デモンズゲート・レガシー |
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三十分以上続いた死闘も、いよいよ決着がつこうとしていた。 「こしゃくなり、勇者共ォォォォォ!」 全身に傷を刻まれながらも巨剣を振り回す甲冑の大男こそ、魔王四天王最後の一人たる魔道将軍その人だ。 ドラゴンすらもたやすく葬るこの難敵を前に、勇者率いる魔王討伐隊は一歩も引かず奮戦している。 「焼け死ぬがいい、人間!」 魔道将軍が大きく開いた口から、超高熱の地獄の炎が一気に解き放たれる。 まともに浴びれば勇者といえど骨すら残らない。しかし魔王討伐隊は一切動じることなく動いた。 「――神よ、我らに加護を!」 純白の槍を振り上げて若き女僧侶が高らかに告げれば、顕現した神の力が柔らかな光の衣となって勇者たちを包み込む。 一見すると頼りなげに見える光の衣は、しかし、炎の灼熱を受け止めてその高熱をほぼ完全に遮断していた。 「シャープネス、クイックネス!」 直後、詠唱を終えた青年賢者の魔法が成就する。 前衛である勇者の少年と大柄な戦士の速度が増した。相手が行動を終えたその隙に、一気に肉迫する。 「ぬゥ……! 真っ二つにしてくれる!」 魔道将軍は一瞬だけ、驚きに怯みはしたものの、すぐさま反応して巨剣を振り上げた。 「ウガァァァァァァァァァァァ!」 雄叫びと共に、勇者に先んじて戦士が突っ込んでいく。 甲高い衝突音が戦場に響き渡り、盛大に火花が散った。 振り降ろされた敵の巨剣を、戦士がバトルアックスで打ち返したのだ。 「グ、オオ……!」 さしもの魔道将軍も、この反動に大きく体勢を崩した。 「そこだぁぁぁぁぁ!」 見えた勝機。今こそ勇者が、手にした伝説の剣を振るう。 斬撃に、音はなく―― 「……俺を倒す、か。……コフッ」 ただ、胴を横薙ぎに切り裂かれた魔道将軍が、その一言と共に血を吐いたのみだった。 「見事なり、勇者よ……。だが魔王様を倒せる、かな……?」 「倒してみせるさ。おまえだって倒せた。魔王だって、倒せる」 「クッ、驕ったものよ……。人間風情が、我らが主をどうこうできると、でも……?」 「できるかどうかじゃない、俺たち四人で魔王を倒す!」 「そうか。ならば挑め。そして後悔しろ。あの方こそは、この俺など及びもつかぬ、恐怖の盟主。地獄の帝王……!」 「そんな恐怖で、俺たちの絆を断ち切れると思うな!」 「ク、クハハハハ……! もはや何も言うまい……! 魔王様、万歳!」 そして命尽きた魔道将軍の巨体が、真っ白い炎に包まれて消えていく。 魔王四天王はここに潰えた。残す相手は、魔王のみ。 将軍が消え果てたのち、戦場となった大広間は静寂に包まれていた。その最奥に、禍々しい装飾が施された大きな門がある。 左右それぞれに、見上げる必要がある大きさの悪魔の衣装が彫り込まれた漆黒の門だ。 「あれが、デモンスゲート、か……」 さすがに緊張を隠し切れず、勇者は息を飲んだ。 過去の勇者の伝説にも必ず登場する、魔王城の象徴とも呼べる門だった。 幼いころに聞いた伝説の門が、今、目の前にあるのだ。 「何と、冒涜的な……」 女僧侶が門を見上げる。伝説の門は、ただあるだけで見る者に圧倒的な重々しさを感じさせてくる。 「なんという瘴気……。こうして前にしているだけでも、汗が止まりませんね……」 賢者は言って、自身の左腕を右手で抑えた。 ついにここまで来た。その実感に、勇者の背筋も冷たくなっていた。 いるのだ。この門の向こうに世界を闇に落とし込まんとした最大の巨悪、魔王が。 「ウガー!」 だが、そこから漏れ出る重い空気を一蹴するかのように、戦士がバトルアックスを掲げた。 勇者は知っている。戦士はいつだってこうだ。なんというか、いい意味で空気を読むことを知らないのだ。 この場面でもなお場の重さをたやすく吹き飛ばす戦士の豪快さが、今は頼りになった。 それに、戦士だけではない。 「皆さま、体のお加減はどうですか? いよいよなのです、状態は万全にしていなければ」 女僧侶がそう言って、回復魔法を順々に施していく。 さすがに疲労が溜まりつつあった勇者の肉体の隅々まで、心地よい暖かさが広がっていった。 「これで、大丈夫ですね」 一通り回復を終えて、女僧侶ははにかむような笑みを見せる。 この闇の底にも等しい場所で、しかし今も汚れなき可憐さを魅せる女僧侶の微笑みに、勇者の頬が赤く染まった。 「あ、ああ、大丈夫だぜ!」 取り繕うように笑って、彼は視線を賢者の方に向けてごまかした。 「賢者、何か作戦はあるか?」 「現時点では、何とも言えませんね。しかし、実際に魔王の部屋に入ればどうとでもなるでしょう」 こともなげに、賢者はそう言ってのけた。 「どうとでも、って。そんな行き当たりばったりな……」 「そうでもありませんよ。我々であれば、どんな状況でも対処できますよ。今みたいに、ね」 絶対の自信を見せつけてくる賢者に、勇者は感嘆する。 さすがはパーティーの精神的支柱にして知恵袋。彼がいなければ、自分たちはここまで辿り着けたかどうか。 「よし……」 賢者の言葉にうなずくと、勇者はゆっくりと仲間三人を見渡した。 戦士と、女僧侶と、賢者と、自分。 