神伏防衛隊、出撃!! |
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幼い頃、僕は不思議な鳥居を見た。 ……ような気がする。 強い夏の陽射しが降りそそぐ、樹木の多い場所。そんな情景が微かな記憶として残っているのだけれど、そこがどこだったか思い出せない。 鳥居はそそり立つように大きく、幼い僕を見下ろしていた。 それから小学校に上がり、一年生の秋に祖母が、三年生の初夏に母が亡くなった。その数年間の記憶がどうももつれている。その時期にも何度か鳥居を見たような気がするのだ。どこで見たのかと記憶を探ると、近所の商店街、学校の近く、そういった景色のかけらが目に浮かぶのだけれど、そんな所に鳥居なんかもちろんあったはずはないのだ。 次に、白峰眞弓という少女の話をしてみたい。 彼女を想う時、真っ先に浮かぶのは姿勢のよさだ。ほっそりとした体。背筋をすっとそらせたその姿は、本当に弓のようにストイックなしなやかさを感じさせた。 彼女は僕と同学年で、学区を考えれば小学生のころも同じ学校に通っていたと思う。でも、その頃の記憶はない。はじめて意識したのは中学になってからだ。廊下ですれ違ったとき、思わず足を止め振り返ってしまった。 大人しそうな、整った顔立ち。涼し気な目もと。青竹のような清冽な美しさの印象が、僕の胸に直接飛び込んできた。それに打たれて振り返ると、しだいに遠ざかって行く姿勢のよい後姿が余韻となって残った。 それから一年余り、彼女の姿を時々校内で見かけることはあっても接点はなかった。同じ学年なのは知っていたけれど、クラスが一緒になったことも無い。 白峰さんは合気道部に入っていた。白い道着と黒の袴という姿を何度か目にしたことがある。彼女はこの地方に古くから伝わる九天流という古武術の師範の孫娘らしい。それは合気道とも少し違う、むしろ合気道に影響を与えた古い流派なのだそうだ。そんな道場の娘として育ったサラブレットらしく、実力があったのだろう。二年からは合気道部の女子のキャプテンを務めていたようだ。 このころの僕の彼女への気持ちは、淡い初恋ってやつだったのだろう。でもその頃の僕には異性に告白する勇気なんかなかったから、白峰眞弓という少女の記憶は儚い小さな思い出の一つで終わってしまってもおかしくはなかった。 ところが、運命の女神は二人の人生の軌跡をぐいと捻じ曲げて、強引に交差させるというちょっとした力技をやってのけてくれたのだ。 (1) 中学二年の夏。僕はわけあってワンルーム・マンションで一人暮らしをしていた。 学校が夏季休暇に入ると、電車で三時間ほど離れた所に住む家族のもとで何日か過ごした。その帰り、CDショップに寄りたかったのでマンションの最寄り駅ではなく、一つ離れた駅で降りた。もう一度電車に乗るのも面倒だったので、近道を使って歩いて帰ろうとしたのが失敗だった。 僕の住む神伏(かみふせ)町はこの頃すでに、かなり物騒な状況になっているのを知っていたのに。 雑木林のほとりの、人通りの少ない小道。少し危ないかなと思ったけれど、まだ陽も高いから大丈夫だろうとつい油断してしまったのだ。 DQN。 とあるネットの解説では、 日本語の文脈で使われるインターネットスラング・蔑称の一つで、軽率そうな者や実際にそうである者、粗暴そうな風貌をしている者や実際に粗暴な者かつ、非常識で知識や知能が乏しい者を指すときに用いる言葉。 そう書かれている。 まさにそんな感じの顔が四個、僕を取り囲んでいた。非常識で粗暴で軽率そうな顔だった。 「わるいけど、通してくれないかな。邪魔なんだけど」 「そりゃ、そうだろう。邪魔してるんだからな」 「……なんで?」 「なんでだぁ? おまえら、聞いた?」 からんできた一人が、仲間の方に振り返って笑い合う。 「おまえ、中坊? どこ中? こんなあたりでフラフラしてたら、タチの悪いお兄さんにボコられるから気をつけろって、センセに教わらなかった? だったら俺らが教えてやるよ。死なねえ程度に優しくな」 そいつは眉を剃ったイヤな目つきで顔を近づけ、片手でピシャっと自分の頬を叩いた。えらく大きな音がして、ビクッと肩が震えた。 「ったく。蚊が多いな」 「……このへんは市街化調整区域に指定されているからね。緑が多くて環境はいいけど、この時期蚊が多いのは確かに難点だね」 「なこたあ聞いてねえしよ!」 乱暴に襟首をつかまれた。 ぎゅっと目をつむる。痛めつけられるのを覚悟した。相手は非常識で粗暴で軽率だ。逆らわずにやりすごす方が利口だ。 したたかにゲンコツを食らわされるだろうと体を固くした瞬間。 「あんたたち、弱い者いじめはやめなさいよ!」 おお。 正義の味方の登場? 響き渡ったのは澄んだ女性の声音。凛として何だか頼もしそうに聞こえた。 目を開けて視線を向けると、白峰眞弓が腕組みをしてこちらを睨みつけていた。半袖の白いブラウスにチェックのスカート。学生服を着ているってことは、部活の帰りだろうか。爽やかな夏服が眩しい。吹き渡る初夏の風が、サイドポニーの綺麗な髪を揺らす。 「ああ~~?!」 DQN連の四つの顔が一斉に白峰さんに向けられた。 「今、なんて言ったんだ? よく聞こえなかったんだがよ」 ドスを効かせたつもりだろうが、美少女は怯まない。 「弱い者いじめはやめなさいって言ったのよ。あんた、悪いのは顔と性格と頭だけじゃなくって、耳もなの?」 「何だとっ?!」 僕の襟をつかんでいたヤツが突き飛ばすように手を離し、四人揃って白峰さんに詰め寄った。少女は怯む様子もなかったけれど、身長は不良共の肩くらいまでしかない。 「女のくせに生意気言ってんじゃねえぞっ」 「呆れた。今時、女のくせに生意気って。いつの時代の人よ?」 白峰さんはウンザリした顔で首を横に振る。 「るせえっ! ひん剥かれてヤリまくられてえか?!」 本当にやりかねない剣幕だったから、僕は焦ってあたりを見まわした。棒きれか大きな石でも落ちていないかと思ったのだ。武器になるものを探した。だって、彼女が乱暴されるのを黙って見ているわけにはいかないだろう? ところが、そんな僕の目に、信じられない光景が映った。 白峰さんの身のこなしは、舞のように綺麗だった。 舐めきったようにつかみかかった不良の手が、空を切る。次の瞬間、そいつの体が嘘のように半回転して地面に叩きつけられたのだ。 いったい彼女がどんな手品を使ったのか、僕には見て取ることもできなかった。 残りの三人は、呆然と立ち尽くしている。 「どうしたの? かかって来なさいよ」 少女は平然と言い放つ。 不良の一人がその背後にまわって、おっ被せるように組み付いた。 彼女は背中に目があるのか。不良の鳩尾に肘を打ち込み、緩んだ片腕を取ると苦もなく捩じり倒した。うつ伏せに倒れた男の腕の関節を極めたまま、押さえつける。一対一の勝負なら彼女の勝ちだ。でも、相手はあと二人いる。彼女の予想外の強さに狼狽しているのはありありだったけれど、今なら動けないと見たのだろう。獰猛な表情をうかべて、両側からにじり寄った。 何を叫んだのか、自分でも分からない。 喉が裂けるほど喚き散らして、ダッシュした。不良の一人の太腿に体をぶつける。 無我夢中で抱え込むと、そいつの膝の裏側辺りに腕がまわった。がむしゃらに頭を押し付け、そのまま倒れ込む。 「ナイスタックルっ」 白峰さんの声が聞こえた。 身を起こすと、彼女に手首をつかまれた。 「え? 何?」 「走るよっ」 白峰さんは、なかなかの俊足だった。その背中を見ながら走っているうちに、何となく競争心が湧いてきて、全力で追い抜いた。 どうだと思ったのも束の間、すぐに抜き返された。 頭の中を空っぽにして夢中で体を動かす。久しぶりの感覚だった。 雑木林の間の小道を走り抜けた。人通りのある舗装道路まで出て、僕らは荒い息を吐きながら足を止めた。 