無精卵の冒険 |
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1格 無精卵のように怠惰な生活を送っていたら、カーテンの閉め切られた部屋いっぱいに眩いばかりの閃光が炸裂した。それは赤でもあり青でもあり光のようでも影のようでもあったけれど、問題はその発生源が冷蔵庫の中であったことである。 「リコール……」 これにはさしものぼくもテレビの前でポルカを踊るのを止めて、家電会社にクレームを入れざるを得なくなる。 部屋の電気は止められているけれど、幸い謎の光は留まるところを知らない。それを頼りに受話器を取って♯と13を連打した。しばらくして、電話越しに機械音声が流れ出す。 『はい、こちら暗黒電産ホールディングス、お客様相談窓口です』 「購入した冷蔵庫が発光したんですが」 『そちらでしたら退会の手続きになりますね。オペレーターにお繋ぎしますので、受話器を置いて十分ほどお待ちください』 従う。 耳元に静寂が戻って来た。 そのまま背後を振り向くと、例の光はご丁寧にも絶賛炸裂中である。……これは体に悪影響とかないのだろうか。どうせ遅かれ早かれ人は死ぬのだからどちらでもいいことだが、時間を無駄にするのはぼくの最も嫌うところでもある。 よし。 こんな気持ちのいい朝なのだし、ひとまずモーニングと洒落こむことにしよう。核分裂式トースターにパンを突っ込み、インスタントコーヒーの粉末を机の上に散布する。あとは卵料理の一つや二つでもあれば完璧なカフェ飯だ――フライパンをコンロに掛けながら何を作るか空想し、肝心の材料を取り出すために冷蔵庫を開陳。 「WOW」 卵こそが発光していた。 牛乳やミックスジュースを入れているサイドポケットの上、それは所定の位置に収まりながらも所定の外見を示していなかった。氷点下三度の部屋で過ごす内に突然変異でも起こしたのだろうか。あるいは無精卵という自らの宿命から逃れようとしたのだろうか。 車窓に映りこむ自分自身の顔とガラス越しの風景が二重写しになるように、鶏と卵のイメージが重なり合って輝いている。これではチキンなのかエッグなのか判別がつかない。鶏が先か卵が先か――それは単純な矛盾と言うより過程の齟齬に過ぎないけれど、この場合は鶏も卵も同時に在るのだから明らかな矛盾に違いないだろう。 やがて、光は収束する。 卵の中へ。 「ぴよっ!」 ――そして、見えていた概念のどちらでもなく、その矛盾の中からは手のひらサイズの小さな女の子が姿を現したのだった。 頭の横で二つに括られた金色の髪。透明感のある白い肌。体型はほとんど寸胴のそれだったけれど、胸と腰だけに巻かれている白い綿のような衣服が逆にあざとい。どことなく背徳感を覚えさせられるデザインだ――言い方を変えれば、黄身のような髪に白身のような髪でどこかもこもこした半裸少女、とも言えるけれど。何それこわい。 「何きみ」 努めて冷静に訊ねると、少女は思い出したように答える。 「ニクスと言います! コケッコー王国からやって来た第一王女です!」 「そういうのいいから」 「あ、はい。養鶏場から出荷された卵のなれの果てです、ご主人様」 「それはそれで嫌だよ」 ああどうすればいいのだろう。 前述の問いを念頭に置くならば「どちらも食い物だ」ということでフライパンに突っ込めば解決だったのだが、相手が少女ともなれば食い物にするのは気が引ける。倫理的には許されないと言っても過言ではない。 あ。 ……そう言えば、フライパンを火に掛けたままだった。 「ちょっと待ってね」 少女に一言断ってから、火を消しに向かうことにする。気をとられて点けっぱなしだったけれど、それでは火事になりかねない。 でも叶わなかった。 フライパンがフビライハンになっていたからだ。 ハンは手に持った槍を振りかぶる。 「――ご主人様!」 刹那、少女がぼくとハンの間に割って入った。 割って入ったのが痴話喧嘩か何かだったのならまだ救いようがあったのだろうが、卵を割って出てきた少女はあくまで槍の切っ先に飛び出たのだからもういけない。 