お姉ちゃん(哺乳類霊長目ヒト科)卵を産む |
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注:ちょっとエッチです。 〇 「ねえひーくん。お姉ちゃん卵産んじゃった」 とかなんとか哺乳類霊長目ヒト科の姉貴が言いやがったので、部屋で寝ていた俺は「はぁ?」と目を剥いて起き上がる。 姉貴は上半身だけパジャマを着て、下はパンツすら穿かないで股やら腿やら放りだしていた。この双子の姉には昔から素っ頓狂なところがあって、十七歳になった今でもたまにこういう訳の分からない恰好で姿を現す。聞けば本人なりに理由はあるんだけれど。 「なにおまえ? アタマ大丈夫? 脳みそと間違えてカブトムシゼリーでも頭蓋骨に入れてんの?」 「違うもん本当だもん。そんな酷いこと言わないでよ」姉貴はぶるんぶるん首を振るって泣きじゃくった顔で俺の手を引く。「付いて来てよぅ」 「下なんで何も穿いてないの?」 「だから卵産んだんだってば」 「俺の記憶が確かなら姉貴は哺乳動物だったと思うけど」 「本当なんだよー。ねえひーくん見に来てよー助けてよーあたし怖いよー」 そう言って縋るような眼を向ける。しょうがなく、姉貴の部屋である八畳間に向かう。姉貴の部屋でもあり元は俺の部屋でもあって、俺が寝ていた二段ベッドの下の段も未だ昔のまま放置されている。 姉貴は下半身裸のまま上の段に登った。俺が続く。 卵があった。 いやまあ卵は所詮卵であって、それこそ鶏の奴みたいな色と形の、大人の拳くらいの大きさの卵のような物体でしかない。オモチャだと言われればそれまでなんだけれど、おかしいのはその卵の周辺の様子である。 薄いピンク色の妙な汁みたいなもんがベッドの一帯にまき散らされていて、シーツで吸い込みきれずに水たまりを作っている。さらにその近くにはえぐい紫色の塊みたいなもんがひしゃげた形で落っこちていた。明らかに尋常な様子ではない。 「なにこれグッロっ」俺は顔をしかめる。「身体大丈夫か姉貴?」 「分かんない。卵と一緒に出て来たんだよ」 良く見れば姉貴の股やら腿やらに、ベッドにまき散らされているのと同じ汁がへばり付いている。紫色のカスも同様に。パンツも履いてない姉貴の下半身なんか凝視できるかって話だから今気付いた。 「羊水と胎盤ってか? なんで卵を産むのにそんなもんが出る訳? 出産じゃあるまいに」 「そんなのあたしに言われても分かんないよ」 「どっから出たのこれ?」 「おまた」 「マンコか?」 「うん」 姉貴はちょんと頷く。 「朝方ね。お腹痛くなってね。おまたからなんか出て来てね。ああおかしいな変だなってパンツ脱いだらね。最初に卵が、その後でこの紫の胎盤みたいのが出て来た。怖くなってひーくん呼んだの」 これ全部姉貴の身体の中にあったものなのか。姉貴のマンコの奥からこういうものが出て来たのか。昨日までふつうにしていたのにどうしてそんなことになっているんだ? 意味不明だ。一番意味不明に感じているのはとうの姉貴だろうけど。 こいつは二段ベッドの上で自分の身体の異常に気付いて、自分の中から飛び出してくる異常なものに怯えて、それで俺に頼ったのか。その一連を考えながらベッドにまき散らされたものを見ていると、なんだかいたたまれない気持ちになって来る。 「なんか心当たりある?」俺は尋ねた。 「心当たりって?」 「鳥類とヤったとか?」 「やったって何を?」 「セックス。交尾。性交渉」 「してないよ!」 「おまえハトに餌やるの好きじゃん? 公園に一緒にポケモン集めに行ったらいつもコンビニでパン買って撒くじゃん? ポケモンよりそっち夢中じゃん? 一匹姉貴にすごい慣れてる白いのいるじゃん? アルビノの。あいつとヤったんじゃね?」 「する訳ないでしょ! どうしてそんな酷いこと言うの? ママに言いつけちゃうよ?」 「それは止せよな……」 この素っ頓狂なところのある姉貴をからかったりイジメたりすると、ママは鬼みたいに俺を折檻する。俺は高校生になった未だにそれが一番怖い。 「……っていうかさ」 姉貴は俺の目をじーっと見つめて、それから妙な確信に満ちた表情で言う。 「これあたしとひーくんの卵だと思うんだけど?」 「ぶっ飛ばすよ?」俺はそう言って手を高く上げる。 「待って! やめて! ぶたないで! 怖いよやだよ!」 「何を根拠に? おまえが? 俺のガキを? しかも卵で? 産む訳?」 「いやだってさ。あたし他に本当に心当たりないもん」 「待った。落ち着こう。俺になら心当たりがあるようなその主張に意を唱えたい。姉貴がいくら美人で乳もケツもでかいと言っても、一線を越えない理性は俺に備わっている。万一姉貴が夜這いをかけたのだとしても俺はそれに気づかない程間抜けではない。そして何より、俺は姉貴と遺伝子を同じくする哺乳類だろうが」 「小さい頃ね、ひーくんとね。約束したじゃん? 大きくなったら結婚しようって。あたしが卵を産むとしたらそれはひーくんの卵なんだよ」 「あたまゆるゆる星人かおまえは……。性教育くらい理解してんだろ?」 「ひーくんの子供産むにはひーくんの精液がいるんだよね?」 「そうそう。良く知ってました。百点満点。はなまる。偉い」 「ひーくんっていつも精液くるんだティッシュとかふつうに部屋のゴミ箱に捨ててるじゃん?」「今度こそぶつわ」 「やめて!」姉貴は頭を抱えてうずくまる。 「なんでそんなこと知ってんの? 俺が部屋で一人シコってティッシュにザーメン染み込まして捨ててること知ってんの? 増してやなんでここでそれに触れるの?」 「だってそれ捨ててんのあたしだよ」 確かにそうだ。こいつはこの家の家事の多くを担っていてゴミを集めるのも仕事の一つだ。中学の頃こいつが一年間ほど不登校だった時にそれは始まって、なんとなし今も続いている。ママが滅多に家に帰らないからな。一時俺も手伝おうとしたけど姉貴は『女の子の仕事だから』と言ってはばからない。楽でいいじゃんくらいの軽薄な思考で俺も任せちゃってんだけど。 「お片付けする時にね、なんかの拍子にあたしの手か身体のどっかに付いちゃってね。それがまた何かの拍子であたしの身体に入っちゃったら、こういうことも起こるんじゃないかな?」 「何を言ってるんだこの姉は……」俺は頭を抱える。「脳みそのアップデートは定期的にやっとけよ……」 「でも他に考えられることってある?」 「それ俺に聞かれても困るわ。姉貴の身体のことだもん」 「本当に心当たりなんてないの!」 「分かったよ。すまん」一番困惑してるのは姉貴なんだ。俺が投げやりになっちゃ気の毒だ。「……というかさ、そもそも考えてもみればこいつが有精卵だっていう根拠はどこにもないんだよな」 「……? どういうこと?」 「いや無精卵ならタネなしでも姉貴一人で産めるじゃん?」本来なら姉貴が鳥類ならというのが大前提になるはずなんだけれど。 「なんで? なんであたし一人で赤ちゃんなんて産めるの?」 「おまえ生物の成績良かっただろ? 言ってる意味分からない?」 「授業の内容と現実の卵は違うんじゃない?」 「一緒だよ……。いや鳥っていうのは交尾しなくても卵くらい産むの。でも交尾なしだと中に子供が入ってない卵しか産めないの。それが無精卵。スーパーでいつも売ってるだろ?」 