両手を膝に乗せて呼吸を整えていた白峰さんが、ややあって汗に光る顔を上げた。 「あなた……走ってるうちに……負けない気に……なってたでしょ?」 「……白峰さん……だって」 そう言うと、彼女の表情に怪訝そうな色が浮かんだ。 「……私の名前、知ってるの?」 「一緒の学校だから」 彼女はじっと僕の顔を見つめる。何か考えているようだ。 「……まあ、いいわ。あなたは、笠原喬一くんでしょう?」 今度はこっちが驚く番だった。 「僕の名前、知ってるんだ」 「一緒の学校だから……笠原くん、今日はこれから時間ある?」 「……あるけど」 どうせ帰宅しても独り者の身だ。 「じゃあ、よければ一緒に道場に来ない?」 こうして。 運命の女神は二人の人生の軌跡をぐいと捻じ曲げて、強引に交差させてくれた……強引に捻じ曲げたのは、女神ではなく白峰眞弓という少女だったような気がしないでもないけれど。 (2) その近くに九天流の道場があることは何となく知っていた。 そこへ向かう道すがら、白峰さんが話しかけてきた。 「笠原くん、あなたね。判断が甘いんじゃないの? そう遠くないうちに、この辺は中東や南米の危険地帯並みになるわよ」 「まさか、そこまでは」 さすがにそれは誇張し過ぎだろうと思った。 「今はまだね。でも、あなたみたいな平和ボケした人の死体が三つくらい転がって、初めて皆気がつくのよ。この町に何が起こっているのか、現実を直視して」 白峰さんの表情は真剣だった。 確かに。 僕らの住む町、神伏町は今異常な状態に包まれている。 数年前から、兆しはあったのだ。 当時、いくつかの嫌なニュースがあった。 駅前の繁華街で、住所不定、無職の男が包丁で数人の通行人を傷つけ、一人が死亡するという事件。闇サイトで知り合った三人の男が、通りすがりの女性を騙して廃校になった校舎に連れ込みレイプして殺害、金品を奪った事件。ある自動車工場を解雇された二十代の男が、被害妄想にかられ、乗用車で自分をクビにした工場の敷地に乗り入れ従業員数人をはねた事件。 それまでは平和を絵に描いたようだった小さな町に、立て続けに殺伐とした事件が起こったことが世間を驚かせた。それだけではない。このころから不良少年のグループが町を徘徊するようになり、危なくて夜は一人で出歩けなくなった。 ところが警察は、このような事態に対してあまり本腰を入れて取り締まる様子がなかったのだ。市議会のドンと呼ばれる人物の息子が悪質な不良グループに加わっていたから。そんな噂もあった。 「……だけど、君みたいな女の子が一人歩きしてるなんて、もっと危ないだろう? いくら腕に覚えがあるからって」 「私は、パトロール中なの」 「パトロール?」 「本当は物騒な人たちを見つけたら近くの同志に連絡するのが、私の役目なんだけどね。さっきは、そうも言ってられない様子だったから。実戦経験なんて初めてだから、ドキドキしちゃったわ」 「君っていったい……」 「神伏防衛隊、一番隊組長。白峰眞弓です」 「神伏防衛隊……? そんなの聞いたことないな」 「仲間内の誰かが適当に言い出しただけで、別に正式名称じゃないからね」 それって「春日部防衛隊」とあんまり違わないような。 「一番隊組長ってのは?」 「新撰組みたいでカッコいいでしょ?」 意外と中二病女子だった。まあ、僕ら中二だけどね。と言うか、あんた沖田総司かよ。 神伏防衛隊(自称)というのは、九天流道場の門弟たちの有志が結成した自警団みたいなものらしい。そんな説明をざっと聞き終えたころ、大きな門のある古びた瓦屋根の家屋が見えてきた。 「お帰りなさい、お嬢」 門をくぐると、門弟らしい若い男が何人か会釈しながら声をかけてきた。 「ただいま、紀ノ川さん。留守のあいだ何かなかった?」 白峰さんは年上の男から敬意をもって接してこられることに慣れっこみたいで、落ち着いて言葉を返している。中には「師範代」と呼びかける者もいた。 すげえな、中学二年生の女子で師範代なのか。 「お爺様は、道場?」 「今、奥の方におられます」 「もしかして例の?」 「例のです」 門弟は、意味ありげな苦笑を浮かべた。 ――修行中につき、何人も入るべからず 閉ざされた襖に、へたくそな毛筆でそう書かれた紙が貼られていた。 「白々しい。修行なら道場でしなさいよ」 白峰さんは呟いてから、大きな声をあげた。 「お爺様、眞弓ですっ。ただいま見回りから戻りました」 襖の向こうはしんとしている。白峰さんもすぐに襖を開けたりはせず、すました顔でしばらく立っていた。 ややあって、声が聞こえた。 「眞弓か。何か用か?」 「お引き合わせしたい人を連れてまいりました。入ってもよろしゅうございますか?」 「……しばらく待ちなさい」 束の間、時が流れてから、 「入ってもよいぞ」 そう聞こえてきた。 「ご修行中なのでは?」 「それは、もうすんだ」 「さようでございますか。では、失礼いたします」 襖を開けると、そこは広い畳の部屋だった。神棚の前に小柄な老人が、あぐらをかいて座っている。 少し離れた部屋の片隅に、和服を着たきれいな女性が端然と正座していた。女性は僕たちが部屋に入るのを待って、すっと立ち上がった。 「それでは、私はこれで」 声をかけられた老人は、偉そうに胸をそらして、うむという感じに無言で頷く。 女性は僕たちとすれ違うときに、ちらっと興味深そうな視線を投げてきた。その流し目が妙に艶かしくて、僕はドキッとした。女性は少し微笑を浮かべ、黙って部屋を出て行った。 「笠原喬一……ああ、芦矢(あしや)のな」 白峰さんに肩を揉ませながら、老人は少し離れて正座する僕をじろじろ眺めた。芦矢というのは僕の母方の苗字だ。老人がそれを知っているらしいことに、少し驚いた。 白峰さんがときどき老人の耳に顔をよせて、何か囁きかけているのも妙な雰囲気だった。 「笠原さんは確か、転勤になって家族ぐるみ引っ越したんじゃなかったかな」 「はい。僕だけ神伏に残ったんです。ワンルーム・マンションを借りてもらって、一人で住んでいます」 「ほう。なんでまた。家族と折り合いでも悪いのか?」 僕は口をつぐむ。自分の気持ちをどう説明したらいいか、分からなかったのだ。 母は僕が小学三年生のとき、病気で亡くなった。二年後に父は再婚し、去年には妹ができた。新しい母は良い人で、けして嫌いではないんだけれど。けっこう若くて父よりもむしろ僕の方に年が近いのだ。わりと美人でもある。 そういう人と同じ屋根の下で暮らすのは、どうにもヘンな気持ちだった。やがて妹ができ、家族が遠くに引っ越すことになった。それを機会に、一人暮らししてみたいと僕は提案してみた。そうしたら、あっさり了承されてしまったのだ。 そんな事情を他人にどう説明したらいいか分からず、神棚の上にかかっている「驚天動地」と書かれた額に視線を向けていると、 「まあ、いい。そういうことなら、ここに引っ越してきなさい。いくつか空いている部屋があるから」 無茶なことを言いだした。 「は、はい? いえ、それは」 冗談を言っているのかと思った。しかし、老人の顔に笑いはない。 「……なんで、そういうことになるんですか?」 「今の神伏町の状況では、芦矢の血を引く子を一人で放っておくわけにはいかん。君の家族には、後で儂から連絡しておく」 また、芦矢という姓が出てきた。 呆然としながら白峰さんに視線を向けると、彼女は真面目な顔で小さくうなずいた。 「私もそうした方がいいと思うわ。理由はおいおい話すから、取りあえずお爺様の言う通りにして」 何て言うか、これは人生の転機ってやつかもしれないという気もしてきた。取りあえず、白峰さんとの仲が急接近したのはうれしい。 それと。 芦矢という姓を二人が知っていたことにも興味をもった。自分の血筋ではあるものの、この姓は僕にとってずっと謎だったのだ。 小学生のころに他界した祖母と母。この二人の女性のことを、僕はよく覚えていない。