腐卵 |
Rev.01 枚数: 60 枚( 23,760 文字) |
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*拙作にはグロテスクな表現がそこそこあります。OKな方のみお読み下さい。 街が終わったその日、俺はいつも通りの朝を迎えていた。 「うらー!」 仕事でいつも朝早くに東京の方へ出てしまう両親の代わりに、せっせと自分の弁当にオカズを詰めていると、妹の詠美≪えいみ≫が蹴りをかましてきた。 「うわ、馬鹿!」 詰めようとしていたゆで卵が床に転がるのをすんでのところでキャッチしてから、俺、砂原慧≪さはら けい≫は詠美の方をキッと睨んだ。 「いきなり何かましやがる詠美!」 「女々しいことやってると、もてねえぞ兄貴!」 「うるせえ! 弁当作れる家庭的な男って見られるかもしれねえじゃねえか! ていうかむしろ俺はそう期待しているね!」 「あたしはワイルドな男が好きなんだよ!」 「なんだブラコンか」 「うがー!」 ぎゃーぎゃー騒いだり暴力的になったりもするが、詠美は決して悪い子ではない。ただ年相応のエネルギーのはけ口が欲しいだけなのだ。そして、両親が共働きであんまり構ってもらえないとくれば、それは必然的に兄の俺になる。 そんなこんなでいつもの馬鹿騒ぎをしていると、ぼちぼち登校時間がヤバくなってきたので、俺は詠美をせっついて家を出た。 「いやー良い天気ですわね、お兄様」 「小三にしては口調がババくさいよなお前」 「失礼ですわね。大人なレディっぽいと言って下さらない?」 「はいはい」 「適当だなー。ってあー! マリちゃーん!」 登校班の友達が手招きするのを見ると、詠美はそっちの方に向かって弾丸のように走っていった。 「じゃーねー!」 そう言ってぶんぶん手を振る妹に軽く手を上げてから、俺は自分の学校に向かってマウンテンバイクを漕ぎ始めた。 その日の朝は本当にいつも通りで清々しく、その後に起こる惨劇は気配すら見せていなかった。 いや、そういえば一つだけあった。 幹線道路の途中で、俺は風変りな女の子に出会った。 男のような短い髪をした、俺より少しだけ年下の女だった。そんな髪型と、黒革のジャンパーにベージュのチノパンなんて恰好をしていたので、遠くから見ると小柄な男にしか見えない。しかし近付いてみるとその丸みを帯びた顔立ちと体付きは間違いなく女のもので、しかもなかなかの美少女だということが分かった。 そんな子が平日の朝に、歩道に突っ立っている時点でかなり風変りだとは思うが、それ以上に特別な印象を俺に与えたのは、顔に浮かぶ表情だった。 その顔には、ひどく冷めたい何かが宿っていた。張りつめ、こわばった顔は同級生達とどうでもいい話で盛り上がっているような年頃には、あまりにも不釣り合いだった。 そんな風にその女の子を見ながら、自転車を漕ぐ俺に、彼女は気付いたようには見えなかった。どこか遠くに考えを飛ばすかのように、宙を見つめたまま立ち尽くす彼女はしかし 「遠くに逃げて」 と俺が横を通り過ぎようとしたとき、唐突に口を開いた。 ブレーキを鳴らしてマウンテンバイクを停めると、俺は思わず周囲を見回した。 人通りもまばらな桜並木には俺と彼女以外に誰もおらず、どうやら唐突に発せられたあの声は、俺に向けられたものらしかった。 「この街から、遠くに逃げて」 戸惑う俺に、相変わらず空の一点を見つめたまま、彼女はもう一度言った。何の説明もなく、ただ事実だけを告げる言葉は、冷たく、俺の耳に響いた。 「酷いことが起きるから」 そう短く告げると、彼女はちらと俺を見た。 深い井戸のような、暗い瞳が俺を映す。 互いの視線が交差したのは、ほんの数秒のこと。見つめあっていた俺たちに、突然強い風がどこからともなく吹いてきた。 桜並木を揺らすその風に、思わず目を閉じた俺が再び目を開いてみると、彼女はそこにいなかった。風と共に消えた彼女の姿を探したのは、ほんの少しの間のことで、そろそろ時間がヤバいことに気付いた俺は、学校へ向かってペダルをこぎ始めた。 * 俺の通う公立高校は住宅街のど真ん中に、その四階建ての古びた姿を屹立させている。 どこもそうらしいが、学校という建物は年長者に優しい設計になっていて、一番の年長者の教師達が使う部屋は一階、三年生は二階――という風に、若ければ若いほど教室に行くのが大変になっている。 歳と共に運動力が落ちるからなのだろうが、むしろ低下の予防のために年寄りを上の階にした方が良いのでは――と教育委員会辺りを呪いつつ、俺は二年生の教室まで階段をすっ飛ばし、自分のクラスに到達した。 机に座り込むのとほとんど同時に、八時半の予鈴が鳴る。 「相変わらずギリギリやったね、ケイちゃん」 声のした方に目を向けると、隣の席の相田悠≪あいだ ゆう≫が悪戯っぽく笑っていた。 悠は去年の9月に関西から転校してきたばかりの、結構可愛い女の子だ。彼女が転校してきた時も隣の席で、街に不慣れな彼女の面倒を色々見てやったせいか、二年に進級した今でも仲が良い。 「ふっ、だが今日も間に合ったぜ」 「うわーそんなドヤ顔しても全然凄くないでー」 「いやすごいぞ。こんなにギリギリでも未だに遅刻には一回もなってないんだぞ」 「たまたま運が良かっただけじゃないん?」 「んなわけなかろう。極力家でゆっくり寝つつ、学校に遅れないよう、俺は日々入念な計画と実践を繰り返してるのだ。このマネジメント力と脚力は絶対大人になっても役に立つと勝手に思ってるね」 そう俺が言うと悠はほっこり笑った。 この柔らかい物腰と抜けきっていない方言のせいで、悠は友達の中では癒しキャラとして通っている。 個人的な所感を述べさせてもらうと、彼女に対しては好意のようなものを抱いていたりもする。 そんなこんなでおしゃべりをしていたら、教室のドアが開かれた。 「はーいそろそろ黙れー。ホームルーム始めんぞー」 おしゃべりに花を咲かせていた生徒達に気だるそうに言ったのは担任の山本浩二≪やまもと こうじ≫、通称ヤマティーだ。 予鈴から大幅に時間を置いてから教室に来たり、気だるそうな口調をしていることからも分かるように、適当なところが結構多い。しかし、案外ノリの良いところもあって、クラスの皆からはそこそこ好かれている。 俺を含めた生徒達が教壇に椅子を向けなおしたとき、さきほどヤマティーが閉めたばかりのドアが再び開かれた。 そこからクラスに入ってきたのは、奇妙な女だった。 奇妙さで言えば、登校途中に会ったあの女とは比べ物にならない。 体をところどころフリルのついた白いロリータ調の服装で包んだ女の歳の頃は、よく分からない。整った顔立ちに能面のようになるまで白く化粧を塗りたくっているせいだろう。唇には血のように赤いルージュが引かれ、白い顔の中で亀裂のように浮かび上がっていた。ルージュと全く同じ赤色をした長い髪は、女が一歩を踏み出すごとに毒々しく揺れた。 女が教壇のヤマティーに向かって歩いていくと、カツカツ、と(これもまた真っ白な)ヒールの小気味良い音が、水を打ったように静まり返った教室に響いた。俺を含め、教室のクラスメイトは突然入ってきた女に呆気に取られ、黙ることしか出来なかった。その白づくめの恰好に加え、大きなキャリーバックを引いていることも、その異様さを際立たせていた。 