何かしら不思議な力でも使ってハンを撃退するのかと思いきや、そんなご都合主義的なセオリーなどガン無視する勢いで、少女の体は四散して床を赤く染める。スプラッタ! しかし数瞬の後、少女は何事もなかったかのようにぼくの前に立っていた。 と言うか浮かんでいた。 「……ここは一旦退きましょう、ご主人様」 「ていうか大丈夫なの、きみ?」 「死にましたけど、その次元と無事な次元を入れ替えました。さあ早く! 今はまだ死ぬ時ではありません!」 意味は死んだ。 もう蘇ることはないだろう。 ハンから離れんとぼくらは逃げる。飛んできた槍でニクスが死亡する。 自宅を出て駅前の商店街へとひた走る。 関係のないトラックにニクスが撥ねられる。 そんなこんなで彼女の残基が四、五体ほど減りはしたけれど、その甲斐あってかハンの姿は遙か後方へと消えてしまっていた。……ただ、大きな問題もある。ぼくがコンロの火を消していないと言うことだ。 「消しても消さなくても火事はどこかで起こるんです」 辿り着いた駅舎のプラットホームで、ニクスはぴよぴよと囀った。それもそうか、とぼくは納得する。 「でも火を付けたのはぼくだ。火事が起きたのなら、それはぼくの所為ってことになる。だからぼくは必ず火を消さなければならない」 「それがあなたの責任、ということでしょうか」 責任。 その言葉は遠方からの来客のようにぼくの耳朶を打った。 カンカンカン、と踏切の音がプラットホームに木霊する。吹き抜ける風が足元の砂塵を巻き上げ渦を巻く。 その感触にぼくは目を細めながら、責任について考える。 権利には必ず義務が付随する。モーニングをいただくという権利があったのなら、そのための義務もどこかで発生しているはずなのだ。 ただし、義務を果たすために権利を放棄するのは本末転倒だ。逆はない。与えられた権利を享受した後に責任が生じるのであって、まだ何も受け取っていない内から義務に死んでいくのは道理に反する。 ハンに挑めば、ぼくは間違いなく死ぬだろう。 「……まずはモーニングが先かな」 呟くと、ニクスは満足そうに微笑んだ。 「そうです。ハードボイルドもサニーサイドダウンもない内から、自分の命を火にくべる理由がないのです」 「理由」 「意味と言い換えてもいいかも知れません。つまり、とある事柄に対するご主人様の主観的な価値なのですよ」 主観――要するに、その人自身の世界ということだ。その中で価値ある物を端的に『意味』と呼び、ぼくらはそれに従って行動する。でも、価値が悉く根絶やしにされてしまった世界の内に、人はどんな意味を見出せば良いと言うのだろう。何に従えば良いと言うのだろう。従うべき使命がないから、ぼくは無精卵のように過ごしていたのではなかったか。 「……分からないな」 落ちていく朝日が駅舎をオレンジ色に染め、辺りの空気を暖かみのある粘性でゆっくりと浸していく。それはまるで逆行するフラストレーション。鮮烈な感触と暖色で胸の中まで忍び込んでくる、とある一つのマイヌングスフェアフラーゲ。 ぼくにはまだ分からないから。 分からないなりにとりあえず、空腹を淘汰することにしようか。 「ほら、来ましたよご主人様」 ニクスの声に目を上げると、プラットホームの幅よりも幾分か広い幽霊列車がコンクリートを破壊しながら進入してくるところだった。おじさんのような外見をした先頭車両で列車待ちの人々を撥ね飛ばしながら、ついでにニクスも粉砕してぼくの目の前で停止する。 アナウンスが流れた。 ――次はー、シャングリラとグリとグラー。この列車は通過いたします、白線を流してヘイお待ち―― 「行こうか、ニクス」 声を掛けると、彼女はニコリと笑ってぼくの肩に乗った。 2格 999のように薄暗い車内に乗り込むと、ぼくたちは空いている席に座っていたグレートモーフを押し退けて腰を下ろす。 静かだった。乗客は皆どこから来てどこへ向かうのか分からなかったけれど、行くから来て来てから行くのか分からなかったけれど、黙々と吊革を引きちぎったり座席に魔方陣を書いたりと忙しそうな様子だった。 