「へぇーそうなんだぁーものしりぃー。じゃああたしが産んだのはその無精卵かもしれないってことなんだね。分かったよ。えへへぇ」 「……ああちくしょう、何故俺は哺乳動物の実姉にこんな話をしなくちゃいけないんだ……っ!」 「でもこれ」姉貴は両手で卵を持ち上げる。「動いてるよ?」 俺は絶句する。それから恐る恐る姉貴が抱えている卵に手を触れる。姉貴の中から出て来たというそれはいささか湿っていて生ぬるくべとべととしている。 卵の奥から、どくんと何かが動くような音が手のひらを通して俺の頭蓋に伝わった。それから中にいる『何か』はこちらに気付いたように卵の表面を内側から撫でる。卵の内側から自分の存在を俺に対して主張するように、こつんこつんと殻を叩いた。 俺はアイスを飲み下したみたいな感覚を味わった。 生きている。 「どういうことなの……?」 姉貴は嘘吐かない訳じゃないけど手の込んだ冗談かませるようなタイプじゃない。こんなたいそれた仕掛けを用意できたりはしない。加えて言うなら今の姉貴は必死で不安と戦ってるだけで嘘を吐いてる様子はない。 つまりマジなんだ。マジでこいつは卵を産んだのだ。 「ひーくぅん」姉貴は甘えたみたいな声を出す。「なんかすごいおまたひりひりするよー。産んだ拍子にケガしてなぁい? ねぇ見てみてくれない?」 「見ろってか俺がおまえのマンコを?」 「ひーくんにしか頼めないんだよぉ」姉貴はべそをかく。心底困り果てたという顔で。「家族じゃなぁい」 俺は表情を引きつらせる。こいつは『これ』なんだ。昔っから『これ』だから俺は苦しめられてきたんだ。 「パッと外傷とかはない。無論見えないところで裂傷とか起こしてる可能性はある。そもそも人が卵を産むっていうの差し引いても、姉貴の身体は今普通の状態じゃないと思う。色々出してるし。病院行こう? な? 連れてってやるからさ」 「うん、うん……分かった」 「パンツ穿けよ。つか着替えろよ。できるか?」 「大丈夫。ねぇ……」 姉貴は俺の方を見上げた。泣きはらした顔に髪の毛一筋くっ付けて潤んだ眼をして、甘ったるい声で縋るようなことを言って来た。 「ひーくんはあたしの味方だよね?」 「……そりゃそうだろ?」俺はこう答えるしかない。「家族だからな」 「そっかそっか。えへへぇ」 言いながら姉貴は俺に卵を預けて一人でベッドを下り始める。 俺はシーツに姉貴がまき散らしたものを見る。確かにこれらは姉貴の中に入っていて姉貴の一部で姉貴の股から飛び出して来た。そういうことが現実にここで起きてこれがその痕跡だということへの生々しさに、俺は目まいと酩酊の中間みたいな感覚を覚えてしまう。 「着替えたよーひーくん。行こうよー」 早着替えを済ませた姉貴が俺を呼んだ。全幅の信頼を寄せたみたいな声で。 行かなければならない。 〇 開き直ると俺はシスコンで、俺の尊く哀れな思春期は、奴が無造作に見せ付けて来る裸体や抜き散らかした下着類と共にあったと言って良い。 俺達姉弟は母子家庭の家で同じ日につまり双子として生まれた。同じ歳の子供が二人同じ家にいれば自然と親友になる。姉貴は生まれつき高機能なんちゃら症とかいうアタマのハンディを抱えてて、家族以外の人間と上手く交友関係を作れなかったものだから、俺に対しては特別な親愛を向けた。 俺はまあまあその親愛には応えていたと思う。双子なんかに生まれて来たガキ共を育てあげる為、日々忙しく働いていたママは俺達姉弟に強く結束するよう教えたのだ。そうでなくとも俺は純粋で献身的な姉のことを心から好きだった。お互いのことは何でも知っていて何をするにも一緒で仲良し。淡く温かい光に包まれながら手を取り合った子供時代が俺達にはあった訳だ。ああ、楽しかったさ。 ただやっぱり姉貴は女でつまり俺の異性だった。そしてお互いにとって不幸なことに奴はとんでもない美少女に成長した。乳やらケツやらの発達が人より速く、しかもその体形の変化について姉貴が抱く不安を相談されるのは俺だった。たまらねぇよ? 思春期に目覚めつつあった俺が、奴の生々しい女性性を強く意識してしまったとしても、無理からぬことだと理解を求めたい。 身内に欲情なんてふつうはしないとフィクションを鼻で笑っている世の姉持ち、妹持ち達には、是非とも言ってやりたいね。それはおまえらの姉や妹がブスだからに過ぎねぇんだよとな。俺だってアイツが多少ブスだったり生意気だったりしたらどんなに良かったことかと思うさ。そっちの方がより距離を感じない姉弟でいられたかもしれん。 ただ違うんだよ。奴は俺が他所で出会った女達と一線を画して美少女だった。加えて言えば、クラスの女子達はあいつのように無警戒に裸体を放り出して歩き回ることはないし、中学になってまで入浴を共にすることを誘って来ないし、無邪気に腕に絡みついたりもしない。上玉でしかも身近となれば姉貴から視線を逸らすのは困難で、その困難を如何にして成し遂げるかという戦いに俺は全思春期を捧げてしまった訳だ。哀れだろ? 年齢と共に加速していく我が思春期は、従順な姉貴を自身の性的好奇心の生贄にすることを嫌が応にも空想させた。内心で無意識に計画まで立て始めている己の情けなさに打ちのめされた挙句、俺は元々二人で寝起きしていた八畳間を姉貴に全部献上し、元々物置だった隙間風吹く四畳半に逃げ延びた。姉貴は俺が離れていくことを寂しがって泣きじゃくったが、こればっかりはやむを得ない。 あんたの為なんだぜ? 親愛なる姉貴様よ。 〇 「今朝卵を産んじゃったんです。身体を調べてください」 と姉貴が受け付けの女性に告げると女性は精神科の患者を見るような表情をした。さもあらん。 姉貴が診察を受けている間中、俺は付き添いというか保護者として個別に話を聞かれることになる。 「お姉さんの狂言なんじゃないの?」と若い医者。 「俺もそう思いました。でもベッドは変な汁とか塊で汚れてるし、姉貴も嘘を吐いているようには見えないし、自分達じゃどうしようもないんです」と俺。 「親御さんはなんて言っているの?」 「母は今仕事で外国へ言っています。あとで連絡するつもりです」 「それをできるだけ早くした方が良いと思うけど。お姉さんはこういうことって良くあるの?」 「卵を産むなんてことが良くあったら困ります」 「そうじゃなくて、こういうおかしな言動を取ることが」 「……ありません。とりあえず本人の身体を調べてやってくれませんか?」 「それは調べてると思うけどね……」 それから姉貴は病院内のあちこち回されて、やがて不安げな顔で待合室の俺の前に姿を現す。 「なんともないって」と姉貴。 「マジで?」と俺。 「おかしいようあんな大きな卵を産んだのになんともないなんて。レントゲンも取ってもらったけど卵が入っていたみたいな痕跡はないんだって。変だねぇ」 「卵とか一緒に出て来たものについてはなんて言われたの?」 「不思議だなぁって言われたよ」 大丈夫かヤブ医者共。 「ビニールに詰めてきた分は保存して調べてくれるって」 「そうか。良かったな」 姉貴のベッドにまき散らされていたもろもろを一部持って来たのは正解だった。あれないとただのアタマおかしい子にされるからなふつうに。 ただ卵は置いて来ていた。姉貴が持って行きたくないと言って聞かなかったのである。『取り上げられたら嫌』だからというのが本人の主張。