間違いない。彼らと自分であれば、魔王を討ち果たすことができる。 これまで苦楽を共にしてきた、真の絆を紡いだ仲間であるからこそ、勇者はそれを確信していた。 再び見上げたデモンスゲートに、今さっきまでの迫力は感じない。 むしろ、高揚感こそがあった。 「みんな、準備はいいな?」 「ウガー!」 戦士がバトルアックスを再び掲げた。今こそ決戦のとき―― 「あ、ちょっと待ってください」 だが賢者が勇者たちを止めた。 「賢者、どうした?」 「最後の戦いです。念には念を入れて、装備の再チェックをしておきましょう」 「……ああ、そうだな」 そこまで気を回すとは。さすがだ、と勇者は思った。 ここに来るまでに酷使してきた装備品に何か異常が起きていれば、それが敗因になるかもしれない。 賢者と呼ばれるだけはある。勇者はこの場でもそこまで考えを及ぼせる彼にあこがれを抱かずにはいられなかった。 そうして数分後、全装備のチェックを終えて、魔王討伐隊は再び大門の前に立つ。 「みんな、準備はいいな?」 「ウガー!」 戦士がバトルアックスをみたび掲げた。そう、今こそ真に決戦のとき―― 「あ、ちょっと待ってください」 だが女僧侶が勇者たちを止めた。 「女僧侶、どうした?」 「最後の戦いの前です。魔王は運命を操るという噂もあります。神に祈りを捧げて幸運を招きましょう」 「……ああ、そうだな」 ここでそれに気が付くとは。さすがだ、と勇者は思った。 魔王が運命を操るという話は、勇者も聞いたことがあった。 かの魔王は運命を操り、絶望を食らい、嘆きの涙でのどを潤すという。 その恐るべき存在を前にして、人の力だけではどうしようもないことだってあるかもしれない。 きっと女僧侶はそこまで思い立って、今、降りかかる苦難を前に祈りを捧げているのだろう。 彼女の細やかな心配りは、勇者としても感嘆せずにはいられなかった。 そして数分後、女僧侶が入念に祈りを捧げて、魔王討伐隊はみたび大門の前に立つ。 「みんな、準備はいいな?」 「ウガー!」 戦士がバトルアックスをよたび掲げた。そう、まさに今こそ真に決戦のとき―― 「あ、ちょっと待ってください」 だが賢者が勇者たちを止めた。 「……え、賢者、何?」 「魔王を討ち果たすのは我々であるという証拠に、この部屋の壁に私たちの名前の寄せ書きをしましょう」 理解できないことを言われた。勇者はさすがに賢者に問い返す。 「え、それすることに、何の意味が?」 「ありますとも。重要で重大な意味が」 賢者は堂々とした態度で、しかも確信めいた口調で答える。 「このまま我々が魔王を討ち果たして王国に戻れば、確実に『本当に魔王を討ったのか』という連中が現れます」 「え、そんな……」 「いえ、あるかもしれませんわね」 すぐには信じられなかった勇者だが、女僧侶も賢者の言葉を肯定した。戦士は、この間も「ウガー!」しか言っていない。 「勇者様には酷な話ですが、世の中には人の成功を妬む者が必ず一定数存在するのです」 「……ああ、そういえば」 言われて思い返してみれば、人間の中にも勇者たちを陥れようとした者はいた。 勇者にとっても忘れられない記憶だ。 「ええ、ですから賢者様は寄せ書きを提案されたのでしょう」 そっと、勇者の痛みを包み込むように、女僧侶が彼の手を優しく握った。 「そうだな。分かった」 勇者は短く言って、うなずいた。自分の未熟さを賢者と女僧侶に教えられた気分だった。 「少し時間はかかるかもしれないけど、俺たちの名前を壁に刻み込んでやろう」 「ええ、そうしましょう」 そして四人は、近くの壁にそれぞれの印を刻み込んでいく。 勇者と賢者は己の名を。 女僧侶は祈りの言葉を。 そして戦士は「ウガー!」を、「!」付きで。 「……うん、まぁ、どう見ても俺たちにしか刻めない印だよな、これ」 いささか趣のある刻印だが、これほど確かな証拠も他にあるまい。 例え王国に戻って自分たちの魔王討伐を疑う者が現れても、この刻印がある限り、その事実は消えない。 「よし、これでいいな」 「そうですわね」 「ええ、私達の手で世界に平和を!」 勇者に続くようにして、女僧侶と賢者も声をあげる。 「みんな、準備はいいな!」 威勢よく勇者が言えば、それに続くように戦士がバトルアックスを掲げて、「ウガー!」、と―― 「…………」 バトルアックスを掲げて、「ウガー!」、と…… 「……あれ?」 ちょっと待っても戦士の声は聞こえない。と、思ったら、 「あ、あの、ちょっと待ってください」 声を小さく震わせて、彼はおずおずと手を挙げていた。 「え、あれ、戦士って喋れ、た……?」 「ト、トイレ……」 「え?」 「すみません、その、おなかが急に痛くなってきて、トイレ、トイレ……、どこかにありませんか……?」 バトルアックスを床に落とした戦士が、腹に両手を当てて腰をクネクネさせている。 「ああ、トイレならあっちの通路の突き当りにありますよ」 「私達は待っていますから、行ってらっしゃいませ」 賢者と女僧侶がそう言って戦士に促した。 「すみません、行ってきます!」 「あ、はい。どうぞ」 勇者だけが何となく取り残されて、しきりに頭を下げてくる戦士を敬語で見送った。 