ロンドンの夜の物語:闇を宿した不思議な卵

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<お断り>
 暴力や犯罪を扱った物語、痛みを生じる行為の描写などを好まれない方は、ここで退席なさることをお勧めします。

<魔都ロンドンの夜の闇>
 物語の舞台となるのは、ヴィクトリア女王が統治なさる大英帝国の、霧の都ロンドンと称される古い都市でございます。
 ロンドンでは、様々な科学の成果が生活に溶けこみ、街にはガス灯が点され、蒸気機関車や地下鉄が走っています。
 しかし、同時にケルトの神話や伝説が事実として語られ、ドルイドの魔術が生活の中に息づいています。
 燦然と輝く王朝を築いたヴィクトリア女王の御威光は、まさに世界の果てにまで届いています。
 女王のおわします大英帝国には、世界中から黄金や宝玉、高価な美術品、紅茶や香辛料などの嗜好品、象牙や希少な獣の毛皮、滑らかな手触りの絹織物や色鮮やかな陶磁器、芥子や麻の葉から得られる快楽や活力をもたらす秘薬など、さまざまな珍奇な産物が集まってきます。
 そして、女王の御威光に誘われて、悪しきもの、邪悪なもの、不吉なもの、呪われしものどもが、あたかも火に群がる蛾のように、大英帝国を目指して集まります。
 夜になれば、クラバムの喉切り小路以外でも、通行人が突然に喉笛を掻き切られて絶命し、持ち物を奪われことが当たり前のように行われます。
 夜のロンドンには世界中でもっとも深い闇がたゆたっているのでございます。

 ところで、古代中国では閨房の中で密やかに行われる行為が集大成され、房中術として四千年にわたって洗練されました。
 インドでは夫婦の愛のあり方が独自の哲学によって鋭く深い考察を加えられて、カーマスートラと呼ばれる愛の技術として体系化されました。
 世界中の秘められた知識や技は、高貴な女性たちによって、あるいは彼の地へと旅した好事家の手を経て、ロンドンに集まりました。
 このため、ひとたびロンドンの夜の闇に呑まれると、田舎から出てきた純朴な娘が、蛹が割れて蝶が羽化するように、夜の乙女へと姿を変えるのです。
 夜の街に集う乙女たちは、血のように赤い紅を口唇にさし、透きとおるように薄いドレスを身にまとい、水蜜桃のような肌を大きく露出させて、ショーウインドウのガラス越しに男たちの眼にその身を曝します。
 妖艶な夜の乙女たちは、闇に灯るガス燈の明かりを受けてまばゆい煌めきを放つサファイヤやエメラルド、ルビーや、涙を集めたように透明な輝くダイヤモンドでその身を飾ります。
 さらに清純さをよそおって、誘う唇とゆれる眼差しで上目使いに男を見つめ、あどけない表情で頬をほのかに染めてみせて、男たちをあたかも渦に呑まれる枯葉のように怪しい店の中へと引き込みます。そして快楽の甘い罠に捕えて喜悦のうちに溺れさせるのでございます。

<暗黒街の若君が旅のアラビア人から闇の卵を引き継いだ話>
 ある夜、ロンドンの闇に誘われるようにして、一人のアラビア人が暗黒街のボスの玄関に引き寄せられ、その扉を叩きました。
 そのアラビア人は古い氏族の最後の一人でした。

 アラビアの氏族は、放牧しながら各地を転々として暮らしています。夜になれば氏族の全員が共同のテントに集まります。
 そこでは何千年も前の氏族同士のいざこざが、昨日起きたことのように生々しく語られ、憎しみと恨みが綿々と受け継がれています。

 さて、ボスの玄関の扉を叩いたアラビア人は闇の卵を携えていました。
 闇の卵は、かの氏族とともにあった三千五百年よりもはるかに古くから人と共にあって、その恨みや妬み、怒りや悲しみ、恐怖と絶望を吸いつづけ、その内部に蓄えていました。
 扉に取り付けられたのぞき窓を開いてアラビア人の様子を窺ったのは、詐欺師とペテン師でした。
 二人はアラビア人が長い船旅で弱りきっており、餓死しそうなほどに空腹であることを見て取りました。二人は扉を開けて、異国から来たアラビア人を御屋敷に招き入れました。
 ペテン師は哀れなアラビア人を暖炉の前のソファーへと導き、詐欺師は台所にスコーンとミルクを取りに向かいました。
 折あしく、そこに「若君」が戻ってきました。
 しばらく前から暗黒街のボス、ダンテス・デーモンナイトは死の床にあり、ボスに仕える執事がその看病を指揮していました。
 若君はボスの一人娘で、真の名をジェイン・デーモンナイトと言います。
 若君はこの日、男装してジェイソン・デーモンナイトと名乗り、ボスに替わって暗黒街の元締めの一人、グスタフ・トンプソンを訪れました。
 そこで若君は、自分が頼りない若造とあなどられていることを痛烈に思い知らされたのです。
 若君は、自分の実力が父親に遠く及ばないことを痛感させられ、失意のうちに屈辱にまみれて御屋敷に戻って来ました。
 そして、若君は見知らぬアラビア人が暖炉の前のソファーに腰掛けているのを目にしたのです。

 若君は、自分がよそ者に居場所を奪われたと思い込みました。
 ペテン師が取りなす暇もなく、激高した若君はアラビア人の胸ぐらを乱暴につかみました。
 アラビア人は若君に憐れみを乞いました。しかし若君は庇護を求めるアラビア人の訴えに耳をかしませんでした。
 若君はアラビア人を乱暴に押し倒すと、固い革の靴で横腹を強く蹴りつけました。
 アラビア人は複雑な幾何学模様の織り込まれた豪華なペルシャ絨毯の上に崩れ落ちました。
 倒れたアラビア人は憤怒の形相で若君を睨むと、左手の甲に刻まれた黒い卵の入れ墨に手を伸ばしました。そして入れ墨の卵を毟り取ると、若君めがけて投げつけました。
 若君はとっさに右手の掌で受けました。すると卵の入れ墨は、若君の右手に吸いこまれて、その姿を消しました。
 若君の手の掌には、微かな痺れが残りました。
 奇怪なことはさらに続きました。皆が見守るうちに、若君の右手の甲に黒い卵の入れ墨が姿を現わしたのです。

 アラビア人は耳障りな甲高い声で言葉を紡ぎました。
「闇の卵よ、我が魂を喰らい、我が肉体を贄として、永劫につづく呪いを成就させよ。汝が孵ったあかつきには、そこに居合わせる全ての者に、凄まじい苦痛の末に訪れる恐るべき滅びを与えよ。それこそが我が一族に連なる最後の者の願いなり!」
 アラビア人は苦痛に顔を歪めながら、邪悪な笑みを浮かべて続けました。
「わずかな希望が打ち砕かれたその先に真の絶望がもたらされる。それゆえ、お前たちに仮そめの希望を与えよう」
 アラビア人は激しく咳きこみ、さらに付け加えました。
「高貴な生まれの無垢な魂をもつ乙女が闇を宿した黒き卵を受けつぎ、気高い志をもつ若者が闇の卵から孵ったモノに力ある言葉で命じれば、闇の顕現はその命令に三度従うであろう」
 それからアラビア人は最後の言葉をつぶやきました。
「汝らは真の絶望をまもなく知るであろう」
 そしてアラビア人は倒れ伏して、そのまま動かなくなりました。
 皆が遠巻きに見守るうちに、アラビア人の体は黒く変じて徐々に縮れてゆき、白いゆったりとしたローブの中へと引き込まれてゆきました。
 しばらくの時が過ぎたあと、詐欺師が残された服の中を検めると、奇怪なことに中には何も残っておりませんでした。