ヤマティーの横に立つと、女はぺこりと俺たちにお辞儀した。まさか転校生? と思ってヤマティーの方を見てみると、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていて、戸惑っているのがよく分かった。 「あの……失礼ですが、どちら様で?」 「ああ、先生。お気になさらず、すぐに終わりますわ」 そう優雅に笑った女は、ぐるり、とクラスの面々を見回した。 「あなた方にとって、今日は人生最悪の日になるでしょう」 蠢く深紅のルージュから紡がれたのは、そんな意味不明なセリフだった。 「まずはそれを謝っておきますわ。この何の変哲もない、平和な一日をそうさせてしまうのは、この私なのですから。ですが、しょうがないことなのです。あなた方は、どうしようもなく矮小な、虫けらなのですから!」 そう言って、両手を上げ、女は、はぁ……と恍惚としてため息をついた。そんな女をヤマティーは半ば驚き、半ば呆れた表情で見ていた。 「あの……いきなり何を言ってんですか」 「ああ、失礼失礼。つい熱がこもっちゃった。この前観たアニメでこんな感じのキャラクターがいらしてね、ついつい真似したくなっちゃったんですの。ああ、それと申し遅れましたが、私、“ブリュンヒルデ”と申します」 「はぁ? よく分からないけど、これからこいつらのHRやらないとならないんで出て行ってもらえます?」 ヤマティーがそう凄んでも、ブリュンヒルデと名乗った女はにこにこと笑うだけだった。 「よく伝わらなかったかしらね。まあ、いいわ。もうこの子達の授業をする必要はないわ」 「は?」 「この子達は今日死ぬんだから。それもこれ以上無いってくらい、嫌らしい方法で」 そうブリュンヒルデは笑いながら言う。ヤマティーは呆れきったのか、少しも身じろぎせずただ女を見ていた。俺は隣の悠に話しかけようとして、自分の体に起こった異変に気付いた。 動かないのだ。 彼女の方に首を向ける、その僅かな動作すら出来なかった。話すことも出来ず、かろうじて動いた目で回りを見回すと、他のクラスメイトも同じように固まっていた。おそらくはヤマティーもそうなのだろう、奇妙な女の方を向いたまま、何もせずに動かない。 しかし、わずかに悠へ体を向けた状態で固まっていたおかげで、彼女の顔を見ることが出来た。 悠も、不安そうに俺の顔を見ていた。何が起こっているのか全く分からなかったけれど、彼女は助けなければ。そう思ってもやはり、体は微動だにしてくれなかった。 「何も説明せずにごめんなさいね。びっくりしたでしょうけど、あなた達の動きをちょっと止めさせて頂きましたわ。本当だったら皆さんのそのお口から絶望の叫びを聞きたいところなのだけれど、この人数だとうるさ過ぎるのでチャックさせて頂きましたわ」 そう楽しそうに言いながら、ブリュンヒルデはキャリーバックをよっこいしょ、と教壇の上に置いた。 俺たちの動きを止めた、とあの女は言った。超能力か何かを持っているのか、そんなものがあるはずもない――頭の中で混乱が渦を巻いている俺の目に、女がキャリーバックを開ける姿が入ってきた。 キャリーバックの中に詰められていたのは、卵だった。スポンジのようなもので間を仕切られた卵の数は、数十個にも上るだろうか。 それは今まで見たことのない、気色の悪い卵だった。大きさは売っている鶏卵と同じくらいなのだが、その表面には紫色の線が血管のように走っている。そして、卵が姿を見せた途端、鼻に迫るような嫌な臭いが届いてきた。 女がパチン、と指を鳴らすと、その卵達は一人でに宙に浮き、俺達の方に向かって飛んで来た。 鼻先に飛んできた卵は、近くで見るとよりグロテスクだった。血管のように見えた表面に浮かぶ線は、まさに血管で、ぬらぬらと艶を放ち、一定の間隔でどくん、どくんと蠢いていた。その表面からは、近付いた分さきほどよりも強く、何かが腐ったような臭いがした。 俺の中が、恐怖で塗りつぶされる。この妙な卵も、体が動かないことも、全てが分からず、恐ろしかった。叫び出したくとも体も口も動いてはくれず、ただ一つ動く目には、白いゴスロリ女が笑う姿が映っていた。 「あなた達は、これから偉大な存在をその身に宿すのです」 女の言葉と共に、異様な卵がゆっくりと俺たちの口元に移動してくる。それと同時に、動かなかった口が急に大きく開くと、その形で今度は固定された。これから何が起こるのか、察した俺はあまりの恐怖にパニックになる。しかし何も出来ず、俺の口は卵を受け入れるように開いたままだった。 「諦めなさい」 そんな女のセリフと共に、卵が口の中に入ってきた。口腔に入ると、腐臭を放つ卵は意思を持ったかのように自ら喉の奥まで滑り込んでいった。体は必死に吐き出そうとするが、そんなことはお構いなしに、卵は腹の中に入りこんでしまった。 「俺の生徒に何をした!?」 急に、ヤマティーが声を発した。どうやら金縛りが解けたらしい。 頭一つ身長が高いヤマティーに詰め寄られても、ブリュンヒルデはその奇怪な微笑みを微動だにせず、ゆっくりと言葉を紡いだ。 「さっき言った通りですわ。偉大な存在をその若い体に宿してあげたの」 「今すぐ戻せ!」 「それは出来ませんわ。一度埋め込まれた“殻≪かく≫”はすぐ心臓とくっついて離れなくなってしまうのですから。それに私、そんな勿体ないことするつもりはありませんわ」 「ふざけやがって!」 ヤマティーは拳を振り上げたが、ブリュンヒルデがすっと手を上げると、その姿勢のまま固まってしまった。 「あなたは、とてもいい先生なんですね」 なら生徒を導いて下さいな。 そう言って笑みを深めた女は、上げた方とは反対側の手をヤマティーの胸に当てた。 その手は次の瞬間、ヤマティーの胸に深々と突き刺さる。ぽかん、とした顔で刺さった手を見ていたヤマティーの口から、大量の血が流れ出る。女が手を引くと、その胸からも、勢いよく血が噴き出てきた。 教室に、悲鳴が弾けた。 一斉に金縛りが解けたらしいクラスメイト達は、恐慌に陥った。 その中にいる俺の頭に、何か生暖かい液体がかけられた。手で取って見てみると、それは真っ赤な血だった。 「さあさあ逃げて逃げて! 早くしないと先生みたいに殺されちゃいますわよ! と言いつつ殺しはしませんけど! ほほほほほほほほほほほほほほほほほ!」 そんなことを叫びながら、ブリュンヒルデは胸から血を迸らせるヤマティーの体を振り回し、逃げる俺たちに血をかけて回っていた。 もう、恐慌どころの騒ぎではなかった。恐怖の虜になった俺たちは、出口に向かって殺到し、女は笑いながら血をかけ続ける。自分よりも大きなヤマティーの体を抱え、振り回すその姿は、社交ダンスを踊っているかのようだった。 「逃げてー! はやく逃げてー! さあさあさあ逃げる~の~よ!」 歌うような女の声から、俺は逃げた。とにかくあの化け物から、一歩でも遠ざかるために。 校庭に出ても、地獄は続いていた。 快晴だったはずの空は今、異常な雲で覆われていた。雨を多く孕んだような厚い雲はしかし、血のような毒々しい深紅で染まっていた。そんな雲が空を一分の隙間もなく覆っていた。 その血のような赤に、吐き気を催していると、校庭のそこかしこに設置されたスピーカーから、誰かの話すアナウンスが聞こえてきた。 