母性にでも目覚めてんのかね? 「これ処方箋だって」姉貴は紙切れの束を取り出す。「あとこれ紹介状。他所の大きな病院で調べてもらってくださいって」 たらい回しと取るべきか迷うところだね。だが姉貴の身体に直ちに異常はないということは分かったのだ。変に大きな医療機関で姉貴の身体が研究されてしまうのは良いことばかりじゃない気もする。この紹介状に従うべきか否か俺じゃ判断できんね。ママ次第だな。 「抗不安薬とか書いてあるんだけれど」とりあえず俺は処方箋を読む。 「おまたひりひりするお薬はある?」と潤んだ目で姉貴。 「ない。でもないってのはいいことだ。調べてもらった上で、治療の必要な外傷はないってことなんだから」 「そんなぁ」 「我慢できないなら言えよ。でも体に特に悪いところがなかったことは一安心じゃん?」 「そうかなぁ」 「大丈夫だよなんとかなるよ。俺に任せて。俺にっていうか俺とママに? とにかく今からそのママに連絡をするから」 「ひーくんって男の子なのにママのことまだママだよねぇ。おかしー」姉貴はくすくすと笑う。 「……おまえらの所為だろうが」俺は不満を露わにする。 中一くらいで俺が『御袋』とか『オカン』とか呼び始めると、姉貴とママは二人して『あらー格好付けちゃってまあー』とかって俺をイジメた。まあだいぶ前のことなんで姉貴は忘れてるんだろうけど。それ真に受けて未だ『ママ』っつってる俺も俺だけどさ? 男親も兄弟もいない家庭でそんな扱いを受けたことって割と不幸じゃね? まあ母親への呼称一つで恥ずかしがってる方が未熟だと思うことにしているけれども。ただ姉貴のことは『姉貴』だ。なんと言われようとな。昔は名前にちゃん付けだったけど、それだと周りに恋人同士みたいだと思われかねんとかいう、そんな青臭い危機感が働くんだよ。 病院の建物を出て前のベンチで姉貴と腰かける。 俺が電話をかけるとママは十コール程焦らしてから対応した。 「日向(ひなた)か?」と俺の名前を言うのは電話の向こうのママ。 「あーな」 「こんな時間に電話なんかかけてくんなよ」 「こっちじゃ朝の十時だし」 「こっちは真夜中だよ」 「急を要する」 「木陰(こかげ)になんかあった?」 「卵産んだ」 俺がそう言うと電話が切られた。 俺は秒で電話をかけ直す。「ママン! 電話切らないでよママン!」 「あんたまでおかしくなったらウチの家庭は終わりなんだけど」 「姉貴だって最近は勉強とかがんばってるじゃん?」 「でも卵産んだんだろ?」 「それは姉貴が悪いんじゃないかもしれないじゃん?」 「こっちは忙しいのにそんなくだらない冗談の為に電話かけられたらたまらないんだけど。今度折檻な」 「待って! 待ってよママン! とにかく帰って来て!」 「帰れるかボケ」 ママは多忙であり簡単には家に帰れない。姉貴がインフルエンザで寝込んだ時も階段から落ちて足を折った時も、俺は自身の勉学を犠牲にママの代わりを果たした。 「今医者に来てるんだよ。そりゃ姉貴がマジで卵産んだなんてすぐに信じられないと思うよ? でもママからしたら、それが現実であれ妄想であれ、子供がパニックに陥っているっていうことだけでも、様子を見に来る理由にはなるんじゃないの? マジでこれ俺じゃどうにもならないんだよ。帰ってこれないのはしゃーないけど、ちょっとは話を聞いてよママン」 それから俺がことの経緯を説明すると、ママは長い沈黙ののちにこう言った。 「…………いったん木陰に代われや」 俺は姉貴に電話機を渡す。 「うんママ。あたし。え? ……うん、うん。ひーくんいるから大丈夫だよ。あのね、あたしね」 姉貴にとって俺が唯一無二の親友ならば、ママは神だ。絶対神だ。俺達の学費の為に海外でオーバーワークに励むあまり年に数回しか会わなくなってからも、それは変わることはない。姉貴は厚い信服を込めた声音で自分の身体に起きた異変を訴えている。 「うん。うん。分かった。じゃあねママありがとう」姉貴は電話を切る。「……帰って来てくれるって」 「そうか。良かったよ」 この時の俺の安心感たるや相当なもんだ。ママは姉貴のピンチに俺が呼び出すといつでも駆けつける英雄なのである。七歳の時、年長のいじめっ子に奪われた俺のゲーム機を取り戻しに姉貴がそいつの家に突貫し、何故かそいつの兄貴に監禁されるという事態が起きた時も、ママは助けてくれた。 ママが海外を飛び回るようになってから姉貴の面倒を見る役目は俺に託された。けれど所詮姉貴と同じ歳の子供である俺には限界があるんだ。優しさを装った男に言い寄られるとかクラスの女子に髪引っ張られるとかなら俺も助けてやれるけど、流石に卵を産まれたらそりゃあもうママンの出番って訳。 俺は海外にいるママが一日も早く帰宅することを切に願った。 〇 御年十七歳で自転車にも乗れない姉貴を荷台に乗せて我が家へ運び込む。 姉貴は真っ先にベッドに置いてある卵を手に取った。「動いてる」 「そうかい」俺は肩を竦めた。 「あっためなきゃ」そう言って姉貴は布団と卵を持ってベッドを下り、膝の上に置いた卵の上から布団をかけた。 「何やってんの? 孵すの? その卵」 「うん。だってひーくんとあたしの卵だよ」 「どこにその根拠がある訳?」 「だからひーくんの精液が何かの拍子に……」 「もうその話やめろおまえ」俺は表情を引きつらせる。 マジで言ってんのかね? ぶっちゃけ性質悪いが、部屋のゴミ片付けてもらってることに負い目があるんで怒ることもできん。だいたい俺、姉貴にキレたことってないんだよな。 姉貴も姉貴なら俺も俺よね。姉貴が集めに来るって分かってて汚いモンをゴミ箱に捨てっぱなしで、そのことを特に何とも思わねぇんだから。ママが滅多に帰らなくなってから二人だけで生きて来たようなもんだから、ちょっとばかり距離が近すぎるのかもしれん。 姉貴は愛おしそうに卵を抱いている。正直そんな気持ちの悪い卵を孵すことに理解はできない。姉貴の身体に異常がなかったからには、その卵を壊して捨てれば万事解決だとすら思う。 しかしどんなに気味が悪かったとしても、その卵は姉貴の産んだ姉貴だけのものなのだ。だから俺は口出ししない。少なくともママが来るまでは。まさか本当に俺のザーメンでできた卵だったりはしないはずだしな。 「うん。じゃああたしここで卵あっためてるから、ひーくん学校行きなよ」と姉貴。 「こんな時に学校?」 「うん、あたしここで一人で勉強してるね」 「俺が看るよそんなの」 俺は姉貴の家庭教師で、中三の時学年ビリだった姉貴を、俺と同じ今の高校に合格させた実績を持つ。暗記は得意だし真面目だし、まともにやらせりゃ意外と勉強はできるんだよね姉貴は。 「ひーくんには迷惑かけるなってママが」 「ママが言うなら仕方がないな」俺は頷く。「じゃあ行くよ」 「うん。あたしもがんばるね。ひーくんと一緒の大学に行くんだ」 「姉貴にアメリカは無理だろ」 俺が何の気なしにそう言って、やばいと思って振り向く。 姉貴は泣きそうな顔で目を伏せていた。見るからに打ちひしがれた様子で肩を落とし、握った拳を見詰めている。あーやっちまった。 「……ひーくん、本当にアメリカ行くの?」縋るような眼でこちらを見る姉貴。 「……さあな」 俺はそう言って逃げるように鞄を引っ手繰って家を出た。 