 屋敷に居合わせた者たちは、病の床に伏せるボスの元に集まりました。
 ボスの指示で、ある者は「高貴な生まれの無垢な魂をもつ乙女」と「気高い志をもつ若者」を求めてロンドンの街へと散ってゆきました。
 詐欺師とペテン師には別の役目が与えられました。
「家庭教師をさがせ。私の子供が高貴な生まれの者にふさわしい教養をもち、ふさわしい振る舞いができるように教えることのできる家庭教師を連れてこい」
 ダンテス・デーモンナイトは二人にそう命じました。

<貴族の少年が暗黒街の若君に仕えることになった話>
 それから数日たったロンドンの市場を、一人の貴婦人が歩いていました。貴婦人は没落した地方貴族の令嬢で、マリア・マックフィールドという名前でした。
 貴婦人の夫君は一人息子のエルリックを残して亡くなられました。
 このため、貴婦人はさして多くない蓄えが尽きる前に、ロンドンの安アパートへと引っ越しました。そして貴族や裕福な商人の子弟に躾や学問を教えて生計を立てていたのです。
 すでに日は傾きかけており、あたりは黄昏の光に照らされていました。すると、市場のはずれを歩く貴婦人の前に、一個のリンゴが転がってきました。
 貴婦人はそのリンゴを拾って手に取り、辺りを見回しました。しかし、周囲にはリンゴを売るような店は見当たらず、落とした様子を見せる者もおりません。
 貴婦人はしばらくそこに留まって辺りの様子に気を配っていましたが、落とし主を見つけることは出来ないと見極めをつけました。
 食べ物であるリンゴを再び地面に転がすことはためらわれました。
 やがて日が暮れようとしていました。夜になればロンドンの街には、追剥や強盗などが跳梁跋扈します。
 やむを得ず貴婦人はリンゴを手にしたままアパートへと戻りました。
 貴婦人が自宅に戻って外出の支度を解いていると、玄関の扉を叩く音が聞えました。
 貴婦人が扉を開けると、そこには詐欺師とペテン師が立っていました。
 二人はダーク・グレイの背広をまとい、ネクタイをして、磨き上げた黒い革靴を履いていました。
 貴婦人は紳士姿の二人を目にして、何の疑いも持たずに二人を居間へと導きました。
 二人は貴婦人に丁重に挨拶をすると、要件を切り出しました。
「奥様、とお呼びしても、よろしいでございましょうか」
 詐欺師が貴婦人にそう語りかけました。
「はい、構いません。それで、本日の御用向きはどのようなことでございましょうか」
 貴婦人は、二人に尋ねました。
 ペテン師は、居間のテーブルに置かれたリンゴを見つめながら言いました。
「奥様は本日の午後に市場にいらっしゃったと伺っております」
 貴婦人はいぶかりながら答えました。
「はい、私は家庭教師の仕事の帰りに市場を通りました」
 詐欺師はペテン師に目くばせをすると、貴婦人に言いました。
「あの市場は私たちの主人であるダンテス・デーモンナイトが仕切っております」
 貴婦人は驚いて言いました。
「デーモンナイト卿があの市場を仕切っていたのでございますか? それは存じ上げませんでした」
 詐欺師とペテン師は貴婦人の言葉を聞いて驚きました。
 二人は二人だけの間で通じる符牒や目くばせ、手や指のわずかな動きで会話をしました。

 うちのボスは貴族だったのか?
 いや、そんなはずはない。たぶん、箔をつけるために名前をお借りしているだけだろうよ。
 なるほど。

 人をだますことに慣れた二人は、心の動揺をまったく表に現わさずに、先を続けました。
「奥様は、ダンテス・デーモンナイトが仕切る市場のリンゴを、代金をお支払いにならずにご自宅に持ち帰られました。間違いございませんね」
 貴婦人は、その言葉を聞いて真っ青になりました。
「いえ、いえ。ご心配なさることはございません。マックフィールド家のご令嬢が代金を支払わずに品物を持ち帰ることはけしてございません」
 貴婦人は深い絶望にとらわれて気が遠くなりました。貴婦人が貴族の出であることを二人が知っていたからです。
 詐欺師は語りつづけます。
「奥様は料金を支払われるのが少し遅れただけでございます」
 詐欺師はペテン師を見てうなずき、先を続けました。
「しかし、市場にはそうは考えない者がおるかも知れません。そのような者たちの誤解を解くために、申し訳ございませんが、私たちとご同行を願えませんでしょうか」

 二人は沈黙のうちに、素早く会話をつづけました。
 おい、いくらなんでも貴族様に暗黒街の家庭教師をリンゴ一個で引き受けさせるのは無茶じゃないか?
 いや、大丈夫さ。職人は仕事の出来が、商人は儲けが、妻は子供と夫の稼ぎが一番の関心事だ。そして貴族様は、名誉という俺たち下賤の者たちには見ることも触ることもできないものが一番大切なのさ。

 そのとき奥の扉が開いて、一人の少年が部屋に入ってきました。マックフィールド侯爵の忘れ形見である息子のエルリックでした。
 エルリックは貴婦人に向かっておっしゃられました。
「母上、お話は隣の部屋で伺いました。当家の名誉を守るためであれば、当主である私が市場に赴いて誤解を解くのが筋です。母上は屋敷にお残りください」

 詐欺師とペテン師は無言で相談しました。
 やれやれ、こんなボロアパートが御屋敷だとよ。
 いやいや、貴族様のお住まいは、見かけがどうあろうと、全て御屋敷なのさ。
 でも、どうする。小僧を連れて行ってもしょうがないだろう。
 そうでもないさ。小僧をしっかりと取りこめば、貴族様はますます逃れることが出来なくなる。

 詐欺師はエルリックに深々とお辞儀をして言いました。
「当方には、なんの異存もございません」
「そうでございますか? でも、……」
 貴婦人は不安そうに言いました。
 詐欺師は、懐から上等な紙を取り出しました。
「ご心配なさるのは、ごもっともでございます」
 詐欺師は芝居がかった仕草で上等な紙を貴婦人の前に置いて、文章を指で指し示しながら読み上げました。
「しかし、ここに書かれておりますとおり、若きご当主様の行いは正当で名誉あるものであり、なんら危険はございません。もしも違うと判断なされば、必要な行為はその時点で完了したと見なされます」

 ペテン師が無言で詐欺師に尋ねました。
 よくこんな契約書をあらかじめ用意してたな。
 詐欺師が答えます。
 これは家庭教師の契約書だ。具体的な契約内容を書かなかったから、ご当主様の契約書に流用できたのさ。

 そんな無言の会話をしている間にも、詐欺師の手はヒラヒラと舞うように用紙のあちこちへと移り、華麗な説明が立て板に水を流すように続きました。このため貴婦人は読み落とした文章が途中にあることには、まったく気が付きませんでした。
 詐欺師はさらに用紙の最後を示して言いました。
「以上の内容を私たちの主人であるダンテス・デーモンナイトが署名をもって保証いたします」
 それから詐欺師は手品のようにもう一枚の用紙を取り出しました。
「内容をご確認いただけましたら、二つの用紙に御署名をお願いできますでしょうか」
 ペテン師は詐欺師の脇で、堂々とした態度でインク壺と上等な鵞ペンを貴婦人へと差しだしました。
 詐欺師は続けます。
「ご署名をいただければ、私たちの主人であるダンテス・デーモンナイトの契約が効力を発揮いたします」
 署名すればマックフィールド家の名誉が傷つくことはない。しかも大切な息子の安全が守られる。
 貴婦人はそう考えて上等な紙に美しい飾り文字で流れるように優雅な筆跡の署名をしたためました。
 貴婦人が契約の文章に、エルリック・マックフィールドが一週間にわたってダンテス・デーモンナイトの屋敷に留まり指定された職務をこなす、という意味の文章が書かれていることに気が付くのは、翌日の午後のことです。