芦矢は、その人たちの姓だった。 (3) そんな奇妙な成り行きで、僕は九天流の道場に住み込んで修行する身となった。 最初のころは、格技場の片隅に正座して門弟たちの稽古を見学していた。 この流派は、基本的に試合のような形式で技を掛け合う「乱取り」はしない。ひたすら反復練習で技の形を習得する方式らしい。 門弟は、白峰さんをのぞく全員が男だ。高校生くらいに見える者も何人かはいるけれど、ほとんどは屈強の成人男性だった。体格もがっしりしていかにも格闘家という感じに見える。 そんな中にいかにも非力そうで小柄な少女が一人だけいて、しかも師範代として皆を仕切っている。ちょっと不思議な風景だったけれど、形稽古だから勤まるのだろうと最初は思っていた。 不良たちをあっという間に捌いてしまった姿は鮮烈ではあった。だから彼女が相当な技量の持ち主なのは知っているけれど、かと言って中学生の女子と大柄な熊みたいな男が、組んず解れつ稽古をするのは色々な意味で問題だろうと思う(ちょっと見てみたいけどね)。 門弟たちとはしだいに親しくなり、気さくに声をかけてくれる人もいた。ただ、稽古に誘われることはなかった。見学ばかりでどうするのだろうと思っていたら、半月ばかりが経過したころから、白峰さんが空いた時間に基本的な技の手ほどきをしてくれるようになった。 僕なんかじゃ白峰さんにはまるで歯が立たないわけだけれど、まがりなりにも彼女と道着を隔てて触れ合うことができるのは、夢みたいな幸せだった。体をかなり密着させることも多く、彼女の息遣いが耳を、かすかな汗の匂いが鼻をくすぐる。 何人かの門弟の、嫉妬を含んだ刺すような視線を感じたりもした。 「ちょっと驚いてるのよ、笠原くん。あなた、思ったよりずっと筋がいいわ」 そう言われたのは、秋の終わり。そのころには、他の門弟とも稽古をするようになっていた。本格的な練習にも取り組み始めたけれど、辛いとは思わなかった。 上達が実感できるようになると、もっと上を目指してみたいという欲が出てくる。上手くこなせない技を何とかマスターしたい一心で、何週間も懸命に稽古に打ち込むこともあった。「あまり無理するなよ」と、先輩たちに心配されたことさえある。 三年になると、進学のことも本気で考えなければならなくなる。 「白峰さん、どこの高校受けるの?」 ある時、聞いてみた。 「どうして?」 「え?」 「どうして、そんなこと聞くの?」 「いや……別に」 白峰さんはしばらく僕を見つめてから、不意に言った。 「笠原くん、今夜から一緒に受験勉強する?」 「ええ、今夜?」 提案が急すぎて驚いた。 「志望校は県立神伏高校」 「え?」 「あなたさっきから、えってばかり言ってるじゃない」 「そうかな」 「私の志望校は神伏。さっき、どこ受けるって聞いたでしょう? あなたも受ける?、神伏」 「神伏かあ……」 そんな気はしていた。白峰さんはこの頃は、以前にもまして頻繁に他の門弟たちとパトロールに出ていたから、地元の高校を選ぶんじゃないかと思ったのだ。 ただ、神伏高校は僕の学力よりワンランク上の進学校だった。 「私は神伏以外は受けないわよ」 白峰さんは、いつも学年で上位十番以内に入る秀才だったから(文武両道、才色兼備ってわけだ!)、受かる自信満々なのだろう。 「神伏、受けましょう。一緒に勉強してあげるから」 「う、うんっ」 がぶり寄りに、寄り切られた。 そんな会話をしてから一年後の、桜の咲くころ。 結論だけ言うと、白峰さんは勉強の教え方もやたらに上手いスーパーレディだった。 二人は揃って県立神伏高校の門を新入生としてくぐったのだ。 こうして僕たちの高校時代は始まったわけだけれど。 でも、好きな女の子と同じ高校に通い青春を謳歌なんて平和な日常は、神伏町からはとうに失われていた。 町の治安はますます悪化していた。もはや、用事もないのに一人で外出する一般住民は皆無だった。 町を徘徊しているのはもう不良グループなんて甘い連中ではなかった。武器を手にした危険なゴロツキ共だった。 「神伏の惨状、ここに極まれり!」 ある日、白峰老師範は道場に門弟を全員集め、厳しい面持ちで語った。 「これまでずっと、おぬしらを鍛えてきたのは、この日あるを予想したからじゃ。これまでも高弟諸君には町のパトロールに務めてもらったが、今日よりは体制を一新することとする。有吉くんの説明を心して聞くように」 それまで老師範の左後に控えていた細身の女性が、すっと前に出た(ちなみに、右後ろには白峰さんが立っている)。 進み出たのは、いつか老人の部屋にいたあの美人さんだった。有吉さんって言うのか。あれから何度か見かけたことはあるけれど、名前は初めて知った。いつもの和服姿ではなく、白いブラウスに黒のタイトスカートという姿だった。髪をアップにまとめ、アンダーリムの眼鏡がきらっと光る。 有吉さんは手にした紙の束を、居並ぶ門弟たちの最前列の者に配る。 「一枚ずつとって、後にまわしてください」 右から二列目、前から四人目に並んでいた僕も、一枚手にして残りを後ろの人に渡した。何だろうと思って見ると、A4のコピー用紙(再生紙)にワープロで印字したもので、左端に縦に「一番隊、二番隊、三番隊……」と書かれていて、その右横に「組長・何のナニガシ」、続けて数人の名前が書かれている。 「それが、今日からの新しい隊編成になります」 一番隊・組長は、やはり白峰眞弓と書かれていた。なぜか自分のことのように、ちょっと自慢したい気分になる。 次に僕自身の名前を探す……無かった。 ちょっと心外だ。今の僕は道場でも上から数える実力者と認められつつあるはず……だと思っている。まだ高校生だから危険な仕事はさせないということなら、白峰さんはどうなのだ。中二から危険な仕事をしていたぞ。 有吉さんが新編成の説明を始める。 「一番隊は、神伏高校の生徒会と連携をとって通学路を重点的に担当し、生徒さんの安全を図ってもらいます」 なるほど。一番隊組長の白峰さんは神伏高の生徒だから、よい布陣だと思う。なら、僕も一番隊に入れてもらうよう、後で直訴しよう。 それ以外の人たちの配置も、緻密によく考えられているようだった。有吉さんの説明が続く。老師範は腕組みし、時々うんうんと頷いている。白峰さんは……。 なんか拳を胸の前で合わせ、野球のバットを振るような仕草をしている。てか、あれはどう見てもバッティング・スタイルだ。 そう言えば、彼女は神伏町きってのカープ女子だった。去年あたりから広島カープは好調だから、今夜のナイターが気になるのだろう。それと、有吉さんの話がちと長いので、退屈しているみたいだ。 「以上です。何か質問ありますか?」 待ってましたと勢い込んで手を上げようとしたら、先に挙手した人がいて、 「はい、大河内さん」 有吉さんがシャーペンのお尻を向けて、指名した。 「近頃の神伏町の状況は、自警団くらいで対応できるレベルを超えていると自分は思います。町の人たちの安全を守るために体を張るのを厭いはしませんが、ここはもう警察に任せた方がいいのではないでしょうか?」 「もっともな意見です。ですが」 有吉さんの眼鏡がキラリと光る。 「込み入った話で簡単には説明できないのですが、神伏がここまで荒廃してしまった裏には、実はハッキリした元凶があるのです。そして、それは警察では対応できない性質のことなの」 「警察の対応できない元凶って、例の……」 発言者は、ちょっと躊躇うように口ごもった。 「市会議員の息子のことですか?」 「いいえ」 有吉さんは首を横にふる。 「……一つにはそれもありますが、その背後にさらに深く大きな諸悪の根源があるのです。それを断ち切らないかぎり問題は解決しません。そして、その諸悪の根源に対して公に対応しにくい原因は……非科学的すぎて、普通の人に話しても到底信じてもらえないようなことだからなのです」 門弟たちの間に、ざわめきが起こった。 