〇 『きょうだいは助け合うものだけれど、最後の最後は独立独歩。ずっと一緒にはいられない』 というのは俺達の敬愛するママのありがたいお言葉であって、姉貴が俺と同じ大学を進学先に志望した際に放たれたものだった。 ママの言葉は実際真理なんだと思う。そりゃ血は水よりも濃いんだから袂を別っても姉弟だろうが、それでも同じ屋根の下で毎日顔を合わせるみたいな日々には限りがある。風呂には一緒に入らないとか部屋を別けるとかそういうところから始まって、いずれは完全に袂を別つ日が必ず来る。偏差値に差があるのなら、大学は当然別々の場所に通うべきなのさ。それが普通だね。 でもいずれは離れ離れになるからこそ、可能な限り一緒にいたいというのは間違った願いじゃないと思う。だから姉貴が猛勉強を始めた時には、俺は当然応援してやった。 俺だって姉貴のことは好きだ。シスコンだと言われても反論する気はない。姉貴の決意は可愛らしく思うしその向上心は後押しせにゃならん。 俺は姉貴と一緒の塾に通ってやったし家でも勉強を看てやった。姉貴の成績はぐんぐん伸びて、俺の当時の志望校だった地元の国立を十分狙えるようになった。偉いだろ姉貴? よく頑張ったと俺も思うよ。 だが誤算だったのは姉貴と共に塾に行くってことは俺の成績も伸びるってことだ。高三になって初めて行われた進路相談で、担任教師は『東大』『京大』『一つ橋』のパンフレットを俺の前に並べ立てた。 ああ、我が敬愛なるママンよ。あなたの遺伝子は優秀過ぎた。校内順位はトップをひた走り塾では天才と呼ばれ全国模試はついに二ケタ。そんな俺が相応しい大学に行くとなると、距離の問題でどうしても一人暮らしをせざるを得ない。そうなると哀れな姉貴は置き去りだ。 ママは姉貴のことは気にせず自分の進路を選ぶように言っている。ふつうの親ならそうだわな? ママ曰く姉貴は『意外と公務員向け』だそうで、一人で心配はいらないとのこと。俺は『あんたもいい加減姉離れしな』というありがたいお言葉を頂戴した。耳に痛いね。 そりゃ俺にだって自分の才能がどこまで通用するか試してみたい気持ちはある。自分が将来何になるかは分からないが、東大生とか東大卒って言葉の響きがどれだけ甘美かは、この学歴社会に生きる一人の学生として理解している。 だが姉貴とは親のいない暮らしを二人で色々助け合って生きて来たんだ。十七年来の親友に別れを告げて、一人暮らしが心細くないと言えば嘘になる。というか白状すると俺は米だって一人で炊いたことがないし、洗濯機のどのボタンを押せば洗濯が始まるのかも知らない。やらしてもらえるのは皿洗うのと洗濯物畳むのだけ。依存してんのは向こうだけじゃないってこったね。向こうがやりたがったこととは言え恩を感じないはずもない。 姉貴だって俺と同じとこ通うためにがんばったんだし、それを報わせてやりたいって感情を俺はどうしたって抱いてしまう。向こうが望んでくれるんなら、俺も姉離れするのを先送りにしたかった。 良い大学に行くにしたって、そこで何をやるのか具体的に決まってる訳でもない。地元の大学だって東大程じゃないにせよ少しは名も通ってる。姉貴と一緒にそこに通って一緒に地元に就職して、どっちかが結婚するまでは一緒にいるっていうのも、悪くはないと思っていたんだ。 そう、思って『いた』んだよ。俺が童貞を喪失した数日前のあの日まではな。 〇 姉貴の友達にペギーってアメリカ人がいる。実際の名前はもうちょっと長くてスペルもややこしいが、ニックネームはペギーで校内じゃそれで通じている。 ペギーは高二の頭から姉貴のクラスにやって来た留学生だった。小柄で華奢な身体と白い肌と青い目と金髪を持つ美少女だった。そしてペギーは勉強して来たはずの日本語が思うようには通じないことを悩んでいた。 たどたどしい日本語をバカにされ、通じないことに互いに苛立ち、教室では腫れ物扱いを受けた。ヒアリングとリーディングは十分なので授業には付いて来られるが、ジャパンのピープルとフレンドになりにやって来たペギーにとって、それだけではとうてい不本意だった。 だがそんな彼女の元に救世主が現れる。誰であろうそれは姉貴だった。 ママの意向により幼稚園児時代から五年ほど通った英会話塾で、俺と姉貴は天才姉弟だった。始めたのが早い歳だったこともあってメキメキと英語が上達し、小学校の頃は学校の仲間の前でこれ見せよがしに英語で会話をして誇らしげだった。 賢いペギーは姉貴を観察し、それが自分が真っ先に交友関係を結ぶべき相手だと理解した。この教室の端っこでぼーっと天井を眺めてる乳のでかい女は誰よりも英語を話せるし、教室でも割と浮いているので仲良くしてやれば向こうだって喜ぶはずだ。そんなもくろみ通りに姉貴に取り入り、自らの通訳係に仕立て上げたペギーは、自然な流れとして姉貴の無二の親友、つまりは俺とも交友を持つことになる。 ペギーは明るく愛らしかった。ペギーは自分に実践的な日本語を教えてくれた姉貴に感謝していたし、素っ頓狂なところのある姉貴の面倒を俺に代わって見てくれた。姉貴が持っている自分の弁当を求めて俺が姉貴の教室に行くと、いつもペギーと三人で飯を食った。仲良し三人組として休日に一緒に出掛けたりもした。 で、ある日、俺達の家にやって来たペギーは、姉貴の留守中に姉貴の部屋で俺の腰に跨って来た。そして英語のエロい言葉を叫びながら俺と裸のレスリングを始めた。 何を言っているのか分からないと思うが俺だってどうしてそうなったのか良く分からん。多分ペギーはあの時魔法かなんか使ったんだと思う。姉貴がちょっと家を空けたその隙に、ペギーは俺に囁きかけ流し目を送り耳に噛み付き、二段ベッドの下の段に裸の俺を横たえて馬乗りになった。俺は訳も分からないままされるがままだった。身の毛がよだつ程えげつない手際だった。 『ヘイユー! ワタシとアメリカに行きましょー!』 『へ? ぺ、ペギー? どういうこと?』 馬乗りになったペギーが俺のむき出しの腹を平手で殴ると、俺は馬のいななきのような声を発した。 『アメリカのカレッジに行くのでーす! あなたならどんな名門も楽勝でーす!』 『ペ、ペギー、ちょっと待って……』 ペギーが俺の腹を平手で殴ると俺は馬のいななきのような声を発した。 『寮が嫌なら我が家がポストファミリーになりまーす! マミーもパピーもリトルブラザーもジャパンが大好きなので歓迎しまーす!』 『ぺ、ペギー、ちょっと待って……』 ペギーが俺の腹を平手で殴ると俺は馬のいななきのような声を発した。 『あなたに許された解答は『イエス』だけでーす。いいですかー?』 『い、イエス! イエス・マム!』 『よろしいー! ではこれからペギーちゃんが歌を歌いますので、歌い終わったら『USA』と繰り返し叫んでくださいーい! いいですねー?』 『い、イエス・マム!』 『よろしいー! でーはぁ……』 ペギーは空気を吸い込むと、歌姫のような声で歌い始めた。 『極東ーの島国ーに♪ やって来ぃたペギーちゃん♪ モンキーいっぴーき捕まーえたー♪ 芸をしぃー込んで連れかえーる♪ すばらしきペギーちゃんのすばらしき故郷のその名前は……』 俺が呆然としていると、ペギーは俺の腹を平手で殴った。 『ひ、ひひぃん!』 『何ぼーっとしてるですかー! ちゃんと叫びなさい!』 『ゆ、USA……』 『声が小さい!』 