爪先立ちになった戦士が、モジモジクしつつトイレのある通路へと急ぐ。 すごく、歩幅が狭かった。 彼がいなくなり、そこに静寂が訪れた。 「…………え、あれ戦士?」 そうしてやっと、我に返った勇者があふれる疑問を口にする。 「そうですよ?」 「そうですわ?」 賢者と女僧侶が、さも当然と言わんばかりの答え方をしてきた。 「待って、まず戦士って喋れたの?」 「喋れますわよ? 別に蛮族出身というわけでもないんですから」 「でもさ、いつも戦士、その、『ウガー!』ってしか言わないじゃん? ……言わないじゃん?」 「まぁ、そうですね」 「もしかして、何か事情が……?」 「キャラ作りの一環だそうですよ」 「待って」 あっさり答える賢者を、勇者はさすがに手で制した。 「え、何? 今、何て? あの『ウガー!』は……?」 「キャラ作り」 「ウソやん!?」 勇者の口調が崩壊した。 豪放磊落にして頼れるパワーファイターという戦士に対するイメージが、このとき、危篤状態に陥った。 「待って待って、理解できない。あれ、女僧侶も賢者も知ってたの? ねぇ?」 「ええ、知ってましたよ。元々私たちは勇者と出会う前からの仲ですから」 「いや、そういえばそうだけど……、でも、えぇ~……?」 疑問。疑問。また疑問。理想と現実の軋轢に勇者「待って」を連発する。 そんな彼の肩を、女僧侶が優しく叩いた。 「勇者様、彼はですね」 「あ、うん」 「チキンなのです」 慈愛に満ちた眼差しで、突き刺すような物言いだった。 「緊張したらすぐ胃に来て、腸に来て、整腸剤が欠かせず腹痛だけが友達の、気弱な小心者のチキン野郎なのですわ」 「加えて、自分が豪快な戦士とでも思いこまなきゃ戦えないようなヘタレのビビリのチビリでもありますね」 「あの、パーティーで一番、豪快で、勇敢な……」 「「何でやねん」」 「ツッコミどころだったのかよぉ!!?」 勇者がこれまで出したこともないような悲嘆の声を響かせたとき、戦士が戻ってきた。 彼は土下座していた。 「…………は?」 固まる勇者が見ている前で、戦士は土下座の体勢のまま指とつま先だけで滑らかに地面を移動する。 「速度がキモいスラローム!?」 「すみませんでしたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」 あっという間に勇者の足元まで来て、戦士、魂の謝罪を叩きつけてくる。 「申し訳ございません。申し訳ございませぇぇぇぇぇぇぇぇん! わたくし如きのために貴重な時間を費やしていただいてしまったこと、誠に申し訳ございませんでした! かくなる上はこの不出来なわたくしめの腹を掻っ捌いて地面に埋まって謝罪文を提出することで償いとさせていただきたく存じますううううううううう!」 「ちょっとトイレに行ったくらいで大げさすぎ、って、順番が猟奇的過ぎんだろぉ!」 「申し訳ございません、申し訳ございませぇぇぇぇぇぇぇん!」 戦士はひたすら謝り倒し、ゴッスンゴッスンとその頭を床に打ち付けた。 床に亀裂を入れながらのその土下座に、勇者も思わず叫ぶ。 「いいから、もういいから!」 戦士の動きがピタリと止まった。 「お許し、くださるのですか……?」 おそるおそる、戦士が顔をあげて勇者を見上げた。視線がぶつかって、勇者の頬に汗が伝う。 「いや、そんなトイレ行っただけで怒るとか、ないから」 しかし彼は自分が怒っていないことをありのまま伝える。 「…………」 「…………」 無言のまま、二人はしばし見つめ合った。 「ウガー!」 「だがそのキャラは手遅れ」 「あ、はい」 掲げたバトルアックスが引っ込められた。 「終わりましたかしら?」 タイミングを見計らって、女僧侶が声をかけてきた。 「おまえらはおまえらで何やってんだよ?」 勇者が見てみると、女僧侶と賢者はいつの間にやら壁一面に文字やら絵やらを刻み込んでいた。 「もちろん、私たちが魔王を討ったという証拠の補強です」 「寄せ書きどころか壁画じゃないかな、これ」 「見てくださいまし、勇者様。ここから千年に渡る神聖勇者帝国の興亡が始まるのですわ」 「何話目だその壁画ァ!?」 「第三十二章百五十四話その二十七でしてよ」 「無駄に長ェし!!?」 「ウガー!」 「戦士は戦士で隙見てキャラ取り戻そうとしても遅いから」 「あ、はい」 掲げたバトルアックスが引っ込められた。 「はい、もういいだろ。もういいよな! はい壁画やめやめ!」 勇者がパンと手を打って、女僧侶と賢者の手を止めさせた。だがすでに、壁画は完結していた。 「我が生涯最高の仕事、ここに達成せり」 「魔王討伐後に使ってくんねぇかなぁ、その言葉!」 「洗って干して乾いたばかりの下着をはき直したが如き爽快感ですね」 「く、そこまでの……!? ってやかましいよ!」 ちょっと分かってしまいそうになる勇者でもあった。 しかし、いつまでもこんなことに時間をかけるわけにもいかないのだ。 「もういいよな。さすがにもう準備はいいよな?」 言いつつも、人のいい勇者はそこで少しだけ待ってしまう。 「ちょっと待ってください」 そして女僧侶が勇者を止めた。 「……マジでぇ?」 勇者はイヤそうな顔をするが、しかし、女僧侶の優しい微笑みには一片の曇りも見られない。 