<暗黒街の元締めが、ならず者たちを集めた話>
 暗黒街の元締め、グスタフ・トンプソンは、挨拶に来た若君が帰ると、ならず者たちを集めて言いました。
「聞いたか、野郎ども。ボスは病気で明日をも知れない。そして跡を継ぐのは声変わりもしてない若造だ」
 トンプソンは両手を広げながら言いました。
「ボスはこれまで移民どもをロンドンの街に押し込んできた。でも、もう限界だ。ロンドンの街はヤツラで一杯になり、積み上げすぎたコインのように倒れて飛び散る寸前だ」
 トンプソンは腹心の部下たちを見つめて、首を横に振りながら言いました。
「あんな若造にボスほどの才覚があるはずがねえ」
 腹心の部下たちは大きくうなずきました。
 トンプソンは、ならず者たちを見回してから続けました。
「ボスに使いを出せ。口上はこうだ。若君の丁寧なご挨拶に感謝を申し上げる。今度はこちらからご挨拶に伺わせていただく、とな。分かったか!」
 使者を命じられたトンプソンの部下はうなずいて、邪悪な笑みを浮かべました。
 最後にトンプソンは言いました。
「野郎ども、俺たちの方が強い事を分からせてやるぞ。これからは俺たちがロンドンの街を仕切るのだ!」
 それを聞いて、ならず者たちは大きな歓声をあげました。

<貴族の少年が女装させられることになった話>
 エルリック・マックフィールドは朝も早い時刻に、詐欺師とペテン師にともなわれて市場を訪れました。市場となっている広場には、薄汚れた天幕が所狭しと張られていました。
 三人は人々でごった返した狭い通路を抜けて市場の奥へと進みました。食い散らかされた昨日の残飯やゴミが散乱する通路の先に、リンゴを売る屋台がありました。
 詐欺師が屋台のオヤジに語りかけます。
「昨日、リンゴをお買い求めになったお方は料金の支払いが遅くなったことを丁寧に詫びていらっしゃった。これが詫びの代金だ」
 屋台のオヤジは驚いて言いました。
「こんなには戴けませんぜ!」
 詐欺師がオヤジに言い返します。
「ダンテス・デーモンナイト様の仕切る市場では、物取りも万引きも不正な価格付けも行われることは決してない。これは、その保証だ。どうか収めてくれないか」
 屋台のオヤジは、納得して代金を受け取りました。
「分かりやした。そのように皆にも伝えます」

 エルリックはそのやり取りを見ながら考えました。
 あの紳士はどれほどの代金を屋台のオヤジに渡したのだろう。あ、娘が代金を見て目を丸くしてる。
 いま持ってるお金では、とても足りないだろうな。どうしよう。

 詐欺師はエルリックの表情をチラリと窺って、しめしめと思いました。
 これでエルリックはボスの御屋敷に行くのを拒むことが出来なくなったからです。
 詐欺師はエルリックに言いました。
「それでは、デーモンナイト様の御屋敷にご案内いたします」
 エルリックは言い返しました。
「デーモンナイト卿の御屋敷に伺うなんて聞いてないよ?」
 詐欺師は契約書を取り出して、エルリックが一週間にわたってダンテス・デーモンナイトの屋敷に留まり指定された職務をこなす、という条項を示しました。
 エルリックは暗黒街への路をたどることになりました。

 テームズ川にかかる橋を渡って川岸を歩き続けると、対岸のずっと向こうにロンドン塔が見えてきました。かつては王族が幽閉され、いまでもその幽霊が出歩くと噂されている場所です。霧に閉ざされたロンドンの街は昼間でも日が陰って薄暗く、陰鬱な光景が広がっています。
 詐欺師とペテン師はエルリックを細い路地へと導き入れました。路地は昼間でも薄暗く、曲がりくねっており、先が見通せませんでした。
 エルリックは身構えました。ロンドンの路地は昼間でも大層な危険が潜んでいることを良く知っていたからです。
 詐欺師はふり返って、そんな様子のエルリックに気が付くと言いました。
「ご安心ください。このあたりの路地はダンテス様が仕切っていらっしゃいます。ここにはダンテス様を訪ねる方に粗相をするような不心得者はおりません」
 詐欺師は、一息ついて続けました。
「ただし、路地の中にはダンテス様以外の者が仕切っている所もございます。どうか、私たちの案内する道から外れないようにお願い致します」

 やがて三人は古いレンガでできた大きな建物の前に着きました。
 曲がりくねった生垣の奥に玄関がありました。玄関の扉は意外に小さく、頑丈な分厚い樫の木でできていました。
 詐欺師は扉のノッカーを変わったリズムで叩きました。
 それから詐欺師が合言葉をささやくと、厚い木の扉がゆっくりと開きました。
 詐欺師は扉を開けた二人の従者にうなづくと、エルリックを三階の屋根裏部屋へと案内しました。

 詐欺師は途中で出会った雑役メイドに、メイドたちを集めるよう声を掛けました。そしてエルリックを衣裳部屋へと案内しました。
 部屋には女性物の衣装が仕舞われていました。
 詐欺師はエルリックに言いました。
「では、こちらの服を着てください」
 エルリックはドレスを着せられると知って驚きました。
 そして、怒りを込めて詐欺師に言いました。
「貴族が女の服を着て人前にでるのはひどく不名誉なことだ。契約に基づけば私の職務はこれで終わったことになる。そう考えて構わないな」
 詐欺師はひどく意外なことを聞いたように問い返しました。
「これが貴族様には不名誉な事になるのでございますか? 仮面舞踏会に出席するのは社交界ではありふれたことであり、むしろ晴れがましい事と存じております。恐れ多いことではございますが女王陛下におかれましても仮面舞踏会には扮装をなさってご臨席を賜ると承っておりますが?」
 エルリックは聞き返しました。
「仮面舞踏会に出席するのか? なるほど。でも、なぜ私がドレスを着なければならないのだ」
 詐欺師はさも当然というように答えました。
「あなた様には仮面舞踏会で若君のフィアンセの役をお願いしたく存じます」
 エルリックは言い返そうとしました。しかし詐欺師はそれをさえぎって続けました。
「若君はこの世の者とは思えぬほどの美男子でございます。そのため、私どもは若君に釣り合う女の子をこれまで見つけることができませんでした。しかし、あなた様なら若君のフィアンセを演じることがお出来になる。御自分で気が付いていらっしゃるかどうかは存知あげませんが、あなた様も実に整った顔立ちをなさっておいでです。この役はあなた様にしか出来ないのでございます!」

 ペテン師が詐欺師に無言で語りかけました。
 なんでこの小僧に女装をさせなきゃならねえんだよ。
 詐欺師が答えます。
 若君に女の家庭教師を連れてくると言っちまったからさ。若君にはとりあえず小僧を女教師と思ってもらう。
 ペテン師が言います。
 この、腐れ外道が! 若君までダマす気かよ。
 詐欺師が言い返します。
 いずれ本物の女教師を連れて来るから、ウソはついてないぜ!