ペギーが俺の腹を平手で殴ると俺は馬のいななきのような声を発した。 『ゆ、USA! USA!』 『腹から声出せ!』 『U・S・A! U・S・A! U・S・A!』 『いいぞその調子ぃ!』 『U・S・A! U・S・A! U・S・A! U・S……』 「ほわたぁあああ!」 回想に浸っていた俺の頬に何者かの平手が叩きつけられ、俺は馬のいななきのような声を発した。 「何ぼーっとしてるですかー!」 俺は我に返り、はっとして目の前の少女を見詰める。 「ペ、ペギー? どうしたの?」 「どうしたのじゃありませーん!」 ペギーは自分の腰に手を当て、机で弁当箱を広げたままぼーっとしている俺を睨みつけた。 「来ないと思ったら一人で飯食ってたですねー。酷いでーす! お姉さまがいなけりゃワタシのことなんてどうでもいいってんですかー? このシスコンヤローめ、セップクモノでーす!」 ああそうだ。俺はそこで思い至る。いつもは姉貴が俺の弁当を持っているから、それにありつく為に姉貴とペギーのいる教室に行っている。だが今日は姉貴が学校を休んだので、俺は一人で飯を食っていた。しかしペギーは姉貴が休んでいても俺が自分に会いに来ると思っていたのだ。それを裏切った形になる。 割とこれ重大な失点じゃねぇのかな? だって俺はペギーとヤっちまった訳なんだし、まあ恋人と言って差し支えない。最近のペギーは姉貴の前で俺の腕に絡みつきたがり一緒にアメリカに行くことを強調したがり、それによって姉貴が膨れるのをおもしろがっている。バカらしいことに、ペギーは俺のことで姉貴にやきもち焼いて嫌がらせをしている訳なのだ。嗜めても嗜めてもやめる気配を見せない。そこへ来ての俺のこの仕打ち、怒らないはずもない。 「本当にすまないペギー。これには事情があるんだよ」 「釈明を許しまーす」 「姉貴が体調崩してるのは知ってるよな? そのことでちょっと思い詰めちゃって」 「ほわたぁあああああ!」 ペギーが俺の頬を平手で殴ると俺は馬のいななきのような声を発した。 「結局お姉さまのことですかー。まあしょうがありませーん。家族は大切でーす。あなたのお姉さまはとても愛すべき人物でーす。許しまーす」 「あ、ありがとうペギー」 自己主張はしっかりした上で寛容で結構良い女なんだよペギー。俺より三センチ低いだけの姉貴と違って小柄で乳も尻も子供みたいで、性格も利発で行動的でなんというか姉貴とは正反対って感じだけれど、それでも俺と合ってる感じはすごくするんだ。 「それでダーリン?」ペギーは俺に媚びたような視線を向ける。「ワタシ、今度のゴールデンウィークにアメリカ帰ることになりましたー。あなたを連れて行きたいでーす。ワタシの家族に一緒に挨拶しましょー!」 俺はそう言われ何と答えるべきか絶句する。 実は俺は内心ではアメリカ行きの決意が固まり切っていないのだ。ペギーには『行きたい』と言って姉貴には『さあ』と言っているというような半端な状態にある。 「そ、そうだな……」 ペギーは良い子だしアメリカの学問は俺を確実にエリートにしてくれる。海外暮らしに不安がないはずもないが、しかし金のことはママにおんぶにだっこ、家のことは姉貴におんぶにだっこだった俺が一丁前の男になるのには、これくらいの荒療治が必要だと言うことも分かっている。 「踏ん切りつきませんかー?」 「……い、いや。そうだ。実は今日明日中くらいにさ、母親が家に帰って来るんだよ」俺は歯切れ悪く言った。「そこでアメリカのこと、話してみようと思うんだ。相談してみるつもりだよ。行きたいとは思ってるんだ」 「イエスイエス!」ペギーは頷いた。「ワタシも日本に来るときたくさん悩みましたー! あなたもゆっくり決意するといいでーす!」 ペギーはニコニコ笑ってそう言ってくれる。俺の煮え切らない内心などお見通しの上でじっくり待っていてくれるというのだから、これはもう俺には過ぎたる程の良い女であると言えよう。 あの日あの時、姉貴の部屋でペギーとヤったことによって、俺は姉貴の裸体に支配された哀れなる我が思春期の復讐を果たしたのだ。ペギーは俺を童貞という地獄から救い出した上で、まったく新しい世界へと導いてくれようとしているのだ。 ペギーを獲得したことで、俺はようやく姉貴のことを純粋に家族として見られるようになった。家族としてのみ愛せるようになったのだ。そして冷静になることができた。このまま姉貴と一緒に大学に行ったって、それは毎日通う先が高校から大学に変わるだけで俺自身に何の進歩もないのだと気付いた。それは姉貴にしたって同じことだ。ここらで決別しておくのが、お互いにとって良いことでもあるんだよ。 血は水より濃いんだから姉弟は一生繋がっていられるんだ。ママのことだって毎日は帰って来なくなって寂しかったけど、泣きながら互いを慰め合う日々は何年かで克服することができただろ? 俺だって姉離れするのはしんだいけれど、いつかは訪れることじゃあないか。なあ姉貴? 大好きな俺がペギーに腕を抱かれて海外へ行ってしまう姉貴の心中は察して余りある。でもそれは一年かけてじっくり納得するようにしてやるからさ。だから俺の新生活の想像に泣き顔を浮かべて割り込んでくるのはもうやめてくれ。 〇 授業を受け終えて帰宅する。 鍵開けて家に入り、まずリビングに向かう。 机の上に置いてあるものを見て、俺は絶句した。 たまげたね。いつも姉貴と姉貴の作った飯を食ってる机の中央で、絶大なる存在感を放っていたのは近藤くんだった。近藤くんだぜ? しかも明らかに使用済みで何でとは言わないが汚れている。 どういうことだ? 姉貴がこんなものを持っているはずもないし(ないよな?)、自慢じゃないが数日前まで童貞だった俺はこんなものを自分で買ったことはない。つまり俺と姉貴以外の誰かがここに持ち込んだ代物である訳で、容疑者となりうる人物を俺はたった一人しか知らない。 ペギーだ。 色と言い形と言い見覚えあるんだよ。これ俺が使った近藤くんだ。それは分かるがしかし、どうしてここにあるのか分からない。 ペギーは俺の田中タロウから近藤くんを取り外すと、『捨てておくよ』と手を伸ばした俺に首を横に振ったんだ。 『男性のスペルムには様々な伝承がありまーす。土に埋めるとアルラウネという怪物が産まれまーす! 溶かした墨と一緒に子供の肌に塗ると嘴の生えた悪魔が産まれまーす! 持って帰って試しまーす! イェーイ!』 そう言ってビニールに詰めるペギーの変態的倒錯的プレイに俺は大興奮の大喜びだった。俺はその近藤君をペギーが持ち帰ったもんだと思い込んでいて安心していたし、具体的にどういう風にソレで遊んだのかその内訊いてみようとワクワクしていた。 それがどうしてここに? 「帰ったかバカ息子」 背後で死神の声がした。俺が冷や汗を垂らして振り返る前に、ママンは俺の首を後ろからひん掴んでリビングの床に叩きつけた。 背骨にヒビが入りそうな衝撃がする。そこから立ち直る前にママンは俺の股間めがけて強烈なロー・キックをお見舞いした。死ぬかと思う程の激痛と共に、吐き気を齎すような気色の悪さが腹の底からこみ上げて来る。 ママンは腕を組んでもだえ苦しむ俺を見下ろしている。 情け容赦なく人の股間を蹴りつけやがって。あんたは女だからこの痛みとつらさが分からないんだよ。