいかがですか?」 その質問に、頷くことで応えます。頭に手をやると手拭いのようなものが額にのせられていました。弥吉はそれを抑えながら、ゆっくりと身体を起こします。 「……すまん」 図らずもぶっきら棒になってしまいました。自分のコミュ力の低さを呪う弥吉でしたが、女は気にした様子を見せません。 「いえいえ、当然のことをしただけですよ」 そう屈託なく笑う女の顔を直視できず、弥吉は視線を逸らします。今まで感じたことのない胸のざわめきがそうさせました。 女は弥吉より十は若いようです。もしかしたらそれ以上かもしれません。そんな相手におどおどしている自分が情けないような気持ちでした。 そうして視線を彷徨わせていると、弥吉はヤベェ代物を発見してしまいます。 「あっ……」 すると女もそれに目をやり、わずかに頬を赤くしました。 オナネタの春画でした。女の横に、風で飛ばされないようにか、石をのせられた春画が置かれています。 「すみません、大事なものかと思いまして拾わせていただいたのですが……」 弥吉は赤面します。それに伴い、変なスイッチがオンになってしまいました。 「……変態だと思っただろ?」 女は目を丸くしますが、止まりません。 「女なんて皆そうさ、俺のことを白い目で見やがる。馬鹿にしやがるんだ。分かってる、どうせ俺が悪いんだろ。女と満足に喋れもしないような俺が全部悪いんだ」 なぜ自分はこんなことを言っているのか、弥吉にも理由が分かりません。 「あんただってそうだろ。山ん中でこんなことしてるような男のとこから立ち去りたくて仕方がないんだ。いいさ。俺はもう全然平気だ。だから、さっさと行っちまいな」 手を払う仕草をして、下を向き地面を見つめます。酷く惨めな気分でした。 女が動くのが気配で分かりました。女が立ち去れば心の平穏が戻る、弥吉はそう信じていました。 しかし。 「え……」 弥吉の手に何かが触れます。見ると、女が両の手で弥吉の右手を握っていました。先ほどの行為の際、弥吉のチン◯、略してヤキチ◯コを握っていた右手を。 手を引っ込めようとしましたが、女はぎゅっと力を込めます。 「ご自分が嫌いなのですね」 それは見事なまでに弥吉の心情を言い当てていました。コミュ力の低さと向き合おうとせず、半ば自暴自棄になり、周囲と調和することのできない残念な自分。弥吉はそんな自分が嫌いで嫌いで仕方がなかったのです。他者といたずらに関わろうとして上手くいかず、いずれ傷つくくらいなら一人でいた方がいい。そんな思いが暴走し、先ほどの発言につながったのでした。 「私はあなたを嫌いではありません」 女は真っ直ぐ、真摯な瞳で弥吉を見つめています。まるでこの世に穢れたものなどないと主張しているようでした。 「俺は……」 何かを口にしかけて、言葉に詰まります。二人だけのこの状況で、自身の矮小なプライドを守ることに、かけらほどの意義も見出せませんでした。 「私は城下町に住む夏(なつ)と申します。あなたは?」 弥吉も名乗ると、夏は微笑みます。 「そろそろ家に戻らなければなりません。私は花が好きで、時折このあたりに花を摘みに来るのです。またお会いできればいいですね。お一人でお帰りになれますか?」 弥吉が小さく頷くと、夏はすくっと立ち上がります。 「あ、これ……」 手拭いを差し出します。しかし、夏は首を振ります。 「もし、また会うことができれば、そのときお返しください」 そう返されると弥吉は悪い気分ではありませんでした。すでに弥吉のなかで、また夏に会いたいという気持ちが芽生えていたからです。 夏は一礼して歩き出します。 「あ……ありがとうっ!」 その背に叫ぶと、夏は振り返ります。何故か少し驚いたような表情をしていましたが、すぐに笑顔になるとまた頭を下げ、歩いて行きました。 姿が見えなくなると、弥吉のなかで先ほどの出来事が夢か現か分からなりましたが、握っている手拭いが何よりの証明でした。 弥吉も立ち上がります。 頭が少し痛みましたが、不思議な高揚感に足取り軽く帰路につきました。 ◻︎ 村に戻ると自分の家の前に小汚いハゲのおっさんが倒れていました。