変質者が校内に侵入した、武器を持っていて危険なので、生徒は先生の誘導に従ってすみやかに校庭に避難するように、と、その声はノイズ交じりに言っていた。 同じ内容のアナウンスを声が繰り返している内に、校内からはぞろぞろと人が出てきた。もしかしたらその中に、あの化け物がいるかもしれない、と腰を上げかけた俺の脳裏に、悠の笑顔が浮かんだ。 そうだ、彼女を助けなければ。 今まで彼女のことを忘れていた自分に殺意を覚えながら、こみ上げる恐怖を押し殺しながら、校内に向かって歩き始めようとしたその時、校内から避難してきた一団の中に悠の姿が奇跡的に見つかった。 「悠!」 俺が呼ぶと、悠はぼんやりと俺を見てきた。 大丈夫か、怪我は。そんなことを言いながら俺が手をかけると、彼女は膝から崩れ落ちるようにして地面に座り込んだ。 呆然、そんな言葉でしか表現できない様子だった。ヤマティーの血がこびりついた顔には、感情と呼べるものが無かった。 「ごめん……! 助けに行けなくて本当にごめん!」 彼女が生きていてくれたことの安心感からか、目から涙があふれた。持っていたハンカチで彼女の顔を拭いながら、俺は何度も謝った。 「……変な、女の人が来たんや」 俺にされるがままにしていた悠は、そうぽつり、と呟いた。 「……大丈夫、あの女はここにはいない。ここにいるのは皆生徒か、先生だ。白い女なんて、もうどこかに行っちまったからな」 恐怖のせいでそんなことを言っているんだろうと思った俺は、そう悠に声をかけた。話ながらふと、あの白い女の姿がどこにも見えないことに気が付いた。 どんな原理か分からないが、四十人近い人間の動きを止めたり出来る化け物が、教師に追い払われるとは考え辛い。なら、どこに行ったのか、という俺の内心の疑問に答えるように、悠が言葉を続けた。 「ううん、違う女の人が来たの」 「違う女?」 「そう、黒いジャンパー来た、小さな女の人。その人が窓から飛んできて、白い女の人を刺したの」 脳裏に浮かんだのは、あの朝見た変な女だった。黒い革のジャンパー、得たいの知れない冷たさを宿した幼い顔立ち。 「その人の、手が伸びたの」 「悠?」 手が“伸びた”? 「手から黒いナイフみたいなんが伸びて、白い女の人を刺したの。白い人は笑いながら逃げてって、黒い女の人はそのまま追ってったの」 そこまで言ったところで、無表情だった悠の目から、大粒の涙が流れた。 「ねえ、何が起こってるん? 私ら、なんか悪いことしたんかなぁ」 そう肩を震わせる、おそらくは狂ってしまったのだろう悠を抱きしめる。 手から刃物が出てくるなんて、手品でもない限りありえない。恐怖とショックとで、幻覚か何かを見てしまったのだろう。 しかし――と、そこまで考えたところで頭の中で別の考えが浮かんだ。人の動きを勝手に止めたり、素手で胸を貫くような人間がいるのに、ありえない、と本当に言えるのだろうか。 「各クラスごとに整列しろー! ケガしたヤツは先生に言えー!」 校庭の演台の前で教師がそう怒鳴っているが、そこかしこで騒いでいる生徒達はなかなか集まれなかった。 それに、それどころではない連中もたくさんいた。俺と同じく、教室でヤマティーの死を見たクラスメイト達の多くは、呆然としたり、うずくまったまま動かなくなったりしていた。それを見た先生達が寄り添っているが、皆なかなか立ち上がれない様子だった。 「おい、大丈夫か?」 そんなクラスメイトの一人に、初老の教師が話かけているのが見えた。その生徒は体育座りの姿勢で固まったまま、少しも動かないようだった。 しかし、精神的なショックを受けているにしては、そいつの様子は少し変だった。 ぴくりとも動かないと思っていたそいつの体は、よく見てみると、小刻みに震えていた。その震えは徐々に大きくなり、いつしか体育座りの姿勢のまま、痙攣を起こしたように数秒ごとにびくん、びくん、と体を大きく跳ねさせるようになっていた。 ふと、俺はあの奇怪な卵を飲まされたことを思い出す。 まさか、あの卵のせいで何かしらの病気が起こっているのか。そう心配になって、その震えるクラスメイトに駆け寄ろうとしたとき、 そいつの体から一本の腕が生えた。 正確には、毛むくじゃらの手が、そいつの背中を突き破った。ぬらぬらとした血をしたたらせながら生えた腕は、二メートル近い。ほとんどその生徒の胴体に匹敵するほどの太さの巨大な腕は、俺たちを見下ろすかのようにゆっくりと肘を伸ばした。 腕は、人間のそれとは大きくかけ離れた姿をしていた。上腕に当たる部分が前腕よりもかなり長く、手の指は数えてみると六本ある。さらにはその指の付け根の間には、白目の部分が黄色くなった瞳が据えられていて、それぞればらばらに瞬きを繰り返している。 悲鳴が、校庭に木霊した。 しかも、悲鳴のもとは、一つではなかった。見れば校庭のそこかしこ――俺のクラスメイトが蹲っていたところで、様々な化け物が生まれていて、それを見た生徒達がパニックを起こしていたのだ。 「――あぁァ」 野太い、声らしきものが俺の耳に入った。クラスメイトから生えたあの巨大な腕から、どうやら発せられたものらしい。見てみると、その巨大な手のひらの真ん中に、サメのような牙が生えそろった大きな口がいつの間にか出来ていて、さきほどの声はそこから出たようだった。 あくびのように呻いてから、その化け物は立ち上がる。正確には、その巨大な腕の根本にあたるクラスメイトの体が、むくりと立ち上がったのだ。しかしその体には、クラスメイトの意思が存在しているようには見えなかった。 「あ――」 事態が全く呑み込めていない様子の、教師がそう呻いた。その短い言葉が、そのまま遺言になった。 目玉と口のついた巨大な腕が、教師の体を吹き飛ばしたのだ。 教師を殺したその腕は、その五つある目を、今度は俺と、悠に向けた。 「走れ!」 力の抜けきった悠を励まして、生徒や教師達が逃げ惑う校庭を、俺は走り出した。 それからどう逃げたのか、自分でもよく覚えていない。気付いたら俺は悠と一緒に住宅街の路地にいて、荒い息を整えていた。 何がどうなっているのか、全く持って分からない。 女の姿をした化け物が突然やってきてヤマティーを殺し、それから逃げたと思ったら今度はクラスメイトが次々に化け物になった。 そうして今までのことを思い返していた俺はふと、あの白い女の言葉を思い出した。 “あなた達は、これから偉大な存在をその身に宿すのです” そして体内に入り込んできた、腐臭を放つ奇怪な卵。 あれを呑んだせいで、皆化け物になってしまったのか。 なら、俺と悠も――。 「……悠、立ってくれ。ここからとにかく離れよう」 そう言ってうずくまった悠を無理やり立たせる。もう言葉も発しなくなった悠は、ただ静かに涙を流すだけで、俺が手を引くと抵抗もせずに立ち上がった。その姿は、痛々しくも、愛おしい。 そんな彼女があんな化け物になってしまうなんて、考えたくもなかった。 クラスメイト達から生まれた化け物たちは逃げ惑う生徒達を追って、周囲へ散らばってしまい、今も遠くから、あの化け物たちに襲われた人々の悲鳴が時折聞こえてくる。 とにかく少しでも、あの化け物たちから離れるために、俺は悠と住宅街を歩き始めた。 