ちくしょう。 っていうかママン帰って来るの早くねぇか? 電話したのが朝の十時で今が午後五時前。海外のどこにいたのか知らんが超特急で帰って来ていたことは間違いない。この娘思いめ。 「おまえ。これはどう説明するんだ?」 ママは俺の顔面に近藤君を投げつけて来る。平気で触んなよそれをよ。自分の使用済みの近藤くんを実母から顔に投げつけられるって、ここまで哀れな経験をする男が俺の他にいるとは思えんね。涙出そう。 「待ってよママ。何が何だか分からん。そっちこそ説明してくれよ」俺は一応なりとも白を切ってみる。 「……木陰が自分の部屋から見つかったって言ってるんだが?」 マジかよ姉貴。何してくれてんのよペギー。持って帰ったんじゃなかったのか、ペギー。 ひょっとしてこれはアレか? アメリカ式の勝利宣言か? ペギーが俺とヤったということを知らしめる為、テキトウにホラ吹いて手中にしたそれを姉貴の目の付くところに隠しておいたとか? おそらくは姉貴はそれを見付けたことを俺に言い出せないと言う読みで。言い出したとしても『間違えて忘れて来た』と白を切るくらいのつもりで。 ペギーは姉貴に嫉妬していた。俺がペギーより姉貴と仲良くするといつも不満そうな顔をしていた。バカかと思うがそのくらいのことはやりかねない女なんだよペギーは。だから惚れたってのもあるんだけどな。痺れるぜペギーたまんねぇよ。 「ま、待ってくれママン。過失なんだ。許してくれ」俺は釈明を試みる。「オオケイ全部認めるよ。俺は女の子を家に連れ込んだ。そして俺の自室は狭いし寒いし汚いしってんで昔の子供部屋を使わせてもらったんだ。二段ベッドの下はまだ俺のモンってことになってるし、ヤったのもそこでだ。そのゴムだって女の子が処分したもんだと思っていた。過失なんだよママン」 俺の卑劣な言い分にママの答えは二度目の金的攻撃だった。どっちか潰れたとしか思えないような強烈な痛みに俺は悶絶する。 「ごぎゃぁっ!」 「わざとじゃないから許してくださいってか? あそこはもう木陰の部屋だろうが。何を姑息なこと言ってやがる。ガキだな、おまえは」 返す言葉もないけどよ。でも俺にだって事情があるんだ。散々ボコスコにしやがって糞ババアが。腹立つな。 いや待てでも事情ってなんだ? 自分の部屋でソレを見付けた姉貴がどれだけ傷付いたかを考えると、それを少しでも薄めるような事情なんてどこにあるんだ? 母親に叱られるのを子供みたいに苛立つ権利が俺の全身に一欠けらでも残ってんのか? ああくそ、精神的にも肉体的にも地獄みてぇな状況だなこれは。 「や、やめてよママ……」姉貴が自分の部屋から出て来る。頬に痣が出来てる。「ひーくん悪くないから。やめてよママ」 「おまえは引っ込んでろ!」ママはその一括で姉貴を黙らせる。姉貴は気の毒に涙を流していらっしゃる。 あれでもちょっと待て? 姉貴の顔に痣が出来てるってことはママに鉄拳制裁されたってことだ。ママにだけは姉貴をぶつ権利があるが、よっぽどのことがないとそれは行使されない。 何があった? 「ごめんねひーくん」姉貴は伸びてる俺のことを助け起こす。「これあたしの部屋で見付けたの。ひーくんのなんだよね?」 涙ぐんで姉貴は俺の顔面のゴムを指でつまむ。さっきから何? そんなもん触るなよ母娘そろって。 だがしかしそこで俺はあることに気付く。その近藤くんは汚れてはいたが汚れているだけで中の体液はほとんど残っていないのだ。 「あたしね。ひーくんとずっと一緒にいたかったの。それでね、これを使えばね、あたしひーくんの子供産めると思って」 姉貴は訥々と語りだす。なんだって? こいつ何かとてつもなく恐ろしいことを言おうとしていないか? 「ペギーちゃんとアメリカ行ったらひーくん戻ってこないと思って。ずっと離れ離れは絶対嫌だから。あたし死んだってそれだけは嫌だから」 俺は膝が震えだした。こいつの口を抑え込んで黙らせようかと思ったが、それで現実が変わる訳でないことも俺には分かってしまう。 「あたしひーくんとはきょうだいだから、男の子と女の子じゃないからひーくんとペギーちゃんみたいにはなれないから。きょうだいはいつか袂を別つんでしょう? でもそれってすごく寂しいし嫌じゃない? でもこれを使えばあたしひーくんの赤ちゃん産めると思って。そしたらひーくんアメリカどころじゃなくなると思って。別にひーくんのこと男の子としてどうこう思ってるんじゃないよ? ただひーくんと一緒にいたくて……」 こいつがソレをどう『使って』俺のことを引き留めようとしたのか想像したくもない。多分想像したくもないようなことだ。想像したくもないような気色の悪い最悪なことをして、こいつは俺を俺の人生ごと自分に縛り付けようとして来たんだ。 なんて奴だ。 「そういうことかよ……」 生まれて来たのが赤ん坊じゃなくて卵だった訳が分かった。それが禁忌の子だからだ。 こいつがなんであの卵のことを『あたしとひーくんの卵』っつってたのか良く分かったよ。俺の体液でナンカした後で自分の身体に異変が起これば、姉貴なりに因果関係を感じてしまうのは自然なことだ。 だがな姉貴よ。俺と姉貴はそれを許されていないんだ。姉貴の願いは絶対に叶えられないんだ。俺達の距離はどんだけ近かったとしても、一番近くへは行けないんだ。それを自分に言い聞かせるのに、どれだけの苦悩を俺が感じていたか。 「バカ共が」 ママはそう吐き捨てた。そりゃあんたからすりゃ地獄だろうさ。信用して家に残して来た娘と息子がこんなことになっちまったってんならな。 でも似た者親子だろ? 知ってんだぜ俺。俺の名前って親父の名前だろ? 若くて阿呆なあんたの腹に俺達双子を授けるだけ授けて、一人自分勝手に逃げてった奴の名前なんだろ? 俺にだって反抗期はあるんだ。そのくらいのことは自分で調べるのさ。 「……卵」ママは姉貴に向けてあごをしゃくる。「持って来い」 ママの言葉の一つ一つが姉貴にとって至上命令の価値を持つ。姉貴は大人しく卵を自室から持って来た。 それを見て俺は目をこする。大きくなってないか? 最後見た時は俺の拳くらいのサイズだったそれが、今じゃ姉貴の頭くらいになってる。 成長してる? 成長して成長しきったらいったいどうなるんだ? 何が産まれるんだ? ママはそれを一瞥すると、引き出しから金槌を持って来て卵に振りかざした。 「やめてっ!」姉貴は絶叫して卵を抱きしめた。 「寄越せ」ママは怒鳴りつける。「それぶっ壊して捨てたら全部元通りだ」 そうだ。俺は頷いた。それを壊すんだ。そして全部なかったことにしてしまえばいい。俺の過ちも姉貴の過ちも全部なかったことになって、俺達は元通りの姉弟に戻ることができるんだ。それでいいだろ? 「嫌だ!」姉貴は首をぶるぶる横に振った。「嫌だ。これはあたしの卵なんだ」 「何が出て来るか分からないんだよ?」ママは言う。 「でも生きてるんだ」と姉貴。「あたしの赤ちゃんなんだ。絶対に壊させない」 姉貴がママに逆らうところなんて始めて見た。幼い頃わがままを言ったとかならあるが反抗期らしきものは姉貴にはなかった。いや中坊くらいの頃『ママなんていなくても二人でやっていけるよね』と強がって言い合ったのがそれだったのかもしれないが、命令を拒んで我意を通そうとする姿なんて始めて見た。 