「また、お祈り?」 「いいえ」 「じゃあ、装備の再チェック?」 「いいえ」 「じゃあ、なにさ」 「ほんの少しの、お仕置きを」 「はい? おしお――」 女僧侶の微笑みが横にブレた。 重要なのは、どのような動きをとろうとも体の軸、つまり体幹を揺るがさないことである。 身を支えるのは左足のみ。床を踏みしめるブーツを甲高く鳴らしながら、右足は身体を振り回す振り子と成す。 下半身だけではない。上半身も肩と腕を使って思い切りひねりを入れて回転力をさらに増すのだ。 全身がそのまま勢いに乗れば、振り回される右足は鞭の如くしなって、鋭く空を切る音が一瞬だけ鳴る。 直後に、女僧侶の右回し蹴りが戦士の左こめかみを撃ち抜いていた。 スパァン、という、濁りのない音がした。 「き?」 と、勇者が言い終えると同時、白目を剥いた戦士がそのまま糸の切れた人形のように崩れ落ちた。 「…………」 目を丸くした勇者が、その丸くしたままの目を戦士から女僧侶に移す。 「何しよっとね、あんたぁ?」 思わず地元のなまりが出た。 「何、と言われましても」 ガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガス。 「今さっき申し上げました通り」 ガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガス。 「勇者様の前で惰弱な本性を見せてしまった」 ガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガス。 「不届き者に、見ての通りの」 ガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガス。 「ちょっとしたお仕置きをですね――」 「分かったから止めろ! 残像ができる速さで戦士を蹴り続けてるその足を一回止めろ!」 ガスガスガス。 ガスガスガス。 ガスガスガスガス、ガスガスガス。 「リズム刻んでんじゃねぇ!」 「――仕方ありませんわね」 言ってようやく、女僧侶は足を止めた。不変の微笑みをたたえるその顔に、血しぶきの跡が点々と散っていた。 戦士が蹴られていたのは顔面のみで、その顔は鼻血や裂傷で真っ赤に染まっていた。あまりにも、無残だ。 「う、う……」 身を痙攣させて小さくうめく戦士を見て、勇者の顔つきがきつく険しく歪み果てた。 「……何、してんだよ」 握った拳が怒りに震えるのを抑えることができない。勇者は、女僧侶を鋭くにらみ据える。 「おまえは、この大事な場面で何してんだよ!」 「勇者……」 後ろから賢者が肩をつかんできた。諫めるつもりなのだろう。 だが、勇者の怒りはもはや頂点に達していた。 苦難を分かち合ってきた仲間を無情にも足蹴にするその行ない。断じて許せるものではなかった。 例え賢者であろうとも、この怒りを止めることはできないだろう。 「戦士が絶頂寸前です」 「え」 勇者がそっと戦士を見てみる。 「……う、う、うほ。お、おほっ。ぎ、ぎ、ぎンもぢいいひ、ぃひ、……いぐ、イ、イッヂャウ。ぉほ、ほ、うひ」 痙攣し続ける男の股間はふっくらしていた。 「ウォラァッッッッ!」 「ふぁいてぃんぐえくすたしぃ!?」 渾身のヤクザキックが、戦士の鼻っ面にめり込んだ。 床の上をバウンドする巨体を見送って、勇者は激しく肩で息をする。 「何なのこれ? キモいんだけど? スッゲーヤバくキモいんだけどさぁ!」 その語彙力は死んでいた。 「大丈夫ですわ、勇者様」 楚々とした態度で、女僧侶が呼吸を何とか整えようとする勇者の前に立って言う。 「戦士は前からああです」 「っぽいね!」 「ついでに言うと、彼が前衛になったのもあれが理由です」 「だろーね!」 納得するしかなかった。 「あー……」 思考を放棄して、勇者の頭は真っ白になっていた。何だこれ。割と本気で何だこれ。 「女僧侶、頬に血がついてる。こわい」 そして今さらそこに気づいた。 「あら、戦士さん?」 「ハイッ、ただいま!」 フラついていた巨漢が石柱みたいにピシッと姿勢を正し、女僧侶の方に駆け寄っていく。 「失礼します!」 戦士は、女僧侶の頬についた血を自分の舌でなめて拭った。 「誰がそこまでしろと言いましたか」 いかつい顔面ど真ん中に、女僧侶の微笑みエルボーが深々と突き刺さった。 「ありがとうございますッ!」 戦士はまたもや歓喜と共に吹き飛んでいった。 「……女僧侶って武道家だったっけ?」 「そんな……。こんな手弱女に何を言うのですか、勇者様ったら……」 「戦士の顔面クレーターなんだけど」 「お待たせしました!」 顔面がクレーターな戦士が、顔面がクレーターなまま戻ってきた。 「おまえも大概頑丈だな?」 「最高でした……。抉り込むような躊躇と容赦ののない一撃に、女僧侶さんの卓越したサディズムが迸るようで……」 「股間をふっくらさせんじゃねぇ! こっちの精神的退路がいよいよ断たれる!」 「…………? ……こうですか?」 戦士は土下座の構えをとった。 「根本的に疑問を覚えるポイントが違ーう! 魔王を! 倒すの! 俺たちが! いいかげんにしろよ、もー!」 