「どういうことなのか、さっぱり分かりません。もっと理解できるように説明してもらえないでしょうか?」 「今はこの説明で納得してください。こんな訳の分からない理由で、あなたたちに危険なお仕事をお願いすることには忸怩たる思いを禁じ得ません。でも、もし協力してくださるのなら、あなたたちの尊い尽力をけして無駄にはしません。私たちは動いています。警察とも連絡は取っていますし、政府にも働きかけて多くの理解者を得ています。ただ、先ほどお話しした諸悪の根源を断つ責務は、芦矢の血脈を受け継ぐ九天流の私たちにあると考えます」 芦矢の姓が彼女の口からも語られたことに、ハッとした。 「警察や政府には、そのバックアップをしてもらう手筈です。主人公はあくまで、皆さんです。どうか神伏を救うヒーローになってください!」 有吉さんが握りしめた片手を天高く掲げると、門弟たちは一斉に「おう!!」と呼応した。 横を向いてアクビしていた白峰さんは、その怒号のような響きにビックリしたみたいで、こほんと咳払いして誤魔化している。 有吉さんは師範と何かヒソヒソ囁きあってから、 「他に質問は?」 涼しい顔で言った。 今度こそ僕の番だ。力いっぱい手を上げて、シャーペンを向けられた。 「ぼぼぼ、僕も、だいぶ力をつけて来たと自負しています。でも、このリストに名前が無いみたいなんですけど」 「そうね。あなたの名前は、外してあります」 「どどど、どうしてですか? 僕も町の人の役に立ちたいです!」 白峰老師範がうんうんと頷き、有吉さんはクスっと笑った。 「いい子なのね。頼もしいわ。でも、笠原くん、あなたには別の大切な役目があるのよ……眞弓ちゃん」 「ひゃい?」 急に振られたせいか、白峰さんは珍しく素っ頓狂な声を上げた。顔を赤くして、また咳払いする。 「まだ笠原くんに話してなかったの?」 「なんだ、まだ笠原くんに話してなかったのか」 老師範にまで言われて、白峰さん、小さくなってる。うっ、可愛い。 「……今日、話します」 「お願いね、眞弓ちゃん」 それは願ってもなかった。何の話か知らないけど、今夜にでも白峰さんにじっくり話して聞かせてもらおう。 「どこから話したらいいかなあ……」 白峰さんが僕の部屋に来るのは、受験勉強に打ち込んでいたころ以来で少し久しぶりだった。ベッドのはしに腰を下ろして、ぽつりぽつりと話し始めた。 「あなたの母方の姓……芦矢っていうのよね」 僕は勉強机の椅子をくるくる回すのを止め、緊張して耳を傾ける。 芦矢。 この姓が誰かの口から出たのは、この日、二度目だ。 「私の姓は白峰だけれど……ずっと古くは、私たち芦矢から分かれた家なのよ」 「……そうなんだ」 初耳だった。 芦矢の本家はたいそう古い神主の家柄なのは知っている。ただ、その神社は遠い他県にあり、僕の祖母はその分家の娘にあたる。その娘が僕の生みの母、旧姓・芦矢巫美子(ふみこ)。笠原宗次に嫁いで笠原巫美子となり、僕を生んだ。だから僕が幼少から少年時代を過ごした家庭は芦矢本家とはずいぶん縁が薄く、ほとんど興味もなかった。父の家は仏教だったから、祖母と母の葬式も普通に仏式で執り行われたのだ。 ――今でこそ本家はあっちになっているけどね……本当は神伏の芦矢が一番古いんだよ。 はっとした。 唐突に、そんな言葉が心に浮かんだのだ。 幼いころに聞かされた、祖母の言葉だったような気がする。 ――芦矢の者は、代々、朱鷺の巫女の鳥居を守ってきたんだよ。 くらっと、軽い眩暈に似た感覚におそわれる。 強い夏の陽射し。生い茂る樹木。蝉の声。 誰かに手を引かれ、幼い僕はそこに佇む。 目の前には、不思議な鳥居。 あの時、僕の手を引いていた人は、祖母だったのだろうか? ふと我に返ると、白峰さんはいつの間にかスマホを取り出して、指先で画面をいじっていた。 「……やった。新井さんが打った。逆転っ。菅野め、ざまあみろっ」 相手はジャイアンツか。 (4) 次の休日。 白峰さんと一緒に、町の図書館に行った。彼女は大きな空のボストンバッグを手にしている。 一番隊に所属する高弟の斎藤さんが、車で送ってくれた。護衛も兼ねているのだろう。腕に覚えがあるとはいえ、高校生二人の外出は今の神伏では危険なのだ。 図書館の中は照明がすべて落とされていて薄暗かった。今のような状況で図書館を利用する住民は居なかったから、ずっと休館になっている。町役場の許可を得た神伏防衛隊が臨時に管理しているのだった。 白峰さんは奥の方のコーナーに向かい、その区画だけ照明をつけた。郷土資料関係の書物が置かれたコーナーらしい。 彼女は書棚から一冊の本を抜き取り、僕に示した。 『神伏町史・別巻2 資料編(中・近世)』 目次を確認してページを開き、また僕に見せてきた。でも、それは難しい古文で書かれていて、とうてい読めやしない。 白峰さんが、内容をかいつまんで教えてくれた。 * * * それは、こんな物語だった。 昔、芦矢ノ原は朱鷺の巫女という神女に治められていた。 ところが或る時、ヤマハバキという蛇神が朱鷺の巫女を騙して、山奥の洞窟に閉じ込めてしまった。 朱鷺の巫女の霊力が弱まったため、芦矢ノ原に疫病が蔓延し、多くの人が死んだ。 そこへ、長い旅に出ていた朱鷺の巫女の弟タケルが帰郷し、閉じ込められていた姉を救い出した。 二人は、山の奥深くに御門を立て、ヤマハバキが現れるのを待った。 やがてヤマハバキが姿を現すと、朱鷺の巫女は自らの姿を弓に変え、タケルはその弓に矢を番えてヤマハバキを射た。ヤマハバキは御門に追い込まれ、黄泉の国に落ちていった。 朱鷺の巫女は、今度は美しい白い鳥に姿を変え、御門に止まってヤマハバキがこの世に戻ってこれないよう、今でもずっと番をしていると言う。 * * * 「鳥居をめぐる言い伝えは、この神伏には多く残っているわ。明治の初めころまでは、里山の麓に実際に大きな鳥居があったらしいの。鳥居って言ったら普通は神社が付き物って思うでしょうけど、その鳥居は神社も無いのに建てられていたのよ。火災で焼けてしまって、今はもう残っていないけど」 「よく知ってるね」 「朱鷺の巫女の伝説も、鳥居をめぐる色んなことも、小さい頃から耳にタコができるくらい聞かされてきたから」 白峰さんは、こともなげに言う。 「明治まであったその鳥居も、本当はもっと山の奥にあったものを中世に移築したものだとも言われているわ」 「それが……タケルと巫女が作った御門ってこと?」 「どうなんでしょうね。ただ……」 「ただ?」 「私、小さいころ鳥居を見たのよ」 「鳥居を……見た?」 白峰さんは机に両肘をつき、からめた指の上に顎をのせて遠い目になる。 「それが不思議な記憶で……鳥居があった場所の風景とかは何となく覚えているんだけれど、それがどこなのか分からない。よく考えてみたら、そんな場所、この町にあったかどうかさえ分からないの」 驚いて白峰さんの顔をじっと見つめた。僕の幼いころの記憶とよく似ている。 「それって……白峰さんが鳥居を見たのって、いつ頃のこと?」 「小学校の三年くらいよ」 それも、僕と同じだ。なんだかドキドキしてきた。 「それでね」 白峰さんは続ける。 「いつかその話をお爺様にしたら、それは芦矢の血を強く引くものの霊感が何かに反応したんだろうって言うの。お爺様自身には霊感はそれほど無いらしいんだけど、おまえは特別な存在だからって言われて、びっくりしちゃった」 「特別な存在って?」 「……うんまあ、それはね。そのうち話すわ」 なぜか言葉を濁された。 「それから、お爺様や有吉さんの力も借りて、いろいろ調べたの。そして、一つの結論に辿り着いたわ」 「結論って?」 「平和だった神伏の町がこんなにも荒んでしまった原因。朱鷺の巫女とヤマハバキの伝説。私が見た不思議な鳥居。それらは一本の線で繋がっている。そう考えるようになったのよ。