気がつかなかったことにして家に入ろうとすると、「ぐおお」とか呻くので、仕方なく歩み寄ります。 「どうしました?」 「お前さん……今無視しようとしただろ……」 「え? ちょっと何言ってるか分からないです」 そんなやり取りをしていると家の中から弥吉ママが現れます。倒れたおっさんを見て駆け寄るとマシンガンのように質問を浴びせています。それに対する回答をかいつまむと、おっさんは旅の者で名を黒一(くろいち)といい、道に迷い、数日間何も口にしていない状態で、命からがらこの村に辿り着いたとのことでした。 事情を把握した弥吉たちはとりあえず家の中に黒一を連れ込み、残飯を口の中に詰め込みました。「ぐほぉっ!」とか言っていた黒一でしたが、何とか口の中身を胃に流し込むとうやうやしく頭を下げます。 「助かった……まぁ、もう少し丁寧に介抱してもらいたかったが……」 「は? 助けてもらっといて舐めてんすか?」 「ごめんなさい」 弥吉は弱い立場の者に対してはとことん強気でした。こういったところも他者と上手くやれない大きな要因です。 少し休ませてもらいたいとのお願いに、「チッ、仕方ねーな」と快く承諾し、黒一を一晩泊めてやることにしました。 日が暮れると、弥吉は夜風に当たるため、外に出ました。そして、懐からあの手拭いを取り出します。 夏のことを思い返します。 おそらく人を疑うことを知らない娘で、きっと痛い目にあったことがないのでしょう。だから、弥吉に対してもあんな態度をとることができたのです。 「……」 しかし、それが何だと言うのでしょう。この手拭いを見ると沸々と浮かび上がる暖かな思いを否定する必要が果たしてあるでしょうか。 『私はあなたを嫌いではありません』 あのとき、夏が言ってくれた言葉。それは弥吉の心を救ってくれたのかもしれません。 だからこそ、彼女とならーー。 「何だい、ぼうっとしちまって」 その声に振り返ります。すぐそばに黒一が立っていました。 「あんたには関係ないっすよ」 冷たく突き放そうとしますが、黒一は「へへへ」と薄ら笑い、離れようとしません。 「お前さんには世話になっちまった。だから、礼と言っちゃなんだが、一つお前さんの欲望を叶えてやろうかと思ってね」 「は?」 頭イッちゃってるんすか、という質問により早く、黒一が言葉を継ぎます。 「俺はね、秘術師なのさ」 「おっさん、厨二病みたいな戯言ならよそでやってもらえませんかね」 「まぁ、聞け」 黒一は宥めるように両手を広げました。 「お前さん、好きな女がいるだろ」 「いいいいいいいいねーしっ!」 「わかりやすい奴だな」 下卑た黒一の笑い声が響きます。 「俺が使える秘術のなかにな、『性交門』がある。この術はな、性交門ってぇ門を出現させ、その門をくぐった男は好きな女と性交できるって代物なのさ」 胡散くせぇーー弥吉は半ば呆れました。法螺であっても、もう少し信憑性をもたせるものだと感じたからです。 こんな馬鹿話にこれ以上付き合うのも御免だったので、弥吉は踵を返して立ち去ろうとします。 「こんな秘術に頼らなけりゃ、お前さんは一生童貞のままだぞ」 しかし、そう言いかけられて、弥吉の足は止まりました。 「……何だと?」 「俺には分かるさ。お前さんの目ぇ見て、ぴーんときちまった。お前さんは誰からも愛されず、愛することもできねぇ可哀想な人間だって」 頭が沸騰したようになり、弥吉は黒一に詰め寄って胸ぐらを掴みます。しかし、黒一は容赦なく、弥吉の心を嬲ります。 「お前さんが好きな女も、向こうはお前さんのことなんて何とも思っちゃいねぇさ。さしづめ、ちぃと優しくされて勘違いしちまったってところか。つくづく可哀想な男だねぇ」 「黙れっ!」 弥吉が思い切り黒一を押すと、達磨のようにごろんと転がりました。腰をさすりながら、立ち上がります。 「俺ならお前さんの肉欲だけなら満たしてやれる。どうせ叶わぬ恋なんだ。性交門でやるだけやって楽しめばいい」 歪みきった笑みを浮かべている黒一。弥吉は下手をしたらこの男を殺してしまいそうな自分を自覚し、全速力でその場から駆け去りました。 後方から黒一の声。 「俺はお前さんの味方だ! いつでも力になる!」 