ぼくはふと、感じた疑問を口に出す。 「生活があるから電車があるのかな。それとも電車があるから生活があるのかな――ねぇニクス。きみはどう思う?」 「卵が先か鶏が先か並みにナンセンスな質問ですね。あたしを見てください。鶏も卵も両立していて、あるいは両立していないでしょう」 むむ。 確かにこの場合は、「電車のある生活」と「生活のある電車」の二通りに分けて考えるべきなのかも知れない。ならば後者が最初に現れたに違いなく、前者はストーカーのようにいつの間にか湧いて出たとするのが妥当だろう。 「何が先で何が後かなんて、そんな順番を考えたところでそもそも優先順位はないのですよ。どちらかが先でどちらかが後だった。そうではなくて始めから全ては重なり合っているのです」 「きみに言われると説得力しかないな」 「お褒めいただき光栄です、ご主人様」 まぁ、ニクスの場合はただの死体量産機だけれども。 後方から車掌の声と断末魔とが重なり合う。 【切符を拝見いたします――お持ちの方は手を頭の後ろに組んで地面に這いつくばってください――】 「……どうしようか。ぼくたち切符なんて買ってないよ」 「なら座っていればいいのでは?」 「そうだね」 できないことをしようとするのは、ない腕で物を掴もうとすることと何も変わりがない。ならば最初からある方の腕で物を投げる方が賢い選択というものだ。 乗客たちを残滅しながらやって来たチュパカブラ似の赤い車掌は、やがてぼくらの席までやって来ると何事もなかったかのように通り過ぎた。その際にずるずるとグレートモーフを引き摺っていた気がするけれど、きっとぼくの目の錯覚だろう。 大切な物は目に見えない。 だったら目に見える物は例外なく大切ではないと言うことだ。 「形而上の概念を尊ぶべきだと? なかなか腐っていますね、ご主人様」 「そうは言ってない。大切だから尊んでそうじゃないから蔑ろにするなんてことをしてたら、その内目に見えない出来事から復讐されてしまうよ。……世界は最初から平等であって存在に貴賤は内包されていないんだ。だからぼくは統一した態度を貫いて平等の下に法を置く」 「悪平等ですか」 言われてみるとそうなのかも知れない。 列車の警笛がファンファーレを鳴らす。 それを聞きながら、ぼくは目を閉じた。 「――悪平等――だいたい善だの悪だのなんて設定にどんな価値があると言うんだろう。ニクス、きみは言ったね。意味は主観的な価値だって。それなら価値のない概念はただの概念に過ぎなくて、平等はただの平等であるべきじゃないか――」 目蓋の裏の暗闇に、ニクスの羽音が小さく響く。 「主観的には。でも客観的には価値ある物として善や悪は受け取られるんです。それを基板とする世界がいわゆる社会で、すなわちご主人様の生きている客観なんですよ」 「客観なんかに生きれないさ……」 ぼくはぼくなのだから。 ぼくの信じる価値が社会の信じる価値と同様でなくとも構わない。 逆もまた然りだ。 ファンファーレが鳴り止む。 あのモーフは死んでいたのだろうか。 またしても、何一つ分からない。 「……だけどね」 ぼくの信じる価値とは、果たして何なのだろうか。一体それは、皆の信じる価値とどれほどの相違があるというのだろうか。 「悩め若人よ」 ニクスのやけに偉ぶった声が脳内に届く。 「悩んで悩んで悩み抜いて――その果てに得た答えならば間違っていても正しい。だから若い内の苦労は買ってください。ここは社会的資本主義の世界なんですから――」 うるさいよ。 山勘で腕を振るうと直撃したようで、ニクスの残基がまた一つ消滅した感触があった。 ただ、彼女の言うことにも一理ある。 ぼくはぼくとしてぼくの信じる価値に従うべきなのだ。 ゆっくりと目を開き、立ち上がる。 「すみません」 そして、次の車両へと移動しようとしていた車掌を呼び止める。彼は首だけを五百四十度回転させてじろりとこちらを見た。引き摺られていたグレートモーフも。 