そして、もう一つ。それらが繋がった直接の原因ね。笠原くん、覚えているかしら。私たちが小学三年生だった年、この町の近くを震源とする大きな地震があったことを」 「地震……そう言えば、あったかもしれないな」 大きいと言っても、震災になるほどの大地震では無かったから忘れていた。それでも、かなり揺れて子供心には恐かった、そんな地震があったのをぼんやりと思い出した。 「私たちが考えているのは、こんな物語。里山のどこかにヤマハバキを封印する何かがあって、そこに中世のころまでは鳥居が建てられていた。鳥居というのは二つの世界を隔てる門で、今は神社の境内を俗界から分ける象徴として建てられているけど、本来は神社だけのものではないの。里山の鳥居はヤマハバキを山に閉じ込めるために建てられたものだった。それは中世までには失われてしまったけれど、鳥居とセットで魔を封じ込めていた何かが、最近までずっと残っていたのだと思うの」 「鳥居とセットの何か……」 「だって、魔を封じ込める鳥居って、考えてみたらちょっと不思議でしょう? わざわざ門を作るのって逆なんじゃない」 「そんな気もするけど」 「ヤマハバキをこの世から黄泉の国へ追い出すために、まず門が必要だったのだと思うの。そして、その門を通ってもう一度ヤマハバキがこの世に戻って来れないように、門の下に何かが置かれていたんじゃないかな。鳥居が無くなっても、その何かは残ってずっと封印の役目を果たしてきた。私たちはそう考えている。ところが地震のせいで、その何かが損なわれてしまった」 白峰さんは指の上から顎を離し、悪戯っぽい魔女のような眼差しを僕に向けながら、顔を近づけてきた。 「そこで、笠原喬一くん」 「な、何?」 「ずばり。あなた、鳥居を見たことがあるでしょう?」 ぎょっとした。 「ど、どうして、そう思うの?」 「……ビンゴ?」 囁くように問いかけてくる。 「ビ……ビンゴ」 白峰さんは、神伏町史と他の何冊かの本をボストンバッグに放り込んだ。次に地下の書庫に下りて、そこでも数冊の本を物色してバッグに入れる。 「んしょ」 かなり重そうになったバッグを両手で持ち上げるのを見て、 「あ、僕が持つから」 そう言うと白峰さんは、ニコッと極上の笑みを浮かべた。 「そう? じゃあ、お願いするわ」 ボストンバッグのチャックが閉まらないほど書物を詰め込んでいて、男の僕が持ってもずっしりと感じた。本ってけっこう重い。 「ヤマハバキ関係の文献を、この際全部、道場の方に持って来ちゃってって、有吉さんに頼まれたのよ……ごめん、もう少し付き合ってね」 廊下に出て、別の部屋に入った。 灯かりをつけ、壁際の棚に置かれた細長い木箱を白峰さんは小脇にかかえる。 「それは……?」 「見たい?」 箱の蓋をあけて、ちらっと中を見せてくれた。納められていたのは、古めかしい感じの弓と矢だった。 「これは、朱鷺の巫女の弓矢と言われていて、白峰家に代々伝わってきたもの。二十年くらい前にここに寄贈したんだけれど、まさか、これを使う日が来るとは思わなかった」 道場に戻ると、白峰老師範がお呼びだと伝えられた。 白峰さんと二人で部屋に赴いたけれど、師範はしばらくは他愛ない世間話のようなことばかり口にして、一向に本題に入らなかった。 じれったくなって、水を向けてみることにした。 「図書館の方で、里山の鳥居のことを眞弓さんに聞きました」 「ほう。何と聞いたな?」 「ヤマハバキを封じた異界に通じる門なのだと」 「異界に通じる門か。有吉くんや眞弓は、そんなことを言うておるがな」 「師範は違うお考えなのですか?」 少し、意外に思って聞いてみた。 「二人の考えに異論があるわけではないが、儂には霊感がないから、そういう鳥居は見たことがないでな。別の鳥居なら見たことがあるが」 「……別の、鳥居ですか?」 当惑しながら白峰さんの横顔をちらっと見ると、彼女は何となく不機嫌そうな表情だった。 「お爺様、また、そのお話ですか? それは、もういいですよ」 白峰さんは呟くようにそう言うのだけれど、僕の方は聞きたくなってしまった。 「どんな鳥居なんです、師範?」 「儂の場合はのう、初恋のお花ちゃんと初めてまぐわった夜に、鳥居を見たのじゃ」 「はあ?」 呆れて、老人の顔をしげしげと見つめた。 お花ちゃん。その名前を耳にしたとき、かすかに心に引っかかるものがあったが、深くは考えなかった。 「……大人への門っていう感じですか?」 老人はからから笑った。 「まあ、そんなもんじゃ。人間の眼(まなこ)にうつるものなど、真にそこにあるか、夢幻の類か、区別などつかん。色即是空、空即是色。西洋の難しい言葉で、これをパプリカと言うそうじゃ」 パプリカ。 白峰さんと、顔を見合わせてしまった。 彼女はしばらく考えていたが、やがて訝し気な表情のまま問いかけた。 「もしかして……クオリアって言いたかった?」 「そうも言う」 言わないと思う。秀才の白峰さんがクオリアって言うんだから、きっとそっちが正しい。クオリアの意味は、後で部屋に帰ってからググってみよう。 「それはそれとしてじゃ」 老師範は、ムリヤリっぽく威厳をつくって言った。 「笠原くんは、眞弓が言う方の鳥居を、見たことがあるのではないか?」 図書館での白峰さんと同じことを聞いてきた。 「地震が起こった年にですか?」 「それもあるが」 老師範は首を横にふる。 「それよりも以前、里山の奥で君は鳥居を見たのではないかな?」 この問いには、本当に驚いた。 「どうして、そう思うんですか?!」 ずっと心の内に秘めてきた、自分自身でもあやふやな記憶なのだ。それをこの人たちは、どうして見透かすように言うのだろう? 僕の何を知っていると言うのだろう? 老師範は僕の反問には答えず、 「見たことがあるのだな」 そう言ってから、師範は白峰さんの方に視線を移した。 「眞弓。やはり笠原くんの力が必要になりそうじゃ。明日、二人で里山の麓に行きなさい」 「はい。お爺様」 「ちょっと、待ってくださいっ」 知らないところで、勝手にどんどん話を進められてしまう感じに、僕は憤った。 「里山の麓へ行って、何をしろって言うんですか?」 「眞弓と試合をしてみなさい。君が里山に入る資格があるかどうかの試験だ」 (5) 里山の麓に、遊歩道のめぐる自然を活かした公園がある。以前は住民の憩いの場だったらしいけれど、今はここも立ち入り禁止になっている。 「今の里山はとても強い瘴気が立ち込めていて、普通の人はとても入れないわ。言ってみれば、魔の汚染地帯。あっというまにヤマハバキに取り憑かれてしまう」 閉鎖された公園のゲートの鍵を開けながら、白峰さんが言った。 「お爺様や私、それにほんの数人の九天流の高弟は山に入ることができるわ。私たちの鍛錬は、ヤマハバキの瘴気を寄せつけることのない心気を養うことも目的の一つなの」 「白峰さんや、師範はすでにそれを達成しているってことか。僕は?」 「あなたももう大丈夫だろうと言う人と、まだ早いって言う人がいるわ。正直、私には判断できない。でも、ヤマハバキの封印のある場所を見つけることができるのは、あなただけだと私たちは考えているの。里山に入って、封印を見つける手助けをしてほしい。だから、今日は試験を受けてもらいます」 「試験って?」 「この公園は、ヤマハバキの瘴気がわずかに漏れ出している、低レベルの汚染地域なの。短時間身を置く程度なら、取り憑かれることはない。でも、ここで九天流の試合を行えば、たいていの人は魔に支配されてしまう」 「どうして?」 「九天流の道場稽古は表向きのもの。真の九天流は、その気になれば一瞬で人の命も奪うことのできる危険な武道なの。あなたも、もう薄々気がついているでしょう?」 確かに。 高弟たちにも一目置かれる技量を身につけた今の僕は、この流派の技が用い方をわずかに変えるだけで必殺の体術になり得ることを感じ始めていた。 