歩き始めたのだが、俺たちはすぐにその足を止めなければならなくなった。 「……なんだ、これ」 空には今も、あの厚く、血のような赤に染められた雲が垂れこめていた。空にしかないはずのその雲が、俺たちの行く手を塞いでいた。 それは異常としか言いようのない光景だった。空から降りてきた雲が、路地を完全に覆っていた。厚く、そして気味の悪い赤色を帯びたその雲に遮られた道の先を見通すことは出来ない。おそるおそる、その雲に向かって手を伸ばそうとしたとき、小さな呻き声を立てて、悠が膝をついた。 「どうした、悠」 「ケイちゃん……どないしょ、胸が、苦しい」 思わず、息を呑む。苦しそうに顔を歪める悠も、不安を浮かべた表情で、俺を見返してきた。 「あたしも、皆みたいにオバケになっちゃうんかなぁ」 「馬鹿、そんなことあるはずない! あれは、あれは……」 そんなことになるはずがない、そう自分に言い聞かせる俺の前で、悠の体から、みちり、という嫌な音が聞こえた。 「がっ……」 苦しそうに呻き、悠は地面に倒れ込んだ。自分を抱きしめるような姿勢で地面に横になった悠の背中の辺りで、制服が波打つのを、俺は確かに見てしまった。 まるで、触手か何かがその下で蠢いたようだった。 「しっかりしろ、しっかり……」 「ケイちゃん、逃げて」 油汗を顔一面に浮かべながら、それでも悠ははっきりとした声で、そう言った。 「あたし、ケイちゃんを死なせとうない」 「そんなこと、あるはずないだろ!」 「いえ、その通りよ」 冷水でもかけるように、固い声がかけられた。 声のした方を振り向く。そこにはいつの間に近付いていたのか、朝見た、黒い革のジャンパーを着た小柄な少女が立っていた。 朝見た時と比べて、その風情は大分変っていた。黒いジャンパーとチノパンには、誰のものか、赤い血が所々にこびりついていた。 血糊が付いて凄惨さがより増した顔の女の子は、俺と悠の方に近付き、冷静に、事務的な口調で言葉を続けた。 「あなた達が呑み込んだ卵のようなものは、“殻”と呼ばれる化け物を生み出すための装置よ。呑んだ人間と、“殻”を基に、あの化け物達はこの世界に生まれることが出来るの。一度埋め込まれた“殻”は直ぐに人間の心臓と同化し、離れなくなってしまう」 「あんた、なんでそんなことを知ってる?」 「“殻”から生み出されるあの化け物共は、“殻”が埋め込まれてからほとんど一時間以内に、人間を突き破って生まれてくる。人間から生まれたばかりのあいつらは、あなた達が学校で見た通り、理性もなく、ただ周囲の動く物を殺し続ける。そして、何度も言うけど、一度“殻”を埋め込まれてしまうと、それを取ることはもう、出来ない」 俺の問いかけを無視したその黒い女は、地面に倒れた悠の脇にひざまずいた。 「あなたを救うことは、私には出来ない。ただ、殺すことは出来る。大切な人を殺してしまう前に、転生者を、その核となる人間もろとも殺すことが、私には出来る」 苦しそうに顔を歪ませながら、それでも悠は女の目をしっかりと見ていた。 決断を求めるように、女の視線が悠へ注がれる。二人が視線を交わしていたのは、ほんの数秒のこと。悠は目を閉じ、そして力のなくなった小さな声で、それでもしっかりとこう、言った。 「お願い」 女は小さく頷くと、その右手を空に向かって掲げた。 その右手が、中指と薬指の間でぱっくりと裂けた。裂けた手の間からは、黒く、鋭い、刃のような物体が出てくる。それは厚く、不気味な質感を持った刃だった。形は草刈りに使う鎌に似ていたが、その幅は鎌の倍はあった。素材は金属のようでもあったが、どこか肉のような艶も持ち、その厚い幅と相まって暴力的な印象を見ていて覚える。十五センチほどの長さに伸びたその刃を生やした女は、悠の胸の辺りを見据えているようだった。 「やめろ!」 止めようとした俺の体を、女の左手がそっと押す。その穏やかな動きとは裏腹に、押された俺は数メートルの距離を吹き飛ばされ、地面に無様に転がる。呻くことしか出来ない俺の目に、悠が、あの、穏やかな笑顔を浮かべる姿が目に入ってきた。 「ケイちゃん」 こんなときに悠は何故か、いつも教室で聞くような話し方で、俺の名前を呼んだ。 「好きやった――」 悠の胸に、女の右手が突き刺さった。 俺と女は、悠の体を抱えて、近くの民家の中にひとまず移動することにした。平日の昼間の民家に、人はいなかった。 留守だったのか、それともあの化け物達に襲われたのか、逃げたのか。無駄なことを考えるのはやめて、俺は女と一緒に民家の一室にあったベッドに、悠の体を横たわらせた。 たぶん、俺と同じくらいの年頃の女の子が使っているのだろうベッドに、遺体を置くのは少し気が引けたが、それでも地面や床にそのまま悠を置いておくのは可哀そう過ぎた。内心で持ち主に謝りながら、俺は悠の体を清めることにする。 家にあったタオルを拝借して涙と泥で汚れた顔を拭い、穴の空いてしまった胸を隠すように、掛け布団をかける。彼女の顔にも白い布をかけてやり、手を胸の前で組ませてやる。 そこまでの作業を終えてから、俺はようやく彼女の声をもう聞くことが出来ないのだと実感した。 悠のいる部屋から出た俺と少女は、リビングに移動するとそこの椅子に腰かけた。この家に住んでいる人に向けて、部屋に悠の遺体を置かせてもらったこと、迷惑だけれども非常事態なので勘弁してほしいことを書き置いてから、俺は木製の椅子に体を任せた。 疲労で体重が倍に増えたような感じがした。 「手伝ってくれて、ありがとう」 俺がそう言うと、斜め向かいに座った少女は少し驚いたようだった。 「私を、疑わないの?」 「何を?」 「手の中から刃物出すような女よ。あいつらの仲間だとは、思わなかったの?」 ブリュンヒルデと名乗る女が、血をまき散らす様子と、目の前の女の子の右手から黒い、刃のような物が出る光景が、脳裏に蘇る。 「……なんとなく、お前は助けてくれそうな気がしたから」 細かく考えてる暇は無かったよ、俺がそう言うと彼女は「そう」と応じた。 固い表情を、心なしか和らげたように見えるその風情を見ながら、俺は彼女に尋ねた。 「あいつらは、一体何者なんだ」 「あいつらは、自分達を“転生者”と呼んでいるわ。その名の通り、別の世界から転生してきた、化け物よ」 少女が話したのは、素人が書いた下手な小説のような、こんな話だった。 曰く、あのブリュンヒルデを筆頭にした化け物達は、俺たちの住む地球から遠く離れた宇宙に生きていた物なのだそうだ。生きていた、とは言っても、彼らは肉体を持たない。宇宙に浮かぶ人間では感知しえない物質を媒介に、増殖と発展を続ける、情報生命体だった。もとは彼らも肉体を持った存在だったが、文明を発達させ過ぎた結果、肉体を必要としなくなったらしい。 しかし、彼らはいつからか、あの“殻”を手に入れ、地球に存在するようになってしまった。それがどんなきっかけからかは分からないし、何万光年も離れた地球へ転生できるそのメカニズムも分からない。しかし彼らは、“殻”を使って地球での仲間を増やし、こうして遊び半分に、人間たちを殺して回っているのだそうだ。 話を聞き終えたとき、俺は思わず笑ってしまった。 「冗談だろ?」 「冗談、だったらいいのだけど……私は知りえたことを、嘘偽りなくあなたに話しているわ。