「これ以上弟の脚を引っ張るのか? 日向に迷惑をかけるのか?」 「かけない!」姉貴は叫んだ。「ひーくんもママもいなくていい! アメリカにでもどこへでも行けばいい。あたしこの家から追い出されたっていい。一人ででも、何をしても、あたしは絶対にこの卵を孵すんだ!」 そう言われ、俺は頭を殴られたように感じた。 強い意思だった。俺かママの手にずっとぶら下がっていた姉貴が自立心を得たことが分かった。姉貴は自分一人の脚で立ってでも成し遂げたいことを見付け、それによって絶対的な存在であるママとすら対決する力を手に入れたのだ。 こいつは母性を得たのだ。俺は思った。こいつは母性を獲得することによって俺とママから決別し、庇護を克服する覚悟を決めたのだ。 なんてことだ。 俺は胸に空洞が開いたような感覚を覚えている。 「…………」ママは溜息を吐いた。「できる訳ないだろ。おまえ一人で、そんなこと」 「やるもん。放っておいて」 「何様のつもりだ?」 「この卵のお母さんだもん」 「……日向」ママは俺に向かって顎をしゃくる。「どっか行ってろ」 「…………どっかって?」俺はママの方を力なく見やる。多分相当情けない表情浮かべてるだろうな、俺。 「この卵は木陰のもんだよ」ママは確信に満ちた声音で言う。「おまえは関係ない。どっか失せてろ」 姉貴の言い分によればその卵の半分は俺の遺伝子でできているはずだが、まあ反論はしないさ。少なくとも俺は姉貴が手にしたような母性は持っていないし、その卵に対して何の覚悟もないんだ。二人で話しなよ。 俺は母親に叱られた子供が逃げ出すみたいに、拗ねた足取りで黙って玄関へ向かった。 ……そしてふと思う。 ……経緯は最悪だけれども、姉貴はちょっと大人になったよな。 〇 空はやたらめったら真っ赤っかだった。一人でこんなに鮮やかな夕焼け空を見たのはひさしぶりかもしれない。俺の傍にはたいてい姉貴がいたし、このくらいの時間帯はいつもなら一緒に塾に着いたくらいの頃なのだ。いつも一緒でそれが当たり前だった。 それでも俺は自分の意思で姉貴から決別しようと思っていたんだよ。自分の才能がどこまで通用するのかをアメリカでとことん追求したかった。そうやってバリバリのエリートになって、ペギーを腕にぶら下げて世界中を又に掛け、姉貴やママからは自慢の家族として称賛される……そういう空想を抱いていたんだよ ママの庇護の下で姉貴と手をつなぎ合っていた頃と比べて、少しは自分の意思みたいなもんを得られたと感じていたんだ。あとはじっくり覚悟を決めて、ペギーに返事をするだけだった。そうやって大人に近づけるんだと思っていたんだ。 でもそんな己惚れは全部ぶっ壊れちまった。 なんたって俺が覚悟を決めきる前に、姉貴の方から遠くへ行ってしまった。あいつは母性を得たんだ。あいつは自分だけの母性を得ることによって、俺やママを克服して自分の脚だけで立ち上がる覚悟を決めたんだ。俺は先を越されたことにショックを受け寂しさを覚えた。俺の方がよっぽどガキだったって訳だね。情けない。 気が付けば俺は小学校の頃の通学路を歩いていた。 道を覚えるのは姉貴の方が早かったから、小学校に上がってしばらくの間、俺は姉貴の後ろで手を引かれていた。幼少期は女の方が意思の発達が速いから、あの頃は何かと姉貴が前を歩いた。同じ歳の双子を『姉貴』と呼ぶことがしっくり来てんのは、その頃の記憶があるからなんだろうね。小学生に上がって数か月も立つ頃には、姉貴が相当な素っ頓狂であることにも気付いたけれど。 姉貴が好むものを好んだもんだから当時の俺は少女趣味で、それが講じていじめられていた。それから守ってくれたのは姉貴だったよな? ママが俺を奮い立たせて自分の役割に目覚めさせてくれるまで、代わりにずっと俺の手を握っていてくれたんだ。姉貴は決して俺を見捨てずに。 アメリカへでもどこへでも行けと姉貴は言った。俺は産まれて初めて姉貴に拒絶された。だがもうそのことに対する恨み言は言わねぇよ。あんたの成長を俺は祝ってやるし喜んでやる。それができなきゃ家族じゃない。 でもさあ姉貴。じゃあ俺がアメリカ行って、残ったあんたはどうするんだよ。一人で卵を孵すのか? でもその卵からいったい何が産まれるっていうんだ? 姉貴が産んだのは哺乳動物が産むはずのない白い卵だ。禁忌から産まれるものはたいていにおいて悪魔なのだ。 それが齎すものを何もかも、俺は姉貴一人に被らせるのか? 姉貴がしたことは許されざる過ちだ。最悪の手段で俺を引き留め足にしがみ付いた。俺は嫌悪感を覚えたし呆れたし怒りもした。感情に任せて一発くらい殴ってやりたいくらいだったとも。 でも俺はそれをやらなかった。俺は姉貴の弟で姉貴のことが好きだった。俺は例え何をされたって何を奪われたって姉貴を許すことができる。あの卵を叩き割ったりしないし、あの卵を抱いた姉貴を一人だけ置いて行ったりはしない。姉貴の犯した過ちに寄り添い続け、それがもたらすものを一緒に背負っていく。俺はそれくらいの情念を感じていいしそういう人生を選んでもいい。 良いだろ別に? だって家族なんだから。良いはずだ。 自分の気持ちに嘘は吐かない。恰好付けるのもやめる。シスコンとでもなんでも言えば良い。俺は姉貴と、姉貴の産んだ卵の傍にいたい。 「ヘイユー。マイダーリン」 背後から声をかけられる。 ペギーだった。 遊歩道を歩いていると駅の前までたどり着いていたのだ。この駅をペギーが利用していることは知っている。姉貴とペギーと三人でここまで歩くこともあったからな。 「なんか思い詰めた顔してますねー? どうしたですかー?」 一瞬ペギーに近藤くんのこと追及しようか迷ったけれど、それはやめる。姉貴の部屋でヤることを拒まなかったという点で俺も共犯だ。責める権利はないし、あったとしてもそれを行使するのはただの八つ当たりでしかない。 それより俺はペギーに言うべきことがある。俺はペギーの前に立つと、両手を膝に付いて思い切り頭を垂れた。 「すまないペギー。ゴールデンウィークにペギーの家族に会いに行くっていうのな、できなくなった。それから、アメリカ行くことも考えなおそうと思う」 「ホワーイ?」ペギーは眉を顰める。「どうしてですかー? まさか、お母様に反対されたとか……?」 そういうことにしてしまうか考えて、俺は首を横に振った。俺は割とこの子のことを振り回したと思うし、欺瞞はなしにするべきだ。並の償いで許されることはないだろうが、可能な限りの誠意は行いたい。何もかも全部話すべきだろう。 だが話すったってどう話すんだ? 姉貴が卵産んだっていうのか? 信じてくれないどころかふざけてると思われて終わりだ。俺はともかく姉貴の正気まで疑われる。 「……姉貴に子供ができた」結局俺はこう言った。まあ嘘は言ってないよな? 「オー! マイゴット!」ペギーは目を丸くして大げさにすくみ上る。「なんということでしょう。それは大変でーす。分かりました。ゴールデンウィークにワタシの家族と会う計画はなしにしましょう。それどころではないでしょうから」 「本当にすまないペギー」俺は頷く。 「ですがダーリン」ペギーは気遣わし気な表情を浮かべる。「あなたがお姉さまを大切に思われているのは知っていますが、しかしお姉さまの妊娠はお姉さま自身に訪れた試練でーす。あなたには関係ありませーん。