「その人を離してくれませんか」 ――信じられない物でも見るかのように、モーフが三つの目を見開く。 ぼくの信じる物があるとすれば――それは人情や実感と言った形のない概念に属する。それでいて外界に影響を与える行動に属する。 だから目の前で殺されようとしているモーフを助けることに異議はない。 【この人は切符を持っていた、故に切符を切るのである、あなたも切符をお持ちであるか?】 「切符は持っていませんが」 車掌の問いに、ぼくは落ちていた吊革を掴んで振りかぶる。 「一縷の希望は持っています」 投げる。 ニクスが笑った気がした。 車掌が伸縮する腕で吊革を薙ぎ払った瞬間、転がり込むようにしてその懐へ入り込み、とん、と体全体でぶつかっていく。衝撃でよろめいた車掌は、後一歩のところで座席を掴んで体勢を立て直そうとした。 駄目だ、後一押しが足りない。 冷や汗が流れる。 車掌の牙がぎらりと獰悪に光る。そのままモーフを掴んでいた方の腕を、ぼくに向けて弾丸のように発射しようとしている。 「全く、これだからご主人様は……」 背後からこれまた弾丸のように飛んできたニクスが、車掌へ体当たりをかまして「後一押し」を補完した。 ぼくに突き刺さらんと伸ばされた腕が、頬を掠めて空を切る。 そしてそのまま、体勢を崩した赤い車掌は―― 「アディオス、アミーゴ」 ――ぼくが発した別れの挨拶も聞かず、列車と列車の間へと落ちていった。 やがてサイレンが鳴り、幽霊列車は停止する。 ドアから飛び降りると、ぼくはパルクールの要領で受け身を取る。 地下鉄のホームは饐えた匂いがして、冷え冷えとした空気が漂っていた。 空間。 まるで自己増殖し同時に死んでいく生き物のように、ホームの壁に隆起した血管がどくどくと波打っている。ところどころエコノミークラス症候群にやられたらしく細胞が壊死していたけれど、まぁそれはそれとしてモーニングだ。 ホームを出て、備え付けの階段を上る。 一段上がるごとに踏みつけた段差が悲鳴を上げた。 「こうして人は何かを踏み台にする」 そうして上へと進んでいく。 それは社会の縮図であり真理でもある。 または虚構に過ぎない屁理屈でもある。 「それでも留まっているよりはマシなのですよ」 「確かに踏まれるより踏む方がいいけれど」 できればどちらも選びたくはない。 そんな胸中を読み取ったのか、ニクスは寂しげに笑った。 「……あたしはご主人様に踏まれて欲しくはないですが。それでも『選ばない』という選択肢は元よりどこにも存在しません」 慧眼な節穴だ。 ぼくもまた社会に向けた皮肉を込めて笑ってみせると、それでも『選ばない』を選んだつもりで階段を踏みつけて歩いて行く。――別にいいだろう? 主観こそが世界ならば、ぼくが信じた選択肢こそが「つもり」であっても何かの価値を持つのだから。 目的地が見えてくる。 汚染水の蔓延る、この地下空間の終着点。 「さて」 ――そう言えばぼくは、どうしてここまで来たのだろうか。 モーニングをいただく「つもり」で来たのだった。 それは本当の動機だろうか。 ニクスは分かっているんじゃないだろうか。 ぼくの目指すべき道を、進むべき世界を。 「それでは選んでくださいご主人様――ビーフ、オア、フィッシュ?」 意味は死んだ。 もう蘇ることはないだろう。 3格 ビーフでもなくフィッシュでもなくエッグを食すために火を付けてしまったぼくは、辿り着いた喫茶店の店主にニクスを差し出して「残基はあります」と告げた。店主は頷いて去って行く。 奥まったところにある、窓際の席に座り込む。 外には雨が降っていて、心なしか雷まで響いていた。 店内は薄暗い。 「ふう」 歩きに歩いたせいで足は棒のようで、棒が足のようだ。お腹は減っているが、減っているのがお腹なのかそれ以外なのかは判然としない。 ともかく、エネルギーは足りていなかった。今もってまだ朝食にすらありつけていないのだ。もう時間帯は昼に近いのだからモーニングと言うよりイブニングだが――この地域では昼過ぎまでモーニングを提供する。地域色というやつだ。 さて、何が出てくるのだろう。 