もしかしたら間違っているのかもしれないけど、あいつらが戯れに殺戮を繰り返しているのは間違いがない」 胸を貫かれたヤマティー、そして、クラスメイトから生えた腕、その腕で吹き飛ばされた教師。 「どうして、あいつらは人を殺すんだ?」 「たぶん、娯楽」 「娯楽?」 「肉体を捨てた彼らは、肉体による制限から解放されたものの、それに伴う喜怒哀楽を失うことになった。ただ宇宙に浮かんでるだけじゃ味わえない感覚を、地球で味わってるみたい」 「そのために――」 そのために、先生達やクラスメイト、そして悠を、死に追いやったのか。 疲れと、悲しみが通り過ぎた後、感じるのは怒りと憎しみだった。 「妙なことは、考えないで」 そんな俺の内面を察したのか、彼女はそう言ってきた。 「地球上のどんな物質を使ってもあいつらを傷をつけることは出来ない。敵討ちなんて考えないで」 「それでも――」 「大丈夫」 女は――と言うか、少女のようにしか見えないその女は、決然とした表情で短く言った。近くで見ると中学三年くらいにしか見えないその顔に、その言葉はとても不似合いに見えた。 「私が一匹残らず殺すわ」 「……そんな異常な化け物を、どうやって殺すって言うんだ」 「転生者は、転生者でしか傷を付けることが出来ない。そして転生者同士はとても仲が良いから、人間があいつらに対抗するのは、まず不可能。ただ、あいつらを生み出す不思議なあの卵――“殻”は、完璧なものではないの。“殻”は人間の肉体をあいつらにとって最適な形に再編させ、支配する機能を持つのだけど、ごくごくまれに、その支配があいつらではなく、人間の側に移ってしまうことがある」 そう言って女は、右手の指の間から、あの黒い刃のようなものを出した。十五センチほどになるその刃を女は反対側の手でなぞりながら、言葉を続けた。 「私も、あなた達と同じように“殻”を飲まされた。そして、そのごくごくまれな奇跡が起こってしまったの」 そう言って、少女は刃を手の中に戻した。あんな物騒なものが入っていたとは思えない、つるつるとした女の子の手を見ながら、俺は頭がずきずきと痛んでくるような気がした。 この数時間の内に見聞きしたもの、その全てが俺の常識や想像の範疇を大きく超えていて、とてもじゃないけれど、理解しきれない。彼女に対して疑問をぶつけたくても、何から聴けばいいのかよく分からない。 混乱する俺の口から、苦し紛れのこんな質問が出てきた。 「君、名前はなんて言うんだ?」 「え?」 そして目を丸くした彼女は、少しだけ、くすりと笑みを見せた。こいつを見てから初めて、外見通りの表情を見ることが出来た気がした。 「黒木マナ、マナって呼んで。ええと――」 「砂原慧。砂原で頼む」 下の名前で呼ばれると、悠の顔が浮かんできそうな気がしたので、俺は彼女にそう頼んだ。 マナはそんな俺のお願いに小さく頷くと、目の前に手を出してきた。少しはにかみながら出された手に、ほんの少しだけ、驚かされる。 俺は彼女のその小さな手をしっかりと握ったのだった。 * マナと一緒に歩く街の中は、酷いものだった。 ブリュンヒルデが出現したとき、何人の人間が街にいたのか分からない。ただその大多数が今、死体となって街じゅうに転がっていた。 「見ない方が、いい」 横を歩くマナはそうは言ってくれたものの、視線を背けようとすればするほど、道々に転がる遺体の血の臭いは、つよく鼻孔を刺してくるようだった。 校庭に出た時から見えていたあの、血のような色をした雲は、やはりただの雲ではなかった。マナの言うところによれば、あれはブリュンヒルデの持つ力によるもので、任意の空間を完全に遮断する、特殊な雲なのだそうだ。触れれば即座に細切れにされ、中に入ってしまったものは出られず、外から助けにも入れない、とても悪趣味なものだ。 マナが確認したところによれば、雲は俺の高校を中心に半径二キロの正円状に広がっていて、その中には妹の詠美が通う小学校も含まれていた。 両親はここから遠く離れた東京に仕事に出ているので心配はなかったが、詠美は間違いなく、俺と同じ地獄にいる。 どうしてわざわざそんな空間を作り上げたのか。人殺しをするだけなら、空間を遮断しなくても出来るんじゃないか。そう疑問を呟くと、マナは一目でわかるくらいに表情を曇らせた。 「ごめんなさい。たぶん、私のせいなの」 「お前のせいって……」 「たぶん、あの女は、私をハメるためにこんな騒ぎを起こしたの」 「どういうことだ?」 「転生者達にとって私はとても危険な存在。この地上で無敵のはずの奴らを傷つけることが出来るのだから。私達の抹殺のために、奴らは今まで何度も攻撃を仕掛けてきたのだけど、今までなんとか、撃退したり、逃げてきたりすることが出来たの。たぶん、わざわざこんな空間を作ったのは、私を逃がさず、殺すため」 「そのために、俺のクラス全員に“殻”を埋め込んだり、この空間を作り出したってことか」 「私が今日、この街に来たのはブリュンヒルデと数十個もの“殻”の気配を感じたからなの。そんなこと、今まで無かったから。考えてみれば、これみよがしに“殻”を持ってたのも、私を誘い出すための罠だったんでしょう。逃げ場の無い閉鎖された空間と、その中で“殻”から羽化させた数十体の転生者で、私を殺すつもりなんでしょうね」 「……」 「……そう、私がのこのこと、この街に踏み込まなければ、学校の人たちや、街の人たちは殺されずに済んだかもしれない」 ごめんなさい、そう沈痛な面持ちで告げるマナに、俺はあえて明るい声を出そうと努めた。 「いや、悪いのはあの化け物達だろ。お前がいなくたって、あいつらは俺たちを殺し始めてたかもしれない。それに、お前がここにいなかったら、妹を助けに行くことも出来なかったしな」 俺たちは今、妹の詠美を助けるために、小学校に向かっていた。妹が小学校にいることを告げたら、二の句もなく、マナが助けに行こうと言ってくれたのだ。その返事を期待はしていたものの、無理ではないかと危ぶんでいた俺は、その返答に、正直驚かされた。 今の話を聞いて分かったが、自分のせいでこの地獄が生じてしまったと、彼女は悔いているらしい。 そうして、俺達は、道端に並ぶ死体を見る度に焦りを感じながら、小学校に向かって進んでいたのだが、ふと、もう一つ疑問が浮かんできた。 「それはそうと、お前、俺と一緒に行動してても大丈夫なのか?」 「何、が?」 「いや、俺もあの“殻”……だったけか、あれを呑んじゃってるんだぞ。いつ、あんな化け物になるか分からないヤツと行動してて、危なくないのかなと思って……」 「……言ってなくて申し訳なかったんだけど、それは、あなたは私達と同じ存在になる可能性があるからなの」 「っていうと……」 「私達みたいに、転生者から肉体の支配を奪った、ごくごく稀な存在に、よ」 ちょっと前のマナの話からもあったように、“殻”を埋め込まれた人間が転生者となるまでにかかる時間は、ほとんどが一時間以内だ。しかし俺は埋め込まれてから既に三時間以上が経過しているにも関わらず、転生者になることもなく行動出来ている。そして、そんな人間は滅多にいないのだそうだ。 「私以外にも少数だけど、転生者と戦う人達がいるの。その人達も決まって、“殻”を埋め込まれてからあいつらになるまでにすごく時間がかかったの」 「俺も、お前らと同じになる可能性が高いんだな」 「そう。