 とうとうエルリックは女装させられ、エリーという名のフィアンセ役をすることになりました。
 詐欺師はエルリックに今夜の仮面舞踏会について説明しました。
「舞踏会の前に寸劇をする趣向でございます。来客の皆様には悪党の役をしていただきます。若君はフィアンセを守って悪党どもを撃退する、という筋書きでございます」
 エルリックはフィアンセのエリーを演じるために、メイドたちによって入念に丁寧に化粧をされました。
 五人のメイドたちがエルリックの周りに集まって、こうしたらいい、こうすればもっといいと、姦しく嬉しそうにエルリックの化粧をし、衣装を整えました。
 フランス人形のような肢体で燃えるような赤毛をしたメイド、情熱のスカーレットが全体を取り仕切りました。
 ほっそりとした金髪の客間メイド、月光のシルビアはエルリックのために緩やかにカールしたカツラを用意し、黒いレースでできたドレスを選びました。
 柳のようにたおやかな肢体で東洋系の顔立ちをした翡翠のジェイドは、柳の葉を思わせる眉をよせて、真剣な顔でエルリックの顔に白粉をはたきます。
 下を向いたエルリックの目の前に翡翠のジェイドの胸が迫ってきます。意外に深い谷間が目の前にあります。
 エルリックは目を逸らそうとしました。見上げると、エメラルドのようなジェイドの瞳が眼前にありました。
 ジェイドは悪戯っぽく微笑みました。
「翡翠をジェイドと言うけれど、ジェイドには浮気娘という意味もあるのよ」
 ジェイドは意味ありげにつぶやきました。
 情熱のスカーレットが翡翠のジェイドに尋ねました。
「何よ、この真珠のような光沢のお肌は?」
「スカーレットお姉さま、いきなりネタばらしは止めてくださいませ。月光を集めたように神秘的な輝きを放つお肌とでもおっしゃってくださいな」
 月光のシルビアがエルリックに口紅を差しました。
 こんどは翡翠のジェイドが月光のシルビアに尋ねます。
「何を使ったの、シルビア? この口紅は今にも滴りそうに瑞々しいじゃないの」
「秘密ですわ、翡翠のジェイド。あら、凄いじゃないのエボニー。何をしたの?」
 躍動的な肢体をした黒い肌の可愛い雑役メイド、エボニー・オニッキスが答えます。
「クレオパトラやシバの女王も使われたアイシャドウですわ。最年少でも化粧の心得はございましてよ、うふふ」
 健康的な褐色の肌をしたメイド、ブラウニーがアーモンド形をした琥珀色の瞳を輝かせ、エルリックの顔に何か書き込みます。それを見ていた情熱のスカーレットが思わず言いました。
「あ、だめよ、ブラウニー! えぇぇ? 何をしたの?」
 ブラウニーは得意そうに言いました。
「インドの付けホクロです、スカーレットお姉さま。少しずれても印象が大きく変わるから、高等技術なの」
 月光のシルビアが、古代ペルシャの宝石のように澄んだ青い瞳を輝かせて言いました。
「あなたたちはお子ちゃまと思ってたけど、エチオピアやインドの化粧は侮れませんね!」
 化粧を終えたエルリックを見てメイドたちはため息をつきました。
 メイドの一人、月光のシルビアが言いました。
「この世のものとは思えぬほど、お美しゅうございますわ」
 情熱のスカーレットはベラドンナの秘薬をエルリックに用いました。月光のシルビアが驚いて言いました。
「凄いわ、さらに上の美しさがあったなんて!」
 情熱のスカーレットは言いました。
「ベラドンナの秘薬は、わずかな量の間違いで命にかかわるの。あなた達は勝手に使っちゃだめよ」
 エルリックは思わず口を挟みました。
「この仕事に危険は無いと聞いていたけど?」
 情熱のスカーレットが当然と言わんばかりに答えます。
「女は化粧に命を掛けるものですわ!」
 さらに、情熱のスカーレットは、エルリックがフィアンセにふさわしい仕草ができるように入念な演技を指導しました。
「演技の精髄は、清楚、清純、純潔です」
「どの口が言うのよ、スカーレット」
 月光のシルビアに情熱のスカーレットは答えます。
「愛の狩人が欲望をあらわにしたら、たいていの男は引くわ、シルビア。男をおびき寄せるには餌がいるのよ」
 翡翠のジェイが情熱のスカーレットに言いました。
「愛の狩人ですか? あなたが? 色事師ではなくて」
「そうよ、ジェイド。私は若君のために体を張って愛の技を磨き、知識を集めてるのよ」
 始めのうちはテーブル越しに可愛いお尻を振りながら見ていた雑役メイドのブラウニーとエボニーは、そのうちに嬉しくなって、小鹿のように軽やかに周りでスキップし始めました。
「すごいわ、私たちまで恋してしまいそうよ」
 エルリックは、化粧と演技指導が終わって、フィアンセのエリーに成りました。
 それから、エリーは若君と対面しました。
 詐欺師は若君にエリーを「家庭教師の娘」と紹介しました。
 詐欺師の思惑では、エリーは母親が家庭教師と言われたと受け取り、若君はエリーという娘が家庭教師をしていると考える。同じ言葉でそれぞれに違う事を思わせる、そのはずでした。
 しかし対面した二人はしばらく呆然として互いの顔を見つめ、それから顔を赤らめて慌てて顔をそらしました。
 エリーの胸はベラドンナの秘薬によって激しくときめいていました。エリーの胸のときめきは、若君にも伝わりました。
 そして二人は同じことを考えました。
「危なかった! もう少しで、本気で恋をしてしまうところだった」

<闇の卵が成長する話>
 お話しは数日前にさかのぼります。
 若君は、右手の甲に闇の卵の入れ墨を刻まれた夜に、寝付くことができませんでした。
 若君は、アラビア人にした仕打ちを、死ぬほど恥じていました。
 さらに、闇の卵が脈打っている、そんな気がしてなりませんでした。
 若君は、そっと屋敷を抜け出して、夜のロンドンを散策しました。
 ピカデリーサーカスでは、ガラの悪い酔っ払いが殴り合いのケンカを始めようとしていました。見物人は二人をあおりながら、どちらが勝つか賭けを始めていました。
 若君は二人の間に割って入りました。
「酒は楽しむ物だ。殴り合いをやめて一緒に飲んだらどうだい」
 酔っ払いたちは怒りを収めて肩を組み、ふたたびパブに入って行きました。
 賭けを楽しみにしていた見物人たちは、若君に食ってかかりました。しかし若君が見つめると、見物人たちは我に返って、その場から散っていきました。
 この後も若君は散策を続けて、いくつもの暴力沙汰や争い事を収めました。
 若君が屋敷に戻って右手を見ると、闇の卵は手首のあたりに移動していました。
 その後も、このような事が続いたため、若君には争い事を収めるカリスマがある、そんな噂がロンドンの街に広がりました。
 しかし若君は争い事を収めるたびに、闇の卵が場所を変え、闇の卵の拍動がますますはっきりしてくることに気が付いていました。

 若君は思いました。アラビアで長い年月にわたって闇を蓄えた卵が、いまロンドンでも闇を蓄えつづけてる。闇の卵が孵る日はさして遠くなさそう。
 この入れ墨は罪の烙印、私の過ちに対する当然の天罰。アラビア人の呪いが降りかかる日は、もうすぐに違いない。

 その日も、若君は午後の遅い時刻になってから屋敷に戻りました。
 メイドの一人が若君の着替えを手伝おうとして、小さな悲鳴をあげました。若君の胸に闇の卵の入れ墨がありました。闇の卵はゆるやかに拍動しており、まさに心臓を喰らおうとする位置に移動していたのです。

<暗黒街の若君が元締めにロンドンのあり方を説明した話>
 詐欺師は、若君にエリーを紹介したあと、ペテン師と一緒に御屋敷の二階に詰めていました。窓から黄昏の陽光の最後のきらめき消えてゆき、夜の闇がロンドンの街を恐怖で覆ってゆくのが見えました。
 ペテン師が燭台に明かりを灯しながら詐欺師に語りかけます。
「グスタフ・トンプソンが御屋敷に挨拶にきやがるそうだな。暗黒街の元締めの一人にすぎないとはいえ、今や一番の実力者だ。よく挨拶に来る気になったな」
 詐欺師が答えます。
「若君が挨拶にいったから、そのお返しだそうだよ」
 ペテン師は肩をすくめて言いました。
「あいつらがご挨拶とか、お返しとか、お礼参りとか言っても、俺には暴力沙汰や騒動を起こしに来ることしか想像できねえんだがなァ」
 詐欺師が言います。
「まったくだ……。おや、お客さんが到着したようだよ」
 ペテン師は思わず訊ねました。
「なんだってェ? 誰が来たんだァ?」
 詐欺師は窓に近寄りました。
 窓際にはたくさんの鉢が置かれており、いろいろな花が咲いています。その下にはたくさんのレンガが積まれています。
 窓のそばには重い大理石の彫像がいくつも飾られています。
 いずれも玄関の扉を破ろうとする相手に投げつけ、頭上に投げ落とすための備えです。
 壁には装飾品のように抜き身の剣が何本も掛けられています。すぐに相手を攻撃できるようとの備えです。
 撃つ用意のできたマスケット銃も何丁か壁に掛けられています。
 詐欺師が下を見て叫びました。
「あいつら、三十人以上いるぞ。ここに殴りこむ気だ。いそいで若君に知らせないと!」