癇癪を起して地団太を踏みまくる勇者を前に、戦士と女僧侶は互いに顔を見合わせた。 「魔王は倒しますよね?」 「ええ、魔王は倒しますわよ? 当然ではありませんか」 二人は勇者を見た。 「「大丈夫?」」 「よーしわかった黙れ。いいから黙れ。とにかく黙れ。口を閉じて鼻を閉じろ。呼吸は目からのみ許す!」 人体の限界を超えた勇者の無茶ぶりに、戦士と女僧侶はひとまず言われた通りに口を閉ざした。 勇者も深~くため息をつくと、魔王の部屋へと続くデモンスゲートを見上げる。 よ、久しぶり。とか言いそうになってしまった。 「いや違う、そうじゃない。行くぞ、みんな。準備はいいな」 ケジメをつける意味もかねて、勇者はそう尋ねる。 ここまでで随分と気勢も削がれてしまった。魔王を倒すという使命感に曇りはないが、気分的なものもある。 しかし、例え戦士がアヘる方だろうと、女僧侶がアヘらせる方だろうと、それ自体はどうでもいいのだ。 重要なのは切り替えだ。 今こそ気分を切り替えて、魔王討伐という自身の使命を全うするべく―― 「ちょっと待ってください」 だが賢者が勇者を止めた。 「…………」 ドロリ。グズリ。ネチョリ。と―― 勇者の腹の底に、何か、言いようのない得体のしれない黒くネバついた感情が湧き起こる。 そうか。きっとこれこそが、人が人に対して抱く、殺意という感情に違いない。 「……ど・う・し・て・も・か?」 ギチギチと鳴る噛み合わせた歯の隙間からうまい具合に発音し、勇者は賢者に質問する。 だが、悪鬼羅刹を前にしても賢者はひるむ様子も見せず、ペコリと頭を下げてきた。 「申し訳ありません。緊急で念話が入っているようでして……」 念話とは、遠くにいる相手と会話できる魔法だ。 便利ではあるが、開発されたばかりの魔法で使い手はまだそう多くはない。 そして、その使い手のほとんどが賢者が魔王討伐に参加していることを知っているはずだった。 なのにこの土壇場に念話をかけてくるとは。甚だ迷惑な話である。 ただ、もしかしたらよほどの緊急事態が起きてしまったのかもしれない。 生来のお人好しでもある勇者はそんなことも思ってしまって、眉間に漆黒の谷間を思わせる深い溝を刻みつつも、 「二分。二分以内な」 結局、賢者の念話を許可した。 「ありがとうございます。すぐに終わらせますので」 賢者が「私です」と念話を開始した。 二分。たった二分だ。 しかし実際に待ち始めるとこれがすこぶる長かった。 腕を組む勇者の右足つま先が、気を紛らわせるためにタンタンと床を踏み鳴らし始める。 タンタン。 タンタン。 タンタンタタン。 タンタンタン。タンタンタン。タンタンタン。 タンタンタン。タンタンタン。タンタンタンカカッカッカカッ。 タタンタンタタン。カッカカッ、タン。タタタンタタタン。カカッ。 いつしか、勇者のそれはタップダンスになっていた。 彼の靴は戦闘にも耐えられるよう補強してある。それが、この冷たい石床と非常にマッチしていたのだ。 苛立ちの中に刻まれるリズムは軽快で、重苦しい闇に立ち向かう勇者の躍動を表現していた。 そう、表現は自由だ。 音一つ使って曲を奏でるのも、言葉を駆使して詩を綴るのも、全て等しく表現の技法でしかないのだ。 芸術とはつまり、表現なのだ。 そこに決まりごとなんてない。法なんてない。何もかもが自由な、それは青い空なのだ。 ああ、そうだったのか―― 石床を踏み鳴らし、人の生き様を思うがままに表す勇者の心は今、誰も見たことのない真理の風景に到達した。 「そうか、そうだったのか……。表現とは、自由とは――」 カカッと床を踏みしめて勇者はそっと天を仰いだ。 そして女僧侶に尋ねてみた。 「二分経った?」 「まだです」 「クソァ!」 見えた真理は消し飛んだ。 「大丈夫ですか、勇者様」 女僧侶が心配げに声をかけてくる。 「見ての通り、かつてないほどイライラしてる」 「そんな……」 「あと、すっごい悩んでる」 「まぁ……。どのような悩みかは存じませんけれど……」 「主におまえと戦士についてだよ」 「あら……」 「…………」 「勇者様」 「なんだよ」 「パフパフします?」 「どうせなら魔王との戦いでバフバフしてくれね?」 ちなみに女僧侶は巨乳だ。 「…………」 「…………」 「女僧侶」 「はい?」 「魔王討伐したら、記念に、いいっすか?」 「あらあら」 所詮、勇者も男の子だった。 「――私です。……ああ、あの件ですか」 勇者の股間がふっくらしたところに聞こえてくる、賢者の話し声。一体、どんな用件なのか。 ちょっとだけ気になって、聞き耳を立ててみた。 「……なんですって。まだ処せていないのですか」 「処すて」 「…………ふぅ」 賢者がこぼしたため息は、どこか呆れたような声色だった。 「任せてから何日経っていると思っているのですか? 私の配下に無能は必要ありませんが?」 冷ややかな物言いだった。聞いていた勇者の腕に、鳥肌が立つ程度には。 「……なんか怖い。賢者怖くない?」 「仕方がないですわ。賢者も、大きな組織のボスですから」 「え、ボス?」 「ええ。裏社会の人間って表では正体を隠しているものでしょう?」 「え、裏社会なの!?」 「……初耳でした?」 