エッグベネディクトだろうか。 それともタンドリーチキンだろうか。 正直、お腹に入れば何でも一緒という感は否めないが、それでも折角ここまで辿り着いたのだから美味しい物は食べておきたい。長いようで短い旅路だったが、それでもぼくなりに印象は持っているのだ。 「……?」 と、気付く。 席に座っていたのは、ぼくだけでなかったことに。 ――いつの間にか目の前に腰掛けていた人影は正気を孕んでいて、この暗澹たる世界に相応しい深刻さを湛えていた。あるいは相応しくない深刻さ、だろうか。どちらにしてもシリアスであることには変わりがない。 彼/彼女は口を開く。 『雨ですね』 その声には聞き覚えがあった。 つい先刻、耳にした音階だ。 男性なのか女性なのか分からないので間を取って中性名詞エスを使うことにする。 エスは頭を下げる。 『――大変お待たせいたしました。私、暗黒電産ホールディングスのオペレーター、ヘイスティングスと申します』 静寂が降りる。 しとしとと降り続く雨音の中、ぼくらはしばらく向かい合って座っていた。それはあってはならない邂逅のようで、ある意味必然的な出会いとも言えただろう。 彼は再再度頭を下げた。 『まずはこの度の不行き届き、改めて謝罪申し上げます。もしも我が社の冷蔵庫が発光しなかったら、あなたもこんな豊洲くんだりまで足をお運びになることはなかった』 「それは否定しませんが。……別に後悔していませんし、あなたのことを恨んでもいませんよ。結局ぼくは自分で選んでここまでやって来たんです」 言いながら、そうか、と気付く。 ぼくは自分で選んでやって来たのか。 『そう言っていただけると幸いです。まずは質問をいくつかしても?』 「はい」 『あなたは本当にハンに挑むおつもりなのでしょうか』 つもりもなにも。 それがぼくの信じる価値であり、意味である。 だから、頷いた。 「――はい」 『ならば助言しておきましょう。彼は意味という意味を殺す存在です。だからあなたは意味を見失うべきではない――そのことを忘れた時、実存は崩壊の一途を辿り遂には消滅の憂き目に遭うでしょう。それがこの世のマイヌングスフェアフラーゲ』 「それは越権行為では?」 『越権ではあっても違法ではありません。だからこれは個人的なアドバイスと声援になりますね。黄色い声援です』 「あなたは中性では?」 『はい、中性です。中性名詞三格ですね』 がのにを、の「に」というわけだ。 ならば次は四格――つまりは最後の格になる。 この物語の、結末を飾る最後の格。 エス、もといヘイスティングスは鮮やかに笑って、ぼくに手を伸ばしてくる。 『……あなたに逢えて本当に良かった。Flesh good day, Flesh good day、言葉にできない』 ぼくらは固い握手を交わす。 そして、次の場面では。 ――窓を突き破って飛んできたハンの槍が、ヘイスティングスの頭を粉砕して壁に突き刺さったのだった。 ぼくが呆然としていると、店主に調理されたニクスがワゴンで運ばれてくる。 「ヘイヘイヘイヘイマザーファッカー、もといご主人様、ご期待のモーニングがやって来ましたぜ。次元重層型親子丼でござーい」 「……ニクス」 ぼくが顔を向けると、彼女はこの惨状にようやく気が付いたようで、調理された残基を捨て置いてこちらまで飛んでくる。 一言、漏らす。 「ヘイスティングス」 「あぁ……死んでしまった。ハンの仕業だ」 いつからだろうか。彼は距離を置いていたつもりで、ぼくたちのことをずっとつけていたのだ。そして越権行為に走ったヘイスティングスを意味もなく破壊した。 許せない――義憤の炎が燃え上がるのを感じる。 どうしてこの世界は、こうも他人の価値を殺そうと躍起になっているのだ。どうしてこうも、ぼくの信じる価値を蔑ろにしてしまうのだ。どうもこうも、世界を価値して殺すを躍起にするのだろうか。 意味は死んだ。 蘇るとしたら、きっとそれは―― 「ニクス、親子丼を寄越せ」 ご主人様らしく彼女に命令すると、ニクスはほんのり頬を染めながら親子丼を差し出してきた。