 階下から執事のジョーゼフ・セバスチャンが若君に語りかける声が聞こえます。
「グスタフ・トンプソン様が見えられました。お通ししてよろしゅうございますか?」
 若君の答える声が聞こえます。
「ああ、広間にお通ししてくれ」
 詐欺師はペテン師に言いました。
「すぐに従者たちを武装させて玄関に集めろ!」
 ペテン師が言い返します。
「従者たちは家に帰った。御屋敷には一人もいないぜ。いるのはボスと若君、執事とメイドが五人、それに俺たちだけだ」
 詐欺師は小声で叫びました。
「なんだって? なぜ、こんなヤバい事の起こる日に御屋敷を無防備にしたんだよ」
「トンプソンが来るのは明日じゃねえのか。だから今日は皆が休んでると思ってたぜ」
 詐欺師はペテン師の言葉を聞いてつぶやきました。
「こいつは、誰かにハメられたな」
 ペテン師と詐欺師が話すうちに、階下で扉が開く音がしました。続いて、どかどかと多くの人間が屋敷に入ってくる足音が響きます。
「まずい、やつらがお屋敷に入ってきた」
 二人は階段を駆け下りて広間に向かいました。
 広間では若君が暖炉の前のソファーから立ち上がるところでした。
 若君の前にはトンプソンが立ちはだかり、その後ろには喪服を着た子分たちが立ち並んでいました。
 若君は暗黒街の元締めに対して堂々とした態度で挨拶をしました。
「こんな夜分にわざわざお越しいただき、丁寧なご挨拶に痛み入ります」
 トンプソンは不敵に笑って答えました。
「礼儀は守らないといけねえ。そう思いやしてね」
 トンプソンはさらに付け加えました。
「ああ、大人数で押しかけて申し訳ない。なにせ近頃のロンドンでは、十数人で歩いていても数十人に襲われることがあるからなあ」

 ペテン師が詐欺師に無言で伝えます。
「ロンドンの街を物騒にしている奴がよく言うぜ」
 詐欺師はペテン師に尋ねました。
「あいつらは、なぜ喪服を着てるのだ?」
 ペテン師が答えます。
「やつらに言わせると、自分たちは敬虔なキリスト教徒だから、誰かが亡くなる現場にたまたま居合わせたら、正装して死者の冥福を神に祈るそうだ」
 詐欺師は言いました。
「誰かが亡くなる現場に、たまたま居合わせたら、ね」

 トンプソンがドスの利いた声で言いました。
「さて、本題だ。昨日の若君の話だが、俺たちと若干の見解の相違ってやつがある。今のうちにしっかりと話し合っておいた方がいいと思ってな」
 トンプソンは若君の許しを得ずに、若君と向かい合ったソファーにドスンと腰を掛けました。
「ボスの手腕は卓越してる。それは認める。ボスはこれまで移民どもをうまいことロンドンの街に押し込んできた。だが、もう限界だ。ロンドンは、まもなく破裂するぜ」
 トンプソンは部下たちをチラリと見てからつづけました。
「ロンドンを破滅から救うには、まず受け入れを止めて、今いる移民どもに古き良きロンドンの秩序をしっかりと教えこむべきだ。俺はそう思ってる」
 若君はトンプソンに尋ねました。
「どうやって古き良きロンドンの秩序を移民たちに教えるつもりなのかな?」
 トンプソンが答えます。
「どちらが強いか相手に分からせる。そして強い者が弱い者を従わせる。当たり前のことじゃねえか。目の前にいなけりゃ相手にできねえ。だから、個別に交渉するのさ」
 若君は冷静に応じました。
「世界中から訪れる移民たちがロンドンに活力を与えているのを、まず認めて欲しいな」
 トンプソンは反論しました。
「住居ひとつとっても、移民どもを住まわせる余地は今のロンドンにはないぜ?」
 若君はよどみなく答えます。
「アパートを立て直すときに三階にすれば住居は増やせるさ」
 トンプソンは不満そうに言いました。
「なるほど、それで住居は確保できる。でも、そんな建物をだれが作る?」
 若君が答えます。
「移民たちが作るのさ。カッパドキアから来た移民の中に必要な技術を持った者たちがいる。五階建てのアパートを作ることも出来るそうだ。ただし、天井が低くて暖房はストーブになるそうだがね」
 トンプソンは吐き捨てるように言いました。
「暖房がストーブだと? 暖炉の無い家なんて家じゃねえ。そりゃ、家畜小屋だ!」
 若君はトンプソンを見つめながら続けました。
「移民たちは新しい技術や知識をロンドンにもたらしてくれる。新たな商品を持ち込み市場を開拓してくれる。移民が増えればそれだけ物がたくさん売れるようになる。移民を受け入れているからロンドンは繁栄し続けることができるのさ」
 トンプソンは言いよどみました。若君の言葉にうまい反論を思いつけなかったからです。
「今度も平行線かよ」
 トンプソンはそう言い捨てて話題を変えました。
 部下の一人を見て尋ねます。
「おめえは、移民どもをどう思う?」
 部下の一人があらかじめ用意しておいた答えを返します。
「いつも顔を隠してる相手と付き合うのは御免こうむりやすぜ。なんせ、相手が何を考えてるのか見当がつかねえ。どうやって仲良くなったら良いかも、そのためにどう口説いたら良いかも分からねえ」
「ブルカをするのは慎みの現れなのだがなあ」
 トンプソンは、若君のつぶやきを無視して、別の部下に向かって言いました。
「おめえは、移民の野郎に親を殺されたのだったな。今の若君の話しをどう思うか、自分の言葉でゆっくりとお話してみろ」
 トンプソンはソファーから立ち上がると若君に言いました。
「話は長くなるだろうから、俺は別室で休ませてもらうぜ」

 ペテン師は声を出さずに言いました。
「犯罪者がたまたま移民だった。それだけの事だぜ。現に英国生まれのテメエだって人殺しの犯罪者だろうが」
 詐欺師が言いました。
「古い恨みをほじくり返しても、解決にならないのになあ」
 ペテン師が声を出さずに答えます。
「ああ、まったくその通りだ。だが古い不満をかき立て、同情してご機嫌をとれば、部下の支持を得ることはできるぜ」

 執事のジョーゼフ・セバスチャンがトンプソンと四人の護衛を応接室へと案内します。
 退出する前に、トンプソンが若君に言いました。
「ああ、そうだ。こいつらは粗暴で喧嘩っ早い。この前も、無関係な人間をぶっ殺した奴がいた。ホコリが目に入って顔をしかめたのをガンを付けられたと勘違いしたそうだ。くれぐれも声を荒げたり、紛らわしい言い方をしないでくれよ」

