お幸せに、リリーさん

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 僕がその人を初めて見たのは、真夏の昼間だった。
 駅前には、ストリートミュージシャンが演奏している一角がある。ゲートを抜けると、市民の憩いの場になっている広場がその場所だ。すぐ横に大きな道路があるので、「飛び出し注意」の看板が立ち、いくつか花も飾ってあるけれど、どれもしおれている。
 さんさんと降り注ぐ太陽の下、彼女は楽器を弾いていた。持参したゴザの上に裸足で座り、見たことのない楽器で、知らない音楽を奏でていた。長い髪も白い洋服も、顎にあるほくろでさえも、全ては彼女の美貌を際立たせ、日差しさえも跳ね返してしまうほどだった。
 その不思議な雰囲気は、どこの国の人なのか分からない感じがしたし、汗もかかず呼吸も乱していない様子は、暑ささえも全く感じていないように見えた。僕は美しさに酔うという初めての体験をした。
 行きかう人達は、彼女のことが目に入らないのか、誰も足を止めなかった。それさえも、彼女のことが見えているのは僕だけなのかもしれないという、密かな優越感を与えてくれた。
「リリーさん……」
 口に出してみると、妙にしっくりくる感じがした。リリーさん。僕は心の中で彼女をそう呼ぶことにした。最近見た映画に出てきた美人の名前。スクリーンの中の美女に、彼女が少し似ている気がしたからだ。

 それから、夏休みということもあり、僕は理由をつけては毎日のように駅前に行った。
 声をかける勇気もなく、かと言って、リリーさんの前に立つというのも、怖がられそうだったので、少し離れたところから見ていた。あまり見ていると、不審がられそうなので、長居せずに帰ることが多かったが、見つめている間は本当に幸せだった。
 リリーさんは誰のことも見ず、ただひたすらに音を紡ぎ出す。その美しい音色に、たまに通行人が足を止め、小銭をブリキの箱に入れていく。カランという音がすると、リリーさんは演奏を止め、会釈よりも深く、お辞儀よりも浅く頭を下げる。
「ありがとうございます」
 涼やかな声で相手にお礼の意を伝える。座っているので、深々とお辞儀をしたら、まるで土下座のようになってしまう。なので、髪がさらりと床につくぐらい頭を下げる。
 それからまた、何事もなかったかのように、演奏の続きを始める。どこかで聞いたことがあるような気もするし、初めて聞く気もする、ゆったりとした音楽だ。

 ある日、リリーさんを見かけなくなった。
 ゲートの側にあった古い供花の一つが新しくなっており、僕は不吉な予感でどうにかなりそうだった。
 数日後、何事もなかったかのようにリリーさんは現れた。ただ、前と違っていた。二人だった。男性が一緒にいた。
 男性はリリーさんの横に座り、同じように楽器を弾きながら歌い始めた。リリーさんの繊細で柔らかな音色と比べると、雑な音だった。どうせなら、リリーさんが歌えばいいのに。そう思いながら見ていた。リリーさんとのアンサンブルに合わせて、男の声が響く。
 立ち止まる人が多くなった。小銭がどんどん入り始めた。
 違う、こんなのは違う。僕はそう叫びたくなった。
 リリーさんが作り上げた、儚げな美しい世界が壊される気がした。
「ひどい……」
 思わず声が出た。本音だけれど悪口だ。聞こえていたら困る。はっとしてキョロキョロと辺りを見回したが、他の人はリリーさんたちに夢中なようだ。
 僕は納得がいかないまま、その場を離れた。
 人混みから抜け出て、歩き出そうとすると、小さな女の子がこちらを見ていた。澄んだ瞳は、こちらが失った無垢なものを彷彿とさせる。
「ねえ、お兄ちゃんは、あのお姉ちゃんが好きなの?」
 あまりにも直球な質問に、僕は曖昧に笑った。
「君ももう少し歳を取れば分かるよ」
 あと何年かすれば、この子も恋をするようになるだろう。そのときに、このやり取りを思い出してくれれば幸いだ。
 たたっと足音がして、振り向くと母親らしき人が駆け寄ってきた。
「勝手にどこかに行っちゃダメよ」
「でも、このお兄ちゃんがね……」
「さあ、行こうね」
 その子の手をやや強引に握ると、親子は去って行った。しょうがない、このご時世だ。知らない人と喋らないようにとしつけるのは当たり前だろう。僕は溜息をついた。親子に対してではない。そして静かに駅前から離れた。