ただ、確実ではないから、いつでも殺せるように近くにはいさせてもらう……言っていなくて、ごめんなさい」 「……いいさ、あいつらになるくらいなら殺された方がマシだ」 そう、悠のように。 後ろ向きになりがちな気持ちを押さえながら、俺は死体だらけの街を進んでいった。 人気の無くなった路地を、転生者の影に注意しながら、俺達は進んだ。地面に転がる死体を避けながら歩いている内に、自分が死体を見てもなんとも思わなくなっていることに気が付いた。 死体から臭う血を嗅いでも、既に何も感じず、淡々と足を進めている自分は、どう考えてもただの高校生にしては不自然だった。 もしかしたら、これもあの“殻”とかいう物を植え付けられた影響なのだろうか。あの卵にはもしかして、埋め込まれた人間を精神から転生者に近付ける作用もあるのではないだろうか。 そう考えている俺の顔の前に、急にマナの手が差し出された。思わず立ち止まった俺の服をひっぱり、マナは地面に伏せるように仕草で示した。 そうするマナの視線の先を見ると、一匹の転生者がいるのが見えた。俺たちがいた路地から二十メートルほど離れた道の真ん中にいる転生者は、ぱっと見た感じは人の形をしている。しかし、校庭で見た他の奴らと同様に、そいつの姿はかなり歪だった。 体表は粘液で覆われた銀色の肌で覆われていて、まるで魚のようだった。その顔は魚そのもので、大きな瞳がぎょろぎょろと、周囲をしきりに見回している。顔と首と肩がほとんど一体になった体から、太い、筋肉の盛り上がった手足が伸びている姿は、やはり、見ているだけで気分が悪くなってくるような気がした。 あれも、俺のクラスメイトの誰かが変化してしまったものなのだろうか。 その半魚人のような転生者の方をしばらく見ていたマナは、小さく深呼吸をした。小さく、長く、腹に溜まった空気を出し切るように息を吐いたマナは、次の瞬間には、姿を消していた。 彼女の姿を見失った俺の目に次に映ったのは、あの転生者が首を切られる姿だった。 転生者との距離をたった一度の跳躍で縮めたマナは、その勢いを乗せた一撃で、転生者を屠っていた。右手に、あの黒い刃を生やした彼女は、攻撃をそれで止めず、返す刃で胴体を横に切り、さらに心臓に当たる部分を突く。 青い体液をまき散らしながら、魚のような転生者は倒れた。その人間離れした動きに、俺はあっけに取られることしか出来なかった。 「早く移動しましょう。仲間がやられたことを察知した転生者が、すぐに近づいてくるから」 そう早口で言ったマナは、俺の方に近付いてくると、首根っこを思いっきり掴んできた。 「って、何を――うわ!?」 何をするのか、俺が聞く間もなく、マナはその細い腕に俺をお姫様抱っこの姿勢で抱えると、そのまま走り出した。思いっきり爪を立てられた痛みに抗議する間もなく、風のようにマナは走る。 あっという間にあの魚のような転生者のいたところから離れ、俺たちは一件の民家の庭に音もなく降り立った。 そこで下してくれたマナは、あれだけの運動にも関わらず、汗一つかかずに、ただふぅ、と一つ息をついた。 「すごいんだな、お前」 「だって、人間じゃないもの」 そう言って、マナは苦笑いをこぼした。 「体はあいつらに作りかえられるから、あんなことが出来るの」 マナは年下にしか見えない、可愛らしいという言葉がぴったりの顔で、恐ろしく寂しいことを呟いた。 「……ごめん、言い方が悪かったかもしれない。とにかく、お前のおかげで色々助かってるよ」 「いえ……」 そう言葉少なに言うと、彼女は直ぐに歩き出した。 孤独で、非情な戦いがその背中に乗っかっているような気がした。それに耐える彼女の姿は、不憫としか、言いようがないように、俺には見えた。 * 詠美のいる学校る学校は、正門が吹き飛ばされていた。 普段はレールの上でなんとか押せるくらいに重い、あの学校の正門が、今はまるで折れた割りばしのような形になり、本来の位置から十メートルほど離れた位置に飛ばされていた。 玄関、校庭、校舎、その全ては血で染まり、生徒や教師の姿はどこにも見えなかった。そして不可解なことに、死体までどこにもなかった。 正門を抜けるのとほぼ同時に、俺は三年生の詠美の教室に向かって走り出した。 血でぬるぬると滑る廊下を苦労して走りながら、ようやく辿り着いた教室のドアを開ける。そこもまた血で染まった教室にはしかし、詠美の姿は見えなかった。 「詠美!」 人気のない教室に叫んでも、応じてくれる声はなかった。募る焦りをなんとか抑えながら、俺は他の教室、他の階にも、詠美を探すが、妹の姿はどこにも見えなかった。 途方にくれる俺の傍に、いつの間にかマナが立っていた。 「転生者がどこにいるか分からない、注意して」 そう言ってから、彼女は申し訳なさそうにかぶりを振った。 「他の教室にも、誰もいなかった」 「……畜生」 血に濡れた廊下の真ん中で、俺は頭を抱えた。この学校中にまき散らされた血を見ると、多くの命がここで奪われたのは間違いない。その中には、詠美もいるのかもしれない。絶望が頭を占めようとしたその時、俺の脳裏にふと、ある考えが浮かんだ。 「……体育館だ」 「え?」 「一度妹がそこで行方不明になって大騒ぎになったことがあるんだ!」 大急ぎで校舎の一階まで降りた俺は、その南側にある渡り廊下、その向こう側にある体育館へ向かった。 カギのかかっていない体育館のドアを開けると、そこには誰の姿も見えなかった。ここでも何かしらの惨劇があったのか、おびただしい量の血はこびりついていたが、人気は全くなく、死体もどこにも見えなかった。 この体育館で、詠美が行方不明になって大騒ぎになったことが昔あった。 午後の体育館でのクラブ活動の後、あいつの姿が忽然と消え、夜遅くになっても家に帰らなかったことから、警察まで呼んでの大騒ぎになったのだ。しかし真相は変質者に攫われたのでも、事故にあったのでもなく、クラブ活動に退屈したあいつがこの体育館のある場所に隠れて、そのまま眠ってしまったというだけのことだったのだ。 もしかしたら、また同じところに隠れてこの騒ぎをやり過ごしているかも、そう考えた俺の予想は、的中していた。 体育館の奥の演台の下は行事の時に使う椅子入れになっているのが、学校の一般的なスタイルになっている。椅子が入った引き出しが何列も並んだ中の一つを開けた俺の目に、生きている詠美の姿が入ってきた。 列の中の椅子を他の列へ押しやって作ったスペースに、二人の同級生らしい子供達と一緒に収まっていた詠美は、いつもの元気な様子からは想像も出来ないような怯え切った顔で、俺を見てきた。 血にまみれ、目を大きく見開いた彼女は、ずっと暗い中にいたせいか、それとも気が動転していたせいか、俺を見ても誰なのか分からない様子だった。それでも俺が名前を呼ぶと、その大きな目に涙をいっぱいに浮かべ、俺に抱きついてきた。 「詠美、大丈夫か? ケガは?」 「兄ちゃん、兄ちゃん、兄ちゃん……!」 俺の声掛けに冷静に応じることが出来ない様子で、詠美は俺のことを呼ぶだけだった。それでもその小さな、温かな体を抱きしめると、俺も思わず涙を流してしまった。 「怖かったよう」 「ああ、もう大丈夫。