 ペテン師は詐欺師に素早く伝えました。
「間違いない。トンプソンの野郎は手下たちに若君を殺させる気だ。殺したあとで、手下と若君の間に起きた不幸な誤解が原因だった、と言い逃れる気だ。しかも自分は殺害の現場にいない。クソ野郎め、用意周到だぜ!」
 詐欺師はそれを聞いてペテン師に答えました。
「では、俺たちも退出するか」
 ペテン師は驚いて言いました。
「若君を見捨てる気か?」
 詐欺師が答えます。
「二十人以上の殺しに慣れた乱暴者を相手にして、俺たち二人で何ができる?」
「女装した小僧はどうする気だ」
「危ないと思えば逃げていいと契約書に書いてある。自分の判断で行動してもらうさ」
 ペテン師が言いました。
「改めて思ったが、お前ってひどいヤツだな!」

 こうして詐欺師とペテン師は若君の許しを得て、メイドたちの後に続いて広間から退出しました。

<闇の卵が孵っておきた恐ろしい出来事の話>
 ならず者達は暖炉の前に集まって、若君とエリーを取り囲みました。
 エリーは、演技指導のとおりに若君の後ろに控えて顔を伏せ、少し前かがみにしています。ならず者たちには、エリーがひどく怯えているように見えました。
 演技をしながら、エリーは若君の対応に感心していました。
 エリーもロンドンの現状に危機感を抱いていました。
 従来の対応は、ロンドンの秩序に移民たちを組み込むことでした。しかしトンプソンが言うように、大英帝国の中だけでなく、世界中から多くの移民がロンドンを目指して集まるため、その方法で対応するのはとっくに限界を越えています。
 若君は解決する方法を示したのです。
 新たにもたらされる技術や知識を応用してロンドンの秩序を新しく造りだす……

 暖炉のマキがはじけました。シャンデリアにはたくさんの明かりが灯されています。いくつもの時代を経た大広間には落ち着いた重厚な雰囲気が満ちています。
 大広間の窓は小さく、頑丈な鉄格子がはまっています。不心得者がお屋敷に入ってくるのを防ぐためです。
 しかし、いまはその備えのせいで、若君とエリーはお屋敷から逃げ出すことが出来なくなっています。

 若君は、堂々とならず者達に向かって言いました。
「不幸な出来事があったと伺いました。差支えなければその時の事を話していただけませんか」
 ならず者は若君に怒りぶつけました。
「体験したものでなければ、あの悔しさも怒りも分からねえよ。お前に話すことなどあるものか!」
 ならず者達は、殺意を隠そうともせずに、若君とエリーに近寄ってきます。
 若君はとまどいました。これまでと違って、自分の言葉が相手に届かなかったからです。
 長い年月を経て、とうとう卵の中に闇が満ちました。このため卵は悲しみや、怒りや恨みを取り込むことが出来なくなったのです。
 若君は考えました。
 ここで目の前の相手を説得できなければ、ロンドンの秩序を守る事などできはしない。
 若君は覚悟を決めて、ならず者達に向き合いました。若君の背中は最初の印象よりもずっと華奢で、決意と悲壮感にあふれていました。若君の凛々しい後ろ姿に、エリーは感動を覚えました。

 エリーは若君を守るように、ならず者たちの前に立ちはだかりました。エリーはならず者たちに語りかけました。
「不幸な出来事には深くお悔やみ申し上げます」
 エリーは頭をさげて哀悼の意を示しました。
「でも、目の前にいる相手を力づくで従えても真の解決にはたどり着けません」

 エリーは考えていました。
 すごい! 皆様そろって迫真の演技だ。しかも、議論はロンドンの現状をしっかり踏まえてる。とても舞踏会の寸劇とは思えない。
 私も劇に参加させていただきますね。

 そこで、エリーは堂々とならず者達に告げました。
「ロンドンの秩序を保つには、いろいろな移民の人々や、いろいろな職業の方たちと話を重ねて、皆が相手の事情と能力を十分に知った上で、伝統のある古い秩序に替わる新しい秩序を作る。新しい秩序を皆で作り続ける。それ以外に無いと思います」

 エリーは、先ほどの化粧の様子を思い浮かべていました。世界各国から伝えられた知識や技術を集めれば、素晴らしい成果を上げられる。
 自分が可愛い女の子の扮装をさせられる、という点は納得しにくいけれど。

 エリーの言葉は若君の心を激しく揺さぶりました。

 自分は孤立無援と思っていた。
 しかし、父上と同じ考えを持つ者がここにいる。
 私の理想に賛同してくれる者がここにいる。
 伝統ある秩序を変えるのは難しい。
 階級制度、伝統としがらみ、言語の違い、習慣の違い。
 乗り越えるべきものは数知れない。
 だから、……
 私に協力して欲しい。
 私と共に歩んで欲しい。
 もう、過ちは決して繰り返さない。
 ぜひ、あなたの手を取らせて欲しい!

 しかし、ならず者たちは怒りをあらわにして二人に襲いかかりました。若君は、回り込んできたならず者に両方から腕と肩を押さえられて、身動きができなくなりました。
「女王陛下の大英帝国語を満足にしゃべれねえヤツらと話なんてできねえんだよ。そんなことも分からねえのか!」
 ならず者たちはエリーを捕え、そのうちの一人がエリーのドレスを引き裂きました。
「けッ、なんでえ、胸は詰め物かよ。いや、ひょっとしてこいつは男じゃねえのか。服を剥ぎ取ってみようぜ、ヒィヤッホー!」
 それを聞いて、頭を剃り上げた筋肉質のならず者が腕の入れ墨を見せびらかすように振りながら言いました。
「男だったら、俺が相手をしてやる。たっぷり可愛がってやるぜ、ぐへへへ」
 若君には、ならず者たちがエリーや自分をいたぶったすえに殺すことが、はっきりとわかりました。
「わずかな希望が打ち砕かれたその先に真の絶望がもたらされる」
 アラビア人の残した呪いの言葉が若君の心によみがえりました。希望の光が見えた直後に、激しい絶望が若君に襲いかかりました。
 若君の心は闇に染まりました。
 若君には自分にできる唯一の事と、そのやり方が分かりました。アラビア人が若君にそのやり方を示していたからです。
 抗うエリーのドレスが剥ぎ取られ、落花狼藉の振る舞いがまさに始まろうとしています。
 とうとう若君は叫びました。
「闇の卵よ! 我が魂を喰らい、我が肉体を贄として、我が庇護のもとにあるエリーを除く、ここにいる全ての者に滅びを与えよ!」
 若君の胸にある闇の卵の入れ墨が大きく脈打ちました。若君には闇の卵が割れて弾け、名状しがたいドス黒いモノが体中に広がってゆくのがはっきりとわかりました。闇は若君の中に満ち、若君の心はたちまち闇に飲みこまれました。
 次の瞬間に、お屋敷は深い闇に包まれました。

 お屋敷の中を、凄まじい暴風が吹き荒れるような物音が走り抜けました。いろいろなものが乱暴に壊されるような音が響き渡りました。何かが激しく壁に叩きつけられるような音が立て続けに起こりました。それから、喧噪の嵐はたちまちのうちにお屋敷を吹き抜けてゆきました。

 深い闇の中で、何かをまさぐる音がかすかにしました。それから、マッチを擦る音が意外なほど大きく響きました。
 ゆらぐ炎が床に倒れていた燭台のローソクに灯されました。こうして濃い闇の中にささやかな光が生まれました。

 エリーは燭台を手に取りました。
 豪華なペルシャ絨毯は引き千切られて部屋の隅に積み重なっていました。えぐられ傷だらけになった床には砕けた彫像の欠片が散乱していました。ソファーは押しつぶされてバラバラになり、テーブルは暖炉のそばの壁に半ばめり込んでいました。
 まるで、大竜巻が部屋のなかで荒れ狂ったような有様でした。
 部屋のあちこちに赤黒い汚れたシミがべっとりと張りついていました。そして、生臭い、いやな臭いがあたりに濃密に立ち込めていました。