アメリカに行くことまで考えなおす必要はありません。でしょー?」 「いや。それが」俺はペギーの顔をしっかり見据えて本当のことを言った。「俺の子供なんだ」 空気が硬直した。 言ってしまってから俺は気付いた。ヤバい。この説明では何かとんでもなくとんでもない誤解が生じかねない。 俺が釈明の為に口を開く前に、ペギーは足元の砂を蹴って俺の顔面に浴びせた。狼狽える俺の足元に、ペギーは切れ味抜群の足払いをかける。体勢を崩した俺の頭部にペギーの小さな靴がのめり込んだ。 「クレイジー! マザーファッ(自主規制)! (自主規制)! (自主規制)! (自主規制)!」 ペギーは俺の頭をサッカーボールのように蹴りまくりながら豊富な語彙で俺を罵った。ペギーは地元じゃ有名な喧嘩自慢のクインビーで、マッチョでタフガイなアメリカの男達とも互角以上に渡り合っていた。その鍛え上げられたつま先かかとが俺の全身に雨の如く降り注ぐ。 「シスコンヤローめ!」ペギーは最後にそう叫んで俺に唾を吐き捨てた。目に涙が浮かんでる。「ワタシもうアメリカに帰りまーす! 二度とその薄汚い面を見せないでくださーい! ファッキンユー!」 立ち去っていくペギー。俺はボコスコに蹴りまくられた痛みと共に実感した。 俺、ペギーのこと好きだったんだなって。女の子として好きだったんだなって。それに気付いた。俺は失恋をしたのだ。俺は失恋をした男として一生涯を過ごすことが今決定したんだ。 ペギーは俺から離れて俺以外の人間と俺のことを軽蔑しながら生きていく。それを想うと胸が引き裂かれそうになった。失恋ってのはこうなんだね。キッツい報いだ。何せこれからの一生涯、射精するたびにアタマの中で『U・S・A!』が流れるんだもの。地獄と言って差し支えない。 まあそんでも立ち上がらんといかん。俺よりよっぽど酷い目に合っただろうペギーが、あれだけ力強い足取りで夕日に向かってるんだから。 姉貴の卵が孵ったら何が起こるか分からない。そこにペギーだけは巻き込むことができないんだ。こうするのが正解なんだ。バイバイマイスイートハニー。そしてごめんよ。君よりも素敵な女の子を、俺は生涯見付けられないんだろうな。 俺は生まれたての小鹿の足取りで立ち上がると、実母と元恋人の二人にボッコボコにされた全身を引きずりながら、帰るべき我が家へ歩き始めた。 〇 帰宅するなり、俺は姉貴とママの間に立ちママに向かって土下座を慣行した。 「お願いだママ。その卵、孵させてくれないか?」 ママは腰に手を当てて俺の次なる言葉を待ち受ける。 「ママにも迷惑をかけると思う。ものすごい迷惑をかけると思う。でも俺もがんばるから。俺も頑張るし俺が一番頑張るから」 「おまえは良いのか?」ママは言った。「どういうことになるか分からないんだぞ? 理解しているか?」 「でも姉貴が産んだんだ」俺は言った。「姉貴にできた姉貴の大事なモノなんだ。俺は姉貴の味方なんだ。何が起きても覚悟してるよ。俺は姉貴を守る」 親の目にはあらゆる欺瞞は通用しない。だから俺は全力全開の覚悟と誠意をママにぶつけるしかない。この身が引きちぎれ焼け焦げて灰になったとしても、俺はこの卵が齎すものを全身に引き受けるのだと心に誓う。 「立ちな。日向」ママはそう言って溜息を吐いた。「立つんだよ、日向」 「ああ」俺は立ち上がった。 ママは俺のことを正面から抱きしめて来た。五十を超えた女性の特有の匂いがして肌は乾いていてガサガサとしていた。でもとても暖かかったし包み込むように柔らかかった。 「木陰は卵を孵すよ」ママは言った。「あれは木陰ものだからね。おまえ達が私のものだったように、あれは木陰のものだからね。孵すのは木陰の自由だ。それに寄り添うのはおまえの自由だ」 ママは強い力で俺のことを抱きしめた。もう何年もこういうことされていなかったから俺はいっそ困惑したような心地になる。三つや四つだった頃のことが否応にも思い出されて、安心して喜んでいる自分自身に対する情けなさが込み上げて来る。 泣きそうだ。だがそんなことをしたらヤバいんだ。ママの胸に顔をうずめて泣きじゃくるなんて、俺はもうそんなことをしてはいけないんだ。俺はママに助けてもらう以上に自分の力で姉貴と姉貴の卵を守って行かなくちゃいけないんだ。何を犠牲にしたとしてもそれは成し遂げられなくちゃいけないし、成し遂げられるだけの人間に俺はならなくちゃいけないんだ。 「がんばるんだよ」ママは言った。「血反吐を吐くまでがんばるんだ。そして大人になるんだよ。木陰と一緒にね」 〇 二階のベランダに置いてある小さなベンチに俺と姉貴はいる。 幼い頃からそこは俺と姉貴の遊び場でいろんな思い出が詰まっていた。町内を一望するには至らないまでも、向かいの公園とか近くの駅とか遠くの小学校とかを見ることができる。春の夕方の特有の匂いが暖かい風と共に届けられて来た。 姉貴は卵を抱いていた。姉貴の膝に乗ったそれは姉貴の胸の高さまで育っていて、中では今にも何かが飛び出しそうにうごめいていた。白い卵は夕焼けに照らされてオレンジ色になっている。 「姉貴さ」俺は尋ねた。「俺のこと異性としてどうこうとか思ってた訳?」 「ううん。家族だよ」姉貴は言う。「それに、それはひーくんの方だったでしょう?」 そう言われ俺は引き攣った表情で姉貴の方を見やる。姉貴はニコニコとしている。全部を見透かした顔をしている。全部を見透かした上で受け入れて優しく笑っている。 姉貴は全部気付いていたのだ。気付かれることに俺が耐えられないことを理解して黙っていたのだ。そして今日になって俺が耐えられるようになったことを察してそれを打ち明けたのだ。 俺は息を呑まされる。やっぱり『姉貴』だよなこの人は。敵わんよ。 なんてったってこの人は勝利したんだ。俺を自分のところに引き留める為の戦いに、過不足ない完璧な一手で勝利を治めたのだ。姉貴は俺のことを何もかも知っていてやるべきことを精確にやった。俺は全面降伏をして今もこうして姉貴に寄り添っている。 相手が悪かった。誰も姉貴には勝てない。誰も家族には敵わないんだ。気が付けばいつだって引き付け合っていて結びつき合っている。そう簡単に離れることはできない。それが家族なんだ。そのことを俺は理解しているつもりで何も分かっていなかった。 「あ、動いた」姉貴はきゃっきゃと卵を抱いて騒ぐ。「動いた、いますっごく動いた。今までで一番動いた」 「そうか」俺は言う。「なあ姉貴。こいつ、名前とかどうすんの」 「実は決めてる」 「そうか」そうだ姉貴が決めると良い。「なんてーの?」 姉貴は幸せそうにその名を告げる。「『きずな』」 触れずにわかるくらいに大きく激しく卵が動いて、てっぺんからぴりりと亀裂が走った。 産まれる。 |
粘膜王女三世 2017年04月30日 23時50分39秒 公開 ■この作品の著作権は 粘膜王女三世 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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合計 | 12人 | 200点 |
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