「これが、九天流が抱え込んだ影の部分。諸刃の剣。この技を生半可に使う者は、ヤマハバキの瘴気に強く感応してしまうの」 「じゃあ、試験って言うのは」 「あなたがヤマハバキに取り憑かれることなく九天流を使いこなせるかどうか。それを試すのよ。果たせれば、晴れて免許皆伝ってところね」 「でも……もし、僕がまだ未熟でヤマハバキに取り憑かれてしまったら、どうなるんだ?」 「そのときは、私が鎮めるわ。私を信じて」 二人とも、道場を出た時から道着に着替えている。この日も車で送ってくれた斎藤さんが離れて行き、僕たちは樹木に囲まれた庭園で向かい合った。 足もとはわずかに草の生えた土の地面と、石畳の通路。互いに一礼し、白峰さんはこちらに視線を向けながら、左にゆっくりと歩き始めた。彼女はいつも、相手の周囲をまわるような動きから入る。相手が接近したら、当身を急所に軽く入れて体勢をくずし、関節を極めて水が流れるように捻り倒し、やんわりと押さえ込む。 最初の当身はダメージを与えるのが目的ではなく、崩して自分の流れに引き込むきっかけに使うのだ。急所を突くというより、人間の体の物理的な弱点を知り尽くしていて、それを軽く一押しする感じだ。 元よりそれは九天流の基本なのだけれど、人間の体の急所を白峰さんほど多く知っている人は、世界中に他に居ないのではないかと思えるほどなんだ。それは天性の資質という他はなく、老師範でさえ今の白峰さんと試合したら三本に二本は取られそうだと言っていたことがある。 そんな天才少女に僕ごときが勝てるのかって? 勝てないこともないと思っているよ。 そこに、危険極まりない九天流の裏の姿がある。 白峰さんの九天流は、相手を傷つけることなく抵抗力を奪うことを目的とする。謂わば、敵をも活かす愛の武道だ。 しかし、裏の九天流は違う。 時には当身一つで、敵を仕留めることもある。関節を極めるのも、白峰さんなら相手が逆らえない形で自然に押さえ込むように誘導する。しかし、裏の九天流は、そこでほんの少し形をずらして骨折させてしまうのだ。人を傷つけ、殺すための武道と言っていい。 技術そのものは、今の僕は白峰さんと紙一重だと思う。そして僕がここで仮に裏の技に走っても、白峰さんは裏で対抗しては来ないだろう。あくまで優しく包むように押さえ込もうとするはずだ。彼女の九天流は、そういう九天流なのだ。 そういう形の戦いになれば、僕にも勝機はあるはずだ。実践の場においては、愛よりも残酷さの方が強い。 お前は、白峰眞弓が好きなんだろうって? 好きな少女に、おまえはそんなえげつない戦いを挑むのかって? 白峰さんは、戦いに際して「私を信じて」と言った。彼女は僕が裏に走って仕掛けるかもしれないと承知している。それでも受け止め切ってみせるつもりなのだ。 僕はただ、余計なことを考えずに全力で彼女に勝つことだけを目指せばいいのではないか? まだ、互いに間合いを取りながら、相手の出方をうかがっている。 白峰さんの道着姿は、凛々しくてきれいだ。胸のあたりが柔らかくふくらんでいる。触ってみたい。 ふと思った。 僕は、白峰さんを傷つけたいわけじゃない。 むしろ、思い切り愛してやりたい。 あの道着を剥ぎ取って、白峰さんを裸にしてみたい。 柔肌の熱き血潮にふれ、しなやかな裸身を思うさま抱きしめたい。 僕は間合いをはずし、少し後ろに下がった。白峰さんが、意外そうな表情になる。 大きくのびをして、空を見上げた。青空に、白い雲が流れている。鳥の声が聞こえる。汗ばんだ頬に、風が心地よい。 僕は白峰さんの方に向き直り、まっすぐに歩き始めた。彼女は、戸惑ったように身構える。 何のことはない。ただ素直に、やりたいことをやればいいんじゃないか? 胸のふくらみに、すっと手をのばした。 もちろん、あっさり触らせてくれるはずもなく。手首を極められた。しかし、勝手が違ったのだろう。いつもの精密機械のような技ではなく、僕は人形のように無抵抗で地面に転がされたものの、白峰さんもほんの少し体勢をくずした。 僕は下から彼女の道着の肩のあたりをつかみ、強引に引き寄せて唇を重ねた。 顔を赤らめて、もじもじした感じで佇む白峰さんを、僕は地面に胡坐をかいて見上げた。 「もうっ。これって、試合なの?」 「僕はそのつもりだけど」 こんなんで本当によかったのかなと自分でも思うけれど、怪我をさせるつもりで仕掛けるよりはいいんじゃないだろうか? 「実戦的って言えば実戦的なのかなあ。びっくりしちゃったから、あの後すかさず畳みかけて攻撃されたら、私、ぼこぼこにされてたかも」 いい作戦だったって、一応褒められてるのかな。 「あなたってとっさの思いつきで動くと、ときどき天才的ね。中学生のころ、不良にからまれてたでしょ? でも、私が危なかったとき、一生懸命戦ってくれたわよね。あのタックル、物の見事に決まってたもんね」 まだ覚えていてくれたのか。あの時は、無我夢中だったな。 「膝の裏を巧く押さえたのがよかったのよ。まぐれだったのかもしれないけど」 白峰さん、技術指導をはじめた。僕は立ち上がりながら、 「こんな感じ?」 彼女の膝から太もものあたりを両手で抱えた。必然的に、太ももの付け根あたりに顔を押し付けることになる。 白峰さんが、あっと小さく声をあげた。そのまま、しなやかな体を持ち上げる。 「ちょっと、笠原くんっ」 白峰さんは不安定な体勢になり、僕の頭に両手をかけて身を支えた。 「……このへん、下が石畳だから」 「石畳だから、何?」 「このまま後ろに倒されたら、死んじゃうかも。だから……優しくして」 甘えるような囁き声で、言われた。 もう、たまらんっ。 柔らかい草むらに移動して、彼女の体をおろした。そのまま押し倒した。白い道着の襟元が乱れ、首筋から肩への線がのぞいている。鎖骨のくぼみに汗が光る。彼女の両方の襟を乱暴につかむと、 「笠原くん……やめてっ」 白峰さんは身をよじって、逃れようとした。でも、その動きも声音も、弱々しかった。 誰かに見られているような気がして、顔を上げると。 そそり立つ鳥居を、僕は見た。見たような気がした。それは、一瞬の白日夢だったのか。もう一度、目を見開くと、草むらに風が吹いているばかりだった。 僕たちは、大人へのゲートをくぐった。 (6) ヤマハバキの瘴気に取り憑かれたせいだなんて、卑怯な言い訳はしない。 ただ、頭が正常ではなかったのは確かだ。 白峰さんは嫌がって抗ったのに、僕は彼女のそんな仕草さえ誘っているのだと思い込んだ。あの時は、本当にそう思ったんだ。 僕はサイテーだ。 車の横で待っていた斎藤さんに、彼女は何があったのか話しはしなかった。車の中でもずっと口を閉ざして、ただ窓の外を流れる景色に視線を向けていた。僕の方を見向きもしなかった。 道場につくと、彼女は老師範への挨拶も上の空な感じで、自分の部屋に引きこもってしまった。 師範は僕に、試合の首尾はどうだったのかと問いかけた。 「すみません、今は何とお話ししていいか……少し頭を整理する時間をいただけないでしょうか?」 「そうか」 師範は、それ以上は追及しなかった。 いったん部屋に入り、じっとしていると、斎藤さんが夕食を運んできてくれた。 「今夜はいいから、ゆっくり寝すみなさい」 この人は何かを察しているのだろうか。それだけ言って戻っていった。 あまり食欲がなかったけれど、 「腹がへっては戦はできぬ……か」 そう呟いて、むりやり喉に流し込んだ。 そう。僕は戦をしなければならないのだ。 夜半を過ぎるころ、そっと部屋を抜け出した。足音を立てないように気をつけながら、暗い廊下を歩いた。 玄関を出ると、 「どこに行くの、坊や?」 声をかけられて、びくっとした。 振り向くと、有吉さんが壁に寄りかかって腕組みをしていた。 「どこだっていいでしょう? 僕の自由にさせてください」 「ガキンチョが生意気言ってんじゃないよ。