 エリーは破れたドレスを右手でかき寄せ、左手に銀の燭台を掲げながら、床の上を後ずさりしました。
 何者かを防ぐように突きだされた明かりの先には、濃い闇がたゆたっていました。
 闇は、エリーが後ずさるたびに前へと広がりました。今にも消え去りそうにゆらめくローソクの明かりだけが、わずかにあたりを照らしています。
 あたりに飛び散った破片から伸びる影が闇へとつながり、とてつもなく巨大な蜘蛛が脚を大きく広げ、脚を頭上に高く掲げて、エリーに襲いかかっているように見えました。
 とうとうエリーは広間の隅へと追い詰められてしまいました。
 エリーが見つめていると、闇の中に若君の顔が浮かび上がりました。若君の顔は血の気を失い白大理石のように蒼白でした。
 エリーの耳にゴボゴボという音とともに若君のしゃがれた声が聞こえました。
「エリーは私が守る……」
 くぐもって聞き取りにくい声でした。エリーはささやきました。
「若君、大丈夫ですか?」
 ゴボリという、固まりかけた血が吐きだされるような粘った音が響きました。それから若君の声が聞えました。
「酷くやられたようだ。ああ、手足がひどくねじ曲がってる。骨が砕かれ折れたようだ……」
 エリーは若君が気を失いかけているのが分かりました。そして、いったん意識を手放せば、そのまま若君の意識は永遠に失われてしまう。エリーはそんな予感を強く覚えました。
 エリーは叫びました。
「若君、目を覚ましてください!」
 若君のつぶやきが聞えました。
「ひどくやられたはずなのに、少しも痛みを感じない。そうか。致命傷を受けた兵士は痛みを感じないのだったな」
 若君は虚ろな表情で、うわごとのようにしゃべりました。
 エリーには若君の意識がふたたび闇に呑まれようとしているのが分かりました。
 エリーは再び叫びました。
「若君、しっかりしてください。気を確かに持ってください!」
 すると若君が応えました。
「私は、ジェイン・デーモンナイト。暗黒街に君臨するダンテス・デーモンナイトの一人娘」
 エリーには、その声がとても遠くから聞こえてくるように思えました。エリーはさらに叫びました。
「若君、ご自分の手足を、体を、しっかりと意識なさってください!」
 若い乙女が濃い闇の中から姿を現わしました。
 しなやかな腕は白大理石に刻まれたギリシャの彫像を思わせました。つづいて小ぶりで形の良い胸が闇の中から浮かび上がってきました。優雅な曲線を描く胴から腰にかけてのくびれには形の良い臍がアクセントをつけていました。
 乙女は若鹿のように引き締まった脚ですべるように床をあゆんできます。
 闇が乙女の周りに集まって、漆黒のドレスを形作りました。
 シャンデリアにふたたび明かりが灯りました。暖炉で炎がゆらめき薪がはじけました。
 乙女はしっかりとした口調で言いました。
「私は暗黒街のボスの若君、ジェイソン・デーモンナイト」
 乙女の言葉とともに闇が形を変えて、その体にまとわりつきました。
 若君は、真っ黒な燕尾服を身にまとい、漆黒のマントを羽織って広間に立っていました。
 エリーは若君に語りかけました。
「若君、お約束を覚えていますか? 私を守ってください」

 そのとき、広間の扉が開かれました。五人のメイドが、一礼したあと、広間に入ってきました。
 それから、床を踏み鳴らす音が近づいてきました。
 トンプソンが腹心の部下を引きつれて応接室からやって来たのです。
 執事のジョーゼフ・セバスチャンがトンプソンと四人の部下を案内していました。
 執事のセバスチャンは若君を見て言いました。
「おやおや、まだ若君はご存命でございましたか。ところでトンプソン様の部下たちは、いったい何処にいるのでございますか?」
 若君がはっきりとした声で答えました。
「突然の暗闇に驚いて、いなくなったようだね」
 執事のセバスチャンは肩をすくめて言いました。
「ならば私が若君のお相手をさせていただきましょう」
 若君はおっしゃられました。
「君がデーモンナイト家をトンプソン氏に売り渡したのだね」
 執事が答えます。
「その通りでございます」
 執事は一礼して続けました。
「ロンドンの夜を生き抜くには力が不可欠です。しかし、失礼ながらお父上は力を失いつつあられ、若君には力が足りないようにお見受けいたします」
 若君は執事に尋ねました。
「なぜトンプソン氏を選んだのかな」
 執事は笑みを浮かべました。
「トンプソン様には力がございます。それから、トンプソン様は、私の趣味に理解を示してくださりました」
 若君は尋ねました。
「君の趣味とは、何なのかな」
 執事は邪悪な笑みを浮かべました。
「娼婦を切り裂いて肉体を改造することでございます」
 メイドたちは、これを聞いて喘ぎ声をあげました。
「切り裂きジャック!」
 執事は、それにかまわず淡々と若君に告げました。
「古代中国には纏足をはじめとする様々な女体を加工する技術がございます」
 執事は、怯えるメイドたちを見渡して言いました。
「私は娼婦に男たちを捕えて放さぬ体を与えようとしたのでございます。試行錯誤をへて、我が技はほぼ完成しております。トンプソン様を楽しませることができるよう、メイドたちを私の手で改造いたしましょう」
 それを聞いてトンプソンは言いました。
「メイドたちは、今のままでも俺の好みだ。これからずっと可愛がってやるぜ」
 執事は、今度は若君を見つめて言いました。
「古代中国では人体を加工する技は、名家の御子息を宦官とする技術に応用されております。まず若君の手足の筋を切り、イモムシのように床に横たわっていただきましょう。それから、その良く回る舌を切り取らせていただきます」
 若君は執事に向かって言いました。
「残念だよ、セバスチャン。父も私も君にはずいぶんと世話になった。こんな風にお別れすることになろうとはね」
 執事は、若君の言葉に危険な何かを感じ取りました。
 執事は、鋭利な刃物を胸の内ポケットから取り出すと、風のように若君に襲いかかりました。
 執事は若君のまとう燕尾服の左胸の辺りに鋭利な刃物を素早く突き刺して言いました。
「残念でございます。あなた様とこんな形でお別れしなければならないとは……」
 それから執事は絶叫しました。

 執事の姿は掻き消えて、その衣服がバサリと床に落ちました。衣服の中には何も残っていないようでした。
 若君は唖然とするグスタフ・トンプソンと四人の腹心の部下を無視してメイドたちに語りかけました。
「トンプソン氏は、君たちを可愛がってくださるそうだよ。君たちはこれから誰に仕えるつもりかな?」
 メイドたちはそろって答えました。
 すでに話し合いを重ね、決意を固めていたようでした。
「私たちは若君に仕えます。若君に我が魂をささげて忠誠の証しと致します」
 若君はメイドたち一人一人の瞳を覗き込みました。すると、メイドたちの瞳は底知れない深さをたたえた闇の色に染まりました。
 そして、メイドたちの濃紺のメイド服は、黒い闇の色に変わりました。
 暗黒のメイドたちは若君に一礼すると、それぞれ部屋の隅へと散って行きました。メイドたちは立ち止まると、部屋の中央に立ちすくむトンプソンとその腹心の部下たちに向き直りました。
 メイドたちの足元から影が伸びてゆきます。影は互いに交わり重なりました。
 トンプソンとその腹心の部下たちは影の中に捕えられました。
 エリーが若君に尋ねます。
「あいつらをどうするつもり?」
 若君はエリーに向かって答えました。
「彼らは、凄まじい苦痛の末に恐るべき滅びが与えられる」
 それから若君はトンプソンたちを見ながら言いました。
「彼らの魂は、永劫の闇に捕えられる」
 それを聞いて、トンプソンと腹心の部下たちは一斉にホルスターから武骨な拳銃を取り出して構えました。
 荒れ果てた広間の中に何度も轟音が響き、いくつもの弾丸が若君の体を次々と貫きました。
 しかし、若君は構わず先を続けました。
「トンプソンは、相手をダマし、貶め、弱点を突くことにたけている。あいつらは、人々の憎しみや恨み、嫉妬や羨望をかき立て、相手を見下させて差別を生み出すすべをよく心得ている。おおいに参考にさせてもらうよ」
 次の瞬間、闇は巨大な口をあけ、トンプソンと四人の部下を飲みこみました。彼らは悲鳴を残して、鋭い牙と恐ろしい鉤爪が無数に生えた暗い闇の底へと堕ちてゆきました。
 闇が閉じたとき、後には何も残っていませんでした。