「……初耳でした」 「…………」 「え? え? あの、女僧侶?」 「……私は何も言っておりませんわ」 「やめて、そこで目をそらさないで。あまつさえ顔色悪くしないで! 説得力しか感じれなくなる!」 悲鳴をあげる勇者の耳に、冷めきった賢者の声がかすめた。 「一日待ちましょう」 「ひっ」 「それまでに処せなかった場合、餌にされるのは……、フフフ、言わずともわかりますね?」 「…………」 口をパクパクさせながら、勇者はついと女僧侶を流し見た。 「…………」 見られた女僧侶はついと戦士を流し見た。 「…………」 戦士はニヘラと笑った。 「はぁッ!」 女僧侶渾身の右肘がその顔面に突き刺さる。 「なんでさ!?」 「けへぇ……」 戦士が幸福そうなのはこの際無視することにした。 「お待たせしました。勇者様」 「ひぎぃ!」 背後から賢者に呼ばれ、勇者は姿勢を正した。危うく、財布を差し出すところだった。 「あ、もしかして聞こえてしまってましたか。お恥ずかしい」 少し照れた様子で、「参ったなぁ」と後ろ頭をかいている賢者は、それだけ見れば好青年であった。 「……ボスなの?」 そこへ、思考の余裕すらなくした勇者、単刀直入のこの質問。 「さして大きくもない、ちょっとした自警団みたいな組織ですよ」 あ、これマフィアとかそっち系だ。 「好きなお酒は?」 「血のように赤いワインです」 「好きな猫は?」 「ふわっとした長毛種の猫が好きです」 あ、これ黒幕とかそっち系だ。 「…………」 「……勇者様?」 「……さ、財布」 「いりませんよ!?」 「……ホント?」 疑心暗鬼に満ちた勇者に、賢者はちょっと苦笑しつつかぶりを振って、 「そんな、巻き上げるようなことはしませんよ」 「そっか~……」 勇者はそれを確認し、安堵から長く息をついた。 「ええ、だって勇者様にはまだたくさん利用価値が――、ンッ、ゲフンゴフン」 「お前今なんつった?」 「さぁ、勇者様。全ての憂いは晴れました。あのデモンスゲートの向こうにいる魔王を討ち果たすときなのです!」 賢者がマントを翻し、決然とした態度で大門を指さした。 だが勇者の顔に浮かんでいるのは乾期の砂漠のような表情だった。 「むしろ憂いの規模が大きすぎて俺の処理限界をとっくに超えてる件については?」 「人生とはあまねく自己責任なのです!」 「主に人間関係についての憂いしかねぇんだよ、クソが!」 「悩みは一人で抱えるものではありません。人は誰かに頼ってもよいのです!」 「おまえ前言と今とで矛盾してるのわかってる?」 「賢者として言いましょう」 「……何だよ」 「――嘘も方便、と」 「カッコよくキメつつ言ってる中身は最低じゃねぇかコンチキショー!?」 「さぁ、決戦前のコミュパートは終わりです。今こそ、我ら三人が紡いだ絆と、愛と、勇気で、魔王を倒しましょう!」 「おまえ強引に話終わらせて――おい、今誰省いた?」 「戦士です!」 賢者は堂々と言い放った。 「何でだよ! 戦士も仲間に入れてやれよ!?」 「戦士は借金返済のための労働に従事してもらっているだけですので」 「紡いだ絆は!?」 「それって就労に関する雇用契約以上に重要なんですかね?」 「せめて舌の根乾かせよ!!?」 「そもそも絆の中に戦士は含めていませんので!」 「してやったりヅラすんな!」 吼える勇者の腕を、戦士ががっしりと掴んだ。 「勇者様、もう、いいんです」 戦士は瞳を揺らしながら、うつむき加減にそう言ってきた。 「戦士、だってお前……」 「元はと言えば、俺自身が悪いんです」 自嘲気味に言うその声は、小さく震えていた。 「戦士……」 「妻も子もいるのに、ギャンブルに狂って、俺……」 「え? 妻と子? 妻子? 妻子いるの?」 ギャンブルよりそっちの方が気になった。 「はい、妻とは幼馴染で……、結婚したのは二年前。息子は、去年生まれました」 気恥ずかしげに言う戦士へと、勇者は一言述べた。 「それなのに女僧侶に踏まれてえくすたしぃなのか、お前……」 ドンビキだった。 「お恥ずかしいことですが、不幸には抗えても、幸福には逆らえないっていうか」 「そっかー、幸福なのかー、そっかー……。本気で恥ずかしいな、お前」 バッサリと切って捨てる勇者、この場面で、辛辣。 「エヘヘ……」 だが戦士は幸せそうに顔を赤くする。勇者の反応も残当といえた。 しかしそれからすぐに、戦士の顔に陰りが差した。 「こんなだから俺……、ダメなんですよね……」 「おい、戦士……、やめろよ、そんな深刻な……」 「この二年間、あいつには苦労ばっかりかけてて、それなのに自分はこんなで……」 戦士はその大柄な体を震わせていた。声はもはや泣きそうだ。 勇者は思う。 確かに戦士はこんなであんなだが、しかしきっと性根は腐っていないのだ。 自分を省みようとすることができる人間は、その先に辛苦があったとしてもと立ち直ることができる。 勇者はそれを信じていた。そして、戦士に伝えようとした。 「あのな、戦士。でもおまえは今、こうしてしっかりと働いてるじゃないか」 「ええ……」 「だったら、さ。今度こそやり遂げろよ。……な?」 「そうです。そうですよ。俺、今度こそ……!」 「ああ!」 