「美味しく食べてくださいね……」なんて扇情的な戯れ言は無視して、ぼくは一気呵成に多次元を掻き込む。 それは文字通り次元の違う数種の刺激によって、ぼくの味蕾が優勝するまでうまみ成分を感じさせ続けた。感情、人情、悲喜交々。もはや味覚とすら言えない刺激の数々が、一種の体験となって脳髄を痺れさせる。 丼を机の上に叩きつけた。 権利は行使した。ならばお次は義務だ。 朝から親子丼というのは不相応な気もするが。 「だったら、分不相応にハンに挑んでも、ぼくが死ぬって道理はないじゃないか……」 ハン、お前が意味を殺すなら。 ぼくだって、信じる価値以外は殺して見せよう。 ――そしてハンが、姿を現す。 4格(中性名詞弱変化) 冷蔵庫は発光し、フライパンはハンになり、あらゆる意味が死んでいった―― 乗客たちはどこから来てどこかへ向かったが、ぼくはそうしてここにいる―― だからこそ、幕を下ろすのは他ならぬぼくという存在だ。 長い旅路の終着点。失われたモーニングを求めた物語の果て。 そこに、ハンは、いた。 薄暗い窓の外、溜まりに溜まった雨水に足首まで浸しながら、そこに、いた。 「やぁ……久し振りだね、ハン」 皮肉な笑みを向けると、声はなくとも彼もまた笑う。 火のついたコンロを従え、好戦的にぼくを見下している。 「……気をつけてください、ご主人様。あいつはここで決着をつけるつもりです」 「ぼくもそのつもりさ」 ニクスの声に小さく返すと、ぼくは纏っていた外套を左手に巻き付ける。 ぼくたちの視線が交錯する。 数多の次元が焦点を結び、今この時に集約される。 そして、その一点が次元に歪みを生んだ時―― 「――行くぞ、ハン!」 ぼくは脱兎と突撃する。 喫茶店のテーブルやら何やらをなぎ倒しながら、窓をぶち破って仇敵へと突進する。 それはハンにとっても計算外の事態だったのだろう――じわりと焦燥が伝わってきたが、それが収まるまで待ってやるほどぼくは優しくなんかない。慌てて繰り出される槍を外套を巻いた左手で払いながら、一挙に距離を詰める。 そして、一撃。 空になった親子丼の丼を、彼の顔に叩きつけた。 「さっすがご主人様!」 刹那の攻防にニクスは飛び上がって喜ぶが、飛び上がったせいで流れ槍に当たって残基を減らす。もう入れ替えられる次元はそこまで残っていないだろう。 ならば、このまま先手必勝。 手に入れた唯一の勝機を、逃すなんて手も足もない。 「おおお!」 ――たたらを踏んだハン目掛けて、その辺に浮かんでいた椅子の破片や鋭利な刃物で特攻を掛ける。 手にした武器が壊れる度に「はいよ!」とニクスが渡してくるガラクタで持ち替え、息をもつかせぬ攻勢をひたすら維持し続ける。足場は悪いが構ってなんていられない。あと一息だ。あと一息で全てが終わるのだ、あるいは始まるのだ。 しかしハンも黙ってやられるばかりではない。丼で視界を遮られながらもがむしゃらに攻撃を繰り出してくる。ぼくの皮膚は避け、滴り落ちる血液が足元の汚染水に渦を巻く。もっともそれはハンも同様だった。 お互いに余裕なんか全くない。 だからもう、この一撃で勝負を決める――! 「終わりだ……ハアァァァン!」 最後に手渡されたハン自身の槍を、ぼくはがら空きの胴目掛けて強く突き出す。 ……そこで、祝福は終わった。 唯一無二の勝機が、終わりを迎えた。 突き出した槍は空を突き、体を半回転させたハンがぼくの頭をガッと掴む。 ――汚染水の上に叩きつけられる。 「かっ……!?」 「ご主人様!?」 この世の物とは思われない力で、体ごと水の中へと沈められた。 息ができない。肺に水が入ってくる。 ただの水ではない、汚染水だ――このままでは肺炎待ったなし。無我夢中になってぼくは足掻くが、水面越しに見えるのは力なく飛び散る水しぶきだけ。 やがて、力も抜けていく。 命が、抜けていく。 ぼんやりとニクスがハンを攻撃しているのが目に入るが、そこはミニチュア少女のことだ、彼女自身の攻撃力はないに等しかった。絶望的。意味は死に、勝機は失われた。