どこへ行くつもりか白状しないと、大声を上げて道場の全員を叩き起こすよ」 それも困る。 「……里山に」 「そう」 有吉さんは微笑して腕を解き、歩み寄ってきた。 「男なのね。安心したわ。送っていってあげる」 「でも……」 「いいから。少し君と、お話ししたいこともあるから」 僕は九天流の道場を離れる決心をしたのだ。白峰さんとも、もう会わないつもりだ。彼女に取り返しのつかないことをしてしまった。これからも彼女のそばでのうのうとしていることなんてできない。 でも。 道場を去る前に、やらなければならないことがある。これをしないで去れば、後には裏切りしか残らない。 封印のある場所を見つけだす。師範と白峰さんは、僕にはそれができると考えていた。ならば、やってみるだけだ。 「有吉さん」 ハンドルをにぎる横顔に向かって、躊躇いながら声をかけた。 「なに?」 「師範が前に、初恋のお花ちゃんって言ってたことがあるんです。それって……芦矢花っていう人ですか?」 「やっぱり気づいていたのか。その通りよ」 芦矢花というのは、祖母のフルネームだ。 「師範とお花様の関係は、お二人が若いころのほんの数年のこと。その後、お二人とも他の方と正式に結婚された。でも、お二人の間には一人子供が生まれているの。それが、眞弓ちゃんのお母さん」 「え……じゃあ?」 「眞弓ちゃんは、小学校三年生までは中路眞弓という名前だった。その名前で、九天流に入門してきたの。小っちゃな可愛らしい妹弟子ができたって、あの頃、道場の男共は沸き立っていたものよ。でも、その可愛い女の子は稀にみる武道の天才だということが分かり、養子縁組で白峰の家に入ることになったの。師範は今でもときどき、あれにはお花ちゃんの血が流れているからって言うわ」 白峰さんにも、祖母の血が流れている。ということは―― 「待ってくださいよ、じゃあ、僕と白峰さんは……」 「察しがいいのね。でも、安心しなさい」 「え……?」 「日本の法律では、いとこ同士は結婚できるから」 「え、いや。そんなことを言ってるんじゃ……って言うか、結婚って、そんな」 有吉さんはチラッと視線を向けて、微笑した。 そして、また話をつづける。 「芦矢花という方は、明治以来の芦矢家の中できわだって霊力の強い人だったの。朱鷺の巫女の再来という人さえいるわ。お花様は、ヤマハバキの封印がどこにあるかも知っていらしたらしいの。でも、お花様が亡くなったのは地震で封印が壊れる前だったから、今起こっているような事態は予測できなかったはず。だから、封印の場所をあまり人に教えたりしないで、むしろ人知れずひっそりと山の中にあった方がいいとお考えになったのかもしれないわ。ただ、亡くなる少し前に、幼い孫にだけその場所を見せたことがあるって師範に言い残したの」 だから師範と白峰さんは、僕が鳥居を見たことがあるんじゃないかと聞いてきたのか。 「じゃあ、僕が不良にからまれていたところを白峰さんに助けられたのも、偶然じゃあなかったってことか。道場に誘われたのも……結局、全部はじめから仕組まれてたってことなんですか?」 「そこは、半分くらい、正解。お花様のお孫さんにあたる人は君たちの他にもいるし、最初は雲をつかむような話だったのよ。でも調べてみたら他のお孫さんたちは皆、他県に住んでいて。笠原さんの家族も遠くに引っ越して行ったのに、君一人が残っているって分かって、びっくりしたわ。放っておくわけにもいかないっていう理由から、最初、私たちは動いただけ。でも、道場に来た君の様子を見ているうちに、私たちは君こそがお花様が言い残した『鍵をにぎる少年』なんじゃないかって思うようになったの」 里山の麓についたとき、あたりはまだ暗かった。 「少し仮眠をとるといいわ。ほとんど寝てないんでしょう?」 「こんな気分で、眠れるかなあ」 背もたれを倒してもらい、目を閉じた。いつのまにかウトウトしたらしく、気がついたら空が白み始めている。 車から降りようとする僕に、有吉さんが紙袋を差し出した。バナナが二本と紙パックの牛乳が入っていた。 「台所に行ったら、他に持ち出せそうなものがなくて。少し、食べたら?」 「……いただきます」 道場を出発するとき、彼女が「あ、ちょっと待ってて」と言って中に入って行ったのを思い出した。今の神伏に開いているコンビニなんかない。色々と、よく気がつく人だ。 腹ごしらえをして車を後にする。有吉さんは、もう声をかけてこなかった。 僕は少し歩いてから、彼女の方を振り返った。 「あの……ありがとう」 有吉さんは微笑んで、軽く片手をあげた。 山道の入り口は、黄色い金属のフェンスでふさがれている。工事現場とかによくあるやつだ。でも、これは通行止めの意思表示程度のもので、その気になれば乗り越えられないものではない。 しだいに明るくなってくる山道を、僕は登っていった。険しい山ではない。町が平和だったころには、幼い僕の足でも登れたくらいだ。ただ、樹木が多くて見通しのきかない道が長くつづく。たまに樹々が切れる場所があり、朝もやにつつまれた町の風景が見下ろせた。いかにも静かで、殺伐としたものを感じることはできない。 道は途中まで一本道だから、間違えることはない。 最初の分かれ道に差し掛かったところで足を止め、目を閉じて心を静め、じっと神経を集中した。 鳥の声。かすかな風の音。 そして。 感じる。 肌がひりつくような、嫌な気配がまといつく。これが、ヤマハバキの瘴気か。 (お婆ちゃん……僕がこれから進むべき道を教えてくれ) 一心に呼びかけた。それは目の前で二つに分かれる山道のことなのか、別のことなのか、自分でも分からなかった。 ふと目を開けると。 分かれ道に、一人の小さな少女が佇んでいた。年は九つか十くらいだろうか? 白いワンピースを着て、顔は大きな麦わら帽子にかくれてよく見えなかった。 服装はセンスが古い感じで、いつか写真集か何かで見た昭和の雰囲気があった。両手を後ろにまわして、足元の小石を蹴って無心に遊んでいる。 どこか儚い姿だった。 「君は誰?」 問いかけると、少女はほんの少しこちらに顔を向けた。麦わら帽子のひさしの下からのぞいた面ざしは、白峰さんに少し似ている気がした。 少女はにこっと口元に笑みを浮かべ、黙って右の道を指差す。 そして、樹木の間の暗がりに吸い込まれるように姿を消した。 道を進むにしたがい、瘴気が強まるのを感じる。それが逆に道しるべになった。もう道が分かれていても迷うことはない。 そして、祖母に手を引かれて歩いた、幼い日の記憶がしだいに蘇ってくる。 この道で間違いない。 やがて、視界の広い草むらに出た。 草むらの中心に四~五メートルはありそうな、大きな岩があった。よく見ると、岩には縦に亀裂が走り、その両側で少しだけずれているようだった。 そのまわりに、凄まじい瘴気が渦巻いている。 記憶が鮮明になった。 あの大岩をまたぐように、大きな鳥居がそそり立っていたのだ。岩は、鳥居の向こう側から何かが通ってくるのを塞ぐように、そこに置かれていた。 僕はしばらくそれを見つめ、それから踵を返した。 見つけた。 僕の役割は終わった。後はこの場所を有吉さんに伝え、道場を去るばかりだ。 しかし、僕はその草むらを後にすることができなかった。 戻ろうとした山道から、数人の男が姿を現したのだ。服装や背格好はまちまちだが、どの男も瘴気をまといつかせている。チェーンや鉄パイプを手にして、じりじりと迫ってくる。 身構えて後ずさり、背後に視線を走らせた。 他の道にも、いつのまにか似たような連中が立ちふさがっていた。 冷や汗が流れた。こいつらと戦わなければ、無事に山を下りることはできないらしい。しかし、相手の数は二十人近い。全員倒すことなんて、できない。どこか一角を崩して血路を開くほかなさそうだ。まだ男たちが分散している今しかチャンスはない。 腹をくくった。