弥吉は走りながら、黒一とのやり取りを全てかき消そうとしました。 しかし、いくら頑張っても、汚いシミのように、弥吉の心にこびりついたままでした。 ◻︎ 日が昇るころ、弥吉は城下町に来ていました。手にはあの手拭い、そして、綺麗な花束が握られています。 あの後、黒一がいる家に戻りたくなかった弥吉は、裏山に向かいました。夏と出会った場所に着くと、腰を下ろし膝を抱えます。 あのとき優しくしてくれた夏。 それが嘘だったなんて、弥吉には思えませんでした。 しかし、黒一の言葉が、弥吉のなかで渦を巻き、夏の言葉とせめぎ合っているのです。 弥吉に、ある決意が生まれました。 ーー確かめてみよう、夏本人にーー。 そう思い立った弥吉は城下町へ行くことにしました。その道中、足元を見ると小さな花が咲いていることに気付きます。同時に、夏が花が好きだと言っていたことも思い出しました。腰をかがめ、花を摘みます。弥吉は花を見つける度、夏への想いを集めるように、そっと花を摘みました。そうして城下町に着いたのです。 城下町のどのあたりに住んでいるのか、弥吉には分かりません。随分無謀なことをしているとは思いつつ、夏を探します。 夢中になって探していると、前方への注意が散漫になり、走ってきた小さな女の子とぶつかってしまいました。女の子は尻餅を付きます。 「あぁ……すまん、大丈夫か?」 手を差し伸べて、引き起こしてやると、女の子は「へーき」と応えます。 夏探しを再開しようと視線を上げたところで、弥吉は固まりました。 女の子が走ってきた方向にある長屋から出てきたのは夏でした。天に向かって伸びをしています。まだこちらに気付いていないようです。 俺の様子を見てか、女の子は不思議そうに訊きます。 「おじさん、夏おねぇちゃんの知り合い?」 「君は……知ってるのか?」 弥吉の問いに、女の子は話してくれました。 夏の両親は、それは人の良い人間で、身寄りのない子どもの面倒を見ているそうです。この女の子もそんな子どもの一人。弥吉は話を聞いて、夏の性格の所以を知ることができた気がしました。 手拭いと花束を渡そう。 弥吉は歩き出そうとして、やめました。同じ長屋から背の高い若い男が出てきたからです。夏と男は仲睦まじそうに話をしています。 「あれは……誰?」 妙な胸騒ぎを覚え、女の子に尋ねます。 「太郎にいちゃん! 夏ねぇちゃんと太郎にいちゃんは今度結婚するんだよ!」 弥吉の脳内で、何かが割れた音がしました。 足元がふらつき、よろよろと後退ります。手から手拭いと花束が落ちました。 「おじさん?」 目を丸くして首を傾げる女の子。 弥吉は脱兎のごとく、その場から逃げ出しました。 馬鹿野郎馬鹿野郎馬鹿野郎馬鹿野郎馬鹿野郎ーー。 呪いの言葉で、自分自身を殴りつけながら。 ◻︎ 結局、黒一の言う通りでした。 自分は可哀想な勘違い男。 夏も、弥吉があんまりにも惨めだったから、仕方なく励ましの言葉をかけただけ。 それを良いように解釈した自分。 何で期待なんてしてしまったのでしょう。 期待するだけの価値がないことは、自分自身が一番よく分かっていたはずなのに。 夏だって悪い。 結婚相手がいるくせに、違う男に気を持たせるようなことをして。 とんだ偽善者。 壊れた弥吉の思考回路は、夏に対する理不尽な憎悪の炎を燃え上がらせていました。 弥吉は自分の家の前で足を止めます。 家の壁に寄りかかって、黒一が立っていました。 「なぁ、俺の言った通りだったろ」 首肯しました。 夏への恋心など、ただのまやかしに過ぎなかったのです。 墨汁をこぼすように、弥吉の心が黒く染まっていきます。 「黒一さんーー」 黒い心が弥吉に命じます。 善人の皮を被った夏を穢してしまえーー。 「性交門の秘術を、お願いしたい」 「……へへへ、お安い御用さ」 黒一は悪鬼のような顔で、楽しそうに嗤いました。 ◻︎ 「あら、雪ちゃんそれ……」 夏は雪が手にしているものに目を留めました。 あのときの手拭いに間違いありませんでした。それに加え、沢山の花も持っています。 「これどうしたの?」 夏は雪に問い掛けます。 