あぁ、このままぼくは義務に死んでいくのだろうか――でもまだコンロは消せていないじゃないか。 ……でも、まぁ、いいか。 義務を果たすことではなく、果たそうとした姿勢こそが重要だったのだから。 バイバイ、世界。 あっさりと。 ぐったりと。 ――こんなにも呆気なく、ぼくは世界と別れを告げる。 「GGGGGGGGGGGGG!」 くぐもった叫び声が聞こえたかと思うと、ぼくは水牢から解放される。 「ぶはぁっ!」 「あぁ……ご主人様!」 そんなバカな……もう逆転の目はなかったはずだ。 「……助かっ、た?」 水を吐き出しながら、しばし混乱する。 ニクスは非力に過ぎるし、ヘイスティングスは頭を砕かれて死んだ。この世界でぼくの味方になってくれる存在は、全て力にならなかったはず――少なくとも、ハンとは戦えなかったはずなのに。 そう思っていた。 そうじゃなかったのだ。 ぼくが味方と思っていなかっただけで。 味方になってくれる存在は、いた。 目を上げると、目に入る。 「――グレートモーフ!」 ぼくがあの時命を救ったグレートモーフが、ハンと組み合っていた。 三つの双眸で相手を睨み付けながら、車掌にやられて満身創痍なのに、ぼくのために戦ってくれている。いつの間に幽霊列車から降りたのだろう? あるいはぼくたちが飛び降りるのを見て、慌てて追いかけてきてくれたのかも知れない。 しかし、ハンは度重なる不意打ちに同様こそしていたが、やはり彼の優位は揺らがなかった。徐々にモーフは圧されていく。槍に貫かれ、古傷を開かせ、致死量に違いない血液がどくどくと溢れ出ていく。 「もうやめろ、グレートモーフ! ぼくはこんなことのためにきみを助けたわけじゃない! 頼むからやめてくれ!」 ふと、モーフがこちらを振り返る。 それは優しげなまなざしだった。 体勢を崩し、今にも槍に貫かれんとする刹那。 彼は、言った。 「……GGGGG(ありがとう)」 そして、モーフは心臓を貫かれる。 ばしゃばしゃと飛沫を上げながら、ぼくはモーフの亡骸に駆け寄る。 ハンは笑っていた。声高く、勝利の余韻に酔って。 でもそんなことはどうでもよかった。 モーフは死んだ。 ぼくのために死んだ。 「ご主人様……」 気遣うように傍を漂うニクスを尻目に、ぼくは友人の体を抱きしめる。血に塗れようが、本能が拒絶しようが、そんなことはやっぱりどうでもよかった。 薄暗い地下空間の中、ハンの笑い声だけが木霊する。意味という意味を破壊する、邪悪なるその声が。 「よくもグレートモーフを」 その笑い声を耳にしながら、モーフの死を悲しみながら、それでもぼくは冷静だった。 悲しみにうちひしがれ、死のままに任せるのはモーフの望むところじゃないからだ。 ぼくは生きなくてはならない。 そこに価値を見出せなくとも。 ヘイスティングスも言ったじゃないか? 光明が差す。 ぼくは――意味を忘れてはならないのだ。 「分かった」 ぼくは呟く。 「ぼくは分かったんだよ、モーフ」 そう。 ……世界を意味づけるのが生きると言うことだ。 価値のない世界に価値を見出すのが行為の全般だ。 なら価値を見出せないぼくはどうしたらいい? それをこの旅の中でずっと求めていた。 「見つけましたか、ご主人様」 見つけた。 見つけた。 ニクス、きみの言った通りだった。 悩んで悩んで悩み抜いて――その果てに得た答えならば間違っていても正しい。だからぼくは悩み抜いた果てのこの答えを『正しいと見なす』。 モーフ、きみが教えてくれた。 最初は意味のない行為であっても。 「善意を与えて善意を返される。たとえ無為であっても、ぼくはその繰り返しをこそ、意味のない世界に生きる唯一の【意味】と見なす。権利も義務も責任も、そんなことはどうでもよかった――」 そう。 「――ぼくはその意味を行きたいから生きるんだ!」 疾駆する。 水の上を、跳ねるように。 飛んできた槍がぼくの腹膜を突き破るが、消化した次元重層型親子丼の力を借りて存在を分離する。死んだ次元のぼくを捨て置いて、意志ある次元のぼくがハンに立ち向かう。 