友達と一緒にここから出よう」 詠美を抱えたまま、怯えた様子の二人の子供達を手招きして、体育館の出口に向かって移動させる。詠美の友達らしいその二人も、ケガをした様子はなく、しっかりした足取りで外に出てきた。 「変な、怪物がやってきて、皆を――」 「いいから、喋るな。まずは安全なところに移動しよう。話はそれから――」 と、詠美の背中をぽんぽんと叩いてやりながら歩いていると、いつの間に来たのか、マナが体育館の真ん中に立っている姿が見えた。 その表情は、恐ろしく険しい。 不吉なものをそこから感じた俺は、詠美の体をぎゅっと抱きしめて、マナに声をかけた。声が震えているのが、自分でも分かった。 「マナ、どうしたんだ? 見てくれ、妹はなんとか無事に――」 「砂原。“それ”からすぐに離れて」 心臓が跳ねるように大きく鳴った。 「何、言ってる」 「それは妹さんじゃない」 そう言いながらマナの手から、黒い刃が伸びる。それを見るのとほぼ同時に、俺の手の中の詠美の感触が、ぐにゃり、と変化した。 固体だったものが一気に液体になったかのような、変な感触だった。同時にしっかりと感じていたはずの温かさも無くなった詠美の体は、崩れるように俺の腕からすり抜けていった。足元に落ちた、詠美の形をしていた何かは、急激にその形を変化させ、触手のようになると、俺の体に巻き付いてきた。 茶色がかった肌色のその触手は、長く太い、一本の紐――いや、蟯虫のようなものだった。それは器用に形を変化させると俺の全身を締め上げてしまう。 俺を縛り上げた触手の先端――肉で出来た触手の、そこだけ大きく膨らんだ部分は、またも急速に形を変えると、大きな唇を作り、大きな笑みを浮かべて笑い声を出した。 「ハハハハハハハッハハハハハハ!」 その笑い声に抗するように、俺は叫んだ。絶望と、怒りと、憎悪が入り混じった俺の叫びが体育館に響き渡るのとほぼ同時に、その唇のど真ん中に、黒い刃が突き立った。 マナの手から伸びた、刃だった。数メートルの長さに伸ばした刃が巨大な唇の中に吸い込まれると、マナは手を上げ、唇の頭部に当たる部分を裂いてしまった。 唇は不快な叫びを止め、血のような紫色の液体を吹き出すとそのまま動かなくなり、地面にくたりと、力なく横たわった。 触手ごと地面に倒れてしまった俺の頭上で、マナが二体の転生者と刃を交わす。 詠美――の形をした転生者と一緒にいた同級生の二人も、転生者だったらしい。それぞれおぞましい怪物の姿に変化したそいつらは、はっきりと分かる笑い声を上げながら、マナと刃を交えていた。 しかし、その二体と戦うマナの優勢は明らかなものだった。 強い。二体の転生者をいなすマナの強さは、素人の俺から見ても明らかだった。その二体の首を刎ねてから、倒れた俺に、マナは近付いてきてくれた。 「……大丈夫?」 そう言って俺から触手を――詠美の姿をかたどっていた触手を、マナが外してくれると、俺は思わず、泣いてしまった。 「なあ、妹が――」 「化けていただけで、殺されたとは限らない。さあ、立って、もしかしたら――」 「もしかしたら、私達が近付いてくるかもしれませんことよ? 黒木マナ」 聴くも忌々しい声が、体育館に響いた。 二人で声のした方に顔を向けると、そこには白いゴスロリ調の服で身を固めた、女の姿をした化け物が演台の上に立っていた。 いたのはブリュンヒルデだけではない。演台の袖に、体育館の天井、入り口に、数十体にも及ぶ転生者が、俺たちの方を見ていた。 「さあ、餌箱に飛び込んできてくれた憐れな小鳥ちゃん達。いい感じに鳴いて下さいな」 「ブリュンヒルデ……!」 「黒木マナ。最強の転生者を宿してしまった忌々しいあなたも、今日で終りね。いくらあなたに支配を奪われた仲間が強力だからといって、この数の仲間を相手に立ち向かえるかしら?」 「生まれたてに、やられる私だと思うな――!」 「おお、怖い怖い。やせ我慢にしては大したものね」 視線で相手を殺せそうなほど、殺気を漲らせたマナを相手にしても、ブリュンヒルデはひるんだ様子もなく、中二病めいた口調で話しを続けた。 「諦めて、大人しく食べられなさいな。そうすれば痛くしないであげるから……人の話はちゃんと聴くものよ」 あの女が話をしている最中、マナの体のあちこちから刃が生えてきた。両手、肩、膝だけでなく、背中からもジャンパーを引き裂いて刃が伸びてくる。そのそれぞれが数多くいる転生者の方に向けられ、ほんの少しのきっかけで放たれるのが分かった。 「繰り返すけど、あなたに勝ち目はないわ」 「黙れ」 「ああ、だから人の話は聴くものよ。別に私は、数をそろえたから勝てると言っているわけじゃないの。もっと決定的な要因があるからよ」 そう言ったブリュンヒルデは、俺に向かって、人差し指を向けた。 その瞬間、俺の心臓が大きく跳ねた。 同時に一瞬で、俺の腕が、何か別のものに変化した。内側から爆発するような感覚と共に、金属のような固い表皮に覆われたものに変化した俺の腕は、勝手にマナの方に向かった。 異変に気付いて俺から飛びのこうとしたマナの体を、変化した俺の腕が捉え、その体を遠く体育館の壁に叩きつける。崩れ落ちたマナの体に追い打ちをかけるように、体は彼女の方へ飛んだ。 小さな彼女の体に馬乗りになった俺の体は、両方とも金属状に変化した腕で、彼女を殴った。 やめてくれ。体にそう頼むものの、完全に俺のものではなくなった腕は、執拗に彼女を殴り続ける。 「私達を誰だと思っていまして? あなた方、原生種族よりも遥かに長い歴史を持ち、進化を繰り返した偉大な生命体よ? その私達が、“殻”に生じた欠陥を放置するなんてことすると思いまして?」 俺の体がマナを殴り続けるすぐ後ろで、ブリュンヒルデが講釈めいた口調で話し始めた。 「現在、私達が使用している“殻”には、転生者が原生種族の意識に支配されてしまう、などというバグは存在しません。それと、埋め込まれた“殻”を好きな時に起動させることも出来るようになりましたわ」 それを知らなかったことが、あなたの敗因ですね。そう言ったブリュンヒルデは、体の大部分が金属のようなものに覆われた俺の体に、ぽんと手を乗せた。その瞬間、俺の体は動きを止める。 「あえて“殻”を起動させないで泳がせた人間にのこのこ近付いていくのを見るのは、大変愉快でしたわ。ああ、それと、あの余興はいかがでした? 新しい“殻”には、埋め込まれた人間の記憶を、転送する力もありますの。このオスの記憶から再現された妹の姿、とてもリアルだったでしょう? おかげでこのオスは“今はもうない”妹と再会できて、私達は素敵なショーを見れて、お互いにウィンウィン、な気分になれませんでした?」 心底楽しそうに言う、こいつは間違いなく化け物だった。 げぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ 女の周りで調子の外れた笑い声を上げる異形の化け物達も、どいつもこいつも、俺は、殺したかった。 しかしその殺意を実現することも出来ず、俺の体は異形の化け物達と一緒に、笑い続けた。 「……砂原の」 既に血まみれになった彼女は、息も絶え絶えな状態になっていた。それでも彼女は顔をしっかり上げ、ブリュンヒルデの方を見た。 