「今度こそそれを元手にしてギャンブルで一発デカく当ててやるんですよ!」 「おい」 戦士の性根は腐っていた。 「ギャンブルは勝つまでがギャンブルですからね! そうでしょ、勇者様!」 「おまえと結婚した奥さんが人生というギャンブルに負けたんだなってのはよくわかったよ」 「なぁに、大丈夫大丈夫! 一発当てればそれだけでこれまでの負け分も取り戻せますって!」 「今までの戦績は?」 「勝率九割八分です!」 「胴元のだろ?」 「そうです!」 「おまえの勝率二分じゃねーか!」 「そうとも言えますが、大丈夫です! 勝ち目はある!」 「ゼロに等しいっていうんだよぉ!」 「大丈夫です! この勝率はこれまでの統計と緻密な計算からはじき出した確かな結論です!」 「つまりは『戦士は勝てません』って結論でしかねぇじゃんかよ!?」 「大丈夫です!」 「おまえよく自信満々でいられるな!?」 「勝負はハッスル! 無性にハッスルですから!」 「何を言っているのかは一切わからないが何を言いたいのかだけは異様なまでに伝わってくる……!」 「負けてもまた賢者さんに借金すればいいだけですよ!」 「それは何の保険にもならないよね?」 「それでダメなら家族を質草に入れればOKです!」 「控えめに見積もってもその言動は人間のクズなんだがなァ!?」 「あ、勇者様、勇者様」 「……何だよ、賢者」 賢者がそっと、勇者に耳打ちしてきた。 「奥様は戦士を被保険者にした生命保険に加入されています」 「え」 「受取人の名義は奥様です」 「え」 「戦士はそれを知りません」 「……ドロドロすぎない?」 渡る世間が鬼多発地帯すぎて、勇者は戦慄を禁じえなかった。 「いや、待て待て、なんで戦士が知らないことを賢者が知ってるのさ」 「奥様に生命保険への加入を勧めたのは私ですので」 「おまえはおまえでひっどいな!?」 「ビジネスのチャンスは逃すべきではないでしょう?」 「俺たちが紡いだ絆……」 「ハハハ、お上手ですね勇者様」 賢者は笑って肩をすくめた。 「え? え? なんですか。二人だけで内緒話とかずるいですよ、俺も混ぜてくださいよ」 戦士が寄って来ようとする。賢者は片手で髪をかき上げて、ちらりと女僧侶を見た。 「せい!」 うなずいて彼女が放った掌底突きが戦士のみぞおちに見事炸裂。ドゴン、という爆音が場を震わせた。 「ヌほぉぉぉぉぉぉぉ♪」 戦士は床と水平に吹き飛んで、激突した壁にクレーターを作って深々とめり込んだ。 それを見た勇者が、顔を青ざめさせる。 「ねぇ、本当は武道家なんでしょ? そうなんでしょ?」 「いやですわ、勇者様ったら。私は見ての通りのか弱い女僧侶。偉大なるアルマドウス神の忠実なるしもべですわ」 「床に放射状のヒビ入れてる人が何だって?」 つぶさに状況を観察していた勇者だが、戦士についてはもう一切言及しなかった。 女僧侶はフゥ、と小さく呼吸を整えて残心を解きながら、 「……仮に。もし仮に、私に戦う能力があるとしたら、それは私の信奉するアルマドウス神のご加護ですわ」 「アルマドウス? アルマデウスじゃなくて?」 アルマデウスというのはこの世界で広く信仰されている主神のことで、神々の王とされている天空神のことだ。 今まで、勇者は女僧侶もこのアルマデウス神の司祭だとばっかり思っていたのだが―― 「まぁ、勇者様ったら、それは勘違いですわ」 どうやら、違うらしい。 「アルマドウスなの?」 「アルマドウス様ですわ」 「何かパチモンっぽくない?」 「失礼ですわね。そんなことはありませんわ」 「え、カルト?」 「コォォォォォ……」 「やめてその呼吸やめて。構えないで死点を見極めようとしないで、内臓破裂は勘弁して!」 勇者は戦士ばりに見事な土下座をキメてみせた。 そんな彼を、女僧侶は威厳たっぷりに見下ろしてくる。 「カルトではありません」 「はい。アルマドウス様はカルトじゃありません」 「そう、カルトではありません。確かに知名度の上ではまだまだ低いかもしれませんが、アルマドウス神はカルトではないのです。新規入信者様に壺と印鑑の購入を進めるなど、信者に優しい宗教なのです」 「あれ、それってカルトじゃね?」 カルトだった。 「カルトではありません! 時代の先を行く最新のモードですわ!」 「古式ゆかしい霊感商法じゃねーか!」 「まぁまぁ、それくらいにしておきましょう。勇者様も。ね?」 そこに賢者が割って入ってくる。 だがそんな彼へと勇者が向けるのは、一の恐怖、一の疑念、八の警戒だった。 「……誰処すの?」 「処しませんって」 賢者も少し困ったように言いつつ、小さく首をかしげる。 「そんなに信じられませんか? 私のこと」 「俺たちの冒険で築き上げた信用が全損状態になる程度にはいろいろあったよね、この数分で」 「よかった。まだ取り返しがつきますね」 「全損だっつってんだろ!?」 「勇者様、個人間の感情における信用などというものは、ちょっとした行動一つでどうとでも修繕できるものなのですよ」 「その言葉でお前に対する信用がいよいよ取り返しがつかなくなっちまったぞ!?」 「では私が信じる私のことを信じてください」 「結局お前だろうが、それ!」 