「さっきそこで、知らないおじさんが落としたの」 雪が指差す方向には、今は誰もいません。 「そう……そのおじさんはどこに行ったの?」 「分からない、急に走って行っちゃった」 きっとあのときの男でしょう。手拭いを届けに来てくれたのでしょうか。しかし、それなら何故手渡さずに帰ってしまったのか分かりません。 夏はどこか心配な心持ちになり、あのときの場所に行くことにしました。 ◻︎ 「はあっ!」 それは圧倒的な光景でした。黒一が気合いを入れると、両の手から黒い光が放たれました。光は空間を切り裂き、そこに弥吉の身丈の三倍はあるだろう、巨大な門を出現させました。門は黒光りし、ドクンドクンと、何かが脈打つ音を発しています。一目でこの世のものではないことを感じさせる異様を有していました。 「ふぅ……、さて、準備完了だ。あとはお前さんがこの門をくぐるだけ」 軽い調子で、黒一は言います。弥吉は門を見上げました。 門をくぐれば、ただただ自身の欲望を一方的にぶつけ、夏を穢すことになります。 「……どうした?」 しばらく動かない弥吉には業を煮やしたのか、黒一は低い声で急かします。 今さら後戻りなどできません。 目を瞑り、弥吉が門に手を触れた瞬間。 「待ってくださいっ!」 弥吉は振り返ります。 そこには、息を切らした夏の姿がありました。 「駄目です……それはきっと、良くないものでしょう?」 弥吉が応えるより先に、黒一が一歩二歩と歩みでます。 「こりゃあいいところに来た。ひょっとしてお嬢ちゃんが例の?」 黒一は横目で弥吉を見ます。弥吉は沈黙していましたが、肯定の意だと判断したようです。 「へへへ、なるほど。確かにべっぴんさんだ。身体つきも悪くない。お前さんが性交を望むのも頷ける」 「え……?」 怪訝そうな夏に、黒一は性交門について説明をしました。 「そんな……」 夏は沈痛な面持ちで項垂れます。対して黒一はますます愉快そうです。 「まぁ、そんな悪くはないさ。お嬢ちゃんだって気持ちいい思いができるんだからな」 唇を噛み締めて黒一を睨みつけていた夏の肩から、ふっと力が抜けました。そして、弥吉に視線を移します。 「弥吉さん……少しだけでいいんです。私に時間をいただけませんか?」 弥吉は門に触れていた手を下ろします。 「ありがとうございます……どうしても今のうちに伝えておきたいのです。その門をくぐったら、あなたはあなたでなくなってしまいそうだから」 夏は切なげな面持ちです。 「私は弥吉さんにお礼を言わなければならないのです」 「礼……?」 弥吉にはよく分かりません。礼をされるようなことは何一つしていないからです。 夏が話すのを待つ弥吉の耳に飛び込んできたのは、思いもよらぬ言葉でした。 「弥吉さんと出会ったあの日……私は死ぬつもりでした」 弥吉は眉根を寄せます。 「先日、私の家で面倒を見ていた子の一人が……流行病で亡くなったのです」 夏は胸の前で手を組んでいます。 「苦しむあの子に、私は何もしてあげることができませんでした。私は私に絶望してしまいました。自分には何の価値もないと」 自分に価値がないーーそれははからずも、弥吉の心を苦しめている意識と同じでした。 「私は山に入り、ふらふらと彷徨っていました。そして、ついに命を絶とうかというときにあなたと出会ったのです」 弥吉が頭をぶつけたときに違いありません。夏がよもやそんな状況だったとは、夢にも思っていませんでした。 「それじゃ……どうして俺を助けてくれたりしたんだ?」 これから死のうというときに、見ず知らずの男に構うような余裕があるとも思えません。 弥吉の問いに、夏はわずかばかり笑います。 「おかしいですよね……でも、倒れたあなたを見た瞬間、それまで考えていたことが吹き飛んで、ただただ助けなくちゃって思ったのです」 それは夏が芯から善人であることの証明のようでした。 「そして、あなたが目を覚ましてあの出来事があって、別れるときです。あなたはこう言ってくれました。ありがとうって……」 夏の頬を一筋の涙が伝います。 「あなたの苦悩を私が癒したなんてこれっぽっちも思っていません。