 それから、闇の顕現はエリーに問いかけました。
「さて、私は何をしたらいいのかな?」
 エリーは訊ねたのが闇の顕現であることに気が付きませんでした。エリーは思いました。

 若君には理性も、優れた自制心も、他者に対する深い思いやりもある。高貴な者がみずから果たすべき崇高な義務をご存知だ。

 そこでエリーは答えました。
「一切の制約なしに、あなたの望むとおりに、あなたの心のままに!」
「本当か?」
 闇の顕現の問いかけに、エリーは誓いの言葉を口にしました。
「ひとたび口にされた言葉が覆されることはありません」
 闇の顕現は目を開きました。瞳には深い闇が満ちていました。
「我に与えられた使命は、そこに居合わせた全ての者に、凄まじい苦痛の末に訪れる恐るべき滅びを与えることだ」
 若君の内にある闇の顕現はひどく意地悪そうな笑みを浮かべました。
「汝は、我を一切の制約から解き放った。それゆえ、我は全ての時間、全ての場所に現れて、そこに居合わせる全ての者に恐るべき滅びを与えることができる」
 それから闇の顕現は、聞く者をひどく不快にする邪悪な笑い声を上げました。
「面白い、実に面白い。人が自らの滅びを選び取ることを見るのがこれほど愉快とは、まことに嬉しき驚きだ。我に喜びを与えてくれた汝に感謝して、汝をこの世の物とは思えぬ快楽と喜悦のうちに滅ぼすとしよう」
 闇の顕現は続けました。
「第一の願いは、喰らい尽くされたジェイン・デーモンナイトの魂をよみがえらせること。第二の願いは失われた肉体を再び与えること」
 闇の顕現はさらに続けました。
「そして、いま第三の願いも果たされた。では、我が心のままに、我が望みのとおりにしよう」
 闇の顕現は一息ついて言いました。
「汝だけは滅ぼすことを許されておらぬな。ならば我はしばらくの間ここに留まり、汝の末路を見届けるとしよう」
 最後に闇の顕現は言いました。
「汝が天寿を全うしたあとに、我は全ての時代、全ての場所で不和の種を撒こう。それから、お前たちに贈り物を用意しよう。栄光に満ちた輝かしい未来というきらびやかな包装に幸福で豊かな生活という黄金色のリボンをかけて、滅びの種を包んでおこう」
 闇の顕現はつぶやきました。
「ひとたび人が手に取れば、内なる火炎で骨と肉を焼かれ、肌は剥れ、身は歪み、異形のモノへと変じて、その身が崩れ落ちるのを、なすすべもなく見守るほかない、避けるすべのない滅びを与えるとしよう」
 闇の顕現はそう言い残して、若君の心の底へと沈んでゆきました。

 呆然としている若君に向かって、エリックは言いました。
「すごい舞台装置だね。驚いたよ。最後のセリフは、長くて今一つだったけどね。さあ、舞踏会を始めようか」

<その後のお話>
 それから数日して、ダンテス・デーモンナイト卿は息を引き取りました。
 臨終の床には、エルリックとジェイン、五人のメイド、それに詐欺師とペテン師が同席して最後を見送りました。
 マリア・マックフィールド夫人は御屋敷の住込み家庭教師になって、ジェインが高貴な生まれの者にふさわしい教養をもち、ふさわしい振る舞いができるように教え躾けました。
 それから半年がたちました。ダンテス卿が亡くなられた後も、ロンドンの夜の街には秩序が保たれていました。
 そこで、恐れ多くもヴィクトリア女王陛下は玉璽をもって、引き続いて夜のロンドンの統治を行う認可状を若いデーモンナイト卿に与えられました。
 そして本日、めでたくもデーモンナイト家とマックフィールドの御両家は婚儀を結ぶことになったのです。
 ご列席の皆様、以上が新郎・新婦が結ばれることになった経緯でございます。

 なんだァ? 新郎・新婦の入場がさらに遅れるだと?
 新郎が礼服を着たがらない?
 この上、まだ遅れるのかよ。
 しょうがねえなあ。

 ただ今から始まります豪華絢爛、百花繚乱の華燭の典に先立ちまして会場の紳士・淑女の皆様に申し上げます。
 古代ペルシャでは、美少女たちがスルタンの寵愛をつなぎ止めるために厳しい修練を重ね、果てしない快楽をもたらすための愛の技に磨きをかけたそうでございます。こうして会得された超絶的な技は、熱く果てぬ夜にスルタンを慰めるために用いられました。

 え? 本当か、だって?
 俺が知るわけ無いだろう。
 古代ペルシャの時代に、俺は生まれてないよ。
 今は時間稼ぎが必要なんだよ!

 新婦は、古来から伝わる超絶的な愛の技に御造詣が深く、それどころか、人の身では不可能な事すらも、お出来になるそうでございます。
 新郎が新婦と共に夜の褥に横たわるとき、この世の物とは思えぬ快楽と喜悦のうちに、いかなる体験をなさるかは、余人にはとても想像できません。
 紳士的とは、ベッドの中の出来事を他人に漏らさない事と申します。ですから新郎が夜の秘事を他人に語ることは決してございません。
 私たちに出来ることは、想像……、
 ……ではなくて……、
 ……、ただ思いを巡らす事だけでございます!

 いよいよ、ご両人の御登場だって?
 ありがたい。
 即興で口から出まかせ言うのは大変なんだよ!

 さて、ご列席の皆様、お待ちかねの新郎・新婦の御入場でございます。皆様、拍手でお迎えください。

 ええェ? なんで新郎が白いドレスを着て新婦が黒い燕尾服を着てるのだよ。
 新婦は黒い服しか着ることができない、だって?
 仕方ねえなあ。
 まあ良いか。
 とにかく、めでたし、めでたし、だからな!
 
朱鷺(とき)

2017年04月30日 10時23分32秒 公開
■この作品の著作権は 朱鷺(とき) さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:
 闇の卵よ! 我が魂を喰らい、我が肉体を贄として、我が庇護のもとにあるエリーを除く、ここにいる全ての者に滅びを与えよ!
◆作者コメント:
 ビクトリア女王の統治下にあるロンドンの夜の物語を描きました。
 テーマの「不思議な卵」は、主題とした闇の卵のほかに、田舎娘が夜の蝶へと変身する描写も蛹(さなぎ)を卵に見立てています。さらに、暗黒街のボスの御屋敷も若君(わか黄身)を守る巨大な卵の殻をイメージしています。
 今回の物語は、テーマに即して「不思議な卵」が孵って何かが生まれるまでの話です。
 お楽しみいただける作品に仕上げることができましたでしょうか。感想をお待ちしております。

2017年05月16日 22時47分52秒
作者レス
2017年05月16日 18時24分20秒
作者レス
2017年05月16日 18時24分04秒
作者レス
2017年05月14日 23時40分20秒
2017年05月14日 20時52分07秒
+10点
2017年05月12日 20時44分33秒
0点
2017年05月08日 22時17分10秒
0点
2017年05月08日 11時49分42秒
+20点
2017年05月08日 02時16分23秒
+10点
2017年05月07日 17時08分24秒
+20点
2017年05月03日 23時54分02秒
+10点
2017年05月02日 21時34分06秒
+10点
合計 9人 80点

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