 それからは、いつ駅前に行っても、リリーさんの横には男がいた。
 僕は複雑な気持ちになりつつも見守った。
 ある日のこと。二人は仲睦まじそうに、顔を寄せ合っては何かをささやき合い、リリーさんは声を立てて笑った。今まで見たことのないリリーさんがそこにいた。
 僕はそっとその場を離れた。気だるげな雰囲気で、どこか神秘的なリリーさんが好きだったのだ。もうリリーさんはいないのだ。そう思ったからだった。

 僕は駅前に行くのをやめた。

 冬が来た。吐く息の白さに季節を感じる。僕はふと思い立ち、駅前に行ってみた。
 あの男がいた。
 一人で楽器を弾きながら歌っていた。道行く人はけっこう立ち止まって聞いている。僕も好奇心にかられて立ち止まった。
 音色はリリーさんに比べると、乱暴に聞こえるが、反面力強くもあった。歌声と相まって、人を惹きつけるには充分だった。悔しいけれど、リリーさんよりも上手だ。僕はどう受け止めたらいいのか分からなくなった。
 繊細で美しい音だけれど、あまり理解して貰えないリリーさんの演奏と比べて、この男のほうが人好かれする要素に満ちていた。それは集まっている人の数も、投げられる小銭の多さを見ても明らかだった。
 リリーさんはいなかった。彼女は愛想を尽かして去ってしまったのだろうか。そうかもしれない。この男とリリーさんは似合っていない。
 それにしても、リリーさんはどこに行ってしまったのだろう。男が去れば良かったのに。どうして彼女が追い出されないといけないのか分からない。僕はどうにもやるせない気持ちになった。

 再び夏が来た。
 昨年、リリーさんと出会い、そして別れた季節。それは一方的ではあるけれど、少なくとも僕の中では輝いている思い出だ。
 僕はそっと駅前に足を伸ばした。
 リリーさんがいた。後ろ姿だけで、すぐに分かった。彼女は一番前に立って演奏を聞いていた。
 あの男が相変わらず歌っていた。「デビューが決まりました」と小さな立て看板が置いてある。「ファンクラブに登録すれば、無料でCDを差し上げます」とも書いてあり、CDが置いてある。けっこうな速さでCDがなくなっていく。そこそこ人気があるのかもしれない。
 今ならリリーさんに話しかけられる気がする。僕はリリーさんに近づいた。

 ふと目の端に人影が映った。供花を入れ替えている人がいる。母だった。
 何かがおかしい。頭のどこかで警報の音がする。それは、それ以上近づくなという警告も兼ねていた。
 頭が痛い。
 これ以上考えるなと、もう一人の僕が叫んでいる。

 ゆっくりとリリーさんが振り返った。腕には赤ん坊を抱いている。僕は言葉に詰まった。
 着ている服の色から察するに女の子だろうか。リリーさんと同じく、顎にほくろがある。きっと美人に育つだろう。そんな気がした。赤ん坊は僕を見て、無邪気に笑った。僕は頭を撫でようと手を伸ばした。
「あら? どうしたのかしら? 機嫌がいいわね」
 僕の手が赤ん坊をすり抜けるのとほぼ同時にリリーさんがふんわりと微笑んだ。僕は彼女を見た。赤ん坊の視線を追ったリリーさんは、僕を見ているが、全く目が合わない。僕を通した向こうの木を見ているようだ。
「リリーさん……」
 僕の言葉は彼女には届かない。僕の中心をすり抜けて、若い女の子のグループが通っていく。

 そうだった。僕は……。
 僕は目を閉じた。
 あの日。
 うだるような暑さで、誰もがうんざりした顔をしていた日。
 家に帰ろうと道路を横切った。ちょうど、あの供花のところから。そして……。

 気がつくと僕はここにいた。いつでも真夏で、いつでも僕は暑さに辟易しながらも、どこかで壊れていくような感覚にも捕らわれていた。
 今まで気がつかなかったのか、それとも気がつかないふりをしていたのか。僕らしい末路だ。