「妹さんは、どうした」 「若いお肉って、私達大好物ですの」 にっこり笑ったブリュンヒルデ。その口に手を突っ込み、引き裂いてしまいたかった。 「一匹残らず、美味しく頂きましたわ」 「外道」 「なんとでも仰いませ、下等生物」 そう言うと、ブリュンヒルデの腹から、巨大な口が出現した。ゴスロリの服が裂け、白い腹の中心に出現した巨大な口にはサメのような鋭い牙が生えていた。 「最後にあなたの忌々しくも美味しそうなお肉を頂いて、この饗宴の幕引きとさせて頂きましょう。そういう訳でさようなら、黒木マナ」 「待って」 血に塗れた顔を、マナは俺の方に向けてきた。 「最後に、慧と話をさせて」 「あら……」 「お願い、どうしても、彼と話したい……」 まっ、と芝居がかった動作で口に手を当て、目をまん丸くさせたブリュンヒルデは交互に、俺とマナを見やった。 「そう、マナちゃんもお年頃なんですわね。さあさ、どうぞどうぞ。意味もクソもない愛の睦言、私たちにどうぞお聞かせくださいな」 ブリュンヒルデに調子を合わせるように転生者達の不快な笑い声が木霊す中、マナは口の端っこを微笑の形に歪めて、話し出した。 「慧……」 そう言って彼女は、ぐるりと転生者達を見回した。それぞれ異なる異形の化け物に囲まれた俺達は、おそろしく非力だった。 「この化け物達に人間が抗うことが出来る、唯一の武器って、なんだと思う? 転生者の支配を、たまたま奪えた、私なんかの力じゃない。理不尽への怒り、大切な物を守ろうとする心、立ち向かおうとする強さ――そういう心が、この化け物達に抗える、唯一のものだと、私は思う」 「心って……」 くっくっく、と笑いをこらえるブリュンヒルデに構わず、マナは俺だけを見て、話を続けた。 「妹さんのことを聞いて、あなたはどう思った? これから同じことが繰り返されるのを想像してみて……許せないと思った、その心がこいつらを倒せる、唯一の武器になるの」 熱のこもるマナの目に、俺の内心でこの化け物達への怒りが再び湧き上がってくるのを感じた。しかし、体は俺の意思とは反して、ただマナに向かって立つだけだった。 ただ、俺の体は他の転生者と一緒に笑うことはなかった。 「諦めないで、砂原慧。あなた達に埋め込まれた“殻”が、通常の物とは違うことに私は気付いていた。あなたの同級生を刺した時に分かったの。だから、あなたの“殻”に細工することが出来た」 転生者達の笑い声が止む。ブリュンヒルデの顔が、笑みの形のまま固まるのが、視界の端で見えた。 「街中で、あなたを抱えて走った時に、あなたの“殻”に細工することが出来たの。ただ、こいつらに気付かれないようにしたから、不完全なものに終わってしまったみたい。だからあなたは、この女の指図で転生者になった。でもまだ、分からない。あなたの意思で、転生者から自分の体を取り戻せるかもしれない――!」 「おだまりなさい、黒木マナ!」 ブリュンヒルデの腹の口が、マナの右腕を噛んだ。マナの絶叫が響く中、天井に張り付いていた転生者達が、俺の横に降り立ってきた。その顔には、どこか警戒心のようなものが浮かんでいる。 「そんな世迷言をおっしゃるもんじゃございませんわ。そんなこと言って私達の仲を引き裂こうだなんて考えは大ッ変ッ、浅はかですわ! その証拠にごらんなさい! 仲間はこうして、私の指示通りに動いて下さるのよ!」 そうしてブリュンヒルデが手招きすると、俺はずんずん、とマナの方に近付いた。そして金属となった腕を振り上げ、マナに向かってそれを叩き下ろした。 ざく、と手が肉に突き刺さる感触が頭に響いた。 俺は顔をブリュンヒルデに向ける。 女の顔は満足そうな形に固まっていた。 「ねえ……」 その唇の端から血が流れ出る。 「そんなことをしろとは、言っていませんことよ?」 俺の右腕は今、マナの右腕を噛んだ、腹の口の少し上の胸に、突き刺さっていた。手刀の形にして叩き込まれた腕を見た俺は、 にっ、と笑って、あの女を見てやった。 ぎゃああああああ 痛みによるものか、あの女の叫び声が、頭と腹の口の双方から出る。マナの右腕が女の腹から抜けたのを見ると、俺は左腕を女に叩きこむ。遠く吹っ飛んだ女に向かって一瞬で跳躍すると、そのまま馬乗りになり、女を殴りつけた。 ぐしゃり、とブリュンヒルデの体が潰れるのが、手の感触で分かる。 同時に、無数の転生者達が俺の方に向かうのが分かったが、その気配は、次の瞬間には根こそぎ消えた。 マナが伸ばした刃が、転生者達を切り刻んだからだった。 「人間ガアアアアアッ!」 潰れた顔からそんな言葉を出す女に、問答無用で拳を下ろす。女の叫び声はなかなか止まず、俺は腕を振るい続けた。 舐めんな、人間を舐めるな。 そんなことを叫びながら、俺は女を殴った。途中、背中に他の転生者の牙や爪が突き立つのを感じたが、それは大きなダメージとならない内に、マナの手によって除かれた。 ブリュンヒルデが失われたことで、化け物達の統制はなくなり、そうなれば手負いのマナでも、奴らを屠るのは容易かったらしい。 転生者達の断末魔とブリュンヒルデの悲鳴。それがなくなるまで、そう時間はかからなかった。 静寂が、体育館に満ちていた。人の血と転生者の紫色の血が入り混じり、奇怪な現代芸術となった体育館の真ん中で、俺とマナは二人、体を大の字にして横たわっていた。 ブリュンヒルデの結界が消えた外からは、太陽の光がさんさんと体育館の中に入ってくる。朝の快晴は、外では続いていたらしく、その穏やかな光に、俺はようやく終わったのだと安堵のようなものを一瞬感じてしまった。 もっとも、そう感じたのはほんのわずかな時間で、次の瞬間には、俺はこの太陽をもう見られない人間が数多くいることを思い出す。 悠、詠美、ヤマティーや、街で死んだたくさんの人達。化け物共がいたせいで、皆、いろんなことが出来るはずだった人生を、勝手に終わらされてしまった。 頭上を見ると、汗と血で汚れたマナは、苦しそうに息を吐きながら、天井を見ていた。 「表沙汰にならないだけで、こんなことは、しょっちゅう繰り返されている」 天井を見たまま、彼女は呟くように言う。 「あいつらの力は、底が見えない。果たしてどれだけ血を流せば終わるのか、そもそも終わりが果たしてあるのか、分からない。それでも」 そこで言葉を切って、彼女は俺の方を見てくる。 「それでも理不尽に命が弄ばれるのを、見ることは私には出来ない。自分達の力を奢って、勝手気ままに暴れるあいつらを、見ているだけなんて出来ない。罪悪感に苛まれようが、人から疎まれようが、私は戦う」 寝ていた姿勢から立ち上がると、俺の頭上の彼女は手を差し伸べてきた。 「辛い旅路になる。死にたいと思うこともある。それでも私は、あなたに――」 それ以上の言葉は必要なかった。 その小さな手を、俺は握り返す。 絶望的な戦いに、唯一抗える人が持つ力。そんな儚いものを信じて。 |
赤城コーフィー PYoJHW0nJU 2017年04月30日 21時38分05秒 公開 ■この作品の著作権は 赤城コーフィー PYoJHW0nJU さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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