「大体ですね、勇者様――」 「クッソー、こいつ、肝心なところでスルー力が高ェ……! 賢者は聞こえているはずだったが、だが反応するつもりを一切見せずに自分の言葉を続けていった。 「女僧侶が信じる神様なんて、私や勇者様にとってはどうでもいいことじゃないですか」 「どうでもいいて」 「要は、結果が得られればいいのです。女僧侶は回復魔法が使える。その現実さえあれば、お題目なんてどうでもいいのですよ」 「神に仕える、清らかな聖女……」 「夢は夢でしかないのです! 現実を見ましょう!」 「朗らかにトドメ刺してきやがったな!?」 一方、壁にめり込んでいた戦士が床を這いずりながら女僧侶の足元に戻っていた。 「う、うおおぉ~……、女僧侶様ァァァァァ……、この哀れなブタめにお慈悲をォォォ……」 「仕方のない子ですわね」 女僧侶は首を傾げて頬に手を当てると、すがりついてくる戦士の顔面に血に染まった靴底を叩きつけた。 グチャアッ、メチャアッ、という生々しい音が勇者と賢者の耳に届く。 「――仲睦まじい光景だと思いませんか?」 「あれを見てそんな感想抱けるほど俺の感性は末法の世じゃねぇんだけど……」 「まぁ、戦力としては有用ですし?」 「戦力として以外に問題しかない気がするんだけどさぁ!」 「その辺りは少しだけ目をつむればいいんですよ」 「どっからどこまで? 「出自・経歴・職業・人格・感情・趣味・性癖・言動・行動・人間関係、くらいですね」 「全部って言うんだよ、それは!」 これまでで最も大きな声で雄叫びをあげて、勇者は自分の髪をグシャグシャに掻きむしる。 「あああああああああああああ、もうどうするんだよこれェ!」 「どうしようもありませんね」 「どうしようもなくしたのはおまえら全員じゃねぇか!」 「これも社会経験ですよ、勇者様!」 「魔王城まで来てウキウキ社会見学してる場合かァ!?」 「勇者は社会に対する経験値を手に入れた!」 「それでレベルアップしても上がるのはておまえらへの不信度だけだよ!」 「またまた、上手いこと言ったつもりですね~」 「上手いこと記憶消せないかなってずっと悩んでるところだわ!」 そして、勇者は「あ~……」と締まりのない声を出しながら肩を落とした。 「あー、気分転換。そう、必要なのは今のこの気分を切り替えることだ。女僧侶が戦士の顔面を蹴ってる音とか聞こえない。聞こえなーい!」 自分の耳に指を突っ込んで、身近に響き続けている生肉がつぶれる音を遮断した。 「賢者って何で魔王討伐隊に入ったのさ!」 「え、私ですか?」 「そうそう。賢者が俺の仲間になってくれた理由」 「私が賢者になる前、遊び人だったのは覚えていますか?」 「ああ、そうだな。最初は遊び人で、そっから経験を積んで賢者にクラスアップしたんだったな」 「ええ。組織のボスとは言っても社会的には無職扱いだったワケです。その方がいろいろとやりやすかったからですが」 「あーあー、その辺の事情は聞こえなーい!」 「……まぁ、とにかく遊び人でした」 「うん、遊び人だったね!」 「遊び人だったので、恥ずかしながら夜の街などで遊びほうけていたワケでして」 「うんうん」 「そっちの方面でちょっとは名の知れた存在だという自負がありまして」 「うんうん」 「で、そっち方面では私、【魔王】と呼ばれていまして」 「うんうん。……うん?」 「私以外に魔王と呼ばれる存在がいる、というのが目障りなので排除するために勇者様の仲間になることにしました」 「……ふ、ふ~ん」 勇者の顔は青ざめていた。 「そういう理由です」 明るく笑う賢者を前に、勇者は思う。 こいつこそ、魔王として倒すべき存在なのではないか、と。 「あ、私を倒すと人間社会にかなり大きな影響出ますからねー」 「人の心を読んでんじゃねぇ! ……っておまえの組織どんだけだ!?」 「ウガァァァァァァァァァァァァァァァァ!」 脈絡なく、戦士が斧を振り上げた。 「キャラ作りはいいっつってんだろ!?」 「あ、違いますわ、勇者様。ちょっと蹴りすぎてしまいまして、脳内麻薬でお花畑なだけですわ」 「その花畑に農薬まいてやろうか……!」 「いや、これはチャンスですよ、勇者様」 賢者が、この状況に千載一遇の勝機を見出した。 「そうですわね。戦士がセルフトリップしている今こそ、彼が最も実力を出せる瞬間でしょう」 「さぁ、勇者様、今こそ魔王を討ち果たすのです!」 「私達の絆の力を叩きつけて差し上げましょう」 「ウガァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!」 戦士がバトルアックスをこれまでで最も高く掲げた。そう、今こそが最後の決戦のとき―― 「ちょっと待ってくれ」 だが勇者が三人を止めた。 賢者と女僧侶の視線を受けて、彼は決意と共に告げた。 「勇者、おうち帰る」 そして人類は敗北した。 |
6496 2017年08月11日 00時00分11秒 公開 ■この作品の著作権は 6496 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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