 僕は母の元へと歩いて行った。
 どれぐらい時が流れているのだろう。母は随分と疲れて見えた。
「お母さん、ごめんね……」
 母に言葉をかけた。母は黙って手を合わせている。僕はなんて親不孝なのだろうか。
 帰っていく母の後ろ姿を見送ったまま、僕はしばらくぼんやりとしていた。

 リリーさんの旦那は相変わらず歌っていた。あまり上手いとも思えないし、正直好きになれない声と演奏だ。
 だけど、もういい。リリーさんが納得しているのなら、それでいい。
「リリーさんを泣かせたら……化けて出るぞ」
 僕は旦那に言った。どうせ聞こえないのだ。最後ぐらい好きにさせて貰おう。
 旦那は上機嫌で歌い続けている。プロデビューが決まり、美しい妻とかわいい子どもがいるのだ。不機嫌になる理由もないだろう。
 こっちの気配を感じている様子はない。それはそれで、幸せなのかもしれない。見えないほうが、気づかないほうが幸福だということもある。

 リリーさんは変わらず美しかった。雨が似合いそうな雰囲気のまま、幸せそうな笑顔を浮かべるようになっていた。
「リリーさん、おめでとうございます」
 僕は小さな声で祝福の言葉を述べた。こんなに彼女に近寄ったのは初めてだ。目の前にリリーさんがいる。やはりこの人を見ているとき、僕は誰よりも幸せな気持ちになれる。
「僕、もう行かないといけないんです」
 リリーさんは何かを感じるのか、少し首を傾げては辺りを見ている。繊細で感受性の強そうな女性だ。勘がいいのだろう。
 手を伸ばして、リリーさんの赤ん坊の頭を撫でた。厳密には撫でられていなかったけど、何とか撫でた。
「リリーさんが演奏しているのを見ているのが好きでした。とてつもなく幸福でいることができたんです。あなたの幸せを願っています。ずっとずっと……」

 言うことを言ったら、時が近づいてきているのが分かった。なぜ分かるのか分からないが、自分の中に行くべき道が、最初から決まっていたかのようだった。
 広場を横切り、ゲートを抜ける。自分が自分じゃなくなっていくような感覚が強まる。
 僕は輝きが見えるほうへと向かって歩き始めた。体がどんどん軽くなる。さっきまでの暑さはもう感じない。幸福と安らぎに満たされていく。光の中、白く美しいゲートをくぐる。
「お幸せに、リリーさん……」
薄荷 l7cuo2XOWA

2017年08月13日 23時40分50秒 公開
■この作品の著作権は 薄荷 l7cuo2XOWA さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:僕のいた夏、いない夏
◆作者コメント:夏企画開催おめでとうございます!

2017年08月31日 22時41分17秒
+10点
Re: 2017年09月09日 19時15分12秒
2017年08月28日 22時56分38秒
作者レス
2017年08月27日 22時59分15秒
+20点
Re: 2017年08月31日 23時41分12秒
2017年08月27日 17時43分54秒
0点
Re: 2017年08月31日 23時40分10秒
2017年08月27日 17時08分41秒
0点
Re: 2017年08月31日 23時37分48秒
2017年08月27日 15時25分25秒
+20点
Re: 2017年08月31日 23時35分18秒
2017年08月27日 14時54分59秒
+10点
Re: 2017年08月31日 23時31分58秒
2017年08月26日 07時02分03秒
0点
Re: 2017年08月30日 19時01分08秒
2017年08月24日 21時50分37秒
+20点
Re: 2017年08月30日 19時00分08秒
2017年08月24日 19時22分21秒
+10点
Re: 2017年08月30日 18時58分53秒
2017年08月23日 23時50分38秒
+20点
Re: 2017年08月30日 18時58分00秒
2017年08月21日 21時21分07秒
Re: 2017年08月30日 18時56分59秒
2017年08月19日 07時14分38秒
+20点
Re: 2017年08月29日 23時05分28秒
2017年08月14日 11時42分33秒
+10点
Re: 2017年08月29日 23時03分52秒
2017年08月14日 10時41分42秒
+10点
Re: 2017年08月29日 23時02分21秒
合計 14人 150点

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