殺されても、殺されても、意志ある限りぼくの意味は死なない、殺されない。たとえ八つ裂きにされても溺死しても、ぼくの価値は意志は世界は死なない。 「ニクス、手を貸せ!」 「合点承知でござ候!」 繰り出された槍を足場に二段ジャンプを決め込むと、ぼくは天高くハンの頭上に飛び上がり、ニクスと自分の次元を重ね合わせる。 それは徹底的な矛盾。 人でもあり卵でもあり鶏でもあるという矛盾。 ハン、お前が意味を壊すというのなら。 「意味という意味の死んだこの概念も飲み込んでみろ!」 ――放つ。 矛盾さえも受け入れて、放つ。 やがて、解き放たれたぼくの無意味はハンの体をも飲み込んで、地下空間一杯に、眩いばかりの閃光を炸裂させた。 光が広がっていく。 世界が、光で満たされる―― コンロの火も、フビライハンも、ぼくもニクスも……全てが溶けていく。 Σ格 無精卵のように怠惰な生活を送っていたら、地下空間いっぱいに眩いばかりの閃光が炸裂した。それは赤でもあり青でもあり光のようでも影のようでもあったけれど、問題はその発生源がぼく自身であったことである。 帰りの列車に揺られながら、ぼくは彼女に声を掛ける。 車窓から臨む風景は、もはや地下空間のそれではなくてぼくの世界だ。 氷点下三度の部屋でもない。 「火を消してハンを倒して――ぼくはこれから先、どこへ行けばいいのかな」 「決まってます。ご主人様自身の意味ですよ」 そうなのかな。 それでいいのかな。 ニクスは喜色満面と言った様子で車内を飛び回っていたけれど、文庫本を読んでいた乗客に煙たがられて大人しく席に戻った。もう残基はない――ぼくもニクスも、ここに在るのはたった一つの存在だけだ。 でも、それでいいのかもしれない。 もとより人生なんて物は、一つの次元で完結する物語なのだ。 二つも三つも要らない。 ぼくは、小さく頷く。 「じゃあ。……まずはグレートモーフのお墓参りに行こうかな」 「ご主人様にしては殊勝な心がけですね」 「あと、ヘイスティングスの会社にも。それが終わってから、これからのことを考えよう。ぼくがぼくであるために。あるがあるでぼくために」 列車を降りると、電気料金を払ってから自宅へ向かう。 ドアを開けるとそこは相変わらず薄暗かったけれど――ぼくは蛍光灯のスイッチを入れて、冷蔵庫を開ける。 そこには残った無精卵。 腐りかけているけれど、まだ食べられないことはないだろう。 「まずは腹ごしらえと行くか……」 「あたしにもお願いします、ご主人様」 「凄い笑顔で共食いを要求するね」 まぁ。 これも一つの意味というものだろう。 煌々と光り輝く部屋の中、ぼくはフライパンを熱し、油を引いてから卵を構える。コンロの隅で罅を入れてから、両手で中央に標準を定める。 パキリ、と卵は割れる。 そのままフライパンの中央に落下するかと思いきや、卵はその寸前で停止して、エウスデクスマキナもかくやという速度で部屋を跳び回り始めた。 「WOW」 ぼくたちが黄身を見上げていると、彼は窓を突き破って外へと飛び出していく。無精卵が殻を破って、広い世界へと飛び出していく。 「……元気がいいね、きみのお仲間は」 「えへへ、お恥ずかしい限りです」 ぼくたちはその光景を見守っている。そこには感慨があるばかりだった。 意味は死んだ。 そして卵は飛んでいく。 空の彼方――太陽の結晶を身に纏い、光溢れるパンデモニウムへ飛び立つ、その見事なまでの勇姿をぼくたちは見送っている。 |
Eugene(瀬海) G3b0eLLP4o 2017年04月30日 13時40分11秒 公開 ■この作品の著作権は Eugene(瀬海) G3b0eLLP4o さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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合計 | 10人 | 90点 |
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