最も人数の少なそうなところを見定める。 「神伏防衛隊、出撃!!」 気合がわりに叫んで、全力で疾しった。 一人が鉄パイプを振り下ろしてきたのは、難なくかわした。 道を塞いでいる男に身を寄せ、急所を突いて崩し、手首と肘の関節を極める。投げて押さえ込むなんてことをしているヒマはない。可哀想だが、腕を折った。 山道に走り込もうとして、足が止まる。 道の先に、さらに二人待ち構えていたのだ。 一瞬ためらったのが、失敗だった。 後ろから腰のあたりに組み付かれた。とっさに体をひねり、そいつの背中に両手を当てがって、体重をかけて押しつぶした。身を起こそうとする視界に、木刀を振りかぶって迫る姿がうつった。 避けきれない。やられる。 覚悟したとき、僕とそいつの間にすっと割って入った人影があった。 木刀を持った男の体が、宙を半回転して地面に叩きつけられる。 こんな豪快な技を使うのは。 「――斎藤さん!」 精悍な日に焼けた顔が、にやっと笑いかける。 その横を小柄な姿がすっとすり抜けてきて、僕の手をつかんだ。 「こっちよ」 白峰さんが短く言い、そのまま僕の手を引いて大岩のある草むらの方に進んだ。その片手に図書館の資料室から持ち出した弓矢が握られている。 「白峰さん、どうしてここにっ?」 男たちの集団は突然の乱入者に混乱したようだったが、鉄パイプを構えて僕たちに迫ってくる一人もいた。 その男の向う脛が何かにはらわれ、男はつんのめって倒れた。 「バカねえ」 有吉さんが笑いかける。手にしているのは、稽古用の木製の薙刀だ。 「あんな時、バナナだけ取りに行くわけないでしょう? 師範と眞弓ちゃんたちに仔細を伝えて、その後も連絡を取り合っていたのよ。ヤマハバキの瘴気はスマホの電波には影響ないみたいね」 有吉さんは薙刀を頭上でくるくる回して構えなおし、さらに襲ってくる男二人を鮮やかに打ちのめした。つ、強ええ。 見渡すと、師範と他の一人の高弟の姿も目に入った。皆、戦っている。襲ってくる男たちが僕たちに近づけない動きをしているのが分かった。 大岩を前にして白峰さんは僕の手を離した。 「山から脱出するのはムリ。ヤマハバキに取り憑かれた人たちが、山中ウジャウジャいるわよ。でも、今がチャンス。ここで仕事をすませてしまいましょう」 弓を手渡された。 一瞬とまどったけれど、弓を強く握りなおした。 「わかった。何をすればいい?」 「見て」 大岩に視線をもどして、僕は息を呑む。 そそり立つような鳥居が、岩の上に出現していたのだ。 鳥居の周囲は、樹木に囲まれた山の中の風景。でも鳥居の内側には底知れない闇があった。その中に、何か怖ろしいものが蠢く気配を感じる。 「磐座(いわくら)は割れはしても砕け散ったわけではないから、ヤマハバキはまだこちらに出ては来れない。瘴気で磐座を侵食して、結界を破ろうとしているの。今なら、追い返せるわ」 「どうやって?」 「私を信じて」 弓を持つ手に、白峰さんの手が添えられた。構えて矢をつがえ、鳥居の向こうに蠢くものを狙って引き絞る。矢を引く手にも、白峰さんの手が添えられた。 触れ合った肌を通して清浄な気が流れ、全身をめぐるのを感じた。潮が満ちるように、静かな力が胸に高まってくる。 「笠原くんの気が流れてくるのを感じるわ」 耳もとに、白峰さんの囁きを聞いた。 「私の気と合わせて、この一矢に込めるの。できる?」 一瞬、とまどった。そんなふうに気を操ったことなんてない。でも―― 白峰さんの気と、僕の気が絡み合う。それに身をまかせるうち、不意にできると感じた。 二人の気が一つになって引き絞る矢に流れ込んでいくのが分かった。 「そうそう。勘がいいわ」 白峰さんが巧みに誘導してくれる。 「放つわよ。笠原くん、合図して」 「神伏防衛隊!」 とっさにこれが、口をついて出た。 「「出撃!!」」 ぴったり合わせてくれた! 放たれた矢が闇を貫いた瞬間、あたりは白光につつまれた。 目がくらみ、再び瞳を開いたときには、鳥居も闇ももう無かった。 瘴気が急速に消えていくのを感じる。それに合わせて、取り憑かれていた町の人たちが糸の切れた人形のように力なく地に倒れていく。 * * * 災厄の元凶は、取りあえず鎮まったらしい。何年も混乱していた町の状況を元に戻すのは大変だろうけど、そのことについては政界にも顔の広い師範に考えがあるようだった。取りあえず呪縛の解けた町の人たちの手当てをしなければならず、門弟たちに指示を与えている。 「なんて言っても、笠原くん大手柄よ。君は、町を救ったのよ。わかってる?」 有吉さんが近づいてきて、くしゃっと頭を撫でられた。 「その薙刀……かっこいいですね」 町を救ったなんて実感はないし、どう答えていいか分からなかったから、そんなふうに返すと。 「これ? 見ての通り、ただの棒っ切れよ。久しぶりにこんなもの振り回したから、腰が痛くなっちゃった。今日はもう上がらせてもらって、マッサージでも行きたいなあ。君も大変だったでしょう? 道場に帰って休むといいわ」 「いえ……僕はもう」 言いよどんだ。 もう九天流には戻らないなんて、言い出しにくい雰囲気になってしまった。 「まさか、笠原くん……道場をやめるなんて考えてないでしょうね?」 急に恐い顔をして睨まれた。 「え、笠原くん、やめちゃうの? どうして?」 白峰さんが驚いたような声を上げる。 「いや……だって。白峰さん、僕を恨んでないの?」 「え……?」 問いかけるような眼差し。でも、僕が何のことを言っているのかは察したようだった。 「恨むなんて、そんなこと……」 視線を落とししばらく考えてから、不意に顔をあげた。 「恨んでなんかいないけど……でも、責任取ってくれなかったら、一生恨んで恨んで、呪い殺しちゃうからっ」 「こわいな」 白峰さんは視線をそらし、また視線をもどしてにこっと笑った。敢えて笑ってみせた。そんな感じだった。 「冗談よ……笠原くんは、私のことなんか気にしないで自由にしていいのよ」 僕はそんな白峰さんを見つめ、心を決めて彼女の腕をつかんだ。 そっと引き寄せ。 驚きで薄く開いた形の良い唇を、唇でふさぐ。 彼女は一瞬びくっとしたけれど、すぐにその体からすうっと力が抜けた。 ややあって身を離し、 「僕の自由な心で、君が好きだ」 そう言うと彼女は、こくっと小さく頷いた。 「それにしても……さっきは、よくとっさに合わせてくれたね」 「え……?」 「神伏防衛隊」 「「出撃っ」」 もう一度ハモって、顔を見合わせ、かるく吹いてしまった。 「だって、聞こえたもん、一人で戦いながら叫んでる笠原くんの声が」 「あちゃあ、聞こえちゃったのか」 「え、ダメなの? けっこう、いいなって思ったんだけど」 「かなあ?」 「でも、神伏防衛隊も、もう解散ね」 僕たちは、磐座の方に視線を向けた。 そばに近づいてみる。 「あ……」 白峰さんが驚きの声をあげた。 「亀裂……無くなってるね」 「本当だ」 生々しかった割れ目は、きれいに痕跡さえ残さず消え去っていたのだ。これも、朱鷺の巫女の力なのだろうか? どちらからともなくその岩肌に手をあて、顔を見合わせた。 二つに割れてしまったものが、もう一度一つになる。 あたりの風景は穏やかな陽射しにつつまれ、何事も無かったように静かだ。 「これで……何もかも本当に終わったってことなのかな?」 「ううん、違うわよ」 振り向くと、いつの間にか背後に立っていた有吉さんが、微笑みかけながら言った。 「これから始まるのよ。あなたたち二人の物語が」 (了) |
あまくさ 2017年08月13日 23時39分37秒 公開 ■この作品の著作権は あまくさ さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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