それでも、あなたはそう言ってくれました。そのとき、私の心に光が差したのです。こんな私でも、何かの、誰かの役に立てるようなことがあるかもしれないって」 弥吉は件のことを思い返します。あのとき、弥吉の感謝に、夏は驚いたような表情をみせました。その意味が今なら分かります。ある種の気付きが、夏にそうさせたのだと。 「あなたは、たまたまだと言うかもしれません。けれど、あのときあなたと出会わなければ、ありがとうと言ってもらわなければ、きっと私はここにはいません。だから、これだけはお伝えしたいのです」 夏は深く深く頭を下げて。 「ありがとう……ございました……」 一瞬の間。 「はいはい、もう終わりでいいかい?」 黒一が面倒臭さそうに手を叩きます。 「涙さそうお話だねぇ。でも、それくらいにしといてくれよ、早く門をくぐってもらわないといけないんでね。さぁ……て、うん?」 黒一は訝しげな声を上げます。 「お前さん……まさか、泣いてるのか?」 その通りでした。 弥吉の目からポロポロと大粒の涙がこぼれていました。 自分だけの狭い世界に閉じこもり、他者を遠ざけていた弥吉。 自分は誰とも相容れない孤独な人間だと決めつけていた弥吉。 しかし、感謝の一心で頭を下げる夏の姿は、そんな弥吉を打ち砕きました。 もしかしたら、こんな自分でもーー。 「おいおいおい! 何を感激しちまってるんだよ!」 黒一は急にあたふたし始めます。 「俺には……性交門は必要ない」 互いの心を無視して肉体のみを重ねる門。一度はそれでいいと思いました。夏を穢してしまいたいと。 その自分は間違えていました。 今ならまだ引き返せます。 そして、夏に伝えることができます。弥吉のなかに宿る確かな想いを。 「困るぜ! 性交門っつーのは、くぐった男の望みを叶える代わりに、行為が終わったあとに男の魂を吸い取って、術者である俺の力を増強させるってぇ代物なんだ! お前さんがくぐらなけりゃーーあっ!」 黒一は、しまった、という表情になります。明らかに失言でした。 「あなた……自分の力を高めるために弥吉さんを……」 夏は黒一を睨みつけています。 「いやいや、それはその……」 「タマシイクワセローー」 突如、どこか地響きに似た声が聞こえます。 弥吉が性交門を見ると、閉ざされていた門が開いていました。 次の瞬間。 無数の黒い触手が門のなかの暗闇から伸び、黒一の四肢に絡みつきます。 「コイツ……まさか、術者の俺を……!」 そして、黒一は触手によって門の暗闇の中に引きずり込まれてしまいました。「た、助けてくれぇ!」という悲鳴とともに。 黒一が暗闇に消えると、性交門は煙のように消滅しました。 「……」 あとに残されたのは、弥吉と夏と静寂でした。 非現実的な光景を目の当たりにしたからか、弥吉は脱力し尻餅を付きます。 「大丈夫ですか?」 夏が弥吉に手を差し伸べます。しかし、弥吉はその手を取ることなく、こう言いました。 「俺はあんたが好きだ」 その言葉を発することに迷いはありませんでした。 夏は申し訳なさそうに微笑みます。 「ありがとうございます。でも、ごめんなさい。私には他に好きな人がいるのです」 弥吉は人生で初めて、女にフラれました。落ち込むと思いきや、弥吉の心は日の出のように晴れ晴れとしていました。 そして、弥吉は幾重にも想いを込めて、夏に伝えました。 「ありがとう」 ◻︎ こうして、弥吉の恋は儚く散りました。しかし、弥吉はこの出来事を通して、人と人が繋がっていること、そして、その尊さに気付きました。 人と人が出会う手助けがしたいーー。 そんな想いを抱くようになった弥吉は、後に、日本最古の結婚相談所を創設することになりますが。 それはまた、別のお話ーー。 |
筋肉バッカ cEG2mCceHc 2017年08月13日 23時51分01秒 公開 ■この作品の著作権は 筋肉バッカ cEG2mCceHc さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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